荒川流域における大規模水害を対象とした経済的影...

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荒川流域における大規模水害を対象とした経済的影響の推定 楊少鋒・小川芳樹・秋山祐樹・柴崎亮介・池内幸司 Estimation of economic impact on large scale flood in the Arakawa river area Shaofeng YANGYoshiki OGAWAYuki AKIYAMARyosuke SHIBASAKI and Koji IKEUCHI Abstract: Past disaster shows that economic impact on natural disaster in some areas will spread to the entire economy through inter-firm transaction network. It is necessary to construct stable inter- firm networks to reduce the economic damage. In this paper, we focused on large-scale flood in the Arakawa river area and estimated the economic impact of flooding caused by heavy rain to inter- firm transaction network based on inter-firm transaction network data and flood simulation. We discuss and analyze the industrial structure of firms affected by spillover effects. Keywords: 企業間取引ネットワークデータ(inter-firm transaction network data),サプライ チェーン(supply-chain),被害波及(spillover effects),大規模水害(large-scale flood),氾 濫解析(flood simulation1. はじめに 2018年 7月の西日本豪雨により,西日本では広 範囲にわたって河川が氾濫し,多くの犠牲者が発 生するなど記録的な大規模災害となった.経済へ の被害に関しては,被災地以外の企業において, 企業間の取引ネットワークを通じて間接的に多 くの企業が生産停止するなどの被害を受けた.こ のような大規模災害の経済被害の軽減に向けて, 企業の事業活動が継続できる安定的な取引ネッ トワークの構築が極めて重要である.そのために は,地域を超えた企業間の取引ネットワークを分 析することが必要である. 大規模災害時に影響を受ける企業の構造を把 握する研究として,齋藤(2012)は, 2011 年に起 きた東日本大震災において被災企業が,企業間の 取引関係を通じた被害の波及効果について分析 を行っている.被災地の企業を 0 次企業と考え, その取引先を 1 次企業と定義し分析した結果,0 次企業の割合は全体のわずか 2%だが,3 次企業 まで含めると,全体の 90%以上であることを示し ている.しかし,使用されたデータは企業の本社 データのみであり,実際には,全国各地に数多く の事業所が存在するため,事業所間の取引も考慮 する必要がある.また,近年では豪雨に起因する 河川の氾濫による経済への被害が注目されてい る.特に,東京都と埼玉県を流れる荒川のような 河川の流域には,多くの企業が立地しているため, 氾濫すれば甚大な経済被害が発生するおそれが ある.さらに,荒川の下流では低地になっており, 一度氾濫すると排水に時間がかかるため,被害が 拡大することが想定されている. 楊少鋒 〒227-8563 千葉県柏市柏の葉 5-1-5 東京大学新領域創成科学研究科 Phone: 04-7136-4003 E-mail: [email protected]

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荒川流域における大規模水害を対象とした経済的影響の推定

楊少鋒・小川芳樹・秋山祐樹・柴崎亮介・池内幸司

Estimation of economic impact on large scale flood in the Arakawa river area

Shaofeng YANG,Yoshiki OGAWA,Yuki AKIYAMA,

Ryosuke SHIBASAKI and Koji IKEUCHI

Abstract: Past disaster shows that economic impact on natural disaster in some areas will spread to

the entire economy through inter-firm transaction network. It is necessary to construct stable inter-

firm networks to reduce the economic damage. In this paper, we focused on large-scale flood in the

Arakawa river area and estimated the economic impact of flooding caused by heavy rain to inter-

firm transaction network based on inter-firm transaction network data and flood simulation. We

discuss and analyze the industrial structure of firms affected by spillover effects.

Keywords: 企業間取引ネットワークデータ(inter-firm transaction network data),サプライ

チェーン(supply-chain),被害波及(spillover effects),大規模水害(large-scale flood),氾

濫解析(flood simulation)

1. はじめに

2018 年 7 月の西日本豪雨により,西日本では広

範囲にわたって河川が氾濫し,多くの犠牲者が発

生するなど記録的な大規模災害となった.経済へ

の被害に関しては,被災地以外の企業において,

企業間の取引ネットワークを通じて間接的に多

くの企業が生産停止するなどの被害を受けた.こ

のような大規模災害の経済被害の軽減に向けて,

企業の事業活動が継続できる安定的な取引ネッ

トワークの構築が極めて重要である.そのために

は,地域を超えた企業間の取引ネットワークを分

析することが必要である.

