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1 Piff et al ., 2015; Stellar , et al ., 2015 Positive- awe Threated-awe Threated- awe Olivola & Shafir , 2013 Takano , Nomura , 2018 210 第五部 身心変容の科学

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Page 1: バイアスを理解する歴史の視点cogpsy.educ.kyoto-u.ac.jp/member/pdf/... · 恐ろしくとも︑恐怖ばかりが続くものではなく︑と 身体技法を述べる︒その上でバイアスから逃れる術としての向性のみならず︑歴史性の観点からひも解く必要性る心のバイアスは︑そのときどきの状況・状態・志への影響を明らかにする︒続いて集団間葛藤にいたは畏敬のバイアスとしての

恐ろしくとも︑恐怖ばかりが続くものではなく︑と

きに歓喜との間を行き来する︒畏敬の念は精神的高

揚をともなう︑ある種の運動を特徴とする︒本論文

は畏敬のバイアスとしての側面に着目し︑攻撃行動

への影響を明らかにする︒続いて集団間葛藤にいた

る心のバイアスは︑そのときどきの状況・状態・志

向性のみならず︑歴史性の観点からひも解く必要性

を述べる︒その上でバイアスから逃れる術としての

身体技法︵ヨーガや瞑想︶に着目し︑精神世界と近代

科学の手法とを融和した将来の研究方向を提示する︒

1畏敬の念

道徳教育は︑教育基本法及び学校教育法に定め

られた教育の根本精神に基づき︑人間尊重の精神

と生命に対する畏敬の念を家庭︑学校︑その他社

会における具体的な生活の中に生かし︑豊かな心

をもち︑個性豊かな文化の創造と民主的な社会及

び国家の発展に努め︑進んで平和的な国際社会に

貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成する

ため︑その基盤としての道徳性を養うことを目標

とする︒

︵﹁学習指導要領﹂第一章総則︑傍線は著者︶

これは小学校・中学校・高等学校すべての総則に

記されている文言である︒道徳教育の根幹を成す重

要な概念として﹁畏敬の念﹂が明確に打ち出されて

いることがわかる︒

その雄大な自然と相対したときに抱く感情︑新た

な体験によっても世界観は更新され︑変容のきっか

けとなる﹁畏敬の念﹂は︑従来美学や修辞学の文脈

で﹁崇高﹂として取り上げられ︑心理学においても

実証研究が展開している︒例えば︑畏敬の念は時間

知覚を変容させることにより︑利用可能な時間が十

分にあるという感覚をもたらし︑所有物の寄付︑あ

るいは公平な分配などの向社会的行動を促進する︒

のみならず個人の良好な健康状態をも予測するなど

のポジティブな効果をもたらし︵Piff et al ., 2015; Stellar ,

et al ., 2015

︶︑自分はちっぽけな存在であるという自覚

のもと︑物質的︑利己的︑即時的な囚われから自己

を解放する︒その一方で畏敬は二種の類型︑“Positive-

awe ”

と“Threated-awe ”

に大別され︑後者の“Threated-

awe ”

