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この資料集は、今回の招へいにあたり、インド・ブータンの各参加者から提出された論文(英文) を国際交流基金市民青少年交流課の責任において翻訳・編集したものです。複写・転載を希望さ れる場合には、上記担当課にご連絡ください。 日本語翻訳版 無断転載・複写を禁じます 国際交流基金市民青少年交流指導者グループ招へい The Japan Foundation Invitation Program インド・ブータンまちづくり専門家グループ Group of Experts on Town Building from India and Bhutan ひとを育み、まちをつくる:「文化の創造的継承」の先駆的試みを考える Pioneering Efforts for the “Creative Inheritance of Culture and History” 資料集(参加者執筆論文集) Essays 2004. 11. 30 国際交流基金 文化事業部 市民青少年交流課 The Japan Foundation Community Leaders and Youth Exchange Division Tel. 03-5562-3532, FAX 03-5562-3505

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この資料集は、今回の招へいにあたり、インド・ブータンの各参加者から提出された論文(英文)

を国際交流基金市民青少年交流課の責任において翻訳・編集したものです。複写・転載を希望さ

れる場合には、上記担当課にご連絡ください。

日本語翻訳版 無断転載・複写を禁じます

国際交流基金市民青少年交流指導者グループ招へい

The Japan Foundation Invitation Program

インド・ブータンまちづくり専門家グループ

Group of Experts on Town Building from

India and Bhutan

ひとを育み、まちをつくる:「文化の創造的継承」の先駆的試みを考える Pioneering Efforts for the “Creative Inheritance of Culture and History”

資料集(参加者執筆論文集) Essays

2004. 11. 30

国際交流基金 文化事業部 市民青少年交流課 The Japan Foundation

Community Leaders and Youth Exchange Division Tel. 03-5562-3532, FAX 03-5562-3505

参加者執筆論文一覧 Essays デバシシュ・ナヤク Debashish NAYAK 人々に都市を取り戻す:歴史的町並み再生への市民参加-インド・グジャラート州アーメダバードの事例

Getting Cities Back to the People- Community Participation for Revitalizing Historic Settlements アジット・カウザルギ Ajit KOUJALGI ポンディシェリー:その歴史的建造物と都市環境に関する課題と展望

Architectural Heritage and Urban Environment- Problems and Prospects ショウビタ・プンジャ Shobita PUNJA 文化財の受託管理と教育

Heritage Trusteeship and Education

ドルジ・ワンチュク Dorji WANGCHUK 有形・無形文化財の保護、保存、有効活用のための政策:市民・青少年の参加によって

Policies on Protection and Preservation of Tangible and Intangible Cultural Assets and Its Effective Application- With the Participation of Youth and Public

カルマ・ワンチュク Karma WANGCHUK 生きている歴史的建造物の保全:その衝突と調和

Conservation of Living Architectural Heritage- Conflicts and Harmony アキール・スィバル Akhil SIBAL レッド・フォート公益訴訟:ひとつのケーススタディ

Red Fort Public Interest Litigation- A Case Study

ビノイ・ベヘル Benoy K. Behl インド美術と芸術的伝統の記録ならびに文化の知識の普及について

Documentation of Indian Art & Artistic Traditions & the Dissemination of Cultural Knowledge

ブリジ・タンカ Brij TANKHA 場の保存と創造:ひとつの比較の観点

Preserving and Creating Place- A Comparative Perspective

人々が都市を取り戻す-歴史的町並み再生への市民参加

-インド・グジャラート州アーメダバードの事例-

アーメダバード市

文化財協力プログラムアドバイザー デバシシュ・ナヤク

はじめに 「文化財保存を自覚、認識している社会は、文化的アイデンティティーと持続可能な人類の

発展への鍵である。」-ひとつの視点として

都市の人格や個性は、1日で形成されるものではない。たとえ 10年かかっても無理である。それは何世紀にもわたる成長の結果であり、その間絶えず新しい要素は古い

要素と並存してきた。歴史の長いインドの都市の多くは、中心部に建築的・都市的個

性が強く現れたエリアを有する。都心部は生活と活力、富と権力、文化と啓蒙の場で

あった。コミュニティは街や都市にあって、社会の変化と都市の形態の変化の中で息

づき、機能する。市民はその都市環境に慣れるにつれ、都市の意識を次第に失い、都市

は習慣となる。 ここに、市民が自ら築いてきた環境の重要さに気付き、その環境と調和を保つ現代

の関係を作ってゆく必要性が存在する。ある意味で都市再生とは、単なる都市再建で

はなく、ひとと都市の関係の再構築である。都市における旧市街や歴史的建造物は、

財産であって負の遺産ではないと考えるべきである。なぜならこれらの建築様式や都

市構造は、コミュニティの歴史を形に表現し、伝統や文化遺産、文化そのものを体現

するからである。 都心部旧市街は、まちづくりの初期において、地域住民の要望と必要性から生まれ

た。都市は全体計画がないままに、住民や土地利用者の要求を満たすことで発展して

きた。土地は多目的の複合利用が一般的かつ便利であったので、結果として都心部は

様々な活動の中心となった。人々は建物の2階に住み、1階部分に店舗を開く。移動・環境汚染・資源の無駄使い・混雑のいずれもがより少なくてすむのがこうした地域の

特徴であった。

しかるに現代は、すべてが以前の流れに逆行しているかに見える。混合型の土地利

用は奨励されなくなり、住宅地、商業区域、労働区域を分離する開発が推進された。

結果として、収入を得るためには、都市におけるひとつの場所から別の場所への人の

移動が不可欠となった。 多くの都市の旧市街は、現在伝統的な商業的中心地として機能している。その一方

で都市化の波は、都市が内包していた多様性や文化を分裂させ、都心部は今やデリー

のシャージャハナバードに見られるように「都会のスラム街」として最も放置された

地域となっている。かつては都市全体の基盤を築き、成長させていった旧市街が、現

在では不健全で開発を妨げる存在として扱われている。 豊かな文化財と共同体の強い結びつきを有するこれら都心部には、新しい土地利用

や産業の成長、交通機関の発達に順応し適応するため、絶え間ない変容が起こってい

るのである。 現在の状況の背景にあるもの 都市中心部の地位低下と衰退の主な原因は、その重要性を軽視して新たな都市化の

圧力を加える、ずさんで無責任は都市計画プロセスにある。複合的土地利用がしにく

くなったことで新たな課題や問題が生じている。 まず、新しい都市開発が土地価格上昇を招き、より多くの人々にとって、住宅は手

の届かないものになってしまった。人々の文化財への関心は薄れ、商業主義が広く行

き渡った。こうして歴史的建造物の所有者はブローカーや商売人にその物件を売り渡

してしまうようになり、都市の個性は変えられていった。 記念碑的な建造物や文化財を「国定記念物」として指定し、関連の法律を制定したこ

とは政府の顕著な努力であるが、記念碑的建造物のみを対象としていたため、地区と

しての旧市街とは何ら関係しなかった。 今日、旧市街が直面する問題をまとめれば、おおよそ以下のようになる。 ・ 土地利用の変化がもたらす、伝統的・社会的な都市構造の崩壊 ・ 伝統建築様式と、それが季節感や共同体意識に与える利点への自覚と理解の不足 ・ 伝統的地方自治システムの崩壊 ・ 住宅の再分割化とインフラ整備への圧力の増大 ・ 大量の交通量を呼び込む商業活動 ・ 道路網がかかる状況を想定して造られていないことによる駐車スペースの不足や

日常的な交通渋滞

規制と政策における諸問題 道路境界: イギリス植民統治時代、アーメダバード城壁都市内の道路拡張が議論

され、「道路線、ロード・ライン」として提案された。その結果、新たな建造物はすべ

てこの道路境界線の外側に建築すべきであるとされた。これを嫌ったコミュニティの

住民は、道路線内に入ってしまう古い建物の前面部をそのまま放置したため、結果と

して多くの貴重な建造物のファサードが壊されることになった。 容積率: 城壁都市内の許容容積率は、「都心」を除いては 300%であったが、旧市

街では通常それよりもかなり低い率で建造されていた。このためその余剰容積率を 3-4区画併合して高層建築が建てられ、地域の個性を損なうことになった。現在では、

容積率は 200%まで引き下げられ、現存の建造物の修復や改築くらいしかできなくなっている。

税制: 文化遺産保存に税制は必ずしも有利に働かない。例えば Chabutaras と呼

ばれる建造物は商業用建造物と見なされるため、商業施設としての税率で課税されて

しまう。また居住者のいない建造物は税率が低くなるため、歴史的建造物が鍵のかか

ったまま放置され、廃墟となってしまうこともある。 都市の保存に向けての努力とアプローチ 都市の文化遺産は、地域住民や訪問者にとって歴史の評価と過去に営まれていた社

会生活への洞察を促す。それは人の目線の高さから見た、環境への帰属意識とアイデ

ンティティを表象している。 都市の保存という究極の目的実現に向け、政府は積極的な役割を果たすべきである。

これまでも多くの都市でそうした努力がなされているが、中でもアーメダバードは、

市の行政組織に初めて文化財部門を設置したことで特筆される。アーメダバードの成

功例は、ジャイプール、アムリツァー、デリーなどの他の都市でも評価され、同様の

取組みが始まっている。

この目的の効果的な達成には、関係地方機関への権限付与と人材育成が求められる。

資金提供者と政策決定者の両者が満足するとともに、文化遺産保存が同時併行で行わ

れなくてはいけないからである。かかる活動の成長には、複数の都市の構想や経験を

共有し、学びあっていくことが不可欠となる。 文化遺産保存の自覚を、一般市民と地域住民が広く共有する必要もある。現在こう

した自覚はほとんど存在しないため、適切な修復資材や城壁都市の詳細な地図や建築

図面(ドローイング)に関する情報が不足しており、パトカーや救急車、消防車など

は、旧市街中心部へのアクセスを否応なく制限されているのが現状である。 文化財保存における地方行政組織の役割 地方政府は、文化財保存活動の啓発のための実施過程策定とその成功に向け、極め

て重要な役割を担う。その保存作業のすべての行程において、地方政府にはさまざま

な形での関与が必要となる。求められる役割をまとめれば、以下のようなものである。

1.計画的に介入する 2.可能な案件から着手する 3.地元の建築家・専門家・NGOなどからの支援を導き出す 4.地域住民の支援を得る 5.実施可能なプロジェクトを特定する 6.与党政党を参画させる 7.他の自治体や非政府機関と協力する 8.地方政府内に文化財担当部門を設置する 9.すべての公的機関の参加を求める 10.国際機関に賛同・協力し、その活動に参加する

アーメダバードにおける試み 背景 歴史的都市アーメダバードは、10世紀にアシャヴァルとして誕生した。11世紀後半

にはアシャヴァルに隣接して、もう一つの街、カーナヴァティが出現する。現在の城

壁都市は、15世紀のアフメド・シャヒの時代に造られた。またバドラ付近には、約 500mx800mの長方形の土地に、新しい城と砦が建造された。 都市の個性:街路と近隣概念

面積 550ha、人口 44万人を擁するアーメダバード城壁都市は、1411年に成立した。アフメド・シャヒが造ったこの都市の歴史は、独立国としてのスルタン統治時代、ム

ガール帝国支配期、マラータ同盟占領期、イギリス殖民統治、そして独立後に明確に

区切られる。 長い年月をかけて、アーメダバードは「ポル」と呼ばれる住居地区の通りの周囲に

小さな近隣地区が密集した都市構造を形成していった。ポルは、ハベリスと呼ばれる、

複雑な彫刻を施した 2-3 階建ての木造家屋が両側に並んだ一つの通りから成る。通りは薄暗く、たった一つ、多くても二つしか出入り口がない。これらのポルは、結びつ

きの強いコミュニティの強烈なアイデンティティを持ち、その社会的な関係を強める

ための広場や公共設備を共有している。 成長 17 世紀から 18 世紀にかけて、都市は外へと拡張したため城壁が強化された。しか

し、18世紀になると繁栄に翳りが見え、郊外の多くの地域のみならず都心部においても放置され、崩壊する地域が出てきた。イギリス統治時代には軍事施設や野営地、鉄

道、教会、オフィスビルなどが建設された。カルプールの卸売市場、東部郊外の近代

的工場と労働者居住区、エリス橋、住居ビル、教育機関なども建設され、20世紀までに城塞の壁は、そのほとんどが取り壊されてしまった。

ビジネスの急成長によって商業ビルが建造物の約 35%を占めるようになり、城壁都市は、特定の商品や技術の売買で発展した通りや区域がその特徴になっていった。そ

の結果、急速な産業成長によって労働者が流入し、都心部に人口が密集した。1610年には 10万人であった人口が、1932年以降急激に増加し、1971年には実質的に 2倍となった。その大多数は紡績工場で働く賃借人であったため、工場の閉鎖とともに、彼

らは仕事を失った。他方、城壁都市の金銀加工産業は成長を続け、多くの技術者を引

き寄せ、これらの人々の移動がポル内の社会構造の同一性を脅かす結果となった。 問題意識の共有 アーメダバード市(AMC)とフォード財団ニューデリー支部は、「城塞都市、アーメダバードの都市保存」と題する報告書を作成した。この調査は歴史的な区域に焦点

を定め、都市の保存に求められるべき基本的な要素を論じたもので、都市とその形態、

城壁・城門、ポル、家の様式における歴史的重要性と、古い建物の持つ問題点につき

分析がなされている。歴史的建造物や歴史的な地区のリストが作成され、保存政策と

そのモデル・プロジェクトも同時に提案されている。 ヘリテージ・ウォーク:都市再生への鍵 ヘリテージ・ウォーク(文化財散策)は、建築・文化・伝統技能等の文化財によっ

て都市の内部を探索し、体験できる効果的な方法である。人々は都市内部をテーマに

応じたルートによって散策し、美しい寺院、歴史的建造物、ハベリス、ポル、店舗な

どを見て、それら建造物に関連した豊かな文化を自ら体験することができる。 戦略的パートナーシップ これらの事業の成功は、いかにして戦略的なパートナーシップを築き、多様な利害

関係者の幅広い参画を促すことができるかにかかっている。 市民参加 コミュニティの参加促進のため、道路標識の設置、文化財の日(Heritage Day)の広報パンフレットの配布、歴史的建造物やそこに住んだ偉人、主要な行事等の一覧表

づくり、市の職員や地方政府代表、市民グループ、地域のお年寄りなどが参加して開

催する “Kavi Sammelan”と呼ばれる詩人の会など、さまざまな活動が継続されている。すべての活動において、メディアも積極的に参画した。 その他、インドの自由と闘争の歴史にちなんだ「フリーダム・ウォーク」をネタジ・

サブハス(偉大な指導者)チャンドラ・ボーズの誕生日の祝典を主催したり、ボラン

ティアや沿道の住民の参加による散策路の美化や修復の努力などを行っている。 部局間、そして官民のパートナーシップ 様々な地方政府や関係機関の援助によって数々の建築プロジェクトが開始された。

これらのプロジェクトは、それぞれの所属する組織が直接関係しているプロジェクト

を考慮しつつ実施が決定された。例えば、城門の美化、収税官管区の歴史的な門の設

計、詩人の記念碑の創設、変圧器設置のための構造設計と建設、市立博物館の設立な

どである。 アウトリーチ より広範なレベルでの包括的戦略を策定するため、これらの経験と教訓は活用され

なければならない。アーメダバードが実施したヘリテージ・ウォークやその他の活動

のモデルはアーメダバード周辺の小都市やインドの他の都市に受け継がれ、同様の活

動が行われるようになっている。経済的側面においては、住宅融資や家屋修復関連企

業にも働きかけがされている。 国際的な協力の取組み 国際機関に対しても、その経験を共有することで手法や取組み方の視野を広げ、認

識をより深める目的で連絡が取られている。アーメダバード市は、城壁都市の科学的

研究に関し、フランス政府と覚書を締結している。オランダ時代の工場と墓地に関す

る歴史的調査及び修復、ならびにその解説書の作成も現在進行中である。また、アー

メダバードの城壁都市は、世界文化遺産団体(the World Monument Fund)により「危機にさらされている遺産」のリストに加えられた。こうした努力により、アーメダバ

