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Page 1: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

君きみ

見み

ずや

絶學

ぜつがく

無爲

の閑か

道人

どうにん

妄想

もうぞう

を除の

かず眞し

を求も

めず

無明

むみょう

の實じ

性しょう

卽そ

佛ぶっ

性しょう

幻化

の空身

くうしん

卽法

そくほっ

身しん

君は会ったことないかもはや学ぶこともなく為すべきこともない閑人に

妄想を除こうともせず真実をも求めない(言葉によって)明らかにならない

この現実こそが佛の正体であるといい幻のように変化するこの身こそが佛の

身体であるという

永嘉大師

永嘉玄覺大師(‐七一三)六祖慧能に参じる

永嘉大師證道歌

法ほっ

身しん

覺了

かくりょう

すれば無一物

むいちもつ

本源

ほんげん

自性

じしょう

天眞佛

てんしんぶつ

五ご

陰おん

の浮雲

は空く

去來

三毒

さんどく

の水泡

すいほう

は虛き

出沒

しゅつぼつ

佛の身を悟り切ってみれば私たちが元来所有しているものは何もないという

ことに気付くもともとの自分自身のありようこそが本来の佛なのであるし

かし(悟ったからといって)この世界や心の働きが無くなったわけではなく浮

雲のように行ったり来たりしているし貪瞋痴の煩悩も水の泡のごとく出没し

ている

法身

佛の身体

自性

自分自身のありよう

天眞

本来

五陰

五蘊色(現象の世界)受(感覚知覚の世界)

想(概念の世界)行(意思の世界)

識(心の主体としての六識)

三毒

悟りの障害となる三つの煩悩

貪瞋痴(とんじんち‐むさぼり怒り無知)

永嘉大師證道歌

實相

じっそう

證しょう

すれば人法

にんぽう

無な

刹那

に滅却

めっきゃく

す阿鼻

の業ご

若も

し妄語

を將も

て衆生

しゅじょう

誑まどは

さば

自みずか

ら拔ば

舌ぜつ

を招ま

くこと塵沙

じんしゃ

劫ごう

ならん

(悟って)本当のことを証明してみればそこには人間界の取決めなどは何も

無い無間地獄に堕ちるような所業も一瞬のうちに消え去ってしまったしか

しでたらめなことを言って人々を惑わすようならばみずからずっと(閻魔さ

まに)舌をぬかれてしまうだろう

人法

人の世の取決め

刹那

短い時間の単位

阿鼻

無間地獄極苦最悪の地獄

報いを生じる元となる行為身口意善悪などに分類される

塵沙劫

ちりとすなのように多い劫(長い時間の単位)無限の長時間

永嘉大師證道歌

頓とん

に如來

にょらい

禪ぜん

を覺か

了りょう

すれば

六度

萬行

まんぎょう

體中

たいちゅう

圓まどか

なり

夢裡

明明

めいめい

として六ろ

趣しゅ

有あ

覺さ

めて後の

空空

くうくう

として大だ

千せん

も無な

一瞬に如来の禅を悟ってみれば六つの智慧による一切の善行が体の中に満

ち満ちていた妄想の世界には明かに天国や地獄があるだろうしかし妄想か

ら覚めてみるとそこには何もなくこの世界さえないのだ

六度

六波羅蜜布施持戒忍辱精進静慮智慧

萬行

一切の善行

夢裡

妄想の世界

六趣

衆生の輪廻する世界天上人間修羅畜生餓鬼地獄

大千

三千大千世界この世の様々な世界

永嘉大師證道歌

罪ざい

福ふく

も無な

く損益

そんえき

も無な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

問覓

もんみゃく

すること莫な

比來

の塵じ

鏡きょう

未いま

だ曾か

て磨ま

さず

今日

こんにち

分明

ふんみょう

須すべか

らく剖析

ほうしゃく

すべし

ここには罪とか福とかもなく損や得もないいまこここそが悟りの境地な

のだから何かを他に探し求めてはならない近ごろ塵が積もってしまった鏡も

いまだかつて磨いたことなどはない今日そんな鏡などはきれいに断ち割って

しまえ

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

問覓

探し求めること

比來

近ごろ

塵鏡

塵の積もった鏡神秀上座は塵が着かないよう心の鏡を磨いた

六祖は塵など積もるところはないと言った

分明

明かに

剖析

断ち割る

永嘉大師證道歌

誰た

れか無念

誰た

れか無生

むしょう

若も

し實じ

に無生

むしょう

ならば不生

ふしょう

も無な

機關

木人

ぼくじん

を喚か

取しゅ

して問と

佛ほとけ

を求も

め功こ

施ほどこ

さば早晩

成じょう

ぜん

誰が心を動じないというのだろうか誰が世の中の生滅の相から離れている

というのだろうかもしほんとうに離れているならば世の中の生滅の相を敢え

て否定することもないだろう佛道の関門については木の人形でも呼び出して

問うたらよい佛を求め修行に功夫をしていれば遅かれ早かれ道は成ずるもの

なのである

無念

念は対象に対して心を動かすこと無は所有しないこと

無生

生は世間生滅の相世間生滅の相を所有しない

不生

世間生滅の相を否定する

機關

学人を導くために機に応じて設けた関門

木人

木で出来た人形

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 2: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

法ほっ

身しん

覺了

かくりょう

すれば無一物

むいちもつ

本源

ほんげん

自性

じしょう

天眞佛

てんしんぶつ

五ご

陰おん

の浮雲

は空く

去來

三毒

さんどく

の水泡

すいほう

は虛き

出沒

しゅつぼつ

佛の身を悟り切ってみれば私たちが元来所有しているものは何もないという

ことに気付くもともとの自分自身のありようこそが本来の佛なのであるし

かし(悟ったからといって)この世界や心の働きが無くなったわけではなく浮

雲のように行ったり来たりしているし貪瞋痴の煩悩も水の泡のごとく出没し

ている

法身

佛の身体

自性

自分自身のありよう

天眞

本来

五陰

五蘊色(現象の世界)受(感覚知覚の世界)

想(概念の世界)行(意思の世界)

識(心の主体としての六識)

三毒

悟りの障害となる三つの煩悩

貪瞋痴(とんじんち‐むさぼり怒り無知)

