emily dickinson の“summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...emily...

29
江里子 まれ育ったニューイングランド 、アマスト 」を に愛し、そ 」を題 した 多く している。 」を するために 感覚 」を しよう している。 ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―  ―    たちが ―  ―  ―  リス ―  ― そしてマルハナバチ ―  -  195 - Emily Dickinsonの“Summer”

Upload: others

Post on 15-Apr-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 

 

佐 藤 江里子

  は、生まれ育ったニューイングランド地方、アマストの「自

然」を非常に愛し、その「自然」を題材とした作品を数多く残している。彼女は

「自然」を認識するために独自の感覚で「自然」を定義しようとしている。

   ― 

   ―   ― 

   ―   ―   ― 

   ―   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

   ― 

   ― 

 

   ―   

 「自然」は私たちが見るもの ― 

 丘 ― 午後 ― 

 リス ― 日食や月食 ― そしてマルハナバチ ― 

- 195 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 2: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 いいえ ― 自然とは天国 ― 

 「自然」は私たちが聞くもの ― 

 ボボリンク ― 海 ― 

 雷鳴 ― そしてコオロギ ― 

 いいえ ― 自然とは調和 ― 

 「自然」は私たちが知っているもの ― 

 でも言うすべがないのです ― 

 人間の知識はあまりに無力だから

 自然の率直さを前にすると ― 

 まず第1連で、 は「自然」を「私たちが見るもの」と定義し、視覚的

な「自然」を、第2連では、「自然」を「私たちが聞くもの」と定義し、今度は

彼女の聴覚に訴える「自然」を具体的に提示している。そして第3連で、「自

然」を「私たちが知っているもの」と定義しているが、「自然」を言葉にするこ

とは難しいと言う。 にとって、「自然」は五感でとらえて認識する対象

であるが、彼女はその「自然」の中に計り知れない<何か>を感じる。そして、

その<何か>を彼女は深い瞑想の中に見つけ、言葉にしようとする。

 1862年に初めて手紙を書いて以来、生涯文通を続けることとなった文芸評論

家の に宛てた手紙の中で は次のように述べている。

   ―   ― 

  

 自然は幽霊屋敷です ― でも芸術は ― 幽霊が出そうにみせる屋敷なのです

- 196 -

佐 藤 江里子

Page 3: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 ここで は、観察者である詩人にもとらえることができない<何か>

が潜んでいる「自然」を「幽霊屋敷」にたとえている。次にあげる「何と神秘的

なものが井戸を満たしているのだろう!」(

)の中でも、「自然」と「幽霊屋敷」について触れている。

 

 

 

 

 

 

 

    

 だが自然はいまだ見知らぬひとだ

 自然をもっとも引用するひとたちは

 彼女の幽霊屋敷を通り過ぎたことがない

 そこにいる幽霊を説き明かしたこともない

 自然を知らないひとたちを憐れむ想いは

 さらに深まる

 自然をよく知るひとたちでさえ

 近づくほどにわからなくなり落胆するから

  は、どんなに美しい「自然」を前にしても「自然」が持つ既知と未知

のパラドックスを忘れてはいない。だからこそ「自然」は彼女の詩的インスピ

レーションを刺激し、尽きることのない想像力の源泉となる。そして自然界にお

- 197 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 4: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

ける万物が の愛の対象となる。

  は、屋敷の庭や、「白い選択」( )により唯一の詩作

の場となった二階の自室の窓から見えるアマストの四季や季節ごとに異なった

様相を呈する風景、そして花や昆虫や小動物などをうたう。このように様々なも

のを題材とした豊かな彼女の自然詩の中でも、「夏」は彼女にとって特別な意味

を持つ。

 1882年10月に友人の に書いた手紙の中で、 は次のよう

に述べている。

   ― 

   ―   ―   ― 

 ―     

 ときどきまるで特別な月が私に何かを与え、そして私から何かを奪い去るよ

うに思えます。8月が私に最高のものをもたらします ― そして4月が ― 私

からほとんどのものを奪ってゆくのです ― どんな場合でも絶え間なく。

 この手紙からもわかるように、アマストの短い「夏」は、喜びと生命力に満ち

溢れ、 に詩的インスピレーションを与える。そして、彼女は他のどんな

季節よりも様々な角度から繰り返し「夏」をうたう。だが、写実的な「夏」の風

景を描きながらも、それだけにとどまらず、その深い瞑想によって読者を彼女の

心象風景へと連れてゆく。つまり、彼女は自然界の現象である季節の推移、「夏」

という限られた時の中に、単なる表層的な美しさ以上に意義深い様々なものを

見出していた。

 この拙論では、自然詩の中でも「夏」をテーマとした作品、特に「夏」のイ

メージを借り、「夏」を比喩( )として用いた作品に焦点をあわせ、論

じたいと思う。

- 198 -

佐 藤 江里子

Page 5: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

  は、喜びと生命力と期待に満ちた「夏」の到来を次のようにうたう。

 

