全面講和運動の歴史的位置 - wordpress.com · 61 全面講和運動の歴史的位置...

of 34 /34
59 全面講和運動の歴史的位置 全面講和運 -全面講和愛国 はじめに-課題と視角- ポツ ダム 官 言に基づ-連合国の 対日占領管理 したサンフランシスコ 講和条約によっ て'ようや 争責任が明らかにされ'その反省に基づいてアジア・ 関係を回復する場となるべ きで あっ た。しかし' 冷戦や 朝 ( -) い「 戦争の 準備」とい う性格を強-したため'ソ 連・ 中国等を 再軍備の 制限も'民主化条項もなく賠償も二国間協定に委ねられるな 小笠原は米軍占領下に置かれ'講和と同時に結ばれた安保条約によっ て リカの 冷戦体制に 組み込まれ'ア ジアの 民族運動に 敵対する 東アジア 戦略の 後補償など多くの問題が未解決の まま残され'国民音 義の上で も'脱亜入米意 む一 因ともなった。 しかし'事実上アメリカの 単独占嶺下に置かれてい たとはい え、この よ うな戦後日本の

Upload: others

Post on 10-Jul-2020

1 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

59 全面講和運動の歴史的位置

全面講和運動の歴史的位置

-全面講和愛国運動協議会の組織

・論理

・運動-

はじめに

-課題と視角-

ポツダム官言

に基づ-連合国の対日占領管理は'六年八ケ月に及び二

九五

一年九月八日調印'翌年四月二八日発効

したサンフランシスコ講和条約によって'ようや-日本は

「独立」を回復Lt国際社会へ復帰した。対日講和では,戟

争責任が明らかにされ'その反省に基づいてアジア

・太平洋諸国への戟後処理を行い'全ての旧交戟国

・被害国と友好

関係を回復する場となるべきであった。しかし'冷戦や朝鮮戦争などの影響を大きく受け'戦後処理というよりは新し

(-)

「戦争の準備」という性格を強-したため'ソ連

・中国等を除外した単独講和となり'日本の戟望

月任は明示されず、

再軍備の制限も'民主化条項もなく

賠償も二国間協定に委ねられるなど

「寛大」な内容となった。また,沖縄

・奄美

小笠原は米軍占領下に置かれ'講和と同時に結ばれた安保条約によって本土にも米軍が継続して駐留した。日本はアメ

リカの冷戦体制に組み込まれ'アジアの民族運動に敵対する東アジア戦略の前進基地に位置づけられた。そのため,戟

後補償など多くの問題が未解決のまま残され'国民音義

の上でも'脱亜入米意識やアジアへの加害意識の欠如などを生

一因ともなった。

しかし'事実上アメリカの単独占嶺下に置かれていたとはいえ、このような戦後日本の進路は,決して不可避なこと

60

ではなかった。ソ連や中国は全面講和を主張していたLtインドも独自の外交路線に基づ-立場から単独講和に反対し'

米軍駐留や日本の再軍備を非難した。また'アメリカと共同で対日講和草案を起草したイギリスでさえ'日本の戦争責

任を明示Lt日本再軍備の制限を主張していたように'西側陣営の中でさえアメリカ主導の寛大な対日講和への反発は

少-なかった。そしてなによ-'「全面講和」か

「単独講和」かという論争に端的に象徴されるように'戦後の日本が

進むべき

「もう

一つの道」を求める世論と運動が存在したのである。戦後半世紀という節目に当たり'世界的な激動の

中で日本の戦後そのものが問い直されている今日'「もう

一つの遺」の持っていた可能性と限界を検討したい。

まずはじめに'研究史を概観Lt本稿の課題を明らかにしておこう。

一九七〇年代に本格化した占領期の研究は'八

〇年代にはいって占領後期の研究も増え始め'対日講和をめぐる研究は八〇年代半ばにピークを迎えた。その多くは'

政治史'外交史といった政治学の立場から'アメリカの講和政策やイギリス、アジア諸国との交渉過程及び吉田首相'

外務省の対応に関する研和が中心で,日本の野党や世論,民衆の動向に関する分析は少ない。

また'七〇年代は民衆運動研究や統

一戦線研究が盛んであったが'「民主主義革命期」という視角から'民主人民戦

(3)

線運動を経て二

スー'片山

・芦田内閣頃までを対象とした研究が中心で'全面講和運動など占領後期の研究はほと

んどみられない。

以上のように、対日講和研究'民衆運動史研究いずれのアプローチにおいても'全面講和運動に関する研究は数少な

(4)

-

「戦後史においてもっとも未開拓な分野」のひとつとなっている。通史的研究以外では'平和論

・平和思想史の立場

(5)

から'平和問題談話会に結集した知識人の主張や活動についての研究は多く

同会の主張が社会党や総評に与えた影響

(6)

については'五十嵐武士

『対日講和と冷戦』が詳しいが'いずれも'全面講和の主張に基づいて展開された運動の側面

(7)

には'充分な関心が払われていない。連動そのものを分析した研究は'管見の限りでは青田健二

「講和運動の軌跡」の

全面講和運動の歴史的位置61

みである。吉田氏は全面講和愛国運動協議会を中心に'もう

一つの運動体であった日本平和推進国民会議にも触れなが

ら'全面講和運動の組織'論理、運動の解明に努めている。貴重な成果であるが、全面講和運動の全体像を概観するに

とどまっている。

従って'本稿では'全面講和運動の組織'論理および運動を実証的に解明し'その歴史的意義を再評価することを課

題としたい。

分析視角は'まず第

一に'戦後の平和

・民主主義の発展とその担い手の形成にとって全面講和運動がどのような意味

を持ったのか検討することに置く。先述のように'従来の民衆運動史研究は、戦後の変革期における民衆運動の高揚

革命性に注目する余り'占領政策転換後の運動には充分な関心が払われてこなかった。確かにこの時期の民衆運動は停

(8)

滞Lt「暗い時代」に違いないが、そのような認識では見落としてしまう側面があると思われる。占領初期は'「憲法よ

り飯だ」というスローガンに象徴されているように'民衆運動の担い手や国民自身にとって'平和や

一般民主主義それ

自体の意義や価値が十分に自覚化されていたとは言い難い。民衆運動が平和や民主主義それ自身の価値を認め'運動の

課題としはじめるのは、占領政策の転換'逆コースという

「暗い時代」の中だったのではないだろうか。

戦後政治の枠組みは'憲法に集大成される民主化を前提として'逆コースの諸政策と'全面講和運動に始まる五〇年

(9)

代の平和と民主主義の諸運動の対抗の総括として形成されて-るのである。従って'この時期の民衆運動についての研

究は'戦後民主主義のあり様'その質を検討することに連なる重要な問題であると考える。

視角の第二は'全面講和運動のアジア認識を問うことである。従来'講和問題は主として冷戦-東西対立という枠の

中で議論され'「単独講和」という用語も'ソ連

・中国=社会主義国の欠如という意味で用いられてきた。しかし近年

指摘されているように'講和会議には日本侵略の最大の被害国である中国'朝鮮が招請されず'インド'ビルマなどが

62

(10)

参加を拒否し'その他のアジア諸国からの批判も多く

社会主義国だけでな-アジア諸国の欠如でもあったのである。

また'対日講和は'戟後処理の性格が薄められ'日本の戦争責任は問われなかったが'本来'戦争責任を議論する場の

1つとなるべきであった.そこで'全面講和運動のアジア観'特にアジアへの戦争責任意識がどのようなものであった

のかを見直してみたい。それは'戦後民主主義の担い手自身の民主主義

・平和認識を問うことであり'第

一の視角と不

可分な関係にある。

最後に'分析対象であるが'全面講和愛国運動協議会を主としてとりあげる。紙幅の関係もあり'もう

一つの運動体

であった日本平和推進国民会議についての分析は別稿に期したいと思う。

全面講和愛国運動協議会の組織と論理

-

対日講和をめぐる情勢

一九四九年九月'米英外相会議において講和促進の合意が成立し'四七年にいったん頓挫していた対日講和問題が'

再び政治日程にのぼってきた。さらに翌年六月の朝鮮戦争の勃発によって'それまで対立していたアメリカ国務省と軍

部の間も講和促進で

l致し'アメリカ主導で講和準備が進められていった。朝鮮戦争は講和の内容にも大きな影響を与

ぇ'四七年段階で構想されていた全面講和

-ドピース

(懲罰的講和)から'日本を西側陣営へ引き込むため,ソフ

トピース

(寛大な講和)へと転換した。五〇年九月に発表されたアメリカの対日講和七原則は'再軍備の制限も、民主

化条項もなく'賠償請求権は放棄されている

「寛大」な内容であった。さらに'米軍駐留の規定があり,安保への伏線

が敷かれていた。同じ-冷戦下に単独講和

・再軍備となった西ドイツでさえ'ナチスの戦争責任が銘記されていたのと

比べても'「寛大」さは突出しており'再軍備'賠償問題などに対するアジア諸国の反発は必至であった。

63 全面講和運動の歴史的位置

このように講和問題が再浮上Lt単独講和

・再軍備の方向が明らかになって-る中で'いち早-講和問題に対する方

(I)

針を打ち出したのは共産党である。

一九四九年

月'野坂参三は'六月に定めた講和綱領に基づき単独講和に二つの

点で反対した。まず第

..は'「最も関係の深い中国」'「近隣のソ同盟など敵として交戦状態におかれ」'「その結果'日

本はたえず国際紛争の渦のなかにまきこまれ」'戦争が起きた際には'「日本は講和を締結した国の味方にひきずりこま

れて戦争に荷担しなければならない」ため。第二は'単独講和の場合は

「完全な独立は保障され」ず'「永久的に

一個

の半植民地の境遇におちいる」ため。さらに'講和後の安全保障についても言及Lt「厳正中立を宣言すること」を主

(2)

張し'「現下の情勢では'これ以外の方法は有害」であると強調したのである。

しかしその後'共産党は運動を組織するどころか'五〇年

一月のコミンフォルム批判をきっかけとして'党内の混乱

が始まった。

l度は批判を拒否する

「所感」を発表したが'