永嘉大師證道歌

實相

じっそう

證しょう

すれば人法

にんぽう

無な

刹那

に滅却

めっきゃく

す阿鼻

の業ご

若も

し妄語

を將も

て衆生

しゅじょう

誑まどは

さば

自みずか

ら拔ば

舌ぜつ

を招ま

くこと塵沙

じんしゃ

劫ごう

ならん

(悟って)本当のことを証明してみればそこには人間界の取決めなどは何も

無い無間地獄に堕ちるような所業も一瞬のうちに消え去ってしまったしか

しでたらめなことを言って人々を惑わすようならばみずからずっと(閻魔さ

まに)舌をぬかれてしまうだろう

人法

人の世の取決め

刹那

短い時間の単位

阿鼻

無間地獄極苦最悪の地獄

報いを生じる元となる行為身口意善悪などに分類される

塵沙劫

ちりとすなのように多い劫(長い時間の単位)無限の長時間

永嘉大師證道歌

頓とん

に如來

にょらい

禪ぜん

を覺か

了りょう

すれば

六度

萬行

まんぎょう

體中

たいちゅう

圓まどか

なり

夢裡

明明

めいめい

として六ろ

趣しゅ

有あ

覺さ

めて後の

空空

くうくう

として大だ

千せん

も無な

一瞬に如来の禅を悟ってみれば六つの智慧による一切の善行が体の中に満

ち満ちていた妄想の世界には明かに天国や地獄があるだろうしかし妄想か

ら覚めてみるとそこには何もなくこの世界さえないのだ

六度

六波羅蜜布施持戒忍辱精進静慮智慧

萬行

一切の善行

夢裡

妄想の世界

六趣

衆生の輪廻する世界天上人間修羅畜生餓鬼地獄

大千

三千大千世界この世の様々な世界

永嘉大師證道歌

罪ざい

福ふく

も無な

く損益

そんえき

も無な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

問覓

もんみゃく

すること莫な

比來

の塵じ

鏡きょう

未いま

だ曾か

て磨ま

さず

今日

こんにち

分明

ふんみょう

須すべか

らく剖析

ほうしゃく

すべし

ここには罪とか福とかもなく損や得もないいまこここそが悟りの境地な

のだから何かを他に探し求めてはならない近ごろ塵が積もってしまった鏡も

いまだかつて磨いたことなどはない今日そんな鏡などはきれいに断ち割って

しまえ

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

問覓

探し求めること

比來

近ごろ

塵鏡

塵の積もった鏡神秀上座は塵が着かないよう心の鏡を磨いた

六祖は塵など積もるところはないと言った

分明

明かに

剖析

断ち割る

永嘉大師證道歌

誰た

れか無念

誰た

れか無生

むしょう

若も

し實じ

に無生

むしょう

ならば不生

ふしょう

も無な

機關

木人

ぼくじん

を喚か

取しゅ

して問と

佛ほとけ

を求も

め功こ

施ほどこ

さば早晩

成じょう

ぜん

誰が心を動じないというのだろうか誰が世の中の生滅の相から離れている

というのだろうかもしほんとうに離れているならば世の中の生滅の相を敢え

て否定することもないだろう佛道の関門については木の人形でも呼び出して

問うたらよい佛を求め修行に功夫をしていれば遅かれ早かれ道は成ずるもの

なのである

無念

念は対象に対して心を動かすこと無は所有しないこと

無生

生は世間生滅の相世間生滅の相を所有しない

不生

世間生滅の相を否定する

機關

学人を導くために機に応じて設けた関門

木人

木で出来た人形

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 3: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

實相

じっそう

證しょう

すれば人法

にんぽう

無な

刹那

に滅却

めっきゃく

す阿鼻

の業ご

若も

し妄語

を將も

て衆生

しゅじょう

誑まどは

さば

自みずか

ら拔ば

舌ぜつ

を招ま

くこと塵沙

じんしゃ

劫ごう

ならん

(悟って)本当のことを証明してみればそこには人間界の取決めなどは何も

無い無間地獄に堕ちるような所業も一瞬のうちに消え去ってしまったしか

しでたらめなことを言って人々を惑わすようならばみずからずっと(閻魔さ

まに)舌をぬかれてしまうだろう

人法

人の世の取決め

刹那

短い時間の単位

阿鼻

無間地獄極苦最悪の地獄

報いを生じる元となる行為身口意善悪などに分類される

塵沙劫

ちりとすなのように多い劫(長い時間の単位)無限の長時間

永嘉大師證道歌

頓とん

に如來

にょらい

禪ぜん

を覺か

了りょう

すれば

六度

萬行

まんぎょう

體中

たいちゅう

圓まどか

なり

夢裡

明明

めいめい

として六ろ

趣しゅ

有あ

覺さ

めて後の

空空

くうくう

として大だ

千せん

も無な

一瞬に如来の禅を悟ってみれば六つの智慧による一切の善行が体の中に満

ち満ちていた妄想の世界には明かに天国や地獄があるだろうしかし妄想か

ら覚めてみるとそこには何もなくこの世界さえないのだ

六度

六波羅蜜布施持戒忍辱精進静慮智慧

萬行

一切の善行

夢裡

妄想の世界

六趣

衆生の輪廻する世界天上人間修羅畜生餓鬼地獄

大千

三千大千世界この世の様々な世界

永嘉大師證道歌

罪ざい

福ふく

も無な

く損益

そんえき

も無な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

問覓

もんみゃく

すること莫な

比來

の塵じ

鏡きょう

未いま

だ曾か

て磨ま

さず

今日

こんにち

分明

ふんみょう

須すべか

らく剖析

ほうしゃく

すべし

ここには罪とか福とかもなく損や得もないいまこここそが悟りの境地な

のだから何かを他に探し求めてはならない近ごろ塵が積もってしまった鏡も

いまだかつて磨いたことなどはない今日そんな鏡などはきれいに断ち割って

しまえ

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

問覓

探し求めること

比來

近ごろ

塵鏡

塵の積もった鏡神秀上座は塵が着かないよう心の鏡を磨いた

六祖は塵など積もるところはないと言った

分明

明かに

剖析

断ち割る

永嘉大師證道歌

誰た

れか無念

誰た

れか無生

むしょう

若も

し實じ

に無生

むしょう

ならば不生

ふしょう

も無な

機關

木人

ぼくじん

を喚か

取しゅ

して問と

佛ほとけ

を求も

め功こ

施ほどこ

さば早晩

成じょう

ぜん

誰が心を動じないというのだろうか誰が世の中の生滅の相から離れている

というのだろうかもしほんとうに離れているならば世の中の生滅の相を敢え

て否定することもないだろう佛道の関門については木の人形でも呼び出して

問うたらよい佛を求め修行に功夫をしていれば遅かれ早かれ道は成ずるもの

なのである

無念

念は対象に対して心を動かすこと無は所有しないこと

無生

生は世間生滅の相世間生滅の相を所有しない

不生

世間生滅の相を否定する

機關

学人を導くために機に応じて設けた関門

木人

木で出来た人形

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 4: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

頓とん

に如來

にょらい

禪ぜん

を覺か

了りょう

すれば

六度

萬行

まんぎょう

體中

たいちゅう

圓まどか

なり

夢裡

明明

めいめい

として六ろ

趣しゅ

有あ

覺さ

めて後の

空空

くうくう

として大だ

千せん

も無な

一瞬に如来の禅を悟ってみれば六つの智慧による一切の善行が体の中に満

ち満ちていた妄想の世界には明かに天国や地獄があるだろうしかし妄想か

ら覚めてみるとそこには何もなくこの世界さえないのだ

六度

六波羅蜜布施持戒忍辱精進静慮智慧

萬行

一切の善行

夢裡

妄想の世界

六趣

衆生の輪廻する世界天上人間修羅畜生餓鬼地獄

大千

三千大千世界この世の様々な世界

永嘉大師證道歌

罪ざい

福ふく

も無な

く損益

そんえき

も無な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

問覓

もんみゃく

すること莫な

比來

の塵じ

鏡きょう

未いま

だ曾か

て磨ま

さず

今日

こんにち

分明

ふんみょう

須すべか

らく剖析

ほうしゃく

すべし

ここには罪とか福とかもなく損や得もないいまこここそが悟りの境地な

のだから何かを他に探し求めてはならない近ごろ塵が積もってしまった鏡も

いまだかつて磨いたことなどはない今日そんな鏡などはきれいに断ち割って

しまえ

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

問覓

探し求めること

比來

近ごろ

塵鏡

塵の積もった鏡神秀上座は塵が着かないよう心の鏡を磨いた

六祖は塵など積もるところはないと言った

分明

明かに

剖析

断ち割る

永嘉大師證道歌

誰た

れか無念

誰た

れか無生

むしょう

若も

し實じ

に無生

むしょう

ならば不生

ふしょう

も無な

機關

木人

ぼくじん

を喚か

取しゅ

して問と

佛ほとけ

を求も

め功こ

施ほどこ

さば早晩

成じょう

ぜん

誰が心を動じないというのだろうか誰が世の中の生滅の相から離れている

というのだろうかもしほんとうに離れているならば世の中の生滅の相を敢え

て否定することもないだろう佛道の関門については木の人形でも呼び出して

問うたらよい佛を求め修行に功夫をしていれば遅かれ早かれ道は成ずるもの

なのである

無念

念は対象に対して心を動かすこと無は所有しないこと

無生

生は世間生滅の相世間生滅の相を所有しない

不生

世間生滅の相を否定する

機關

学人を導くために機に応じて設けた関門

木人

木で出来た人形

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 5: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