 

 

   ― 

 

 

 

   ―   

 穏やかな海が家の周りを洗った

 夏の気配の海

 悠然と海を渡る

 魔法の船板を上げたり下げたりした ― 

 なぜなら蝶が船長で

 蜜蜂が舵取りだったから

 そして完全な宇宙があった

 この喜びに溢れた乗組員たちのための ― 

  は、毎日観察している「自然」の中に目に見えない「夏の気配」を感

じ、それを「穏やかな海」にたとえて、「夏の気配の海」と表現している。この

「夏」を孕んだ大気の中をいつものように飛び交う「蝶」や「蜜蜂」を夏の海を

渡る船の「乗組員」にたとえ、そこに「完全な宇宙」としての夏の情景を見事に

描き出している。

  の詩において、「蝶」や「蜜蜂」はしばしば歓喜と愛の象徴となり、

- 199 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 6: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

特に「蜜蜂」は、「ゆっくりと来て ― エデン!」(  ― 

)や「私は今まで醸造されたことがない酒を味わう ― 」(

 ―  )のような 彼女の数少ない歓喜の詩に頻出する。

また、「海」は生と死という正反対の意味を内包し、 の詩における重要

な比喩( )のひとつである。この作品では、生命に満ち溢れ、光り輝く

「海」のイメージを使って、「夏」の到来が描かれている。

 「房のような木々が-当たって ― 揺れた ― 」(  ― 

 ―   ― )で始まる詩では、第1連から第6連まで「夏」

の自然の美しさをうたい、最終連の第7連で次のように言う。

   ―   ― 

   ―   ― 

 

   ―    

 自然はこれ以上だ ― 私にはわからない ― 

 見るものにとって ― ヴァンダイクが描き出す

 自然が ― 夏の日が ― 

 どんな意味をもつかなどとは!

 ここで は、17世紀フランドルの肖像画家である を引用し、自

然の美を前にした人間がその美を再現することの限界を述べている。しかし、彼

女は移ろいやすい自然が見せる瞬間の美を言葉で再現し、恒久化しようとす

る。

   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

- 200 -

佐 藤 江里子

Page 7: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

   ―   ― 

   ― 

   ―   ―   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

   ―   ―   

 夏の日を繰り返すことができるひとは ― 

 夏の日よりもすばらしい ― そのひとが ― 

 人間の中で一番ちっぽけな ― ひとだったとしても ― 

 そのひとは ― 太陽を再現することができる ― 

 あの暮れゆく瞬間の太陽を ― 

 名残惜しそうに ― あたりを染めながら ― 

 東洋が ― 大きくなって ― 

 西洋が ― 知られなくなっても ― 

 そのひとの名前は ― 残る ― 

  は、「自然は幽霊屋敷です ― でも芸術は ― 幽霊が出そうにみせる屋

敷なのです」と 宛ての手紙( )の中で述べていたが、この作品

も彼女の芸術論・詩論である。この における「夏の日を繰り返すことがで

きるひと」とは 自身に他ならない。ここには 「出版は競売だ」

(  ―  )で、社会的地位や名声を拒絶した

が目指した真の芸術家・詩人の在り方がある。この「夏の日」には、高

く昇る太陽と空を赤く染めて沈む夕陽が象徴する人生、つまり生そのものが凝

縮されている。永遠に続く季節の循環の中で、「夏」が一瞬であるのと同様に、

- 201 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 8: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

との喜びや悲しみ、様々な想いを含めて、その輝く瞬間を言葉にすることが自ら

の仕事であり、真の芸術家・詩人であるとの深い認識がここにはある。そしてこ

の生への執着は、彼女の死への洞察と常に表裏一体となる。

 前述の「穏やかな海が家の周りを洗った」(

)や「房のような木々が-当たって ― 揺れた ― 」(

 ―   ―   ― )は、「夏の気配」や「夏」

の到来、あるいは「夏」の美しさそのものが、「蝶」や「蜂」などといった歓喜

のイメージと共に情景的に描出されている。「夏」をテーマにした多くの作品の

中でも、このように「夏」の喜びそのものを直接的にうたう詩は珍しい。「夏」の

イメージをより比喩的に用いている次の作品の中で、 は、「夏の盛り」

を最高潮に達した愛の比喩( )として描く。

   ―   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ―  ― 

   ―   ―   ― 

   ―   ―   ― 

   ― 

 

   ―   ― 

 

   ―   ― 

   ―   ― 

- 202 -

佐 藤 江里子

Page 9: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

   ―   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

 

