f. scott fitzgeraldの短篇に於ける女欧像の変化f. scott...

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F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女欧像の変化 Change of Women's Image in F. Scott Fitzgerald's Short Stories Seiwa FujITANI Fitzgeraldの作品に現れる女性像といえば,一般には例えば“Winter Dreams"のJudy に代表されるような女性で,「悲しき若者」(金持ちの美女に憧れるハンサムで頭のよい青年である が,動物的魅力〈animal magnetism〉と金が欠けている)を翻弄するフラッパーという印象が強 い。実際,多くのフラッパーが作品に登場している。 しかし, Fitzgeraldの女性像はフラッ パーにみられる「強い女性」から,感情破綻を起こして崩壊していく「弱い女性」へと次第に 変化している。 同時に男性像も変化していることに気がつくのである。 金持ちの,美人のフ ラッパーに翻弄された「悲しき若者」は初期の作品では崩壊の道をたどっていたのだが,その 青年も中期(1928年以降)の作品では,中年の父親になっていたりしてかつての弱さは見られ ない。「悲しき若者」の面影はもはやなく,逆に崩壊から立ち直る強い男性像が捉えられる。 ストーリーもフラッパー対「悲しき若者」の恋から,中年男性対自分の娘あるいは一少女の組 み合わせで,恋愛関係よりも崩壊から立ち直る男性像にウェイトが移っている。 Higgins 男性像の変化にふれて,過去を取り戻そうとするThe Great Gatsbyタイプの作品は1929年 に発表されたAt Your Age" までで「悲しき若者」は次第により現実的な主人公となり, 幻想を取り払い,苦い過去を顧みて自分の人生を客観的にみて,罪の荷をうけて,贈いの方向 I) に進んでいくようになると述べている。この論文では何故金持ちの美女ばかり描いていた -181-

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Page 1: F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女欧像の変化F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女欧像の変化 藤 谷 聖 和 Change of Women's Image in F. Scott Fitzgerald'sShort

F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女欧像の変化

藤  谷  聖  和

   Change of Women's Image

in F. Scott Fitzgerald's Short Stories

Seiwa FujITANI

 Fitzgeraldの作品に現れる女性像といえば,一般には例えば“Winter Dreams"のJudy

に代表されるような女性で,「悲しき若者」(金持ちの美女に憧れるハンサムで頭のよい青年である

が,動物的魅力〈animal magnetism〉と金が欠けている)を翻弄するフラッパーという印象が強

い。実際,多くのフラッパーが作品に登場している。 しかし, Fitzgeraldの女性像はフラッ

パーにみられる「強い女性」から,感情破綻を起こして崩壊していく「弱い女性」へと次第に

変化している。 同時に男性像も変化していることに気がつくのである。 金持ちの,美人のフ

ラッパーに翻弄された「悲しき若者」は初期の作品では崩壊の道をたどっていたのだが,その

青年も中期(1928年以降)の作品では,中年の父親になっていたりしてかつての弱さは見られ

ない。「悲しき若者」の面影はもはやなく,逆に崩壊から立ち直る強い男性像が捉えられる。

ストーリーもフラッパー対「悲しき若者」の恋から,中年男性対自分の娘あるいは一少女の組

み合わせで,恋愛関係よりも崩壊から立ち直る男性像にウェイトが移っている。 Higgins は

男性像の変化にふれて,過去を取り戻そうとするThe Great Gatsbyタイプの作品は1929年

に発表されたAt Your Age" までで「悲しき若者」は次第により現実的な主人公となり,

幻想を取り払い,苦い過去を顧みて自分の人生を客観的にみて,罪の荷をうけて,贈いの方向

                  I)に進んでいくようになると述べている。この論文では何故金持ちの美女ばかり描いていた

                    -181-

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            F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女性像の変化

Fitzgeraldが異なる女性像を描くようになったかを,母親Maryそれに妻Zelda対

Fitzgeraldとの関係から探ってみたい。

 まず金持ちの美女という女性像については「彼はなぜ金持ちの美女に魅かれるのか?-

『全能の母親』探求の文学」という寺沢みづほ氏の論文があるので,氏の論文を敷術しながら

     2)説明したい。結論から言えばFitzgeraldにとって金持ちの美女とは彼の母親であるというこ

とになる。と言っても「全能の母親」とあるように,精神分析学でいう「幼児ナルチシズム」

に対応する「母親」である。 Fitzgeraldの場合自伝的なエッセイ“Author's House" (1936)