罪ざい

福ふく

も無な

く損益

そんえき

も無な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

問覓

もんみゃく

すること莫な

比來

の塵じ

鏡きょう

未いま

だ曾か

て磨ま

さず

今日

こんにち

分明

ふんみょう

須すべか

らく剖析

ほうしゃく

すべし

ここには罪とか福とかもなく損や得もないいまこここそが悟りの境地な

のだから何かを他に探し求めてはならない近ごろ塵が積もってしまった鏡も

いまだかつて磨いたことなどはない今日そんな鏡などはきれいに断ち割って

しまえ

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

問覓

探し求めること

比來

近ごろ

塵鏡

塵の積もった鏡神秀上座は塵が着かないよう心の鏡を磨いた

六祖は塵など積もるところはないと言った

分明

明かに

剖析

断ち割る

永嘉大師證道歌

誰た

れか無念

誰た

れか無生

むしょう

若も

し實じ

に無生

むしょう

ならば不生

ふしょう

も無な

機關

木人

ぼくじん

を喚か

取しゅ

して問と

佛ほとけ

を求も

め功こ

施ほどこ

さば早晩

成じょう

ぜん

誰が心を動じないというのだろうか誰が世の中の生滅の相から離れている

というのだろうかもしほんとうに離れているならば世の中の生滅の相を敢え

て否定することもないだろう佛道の関門については木の人形でも呼び出して

問うたらよい佛を求め修行に功夫をしていれば遅かれ早かれ道は成ずるもの

なのである

無念

念は対象に対して心を動かすこと無は所有しないこと

無生

生は世間生滅の相世間生滅の相を所有しない

不生

世間生滅の相を否定する

機關

学人を導くために機に応じて設けた関門

木人

木で出来た人形

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 6: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

誰た

れか無念

誰た

れか無生

むしょう

若も

し實じ

に無生

むしょう

ならば不生

ふしょう

も無な

機關

木人

ぼくじん

を喚か

取しゅ

して問と

佛ほとけ

を求も

め功こ

施ほどこ

さば早晩

成じょう

ぜん

誰が心を動じないというのだろうか誰が世の中の生滅の相から離れている

というのだろうかもしほんとうに離れているならば世の中の生滅の相を敢え

て否定することもないだろう佛道の関門については木の人形でも呼び出して

問うたらよい佛を求め修行に功夫をしていれば遅かれ早かれ道は成ずるもの

なのである

無念

念は対象に対して心を動かすこと無は所有しないこと

無生

生は世間生滅の相世間生滅の相を所有しない

不生

世間生滅の相を否定する

機關

学人を導くために機に応じて設けた関門

木人

木で出来た人形

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 7: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四大

を放は

って把捉

すること莫な

寂滅

じゃくめつ

しょうちゅう

隨したが

って

いんたく

飮啄

おんたく

せよ

諸行

しょぎょう

は無常

むじょう

にして一切

いっさい

空くう

なり

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の大圓覺

だいえんがく

あらゆるものを駆使して捉えようとしてはならない悟りの境地のまっただ

なかにいるのだからそこで飲み食いしていけばよいすべてのことに磐石のこ

とはないしもともと意味などないのだしかしそここそが釈尊の悟りなのであ

四大

四つの元素地水火風全身

把捉

捉える

寂滅性中

寂滅は悟りの境地のこと

飮啄

鳥が水を飲み餌を啄ばむ人間の飲み食いの生活

如來

悟りを開いた者釈尊

圓覺

悟り

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 8: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

決定

けつじょう

の説せ

は眞し

僧そう

表ひょう

人ひと

あり

肯うけが

はずんば

情じょう

に任ま

せて

懲ちょう

せよ

直じき

に根源

こんげん

を截き

るは

佛ほとけ

の印い

する

所ところ

葉は

を摘つ

み枝え

を尋た

ぬるは我わ

能あた

はず

(悟りへ)決着する佛の説得は本当の自分自身を明らかにするどうしても

納得しない人がいたら感情に任せて懲らしめてやりなさい直接に(私の)根

源を捨て去ることは諸佛の証明してきたところである(私の根源を截らないで)

枝葉末節を摘み取ったり求めたりしてもどうにもならないのである

決定

決着すること悟り

眞僧

本来の自己

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 9: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

摩ま

尼に

珠じゅ

人ひと

識し

らず

如來

にょらい

藏裡

に親し

しく

収しゅう

得とく

六般

ろっぱん

の神用

しんよう

空くう

不空

一顆

の圓え

光こう

色しき

非色

宝の珠のことを人は知らないしかし人はふところのうちに親しく抱えてい

る(悟りを開いた人の)何ごとにも左右されない目や耳のはたらきもあるよう

なないような(悟りを開いた人の)すべてを照らす後光もあるんだかないんだ

摩尼珠

宝珠本来の自己

六般の神用

眼耳鼻舌身意が色声香味触法を把捉するのになにものにも妨げ

られず汚されないで自由自在に働くこと

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 10: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五眼

を淨き

うし五力

を得う

唯た

證しょう

して

乃すなは

ち知し

る測は

るべきこと難か

鏡裡

きょうり

形かたち

を看み

る見み

ること難か

からず

水中

すいちゅう

に月つ

を捉と

ふ爭い

でか拈ね

得とく

せん

菩薩の眼をもって欺怠瞋恨怨を克服する力を得るのだが悟ってか

ら知ったのは悟っていないものには(その眼がどういうものか)推し測ること

が難しいということだ鏡の中に形を見ることは難しくないのだが水に映っ

た月を捉えることはできないのである

五眼

肉眼天眼慧眼法眼佛眼菩薩は肉眼で衆生の苦患を見

天眼を得て衆生の身心の苦を見慧眼を得て衆生の身心の種々

不同なるを見法眼を得て衆生を導き佛眼を生じ佛となる

五力

信精進念定知慧の力によって欺怠瞋恨怨を克

服する

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 11: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十一

常つね

に獨ひ

り行ゆ

き常つ

に獨ひ

り歩ほ

達者

たっしゃ

同おな

じく遊あ

ぶ涅槃

の路み

調しら

べ古ふ

り神し

淸きよ

うして風ふ

自おのずか

ら高た

貌かたち

顇かじ

け骨ほ

剛かと

う13

して人ひ

顧かえり

みず

常にひとりで行きひとりで歩むのだ佛道に達したものはみな同じく悟り

の境地に遊んでいる言うことは古いことだが心は淸く風情はおのずと高貴

であるだが容貌はやつれて骨がごつごつとしていて誰も人はかえりみない

涅槃

語源のニルヴァーナは吹き消す意貪瞋痴の三毒煩悩の火の吹

き消された状態を言う寂滅悟りの境地

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 12: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十二

窮釋子

ぐうしゃくし

口くち

に貧ひ

稱しょう

實じつ

に是こ

れ身み

貧ひん

にして道ど

貧ひん

ならず

貧ひん

なれば

則すなは

ち身み

常つね

に縷褐

を被ひ

道どう

あれば

心こころ

に無價

の珍ち

を藏お

貧窮の佛弟子は口々に貧と言っているまさに身なりは貧だけれど道に貧で

はない貧であれば身にいつもぼろきれをまとっていればよい道があれば心

の中に値をつけようもない宝をおさめているのである

釋子

釋迦の弟子

縷褐

ぼろきれ

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 13: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十三

無價

珍たから

は用も

ふれども盡つ

くること無な

物もの

を利り

し縁え

に應お

じて終つ

に怯お

まず

三身

さんしん

四智

體中

たいちゅう

に圓ま

かなり

八はち

解げ

六通

ろくつう

心地

に印い

もともと価値のないほんとうの宝物はいくら使っても尽きることはない他

に利益を与えても機縁に応じて惜しむことはない三つ佛身も四つの佛の智慧

ももともと体の中に満ちている八つの解脱も六つの神通力も以前から心の中

に記されているのだ

三身

そのままの佛身である法身因に報いて現れる報身衆生の機

縁に応じて現れる応身

四智

真実を照らす大圓鏡智一切の平等を悟る平等性智対象をよ

く観察する妙観察智衆生のためにする成所作智

八解

さまざまの欲から解脱すること

六通

身体を意のままに自由にする神足通来世における運命を知る

天眼通聞こえない音を聴く天耳通他人の心を知る他心通

他人の過去の運命を知る宿命通涅槃の境地を悟る漏尽通

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 14: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十四

