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『中 国言 語 文化 研 究 』第4号 ( ) ( ) ( ) ( ) ( 1 > [ ( ) ] [ ( ) ] (29)

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Page 1: 『中国言語文化研究』第4号 - Bukkyo u...『中国言語文化研究』第4号 沒 、 不 聞 于 世。樂 天 深 於 詩 、 多 於 情 者 也。試 爲 歌 之 如

「長

の自

つい

『中国言語文化研究』第4号

一、はじめに

「長恨歌」

(卷

一二

・〇五九六)

は、玄宗

と楊貴妃との戀愛悲劇を描いた

一大名篇である。元和

元年

(八〇六)整屋縣尉時代

「長恨歌」を手がけた白居易は、後年作品に對する自

己評價として

のような見解を示している。まず、元和十年

(八

一五)に十五卷本自撰集

の編定を契機として、

元稘

と李紳

に贈

った

「編集拙詩成

一十

五卷因題卷末戲贈元九李

二十」

(卷

一六

。一〇〇六)

では

(1>、

一篇長恨有風情

一篇の長恨風情有り

十首秦吟近正聲

十首の秦吟正聲に近し

毎被老元偸格律

毎に老元に格律を楡まれ

[元九向江陵日、嘗拙詩

一軸贈行。自後格變

(元九の江陵に向ふ

日、嘗

て拙詩

一軸を以て行

に贈る。後より格變ず。)]

苦教短李伏歌行

苦だ短李をして歌行に伏せしむ

[李

二十常自負歌行、近見予樂府五十首、默然心伏

(李

二十常

に歌行を自負するも、近く予

の樂府

五十首を見、默然

として心伏す。)]

世間富貴應無分

世間の富貴應に分無かるべくも

(29)

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r中国言語文化研究』第4号

身後文章合有名

身後

の文章合

に名有

るべし

莫怪氣粗言語大

怪しむ莫れ氣粗にして言語の大なるを

新排十五卷詩成

新た

に十五卷

の詩を排して成す

という

([

]内は白居易

の自注)。

ここで白居易は

「長恨歌」を

「秦中吟」とともに自己の代表

作として掲げ、作品に對する自負

を述

べているが、

一方、同年に自らの創作に

ついての理論

を示し

「與元九書」

(卷四五

・一四八六)

では、

今僕之詩、人所愛者、悉不過雜律詩與長恨歌已下耳。時之所重、僕之所輕。

(今僕の詩、人に

愛せらる者、悉

く雜律詩

と長恨歌

已下

のみに過ぎず。時の重んず

る所は、僕

の輕んず

る所なり。)

としている。ほぼ

同じ時期に、同

一の人物

(元槇)に宛てて記された

「長恨歌」に對する兩樣

の自

己評價は、ど

のように理解すればよ

いのだ

ろうか。白居易研究

においては、それぞれが頻繁

に引用

される記述

であるにも關わらず、意外にもこの問題は長く等閑硯され論じられなか

った。小論前牛

では

「長恨歌」

に對する自己評價

の齟齬を論じる前提として、

その成立事情と主題を再檢討する。

そし

て、主題

と成立事情

一端を踏まえた上

で、白居易

「長恨歌」に對する自己評價の齟齬

の原

因について考えていきた

い。

 30

._.

二、

「長恨歌」

の成立をめぐ

って

「長恨歌」

の成立に關する第

一義的資料としては、陳鴻

「長恨歌傳」

(『白氏長慶集』卷

一二所

收)が擧げ

られる。その末尾には次

のように記されている。

元和元年冬十

二月、太原白樂天自校書郎尉于整屋。鴻與琅邪王質夫家于是邑、暇日相攜遊仙遊

。話及此事、相與感歎。質夫擧酒於樂天前

日、夫希代之事、非遇出世之才潤色之、則與時滄

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『中国言語文化研究』第4号

沒、不聞于世。樂

天深於詩、多於情者也。試爲歌之如何。樂天因爲長恨歌、意者不但感其事、

亦欲懲尤物、塞亂階、垂於將來也。歌既成、使鴻傳焉。世所不聞者、予非開元遺民、

不得知、

世所知者、有玄宗本紀在、今但傳長恨歌云爾。

(元和元年冬十

二月、太原

の自樂天校書郎より

整屋に尉たり。鴻と琅邪

の王質夫是

の邑に家

せり。暇日相攜

へて仙遊寺

に遊ぶ。話此

の事に及

び、相ともに感歎す。質夫酒を樂天

の前に擧げ

て曰く、夫れ希代

の事

は、出世の才に遇ひて之

を潤色すること非ざれば、則ち時とともに清沒して、世に聞こえず。樂天詩に深く、情に多き

者なり。試みに爲に之を歌う

こと

いかん。樂天因りて長恨歌を爲り、意は但其事に感ず

るのみ

ならず、亦尤物を懲らしめんと欲し、亂階を塞ぎ、將來に垂れんとするなり。歌既に成

り、鴻

をして傳

せしむ。世に聞えざる所は、予開元の遺民に非ざれば知

るを得ず。世に知る所は、玄

宗本紀に在る有

り、今但長恨歌に傳するのみ。)

元和元年

(八〇六)十

二月、白居易、陳鴻、王質夫

の三人が仙遊寺

に集

った際、玄宗

と楊貴妃の

事跡

に話題が

及び

、皆

で語りそれ

に興じ

た。そ

の席で王質夫は

「希代

の事」は優れた才能を得

「潤色」しなければ、

「時とともに滔沒」してしまい、世

に知られな

いことを憂えた。そ

こで

「詩

に深く、情に多

き」白居易に、玄宗と楊貴妃

の悲戀を歌

につくることを勸

めたとして、かなり具體

に制作に至るま

での事情が記されている。

『文苑英華』

(卷

七九

四)所收

「麗情集」

「京本大

曲本」にも同樣

の記述があるが(2)、

「長恨歌」が語りの場における慫慂を契機

とし

て成立

した

こと

は、同時期

の傳奇小説

の流れ

の上に

「長恨歌傳」を置いてみることでより明らかになる。

「長恨歌

傳」

の記載

のみならず、大暦年間

(七六六~七九)以降

にあらわれる傳奇小読には、その末尾

の後

記とも言う

べき部分に作

品成立譚

の記されるものが多く、話型

の著

しい類型化

も認められる(3)。傳

奇小読の制作過程としては、何らかの契機ー話し手と聞き手、あるいは居合わせた人々が皆で話に

 s1

 

