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新潟大学人文学部 2017 年度卒業論文概要 メディア・表現文化学 主専攻プログラム

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Page 1: 新潟大学人文学部 2017年度卒業論文概要...日本のマンガ・アニメにおけるサイボーグの表象 小野寺彪冴 サイボーグという概念は1960 年に提唱され、以降その意味するところは少しずつ時代と

新潟大学人文学部2017年度卒業論文概要

メディア・表現文化学主専攻プログラム

Page 2: 新潟大学人文学部 2017年度卒業論文概要...日本のマンガ・アニメにおけるサイボーグの表象 小野寺彪冴 サイボーグという概念は1960 年に提唱され、以降その意味するところは少しずつ時代と

目 次

猪飼 大智 スポーツ報道における現代のヒーロー像 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 1

榎並 明子 少女漫画における CLAMP作品の意義 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 2

小野寺彪冴 日本のマンガ・アニメにおけるサイボーグの表象 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 3

加賀谷隆之 消費者生成メディアにおける価値の創造 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4

川上菜由子 特撮ヒーロードラマにおけるキャラクターの成立 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 5

木村 夏希 広告における男性身体 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6

鹿野 由佳 『刀剣乱舞‐ ONLINE‐』の聖地巡礼 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 7

滋野 文菜 初期ディズニー・アニメーションの批評的受容 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 8

鈴 木 彩 筆跡によるキャラクター付け . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 9

須藤 美帆 日本の芸能界におけるジャニーズ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 10

関 麗 実写映像作品における女装男子についての考察 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 11

髙瀬ひかり SNSの登場とテレビ視聴 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 12

髙橋 菜緒 留学におけるソーシャルメディア利用:日本人学生のケース . . . . . . . . . . 13

髙橋 広基 2000年代日本ポピュラー音楽におけるヒッピー文化の残響 . . . . . . . . . . . 14

武田友里恵 化粧品広告から見る日本の美容観 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 15

中川 由貴 『攻殻機動隊』シリーズにおけるジェンダー表現 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 16

菱田 知之 テレビ報道番組における恣意的表現の検証とその考察 . . . . . . . . . . . . . . . . 17

古井 璃紗 テレビドラマからみる現代女性の社会性 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 18

堀井 航平 コンテンツツーリズムと地方創生の関係性について . . . . . . . . . . . . . . . . . . 19

真 坂 光 『キノの旅』における旅人 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 20

丸山 佳祐 現代におけるサイバーパンクの拡張と変質 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 21

丸 山 皐 LIVE体験の変様 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 22

三浦 志保 動画ジャンル「歌ってみた」がつくり上げた共同体 . . . . . . . . . . . . . . . . . . 23

水 上 駿 Twitterにおけるマスメディア論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 24

柳沼 奈々 司馬遼太郎の歴史語り‐新選組を中心に . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 25

山澤 紗季 ネット社会におけるパーソナルメディア論 . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 26

山田 知歩 SNSにおける自己表現‐映画「何者」を中心に‐ . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 27

山田 美結 90年代ディズニーアニメーションにおけるキャラクター造形の多様性 . 28

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スポーツ報道における現代のヒーロー像

猪飼 大智

日本においてスポーツとメディアは互いに協力し密接な関係を築き上げてきた。現在ではテレビ、新聞、雑誌、インターネットなど様々なかたちでスポーツに関する報道がされている。そしてマスメディアは自らの報道を多くの人に受け取ってもらうために情報を加工し、スポーツ選手がまるで「ヒーロー」であるかのように人々に伝えている。そこで本論文では総合スポーツ専門雑誌『Number』をもとにメディアにおけるスポーツヒーロー像について分析・考察を行った。第 1章ではスポーツとメディアの関係史についてまとめた。新聞におけるスポーツ関係記事の登場からインターネットの登場によるスポーツメディア形態の変容までを述べた。第 2章では橋本純一の先行研究から「モダンスポーツヒーロー」「アンチヒーロー」「ポストモダンスポーツヒーロー」の 3つのスポーツヒーロー像についてまとめた。第 3章では『Number』の記事の中で大谷翔平、本田圭佑、錦織圭の 3選手を表現しているとみられることばを「実力」「人間性」「ルックス」の 3つに分類し、スポーツヒーロー的要素の分析を行った。実力を表現することばとして「天才」や「革命」、人間性を表現することばとして「努力」や「強気」、ルックスを表現することばとして「若い」や「さわやか」といったものが見て取れた。第 4章では『Number』の記事における大谷、本田、錦織の 3選手へのインタビューをもとに選手本人が持つスポーツヒーロー的要素の分析を行った。そして最後に第 5 章では 3、4 章で行った『Number』の雑誌記事分析を通して明らかになったことについてまとめ、結論を述べた。結論は、現代のスポーツヒーローはモダンスポーツヒーロー、アンチスポーツヒーロー、ポストモダンスポーツヒーローの 3つのスポーツヒーロー像のうちどれか一つではなく複数に当てはまっており、橋本の設定した従来のスポーツヒーロー像は崩れて来ているとした。その一方でヒーローを身近な存在に感じさせるような報道を行い、選手に対する読者の想像を具体的にしていることが見て取れた。これは橋本が述べた典型的なヒーローとは違うセレブリティに近いセレブリティ化したヒーローであるとした。

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少女漫画における CLAMP作品の意義

榎並 明子

CLAMPとは、いがらし寒月、大川七瀬、猫井椿、もこなの女性 4名からなる創作集団のことである。彼女らは、青年誌、少年漫画誌とさまざまなジャンルにおいて幅広い創作活動を行っている。そんな彼女らによる少女漫画という媒体で発表した作品が二作品ある。それが『魔法騎士レイアース』(1993)『カードキャプターさくら』(1996)である。何故彼女らが『なかよし』で両作品を描いたのか、彼女らが少女漫画誌において果たした意義を考察した。第一章では、CLAMPが初めて描いた少女漫画作品である『魔法騎士レイアース』について取り上げた。既存の戦闘美少女ものではまれであった、衣装に少年漫画的要素を付与するという表現を CLAMPは行った。さらに、当時は女性作家による表現が難しいとされていたロボットを、彼女らは同作品にて登場させた。以上が、CLAMPが同作品を描いた意義であると結論づけた。また、少年漫画的とは何を意味するのかを明らかにするため、少女漫画、少年漫画の概念や成り立ちを考察した。漫画読者の性差が少なくなってきた時期に、CLAMP

は『魔法騎士レイアース』にて先のような意義を成し遂げたため、彼女らはより漫画の読者層を広げる助けをしたという点でも、同作品が描かれた意義があると結論づけた。物語構造としても、同作品は、戦闘美少女もの、少女漫画という媒体ではなされにくかったキャラクターの死を描いた。手塚治虫によって初めてなされたキャラクターの死という表現を、戦闘美少女もの、少女漫画という媒体で行ったことも、CLAMPが『魔法騎士レイアース』を描いた意義であるという結論をだした。第二章では、CLAMPが『魔法騎士レイアース』後に『なかよし』で連載を開始した作品である『カードキャプターさくら』について取り上げた。魔法少女について、少女という言葉が持つ意味とそれが与える社会的印象についても明らかにした。さらに、既存の魔法少女作品を成立させるための条件を確認し、それらの条件と『カードキャプターさくら』はいかに異なっているのかを検討した結果、以下の三点で異なることが明らかになった。第一に、従来の魔法少女作品では扱われてこなかった萌えという要素を、CLAMPが同作品に上手く盛り込んだこと、男性向けの漫画雑誌で使用されることが当たり前であった萌えという設定を、CLAMPは巧みに『カードキャプターさくら』に持ち込み、昇華したことを確認した。第二に、魔法少女ものではほとんど描かれてこなかったマイノリティが描かれていることである。同性愛的表現や、家庭環境の複雑な設定が積極的に用いられている。第三に、変身シーンの欠如である。これまでも変身を行わない魔法少女たちも存在したが、彼女らが変身をせずに居られるのには、一定の条件があった。しかし、さくらは、変身を行わず、変身に伴う制約も持たない魔法少女であることを確認した。以上の特徴が、既存の魔法少女作品には難しかった表現を可能にしたという点で、CLAMPが同作品を描いた意義があると結論づけた。

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日本のマンガ・アニメにおけるサイボーグの表象

小野寺 彪冴

サイボーグという概念は 1960年に提唱され、以降その意味するところは少しずつ時代と共に変容していった。本稿ではサイボーグ表象が我々の鏡となるという浅見の意見に従い、日本のマンガ・アニメの描写を用いてその変化を追った。第 1章では、1960年代には宇宙開発や核戦争といったものが現実味を帯びてきたことにより『サイボーグ 009』に代表されるような「身体機能強化型」サイボーグが登場し、彼らは物理的パワーに重きを置いていたことを明らかにした。1980年代に入ると、『ブレードランナー』、『ニューロマンサー』といった、サイバーパンク