は︑無力感を媒介し︑主観的幸福感の低下を招

くなどの影響も示されている︒こうしたネガティブ

な知見はごくわずかではあるが︑畏敬の生じる過程

において︑﹁存在脅威管理理論﹂をふまえるならば︑

従来のスキーマ︵知識・信念体系︶の更新の必要に迫

られる圧倒的な刺激のもと︑その更新が困難で︑か

つ自身への脅威として捉えられるために︑攻撃的行

動さえも生じる可能性がある︵野村︑二〇一七︶︒こ

のことは利他性と攻撃性の両者にかかわるホルモン

︵オキシトシン︶の振る舞い︑あるいは攻撃行動とな

って現れる自己犠牲が︑利他性と表裏一体であるこ

と︵O

livola & Shafir , 2013

︶等とも符号する︒これまで

に特定の条件において攻撃性を喚起しうることを報

告してきたが︑次節で紹介するように新しい因子も

見つかりつつあるので紹介したい︵Takano , N

omura ,

2018

︶︒

バイアスを理解する歴史の視点―個人・集

団間葛藤の予防に向けた予備的考察Ⅲ

第五部❖身心変容の科学

野村理朗

京都大学大学院教育学研究科准教授/教育認知心理学

210

第五部 ❖身心変容の科学

Page 2: バイアスを理解する歴史の視点cogpsy.educ.kyoto-u.ac.jp/member/pdf/... · 恐ろしくとも︑恐怖ばかりが続くものではなく︑と 身体技法を述べる︒その上でバイアスから逃れる術としての向性のみならず︑歴史性の観点からひも解く必要性る心のバイアスは︑そのときどきの状況・状態・志への影響を明らかにする︒続いて集団間葛藤にいたは畏敬のバイアスとしての

2畏敬の光と影

まず︑国内での畏敬にかかわる研究は萌芽的段階

にあり︑わずかではあるが︑高次感情に着目した意

味構造分析により﹁畏敬﹂と﹁畏怖﹂の構造が異な

ること︑後者は恐怖の要素が強いことが示されてい

る︵武藤︑二〇一四︶︒ただしそのいずれもが対人関

与的感情︵尊敬︑尊重等︶としての検討であり︑自然

環境等を源泉とする﹁畏敬﹂にかかわる実験研究の

国内の取り組みは大きく遅れている︒

そこで成人四三二名︵女性二五六名︑M

age=38 .9±10 .4

︶を対象として“Positive-awe ”

と“Threated-awe ”

各々の画像︵絶景もしくは津波等︶を提示し︵図1︶︑

回想法による記述︑一六種の高次感情︵畏敬︑畏怖︑

恐怖︑尊敬等︶の九件評価︑﹁畏敬﹂と﹁畏怖﹂の二

択によるラベリング課題等を実施した︵Takano and

Nom

ura , in preparation

︶︒その結果︑“Threated-awe ”

に対

しては﹁畏怖﹂︑“Positive-awe ”

においては﹁畏敬﹂と

﹁畏怖﹂の両者が同程度に対応することが見出された

︵図2︶︒さらに“Positive-awe ”

の源泉の内訳としては自

然:八九名︑自然災害:五一名︑他者:一九名︑宗

教的・神秘的体験:一八名︑その他:三九名︑

“Threated-awe ”

に関しては自然:二六名︑自然災害:

一三七名︑他者:三〇名︑宗教的・神秘的経験:七

名︑その他:一六名という︑両者で異なる傾向が確

認された︒本稿では以降︑畏敬と統一して表記する

が︑少なくとも﹁畏敬﹂あるいは﹁畏怖﹂という用

語の概念︑意味構造︑そのもたらすイメージや機能

が異なる点に留意する必要があるといえよう︒

すでに述べたように︑畏敬は︑寛容性をもたらす

一方で︑特定の条件がそろうことにより︑対決姿勢

を促し︑紛争の発生・激化の一因となりうる可能性

がある︒その現れをさらに検討すべく成人三六名︵女

性一五名︑M

age = 21 .73±2 .80

︶において︑視覚刺激︵大

自然等︶により畏敬を導入し︑統制条件による影響

と比較検討した︒その結果︑主観的に感ずる〝自己

の大きさ〟を評価すると︵図3︶︑畏敬の念のもとで

〝自己が縮小する〟こと︑対象が外集団であるときに

攻撃行動が生じやすくなり︑その程度は個人の気質

︵経験への開放性︶や保守的傾向等により影響される

ことを確認した︵Takano and N

omura , 2018

︶︒

竜巻︑噴火︑津波等は見るもののうちに“Threated-

awe ”

を喚起し︑ときに死を連想させる︒自身の存在

を脅かしかねないこうした恐怖︵存在論的恐怖︶は︑

外集団に対する排他的な防衛反応に結びつくことが

知られている︒ただしこうした西欧圏での実験や質

問紙調査研究の結果とは逆に︑アジア系アメリカ人

図1 課題に使用した“Positve-awe”と“Threated-awe”の画像例

図2 “Positve-awe”と“Threated-awe”に対する用語として「畏敬」あるいは「畏怖」が適切とおもう割合

図3 Small Self——自身の存在感を円の大きさにより評価する(Bai et al., 2017を改編)

