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F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM 3

カラー図 COLOUR PLATES

カラー図解説 COLOUR PLATES COMMENTARY

序 INTRODUCTION

第1章 戦力整備 BUILD-UP TO WAR

第2章 OEF開戦 OEF BEGINS

第3章 地上戦 GROUND WAR

第4章 アナコンダ作戦 OPERATION ANACONDA

第5章 トムキャットの終幕 TOMCAT FINALE

巻末資料 APPENDICES

7

20

22

23

36

56

76

89

95

目次 INDEX

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4 F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM

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F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM 5

トニー・ホームズは西オーストラリア州フリーマントル生まれ、1989年からオスプレイ社編集者として、エアクラフト・オブ・ジ・エイセズ、コンバット・エアクラフト、エリート・ユニット・シリーズを担当してきた。またこの18年間にオスプレイ社より25冊以上の書籍も上梓している。米海軍航空隊の専門家(2004年に非米国人で初めて「ザ・フック」誌の「今年の好評寄稿者」賞を受賞)である著者は、本書執筆にあたり「不朽の自由」作戦でトムキャットに搭乗した50名以上の海軍航空隊員に独占取材する許可を与えられた。

トニー・ホームズTony Holmes

著者

ジム・ローリエはニューイングランドで生まれ、ニューハンプシャー州とマサチューセッツ州で育った。鉛筆を持てるようになって以来絵を描きつづけ、これまで多くのメディアでさまざまな題材の作品を創造してきた。オスプレイの航空関連書籍には2000年から携わり、素晴らしい作品で紙面を飾ってきた。

ジム・ローリエJim Laurier

機体側面イラスト

〈左ページイラスト解説〉 2001年11月7日朝、タリバン部隊がカンダハル周辺からウルズガン州の州都タリーンコートに迫った時、その防衛で重要な役割を果たしたのがVF-102だった。その数時間前、パシュトゥン人指導者であり、のちにアフガン大統領となるハーミド・カルザイはタリーンコートにいた支持者たちに蜂起せよ、そうなれば彼とその戦闘員部隊が同市に入城すると伝えていた。SOF(特殊部隊)Aチーム574号の隊員11名も、カルザイのタリーンコート入りに同行していた。 17日未明、タリバンの戦車、APC、トラックからなる装甲コンボイがタリーンコートから数マイルまで迫ったため、SOFの戦闘統制官たちは航空攻撃を緊急コールした。最初に呼応した航空機は、第1空母航空団のVMFA-251のホーネットとVF-102のトムキャットだった。先導機だった"ダイヤモンドバックス"のF-14B(BuNo 163225)に搭乗していたのは同部隊の整備士官とRIOだった。それから2時間以上、彼らは30以上ものFAC(A)任務を務め、ホーネット隊とトムキャット隊が精密誘導爆弾とMk 83空中炸裂爆弾で爆撃するのを統制した(後者はF-14Bのみが使用)。 圧倒的な航空戦力投入にもかかわらず、タリバン部隊はタリーンコートを奪還せんと迫りつづけていた。第1空母航空団の増援攻撃隊が目標からまだ数分間もの距離にあった戦闘の間隙を突いて、敵は戦車をはじめとする車両集団で目的地へと前進していた。タリーンコート上空にとどまりつづけていたBuNo 163225とその僚機はすでにLGBを全弾投下していたので、この攻撃の撃退に使える武装は20㎜機関砲だけだった。「爆弾を使い果たし、代わりに現場を引き継いでくれる機もいなかった私たちには、機関砲が最後の武器でした」とその整備士官は説明してくれた。「地上掃射は気が進まなかったのですが、爆弾を積んだ機は一番近いものでもまだ10分以上離れていたので、選択の余地はありませんでした」「飛行隊内で地上掃射について話し合ったことがあったのですが、機関砲は危険な近接戦闘で使う最後の武器でしかないという結論で一致しました。戦車が確実に前進していたので、私たちは古典的な斜め前攻撃でいきました。まず僚機が射撃しましたが、1連射だけで砲が故障しました。それから私たちは同方向からの進入で2度航過したところ、命中したかは不明でしたが戦車は停止し、乗員が少なくとも1人外に出ました。3度目の航過は走行中のトラックに仕掛け、これもその場で停止させました」 これらの海軍航空隊員が目標地域上空に踏みとどまったおかげで、タリーンコートはタリバンに奪還されなかった。この日の行動に対し、VF-102のその整備士官とRIOの両名には殊勲飛行十字章が授与された。(イラスト:マーク・ポスルスウェイト)

