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古里に似し思い出や春椿 一九五四(昭和二十九)年から七.(四十 七)年まで十八作余にわたり蛍校法人同志社 の理小長として本仕され九秦孝治郎先生は、 私にとって遠く航れた直を想い起こすと同 じ思いをいまなお抱かせる存在である。おそ らく先生を知る多くの方も、私と同誉思い を持九れるのではあるまいか。 それほど良く知っている訳ではない。で も、想い出す六びに暖いものが、胸の底から 湧き上がってくる。大らかである。上るもの を迫わず来るものを拒まず、悠揚迫らないも のがある。それでいて決して冷たくない。 秦先生は、ま九、榎の大木をイメージさせ る存在でもあっ九。しかも、それは、いつ も、明日に向かって希望を持九せてくれる若 葉に包まれた春の榎の姿を枋俳させてくれる もの。 即*長として入驚、卒業式に臨まれる 時、教職員細合との団交のため席に着く時、 また、多少遅れて同志社教会の日曜礼拝に出 席される時にも、常に悠然と大樹の逓きを酸 すと同時に、春を告げる若葉の優しさを回り の人びとに感じさせずには措かなかった。 秦先生は、ま光、苦 であった。先生は家業の して実業に就く丘に迫られ「 の伝習所を了えて、川身地の滋 便局で働いていた。が、志を立てて 盟寝に入ΨΥし、一九三(明治四トエ 年にニト姦で卒業している。同志社在Υ中 も;蚕自曾ため京都教会の冉型L扣任し ていた。」しかし、クラスの世話をよくみる のでN通科凶小になった時、副組長に、大学 に人ると予条ら釜生瓶長としてクラス の而倒をみてきた。(級友平田、足立両氏の 偲び草) このような秦先生に、私が喧接お倒にかか つたのは、条大髪回生の夏、一九五四 (昭和二十九)作、万里杵教共励会の世界 集会が軽井沢の券温泉で開催され九竿あ つた。先生は、一九一三(大正十)張ら日 本連会腎教共励会の会長をなされており、 一九五一(昭和二士◇作からは函連会 督教共励会の副会頭という要職にあっ九。こ の集公にも、副会頭としてまた集会のガバナ ーとして出席されてい六。私も〆ンバーの一 人として出席したのであるが、貧乏嵳であ 同志社人物誌(59) 孝治郎 坂本武人 -125-

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Page 1: 孝治郎 - doshisha.ac.jp · 私も〆ンバーの一の集公にも、副会頭としてまた集会のガバナ督教共励会の副会頭という要職にあっ九。こ一九五一(昭和二士

古里に似し思い出や春椿

一九五四(昭和二十九)年から七.(四十

七)年まで十八作余にわたり蛍校法人同志社

の理小長として本仕され九秦孝治郎先生は、

私にとって遠く航れた直を想い起こすと同

じ思いをいまなお抱かせる存在である。おそ

らく先生を知る多くの方も、私と同誉思い

を持九れるのではあるまいか。

それほど良く知っている訳ではない。で

も、想い出す六びに暖いものが、胸の底から

湧き上がってくる。大らかである。上るもの

を迫わず来るものを拒まず、悠揚迫らないも

のがある。それでいて決して冷たくない。

秦先生は、ま九、榎の大木をイメージさせ

る存在でもあっ九。しかも、それは、いつ

も、明日に向かって希望を持九せてくれる若

葉に包まれた春の榎の姿を枋俳させてくれる

もの。即

*長として入驚、卒業式に臨まれる

時、教職員細合との団交のため席に着く時、

また、多少遅れて同志社教会の日曜礼拝に出

席される時にも、常に悠然と大樹の逓きを酸

すと同時に、春を告げる若葉の優しさを回り

の人びとに感じさせずには措かなかった。

秦先生は、ま光、苦労人であり、驗の人

であった。先生は家業の袋述のため、作若く

して実業に就く丘に迫られ「京都の将局

の伝習所を了えて、川身地の滋禽小水伺の郵

便局で働いていた。が、志を立てて」同志社

盟寝に入ΨΥし、一九三(明治四トエ)

しブ

年にニト姦で卒業している。同志社在Υ中

も;蚕自曾ため京都教会の冉型L扣任し

ていた。」しかし、クラスの世話をよくみる

のでN通科凶小になった時、副組長に、大学

に人ると予条ら釜生瓶長としてクラス

の而倒をみてきた。(級友平田、足立両氏の

偲び草)