で述べているように彼が生まれる3ヶ月前に「母が二人の子を亡くした」ことから母親に溺愛

されて15才で東部の名門Newman Schoolに入るまでは(自己と他者が相対的に依存しあっ

                    3)ている状況を認識することが決定的に困難」なほどに自己全能感を植えつけられていた。後に

娘への手紙で(15才になって初めて,私は,世の中に自分以外の人間もいるのだと知ったの

               ■1)です。 それは大きな痛手でした」と述べていることにも証明されるように15年間にわたって

                             5)幼児状態に留められて「全能的な自我を強烈に決定づけられ」たのである。

 「全能の母親」と「全能的な自我」とは心理学での解釈では次のように説明される。

すべてを他者に依存しなければならぬ,完全に無力なままで生まれてくるのに,知性だけは

備えている人間の赤ん坊は,当初あらゆるものを与えてくれる育児に携わる人物(現行の制

度のもとでは,女である母親)を,全能で,望ましいものすべてを備えた無限無尽の豊饒さと

して感じる。全能の母親と結ばれて願望が充足しきるこの至福状態では,幼児は己の無力さ

や限界を感じることがなく,全能的な原自我を持つ(人間が過去に完全な楽園をみたてるのは。

                                    6)誰もが,努力する必要なく願望が充足した至福感覚を,当初に経験したからである)。

Fitzgeraldの「全能的な自我」は「全能の母親」によって15才まで満たされるのであるが完

全に彼の自我が満たされたのではない。彼の自我(完全な楽園)を脅かす因子として,

Fitzgeraldを保護してくれる「全能の母親」が金持ちでなかったこと,そして無器量で奇人

のために社会に受け入れられなかった現実があった。その因子から逃れるためにFitzgerald

が試みたのが親の否定で, 9才の頃には自分は家の戸□で捨て子として発見され,くるまれて

いた毛布にはStuart王家のピンが止めてあったと近所にふれまわり両親との血縁を否定して

「自分は両親の子供ではなくて王様の子供,それも全世界を支配する王様の子供なのだという

 7)信念」を持って現実からの逃避をしている。しかし, 15才になって初めて「全能的な自我」

が破られる。金持ちの秀才が行くNewman Schoolでの寮生活では,後に「15才になって初

めて,私は,世の中に自分以外の人間もいるのだと知ったのです。それは大きな痛手でした」

と述べたり,学友とうまくやっていけなかった自伝的なエピソードを綴ったThe Freshest

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                  藤 谷 聖 和

Boy"からも推察されるように悲惨なものであった。寺沢氏が指摘されるようにFitzgerald

が傷ついたのは「金持ちでないことより全能感」で「不安の因を金に帰し,自分は金持ちでな

いからこれはどの苦痛を味わうのだ,金がないから完全体になれないのだと問題をすり換え。

              ilれによって自我崩壊を回避し」,「全能の母親」がいなくても(自分は金という要素を満たせ

        9)ば完全体になれる」という幻想に憑かれることになる。

 では何故美女に魅かれるのか。金に関しては「すり換え」によって「全能的な自我」を保っ

たのであるが,「美女」に対しても「すり換え」がある。 Fitzgeraldにとって母親が社会的に

受け容れられないことは彼の「全能的な自我」も社会的に受け容れられないことであったので,

「母親の弱点一無器量で,人々から徹底的に支持されない」ことを(抹消することで,己と

            10)社会のズレの整合をはかる」ようになったのである。「金持ちの美女が弱点を抹消した作者の

母親像であるということは,美女たちの中に,自己全能感を充足させる母親の要素が前提とし

         11)て見たてられている」ことになり親の否定によって「全能的な自我」を保ったのである。そし

てこの「全能的な自我」こそがFitzgeraldの代表的な作品を書かせたというのが寺沢氏の論

の主旨である。確かにFitzgeraldの投影である男性主人公たちが金持ちの美女に魅かれ,彼

女との結婚を望むのは(彼の全能的な自我と社会の間に存在し,自我を脅かす因と思われた現

                 12)実の母親の弱点を抹消する衝動」で“Winter Dreams" のDexter対Judy, " 'The

Sensible Thing' "のGeorge対Jonquil, The Great GatsbyのGatsby対Daisyの恋はま

さにこのタイプであろう。しかし,何故この恋は成就しないのか。「全能的な自我」を維持す

るために「全能の母親」との合体が行われてもいいはずなのに,男性主人公は気ままな金持ち

の美女の冷たい仕打ちによって崩壊する「悲しき若者」で終わってしまう。寺沢氏はこの点に

関しても「全能の母親」と「全能的な自我」の角度から「悲しき若者」を捉えて男性主人公が

「願望達成が満たされない因を,与えられるものをわざと与えてくれない金持ちの悪意に帰し。

                                13)金持ちへの賞賛と恨みが並存するのも,まさに第二期の幼児の特質」と指摘されているが,

「悲しき若者」には金持ちへの恨みが描かれているとは思えない。確かに「なぜ金持ちの美女

に魅かれるのか」の証明は「全能の母親」と「全能的な自我」との関連から証明されるが,な

ぜ恋が成就しないのかには充てはまらない。金も美女も近付きにくい存在であったのかとも考

えられるが,処女作This Side of Paradiseの成功で,美女のZelda Saverと金を獲得し,

「全能的な自我」が社会的にも満たされている現実かおる。にもかかわらず, Fitzgeraldが金

持ちの美女を書き続けたのは何故か。 また,女性像が一定でなくてZeldaの精神錯乱の頃か

らこの女性像が変化するのは何故なのか。寺沢氏の「全能的な自我」対「全能の母親」の関係

にFitzgeraldの中の「男性」対「女性」の力関係を付け加えて見てみたい。

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F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女性像の変化

II

 Fitzgeraldの作品に於て男性像と女性像が変化してくる,つまり「悲しき若者」がもはや

金持ちの美女を追いかけず,金持ちの美女も恋の遊びが過ぎて感情破綻を起こすという

Fitzgeraldの男性観や女性観が変化してくる時期はZeldaの精神錯乱の時期と軌を一にする。

Zeldaは1930年にParis郊外のMalmaison病院を皮切りに, Valmont病院, Prangins病院

へと入退院を繰り返して病気の療養をしている。その過程で関心を引くのがPrangins病院で

の療法である。医師とFitzgeraldとの間で面接が行われるが,そこにFitzgeraldのZelda観

を捉えることができる。Fitzgeraldは客観的にZeldaを捉え「(Zeldaは)一度も自分の才覚と

                    M>か頭とかを使おうとしたことのない女です」と批判し, Zeldaの理想の男性は(つねに安定し

        15)て強い性格の男性」であり彼自身はそのような男性でないことを認めている。 さらに1932年

にはPhipps病院のThomas Rennie医師に自分達の夫婦像を語るのだがその際に

FitzgeraldはZeldaが彼のことを「女性と見なしている」と語っている。

In the last analysis, she is a stronger person than l am. l have creative fire,

but l am a weak individual. She knows this and really looks upon me as a

woman. All our lives, since the days of our engagement, we have spent hunting

                                      16)for some man Zelda considers strong enough to lean upon. I am not. (Italics

mine)

ZeldaがFitzgeraldよりも「より強い人物」であることが確認されるのはZeldaが入院中に

創作した自伝的小説Save Me the Waltzに於てであり, Milfordが指摘するようにこれは

                                           17)「Zeldaが自分の小説に投影している自我のイメージの種々相を解明する鍵を提供してくれる」

作品で, Zelda像を反映するヒロインAlabamaに「男女の役を演じる人間」像を見せてい

る。 Fitzgeraldのなかの「女性」に対しZeldaのなかの「男女」,すなわち「男性」が現れ

ているのである。

 Zeldaの精神治療の中で, FitzgeraldはZeldaの中の「男性」に引かれていたことに気付

くが,この事実はZeldaを客観的に捉えることができたことで, Zeldaからの独立に結び付い

ている。 後に1935年の夏にFitzgeraldは秘書のLaura Guthrie相手に作家としての方法論

やモデル, Zeldaとの関係について語っているが,その際にも自分のなかの「女性」に関して

触れており,女性像の変化に関連性が捉えられる発言をしている。方法論の質問に答えては。

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                   藤  谷  聖  和

I don't know why l can write stories. l don't know what it is in me or that

                                                 18)comes to me when l start to write. / am half feminine - at least my mind is.