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F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM 7

1 F-14

B、

Bu

No

161

433、

VF-

11、

USSジョン・

F・ケネディ(

CV

-67)

20

02年

5月、北アラビア海

2 F-14

B、

Bu

No

1629

12、

VF-

11、

USSジョン・

F・ケネディ(

CV

-67)

20

02年

5月、北アラビア海

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8 F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM

3 F-14

A、

Bu

No

1626

98、

VF-

14、

USSエンタープライズ(

CV

N-6

5)20

01年

10月、北アラビア海

4 F-14

A、

Bu

No

161

279、

VF-

14、

USSエンタープライズ(

CV

N-6

5)20

01年

10月、北アラビア海

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F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM 9

5 F-14

D、

Bu

No

16

46

00、

VF-

31、

USSエイブラハム・リンカーン(

CV

N-7

2)20

02年

10月、北アラビア海

6 F-14

D、

Bu

No

159

618、

VF-

31、

USSエイブラハム・リンカーン(

CV

N-7

2)20

02年

10月、北アラビア海

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22 F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM

 トムキャットが爆撃機として実戦デビューを果たしたのは1995年9月5日、VF-41のF-14Aが2機、『周到な力作戦』の一環としてボスニア・ヘルツェコビナの弾薬集積所に兵装を投下した時だった。搭載していたレーザー誘導爆弾(LGB)を照準する手段をまったく欠いてため、トムキャット搭乗員は集積所の標定をホーネット隊に頼った。6年後、"ブラックエイセズ"は再びF-14で戦闘作戦の最前線に立つことになったが、この時のトムキャットは海軍航空隊最高の精密攻撃機に進化していた。このベテラン機の本任務における有効性は、対テロ世界戦争における最初の戦闘だった米軍の主導する『不朽の自由作戦』(OEF)で繰り返し実証された。 本書は私が2005年に上梓した『F-14トムキャット オペレーション イラキフリーダム:イラクの自由作戦のアメリカ海軍F-14トムキャット飛行隊』(大日本絵画/刊)の姉妹編であり、2001 ~03年に内陸国アフガニスタンでタリバンとアルカイダと戦ったF-14飛行隊群の活躍を詳しく追った。

 本書の執筆ではOEFの戦闘でトムキャットを飛ばした多くの海軍航空隊員たちに貴重な協力をいただいた。ペンタゴンの米海軍最高広報部(CHINFO)ニュースデスク部各位のおかげで私はリムーア海軍航空基地、ファロン海軍航空基地、オシアナ海軍航空基地でトムキャット搭乗員各位にインタビューする許可を得られた。この場を借りてCHINFOのジョン・フレミング大佐、米大西洋艦隊海軍航空隊司令部のマイク・マウス次席広報士官、海軍打撃航空戦センターのカーラ・オルソン広報士官、リムーア海軍航空基地のデニス・マクグラス広報士官に、これらの施設訪問時にいただいた助力に感謝申し上げる。VFA-106のアンディ・ルイス大佐とカール・ブラント中佐には、指揮下の海軍航空隊員とのインタビューを手配していただいた。 オスプレイの執筆者仲間、ピーター・マースキーとロバート・

「ブーム」・パウエル、そして退役海軍航空隊員のニール・ジェニングスには、2006年のドライブ行脚で寛大なもてなしをいただいた。またデイヴ・パーソンズ、デイヴィッド・F・ブラウン、ブライアン・マーブリー、そしてF-14トムキャット協会掲示板のそれ以外の諸氏、さらに西オーストラリア州在住のアフガニスタン軍第55飛行隊のロジャー・ケリーとリチャード・シューダックには、事実確認と写真提供をしていただいた。 最後に以下の部隊に所属するパイロット、海軍飛行隊士官、情報士官、上級兵曹長たち(階級は2007年時点)からお寄せいただいたOEFの体験談と写真がなければ、本書の執筆はかなわなかった。

第8空母航空団:デイヴィッド・ニューランド大佐、ビル・リンド少佐第11空母航空団:チャック・ライト大佐、カーロス・オーティズ大尉第14空母航空団:ジム・ミューズ少佐VF-11: ジョン・アキリーノ大佐、クリス・チョープ中佐、ブライアン・ヴァー