ード城壁都市における都市保存活動は強化され、国際的な関心を集めるようになった

のである。

ヘリテージ・ウォークとその他の戦略との連動

ヘリテージ・ ウォーク

情報伝達・普及

参加型 ガバナンス

CAD訓練

人材雇用

地図・分布図作成

情報素材 地域マネジメント

商取引 都市計画、規制

市民参加

準備段階における地方自治体の役割

認識の普及 システム強化 財政支援

地方行政府

様々な手段

ヘリテージ・

ウォーク

路上パフォーマンス

ワークショップ

研修

政策の普及

祭り・祝典

再開発プロジェクト

文化財関連の顕彰

財政支援

修復プロジェクト

ニューズレター発行

ポンディシェリー

その歴史的建造物と都市環境に関する課題と展望

INTACHポンディシェリー支部 文化財保存室 共同議長 アジット・カウザルギ

1.0 都市 本稿においては、ポンディシェリーの都市そのものと、INTACH(インタック、インド芸術・文化遺産ナショナル・トラスト)が市民や政府機関との協働によって取り組ん

だ旧市街の歴史的建造物の保存再生及び都市環境改善への取組みにつき述べる。 旧フランス植民地ポンディシェリーは、建築様式及び町並みの観点からインドでもユ

ニークな都市のひとつである。もともと 17世紀初頭までは、漁師と職工の集落が点在する町であったが、その後 200年の間に、オランダ・英国・フランスの植民地政策の影響を受けつつ、現在の都市へと発展した。全体の形状がたまご型のこの要塞都市は、格子

状に区画整理され、運河をはさんでフランス語圏とタミール語圏に分かれている。タミ

ール・タウンはヒンズー教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の居住区が密接に入り組ん

だ構造となっている。 町の建築は、フランス様式とタミール様式の 2種類がある。フランス・タウンの建築がヨーロッパの古典的建築様式をコロニアル風に熱帯気候にアレンジしているのに対し、

タミール・タウンの建築は、地元タミル・ナードゥ州の伝統建築の影響を強く受けてい

る。対照的な二つの建築様式は隣接し、相互に影響し合い、結果としてしばしばヨーロ

ッパとタミールの建築様式の独特の混合様式を作り出す。これが文化の相互交流を反映

した「ポンディシェリー的」というべき建築様式の型である。 古くからの住民も外からの訪問者も、ポンディシェリーがその独特の性格と雰囲気を

急速に失っていることを指摘する。これは単に人口や汚染の増加という理由のみならず、

建築的に特別な価値を持つ古い建物が驚くべき勢いで姿を消しており、新たに建て替え

られる建築物の様式はインドのどこでも見られるようなものになっているということに、

その主な理由がある。このようにして「場所の感覚」は薄れ、都市の文化的アイデンテ

ィティは失われてゆくのである。ポンディシェリーには数多くの記念碑的な建築物があ

るわけではない。そのまちの建築としての価値を生み出すのは、フランス風、タミール

風の数百の家並みが作り出す「環境(milieu)」や「全体(ensemble)」なのである。その

意味で、この文化遺産を守ることは、1軒1軒の家すべてを守ることを意味することに

なる。 2.0 保全 まず、なぜ建築上の特徴を保全する必要があるのか、ということを以下に述べる。

• 建築は、文化の具体的な表現であり、文化的伝統の保持は我々の根源(ルーツ)

を強化する。また、古い家は優れた技術と芸術的技能を用いて建てられており、

我々は次世代にこうした建築物を受け継ぐ義務がある。 • 保全することにより、インド内外の観光客が訪れると経済的効果もある。 • ポンディシェリー政府及びインドの環境森林省(MEF)は、歴史的建造物の保全を政策的に支持しており、国家レベルでもインドは歴史的建造物の保全を目的と

するユネスコ等の多くの国際会議に加盟している。 2.1 歴史的建築物のリスト

1987年から 95年にかけて、INTACHは EFEO(フランス国立極東学院)と共同で旧市街の歴史的建造物の目録を作成した。当時約 1,800件あるとされた建築物は、現在約1,150件に減少している。

この目録はポンディシェリー計画局(PPA)に対する旧市街における建築申請対応の基本となっている。PPAは、目録にある資産に関する建築申請を受領すると、速やかにINTACHに意見とコメントを求める。このシステムにより、INTACHは建造物のオーナーに会って当該建築物の保全や最低限新築の家のファサードが周りの町並みと調和する

よう、説得する機会をもつことができるわけである。 現在ポンディシェリーには、歴史的建造物を解体しないよう規制する法令は存在しな

いが、政府は現在「詳細開発計画(DDP)」の一環として、文化遺産保護規定の導入を検討中である。 3.0 INTACHの建築物保全室 解体されようとする建築物の多くは、実は良好な保存状態にあり、単に放置されてい

たり維持管理を怠ったりしたために表面上の瑕疵が見受けられるに過ぎない。従って建

築的価値を損なわず、妥当なコストで古い建築物を現代仕様に改修することが可能なケ

ースが殆どである。しかし物件の所有者は、技術者や大工から、安全でないとの理由で

解体を進められることも多い。

歴史的建造物の効果的保全を推進するため、INTACHはポンディシェリ政府の財政援助により「建造物保全室」を設置した。この組織は無料または可能な範囲の必要経費で

所有者の相談に応じる目的で、複数の建築物保全の専門家を擁している。 建造物保全室の目的は、以下のとおりである。

• 保全目的を達成するための政府と市民のつなぎ役となるとともに、情報提供や教

育活動としてのセミナーや展示会の開催や刊行物の発行を、建設業者及び広く一

般市民に対して行う。 • 街路・地域・町並みの建築上の特徴と調和した建物を、保全・改修・増築・新築

するため、物件所有者、建設業者、建築家に対する相談窓口となる。

4.0 アジア都市プログラム(The Asia Urbs Programme)(2002年 2月–2004年 8月) 4.1 背景 アジア都市プログラムは、アジアの都市が欧州のパートナー都市と協力して都市環境

を改善することを目的に、欧州委員会(EC)により構想された。このプログラムへの申請にはパートナーとして2つの欧州の都市が必要である。ポンディシェリーは他州に先

駆けて、ウルビノ(イタリア)および ヴィルヌーヴ・シュル・ロット(フランス)と共に、これに応募し、75万ユーロを得た。そのうち 35%が上記3つ都市が支出し、残りを欧州委員会が提供する形となっており、ポンディシェリーも自ら 10万ユーロを負担している。

ウルビノは、ポンディシェリーの歴史的建造物保全を指導する格好の都市である。と

言うのも、ユネスコの世界遺産に認定されているこの都市は、文化活動・遺産保全およ

び観光をその経済発展の主たる原動力としているからである。 一方、ヴィルヌーヴ・シュル・ロット は歴史的な城塞都市であり、歴史的遺産への現代施設の融合と、観光業に立脚した経済活動の振興のために、ポンディシェリーと協力

して環境管理の取組みを行うことにかねてから高い関心を示していた。 アジア都市プログラムの目的 正式名称は、「文化財保存の積極的取組みによる、都市の経済面・環境面での目標達

成」であり、その名称が示すとおり、市民の生活の質と地元経済の活性化のため、以下

の活動を通じて都市の諸問題に取り組む。

• 文化財保存による都市の地域経済と環境の質をの向上。

• 一般参加型で分権的な、計画策定とマネジメントの主導。

• 様々な利害関係者との、プロジェクトに関するアプローチ・プロセス・経験・情報の共有。

4.2 遺産保全への積極的取組み

歴史的建造物のストックは今や急速に失われつつある。過去 8年間にタミール地域だけで 600を超える建築遺産が解体され、その魅力を受け継ぐことのできないインドのどこにでもあるコンクリート建築に取って代わられた。歴史的建造物の保全は緊急の課題

であり、アジア都市プログラムはこの歴史的都市を再構築、魅力再生のための重要な起

爆剤となっている。

4.2.1 建築遺産に関する認識調査

INTACHは建築物の所有者を対象とした認識調査も実施している。対象地域全体からアトランダムに選ばれた 60軒のうち、82%がタミール地区、残り 18%がフランス地区である。この調査は文化財保全の目標と戦略を客観的に明確化する点から重要であり、

以下のような結果を得ることができた。

• 25%の人々が、歴史的建造物は文化財保全法によって有効に保護できると考えている。

• 30%の人々は、歴史的建造物保存に何らかのインセンティブが必要と考えている。

• 47%の人々は、自分の所有建造物が建築遺産目録に載っていることを知っている。

• 55%の人々は、建築遺産の保全にかなり高い/少なくとも低くない優先度を置く。

• 56%の人々は、ポンディシェリーの文化財保全にかなり高い/少なくとも低くはない優先

度を置く。

• 32%の人々は、建築遺産を所有する際感じる主な不便として構造的な問題を挙げた。

• 現代建築の潮流が、解体による景観消失の主な理由であると挙げられている。

• 59%の人々は、歴史的建造物の保存が観光振興につながると考えている。

同調査及び後述の我々の経験により、市民は技術的・財政的な支援があれば、歴史的

建造物の保存に協力する意欲があることが明らかになったといえよう。

4.2.2 モデル・ストリートのファサードを再生するためのスキーム

モデル・ストリートのファサード再生は、タミール・タウンの代表的な街並みの持続

的保存に向けた総合的な取組みであった。建築遺産が最も数多く存在するバイジャル

( Vysial )街即ちカルブ・スパラヤ・チェティ通り( Rue Calve Supraya Chetty)(ミッション通りからガンジー通りの間)の街並み一体がモデル・ストリートとして選ばれた。

再生にあたっては個別の建物の外観のみならず、歴史的な町並み全体がその対象とされ、

家屋の所有者と一般市民が自分たちの文化財の価値を発見し、協働で観光客の訪れるエ

リアを新たに築くことが目的とされた。

再生作業は、約 25ヶ所の歴史的建造物のファサードを対象に実施された。最初はあまり乗り気でなかった関係者も、人々の関心が高まるにつれ積極的に参加するようになっ

た。設計提案の詳細と見積りは、利害関係者と協議しつつ INTACHが作成した。 ファサード再生にあたっては、壁塗りに石灰モルタル、木製のルーフ・バルコニーや

ベランダの上にマンガロールのタイルなど、伝統的な素材を用い、外観をオリジナルの

状態に回復し、併せて道路の敷設、排水の改善、伝統様式の街灯設置といった、自治体

の一般的なサービス改善にも努めた。こうして建築遺産ではない物件所有者の中にも、

町並みの伝統的な特徴を維持するために、現代風に改築された外観を、もとの伝統様式

に変更しようとする人々も出てきた。 こうして居住者は、自分たちの町並みの建築的価値へのプライドを持ち、結果として

多くの人々が内装のおいても伝統様式を維持しようとするようになった。ひとつのロー

ル・モデルとして、この通りは町の同じような通りにもプラスの相乗効果をもたらすこ

とが期待されている。

4.2.3 マッチング・グラント計画 放置や維持管理の不足によって多くの歴史的建造物が傷み、破損している。建築物の

所有者は、自力で修繕する適切な伝統的技術や財政手段を常に有するとは限らないから

である。このためアジア都市プロジェクトにおけるマッチング・グラント計画は、建築

遺産の所有者に対する財政上・技術上の支援によって都市遺産を保存する取組みを行っ

ている。建築物の環境や各種施設の改善との組み合わせにより、すでに 11件の歴史的建造物のファサードと内装の再生が行われた。これは所有者が同額の拠出をする条件の下、

各建築物に 5,000ユーロを上限とするマッチング・グラントが提供されるものである。 建築家と建築構造専門家の綿密な調査、それに対する所有者の積極的な協力によって、

選択された建築物の主要な問題は明らかになった。それは継続的な相互の意思疎通によ

って利害関係者の信頼を勝ち得ることと、彼らを再生プロセスの中に参画させること、

へのチャレンジでもあった。建築物の外観を再生し、水漏れを抑えて屋根を修理し、損

傷のある木製の梁を交換し、雑草を取り除き、石灰モルタルで壁塗りを仕上げ、伝統的

な赤色酸化セメント床を敷き直し、壁を彩色し、各種設備を修繕、更新する。こうした

複雑で細かな部分を再生するため、伝統的な職人と技術が用いられた。 マッチング・グラント計画の成功に刺激され、ポンディシェリー観光省は建築遺産の

維持・保護のために同様の手法を導入した。これにより、所有者は屋根の修理と外観の

改善のため、25万ルピ(約 4,500ユーロ)を上限にコストの 70%までの助成を受けるこ

とができる。また歴史的建造物に経済的価値を付与する観点から、これらをホテル、パ

ブ、ブティックやその他の活動に使用することも促進されている。 4.3 Heritage Walk計画と啓蒙活動 ポンディシェリーの特徴ある通りを歩く歴史建造物めぐりは、その豊富な文化財に観

光客や市民の目を向けさせる有効な方法として世界中で認められている。最近ではこの

Heritage Walkは、要請に応じて INTACHが行っている。タミール、フランス両地区それぞれの特徴を際立たせる歴史的建造物に焦点をあてたこの企画は、市民・旅行者を問わ

ず、建築が都会の環境でいかに重要な役割を演じているかを発見し、文化財への目を見

開かせるきっかけとなっている。これ以外にも文化財問題への一般的な啓蒙活動のため、

以下の出版物が発行されている。

• ポンディシェリーの地図と、Heritage Walkのルートがついたパンフレット(タミール語、英語、フランス語、イタリア語の 4ヶ国語)。

• ポンディシェリーの歴史的建造物に関する紹介ビデオ(20分)及び観光振興を目的としたポンディシェリーの紹介するビデオ(5分)の製作。

• デジタルの写真展用の「ポンディシェリーの建築遺産」パネル(22 作品)の製作。 • 「ポンディシェリーの建築遺産」(タミール語と英語)の出版。同書は建築家、

建設業者、プランナー、建築遺産の所有者などを対象とし、この都市の建築遺産

を包括的に紹介するとともにメンテナンス、歴史建築エリアにおける新建築の問

題、法的な問題など、建築遺産に関連する重要な問題も取り扱っている。 • 建築遺産目録に掲載されている建造物のポンディシェリーGIS地図への組込み。 • アジア都市プログラムに関するカラー・パンフレットの出版。

4.4 建築遺産標識システム 長い歴史をもつ都市は、旅行者だけでなく住民であっても、誇るべき歴史的資産であ

る地域や史跡に新たに気付くための適切な表示や案内のシステムを持つことが重要であ

る。INTACHは特別な文化遺産都市としてのポンディシェリーのイメージのため、標識のシステム考案活動として以下のようなものを設計した。

• 駅やバス停、観光局のような人々の集まる場所への旅行者情報マップの設置 • 海岸通りのガンジー像付近の花崗岩柱の上に、ステンレス製のシティ・マップを

設置。歴史的建造物や観光スポット、レストランや買い物に関する情報を提供。 • 25ヶ件の歴史的建造物にそれぞれの歴史を簡潔に記した金属プレートを設置。 • タミール地区再生のモデル・ストリートであるカルブ・スパラヤ・チェティ通り

(バイジャル通り)の花崗岩柱に紹介文を記したステンレス金属プレートを設置。

将来的にはこうした取組みが町の他の地区にも拡大していくことが、この計画のねら

いである。すでに観光省では通りに設置されていた古い掲示板を、ガラス質のエナメル

のプレートと交換する事業に取り組んでいる。約 300の掲示板がこの方式で設置されることになっているし、その他にも歴史情報を記したプレートの新たな設置も行われつつ

ある。 4.5 都市環境管理に対する取組み 旧市街活性化の包括的手法においては、歴史的建造物の保存だけでは不十分であり、

都市の環境改善問題が最重要課題である。このため本プロジェクトでは、都市環境管理

への取組みも行われている。グランド・バザールの再生、ゴミ処理管理、乗り合い 3輪タクシ(リキシャ)の電気バッテリー使用促進、都市の緑化及び旧市街の 2つの主要な広場であるバラティ公園とガンジー広場の再生計画などがその例である。 グランド・バザールは、色彩豊かで活気のある地元の市場であるが、この計画により

公共施設や入場門が改善され、ゴミ処理管理方法が以前より改善された。 旧市街のごみ処理改善のために、各戸ごとの収集とゴミ分別(分解処理が可能なもの

と不可能なもの)が、パイロット・プロジェクトとしてフランス地区で導入されている。

さらにゴミ収集には電気自動車が用いられ、収集された分解可能ゴミは、グランド・バ

ザールからのゴミとともに、ミミズ堆肥法(ミミズを用いた堆肥を用いてゴミを再生す

る方法)によって 1ヶ所で堆肥化される。分解処理が不可能なゴミについては、リサイクルか埋め立てに用いられる。この取組みは、ある女性による自助グループによって運

営されている。 電動 3輪タクシーの使用を促進するため、充電用ステーションが設置された。電気自動車の購入には政府からの援助があるが、バッテリーのための高度な充電施設がないこ