(Italics mine)

登場人物のモデルについての質問には

My characters are all Scott Fitzgerald. Even my feminine characters are feminine

         19)Scott Fitzgeralds. (Italicsmine)

さらにZeldaに関しては

Zelda and l were everything to each other - all human relationships. We were

                                                      20)sister and brother, mother and son,father and daughter, husband and wife.

(Italics mine)

と語っている。 Fitzgerald自身が投影されている「悲しき若者」のみならず,主人公を崩壊

に追いやるフラッパーたちもFitzgerald自身であるということは,一見,矛盾するようにみ

える。が, Zeldaの「男性」との関連で捉えれば説明ができるのではないだろうか。「全能の

母親像」をZeldaに求めていた際には,自分に欠けているもの一金と動物的魅力,さらに

実母Maryに欠けていた美貌-をヒロインに託して自分の願望を描き,その一方で現実の

自分の弱さを「悲しき若者」のなかに描いたのではないだろうか。ところが,ジョゼフィーヌ

物では立場が逆転して,崩壊するフラッパーのジョゼフィーヌが登場するのは「男性I Zelda

との訣別であると同時に自分のなかの「女性」との訣別と捉えられよう。 Zeldaとの関係も

「夫と妻」という対等関係より,むしろ「母と息子」の関係のほうが強かったのが,やがて

「父と娘」と力関係が逆転することで,「全能の母親像」であるZelda離れをして,それが作

品にも女性像の変化として反映したのではないだろうか。

m

 Fitzgeraldの作品から「悲しき若者」が姿を消し,父性愛にかられる中年の男性が登場す

るようになるのは1929年以降で,前年の1928年頃からのFitzgeraldの精神生活と作品を見

ていくことにより,女性像の変化の原因を探っていきたい。

 まず,父性愛にがられる中年男性が登場する作品を挙げるどThe Swimmers" (1929),

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“Babylon Revisited" (1931),"Family in the Wind" (1932)かおる。“The Swimmers"

どBabylon Revisited" に於ては子供の養育権をめぐって,崩壊寸前の中年男性が立ち直っ

ていくストーリーが描かれている。“The Swimmers" の主人公Henry Marstonは愛人の許

へ走った妻との間で養育権を争う。海上に浮かんだモーター・ボート上でHenryと妻,その

愛人とで話し合いがされるが,モーター・ボートが故障して潮に流される。そこで, 3人の中

で唯一泳げるHenryが,養育権をもつという条件で,救助を求め岸へ泳いでいく。 Henryは

無事に岸にたどり着き養育権を勝ち取るのであるが,妻の不倫を知り精神状態がおかしくなっ

た彼が立ち直るきっかけが水泳であり,水泳をHenryに教える少女との出会いがあることも

興味深い。 Henryは泳ぐことによって精神状態を立ち直らせ強くなっていく。femme fatale

の妻Chupetteに振り回されて,崩壊の際にいたHenryは(8年前にプロバンスの賢い娘を

                                  21)そばに置いておくために手渡した男らしさ(masculine self)を取り戻した」のである。このよ

うに主人公はfemme fatale \こ訣別しており,少女との関係も恋愛関係ではなくて力強い友情

となっている。“Babylon Revisited" では, 1920年代パリの狂騒的な生活の中で妻を死なせ,

29年の恐慌では財産を失い,アルコール中毒で療養所に入り,家庭は崩壊し,自分自身も崩

壊の際にいる男性Charlieが立ち直る過程が描かれている。 Charlieの回復の支えとなるのは

一人娘Honoriaで,彼女の養育権をもっこと,言い換えれば父性愛が崩壊寸前のCharlieを

支えている。“Family in the Wind" では45才で独身,アル中気味の医師Janneyが医師と

して立ち直る過程が描かれている。Janneyの回復の支えになるのは,竜巻で父親を失い孤児

となった少女Helenで,ここでも父性愛によって崩壊から立ち直る男性が登場する。 アル中

で医師の仕事から遠ざかっているJanney医師は,突然の竜巻によって多くの怪我人がでると

治療に従事する。そして竜巻で孤児となったHelenを引き取る決心をすると,長年の友で

あった酒とも訣別し,再度,医師としての道を歩もうとする。この作品ではJanney医師の恋

愛感情も描かれているが,相手の17才の娘Mary Deckerはすでに死んでおり, Janneyの気

持ちも彼女に表明されておらず,男女間の愛情よりもむしろ父性愛にウェイトが置かれている。

 以上3作ともFitzgeraldは父性愛をとりあげ,少女,娘,孤児のおかげで立ち直る男性像

を描き,がってのflapperは子供の養育権で夫との戦いに敗れる“The Swimmers" の

Chupetteであったり,狂騒の生活のためにすでに故人となっている“Babylon Revisited"