   ―   ― 

   ―   ― 

   ―   ―   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ―   ―   ― 

  that  ― 

   ―    

 その日はやって来た ― 夏の盛りに ― 

 まったく私のためだけに ― 

 そのような日は ― 聖者たちのためにあると思っていた ― 

 そこでは復活が ― ある ― 

 太陽は ― いつものように ― 広く地上を照らし ― 

 花たちも ― 見慣れた姿で ― 風に吹かれていた ― 

 まるで万物を新しくする夏至を

- 203 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 10: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 どの魂も通り過ぎていないかのように ― 

 その時間が ― 言葉によって ― 汚されることはほとんどなかった ― 

 言葉という印は

 必要なかった ― それはまるで聖餐式で ― 

 神の ― 衣装が必要ないように ― 

 互いは互いにとって ― 封印された教会だった ― 

 このときだけ ― 交わることを許された ― 

 キリストの晩餐で

 私たちがあまりにもぎこちなく ― 見えないように ― 

 この時間はあっというまに過ぎた ― いつもそうであるように ― 

 貪欲な手で ― しっかりと握られて ― 

 それから ― 二つのデッキで互いに顔を見合わせ ― 振りかえり ― 

 二人は別々の地へと向かう ― 

 そして ― 全ての時が終わり ― 

 静寂がおとずれ ― 

 二人は ― 互いの十字架を結びつけ ― 

 それ以上の契約は何も交わさなかった ― 

 十分な約束 ― 私たちがよみがえるという ― 

 ついに ― 墓が ― 退けられ ― 

 あの新しい結婚を ― 

 正当化する ― カルヴァリの愛を通して!

 この詩は、「夏の盛り」、つまり がとらえた日常的な真夏の風景から切

- 204 -

佐 藤 江里子

Page 11: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

り取られたある一日と、聖書からの隠喩 による宗教的なイメージが巧

みに結びつけられ、愛の苦悩と成就がテーマ(1)となる。

 この詩は、第1連で、「夏の盛り」のある日、ついに自分だけに訪れた決定的

な出来事について、話者である「私」が語るという形式をとっている。この出来

事とは、「私」= が経験した神の啓示のような出会いと別離における愛

の確信に他ならない。そして、この詩に流れている「私」の感覚的な時間は、一

日のようでもあり、また一生のようでもあるが、実は愛が最高潮に達した瞬間そ

のものを表現しているのである。更に、意識は最終連で「あの新しい結婚」とい

う永遠へと向けられ、ありふれた「夏」の日の一場面は、永遠のヴィジョンへと

移り変わる。

 第2連では、いつもと同じ「太陽」が地上を照らし、見慣れた「花たち」が風

に吹かれて揺れている。その風景は昨日と全く変わらないように見えるが、実は

「万物を新しくする夏至」を通過している。「夏至」とは北半球で昼が最も長く、

夜が最も短くなる日であり、この日を頂点とし、少しずつ昼が短くなり、季節は

確実に秋、そして冬へと向っていく。最高潮に達した感情は、「夏」の頂点であ

る「夏至」にたとえられ、この「夏至」を経て自然界に目に見えない変化がもた

らされるように、不意に訪れた「その日」を経験した「私」の深い内面世界にも

変化が生じる。

 第3連の第1、2行目から、その神聖な「時間」が、実際には「言葉」も交わ

さず見つめ合ったほんのわずかな時間であったことが想像できる。そして同じ

く第3連の「聖餐式」(2)や「神」の「衣装」、または、第4連の「封印された教

会」や「キリストの晩餐」(3)など聖書からのイメージを多用し、「私」の内面に

変化をもたらした「夏の盛り」にふいに訪れた「その日」、その神聖な「時間」

を宗教的な儀式であるかのように描いている。他にもこの詩には、第1連の「聖

者たち」や「復活」、第6連の「十字架」など宗教用語が目に付く。信仰と生活

が密接に結びついていた19世紀のニューイングランドに生きた にとっ

て、宗教的な言葉は日常の中に浸透した実用的な言葉でもあった。

 この詩の「二人」は、互いが互いにとって「封印された教会」であり、「この

- 205 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 12: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