SFが誕生し、その影響を受けた『攻殻機動隊』では「身体機能強化型」のように能力を強化するだけの改造ではなく、改造をすることでまた別のテクノロジーとの結びつきを目的とする表現を見ることができた。第 2章で論じたそれらの表現を「電脳空間没入型」と名付けた。パソコンやインターネットが一般にも普及し始める 1990年代後半には、アニメにおいてパソコンや電脳空間を舞台にした戦いの描写も現れている。「身体機能強化型」、「電脳空間没入型」のように実際に身体に改造を施しているわけではないものの、道具を用いることで空間と空間の結節点と化した存在を「空間ターミナル型」と名付けた。『デジモンアドベンチャー』や『電脳コイル』などの「空間ターミナル型」の描写では、意識か身体のどちらかが消失するともう一方にも影響があった。これは、我々がインターネットなどのテクノロジーによって出現した新たな空間に触れるようになったことで、現実世界ともう一つの世界を生きていることから発生した表現だと結論づけた。「空間ターミナル型」がインターネットと我々との関係が身近なものになったことで誕生したように、2000年代以降はデジタルゲームとの関わり合いが深くなるのと並行して、意識が身体に縛られなくなった存在が登場する。『スカイ・クロラ』では中身が入れ替わっているものの、同じ姿のキルドレが戻ってくる描写が見られ、『楽園追放』では、マテリアルボディの生命活動と電脳パーソナリティとは切り離されたものとして描写されている。一見これまでのサイボーグ表象とは関係がないようにも思えるこれらの表現であったが、実はデジタルゲームというメディアが作り出した空間の登場から発生したサイボーグ表象であることが明らかになった。第 4章で論じた『スカイ・クロラ』や『楽園追放』に見られるような表現を「アバター型」と名付け、新たなコミュニケーションの形に適応するために成立したのだと結論づけた。このように、サイボーグ表象は当初の表現から大きく形を変えているものの、我々がこれまでどのようにテクノロジーと向き合ってきたのかということと、テクノロジーに飲み込まれつつある現在を写す鏡として機能してきたことを明らかにした。

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消費者生成メディアにおける価値の創造

加賀谷 隆之

インターネットが一般に広く普及している現在、表現活動が活発に行われる場となっているのは、インターネット上の投稿サイトである。動画投稿サイト「ニコニコ動画」や小説投稿サイト「小説家になろう」に代表される投稿サイトは「消費者生成メディア(CGM:Consumer Generated Media)」と呼ばれ、そこに投稿されるコンテンツは「ユーザー生成コンテンツ(UGC:User Generated Content)」と呼称されている。「ニコニコ動画」におけるボーカロイドや「小説家になろう」から送り出された作品群がメディアミックスを続けているように、消費者生成メディアとそこから生み出されるコンテンツの勢いは、2018年現在においても盛んである。本論では、戦後の表現活動から消費者生成メディアが注目され始めた 2000年代を経て、現在に至るまでの消費者生成メディアの在り方について着目する。そして、消費者生成メディアおける価値の創造について考察した。第一章ではインターネット普及以前の主な活動として同人活動を取りあげた。その歴史と経緯を辿ることで、どのようにして現在へと繋がっているかを確認し、議論を始める準備とした。第二章ではインターネット普及以降、主な表現活動の場となった消費者生成メディアの基本的な特徴について整理した。梅田望夫が提唱した「総表現社会」という概念と、その成立条件の意味を確認し、それが現在の「ニコニコ動画」や「小説家になろう」といった消費者生成メディアにおいて成立していることを明らかにした。第三章では、消費者生成メディアに関する議論を整理した。2000 年代には消費者生成メディアが既存メディアの権威を崩壊させる、あるいは脅かすという議論が多く存在していた。その議論がどのような論理の元で行われていたのか、その一例として「魔法の iらんど」で生み出された『恋空』という作品と、それに関する事例を紹介し、既存メディアの権威についての議論が具体的にはどのようなものであったかを確認した。第四章では消費者生成メディアと既存メディアの関係性について考察するため、現在も盛んな「ニコニコ動画」や「小説家になろう」という二つの消費者生成メディアを、コンテンツの発展や商業化という点に着目し分析した。既存メディアの権威を脅かすと考えられていた消費者生成メディアは、今日では既存メディアと共存していることを明示した。そして、現在の消費者生成メディアは価値あるコンテンツを創造するだけでなく、それ自体が単なる表現活動の場にとどまらず、商業化へ至る場としての機能や価値を有する新しいメディアとして確立したのであると結論づけた。

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特撮ヒーロードラマにおけるキャラクターの成立

川上 菜由子

日本において特撮と呼ばれる映像作品は数多く制作されてきた。中でも変身ヒーローを題材とした特撮作品は、現在に至るまで継続的に放映されている。本稿では日本の特撮ヒーロードラマのキャラクターがどのように形成されているか、視聴者が何をもって認識するかについて考察した。主な考察対象は子供向けのテレビドラマである仮面ライダーシリーズ、特に『仮面ライダークウガ』(2001-2002)以降の平成ライダーシリーズである。第 1章では日本の特撮ドラマにおけるヒーローは、変身して敵を倒す存在であると述べた。作品によって敵のあり方や目的、倒すという行為の意味合いが異なるが、いずれも「怪物の退治」が根幹となる。アメリカンコミックの変装ヒーローと比べ、正体を隠すため以外の目的での変身の必要性が設定に組み込まれている。第 2章では仮面ライダーの物語についてまとめた。予算・撮影の都合の他に、子供向けのテレビドラマゆえに玩具展開や内容に関する制限を踏まえたうえで、前章で述べたヒーローの要素と作品ごとのテーマやモチーフを取り入れて物語が成立する。仮面ライダーは敵と同じ力を用いて同族と戦うヒーローとして誕生し、人間サイズのヒーローの変身を確立した。変身の過程を一つの場面として成立させ、変身前後のつながりを意識させることにより、多面的な一人のキャラクターを形成できるようになった。ある意味で怪物同士の戦いという構図は、平成に入って改造人間の要素が排除されたことでライダーも怪人も人間に近づいて境界がぼやけ、善悪の二分が困難になった。第 3章ではキャラクターの演じ方について、声と動きの観点から分類した。特撮ドラマの特徴は、声優もしくは素面で演じる俳優とスーツアクターの複数人が一つの役を分担して演じることだ。ヒーローの変身後の姿や怪人・怪獣を動きで演じるスーツアクターは欠かせない存在である。同じ役を演じる変身前の俳優とスーツアクターの間ではしぐさが共有され、動きをすり合わせることで一貫性をうむことを明らかにした。第 4章では声と動きが視聴者のキャラクター認識に与える影響について考察した。複数人によって演じられ、異なる身体と姿をもつキャラクターは、動きと声によって同一人物だと示される。声による一貫性を逆手にとり、同じ役の声を姿に応じてあえて変えることで、別の存在になったことを強調したり正体を隠したりできる。このような同役のあいだの声の変化が作中で指摘されることは少なく、視聴者の認識を誘導するための仕掛けだと考える。声の演じ手の違いを意識できる大人の方が誘導されやすい。「子供向け」だが「子供だまし」ではない点が、大人も夢中になる一因だろう。特撮ヒーロードラマのキャラクターは、制作上の条件を遵守しつつヒーローの要素と作品ごとのテーマを織り込んだ物語からうまれる。その独自性は、一役を複数人が分担して演じ、同一の声と動きがそれらを束ねて一人のキャラクターを構成することにあるのだ。

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広告における男性身体

木村 夏希

本論文は、「男性身体を扱う広告は女性身体を扱う広告と比べて表現が問題とならないのは何故か」という問いを立て、広告で男性身体がどのように扱われているかを明らかにした。広告の制作者は、商品・サービスを売り込む消費者の性別や年齢に応じて表現方法を変えることで、購買意欲を高めている。時として商品を売り込もうとするあまり、過激な表現や差別的な表現を行っている広告もある。特に過激な性表現や「女らしさ」を強制するような広告はしばしば批判されてきた。しかし、批判の対象となる広告は女性身体を性的に描写したものや、女性のみが家事・育児を行うことを奨励するような表現を行ったものであり、女性身体に比べて男性身体の表現は議論にあげられてこなかった。だが、商品の宣伝のために男性の裸体を用いた広告や、男性の美容に関する広告で「男らしさ」のイメージを消費者に植え付けようとするものも存在する。男性身体も性的な消費の対象となっていることを踏まえると、女性身体の表現だけでなく、男性身体の表現・広告を見る消費者の反応を問題にする必要があった。第 1章では、広告における男性身体の扱いを検討するために、Web広告に関する議論が盛んに行われている状況に着目し、そこでみられる女性身体表現を分析した。Web広告はテレビ CMや新聞・雑誌広告よりも炎上しやすい。その原因として、他の媒体に比べてWeb広告では表現が過激になる傾向があることが考えられる。加えて、これまでのテレビ CMでは不明瞭であった受容が SNSを中心にして読み取れるからだ。そのため、本論文はWeb広告に絞って議論を展開した。第 2章では、前章の分析を踏まえ、男性身体を扱った広告における表現がどのような意図を持って行われているのかを検討した。その際に、芸術領域における男性のヌードとの比較を通して、広告における男性の身体が消費者にもたらすイメージについて明らかにした。次に、男性身体が女性によって性的に消費されている事例を紹介し、男性身体を扱う広告を取り巻く環境について指摘した。第 3 章では、第 1 章と第 2 章の分析をまとめ、広告における男女身体表現と受容の差異という本論の課題について考察した。結果、女性身体と男性身体は文化的・社会的に異なる扱われ方をされているため、広告内で表層においては類似の表現がされているように見えても、深層では女性身体は男性身体に比べて異性から消費の対象とされ、抑圧されていることが明らかになった。また、女性身体の表現の議論は、社会での女性のあり方を改善しようするフェミニズム運動とも関連して行われてきたため、女性身体の表現に関する論争が男性身体の表現よりも盛んであることが判明した。本論文では、男女の身体表現を論じるときに表層的な描き方のみを指摘するのではなく、広告が宣伝するものと、身体表現が消費者に与えるイメージとの関係に注目することが重要であると結論付けた。