とが判明したためである。このスキームによって、Heritage Walkで使用するバッテリー2個装備の自動車も購入した。

アジア都市プログラムの最も重要な特徴のひとつは、ポンディシェリー政府、同計画

局、都市地域計画省、観光省といった政府関係部局や、INTACH、エコベンチャー( Ekoventure)、エクスノーラ( Exnora)のような非政府組織、さらに ADEME(フランス環境庁)、ウルビノ政府(イタリア)、ヴィルヌーヴ・シュル・ロット(フラン

ス)などが、すべて 1つのチームとして一緒に働いていたことである。もうひとつのハイライトは、パートナー都市が歴史的建造物の保存および都市環境管理の分野にどのよ

うに取り組んでいるかを視察するための、インド人代表団によるフランスとイタリアへ

の訪問だった。メンバーには、州政府および都市計画省の高官、および地方行政大臣が

含まれていた。

4.6 結論 アジア都市プログラムの基本的な考え方は、このプログラムで開始した取組みが、プ

ロジェクト終了後も継続されるようにするということであった。歴史的建造物及び都市

環境問題に関する認識を市民、官僚、政治家に喚起したことで、このプロジェクトが成

功であったと結論づけることは容易である。このモデルを引きついで観光省は建築遺産

の所有者に対する財政援助を実現し、さらに都市標識プロジェクトを継続していく意向

である。また、中央政府からも、バラシィ(Bharathi)公園とガンジー広場プロジェクトを実行するようにとの要請も受けた。 ポンディシェリー政府は新規プロジェクトを通じた作業を継続する意向であり、さらに都市計画省は、目録に記載された建築物に対する

法的な保護を提供する詳細な開発計画を完成させつつある。 さらに、現在すべての政府機関のオフィスを、都心部の歴史的遺産集積地帯から外へ

移す計画がある。その結果交通渋滞も緩和され、政府のオフィスがあった歴史的建造物

が、より適切に活用されることが期待されている。これが実現すれば「安らぎを与えて

くれる平和都市ポンディシェリー」というスローガンが現実のものとなるだろう。 5.0 観光資源としての都市 - 未来への展望 通常インドでは、記念碑や寺院、考古学上の重要地点や巡礼地、観光リゾート、自然、

特別保護区などに観光のポテンシャルを求めがちである。そこでは、インドが数多く有

する「文化遺産都市」-歴史的建造物を有することが大きな魅力となっている都市-の観光資源としての力の認識は見事に抜け落ちている。ヒマーチャルプラデシュ、ラジャス

タン、タミル・ナドゥなど、インドのそれぞれの土地の特性に合った数百もの建築物が

美しい街並みを作っているのである。しかしこれらの都市のほとんどが今や劣化し、破

壊され、さらにそれをやむを得ないこととしてあきらめている風潮がある。町並みのし

られざる美しさを人々に知らしめ、その美しさと生活の賑わいを快適に体験できる場を

提供しない限り、都市が観光資源となることはない。今日、建物は修繕されずに放置さ

れ、かつての美しいファサードは見るかげもなく広告看板等で覆いつくされ、道路は騒

音と自動車の排気ガスが充満し、歩道はくぼみでデコボコの状態となった。売り子や無

許可のキオスク、電気や電話の配線箱などが歩行を妨害し、下水設備は存在しないか詰

まっており、ゴミが至るところに氾濫している。つまるところ現在の街並みは、必要最

低限にしか留まりたくない存在となり果てている。 西側諸国の歴史的都市の都心部は、ほとんどが歩行者主体で清潔な、緑あふれる空間

である。人々は回りの美しい建物を観察し、通りに面したカフェでお茶を飲み、買い物

を楽しみ、ストリート・パフォーマンスを見る。町がそうした雰囲気を醸し出している

からであり、ここでは邪魔されることなくゆっくりと歩き回る喜びを再発見できる。

旅行者も市民も、どのような交通手段で町に来たにせよ、最後は歩くことになる。美

しい歴史的建造物の町並みを楽しむには、落ち着いた歩行空間、清潔で緑あふれる通り

の存在が不可欠である。人々の目が行き届き、よくメンテナンスされた古い建物が、訪

問者に楽しんでもらうひとつの都市空間を創出する。都市は単なる記念碑でも、史跡で

もない。都市をよく知るためには、その枠組みの中につかり、自ら歩き回り、目をこら

して細部や美しさを発見し、地域独特の建築様式を堪能し、美しい店を訪ね、魅力的な

中庭をちらりと覗き、小さな公園や広場を歩き回り、異質な文化や伝統に触れ、人々に

出会わなければならないのだ。 ポンディシェリーは、すべての都市がこうした方向に向かうためのパイオニアとなり、

モデルとなることができるだろう。都市としての規模、そこにある建築様式、そしてフ

ランス文化とタミール文化はその理想的な要素である。何よりもそこに住む市民にとっ

て町が美しく、活気のある存在にすることが我々の目指すところである。そうすれば、

インドからも外国からも、旅行者が自然に集まってくることになる。 ポンディシェリーは、総合的で有機的なまちづくりをめざしている。すなわち都市の

インフラ、歴史的建造物の保全、町の照明、ランドスケープ、無公害車、ゴミ処理管理、

観光施設の更なる充実などの組み合わせによって相乗効果を高め、「都市体験」の新し

い価値を創出するものである。こうした展望の達成には、行政と政策の確固たる後ろ盾

が不可欠であることはいうまでもない。

文化財の受託管理と教育

INTACH(インド芸術・文化遺産ナショナルトラスト)

文化財教育・コミュニケーション部門長 ショウビタ・プンジャ

19世紀は、ヨーロッパにおいて古物収集の関心が湧き起こり、ウォルター・スコット卿やジョン・ラスキンなど偉大な学者たちの生き方・考え方が広まった時代であっ

た。1840年代には、ラスキンが「遺産の受託管理」の考え方を紹介し、著書『記憶のランプ(Lamp of Memory)』の中で「古い建造物は我々のものではなく、一部はそれを建造した人々に属し、また一部は我々に続くすべての世代に属するものである」と

述べている。1877 年、ウィリアム・モリスは「古建築保護協会」を設立し、この考え

方を実践した。また 1861 年にはすでに、スコットランドのアレクサンダー・カニンガ

ム卿がインド考古調査局初代局長に就任している。

受託管理という考え方は、非常に興味深い。これは、古い建造物や芸術工芸品は、

時代の先達たる人々やコミュニティの歴史等の過去の証言であり、続く世代のため、

我々はこれらの物言わぬ証言者を保護する義務を負う、という考え方である。祖先か

ら受け継いだものは、次世代が享受するために保存してゆくべきであり、我々は世界

文化の受託管理者として、自然の美しさや歴史的モニュメントの残る数々の場所を、

良い状態のまま、これ以上悪化することなく、子どもたちのそのまた子どもたちに残

してゆかねばならないのである。

この考え方は、英国ナショナルトラストやオーストラリア・ナショナルトラスト、

スコットランド・ヘリテージ他、世界中のさまざまな組織の設立基盤であった。私が

所属する INTACH(インド芸術・文化遺産ナショナルトラスト)も 1984 年に設立された。これらトラストには、自分たちの町、国、世界文化の受託管理者としての義務

を果たす最善の方法は何かという問題に取り組むため、保護の専門家やボランティア、

関心をよせる人々が団結している。 哲学的過去 インドはしばしば、歴史観と時代感覚の欠如した古い国であると非難されてきた。

何しろ損傷した象徴の崇拝は不吉であると見なされ、壊れた彫像は河に投げ込まれる

という伝統を持った国である。ここには「全体こそ完全である」という哲学的信条が

ある。例えばインドの葬儀においては水を一杯に満たした土器が割られているが、こ

れは、死によって生命は身体離れ、火によって焼かれるべき物体としての身体のみが

残っているということを連想させるものである。 植民地支配の置き土産 19世紀のインドに古代の遺物の関心と保存概念をもたらしたのは、英国の植民地統治者たちだった。イギリスはインド初の博物館をつくり、インド考古調査局(ASI)を

設置した。今日、同局では国家的に重要な 4,000 件以上の記念物を保護し、政府考古学局では 3,000 件以上の記念物や遺跡を保護している。イタリアのような小さな国でも 200,000 件以上の保護遺跡があるのに、インドという広大な国が、政府の資金が限られているために、保護を受ける歴史的な遺跡を 8,000 件しか有さないことは非常に残念である。 何千ものまだ保護されていない建造物や自然景観を守るため、1984 年に INTACHが設立された。設立から 20 年が過ぎた今日、INTACH はインドの自然、有形及び無形文化財の保存に取り組む国内最大の会員組織である。140の支部と会員である 4,000人のボランティアが、それぞれの町の文化財保護に努めている。しかし広大な国土を

持つインドでは、一般の人々が生活の中でこうした運動にもっと参画しなくてはいけ

ない緊急の必要性に迫られているのが現状である。 世論 一般市民の支持を得て、文化遺産を保護する創造的方策を探るべく公開討論を始め

る時が来たのではないかと、私は感じている。人々は本当のところ、自分たちの遺産

をどう考えているのか。彼らは子どもたちのために遺産を守っていきたいのか。遺跡

が放置され、崩壊し、消滅するのを黙って見ていてよいのか。またインド国民は国家

としての遺産の受託管理の考え方を共有できるのか。このような問題が問われるべき

であるが、これまでに一度も提起されたことがないのである。 受託管理人としての役割の第一歩は、誰が関心を持っているかを探ることから始ま

る。計画を策定し、戸別調査を行い、テレビやラジオを含むメディアを巻き込み、人々

が現在文化財をどう感じているのかを理解する必要がある。人々は文化財を誇りに思

い、それによってこの国の市民としてのアイデンティティーを自覚し、インド人であ

ることを誇りに思うことができるか。創造的な事業活動や公開討論によって、この問

題に関する世論形成はなされていくことであろう。 インドの一般市民が、確固たる信念を持って文化財に積極的に関与するようになれ

ば、広まりつつある文化財への認識は、革新的な行動計画として結実するだろう。民

主主義国家インドでは、世論を喚起し、受託管理の意味と文化財への認識を追究する

ことが重要なのである。

文化財の受託管理者であるということ 過去の歴史の受託管理者としての役割を担うには、所有権に対する高潔な意識と、

「受託管理者」という言葉の意味の正しい理解が必要である。受託管理者とは、この

国の自然遺産、有形、無形文化財の所有者ではなく保護監督者であり、占有者ではな

く保管者であるということである。

1948年の憲法には、インド国民の基本的義務の一つは国の文化財を保護・保存することであると記されている。インド哲学においても、すべての人類が権利を主張する

ことなく資産を共有し、公平な立場からそれを慈しみ、所有者という考えから離れて

それを思いやり、報酬を求めずそれに奉仕し、慈悲と犠牲の精神をもってその進展と

発達に寄与することが説かれている。

地方、州、そして中央政府の政策は、その時々の国民の政治的意思を反映させるた

め、再確認と再検討がなされなくてはならない。将来にわたってこの国の美しさを保

つために、政府の政策は、かけがえのないこれらの森林や遺跡、多様な工芸技能が、

インドそのものであったことのゆるぎなき究極の鍵であるという認識の上に、作られ

る必要がある。 ASI と政府考古学局の保護下にある遺跡エリアを、市民とコミュニティの参画に向けて公開することで、市民がそれらを、単に政府の資産であるのではなく「自分たち

のものである」と感じるようにすることも必要である。多くの人々は公共資産や ASI管理建造物、国立公園などを、自分たちのために保持、管理されているものではなく

「政府のものである」と思っているため、このためには大々的な考え方の転換が必要

となるだろう。 公共のバスの座席や何千年もの歴史を持つモニュメントに自分の名前を落書きする

ことを、人々は何とも思わない。バスも建造物も「自分のものである」と考えられて

いないからである。「公共」という言葉を使うとき、それは自分だけのものではなく、

自分たちのもの、他人にも享受してもらうための自分たちのものである、という微妙

なニュアンスを持つ。歴史的建造物が自分たちのもの、自分たちに属するものである

と感じるならば、文化財の維持は集団としての義務であることが理解できるだろう。 歴史的建造物は「私たちの」町に優雅さと気品を与え、私たちの生活の質を高める。

王宮や郵便局、軍事基地、警察署、政府機関ビル、様々な宗教の関連施設は、多大な

る美的・歴史的価値を有する。これらの建造物に居住し、働く者が公共財としての配

慮を持って初めて、我々はその存続と保護への希望を持てるようになる。

文化財破壊の速度が日々速くなっていく今日、文化財保護の緊急性はこれまでにな

く高まっている。開発と文化財保存はしばしば対立するが、常にそうであるとは限ら

ない。文化遺産は反開発ではない。我々はただ、「開発が破壊をもたらさないこと」、

変化が生活に価値を加えるものであって奪い去るものでないこと、と求めているので

ある。幾世代もの歴史を重ね、様々な時代の建造物や古代から現代までの都市生活を

浮き彫りにする町や村、古い建造物の再利用、すべての人々への創造的な機会、すぐ

れた職人や芸術家の関与、これらすべてによって、私たちの町は真に楽しく、興味深

く、安全なものとなるのである。 メディアの役割 今日のインドでは、一般市民の嗜好や世論の形成にあたってメディアが大きな力を

持っている。文化遺産が脅かされている理由と、保存のためにすべきことに関する一

般市民の関心を喚起する役割に、メディアは気付いているだろうか。メディアは、一

般市民の支持を得、文化遺産の大義を守り、知識と情報の普及を可能にする、創造的

方法を生み出す資金と技術を有しており、私たちは、この国の隅々までその認識を広

めるべく、この創造的エネルギーを活用すべきである。文化遺産の窮状と、この国が

持つすべての価値あるものの大規模な破壊に対し、世界中の関心を惹起しなくてはな

らない。 文化財教育の必要性 文化財の認識をさらに向上させるには、芸術に科学を持ち込める若い修復技術者の

訓練と専門技術開発に取り組まなければならない。人類学者やコミュニティで働く人

も自分たちの責任において、文化財の認識を広め、自然・文化的環境を守るために訓

練を受けることが必要である。文化財の認識は、「文化財はすべての人のものである」

と考えるところから始めなければならないのである。 まず、専門家や専門知識のある活動家が、計画性のない開発や慎重さを欠く計画に

よって文化財が損なわれたり破壊されたりした場合に、それに対する怒りを表明する

ようにしなくてはいけない。傷つきやすい森林に道路をつくったり、象が毎年移動す

る道をふさいだりする権利が政府にあるのかどうか。地方政府が美しい歴史的建造物

を壊して面白みのない建物をつくったり、神聖な場所で部族コミュニティが固有の儀

式を行う権利を否定したりしてよいのか。こうした討論に参加し、声高に主張する人

が求められているのである。我々の意識啓発プログラムは、それぞれの権利を主張し、

河や山々、文化、コミュニティを愛し、本来我々にのものであるものを取り戻してく

れるようなヒーローたち、ヒロインたちを生み出すようにデザインされることが必要

である。

文化財教育と情報サービス(HECS、Heritage Education & Communication Service) 1988年に私は、過去の歴史を守り、自然遺産、有形・無形文化財を保存する必要性の認識向上を目的とした計画を立案するため、INTACHの文化財教育・コミュニケーション部門、HECSを立ち上げることとなった。 年月を重ねる中で、我々は文化財教育こそが、国家的遺産の保存と、国民がそのか

けがえのない遺産を保護する責任を確実に認識するためのすべての努力の核であるこ

とを理解するに至った。我々の文化財教育の指導原理は二つある。生涯にわたり配慮

することを学ぶこと、生涯にわたり配慮し続けることを学ぶこと、である。 INTACH における我々の第一の使命は、「文化財の受託管理者」としての憲法上の

役割を一般市民に知らしめるためのメッセージを広く伝えることである。計画の貧困

さや官僚的な無神経によって、何が間違ったのか、どのように自然資源が消耗されて

いるのか、どのように水や森林、野生動物、美しい自然風景といった希少な自然資源

が無責任に傷つけられているのか。いかにして歴史的建造物が破壊され、我々のまち

や村が、日々刻々とその美しさや優雅さを失っているのか、言語や慣習、伝統的技能

はどのようにして失われ、歴史のゴミ箱に捨てられてしまっているのか、といったこ

とを伝えるために。 このため INTACH文化財・コミュニケーション部門では、文化財に対する認識を高

め、市民の行動を啓発するため、様々な計画やプロジェクトを開始した。対象となる

グループは、①学校と大学、②広く一般の人々、③専門的職業グループ、④政策立案

者、⑤地域開発行政機関、⑥観光業者、⑦歴史的建造物の所有者、⑧ASI、博物館、公文書保管所、などである。

我々はメディアや研修、意識啓発プログラムを活用し、認識や知識の不足が原因で、

かけがえのない文化遺産がどれほど多く破壊されているかを一般市民に知らせるよう

にしている。INTACH は、インドの広範で多様な文化遺産の重要性と我々の世界文化への貢献を十分に理解しながら青少年が育つためには、すべての公教育同様、文化財

教育も各家庭と学校、大学で始めなければならないと考えている。このためインド教

育文化省は HECSに対し、学校と教師を対象としたさまざまな新しい計画を実施するためのグラントを提供している。 文化財ワークショップ教師研修 文化遺産の保護と保存に対する青少年の役割に関し、小学校から大学までの教師に

