近世剣術の剣術観に関する一考察 :直心流・直心正統流・直心影 … ·...

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1.はじめに 剣道は,日本古来の戦闘技術の1つである 剣術を起源とする身体運動文化である。現在 の剣道は競技としての一面を持ち,全国各地 で試合が行われ,その勝敗が競われている。 近世剣術の剣術観に関する一考察 :直心流・直心正統流・直心影流の伝書に見られる 他流批判に関する記述の分析を通して The study about the view on Kenjyutsu in Edo period : Analysis of descriptions about criticism on other schools in books of Jikishin−school, Jikishinseito−school and Jikishinkage−school Yoshitaka Karukome Keywords the view on Kenjyutsu, Jikishin-school, Jikishinseito-school, Jikishinkage-school 剣術観・直心流・直心正統流・直心影流 Abstract The purpose of this study is to clear the view on Kenjyutsu of Jikishinkage−school. I investigated descriptions about criticize other schools and the situation in Kenjyutsu field in books of Jikishin-school, Jikishinseito-school which are origins of Jikishinkage-school. Furthermore, I considered how Jikishinkage-school inherited the view on Kenjyutsu of these origin schools. The conclusions of this study are as below. 1.Jikishin-school is originated to renew the bases of Kenjyutsu by Kamiya Denshinsai. He criticized another schools he learned formerly. Kenjyutsu in another school he criticized are Hyori and Aiuchi. 2.The reason criticized Hyori is using Hyori tenacious technics, and it is also considered to be distracted mind. 3.Aiuchi criticized in the book of Jikishin-school is Kenjyutsu in Sekiun-school. This reason is Aiuchi has character not to decide victory or defeat. 4.In Jikishinseito-school, Takahashi Danjyozaemon criticized fellow pupils, and Yamada Heizaemon who was a disciple of Takahashi inherited this attitude. 天理大学体育学部 Faculty of Budo and Sport studies 天理大学学報 242 27 43,2016

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1.はじめに

剣道は,日本古来の戦闘技術の1つである

剣術を起源とする身体運動文化である。現在の剣道は競技としての一面を持ち,全国各地で試合が行われ,その勝敗が競われている。

近世剣術の剣術観に関する一考察:直心流・直心正統流・直心影流の伝書に見られる

他流批判に関する記述の分析を通して

軽 米 克 尊

The study about the view on Kenjyutsu in Edo period

: Analysis of descriptions about criticism on other schools in books of

Jikishin−school, Jikishinseito−school and Jikishinkage−school

Yoshitaka Karukome

Keywords

the view on Kenjyutsu, Jikishin-school, Jikishinseito-school, Jikishinkage-school剣術観・直心流・直心正統流・直心影流

Abstract

The purpose of this study is to clear the view on Kenjyutsu of Jikishinkage−school.

I investigated descriptions about criticize other schools and the situation in

Kenjyutsu field in books of Jikishin-school, Jikishinseito-school which are origins

of Jikishinkage-school. Furthermore, I considered how Jikishinkage-school

inherited the view on Kenjyutsu of these origin schools.

The conclusions of this study are as below.

1.Jikishin-school is originated to renew the bases of Kenjyutsu by KamiyaDenshinsai. He criticized another schools he learned formerly. Kenjyutsu in

another school he criticized are Hyori and Aiuchi.

2.The reason criticized Hyori is using Hyori tenacious technics, and it is alsoconsidered to be distracted mind.

3.Aiuchi criticized in the book of Jikishin-school is Kenjyutsu in Sekiun-school.This reason is Aiuchi has character not to decide victory or defeat.

4.In Jikishinseito-school, Takahashi Danjyozaemon criticized fellow pupils, andYamada Heizaemon who was a disciple of Takahashi inherited this attitude.

天理大学体育学部 Faculty of Budo and Sport studies

天理大学学報 242:27―43,2016

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しかし,剣道では勝負に勝つだけの技術を高度なものとは捉えない。罰則規定ぎりぎりのところで行われる技術は決して高度で有効なものと評価されず,なるべくその規定に触れないように,技術の正しさ・美しさといった点も評価される。言い換えれば,技術と精神性・態度などの倫理性が一体のものとして捉えられる考え方である1)。こういった考え方は「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である2)」といった剣道の理念にも現れており,修行を通して,人格を高めていくことが剣道の最大の目的とされている点からも窺えよう。現代剣道がこういった価値観を有しているのは,その淵源である近世期の剣術にもまた同様の価値観が存在したからであると考えられる。本稿は,近世の剣術各流派における特徴的な剣術スタイルと,その根底にある各流派の根本理念を「剣術観」と呼称し,伝書等の記述からこれを考察するものである。そして,この剣術観の考察は各剣術流派の,ひいては現代剣道の技術や教習体系などの理解の上に資するものであると考える。本研究においては上記のように近世剣術の

剣術観について考察を行うが,近世期,剣術を伝承する組織であった流派は,最盛期には600から700ほど存在していたとされている3)。その各々の流派によって技術がそれぞれ異なっていたため,当然それを規定する剣術観も流派によって異なっていたことが推察される。その中でも本研究においては直心影流という流派について考察を行う。直心影流は近世中期に興った剣術流派であり,その伝承過程において,身を守る道具を装着した上でしないで相手と自由に打ち合う「しない打ち込み稽古」を導入し,形稽古と併せて修練することで大いに栄えた流派である。この形稽古としない打ち込み稽古の兼修という稽古スタイルは,現代剣道にも受け継がれており,その意味では,現代剣道にも影響を及ぼした剣術流派の1つであると言えよう。こういった特徴を持つ直心影流の剣術観を明らかにすること

は,現代剣道の在り方を考える上で重要であると考える。本研究においては,上記のような特徴を持

つ直心影流の剣術観について考察を行うが,直心影流が剣術の伝承という役割を担う流派である以上,前身となる流派から,技術的・思想的に影響を受けていると推測できる。このように考えると,剣術観も前身となる流派から継承しているということが考えられる。したがって,本研究では,直心影流の源流である直心流と直心正統流にまで考察の範囲を拡大し,論じていくこととする。

2.先行研究の検討と問題の所在

本研究に関連する主な先行研究としては以下のものが挙げられる。○富永堅吾『剣道五百年史』(復刻新版,島津書房,1996)富永は直心影流について,山田平左衛門光

徳の弟子・長沼四郎左衛門国郷がこれまでなかった身を守る道具を発明し,使用したとする説を否定し,直心影流の前身である直心正統流の時代に不完全ながら既に使用されていたことを指摘している。また,さらに遡り,直心正統流の前身である直心流においては,身を守る道具の使用を否定していたことを述べている4)。○全日本剣道連盟編『剣道の歴史』全日本剣道連盟,2003.次に全日本剣道連盟編『剣道の歴史』にお

ける榎本鐘司の論考を挙げておきたい。榎本は,徳川幕府が武術訓練のために安政

3年(1856)に開設した講武所における剣術の稽古に用いられていたしないの長さについて,講武所の筆頭剣術師範役であった直心影流の剣士・男谷精一郎のしないの長短論をもとに考察している。榎本によれば,講武所におけるしないの長