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『刀剣乱舞‐ ONLINE‐』の聖地巡礼

鹿野 由佳

アニメやゲーム、小説、映画、ドラマなどの舞台となった場所をめぐる聖地巡礼型の観光産業が活発になっているが、そのなかでも刀が擬人化されたキャラクターが登場する『刀剣乱舞-ONLINE-』(以下『刀剣乱舞』)を取り上げ考察した。『刀剣乱舞』は DMMゲームズとニトロプラスが共同製作したオンラインシミュレーションゲームである。2015年 1月 14

日より配信が開始され、2016年 3月 1日からは PC版と連動させたアプリケーションソフト『刀剣乱舞-Pocket-』も配信されている。プレイヤーは「審神者」として、刀剣が男性に擬人化された「刀剣男士」と呼ばれるキャラクターを収集、育成し、歴史の改変をたくらむ敵との戦闘で勝利を目指すものである。第 1章では増淵敏之の論を参考に、聖地巡礼についてとそれに対する関心についてまとめた。また他の作品を取りあげ、観光産業として活用されている具体例や聖地巡礼の楽しみ方について述べた。第 2章では東の論を参考に、『刀剣乱舞』はプレイヤーそれぞれの楽しみ方ができ、同様に聖地巡礼の楽しみ方も様々であると論じた。その特徴として実際の刀剣を見ること、複数個所が聖地となりうることをあげ考察した。また実際に見ることができない刀剣に関する聖地巡礼でも、楽しみ方はプレイヤーによって様々である点、複数個所が聖地となりうる点については共通の特徴であると述べた。第 3章では『刀剣乱舞』と同様の仕様に基づいたゲームである『艦隊これくしょん -艦これ-』と比較を行った。これにより、擬人化されるもととなった刀剣を実際に見ることができる点は『刀剣乱舞』の聖地巡礼の人気につながっていると考察した。以上のことから、『刀剣乱舞』の聖地巡礼は、実際の刀剣を見ることができ、ゲームの特性にそって様々な楽しみ方があることや、複数個所が聖地となりうることから多く行われるようになったのではないかと結論づけた。

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初期ディズニー・アニメーションの批評的受容

滋野 文菜

まんが評論家である大塚英志は、日本戦後まんが史の起源を語る中で、手塚治虫のキャラクターの特徴としての「死にゆく身体」を発見し、それに対し、ミッキーマウスをはじめとするキャラクターを「死なない身体」と表現した。大塚はこの論の説明の中で、日本戦後まんが史に影響を与えた人物の一人としてロシアの映画監督エイゼンシュテイン(1898-1948

年)を取り上げている。しかし、大塚が参照しなかったエイゼンシュテインのディズニー論、その中でも特に中心的に語られている「原形質性」という概念について見ていくと、「死にゆく身体」と「死なない身体」という大塚の図式にずれが生じる印象を受ける。そこで本論文では、エイゼンシュテインのものをはじめとするディズニー・アニメーション批評を参照することによって、そのずれを批判的に再検討し、さらにはその対立に代わる新たな図式を提示することを目的とした。第一章では論の出発点である大塚の主張̶̶ミッキーマウスをはじめとする非リアリズム的キャラクターの「死なない身体」と、そういった非リアリズム的キャラクターにリアルな命を与えた手塚治虫の「死にゆく身体」という対立図式̶̶の概要を再確認した。またそこでは、大塚がエイゼンシュテインの「モンタージュ論」に見られる映像技法的・構成主義的な一面を重視していたことを示した。第二章では、大塚が参照していないエイゼンシュテインのディズニー論を検討し、そこで挙げられていた「原形質性」の概念が特異なものであり、キャラクターを形作る輪郭線の動きが生み出す自由なイメージが注目されていたことを確認した。そして、「原形質性」にもとづくエイゼンシュテインによるキャラクターに関する思考は、前章で述べていた「モンタージュ論」や構成主義的な面とは性質の異なるものであったことを明らかにした。第三章では、ディズニー・アニメーションの特質としての「原形質性」という観点から、大塚が「死なない身体」とした非リアリズム的キャラクターを見直すことで、「死にゆく身体」と「死なない身体」の対立構図を再考した。ここでは「原形質性」がどのように大塚の図式に関連付けられるかを見るために、思考の補助線として、同じくディズニーについての論文を書いた今村太平の見解をまとめ、ディズニーキャラクターの身体の特異性を洗い出した。そして、「死なない身体」という概念で「非リアリズム的キャラクター」とディズニーキャラクターをまとめて語っているという点に、対立構図の「ずれ」の原因を見出した。以上の分析を通じて、本論文では、非リアリズム的キャラクターの「生命」という観点から分岐する新たな図式を提案し、非リアリズム的キャラクター、ディズニーキャラクター、手塚治虫のキャラクターの三つの分類に仕分け直した。こうして「非リアリズム的キャラクター」から分岐する形でディズニーキャラクターと手塚のキャラクターを置くことで、大塚の図式の問題を解決できると結論付けた。

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筆跡によるキャラクター付け

鈴木 彩

アニメーションが開発された 20世紀初頭から現在に至るまで、多くのキャラクターが生み出され、時代を追うごとに、動きをはじめとする新しい特徴が付け加えられていった。近年、キャラクターに独自の筆跡を持たせる動きがみられ、筆跡を主とした商品展開が行われている。本研究では、キャラクターの筆跡に焦点を当て、その特徴的な構造と、キャラクターに筆跡を持たせることによって生じる効果を明らかにすることを目的とした。第一章では、本研究を進める理由となった社会的背景について分析を行い、本論文における筆跡の定義を「文字という識別記号としてだけでなく、その文字が消費者に対して放つ欲望開発装置」と設定し、次章以降の論の進め方について説明した。続く第二章一節では、英語では二つの意味に分類される「autograph」と「signature」の違いについて分析を行い、筆跡がどちらに属するのかを確認した。第二節ではパースとソシュールを参照し、本論文における筆跡がどの位置にあるのかを明らかにした。第三節では人間の書く文字が与える印象について分析するために、黒田(1966)の先行研究を例に挙げ、筆跡が与えうる一種のステレオタイプのような共通認識は、比較的早い段階から存在していたことを確認した。第三章一節では、アイドルグッズの歴史について簡単に述べ、アイドルの筆跡に注目した商品展開はこれまで未開拓の分野であったことを確認した。続く第二節では、実際にキャラクターに付与された筆跡をめぐる商品展開を中心に分析を行い、筆跡の商品展開は非常に最近の動きであることを明らかにした。第三節では、商品化されたキャラクターの筆跡を実際に 4種類に分類し、各キャラクターとその筆跡の結びつきに関する検証を行った。第四章では視点を変え、キャラクターが動きや声を付与されていった過程について順を追って分析を行った。第一節では、初期漫画アニメーションにおいて人間の手が登場し、キャラクターを描き出すという自己言及的な表現を〈メタキャラクター表現〉と定義し、20世紀初頭ではこの自己言及的な表現が当たり前に存在し、スペクタクルな面を含んでいたことを確認した。第二節では 21世紀におけるキャラクターへのリアリティ付与の例をいくつか挙げ、受容者の反響も分析しつつ、キャラクターにリアリティを付与することで発生する効果について分析を行った。第三節では、SNSを用いたメタキャラクター表現を例に挙げ、SNS

という仮想空間でキャラクターとつながるということが、いかに受容者の「触れたい」という欲望を掻き立てるのか、実際に受容者の反応を例に挙げ分析を行った。終章では、以上を踏まえ、筆跡をはじめとした近年におけるキャラクターに対するリアリティの付与は、キャラクターの個性を創出する新たな手段にとどまらず、受容者・消費者の〈キャラクターに触れたい〉〈ないはずの身体に萌える〉という欲望を満たし、さらにその欲望を開発する装置として機能しており、この動きは 20世紀初頭における〈メタキャラクター表現〉への一種の先祖返りと見なすことができると結論付けた。

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日本の芸能界におけるジャニーズ

須藤 美帆

現在、日本の芸能界には多数のアイドルが存在しているが、その中でも男性アイドルという枠を一手に担っているのがジャニーズである。1962年の事務所創業以来、時代をときめく数々のアイドルを世に輩出し続けているジャニーズ事務所であるが、そのジャニーズが 50

年以上もの長い間絶大な人気を誇り、活動を続ける原動力は何であるのか、日本の芸能界の中でのジャニーズの存在がどのようなものであるのかということを明らかにすることを本論文の目的とした。第 1章では、日本の芸能界について簡単に説明した後ジャニーズの特徴を述べた。そしてジャニーズのこれまでのグループや人物の歴史を確認し、一つのグループが 20年以上もの長期間、目立った変化がないまま存続するというジャニーズの方針は 1980年代に定まったということがわかった。第 2 章では、1980 年代までのジャニーズを代表するグループとして少年隊を挙げ、ジャニーズの目指すステージがミュージカルであるということを明らかにした。また、ハイレベルな歌とダンスを兼ね備えた少年隊のパフォーマンスがジャニーズイメージを構築したことを確認した。第 3章では、1990年代からのジャニーズを代表するグループとして SMAPを挙げ、ジャニーズがバラエティー番組に参入し力を発揮してきた様子を述べた。SMAPがバラエティー番組でコントを披露するようになって以降、ジャニーズにとってバラエティー番組の存在がより大きくなったということが明らかになった。第 4章では、2000年代以降のジャニーズを代表するグループとして嵐を挙げ、グループのメンバー個々での活動がグループ活動に及ぼす影響を分析した。メンバーそれぞれの多様な面での活躍は没個性なグループになることを防ぎ、グループやジャニーズ全体の存在感を高める上で重要な取り組みであることがわかった。第 5章では、近年のジャニーズの多様性を示すグループとして KAT-TUNを挙げ、その特徴と誕生の理由を述べた。CDデビュー以前から不良少年のようなやんちゃな雰囲気をまとっていた KAT-TUNの誕生・デビューは、世間に大きなインパクトを与え、ジャニーズの多様性の幅が一層深まったと考察した。第 6章では、現代の日本を代表する女性アイドルである AKB48とジャニーズの比較を行い、共通点と相違点をまとめた。そこから、ジャニーズは現代のアイドルが行っている方法を別の形で実践しつつも格式高いアイドルという面を持ち合わせることにより、日本の芸能界にとってなくてはならない存在であり続けているということを明らかにした。以上のことから、ジャニーズの活動の原動力は、緻密な作戦と慎重な検討から実践される取り組みの積み重ねであり、それによって日本の芸能界になくてはならない存在へと昇りつめたと結論付けた。