ニョ大尉VF-14: ブルース・フェクト大佐、ウィル・ペニントン中佐、ジェイク・エルジー

中佐、マーセル・パディラ中佐、ヴァン・カイザー少佐、マイク・ブラッドレー大尉、トーマス・ボーディン大尉

VF-41: ブライアン・ゴーン大佐、パット・クリアリー大佐、スコット・バトラー中佐、デイヴィッド・ロブデル中佐、ジョン・ケリー少佐、マーカス・ロペス少佐、ショーン・プライス大尉

VF-102: ジョン・カミングス中佐、トム・エバーハード中佐、スコット・ギモンド中佐、アンドリュー・ヘイズ少佐、チャド・ミンゴ少佐、デレク・ナルワジェコ少佐、ダン・クイン大尉、サラ・サタイアス大尉、カールトン・ロウ2等上級兵曹長

VF-103:ルー・シェイガー中佐、マイク・ミーソン大尉VF-143: ブライアン・フィッティング少佐、ウィリアム・マロリー少佐、ジョセフ・

グリーントゥリー大尉VF-211: ニック・ディエナ中佐、ショーン・スウォーツ少佐、ダン・バッカー

大尉、マリオ・デュアルテ大尉、ミッチ・マカリスター大尉、ケヴィン・ロブ大尉

VF-213: チップ・キング中佐、アンソニー・ギアイーニ大佐、マイケル・ピーターソン中佐、ブライアン・ホッジス少佐、アンドリュー・ミックリー少佐、ジョン・サコマンド少佐、ジェフリー・ヴィッカース少佐、ネイト・ベイリー大尉、トニー・トーマ大尉、マイケル・ラヴォイエ2等上級兵曹長

2007年10月、ケント州セヴノークスにてトニー・ホームズ

序INTRODUCTION

謝辞ACKNOWLEDGEMENTS

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2001年9月11日0846時、マサチューセッツ州ボストン発のアメリカン航空11便―ボーイング767―がマンハッタンのダウンタウンにそびえ立つ世界貿易センタービル

の北タワーに突っ込んだ。世界の反対側ではUSSエンタープライズ(CVN-65)の第8空母航空団の隊員たちが、この悲劇的な事故と思われた状況の成り行きをリアルタイムで見守っていた。このベテラン空母は6ヵ月間の予定の定期展開をあと数週間で完了するところだった。事実、同艦は48時間前に南方監視作戦(OSW)の一環として海軍が分担しているイラクの哨戒任務を、第11空母航空団を搭載するUSSカール・ヴィンソン(CVN-70)に引き継がせたばかりだった。こうして第5艦隊の指揮下を離れた「ビッグE」は帰国の途上にあった。 11日、第8空母航空団は5週間にわたるOSW任務での激しい戦闘作戦ののち、ひと月余りぶりの無飛行日を満喫していた。しかし第11空母航空団は通常態勢で、そのCVN-70は中東をめざして

西へ航行中だった。わずか2日間の寄港休養後にシンガポールを出港した同航空団は、日常訓練任務をこなしながら練度を回復中だった。北タワーが攻撃された時、同空母はちょうど艦載機の着艦収容を準備していたところだった。着艦パターンに入っていたパイロットのひとりがVF-213飛行隊長チップ・キング中佐だった。「私が着艦したのは、最初の旅客機が突入してからまだ数分しか経っていない時でした。着艦エリアから機体をタキシーして来ると、すぐうちの武

ガ ナ ー

器士官のマイケル・ラヴォイエ2等上級兵曹長が大勢の水兵と機体に駆け寄って来て、いま飛行機が1機、世界貿易センターに突っ込みましたと言ってきたんです。皆で待機室に下りていったところ、CNNニュースで2機目が南タワーに激突するのを見ました。その瞬間、この恐ろしいテロ行為に対するアメリカの対応に我々は駆り出されるぞと気づきました」 CVN-70の北西数百海里では、VF-14とVF-41の航空隊員たち

戦力整備BUILD-UP TO WAR

第1章

2001年8月、CVN-65の第2艦首カタパルトの甲板に繋止された3機のF-14Aと2機のF/A-18C。写真が撮影されたのは、第8空母航空団の5週間にわたるOSW任務の中盤だった。イラク南部での新たな長時間任務に向かうため、第5ゾーンのアフターバーナーで発艦上昇するのはVF-41の