さの規定には段階があり,講武所成立当初の安政3年(1856)における3尺8寸以内という規定については,まずそれ以上の長さのし

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ないの非実用性を排除した上で,真剣と同じ長さである短めのしないを使った実戦向きの技術の修練,ある程度の長さと重さのしないを使用した体練的な効果を期待する修練と,多元的なレベルで実用的な剣術の修練ができることを目的としたものであると論じ,そして,その後,安政7年(1860)に4尺から3尺8寸,そして文久元年(1861)に3尺8寸に限定されたと述べている5)。○軽米克尊・酒井利信「直心影流の分派についての一考察:長沼派・藤川派・男谷派の試合・修練形態ならびに剣術観の分析を通して」『武道学研究』第46巻第1号所収,日本武道学会,pp1―19,2013.近世後期における直心影流に関しては,筆

者が「直心影流の分派についての一考察:長沼派・藤川派・男谷派の試合・修練形態ならびに剣術観の分析を通して」と題する論文を日本武道学会に発表済みである。この論文においては,近世後期に3つの派に分派していた直心影流に焦点を当て,各派の修練形態の相違及びその違いを生んだ要因の一つとして剣術観を分析し,考察した。その結果,各派の剣術観に加えて,天保期における長しないの普及に伴い,剣術の技術及び用具が大きく変化し,試合稽古が流行したという時勢が試合・修練形態に深く関わっていることが明らかとなった6)。先行研究では,直心流において否定されて

いた身を守る道具の使用が直心正統流以降,使用に踏み切られたことが述べられている。直心影流の成立以降については,男谷のしないに対する考え方により,講武所の稽古におけるしないの長さが規定されたことが窺える。これは,当時,流行した長しないの更なる長大化に歯止めをかけることがその目的の1つとしてあったようである。男谷がしないの長短論を展開したのも長しないが流行した時勢があってのことと考えられる。また,近世後期における直心影流の各分派における試合・修練形態の相違が生じており,これに各分派

の代表的な人物の剣術観と長しないの流行に伴う技術・用具の変化や試合稽古の流行が関わっていたことが拙稿により明らかである。以上の先行研究の知見から,その流派を取

り巻く状況が変化したとき,伝書に剣術観というものが顕著に現れると考えられる。この視点から考えると,流派を取り巻く状況,つまり,当時流行していた技術や用具,稽古方法,さらには他の流派などについて述べた記述を分析することで,その流派の剣術観を読み解くことが可能であると考えられる。こういった記述の中でも,剣術観は批判的な記述に特に現れると考える。なぜなら,批判される当時の情勢や他流は,自流の流儀とかけ離れていると認識されるが故に批判の対象になるからである。換言すれば,そのことは自流が確固とした剣術観を有していた証拠であるとも捉えられる。したがって,当時の情勢や他流を批判した記述を検討することで剣術観を浮き彫りにすることができると考える7)。本研究は,直心影流の成立過程の中でも直

心流から直心正統流,そして直心影流までの流れに焦点を当て,その流れと関連する剣術界の情勢や他流について考察することを通して,直心影流の剣術観について論じることを目的とする。ここで,考察の対象となる時代・流派につ

いて簡単に触れておきたい。直心影流は,次の図1のような系譜を辿り,成立したと言われている。また,批判の対象となっていると想定される流派について,直心影流の系譜といかに関係しているのか図に示しておく8)。

本研究においては,上の図の枠内の流派(直心流―直心正統流―直心影流,新陰柳生流,夕雲流)を対象とし,当時の剣術界の情勢,また他流の様子を史料から読み解き,考察をしていく。

3.史料について

次に,考察に用いる史料を流派別に列記し

軽米 29

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ておきたい。○直心流神谷伝心斎『軍法非切書幷入唐目録』写本,寛文3(1663)年,天保5(1834)年写,熊本県立図書館蔵.○直心正統流高橋弾正左衛門重治『稽古法定序幷理歌』貞享3(1686)年,東京長沼正兵衛家蔵.山田平左衛門光徳『兵法雑記』宝永~正徳年間頃,東京長沼正兵衛家蔵.○直心影流『長沼分家伝直心影流秘書』写本,享和2(1802)年以降写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.『長沼家伝直心影流秘書』写本,年代未詳,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.杉本新次郎『直心影流兵法窮理之巻』文政3(1820)年,小田原市立図書館蔵.

田代正容『直心影流究理之巻注解秘書』天保9(1838)年,中京大学附属豊田図書館蔵.○その他の流派柳生宗矩著『兵法家伝書』寛永9(1632)年,渡辺一郎校注,岩波文庫,1985.小出切一雲『夕雲流剣術書』貞享3(1686)年,『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集上巻』所収,筑波大学武道文化研究会,1988.川村弥五兵衛秀束『無住心剣辞足為経法集』享保10(1725)年,『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集上巻』所収,筑波大学武道文化研究会,1988.

4.直心流の伝書にみられる他流を批判した記述について

(1)直心流成立の経緯まず,直心流の開祖である神谷伝心斎と彼

が直心流を興した経緯について考察する。

図1 直心影流の系譜

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伝心斎は『軍法非切書幷入唐目録』において,直心流を創始した経緯について,自身のこれまでの修行を振り返りながら次のように述べている。

紙屋伝心六十七歳ニテ一流見出シ,直心流ト極メ致御伝授ニ付,改兵法之根元一伝心義他流四十年之内,難行苦行真剣之勝負迄執行ストイヘトモ,更ニ心ニ落ス,本ヲ失ヒ,表理ヲ専ラトシ,業ニ計心ヲ寄セ,体モミ一身乱面目体ニ顕レ,火焔ヲ求メ,屈度息ヲ切シ,東西明ニ見ヘス,勝負皆外道乱心之兵法也,皆非也9)

(読点筆者)

伝心斎は他流を40年もの間学び,難行,苦行,さらには真剣勝負まで行ってきたが,心に納得するところがなく,兵法の根本を失い,「表理」を専一とし,技にばかり心を寄せ,乱れが顔,目,身体に立ち現れ,恨み怒りで心が燃え立ち,精気を失い,息を切らし,東西さえはっきりとわからなくなってしまったという。そして,勝負はすべて外道で,心が乱れた兵法であるといい,これらの兵法は皆「非」であると述べている。ここでは,伝心斎がはっきりとこれまでに

自身が学んできた剣術を否定していることに注目しておきたい。つまり,伝心斎はこれまで学んできた他流が不十分なものであったために,直心流を新たに創始したということで

ママ

ある。伝心斎が学んだ他流については「紙屋下 上

伝心義,十五流執行ストモ,正利運徳得セス,仁義礼智之四徳ヲ考ヘ,一流ヲ見出シ,直心流ト極伝授ス10)」(読点筆者)という記述がみられるように,15流にも上ることがわかる。