知識を与えて教育するため、HECS ではさまざまな異なるタイプの教師研修計画を開始している。ワークショップは 2~4日間の期間で、学校での文化遺産の認識など様々

な話題を取り上げている。 学校での文化財クラブ(Heritage Club)の設立 この活動は非常に成功しており、既に 2 年間続いている。毎年、活動がさかんな支部のある 10~12 のインドの都市が選ばれ、INTACH 各支部が 20~30 の学校を対象に、2~4日間のワークショップ開催を後援する。各学校の教師は、中学校の子ども向けにどのようにヘリテージ・クラブを設立するか、どのように年間を通して子どもた

ちを文化財認識活動に参加させるかなどの研修を受ける。教師向けのマニュアル『文

化財に触れる(Hands on Heritage)』は、学校で創造的な文化遺産関連活動を計画するための指導書となっている。

学校のヘリテージ・クラブ会員の子どもたちには、アイデンティティー・キット(会

員用品)とバッジ、パスポートが配布される。また子どもたち自身による記事や絵・

詩とともに自然遺産、有形・無形文化財などに関する子ども向け記事が掲載されてい

る会報『ヤング INTACH(季刊)』も送付される。

その他の創造的活動として、コンクールや討論会の開催や、遺産認識向上のための

①Navratans(ヒンディー語で「9つの宝石」)、②ポスター、③カード等の印刷物の発行がある。 文化財に関する刊行物

INTACHの学校向け刊行物は、①教師向けマニュアル「文化財に触れる(Hands on Heritage)」、②子ども向け文化財マニュアルなどがあるが、いずれもきわめて高い評価を受けている。 文化財認識向上のための刊行物、地図、資料作成コンクール INTACH各支部の文化財認識向上活動への参画を推進するため、我々は各都市で文化遺産関連刊行物のデザイン・コンクールを開始した。各支部代表は、遺産関連刊行

物の提案を印刷原稿で提出し、勝者にはその都市のガイドや地図を印刷を開始するた

めの資金が賞金として与えられる、というものである。 コミュニケーション・情報 HECSは、文化遺産保護の分野で INTACHが提供しているサービスを会員や一般の人々に知らせるため、ウェブサイトも開設した。インドの教育においては今もラジオ

が有力なメディアであるが、それを利用した新たな活動も始められている。文化財問

題を扱った 52年の歴史を持つ番組が、学校の生徒たち自身によって子ども向けに製作されており、国営放送オール・インディア・ラジオによって放送されることになって

いる。 特定の関心を持った人々へのワークショップ 上記以外の関心を持った人々に対応するとともに、専門家の能力開発を支援するた

め、HECS は特別ワークショップを開催しており、将来的にはこの活動をさらに発展させていきたいと考えている。2004年 10月 4~7日、ラジャスタン州の博物館学芸員を対象に実施した文書保存技術の研修は、博物館スタッフに科学的な文書化技術の必

要性に関する最新情報を与え、博物館科学の分野における諸外国の進んだ取組みに関

する知識を与える、有意義な研修活動であった。 能力開発活動 保存活動と関連して、我々は史跡近隣に住む低所得者層の女性や子どもを対象とし

た能力開発活動も実施している。これは、その地域の有名な伝統工芸を選出し、女性

にその技術訓練を行うもので、現在 13の家族が、自らの作った工芸品を販売して定期的な収入を得るようになり、生まれて初めて銀行口座を持つに至っている。INTACH では、このような工芸品に対する注文をインド国内や海外からも受けている。 INTACHでは、弁護士や医師、政府機関、地方政府、主婦層、教師、学校や大学の生徒・学生など特定の関心を持つグループにもその文化財教育活動を広げている。我々

は、世界の文化遺産の受託管理者としての責任を担い、文化財に対して生涯にわたる

責任を全うする覚悟を持たなければならないのである。我々の創立時のメンバーであ

り、会長でもあった故ププル・ジャヤカール女史はこう述べている。 「私たちは、現在世界で起きていることに対しての責任がある」。

有形・無形文化財の保護、保存、有効活用のための政策

-市民・青少年の参加によって-

ブータン生活文化省文化局長 ドルジ・ワンチュク

文化とは何か 文化は人間の存在の本質であり、根源であるとされる。世界のあらゆる文明は文化に

よって支えられている。文化は社会がつくりだすすべての営みの原動力であり、人々に

思考方法や取り組むべき目標、取り組みのプロセスを提供する。 文化にはその国の歴史、慣習、制度、考え方、社会的必要性、状況などが反映されて

いる。ブータンでも、世界の他の国々同様、文化はそれぞれの時代の状況に応じた社会

的位置を見出してきた。しかしながら、ブータンの文化はいまだかつて成文法によって

規定されたことはなく、状況の変化に応じて人々の精神と個性が変化し、その新しい変

化が独自の文化とアイデンティティーを形成してきた。 文化の必然性 文化は国家の生きる力である。われわれは国のあらゆる場所で、何百年、何千年も生

き続けてきた技術や伝統の実例に出会い、ブータン文化の豊かさを実感する。国のアイ

デンティティーは文化によって明らかになり、芸術や建築はその国の知的発展の度合い

を示す。ブータンの民族衣装、言語、礼儀作法は独特なもので、さまざまな技能と結び

付いている。他の社会の文化に対するこの独自性は、人々の依って立つ背景、原点、そ

して成長のもととなるものである。私たちは、祖先が築き上げてきた自国の文化を共に

理解、信頼し、充足感を感じるよう努力すべきである。この理解こそ、次世代への文化

の保存・普及を可能にするものであるからである。経済力、軍事力がきわめて弱小なブ

ータンにとって、国家として生き残る上で、文化は重要かつ必要不可欠なものである。

近代化がこの豊かな文化的伝統を避けがたく衰退させてゆき、最終的に失われることの

ないように、1985年ブータンは国王の命の下、豊かな文化財の保存と振興のための文化委員会を設置した。 開発政策における文化の位置づけ ブータンは中国とインドの間に位置するヒマラヤの小さな王国で、仏教の一派である

チベット仏教(Vajrayana)を国教とする世界で唯一の国である。仏教は、国の宗教遺産・文化遺産や伝統的慣習の発展において重要であるだけでなく、ブータン人の価値観や生

き方にも大きな影響を与え、その中心をなしてきた。近代化への取り組みが続く現状の

中、長い年月を経たブータンの伝統と文化は政府の開発政策の中に効果的に組み込まれ

つつある。 ブータンの文化遺産は国家の最も強固な礎として、近代化との調和を図りつつ、保存・

振興すべきであると広く認知されてきた。このことはブータンが開発を望まず、他の世

界の国々から隔離された状態に留まることを意味するものではない。ブータンは国際社

会においてもその存在を認められており、1961 年から着手された社会経済開発計画は、人々の生活に大きな進歩をもたらした。同時に、生きることに意義を与える価値観なし

に、物質主義的なものだけを追求することの無益さは、これまでの歴史が証明している。

このため経済的・技術的発展は、伝統的な文化的価値観の保存・保護と緊密に連動しつ

つ推進していくことが強く望まれている。このようにしてブータンの開発活動事業は、

祖先が次の世代へと残してくれた価値観や伝統の実体を損なうことなく計画されてきた。

ジグメ・シンゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck)国王は、「グロス・ナショナル・ハピネス(GNH:国民総幸福)はグロス・ナショナル・プロダクト(GNP:国民総生産)に勝る」と言われる。これこそブータンの何よりも重要な開発哲学であり、文化

遺産の保護と普及は、この「国民総幸福」の 4 本の柱の一つである。あとの三つは、経済成長と発展、環境の保全と持続可能な利用、そして健全な統治である。 文化の種類 文化は有形文化と無形文化から成り、それぞれは社会や国の価値観、規範、伝統の複

合体である。つまり有形文化と無形文化は、同じひとつの実体の原因と結果のような存

在といえる。

有形文化は建造物の建築デザインや装飾美術などの表現として、見たり触れたりでき

る。それに対し、無形文化は豊かな伝統の中に生きる、形がなく、知覚することができ

ないものである。 有形文化財の保護と保存 ブータン固有の建築のような有形文化財の伝統は、われわれの祖先が持っていた傑出

した技能や生まれながらの才能の結実として、何世紀にもわたって発展してきた。この

建築様式は、ゾン Dzongsと呼ばれる砦や寺院、僧院、仏舎利塔、城、橋、村々の住居などに用いられている。しかし今や、村人や土地の職人の手によるユニークで環境に優し

いこれらの建造物は、コンクリート建築に取って代わられ、美しい住宅や村全体の伝統

的構造自体が、新しい資材や建築技法の導入によって徐々に消滅しつつある。このため

これら歴史的建造物を文化財・伝統建築保存地域として公に認定し、保存・維持するた

めの総合的な取り組みがなされている。詳細な歴史的建造物の建築調査とデータ作成は

完了しつつあり、優先度の高いものから修復作業が開始されている。また新築にあたっ

ても、伝統的な建築デザインを踏襲することが奨励されている。さらに伝統的建築を継

承する若者のブータン国内での育成のため、建築訓練センターや職業訓練施設が開設さ

れている。 ブータン政府は、古くからある建造物に新しい建造物が調和しない場合、新たに建設

しないように勧める方針を取っている。これは歴史的建造物の本来の姿が世界中で正し

く理解され、現在及び将来の人類への恩恵と利益となり、その「場所」が意義を持ち続

けるために、その原状維持を図るものである。将来的には文化的・歴史的な場所への侵

害を阻止する法律が施行されることとなっている。 ブータンには 2,000 件の古代仏教寺院や僧院、10,000 件のチョルテン Chortens と呼ばれる仏舎利塔が存在する。多くは中世にその起源を持ち、希少な物品、古い絵画、彫

刻、手書きの写本などを所蔵している。こうした建築の宝物館は、多くの場合人里離れ

た場所、時には訪れることすら困難な場所に存在するため、その維持や安全性確保・修

復作業が大きく制限されている。 ブータンの歴史的建造物の保存・修復の重要性への認知度を高める上で、国際交流基

金は寛大な援助がわれわれの助けとなっている。本年は国際交流基金から、歴史的建造

物の重要性に関する論文コンテスト(第二回)への助成を受けている。参加者は中学・

高校・一般の部ともに様々な学年からの学生がほとんどで、若い世代に自覚と責任感の

醸成を促すきっかけとなっている。 古美術についても国家規模の目録化と検証が完了しつつある。紛失や窃盗についても

再三調査が行われ、政府はこれらの安全管理のための数々の対策を講じている。例えば

宝物館や寺院、僧院の安全管理のため、地域住民も参加して様々な講習会やワークショ

ップが開催されている。 モニュメントや文化財を故意に傷つけたり冒涜したりする者、また道義心や良心など

持ち合わせない国際的な骨董市場の需要に応えるべく、私欲にかられてこれらを盗む者

に対し、政府は厳格な態度で処罰に臨んでいる。われわれとはまったく異なる動機によ

って文化財を「評価」する者がいる事実に対し、常に注意を怠ってはならないからであ

る。 2002 年 3 月 26 日、ブータンは「ユネスコ・文化財の不法な輸出、輸入及び所有権譲渡の禁止及び防止に関する条約」に調印した。その後、ブータンの最高立法機関である

ブータン国民会議の 2003年 8月の第 81回議会で、同条約は批准された。この規約により、盗まれた文化財を回収することはブータンの国際的評価を高めることにもなると同

時に、国内で必要な政策や法律の制定が可能となり、文化財保護に向けてユネスコから

の専門的知識や資金援助を求めることも可能となると考えられている。 建築デザインや工法、資材など様々な分野における伝統的技能の拡散により、多くの

建造物は新たに建て替えられる結果となるのが現実である。政府はそれらを保護すべく

適切な対策を講じ、修復に対しては厳格な規範を設定している。 寺院や僧院などほとんどの文化財はそれぞれのコミュニティに属し、コミュニティ自

身がそれを維持するのが伝統である。しかしながら多くのコミュニティは人材不足を理

由に、長年にわたって政府の援助を求めてきた。政府は、地域住民が毎日の生活の中で

自分たちの寺院・僧院の重要性を自覚し、その維持・保存を図る伝統を守るよう、コミ

ュニティに奨励している。それとともに、政府は修復に必要な技術的な協力も行ってい

る。 新しい寺院や僧院の建設は本当に必要でない限り、いかなる新たな建設も奨励される

ものではないと、コミュニティには通達されている。労働力や経済的、物質的資材の提

供が地域において期待できる場合、政府はそれら資材を現存する古い建造物の保全、修

復、修理に当てるよう奨励する政策を取っている。 ブータンの美術工芸は、“Zorig Chusum”という大きなひとつのカテゴリーに属し、有形文化財の観点から、以下の 13 の小分類に区分されている。

⒜ 木工品 ‒ 現地語で Shingzo ⒝ 石細工 ‒ ″ Dozo ⒞ 陶芸 ‒ ″ Jimzo ⒟ 青銅鋳物 ‒ ″ Lugzo ⒠ 木・石・石版彫刻 ‒ ″ Parzo ⒡ 絵画 ‒ ″ Lhazo ⒢ ろくろ細工 ‒ ″ Shagzo ⒣ 鍛冶細工 ‒ ″ Garzo ⒤ 金・銀細工 ‒ ″ Troeko ⒥ 竹・籐工芸 ‒ ″ Tsharzo ⒦ 製紙 ‒ ″ Dhezo ⒧ 織物 ‒ ″ Thagzo ⒨ 縫製 ‒ ″ Tshemzo

何世紀にもわたり、これら美術工芸はブータンの宗教的・文化的生活において重要な

役割を果たしてきた。美術は高く評価されており、ごく単純な儀式用の品々から、Dzongs

と呼ばれる巨大な砦や農家まで、至る所に見出すことができる。これらの美術工芸から、

われわれは多くのことを学び、世界の中における自分たちの特別なアイデンティティー

を自覚することができるのである。 今日、人々の生活に近代化の波が打ち寄せて、これらの伝統を脅かしている。しかし、

ブータン国王の先見の明と展望により、ブータンの開発計画や政策は決して文化遺産を

ないがしろにすることはなかったし、それは今も変わっていない。 一例として、これら美術工芸の役割の重要性に鑑み、1971年に国立美術工芸研究所が設立された。これは学校を卒業した若者たちに訓練の機会を与え、雇用機会を増加させ

ると同時に文化財の保護・普及を目的として、設立されたものである。 また、民俗博物館は、20 世紀初期の工芸品や中産階級の家庭生活品を保管し、展示する場である。この博物館は今日の若者や将来の世代が、先人の生活様式を直接見ること

ができるという意味で彼らに計り知れない恩恵を与える可能性を持っている。 国立博物館は、仏教伝来以降の時代に重点を置きつつ、有史以前から現代までのブー

タンの歴史・芸術・文化に関する事物の収集、保存、研究を行うとともに、ブータンか

ら貴重な美術品が違法に売られ、輸出されるのを防ぐため、歴史的・文化的価値の高い

美術品を購入することもしている。 豊かで複雑な形態の織物芸術は、ブータンの文化に深く根付いている。伝統織物工は

名誉ある芸術家として高く評価され、ひたむきな鍛錬とブータン固有の素材や染料の利

用による高い技術を誇っている。他方ブータンの生活のあらゆる面で開発が進み、人々

の考え方や価値観、認識にも顕著な変化をもたらしたことにより、布地の選択や利用法

にも顕著な変化が見られる。実用性を重視した工芸を基本とする伝統的な布地は、急速

に他の素材に取って代わられつつある。服装や衣装は変化し、模様や基調、モチーフも

変化した。幸い一部の伝統的・古典的服装や衣装は今も保存され、特別な機会に着用さ

れている。しかし中には商売人にそそのかされて所蔵する衣装を二束三文で売ってしま

う人もいる。テキスタイル美術館は、こうした古い工芸品の保存・研究と、織物技術を

生きた伝統として守ることを目的としている。また、綿花の栽培や、今では消滅しつつ

ある草の繊維を原料とする織物の復活なども目指している。美術館では、あらゆる形態

の織物美術・工芸を力強く生き続ける伝統として育成、維持、拡大、探求するため、フ

ォーラムなど公開の場も提供している。 無形文化財の保護と保存 無形文化とは抽象的な形態で存在し、あらゆる有形文化の基盤となり種子となる。ブ

ータンの無形文化財は、民話、神話、伝説、慣習、技能、儀式、シンボル、スポーツ、

占星術、詩歌、演劇、歌曲、舞踊、祭りなどであり、それらは国の文化との全体像をさ

らに豊かなものにする。 舞台芸術は人気が高く、人々の生活において精神的な重要性を保ち続けている。1967年、ブータン国王は、ブータン舞台芸術の保存と普及を念頭に、王立舞台芸術アカデミ