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r中国言語文化研究』第4号

興じた語り

の場i

にお

いて、そ

の場を支配

していた人

々の興味や關心

に即

した異

説、

異聞が語ら

れ、それに基づ

いた記録なり創作

をし

ているのである。

「長恨歌」制作時

(八〇六年)、馬嵬

の政變

(七五六年)からは既に牛世紀

が經

っており、

「希

の事」とされる玄宗

・楊貴

妃故事が人々の間

で語られ、何らかの語りとして客觀的に存在し

てい

ことは、

「長恨歌傳」

の記述

(「話及此事」)を待

つま

でもな

い。白居易、陳鴻、王質夫

の三人

「相與感歎」

した玄宗

・楊貴妃故事は、

正確な史實

の探求を目的としたも

のではなく、

正史と野

とを問わない街談巷説

の範

圍のも

のであ

ったと思われ

る。おそらくは二、三の特徴的なあらわれ

を話題

の中心に据え

て、それぞれが聞き知

っているところを語

り、話そのも

のに興じようとする場

の雰圍氣から呼び出されたものであ

ったに相違ない。夙に指摘されることであるが、楊貴妃終焉

である馬嵬

は、陝西省興卒縣

の西に位置し、

渭水を挾

んで當時白居易

の任地

であ

った整屋とはわ

ずか

の距離にある。同じく整屋縣にあ

る仙遊寺

に三人が集

ったとき、そ

の酒宴

の席に玄宗

と楊貴妃

の話題が呼び出された

ことは、極

めて自然

な成

り行きであ

ったものと思われる(、)。また馬嵬

の事件

から五十年が經過す

る間に、玄宗

・楊貴妃故事は史實以外

にも相似す

る戀愛悲劇

として

の特徴か

ら、漢武帝

・李夫人故事ー

『漢書』以來

の發想に依據した

「反魂」

のくだりー

なども取り込み、人

の口承

の末端

に位

置する内容も樣

々な形

で含

みながら重

層化

してい

ったことだろう(5)。

「長恨

歌」

はそ

のような故事

読話

の素

地の上に(6)、語

りの場

を契

機として白居易によ

って創作

(11文字

化)されたものと考えられる。

 32

. 

三、主題に

ついて

ここでは

「長恨歌」が當時

の口承を背景として、

一時

の感興に基づき創作されたという觀點から

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「長恨歌傳」との描かれ方を比較することで、兩作品が敍逋

の志向

からして本質的に乖離している

ことを確認しておきた

い。いま試みに、口承を背景とする作品を考察す

る際に、極めて示唆的な論

著である川田順造

『口頭傳承論』

(河出書房新瓧、

一九九

二年)におけ

「敍事詩的志向」

「年代

記的志向」

の指摘を引用しながら、兩作品が有する性格

の相遶を比較してみる。まず敍事詩的志向

とは、

「情動的」な

「語りとしての感興」

(「話及此事、相與感歎」長恨歌傳)

に基づく

「口頭的

構成」を有するものを

いう。馬嵬

の政變からちょうど五十年が經過するにあた

って、當時の人

々の

腦裏に玄宗

・楊貴妃故事が強く意識されていた

ことは想像に難

くな

い。さらに、從來樣

々に語られ

ていた

口承を文字化す

ることには

「讚美」

「記念」

「鎭魂」

(「夫希代

之事、非遇出世之才潤色

之、則與時消沒、不聞于世」同前)と

いった意味合いが含まれていたと考えることも出來よう。ま

「過去を語り手が内在化」し、

「實年代

の無化」を圖るという點

では、漢武帝と李夫人

の故事に

假託した作品であることが思

い合

わされる。正確な史實

の追究を目的とせず、語りの場

の感興が色

濃く反映している

「長恨歌」は、本質的に敍事詩的志向を有している。

一方、年代記的志向

とは、内容の

「敍逋」

「記録」とい

った性格を有し、

「知的な情報傳逹性」

(「世所不聞者、予非開元遺民、不得知、世所知者、有玄宗本紀在、今但傳長恨歌云爾」同前)を

重硯したものを

いう。陳鴻

「長恨歌傳」は、楊貴妃を

「尤物」として諷喩

の意識をあらわにしてお

(「意者

不但感其事、亦欲懲尤物、塞亂階、垂於將來也」)、

「内容

の眞實性に關與」し

ている

という點で、年代記的志向を有す

る作

品であるとすれば、兩作品が持

つ本質

の相違

は明らかであ

る。

このように考えれば、

こと

「長恨歌」におけ

一連

「傳」と

「歌」

の關係は、それぞれに別

の役割を擔

うも

のであ

ったとも言えそうである(,)。

「長恨歌」は十五卷本自撰集

の四分類に從えば、詩人自らが

「感傷詩」とする作品

であるにも關

 33

.

..

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『中国言語文化研究』第4号

わらず、從來そ

のような主題

の詩と意識され、論じられることが少なか

った。そ

の弊害に

ついて

々列擧す

ることは煩瑣

にもなる

ので避けるが、先行研究

において、例えば丸山キヨ子

「源氏物語と

長恨歌」

(『源氏物語

と白氏文集』東京女

子大學、

一九六

四年)