A B C D E F G

211

バイアスを理解する歴史の視点―個人・集団間葛藤の予防に向けた予備的考察Ⅲ

Page 3: バイアスを理解する歴史の視点cogpsy.educ.kyoto-u.ac.jp/member/pdf/... · 恐ろしくとも︑恐怖ばかりが続くものではなく︑と 身体技法を述べる︒その上でバイアスから逃れる術としての向性のみならず︑歴史性の観点からひも解く必要性る心のバイアスは︑そのときどきの状況・状態・志への影響を明らかにする︒続いて集団間葛藤にいたは畏敬のバイアスとしての

においては︑むしろ他者に対して協調的・融和的な

態度が導かれる︵M

a-Kellams &

Blascovich , 2011

︶︒こう

した文化によって異なる自己観は︑攻撃行動にどう

作用するのだろうか︒我々は﹁死﹂の観念と文化的

自己観︵C

ultural Self Construal

︶とのかかわりについて

成人一一八名︵女性四五名︑M

age =18 .6±1 .8

︶を対象

に検討した︒実験では死の観念を喚起し攻撃性を金

銭の分配課題︵IPD

-MD

: intergroup prisoner ’s dilemm

a-

maxim

izing differences game

︶により数量化した︒この課

題でははじめに三名ずつの二つの小集団を形成し︑続

いて各参加者は︑自身に委ねられた金銭の分配を︑次

の三つから選択する︒①金銭を配分せず︑自身のみ

のものとする︑②自分の所属するメンバー︵内集団

成員︶にのみ配分する︑あるいは③内集団成員に配

分しつつ︑かつもう一方のグループのメンバー︵外

集団成員︶の所有金額を減ずる︵攻撃性の指標︶︑上記

項目の各々に投ずる金額を決定する︒実験の結果︑

集団表象を活性化し︑死を顕現化するなどの操作を

することにより︑外集団への攻撃的な選択が増加し︑

そうした傾向は相互協調的自己観が高い個人におい

てみられることが確認された︵図4︶︒相互協調的自

己観の高い個人が比較的多い日本において︑外集団

への攻撃的な姿勢が生み出されるそのプロセスの一

端を示す結果である︒

もとより共感はフラットなものではなく︑そこに

は濃淡があり︑内集団に偏ることを基礎とする︒共

感対象である家族︑身近な友人︑あるいは所属する

集団︵会社・民族・国家等︶を﹁ウチ﹂とするならば︑

その﹁ソト﹂に対して︑特定の条件下において︑畏

敬は︑攻撃性を高めるバイアスとなりうる︒

そうした﹁ソト﹂への恐れは︑仮に生じていない

ように見えるものであったとしても︑何らかのきっ

かけにより︑徐々に露あ

らわ

になることもある︒その現れ

は個人レベルでの知識・信念・目標にもとづくのみ

ならず︑歴史的なコンテクストのもとで潜在的に作

用しうるといえるだろう︒以下︑ルワンダの例をと

りあげ︑﹁ソト﹂へのバイアスを理解する上で︑歴史

的なコンテクストを視野にいれる必要性についての

〝議論の端緒〟としたい︒

3ウチとソト―歴史のもたらすバイアス

一九九四年のジェノサイドのあった〝ツチ族〟と

〝フツ族〟間の紛争︑それら民族の呼称の使用は現在

禁じられており︑いずれも同じくルワンダ人と称さ

れる︒近年にクローズアップするならば︑民族上の

﹁ウチとソト﹂にかかわる紛争は見当たらない︒こう

した平和的な共存関係は︑現政権︵ルワンダ愛国戦

線:RPF等の連立政権︶のもと︑今日にいたるまで

二〇年以上も維持されている︒もとよりツチ族とフ

ツ族は︑同じ言語・宗教を有しており︑生活圏も混

在していたために明示的な区分はなかった︒ところ

がベルギーにより植民地政策が進められ︑当局が両