上士

じょうし

は一決

いっけつ

して一切

いっさい

了りょう

中下

ちゅうげ

は多聞

なれども多お

く信し

ぜず

但た

自みづか

ら懷か

中ちゅう

に垢く

衣え

を解と

誰たれ

か能よ

く外ほ

に向む

って

精しょう

進じん

に誇ほ

らん

すぐれた人は一度決着したらすべてを了解するそうでもない人はよく話を

聴くけれどもほとんど信じることがないただ自分自身のふところの中で垢に

まみれた衣を脱げばよいだれが人に対して一生懸命の修行を誇るというのだ

ろうか

上士

すぐれた修行者

精進

専一に修行すること

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 15: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十五

他た

の謗ぼ

するに從ま

す他た

の非ひ

するに任ま

火ひ

を把と

って天て

を燒や

く徒た

に自み

から疲つ

我われ

聞き

いて

恰あたか

も甘露

を飮の

むが如ご

銷融

しょうゆう

して頓と

に不思議

に入い

人が誹謗するなら誹謗するに任せておけばよいそれは火で天を焼くような

もので自分自身で徒労に気づくだろう私はその誹謗を聞いても甘露の水を飲

むようなものである誹謗などは消え去って思慮分別の及ばない境地に至る

銷融

消えてなくなる

不思議

思慮分別の及ばないところ

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 16: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十六

惡あく

言ごん

は是こ

れ功徳

なりと觀か

ずれば

此こ

卽すなわ

ち吾わ

が善ぜ

知識

と成な

訕せん

謗ぼう

に因よ

って怨お

親しん

を起お

さざれば

何なん

ぞ無生

むしょう

慈じ

忍にん

力ちから

表ひょう

せん

悪口も善行の結果なのだから私にとって良い指導となる誹謗中傷によって

怨みを持つ人には慈悲の心を起こさないというならばどうやってもともと持

っている慈悲忍従の力を発揮するというのだろうか

功徳

良い行いの報い

善智識

すぐれた指導者

誹謗中傷

怨親

怨親平等怨憎を持つ人々に対しても親愛する人々に対しても

差別することなく慈悲の念を持って接すること

無生慈忍

無生はもともと持っているもの慈忍は慈悲忍従

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 17: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十七

宗しゅう

も亦ま

通つう

じ説せ

も亦ま

通つう

定慧

じょうえ

圓えん

明みょう

にして空く

滯とどこほ

らず

但た

だ吾わ

今いま

獨ひと

り達た

了りょう

するのみに非あ

恆沙

ごうしゃ

の諸佛體

しょぶったい

皆みな

同おな

本来のことにも通じ説法も本来のことに通じている坐禅の力も智慧も備わ

り空などという思想などにはこだわらないただ私一人がいまそのことに達し

ているというのではなくガンジス川の砂ほども多い諸佛と言われる方々はみ

な私と同じである

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

恆沙

恆河沙ガンジス川の砂数え切れないほど多いことのたとえ

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 18: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十八

獅子吼

無畏

の説せ

ひゃくじゅう

之これ

を聞き

いて皆み

な腦裂

のうれつ

香こう

象ぞう

奔破

するも威い

を失却

しつきゃく

天龍

てんりゅう

寂しず

かに聽き

いて欣悅

ごんえつ

生しょう

獅子が吼えるような何ものをも怖れない佛の説法はすべての獣たちもそれ

を聞いてみな脳みそが張り裂けてしまう象が踏みつぶそうとして暴れても佛

の説法の前には威厳を失ってしまうが天に住む龍は静かに聞いて喜びを感ず

獅子吼

獅子が吼えるような佛の説法

無畏

畏れるところのない

欣悅

よろこび

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 19: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

十九

江こう

海かい

に遊あ

び山川

さんせん

を渉わ

師し

を尋た

ね道ど

訪とむら

ふて參禪

さんぜん

を爲な

曹谿

そうけい

の路み

を認に

得とく

してより

生死

しょうじ

相あひ

關あづか

らざることを了知

りょうち

大河大海を歩き回り山や川を渡り歩いて師を尋ね道を求め禅に参じて来た

しかし六祖大鑑慧能禅師の佛道を知ってからは生死などたいしたことではない

と解った

曹谿

六祖大鑑慧能禅師は曹谿寶林寺を中心に法筵を開いた

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 20: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿

行ぎょう

も亦ま

禪ぜん

坐ざ

も亦ま

禪ぜん

語默

動靜

どうじょう

體たい

安然

あんねん

縱たと

ひ鋒ほ

刀とう

に遇あ

ふとも常つ

に坦坦

たんたん

假饒

毒藥

どくやく

も亦ま

間間

かんかん

行ずることも禅であり坐することも禅である語るときも黙するときも動

いているときも静かにしているときもその姿は安らかだたとえ刀の切っ先を

突きつけられても平気であるまたたとえ毒薬を盛られても気にしない

鋒刀

鋒はほこさき切っ先のこと

毒薬

達磨大師は毒殺されたという説がある

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 21: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿一

我師

然燈佛

ねんとうぶつ

に見ま

ゆることを得え

多劫

曾かつ

て忍辱仙

にんにくせん

と爲な

幾囘

いくたび

生しょう

じ幾囘

いくたび

か死し

生死

しょうじ

悠々

ゆうゆう

として定止

じょうし

無な

釈尊が然燈佛に出会って成佛の予言を受けたように私も正師に出会うことが

できて長い間真の修行をつとめてきたその修行は死んでは生き返るようなこ

とであったが生も死も悠々と巡るものでありとどまることのないものなので

ある

然燈佛

釈迦が菩薩のときに然燈佛から成佛の予言を受けたと

される

多劫

劫は長い時間のこと

忍辱仙

釈迦が菩薩としての修行をしていたときの名前

定止

止まること

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 22: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿二

頓とん

に無生

むしょう

を悟ご

了りょう

してより

諸もろもろ

の榮辱

えいじょく

に於お

て何な

ぞ憂喜

せむ

深山

しんざん

に入い

り蘭ら

若にゃ

住じゅう

岑崟

しんきん

幽邃

ゆうすい

たり

ちょうしょう

の下も

本来のことに気づいてみればさまざまな人生の浮き沈みに一喜一憂するこ

となどもともとないのだいまは深山に分け入り寺に住んでいるここは険し

い山々の奥深く物静かな古い大きな松の木の下である

蘭若

寺院精舎の異称

岑崟

岑も崟も山の険しい様子

幽邃

奥深くてものしずかなこと

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 23: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿三

優遊

ゆうゆう

として

靜じょう

坐ざ

す野や

僧そう

が家い

闃げき

寂せき

たる安居

實じつ

に瀟洒

しょうしゃ

覺かく

すれば

卽すなわ

了りょう

じて功こ

施ほどこ

さず

一切

いっさい

有爲

の法ほ

と同お

じからず

寺という私の家で気楽に静かに坐しているひっそりと静かな修行はまこと

にさっぱりとして淸らかである悟ってみればすべてに決着がついて何かに功

をたてることもない佛法はこの世の「何かをなさねばならぬ」という決まり

ごととは同じではないのだ

野僧

出家者の一人称

闃寂

闃は静かということひっそり静か

安居

寺での修行

瀟洒

さっぱりと淸らか

有爲

作為のある

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 24: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿四

住相

じゅうそう

の布施

は生天

しょうてん

の福ふ

猶な

ほ箭や

を仰あ

いで虛空

を射い

るが如ご

勢力

せいりき

盡つ

きぬれば箭や

還かえ

って墜お

來生

らいしょう

の不如意

を招ま

き得え

たり

布施などの善行もそれに固執してはこの世での一時的な福に過ぎない矢で

上に向かって虛空を射るようなものである矢の勢いが尽きてしまえば矢はお

ちてしまうようにあの世での不如意を招いてしまう

住相

とどまること

布施

寺や僧に金銭や品物を施す善行

生天

この世

來生

あの世

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 25: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿五