1八日に開かれた第

l八回拡大中央委員会総会において批

判を受け入れるとともに'講和問題については'第六回大会

(四七年

一月)で定めた'ポツダム宣言の厳正実施'人

民による経済復興と日本の完全な独立という二点の行動綱領に加えて、「戦争に導-単独講和反対'大国間の協和にも

とづ-平和を保障する全面講和促進」と

「植民地化とファシズムを強化する単独講和

・自由と独立の民主主義と繁栄の

(T・J]

全面講和促進」のスローガンが追加された。戦争か平和か'植民地化か民族独立かという二つの観点から全面講和が主

張された。

コミンフォルム批判を受け入れたにもかかわらず'徳田球

1は

「所感」の弁護を続け'「所感」を批判する宮本顕治

を九州に派遣し中央から排除'所感派と呼ばれる派閥形成に乗りだした。徳田は'四月二八日の第

一九回中央委員会に

(4)

おいて'中立の要求を突如として引っ込め'「われわれの方針には'中立主義というものはありえない」と主張するな

ど講和政策は混乱していた。

一九中総の終わった四月二九日夜'徳田は自宅に野坂らを集め'弾圧に際しては国際派を

64

排除して党指導に当たることを党規約に反して決定し'六月六日の党中央委員の公職追放を機に'所感派は合法指導部

として臨時中央指導部を残しっつ'地下に潜入した。中央委員会の機能は完全に停止し'共産党は泥沼の分派闘争に陥っ

たのである。

2

全愛協の結成とその組織

l九五

l年に入るとt

l月にアメリカの特使ダレスが第

1次講和交渉のため来日し、講和問題はいよいよ大詰めを迎

えた。ここに至り'ようやく全面講和を求める大衆的な運動が始まった。

(5)

五〇年

一月に全面講和投票の運動方針を明らかにしていた共産党臨時中央指導部は'五

一年

一月八日に

「全面講和

のための一大国民運動の展開について」'翌九日には

「四千万を愛国斗争へ/単独講和の陰謀を実力で粉砕せよ-

『講

(6)

和投票』運動方針書-」をそれぞれ発表し'「各団体とすべての愛国者がいっさいのゆきがかりを捨て'大局的な立場

にたち'全面講和の一大国民運動を展開」すること'「三千万乃至四千万の得票を集めるために、直ちに行動を起」す

ことを提唱した。

その提唱に応えて'社会党再建全国連絡会

・労働者農民党

・共産党

・大山郁夫

・平野義太郎

・畑中正春

・尾形昭二

藤川覚らが呼びかけて1月

l五日'参議院議員会館で

「全面講和の国民運動展開を討議する労農市民全国代表者会議」

が開催された。呼びかけ団体の各政党'産別

・新産別

・私鉄総連

・自治労連など約四〇労組代表'日農および日中友好

協会

・日ソ親善協会

・婦人民主クラブ

・留日華僑総会

・全学連

・関西主婦連合会など二五の民主団体代表ら四〇〇余名

が参加した。会議は和田敏明

(社再)の司会'経過報告で始まり'まず

「平野義太郎氏から講和問題に関する

一般報告(7

)

があり'これに基づき'対日講和条約の締結に当たっては単独講和ではな-全面講和を以て臨むことを満場

一致可決」

全面講和連動の歴史的位置65

した。

続いて足立が運動および組織の具体的方針について提案を行い'四時間にわたる議論の末'

lt全面講和と講和後の全占領軍の撤退こそが'日本の平和と独立のため絶対必要だという'国論統

一に向かって大

運動を起こす

1'再軍備に絶対反対し'中日貿易禁止反対とあわせて'大衆の日常生活の要求と結びつけて斗う

一、七千万人を目標として全面講和の要求と再軍備反対の署名運動を全国的に起こす

一㌧この全面講和愛国運動をすすめるため

「全面講和愛国運動協議会」をつ-る

あっまった署名はト

ルー

マン

大統領

(栄)

・スターリン首相

(ソ)

・毛沢東主席

(中)

・アトリー首相

(英)へ

(8)

おくる

ことを決め'全面講和愛国運動協議会

(以下全愛協)を結成した。連絡場所は'衆議院第二議員会館六三

1号室

(足立

梅市気付)に置いた。また'運動の中心である講和投票は'

全面講和をのぞみます

一、再軍備に絶対反対します。

[1・)

項目で行うことになった。

/i)

全愛協は'「民族の独立と平和を守るために強力な愛国統

1戦線の結成をめざして斗うこと」'つまり'単なる全面講

和のカンパニア組織にとどまらない'平和と準

止の統

一戟線としての発展をめざしていた。統

l戦線として発展するた

めには'労働戦線の主流を形成していた総評や社会党の参加及び地方組織の確立が不可欠であへ

「社会党や総評'新

\〓\

産別'各農組などの参加を要望Lt場合によっては民擁同を解消しても統

一戦線の結成を進め」ることを確認していた

66

表-

全面講和愛国運動協議会加盟団体

(政党)

(労組)

日本共産党

労働者農民党

社会党再建全国連絡会

全日本産業別労働組合会議

(産別)

全国産業別労働組合連合

(新産別)

全日本土建

一般労働組合

日本私鉄労働組合総連合

日本自治団体労働組合総連合

全国銀行従業貞組合連合会

全日本造船労働組合

全日本印刷出版労働組合

全日本港湾労働組合

全日本金属労働組合

全逓信労働組合

日本映画演劇労働組合

全日本医療従業員組合協議会

東京土建

1般産業労働組合

全国官庁労働組合連合会

全国ガス労働組合連合会

国鉄労働組合革新同志会

大化学産業労働組合

合成化学産業労働組合

全日通労働組合

芝浦自由労働組合

全日本金属鉱山労働組合連合会

(農民組合)日

本農民組合

へ民主団体その他)

日中友好協会

日ソ親善協会

日本民主婦人協議会

婦人民主クラブ

留日華僑総会

部落解放全国委員会

傷療団体中央連絡会

全日本借地家人組合

全日本学生自治会総連合

日本青年祖国会議

東京地方民主民族戦線準備会

在日朝鮮民主統

一戦線

日本青年会議

日本文化人会議

新日本文学会

反戦学生同盟

秋田ペンクラブ

関西主婦連合会

松川事件対策協議会

日本帰還者同盟

日本患者同盟

日本戦没学生記念会

(わだつみ会)

埼玉県二合半領被告団

日本労農救援会

キリス-者平和の会

吉田健二

「講和連動の軌跡」

評論二九八二年六月・

全愛協

「全面講和愛国運動協議会成立

の経過」から作成。

のである。そのため'全愛協結成直後に開かれた

社会党大会の代議員にあててビラを配布し、大会

での全面講和の方針堅持を訴え'「平和三原則を

堅持する社会党員は'あげてこの講和投票に参加

せよ'民族の危機を克服するために政治的見解'

思想'宗教の相違を乗り越えて'全ての愛国者は

ダレス=吉田の単独講和を粉砕するために'広範

(12)

な国民運動を展開しよう」と講和投票への参加を

呼びかけた。また地方対策として'結成の翌日

1

六日に'「北海道東北'関東'東海北陸'関西'

(13)

中国四国九州の五ブロック」ごとの会議を開き'

運動推進について打合せを行

った。

では'全愛協の組織の実態はどうだったのだろ

ぅか。運営の中心には'平野義太郎'和田敏明'

吉田資治'大沢久明'風早八十二'足立梅市'久

保田豊'堀其琴'尾形昭二'淡徳三郎の十氏から

なる議長団があたり'議長団長には平野義太郎,

事務局長には和田敏明が就任した。加盟団体は,

67 全面講和運動の歴史的位置

表Iのとおり約六〇団体であるが'社再

・労農

・共産の三政党に加え'労組は産別のほか新産別

・私鉄総連

・合成化学

全自動車

・全日通など総評系

・中立系の一部も結集していた。また'民主団体では'日中友好協会や婦人民主クラブ

全学連など共産党の影響力の強い団体がほとんどであった。多-の団体を結集したが'結局'反共の立場を取る社会党'

総評の参加は得られなかったのである。

また'地方組織は表2のように二七都府県で結成されたにとどまった。例えば愛知では'

一月二六日'平野義太郎を

招いて労農市民全面講和懇談会を開き'各労組代表'社会'共産'労農'社再'学生'宗教家ら百名が参加し'世話人

に戸沢名古屋大学法学部長'坂田昌

1名大教授ら七教授'小林中日新聞主筆'下出東邦高校長ら二

一氏を選出した。続

いて二月十日に第二回全面講和懇談会を開き'阿部行蔵東京四谷教会牧師の講演のあと'愛知県に全面講和愛国運動協

(14)

議会をつ-り'各地で講和投票を推進することを決定した。東京では'

一月二五日東京地方全面講和促進懇談会が発足

し'二月四日に

1回目の懇談会が開かれた。懇談会には

「東日本重工

・北辰電機

・瑞穂産業

・私鉄総連

・全逓保険

・国

鉄新橋

・東京土建

・印刷出版

・東地労等三十労組と労農

・社会再

・共産の各政党'東商協

・城南中小工業

・朝鮮民戦

民婦協

・青年祖国戟線

・全面講和世田谷支部

・目黒

・工大

・葛飾等の平和を守る会

・日中友好協会

・日ソ親善協会

・労

(15)

農救援会など計七十

丁団体

」が参加し'小林克彦

(労農)

・川村勝

(国鉄東京支部

・副委員長)

・桂田斐

(東商協理事)

・金

(朝鮮)らを常任世話人に選出Lt五百万を目標に講和投票を進めることに決め、運動を開始した。また'都道府

県レベルにとどまらず旭川

・岐阜

・坂出など市レベルでの組織や九州大学の全面講和学内愛国運動協議会のような学園

(16)

レベルでの組織も結成された。共産

・労農

・社再の政党'労組

・民主団体が中心となって懇談会を開き、講和運動を組

織していったのである。しかし'愛知や東京の様な例はわずかで、地方組織の実態は

「足腰がなく

看板だけにとどまっ

(17)

(18)

て」お-、その多-は

「大衆的な運動体として実態的にはなかった」ものと思われる。

68

以上のように'中央では社会党'総評の参加を得られなかったばかりか'

表2

全愛協地方組織

加盟団体内においても

「組織的結合が極め

(19)

て弱」-'地方組織が結成されたとこ

全面講和北海道協議会準備会

(*完空tlへ'1五)