ママ

さらに,前述の一文において伝心斎は「紙屋伝心六十七歳ニテ一流見出シ,直心流ト極メ致御伝授ニ付,改兵法之根元」と,直心流を創始するにあたり,兵法の根本を改める,と述べている。「兵法之根元」を改めるという記述から考えて,伝心斎はそれまでの流派

と自身の剣術観が相当に異なるという意識をもって根本から改め,直心流を創始したと考えられる。この点を踏まえると,神谷伝心斎が否定した15の剣術流派とは,彼が学んだ全ての流派であり,当然直心影流の伝書において神谷伝心斎の師として掲げられている小笠原源信斎の真新陰流も批判の対象に入っていると考えられる。

(2)神谷伝心斎の他流批判の記述前述したように神谷伝心斎は多くの他流を

学んだものの,それらの兵法は皆非であると否定し,直心流を創始している。ここでは伝心斎が批判した他流について検討していくこととする。まずは,伝心斎本人の記した他流批判の記

述を見ておきたい。前述した「伝心義,他流四十年之内,難行,苦行,真剣之勝負迄執行ストイヘトモ,更ニ心ニ落ス,本ヲ失ヒ,表理ヲ専ラトシ,業ニ計心ヲ寄セ,体モミ一身乱面目体ニ顕レ,火焔ヲ求メ,屈度息ヲ切シ,東西明ニ見ヘス,勝負皆外道乱心之兵法也,皆非也11)」(読点筆者)をみると,伝心斎は他流を修行してきたことで剣術の本質を失い,「表理」を専一とし,技にばかり心を配るようになってしまったと回想している。つまり,「表理」に専念するあまりに,技

術にばかり意識を向けるようになってしまったということである。この「表理」の語は『軍法非切書幷入唐目録』においてこの記述以外に確認する事は出来ない。しかし,直心正統流の伝書『兵法雑記』を見てみると「アシキトハ,ウケ,ツケ,表裏,飛ハ子ツ,至極ハカゝレ,サキハ極楽12)」(読点筆者)という記述が見られ,表記する字が異なるものの「表裏」を「悪しき」と批判する歌が見られる。さらに後世の直心影流の伝書に注目すると,「請タリ,付込タリ,表裏ヲナシ,飛ハ子ル,カゝルトノ五ツハ,業ニナツンテ内ヲオサメヌ也13)」(読点筆者)が確認でき,表裏を含む5つの兵法は技に拘泥して,心を静めるこ

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とができない兵法として非難されている14)。この記述から「表裏」という兵法が直心正統流の頃から批判されていること,技に拘泥してしまうという理由から批判されていることが窺える。当系統の中において,同様の理由で批判されている「表理」と「表裏」は同義であると考えられ,『軍法非切書幷入唐目録』にみられる「表理」とは「表裏」のことを指していると考えて良いだろう。また『軍法非切書幷入唐目録』には次のよ

うな記述もみられる。

一 表四組ト極,過去,現在,未来,三ツ之躰八相 一当 重端一身 右天左天

頭端無相打15)(読点筆者)

この記述は4本の形名を列記したものであるが,ここには「相打」が存在しないと述べられている。同様の記述が本伝書にもう一箇所みられ,そこでは「頭端合打ナシ16)」と記されている。これらは漢字の表記が異なるのみで同様の事を指しており,「あいうち」と読むと考えられる。この「あいうち」も直心流において批判の対象となっている。以下,これら「表裏」「相(合)打」につ

いて個別に検討していくこととしたい。

(3)表裏これまで触れてきたように,神谷伝心斎は

『軍法非切書幷入唐目録』において,表理(裏)を専らとし,技にばかり心を配っていたことを反省しており,「表裏」を批判している。この「表裏」という言葉は新陰流の祖・上泉伊勢守が記した伝書に確認することができ,基本的な意味内容は新陰柳生流17)の代表的伝書『兵法家伝書』にみられるものと同じであるという18)。また,源了圓氏が「柳生宗矩と同時代の伊藤一刀斎とその弟子の小野次郎右衛門忠明(神子上典膳)らによって始められた『一刀流』の刀技に『表裏』が比較

的に少ない点を見れば,ここには剣者の個性というものがあるかもしれない19)」と指摘するように,表裏を中心的な兵法として用いているのは,新陰流またはその流れを汲む諸流派であると考えて差し支えないであろう。伝心斎が学び,後に批判したと思われる真新陰流は,その名からも明らかなように新陰流の系統であり,この流派にも新陰流の中心的な兵法である表裏が伝わっている可能性が高い20)。伝心斎が批判した表裏とは,真新陰流を学んだという彼の経歴を踏まえて考えても,新陰流系統に見られるものであったと考えられる。ここでは表裏について新陰柳生流の伝書を検討してみたい。以下は新陰柳生流の代表的伝書である『兵法家伝書』の一文である。

一 表裏は兵法の根本也。表裏とは略也。偽りを以て真を得る也。表裏とはおもひながらも,しかくればのらずしてかなはぬ也。わが表裏をしかくれば敵がのる也。のる者をば,のらせて勝つべし。のらぬ者をば,のらぬよと見付くるときは,又こちからしかけあり。然れば敵ののらぬも,のつたに成るなり。仏法にては方便と云ふ也。真実を内にかくして,外にはかりごとをなすも,終に真実の道に引入る時は,偽り皆真実に成る也。神祇には神秘と云ひ,秘して以て人の信仰をおこす也。信ずる時は利生あり。武家には武略と云ふ。略は偽りなれ共,偽りをもつて人をやぶらずして勝つ時は,偽り終に真と成る也。逆に取りて順に治まると云ふ,是也21)

この記述から窺えるように「表裏」とは,偽りによる策略を相手に仕掛け,裏をかく兵法のことである。そして偽りを用いて勝利を得たとき,最終的にその偽りは真となる,ということであり,敵を欺くことを正当化している。前述の通り,表裏は直心流・直心正統流・

32 近世剣術の剣術観に関する一考察

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直心影流において批判されており,その理由は技に拘泥しているということであった。この点に加えて,直心正統流の2代目である山田平左衛門光徳の修行時代の覚書とされる『長沼家伝直心影流秘書』における以下の記述も見ておきたい。

アシキトハ○請ツ ○ハツシツ ○ツケ ○ヒヤウリ 至極ハカゝレ先ハ極楽○無二無三飛込

此五ツニ迷フ者ヨリ外ハ,大体ニハ有マシキ也,我ヨリ上手ナラハ切ラレ可申,則浄仏也,毛頭我ヨリ下手ナラハ,向ノ者亡ヒ候ハン,勝タルトテ悦モナシ,負タルトテ悲モナシ○唯我直心ヲ勤申ヘキヨリ無他右我ハ五常ヲ守テ立合時,右ノ五心ニテ非意ヲ以我ニ向者ハ,常式ノ慮外者也我ニ慮外スルモノヲ,何ヲ以可免ス,然トモ爰ニ大事ノ傳アリ○慮外者トテ亡スハ,ヲトナシカラス,目録位ハ爰ニ止ル由