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実写映像作品における女装男子についての考察

関 麗

「女装男子」や「男の娘」とは、マンガやアニメなどの二次元文化において発生した、女性にしか見えない容姿および内面を持つ少年・青年キャラクターの総称として用いられる言葉である。従来、マンガ原作からの映像化といってもアニメーション止まりであった彼らが、近年は生身の俳優身体を用いて実写映像化されることが進んできたように感じられ、この現象に疑問を持ったことが、本研究のきっかけとなっている。そこで本論文では、マンガ原作のある作品に焦点を絞り、「女装男子」「男の娘」キャラクターの実写映像化が増加してきた理由をいくらか提唱することを目的とした。第一章では、実写映像化における「女装男子」「男の娘」キャラクターの増加の背景について広く検討した。第一節では、オンライン記事のデータや実際の映像化の流れをもとに、増加現象を確認した。第二節では、三次元に存在はしているものの、様々なメディアを通して我々の目に入ってくるという点では二次元と共通した、「女装男子」「男の娘」に近い存在である、女装家や男の娘タレントといった生身の人間たちに触れ、分析を進めた。その上で、メディア出演する彼らの活躍が、増加現象を後押ししているのではないかと考えた。第二章では、支持層の変化という点に着目して検討した。マンガやアニメーション、ゲームといった二次元表象での主な受容者は男性であったが、実写映像という三次元表象においては、男性受容者だけでなく女性受容者も狙いとしているのではないかと考え、分析を進めた。映画『帝一の國』(2017) における志尊淳のような、俳優自身の「女子力」を活かしたキャラクター性や、映画『海月姫』(2014)における鯉淵蔵之介のような「女装男子」キャラクターの持つ、現実世界の女性に近いファッション性に着目し、議論を展開した。その上で、装われた女性と現実世界の女性との間の心情が近づいたことや、外見的な差異が小さくなったことが、女性に受け入れられやすくなったと考え、商業的な側面からの一因とした。第三章では、原作の世界観に準じた女装の違和感を演出させる観点から、生身の俳優身体を活用する意義について検討した。映画『ライチ☆光クラブ』(2016)を取り上げ、生身の俳優身体を用いた「男の娘」キャラクターは、生々しさや不気味さといったリアリティを追求し、身体の成長に伴う苦悩の演出を高める効果があるのではないかと指摘した。また実写映像化にあたり、女優を起用してしまうという過度の女性化は、生得的な女性との差異を小さくし、本来男性キャラクターであったはずの魅力が減退してしまうことからも、生身の俳優身体を用いる必要性を指摘した。その上で、実写映像化する際に、生身の俳優身体で演じられなければならないとされる場面が表れてきたことを、増加の要因とした。おわりにとして、以上の議論から見出された三点をまとめ、これらのような現象が、「女装男子」や「男の娘」キャラクターの実写映像化の増加理由として挙げられるのではないかと結論づけた。

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SNSの登場とテレビ視聴

髙瀬 ひかり

Twitterや Facebook等のソーシャルメディア(SNS)の登場により、テレビに変化が表れてきている。それは例えば、番組側が公式 Twitterを作成して番組情報をつぶやく、「#番組名」ツイートを呼びかける、番組の公式 LINEを作成する等、様々なものが存在する。また、視聴者の視聴スタイルも、SNSを利用しながらテレビを見るスタイルが増加しており、テレビの楽しみ方として新しい時代が到来していると言えるだろう。このほかにも、ツイキャスや LINE LIVEといったような、SNSとの併用を前提としたライブ配信サービスも登場し、テレビに代わる新たな娯楽も登場している。このような SNS をはじめとしたソーシャルメディアの登場は、テレビの視聴行動にどのような影響を与えたかを考察することを本論文の目的とした。まず第 1章では、普段私たちが何気なく利用しているテレビやインターネット、SNS。これらはいつどのように誕生し、また発展していったかを述べた。また、SNSの種類別利用率等を、総務省によるデータを用いて、その傾向等を考察した。第 2章では、SNSの登場はテレビにとってどのような変化を与えたのかを、様々な例を挙げ、SNS 普及以前のテレビの利用の仕方と比較しつつ論じた。SNS とテレビ視聴率との関係性や、テレビと SNSの融合、テレビと SNSの相乗性を、様々なデータや例を用いて考察を行った。第 3章では、スマートフォン時代に対応した、SNSとの併用を前提とした新たなライブ配信サービスを取り上げ、その本質や放送との違いを述べつつ、ライブ配信サービスはテレビにとってどのような影響を与えたか、また与えるかを述べた。第 4章では、大学生に行ったアンケート調査の目的・概要・方法・結果を述べ、その結果と、これまでの論をもとにして、SNS利用とテレビ視聴に関する考察を述べた。終わりに、SNS というリアルタイム性の強い、ユーザー同士のつながりが作られるツールが登場したことで、テレビ視聴時にも今その瞬間での意見や感情の共有が行われるようになった。SNSの登場はテレビの敵になるかと思われていたが、実際は、テレビ局側もその現象を利用したサービスを行ったり、それに合わせて番組を作るなど、協力の姿勢が見られたということを本論文の結論とした。

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留学におけるソーシャルメディア利用:日本人学生のケース

髙橋 菜緒

多くの日本人大学生が留学に行っている。近年、その留学の性質は、スマートフォンやソーシャルメディアなどのコミュニケーションテクノロジーの向上によって大きく変化している。しかし、留学の人気とソーシャルメディアへの関心が高まっているにも関わらず、日本での留学におけるソーシャルメディア利用に関する研究報告は多くない。そこで本稿では、日本人学生は留学中にどのような目的でソーシャルメディアを利用するか、そして彼らのソーシャルメディアデータから近年の留学に関してどのようなことが明らかになるかを調査した。本研究の目的は、ソーシャルメディアのある留学生活の全体像を捉えること、また分析を通して留学におけるソーシャルメディア活用の可能性を示唆することであったため、ある事象の全体的な理解を得ることに適したケーススタディーを行なった。2010 年代後半に英語圏に 1学期以上留学した日本人大学生 10名を対象に、Facebookの投稿データを収集し、インタビューを実施し、主題分析をした。この調査で、日本人大学生は、留学前の Twitter や LINE 中心のソーシャルメディア利用から、留学とともに周りのメディア環境に合わせて、Facebook や Facebook Messenger

中心にシフトするという全体的な傾向が示された。また、留学という状況下でソーシャルメディアは、とりわけインフォーマルな語学学習のツールとしてや、留学生活のリフレクティブツールとしての利用のされ方が、収集したデータから示された。一方で、ソーシャルメディアで投稿をしない参加者からは、将来へのプライバシーに関する懸念が指摘された。これらの結果が意味することは、ソーシャルメディアによって、留学中の外国語コミュニケーションの敷居位が低くなり、オンライン上に言語使用の場が得られたことだ。さらに、ソーシャルメディアは、その即時性を活かして留学体験のデジタルストーリーテリングに活用することで、留学志望の学生へや教育機関への情報提供として期待できることが示唆された。本調査のインタビューからは、Facebookの他に Instagramの言及が目立ったため、Instagramも含めたソーシャルメディア全体に関するさらなる調査が今後の課題として残った。

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2000年代日本ポピュラー音楽におけるヒッピー文化の残響

髙橋 広基

ヒッピー文化とは 1960年代にアメリカなどで流行した、反社会・脱社会の思想を持った対抗文化である。このヒッピー文化は当時のロック音楽とも深く関係しており、新たな音楽ジャンルの形成など大きな影響を与えた。本稿では、このヒッピー文化の影響がどのように現在の日本ポピュラー音楽に影響を与えているのか、さらに当時のロック音楽におけるヒッピー文化の実践と現在の日本ポピュラー音楽における実践とではどのような違いがあるかを考察した。第一章ではヒッピー文化の特徴や歴史、当時の音楽・若者との関わりを明らかにした。ヒッピー文化は初期と後期に分けることができ、初期ヒッピー文化は既存の政治や権力に反抗する反体制・反権力の思想を持っており、後期ヒッピー文化は初期とは異なり脱社会思想や自らの内面を追求する思想に変わっていった。これらがロック音楽とも深く結びついており、サイケデリックという音楽ジャンルの形成やウッドストックという音楽コンサートの開催にもつながった。第二章ではヒッピー文化と 60~70年代日本音楽との関わりをはっぴいえんどというバンドを題材に考察した。一般的にヒッピー文化的な思想や特徴を持っていないとされるはっぴいえんどであるが、はっぴいえんどは後期ヒッピー文化の影響を強く受けている。プロテスト色が強かった当時の日本音楽とは異なり、はっぴいえんどの曲は脱社会的な歌詞やサイケデリック音楽に影響を受けた曲調をしている。このように当時の日本音楽にもヒッピー文化の影響が反映していることを明らかにした。第三章では日本のロックバンド Mr.Children の音楽活動におけるヒッピー文化の影響を考察した。Mr.Children は音楽活動以外にも ap bank という環境基金組織や Reborn Art