のように、

「長恨歌」が本來

は感

傷詩

である

のに盛

り上がりに缺け

るとし、

それは

「諷論を優位

とする道徳的分別が働

いて作中人物

の情感に深い感情移入をはば

んでいるからであろう」と論じられる類

の見解は後を絶たない。

これ

は、楊貴妃を

「尤物」(、)とみる

「長恨歌傳」

の諷論

の意識

を、

「長恨歌」にまで持ち込んだ穿

った

見解

であ

る。陳鴻

「長恨歌傳」

は、

白居易自身

が逑

べているように

「風情」

、̂)を主

とす

「長恨

歌」とは志向が異なるものであり、白居易

の敍述意識を探

ろうとす

る際には、兩者は切り離して考

えなければならない。

「長恨歌」の主題に關す

るこのような誤解

は、作品の影響力が我が國にも多

大であ

ったがゆえに、日本文學研究

にも支障をきたしかねな

い根の深さを包含している。

また、蹇長春

「長恨歌主題卒議」

(『西北師大學報』杜會科學版、

一九九

一年第六期)は主題に

關す

る從來

の諸

読を、①隱事説、②諷論読、③愛情読、④雙重主題読、⑤感傷読に分類し、それら

を統合するところに主題

の多層性を認めようとするも

ので、久

しく進展を見なか

った主題論爭解決

に繋がる論考

として注目された。しかし、蹇氏の論は

一見合理的

ではあるが、虚心に

「長恨歌」を

鑑賞すれば

ただ

ちに理解

され

るように、そこに主題

の多層性など見出せるも

のではない。玄宗

・楊

貴妃故事を

「潤色」した作

品を、

「情

に多き」白居易に慫

慂したという

「長恨歌傳」の後記からも

「長恨歌」に諷論

の意圖を見出すことはできず、むしろ軟派な戀愛作品以外の何も

のでもな

い。そ

れに

ついて、さらに

「長恨歌」に對する後人

の詩評により確認しておきたい。

 34

..,

四、後

の詩

から

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自己評價

の問題に移

る前に、從來

の主題論爭

におけるねじれを正しておくため、後人によ

「長

恨歌」

の評價に

ついて觸れ

ておく。まず宋

の張邦基

『墨莊漫録』には、

白樂

天作長恨歌、元微之作連昌宮詞、皆紀明皇時事也。予以謂微之之作過樂天、白之歌、止於

荒淫之語、終篇無所規

正。元之詞、

乃微而顯、其荒縱之意皆可考、卒章

乃不忘箴諷、爲優也。

(白樂天長恨歌を作り、元微之連昌宮詞を作

る。皆明皇

の時事

を紀すなり。予以謂

へらく微之

の作は、樂天に過ぐ

。白

の歌、荒淫

の語に止まり、終篇規正す

る所無し。元

の詞、

乃ち微にし

て顯われ、其の荒縱

の意皆考ふべく、卒章乃ち箴諷を忘れず、優と爲すなり。)

とある。この評

では、元槇

「連昌宮詞」に軍配が上がるが、そ

の到斷基準は

「卒章乃ち箴諷を忘れ

ず、優と爲すなり」と端的に示され

ているように諷論の意圖

の有無にある。同じく宋

の張戒

『歳寒

堂詩話』には、

其敍楊妃

進見專

寵行樂事、皆穢褻之語。首

云、

「漢皇重

色思傾國、御

宇多年求不得」後

云、

「漁陽顰鼓動地來、驚破霓裳羽衣曲」又云、

「君王掩面救

不得、囘看血涙相和流」此固無禮之

甚。

「侍兒扶起嬌無

力、始是新承恩澤時」此下

云云、殆可掩耳也。

「邉令天下父母心、不重生

男重生女」此等語乃樂天自以爲得意處、然而亦淺陋甚。

(其

の楊妃進見して寵を專らにし行樂

るの事を敍ぶるは、皆穢褻

の語なり。首に云ふ、

「漢皇色を重

んじ

て傾

國を思ふ、御宇多年

求むれど

も得ず

」後に云ふ、

「漁陽

の顰鼓

地を動もし

て來た

り、驚破す霓裳

朋衣

の曲」

又云

ふ、

「君王面を掩ひて救

ひ得ず、囘りて血涙相和し流

るるを看

る」此れ固より無禮な

ること甚

し。

「侍兒扶け起

こせども嬌と

して力無

く、始め

て是れ新

たに恩澤を承く

るの時」此

の下

云、殆ど

耳を掩ふ

べし。

「途

に天下

の父母

の心をして、男を生むを重んぜず女を生むを重んぜ

しむ」此等

の語

乃ち樂天以て自ら得意

の處と爲す、然

れども亦淺陋甚

し。)

 35

v

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『中国言語文化研究』第4号

る。

「長

歌」

「穢

の語

批到

の對象

とな

り、

「殆

を掩

」、

「淺

る。

に、

長恨

天詩

。連

、在

微之

乃最

意者

(長恨

天詩

に在

て最

と爲

連昌

元微

に在

て乃

ち最

も得

る者

り。

)

『墨莊

漫録

の記

く同

「長

恨歌

「連

詞」

と比

した

で酷

。ま

の周

『容齋

も、

過述

追愴

、無

他激

不若

昌宮

有監

戒規

意。

(然

に長

は明

の貴

妃を

の始

に過ぎ

に激

なし

昌宮

の監

戒規

かず

。)

摘す

るよ

「長

が玄

の楊貴

追慕

る顛

を述

べただ

の作

で、

て取

され

るほ

の作

はな

いとす

る。

って、清

の趙

『甌

北詩

には

、次

いう

長恨

一篇

其事

以易

事、

詞、

聲有

可歌

人學

既歎

及、

人女

子、

而樂

以不

而走

天下

(長

一篇

の事本

の事

って絶

の詞

と爲

。聲

べく

、文

に歎

べか

らず

と爲

し、

子、

聞き

て之

って

脛ら

て走

、傳

へられ

て天

に遍

。)

「長

は、

・楊

故事

った題

て、

に傳

やす

いも

のであ

った

ので

り、

「絶

の詞

に仕

上げ

に、

「文

人學

「歎

及ぶ

ら」

て廣

天下

流布

のだ

とす

のであ

るが

さら

に次

のよ

いう

(36)

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『中国言語文化研究』第4号

長恨歌自是千古絶作、其敍楊妃入宮、與陳鴻所傳選自壽邸者不同、非惟懼文字之渦、亦諱惡之

義、本當如是也。惟方士訪至蓬莢、得妃密語、歸報上皇

一節、此蓋時俗訛傳、本非實事。::.・

…特

一時裡

俗傳聞、易於聳聽、香山竟爲詩以實之、邃成

千古耳。

(長恨歌自ら是千古

の絶作な

り。其の楊妃入宮を敍ぶるに、陳鴻所傳

の壽邸より選ばれし者と同じからざ

るは、惟だ文字の

調を懼るるのみにあらず

して、亦惡の義を諱むは、本より當に是の如かるべし。惟だ方士訪ね

蓬莢に至り、妃

の密語を得

て、歸りて上皇に報ずる

一節

のみは、此れ蓋

し時俗訛り傳

へ、本

より實事

にあらず。………特に

一時の俚俗傳聞、聳聽し易く、香山竟に詩を爲すに以

って之を

實とし、邃に千古

と成すのみ。)