爭いかで

か似し

かん無爲

實相

じっそう

の門も

一超

いっちょう

直入

じきにゅう

如來地

にょらいち

なるに

但た

だ本も

を得え

て末す

を愁う

ふること莫な

淨じょう

瑠璃

に寶ほ

月がつ

を含ふ

むが如ご

もうすでに如来の境地にいるのだから手のつけようのないありのままのこの

佛法にまさるものはないほんとうのことを手にしているのに末節のことを心

配することはない誰もが淸らかな瑠璃の入れ物の中に宝の珠を持っているよ

うなものである

實相

真実ありのままのすがた

一超直入

回り道をせず一足飛びにそのものの中に入ること

淨瑠璃

淸らかな瑠璃の入れ物

寶月

宝の月(珠)本来の自己

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 26: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿六

我わ

れ今い

此こ

の如意

珠じゅ

を解げ

自利

利他

終つい

に歇つ

きず

江こう

月げつ

照てら

し松風

しょうふう

吹ふ

永えい

夜や

の淸せ

宵しょう

何なん

の所爲

私は今この意の如くなる宝の珠のことを解ったそれが自分の利益になるの

か他人の利益になるとか議論しても始まらない江上の月は煌々と照っている

し松林の間を風が吹き抜けているこの長い夜の淸らかな宵いはいったい何故

に今ここにあるのか(答えてみよ)

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

所爲

原因

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 27: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿七

佛ぶっ

性しょう

の戒か

珠じゅ

心地

に印い

霧む

露ろ

雲うん

霞か

體たい

上しょう

の衣え

降こう

龍りゅう

の鉢は

解か

虎こ

錫しゃく

兩鈷

りょうこ

の金環

きんかん

鳴な

って歴歴

れきれき

佛の珠は心に刻まれているし霧も露も雲も霞も身につける衣服のようなも

のであるそして龍を引きずり下ろす鉢を持ち猛虎をなだめる錫杖をつく

手に持つ両鈷の金環はいつでも鳴り響いている

兩鈷

密教で使う佛具の一種

歴歴

明白なこと

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 28: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿八

是こ

形かたち

標ひょう

して虛む

しく事持

するにあらず

如來

にょらい

の寶ほ

杖じょう

親した

しく

蹤しょう

跡せき

眞しん

をも求も

めず妄も

をも斷だ

ぜず

二法

空くう

にして無相

なることを了知

りょうち

それらの鉢や錫杖は形を見せるだけのために無駄に持っているのではない

佛の宝の杖をそのままに受け継いでいるのである真実など求めない妄想も

断ち切ることはない真実も妄想ももともとどうでもよいものだということを

知っているのである

二法

ここでは真と妄

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 29: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

廿九

無相

は空く

なく不空

もなし

卽すなわ

ち是こ

れ如來

にょらい

の眞し

實相

じっそう

心しん

鏡きょう

明あきら

かに

鑑かんが

みて碍さ

り無な

廓かく

然ねん

として瑩徹

けいてっ

して沙界

しゃかい

周あまね

真実の相も嘘の相もないということはそこには空もなくそれでは不空かと

いうと不空ということもないそのことこそが佛の真実の相なのである私た

ちの心も顧みれば明かに何の嘘もないからりとして佛の光がこの世界に行き

渡っているのである

廓然

からりと開けたさま

玉の周囲に発散する光

沙界

裟婆世界この世

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 30: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

萬ばん

象ぞう

森羅

影中

かげなか

に現げ

一顆

の圓え

光こう

内外

に非あ

豁達

かったつ

の空く

は因果

を撥は

莽莽蕩蕩

もうもうとうとう

として殃過

を招ま

森羅万象はその佛の光の中に現れている一つの光といってもその光の内だ

とか外だとかいうのではない意味から離れた空は因果など吹き飛ばしてしま

うがぼんやりしていると災禍を招いてしまう

豁達

のびやかでものごとに拘泥しない心情

莽莽

ひろびろとしたさま

蕩蕩

心がゆったりしたさま

殃過

災禍

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 31: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗一

有う

を棄す

て空く

に著つ

病やまい

亦また

然しか

還かえ

って溺で

を避さ

けて火ひ

に投と

ずるが如ご

妄もう

心しん

を捨す

て眞し

理り

を取と

取捨

しゅしゃ

の心し

巧僞

ぎょうぎ

と成な

意味から離れてすべては空だと考えてしまう坐禅の病とはまさにそのよう

なことだ水に溺れることから逃れて火に飛び込んでしまうようなものである

迷いの心を捨てて真理に走るその取捨の心が巧みな偽りとなってしまうのだ

妄心

迷妄の心偽りの心

巧僞

巧みな偽り

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 32: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗二

學がく

人にん

了りょう

せずして修行

しゅぎょう

を用も

眞まこと

に賊ぞ

を認み

めて將も

って子こ

とすることを成な

法ほう

財ざい

を損そ

し功徳

を滅め

することは

斯こ

の心し

意識

に由よ

らずと云い

ふこと莫な

是ここ

を以も

て禪ぜ

門もん

は心し

りょうきゃく

頓とん

に無生

むしょう

に入い

るは知見

力ちから

なり

坐禅を学ぶ人はそういうことが解らなくて修行を用いてしまうほんとうに

盗賊を自分の子供としているようなものであるほんとうの宝物を失い功徳

も失ってしまうのはこういう心の持ち方によるのである

まさにいまここでもってほんとうの修行者は心に決着をつけるのだそこで

本来の自己に気づくのは究極の知見のおかげである

法財

佛教でいうほんとうの宝物

功徳

善いことをした報い

無生

生でないということで今ここの生(本来の自己)を言う

知見

知見波羅蜜究極最高の知見

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 33: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗三

大だい

丈じょう

夫ぶ

慧劍

を秉と

般若

はんにゃ

鋒ほこさき

金剛

こんごう

焔ほのお

但た

だ能よ

く外道

の心し

を摧く

くのみに非あ

早はや

く曾か

て天魔

の膽た

を落卻

らっきゃく

立派な禅者は智慧の剣をもつその智慧の切っ先は金剛でできた炎のようで

あるそれは佛教以外の教えを奉ずる者を回心させるだけではなく天魔の肝

をもたたき落とす

大丈夫

大乗の根器を備える修行者

慧劍

智慧の剣

外道

佛教以外の教え

天魔

釈尊成道の時第六天の魔王が降伏した佛を邪魔する者

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 34: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗四

法ほう

雷らい

を震ふ

ひ法ほ

鼓く

を撃う

慈じ

雲うん

を布し

き甘露

を洒そ

龍りゅう

象ぞう

蹴しゅく

蹋とう

潤うるほ

ひ無邊

三乘

さんじょう

五性

ごしょう

皆み

な醒せ

悟ご

雷がとどろき太鼓がとどろくような説法をして慈悲の雲を敷き甘露をそそ

ぐ巨象がけり合うような錬磨の修行はそのうるおい限りない本来悟ること

のできないような人もみな悟ってしまうのである

龍象蹴蹋

巨象同士のけり合い越格の力量の修行者が参集して錬磨する

こと

三乘

声聞乗縁覚乗菩薩乗前二者は小乗のため悟れない

五性

衆生がもともと備えている素質を5つに分類する悟ることの

できない素質もある

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 35: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗五

雪山

せっせん

の肥膩

更さら

雜まじわ

り無な

純もっぱ

ら醍醐

を出い

す我わ

れ常つ

に納お

一性

いっしょう

圓まどか

に一切

いっさい

性しょう

に通つ

一法

いっぽう

徧あまね

く一切

いっさい

の法ほ

を含ふ

雪山に生えるという肥膩草は他の草に交じることがないその草を牛が食べ

れば純粋な醍醐になるが釋尊も受けたというその醍醐本来の佛法を常に味

わっている一つのことが本当に解ればそれは一切のことに通じているし一

つのことが一切のことを含んでいる

雪山

①ヒマラヤ山脈②釈迦は前世で雪山童子として修行していた

という伝説がある

肥膩

①雪山にある草の名牛が食すれば醍醐を出す②膩は脂肪

醍醐

乳を精製して造る濃厚美味な液体釈迦が苦行を終えたとき村

の娘スジャータの差し出した醍醐によって体力を回復し成道し

たと言われる

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 36: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗六