Festivalという芸術祭の開催など様々な活動に積極的である。その活動の根底にはヒッピー文化における自然回帰の考え方や社会を変えたいという考え方があり、音楽以外における活動にもヒッピー文化の影響があることを考察した。第四章ではMr.Childrenの楽曲を中心にヒッピー文化の影響を考察した。Mr.Childrenは年代によって曲への姿勢が異なり、90年代の楽曲には初期ヒッピー文化のような反社会的思想と後期ヒッピー文化における内面追求の思想が見られることがわかった。2000~2010 年代においては後期ヒッピー文化の色が強くなり、2011年に起きた東日本大震災以降は社会を変えたいという思想や未来への視点が加わっており、どの年代においてもヒッピー文化の思想が影響を与えていることがわかった。Mr.Children は 60 年代に流行したヒッピー文化の影響を強く反映させていることがわかった。さらに 60年代と 2000年代の違いは、そのヒッピー文化の精神・思想をロック音楽という対抗文化ではなく、ポップ・ポピュラー音楽という大衆文化で実践しているという点である。Mr.Childrenのようなキャリアが長いグループにヒッピー文化の影響が見られことがわかったことで、現在の日本ポピュラー音楽においてヒッピー文化が大きな影響を与えていると結論付けた。

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化粧品広告から見る日本の美容観

武田 友里恵

本稿では、洗顔料や化粧水をはじめとするフェイスケア用品の広告を分析し、日本の美容観を明らかにしようと試みた。フェイスケア用品といっても価格帯も幅広く、様々な商品があるが、範囲としてはドラッグストアで展開している商品を主な対象とした。美容に気を使うことは女性的とされているが、男性向けの化粧品広告にも注目し、どのような特徴や差異があるのか検討した。まず第 1章では、日本の美容・化粧についてどのような先行研究があるのか整理した。化粧は女性がするものとされるようになった近年であるが、最近は男性にとって美容が身近な物となり、男性化粧品市場も注目されていることを述べた。また、インタビューやアンケート調査によると、何のため、誰のために身だしなみを含む美容を行うのかということに男女で違いが見られると論じられていると述べた。このような傾向が広告内の表現でも見られるのかと疑問を提起し、第 2章の具体的な広告比較へとつなげた。第 2章ではメジャーな化粧品会社として花王、資生堂、マンダムを取り上げ、女性向けと男性向けでフェイスケアブランド広告の分析、比較を行った。花王の広告では、メイク落としの CMに女性とともに男性が登場しており、メイクアップは女性がするものだという美容観が変化していることが読み取れると指摘した。また、異性の存在の仕方にも差異が見られた。資生堂の広告では、同じ社会人層をターゲットにしていながら、女性向けでは女性が自宅に 1人、男性向けでは 3人の男性が仕事中という大きく異なったシチュエーションになっていることを分析した。また、男性化粧品を主力とするマンダムの広告では、男性向けの広告の登場人物が人間でなくなっているものが多い点に注目した。第 3章では、第 2章での広告分析をもとに、第 1節で男女別の広告の特徴、第 2節で誰のため、何のために美容や身だしなみに気を付けているのかということを考察した。男女別の特徴として、全体的に女性向けの広告は真面目でシリアスな雰囲気、男性向けは明るい、笑いを狙っている雰囲気があった。また、広告に描かれる舞台と人数に注目すると、女性向けの場合は自宅や室内が主な舞台であり、主要な登場人物は女性 1人であることが多かった。一方の男性向けは、屋外、自宅外も舞台になり、複数の男性が登場する。女性は自分 1人であっても美容に気を使い、男性は他者の目線や社会的な評価のため美容に気を使う存在として描かれている。これは、女性は自身の内部(身体)に、男性は外部(社会)へ関心を向けるべきという役割分業意識がまだ根強いことの現れではないかと指摘し、本論を締めくくった。

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『攻殻機動隊』シリーズにおけるジェンダー表現

中川 由貴

『攻殻機動隊』シリーズとは、士郎正宗の同名の漫画(1991-)を原作とする SFアニメーション作品である。本論文では、押井守『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(1995、以下『攻殻機動隊』(1995)と表記)の女性サイボーグである主人公を中心とした表現の特徴を、ジェンダーの観点から明らかにすることを目的とした。映像表現に着目することから、アニメーション作品を主な比較の対象とした。また、『攻殻機動隊』(1995)は、海外でも評価された作品であることから、英語圏での受容についても分析対象とした。第一章では、『攻殻機動隊』(1995)のジェンダーに関する先行研究を整理した上で、伝統的に現実の女性身体は男性よりも下級のものとしてみなされてきたことを確認した。そしてこのことは、フィクションにおけるサイボーグ表象についても重要な問題として扱われていることを示した。第二章では、『攻殻機動隊』シリーズの比較分析を行った。まず主人公について、『攻殻機動隊』シリーズに共通して描かれているオープニングシーン、熱光学迷彩を使用するシーン、戦車に飛び乗るシーンの 3 つを比較することで、『攻殻機動隊』(1995)における主人公だけが女性的身体を晒すシーンが多く描かれていることを指摘した。また、戦闘時には男性的な肉体を示すなど、ジェンダーの記号がミスマッチに配置されていることも確認した。さらに、シリーズにおいて重要な概念である「ゴースト」を持たないアンドロイドの多くに女性というジェンダーが与えられていることを示した。したがって、『攻殻機動隊』シリーズでは、ジェンダーについて意識的であると思われる表現が多いことを明らかにした。第三章では、英語圏における『攻殻機動隊』(1995)の受容について、本作品がジェンダーの観点からどのように語られているかを複数の文献をもとに分析した。分析にあたって、同じ 1990年代のハリウッド映画『Eve of Destruction』(1991)に登場する女性サイボーグとの比較も行った。『攻殻機動隊』(1995)の主人公は、『Eve of Destruction』(1991)に登場する筋肉質な女性サイボーグと同じような力強い身体を持っている点で共通性があった。しかしその一方で、主人公は高い社会的地位を持っており、女性としての性を自ら売り物としない存在であることから、男性に「見られる」ことを喜ぶ西洋のフィクションにおける女性サイボーグとは異なっていることを明らかにした。このような特徴をもつ『攻殻機動隊』(1995)の主人公は、映像表現のレベルでは性的に成熟した女性であると論じられており、性の対象として見られる可能性も指摘されていることを明らかにした。以上のことから、『攻殻機動隊』(1995)では、映像表現のレベルで女性らしく見られる表現を意識的に用いることで、ジェンダーの伝統的価値観に沿わない女性サイボーグ像を批判的に描き出しているのではないかと結論づけた。

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テレビ報道番組における恣意的表現の検証とその考察

菱田 知之

本論文の目的は、メディア・リテラシーの向上である。具体的には、テレビ・ニュースの情報を「世界を俯瞰して得られた公正中立なもの」としてではなく、「報道機関が知った出来事の、社会に対する報告」として捉えられるようになることである。そのためにニュースが完全な中立・客観ではないことを示すいくつかの理由を列挙した。第 2章では、ニュースについて考えるために、まずニュースとは何かを説明した。ニュースの情報としての特徴を紹介し、報道機関が客観報道主義という考え方のもと、客観的な報道を行うことを旨としていることを示した。そして、テレビが電波という有限の公共財を用いていることから、その他のメディアではなくテレビの報道が主観的でないか、また偏向していないかを検討することが意義深いと指摘した。第 3章から第 5章では、ニュースの中で実際にどのように報道機関の判断による表現がなされているかを概観した。ニュースの内容は言語で伝えられる。第 3章・第 4章ではニュースに用いられる言語の中に現れる恣意的表現を見た。第 3章では NHK「ニュースウオッチ9」とテレビ朝日「報道ステーション」のテクスト分析を行った。ただ客観的事実を述べるだけならばニュースの文章は全て断定的な文末になるはずであるが、実際には「でしょう」「と思います」といった推量の表現も見られた。このことから放送されたニュースの中には意見の文、つまり主観的な表現、恣意的表現が存在することが分かった。第 4章ではその他の言語による恣意的表現を見た。客観的な出来事を並べるだけであっても、文と文の関係によってなんらかの考えを報道機関が述べようとする例や、報道の対象をどのように表現するかによって送り手の心理的な立ち位置が決まってしまうという、ことばの仕組みとしてどうしても避けられない主観性を提示した。テレビは映像を用いるので、言語以上の情報を伝えることができる。そこで第 5 章では、映像による表現には必然的に番組制作者の意図が入り込むことを示した。ニュース番組であっても、映画やドラマと同様にカメラワークをしっかりと決めている。このことによって内容の確からしさを高めていることがわかった。また、映像による伝達は、文字による伝達よりも出来事をありのまま伝えているように感じられるため、報道が主観的な行為であることを意識しづらいということを指摘した。インターネットが普及し、SNS などネット文化が成熟してきた今日では、誰もが情報の

「送り手」となり得る。その送り手と従来のマスメディアの境界はきわめて曖昧なものであり、その中で一つの発信源から得られる情報を信じ込むことは危険である。本論文では、最も多くの人が触れ、信頼されているテレビ報道でさえも、完全な中立・完全な客観ではないことを示した。