ときだけ」交わることを許されるが、この交わりは極めて精神的なものであり、

二人が「封印された教会」であることに変わりはない。また、結婚を象徴する

「教会」が封印されているということから、現実的な結婚の不可能性をも暗示す

る。「封印された教会」として交わることが許された理由は、第4連の後半にあ

るように「キリストの晩餐」で二人が不自然に見えないためである。「キリスト

の晩餐」のイメージを持ち出し、そこに加わることを許されることで自分たちの

行為を正当化しているように見えるが、ここには正統派の教義に従うことがで

きなかった のアイロニカルな苦渋がある。だが、この「二人」が共有し

た「時間」は、キリスト教の「聖餐式」や「キリストの晩餐」以上に神聖で意味

のある儀式に他ならない。

 第3連、第4連で宗教的なイメージが強く打ち出された後、第5連で場面は突

然、現実的で具体的な別れのイメージに変わる。ここには の自伝的な要

素が影響している。この は、 が深く敬愛していたフィラデルフィ

アのアーチストリート長老教会の牧師である がサンフラン

シスコのカルヴァリ教会へ赴任することが決まり、事実上失恋したという彼女

の個人的な恋愛経験をもとに創作された作品であると言われている。

 1862年にサンフランシスコのカルヴァリ教会へ赴任した 牧師は、

1870年、再びフィラデルフィアに戻り、1882年4月1日に亡くなるまでその地に

留まった。その間、1860年3月と1880年8月の2回、彼はアマストの 家

を訪問している。二人が文通していたことは、事実のようであるが、 へ

の返信と推測される からの年代不明の手紙 一通しか現存して

おらず、書簡から と 牧師の恋愛の事実を断定することはで

きない。しかし、1882年の夏に へ宛てた手紙 の中で、

牧師のことを「もっとも親しい地上の友人」( )と呼

んでいることから、少なくとも が 牧師を深く敬愛していた

ことだけは事実のようだ。

 実際、この の中には 牧師を連想させる言葉や表現が多く見ら

れる。第5連の第3、4行目の現実的な別れのイメージは、 牧師が船

- 206 -

佐 藤 江里子

Page 13: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

で海を渡ってサンフランシスコへ行ったという事実を踏まえた表現であると考

えられる。そして最終連の「カルヴァリの愛」は、 牧師が赴任したカ

ルヴァリ教会を連想させる言葉であり、また の苦悩を象徴するキー

ワードでもある。 にとって 牧師が、恋愛の対象だったのか、

あるいは大切な友人の一人だったのか断定することはできないが、この別離の

経験が に精神的苦悩を与え、このキリスト磔刑の丘の名前でもある「カ

ルヴァリ」(4)は、彼女の経験からキリストの受難に匹敵する愛と苦悩の象徴と

なった。

 また、この第5連の「貪欲な手で―しっかりと握られて―」という擬人化され

た時の流れには、ギリシア神話の時の神、クロノスのイメージが内包されてい

る。そして、この二人の神聖な「時間」が過ぎてしまったとき、目に見えない

「互いの十字架」を結びつけたことが、唯一の「契約」となる。この「契約」

は、最終連の二人が「よみがえる」という「十分な約束」で、第1連の「聖者た

ち」や「復活」などの言葉に呼応している。そして 「あの新しい結婚」は、「聖

餐式」の七秘跡のひとつである婚姻 のイメージと関連している言葉

であるが、 は、自己の苦しい経験である「カルヴァリの愛」を通して、

初めて手に入れることができる本物の愛の成就を理現の結婚としてここに新し

く提示している。

 瞬間の中に真実を見る は、現実の中で愛に連続性( )を求め

てはいない。そして彼女は「墓」が退けられた後の世界に唯一連続性

を求め、真実の瞬間が永遠に続いていくような「新しい結婚」を求めている。こ

の詩には、「夏至」を通過した目に見えない自然の変化と、自己の極めて私的な

経験が、聖書やギリシア神話という伝統的な物語のイメージを用いて、「夏の盛

り」に訪れたある一日に集約されている。つまり、この作品では、四季の循環

( )という無限に続いてゆく大きなサイクルの中の

「夏の盛り」の「その日」という瞬間に、愛する人との出会いと別れが凝縮さ

れ、「私」の想像的体験が苦悩と復活のイメージを伴う「カルヴァリの愛」に

よって永遠の結婚へとドラマティックに展開されている。

- 207 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 14: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 「その日はやって来た―夏の盛りに―」(  ― 

 ― )は、愛する人と出会った瞬間の衝撃的な喜びを「夏の盛

り」の太陽や「夏至」のイメージでうたっているが、むしろ隠された真のテーマ

は、その神聖で幸せな「時間」が終わりを告げ、別れの瞬間を迎えなければなら

ない深い「悲しみ」の方にある。そして喜びに満ちた「夏の盛り」が過ぎ去って

しまったあとも、衝撃的な喜びや愛が消えてしまわないように「私」は「永遠・

不滅」に望みを託している。つまり が「夏」をうたうとき、去りゆく

「夏」との惜別が真のテーマとなる。彼女は、短い夏が過ぎてゆこうとするまさ

にその瞬間に目を向け、これをとらえ、描写しようとする。

 

   ―

 

   ―

 

 

 

   ―

   ―

   ―

 

   ―

 

 

 

   ―  

- 208 -

佐 藤 江里子

Page 15: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 悲しみのようにいつのまにか

 夏は過ぎ去った ―

 あまりにもいつのまにかで 

 最後まで裏切りとは思えなかった ―

 蒸留された静寂

 まるでずっと前に始まった夕暮れ

 独りでひきこもり

 午後を過ごす自然 ―

 夕闇はいつもより早く降り ―

 朝は見知らぬ顔で輝いた ―

 礼儀正しく、でも胸がしめつけられるほど優雅に

 立ち去ろうとする客のように ―

 翼もなく

 舟の便りもなく

 夏はかろやかに去ってしまった

 美の中へと ―

 