ーを設立した。現在アカデミーでは、全国から若者を募り、5年間のプログラムで仮面舞踊や民族舞踊・民族音楽・演劇の講義と指導を行っている。アカデミー所属アーティス

トは、重要な国家的行事や海外の賓客訪問の際に様々な芸術を披露し、今も息づく舞台

芸術を紹介している。このことは一般市民のブータンの豊かな文化財の自覚と理解を高

める目的も持つ。その他アカデミーではブータンの舞台芸術の調査・記録も実施されて

いるほか、仮面舞踊の標準化のため、毎年全国から芸術家が参加する研修会・ワークシ

ョップも開かれている。 言語文化研究所は、伝説や神話、伝記、格言、詩歌などの様々な無形文化財を教育・

学習・調査し、国語を保存・振興する目的で設立されたものである。舞踊と音楽も、こ

の研究所の教育カリキュラムの一環となっている。 かつて物語が教育の手段であり、そのほとんどすべては口承で後々の世代へ語り継が

れていた。これらの物語は祖先によって創作され、ある種の教訓が込められている。幾

つかの物語は学校の教科書に取り入れられ、生徒は祖先の才能の一端を学び、伝統を守

るという機会を得ている。また、生徒は自分で物語を創作したり、親や祖父母から聞い

た物語を記録するよう奨励されている。 多くのスポーツも物語同様、何世紀にも渡って発達してきた。中でも弓道は国技とし

て、全国いたるところで行われる人気の高い伝統スポーツである。その他にもそれぞれ

の競技者が二つの丸く平たい石を使って競技する“Daegor”と呼ばれるゲーム、槍投げに似たスポーツ“Sog Sum”、ブータン式ダーツ(投げ矢)“Khuru”、ブータン式レスリング“Kashey”などがある。現在でも伝統スポーツの普及のため、これらの競技大会が頻繁に開催されている。

数あるブータンの文化財の中でも、“Driglam Namzha”と呼ばれる礼式は最も幅広く実践されている遺産として世代を越えて受け継がれ、さらなる普及が図られている。

この礼儀作法には、見方、話し方、食べ方、服装、身体の動き、言葉や精神を通して敬

意を表するなどの作法が含まれる。このユニークな文化遺産は、国家的威信をさらに高

めるものとして学校の教育カリキュラムにも組み込まれ、幼い頃から子どもたちは、そ

の存在と重要性を教えられる。大学や研究機関を卒業した学生は、社会で仕事に就く前

に例外なくこの豊かな遺産の再教育を受ける。

記念日など祝祭日もユニークな無形文化財のひとつである。これらは何世紀にもわた

り、毎年祝われているが、その一部を例に挙げれば以下のとおりである。

⒜ 国王の誕生日と即位日

⒝ ブッダの記念日 ‒ Parinirvana(パリニルヴァーナ・般涅槃)、First Sermon (初説教)、Descending Day(降臨日)

⒞ 建国記念日

⒟ 年中行事としての祭り

⒠ 占星術上の記念日 ‒ 新年、夏至・冬至、Blessed Rainy Day など

これら記念日には、それぞれ歴史に基づく異なる重要性と異なる祝い方があり、すべ

ての国民がそれに参加できるよう、記念日には政府や学校・研究機関は休日となる。ま

た同様に広く普及し実践されているものとして、結婚や仏教の教義に基づくさまざまな

儀式が挙げられる。 文化センター ブータン人は自国の文化に深い尊敬の念を抱き、熱心にその保存に努めている。政府

各省庁、団体、地域や村落は、等しくこの国の独自の文化アイデンティティーを保存す

る責任を負っている。政府は、文化遺産の保存と普及の中心的役割を担うものとして、

以下の組織を設立した。 ⒈ 文化局 (以前の国家特別文化事業委員会) ⒉ 言語文化研究所 ⒊ Zorig Chusum国立研究所(伝統美術工芸研究所) ⒋ 木工・手工芸センター

⒌ 地方政府及び僧院

⒍ 教育局

⒎ 織物センター また上記の諸機関に加え、ブータンの文化の保存と普及は、全国民が共通に担う神聖

な任務である。

文化セクターの課題

自国の文化遺産の保存と普及の重要性を国家として認めているとはいえ、その調査・

記録はいまだ完了の途上にある。ブータンの文化遺産の大部分は豊かな口承の伝統に基

づくため、消滅の危機に瀕しており、完全に失われてしまう前に調査・記録することが

急がれている。この過程においては、研究プロセスを加速するための近代的な情報・記

録技術が必要である。そのための努力・進歩は見られるが専門家や熟練したマンパワー

の不足から、今も課題は未完のままである。

人々の社会的価値観のシステムにも問題が生じてきている。近代化により様々な恩恵

がもたらされる一方で、薬物乱用、非行、家庭崩壊といった社会問題、近代化の影の側

面や負の影響が、ブータンの社会文化システムに徐々に忍び寄ってきた。これは現在存

在する社会的価値観のシステムを衰退させ、結果として国家の持続可能な開発に対し否

定的な影響を与える結果となる可能性もある。このような近代化の否定的な影響に対処

するため、環境などすべての存在への敬いの精神を教えるという伝統的価値観を、断固

として維持していかなければならないのである。

このように憂慮、検討すべき分野は広大で、困難極まりないが、資金、熟練した人材

面で、リソースが非常に限られているのが現状である。

結論

今日のブータンは国土、人口、経済力などの面で他の諸外国に肩を並べることはでき

ないが、文化的に非常に豊かな国家であると評価されている。そして、そのことからも、

私たちはこのユニークな文化が独立国家としての象徴であると考える。ブータンの文化

は、私たちの主権を支える唯一の力であり、将来の世代のためにそれを保存していくこ

とが不可欠なのである。

インドと中国の間、ヒマラヤに位置する小国ブータンは、その文化遺産と手付かずの自然環境

で世界に知られている。本稿はブータンの人々の日常生活の中に息づく歴史的建造物の保存に

関するものである。

生きている歴史的建造物の保全:その衝突と調和

ブータン内務文化省文化局

歴史的建造物保護課エンジニア

カルマ・ワンチュク

ブータンは、仏教の深い影響を受けた国である。その歴史のほとんどは、しばしば神話と

結びついて語られる教典として記録される。人々の暮らしは、常に仏教の教義と結びつき、

その中に位置づけられる。「仏教の教義と結びついた歴史的建造物の保全に関する衝突と

調和」関する議論を始める前に、この問題がいかに広くかつ複雑かということを自らきち

んと認識すべきである。保全という言葉は、複数の文脈で用いられる。広い意味では環境

の変化や歴史的な都市・遺跡の構造との関連で語られる。さらにアマゾンの脆弱な雨林の

破壊について語る文字通りの「保存」から、自然環境における再生不可能な資源利用や歴

史的な都市・遺跡の管理のような、より広い意味での「持続可能な発展」まで、保全の解

釈の幅はきわめて広い。衝突と調和、保全、修復、保存、再構築、仏教と理論、仏教倫理、

哲学。こうした概念的性格を有する複雑でしばしば対立するかに見えるさまざまな課題は、

さらなる明晰さをもって総合的に理解することが求められる。

保全倫理の概念を最も広く解釈すれば、それは仏教の実践と何ら異なるものはない。自然

遺産、とりわけ野生生物の保存への関心と、すべての生き物に対する思いやりは、紀元前

3世紀のアショカ王の勅令とジャータカ物語に見ることができる。さらに年代が下ると、

環境と自然、その力への尊敬が、我々が聖なるものと考える多くの仏教の実践の中に見ら

れるようになる。たとえば土地、水、山、そして木は、大地や湖や木々の保護者であり、

そこに宿る精神であると信じられており、どんな活動(たとえば建築)をする場合でも、

その前にそれらの神々に許しを求める習慣は、我々が自然のプロセスと力を尊敬している

ことの証であると言えよう。

昔から、ブータンの人々にとって、宗教的な建造物の建築や修復は、純粋に献身的な行為

であった。このような行為を献身的に行う感覚は、進行中の作業に自発的に労働力を提供

すること、つまり報酬などなくても身体を張って貢献しようという衝動によく示されてい

る。ここでは、他の原則は一切働いていない。材料の調達と様式と機能の変更については、

「有機的に」なされているという以外ないであろう。時間の経過とともに木材が朽ち、壁

がひび割れると、人々は自発的にそれらを交換し、修理した。手狭になって追加の部屋が

必要になれば、拡張し、仕様を変更した。職人の技能とその継続性は人々の間に自然に育

まれ、生き続けている。我々には哲学は存在せず、外部との比較の基準ももたなかった。

この、常に生き生きと活気のある文化こそ生き続ける文化遺産であり、数十年前に開発と

近代化が到来するまでの間、過去何世紀にもわたって継続してきたものである。

保全は、基本的には4つの関連する要素が組み合わさっている。予防的措置、実際の作業、

調査、そして適切な文書化である。保全プログラムの目標は、若い世代に豊かな文化の歴

史を受け継いでもらうため、建築遺産を長きにわたって保存することである。現下の問題

は、仏教の教義から見た時の保全がもたらすプラスとマイナスは何かということである。

つまり、仏教の立場からすると、人々が愛着を抱いている精神的な価値を犠牲にすること

なしに保全し得る建築構造はほとんど存在しないのである。したがって、修復士にとって

の主要な問題は「選択」である、ということになる。つまり人々の感情を尊重するのか、

それとも職務上の義務を履行することに価値を置くのか、ということなのである。

一般に保全作業は、熱や湿気、人の使用、カビや虫の繁殖といった生物による損傷、金属

のさび、美術品の長期にわたる展示、人々の居住、保管、時間経過等によって進行するす

べての建築構造の劣化を制御するために行われる。上記以外に、保全作業は、目には見え

ない要因のため必要となることがある。たとえば、様々なコミュニティで、昔から行われ

ている宗教的儀式、即ち香を炊く、寺院や僧院でバターランプを灯す、壁画に聖水をかけ

るといった行為が建築物保全の観点からいえば、まさにそれにあたる。また仏教の教義に

忠実であろうとすると、いかなる生物を殺すこともその信義に反することになってしまう

が、皮肉なことに、カビや虫を殺すことは、建築物の保全の鍵となる作業なのである。こ

のように、建築遺産の保全を進めようとすると、モラル上のジレンマに陥ることになる。

つまり、客観的な職業倫理を遵守する必要と、個人的な生き方や、昔から受け継がれてい

る文化という「人間の業」の間のせめぎ合いである。美術品は、過去からの創造物であり、

修復士の義務は、それを継続して存続させることである。修復士は美術品が、将来に対す

る過去の正確な存在証明となり得るようにしなくてはならない。保全が特定の美術品の寿

命を延ばすことに疑いの余地はないが、他の存在を犠牲にして達成されるという意味で仏

教の考え方には反することになる。

同様に、人々の信仰を集める非常に古い僧院の柱や壁画、教典、仏像その他の動産美術が

虫食いが生じた場合には、修復士はそれを薫蒸し、化学製品を用いて害虫を取り除く作業

を行うことになる。カビを除去すれば文化財の状態は安定し、保全作業はとりあえず完了

するが、それは生き物を殺さないという仏教の教義を無視するという代償を払うことにな

る。さらに言えば、いくつかの主要な僧院では、女性がそこに入ったり触れたりすること

を禁じている。このため修復士が女性であった場合、自らの専門的技術を十全に活用でき

ず、僧院が保全できないという事態も起こる。

建築物はその時点で完成していると考えるか、それ自体がプロセスの一部に過ぎないのか、

という問題も最近重要な問題として取り上げられる。ここで明らかにしておきたいのは、

ブータン人は昔から寺院や建造物を拡張・修繕することを自然のプロセスと捉え、徳を積

み重ねるための神聖な行為であると見なしてきた点である。一般市民として、また仏教徒

として、我々は熱心に寺院を塗り替え、壁画をきれいに描き替え、そこに住む僧侶が増得

るのに伴い増築して部屋数を増やし、精神的な献納行為として sertogs(金の尖塔)を新たに設置してきた。西洋の修復士にとってみれば、仏像とはそのオリジナルな姿と作られた

時代の職人技術を保存するため、塗り直すことなど許されない。しかしブータン的な見方

では、人々が仏像を塗り直すのは、献納行為であり、その年の幸運と豊作と地域や国が災

害に合わないことを祈る行為なのである。漆くいで壁を塗ったり、寺院全体を塗り直した

り、既存の僧院に新しい建物を増築したりすることは、ブータンでは日常的に行われてい

る。昨今はオリジナルを維持する西欧流の保全原則に迎合する風潮が高まっているが、私

の経験ではこのような方法を取ると、ご利益を求める市民の宗教的感情や信心とぶつかる

可能性がある。これが、ブータンにおいて我々が豊かに享受できる生きた文化遺産に関し、

特筆すべき点である。

今日のブータンにおいて、文化財の修復・保全は賞賛に値する徳の多い行為であるという

点に異論を唱える者はない。しかし、評価され、論議されるべきは、概念ではなく実際の

修復・保全事業である。なぜなら保全という言葉自体は様々な哲学や手法に適用できるた

め、保全運動の軋轢だけでなく、仏教におけるその建築や修復へ影響というパラドクスも

加わって、象徴的な原理と理論を含むきわめて大きな混沌状態が繰り広げられているから

である。

もはや制御不可能な経済発展と近代化が引き起こす諸問題を認識するとともに生きた文化

と歴史的建造物、繊細な山の生態系と例のない生物学的多様性を理解し、持続可能な発展

の重要性を認識したブータン王国は、急ぎすぎない発展の道を歩むことを選択した。これ

は、国民の要求に応じた生活水準上昇をめざすが、一方でブータンの文化的一貫性、文化

遺産及び次の世代の暮らしの質を損なうことはしない、という開発方針である。 伝統的な建築と現代の素材 ブータンは、外部に国を閉ざしていた歴史と、近代化の危険を見越した祖先の先見の明に