のHelenであったりで,「強い女性」の姿は作品から消えている。

 以上の作品の創作される以前の1928年にFitzgeraldの生活や創作活動をみて「強い女性」

が消える原因を探ってみたい。 1928年頃のFitzgeraldは, 1924年のThe Great Gatsby出版

後,次の作品となるTender Is the Night (以下Tenderと省略)の完成を目指していた。創作

に専念しようとヨーロッパに移住し,生活様式を変えようとしたが,人々はFitzgerald一家

をすぐに見っけだし,彼の望んだ静かな,創作に没頭する生活は実現せず,パーティーに明け

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                 藤 谷 聖 和

暮れる日々が続いた。Tender出版に至る1934年までの期間に於けるFitzgeraldの短篇は

Tenderに結びつくTender cluster(Tender群}とBasil and Josephine Stories(バジル物,

ジョゼフィータ物)とに大別される。このバジル物ではバジル少年のイニシエイション・ストー

リーが,ジョゼフィーヌ物ではフラッパーの感情破綻が描かれており従来のフラッパー対悲し

き若者のストーリーは姿を消している。

 バジル物ではフラッパーにふりまわされるバジル少年が,やがてフラッパーを覚めた目で捉

えるようになり,同時に母親からも独立していく過程が描かれている。母親に甘やかされて育

ち,「15才になって初めて,私は,世の中に自分以外の人間もいるのだと知ったのです。それ

は大きな痛手でした」と後に娘への手紙で述べているFitzgeraldはバジル物の“The

Freshest Boy" (1928)や“The Captured Shadow" (1928)ではバジル少年の母親離れの過

程を描いて母親批判を行っている。母親に甘やかされたためNewman Schoolでは集団生活

に適応できず苦労した体験を“The Freshest Boy" で扱い,“The Captured Shadow" で

はバジルが劇の演出を通じ初めて自分をコントロールできる真のリーダーとなっていく過程が

描かれている。これはバジルにとって母親からの独立の過程でもある。自己顕示欲のつよい少

年から謙虚さを備えた少年へと変化し,あれこれと世話をしようとする母親を疎ましく思って

いる。

 一方,フラッパーに関しては少年の少女への憧れを“That Kind of Party" (1928年の夏に

書かれたが, 1951にPrinceton University Library Chr)nicleに初出)や“The Scandal

Detectives" (1928),"A Night at the Fair"(1928)で扱い,フラッパーに翻弄されつつも,

フラッパーの本質を見抜く目を持つ,言わば強い男性になっていく過程が“He Thinks He's

Wonderful" (1928)や“The Perfect Life" (1929),"Forging Ahead" (1929),"Basil and

Cleopatra" (1929)で示されている。初期の作品“Winter Dreams" (1922)ではフラッパー

のJudyに翻弄されたあげく捨てられたDexterには「僕のなかの何か」が失われ,ディクス

ターの夢や青春は消失する。彼にとって「門は閉ざされ」,「残されたものは,すべての時に耐

えうることのできる灰色の鋼鉄の美しさだけであった」というように未来はなきに等しい。バ

ジルもフラッパーの恋人ミニーを失うが,それは数ある「野望,闘争,栄光」の一つが消えた

だけで,彼の未来は「比すべきものもない輝きと壮麗さ」を備えており,ミニーとの訣別はバ

ジルの人生開眼の大きな試練で強い男性となっていく一過程として捉えられている。

 バジル物で関心を引くのは父親の不在である。 “That Kind of Party"に父親が存在する

設定になっているだけで直接ストーリーには登場しない。他の作品では父親はすでに故人と

なっており母親が父親役を兼ねているが,バジルが母親に「強い男性像」を見いだせず,自ら

「強い男性像」を模索している姿を捉えることができる。バジル物と並行して書かれていた

Tenderに於てFitzgeraldは母親殺しをテーマとする“The Melarky Version" を考えてお

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り,改稿後も“The Boy Who Killed His Mother" のタイトルに固執しており母親への憎