 この詩は、「夏」を扱う作品の中でも、比較的季節としての「夏」の風景を描

いているように見えるが、 はやはり「夏」という季節そのものやその美

しさよりも、「過ぎ去った」「夏」、つまり「夏」の不在をうたう。

 彼女は季節の推移、つまりこの詩における「夏」の終わりは、「悲しみ」や「裏切

り」のように知覚できないと言う。ここでは や

を使い、抽象名詞である「悲しみ」や「裏切り」と並べ、極めて微妙な季節の変

化は知覚できないことを強調している。第5行目から第10行目までに描かれて

いる「自然」は、すでに秋のものであり、「夏」は過去形となる。「夏」が終わる

瞬間を直接とらえることはできず、「夏」の風景の中に秋を感じ、冬を予感して

初めて、「夏」の終わりを認識するしかない。しかし、ここには夏が終わる瞬間

を直接とらえたいと願う の想いが逆説的に反映されている。 

- 209 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 16: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 20世紀の詩人・批評家 は次のように指摘している。

 

(5)

  には抽象的なものをそのまま把握し、理解する能力がほとんど完全

に無かった。彼女は抽象的な事柄を彼女が非常に得意とする感覚的な表現か

ら切り離していない。 のように、 は抽象的なものを知覚し、感

覚的なものを思考した。

  も述べているように、 は常に抽象的な事柄を知覚しようとして

いた。実際、彼女は自分自身が知覚した抽象的なものを自己の経験として詩の中

で再現してみせる。このような彼女の感覚と思考を融合する手法のひとつに擬

人法( )がある。この でも、過ぎ去った夏やそれに伴う微妙

な自然の変化を「胸がしめつけられるほど優雅に」、今まさに「立ち去ろうとす

る客」にたとえるという巧みな擬人法を用いて表現している。

 一年中で最も自然界の生命が輝く夏が去ると、やがて冬がやって来る。春夏秋

冬の季節のサイクルは人間の一生にたとえられ、「夏の盛り」が人生の最盛期だ

とすれば、「冬」は死である。第9、10行目では、「夕闇」と「朝」という言葉を

使い、一日という短いサイクルにもまた人間の一生が凝縮されていることを暗

示している。

 ここには、「夏」の到来の喜びをうたう「穏やかな海が家の周りを洗った」(

)にあるような「蝶が船長」

で「蜜蜂が舵取り」という「完全な宇宙」としての船はもはやない。この「客」

にたとえられる「夏」は、「翼」も「舟の便り」もなく彼女の目の前から去り、

姿を消してしまう。この予告のない別れが にはいつも「悲しみ」や「裏

- 210 -

佐 藤 江里子

Page 17: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

切り」に思えるのだ。

 しかし、その「夏」の行き先は、「美」である。この「美」は の「永

遠・不滅」を意味する。「夏はかろやかに去ってしまった/美の中へと ― 」の2

行でこの詩は閉じているが、この「美」という言葉には、彼女の目の前から消え

てしまった「夏」は、消滅したのではなく、姿を隠しているだけで、時が経てば

再び姿を現すということ、つまり再生が暗示されている。ここには永遠の循環で

ある季節の無限性とその中の瞬間を生きる人間の有限性を示唆している。

 この の詩は、一見すると単なる自然詩のように思えるが、 の作

品において全く違ったカテゴリーに属している「彼女が生きた最後の夜」(

)(6)と同様のテーマを扱っている。

 「彼女が生きた最後の夜」には、人間が生から死へと移行するまさにその瞬間

が描出されている。そこで作者 は死の深い悲しみ、絶望、断絶を痛感

し、自分の目の前で死んでゆく者・「彼女」への惜別の念をうたうが、この「彼

女」への想いは、 の立ち去ろうとする客に擬人化される「夏」への想いと

同一である。なぜなら、「自然」も死者も同様に観察者で生者である に

対し気高いよそよそしさを示すからである。

   ― 

 

 

   ―   ―

   ―

   ―  

 微笑みもなく―苦悩もなく

 夏のやさしい会衆は去ってゆく

 うっとりさせるような終わりへと

 いつも会っていたのに ― 互いを知らず ―

- 211 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 18: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 親しいのに ― 疎遠 ―