より、文化的・建築的遺産を無傷で保ってきた。今なお生気あふれる豊かな自然遺産と歴

史的建造物は、過去から脈脈と引き継がれている。その文化、習慣、信仰体系、伝統的規

範には、仏教の中庸の精神が深く染み込んでいる。中庸の精神は、ブータンの近代化の原

則を支える考え方であり、すべての行き過ぎと極端さを避け、調和の取れた生活の鍵とな

るものである。即ちその心の状態こそ、人間の運命を作り出す基本的要素であると強調す

る。

ブータンは、その文化遺産の保存と振興をきわめて重要であるとしているが、このことは

ブータンが過去に固執し孤立しつづけるということを意味しない、ということを言ってお

きたい。ブータンにとって国の発展の願いとは、近代的発展と、国家の貴重な文化的伝統

や価値観とのギャップを埋めることを常に意味してきた。政府が最近刊行した「ブータン

2002」は、文化財の他の分野との連携による総合的な協力・開発の重要性を次のように述

べている。

「もしも文化が生き残り、栄え、インスピレーションの源であり続け、王国の将来の発展

を精神的・道徳的・心理的に担ってゆくものであるなら、文化というものはそれらの総合

的な力学において語られるものであり、我々は文化がその価値が失わず、変化する社会と

関わり続けるようにしなければならない。そうした努力を怠ると、豊かな遺産の価値は減

り、結局は、特に若者にとって、積極的な力とインスピレーションの源となるどころか、

心ならずも変化を阻害することになりかねない。未来の指針を形作るには、前方とともに

背後も振り返らなくてはいけないのである。」

歴史的建造物は過去の世代から継承した伝統に大きく依拠するものであるが、ブータンに

おいてはこのように、新しい活動が継続的に導入され、若い世代が訓練によって知識を共

有するための多くの文化機関が設立されている。こうした動きが、変化し続ける世界に継

続性を付与し、現代のニーズに伝統的な職人技術を適合させる一助となっている。 1961 年に外国に対して国を開き、社会経済的な開発計画を開始したことで、ブータンの

人々の生活には数多くの変化がもたらされた。ブータンとインドを繋ぐ、自動車道路の建

設によって、ブータンの建築や使用される素材は大きく変化した。このような変化は、首

都ばかりではなく全国の地方都市にはっきりと現れて、全土において伝統デザインと伝統

工法は次第に片隅に追いやられている。誤った価値観と外国からの新しい素材の導入によ

って、伝統建築に彩られた美しい村々は徐々に姿を消しつつある。外に向かって開かれた

ことによるマイナスの影響が、文化遺産の消失につながっている。

近代的な町や都市が輸入された現代の素材によって建てられているといっても、その様式

と工法の核をなすのは常に伝統建築である。ブータン特有の歴史的建造物を保存するため、

すべての建物は例外なく伝統的な外観を保っている。例えばコンクリートとレンガで新築

する場合でも、新しい中に「典型的な」ブータンの雰囲気を与えるため、ファサードの軒

は伝統的な木造装飾をコピーするようにしている。とはいえ、表面的には伝統建築のよう

なこれらの建物は、独特の様式を持ち、環境に優しく、その土地に適合した伝統的建築様

式の価値と重要性を保ってはいない。しかしその一方で、伝統的な様式と工法で建てられ

る建物が増えれば木材の需要が高まり、自然環境の持続的な利用と保全の観点から到底満

たすことができなくなるであろう。

特に憂慮すべき現象は、屋根の素材としての波型鉄板の導入である。かつては国中至ると

ころに、ブータン建築特有の板葺き屋根が見られたものだが、現在ではトタン屋根に着実

に取って代わられつつある。人里離れた山村を訪れて、そこにトタン屋根でない家が1軒

も残っていなかったりするのは不幸なことである。テカテカと光る波型鉄板の屋根は、伝

統的な板葺き屋根の色や自然環境との調和をどんどん破壊している。この屋根素材の急速

な変化を促しているのは、雨漏りのしない屋根が好まれること、また板葺き屋根は3-4年

おきに交換が必要で、その労働力提供の負担が大きいこと、などの事情である。

結論 伝統的な美術・工芸は、数百年来変わらない方法で制作され、儀式や祭礼もかつてと同様

に執り行われている。これらはブータンの人々の日常生活における宗教的・精神的重要性

をいまなお保ち続けているからである。他方僧院の修復と再建は奉納行為として行われ、

多くの古い素材は現在の生活に適応すべく、現代の素材に取って代わられている。こうし

た中でひとりひとりが伝統と発展の調和した生活様式への期待を醸成・発展させてゆくこ

とが理想であるといえよう。

ブータンの生きた建築の伝統は、われわれの優れた文化遺産の目に見える形であり、独特

のものである。この活力に満ちた伝統を保存・振興するために、社会の変化がもたらす悪

影響に対する意識的かつ継続的な取組みが行われなければならない。今日のブータンは建

造物の保全や建築にあたり、年を経た伝統工法と現代的な工法のどちらを取るか、という

大きな課題に直面している。我々はまさに、その二つともないがしろにできない、という

正念場に差し掛かっているのである。古い伝統に固執しすぎれば歴史的建造物の保全はで

きないし、現代的な保全の手法はどんなものであっても例外なく、我々の倫理と仏教の教

義の基本的原則を放棄することにつながるからである。

だからこそ歴史的建造物の保全においては、中庸のアプローチの選択が肝要なのであり、

世界の他の国々で実践されている保全の方法に、盲目的に追従すべきではない。ブータン

はブータンでしかありえず、我々は我々でしかありえない。ブータンには文化財保全に関

する独自の方法を編み出し、発展させていくことが強く求められている。

レッド・フォート公益訴訟:ひとつのケーススタディ

最高裁判所・ニューデリー高等裁判所 弁護士

アキール・スィバル

ムガール王朝皇帝シャー・ジャハーンは、11 年間にわたりアグラで統治を行った後、

首都をデリーに移すことを決め、1638 年にレッド・フォート(「ラール・キラー、赤い

城塞」)の建設を開始した。細切れに建てられたムガール王朝の他の城塞と異なり、デ

リーのレッド・フォートは全体の調和を考慮して構成されており、そのことによりムガ

ールの歴史的建造物における比類なき事例となっている。1647 年の落成式のために、宮

殿のメインホールは豊かなタペストリーで飾られ、中国製の絹とトルコ製のビロードで

覆われた。外周 1.5 マイルに及ぶこの砦は不等辺の八角形で、ラホール門とデリー門と

いう 2つのメイン・エントランスを有する。 以下の引用文は、レッド・フォートの重要性に関する有力な学説である。

「デリーの宮殿は現在、いやむしろかつては、東方で、また世界中でも最も壮麗な宮

殿だった。宮殿の建物のひとつひとつの美しさは残されているが、それらを結びつける

中庭や廊下が消失した現在、それらはすべての意味と、美しさの半分以上を失った。建

物はかつての英国軍兵営の中にあるため、東洋の細工師による見事な宝石細工の逸品か

ら剥ぎ取られ、ありふれた漆喰の上にばらばらに置かれた宝石のように見える。」

ジェイムズ・ファーガソン:ルイーズ・ニコルソン『レッド・フォート、デリー』 (Taurus Park

Books, London (1989))所収『インドの歴史と東洋の建築』(1910 年)より

「より大きな文脈においてレッド・フォートは、解放運動の前後を通じ、インド全国民

に対する極めて大きな象徴的役割を演じた。1947 年 8 月 15 日の朝、独立国インドの最

初の首相ジャワハルラル・ネールが、長い間人々が待ち望んでいたこの日を記念するた

めに、国民に語りかけたのはここの砲門からだったのだ。」

A.S.ムカージー『Shahjahanabad のレッド・フォート』デリー、オクスフォード大学出版局

(2003)

「庭園の設計に関し、ムガール人はすべてを完璧に調和させる。空間と構成、光と影、

色と香り。噴水に関しては、彼らの想像力はとどまるところを知らず、水面の模様に至

るまであらゆる細部に配慮がなされている。(中略)

ハヤートバクシュ(生命を保護する庭園)は、かつてはイトスギの並木が幾重にも並

び、黄色や深紅、紫の花々の花壇が広がり、色彩豊かなチムール帝国時代のチャールバ

ーグが見事な組合せを形作っていた。今日でも花壇の色は変わらないが、庭園は芝と短

く刈られた生垣と花壇で現代風に整えられてしまった。かつての最も素晴らしいムガー

ル庭園は、もはや廃墟としての哀愁すら失われてしまった。(中略)

多くの修復が施されており、不幸なことにいくつかの建物も例外でない。城塞内のか

つてのマタブ・バーグ(月光の庭園)には、19 世紀の醜い兵舎が建ち並び、川沿いの修

復されたテラスの上に浮かび上がっている。(中略) とりわけこれら庭園の華やかな水の演出は、ムガールの人々を喜ばせ、魅了した。庭

園は単に権力の象徴に留まらず、人々が争って快楽を求める場所であった。」

E.モイナハン『楽園としての庭園:ペルシャとインド・ムガール』George Brazillier, Inc. (1979),

135, 136, 146 & 147ページ.

事件のはじまり

1861 年に設立されたインド考古学研究所(ASI)は、現在文化省文化部の付属機関と

して機能する。ASI は「歴史的記念物および考古学的な遺跡と遺物に関する 1958 年法」

(以下「セントラル法」)に基づき、国内のいくつかの文化財を国家的重要性の高いも

のと認定し、セントラル法による「保護対象文化財」の地位を付与して、ASI の直接的

な保護下に置いた。2000 年 12 月時点で、ASI は 3606 件が保護対象文化財に指定してお

り、現在その数は確実に増大している。レッド・フォートはその一例であり、ASI はセン

トラル法に基づいてレッド・フォートを「メンテナンス」する作業を委託されている。

これは外柵工事、穴埋め、修繕・修復、清掃などの作業を含むとともに保護対象モニュ

メントの保存とアクセス確保に必要と判断されるあらゆる行為を行うことができるもの

である。

この大きな背景の下で、2003 年 10 月、7 名の原告が集団でインド最高裁に公益訴訟

(PIL)を起こした。これはインド考古学研究所(ASI)がレッド・フォートで実施して

いる「復旧作業」に深い憂慮を表明し、最高裁の介入を求めたものである。原告らは自

らを「自分たちの豊かな複合的文化遺産の保護・保存に関心と専門性を持ち、公共精神

に基づく市民」であるとした。さらに、「我々のこうした憂慮は、現在と将来の市民が、

インドの複合文化と文化財が織り成すタペストリー、とりわけ偉大な歴史的価値を持つ

モニュメントに触れる機会を確保したい、との思いから発している。なぜなら国家的重

要性を有する遺跡群は、文化的アイデンティティの本質として、また歴史的証言として、

我々の過去の豊かさと多様性を証明するからである」と述べている。

不服の内容

申立書はレッド・フォートの復旧/保全活動が、国際的な保全基準も ASI 自身の基準

も順守していないとしている。さらに、この保全活動には建築家、遺跡保護主義者、歴

史家が新聞記事等で異口同音に深い憂慮を表明しているにもかかわらず、「復旧活動」

に起因する歴史的遺物への損害と破壊に対し、何ら救済的措置が講じられてこなかった

ことが述べられている。

申立書はまた、ハヤートバクシュ(生命を保護する庭園)が、ムガール人がいかに美

しい庭園を好むかという見事な例であり、空間と構成、光と影、色と香りの間に見事な

調和が図られ、複雑な噴水のシステムと調和していること、またネア・イー・ベヒスト

(楽園の流水)はもうひとつの見事な特徴で、独特の形態をもち、城塞の庭園や宮殿に

流れ込む水を運ぶテラコッタ・パイプと、重力を利用した噴水の精緻なグレード・シス

テムを採用した印象的な中世の水循環システムの一部を形成していると述べている。

ASI 自身やその委託による復旧作業が、確立された保全原則に反することを立証すべ

く、ASI による「復旧」作業の写真が申立書に添付された。原告らは、いくつかの例を

証拠に上げつつ、この作業は「復旧」というよりは「改築」の性格をもつものであると

の主張した。例えばネア・イー・ベヒストのテラスからハヤートバクシュ庭園に至る階

段は、歴史的遺物として貴重であるにもかかわらず、建築上・水利上の重要性を一切無

視して漆喰の詰め物で覆われ、歴史的構造の原形を保存または修復しようという努力が

一切なされていないと主張している。さらに、復旧作業の一環として、ネア・イー・ベ

ヒストの総タイル張りの池の真中に置かれた楕円の帆立貝形の装飾は、ムガールのいか

なる建築上・歴史上の前例にも見ることはできないと述べた。こうした作業は水路の縁

の軒の装飾を失わせ、せきとめられて溜まった水は漏れ出して東の城壁を損傷した。こ

うしてムガール帝国に高度に発展した水循環システムが存在したという数少ない証拠は

消し去られたのである。

原告らはまた、保全の一環として白色セメントで「目地」を行うことは、国際的な保

全の基準を大きく逸脱する行為であるとも批判している。国際基準では、素材の強度と

耐性、組織、色彩および適用手法の観点からのモルタル・漆喰い・精製油の合成比率は

慎重に選択することが求められる。原告らによると、景観を損ない、周囲とも適合しな

い現代的な照明が設置され、その後メディアの圧力により一部取り除かれた。さらにレ

ッド・フォート内の 2 つの館の間を流れる水路には、新たに二つの泉が作られたが、こ

れはオリジナルの構造と全くもってそぐわない配置であるとも主張している。

原告らの提起するその他の不服内容は、適切な保護と注意深い監視の欠如による「裁

きの天秤」の広範な損傷、質の悪い石を脱色して使用したりエポキシ樹脂で仕上げたり

するなどの劣悪な素材や技術の使用、ピエトラ・デュラの象嵌の欠損部分を低品質の石

で復元し、それとの統一感を保とうとするがために、残存していたオリジナルの象嵌を

はずして、同じ劣悪な石に置き替える、といった措置を含む。原告らの主張によると、

レッド・フォートの元の精巧な、非常に美しいピエトラ・デュラのはめ込み細工が作ら

れたのは、 カーネリアン、ラピス、ジャイサルメルなどの貴石が注意深く選ばれ、特

殊な加熱技術によって葉や花びらが散るときのような微妙なぼかしの色調を作り出すこ

とによるものであった。現代の生きた職人の技術や適切な技術が慎重に適用されれば、

オリジナルの素材の風格を保つことが可能であるにもかかわらず、ムガール帝国や大英

帝国時代の元々の作業に劣る技術が施されている実態は、到底容認できない。修復の前

にも後にも、国家賞(Presidential award)を受賞した「現在の名工」に一度も相談はな

く、業者と職人は、保全の手法と技術という高度に専門化された領域において、専門性

も特別な訓練も詳細な知識も持ち合わせておらず、国際的な保全基準に完全に反してい

る。原告らによると、レッド・フォートの復旧作業は、歴史遺産の保全と世代間公平よ

りも、「美しくする」ことを優先している。最後に原告らは、国際的な保全基準では、

作業を行うに当たって保全管理に関する詳細な基本計画と、修復作業の前、期間中、事

後における対象遺跡の状態を記した詳細な文書を作成することが求められているが、レ

ッド・フォートではそれが実施されていないと主張している。

法的な枠組

インド憲法第 49 条は、各州の政策への指令原則を規定し、「州は、国の法律が国家的重要性があると宣言した芸術的・歴史的な価値をもつすべての記念物や場所または物

を、その場合に応じて略奪、美観の損傷、破壊、除去、廃棄、輸出から保護する義務を

負う」と定めている。また憲法第 54 条 A 項(f)号は国民の基本的な義務として、「わが

国の複合文化の豊富な遺産を尊重し保存する」ことを定めている。 さらに憲法第 21 条は、基本的な権利のひとつを「何人も法律に基づく手続きを経ず

に、自らの生活と個人の自由を奪われてはならない。」と規定している。

そこで原告らは、憲法第 49 条は州が国家的重要性を有する遺跡を保護する積極的な

義務を課しており、また、第 54 条 A 項(f)号はわが国の複合文化の豊富な遺産の尊重と、

国民ひとりひとりの保存に対する積極的義務を課していると主張した。さらに第 21 条

に定められた生活と個人の自由の保護に関する基本的権利は、単に動物的生存を保障す

るものではなく、その中に人生を生きるに値するものとする人間の尊厳、文化、文明を

包含するものであって、したがって、記念物・場所・ものとしての文化的・歴史的遺産

を保護する権利を樹立していると述べている。

セントラル法の第 30 条が、保護対象の遺跡の破壊、除去、損傷、変更、あるいは危

険にさらしたり誤った使い方をした場合、また保護された遺跡から何らかの彫刻、画像、

レリーフ、碑文などを取り去った場合には、刑罰として 3 ヶ月以下の懲役または 3,000

ルピー以下の罰金、またはその両方を科していることが、原告らによって強調されてい

る。

ASI の保全作業が自らのガイドラインにも、広く認められている保全の国際基準にも

反することを立証すべく、原告らは二つの文章を引用した。一つはジョン・マーシャル

卿の『保全マニュアル:考古学担当官およびその他古代記念物の保護を委託されている

人々のためのハンドブック』(Superintendent Government Printing 社、コルカタ、

1923 )で、彼が ASI の所長であった 1923 年に出版され、現在も ASI の主要な保全のた

めのテキストとして使われているものである。いまひとつは、国際的に有名な修復士、

バーナード M ファイルデン卿がこのテキストをもとに書いた『保全のためのガイドライ

ン:技術マニュアル』(INTACH, 1989)である。いずれも厳密な法律上の価値を持つものではなく、その文章の持つ説得力ゆえに引用されたものである。

その他、原告らが同様の理由に言及した文書には、ユネスコの後援で 1964 年 5 月 31

日にヴェニスで開催された、歴史的記念物に関する建築家と技術者による第 2 回国際会

議で策定され、1965 年設立の NGO、国際記念物遺跡会議(ICOMOS)で採択された「記念物および遺跡の保存修復憲章(通称ヴェニス憲章、1964 年)」や、1979 年に ICOMOS