翼は

「長恨歌」が當時

「捏俗傳聞」

に想を得た創作であ

ったことを指摘した上で、

「千古の

絶作」とし

て高い評價を與えている。

『墨莊漫録』では

「荒淫の語」、同じく

『歳寒堂詩話』

では

「穢褻

の語」

と評價

される

一方

で、

『甌北詩話』

にお

いては

「絶妙

の詞」であるとされる。しか

し、これら

の後人によ

る評價

の齟齬は、いずれも

「長恨歌」を軟派な戀愛詩

であることを認めた上

での發言

であり、そこに諷論

の意

圖など見てはいない。以上のことから、自己評價の問題を檢討す

るに際しても、まず

「長恨歌」を

「感傷詩」として捉えていくことが前提となる。

 37

 

五、

「感傷詩」に對する態度

これまでの考察を踏まえた上で、緒論にとどめていた自己評價

の問題に

ついて改めて考えていき

い。前出

「編集拙詩成

一十

五卷因題卷末戲贈元九李

二十」では、感傷詩

である

「長恨歌」と、

諷鍮詩である

「秦中吟十首」が對句表現で掲げられる。

これは

「與元九書」

に、

「諸妓見僕來

、指

而相顧

日、此是秦中吟長恨歌主耳」

(諸妓僕

の來るを見、指して相顧み

て曰く、此れ是秦中吟長恨

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r中国言語文化研究』第4号

の主

のみ

)

る記

對應

て、

く自

の箇

もや

「新

五十

る自

べる。

では

「感

傷詩

代表

「長恨

「諷論

が對

らも

自負

の上

は兩

が矛

く共

いた

とを

てお

であ

ろう

で、

まず

「感

に對

る態

を檢

で、

當該

口を見

いく

にす

の編定

に際

て、

百首

「諷鍮

「閑

適詩

「感傷

「雜

に白

らが

分類

こと

は周

のこと

であ

る(-。v。

四分類

つい

ては

「與

元九

に、

月來

裹中

舊詩

類分

爲卷

。自

凡所

美刺

又自

一百

五十

退

足保

一百

閑適

又有

内、

於感

遇、

而形

詠者

一百首

感傷

又有

言、

句絶

一百韻

百餘

雜律

爲十

八百

(僕

月來

嚢裹

討す

るに

、新

の詩

を得

ってし

分か

て卷

目を

。拾

のか

た、

所遇

、美

に關

る者

又武

元和

る事

に因

て題

て、

て新

と爲

一百

五十

論詩

又或

は公

退き

て獨

り處

し、

は移病

るを

を保

ちて

情性

翫す

る者

一百首

を閑

謂ふ

、事

の外

に牽

、情

動き

に隨

て歎

に形

る者

一百首

を感

と謂

七言

絶句

一百

り兩

る者

四百餘

り、

を雜

ふ。

凡そ十

爲す

首。

)

る。

のう

「感

つい

ては、

「又

、事

の外

に牽

の内

に動

に隨

 38

 

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『中国言語文化研究』第4号

歎詠に形わるる者

一百首有り、之を感傷詩と謂ふ」と定義している。これは

『詩經』大序

「情中

に動きて言に形わる」を踏まえ

ており、感傷詩も詩

の本來の姿と違わないと考え

ていた白居易の意

識が窺

える。

「感傷」

の語に

ついては、白居易以前

の意義と用法からも、何事

かを契機として起

る悲哀

の感情

であることは明らかである。折に觸れて悲しむことは人として自然

の理であり、白居

の詩作におけ

「感傷」語

の意義と用法もこれと違わない(11)。また

「與元九書」における次の記

述も、

「感傷詩」に向けられる白居易

の意識を探る上

では示唆的である。

此誠雕蟲之戲、不足爲多、然今時俗所重、正在此耳。雖前賢如淵雲者、前輩如李杜者、亦未能

忘情於其間哉。

(此れ誠

に雕蟲

の戲れにし

て、多と爲すに足らず、然れども今時俗

の重んずる

所、

正に此に在る

のみ。前賢

の淵雲

の如き者、前輩

の李杜

の如き者と雖も、亦未だ情

をそ

の間

に忘るること能はず。)

前賢の王褒、楊雄、前輩

の李白、杜甫

のような詩人においても、作品

の主題

「情」

を詠み込ま

ないことはなか

ったと述

べて、詩

人の至極當然な營みとして感傷詩

の制作を位置付け、肯定してい

る。また、後年

(太和

八年)

の作

にな

るが、白居易

の感傷詩に對す

る意識をさらに端的

に述

べてい

るものに

「序洛詩」

(卷六

・二九

四二)がある。

予歴覽古今歌詩、自風騷之後、蘇李以還、次及鮑謝徒、迄於李杜輩、其間詞人、聞知者累百、

詩章

流傳者鉅萬。觀其所自、多因讒冤譴逐、征戌行旅、凍餒病老、存沒別離、情發於中、文形

於外。故憤憂怨傷之作、通計今古、什八九焉

(予古今の歌詩を歴覽するに、風騷

の後よ

り蘇

李以還、次

に鮑謝の徒に及び、李杜

の輩

迄、其

の間の詞人、聞知す

る者累百、詩章

の流傳する

者鉅萬

なり。そ

の自る所を觀るに、多く讒

冤譴逐、征戌行旅、凍餒病老、存沒別離に因りて、

情中

に發し、文外に形わ

る。故に憤憂怨傷

の作、今古を通計すれば、什に八九なり。)

 39

 