 なんとしらばっくれた友人なのだろう ―

  はここでも擬人法を用い、「夏」を「やさしい会衆」にたとえ、今ま

で親しかったはずの「やさしい会衆」が、まるで他人のような顔をして自分たち

だけ「うっとりさせるような終わり」へと去ってゆくことに対し、アイロニカル

に「しらばっくれた友人」と表現している。

 これらの作品に共通している特徴は、 が季節の推移や、生から死への

移行における不安定な瞬間をとらえている点である。去りゆく「夏」や死にゆく

友人が他者であることを彼女が痛感する瞬間があり、この認識は彼女に孤独と

深い絶望をもたらす。だからこそ、 は他者である「夏」や「彼女」に深

い愛情を感じる。

 次に引用する作品は、「悲しみのようにいつのまにか」(

)の夏への惜別のテーマと、「彼女が生きた最後の夜」(

)の死者への惜別のテーマを同時に表

現した作品である。

   ― 

   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ―   ―   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

   ― 

- 212 -

佐 藤 江里子

Page 19: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

   ―   ― 

   ― 

   ― 

 

   ― 

   ― 

   ― 

   ― 

   ― 

   ―   ― 

   ―   ―   ― 

   ―   ―   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

 

    

 鳥たちは南から ― 

 ひとつの知らせを大至急私に届けた ― 

 目が覚めるような刺激 ― 私のいとしい便りたち ― 

 でも今日 ― 私は耳が聞こえない ― 

 花たちは ― 訴えた ― おずおずと群れをなして ― 

 私はドアを固く閉ざした ― 

 花たちよ、蜜蜂のもとへとゆきなさい ― 私は言った ― 

- 213 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 20: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 そして私を困らせないで ― もうこれ以上 ― 

 夏夫人は ― 注意を引いた ― 

 遠ざかる ― 彼女の最も美しい衣装で ― 

 心が ― あまりにも完全に拒絶した ― 

 目を刺激することを ― 

 ついに ― 夏夫人はひとりの会葬者となる ― 私のように

 彼女は悠然と身を引いた ― 

 彼女の霜を考えて ― そして

 初めて私は彼女を思い出す ― 

 彼女は私を許した ― 私が嘆いていたから ― 

 私は彼女に一言も言わなかった ― 

 私の証拠は ― 身につけていた喪章 ― 

 彼女の ― 証拠は ― 自らの死 ― 

 そのとき以来 ― 私たちは ― 一緒に住んでいる ― 

 彼女は ― 私に決して何もたずねない ― 

 そして私も彼女に ― 決してたずねない ― 

 私たちの契約

 それはより賢い共感なのだから

 第1連で「鳥たち」が、「ひとつの知らせ」を のもとへと運んでく

る。「私のいとしい便りたち」は「鳥たち」の言い換えで、いつもは嬉しい便り

を運んでくる「鳥たち」の声も、「今日 ― 私は耳が聞こえない ― 」というとこ

ろから、彼女にとっては聞きたくない「知らせ」であることがわかる。

 第2連では、「花たち」の訴えを「私はドアを固く閉ざした ― 」とあるように

- 214 -

佐 藤 江里子

Page 21: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

語り手は拒絶し、「蜜蜂」のもとへ帰るように言う。つまりここには、「蜜蜂」が

戻って来るほど生き生きと「花たち」に咲いてほしいという の想いがあ

り、「私を困らせないで ― もうこれ以上 ― 」から、彼女は「夏」の光彩が次第

に失われてゆくことを事実として認めながらも、その事実を受け入れたくない

と思っていることがわかる。

 第3連で、擬人化された「夏」が「夏夫人」として登場する。

の という言葉は、ギリシア神話の美の三女神(7)のひとりを連想させる。

「彼女の最も美しい衣装」とは、「夏」から秋への自然の変化を表し、 に

とってこの「夏」の「最も美しい衣装」は、「私たちが大切にしなかった夏は」

)にある同じく擬人化され

た「夏」が立ち去るときに身に着ける「上着」であり、別れや移行の象徴とな

る。 の第3連の後半、「心が ― あまりにも完全に拒絶した ― /目を刺激

することを ― 」という表現から、「夏」の終わりを十分に知覚していたにもかか

わらず、 自身が「夏」の終わりを認めることを拒絶していることがわ

かる。

 第4連では、死と葬儀のイメージが出てきて、 に拒絶された「夏」

は、自らが「ひとりの会葬者」となる。そして「夏」が去ると、「夏」の対立概

念である冬を象徴する「霜」が記憶の中によみがえり、逆説的に「私は彼女(夏

夫人)を思い出す」のである。ここで初めて、気づいていながらも認めたくな

かった「夏」の不在を痛感する。

 第4連まで「夏」の終わりを拒絶し続けた を第5連でその「夏」が許

してくれ、両者は和解する。なぜなら第5連の後半にあるように、「私の証拠は

 ― 身につけていた喪章 ― /彼女の ― 証拠は ― 自らの死 ― 」と、両者の想い

は呼応するからだ。このように過ぎゆく「夏」と残される「私」= をつ

なぐ唯一確かなものは、言葉を超えた「より賢い共感」であり、それが両者の

「契約」=「私たちの契約」となる。

 この作品は「夏」を女性にたとえているが、その根底に流れているものは、

「言葉という印」を必要としない二人だけの「聖餐式」を経験し、「互いの十字架

- 215 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 22: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