このような秦先生に、私が喧接お倒にかか

つたのは、条大髪回生の夏、一九五四

(昭和二十九)作、万里杵教共励会の世界

集会が軽井沢の券温泉で開催され九竿あ

つた。先生は、一九一三(大正十)張ら日

本連会腎教共励会の会長をなされており、

一九五一(昭和二士◇作からは函連会

督教共励会の副会頭という要職にあっ九。こ

の集公にも、副会頭としてまた集会のガバナ

ーとして出席されてい六。私も〆ンバーの一

人として出席したのであるが、貧乏嵳であ

同志社人物誌(59)

孝治郎

坂本武人

-125-

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り、秦先生の学生時代同様教会の爲(同志

社教会)をしていた私には会費は免除されて

いた。

また、この集会に出席する前、私は何かの

事故で折れた眼鏡のつるをセロテープか何か

でぐるぐると巻いていた。先生は、そのこと

について直接何も触れられなかったが、集会

が終わったあと、当時本部職員(専務理東)

であった奥村龍三氏が、私に京都に帰っ九な

ら、三条の眼鏡屋に行って「同志社から来

た」といえぱ安く買えるからと耳打ちしてく

れ九。京都に帰り、言われた眼鏡屋に行った

ところ、丁寧に検限し新しい眼鏡を謬して

くれ九。代金は定価の三分の一以下であった

と記憶している。何も知らない私は、こんな

に安くしてもらえる「黒社という名前」に

感心していた。

数年後、同じ店に行ったが、なじみの客と

して迎えてくれたが値劃きはなかっ九。いま

にして思えぱ、あの時共励会の参加費や限鏡

代の一部は、秦先生が払って下さったとも考

えられる。

秦先生が、新島先生の建てられ育てられた

厩校同志社をこよなく愛されたことは人後に

落ちない。

「秦さんは何といっても愛校筆であり、愛

校の点で徳富先生に似たところがあった。

)し

わぱ、徳富精神の継承者であったしと元同志

社崟長田畑忍先生は書かれている。また、

ご子息克彦氏も「同志社に専念するようにな

つて父は、それ以前の父と大きく変わっ九。

以前の父は、気が短く、われわれはよく叱

られた。いらいらしていたことも多いカミナ

りおやじであった。しかし、京都に移ってか

らは、目に見えておだやかになった。そして

いつでも張り切っていた。同志社は、父の生

きがいそのものであったようにみぇたと述

懐されている。

秦先生は、戦後、急速に膨脹し続ける恩

社の財政危機を救済する工ース。ヒッチャーと

して、一九五四(昭和二十九)年八月、¥校

法人同志社の理李長となり、その作五河、理

事会において窮余の策として決定してい六一

億二千万円の学債公¥年末まで鋸了させ

九。その後十八年間曲折を経ながらも雫校法

人同志社の財政基雛.の確立を図り、田辺校地

奉仕こそわが理想なり夏帽子

をはじめとするキャン。ハスの拡大、建物の増

築、教職貝の給与の向上とその奈化を促が

す働きに輝身の力を振われた。

同森を愛された秦先生は、経高の充実

だけでなく、新島先生の「社員たるものハ生

徒ヲ娜重二取扱ふ可き*しという遺言を身を

以て笑践した一人であった。すなわち、戦後

の膨脹期における財政画の危機を乗り越え見

事な発展を遂げ六黒社も、ベビーブーム世

代を大学に迎え入れると削を同じくして全国

的に吹き荒れはじめた,大学紛争"の嵐に巻

き込まれ九。その九め、学園に精神的発廃

がみなぎるようになっ九。

秦先生も、大字における讐の責任者とし

て、しばしぱ、形生とのいわゆる,大衆団

交"の席昇くことを強要され九。先生は、

老躯をいとわずこれに臨み、¥生の'い分に

耳を傾け九。

このような姿勢は「われらの先英山室軍

平氏はこういっている。いわゆる同志社ス

。ヒリットは神を愛し、人を愛し、その為に

"凡ての者の僕"となって姦+仕する基督教精

神の他にないと思います』と。学園の今後の

在り方については単に数字の膨脹のみを以て

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叶ることはできない。新島先生の期待せらる

るものは、九十九匹の羊よりも一匹の迷羊で

ある。九十九匹と共に一匹の羊を更生せしむ