しみが窺える。作品となったTenderでは母親像は消え,精神的支えとしての父親が現れてお

り,バジル物と併せてFitzgeraldの母親離れを捉えることができる。が,しかし,これは実

母Maryからの母親離れというよりも妻Zeldaからの「母親離れ」と考えたい。母親を嫌い

ながらも,母親の気質とよく似たZeldaと結婚したのは母親コンプレックスの一種であり,

Fitzgeraldを「女性」と捉える「男女JZeldaに対決し,勝つことがFitzgeraldの意識下

にあったのではないだろうか。

 1930年に発狂したZeldaは以後入退院を繰り返していくが,この時期はFitzgeraldと

           23)Zeldaの「皮膚の裂け目」が増大していく時期でもある。作品からみるとFitzgeraldが新し

い男性像や女性像を描き始めた時期である。バジル物では強い男性像を模索し,"The

Swimmers"や“Babylon Revisited", "Family in the Wind" では強い男性像を登場させ

ている。 そしてZeldaの発狂による別居時代にはジョゼフィーヌ物で,崩壊するフラッパー

像を初めて登場させている。かつては美貌の金持ち娘のフラッパーに翻弄されて崩壊する「悲

しき若者」を描く際には若者のフラッパーへの恨みつらみをなんら描かなかったFitzgerald

であるが,ジョゼフィーヌ物ではフラッパーへの侮蔑をあからさまにしている。 1920年代に

描かれたフラッパーたちが,金持ちの娘で美女というだけで崇められ,軽率さや自己中心性が

許されていたのに対し,ジョゼフィーヌにはそれが許されない。 Anthony ("First Blood",

1930)やSonny ("A Nice Quiet Place", 1930)と恋の変遷をしてきたジョゼフィーヌぱA

Woman with a Past" (1930)では女性をみる価値基準が異なる世界を体験する。美人であ

るだけで男性から崇められたフラッパーはエール大学の男の世界では(男が偉いと連れてきた

       24)女まで偉くなる」のであって,「女は美しく魅力的であることで人気を得る」(231)ことが通

じないことをしらされる。

 ジョゼフィーヌの感青破綻,つまりFitzgeraldのフラッパー像の崩壊がみられるのは

“Emotional Bankruptcy" (1930)に於てである。 17才のジョゼフィーヌは「一日ごとにより

芳潤に見事に開花していく美しさ」(271)で,その頂点に達しようとするときに感情破綻が

やってくる。ジョゼフィーヌにとって男性は「ダミー」のようで「棒切れのように存在感がな

い」(275)ようになり,彼女にとって恋は「活気や情熱がなくなって」,「技巧を凝らして行わ

れるゲーム」(276)にすぎなくなっている。理想の男性像は「遊びのための男性」から「結婚

のための男性」へと変化し,“A Woman with a Past" のノウルトンの影響を受けてか,ハ

ンサムでなくとも「指導者」たらん人物を理想としている。ジョゼフィーヌはフランス空軍の

飛行士エドワード・ダイサーとの出会いで恋への情熱を感じるがエドワードのプロポーズで幸

福のきわみに達したジョゼフィーヌに感情破綻が訪れる。「あなたが私に牛スしたとき,私は

笑いたかったの」(287)という感情破綻が現れ「使ったらなくなってしまう」(287)事実が自

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                 藤 谷 聖 和

分自身の感情にも充てはまることをジョゼフィーヌは認めざるを得ない。ここで注目したいの

は男女の立場の逆転である。従来は動物的魅力に欠ける「悲しき若者」がバイタリティーにあ

ふれるフラッパーに翻弄されて崩壊の道を辿っていたのが,ここに至ると立場が逆転する。動

物的魅力かおる男性が現れると,フラッパーは「人生で初めて自信をなくしたように感じ」

(278)て,あのバイタリティーは消失し,感情破綻に陥るのである。

 ジョゼフィーヌのモデルはFitzgeraldにとって忘れ得ぬ女性Ginevra Kingであると言わ

れているが,“Emotional Bankruptcy" (1931)の崩壊していくフラッパー像にはZelda像も

含まれているのではないだろうか。ジョゼフィーヌに感情破綻をもたらすエドワードが「フラ

ンス空軍の飛行士」となっている設定は1924年にZeldaが恋愛事件を起こした相手のフラン

ス空軍の飛行士Edouard Jossaneを連想させ,彼こそZeldaが好む(指導力,スポーツマン

            25)の能力,軍人らしい機敏さ」Fitzgeraldに欠けていた「動物的魅力」-を備える人物

であったからだ。それ故に,ジョゼフィーヌが最も好む男性によって崩壊していく設定は

FitzgeraldのZeldaへの報復で,彼女への訣別とも捉えられる。1930年4月に始まるZelda

の発狂,それに伴う別居生活, 1931年1月のFitzgeraldの父親の死はFitzgeraldの女性観を

変化させる事件であった。ジョゼフィーヌの感情破綻は(早すぎる冒険や放縦さ,罪を正当

26)化」してきたことの結果で,それらは妻Zeldaに精神異常をもたらしたものでもあった。

                                      27) ジニブラヘの失恋によって「貧乏人は金持ちの娘との結婚を考えるべきではない」と悟らさ

れたFitzgeraldはNotebooksのなかで「最上の2つは私に持ち合わせがなかった一動物

的魅力と金が。だが,私も次善の2つ一美貌と知性は持ち合わせていた。だから,いつも

           28)最上の女性を手にいれた」と述べている。しかし,「最上の女性」であるべきZeldaとは,後

には訣別しているのであるからFitzgeraldの女性観は変化している。 Tumbul1がZeldaとジ

ニブラを比較して「ジニブラの場合,魅力の一部はその社会であったし,ゼルダの場合,それ

は彼(Fitzgerald)の想像力に訴えてくる他ならぬ彼女自身であった」と指摘しているように,

Fitzgeraldはジニブラの「富」の背景,Zeldaに関しては彼女自身のバイタリティー,つまり

「動物的魅力」に動かされたようだ。 KuehlはNewman School時代のFitzgeraldの習作に

さえfemme fataleが登場することを捉えてFitzgeraldが(意志の強い女性にずっと魅かれ

   30)ていた」と指摘して,その原因を母親のMaryに捉えているがZeldaも母親Maryの資質を

持っていたのではないだろうか。 Zeldaは母親には欠けている美貌の持ち主であるが,その資

質においては母親Maryである。結婚前のFitzgeraldが求めていたのは強い男性像,つまり

「動物的魅力」であったのだが,父親のなかにそれを見いだせずに,母親のなかにそれを感じ

ていたのではないか。 Newman School時代に自我に目覚め,自分をスポイルしたことへの

憎しみを母に持つことからFitzgeraldの母親離れが始まったのだが,「動物的魅力」をもてな

い彼が求めたのは皮肉なことに母親的人物であったのだ。Fitzgeraldがそのことに気がっく

                    -189-

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            F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女性像の変化

のはZeldaとの生活が始まってからのことである。後に,娘への手紙のなかで「結婚したこ

とをすぐさま後悔した」とか「私か犯した過ちはお母さん(Zelda)と結婚したことだ」と述

                                           31)べ,「お母さんは私の夢を果たすよりも,お母さんのために過度に仕事をすることを求めた」

と批判をもしている。

 Fitzgeraldは一方では理想的結婚観を“Two Wrongs" (1930)や“What a Handsome

Pair I"(1932)に於て描くようになる。1930年の“Two Wrongs" ではプロデューサーの夫

とバレリーナを目指している妻との夫婦開の危機が描かれている。夫の仕事や健康に問題が起

こったときにバレリーナの卵の妻に舞台に出るチャンスがめぐってくる。夫の転地療養のため

には舞台のあるニューヨークを離れねばならず,夫か仕事かのジレンマに陥る。二人はお互い

の素直な気持ち一夫は妻に付いてきて欲しい。妻はニューヨークに残りたいーを隠して,

相手への思いやりを示すが,結局はお互いが離れ離れに暮らすこととなる。この別居によって

夫婦間の絆が切れるかに見えるが, Fitzgeraldは最後に夫の妻への確信を(仕事がうまくい

                               32)こうと,いい契約があろうと,エミー(妻)は最後には帰ってくる」と述べ,夫婦間の破局は

ないことを暗示している。“What a Handsome Pair I" ではスポーツ好きの似合いの夫婦と,

ピアニストの夫と無学で年上,音楽は分からないという不似合いの夫婦を対比させ,似合いの

夫婦は妻の夫への対抗心で幸福な結婚でないのに対して,不似合いの夫婦はお互いに共通する

ものがないため「すてきなカップル」となっている。 これら2作から窺えるのは妻Zeldaへ

の批判である。Zeldaの対抗心に関してはFitzgeraldは騨易していたが, Hemingwayもそ

れを感じていた。MilfordのZeldaによれば「HemingwayはFitzgerald夫妻の生活には2

種類の嫉妬があることに気付いた。ゼルダはスコットの仕事に嫉妬し,スコットはゼルダに嫉

妬している,と彼はいう。ゼルダはスコットに仕事をさせないようにし,スコットはゼルダを

            33)他人から遠ざけようとした」と述べている。 HemingwayはFitzgeraldの嫉妬も指摘してい

るが,これは1925年のことで1928年にはFitzgeraldからはZeldaへの嫉妬は消えて,無関

心にと変わっている。 1928年のエラズリー荘時代からFitzgeraldは創作意欲を刺激するため

に酒を用い始め,次第にZeldaと一緒にいるよりも飲み仲間と一緒にいるほうを好むように

なる。一方Zeldaは自分自身のものを確立したいと願いそto手段をバレエに求めていた。

ZeldaがSave Me the Waltzの中で「自分はバレエという媒介を通して,感情を制御するこ

とができる。愛や憐欄や幸福に通路を授けてやることにより,それらのものを意のままに求め

       3.1)ることができる」と述べているように,バレエはZeldaの自分自身のものを確立する手段と

なるはずであった。しかし,彼女のバレエを見せられたジェラルド マーフィーには,それは

                                       35)グロテスクで実に凄まじい光景でZeidaが「自己の青春にしがみつこうとしている」と映っ

たにすぎなかった。 このような背景からこれらの2作品を捉えると, Fitzgeraldの結婚観や

Zelda観が窺えてBruccoliが指摘するように「よい結婚一特に創造的な男性-に必要

                    -190-

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                      藤  谷  聖  和