を結びつけ」たことだけが唯一の「契約」となり、「カルヴァリの愛を通して」

のみ、「あの新しい結婚を ― 正当化する ― 」とうたった「その日はやって来た

 ― 夏の盛りに ― 」  ―   ―  )

にある愛と同じなのである。

 

結論 

 他のどの季節よりも愛する夏が終わり、喪失感、孤独感、絶望感の中で、

は過ぎ去った夏を静かに回想しながら、生命の象徴である輝いた夏を

想う。擬人化された夏の不在が、より一層その存在を際立たせる。そして、本当

の「夏」は、その短くも激しい季節の渦中にいるときにではなく、過ぎ去った後

にやって来ることに気づき、生命の存在を痛感する。

 

   ― 

 

 

 

 

 

   ― 

   ― 

 

 

   ―   ― 

- 216 -

佐 藤 江里子

Page 23: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 

 

 

    

 トウモロコシが刈り取られ

 バラが種をつける六月がある ― 

 あの最初の夏よりもっと短くて

 でもとても愛に溢れた夏がある

 それは墓のものと思っていた顔が

 ある日の午後たった一度だけ姿を現すように

 昔と同じあの朱色の衣装をまとって

 私たちを感動させ ― そして帰ってゆく ― 

 二つの季節が存在すると言う ― 

 実際の夏と

 私たちの心の中にあるこうした夏

 最初の夏は期待で ― 二番目の夏は霜で彩られている ― 

 二番目の夏は最初の夏に

 比べても非常に無限だ ― 

 私たちは後者を好きになるために

 前者を思い出すだけなのではないだろうか?

 この詩には、「鳥たちが戻ってくる日々がある」

 ―  の中で、「六月の懐かしい詭弁」

としてうたわれているニューイングランド地方に特有の小春日和

- 217 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 24: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

( )と呼ばれる十月頃の気候の異変と同様に、「トウモロコシが刈

り取られ」て、「バラが種をつける六月」という実際の「夏」ではなく、「夏」を

思わせる日が秋に訪れる瞬間がうたわれている。

  の第1連で「あの最初の夏よりもっと短くて/でもとても愛に溢れた

夏」は、第2連で「墓」からよみがえった死者の「顔」として擬人化され、鮮や

かな「朱色」の衣装をまとって私たちの前に姿を現し、また帰ってゆく。

は、第3連で「二つの季節が存在する」と確信しているが、その二つとは、「六

月」という本当の「夏」と、十月に自然が一瞬私たちに見せる「夏」のような小

春日和である。そしてこの「二番目の夏」は、「夏」が過ぎ去り、「霜」の季節で

ある冬へと向かってゆくときに、まるで小春日和のように心の中によみがえる

「夏」でもあり、「最初の夏」は心の中に何度でも繰り返されるこの「二番目の

夏」の日のために存在するのではないだろうかと問いかけ、詩を閉じている。

 この の詩では、実際に知覚する「夏」と過ぎ去った後に思考する「夏」

という「二つの季節」があることをうたっているが、 は、 が述べた

ように実際の「夏」を思考し、過ぎ去った「夏」を知覚している。そして、心に

無限によみがえる永遠の「夏」こそが真実だとうたう。

   ― 

   ― 

 

   ― 

 

   ― 

 

   ― 

   ―   ― 

   ―   ― 

- 218 -

佐 藤 江里子

Page 25: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

   ― 

   ―   

 夏には二つの始まりがある ― 

 ひとつは六月に ― 

 もうひとつは十月に

 再び感動的に始まる ― 

 たぶんあの彩りはないけれど

 優雅さはもっと生き生きとしている ― 

 とどまろうとする顔よりも

 立ち去ろうとする顔の方が美しいように ― 

 それから去ってゆく ― 永遠に ― 

 五月まで ― 永遠に ― 

 永遠はひとときだ ― 

 死者以外は ― 

 この詩でも、「夏には二つの始まりがある」と定義し、ひとつは「六月」、そし

てもうひとつは「十月」と言い、「トウモロコシが刈り取られ」(

)や「鳥たちが戻ってくる日々がある」(

 ―  と同じく、秋が瞬間的に見

せる「夏」の残像がテーマとなる。そして第2連の前半は、夏への惜別をテーマ

とする「悲しみのようにいつのまにか」(

)を思い出させる描写で、擬人化された夏が立ち去ろうとする瞬間のはか

なさと美しさをうたう。

  の最後の 行で「夏はかろやかに去ってしまった/美の中へと ― 」とう

たわれていたが、ここでの「夏」は「永遠に」去ってゆく。だが、それは「五月

まで」であり、季節の循環と再生を内包していることがわかる。しかし、この永

- 219 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 26: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