「ファストイーグル104」(BuNo 158630)。「短期間で終わったOSW参加期間中、私たちが投下したのはGBU-12が3発に、GBU-16が4発だけでした」とVF-41飛行隊長ブライアン・ゴーン中佐は語った。「イラク領内へ飛行した11回の攻撃のうち、実際に爆撃をしたのは5回だけでした。目標は『フランケンシュタイン』というあだ名のSAM陣地群で、イラク軍は改良を加えて探知を難しくしていました。そのSA-2とSA-3には種類の違うシーカーヘッドが装着されていて、発射台は定期的に移動していました」OEFでLTS装備機の「ファストイーグル104」(VF-41の整備主任ランディ・ブラッドレー航空電子機器技術曹によるニックネームは「デロレス」)はLGBを24発使用した。(US Navy)

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 そこから南東へ数百海里、インド南端沖にいたカール・ヴィンソンの乗組員たちも凄惨な攻撃を見ていた。彼らも北ペルシャ湾ではなく、北アラビア海への針路変更を命じられることとなった。 一方、米大西洋艦隊戦闘航空団の根拠地であるオシアナ海軍航空基地では、その後アフガニスタンで繰り広げられる対テロ世界戦争に参加する4個トムキャット飛行隊が、やはり9月11日の事件を受けて対応に追われていた。F-14Bを装備するVF-102は第1空母航空団の隷下飛行隊で、出航前準備は未完了だったものの、USSセオドア・ルーズヴェルト(CVN-71)に搭載され、同月21日に6ヵ月間の展開を開始することとされた。出航日時はその後、48時間前倒しされた。 第9空母航空団のVF-211に所属する11機のF-14Aは、9月11日の攻撃が発生した時、3週間にわたる同航空団の総力攻撃訓練のため、ちょうどネヴァダ州のファロン海軍航空基地へ向かっている最中だった。同部隊はあと48時間でようやくファロンに到着というところで、急遽オシアナへ引き返すことになった。第9空母航空団はその後略式準備を整えると、USSジョン・C・ステニス(CVN-74)に搭載されて11月12日に北アラビア海へ向かったが、これは本来の予定より約2ヵ月早かった。 第7空母航空団のVF-11とVF-143は9月11日当時、まだ準備が初期段階だったが、攻撃に対する両部隊の反応は素早かった。北米航空宇宙防衛コマンド(NORAD)は南タワーへの攻撃後、海軍に東海岸上空空域の保安への協力を要請していた。第2艦隊は直ちに動員可能なあらゆる艦艇をヴァージニア州ノーフォークとフロリダ州メイポートの各基地から可及的速やかに出航させた。後者の海軍工廠からの艦には第7空母航空団の母艦、USSジョン・F・ケネディ(CV-67)も含まれていた。 出航前に同航空団は隷下のF-14BをCV-67に搭載し、同じくF/A-18C飛行隊2個をUSSジョージ・ワシントン(CVN-73)へ派遣したが、これは後者が整備後の慣熟航海のため、同時多発攻撃の直前に航空機を搭載せずにノーフォークを出航していたからだった。 VF-143のジョセフ・グリーントゥリー中尉はその後、NORADの指揮のもとニューヨーク沖に急遽構築された海の盾を支援するため、何度か任務を実施した。「2001年9月11日は『JFK』艦上での複合訓練部隊演習の初日になる予定でした。空母はメイポートを正午に出港後、ヴァージニア沿岸に近づいたところで第7空母航空団を搭載する予定でした。しかしニューヨークとワシントンDCへの攻撃後、すべてが変わりました。そして最初の72時間、VF-11とVF-143はケネディに搭載され、私たちは東海岸海域を北へ南へと24時間連続で戦闘空中哨戒(CAP)していました。私たちがCAPに就いていたあいだ、民間機がすべて飛行停止にされていたため、空は不気味なほどがらんとしていました。3日後、第2艦隊からCAP任務を打ち切り、代わりに複合訓練部隊演習を開始するよう命令が来たので、ホーネット隊は『GW』から『JFK』へ戻りました」