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テレビドラマからみる現代女性の社会性

古井 璃紗

1985年に男女雇用機会均等法が制定され、すでに 30年以上経過している。今日では女性が働くということはごく当たり前と考える人が多いだろう。そして時代と共に企業側も女性の活躍の幅を広げようと女性の管理職や女性社員の採用数を増やすなどを試みている。その一方で 2017年の「ユーキャン新語・流行語大賞」には「ワンオペ育児」というワードがノミネートされたり、2016年には「保育園落ちた日本死ね」という言葉がトップ 10入りしている。このように働こうとする女性を阻むような問題があることも見て取れる。よって女性のほうが男性よりも抱えている問題が多いのではないかと考えた。「女性白書」という本の存在をご存知であろうか。毎年、女性に関わる問題の現状や統計がのっている資料である。本論文ではこの「女性白書」が述べている女性の現状はあまりにも批判的な視点から書かれすぎているということを指摘し、同じように現状に基づいてつくられるテレビドラマと比較することでもう少し現状を希望的な視点から述べても良いのではないかということを論ずることを目的とした。第 1章では「女性白書」の成り立ちについて述べ、当書が女性の社会性を語るうえで有益な資料であるということを確認した。第 2章では「女性白書」で実際にどのようなことがどのように述べられているかを「結婚・恋愛」と「就労」の 2つに分けて確認した。そして確かに現状は述べているものの、批判的な書かれ方で希望をもてるような表現は見受けられないことを指摘した。そこでテレビドラマも現実の世界を参考にして作られているものであるが現状に付随して「希望」的な表現が見受けられるということで恋愛ドラマを比較対象とした。第 3章では今日放送されている恋愛ドラマは 1980年代のトレンディドラマが原点でそれはちょうど男女雇用機会均等法が施行された頃に作られたものであることから女性が社会に進出して「仕事か恋愛か」で葛藤するという内容を含まずにはいられなかったということを確認できた。第 4章では「私が恋愛できない理由」、「ホタルノヒカリ 2」、「逃げるは恥だが役に立つ」を分析対象とし、セリフや行動からドラマ内で描かれる女性視聴者にとっての「希望の形」を導き出した。これはテレビドラマの視聴者に現実を訴えつつも希望を与えている。よって現実を表す「女性白書」、現実を基にして作られている恋愛ドラマ、両者には見る人に希望を与えるかの違いがあることが分かる。「女性白書」は現実を批判的に読み手に伝えるもの、恋愛ドラマは現実を基に作られ、見る人に希望も与えて伝えるものといえる。「女性白書」は歴史に学び、現在を見つめ、これからを展望して平和、平等、民主主義の守り手を広げるために役立つことを願い、作られているものであるからもう少し、読み手に希望を与えるような書き方にしたり、内容を追加したりすることでより、女性に寄り添えるものになりうると結論づけた。

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コンテンツツーリズムと地方創生の関係性について

堀井 航平

2000 年代以降、コンテンツツーリズムと呼ばれる観光形態が注目を集めている。特にアニメやマンガなどのサブカルチャー作品において舞台となった地域が、作品自体を観光資源として活用し、観光客の増加を図っている。そして 2010年代、コンテンツツーリズムを意図するような作品も登場し、地方自治体にはマンガ・アニメを利用したまちづくりや地方創生にアニメを活用するといった施策も少なからず見受けられるようになっている。しかしアニメを観光資源とした観光客誘致は成功した面だけが一方的に取り上げられがちであるが、観光客の誘致や自治体に対する経済効果といった観点から見ると必ずしも成功とは言えないケースも一定数存在する。本論はまずアニメやマンガの舞台となった地域のコンテンツツーリズムに注目する。本来はそうした観光客誘致は作品自体の人気に依存しているはずが、作品が終了した後も多くの観光客が訪れる地域を取り上げ分析するとともに、コンテンツツーリズムへの取り組みを比較考察し、最後に新潟市の取り組みについても分析し、地方創生との関係性について提言を行う。第 1章ではコンテンツツーリズムの現状について分析し、4つの年代別発展段階が存在することを指摘した。つまりファン主導期、タイアップ試行期、タイアップ確立期、地域重視・多角展開期で、各段階について代表的な作品を挙げ、具体的な取り組みについて事例を挙げて分析した。また時代や技術の変化に伴い、コンテンツツーリズム自体も様々な点で変化していることにも言及した。第 2 章では前章で分類した 4 つの発展段階より、2010 年代の地域重視・多角展開期を代表する『ガールズ&パンツァ̶』と『輪廻のラグランジェ』を取り上げて分析し、『ガールズ&パンツァ̶』の舞台となった茨城県大洗町と『輪廻のラグランジェ』の舞台となった千葉県鴨川市の取り組みを比較し、コンテンツツーリズムの成功例と失敗例について詳しく考察した。またコンテンツツーリズムの成功の要因についても踏み込んだ分析を行った。作品自体に町おこし等の力はなく、作品をきっかけとする内発的発展が、つまり地域住民自らが地域活性化に参加していく動きこそが必要なのである。第 3章では前章までの分析と考察を踏まえ、新潟市のマンガ・アニメを活用した取り組みについて分析し、市が主催するイベント「がたふぇす」をコンテンツツーリズムの一環として捉え、前章で事例として挙げた『ガールズ&パンツァ̶』の舞台となった大洗町の曲がり松商店街および大貫商店街と新潟市の古町商店街とを比較した。必要なのは内発的発展と行政によるそのあと押しであり、行政側については、コンテンツツーリズムはあくまできっかけに過ぎないことを認識しつつ、商店街自体の改善を図るためのアプローチが必要であると結論づけた。

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『キノの旅』における旅人

真坂 光

『キノの旅̶The Beautiful World̶』は 2000年から電撃文庫で刊行されている、時雨沢恵一によるライトノベルである。主に旅人であるキノと、その相棒で喋る二輪車のエルメスの旅を、一話完結型の連作短編小説という形で描いている。『キノの旅』はライトノベルの普及に一役買っているにもかかわらず、ライトノベルについて言及する論文において詳細に分析されることは比較的まれであり、またキャラクターを描くライトノベルの中では主人公のキャラクター性が希薄であるなど、ライトノベルとしては異質である。本論文ではライトノベルとしての『キノの旅』の異質性を明らかにし、『キノの旅』はそこに登場する旅人たちに読者を同一化させることで、読者の内省を促しているライトノベルであることを示した。第一章では、『キノの旅』がライトノベルとしては特異な作品であることを示すため、ライトノベルの起源や、ライトノベル以前の歴史を考察することによって、キャラクター重視というライトノベルの特徴を明らかにした。キャラクターという概念はそのものはライトノベル特有のものではなく、少年小説や少女小説、ジュブナイル小説といった、ライトノベル以前の小説にも存在した概念であるが、ライトノベルがキャラクターの諸特性をいっそう強調しているジャンルであることを示した。第二章では、『キノの旅』の物語分析や、主人公であるキノのキャラクター分析、およびほかの作品との比較を通して、キノのキャラクター性が希薄であることを示した。『キノの旅』の連作短編小説としての性格が、キノの成長を読者に感じさせず、キノのキャラクター性の希薄さに繋がっている。またキノは、ライトノベルの女性キャラクターとして性的魅力に欠け、性格もおとなしく、そして物語中の事件に介入しないため、ライトノベルのヒロインとして印象が弱いことを示した。さらに『キノの旅』と、戦闘美少女もののアニメーション作品やロードムーヴィー映画、さらには作者が自作の最大のモデルとしている『銀河鉄道 999』を比較して、キノのキャラクター性の希薄さを明確にした。第三章では以上の考察を踏まえ、キノのキャラクター性の希薄さが、読者に現実世界について考えさせるという積極的な機能をになっていることを示した。『キノの旅』の冒頭部分におけるキノの独白が、キャラクター性が希薄であり、その内情が描写されないキノに、読者を同一化させる要因になっている。そして『キノの旅』の設定は現実世界にもとづいており、それを読んだ読者は現実世界について考えるように促される。つまりキノのキャラクター性の希薄さが、読者の考えをキノに反映させ、そのことについて思考させる要因になっているのである。

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現代におけるサイバーパンクの拡張と変質

丸山 佳祐

SFは時代の変化と共に新たなフロンティアを開拓し続けて来た。本論文では、従来の SF

に反発し、電脳空間やコンピューター等の当時のテクノロジーに注目してきたサブジャンルであるサイバーパンクが、日本においてどのように拡張していったのか分析した。第 1章ではサイバーパンクの特徴について、機械と人間のハイブリッドである「サイボーグ」の概念と、サイバーパンクの代表的作品であるウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』(1984年)を関連付けて分析した。作中の登場人物の多くは身体機能の一部を拡張したサイボーグ的な存在であり、機械と人間の閾値が限りなく曖昧になっている。また、電脳空間やネットワークに接続し、常に何者かに管理されていることによって、従来の社会、個人という関係さえも解体されうる。こうした境界の解体やテクノロジーによる個人と社会のダイナミズムが、サイバーパンクの特徴であるとした。2 章では日本においてサイバーパンクがどのように受容されたかを考察した。アニメーションやライトノベルといった若年層向けの作品においてはサイバーパンクをモチーフとしたガジェットが用いられてきた。SF の中でも、伊藤計劃以降、サイバーパンク的なモチーフ、ガジェットが再評価されるようになった。特に日本では、テクノロジーの身体への埋め込み、拡張現実やデバイスを介して常にネットワークと接続することによる情報開示といった見えないサイボーグ化など、サイバーパンクの特徴が修正され、現実の延長、現実の投影として位置付けられるようになったと言える。3章においては、2章で論じた現実の延長、投影として扱われる作品の多くが、作品を生み出すテクノロジーやネットワークそれ自体に対して関心を持たなかったことを指摘し、ネット小説の中で生まれた新たなサイバーパンク作品の特徴を分析した。『ニンジャスレイヤー』(2010-)や『ザ・ビデオゲーム・ウィズ・ノーネーム』(2015-)をはじめとする作品は、一見すると従来のサイバーパンクのパロディに過ぎず、伊藤計劃を始めとする作品のような機能を果たしているとは言えない。しかし、ネット小説という読者が作品の編集や拡散に加担する仕組みや、ネット上に掲載される「原著の存在しない翻訳小説」「100年後に書かれた過去のゲームレビュー」というコンテンツそのものが架空のものであり、それを読者が拡張していくというメタフィクション的な入れ子構造によって、2章で挙げた作品とは異なる形、一種のカウンターとして機能する現代的な SFを作り出した言える。以上の分析から、現代と接続した SFであるサイバーパンクは、時代に適応するように少しずつその形を変質させており、人間と機械、個人と社会といった境界の解体は、読者と作者にまで及んでいると結論づけた。