           36)なのは野心のない妻」であるというZelda批判に貫かれている。

IV

 Fitzgeraldの女性像はZeldaの発狂の頃から変化してくる。かつては悲しき若者に傍若無

人に振る舞ったフラッパーもジョゼフィーヌ物では感情破綻を起こし崩壊し,作者のフラッ

パー像も尊敬から侮蔑へと変わっている。 Fitzgeraldの女性像は,さらに変化する。 男性像

が弱い男性から強い男性に変化したように,感情破綻で崩壊したフラッパーが自立した強い女

性として描かれるようになる。例えば,“I Got Shoes" (1933)の女優,や“The Family

Bus" (1933)の貧しい少女,“No Flowers" (1934)の現実を正視するMarjorie, "New

Types" (1934)の夫を支える,「新しいタイプ」の女性Paulaで,それぞれが強い女性である。

“IGot Shoes"では靴も買ってもらえず足から血を流したこともあるような貧しい子供時代

を過ごした過去のある女優は成功した今でも靴の買いだめがないと不安であるが,それらを捨

てることによって過去と訣別している。 “The Family Bus" では貧しい少女が金持ちになり,

零落した男性を立ち上がらせる。 “No Flowers" では祖母,母,娘の比較がされ,大恐慌を

経験した娘Marjorieはもはや幻想を描かないし,勤勉さと正直というあの中産階級の美徳を

再確認している。“New Types" のPaulaは英国の老貴族と17才で結婚し,病気の夫を支え

るために働きこれまでのフラッパーとは異なり,自立している。30年代に描かれる女性には

もはやJudy ("Winter Dreams")やJonquil ("The Sensible Thing'")Josephine (ジョゼ

フィーヌ物)のような有産階級のフラッパーが描かれない。長編のヒロインを例にとっても

The Great Gatsby (1925)のDaisyやTender Is the Night (1934)のNicoleのような有産階

級のfemme fatale \こ代わ以 The Last TycoonのKathleenのような職業につく自立した女

性が登場してくる。 30年代にNicoleのような女性が登場するのは例外的で,大恐慌後のアメ

リカ社会ではTender Is the Nightのように有産階級を描く作品は,プロットがクロノロジカ

ルでないこともあいまって不評であった。

 Fitzgeraldが新しいタイプの女性,即ち職業を持つ自立した女性を描くのは30年代という

時代性をその原因としたが,言い換えると,雑誌社がもはやlove storyを必要とせず

Fitzgeraldが新しい題材を探さざるを得なかったことにもある。Tender Is the Nightの創作

中にはFitzgeraldの財源ともなったThe Saturday Evening Postは1932年に編集長George

Lorimerの更迭により, Fitzgeraldの従来の作品を採用するのを嫌うようになる。 前編集長

のもとではハッピー・エンドでなくとも採用してくれて,フラッパーに崩壊させられる悲しき

若者や,感情破綻を起こすフラッパーなどFitzgeraldが得意とするテーマーを描くことがで

きたのであるが,新編集長Wesley Winans stout好みの「勇敢な開拓者のはらはらさせる

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            F. Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女性像の変化