が数週間におよんだイラク南部上空での哨戒を終え、ひと息ついていた。彼らは当然のご褒美である南アフリカのケープタウンへの寄港―米空母が1度も訪れたことのない目的地―を楽しみにしていた。あの火曜日の午後、世界を一変させる事件がニューヨークで起きていくのをその艦上で目撃していたひとりが、VF-41飛行隊長ブライアン・ゴーン中佐だった。「第8空母航空団は5回目かつ最後となるOSW攻撃を9月9日夜に実施し、イラク軍の移動式対空捜索レーダー 1基を破壊しました。その後エンタープライズ戦闘群は第11空母航空団に任務を引き渡すと、翌日北ペルシャ湾を出ました。ホルムズ海峡を抜けた時のCVN-65はお祝い気分でした。気温はまともなレベルに下がり、エンタープライズはケープタウンめざして南下中でした。私たちは東海岸の空母が滅多に経験できない赤道越えをする予定でした」「若手士官たちはインターネットで釣り旅行の予定を立てたり、最高のアイリッシュパブを見つけようとしてました。第8空母航空団には確かな達成感がありました。すでに母国への帰路についていた我々は、1機も航空機を喪失することなく、実戦で攻撃を成功させていました。VF-41の気持ちはイラクでトムキャットを飛ばすことから、展開終了後に根拠地をヴァージニア州のオシアナ基地からカリフォルニア州のリムーア基地へ移し、F/A-18Fスーパーホーネットに機種転換することに飛んでいました」「2001年9月11日は無飛行日だったので、私たちのほとんどが滅多にできない朝寝を楽しみました。士官執務室でちょっと仕事をしてから1600直前に待機室へ入ったところ、すぐに世界貿易センターの北タワーに飛行機が突っ込んだと聞かされました。艦は母国の衛星テレビとの接続が航海中ほとんど良好だったので、ビルに最初の飛行機が激突すると、話はあっという間に艦内全体に広まりました」「待機室に入ってから5分も経たないうちに、ボストン発のユナイテッド航空175便のボーイング767が南タワーに突っ込むのを戦慄しながら見ました。制服に身を包む者の誰もと同様、私も2機の飛行機が世界貿易センターに突っ込んだのは事故などではないと確信していました」 艦内各所の乗組員と同じく、CVN-65艦長であり元F-14パイロットのジェームズ・ウィンフィールド大佐は、2機目の旅客機が南タワーに激突した時、CNNを見ていた。「即座に『これで帰国はなしだ』と思いました。私たちが回頭を命じられるのは時間の問題でしかありませんでした」 ウィンフィールド大佐はすぐに艦の1MC(艦内公共通知システム)で乗組員にこの予定変更を告げ、90,000トンの艦は180度回頭し、北へ引き返し始めた。「この航海でまだやる仕事があるのは皆わかっていました」とゴーン中佐は回想した。 CVN-65の針路変更に先立ち、トムキャットRIO兼第8空母航空団攻撃作戦士官であるビル・リンド少佐は、上官の航空団司令デイヴ・マーサー大佐から「すぐに即応戦闘機を多数まわし、乗員を搭乗させてカタパルト上に配置せよ―最高の即応態勢を取れ」と指示されていた。「それから状況は目まぐるしく変わり始めました。私たちは即応用の兵装を手配して搭載し、搭乗員と航空機が報復攻撃をするのだと実感しました。こうした動きへの劇的なだめ押しになったのが、エンタープライズが鋭く180度回頭し、最大速力で北へ向かうのが感じられたことでした。テレビで見たマンハッタンとペンタゴンへの攻撃の黒幕が、南アフリカにいるわけがありません。私たちはホルムズ海峡へと引き返しました」

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25F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM

ン東部のザワールキリ山地にあったアルカイダの訓練所兼補給施設アル=バドル基地で、13日前のケニアとタンザニアでの米国大使館爆破事件を受けてのものだった。 中央情報局(CIA)と連邦捜査局(FBI)はオサマ・ビン・ラディンの活動をこれらの大使館攻撃以前から監視していたが、TLAM攻撃で彼の殺害に失敗すると、とどめの一撃を下す方法を探るため、アフガニスタン各地でこのサウジ人テロリストの追跡を開始した。CIAのプレデター無人航空機(UAV)の小部隊は隣国のウズベキスタンを拠点としており、この時期、アルカイダの追跡で主役を務めていた。 アフガニスタンを支配していたタリバン政府を排除する計画も検討されたが、北アラビア海からの航空機の上空飛行を禁止していたパキスタンの領空法が当時、解決不能な問題として立ち塞がった。アメリカ中央軍(CENTCOM)の幕僚だったデイヴィッド・ニコルス海軍中将は2004年のインタビューで、『バトル・テスティッド―アフガニスタンとイラクにおける空母航空隊』の著者レベッカ・グラントにこう答えている。「オサマを捕えたいというクリントン政権の政治的意思は強かったのですが、そのために政治外交面でリスクを冒したり、あの地