全愛協宮城県協議会

全愛協福島県協議会

全愛協千葉県協議会準備会

全愛協長野県協議会

(*1九五1.11「二()

全愛協富山県協議会

(*一九至'≡tl一八)

全愛協三重県協議会

(*完五1.nlt二八)

全愛協滋賀県協議会

(*左空'11コ1八)

全愛協大阪府協議会

(*一皇一'≡'天)

全愛協奈良県協議会

(*1九空

'三'二八)

全愛協愛媛県協議会

全愛協福岡県協議会

(*一九空'三、二八)

全愛協熊本県協議会

(*1九至、三'二八)

全愛協宮崎県協議会

(*一九空.ll.二,I)

全愛協秋田県協議会

(*左空'三'ニ()

全愛協山形県協議会

東京地方全面講和促進協議会

(1九空.1'芸)

全愛協神奈川県協議会

(*完空'三tIL()

全愛協新潟県協議会

全愛協岐阜県協議会準備会

(*1九至'三'11()

全愛協愛知県協議会

(一望「二'岩)

全愛協京都府協議会

(*一九空'三'二八

)

全愛協兵庫県協議会

(*一豊二三'二八)

全愛協広島県協議会

(*克空'≡'天)

全愛協徳島県協議会

(*1九空'三'1五)

全愛協佐賀県協議会

全愛協大分県協議会準備会

(*一九空'三'二()

吉田健二

『講和連動の軌跡」『文化評論」完八二年六月

『連合通信し恥九七lへ'左空年三月l五日。同恥九(七'完空年四月七日。同恥10望'1九至年六月三日。

「全国平和擁護日本大会

報告と決議」一九空年八月一四二五日'大原社研

所蔵

「第

1回世界評議会決定の実践についての資料」、大原社研所蔵等から作成。

なお'(

)内は結成年月日。*印は'この日現在で結成が確認できるもので'実際の結成目は

不明。

ろでも'多くは実態がない状態であっ

た。全愛協の組織的な弱体さは明らか

であ-'統

一戟線には'ほど遠かった

と言わざるを得ない。

全愛協の組織活動としては'機関紙

の発行が挙げられよう。発足当時は'

言論弾圧反対同盟機関紙

『自由の声』

を機関紙の代替として活用していたが'

第二五号

(一九五

一年四月二五日発行)

から

『講和新聞』と改題Lt内容も全

愛協の責任編集となって'名実ともに

(20)

仝愛協の機関紙となっ

またパンフ

レッーや'平和擁護日本委員会

(以下

平和委員会)と共同で雑誌

『平和運動』

を発行した。パンフレットや

『講和新

聞』紙上において全愛協は全面講和の

69 全面講和運動の歴史的位置

論陣を張り'活発な宣伝啓蒙活動を展開した。

3

全面講和の論理

さて'次に全愛協の全面講和論の特徴について見てみよう。その特徴としてまず第

一に指摘できるのは'ポツダム宣

言を連動の原理に据えていることである。結成大会において

「ポツダム、カイロ両宣言にもとづく全面講和こそが'其

(21)

の講和」であることを確認していた全愛協は'第二回全国代表者会議では

「世界の四大国-米

・英

・ソ

・中の四国政府

がひとし-調印したポツダム宣言は'明らかに日本の全面講和を現実させ'日本国民に独立と解放を保障するものであ

り'軽視されてはならないもの」と決議した。つま-'「講和というのは平和をつ-る'すなわち戦争の後始末をする

ことであって'次の戦争の準備ではない。従ってポツダム宣言や降伏文書にいうとお-の米英中ソ四大国の協調と合意

(22)

に基づ-全面講和のみが本当の講和なのであ」り'ポツダム宣言を受諾Lt連合国に降伏した日本は'同宣言に基づい

て全ての連合国との全面講和を結ぶべきであると主張した。ポツダム宣言は'全愛協をはじめ民主勢力にとって、占領

政策転換後の運動の拠り所であったのである。

また'「日本の民主化と非軍事化は

(中略)ポツダム宣言の重大な内容で'このため連合国の対日管理が行われてき

たのである。したがってそれは'対日講和のいちばん大切な内容となるべきもので'われわれ日本人としても'民主的

(23)

な平和国家の基礎として'これを憲法にもとりいれて'日本再生の基本としている

述べていることから分かるよう

に'ポツダム宣言とともに憲法も運動の基礎の一つに据えた。全愛協議長団は講和署名を要請する際に'「戦争はいや

だという国民感情を尊重し'また戦争を放棄した憲法の精神に則って'すべての日本人が平和を守るために正し-行動

(別)

(E3)

すること

呼び掛けた。しかし'憲法はあ-まで受動的に取りあげられたにとどまり'力点はあ-までポツダム宣言

70

に置かれていた。

第二の特徴は'「単独調和=戟争の道」に対して

「全面講和-平和への道」を対置したことである。全面講和によっ

二∴∴

「再軍備をしないですむようにもってい-ならわれわれは世界の平和のためにも'すぼらしいこうけんをすることと

(ママ)

(26)

な」り'「われわれ自身もまたほんとうに安心してへいわに暮らせるように」なるが'単独講和の場合は'講和を結ば

ない国と引き続き戟争状態にあるにとどまらず'「はげしい国際対立のさなかに外国軍隊がいて軍事基地をつくるので

は日本が戦争にまきこまれ'戦場化する危険が」あり'「アジアを敵とする兵器廠に仕立てあげられ」'「日本は戟争の

舞台として大きな役割をもっこととなへ

再び軍国主義が頭を持ち上げて-る」ので'講和でな-

「戦争準備の宣言」

(27)

であ

批判した。

さらに'日本の再軍備は平和を守るためや自衛のためではなく

戦争準備のためであり'「わが青年たちをその外国

(諮)

のお傭兵にするため再軍備を強行し'警察予備隊の軍隊化を行

うとしているとして'再軍備に反対し、全面講和と

ともに再軍備反対をスローガンの一つに掲げて講和投票に取り組んだのである。

第三の特徴は'講和を民族独立の問題と結び付けて把握している点である。結成大会において講和問題を

「民族の今

(29)

後数百年にわたる運命を決する重要な問

として位置づけ'自らを

「愛国」と名付けたことに象徴的である。全愛協

は'全面講和によってこそ完全な墾止が保障されるが'単独講和によって外国軍隊が駐留する独立は'「日本軍がいた

(3)

満州国の型

止と同じように名ばかりのものにすぎない。その内容は奴隷と隷属で'真っ平御免」であると批判した。そ

して'講和条約調印に際しては'「桑港で大騒ぎが行われていたとき沖縄県や奄美大島の日本人は血の涙をこぼしてい

た。アナソン全権から吉田全権への贈り物は日本民族の自主権であった。このような全権団は決して日本民族の意志を

代表するものではな-'このような条約は決してポ宣言はじめ四大国が天下に公約した国際的取り決めと

一致するもの

全面講和運動の歴史的位置71

ではない」と'条約調印を糾弾Lt「我々はこのような不当かつ非合法的な条約を無効と認め'外国軍隊が撤去して日

(31)

本の独立が回復され'四大国が協定して日本の安全を保障するような全面講和条約を要求する」と宣言した。

全愛協のこうした主張は'

1般には'戦争と平和の問題には関連させても'民族独立の問題と結びつけて把握されな

かった中で、重要な提起であったといえよう。しかし、日本の独立を満州国の独立に例えていることからも分かるよう

に'民族従属の問題は植民地化という認識と結びつき'単独講和によってもたらされる独立は

「いかにも形式的には主

(32)

権を回復するように見せかけながら」'実は

「植民地にしてしまう」ものであると認識していた。そのため'単独講和

(33)

によって日本が形式的にせよ独立することの意義の過小評価につながったのである。

以上のように、全愛協はポツダム宣言と受動的ではあるが新憲法を運動の原理に据え、単独講和による戦争と民族従

属に対し'全面講和による平和と民族独立を対置したのである。

次に'安全保障'領土'賠償等の各論について見てみよう。全愛協は、講和の基本的な内容として次の五項目を要求

した。主権の完全な回復。民主化'ことに人権及び人民の政治的自由の保障。経済自主権の回復。侵略戦争の禁止。日

「叫、

本の軍事基地化および再軍備の禁止であ

安全保障については'日本が政治的、経済的'軍事的に完全に独立を確保し'その

「基礎のうえに'世界の盛り上が

(35)

る平和勢力と緊張に提携すること」により'安全は確保されると主張した。そのため'総評や日本平和推進国民会議の

\≠\

主張する中立については'戦争勢力と平和勢力との間に中立はありえないと批判的態度をとった。また、軍事基地の提

供などによる自衛は'他衛であって'本来の自衛とは人民大衆の団結力にあるとした。

(37)

領土問題については'ヤルタ協定が秘密協定であっても

「大国間の協定は尊重する

場から、台湾'膨湖島は中国

へ返還'南樺太'千島はソ連に帰属'南洋諸島は領土不拡大原則に基づき、日本の領土として残されるよう主張し'ア

72

メリカの信託統治に反対した。全愛協は、ポツダム宣言を始めとする連合国の協定を尊重する余-'領土不拡大原則に

反するソ連の千島占領を支持したのである。

(光)

賠償について。賠償請求権の放棄は

「民主国家群に日本の工業力をもって協力

せるためであると批判した。アメ

リカの意図を的確に見抜いていたが'戦争責任を果たす具体的な行動の一つである賠償が唆味にされることの政治的思

想的な意味を問題にする視点はなかった。また'アメリカの政策を批判するのみで'全愛協としての賠償政策は示して

また

'

いくつかの欠落した視点も指摘できる。まず'講和締結の対象となる国についてはへ中国やソ連の欠如は厳し

く批判していた。しかし'中国と共に最大の被害国の一つである

「朝鮮」については'朝鮮戦争停戦の分脈では言及さ

れるものの'全面講和と結びつけて訴える観点は弱-'講和の対象として

「朝鮮」が意識されることもほとんどなかっ

(39)

たといえよう。また、中国の欠如を厳し-批判するものの'それは日本の経済自立にとって日中貿易が不可欠であると

いう立場からの批判であって'日本が侵略した中国、植民地支配した台湾への戦争責任を闘う視点は'ほとんどみられ

(4)