遠の循環は「死者以外」の「自然」の法則であり、「死者」、つまり人間はこの永

遠の循環に入ることはできない。 は、この「夏」との惜別や「自然」と

の断絶の中に、「自然」に潜むはかり知れない<何か>を感じ、そこに「美」や

「永遠」を見出そうとした。

  は、自然の無限と人間の有限への洞察を次の作品に凝縮している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ― 

 

   ―   

 百年後

 誰もこの場所を知らない

 そこで演じられた苦悩も

 平和のような静寂

 

 雑草は勝ち誇ったように広がる

 見知らぬ人々が散歩し

- 220 -

佐 藤 江里子

Page 27: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

 ずっと前に死んだ者たちの

 孤独なつづり字を読む

 夏野の風が

 この道を思い出す ― 

 記憶が落とした鍵を

 直感が拾い上げて ― 

 百年も時が経てば、「この場所」に生きていた人たちや「そこで演じられた苦

悩」などを知る人は、もはや誰もいない。まるで全てが無であるかのように、そ

こには「平和のような静寂」があり、それとは対照的に「自然」の生命力を象徴

する「雑草」が、人間に「勝ち誇ったように」自分たちの領域を広げている。最

終連の「記憶」が落とした鍵を「直感」が拾い上げたときに「夏野の風が/この

道を思い出す ― 」とは、直感が記憶の鍵を開け、記憶の中に閉じ込められてい

た永遠の夏を再現するということだ。つまり、「記憶」の中に生きている永遠の

「夏」が、「直感」で何度でも鮮やかによみがえるということを「自然」である

「夏野の風」が思い出させてくれるのだ。

  は、輝く真昼の太陽に象徴される盛夏ではなく、晩夏や過ぎ去ってし

まった夏に目を向け、その不在や喪失感をうたう。そして、過ぎゆく「夏」に死

者を重ね、惜別の情を抱く。 の描く自然詩は、そのほとんどが単なる自

然描写を超え、彼女の心象風景や自然のサイクルに人間の生と死を見る彼女の

人生観を表している。つまり は、夏の終わり、または一日の終わりに、

人間の命の終わりである死を強く意識する。それは19世紀のニューイングラン

ドの精神風土が育てた彼女のピューリタン的な気質が、罪悪感と精神的苦痛を

伴い、彼女に教義としての死後の永生を常に意識させているからである。しか

し、生きている今、この時を限りなくいとおしく思う彼女の素直な思いが、現世

を放棄することをいつもためらわせている。そして自分自身が求めている永遠

など本当は存在しないのかもしれない、またはその永遠の探し方が間違ってい

- 221 -

Emily Dickinson の“Summer”

Page 28: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

るのかもしれないという不安と戦いながら、それでも彼女は最後まで永遠を問

いかけ、永遠を求め、そして永遠を書き続けていた。

  がこれ程までに永遠を願うのは、アマストの自然、家族、友人、恋

人、その全てが にとってかけがえのないものであるからだ。喜びや絶望

を含め愛するものたちが自分に見せてくれ、与えてくれる生命の輝き全てが

の「夏」なのである。そして、その「夏」には必ず終わりがある

ことを誰よりも深く認識していたからこそ、この「夏」の不在が記憶の中に再び

よみがえる永遠の「夏」への飛翔となることを確信していたのである。

 

Texts:

The Poems of Emily Dickinson: Reading Edition The Complete Poems of Emily Dickinson

The Letters of Emily Dickinson.

Notes:

(1)  の詩は『スクリブナーズ・マガジン』(Scribner’s Magazine,1890年8月 第7

号)誌に掲載された時、「自制」( )というタイトルがつけられていた。

(2) 聖餐式( )は、キリスト教において、神の恩寵の印として、特に神聖と

考えられる宗教的儀式であり、ローマカトリック教会の用語としては、「秘跡」と

いい 洗礼( )・堅信( )・聖体( )・告解( )・

終油( )・叙階( )・婚姻( )の七秘跡を指す。

(3) この は 「神の小羊」 つまりキリストを意味する。

  

John

(4) カルヴァリ( )は、エルサレム近郊にあるキリスト磔刑の丘ゴルゴダ( )

のラテン名。

- 222 -

佐 藤 江里子

Page 29: Emily Dickinson の“Summer”repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17512/spffl060...Emily Dickinson の“Summer” 絶えることのない大きな時の流れの中で、人生もまた一瞬である。生きてゆくこ

(5)  The Recognition of Emily

Dickinson: Selected Criticism Since 1890,

(6) この詩は 年に、 家の隣人である 家の娘、 の

死に立ち会ったという の実体験を元に創られた作品であると言われてい

る。

(7) 美の三女神( )は、それぞれ輝き ・喜び ・開花

を象徴した三人姉妹の女神 を言う。

- 223 -

Emily Dickinson の“Summer”