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LIVE体験の変様

丸山 皐

複製、通信技術が発達した現代においては、LIVE体験が可能な空間が多様化してきている。LIVE体験とは、LIVE感の得られる体験のことを指し、かつては出演者と観客とが時間・空間を共有する場合において得られるものであるというイメージが強くあった。しかし今日における LIVE 体験が可能な空間とは必ずしもそのような空間に限定されず、従来の LIVE体験とは異なる新たな LIVE体験が可能な空間が登場している。そこで本稿では、LIVE体験が可能な空間が従来と異なれば、その体験自体も従来のものとは異なると推測し、従来の LIVE 体験と新たな LIVE 体験との違いを明らかにすることを試みた。なお本稿では、出演者と観客とが時間・空間を共有する場合における LIVE体験を従来の LIVE体験、それに対し、⓵観客のみが時間・空間を共有する場合における LIVE体験、⓶インターネット空間を共有する場合における LIVE体験の 2パターンを、新たな LIVE体験と定義し、それぞれ考察を行った。第 1章前半では、まず LIVEの意義を確認し、次に LIVE体験が可能な空間は 20世紀の複製技術の登場、21世紀の通信技術の発達を経て多様化してきたことを明らかにした。そして続く後半では、新たな LIVE体験の空間を創出した複製技術に着目し、改めて複製とはどのようなものなのかW. Benjaminの複製技術論を用いて説明した。それを踏まえ、最終節では、ベースとなる従来の LIVE体験がどのようなものなのか考察を行った。その結果、従来の LIVE体験とは、⓵リアルタイム性、⓶非日常性、⓷アウラによる特別感、⓸出演者̶観客間の双方向的なコミュニケーションを通して生まれる一体感の 4点を通して得られる体験であるとまとめた。第 2章では、前章で述べた従来の LIVE体験に対し、観客のみが時間・空間を共有する場合における新たな LIVE体験について考察を行った。本章で取り上げたのは、ライブビューイング、応援上映、初音ミクのライブの 3つである。第 3章では同様に、従来の LIVE体験に対し、インターネット空間を共有する場合における新たな LIVE 体験について考察を行った。本章で取り上げたのは、LIVE 配信サービス、Twitterを利用しながらの番組視聴、ニコニコ動画における動画視聴の 3つである。第 4章では、これまでの考察結果をまとめ、従来の LIVE体験と新たな LIVE体験との最も顕著な違いを記した。結果、まず観客のみが時間・空間を共有する場合の LIVE体験では、従来においては出演者̶観客間の双方向的なコミュニケーションが LIVE感を生み出していたのに対し、この場合では観客間のコミュニケーションが LIVE感を生み出すという違いがあると結論付けた。次にインターネット空間を共有する場合の LIVE体験では従来は、完全なリアルタイム性が LIVE感を生み出していたのに対し、この場合では送り手̶受け手、あるいは受け手間の放送のタイムラグを双方向的コミュニケーションが補う形で生まれる「リアルタイム感」が LIVE感を創出するという違いがあると結論付けた。

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動画ジャンル「歌ってみた」がつくり上げた共同体

三浦 志保

本稿では、「歌ってみた」動画とその投稿者である歌い手に対して、主に 3つの観点から分析した。第 1章では歌い手とイラストの関係について考察した。顔出しをしないという歌い手の特徴により、「歌ってみた」動画にはイラストとして描かれた歌い手が登場するようになった。そのイラストには、各歌い手の特徴に合わせた既存の「萌え要素」がふんだんに盛り込まれていくようになった。そうしてキャラクター化したことにより、歌い手は投稿者としてだけではなく「キャラ萌え」できる対象としても親しまれるようになった。初音ミクを例に挙げ、「キャラ萌え」できる歌い手は N次創作との親和性が高く次々と派生作品が生まれたことを確認した。視聴者は歌い手の匿名性とそこから生まれる「想像の余地」を最大限に活かし、同人創作的な文化である N次創作を楽しむことを目的として、キャラクター化された歌い手を愛し、消費していったことを明らかにした。第 2章では「歌ってみた」動画と関連の深い「ニコニコ動画」「同人音楽」「オタク」について述べた。そして「歌ってみた」を含む同人文化はオタク系文化と深いつながりがあることも確認した。筆者は本稿において、オタクを「特有な画風のイラストレーションを受け入れ好む人々」であると定義した。オタクは、オタクであることを周囲に知られまいとする「自衛」心と、それでも仲間と好きなコンテンツについて語りたいという「仲間さがし」の欲求を併せ持っていた。このような矛盾した欲求を抱えたオタクにとって「閉じた空間」であるニコニコ動画は非常に適した場である。そのため、両者と関係の深い「歌ってみた」を含めた同人文化がニコニコ動画で花開いたと考察した。第 3章では歌い手と視聴者の関係性について述べた。ニコニコ生放送が両者の関係性を深める重要なツールとなっていることを確認した。ニコニコ生放送では、歌い手-視聴者間や視聴者̶視聴者間による同期性の高いコミュニケーションが頻繁に行われていた。ニコニコ生放送やオフ会により、歌い手は「身近なアイドル」として成功しているとした。 以上のことから、歌い手とその視聴者は「歌ってみた」動画だけではなく、イラストによる歌い手のキャラクター化やニコニコ生放送によるコミュニケーションなどによって、ひとつの「共同体」として「歌ってみた」を愛したのだと考えた。また、N次創作の人気はその歌い手自身の人気を象徴し、キャラクターとして消費されればされるほど、投稿者としての人気も上がっていくことから、歌い手と N次創作の主体である視聴者は持ちつ持たれつの関係になっていることも確認した。「歌ってみた」という動画ジャンルは、送り手である歌い手と受け手である視聴者が、皆で支え、楽しみ、つながることができる共同体としての空間を作り出したのだと結論付けた。

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Twitterにおけるマスメディア論

水上 駿

SNSというサービスの中で、フェイスブックやインスタグラムではなく Twitterが最も利用されている唯一の国が日本であるという。ならば Twitterが日本において与えている影響力は小さいものではないだろうと感じ、また日ごろのニュースなどから、もはや TwitterはSNS という役割だけでなく、マスメディアとしての役割を担っているのではないだろうかと考えるに至った。現状において Twitterという新しい環境がどのような役割、機能を果たし、どのような人間環境を構築しているのか。この疑問を発端とし、Twitterという環境が与える影響をマスメディア論的な観点から考察した。一章では、19世紀後半からのメディアという存在に対する考え方、メディア効果論の変遷を確認し、マスメディア論の流れをまとめた。二章では、Twitterの現状と特徴をまとめ、マスメディア論的な観点から「情報の速報性」

「個人の情報発信可能性」「情報の選択的接触性」という三つの点を従来のマスメディアとの違いや特徴として挙げた。三章では、先に挙げた三つの特徴などから Twitter とマスメディアの関係性を考察し

Twitterがマスメディアを補完しているだけでなく、Twitterによる不確定な情報などによる公共性の低い情報摂取環境によって、マスメディアの公共性の高さをかえって際立たせており、マスメディアによる公共性の高い事柄に関する議題設定機能などはむしろ高まっていると分析した。また Twitterにおけるメディア効果論の成立や、ジャーナリズムを個人が担う状況、それに起因する個人の過度な責任の自覚の高まりなどを踏まえた上で、Twitter利用者は日常生活のあらゆる出来事や自身の行動・思考に対して、メディア化するかしないかの選択を常に迫られることになっているのではないかと考察した。つまり Twitter による新しい人間環境とは、メディア化するかしないかの選択の連続によって利用者がメディア空間を意識し続けることになる、「メディア空間への意識の常態化」であると結論づけた。