ない。以上のような欠落した視点や賠償観'中国観等を考え合わせると、講和という戦後処理の場でありながら'日本

のアジアへの戦争責任を問う視点は含まれていなかった'もし-は非常に弱かったといわざるを得ないだろう。おもに

講和後の国際社会における日本の位置や国内体制のあり方に関する問題に議論が集中してしまったのである。もちろん'

その議論自体は'戟後史を規定する重要な問題であり'必要な議論であったのであるが。

全面講和連動の歴史的位置

講和に関する世論調査

73

全面講和愛国運動協議会の運動

1

一期

-講和投票の開始

〓皇

~五≡一)

新聞掲載日 対象 全面 単独 わからない

1949.ll.21 毎日 東京 .大阪 33.0 45.2 21.8

1949.12.15 朝日 有 哉者 59 21 20

1950.ll.15 朝日 全国 21.4 45.6 33.0

1951.1,3 読売 全国 14.2 66.3 19.4

1951.1.3.4 毎日 東京 7.1 64.5 28.4

1951.4.22 読売 束京 57.1 21.1 21.8

表 3- 2 再軍備に関する世論調査

新 聞 掲載日 対象 再軍備賛成 反 対 わ からない1950.ll.15 朝日 全国 53.8 27.6 18.6

1950.12.22 読売 東京 43.8 38.7 17.5

1951.1.3 読売 全国 65.8 16.5 17.7

1951.3.3 毎日 全国 63.9 19.5 17.5

1951.3.26 読売 全国 47.3 23.6 29.1

1951.4.22 読売 束京 53.1 30.4 16.5

1951.8.15 読売 全国 50.8 31.5 17.7

1951.9.16 毎日 全国 76.3 12.1 7.9

1951.9.20 朝日 全国 71 16 13

1951.10.8 読売 全国 58.0 24.9 17.1

1952.2.8 読売 全国 56.9 23.8 19.31952.3.2.3 朝日 全国 56 26 18

1952.4.14 毎日 全国 38.3 38.0 17.3

表 3-3 憲法改正に関する世論調査

共産党所感派の主

導で結成された全愛

(-)

協に対し'国際派は

全面講和闘争のみに

とどまることなく

'

平和擁護闘争と結び

つけて闘うことを要

求し'「眼前

の侵略

行為にたいして'そ

への協力と準備に

たいLt再武装の進

l駒

にた

いLt

より精力的に闘争せ

ねばなら」ず'「全面講和だけをさけばせることは'行動を欲している大衆の革命的エネルギーを発散させ'必然的に'

(2)

無力な議会主義的お祭さわざに転化させる結果になる」と'講和投票を批判した。

こうした対立の中でも'全愛協は結成と同時に全面講和

・再軍備反対の講和投票を開始した。世論は'朝鮮戦争の衝

74

撃によって'再軍備容認'そのための改憲賛成'講和についても全面講和を理想としながらも'現実問題としては単独

(表3--、2'3)

講和賛成へと大き-シ

いた

そのため'単に講和投票を集めるだけでなく

「全面講和と講和後の全占領軍の

(3)

撤去こそが'日本の平和と独立のために絶対必要だという'国論統

をはかること'新たな活動家を兄いだし組織を

確立することが目指された。

講和投票の進め方については'まず

「機関、各支部'分会全職場において講和問題をとりあげ充分御討論」すること。

(ママ)

それから

「全面講和をか-と-するため

一人でも多-の人にその重要性を認識させるための各種集会を催」すこと。そ

(4)

のうえで

「全面講和投票署名獲得運動を積極的に」行うこと。以上のように加盟団体に要請した。単なる署名集め運動

に媛小化せず'集会や討論など世論づ-りを重視していたことが伺われる。

全愛協加盟の労働組合は'大会や執行委員会などで全面講和を決議し'職場集会を開いた-'執行委員が職場をまわ

るなどして署名を集めていった。民主団体などは'団体の構成員の署名のみならず'街頭での署名活動や'戸別訪問な

ど活発な活動を展開した。その他にも'個人やグループで戸別訪問を行ったり'学生が先生や学友から'商店主がお客

さんから'お寺ではお参りに来た人から集めたりというように'様々な階層で多様な形で取り組まれたのである。その

なかでも'講和投票の中心を担ったのは'女性団体と朝鮮人団体であった。婦人民主クラブは'その機関紙である

「民

(1r・)

主婦人新聞に刷り込まれた投票用紙を切-抜いたものや、自分でプリン-した用紙」などを使って'労組にくらべてい

ち早-大口の署名を集めていた。また、民主婦人団体協議会では米の値上げ反対や電気料金値上げ反射運動とあわせて

全面講和投票に取り組み、東京蓮町の婦人民主クラブでは、「ミソ'ショーユ'炭などがどんどんあがり生活が苦しく

なるがこれはどういうわけだろうと問題になり話し合った結果'単独講和の値上がりだということがわかってきた。そ

(6)

こで全面講和でなければ生活は楽にならないということを町中の人に知らせよう」

と単独講和の値上がりだと宣伝し,

75 全面講和運動の歴史的位置

署名を集めた。このように生活に密着した日常要求と結び付けて運動を広げていったのである。

対日講和は朝鮮戦争の進展と不可分の関係であり'朝鮮人は自らの問題として'朝鮮統

一民主戟線や少年団を中心に

積極的に講和投票に取り組んだ。町田の朝鮮人小学生五〇名は'東京土建町田分会の講和投票の呼び掛けに応えて'

「きっそ-町田駅をはじめとして戸別訪問を始め、五万の署名目標

(町田町全体で)をめざして行動のトップをき

(7)

た」。東京では'三月二八日現在五十万弱の講和投票が集まっていたが、そのうち朝鮮人団体が二〇万を占めていた。

町田のみならず北区少年団など東京各地で運動の先頭に朝鮮人学生が立っており'六月二二日、全愛協

・平和委員会共

(8)

催で行われた東京都平和活動家会議では

「朝鮮人の平和運動を模範としてこれに協力する」ことが決議されたほどであっ

た。ま

た'講和投票の方針にもあったように'宣伝啓蒙'世論形成のために平和講演会や全面講和講演会などの各種平和

集会も署名と並行して取-組まれ、全愛協からは講師が派遣された。平和集会は

一月三

一日に大阪福島区平和懇談会が

開催されたのを皮切りに'二月から五月にかけて'岐阜'奈良'長野'北海道'徳島'京都'宮城'福岡'東京'新潟'

(9)

福島'大分'佐賀などの各府県下の市町村で行われた。また'平和集会にあわせて丸木位里

・赤松俊子共同制作の原爆

(10)

の図巡回展や原爆写真展を開催し'国民の原爆体験に訴えた。大阪では'五

1年

1月に全愛協加盟団体である関西主婦

I;I

連が原爆展を主催Lt約四万人の入場者を得た。

(12)

単独講和のお先棒をかつぎ'「支配階級の御用報道」のような役割を果していた報道機関に対抗Lt全面講和を宣伝

(13)

するために'また'厳しい弾圧をかい-ぐるために'宣伝啓蒙活動は'様々な創意工夫を発揮して取り組まれた。例え

ば'二月の節分には'三十万人の人出で賑わう京都吉田神社で京大生五十余名が

「河上まんじゆう」千個と共に'大吉=

全面講和

・再軍備反対'大凶=単独講和

・再軍備の講和み-じ二万枚を売り出し'同時に講和投票も約五千票獲得。東

76

(14)

京全愛協世田谷支部では

「全面講和の福はうち、単独講和の鬼はそと」のビラを

一万八千枚、各個に配布した。

さて'共産党の党内対立の平和運動への影響が頂点に達したのが'三月二七日に行われた平和委員会全国代表者会議

であった。二月三

日'ベルリンで開かれた第

一回世界平和評議会において,莱,ソ、中,英,仏の五大国間の平和条

【L・i:)

約の締結を要求するベルリン

・アピール

(以下Bアピール)が呼びかけられた。所感派はこれを軽視し,講和投票に専

念したが'国際派はtBアピールの署名運動を開始していた。会議ではBアピール採択をめぐって対立し,所感派に連

なる三〇名が'会議途中で退場した。残った二〇〇名は会議を続けtBアピールと分裂を排し統

一を守るアピールを採

択した。

翌二八日、全愛協第二回全国代表者会議が'昨日退場した三〇名を中心に開催された。会議の終了後、「『平和擁護全

(16)

国代表者会議』を代行させるとして、吉田資治氏を議長におし'退場者のみの」会議を行った。このように平和運動は

分裂し'

はBアピールの意義を理解をせず'他方ではBアピールを強調するあまり講和投票を軽視する傾向が生ま

れていたのである。

こうした混乱に対し'世界平和評議会書記局はtBアピールを支持し拡大するカンパニアの中に,講和投票を包容す

ることが可能であると助言した。この助言を受けて四月

121日,平和委員会常任委員会において

「Bアピールを積極的

に展開する」運動方針が採択された。講和投票についてはBアピールが

「全面講和を要求し再軍備に反対する

『講和投

(17)

票』運動と全く

した内容を持ったものであることを確認し」'「具体的方法は

『全愛協』と協力し計画的に積極的

(-8)

(19)

にする」

ことを決議した。共産党臨時中央指導部も、『前衛』誌上でtBアピールの無視を自己批判した。こうして,

(訓)

Bアピールと講和投票が統

一して取り組まれたはじめたのである。

77 全面講和運動の歴史的位置

2

第二期=平和委員会との共闘

二九至、四~五一、九)

全愛協第二回全国代表者会議では'結成から二ケ月の運動を総括すると共に'今後の運動方針が申し合わされた。講

和投票は

一五〇万を超える数が集約されていたが'さらに

「地方選挙、メーデーを通じて一千万'五㌧六両月に

一千万

獲得」することを目標とした。また'地方組織を早急につ-ることが強調され'新たな方針として'「地方議会に働き

(2-)

かけて'全面講和即時締結再軍備反対を決議させる」ことを追加した。この地方議会への働きかけによって、和歌山県

(2)

会'長野'新潟'埼玉へ京都'東京の一部市町村へ高知県高岡町、群馬県上陽村'岐阜県笠置村などで全面講和が決議

された。

Bアピールが採択されてから全愛協と平和委員会の協力共同関係は

一層強化された。五月四日'平和委員会常任委員

会は'当面の運動方針を決定し'平和の夏期講座や原爆展'原爆写真展、映画会の開催'平和パンフレットや雑誌

『平

和』の発行などの諸事業と共に'