○至極ハ我ニ邪ヲ以向者,己ガ邪ニ行アタツテ自メツサスヘシ,マツタク此方ヨリ非意ヲトカメ其者ニ悪ミモナク,可亡ストモ,不思自身ノ五常ヲ守テ正

カ子

直堅固ノ雉ヲ合スル耳己立合ト我ヲ亡スアタヤツミ其アタツミノ人ハ自メツソ22)(読点,下線部筆者)

まず,冒頭に記される「アシキトハ○請ツ○ハツシツ○ツケ○ヒヤウリ至極ハカゝレ先ハ極楽」という歌は,光徳の著した『兵法雑記』にも確認することができる23)。ここで特に注目すべきは,自身が五常24)を守って立ち合う時,「請ツ」「ハツシツ」「ツケ(付)」「ヒヤウリ(表裏)」「無二無三飛込」の兵法を遣い,「非25)」の心を持ち,向かってくる相手は慮外者(ぶしつけもの,無礼者26))であると述べられていることである。換言すれば相

手が「表裏」を含むこれらの兵法を用いるとき,その心には「非」があるということにも捉えられる。これらの兵法を遣う者を「慮外者」と評していることから,少なくとも批判されていることは間違いない。「表裏」を遣う者は技に拘泥し,邪心があ

るとみなされていたといえ,それ故に批判の対象となっていたと考えられる。

(4)相討『軍法非切書幷入唐目録』に「頭端無相打」と記されているように,直心流では,「相(合)打」という兵法を否定している。神谷伝心斎の頃に存在していたという点を踏まえると,この「相打」は神谷伝心斎同様,小笠原源信斎に師事したと言われている針ヶ谷夕雲が創始した夕雲流の兵法であったと考えられる。『夕雲流剣術書』によれば,針ヶ谷夕雲は

13,4歳の頃より兵法を習いはじめ,その後小笠原源信斎の弟子となって新陰流を受け継いだとされる。その際,「八寸の延金」という秘術まで余すことなく全ての技法を受け継いでおり,弟子の中でも2,3人の内に入る程の実力の持ち主であったようである27)。つまり,針ヶ谷夕雲は神谷伝心斎の兄弟弟子であり,相当に高名な人物であったと考えられる。当然,伝心斎も夕雲の存在を知っていたと考えて良いであろう。また,夕雲流の伝書『無住心剣辞足為経法

集』に「夕雲四十歳の頃まで新陰流にて有し,五十歳計りの頃より当流をつかひ給ひしと也28)」とみられるように,夕雲は40歳前後まで新陰流(ここでは小笠原源信斎の真新陰流であると考えられる)であったが,その後参禅し,50歳のころに自流を創始したようである。夕雲の生没年29)から考えると夕雲流の成立は1642年頃と考えられる。一方,神谷伝心斎は,『軍法非切書幷入唐

目録』に「紙屋伝心,六十七歳ニテ一流見出,直心流ト極致30)」(読点筆者)とあるように,67歳で直心流を創始したという。『軍法非切書

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幷入唐目録』を記した寛文3年(1663),伝心斎は82歳であるから,直心流の創始年は1648年になる。以上から神谷伝心斎と針ヶ谷夕雲は共に小

笠原源信斎の門弟であり,そこから互いに自流を創始したが,夕雲流の方が若干早く成立していると推測できる。夕雲流と直心流の成立年代が非常に近く,かつ創始者である針ヶ谷夕雲と神谷伝心斎が小笠原源信斎の相弟子であったことを踏まえると,伝心斎が否定した「相打」とは夕雲流の「相討」であるという仮説を立てることが出来る。次に,この仮説に従い,この夕雲流の「相

討」がどのような特徴を有する兵法であるのか,夕雲流の伝書から見ていく。次は『夕雲流剣術書』の一文である。

当流兵法の意地は,元来勝負に拘わらず。取分け余が思ふ所,相討を以て至極の幸とす。その子細は,兵法を用るに及て,其場漸く三つならではなし。一つは戦場の太刀討,一つは泰平の時主君の命に依て仕る討者,さては運命逆になりて不意の喧嘩の切合ひ此外さらに太刀討すべき場なし。三つ共に,其場の相討死は,武士の耻に非ず。

(中略)此心得を以て,余は相討を最初の手引として,兵法を伝ふる也31)

夕雲流の心根は元来勝負にこだわらないことであり,「相討を以て至極の幸」とするという。相討を行うべき場は3つあり,1つ目は戦場,2つ目は泰平の世において主君の命により敵を討つ時,3つ目は突然の喧嘩における斬り合いである。この3つの場での相討による死は武士として恥にならないという。そして,夕雲流では相討を最初の手引として兵法を伝授するという。この記述から,相討は夕雲流の理想的な剣

術とされていることが窺える。そしてこれが

修行の初歩であるということである。それでは,相討の修行は一体どのようになされるのか,次の記述を見ておきたい。

其間遠くば,太刀の当る所まで行べし。行つきたら,打べし。其間近くば,其まゝ打べし。何の思惟も入るべからず。然るに,敵を一目見て,目付と云事を定め,其間の遠近に慮を加え,活地,死地,了簡を生じ,或は太刀の長短の寸尺に泥み,

おびやか

其上に与へ,奪ひ,うかがひ, 刧し,から ゆ

動かし,擒め,縦るめ,遅速品々の習ひ心どもを発して,上手めかしく働く。如レ

此の心入れに,天理本分の良知良能は聊かもきざすべからざるに,如レ此取扱ふ流の人などの,向上を談じ聖佛の言句などを引言にして,心を説き気を談じて極意のやうにせらるゝは,恥の上の恥なれども,自己心元来明かならぬ上に,暗師の伝を受て弥々意識の増長したる輩なれば,尤とも云べし32)

相討は,間合が遠ければ近づいていき,太刀の当たる間合に入れば打つ,という動作のみの兵法である。そして,少しの思慮も入れることなく打たなければならないという。それにもかかわらず,敵を見て,目の付け

どころを定め,間の遠近や太刀の長短などから有利・不利を考え,出方を窺い,時には脅かして動じさせ,遅速を使い分ける者がいるという。このような者の心には,人間に本来備わっているはずの知恵と能力は少しも生まれないと指摘し,このような兵法を遣う者が悟りの知見を談じ,仏の言葉などを引用し心を説き,気について談じ,極意のようにするのは非常に恥なことであると批判している。夕雲流では色々と思考をめぐらせ,策を講

じることを否定的に捉えていたようである。こういった兵法における相手との駆け引きを否定的に捉えていたため,遠ければ近づき,間に入ったら打つという駆け引きをしない極

34 近世剣術の剣術観に関する一考察

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めて単純な技法になっていたと考えられる。そして,この相討の修練の結果,至る境地

について以下のように述べられている。

又或は修行年々月々上達し,心理発明にして凡情意識を尽し,大道本然の天理に近づき,平生の所作稽古も流の心を守り,実のしあひの場に臨みても,常の稽古のまゝにて少しも自己の了簡を加へず,内心教の如く調て,いさゝか勝負にわたらぬ人あるべし。当流上品の弟子也。終には師と相ぬけすべき器量なり33)