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『中国言語文化研究』第4号

「憤憂怨傷

の作、今古を逋計すれば、什に八九なり」として、傳統的な文學

の流れ

の上に、感傷

を含む

「憤憂怨傷」

の詩を肯定する意識がは

っきりと自覺されている。このような意識は自撰集

分類の段階にお

いても、す

でに白居易

の内に宿

っていたのではな

いかと思われる。古

の詩人たちが

皆そうであ

ったように、折に觸

れての悲哀

の感懷

の表出

は、人として當然

の情であり、營みである

ことを白居易自身

も例外なく認めている。

「感傷詩」は、

「與元九書」における位置付けでは貶め

られている。しかし、白居易の意識を俯瞰す

る際には、むしろそれが詩の本然

の姿を示していると

の、

強い自負を有

していたことが確認されるのである。それは

「感傷詩」中

の代表作

である

「長恨

歌」

についても同じことが言えるはずである。

それ

では

「編集拙詩成

一十

五卷因題卷末戲贈元九李

二十」にお

いて、白居易がその冐頭から

「一

篇の長恨風情有り」と掲げ

るほど

「長恨歌」に對す

る自負心は、

一體ど

のような内面的な感懷に

根ざ

していたのであろうか。このことに

ついては、白居易

の詩文には玄宗治世の往時を知る人々が

對話者として登場し、そ

の知悉す

るところを語ると

いう例が多いことに注目す

べきであ

る(12)。縣尉

時代

「長恨歌」

に始まり、左拾遺時代の

「上陽白髮人」

(卷三

・〇

一三

1)'さらに江州左降

に成

ったとされ

「琵琶引」

(卷

一二

・〇六〇二)、江州司馬時代の窮境から老樂叟を同情的に

捉えた

「江南遇天寶樂叟」

(卷

=

一・〇五

八二)に至るまで、年數では實に十年餘りにわた

り玄宗

盛時

と通時性を有す

る人

々から、そ

の知悉すると

ころを仄聞

し、それ

に基づ

いた詩

作を行

ってい

る。白居易においては、詠詩

の對象といい、それに向けられる意識とい

った點で

一貫していること

が見

て取れ

る。同樣

の詩例

は、元槇をはじめとする中唐

の文

人の詩文

にお

いても散見する(-、)。當

のことながら、往時を知る人

々は既に高齡であり、何とか玄宗盛時

を仄聞してお

こうとす

る風潮

は否應なく高

っていたものと思われる。そこに當時の時代的氣分とい

ったものも濃厚に感じられ

 (40

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る。また白居易は李白

と杜甫

の文學を、詩壇における最高峰のも

のとして傾倒しており(-、)、あるい

は開元年間以來

の古木を詠詩

の對象とするなど(-、〉、白居易はそ

の背景に盛唐

の息吹きを傳えるもの

に對して、並

々ならぬ感懐を抱

いていたことが窺える。

また、玄宗

と楊貴妃

の戀愛悲劇を象徴性

に富む時代

の悲劇と見れば、その時代

への感傷という側

面も大き

く取

り上げられ

る(-、)。唐

王朝

の繁榮

と沒落

の轉換が餘りに劇的であ

ったために、

その象

徴的意義

に富む形象を詠

出し、抑え難

い感傷的情緒を傳えんとする白居易の態度は

「長恨歌」に結

實しているように思われる。それは玄宗

と楊貴妃

の戀愛悲劇にとどまらず、盛唐そのも

のに對す

鎭魂歌とでも言う

べき、抑え難

「長恨」

であ

ったとも言える

のではないか。

「長恨歌」は、それ

ほど強い内面的感懷

に基づ

いて制作

された作品であ

ったと考えられ

る。そのような

「長恨歌」

が、

「與元九書」において低

い評價しか與えられないのは、そ

の書簡

の性格がまた別に考えられなけれ

ばならな

いことに起因している。そ

のため、

「與元九書」に見られる敍述意識に

ついても觸れてお

かなければならな

い。

六、

「與元九書」

の敍述意識

ここでは

「與元九書」が、白居易

のど

のような意識

のもとに記された

のかと

いう點

に絞

って檢討

すること

で、

「長恨歌」を代表作

とする

「感傷詩」の作品群に對し

て、それを低く見なす自

己評價

が白居易

のいかなる意識に基づいていた

のかに

ついて若干

の考察を加える。そもそも

「與元九書」

が執筆された直接的な契機は、左遷による

「窮」

の意識からであ

る。白居易が江州に貶せられた

は、元和十年

(八

一五)六月三日に起きた武元衡暗殺事件に端を發する。事件後直ちに、暗殺犯逮

捕を求め

る上書を奉じた白居易

は、それが太子左贊善大夫

の職分を越えた越權行爲であると誹謗さ

 41

. 

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れた。

これによ

り白居易は、藩鎭政策を背

景とした政治的思惑も絡んだ貶謫處分となる。しかもそ

の決定が、中書舍人王涯の論疏

によるものであ

ったことが白居易をより愁苦させた。王涯は、元和

三年

(八〇八)

の制科

の問題

に絡み、左遷の憂き目を見た人物であるが、そ

の際の處分に異議を唱

え、弁護

の上書

〈「論制科人状」

(卷四

一・一九四八)〉を奉じた

のは他ならぬ白居易であ

ったか

らである。正義感から出る諌言や擁護が、

このような誹謗や惡意に姿

形を變えて自らを貶謫させる

ことは、實

に不可抗力としか言

いようのな

い諦念と憂悶を懷

かせる處分

であ

ったに相違な

い。同年

八月、白居易は長安を出立し、左降のため江州

に赴いた(-,)。

「與元九書」は、その年

の暮れに書か

ている。

江州司馬

への左降

は、それまで比較的順調な官吏生活を邊

ってきた白居易

にと

って、最初

「屯

窮」であ

った。すでに編

み終えた十五卷

の自撰集は、それま

での創作活動が自ら

の足跡と軌を

一に

し、牛生

の經歴を省

みるも

のとな

った

であろう。

これま

での創作活動を振

り返り、しかも現在

の自

作に對する世評に觸れ

る中で、す

でに身後

に名を殘す詩人として

『詩經』以來

の長

い文學

の傳統

上に、自らを位置付ける自負

を抱

いていたことが窺

える。

「今

の屯窮、理固より然りとするなり」

とし、詩人にと

って

「屯窮」

は當然

のご

とく付きまとうも

のであ

るという意識は、す

でに名聲を得

た詩人としての、自信と自負

の裏返しとも理解されよう。その自信と自負を支えた

のは、

一連

の諷

鍮詩

の作

品群

である。白居易にと

っての

「諷論詩」とは、

『詩經』以來

の詩道の復活を目指したも

のであり、諌官として、また同時に詩人として大道を歩む、誇りと責務を存分に發揮し得た作品群

であ

った。

「諷論詩」にかけ

る意氣込みに

ついては、

「與元九書」に次

のように記されている。

自登朝來、年齒漸長、閲事漸多、毎與

人言、多詢時務、毎讀書史、多求

理道、始知文章合爲時

而著、歌詩合爲事而作。

(登朝より來、年齒漸く長じ、閲事漸く多く、人と言ふ毎に多く時務

 42

`.