一月

いちげつ

普あまね

く一切

いっさい

の水み

に現げ

一切

いっさい

の水月

すいげつ

一月

いちげつ

に攝せ

諸佛

しょぶつ

の法ほ

身しん

我性

わがしょう

に入り

我わ

性しょう

還かえ

つて如來

にょらい

と合が

一つの月がすべての水面に映りすべての水面の月は一つの月を映してい

るように諸佛の教えが私と一つになり私と如来が一つになる

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 37: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗七

一地

具ぐ

足そく

す一切

いっさい

地ち

色しき

に非あ

ず心し

に非あ

ず行業

ぎょうごう

に非あ

彈指

圓えん

成じょう

す八萬

はちまん

の門も

刹那

に滅卻

めっきゃく

す三祇劫

さんぎごう

いまここの場はすべての場に通じている目に見えるもののことを言ってい

るのではないし心の様子を言っているのでも行いについて言っているのでも

ない指を弾く一瞬のうちにすべての説法は完成しているそしてその一瞬に

菩薩が佛になるまでの時間などとっくに過ぎ去ってしまうのだ

八萬の門

八万四千の法門八万四千の煩悩に対する説法がある

三祇劫

三阿僧祇劫阿僧祇は無数のこと劫は時間の単位菩薩が如

來になるためにかかる時間

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 38: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗八

一切

いっさい

の數す

句く

は數す

句く

に非あ

吾わ

が靈覺

れいかく

と何な

きょうしょう

せん

毀そし

るべからず讚ほ

むべからず

體たい

虛空

の若ご

く涯が

岸がん

なし

どんな言葉も言葉として役に立たない私のほんとうのところとどうやって

通じ合うというのだだから言葉などで誹るにしても誉めるにしてもどうなる

ものではないほんとうのところは虛空のように意味などなく果てしないもの

なのである

靈覺

佛性

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 39: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

丗九

當處

とうじょ

を離は

れず常つ

に湛た

然ねん

覓もと

むれば

卽すなは

ち知し

る君き

が見み

る可べ

からざることを

取と

ることを得え

ず捨す

つることを得え

不可

得とく

の中う

只麼

に得え

たり

いまこの場所を離れることはないしいつも何ということはない何かを求め

てみればそんなことを求めるべきでないと言うことを君は知るだろう(ほんと

うのことは)獲得することもできないし捨てることもできない得ることは

できないものなのだがただこのままいまここにすでに得ているのである

當處

この場所

湛然

落ち着いて静かな様子

只麼

ただそのまま

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 40: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十

默もく

の時説

ときせつ

説せ

の時默

ときもく

大施門

だいせもん

開ひら

いて壅よ

塞そく

なし

人ひと

有あ

り我わ

に何な

宗しゅう

をか解げ

すと問と

はば

報ほう

じて道い

はん摩訶

般若

はんにゃ

力ちから

黙っていても(ほんとうのことを)いつも説いているのだし(言葉を尽くし

て)説いているときには(ほんとうのことについて)黙っているとも言える

だからいまここに佛法の門は大きく開いていて塞いでいるものは何もないそ

こに誰か来て私にどんな大事なことを解っているのかと問うならばその人に言

うであろうそれは大いなる智慧の力だと

大施門

諸佛が衆生のために佛法を説き施すこと

壅塞

塞ぐもの

摩訶般若

般若は佛の智慧のこと摩訶は大きいということ

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 41: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十一

或あるい

は是ぜ

或あるい

は非ひ

人ひ

識し

らず

ぎゃくぎょう

じゅんぎょう

天てん

も測は

ること莫な

吾われ

早はや

く曽か

て多劫

を經へ

て修し

是こ

れ等閑

なおざり

に相あ

誑惑

おうわく

するにあらず

ある時には是といったりある時は非というが人間がそんなことを識るわけ

がない逆だとか順だとか天人でさえ測ることはできない私はかつて長い間

修行をしてきたこれはいい加減に(師匠と弟子が)お互いに欺しあったと言

うことではない

誑惑

たぶらかし惑わすこと

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 42: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十二

法幢

ほうどう

を建た

て宗旨

しゅうし

を立り

明明

めいめい

たる佛勅

ぶっちょく

曹谿

そうけい

是こ

れなり

第だい

一の迦か

葉しょう

首はじめ

に燈と

を傳つ

二十八代だ

西天

さいてん

の記き

説法の場を設け大事なことを伝えていくという釈尊の明らかな勅令はまさに

六祖の流れをくむ禅宗に受け継がれている釈尊の第一の弟子迦葉が(拈華微

笑の故事によって)はじめに法燈を伝えたそしてインドでの二十八代の祖師

の伝えた法統を

法幢

説法の道場の標識

曹谿

六祖の流れをくむ禅宗の系統

迦葉

釈尊の弟子の一人

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 43: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十三

江海

こうかい

を歴へ

て此土

に入い

菩提

達磨

を初祖

と爲な

六代だ

の傳衣

天下

に聞き

後人

こうじん

の得道

とくどう

何なん

ぞ數す

を窮き

めん

海河を渡りこの中国に伝えてきた菩提達磨を中国での初祖としている五

祖が六祖に授けた伝衣の故事は天下に知れわたっているその後道を得た人々

は数限りない

江海

達磨は海を渡ってきたとされる

六代の傳衣

五祖が嗣法の印として六祖に衣鉢を授けた

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 44: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十四

眞しん

をも立り

せず妄も

本空

もとくう

なり

有無

倶とも

に遣や

れば不空

も空く

なり

二十の空門

くうもん

元もと

著じゃく

せず

一性

いっしょう

の如來

にょらい

體たい

自おのずか

ら同お

真実など立てることもないし妄想などもともとあるはずもない有も無もと

もに捨て去れば空を否定することもない二十種類もあるといわれる空の教え

ももともと知ったことではないがほんとうの如来のすがたはおのずから同じ

なのである

空門

空を説く教え

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 45: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十五

心しん

は是こ

れ根こ

法ほ

は是こ

れ塵じ

兩りょう

種しゅ

猶なお

きょうじょう

の痕あ

の如ご

痕垢

盡つ

き除の

いて

光ひかり

初はじ

めて現げ

心法

しんぽう

雙なら

べ亡ぼ

じて

性しょう

則すなわ

ち眞し

なり

心を認めれば心は根のようにはり法を認めれば法はまるで塵のように邪魔

者となる心も法も鏡の表面のきずのようなものであるきずや汚れが無くな

ってこそ本当の光が映るように心も法も二つとも無くなったときにほんとう

のことがそこに現れる

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 46: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十六

嗟ああ

末法

まっぽう

の惡あ

時世

衆生

しゅじょう

薄福

はくふく

にして調制

ちょうせい

し難が

聖しょう

を去さ

ること遠と

うして邪見

じゃけん

深ふか

魔ま

強つよ

く法ほ

弱よお

うして怨お

害がい

多おお

それにしても今は末法といわれる悪い時世だ人々には福がなくどうにもし

ようがない釈尊の死後ずいぶん時間がたって間違った考えが横行している

佛教以外の教えが強くそれに対して佛教の教えは弱くなってしまって誹謗中

傷されることが多い

末法

釈尊死後千年以降を末法の世という仏の教えがすたれ修行

するものも教法のみが残る時期

釈迦牟尼佛

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 47: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十七