オーストラリア支部が採択し、1981、88、99 年に改訂を加えられた「バラ Burra 憲章」

などがある。

さらに原告らは、1948 年 12 月 10 日に、インドも参加した国連総会で採択、宣言され

た「世界人権宣言」第 27 条の「すべて人は、自由に社会の文化的生活に参加し、芸術

を鑑賞し、及び科学の進歩とその恩恵とにあずかる権利を有する。」という記述に依拠

している。

原告らはまた、1966 年 12 月 16 日に国連総会で署名・批准・承認のために採択され公

開された「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約」第 15 条に法的根拠を

求める。この規約はインドでは 1979 年 7 月 10 日に批准された。同条はすべての人が文

化的生活を営む権利を有することを認め、「この権利の完全な実現のため、今般の規約

への締約国が取るべきステップとして、科学と文化の保全、開発、普及である」と定め

られている。

啓蒙運動

最高裁における直接の公益訴訟以外に、原告らは、レッド・フォートの適切な保存に、

より多くの人が賛同するための啓蒙活動を行っている。実際、今日でもインドの首相は

独立記念日の国民への演説をレッド・フォートの城壁から行っており、レッド・フォー

トは長年にわたって歴史的シンボルとして認識されてきた。この運動により、テレビや

印刷媒体を通じてのキャンペーン、レッド・フォート保全活動の概要を紹介する市民集

会の開催、この問題についての公開討論への参加の呼びかけなどが展開された。また、

インド政府が歴史的・芸術的・科学的な観点からすぐれて普遍的価値を持つ「文化遺

産」と認定しているにもかかわらず、レッド・フォートは未だ世界遺産委員会から世界

遺産リストに登録されておらず、世界遺産としての登録の可能性を残すためには、いか

なる修復・保全においても国際保全基準に厳密に従うことが不可欠である、という形で

の意識啓発も行われた。原告らはまた、こうしたレッド・フォートの歴史遺産の損傷や

破壊が、計り知れぬ価値を持つこの歴史的文化遺産のよりよい保護とさらなる国際的な

認知をめざし、努力を続けている多くの善意の市民や団体の活動に対し、大きな障害を

生じさせる結果となっているとも指摘している。

裁判所の介入

原告らの訴訟提起を検討した結果、インド最高裁判所は最高裁所属の上級弁護士(シ

ニア・カウンセル)を Amicus Curiae(「法廷の友」、法廷助言者)に任命してレッ

ド・フォートを訪問させ、ASI が実施している保全作業に関する報告書の提出を受けた。

また本件は公益に関わるものであるため、第三者による原告らの申立て内容の検討を行

い、この案件に関する客観的報告書を提出させたのであった。このようにして提出され

た報告書の中の重要な所見について以下に抜粋する。

「モニュメントの修復・保全とは、現代の建築家の好みや感覚に合わせるための

『改修』ではないのだ。」

「古いモニュメントの保存と修復に着手するにあたっては、すべての作業を統括する

厳密なパラダイム(枠組)の構築が必要であり、この分野では国際的に広く実践されて

きている。いかなる作業も場当たり的、すなわち詳細な計画がないまま実施されてはな

らず、その保全・修復作業の目的と正確かつ十分に詳しいプロジェクト概要が定められ

ていなければならない。」

「入手できた資料から判断する限り、包括的な保全計画が予め策定されていたとは思

えない。約 1 世紀前に英国によって建てられた建造物がすでに 1 棟解体されているが、

解体にあたり、修復というものの基本的な前提を定義していたとは思えないのであ

る。」

「いかなる包括的な計画も ASI は作成しなかった。修復の妥当性、求められる特別な

手法や専門性、使用すべき素材、予算配分など、再生作業完了までの保全スケジュール

を詳細に記述したものはない。国際的な規範によると、十分に検討された保全計画こそ

修復の第一歩であり、かかる計画なしに工程を進めれば、例外なく遺跡に対して取り返

しのつかない損害をもたらすことになるのである。」

「手許の資料とおおまかな現地調査だけを見ても、ASI が既に実施した作業が、構造

と建築様式の歴史、劣化の性格、その他建築家や歴史学者・考古学者等の専門家による

科学的調査及び記録に関する徹底的な分析が行われた後であるとはとても認められな

い。」

「修復にあたり採用すべき手法を決定し、保全計画の青写真を作る作業に最初から完

成まで参加できる、適切な修復建築家と社会科学関連分野の専門家が委員会に加わるこ

とは、政府の法律上・憲法上の義務に適合することである。」

事件の終結

2004 年 8 月 6 日、インド最高裁判所は、9 名の委員で構成される専門委員会を設置し

てレッド・フォート遺跡は国際的に認知された原則に従い包括的な保全管理計画を作成

すること、およびそのマネジメント計画策定にあたっては順守すべき規準と枠組を明確

化することを命じた。上記専門委員会はまた、保全の各段階で必要とされる専門家の選

定基準と各作業における必要な具体的技能の確定、保全管理計画と修復作業の事前、期

間中、事後に作成される書類を公文書館等で閲覧可能とすることを命じられている。最

後に最高裁は、レッド・フォート保全の名目で行われる作業に関しては、当該委員会の

書面による明示的な許可がない限り、今後はいかなる作業も実施できないことを明言し

ている。

ひとつの社会が、その内包する多様な文化の遺産を保存し、敬い、保護することは、

その社会の進化の度合いを図る指標となることは論をまたない。最高裁判所のこの判決

は、インドの文化財保護法分野における画期的な判断であり、この判決が、政府が行う

保全作業の透明性と情報開示をいっそう促進するとともに、最も厳しい国際的保全基準

をより忠実に順守する機運が盛り上がる嚆矢となることが期待されている。

インド美術と芸術的伝統の記録ならびに文化の知識の普及について

美術史家、記録映画作家、写真家

ビノイ・ベヘル

1.0 文化・芸術遺産:生活の重要な一側面 5世紀頃に書かれた古代口承伝統書「キトラスートラ・オブ・ザ・ヴィシュヌダル

モッタラ・プラーナ」(The Chitrasutra of the Vishunudharmottara Purana)は、インドの絵画や彫刻を扱った最古の文献である。そこには、芸術は人類の最も価値あ

る宝である、なぜならば生活との調和の中で生み出された芸術の姿は、見る者にとっ

てきわめて有益であるからである、と書かれている。 文化・芸術はひとの暮らしに深さと意味を与える。ものや利潤を得るための人間の

営み以上に。アジアの伝統において、芸術は装飾にとどまらず、生活の根幹的部分を

なしてきた。いまでも芸術は、われわれの文化的根元と最も深く関わっている。いま

も残る芸術や文化財は、われわれの先人たる無数の世代の人々が深い考察を加えた人

生観を理解するための透明な窓となる。世界の急速な近代化の中で、芸術・文化財を

記録すること、きちんと理解することは絶対的に必要なことである。そしてその知識

と認識を人々に広めることも同様に重要である。とりわけ生活のリズムが極端に速く

なり、物質的な性格が強まっている今日においては。 インドでは、都市やその他主要地域の歴史的建造物や美術品の保存に、多大な努力

とエネルギーが傾注されてきた。だが一方で、文化遺産の持ついくつかの側面が、次

第に失われてきてもいる。建造物や美術は、文化的ルーツの物理的な証しであるとと

もに、現在失われつつあり、代替不可能かもしれない本質的な価値があるのである。 2.0 古代インドにおける絵画の伝統 インドの古代壁画は、ほんの一握りの学者が見たにすぎない。インド絵画の伝統は、

シュロの葉の写本やその後の細密画によって、中世以降一般に知られ研究されるよう

になった。アジャンタ石窟の壁画はよく知られているが、インドは絵画の伝統に古代

からの継続性はないと信じられてきたので、突発的に出現したものと見なされてきた。

40年前、偉大な美術史家である故C.シヴァラマムルティ博士は、南インドにおけるほとんどの古代壁画に関する記述を行い、いくつかのデッサンと写真を出版した。しか

しそれらは写真としてきちんと包括的に撮影されることも出版されることもなかった

ので、大方は忘れ去られてしまった。

低光度での撮影は、貴重な古代絵画を損傷することなる記録するのにきわめて有効

な技術である。1991年と 1992年に私が撮影したアジャンタの壁画写真は、世界中のインド美術の学者に大きな熱狂をもって受けとめられた(写真1)。1992 年末にはインディラ・ガンディー国立芸術センター(Indira Gandhi National Center for the Arts)からの依頼を受け、これまで撮影されたことのないタミル・ナドゥのタンジャ ブールにあるブリハディスヴァーラ寺院の 10世紀の壁画を撮影した。この写真はインド美術の理解に新たなる一章を開いた。なぜなら専門家たちは、以前は認識されていな

かったインドの古代絵画の伝統の継承の明らかな証を、そこに見たからである(写真

2)。 以来私は、インド亜大陸のいたるところに遺されている壁画の撮影を続けてきた。

その結果、一般常識に反して、インドにおける古代からの絵画の伝統は実はずっと継

続しており、インド亜大陸全体に広がっていたということがわかってきた。 私のインドの古代壁画写真が世界中の美術の専門家に示されると、彼らは一様に、

それら壁画が世界の美術の最も偉大な宝の一つに数えられるものであるとの反応を示

した。それら絵画は、同時代の世界のいかなる古代絵画をも遙かに凌駕する卓抜した

表現力と技法を有するものであるとされている。 芸術にとっては、その物理的形態もさることながら、内蔵する独自の文化的価値こ

そ、より重要なものである。インドの壁画、そしてアジアの壁画全体を見ると、それ

が世界の美術の中で特殊な位置を占めることが分かる。これらは絶えずわれわれを人

生の本質に誘い、その作品全体の中でも最も優美な部分に導く。これらの絵画は写真

として写実的な実体を描くことを目的としたのではなく、その内面からあふれ出す精

神、世界に存在するあらゆるものを結びつける精神を提示することを常に目的として

いる。 3.0仏教美術の遺産 仏教美術の拡がりの歴史は 2500年に及ぶ。それは世界で最も崇高な芸術のひとつで

あると同時に、アジア大陸全体に現実に広がっている美術的伝統でもある。こうした

文化財を記録することは、アジア諸国が共有する文化的ルーツに光をあてることでも

ある。 過去 15年間にわたり、私はインドその他アジア諸国の様々な場所で、仏教遺跡の記

録や調査を行なってきた。わたしの主な関心の一つは、その哲学的、芸術的思想が様々

な地域へと伝播していくその様子である。哲学的概念は共有され、変化し、地域ごと

の伝統が形成してきた多様な文化的慣習の中に表現されてゆく。(写真3)。

この 10年のわたしの主な仕事は、インドからヒマラヤ山脈以北の豊かな芸術文化遺産や、今に生き永らえるカシミールの美術を記録することに集中している。第一千年

期 (First Millennium)、カシミールの渓谷は、あらゆる時代において仏教最大の中心地のひとつであった(写真4)。カシミールの芸術家によって制作され今に残る壁画や

彫像などが、キンナウール、スピティ、そしてラダックの仏教修道院で今なお発見さ

れている(写真5)。このような美術を明確に理解することは、ヒマラヤ山脈以北やそ

の他地域の仏教文化に対する広範かつ正確な視野を持つために重要である。ラダック、

スピティ、キンナウールほか、アルナチャル=プラデシュ、シッキム、ブータンなど、100 を越える僧院の写真による記録を私は行った。とりわけヒマラヤ山脈以北の僧院と内部の古美術の記録は、カシミールにおいてその時代の美術が失われているために、

大きな意義のある作業であった。それらは 10世紀前後の仏教徒及びヒンドゥ教徒に関するモニュメント・宗教行事・文化と生活習慣に関し、唯一眼に見える形で現存する

記録である(写真6)。 ヒマラヤ山脈以北に見られる伝統的建築工法は、その地方の景観や気候と不可分に

結びついている。その土地の泥でつくられた建物や彫像は、千年の歳月を生き延びた

(写真7)。植林活動など近年の変化に伴い、この地方の気候は変わりつつある。寒冷

な砂漠地帯であった地域に、毎年数インチの雨が降るようになった。植林政策は人々

に多大な恩恵を与えているが、一方で環境の大幅な変化が文化遺産に及ぼす影響につ

いても、検証と監視がなされなければならない。 4.0地方文化の重要性 偉大な芸術や文化の表現は、時代や場所を超えて普遍的に訴える力を持つ。そして

知識人や芸術家は、自分自身の文化的環境と精神(エートス)にしっかりと立脚して

いる必要がある。なぜなら芸術とは、その土地に深く根ざして初めて、枝を外へと伸

ばし、広い世界を覆うようになるものであるからである。一見普遍的・文化的に見え

る思想が野放図に広がり、地方の文化や歴史を消し去る惧れのある今日、このことを

理解することはきわめて重要である。 5.0文化遺産の価値及びその普及 文化遺産に意味と重要性を与えるのは、内包されるさまざまな価値である。わたし

の作品の一貫したねらいは、芸術に内在する人間的で慈悲深い哲学を理解し、それら

と意志疎通を図ることであり、それは映像作品、展覧会、講演会、出版物を通じて実

現されてきた。 「インドの絵画」26本のシリーズ映像は、先史から現在にいたるインド美術の展開をたどるものである。このシリーズは、太古からのインドの文化史と哲学的意識を紹介

するもので、ドールダルシャン国営放送のゴールデンタイムに放映された(2003年)ほか、ニューデリーの IHC(the India Habitat Centre)も、討論会と組み合わせて放送した(2002年 8月-2004年 10月)。またムンバイのモヒル・パリク国立舞台芸術センターをはじめ、インドの芸術大学や美術専門学校でも教育目的でこれら映像が放映続

けており、2004年 11月には、欧米の大学や美術館でも上映が計画されている。 その他、カシミールと北西インドの文化の調査及び記録が、2本のフィルムにまと

められた。また、仏教遺跡や文化財の写真巡回展「慈悲の道」は、インドやその他世

界各国で開催されている。さらに、2 万点を越えるカラー・スライドのアーカイヴのうち現時点で 7 千点以上が、高解像度の画質でデジタル化された。これら写真は、画像情報へのアクセスを可能にすべく、順次インターネット上に掲載されているところ

である。

写真1 Pic.1 Vajrapani, mural, 5th century, Ajanta

写真3 Pic.2 Mural,Myinkaba Temple, Bagan,Myanmar

写真2 Pic.3 King Rajaraja Chola and Guru Karuvurar, mural, 10th cent., Brahadisvara

写真4 Pic.4 Parihaspura, Buddhist site, mid 8th century, Kashmir

写真5 Pic.5 Mangyu monastery, Chorten interior, c.12th century.

写真7 Pic.7 Alchi Sumtsek Exterior, 12th - 13th cent.