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『中国言語文化研究』第4号

を詢ひ、書史を讀む毎

に多く理道を求め、始

めて知る、文章は合に時の爲に著す

べく、歌詩は

合に事

の爲に作るべきを。)

登朝し

て以來、諌官

の立場

を全

うしようとす

る意識が生じた

ことを逋

べている。

そして白居

は、實際にも諷論精禪に盗れた實作を件い、そ

の意氣込みどおり

の活躍を見せた。

「新樂府」五十

首中

の最後

に置かれる

「采詩官」詩

(卷

・〇

一七四)

には、次

のようにある。

周滅秦興至隋氏

周滅び秦興りて隋氏に至る

十代采詩官不置

十代采詩官を置かず

郊廟登歌贊君美

郊廟

の登歌は君

の美を贊し

樂府鑑詞悗君意

樂府

の鑑詞は君

の意

を悗ばしむ

若求興論規刺言

若し興論規刺

の言を求むるも

萬句千章無

一字

萬句千章に

一字無し

不是章句無規刺

是章句に規刺無からざ

るも

漸及朝廷絶諷議

漸く朝廷

の諷議を絶

つに及ぶ

(中略)

君兮君兮願聽此

君や君や願わくは此れを聽け

欲開壅蔽逹人情

壅蔽を開きて人情に逹せんと欲すれば

先向歌詩求諷刺

先ず歌詞に向かひて諷刺を求めよ

の前書き

には、

「前王亂亡

の由に鑑みるなり」とある。

「采詩官」が置かれなくな

ってより、

天子を論すような言葉

は千章萬句の中に

一字

としてなく、次第に朝廷から諷刺

の議論は絶えてしま

った

ことが歎かれる。そ

こで天子には、歌詩

の中に諷刺

の言を求めるべきであることをいう。白居

 (43

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易は諷論詩に

ついて、第

一の讀者を時

の憲宗皇帝においていたが、そ

の理由

一端

は自ら

の諷鍮

信念と實作を支援

し、

いわば公的な性格を帶びた形での、諷鍮詩制作

の契機を與えられ

ていたため

であろう。その邊りの經緯を

『舊唐書』白居易傳は、次のように傳えている。

章武皇帝、納諌思理、渇聞諜言、

二年十

一月、召入翰林爲學士、三年五月、拜左拾遺。居易自

以逢好文之主、非次拔擢、欲

以生卒所貯、仰酬恩造。

(章武皇帝、諌を納れ理を思ひ、疲言を

潟聞し、

二年十

一月、召して翰林に入れ學士と爲し、三年五月、左拾遺を拜す。居易自ら好文

の主に逢

ひ、非次に拔擢せられ、生卒に貯ふる所を以

て、仰ぎ

て恩造に酬

いんと欲す。)

諷論詩にかけ

る並

々ならぬ意氣込みは、

このような人事の拔擢を行

った憲宗

に對する恩義に報い

るために、自ら

の職務

を忠實に果たそうとするものだ

った。そして

「始めに名を文章に得」た白居

易にと

っては、自ら

の詩才を最大限

に發揮させることが、中央におけ

る自己の存立基盤を築き上げ

こととも同義であ

ったはずである。翻

って、貶せられ

て間もない頃

の意識が窺えるも

のとして、

「謫居」詩

(卷

一六

・〇九〇九)を掲げ

る。

面痩頭斑四十四

遠謫江州爲郡吏

逢時棄置從不才

未老衰羸爲何事

火燒寒澗松爲燼

霜降春林花委地

遭時榮悴

一時間

豈是昭昭上天意

面は痩せ頭は斑なり四十

遠く江州

に謫せられ郡吏と爲る

時に逢ひて棄

置せらるは不才に從り

未だ老

いざるに衰羸す

るは何事

の爲か

火は寒澗を燒き松は燼と爲り

霜は春林に降りて花は地に委

時に遭ひて榮悴するは

一時

の問

豈に是れ昭昭たる上天

の意ならんや

 ..

 

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『中国言語文化研究』第4号

遠く江州

に謫せられた原因は、自

らの

「不才」によるも

のとしながらも貶謫後間もな

い時期

の白

居易は、この

「窮」なる情況も

一過性

のも

のであり、いずれまた

「昭昭たる上天の意」によ

って窮

境から拔け出せるも

のと考え

ていたようである。從前にな

い窮境

に置かれながらも、白居易にその

ような希望を抱かせた

のは、ここに至る牛生

の文學活動における堂

々たる自負と、多大な成

果を擧

げたことによる自信に基づ

いていたからに遶

いな

い。自ら

の眞價は

「諷論詩」にこそあり、これら

の作品群を有することが中央政界

における自己

の存立基盤

であると考えていた

のではないか。貶謫

當初の白居易にと

って

「諷論詩」

の作品群こそは、いずれ自らを再び政界に押し戻

し、支えてくれ

るはず

の作品群であり、

いわば

よすがとしての存在であ

った。しかし、左降により

「諷論詩」實作

の積極的な意義

を失

った白居易が、次に力を

入れよう

としたのは

「閑適詩

」であ

った。

「與元九

書」にも、自己を律するために

「足るを知

り」、心の

「和を保

つ」

ことは今後

の處世

のために必要

な指針

であり、それが

「閑適詩」

の制作意義としても強く打ち出されている。

當時、白居易が置かれ

ていた状況からすれば

「諷喩詩」

「閑適詩」の作品群が、貶謫後まもなく

書かれた

「與元九書」

において、當時

「窮」な

る情

況を受け入れながらも、自己

の存在を肯定

し、支えながら、

同時に詩作の次

の段階を見据えて記されたために、四分類

の上位

に位置付けられ

るのはいわば當然

の歸趨であ

った。

「諷喩詩」

「閑適詩」は、士大夫としての内省を經た作

品群

ある。そ

のような過程を經ること

のない直接的な詠歎としての

「感傷詩」

「雜律詩」

の諸篇

は、嚴

しい現實と對峙

した際には、取るに足らな

い雜多な作品群にさえ思われたのだろう。執筆時

の敍述

意識や白居易の置

かれた状況を考慮することなく、

「與元九書しに見られる當該箇所

の自己評價

記述

を鵜呑みにす

ることは、

いささか早計

であろう。そ

のため、同書

の記述

で白居易が

「長恨歌」

を、低く評價

していたと考えることは出來ないのである。

 45

 