この記述は弟子が最終的に到達すべき境地について述べたものである。夕雲流の弟子は修行をしていくことで凡人の思考や意識を無くし,自然の天理に近付いていくという。そして日常の所作・稽古においても流派の心を守り,実戦も稽古も思慮を一切加えず,心を教え通りに調え,少しも勝負に心を奪われない人物が夕雲流の上級の弟子であるといえる。このレベルに達することが出来れば,師と極意である「相ぬけ」を成功させることが出来るという34)。この記述から,夕雲流の優れた弟子は,師

から教えられた通りに心を調えることができ,さらに,少しも勝負に心を奪われることがない人物であったといえる。そして,「相討を心やすく思ひこめ,いつも相討よと心得たる武士は,一代運さへ尽ぬ程なれば,無類の勇を働きたる事限りもなし。自分を全うして勝を取らんと計りしたるものゝ思ふまゝに勝を得たるは一人も見へず。相討さへ快くはならずして,片負け計りしたる類多し35)」と相討が出来る者は戦場で「無類の勇」を働くことが出来る,と述べられていることから,この剣術を学び,勝利への執着を捨てることこそが勝つ事につながると考えられていたようである。それでは,直心流に話を戻し,神谷伝心斎

はどのような理由で相討を批判していたか考

察していきたい。「相討」についても,『軍法非切書幷入唐目録』において,先に挙げた記述以外に見ることができないが,表裏同様,これを批判する態度は直心影流まで継承されているようである。『直心影流秘書一』には以下のような記述が確認できる。

伝心斎ノトキハ,世上ニ相打ト云事流行スル故ニ,塗炭相打ト云モノハアヤマチ也タトヘハ天地ノ間ニ相打ナキハ,可暑則暑,可寒則寒,是天地ノ常ナリ然レトモ,アツカルヘキトキニ寒キ事アリ,是全クアヤマチナリスレハ,相打ハナキモノト也36)(読点筆者)

記述から,神谷伝心斎の時代に,この「相打」が世に広まっていたことが窺える。そして,この世の中に「相打」が存在しないのは,暑さや寒さと同じであるという。暑ければ暑く感じ,寒ければ寒く感じる,というのが世の中の理であり,暑い季節に寒いということはあり得ない,あったとしてもそれは間違いである,と指摘する。この文は自然の理について説いていると考えられる。剣術という斬り合いの場において勝敗は必

然的なものであり,避けて通ることは出来ない。したがって勝負が着かないという事態は起こり得ないことである。そのため,勝敗の着かない相討は存在しない,と主張しているように捉えられる。また,次の『長沼家伝直心影流秘書』の記

述もみておきたい。

トタン相打ナシ,是直心流ノ称号○相打ハ絶テナキ事ナリト云々言ハ,天下ノ人ヲ集メテモ,同キ者ナケレハ也左右ノ目サヘ,同キハナシト云ホト也況ヤ其人違タレハ,同人ト云ハナキ也37)

軽米 35

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(読点筆者)

ここでは,「相打ハ絶テナキ事ナリ」と述べ,その理由として世界中の人を集めても同じ人間は存在しえない,と述べる。さらに左右の目でさえも同じではないのだから,言うまでもなく,人が違えば,同じにはならないという。つまり,相討の「勝ち負けを着けない」と

いう性格を批判していると考えられる。いくら気心の知れた師弟が相討を試みたとしても結局のところ,その師と弟子は2人の違う人間である。同時に剣を振り上げ,振り下ろす動作を行うとしても,剣を振るう技術,スピード,力強さ,などに必ず違いがあるはずである。そのような2人が太刀を持って打ち合えば,勝負がつかない,という結果にはなりえないと主張していると考えられる。これらの否定する理由を取り上げると,伝心斎が否定した「相打」は夕雲流の「相討」であったと考えるべきであろう。

5.直心正統流の伝書にみられる他流を批判した記述について

(1)高橋弾正左衛門による直心正統流の創始の経緯

前章で述べたように,直心流の神谷伝心斎は自身がこれまで学んできた他流を批判している。批判する他流の中でも特に「表裏」「相討」という兵法の名称を挙げており,これらを批判する態度は直心正統流を介して直心影流にまで継承されているといえる。次に直心流の後を継いだ直心正統流につい

て記述を見ていきたい。はじめに,直心正統流の成立経緯を把握し,当時の状況を窺っておきたい。高橋弾正左衛門自身が直心正統流の成立経

緯を述べた記述は管見の限り見られないが,直心正統流を継承した山田平左衛門光徳が『兵法雑記』において,神谷伝心斎の直心流の創始にまで遡り,その成立の経緯を記して

いる。以下がその記述である。

一風ノ曰,夫兵法ノ正理,凡ソ百有余年以往断ト謂ハン乎,其家々末流ニ至テハ,漸ク形而已残テ正実ハ失フ

レ之ヲ,タマタマ神谷氏伝心ト云人中興ノ機分有テ,一流ノ祖ト成テ,一世ニ三十余輩ノ譲ル

二免状ヲ

一ト云トモ,多分ハ亦タ切組ニ下テ,失フ

二正理ヲ一,其内漸ク亦一人止リテ,高

橋氏重治ハ続レ之者乎38)(読点筆者)

まず,神谷伝心斎が直心流を興すまでの記述に注目すると「其家々末流ニ至テハ,漸ク

形而已残テ正実ハ失フレ之ヲ」とある。この記

述に見られる,形だけが残り,正しい「実」が失われたという事態は「華法化」のことを指していると考えられる。華法化とは近世中期頃に起きた剣術の沈滞化現象であり,これまで攻防の技術の修練として学ばれてきた「かた」が実戦性と実用性(体力強化や精神の活性化など)の両面において効用が認められなくなってしまった事態である39)。この当時の剣術は,形の修行を主としていたが,実戦を経験しなくなった者が学ぶことで形式化していたという。そのため,流祖が実戦真剣の経験から考案した形は伝わる内に真意を失い,新たに形を考案しても,無闇にその数を増したり,外観上の体裁を飾るような傾向が強かったという40)。このように兵法の正しい理が途絶えている

中,神谷伝心斎があらわれる。伝心斎は直心流を創始することで兵法を中興し,30名ほどに免許を授けたが,その中で高橋弾正左衛門以外の者は再び実理がなく華法化した切組(ここでは形の意であると考えられる41))に逆戻りして正しい理を失ってしまったという。換言すれば,ここでは神谷伝心斎―高橋弾正左衛門の系譜のみに剣術の正しい理が残されている,と主張されている。相弟子たちが剣術の理を失っていく中で,自流を相弟子たちの流派と明確に区別し,直心流の正統な後継

36 近世剣術の剣術観に関する一考察

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者であることを主張するために,高橋弾正左衛門は「直心正統流」と名乗ったと考えられる。