るのが、われわれの責務であろう」(秦孝治

郎『年輪の足跡』)という「奉仕」と「愛」

の精神に根茶していたといえる。

秦先生は,九十九匹"の羊であるいわゆる

ノンポリ米生よりも,一匹"迷える羊の赤へ

ル学生の心に灯をともすことを求められ九の

である。

「あの学生紛争のはげしい時期にも、艷生

には親愛の恬を持ち続けていた。最後串生

とのはげしい団一父のあと、ドクターストップ

で家に帰った父に隠話し九時にも、雫生がコ

ートを着せてくれて嬉しかったということぱ

かり.山ってい九」とのことであり、聖筈に誌

されている「放援十に対する父親」の金

がにじみ出ている。このことが遺品の手帳の

中に、次の一句として凝結されていた。

亦へル四Y生己がコートぬぎ

われに着せたり激論の中

同志社を愛し、学生との心の交りに生きが

いを見出していた先生がその晩作、理事長の

職に止まるべきか否か思い悩む塒があり、

「俺が辞めることが、本当はいいのではない

かと洩らすと共に、その心中を次の一句に

まとめていたという。

わが母校、懲らん為めに

老の身をべッドに伏して

只祈るのみ

秦先生の後半生は文字通り、伺志社を愛し

形生を愛した生雫あっ九。

学経済学§素し、久原鉱業に勍職したの

であるが、一九三(大正十)年から一九二

二(大正十二)年まで「しばしぱ高知を訪れ

全く士佐人になっ九ような気分」になり、

「高知(土佐)の日燿市L のとりことなった。

そして、忙しい職務の剛を縫って資料を菱

し、その研究を重ねた。そして、その成果を

「郷土の絲済『日曜市』L と題し、大正十三年

五月から六月にかけて地.兀の土陽新聞に前後

ト三回にわたって連載した。それぞれの回の

見出しを列記すると一、市といふ言、ニ、外

国の例、三、我国に於ける市の沿革、四、保

懲政策より生まれたる市の成立、五、玄人と

素人、市の内規、六、市の開誓域と慣習、

七、自由なる市の組織、

開店数と販売

品、九、市の商人の西籍調、十、価格と売上

高と、上、市と公設市場との関係、十二、

マーケットの艇生、十二、その発展策となっ

ている。

秦先生は、露店について次のようなユニ

クな兄方をしている。

「た光、何気なく雑踏にまぎれて歩きなが

らも、必ず目を引かれる魅刀を、並べられて

いる商品に感じるのが、そもそも露店をひや

赤茶けしノートを照らす市の月

秦先生は、同志社理事長という激職の傍

ら、人知れず続けてきたライフワークがあっ

た。「露店」の研究である。

先生は、一九一六(大正五午、同志社大

秦孝治郎元理事長

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このような視点に立って露店に接し、そこ

にある人問が人問として支え合って生きる原

型を探ろうとしたといえる。それゆえにこそ

五十年余の長きにわたり文字通り「忙中閑L

を求めて研究を継続できたといえる。

令息克彦氏は、その研究を通じて「父は学

問への憧憬をたしかめ続けていたのではなか

つたか」と述べている。九しかにそのように

も理解される。しかし、私には、その研究は

単なる簡的標以上のもの、すなわち、秦

先生が一人の人間として現実のカオスの中

で、真に生きることの意味を探る場として露

店を位置つけ、その研究を生きること忠び

そのものにまで昇華させていたと思われるの

である。

このようにして秦先生が五十余年の長きに

わたって書き連らねてきた露店研究の草稿は

一千余枚に達していた。これは先生がなくな

られたあと、ご家族にょって遺品を整理され

る中で発見された。そして一九七三(昭和四

十八)年、善恵未亡人によって私に、その

整理出版発された。怠け者の私は四年もの

歳月を賓し、一九七七(昭和五十二)年十一

月、ようやく『露店市、縁日市』と題し、白

かす面白い点である。同時に、それを買う姿

にも一種の深い人閻性が九だよい、独特の味

わいが存在する」と。

秦先生にとって露店は、機械による大量生

産体制の下で作り出される莫大な物に支配さ

れ、画一的になり人間性を剥奪されようとし

ている現代人に、自分の目で、自分のハート

\ノ