一千万のBアピール署名獲得を目標にして六月二五日から八月

1五日までを平和月間

としてキャンペーンを張ることにした。全愛協も

「これと平行して一千万の全面講和

・再軍備反対の署名を獲得するた

(23)

め運動を展開

た。月間期間のなかでも'六月二五日

(朝鮮戦争勃発)'七月七日

(中日戦争)'八月

1日

(反戦デー)'

八月六日

(広島原爆投下)'八月

1五日

(敗戦記念)および各市町村の爆撃された日を平和投票デーとして、「全員動員

(24)

して署名運動や平和祭'講演会など

取り組んだ。講演会は'全国三百数十ヶ所で開催され'京都では'京都大学同

学会主催'全官公、京都平和に生きる会などの後援で'七月に総合原爆展が丸物百貨店で開催された。総合原爆展とし

ては日本初めてで'十日間に三万人の入場者があった。原爆展の前後には'京都市内や周辺都市でスチール展が開かれ

(25)

(26)

原爆展の

「会場では署名を反対されていたが

「最後の三日間でベルリンアピール七〇〇二票'講和投票五三〇

〇票

集められた。また,大阪の深江稲荷神社夏祭りでは,深江平和の会,青年会,神主さんによって平和祈願祭が

78

出典

Bアピール

‥『全国平和擁護日本大会

報告と決議集」二

九空年八月亭

一五日

講和投票

『講和新聞』第天号

t豊二年三月六日

全愛協

‥吉田健二

「講和運動の軌跡」一九八二

平和委員会

‥前掲

『全国平和擁護日本大会

報告と決議集』

同資料によると、福島'千葉、岐阜では'全愛協組織がその府県の平和委員会組織として位置づけられている。

このことからも'平和委員会と全愛協との協力共同tより実態は平和委員会に依存していたことが伺われよう。

表4 都道府県別署名数と組織状況

Bアピール 全面講和 全愛協 平和委員会

北海道 66,304 227,066 準備会 平和委貞会

青 森 8,839 34,522 平和を守る会

岩 手 43,948 43,200 平和を守る会

秋 田 93,462 38,038 協議会 平和を守る会

宮 城 87,092 44,500 協議会 平和を守る会

山 形 50,619 125,800 協議会 平和を守る会

福 島 5,827 27,504 協議会 全愛協

栃 木 23,028 12,300 平和委員会

群 馬 45,100 36,800 平和委員会

埼 玉 52,060 36,800 平和委貞会

茨 城 21,761 100,000 平和委員会

東 京 564,347 1,085,700 促進協議会 平和会議

千 葉 ll,359 15,837 準備会 全愛協 (準)

神奈Jl 137,069 73,211 協議会 平和委員会

山 梨 4,214 32,733 平和委員会

長 野 40,000 80,267 協議会 平和委員会

新 潟 17,472 133,104 協議会 平和会諌

宮 山 20,062 26,740 協議会 平和委員会

石 川 3,200 765 平和委員会

福 井 6,800 6,200 平和委員会

岐 阜 98,253 39,600 準備会 全愛協世話人会

三 重 81,000 58,000 協議会 平和を守る会

静 岡 38,148 69,358 平和委員会

愛 知 146,094 264,174 協議会 平和委貞会

滋 賀、 214,000 101,840 協議会 平和委員会

京 都 184,336 299,101 協読会 平和に生きる会

大 阪 263,582 415,046 協諌会 平和友の会

兵 庫 501,942 281,670 協議会 平和を守る会

和歌山 10,230 20,100 平和を守る会

奈 良 - 25,100 協議会

鳥 取 12,728 4,000 平和を守る会

島 根 50,528 48,922 平和協議会

岡 山 72,000 10,000 平和を守る会

広 島 35,000 17,000 協議会 平和委員会

山 口 41,200 32,400 平和委員会

杏 川 13,000 3,000

徳 島 1,500 13,730 協議会

愛 媛 400 86,700 協議会

高 知 520 36,037 平和を守る会

福 岡 264,503 203,000 協議会 平和委員会

佐 賀 3,800 24,360 協議会 平和を守る会

長 崎 18,200 6,000 平和を守る会

熊 本 63,596 38,507 協議会 平和を守る会

大 分 2,400 48,650 準備会 平和を守る会

宮 崎 87,147 56,000 協議会 平和を守る会

鹿児島 - 44,760 平和を守る会

中 央 1,397,922 1,397,922 全愛協 平和擁護日本委員会

79 全面講和運動の歴史的位置

I;i:I

計画され、平和祈願や世界平和ののぼりを先頭に御輿をかついで町中ね-歩き'神社前では原爆展も開催され

他に

(29)

も各地で平和盆おどりゃ平和ハイキングなどが取り組ま

'

警察もお手上げ状態であ

った。

八月六日には'広島県平和委員会と広島県再軍備反対共同斗争委員会の共催で'原爆記念全国平和大会が行われた。

会場の荒神小学校講堂には

一三

〇〇名が参会し'二千三百名の警官の包囲の中'全面講和'五大国平和協定などの決議

(eFO)

を採択した。

そして'平和月間のしめく-りとして'八月

一四t

T五日の両日'東京において全国平和擁護日本大会が非合法下に

開催された。大会には、全国から四

〇〇名が参加し'平和月間の取り組みが集約され'それぞれ累計で講和投票は四六

(表1)

四万㌧

Bアピールは五

一八万集ま

ったと発表さ

。しかし'平和月間の目標であ

った

一千万には遠-及ばなかった。

また、大会では全面講和再軍備反対、サンフランシスコ仮調印反対などを決議するとともに'単独講和粉砕のため第二

(31)

平和月間として引き続きキャンペーンを張り'九月

一日の国民平和デーを頂点にいっそう運動を盛り上げることにし

その平和国民デーは'弾圧によって開催不可能となったため'同じ九月

1日に行われた'日本平和推進国民会議主催の

(32)

平和国民大会に合流しようとした。

I;I.)

この第二期における全愛協独自の活動としては'次

のも

のが挙

げら

れる。

四月1四日「選挙とメーデー講

和投票結

べ」'

(別)

五月八日には'ソ連の四大国外相会議の提案を受けて「四

大国会議開

催の

ために」という声

明の発表。単

独講和の

強行

が明らかになると'七月l二

日'「アジアはフィリピンが草案拒否の態度を決め'

インドは新中国の参加を主張

し'ま

たパキスタン'セイロン'ビルマ'インドネシャも反対である。新中国はかねてからソ同盟や朝鮮共和国とともにこの

種の草案は無効であるという意見を表明しっづけてきた。従

ってアジア諸国はほとんど調印に参加しないであろう。西

欧諸国だけがあっま

ってアジアの

一番の重要問題である対日講和を決めるというのは全-意味がない」と'アジア除外

80

(35)

の単独講和'アジアを敵とする米軍の駐留へ日本再軍備に反対する議長団声明を発表し

アジア除外の講和を批判し

た声明であ-注目できよう。

このように'全愛協は'講和をめぐる情勢に対応して声明を発表するのみで'独自の活動は見られない。平和月間の

ように'平和委員会の提唱する運動に全愛協も併行して参加しているのが実態で'講和投票とBアピールが統

一して取

り組まれ始めてからは'それまで

「(平和擁護)日本委員会の組織指導が全面講和愛国運動協議会の支部結成の方向に

V郡爪

重点がむけられていた

とに対する逆揺れと全愛協組織の弱体さのため'平和委員会の活動に全てが解消されていた

(37)

と思われる。

さて'七月

l〇日に開城において朝鮮停戦交渉が始まる

一方で'対日講和も大詰めを迎えていた。七月

二二日'米英

合同対日平和条約案が発表され'七月二〇日には五五ヶ国に招請状が発送された。米英案の再軍備制限条項の欠如には'

オーストラリア'ニュージーランド'ビルマ'フィリピンが'また賠償放棄条項には'中華民国へオーストラリア'ニュー

ジーランド'フィリピンが強い反発を示した。また'インドは第三勢力の立場から'中華人民共和国の参加を主張する

とともに'琉球'小笠原の分離'米軍の駐留'日本の再軍備に反対した。朝鮮戦争を背景にアメリカ中心に進められた

対日講和は'西側陣営内部ですら無理のある内容であった。

結局い九月八日サンフランシスコ講和条約が調印された。中国'朝鮮代表は招請されず'インド'ビルマ'ユーゴス

ラビアは招請されたが参加せず'調印にはソ連'ポーランド'チェコスロバキアの三国が欠席し四九ヶ国が調印した。

その後'会場を移し'日米安全保障条約が調印されたが'日本側の署名は青田茂のみであった。

81 全面講和運動の歴史的位置

3

第三期=批准反対運動

九五

「九~五

「十

両条約調印によって'日本再軍備の用意が始まり

「運動はここに新しい段階に入」ったとして'全愛協は調印後の運

動を提起した。両条約調印に際Lt「不当かつ非合法な条約を無効と認め、外国軍隊が撤退して日本の独立が回復され'

四大国が協定して日本の安全を保護するような全面講和を要求」Lt全国民に対し'「あらゆる集会で批准反対を決議

して臨時国会に圧力をかけ'桑港屈辱条約の効力発生を-いとめること」、「国辱条約に反対し'日本人青年を外国の弾

よけとする再軍備に反対し独立と平和の講和条約を要求する意思表示として全面講和に協力」すること'「思想の左右

(3)

をとはず宗教の如何を問わず'

一切の愛国者が日本の独立のため団結して闘うこと

訴えた。第二平和月間は'「新

しい段階に対処するため」批准反対月間と名前を代えて'批准国会終了まで延長して取り組まれ'特に再軍備反対の運

動を強めることと'「『アジア諸国と再びたたかわない』ということを誓い'アジア諸国と友好を深める。アジア諸国の

友好と経済交流な-しては日本経済は自立も発展もできないし'日本人の生活もよ-ならないこと」について宣伝する

ことが決められた。具体的には'講和投票を

「『批准反対』の署名」として'「さらに'五百万票を批准国会までに集め

ること」、「批准反対'再軍備反対の決議」をし'国会'政党'議員'政府'地方議会'地方議員に送ること'「地方議

会で批准反対'再軍備反対を決議させる」こと、「選挙区選出議員に働きかけ'国会で批准に反対する約束をさせ

(39)