冒険物語や〈中略〉魚釣り,フットボールの牛ヤップテン」を描いて満足させられなかった。

“IGot Shoes" や“The Family Bus", "No Flowers", "New Types" が採用されたのは

時代が要求する強い自立する女性を描き,ハッピー・エンドにしたからではないだろうか。あ

てにしていたTender Is the Nightは初版が13,000部でScribners社や代理人のOberへの

借金に充てるどころではなく, Zeldaの回復の見込みもなく病院の治療費もかさむばかりで

Post好みのストーリーにせざるを得なかったのかもしれない。

 Fitzgeraldの女性像の変化に関わりの深い「母親」からの訣別はすでにジョゼフィーヌ物

に続きCrazy Sunday" (1932)に於て明らかである。映画界の実力者Miles Caimanを描

いているのだが, Caimanが妻にマザー・コンプレックスを移転していることが妻の視点から

語られている。 Fitzgeraldが,まさに自らの問題であったものを客観的に作品に投影してい

る点を捉えるとマザー・コンプレックスからの乖離と捉えることも可能である。自分の感惰を

主人公に移入しやすかったFitzgeraldであるが,ここでは主人公からの距離を於て描いてお

り,自分自身を描くというよりも,がっての自分の問題を材料に描いている。 1936年9月に

母親Maryが亡くなると, Esquireの9月号に作家の母親の死を描いだAn Author's

Mother"を発表するが,この作品は母親が亡くなる以前に創作されており準備されていた

「死亡記事」ということができよう。母親への反発心が強かったFitzgeraldであるが

                                          38)Turnbullによれば「母親に対する若い頃の反抗心は,母の晩年には,いくらかやわらいで」

いた。作品では母親を(黒い絹の洋服を着て,どこかの帽子屋が彼女の落ちた視力を利用した。

                             39)途方もない高い王冠の帽子をかぶった,人目を引く老齢の淑女」と滑稽に描いていることや転

んで頭をうったためのとんちんかんな会話以外は母親の息子を誇らしく思う気持ちが描かれ,

作家の母親への尊敬も窺がわれるのだが,母親が息子の作品名を思い出せずに見当違いの作品

名を息子の作品だと述べて死んでいく最後のシーンを捉えるとFitzgeraldがMaryに代表さ

れる「母親」との距離や相いれない世界を示していることが捉えられる。6月に脳卒中で倒れ

た母親を病院に移した後,母親の身の回り品を整理したFitzgeraldは妹への手紙で母親を顧

みて「お母さんと僕とは片意地なところしか共通点がなかったけれどあれやこれや見ているう

ちに,あんなにもお母さんを不幸にしたのがお母さんの気性のせいだということや,無理して

手にした幸せな日々をしのぶ品々に最後までどんなに執着していたかが分かって,気も動転す

る思いでした。だから,あの敷物まで含めて,何一つ捨てるに忍びない気持ちです。みんな残

      mしておきます」と母への愛情を記しており,「母親」からの完全な独立が捉えられる。

 Fitzgeraldは一時的に30年代に適したような女性を描いたが母親の死後に描く作品では男

女の不毛の愛か描かれ,徐々に作品からは恋愛の対象としての女性が姿を消していく。 “An

Alcoholic Case" (1937)では自らの問題を取扱い惨めなアル中患者に自分を投影している。

作品は付き添いの看護婦からみたアル中患者が描かれて二人の間には友情らしきものが芽生え

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                 藤 谷 聖 和

るが,死を見つめているアル中患者の心の内面にまでは看護婦は入っていけず,ただみまもる

だけである:「彼女(看護婦)は死というものを知ったーそれまで死の・ことを耳にしたり,

まぎれもない死の匂いを見たことはなかった。彼女はその男がバスルームの片隅に死を見てい

るのを知った。死はそこに立って,弱々しい咳をして唾をズボンのひも飾りにこすりつけてい

           41)る男を見つめているのだ」。死を間に置くことにより男女の愛情が成立しない設定は,同じ時

期に書かれたThe Long Way Out" (1937)にも捉えられる。精神分裂症で入院していた妻

が退院するので迎えに行く途中,その夫が交通事故で亡くなる。病院側は妻の病気が悪化しな

いようにと事実を伏せておき,精神病の妻が夫の迎えをずっと待っているという設定である。

これもFitzgeraldが精神病で入院中の妻Zeldaや自分自身を題材に描いており,登場人物の

King夫妻にはお互いに愛情はあるが精神病の妻は夫の死を感じることもできず,アル中患者

の男同様に愛情には無感覚になっている。

 Fitzgeraldの作品に男女のlove storyが復活するのぱDesign in Plaster"(1939)で,

以後ぱThree Hours Between Planes"(1941), "News of Paris-Fifteen Years Ago"

(1947,死後に出版)で描かれる。HigginsはSheilah Grahamとの関係にlove storyの復活

         42)の原因を捉えている。 Sheilahは若い頃のZeldaそっくりでThe Last Tycoonにも亡くなっ

た妻に似た女性Kathleenに出合う設定がとられ「亡くなった夫人の顔が,表情もそっくり,

4フィートと離れていない所から,彼に向かってほのかに微笑んでいた。見慣れた額に巻き毛

がなびき,見覚えのあるまなざしが見返した。〈中略〉唇が開いた一同じなのだ。恐れんば

              43)かりの恐怖が彼の上を走った」と描かれて作品に影響を与えている。ヒロインがDaisyや

Nicoleのように有産階級の働かなくてもいい女性からKathleenのように,職業をもった,

自立した中産階級の女性に変化したのもSheilahとの出会いに一因かおる。 Sheilahは,

Londonの安アパートにLilySheilとして生まれたが女中,売り子,歌劇団員,コラムニス

トと社会階級の階段を登り,アメリカに渡り北米新聞連合のハリウッド担当コラムニストの仕

事を得て活躍していた。 FitzgeraldとSheilahの取り合わせはTumbu11が指摘するように

                                     44)「敗残の小説家と貧民街出身の向上心に燃える女性」の「奇妙な取り合わせで」であった。

Sheilahは教養があるとは言えなかったがFitzgeraldに安らかな落ち着きを与えてくれた。

 しかし,上記の3つの短篇では,いずれも不毛の愛が描かれており,フラッパーと悲しき若

者の不毛の愛と比較してトーンが暗い。 “Design in Plaster" では貞操を守ろうとする妻への

嫉妬が,妻を不倫にはしらせることになる夫,“Three Hours Between Planes" では飛行機

の乗り替えの3時間を利用して少年時代に思いをよせた女性を訪ね,歓迎を受けるが彼女が自

分を他人と混同していたことが分かりむなしく帰っていく中年男性,“News of Paris-

Fifteen Years Ago"では理想の女性と思ったフランス人女性の理想が余りにも俗物的であ

ることが分かり幻滅し故国へ帰るアメリカ人の青年が描かれて未来が感じられない人物ばかり

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             F.Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女性像の変化

である。 1939年からOberとのエージェント関係を断ち自らエージェントとなって諸雑誌の

編集者に作品を売り込もうとしてもうまくいかず,FitzgeraldはTumbuIIが指摘するように

                            45)「金になるような恋愛物語の書き方にうとくなっていた」のである。

 Fitzgeraldに金持ちの美女のフラッパー娘を描かせたのは「全能の母親」に象徴される

Fitzgeraldの満たされない自我であったが,「全能の母親」からの離脱はフラッパーの崩壊を

描かせたのであった。母親Maryや「母親JZelda離れを示してくれるのがバジル物やジョゼ

フィーヌ物でFitzgeraldの自己の確立が捉えられる。母親とは死によって距離を隔て, Zelda

とはアメリカ大陸という広大な距離を隔ててFitzgeraldは晩年を過ごした。母親Maryには

変人のようなところがありFitzgeraldは嫌っていたが晩年にはいくらか和らいで,自分のバ

                                  46)イタリティの源泉は母親にあり,「大いに彼の創造的資質に関係していた」ことを知るように

なるのである。 Zeldaにしても,彼女の「男女」的な気質,張り合おうとする気質を

Fitzgeraldは嫌っており,彼女の発狂による別居で自分自身を見つめ,自己の確立を計って

おり,晩年にはZeldaへの憎しみもうすらぎZeldaの担当医への手紙で「もう二度と自ら彼

女の身柄を引き受ける気持ちはありません。そうした期間は終わりましたし,会うその度ごと

に,彼女にとって私が最善の人間というよりむしろ最悪の人間になってしまうようなことが自

分の身にふりかかってくるのです。しかし私の全てではないにしても彼女を哀れに思うことに

変わりはありません。深い疼きとでもいいましょうか2, 3時間以上と私の心から去るこ

とのないーかつて私か愛し,もう二度とは持てないほどの幸せを共にした,美しき子供に

         47)対する疼きなのです」とZeldaへの愛情が見られる。 しかし「美しき子供に対する疼き」と

述べているように妻としてのZeldaの存在はもはや見られない。「全能の母親」たる母親

Maryや妻Zeldaとの訣別は作品からフラッパーを追い出し,強い男性を登場させたが同時に

“Author's House"で述べられているように(消防士や兵隊になるかわりに作家にさせてく

                     48)れた青年時代や幼児時代の複雑で暗い混合物」や(両親の子供でなくて世界を支配する王の子

    49)供である」という自己愛も「全能の母親」の死とともに失ない,恋愛小説の創造力をも失なっ

たのではないか。「全能の母親」はFitzgeraldにとって両刃の剣であったのだろうか。

 本稿は第61回日本英文学会(青山学院大学, 1989年5月)にSymposia (「F. Scott Fitzgerald

の短篇をめぐって」)で発表したものに大幅に加筆修正したものである。

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藤  谷 聖 和

Notes

1)John A. Higgins,F. Scott Fitzgerald:A Study of the Stories(New York : St. John's

 University Press, 1971), p.130.