 世界貿易センターとペンタゴンへの攻撃から数時間以内に、これらの残虐行為がオサマ・ビン・ラディンの率いるアルカイダというテロリスト集団の仕業であることをアメリカの情報機関は突き止めた。カール・ヴィンソン艦上では、VF-213の情報将校ネイト・ベイリー中尉が攻撃の衝撃の冷めやらぬなか、艦で傍受される通信トラフィックを監視していた。「ツインタワーに旅客機が衝突した時、私はCVN-70の空母情報センター(CVIC)に詰めていました。攻撃からしばらくのち、艦の情報収集管理官のところへ行って話をしたのですが、彼は使用可能な国家情報収集機材のほぼすべてが最優先監視対象をアフガニスタンに変更しているのに気づいていました。『要求甲板』もほぼ即座にアフガニスタンに焦点を向けていたので、第11空母航空団が今回の展開の残りの期間、この内陸国を注視しつづけるだろうことがはっきりしました」 目標としてイラク南部ほどお馴染みではなかったが、アフガニスタンはアメリカ軍の航空攻撃と無縁だったわけではなく、1998年8月20日に米海軍第5艦隊の戦闘艦から発射されたトマホーク対地攻撃ミサイル(TLAM)で攻撃されていた。この攻撃はビル・クリントン大統領が許可したもので、目標はアフガニスタ

対応RESPONSE

飛行前点検を終え、F-14Dのコクピットに乗り込んだVF-213のパイロットとRIOがこれから向かうのは、アフガン=パキスタン国境での重要なTARPS任務だ。2001年10月上旬。第11空母航空団幕僚兼トムキャットRIOであるカーロス・オーティズ大尉は、OEFの開始前からずっとVF-213で日常的に写真偵察任務を飛んでいた。「軍隊での諺『下らない仕事は頑張るな』に反し、私はOEFで機会を見つけてはTARPS任務を飛んでいました。その数年前のVF-143の展開でも、この種の任務を数えきれないほど飛んでいました」と彼は語った。「写真偵察はトムキャット乗りにはずっと不人気で、爆弾を目標に投下するとか、敵機を探して撃墜するとかの、もっと攻撃的な任務のほうがクルーは好きでした」「経路の地点情報さえわかっていれば、TARPS任務はそんなに難しくありません。アフガニスタン上空を飛ぶ時、目印になる特徴物が地上にほとんどないのは、すぐにわかりました。それでほとんどGPSに頼りっぱなしになりました。VF-213の機にはリンク16 JTIDS(統合戦術情報配布システム)も搭載されていて、それにGPS機能があったんです。でも私はOEFの何年も前から使っていた、私物のガーミン・パイロットIII携帯型GPSにいつも頼ってました。あれは私の安心毛布でした」(US Navy)

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26 F-14 TOMCAT UNITS OF OPERATION ENDURING FREEDOM

イラン

ハリルード川

ハリルード川ヘルマンド川

ヘルマンド川

カブール

カブール川

トラボラ山ガルデーズ

シャヒコト渓谷

カンダハルラシュカルガー

ザワールキリ山

ホースト

ジャララバード

アムダリヤ川

マザーリシャリーフ

ヘラート

イラン

トルクメニスタン

ウズベキスタン タジキスタン

中国

インド

インド

パキスタン

アフガニスタン

域での我々のビジネスのやり方を変えたりするまでの意気込みはありませんでした」 大使館連続爆破の成功に増長したアルカイダは2000年10月12日、今度はミサイル駆逐艦USSコール(DDG-67)に爆薬を満載した小型艇で自爆攻撃を実施した。当時、同艦はイエメンのアデン港で給油中で、水兵17名が死亡した。米国政府は再び報復としてTLAM攻撃を発令しようとしたが、現時点でのオサマ・ビン・ラディンの正確な居所が不明だとしてCIAがクリントン大統領を説得し、土壇場で中止させた。既知のテロリスト基地すべてに対する大規模爆撃とアフガニスタンへの全面侵攻も真剣に検討されたが、どちらも「コール事件がアルカイダの仕業だという確証が得られなければ実施できない」とクリントン大統領は結論したと、彼の自伝『マイライフ』には書かれている。 しかし2001年9月11日の攻撃へのアルカイダの直接関与が明るみになるのに長くはかからなかった。両タワーが崩壊してから数時間後、ワシントンDCの上院情報委員会は、オサマ・ビン・ラディン配下の現地工作員が2個の目標を攻撃したと報告したことが電子的傍受により判明したと告げられた。また攻撃の3週間前にビン・ラディンはロンドンを拠点とするアラブ系雑誌に、ア