る」ことなどを決めた。

批准国会は'

10月

10日招集された.衆議院では

10月二五日'講和条約は賛成三〇七票'反対四七票、安僕条約

は賛成二八九票'反対七

一票で通過。参議院では'

一八日、講和条約賛成

一七四票'反対四五票'安保条約賛成

一四七票'反対七六票。両条約は批准され'翌

一九五二年四月二八日に発効することとなった。

82

4

課題別運動の展開

(I九五

LJ十

一~)

(仰)

一一月二〇日'全愛協議長団は声明を発Lt

「両条約の批准によって'戦争と日本の植民地化の危機は大き-」なり、

「日本は亡国の運命を辿る」が'「これに抵抗する力はますます強-なって」おり'「救国のために力う合わせること」

を訴えた。

しかし'ここでも具体的な運動方針を示したのは'平和委員会であった。

一月七日'平和委員会は全国代表者会議

を開催し'批准後の運動方針を決定した。当面する中心課題には'①再軍備反対'徴兵反対運動の強化②五大国平和条

約締結促進と署名運動③国際経済会議への参加促進が据えられた。その他にも、アジア太平洋地域平和会議開催促進'

在日アジア人会議開催促進'日中

・日ソ貿易の促進や不戟アジア'再軍備反対'徴兵反対'軍事基地反対'平和憲法守

(41)

れ'公安条例反対などの署名運動に取り組むことをきめた。このように'両条約が調印'批准されるなかで'全面講和

運動は'単独講和

・安保条約によってもたらされる再軍備や軍事基地提供'日中貿易の禁止などの諸政策との対決を強

め'課題別の運動へ重点を移していったのである。

その中でも戦争宣伝禁止法制定運動と徴兵反対署名運動が運動の中心に置かれた。戟争宣伝禁止法は'山ノ内

一郎'

(42)

林百郎'戎能通孝の三人が中心となって原案を起草Lt五

一年八月'全国平和擁護日本大会において法案が発表され'

法制定の運動が展開された。また'徴兵反対署名は全学連'日本戦没学生記念会

(わだつみ会)'官公庁労組青年部'

青年祖国戦線などの青年団体で積極的に取り上げられた。全愛協提唱の徴兵反対署名は'次の三項目から成り'

アジアはアジア人とたたかわない

一㌧兵隊には行かない行かせない

一、朝鮮の戦争をやめさせよう

83 全面講和運動の歴史的位置

(43)

ltアジア太平洋会議に参加しょう

【H\

「独立」直後の五二年五月末現在で百万の署名が集まっていた。

以上見てきたように'両条約調印後の運動の特徴は'課題別の諸運動を生んだこととアジアとの友好の方向を鮮明に

しはじめることである。それは'再軍備が日本を守るためではな-'アジアへの脅威であることと'中国'ソ連などア

ジア諸国との国民的親善の強化で単独調和を下から掘り崩す必要とから生まれていた。

両条約が発効し'日本が

「独立」した後'全愛協は先述のような課題別の諸運動を生み'その幕を閉じることになっ

た。五二年十

一月四日'「我々は今後の平和運動の方針として'第

一に全面講和軍事基地撤去外国軍隊撤去の運動を平

和運動の中心と確認すること'第二に愛国平和の運動を国民の諸要求から出発して要求をかちとる運動と結びつけてこ

れらの運動を意識的な愛国平和の運動にたかめるために努力すること、第三に再軍備反対や貿易促進など部分的な運動

をそれぞれ発展させ将来これを平和と独立の線で大き-統

1させることtを確認し'これらの方針を実現するために平

、L・5)

和擁護日本委員会と合同する」との声明を発Lt平和委員会と組織合同したのである。

あわりに

講和

・安保両条約によって'日本は憲法とは対立する安保体制に組み込まれ'アメリカのアジア戦略の前進基地に位

置づけられた。

こうした動きに対し'共産党所感派などの呼びかけで平和と独立の統

一戦線をめざす全愛協が結成され'いち早-ス

ローガンの域を出て'全面講和

・再軍備反対の講和投票という行動を伴う運動に取-組んだ。しかし'社会党'総評は

参加せず'地方組織も実態を欠き'共産党の内部対立の影響や厳しい弾圧もあって'統

一戦線にはほど遠く'有効な闘

84

争を組織をすることは出来なかった。独自の運動としては講和投票と機関紙の発行が中心で'運動の実際は平和委員会

が担っていた。講和投票は'厳しい弾圧の中'国民の戦争体験

・原爆体験に依拠して進められ'有権者のl割以上の署

名を集めるなど

〓正の影響力を発揮した。しかし'目標数に遠-及ばなかったのみならず'世論調査に見られるように

全面講和

・再軍備反対の

「国論統

はならなかった。また'後に総評などが中心となって結成した日本平和推進国民

会議との統

1や共闘も行われず、現実政治にはインパクトを欠いた。

このような組織

・運動面での弱点はありつつも'講和という日本の進路が鋭-問われた時期に全愛協が全面講和

・再

軍備反対

・独立などを主張し'ポツダム宣言

・憲法の平和原則に則った日本の進路-もう

一つの道を提起したことは評

価されてよい。このもう

一つの道は現実のものとはならなかったが'安保体制下の逆コース政策に対決する理論的拠り

所となり'「暗い時代」下の民衆運動を活性化させ'独立後の基地反対

・再軍備反対

・平和憲法擁護

・日中貿易促進な

どの諸運動を準備した。全面講和運動は五〇年代の

(平和と民主主義)の諸運動の出発点に位置し'全愛協は'

(平和

(-)

と民主主義)運動の原形の一つをつ-つた。形成期の戦後草新勢力の一端を担ったといえよう。

以上のように'全面講和運動の歴史的意義はtGHQ・保守勢力が民主主義の課題を放棄Lt政治反動=逆コースが

進行するなかで'戦後民主主義の担い手を育て、戦後民主主義を定着させる契機となったことにある。上から与えられ

た性格の強かった戦後の民主主義

・新憲法を自覚化する思想的営為の始まりであったといえよう。

また'全愛協は、アジア除外という単独講和の構図を厳し-批判し'単独講和による脱亜入米

・対米従属路線に対し

て'日中貿易促進などアジアとの友好

・提携の方向を提起した。と-に講和条約が調印

・批准され'アジアへの脅威が

より現実のものとなると'「アジアはアジア人とたたかわない」をスローガンとする徴兵反対署名が提起されたように'

運動の中で'アジアの位置づけは高まって行ったのである。

85 全面講和運動の歴史的位置

同時に、全愛協の論理の限界も見てお-必要があろう。戦後の平和

・民主主義の原点でもある憲法については'受動

的にとりあげるにとどまり'積極的に憲法の擁護を掲げ連動の原理'統

一戦線の政策とするには至らなかった。条約調

(2)

印後にようやく

「平和憲法まもれ」がスローガンの一つとして登場して-るにすぎない。また'アジア除外の調印を批

判し'アジアとの友好の方向を打ち出してはいたが'中国

・朝鮮観'賠償観に見られるように'講和という場で対アジ

ア戦争責任を問うという観点は欠落していた。過去の深い反省を欠いたままの平和

・民主主義の指向であったといえよ

うか。

その後'五〇年代の

(平和と民主主義)運動がどのように展開され'その中で民主主義や憲法の自覚化がどのように

進んでいくのか。また'アジアとの友好の運動のなかでアジアへの戦争責任'加害の側面がどう位置づけられたのか'

または位置づけられなかったのか。今後の検討課題は多い。

註はじ

めに

(-)全愛協議長団声明

「アジア民族と結び単独講和に反対しょう」『講和新聞』第三九号

1九五l年七月三l目。

(2)石丸和人

後日本外交皇

It三省堂'一九八三年oマイケル・ヨシツ

本が独立した日』講談社二

九八四年。細谷千博

『サンフランシス

コ講和への道』中央公論社二

九八四年。渡辺昭夫

・富里政玄

『サンフランシスコ講和』東大出版会'一九八六年。五十嵐武士

『対日講和と冷戟』

東大出版会二

九八六年など。民衆や野党の動向を取り上げたものとしては'荒敬

「社会党の講和政策とその形成過程」日本現代史研究会編

『戦

後体制の形成』大月書店、1九八八年。荒敬

「対日講和の締結と領土

・賠償問題」藤原彰

・今井清

1編

『十五年戦争史』4'青木書店二

九八九

年など。

(3)代表例は東京歴史科学研究会現代史部会。主として

『歴史評論』誌上に会貞の個人研究が発表され'その成果は'ヲ日本現代史の出発-戦後民主

主義の形成』青木書店、l九七八年にまとめられた。また神田文人

本の統

一戟線運動』青木書店'一九七九年tも戦後の統一戟線運動をカバI

している。

(4)書EE健二

「講和運動の軌跡-全愛協'平和推進国民会議を中心に」貢

化評論』

1九八二年六月号'1五二頁。十年以上も前の指摘であるが、未

だ研究の進展は見られない。

86

(5)最近の研究では'矢崎彰

「『世界』と平和問題談話会-講和と冷戦をめぐる論議を中心に-」『民衆史研究』第四五号二

九九三年五月がある。そ

の他にも高橋進

・中村研

1「戦後日本の平和論」『世界』岩波書店二

九七八年六月。山口二郎

「戦後平和論の遺産」『世界』'1九九三年

1月号。

並河啓后

「平和間題談話会の思想と行動」田畑茂

『近現代日本の平和思想二

、、ネルウァ葦居'1九九二年。関寛治

「平和の政治学」『年報政治

一九七六年』など。

(6)五十嵐武士、前掲書。

(7)吉田健二'前掲論文。

(8)

「昭和二四年

九四九)から'講和条約が発効した昭和二七年四月までの三年余の年月は'戦後三〇年の歴史の中で、もっとも暗い時代であ

た」大江志乃夫

『戦後変革』日本の歴史第三

1巻、小学館'一九七六年'二七四頁O

(9)福井英雄

「『逆コース』と戦後体制の形成」『年報政治学

1九

1九』岩波書店'1九九

1年'二二八頁。渡辺治

「総論」『日本近現代史4

枚後改

革と現代社会の形成』岩波書店'1九九四年'1九頁。

(1)油井大三郎

「朝鮮戟争と片面講和」『講座日本歴史』第十

1巻東大出版会二

九八五年二

八二-1八七頁。荒敬

「サンフランシスコ講和」『日本

同時代史』第二巻青木書店'一九九〇年'一八七頁など。

全面講和愛国運動協議会の組織と論理

(-)講和綱額は'①すべての戦争犯罪人とファシスト分子の追放②平和産業の無制限拡大と軍事的潜勢力の一掃③対外依存政策によらない自力再建'

人民大衆の生活安定①できるだけはやい講和'講和会議への民主勢力代表の参加⑤すべての民主的な諸国との平等の講和と友好互恵の貿易⑥完全

な独立'中立の確保

(日本共産党中央機関紙

『アカハタ』

1九四九年六月二二日.)