如來

にょらい

頓とん

教きょう

の門も

を説と

くことを聞き

いて

滅除

めつじょ

して

瓦かわら

のごとく碎く

かしめざることを恨う

作さ

は心し

に在あ

殃わざわい

は身み

に在あ

怨訴

して更さ

に人ひ

を尤と

むることを須も

いざれ

そんな誹謗中傷も釈尊の禅門を説いて瓦を砕くように取り除いてしまいたい

ものだがそれもなかなかできないものであるそのようななかで作為という余

計なことを心はしでかしてしまうし身口意には貪瞋痴(むさぼり怒りも

のを知らない)という禍があるだから誹謗中傷する人を怨んで咎めてはなら

ない

頓教

段階を経ず直接悟りに到達する教え禅反対語

漸教

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 48: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十八

無間

の業ご

を招ま

かざることを得え

んと欲ほ

せば

如來

にょらい

の正法輪

しょうぼうりん

を謗ぼ

すること莫な

栴檀

せんだん

林りん

に雜樹

ぞうじゅ

無な

鬱密

うつみつ

深沈

しんちん

として獅子

のみ

住じゅう

境きょう

靜しず

かに

林はやし

間かん

にして獨ひ

自みずか

ら遊あ

走獸

そうじゅう

飛禽

皆み

な遠と

く去さ

無間地獄に堕ちて責苦を受けたくないのであれば釋尊の説法を誹謗しては

ならない

栴檀という香樹の林には雑木が育たないように佛道を修行する者にはどう

しようもない者はいない修行者の僧林は鬱蒼として深く静かで獅子のように

優れた者だけが住んでいる静かな環境で林のごとくそれぞれがそれぞれの境

地に遊んでいるのだ走り回る獣も飛び回る鳥もその静かさの中で遠く去って

いってしまう

無間業

無間地獄に堕ちて間断ない責苦を受けること

法輪

釈迦牟尼佛の教え

栴檀

熱帯地方に産する香樹

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 49: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

四十九

獅子兒

衆しゅう

後しりへ

隨したが

三歳さ

にして

便すなは

ち能よ

大おおい

に哮吼

若も

し是こ

れ野干

法王

ほうおう

を逐お

ふならば

百千の妖怪

ようかい

も虛み

りに口く

を開ひ

かん

そして獅子の子供たちが獅子に随っているその随っている姿は子供である

のに獅子が説法をする姿そのものであるもし修行の未熟な狐が獅子である法

王を追い出そうとするならば多くの妖怪でさえ見かねて待ったをかけるであ

ろう

野干

狐修行の未熟な者

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 50: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十

圓頓

えんとん

教おしへ

は人情

にんじょう

沒な

疑うたがひ

あつて決け

せずんば直じ

須すべか

らく

爭あらそ

ふべし

是こ

れ山僧人

さんぞうにん

我が

逞たくま

しうするにあらず

修行

しゅぎょう

恐おそ

らくは斷常

だんじょう

坑きょう

に墮だ

せんことを

坐禅の教えには人情など差し挟む余地はない疑いが残って決着しないので

あればすぐに論争してみたらよいだろうそれは修行者が自身をたくましくす

るというのではなくその修行は世界は滅するとか世界は不滅だとかいう論理

の穴に落ち込んでしまうであろう

圓頓

円のように欠けた所も余る所もない教えを卽時に決着する

斷常

斷見とは世界が死後に断滅するという見解

常見とは世界も我が身も永劫に変わらないという見解

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 51: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十一

非ひ

も非ひ

ならず是ぜ

も是ぜ

ならず

之これ

に差た

ふこと毫釐

もすれば失し

すること千里

是ぜ

なるときんば龍女

りゅうにょ

も頓と

に成佛

じょうぶつ

非ひ

なるときんば善星

ぜんせい

も生い

きながら陷墜

かんつい

非といっても非ではない是といっても是ではないこのことを毛筋ほどの

差でも間違えば千里をも失ってしまうことになる本来の自己に是であれば龍

王の娘でさえすぐに成佛するが本来の自己に非であれば釈尊の子の善星でさ

え生きたまま地獄に堕ちてしまう

龍女成佛

龍王の娘が法華経により八歳で成佛したという故事

善星

釋尊の子とされるが佛教の悪口を言い地獄に墮ちたという

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 52: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十二

吾わ

れ早年

そうねん

より來こ

かた學問

がくもん

を積つ

亦また

曾か

つて

疏しょう

を討た

ね經論

きょうろん

を尋た

名相

みょうそう

を分別

ふんべつ

して

休きゅう

することを知し

らず

海かい

に入い

つて

沙いさご

を算か

へて徒た

自みづか

ら困こ

私は若い頃から佛教についての学問を積み経文についての解釈や論議を

調べてきた言葉を様々に勘案し休むことなく追求してきたいま考えてみる

と海に入って砂粒を数えるようなものでいたずらにひとり困惑していたので

ある

書籍の解釈

名相

言葉による表現

分別

おもんぱかること

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 53: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十三

卻かへ

つて如來

にょらい

苦ねんご

ろに呵責

かしゃく

せらる

他た

の珍寶

ちんぽう

を數か

へて何な

の益え

かあると

從來

じゅうらい

蹭蹬

そうとう

として虛み

りに

行ぎょう

ずることを覺お

多年

枉ま

げて風塵

ふうじん

客きゃく

となる

そのとき祖師に親切にも諭されたのであった偽物の宝を数えてどんな得が

あるのだとその言葉にいままではよろめきながらむやみに修行をしていた

だけであったことがわかった長い間むなしく(佛道の修行ではなく)俗世間

の価値観に引きまわされていたのである

蹭蹬

疲れてよろめくこと

枉げて

無駄にむなしく

風塵

俗世間のこと

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 54: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十四

種性

しゅじょう

邪じゃ

なれば

錯あやま

つて知解

如にょ

來らい

圓えん

頓とん

の制せ

に達た

せず

二乘

にじょう

は精進

しょうじん

にして道心

どうしん

なく

外道

は聰明

そうめい

にして智慧

なし

おおもとのところが間違っていれば誤解をしてしまい如来の本来の教えに

達することはない話を聞いて悟った者や何かのきっかけで悟った者は一生懸

命精進するのだが本当の道心はない佛教以外の教えを奉ずる者は聡明であ

るかもしれないが本当の智慧はない

二乗

声聞乗と縁覚乗声を聞いて悟った者縁に依って悟った者

外道

佛教以外の教えを奉ずる者

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 55: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十五

亦また

愚ぐ

癡ち

亦また

小しょう

騃がい

空拳

くうけん

指上

しじょう

に實解

生しょう

指ゆび

執しゅう

して月つ

と爲な

す枉ま

げて功こ

施ほどこ

根境法中

こんきょうほっちゅう

虛みだ

りに捏怪

ねっかい

愚かな者たちは言葉の上に解釈をしてしまう言葉を月だとしてしまい無駄

に功績を誇っているのだこの世は眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境

にただ接しているだけなのにそこに(解釈という)怪しげな術を弄んでしまう

のだ

愚癡小騃

愚か者

空拳指上

言葉は月を指す指である指を調べるのではなく月を見よ

根境

六根(眼耳鼻舌身意)六境(色声香味触法)

捏怪

奇を好み怪しげな術を弄ぶこと

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 56: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十六

一法

いっぽう

を見み

ざれば

卽すなは

ち如來

にょらい

方まさ

に名な

けて觀か

自在

と爲な

すことを得え

たり

了りょう

ずれば

則すなは

ち業障

ごっしょう

本來

ほんらい

空くう

未いま

了りょう

ぜずんば還か

つて

須すべか

らく宿債

しゅくさい

償つぐな

ふべし

どんな法も立てることがなければそれが如来なのだまさに(観世音菩薩の

ように)自在に観ることができよう悟りきれば過去の悪業ももともとないこ

とがわかるいまだにそのことが分からないのなら過去の悪業を一生懸命償い

なさい

観自在

自在にものを観ること観世音菩薩

業障

過去の悪業のために今世の学道の障りとなるもの

宿債

宿世の負債過去世において犯した悪業の報い

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 57: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十七