大規模災害時に影響を受ける企業の構造を把

握する研究として,齋藤(2012)は,2011 年に起

きた東日本大震災において被災企業が,企業間の

取引関係を通じた被害の波及効果について分析

を行っている.被災地の企業を 0 次企業と考え,

その取引先を 1 次企業と定義し分析した結果,0

次企業の割合は全体のわずか 2%だが,3 次企業

まで含めると,全体の 90%以上であることを示し

ている.しかし,使用されたデータは企業の本社

データのみであり,実際には,全国各地に数多く

の事業所が存在するため,事業所間の取引も考慮

する必要がある.また,近年では豪雨に起因する

河川の氾濫による経済への被害が注目されてい

る.特に,東京都と埼玉県を流れる荒川のような

河川の流域には,多くの企業が立地しているため,

氾濫すれば甚大な経済被害が発生するおそれが

ある.さらに,荒川の下流では低地になっており,

一度氾濫すると排水に時間がかかるため,被害が

拡大することが想定されている.

楊少鋒 〒227-8563 千葉県柏市柏の葉 5-1-5

東京大学新領域創成科学研究科

Phone: 04-7136-4003

E-mail: [email protected]

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そこで本研究では,荒川の氾濫解析データ及び,

本社と事業所データを含む大規模企業間取引ネ

ットワークデータを用いて,荒川が氾濫した場合

に被害の影響を受ける企業の産業構造について

分析を行った.

2. 使用データ

2.1 荒川氾濫解析データ

国土交通省荒川河川事務所が保有する,荒川流

域において,年超過確率 1/1000 の規模の洪水によ

る氾濫のシミュレーション解析データを使用し

た.堤防の決壊場所が異なる 335 のシナリオのデ

ータより,上流左岸,上流右岸,下流左岸,下流

右岸において最も氾範面積が大きいシナリオを

それぞれ 1 つ,計 4 シナリオ(図-1)を使用した.

データには決壊場所,100m メッシュごとの浸水

深の時系列データなどの情報が格納されている.

図-1 シナリオ別氾濫エリア

2.2 企業本社,事業所データ

帝国データバンクが保有する 2015 年時点の企

業の本社情報データ約 165 万件,事業所データ約

58 万件の企業データを使用した.これは,日本の

全企業の約 4 割をカバーし,網羅性の高いデータ

である.データには企業コード,住所,業種,売

上高などが格納されている.

2.3 大規模企業間取引データ

株式会社帝国データバンクが保有する 2016 年

の企業間取引データを使用した.データには取引

の受注社と発注社の企業コード,取引品目,推定

取引金額などの情報が格納されている.ただし,

このデータは本社間に集計された取引データで

あるため事業所間取引を把握することはできな

い.そこで,小川ほか(2018)が本社間取引デー

タを配分することで開発した事業所間取引デー

タを用いて事業所を含む分析を行う.

3. 分析手法

3.1 被災企業の定義

豪雨災害において,企業の事業活動が停止する

原因は停電や物資の停滞など様々あるが,本研究

では,人間に着目して,従業員が出社できない場

合,企業の事業継続が不可能だと考える.国土交

通省の「水害の被害指標分析の手引き」によると,

浸水深が 50cm を超えると人々は徒歩での移動が

困難になる.したがって,浸水深が 50cm を超え

るエリアにある企業を被災企業と定義する.

3.2 波及効果

前述のように,企業間の取引ネットワークを通

じて被害は間接的に全国に波及する.そこで本研

究では,被災企業を 0 次の企業(Tier0)とし,次

に 0 次の企業の取引先を 1 次の企業(Tier1)とす

る.n 次の企業の取引先を n+1 次の企業(Tier n+1)

とする(図-2).0 次の企業の数(被災地の企業の

数),1 次の企業の数(被災地の企業の取引先企業

の数),同様に 2 次から 5 次まで求めて,都道府

県ごと及び産業ごとに全ての企業に占める割合

を求める.ただし,企業の取引先は仕入先,販売

先を問わず影響を受けると考え,取引の向きは考

慮しない.

図-2 被害の波及構造

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3.2 喪失取引額

次に,被災企業とその受注先である企業との取

引額を集計することで,災害によって各都道府県,

各産業においてどれくらいの取引額が喪失する

かを推定した.本研究では本社間及び事業所間の

取引金額を把握するために,小川ほか(2018)が

開発した事業所間取引データを用いる.

4. 分析結果

4.1上流左岸のシナリオ

まず,都道府県別(表-1,図-3)に見ると,被災

企業(Tier0)は全体の 0.3%であるが,被災企業

の取引先(Tier1)を含めると 20.7%になる.Tier3

までは 57.7%に増加するが,それ以降はほとんど

変化せず,全体の 6 割程度の企業・事業所が影響

を受けることがわかる.残りの 4 割の企業はこの

取引ネットワークの外部で大きなネットワーク

を形成していると考えられる.

次に,産業別(図-4)に見ると,公務が最も高

く,Tier2 まででほぼ 100%の割合に達している.

金融・保険業,電気ガス水道業が次に高く Tier3 ま

でで全体の約 80%になった.一方,不動産業が最

も低く Tier5 までを含めても 30%程度である.農

業や漁業などの農林水産業は Tier5 までを含めて

も 4 割を下回っており,これらの業界への影響は

比較的小さいことがわかる.