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『中国言語文化研究』第4号

七、まとめ

小論は、白居易

「長恨歌」に對す

る自己評價に

ついて、

一方

では誇

らしげ

であり、また

一方

は低

い評價を下し

ている記逋を取り上げ、詩

人の意識

のうちに潛む矛盾

に迫りたいと考えた。そ

ために、

まず作品

の成立事情にまで遡

ることで、

「長恨歌」が私的な語りの場におけ

一時

の感興

と、他人からの慫慂に基づ

いて成立した

「感傷詩」

であることを追認した。

しかし、内容

の面からは軟派

とも思われ

る私的な戀愛作品が、結果的に最も多く

の人

々に讀まれ

廣く流布したという事實を、翰林學士

・左拾遺とい

った公的な立場に身を置く白居易が潔

く受け入

れ、聲

を大にし

て自負す

ることには、幾

らか

の戸惑

いがあ

ったように思われ

る。白居

易にと

って

は、公的な性格が強

「諷論詩」

の作

品群に對置される自

己評價

の葛藤

の對象

こそが

「感傷詩」と

しての

「長恨歌」

であ

った。

「編集拙詩成

一十五卷因題卷末戲贈元九李

二十」

にお

いて、詩題に含

まれ

「戲れに膾る」とは、

正式な作品

ではないという斷り書きでもある。そのような私的な發言

の場において、ようやく吐露し得る

「長恨歌」

に封する自負心そ

のものに、作品

の自己評價に搖

る白居易

の心底を見る思いがする。ただし、失われた盛時

に對する抑え難い感情を懐

く白居易にと

って、その象徴的意義

に富む玄宗

・楊貴妃故事は、彼自身

の關心の高さから言えば、詠詩

の對象

ての内的動機には充分なも

のがあ

った。また言語面からも、誰にでも理解される詩作を心掛け

いたとされ

る白居易にと

って、説話や俗語を取り込みながら

の卒易な作品が、廣く人口に膾炙

した

ことは滿足

のいくことでもあ

ったはず

であ

る。

一方、

「與元九書」において

「長恨歌」

の自己評價を貶める理由には、江州司馬

への左遷がそ

契機として擧げ

られる。白居易にと

っては、それは生活云

々よりも、むしろ左遷という事實

そのも

 46

 

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『中国言語文化研究』第4号

のが大きな

「屯窮」

であ

ったに相違

ない。左遷を人生における大きな凋落とし

て意識すればす

るほ

ど、逆に再復歸

への執着にも並々ならぬも

のがあ

ったことが窺

える。そのため、

「長恨歌」

を低く

見なす自己評價を理解する鍵は、中央政界

への再復歸ということになるであろう。江州

の窮境

と向

き合

ったとき、再び中央

に復

歸する望みをかけられ

るのは、

「與元九書」

にお

いて自負

して

いる

「諷喩詩」

の作品群

であり、また今後

の處世

の指針と考えた

「閑適詩」

の作品群であ

った。實際に

は、四分類における

「諷喩詩」

「閑適詩」

「感傷詩」

の分類概念は相容れないものではなく、白

居易はいずれも

「詩道」

に沿う作品として意識していたも

のと思われるが、

「感傷詩」である

「長

恨歌」は、江州左遷の窮境と向き合

った

一時期、取

るに足らな

い作品として意識された。白居易が

自らを政治家

であり、また諷喩詩

人であると公的な立場を自任するとき、おのずと

「長恨歌」は自

作の下位

に位置付け

られ

ることにな

った

のだろう。以上のことから、白居易にと

って

「長恨歌」

とは、内に秘めた強い自負さえもなかなか公言

しにくい、葛藤をともな

った作品

であ

ったと言える

のではなかろうか。

 47

._.

(1)白居易詩は

『白氏長慶集』

(四部叢刊本)

を底本とし、併せて朱

金城

『白居易集箋

校』

(上海古籍出

杜、

一九

八八年)を參照

した。また

四部叢

刊本

の卷次

に加えて、花

房英

『白

氏文集

の批

判的研

究』

(修訂版、朋友書店、

一九七四年)

「總合作品表」による作品番號を付した。

(2)該當箇所には

「元和年冬、太原白居易尉于整屋。予與琅

邪王質夫、家仙游谷。因暇

日攜

手入山、質夫

於道中語及於是。白樂天深於思者也。有出世之才

。以爲往時多情、而感人也深。故

爲長恨詞以歌之、

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『中国言語文化研究』第4号

(m

)

(4

)

(5

)

(6

)

使鴻傳焉。」

(元和年冬、太原

の白居易整屋に尉たり。予と琅邪

の王質夫、仙游谷

に家

せり。因りて

暇日手を攜

へて山に入り、質夫道中に於いて、語

ること是に及ぶ。白樂天は思ひに深き者なり。出世

の才有

り。以爲

へらく往時

の多情、人を感ぜ

しめるや深し。故に長恨詞を爲りて、

以て之を歌ひ、鴻

をして傳

せしむ

。)

とあ

る。成立事情に關す

る雙方

の記述に

ついては、資料

の原型

をめぐる問題とし

て議論が交

わされており、そ

の間

の事情に

ついては靜永健

『白居易諷鍮詩

の研究』

(勉誠出版、

二〇

〇〇年)第

三章

「縣尉時代

の白居易」

の注記

(一九)に詳しい。但し、

この小論に

おいては、

いずれ

の記述が原

型であるかと

いう比較

の觀點からではなく、むしろ雙方

の記述内容の重

複部分に關しては

制作の經緯を色濃く反映しているという見地から檢討を加える。

このことに

ついては、澀谷譽

一郎

「白居易

の周邊と傳奇」

(『白居易研究講座』第

二卷

、勉誠杜

・一

九九三年)