飢う

えて王お

膳ぜん

に逢あ

ふとも喰く

ふこと能あ

はずんば

病や

んで醫い

王おう

に遇あ

ふとも

爭いかで

か瘥い

ゆることを得え

欲よく

に在あ

つて禪ぜ

行ぎょう

ずるは知見

力ちから

なり

火中

かちゅう

に蓮れ

生しょう

ず終つ

に壞え

せず

飢えて王の食卓についても食べることができなければ病になったとき優れ

た医者佛に会っても病が癒えないようなものである欲のまっただ中にあっ

て禅の修行をするのがほんとうの智慧の力であるそれは火の中に蓮の花が咲

くように希有のことではあるがその修行は決して壊れることがない

王膳

王の食膳

医王

優れた医者佛を譬える

維摩経佛道品「火中に蓮華を生ず是れ希有なりと謂つべし

欲に在りて禪を行ず希有なること亦是くの如し」

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 58: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十八

勇施

重じゅう

を犯お

して無生

むしょう

を悟さ

早時

成佛

じょうぶつ

して今い

に在あ

獅子吼

無畏

の説せ

深ふか

く嗟な

く懞憧

もうどう

たる頑皮靼

がんぴせつ

但ただ

犯重

ぼんじゅう

の菩提

を障さ

ふることを知し

つて

如來

にょらい

の秘訣

を開ひ

くことを見み

勇施は重い禁戒を犯したがその後菩薩によって無生を悟りすぐに成仏して

今に至っている佛の説法を解っていない頑なな者たちが重い禁戒を犯すとい

うことだけをみて深く嘆くのであるそれが悟りの障害となることにこだわっ

て佛の秘訣がそこに開かれていることを見ないのだ

勇施

その昔勇施という比丘が不倫の末その夫を毒殺したが菩薩

によって救われたという

獅子吼無畏

佛の説法

懞憧

事理に暗いこと

頑皮靼

硬い皮のこと転じて無知蒙昧の輩

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 59: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

五十九

二に

比丘

有あ

り婬殺

いんせつ

を犯お

波離

の螢光

けいこう

罪結

ざいけつ

を增ま

維摩

大士

頓とん

疑うたが

ひを除の

猶な

ほ赫日

かくじつ

の霜雪

そうせつ

銷しょう

するが如ご

またその昔二人の比丘が邪婬と殺生の罪を犯した優波離尊者がその罪を追

求したのだが維摩居士に追求しては却って罪を増すと諭された維摩居士が

二人の比丘の解脱への心配を除いたことはまさに太陽が霜や雪をとかすような

ものであった

二比丘

邪婬と殺生の罪を犯した

波離

佛弟子の優波離尊者持戒第一とされ二比丘の罪を追求する

維摩大士

維摩は優波離尊者に対して罪を追求することは罪を増すこと

になると説く

赫日

燃え上がるように赤い太陽

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 60: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

六十

不思議

解脱

力ちから

妙用

みょうよう

恒沙

ごうしゃ

また

極きわま

り無な

四事

の供養

敢あえ

て勞ろ

を辭じ

せんや

萬兩

まんりょう

の黄金

おうごん

も亦ま

た銷得

しょうとく

(維摩居士の)解脱の力は数限りなく絶妙にはたらくだから食べ物や衣

散華や焼香によって(その力に対して)労を厭わず供養するのだ(そこに意味

や理解をこじつけなければ)たくさんの黄金のような価値もすぐに消え去って

しまうであろう

不思議解脱

維摩経の中に説かれる教え無礙自在の悟り

妙用

得道の人の何物にもとらわれない絶妙のはたらき

恒沙

恒河沙ガンジス川の砂無量数を示す

四事

供養に用いる四種飲食衣服散華焼香

供養

供物を供えて回向すること

萬兩の黄金

「一切有無の諸法一一の境上に於て都て繊塵の取染なく

亦た無取染に依住せず亦た不依住の知解なければ這箇の人

日に万両の黄金を食すとも亦た能く銷得せん」(百丈録)

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 61: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

六十一

粉骨

ふんこつ

碎身

さいしん

も未い

だ酬む

ゆるに足た

らず

一句

了然

りょうねん

として百億

ひゃくおく

を超こ

法中

ほっちゅう

の王お

最もっと

も高勝

こうしょう

河沙

の如來

にょらい

同おな

じく共と

證しょう

粉骨砕身の努力もその(維摩居士の)力に報いるようなものではない一句

でこそ決着がつくのであり百億の言葉をも超える佛法の王が最も優れてい

るのであり無数の佛祖がみなともに証明している

了然

言い尽くしていること

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 62: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

六十二

我わ

れ今い

此こ

の如意珠

にょいじゅ

を解げ

之こ

れを信受

しんじゅ

するものは皆み

相應

そうおう

りょうりょう

として見み

るに一物

いちもつ

無な

亦また

人ひと

も無な

く亦ま

佛ほとけ

も無な

私はいまこの如意珠を自分のものにしたこの如意珠を信じ受けるものはみ

なその人となる決着してみればここには何物もない人もまた佛でさえもこ

こにはないのである

如意珠

意の如くなる宝の珠本来の自己

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 63: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

六十三

大千

だいせん

沙界

しゃかい

海中

かいちゅう

の漚あ

一切

いっさい

の賢聖

けんしょう

は電で

の拂は

ふが如ご

假使

鐵輪

てつりん

ちょうじょう

に旋め

るも

定慧

じょうえ

圓明

えんみょう

にして終つ

に失し

せず

それら(人や佛)はこの世の海に浮かぶ泡のようなものでつかもうとすれば

消えていくのである賢人聖人と言われる人は雷がすべてを振り払うようにそ

れらを一瞬のうちに振り払うたとえ鉄の輪が頭を締め付けていても本当のこ

とを見極める力を決して失うことはない

沙界

娑婆世界この世界のこと

定慧

禅定と智慧坐禅の力量と本当のことを見極める力量

圓明

備わっていること

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 64: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

六十四

日ひ

冷ひやや

かなる可べ

く月つ

は熱あ

かる可べ

くとも

衆魔

も眞説

しんせつ

を壞え

すること能あ

はず

象駕

崢嶸

そうこう

として謾ま

に途と

に進す

誰たれ

か見み

る螳螂

とうろう

の能よ

く轍て

を拒こ

むことを

太陽が冷たくなろうがまた月が熱しようがさまざまな魔物も本当のことを

破壊することはできない本物の人が乗る車は山が険しくともわけもなく進む

がかまきりのような小器量の者は祖師の通られた道に進むのを自分から拒絶

してしまうものである

象駕

象が引く車尊貴の人の乗る車

崢嶸

山などが高く険しい様子

そぞろわけもないこと

螳螂

かまきり小器量の者にたとえる

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 65: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉大師證道歌

六十五

大象

だいぞう

兎徑

に遊あ

ばず

大悟

小節

しょうせつ

拘かかは

らず

管見

かんけん

を將も

つて蒼蒼

そうそう

を謗ぼ

すること莫な

未いま

了りょう

ぜずんば吾わ

今いま

君きみ

が爲た

に決け

せん

大きな象がうさぎの道で遊ばないように大悟は細かいことを云々しないも

のである狭い了見で蒼々としたこの世界を誹ってはならないいまだにわか

らないのなら私があなたのために決着をつけてあげよう

管見

狭小な知見

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる

Page 66: 永嘉大師證道歌 - Shomonjishomonji.or.jp › zazen › shodoka.pdf一瞬に如来の禅を悟ってみれば、六つの智慧による一切の善行が体の中に満 ち満

永嘉玄覺大師

(ようかげんかくだいし

‐七一三)

中國において禪が盛んになるきっかけとなった六祖慧能

禪師の弟子六祖というのは中國に禪を傳えたと言われる達

磨大師を初祖として六代目に當るということである六祖の

弟子には他に臨濟宗の祖となる南嶽懷讓禪師南陽慧忠禪師

曹洞宗の祖となる靑原行思禪師ら錚々たる祖師がおられる

「證道歌」は三祖大師の「信心銘」と並んで最も重要な祖

録としてひろく讀まれる