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司馬遼太郎の歴史語り‐新選組を中心に

柳沼 奈々

司馬遼太郎(1923-1996)は歴史小説を多数著し、その歴史叙述が日本人の抱く歴史上の人物のイメージに大きな影響を与えたと考えられている。なかでも『新選組血風録』(1962)と『燃えよ剣』(1962-1964)は映画化やドラマ化を経て、こんにちまで続く新選組ブームを作りだした。本稿では『新選組血風録』と『燃えよ剣』を中心に、司馬が事実や逸話をもとに新選組の歴史をどのように語っているのかを分析した。第一章では司馬の新選組の小説が読者の新選組像に影響を与えた要因と、『新選組血風録』から見られる司馬の新選組像について考察した。はじめに新選組は史実と虚構が曖昧な存在で、歴史学の分野ではなく大衆文学や在野の研究者たちによってその像が作られてきたことを述べた。司馬は新選組をただの人斬り集団ではなく、厳格な規律と機能的な組織をもち、武士に憧れた者が集う集団と捉えた。従来創作の中で悪役として描かれることが多かった新選組に司馬は新しい解釈を加え、子母澤寛の『新選組始末記』(1928)と同様に『新選組血風録』が新選組の悪役のイメージを変える契機となったことを述べた。第二章では司馬が新選組に与えたとされるイメージの具体的な影響を調べるために、『燃えよ剣』の土方歳三像と他の作家の土方像を年代ごとにわけて分析した。司馬の独創である「新選組の組織者」としての土方像が後世の作品に脈々と受け継がれており、土方が新選組の組織を作ったという司馬の創作が、まるで事実のように語り継がれていることを明らかにした。第三章では『燃えよ剣』における司馬の人物造形の特徴について分析した。その特徴は登場人物の性格を単純明快にすること、そして主人公土方の有能さを引き立たせるために近藤勇を二流な人物として描いたことである。また読者に受け入れられやすい土方像を作るために、司馬は土方が拷問をする場面を排除するなどして土方を美化した。司馬は主人公を好ましく見せるために歴史的事実を取捨選択し、虚構を加えていることを指摘した。第四章では司馬の歴史観や歴史叙述に関する先行研究をまとめ、新選組の小説において特徴的な司馬の歴史叙述について分析した。司馬文学の根底には合理主義や技術を重んじる司馬の歴史観があるという従来の分析に対し、司馬の歴史観が人を見ることを軸にしているということを述べた。司馬は歴史上の人物を「書斎の友人」と呼び、彼らの完結した人生を見ることを好んでいた。とくにふしぎで奇妙な行動をとった人物に司馬は大きな関心を寄せ、『燃えよ剣』は司馬の小説のなかでも、とりわけ主人公が奇妙な人物であるということが強調して書かれた作品であることを明らかにした。以上のことから、司馬の歴史叙述には歴史上の人物への親近感が内包されており、読者に好意的に受け入れられるように新選組像を司馬が作り上げていると分析した。そして新選組の小説において、司馬は歴史そのものよりも人物描写に傾斜した語りをしているという特徴が見られると結論づけた。

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ネット社会におけるパーソナルメディア論

山澤 紗季

インターネットの普及や、スマートフォン等の浸透によりインターネットにどこでも繋がり、現代社会はネットの時代といえる。本稿で扱うネット社会は、インターネットの社会だけではなく、情報も交流関係もネットワーク状に広がる、ネットワーク社会の意味も含んでいる。ネット社会の環境を作り出したのはパーソナルメディアであり、コミュニケーションの手段以上の存在となっている。本稿では、パーソナルメディアの中でもスマートフォンをはじめとする携帯電話に着目し、ブログや SNSもパーソナルメディアとして扱う。このように 1つにまとめることで無数のパーソナルメディアの存在と、その中で吊るされている私たちが鮮明になると考えた。また、ネット社会は他者との接点や繋がりを多く生み出したため、ネット社会が自己にとってどのような場であり、自己の振る舞い方について考察することも本論文の目的である。第 1章では、まず私たちがどれほどのメディアの中で暮らしているのかを、パーソナルメディアの歴史を辿って見ていった。そして、私という個人単位に目を向け、どのように自己が形成されているのかをまとめた。第 2章は本稿で扱うネット社会を定義付けし、先行研究からネット社会の特徴を整理した。特色として、誰もが情報の発信・受信が可能である双方向性、匿名性、文字だけのコミュニケーションによる視覚的情報の欠如をこの章で述べている。また、マスメディアとパーソナルメディアを繋ぐ存在として藤代裕之が提唱した、ミドルメディアについて触れた。新たな概念であるミドルメディアから、明らかになったこととその概念への疑問も指摘した。第 3章からは、パーソナルメディアがどのように社会に組み込まれているのかを考察した。ネット社会の環境が他者との結びつきを容易にし、自己肯定をしてもらいたいという欲求も満たす場になっている現状がある。さらに、SNSに投稿しない、非アクティブな行動に着目した。閲覧のみをする人の割合を示した調査をいくつか取り上げ、その行為が何を示しているのかを検討した。第 4章では、ネット社会における自己を中心に扱った。SNS上で複数のアカウントを作ることで、状況的に自己を使い分けることが可能である。この自己の使い分けや他者と距離を置くことは、ネット社会を生きる上で都合が良いことを考察した。最後に、自己についての考察やこれまで見てきたネット社会も踏まえて、ネット社会とは何かを再度見直した。

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SNSにおける自己表現‐映画「何者」を中心に‐

山田 知歩

Twitter、Instagramなどの SNSは、近年利用率が上がってきており、私たちの生活から切っても切り離せないものになりつつある。そして、これは文学や映像作品においても同じで、SNSによるコミュニケーションが小説、テレビドラマ、または映画に登場することが自然なことになってきた。本稿では、フィクションの作品において描かれる SNS のコミュニケーションが、キャラクターの自己表現に役立っているのでないかということを、Twitter

の表現が多く登場する作品である『何者』を考察することで明らかにすることを目的とした。さらに、小説版と映画版を比較することで、それぞれの SNS表現がどのように違うか、そしてその表現が作品においてどのような役割を果たしているのかということを明らかにすることも本論文の目的とした。第 1章では、SNSとはどのようなものであるか、そして SNSでのコミュニケーションと対面でのコミュニケーションの違いを述べた。SNSは対面を伴わないため、自己表現をすることが容易であり、否定的発言をすることや、「なりすまし」などのように自分を偽って表現することに対しての抵抗感も少ないということがわかった。第 2章では、まず SNSの中でも Twitterの特徴とその利用動機を既存関係維持、実況・情報探索、他者との交流・自己表現、気晴らし、他者からの承認の 5つあることを述べた。その後、Twitterと、『何者』以外の映像作品の関連について述べた。例として挙げた 2つの作品は「他者との交流」、「情報探索」の動機で Twitterが表現されているということがわかった。第 3章では、まず小説版の『何者』における Twitterの表現について、具体的な文章を引用しながら分析した。小説での Twitter表現はそれぞれの登場人物のキャラクター性をわかりやすくするものであるということがわかった。その後、映画版『何者』での Twitter表現について分析し、小説版での「キャラクターの自己表現」という役割の他に、映画のシナリオの流れを視聴者に誘導する役割や、キャラクターの 2面性を表す役割があるということを述べた。そして、小説版にはなかった LINEの表現についても分析し、大事な話でさえも画面の中で完結してしまうという息苦しさの表現に、LINEが役立っているという結論に至った。以上の分析により、作品の中に SNSを登場させることは、キャラクターの自己表現を容易にし、キャラクター同士の関係性を明確化するのに役立つと結論付けた。

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90年代ディズニーアニメーションにおけるキャラクター造形の多様性

山田 美結

90年代のディズニーアニメーション作品をみると、今までほとんど登場してこなかった多様な造形のキャラクターが主人公となる作品が立て続けに公開されている。本論文では、『ライオン・キング』(1994)『美女と野獣』(1991)『ノートルダムの鐘』(1996)の三作品を取り上げてそれぞれのキャラクター造形を分析し、この 90年代ディズニーの多様性を、90年代までのアメリカ社会におけるマイノリティの地位向上運動とそれに伴うハリウッドとディズニーのポリティカル・コレクトネス方針の関連性に着目しながら考察した。第一章では『ライオン・キング』のティモンとプンバァのマイノリティ性について分析を行った。そこから、「父権的コミュニティ」と「新しいコミュニティ」という物語上の二項対立を確認した。『ライオン・キング』はマイノリティ集団を語りの要のひとつに設定し、マイノリティを受け入れるマジョリティという結末を描いた点で評価に値するものの、詳細を検討すればマジョリティに都合のいい他者とも考えられるという結論に至った。第二章では『美女と野獣』の野獣の身体性を分析した。野獣の内面の美はベルとの交流によって築かれたものであり、内面の変化は身体の変化と呼応している。しかし野獣の本来の姿を考慮して結末を考察すると、ベルは本当に野獣の内面だけ見ていたのか、従来のプリンセスものと同じ「美男と美女が結ばれる」という結末をなぞっているだけではないかという疑問が残った。第三章では『ノートルダムの鐘』の障害者表象について考察した。ディズニーとして初めて障害者を主人公に据え、多様性を重視しようとした制作陣の試みは評価できる点もあるが、そのストーリーラインは『美女と野獣』との共通点が多く見られ、結局は「美男と美女が結ばれる」という結末を辿っていることを指摘した。また、タイトルや障害者表象、ディズニー側の見解などを見る限り、かえって身体障害者への差別や偏見を助長しているといった問題点も指摘できるという結論に至った。第四章では以上の三作品と、マイノリティの地位向上の機運の高まり、ハリウッドやディズニーのポリティカル・コレクトネスを重視した動きとの関連を分析した。そして、この三作品に見られるキャラクター造形の多様性の試みは評価すべき点が多いものの、その反面偏見が根強く残っていることが表れている部分もあり、手放しには評価できないとした上で、この不完全なマイノリティ表象の要因が原作との整合性と不十分な理解にあると推測した。また、2006年以降のディズニーの「新たな黄金期」の多様なキャラクター造形が、90年代の試みの深化と発展の表れであるのではないかと結論づけた。

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