表-1 各都道府県の企業の割合

図-3 都道府県別影響を受ける企業の割合

図 4 産業別影響を受ける企業の割合

図-5 被災企業の取引ネットワーク(製造業の場合)

都道府県 Tier0まで Tier1まで Tier2まで Tier3まで Tier4まで Tier5まで順位 全体 0.3% 20.7% 51.2% 57.7% 58.0% 58.0%

1 愛知県 0.0% 21.5% 56.6% 64.3% 64.6% 64.6%2 ⼤阪府 0.0% 21.7% 56.7% 63.9% 64.2% 64.3%3 埼⽟県 7.7% 39.7% 57.8% 61.3% 61.4% 61.4%4 宮城県 0.0% 26.8% 55.9% 61.2% 61.4% 61.4%5 ⻑野県 0.0% 20.0% 54.4% 60.4% 60.5% 60.5%6 東京都 0.0% 22.8% 53.7% 59.2% 59.5% 59.5%

〜42 ⾼知県 0.0% 12.9% 43.0% 51.2% 51.5% 51.5%43 ⿃取県 0.0% 13.4% 43.2% 50.5% 50.8% 50.9%44 和歌⼭ 0.0% 13.4% 42.3% 49.7% 50.0% 50.1%45 沖縄県 0.0% 11.0% 39.1% 49.2% 50.0% 50.0%46 福井県 0.0% 12.1% 41.1% 49.4% 49.8% 49.8%47 佐賀県 0.0% 13.9% 41.9% 48.9% 49.2% 49.2%

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また,製造業についてより詳しい産業分類で見

ると,Tier5 まででは石油石炭製造業や鉄,非鉄金

属製造などの重工業が 8割以上と高い割合を占め

ており,毛革や繊維製品製造業などの軽工業は 6

割弱と比較的低い割合であることがわかった.

4.2 喪失取引額

被災企業の受注先全体の喪失取引額は 9,095 億

円であった.都道府県別に見ると,上位は東京都,

埼玉県,神奈川県,大阪府となっており,東京都

が最も高く 3,213 億円であった(図-6).また,産

業別では卸売・小売業,飲食店が 5,135 億円,製

造業が 2,812 億円であった.

図-6 都道府県別喪失取引額

4.3 シナリオ間の比較

他の 3 シナリオに関しては,Tier1 までの企業

の割合は全体の 20~34%であり,下流右岸のシナ

リオが 34%で最も高い割合であった.荒川流域で

は,下流右岸(東京都側)に立地している企業が

最も多いためだと考えられる.また,Tier1 までは

4 シナリオ間で差があるが,Tier3 以降は全てのシ

ナリオが 58%程度になった.地域別,産業別の分

布に関してもほぼ同様な結果が得られた.したが

って,荒川の氾濫がもたらす影響について,シナ

リオ間の差は大きくないと考えられる.

5. 終わりに

本研究では荒川氾濫解析データ及び大規模企

業間取引ネットワークデータを用いることで,荒

川の氾濫によって経済被害を受ける企業の産業

構造について分析した.被災企業と関係を持つ企

業は Tier5 までを含めると全体の 6 割弱であり,

多くの企業は被災企業と直接取引関係がなくて

も,間接的に影響を受ける可能性があることがわ

かった.また,公務や電気ガスなどの産業では,

8 割以上の企業が被災企業と関係を持つため,産

業全体への影響が大きいことを示唆している.

今後の課題としては,影響を受ける企業の各地

域での役割について,中心性の概念を用いて分析

することを計画している.また,企業活動の停止

条件は人間の要素のみを考慮したが,実際には

様々な要素に左右される.より正確な経済的影響

の推定をするため,過去の水害事例をもとに被災

条件や復興モデルを作成し,復興状況の時系列分

析を行いたいと考えている.

謝辞

本研究は国土交通省荒川河川事務所及び,株式

会社帝国データバンクよりデータ提供を受けて

実施したものである.ここに記して謝意を表した

い.

参考文献

池内幸司,越智繁雄,安田吾郎,岡村次郎,青野

正志 ,2011,大規模水害時の氾濫形態の分析

と死者数の想定,土木学会論文集 B1(水工学)

Vol.67,No3,133-144

小川芳樹,秋山祐樹,篠原豪太,柴崎亮介,関本

義秀,2018,「本社間取引データを用いた事業

所間取引データの推定」, 第 27 回地理情報シ

ステム学会研究発表大会地理情報システム学

会論文集,CD-ROM

国土交通省 水管理・国土保全局,2013,「水害の

被害指標分析の手引き」

齋藤有希子,2012,被災地以外の企業における東

日本大震災の影響,RIETI Discussion Paper ,

12-J-020