2)寺沢みづほ,「彼はなぜ金持ちの美女に魅かれるのか?」,『ユリイカ』12 (東京:青土社, 1988),

 pp. 106-113.

3 )Ibid., p. 108.

4)Andrew TurnbuU ed., The Letters of F. Scott Fitzgerald(New York : Scribners, 1962),

 p. 5.

5)寺沢, p. 109.

6)Ibid., p. 111.

7)F. Scott Fitzgerald,“Author's House," Atemoon of an Author (New York : Scribners,

 1968), p. 185.

8)寺沢, pp. 109-110.

9)Ibid., p.110.

10)Ibid.

11)Ibid., p.111.

12)Ibid., pp.110- 111.

13)Ibid., p. 112.

14)Nancy Milford, Zelda : A Biography (New York : Harper and Row, 1970), p.171.

15)Ibid., p. 180.

16)Ibid., pp. 261-262.

17)Ibid., p. 228.

18)Andrew Turnbull, F. Scott Fitzgerald(New York : Scribners, 1962), p. 259.

19)Ibid.

20)lbid。p. 261.

21)F. Scott Fitzgerald,“The Swimmers," Bits of Paradise (London: Bodley Head 1973), p.

 196,

22)Fitzgerald, "Winter Dreams," The Stories of F. Scott Fitzgerald(New York : Scribners,

 1969), p. 145.

23)Milford, p. 272.

24)Fitzgerald, "A Woman with a Past," The Basil and Josephine Stories (New York:

 Scribners,1973), p.230バ:以下,作品からの引用は括弧内の数字で示す。特に断らない限り引用は

 論文中で扱っている短篇からの引用頁数。)

25)Milford,p. 109.

26)Constance Drake, “Josephine and Emotional Bankruptcy," Fitzgerald/Hemingway Annual

 1969 (Washington, D. C,:NCR Microcard Editions, 1969), p. 7,

27) Fitzgerald, F. Scott Fitzgerald's Ledger (A Facsimile)ed. Matthew J. Bruccoli

 (Washington : Bruccoli Clark/NCR Microcard Books, 1973), p.170.

28)Fitzgerald, The Notebooks of F. ScoU Fitzgerald ed. Bruccoli (New York&London:

 Harcourt Brace Jovanovich/Bruccoli Clark, 1978),#1378, p. 205.

29)F. Scott Fitzgerald, p.87.

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F, Scott Fitzgeraldの短篇に於ける女性像の変化

30)John Kuehl, ed。The Apprentice Fiction of R Scott Fitzgerald 1909-1917(New

 Brunswick : Rutgers University Press,1965),p.m.りう

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 To Scottie(July, 1938), Letters, p.32.

 Fitzgerald, "Two Wrongs," The Stories of F. Scott Fitzgerald (New York : Scribners,

1969), p.304.

 Milford, p. 115.

 Zelda Sayer Fitzgerald, Save Me the Waltz (Carbondale : Southern Illinois University

Press,1974),p. 124.

 Milford, p.142.

  Bruccoli, Some Sort of Epic Grandeur (New York&London : Harcourt Brace

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 Letters, p.118.

 F. Scott Fitzgerald, p. 280.

 F. Scott Fitzgerald, "An Author's Mother," The Price Was High ed. Matthew J.

Bruccoli(New York&London: Harcourt Brace Jovanovich/Bruccoli Clark, 1979), p.736.

 To Mrs. Clifton Sprangue (June, 1936),Letters, p. 535.

 Fitzgerald,“An Alcoholic Case," The Stories of F. Scott Fitzgerald, p.442.

 Higgins, p. 168.

 Fitzgerald, The Last Tycoon (New York : Scribners, 1970), p.26.

 F. Scott Fitzgerald, p. 288.

 Ibid.,p. 300.

 Ibid.,p. 280.

 Ibid.,p. 291.

 “Author's House", p.184.

 Ibid.,p. 185.

                        Bibliography

Books by Fitzgerald

Afternoon of an Author, ed. Arthur Mizener. New York : Scribners, 1968.

The Apprentice Fiction of F. Scott Fitzgerald, ed. John Kuehl. New Brunswick: Rutgers

 University Press, 1965.

The Basil and Josephine Stories, ed. Jackson R. Bryer and John Kuehl. New York:

 Scribners, 1973.

Bits of Paradise, ed. Matthew J. Bruccoli and Scottie Fitzgerald Smith.London:Bodley

 Head, 1973.

F. Scott Fitzgerald's Ledger (A Facsimile), ed. Matthew J. Bruccoli. Washington : Bruccoli

 Clark/NCR Microcard Books, 1973.

The Last Tycoon. New York : Scribners, 1970.

The Letters of F. Scott Fitzgerald, ed. Andrew Turnbull. New York : Scribners, 1963.

The Notebooks of F. Scott Fiizgerald, ed. Matthew J. Bruccoli. New York&London

 Harcourt Brace Jovanovich/Bruccoli Clark, 1978.

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藤  谷  聖  和

The Stories of F. Scott Fitzgerald, ed. Malcolm Cowley. New York : Scribners, 1969.

Books by Zelda Fitzgerald

Save Me the Waltz. Carbondale : Southern IllinoisUniversity Press, 1974.

Principal Works about Fitzgerald

Biography and Memoirs

Bruccoli, Matthew J. Some Sort of Epic Grandeur. New York&LondonHarcourt Brace

 Jovanovich/Bruccoli Clark, 1981.

Turnbull, Andrew. Scott Fitzgerald. New York : Scribners, 1962.

Biography and Memoirs about Zelda Fitzgerald

Milford,Nancy. Zelda : A Biography. New York : Harper and Row, 1970.

Critical studies on Fitzgerald

Higgins, John A. F. Scott Fitzgerald: A study of the Stories. New York : St. John's

 University Press, 1971.

Journals

Fitzgerald/Hemingway Annual 1978. Detroit : Gale Research, 1979.

『ユリイカ』12.東京:青土社 1988.

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