で生きる人間らしい生き方を思い起こさせて

くれるものであったといえる。

川冉院より上梓の運びとなった。編集の任に

当たった私が言うのは変であるが、あるい

は、内容を知っているから言うのであるが、

なかなかの好著であり朝日新聞の冉評欄でも

取り上げられた。

池深し鯉悠然と凍らざる

「古き日の同志社の良心の中に秦器長の

名を当きつらねたいとおもう」と元文学部教

授里井陸郎氏は言う。

秦先生は、百年の星霜を重ねる中で失いか

けた同志社の良心を、二百年の歴史の中に引

き継ぎ、刻み込むために、神が遣わされ九人

と見ることができる。物欲と我執のみちみち

九二十世紀後半の社会にあって、同志社も、

その圏外にあって。ハラダイスを形成するとい

う訳にはいかなかっ九。このような時代にお

いて単に仏統に依拠し九り、時流に謠う生き

方を強調すれぱ、空中分解はまぬがれなかっ

九。

秦先生は、「良心を手腕に」、右に傾かず左

に偏らず同志社を一つの伺志社として二世紀

を迎えるために道を開かれた。しかし、輝や

かしい百年の歴史を飾る席に着くことなく一

秦孝治郎先生御夫妾

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九七二(昭和四十七)作十一月、突如として

神に召され九。

「偲び草」により、人々の心に映っ九秦先

生の面影を探ろう。

「新島先生の遺(のこ)し九、形に見えぬ

あるものが秦さんの古武士然たる風貌の中に

にじみでていた」(里井陸郎元教授)

「秦さんとくると、私は数々の思い出があ

る0 しかし何よりもその聞こうとする態度と

まじめさとニコニコ顔は忘れることができな

い」(オーテス・ケーリ教授)

「教会でも、各種の集会で人々の、特に若

い人の話にホウホウと相つちを打って問いて

おられ九。きき上手の先生であった(f井

国雄元女子中高・国畷琴鞍長)

大学時代「身体は頑健で大身で、いつ念

気軒昂だった。もともと性格は巾店の人だう

た」級長として硬軟聾の舵取に念し

九」(足立宇:郎氏)

普通学校時代「親分肌で、議倫はするが、

敵を作らず、いつかまとめてしまう人だっ

九」(平田甫氏)

「自らには厳しく周囲の人びとに優しく、ち

ようど新島先生が初めて胱海舟翁を防れられ

寿、翁が先生へ押毫して与えられ九篇の

『六然』の句、『向処饗、処人饗、祭澄

然、◆中端然、鴛一冷然、失意会』という

ことば通り、爾然としていわゆる人人の風格

を備えておられた」(任谷悦治元総長)

神の豊かな思施と新島先生の熱い祈りにょ

つて建てられた深い池黒礼が大きな鯉、秦

先生をより大きく育てられた。そして、その

大きをもってこの池を外圧ではなく内部から

崩壊する危機をはらん張しい冬の時代にも

徠て付かせないでき九。

(女子大学教授)

(付.山、秦孝治郎先生について霄くのに、より適任の

力があると水知しながら編集部からの依頼に、直ちに

応してしまった軒率を、秦先生をよくご存知の方にお

詑びすると共に、先生についての伝記を少くとも哲恋

夫人のお元気な問に霄くことを新に提案し、その六め

の資崇ならびに衆知を集めることを校友、同窓ならび

に教職貝の力々にこの機会にお願いします。坂木)

声志上談ψ

論文

磯貝市云峰の生涯と文学:::::::・河野仁昭

『荒村遺稿』未所収松岡荒村

同^心^^^の乍口^::::・:・:・・:^^一戈

倒^^^^^日^と^^^^::::・^^^^

棚あげされた同志社憲法・・・・・:・・・:和田洋一

同志社と香里学園の△口併問題・・:・・喜多正朋

1香里所有の資料を中心にみたー

「新島襄旧邸L 保管の石鉄を

ぐつ、::::::::::::::.、訂一\一口

1石器時代の環境と文化1

資料

同志社常務委員会器

自.明治三十七年四月廿七日

至.明治四十四年七月十日

『同志社談叢』既刊総目録

新島襄に関する文献ノート

その五・・

・・・・・・・・・・・^^仁昭

(頒価一、 000円)

発行・同志社社史資料室

販扱い・同志社収益事業課

(電0七五1二五一1三0三七t八)

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