(2)相弟子の批判直心正統流・高橋弾正左衛門重治が記した

『稽古法定序幷理歌』には次のような記述がみられる。

右序幷利歌口伝智也,少々行ニウツラハ,切組兵法,構勝兵法,所作兵法,理兵法,此四ツノ品ノモノハ,仮令弟子ハ数万人トリ,其身年長平生可然仁体ニ見エタリトモ,ソレニハヨルヘカラス,ウタカイナク勝ヘシ42)(読点筆者)

ここでは,「切組兵法」「構勝兵法」「所作兵法」「理兵法」という4つの兵法について,たとえ弟子を数万人とり,その兵法の人物が立派でふさわしい人柄に見えても,それに惑わされず,疑いの念を持つことなく,勝つべきであるという。この記述は,これら4つの兵法について多くの弟子がおり,また,これを実践する者が一見,人格的にも立派であるようにみえるが,実はそうではない,と述べている。これら4つの兵法は弟子の山田平左衛門光

徳が著した『兵法雑記』においてもみられる。『兵法雑記』には,他流についての記述が数ヶ所みられるが,そのうちの1つは高橋弾正左衛門が記した文を光徳がそのまま載せたものであるという。以下,その部分を挙げておきたい。

一 直翁自筆曰,世間兵法ツカヒノ類噂一 ウケ左右同突ウケ 一シノギズリ一 鍔責 ○ツケ ○表裏 ○ハリヲト

シ○ハヅシ ○ヒラク ○浮シヅミ ○飛ハ子

( マ ゝ )

○無二無三 ○無メンモリ ○カルワザ

( マ ゝ )

○一眼二サソク ○一心二力 ○手足眼心

○運次第 ○調子拍子 ○気然 ○位ヲトル

○戯ヲウツ ○相気ヲハツス ○寒夜ニ霜ヲキク

○懸待遊 ○上段中段下段 ○左リニカマエ

右品々ヲ一首ニ一 アシキトハ,ウケ,ツケ,表裏,飛

ハ子ツ,至極ハカゝレ,サキハ極楽一 キリムスブ,太刀ノ下コソ,地獄ナ

レ,タゝフミカゝレ,先ハ極楽○切組兵法 ○搆勝兵法 ○所作兵法○理兵法

○事理ノ二ツ業ヲカラシテ後,理ヲ説ト云( マ ゝ )

○信陰流表ハ序キリト云 ○テングシヨ○圓バシト云テ水月ノ位ト云シン妙剣極意 始終手裏剣ト云

○一刀流 星 刀 発車刀 表ゴテン切ヲトシ

( マ ゝ )

△極意 獅子本テキ( マ ゝ )

○卜伝流 表ニホツソ振セメ 極意一太刀累年耳目ニフルゝ事,今記此而已直心正統一流ハ事理一体也,口傳吾ガ流ハ,請,ツケ,表裏,飛ハ子ズ切ニモアラズ,キラヌニモナリ是亦口傳

貞享十二乙丑年六月三日 高橋弾正重治43)(読点,下線部筆者)

まず,冒頭に「直翁自筆」とあり,この記述が弾正左衛門の自筆のものであることが窺える。以下,他流の記述が箇条書きで記されており,ここにも『稽古法定序幷理歌』にみられた「切組兵法」「構勝兵法」「所作兵法」「理兵法」をみることができる。また,これら4つの兵法は『兵法雑記』に

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おける光徳自身が記した箇所にもみられる。

風翁曰,異端ヲ集ム(ママ)

○切組兵法○所作兵法○搆勝○理兵法○系図兵法

○取手○ヤワラ○居合○小具足○朴ツカイ

右十段之行者,世ニ弘マリ,数万人ハ業マスマス

スル妙術ト云トモ,一其味 益 異端也,是ヲ詠シテ

イカ

△世ニ鳴ス,利法剣術,サマサマニ,怒グイ

モノ喰ヤ,牙歯ノ争△吾ガ家ノ,神尊シヤ,井ノ内ノ,カハヅ合戦ニ,泥田朴ウチ

此外ハ前ニ記ス,勿論此二首モ前ニ見ルト云トモ,専ラ対ス

二異端ニ一44)(読点,下

線部筆者)

光徳(風翁)は上記引用史料○印の10種の兵法を異端であると評し,これらを修行する者が世に広がり,その数が数万人に至ったとしても,その剣術は異端であることに変わりはないという。ここにみられる「切組兵法」「所作兵法」「搆勝」「理兵法」などの兵法を批判する態度が弾正左衛門の頃より継承されていることが窺える。また,この光徳が述べた箇所には「系図兵法」が新しく加えられている。流派が光徳に受け継がれた後にも,新たに批判の対象となるような流派が発生していたと考えられる。そして,これらの兵法を批判する態度は,

後世の直心影流の伝書にもそのまま受け継がれている。直心影流の修行者に伝授される『直心影流兵法窮理之巻45)』には,「世の中に徘徊する兵法者なと云ふ者の類,切組兵法,所作兵法,系図兵法,理兵法,此類のものともは世間の人を此七病人に致すと見へたり46)」(読点筆者)と,切組兵法・所作兵法・系図兵法・理兵法などの兵法が世間の者を「七病人」という弊害に陥らせるという。さらに『直心影流窮理之巻注解秘書』においては,この

「世の中に徘徊する兵法者」を以下のように詳述している。

世ノ中ニ徘徊スル兵法者ナト云者ノ類ハ,トハ他流ノ事ニアラス,前ニ云三十三人ノ伝心ノ弟子ナリ,国々ニ広マレトモ,多クハ名利ニノミ掛リ,実学ナラヌ也,切組トハ色々人ノ目ノ付切組ヲコシラヘ,骨ヲ折ラシ,外見ハ見事ナレトモ,実気ナシ,構勝トハ是又切組ト同ジ,構ニテ勝ト云テ,種々人ノ目ヲ驚スルナリ,所作トハ色々ノ事ヲ拵ヘ,深山ニ入テ天狗ノ伝ヲ受ケタル抔ト云フラシ,サマザマノ所作ヲスル事也,系図トハ此兵法世上猶多シ,事理ノ事ハ外ニシテ兵法ノ伝ト号シテ,七書ノ中ノ三略或ハ虎ノ巻抔ト名付,日取時取方角抔ノ事ヲ教ヘ,先師ト云テ書立ルニ知モセヌ一千年ニモ及フ士ノ名ヲカリ,音曲本ニ有ル如キノ事ヲ伝ル也,理トハ言ヲ巧ニシテ千万ノ理屈ヲ云フラシ,武州東海寺沢庵ノ云フラシタル法語仏教ナトヲ以テ,人ニ教ヘ経文

( マ ゝ )

等ニ注釈シテ,口利根ニ云教ユ,大小抔異体ノ拵ヘヲナシ,行住座臥剣術者ト思レン事ヲノミ望ム事也47)(下線部,読点筆者)

これらの兵法の類は神谷伝心斎の33人の弟子,つまり,高橋弾正左衛門重治の相弟子たちの兵法であると捉えられる。したがって,高橋弾正左衛門が『稽古法定序幷理歌』において批判していたのは,相弟子のことであったと考えて良い。以下,これら批判の対象となっている兵法についての説明を列記しておく。・切組兵法…人の目につく様々な新奇な形を