写真6 Pic.6 Alchi Sumtsek, mural, detail of Kashmiri temple

場の保存と創造:ひとつの比較の観点

デリー大学中国・日本研究学科主任

ブリジ・タンカ 人々を育み、「日常生活を営む」文化的風景・文化的環境の中に位置づけ、都市の発

展に結びつける、という今回の試みにおいて、私は場所と共同体の考え方に立ち、取

り上げ得る討論のテーマを提起したい。日本の体験を比較の観点から捉えることは、

地域や国の文化、あるいは国際的な力によって、共同体がどのように発展し形づくら

れてきたかという一つ考えを提供する。実のところ、有史以来ずっと日本は、より大

きな世界とそれを広く結ぶネットワークの一部であり、いまだかつて本当に孤立して

いたことなどないのである。日本の伝統や慣習は温室育ちなどでは決してなく、より

広い世界と複雑に結ばれていた。 私がここで取り上げる日本の体験とはなにか。日本は伝統と近代化の均衡を独自の

やりかたで保ち、他国にはないほどその核たる伝統と思想を頑固に保持してきたと見

られがちである。換言すると、その大きな存在感にもかかわらず、日本文化は国境を

越えて広がらなかったという、文化活動の限界が浮き彫りとなる、というわけである。

以上のような仮説はともに重大な誤解を犯しているといえよう。日本文化は、直接の

隣国である中国・韓国、東南アジア、インドからの影響が複雑に絡み合って発展して

きたものであり、近代に入ってからは、そこに西欧やアメリカなどが加わる。日本の

近代の知的環境および文化は、こうした相互作用の産物なのである。 日本の存在を広く知らしめるのは何も日本製品だけではなく、思想や文化事業に負

うところも大きい。黒澤や小津からアニメーションまで、日本映画が映像文化と他の

映画作品に及ぼす影響の大きさは広く認識されるところである。他方、今日の日本の

大衆文化はゲーム界を席巻し、日本食はオーストラリアから欧米にまで広がり、日本

人デザイナーは国際的プレゼンスを高めてきた。また日本の経済制度や政治的慣習が

研究され、マネジメント技術は国際企業社会で活用されてきた。日本人移民は米国や

ラテン・アメリカ諸国においては、長らく人口の一部をなしていたが、今や日本人ビ

ジネスマン、学生、旅行者は世界中どこにでも存在するようになった。同様に日本国

内においては、故国を離れた人々の国際的コミュニティがますます発展し、ビジネス

の旅行者は増え、学生が流入している。もっとも学生の流入は新しい現象ではなく、

多くの中国人学生が近代世界を学ぶために来日した 19世紀末まで遡るが。 こうした背景にもかかわらず、日本に関係する多くの質問は依然として、伝統と近

代性という枠組みのなかに収まっている。あたかも、近代日本の歴史が西洋の思想や

制度の到来とともに始まったかのように。近代社会の中にあっても古来の日本は守ら

れ、維持されている-こうした考えが、ある事象についてはそれが日本固有で、独自

の伝統に連なるものであると見なし、別の営みについては、やれ舶来だ輸入だ、どこ

かインチキくさいということになる。日本とその複雑でエキサイティングな歴史を孤

立した温室に閉じ込めず、広域的・国際的文脈に位置づけるためには、こうした二極

化を乗越えなくてはいけない。実際の複雑な文脈の中で日本を再考することで、国産

/舶来、本物/借り物、生粋/混ざりものといった行過ぎた二極化がいかにして生ま

れ、複雑に絡み合った文脈の力学をいかもっともらしく語ってきたかが明らかになり、

日本は象徴的な存在ではなく現実世界に場所を得ることができるのである。 場の概念を変える 人は場についてどう語るか。東アジアの学術研究においては、場は国家の占有事項

であった。我々は日本とインド、中国と韓国について研究しているが、近代化理論を

はじめとする方法論の多くは、場の価値を低く見る傾向にある。地域史もまた、雑多

な史実の混合とされる。かくして 1930年代に広まった郷土史は非科学的で非民主的と批判されたし、現代の地方史においても地方は国家に従属すると見なされてきた。場

について語る際、次の3つの基本的アプローチがあろう。ひとつは、その地域の文化

的語彙の調査のため、方言や住居の型の相違、あるいはアイデンティティ・道徳観・

嗜好といった、より難しい問題を扱うもの。ふたつめに、中心と周縁が形成された歴

史的経緯を考察し、民族的・宗教的同胞意識が必ずしも生産や貿易の場と一致すると

は限らないことを議論するもの。第 3 に、地方の独自性や郷土意識は総合的な潜在能力を持つ文化的資本として扱うべきであり、必ずしも分離主義的である必要はないと

いうアプローチである。

場の形成を考察する際には、例外なく日本の歴史的展開を調べ、都市の発展をその

土地固有の発展プロセスのなかに位置付ける必要がある。また日本においては都市化

が工業化に先んじたことは特筆すべきであろう。都市発展のプロセスに長く複雑な歴

史がある。主要都市の形成、仏教の普及に伴う門前町の発達、そして市の出現などが

都市中心部を生んだ。だが近代以前にこの動きに拍車をかけ、日本を高度に都市化さ

れた社会にしたのは、豊臣秀吉が 16世紀末に刀狩を行い身分制度を敷き、武士を都市へ移す措置を取ったときからである。徳川政権の安定と参勤交代制は、城下町の成長

を助けた。経済の商業化、農村と都市の発展、旅行の普及その他の要因が、より複雑

な経済制度を生み、金融・信託制度の多様化を促した。大都市中心部は規模や複雑さ

の増大に伴い、管理と規制のシステムの確立が求められるようになった。社会の複雑

さと金銭の重要性が増すにつれ、階級制における伝統的な地位との境は徐々になくな

っていき、名誉は金銭と等価になった。こうした「移動の文化」すなわちひと・もの・

情報の移動は、活力ある大衆文化の基盤となっていた。かくして徳川時代に大規模な

市が形成され始め、限られた流通ながらこれら商品は、印刷された活字や絵によって

各地に展開し、これが明治の変革を可能にし、形づくっていったのである。 新しい都市、新しい家庭 明治維新以降の都市の発展は、このような歴史的プロセスと西洋近代という新たな

要求による影響双方の産物であった。身分制度は、社会的・政治的規範を再定義した

新たな民法に取って代わられた。家族概念は、明治の民法典が集中論議を経て成立し

た 1880年代に再構成された。これは2つの相対する地位-家族と家庭として現れる。即ち法的枠組に組み込まれたその土地ごとの家族制度と、当時まだ知られていなかっ

たプロテスタント社会改革者が提唱する家庭(ホーム)である。かかる新ヴィジョン

によって家庭や故郷に新たに定義がなされ、それに伴い家庭生活という新しい意識が

できあがっていった。キリスト教に基づく改革者、内村鑑三は、そうした意識を労働

によって定義している。核家族の理想が人々の心をとらえ、家族とは対等の関係のな

かで生きる夫、妻、子供たちであるとされた。夫はパンを稼ぎ、妻は主婦として家を

切り盛りしつつ子を育てる責任を負う。このような家庭(ホーム)がある一方で、法

的規制力を持つ権威ある家父長を頂点とする、複数の世代が同居する大家族が存在し

ていた。 近代日本の都市は、新しい技術や、身分制度の終焉と平等思想に影響を受けた空間

構成によって変貌を遂げていった。新しい思想はテクノロジー以上に、産業化と開発

によって可能となった生活の要求に応えるべく様々な機会に利用された。新技術は生

活と建築環境を変え、鉄道は距離の価値観を変える重要な役割を果たした。日本初の

鉄道は横浜に敷かれ、その後全国に広がった。当初民間主導であった鉄道は、すぐに

国の管理下に置かれた。しかしながら関西地域においては、民間の鉄道会社経営者が、

線路を市街電車に転用するという法的抜け道によって経営管理確保を可能にし、結果

として多数の民間団体がビジネス・チャンスを競うことになった。こうした競争は新

たなビジネス・モデルの革新と誕生につながっていった。 阪急電鉄社長・小林一三(1873-1957)はおそらく、独力で新たな事業体系を導入

し、都市の景観を変えた人物である。1910年に彼が箕面有馬線を開通させたが、それは都心部から何の変哲もない郊外へとのびる鉄道だった。小林は人々が鉄道を使うこ

とを奨励し、鉄道を好きになってもらう数々の実験を行った。箕面に動物園を開園し、

温泉を開き、さらに最初の室内スイミング・プールを建設したが、どの企ても十分に

魅力的なものにはならなかった。そこで小林は少女合唱団を創設し、これが有名な宝

塚少女歌劇団となった。この歌劇団ははじめ芸者を出演させていたが、すぐにニュー

ファミリーに狙いを定め、ウェディング見本市や女性のための博覧会などで興業を行

うようになった。このような家族の娯楽との組合せは、新たな都市型家族にアピール

し、人が集まるようになった。デパートやショッピング・アーケードを一方の極に、

もう一方に旅行者向けの名所や娯楽を配置するビジネス・モデルは大きな成功を博し、

1920年代には東京もそれを真似るようになった。 経済成長に伴い、日本は 20世紀の当初 10年で先進国となった。産業化は都市人口

の急激な増加、商品・サービス・住宅の需要の増大を生んだ。都市における住宅は伝

統的に賃貸だったが、新たな住宅不動産の開発にマーケティング戦略が用いられ、印

刷媒体による物件広告がなされ、ローン販売によって顧客層が拡大している。初期開

発プロジェクトのひとつである池田市室町では、建売住宅が 10 年の分割払いで 3000円から 4500円の値段で売りに出され、こうした低価格によって頭金 200円、10年間月 12円の月賦払いで家を手に入れることができた。高等教育を受けた銀行員の月給が40円の時代である。

1920年代の経済発展によって、より幅広い層の市民の多くが収入をさらに自由に使

うことができるようになった。家計調査が示すように、これら人々はより多くの金を

自己修養や娯楽につぎ込んでいる。折りしもエバニーザー・ハワードの「庭園都市」

の概念が紹介されたことにより、新しい様式の住宅地が出現し、改良住宅が普及した。

この住宅は椅子に座る生活デザインというだけでなく、家庭生活の意識改革の一部と

もなっている。住宅請負事業においては、コスト制限とともに家のサイズも限定した。

1922 年に上野で開催された平和記念博覧会には 14 の住宅による文化村が展示されたが、その建設費用は坪 200円、(サイズ は 20坪以下)だったため、住宅コストは 2000円~7500円となった。

こうした文化村や庭園都市は、「田園都市/学園/園」を用いたり、末尾に「山/台

/奥」などを付けた名称で続々と誕生していった。その嚆矢となったのが、堤康次郎

によって建てられた目白文化村であり、落合、大泉学園、田園調布などがそれに続い

た。明治の実業家として知られる渋沢栄一は、1918年田園調布に「田園都市会社」を創立し、ハワードの社会主義的理想を念頭においた営利事業として不動産開発を展開

した。ハワードは、共同所有権及び融資システムの調和による協同タウン・マネージ

メント・システムを図式化したが、それは社会主義的理想に基づいていた。しかし実

際の都市開発は、民間会社や立川や北多摩の農業小作地を委譲するためにマーケット

参入をはたした弱小不動産エージェントによって行われていった。この過程において

は、しばしば土地の譲渡を望まない農民と業者の軋轢が生じた。さらにこれら新しい

都市型複合住宅は、伝統的な共同体論理から逸脱しており、場の新しい感覚を創造す

るライフスタイルや娯楽イメージと結びつく宣伝キャンペーンと連動しながら建設さ

れていった。

新しい住宅エリアの成長は都市の拡張を呼び、その場が生みだす労働機会に新たな

労働力が引き寄せられていった。都市の成長と拡張は、より安価な都市郊外へと人口

が段階的に流れる変化を引き起こした。例えば東京は 1932年までに、人々が都心から郊外5区域へ移動して大都市東京へと膨張した。こうした移動の傾向は低所得なサラ

リーマンに顕著である。例えば、1919 年から 1926 年に杉並区の人口は 17,366 人から 143,105 人に増大したが、経済水準の指標ともいうべき住み込みのメイドがいるのは6人に1人の 割合であった。

都市拡張の事業モデルは、増大する都市人口への低価格の住宅供給や、空間の拡大

を可能にする交通網の拡張などの面での成功例である。しかし一方で環境破壊と歴史

的建造物の消失への代償は、どれほど高くついたか。この変化は、どのような人間関

係とコミュニティ意識の破壊を引き起こしたか。新しいタイプのコミュニティは生ま

れ、地方と国家のアイデンティティの関係は、どのようなものだったろうか。例えば、

1960年代から公害補償や環境規制のために闘ってきた市民運動の展開の中で、空間よりむしろ理念を共有する新しい連帯感が醸成されてきている。同様に例えば、新興宗

教信者など、信仰による「コミュニティ」も形成されている。 文化財という考え方 日本における文化財保存は、狭義の文化財定義がその基本にある。文化財は単にモ

ノと見なされ、そこでは文化遺産はたんにモノだった。1897年、1929年、1933年の文化財保護に関する法律もこの原理に従っている。その意味で 1930年に制定された京都の風致地区とそこに蓄積された過去の社会史的遺産を保存する法律は、文化遺産に

対する認識を広げる第一歩となり、今日の京都を形作る基盤となった。京都は毎年 4千万人以上(1994年統計)の観光客が訪れる都市となり、文化遺産は重要かつ採算性のある商品となった。

こうした概念はさらに拡大し、1972 年には町並み保存の条例が施行され、1975 年

にはそれまでの法律すべてが改訂されて文化財保護基本法として一本化・強化された。

この際、保護の対象が歴史的建造物群にまで拡大されている。だがこのシステムには

効率面での問題が残る。歴史的建造物の所有者は建物のファサード以外は助成金を受

け取ることができず、高層ビルは指定地域の外に建てれば良いため視界に入り込んで

しばしばその地域の景観を台無しにする。また、民主主義政府が建造物の近隣区域全

体を公的なミュージアムとして凍結する権利あるかどうかも疑問視されている。 そのほか、無形文化財保存のための法律もあり、古い建築遺構のみならず新しい時

代の建築にも目が注がれるようになってきた。例えば 1960年代初期の民家や都市建築

が、洋風建築の事例として保存計画に組み込まれ始めた。このように古都や歴史的町

並みの保存は展開しており、萩、金沢、倉敷のように多くのツーリストが訪れる観光

資源としての町も生まれてきている。 しかしながら、何をどのように保存するのかという複雑な問題の解決は容易でない。

1897年の法律では保護されるべき建造物は築後 400年を経ている必要があったが、この期間については短縮された。だが依然として「オリジナル」への修復が強調され、

様々に絡み合う状況変化の中での歴史的建造物の保護・保全という視点は弱い。失わ

れたかたちを復元する問題については、『プルターク英雄伝』のなかで、腐敗した部分

を絶えず修理しなければ保持できなかったアテネの英雄テセウスの船の逸話が知られ

ている。日本の修復アプローチは、最も古い板を見つけて船を修理するようなものだ

といわれる。外見を元に戻すことを、本物の素材を使うことより優先する是非が問わ

れる問題である。

その上、失われたかたちを取り戻すという発想は、それが外観のみにかかわりを限

定した作業であるため、現在でも最も論議を呼ぶ問題である。例えば東大寺大仏殿は

その修復にあたり、スチールの屋根梁、支柱、桟、桁など近代的工法を大量に取り入

れている。では現在「オリジナル」といえる部分はあるのか。実際の修理において、

日本の建物解体技術の幅の広さは世界最高と見なされているが、建造物調査を実施し

たいがために、復元作業に拍車がかかっていると感じられることもしばしばである。

また政策を作る側にも同様の問題がある。例えば 1970年代以降、政府は 7世紀・8世紀の建造物の再建に重点を置いてきたが、同じ政策において中国や韓国の影響の重要

性を指摘していない。文化財保護政策に関する国の役割と、その役割が大きすぎない

かについて討議することは有益な議論であり、文化財保護政策の概念と保存計画、及

びその資金調達により深く関わり、行動を起こすことによる成果を期待する。 結局のところ、「生活を営む者」としての市民の物理的・文化的環境は、常に変化と

適応を繰り返す。しかしコミュニティ自体の必要性は変わらないのである。かかるコ

ミュニティ形成は、もはや国家による活動によるものではない。民主主義の拡大、市

民の公共活動への参加や政府の透明性の増大により、市民の情報へのアクセスの機会

と自らの見解を述べる能力は増大している。新しいコミュニティはさらなる発展を遂

げ、共同体としての政策と市民の知的状況は、社会の変化を感じ取り反応することが

求められている。

インド・ブータンまちづくり専門家グループ

共同ステートメント:

文化の創造的継承のための将来的展望について

2004年 11月 30日から 12月 14日の期間、国際交流基金市民青少年交流指導者招へいプログラムに参加したインド・ブータンの専門家グループは、以下のとおり

共同ステートメントを発表します。 私たちは、日本における文化財保護の先駆的試みを理解し、学ぶための、計り知

れぬ価値を持つ機会を与えてくれた国際交流基金に対し、深い感謝の意を表します。

インド及びブータンから複合分野の専門家を招へいするという、市民青少年交流課

のこのプログラムは、私たちに文化と歴史の創造的継承に関する実り多き意見交換

の機会をもたらしてくれました。 日本の美意識とインド・ブータンの古くからの伝統を併せて観察することは、魅

力溢れる作業でした。近代の複雑な発展過程の中に、歴史的建造物と伝統的無形文

化財の保存をいかに調和的に組み込んでゆくかは、世界中の文化財保存専門家が直

面する課題です。2週間の日本体験の中で私たちは、専門家、地方自治体、市民団体その他さまざまな複合分野の関係者が、その発展過程に関わってゆくため、現在

も続けられている取組みに対する有益な洞察を行うことができました。京町家再生

研究会や奈良まちづくりセンター、谷中学校などの活動は、専門家と市民のコミュ

ニティが協働で建造物や有形・無形の文化財を保護することに成功した好事例とい

えましょう。また文化財保護の詳細な資料の作成と教育の主要な要素としての文化

と歴史の紹介は、教育機関を通じ、また美術館・博物館やまちづくり情報文化セン

ター等の設立を通じ、日本の市民社会においてより大きな関心と対話を惹起するこ

とに貢献してきました。さらに、都市の一定区域を保存地区として指定すること、

建造物の文化財としての登録、税制上の優遇措置、補助金制度などが、こうした文

化財保存のプロセスを支援しています。 急速なグローバリゼーションが進む現在、開発はしばしば文化財保護の努力に対

する直接的な脅威と見なされます。かかる時代にこそ、文化の創造的継承は、都市

の発展に即した形を追究することが不可欠です。私たちは国際交流基金のような組

織が、これからも、アジアにおける専門家、市民団体、行政府の間の建設的な対話

を啓発し続け、持続可能な文化財保護を発展させてゆくことを心から希望します。

2004年 12月