メリカの国益に対する「巨大な未曽有の攻撃」が迫っていると語っていた。 米軍が防

デ フ コ ン

衛態勢を3―1973年10月の第4次中東戦争以来、最高の警戒態勢―にすると、コリン・パウエル合衆国国務長官は大統領が「21世紀最初の戦争」と呼んだものに対し、ブッシュ政権がどう対応するのかを明確にした。合衆国は「この種のテロリスト集団に支援や施設を提供する国々にその責任を取らせるだろう。テロリストだけでなく、テロリズムに賛同し、彼らに隠れ家と支援を提供する者に対しても、我々は立ち向かうだろう」と、彼は9月12日に強く主張した。 アルカイダと、この悪名高い組織がアフガニスタン各地に設けていた訓練所の後ろ盾だったタリバン政権に対する戦いは、もはや不可避であると思われた。それを裏付けるようにポール・ウォルフォウィッツ国防副長官は9月14日にこう述べている。「これは犯人を捕まえて責任を取らせるというような単純な問題ではなく、聖域を無くし、支援体制を壊滅させ、テロリズムに資金を提供する国々を亡ぼすことなのだ。我々が遂行するのは一度きりの戦闘ではなく、継続的作戦である」

2001年9月11日より以前、米国の情報機関が把握していたアフガニスタン国内のタリバンとアルカイダの目標はごく断片的なものだった。しかし同国の体制転換を実現するため、世界貿易センターとペンタゴンへの攻撃からOEF開戦までの短期間に、主要軍事拠点を速やかかつ完全に把握する必要が生じた。有人式、無人式を問わず、事実上すべての国家情報収集機材がカブール、カンダハル、ガルデーズ、ヘラート、マザーリシャリーフといったアフガニスタンの主要都市に焦点を合わせた。ザワールキリやトラボラなどのテロリスト訓練所に加え、対空ミサイルや高射砲の陣地、空軍基地、兵舎、戦車/装甲人員輸送車(APC)なども目標として抽出された。(Copyright Osprey Publishing)

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 9月11日の攻撃から3週間も経たないうちに、空母艦載機部隊はタリバンを政権の座から引きずり下ろし、アルカイダがアフガニスタン国内に構築した組織インフラを破壊する統合作戦の先鋒の一翼を担うこととなった。9月12日にドナルド・ラムズフェルド国防長官が中央軍総司令トミー・フランクス陸軍大将に「盤石な軍事的選択肢」の準備を命じた時、最終的に『不朽の自由作戦』(OEF)というコードネームが与えられるその戦闘作戦の構想はまったく決まっていなかった。 アフリカの角からペルシャ湾地域と中央アジアまでの25 ヵ国における米国の安全保障政策を担う中央軍が、OEFの実施にあたることとされた。フランクス大将は直ちにアフガニスタン方面作戦の行動方針立案のため、1週間から10日を国防長官に要求した。「我々はアフガニスタン国内のアルカイダとタリバンの目標セット群を把握しており、これらの目標をTLAMと有人爆撃機で攻撃する計画も立てていたが、中央軍には同国領内で在来型の地上作戦を展開する計画はなく、また隣接国から領内通過の許可も取れていなかった」と、フランクス大将は自伝『アメリカン・ソルジャー』で明らかにしている。 当初、フランクス率いる中央軍の上級幕僚たちは、パキスタンを主要中継地として利用し、ヘリコプター部隊による多方面からのアフガニスタン地上攻撃を考えていた。しかしパキスタンは米軍にそうした便宜を図ることに同意せず、また仮に許可されていたとしても、中央軍が必要とする戦力を現地に集結させるのに時間がかかりすぎた。ブッシュ大統領が可及的速やかな反撃を熱望していたため、ドナルド・ラムズフェルドはOEF開始までの日程を短縮することにした。その結果、本作戦に参加する兵員と航空機の数が削減され、大規模な地上戦が起こる可能性はなくなった。 中央軍は体制転換のための新たな方法に目を向けざるをえなくなり、それには長年タリバンと戦いつづけてきた抵抗勢力群を強化するのが唯一の道だと結論した。アフガニスタンに大量の地上部隊を投入できなくなった中央軍は、同国内の反タリバン勢力を支援するため、航空戦力と特殊作戦部隊(SOF)チームに依存するしかなくなった。 抵抗勢力の拠点は同国の北部、西部、南部地方にあったが、一方タリバンは1996年以来つづく激しい内戦により、それ以外の国土の80%を掌握していた。抵抗勢力群は一枚岩とはほど遠く、それぞれが自分たちの民族や宗派によって結束していた。そのなかで最も強力だったのが北部同盟で、アフガン=旧ソ連国境周辺の山岳地帯を保持していた。いくつかの小集団を勢力圏内に抱えた北部同盟は、約15,000名の戦闘員を擁していると見積もられた。 アルカイダが北部同盟を脅威と見なしていたのは確かで、その指導者アフマド・シャー・マスードを2001年9月9日に自爆攻撃で暗殺していた。CIAもマスードとその戦闘員たちのアフガニスタンにおける運動を評価しており、秘かに彼を何年にもわたって支援していた。 こうして北部同盟は中央軍の認識するところとなり、ブッシュ政権は彼らこそアフガニスタンを迅速に体制転換するための最善策と考え、ドナルド・ラムズフェルドは10月1日の記者会見でそれを表明した。「在来型でない手法のほうが、典型的な陸海空軍による在来型の手法よりもはるかにふさわしく適している。アフガニスタンには