考案することに精を出す兵法で,外見は見事であるが,実際には役に立たない。

・構勝兵法…切組兵法と同じような兵法で,構えによって勝利を得るといい,

38 近世剣術の剣術観に関する一考察

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人々の目を驚かせるような兵法。・所作兵法…色々と新たな技巧を拵え,山に

入って天狗から授かったというような妄言を言いふらして様々な所作をするような兵法。

・系図兵法…先師として知りもしない千年にもわたる武士の名前を借りて,音曲本のような作り話(フィクション)を伝える兵法。

・理 兵 法…言葉を巧みに使い,多くの理屈を述べ,仏教の用語をもって人に教えたり,経文などに注釈を加えて口先だけで教える兵法。

このような兵法が神谷伝心斎の33人の弟子の中から生まれており,弾正左衛門はこれらの剣術を批判するとともに,自流を「直心正統流」と名乗り,これらとの区別化を図っていたと考えられる。

6.おわりに

本研究においては,直心流から直心影流までの流れに着目し,各伝書に見られる他流または当時の剣術界の情勢を批判した記述を考察することで,直心影流の剣術観について論じてきた。本研究において明らかになった知見は以下

の通りである。○直心流は,神谷伝心斎がこれまで学んできた他流を否定し,兵法の根源を改めるとして起こした流儀であり,伝書の中で他流の剣術を批判している。主なものとしては,「表理(裏)」「相(合)打」が挙げられる。○表裏は直心流―直心正統流―直心影流において批判の対象となっている。その理由としては,表裏が姑息な技に拘泥してしまい,表裏を遣う者には邪心があると捉えられていることが挙げられる。○直心流の伝書において批判されている「相(合)打」とは夕雲流の「相討」の事を指していると考えられる。その理由としては,そもそも剣術は勝負を付けるべきもの,もしく

は必然的に勝負が決せられるものであるにも関わらず,相討が勝負を付けないという性質を持っているからである。○直心正統流においては,高橋弾正左衛門重治が相弟子を批判しており,その態度が弟子の山田平左衛門光徳に継承されている。

これまでの考察を通し,直心影流の剣術観を一言で言い表すなら,前身である直心正統流の『兵法雑記』の記述に見られた「事理一体」に尽きると考えられる。この剣術観が直心流から直心正統流,そして直心影流へと受け継がれていると見て良い。ここでいう「事」は「わざ」であり,「理」は「心」や「理合」のことであると捉えることが出来,当系統では,両者をともに磨いていくことを重んじていたと言える。それ故に,相手を欺き勝利を得ようとする表裏を「技に拘泥し,心を治めることが出来ない」と批判していると考えられる。その一方で,勝敗を付けない性質を持つ相討を本来の剣術からは外れているものとして批判したのではないだろうか。さらに言えば,当時は華法剣術が流行し,剣術の実戦性が失われていた時代である。高橋弾正左衛門重治は「事理一体」という剣術観を標榜していたからこそ,直心流までは導入されていなかった身を守る道具を着用し,相手と実際に打ち・突き・かわすというしないで打ち合う稽古を行うことで,事,つまりわざの向上を目指したものと解釈できる。当系統では,わざと心のバランスを考え,どちらも剣術に不可欠なものとして捉えて,それを剣術修行の中で一体として修練しようとしていたと考えることが出来る。しかし,本研究で明らかになったことは,

剣術観,つまり考え方のみであり,それが技術そのものとどういった関係にあるか,という点については考察に至っていない。この辺りのことを今後の課題としたい。

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〈注〉

1)中林信二『武道のすすめ』中林信二先生遺作集刊行会,pp224―225,1987,参照.

2)全日本剣道連盟編『剣道指導要領』全日本剣道連盟,p5,2008.

3)全日本剣道連盟編『剣道の歴史』全日本剣道連盟,p126,2003,参照.

4)富永堅吾『剣道五百年史』(復刻新版)島津書房,p325,1996,参照.

5)全日本剣道連盟編『剣道の歴史』全日本剣道連盟,pp292―294,2003,参照.

6)軽米克尊・酒井利信「直心影流の分派についての一考察:長沼派・藤川派・男谷派の試合・修練形態ならびに剣術観の分析を通して」『武道学研究』第46巻第1号所収,日本武道学会,pp1―19,2013,参照.

7)ここで,本当に他流批判の記述から自流の剣術観が読み取れるか,という点について述べておきたい。他流への批判的な記述をする理由については,①他流派との差異化をし,自流派の正当性を示すため,②異端な流派を排除するための両者が考えられる。しかし,直心流の伝書『軍法非切書幷入唐目録』に「他流之儀ヲ批判致事同利直心ニ不叶,何之流義ニモ利方之無事ハ是ナク是ニ依テ一流極メ伝授ス是ヲ様々批判致事非義之至リ事ヲ知ラヌ也」「他流兵法悪敷様ニ申間敷候,何レノ兵法モ本ハ一ツ也業打様ニカワリハ無候」(『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.)などの記述が見られるように,直心流では他流の兵法の批判をする事を戒めている。批判する記述が存在する時点で,直心流の伝書に矛盾があるということになるが,上記のように他流を批判することを戒めながらも,そういった記述をするということは,少なくとも他流の排除を目的としたものではなく,他流と比較しながら自

流の剣術観を主張するためであったと考えるのが妥当であろう。

8)図1に示した系譜は,直心影流の伝書に通常記されるものとは若干異なっている。直心影流の伝書においては,山田平左衛門光徳が直心影流を名乗ったとされているが,実際に光徳は『兵法雑記』において直心正統流の二代を名乗っているため,図1には直心正統流の二代として記した。

9)『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.

10)『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.

11)『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.

12)『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵.13)『長沼分家伝直心影流伝書』写,鈴鹿家

文書,全日本剣道連盟蔵.14)ここで批判される5つの兵法については

伝書によって見解の相違がみてとれる。山田平左衛門光徳が著した『兵法雑記』には,「アシキトハ,ウケ,ツケ,表裏,飛ハ子ツ,至極ハカゝレ,サキハ極楽」「キリムスブ,太刀ノ下コソ,地獄ナレ,タゝ,フミカゝレ,先ハ極楽」(ともに読点筆者)という2つの歌が記されているが(『兵法雑記』東京長沼正衛家蔵),これらから「かかる」という兵法は,批判されているというよりはむしろ奨励されていると考えられる。この見解は山田平左衛門光徳の修行時代の覚書とされる『長沼家伝直心影流秘書』においても同様である。『長沼家伝直心影流秘書』においては,「かかる」ではなく「無二無三ニ飛込」ことが批判されている(『長沼家伝直心影流秘書』)。これら二書が山田の著作であるのに対し,ここで取り上げた『長沼分家伝直心影流伝書』は,その中に山田平左衛門光徳の後を継承した長沼四郎左衛門国郷の名が記されており,『兵法雑記』『長沼家伝直心影流秘書』

40 近世剣術の剣術観に関する一考察

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より後代の伝書であると言える。したがって,ここは同じ歌の中で批判される兵法に対しての見解が変化していると考えるべきである。しかし,「表裏」に関しては,何れの書においても批判されていることは間違いない。

15)『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.