を參照された

い。こ

の論考は當時

の傳奇小詭を特徴づけ

る後記

の存在

に着目することが、

いかに重要

であ

るか

について示唆的である。なお、澀谷氏論考における作品選録以外に、李公佐

「南

太守傳」

(『太卆廣記』卷四七五)

「公佐、貞元十八年

秋八月、自呉之洛、暫

泊淮浦、偶觀淳于

生貌、詢訪遺跡、飜覆再三、事皆掠實、輒編録成傳、以資好事」も同樣

の例として擧げ

られる。

近藤春雄

『長恨

・琵琶行

の研究』

(明治書院、

一九

一年)、太田次男

『白樂天

(集英杜、

一九

八三年)。

川合康三

「長恨

歌に

ついて」

(金谷治編

『中國における人間性

の探求』所收、創文

杜、

一九

八三年)

は、

「長恨歌

」は

(i)

史書

の記録

によ

る歴史的事實、

("11)

「開元

の遺

民」が

語るような

口頭傳

承、す

なわ

ち民間に派生した読話的部

分、

(丗)白居易の創作部分、

の三暦に分か

ており、後部に

ついては

「口頭

で傳承され

ていた話柄」に基づくであろうと述

べている。

時、玄宗

・楊貴

妃故事が廣

く語られ、

「長恨歌」制

作と享受

の共通

の基盤

が整

っていた

こと

は、

「長恨歌傳」

の次

の記述から窺

える。すなわち王質夫が仙遊寺

の會において

「夫希

代之事、非遇出世

之才潤色之、則與時滔沒、不聞于世。樂天深於詩、多於情者也。試爲歌之如何

。」

と述

べる

のは、そ

 48

..,

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(7

)

( 

>

(9

)

>

れが

一旦世に問

われれば、

必ず多く

の人々に受け容れ

られ

るという認識に基づ

ていたから

であ

う。

さらにいえば、

「長恨歌」と

「長恨歌傳

」のご

とく

「歌」と

「傳」がセ

ット

にな

った例として、李紳

「鶯鶯歌」

・元槇

「鶯鶯傳」、白居易

「任氏行」

(逸文で、

「燕脂漠漠桃花淺

黛微微柳葉新

爪蒼鷹雲際滅

素牙黄犬草頭飛」

の句が殘る。花房氏前掲書參照)と沈

既濟

「任氏

傳」、元槇

「李娃

行」と白行簡

「李娃傳」が擧げ

られ

る。

これら

のうち、元槇

「鶯鶯傳」については

、陳寅恪

「元白詩

證稿」

(『陳寅恪史學論文

選集』所收、上海古籍出版社、

一九九

二年)が、

『舊

唐書』

「徳宗紀」

の貞元十五年十

二月庚午

、さらに丁酉

の記述と封照した上

で、元稘に關わる事實を

記したものと指摘

る。

これも、

「傳」が内容

「敍述」

「記録」とい

った性格を有し、

「内容

の眞

實性

に關與」

して

いる例と考えることができよう。

「歌」と

「傳しの問

に、敍述

の志向

におけ

る統

一性なるものが果た

て見られるかどうか、ここでは問題提起にとど

め、今後

の課題としたい。なお、

下定雅弘

「日本

おける白居易

の研究

(戰後を中心に)上ー

『文集』の校勘

及び諷論詩

「長恨歌」

の研究1

(『帝

塚山學院大學研究論集』

二三、

一九

八八年)は、先學諸氏

による

「長恨歌」主題論

の流れを概

読し

ている。

「尤物」

の語を

めぐ

っては、柳瀬喜代志

「復古

の詩と長恨歌傳

・鶯鶯傳に見える楊

貴妃

の像」

(『學

術研究1國語

・國文學編』第

二三號、早稻

田大學教育學部、

一九七四年)。

田龍美

「白居易

「風情」考」

(『九州中國學會報』第三六卷、

一九九八年)。

「風情」

の語に

つい

ては、王汝弼氏や霍松林氏をはじ

めとする研究者によ

って

「風人

の情」と解釋する

「諷論型解釋」

われ

ること

で、

「長恨歌」の主題論爭に諷論の意

圖を認めようとする見解

の根據

にな

ってきた。し

かし諸

田氏は

『白氏文集』におけ

「風情」

の用例に檢討を加え、

「風情」

の語義

には諷論

の含意

いことを指摘し、從來

の誤謬を正している。

成田靜香

「白氏長慶集

の四分類の成立とそ

の意味」

(『集刊東洋學』六

一、

一九

八九年)、同

「白居

(49)

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の詩の分類と變遷」

(『白居易研究講座』第

一卷、勉誠肚、

一九九三年)。

下定雅弘

「白居易の感傷詩」

(『帝塚山學院大學研究論集』第

二四號)。

竹村則之

「白居易と天寶

の遺民ー膾康叟詩を

めぐ

ってー」

(『文學研究』第

八十

四集、九州大學、

九八七年)參照。

元稘

「連昌宮詞」に、

「…宮邊老人爲予泣

小年進食曾因入

上皇

正在望仙樓

太眞

同凭欄干立

樓上樓前盡

珠翆

弦轉焚煌照天地

歸來如夢復如癡

何暇備言宮

裏事

…」

(『元氏

長慶集』卷

二四)

とあり、玄宗

と楊貴妃を

目の當りにした

「宮邊

の老人」によ

って往時が語られる。

また

「行宮」詩

も、

「寥落古行宮

宮花寂寞紅

白頭宮女

閑坐読玄宗」

(『元氏長慶集』卷十

五)

とあり、玄宗

の事跡を行宮

に仕えていた

「白頭の宮女」が語る樣子を詠んでいる。

「讀李杜詩集

因題卷後」

(卷

一五

・〇九〇〇)。

「勤政樓西老柳」

(卷十九

・一二六四)に、

「牛朽臨風樹

多情立馬人

開元

一株

長慶

二年春」

とあり、玄宗が政務

を執

った勤政樓

の西に植えられる開元年間以來

の老柳に

ついて記

している。

蹇氏前掲論文および竹村氏前掲論文。

この間

の事情に

ついては、布

目潮風

「白樂天

の官吏生活ー江州司馬時代ー」

(『立

命館文學』第

一八

〇號、

一九六〇年)に詳しい。

(50)