タリバンに抵抗する人々―南の諸部族、北の北部同盟など―が多数いるのは確かであり、反テロリスト、反タリバンの戦いに彼らがどれだけ貢献するかを我々が評価せねばならないこと、そして可能なら彼らを支援するやり方を見つけねばならないことは明白である」 こうした"やり方"が中央軍の空軍(CENTAF=中央空軍)の戦闘行動様式を形づくり、それがOEFの初期段階で北アラビア海の空母を拠点とする攻撃機隊に主に適用された。そして海軍航空隊員たちが対テロ世界戦争初の作戦で極めて重要な役割を果たすことになったのは、内陸国アフガニスタンまで飛べる戦術機が海軍以外ではB-52H、B-1B、B-2長距離爆撃機しかなかったためだった。これらの米空軍"重

ヘヴィーズ

爆"トリオはアフガニスタンで航空優勢は獲得できなかったが、C-17大型輸送機からの空中投下による人道支援、さらにはSOFチームの投入/離脱のために中央軍には必要だった。さらに中央軍が必要とする戦闘機掩護を果たせる航空機でアフガニスタンの近くに存在していたのは、海軍のホーネットとトムキャットだけだった。 とはいえパキスタンが米軍機の領空通過を許可しないかぎり、海軍機は目標へ到達できなかった。カラチの真南70海里周辺を遊弋する第5艦隊の空母にとって、北アラビア海のパキスタン沿岸部はアフガニスタンへの最短の近道だった。 ブッシュ政権の対テロ戦争をグローバル化しようという動きの一環として、米軍の全面参戦前に世界各国を幅広く参集させるために徹底的な努力が払われた。NATOはその52年の歴史上、初めて相互防衛条項が北大西洋理事会により発動され、戦闘準備を発令した。さらにロシアをはじめとする多くの国々も支援を申し出、同国はパキスタンに圧力をかけて情報提供と兵站支援を引き出した。 国連が9月11日の攻撃に対する非難決議を採択し、「テロ行為の防止と根絶のための緊急国際協力」を要請したことも、パキスタンが米軍機に領空を開放し、SOFの作戦準備と戦闘間捜索救難のための基地供用に同意する一因となった。前もって戦闘間捜索救難能力を確立するまで航空攻撃を許可しないのは、米国の長年の伝統だった。 9月21日、アフガニスタンの北側の隣国であるタジキスタンとウズベキスタンもSOF、兵站、空中給油機の部隊の使用について基地の供用を認め(ただし米空軍のF-15EおよびF-16の戦闘航空団による使用は断固拒否した)、ドナルド・ラムズフェルドはすぐに現地に人員と物資を送るよう命令した。 OEFで長期間の航空作戦を実施するのにあたり、中央軍のパズルの最後のピースはプリンス・スルタン航空基地、略してPSABに新たに建設された統合航空作戦センター(CAOC)の使用をサウジ政府が許可するかだった。同地域の全中央空軍機を統制していたこの中枢施設は、CAOCがリヤドから移動した2001年初めに開設されたばかりだった。VHFおよび衛星信号受信用の直径9mの皿型アンテナ、そのあらゆるデータを表示する大型壁面ディスプレイを備えたCAOCには、米軍の全軍種から南西アジア統合任務部隊に配属された人員により運用されていた。イギリスやオーストラリアなどの有志連合国からの士官もCAOCの作戦室で働くチームに加わっていた。 CAOCはイラク南部上空を飛行するOSW参加機を2001年9月の時点で10年近く統制してきていた。そのため本施設は敵地上

戦争計画PLAN FOR WAR

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