(2)

『アカハタ』

1九四九年

11月

10日0

(3)徳田書記長

「新しい情勢とこれに対応するわが党の政策-第

1八回拡大中央委員会

l般報告」『日本共産党五〇年問題

資料文献集』

1、新日本

出版社tl九五七年、1五Il六頁O

(4)徳田球

一「当来する革命における日本共産党の基本的任務について

(草案-原案)」前掲書'八五頁。

(5)輪田l造

「ポツダム茎11Hによる全面講和と全占領軍の撤退-民族の要求を行動に組織せよ-J(1九五〇二

・二二)'日本共産党横関誌

『前衛』

五五号'一九五1年二月。

(6)『前衛』五六号'一九五一年三月。

(7)全愛協

「全面講和愛国運動協議会成立の経過」

l九五1年

一月

1九日'法政大学大原社会問題研究所所蔵。

(8)言論弾圧反対同盟

『自由の声』第

1九号'一九五一年

l月二l日'大原社研所蔵.

(9)全愛協

「全面講和署名運動についての要請」

l九五l年二月

一日'大原社研所蔵。

共産党の案では講和投票は全面講和と占領軍の撤去の二項目で行う方針であったが'討論の結果'全面講和と再軍備反対の二つのスローガンで

行うことになった。第二回全国代表者会議でも'占額軍の撤退を講和投票に加えるよう'わだつみ会などから提案があったが'運動の幅を狭くす

るという理由で'取りあげられなかった。

87 全面講和運動の歴史的位置

(12)

(13)

(14)

(15)

(16)

(17)

(18)

(19)

(20)

(21)

(22)

(23)

(24)

(25)

(26)

(27)

(28)

(29

)

(30

)

前掲

「全面講和愛国連動協議会成立の経過」。

『自由の声』第

一七

八合併号

1九五1年

1月

1四日

また

『解放新聞』

1九五1年

1月

10日によると'民擁同が労農市民全国代表者会議開催を決定したことになっている。しかし'民擁同は五〇

年八月に解散していたはずである。(社会科学総合辞典編纂委員会

『社会科学総合辞典』新H本出版社

1九九二年'六三五頁。)ただ'地方の民擁

同組織の中には解散せず'活動を続けていたところがあったものと思われる。例えば大阪民擁同は'大阪府労働部労政課

『大阪における昭和二七

年の労働情勢』によると'五二年三月二三日

「行政協定粉砕

・吉田内閣打倒演説会」(中之島公会堂)を主催している。

全愛協

「独立と平和の全面講和に結集せよ〃」

1九五l年

1月

一九日

『今津菊松所蔵資料』兵庫県立労働経済研究所所蔵O

前掲

「全面講和愛国運動協読会成立の経過」。

『連合通信』国内版Nd九二九tl九五1年二月九日。同恥九九四'1九五一年二月二五日。

東京地方全面講和促進懇談会

「全面講和ニュース」zd2'1九五一年二月

1五日。

『連合通信』国内版zc5九九四tl九五1年二月

1八日。同zd九四九'1九五一年二月二1°]ほか0

全愛協事務局

「全面講和愛国運動協議会

(要旨)」

一九五一年八月。吉田'前掲論文より引用。

『熊倉啓安氏筆者宛書簡』

1九九三年

月二二日。

前掲

「全面講和愛国運動協議会

(要旨)」。なお'七月二八日に、総評と宗教者平和運動協議会中心に全愛協とは

1線を画す形で日本平和推進国民

会議が結成されると'全愛協加盟の有力労組であった新産別

・全自動車

・全日通

・合成化学などは日本平和推進国民会議に加盟した。組織的結合

の弱きの一例である。

発行は週刊

(毎週日曜日)で、五一年二月から関西総局

(大阪市北区)と京都支局

(京都市左京区)が設置された。

東京地方全面講和運動促進懇談会

(仮称)「全面講和運動」zcr

t1九五l年二月四日'大原杜研所蔵O

「全国民に訴える」『第

一回世界平和評議会の決定についての資料kt大原社研所蔵.

平野義太郎

・尾形昭二

『米英ソ中との全面講和への途』全面講和愛国運動協議会発行'1九五一年二月'二二頁。

前掲

「全面講和署名運動についての要請」。

当時、全学連代表として平和委員会の役貝をつとめていた熊倉啓安はつぎのように総括しているO同感であるO「統

一行動を組織する具体的政策

として平和憲法の擁護が全面に押し出されるべきであった。しかし'当時'運動全体としては憲法擁護の意義を積極的に評価せず'受動的に取り

上げていたため'この統

l行動を成功的に組織することができなかった」(熊倉啓安

『戦後平和運動史』大月書店'l九五九年'1五九頁。)

平野

・尾形。前掲書'九頁。

前掲

「アジア民族と結び単独講和に反対しよう」。

淡徳三郎

・平野義太郎

・小椋広勝

『ダレス草案にこたえる′.』自由の声社発売、全面講和愛国運動協議会刊行'一九五一年四月'三七頁、尼崎市

立地域研究史料館所蔵。

前掲

「全面講和署名運動についての要請」。

平野

・尾形'前掲書'三頁。

88

393837(40) 全

愛協声明

「批准粉砕に結集

『桑港調印Jは無効」『講和新聞』第四六号'1九五1年九月二五日。

・平野

・小椋へ前掲書'三六~三七頁。

例えば'アカハタが復刊されたように、独立によって運動の合法面が拡大し新たな局面を切り開-可能性があったにもかかわらず'共産党は中国

革命の経験を機械的に適用して'植民地の民族解放は武装闘争路線しかないと平和的変革の可能性を否定した。この武装闘争路線の採用によって'

共産党は国民の支持を失っていた。

平野

・尾形、前掲書'1人~l九頁O

同前'二六頁。

例えば'全愛協議長団長の平野義太郎は次のように発言している。「『戦争か平和に」中立はない筈である、日本の平和と独立はアジアにおける諸

民族の解放と結びついてやることが必要で'中立論もこれらの植民地解放運動を圧迫してやれというような中立はあり得ない'かつて戦前に中立

を唱えていた人たちが結局戦争に味方したことは未だ記憶に新しいところだ」『自治労新聞』

一九五一年二月五目。

平野

・尾形'前掲諸'三

1頁。

淡徳三郎

・平野義太郎

・小椋広勝'前掲書'1八頁。

こうした問題に言及した数少ない例としては次のものがあるが'全愛協としての発言ではない。まず'朝鮮停戟と講和については、平和委員会常

任委員会

「国民に訴うー朝鮮停戦と九月講和説について-」

l九五1年七月

l三日において'「朝鮮で平和の光がさしはじめた今日'私たちはこ

のような単独講和を断じて結ばせてはなりません」と主張し、朝鮮停戟の動きの中で東西の対立をあおる単独講和締結を非難した。また'朝鮮代

表の参加については'「朝鮮問題の平和的解決に関する決議」において'「五十年間日本の圧制に苦しめられカイロ宣言によって独立した朝鮮の代

表がサンフランシスコ会議に参加することを要請」した。(『全国平和擁護日本大会報告と決議集」

1九五1年八月十四'十五日。)

中国除外についてへ日中友好協会機関誌上における大山郁夫の次のような発言がある。「中国を除いた講和は'たんに政治的見地からいって真の

講和でないだけでな-、精神的

・思想的には、日本軍国主義の罪業に対する完全な無反省を意味するのであって明らかに'日本軍国主義復活の第

1歩となるものである。」(「七

・七第十四周年に際して」日中友好協会

『日本と中国L

l九五1年七月

10日O)また'全愛協加盟の日中友好協会

は八月三

1日の会議で'

「過去のわが国軍国主義にたいする深刻な反省に立つ時、われわれは中国を除き中国を無視した講和に'断じて賛成する

ことができない。」という対日講和に関する要望を満場

1敦で採択した。(『日本と中国b

l九五l年九月

l五日。)このような貴重な発言

・決議が

ありながら'全面講和連動の全体の中でこうした観点が位置づけられ'深められることはなかった。朝鮮問題も同様である。

全面講和愛国運動協議会の運動

(-)前掲

『熊倉氏書簡』によると'「全愛協の結成はいわゆる共産党の

『所感派」グループの主導によるもの」で、「『国際派』グループは全愛協の結

成の経過には直接かかわっていなかった」。国際派であった

「全学連代表は全愛協の場ではなく平和委員会の場で全愛協をめぐる問題を議論して

いた」という。

(2)『プロレタリア通信』第三号'1九五1年二月

一日'労働省

『資料労働運動史昭和二六年ltl四二l頁からの引用.

(3)『自由の声」第

1九号'1九五一年

1月二一日.

Vi。E

(5)

(6)

(7)

(8)

(9)

(10)

(14

)

(15

)

89 全面講和運動の歴史的位置

2019181716

前掲

「全面講和署名運動についての要請」。

前掲

「全面講和ニュース」恥20

『講和新聞j第二六号、1九五l年四月二五日。

前掲

「全面講和運動」恥-0

『講和新聞)第三五号'1九五1年七月三日.