16)『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.

17)正式名称は新陰流であるが,柳生家に伝わった新陰流という意でこの俗称が用いられる。

18)前林清和『近世日本武芸思想の研究』人文書院,p215,2006,参照.

19)源了圓『型』創文社,p200,1989.20)富永氏は小笠原源信斎も元来は上泉伊勢

守の弟子であり,上泉の高弟であった奥山に小笠原源信斎が就いて学んだのではないかと述べている(富永堅吾『剣道五百年史』(復刻新版)島津書房,p118,1996,参照.)。小笠原源信斎も上泉からある程度,剣術の指南を受けていたと考えられ,新陰流の中心的兵法である「表裏」に触れた可能性は高いといえる。

21)柳生宗矩著・渡辺一郎校注『兵法家伝書』岩波文庫,pp32―33,1985.

22)『長沼家伝直心影流秘書』写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.

23)「悪シキトハ請ツハツシツ付ヒヤウリ至極ハカゝレ先ハ楽レ極」と記されている(『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵.)。

24)儒教で,人の常に守るべき五種の道徳を指す(新村出編『広辞苑第六版』岩波店,p1015,2008,参照.)。

25)「非」とは直心流―直心正統流―直心影流の中で去るべきとされる心情のことである。『兵法雑記』においては「ガマン」「ガシン」「トンヨク」「イカリ」「ウタガヒ」「マヨイ」「ヲソレ」「アヤブミ」「アナズリ」「マンシン」がこの非にあたる

という(『兵法雑記』東京長沼正衛家蔵)。26)新村出編『広辞苑第六版』岩波書店,p

2966,2008,参照.27)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論

集 上巻』筑波大学武道文化研究会,p25,1988.

28)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集 上巻』筑波大学武道文化研究会,p77,1988.

29)『武芸流派大事典』によると,夕雲は寛文2年(1662)に70歳で死去したと述べられていることから(綿谷雪・山田忠史『武芸流派大事典』東京コピイ,p820,1978,参照.),生年は文禄元(1592)年と考えられる。

30)『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.

31)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集 上巻』筑波大学武道文化研究会,pp33―35,1988.

32)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集 上巻』筑波大学武道文化研究会,pp42―43,1988.

33)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集 上巻』筑波大学武道文化研究会,p46,1988.

34)「相ぬけ」とは夕雲流における究極の境地である。相討を批判するのであれば「相ぬけ」も批判しているということも考え得る。「相ぬけ」とは,師弟間の立ち合いにおいて「相討」を試みお互いの太刀が共に当たらない場合であるという。しかし「相ぬけ」は夕雲流の師弟一組のみが成功させることができるもので,弟子同士で行う場合は該当しないということである(前林清和「近世日本武芸思想の研究」.人文書院,p244,2006.)。したがって,「佛在世に佛は唯我獨尊にて一世に二佛は生せず。この理を以て見れば当流相弟子中にも同じやうの者一世に二人はあるべからず」とこの世で同時に二

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つの「相ぬけ」が成立することは有りえないと『夕雲流剣術書』では説かれている(『武道傳書集成・第二集剣術諸流心法論集 上巻』筑波大学武道文化研究会,p54,1988.)。したがって,極意である相ぬけを他流の人間が知り得る術はなかったと考えられる。それに対して,相討はまず手始めに教授されるものであるため,他流の人物である伝心斎がそれを知ることは比較的容易であったと推察できる。

35)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集 上巻』筑波大学武道文化研究会,p35,1988.

36)『直心影流秘書一』写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.

37)『長沼家伝直心影流秘書』写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.

38)『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵.39)全日本剣道連盟編『剣道の歴史』全日本

剣道連盟,p11,2003,参照.40)富永堅吾『剣道五百年史』(復刻新版)

島津書房,pp275,1996,参照.41)『兵法雑記』における法定の形の解説の

部分に「法定切組」とあることから形のことを意味していると考えられる(『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵)。

42)『稽古法定序幷理歌』貞享3年,東京長沼正兵衛家蔵.

43)『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵.44)『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵.45)ここでは文政3年(1820)に鹿島神伝12

代である杉本新次郎から鈴木亀五郎に授与されたものを取り扱うこととする。この書には『兵法伝記』も収録されており,これをみると,長沼四郎左衛門国郷―長沼正兵衛綱郷―藤川弥司郎衛門近義―志村弥平治という伝系を辿っており,杉本は藤川の門弟であった志村弥平治に師事したことが窺える。

46)『直心影流兵法窮理之巻』文政3年,小

田原市立図書館蔵.47)『直心影流究理之巻注解秘書』天保9年,

中京大学附属豊田図書館蔵.

〈文献表〉

神谷伝心斎『軍法非切書幷入唐目録』写,寛文3年,熊本県立図書館蔵.軽米克尊・酒井利信(2013)「直心影流の分派についての一考察:長沼派・藤川派・男谷派の試合・修練形態ならびに剣術観の分析を通して」.『武道学研究』第46巻第1号:pp1―19.川村弥五兵衛秀束『無住心剣辞足為経法集』(1725)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集上巻』(1988)所収,筑波大学武道文化研究会,p77.小出切一雲『夕雲流剣術書』(1686)『武道伝書集成・第二集剣術諸流心法論集上巻』(1988)所収,筑波大学武道文化研究会,p25,pp33―35,pp42―43,p46,p54.『直心影流秘書一』写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.新村出(2008)『広辞苑第六版』.岩波書店,p1015,p2966.杉本新次郎『直心影流兵法窮理之巻』文政3年,小田原市立図書館蔵.全日本剣道連盟編(2008)『剣道指導要領』.全日本剣道連盟,p5.全日本剣道連盟編(2003)『剣道の歴史』全日本剣道連盟,p11,p126,pp292―294.高橋弾正左衛門重治『稽古法定序幷理歌』貞享3年,東京長沼正兵衛家蔵.田代正容『直心影流究理之巻注解秘書』天保9年,中京大学附属豊田図書館蔵.富永堅吾(1996)『剣道五百年史』(復刻新版)島津書房,p118,p275,p325.『長沼家伝直心影流秘書』写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.『長沼分家伝直心影流伝書』写,鈴鹿家文書,全日本剣道連盟蔵.中林信二(1987)『武道のすすめ』.中林信二

42 近世剣術の剣術観に関する一考察

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先生遺作集刊行会,pp224―225.源了圓(1989)『型』.創文社,p200.前林清和(2006)『近世日本武芸思想の研究』.人文書院,p215.柳生宗矩著(1632)・渡辺一郎校注(1985)『兵法家伝書』岩波文庫,pp32―33.山田平左衛門光徳『兵法雑記』東京長沼正兵衛家蔵.綿谷雪・山田忠史(1978)『武芸流派大事典』.東京コピイ,p820.

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