吉田健二'前掲論文'一五八頁。

丸木位里

・赤松俊子の

「原爆の図」は'1九五〇年二月'東京三越での第

1回の展示会以降'スットクホルム・アピールや講和投票と結合して全

国各地て展示された01九五1年

11月までに'開催地五1ヶ所'述べ日数二二三日'入場者六四万九千人に及んだという。(字吹暁

「原爆体験

と平和運動」Fl五年戦争史』4'青木書店tl九八九年'1五四-1五五頁。)

比嘉正子

『奥さま部隊奮闘記-消費者運動20年-』第二巻'関西主婦連合会発行

'

一九六八年'二七頁。

『妹尾義郎日記』第六巻国書刊行会'一九七四年'三五七頁。

五〇年六月二五日の朝鮮戦争の前後から共産党や民衆運動に対する弾圧は激しさを増した。六月六H共産党中央委員公職追放'六月

l六日デモ

集会の禁止'六月二六日

『アカハタ』発行停止'七月新聞

・通信関係のレッド

・バージ開始'八月三〇日全労連解放指令など。また占領政策違反

の名による逮捕者も相次いだ。全愛協の運動も例外ではな-、激しい弾圧が加えられた。例えば'「講和投票用紙を大量に没収したり甚だしい場

合は用紙をもっていたというだけで検挙したしている。平和の集会が所々で解散され'言論'集会'出版の自由が剥奪され人権がジユウリンされ

平和活動家の投獄が行われている」(前掲

「日本平和擁護運動の任務と方針」。)

『講和新聞』第二1号、l九五1年二月二二日。

ベルリン・アピールは以下の三項目から成り'世界的に署名運動が行われた。

われわれはアメリカ合衆国'ソヴエト同盟'中華人民共和国'英国'及びフランスの五大国間の平和条約の締結を要求する。

一'われわれはこのための会談を拒否することは'これに責任をもつ五大国のいずれの政府であろうと侵略的意図をもっている証拠とみるもので

ある。

1'われわれはすべての国に門戸をひらいている平和条約の要求を支持するよう平和を愛するあらゆる国の国民に呼びかける。

日本平和委員会編

『平和運動20年資料集jt大月書店'1九六九年

頁o

武井昭夫

「日本平和擁護運動の先進のために」『学生評論』第九号'1九五1年五月'三四-三九頁。

平和擁護日本委員会常任委員会

「講和投票に関する決議」'大原社研所蔵。

平和擁護日本委員会

「日本平和擁護運動の任務と方針」

l九五1年四月四日、大原社研所蔵。

日本共産党臨時中央指導部

「平和擁護闘争こそ'わが党の中心任務-平和擁護闘争についての方針書-』『前衛』第五九号'1九五一年六月。

運動の統

1は'講和投票用紙にも反映している。講和投票用紙とBアピールの署名用紙は当然別々の用紙であったが'運動が統

1されてからt

l

枚の用紙に両方の署名が印刷されたものを使い始めている。例えば、『師岡佑行氏寄贈史料』(尼崎市立地域研究資料館所蔵)には、講和投票のみt

Bアピールのみ、講和投票とBアピール両方の3種類の署名用紙がある。

90

(a)

(22)

(23)

(24)

(25)

(26)

(27)

(28)

(29)

(33)

(34)

(35)

(36)

(37)

(38)

(39)

『講和新聞』第二五号、1九五一年四月二五日。

「全国平和擁護日本大会報告と決議集」

1九五1'八㌧二

四'1五)'大原社研所蔵。なお'伊井弥四郎

「日本の平和運動の現状と平和擁護日本

委員会」『前衛』第六〇号'一九五一年七月によると

「和歌山、三重、長野'群馬'埼玉、東京の各市町村会」で採択されたことになっている。

『連合通信』国内版恥空九、l九五l年

一月二八日。同九l天、1九五1年二月八日ほか。

全日本産業別労働組合会議執行委員会

「平和月間に際し全日本の労働者諸君に訴える/」

一九五一年六月二九日、大原社研所蔵。

平和擁護日本委員会常任委員会

「八、1五までに1千万の署名'1万の平和黍を/平和擁護日本委員会常任委決定-」

1九五

1年五月三〇日'大

原社研所蔵。

松尾尊先

『国際国家への出発』'集英社'一九九三年'一五〇頁。

『講和新聞』第四二号'一九五1年八月二一日。

全官公京都地方協議会機関紙

『全官公』

1九五1年七月二八日'京都府立総合資料館所蔵。

『講和新聞』第四1号'1九五1年八月

1四日0

例えば'「東京中野区では仏教団体さとりの会'仏教社会同盟'キリスト教文化会'中野平和婦人会'健康を守る会'東京土建'中野民主商工会

などが主催で

『平和の盆踊り3を

一五日夜開くこととなった」(『講和新聞」第三六号'1九五1年七月

10日。)また'京都では'九月二二日

「国鉄'市職'臨戦'府職、京大織組をはじめ'京大、地域婦人'高校生なと四〇〇名が芸術劇場の臓を先頭に平和ハイキングに参集した」'(前

『全官公』'一九五

1年九月二七日。)

『講和新聞』四一号'

1九五1年八月

1四日。

前掲

「全国平和擁護日本大会報告と決詩集」'『講和新聞』第四言下'1九五1年八月二1日。

同大会は'警察の弾圧で開催が危ぶまれたが'共産党の同調介入を自主的に拒否することを条件に開催が許可された。二万を超える参加者で'

九五

1年最大の集会となり、デモ行進も行われた。参加を許されなかった全愛協系の団体は'平推会議のデモ行進の最後尾にジグザグデモで続こ

うとしたという。(『佐藤行通氏

(平推会議事務局員)聞き取り』

1九九E]年

1二月六日O)また、会場では、共産党や在日朝鮮耗

l民主戦線東京

委員会'社会党再建全国連絡会なと全愛協加盟団体がビラを配布した0(「九

平和国民大会ビラ」大原社研所蔵。)

『講和新聞J第二六号

一九五1年四月二五日O

『講和新開』第二八号

l九五一年五月一五日。

『講和新聞』第三九号

一九五l年七月三l日。

熊倉啓安'前掲書'五五頁。(

)内は引用者。

表4にあるように'平和委貞会は'ほほ全国にその組織を持っていた。全愛協の地方組織がない軒県では'名実ともに平和委員会が活動を担

って

いとた考えられる。

「批准粉砕に結集'『桑港調印jは無効だ」『講和新聞」第四六号

1九五1年九月二五日O

平和擁護日本委員会

「批准反対平和月間の運動について」

l九五1年九月

1九日'大原社研所蔵。ただし'批准反対運動の成果がどの程度あった

のかは不明である。講和投票は'八月までにE]六〇万票集まっていたが'表4にあるように'1九五二年三月現在では'五三〇万票であり'調印

令而講和連動の歴史的位置

後は七〇万弱の増加に止まっている。

(S)

「高まる救国の力を結集、両条約批准後のわれらの使命」『講和新聞』第五五号'1九五1年

月二九日O

(4)平和擁護日本委員会

『平和運動の発展のために-全国代表者会諌報告と決議案-』

1九五

l年

1二月七日へ大原社研所蔵'

-

1三頁。

(讐

前掲'「全国平和擁護日本大会報告と決議集」。

(43)前掲'吉田論文'

1六二頁。

(44)平和擁護日本委員会機関紙

『せかい平和』第四

一号'

1九五二年八月二五日。八月

l五°]現在では'二二一万集まっており'その内訳は'府県別

では、東京六二万'兵庫四〇万、愛媛

1五万'全愛協加盟団体別では、朝鮮民戟

1六五万㌧わだつみ会八万㌧キリスー者平和を守る会六万なとで

あった。

(4)平和擁護日本委員会機関紙

『平和新聞』(『講和新聞』の後継紙)l九五二年

11月

l三日

全愛協は団体加盟の組織で、平和委員会は個人加盟の組織であるから両者の組織合同というのは'組織論として考えればおかしなことだが'全

愛協が組織として解散し'運動の成果が平和委員会に吸収されたものと考えられる。現に全愛協の機関紙であった

『講和新聞」が、『平和新聞』

と改題されて平和委員会の機関紙となった。(前掲'『熊倉氏書簡㌔)

あわりに

(-)全愛協の運動は、あ-まで形成期戦後革新勢力の組織的理論的

1端であり、その中心を担ったのは'総評'社会党つまり日本平和推進国民会議系

の運動であった。

(2)全愛協とは対照的に'日本平和推進国民会議は'運動の原理に平和憲法を据え'スローガンの筆頭に平和憲法の擁護を掲げていた。全愛協系の運

動の中で憲法が位置づけられるようになるのは'森'古関が主張するように保守党が改憲を指向し始める

一九五四年から五五年のことであった。

(森英樹

「平和運動における日本国憲法」『法律時報』四七巻

一二号、

1九七五年

10月。古関彰

1「日本国憲法による政治体制とは何であったか」

『争点日本の歴史』第六巻t

l九九

1年。)

なお'本稿は'

1九九三年度大阪教育大学大学院に提出した修士論文第二章を再構成の上'加筆

・修正したものである。

91

92

各研究室の行事だより

乾研究室

(日本近世史)

平成六年八月

一五日から

一九日まで、愛知県北設楽郡稲武町の㈲古橋会において'近世文

書の整理と読解のための研修を行

った。古橋家は庄屋を勤めた旧家で'多種類の近世文書を多量に保存している家とし

て知られている。参加者は三回生九人

・卒業生三人の十二人で'参加者の言によると

「三回生は五日にわたる文書浸り

でかなり読解力がついた」とのことであ

った。

吉田研究室

(日本古代史)

三回にわたり

一日史跡巡検を行った。

四月二十九日

森の宮駅1旧細川藩邸跡1カトリック大聖堂1難波宮跡1鎌八幡1西鶴墓所1生国魂神社1谷町九丁駅

参加学生八人

五月五日

西大寺駅1佐伯門跡1平城宮資料館1朝堂院跡1法華寺1宮跡庭園1新大富駅

参加学生九人

十二月十日

天王寺駅1茶臼山1

一心寺1真田宰相戦死跡1清水寺1勝星院1四天王寺1庚申堂1寺田町駅

参加学生八人

なお、日本史全体では卒論修論中間発表会を十二月十五日に'卒論修論発表会を七年二月十六日に開催した。発表者

は十五人もいたので'午前十時から午後六時におよび'参加者

一同いささかグロッキイの体であ

った。

伊藤

・菊池研究室

(東洋史)

合同して九月三日から五日まで'和歌山県初島において'卒論修論中間発表を行った。

参加者は'院生五人

・学部生十三人の十八人であった。