民族に身分証を発行するなどの手段による支配体制

の確立をはかった結果︑それが火種となり︑植民地

支配からルワンダが独立して以降の民族間紛争が生

ずるにいたった︒ツチ族が中心となって運営した政

権が転覆したのち︑隣国のウガンダに逃れたツチ族

難民が結成したRPFがルワンダに侵攻したのが一

九九〇年︑その四年後にはフツ族のハビャリマナ大

統領が暗殺されるなどいくつかの事態を経て︑フツ

パワー︵H

utu Power

︶と呼ばれるイデオロギーが広が

りゆくなか︑両民族の対立は深刻化し︑一九九四年

に民族間のジェノサイドへといたった︵月村︑二〇一

三︶︒すでに述べたとおり︑近年のルワンダをクロー

ズアップするならば秩序と平和が保たれており︑そ

れは権威主義的な政権によって維持されている側面

はあるものの︑経済的な発展も目覚ましく︑集団レ

ベルでの﹁ウチとソト﹂との対立はない︒

こうした静けさは︑同様に︑ナチスによるユダヤ

人に対する迫害以前にもあった︒当時︑世界的に最

もリベラルとされたヨーロッパにおいて︑多少の差

別がありながらも︑ときに国家の中枢においてユダ

ヤ人が権力を発揮するなどの場面もあった︒そこか

らホロコーストにまで至るナチスの過激化の過程で

は︑アーレントにより﹁悪の陳腐さ﹂と形容された

0

100

200

300

400

500

600

MS-IND MS-COL

Out

-Gro

up H

ate

condition

Low Interdependent SC

High Interdependent SC

= .30, p = .03

図4 集団的表象を喚起すると、死が顕現化するなかで、相互協調的自己観が高い個人において、外集団への攻撃的行動が生じる

212

第五部 ❖身心変容の科学

Page 4: バイアスを理解する歴史の視点cogpsy.educ.kyoto-u.ac.jp/member/pdf/... · 恐ろしくとも︑恐怖ばかりが続くものではなく︑と 身体技法を述べる︒その上でバイアスから逃れる術としての向性のみならず︑歴史性の観点からひも解く必要性る心のバイアスは︑そのときどきの状況・状態・志への影響を明らかにする︒続いて集団間葛藤にいたは畏敬のバイアスとしての

人物︑戦争がなければごく普通の職務に忠実な小役

人であっただろうアドルフ・アイヒマンが中心を担

ったとされる︒

完全な無思想性︱これは愚かさとは決して同じ

ではない︱︑それが彼があの時代の最大の犯罪

者の一人になる素因だったのだ︒

︵ハンナ・アーレント︑一九六九︶

バイアスは︑日常的に潜在的に作用する人間の本

性の現れともいえよう︒その本性は︑善悪というふ

うに単純に二分できるものではない︒なぜならば長

い進化という時間スケールのなかで︑人間が環境と︑

あるいは他者と相互にかかわる中で︑無意識的かつ

素早い情報処理を促す機構として︑個人の適応を促

す淘汰圧のもとで備えてきたものだからである︒

畏敬は︑生まれながらにして備わっているもので

はなく︑本性に根ざしつつ︑徐々に形成されてゆく

ことを基礎とする︒学習指導要領に涵養すべき道徳

性の根幹とされるとおりである︒

﹁天台本覚思想﹂における﹁本覚﹂はもとより︵先

天的に︶覚っていることとされ︑修行を通じて︵後天

的に︶覚る﹁始覚﹂と区別される︒本論で取り上げ

たバイアスは︑おおよそこの本覚に相当するだろう

か︒同時に本覚は︑﹁聞く﹂﹁信ず﹂﹁解す﹂ことによ

る修行を重視する︒すなわち自らに内在するバイア

スに気づき受容しつつ︑実践を通じて﹁畏敬﹂から

生じる自らの言動を十分に精査してゆくことが肝要

である︒本論で明らかにしつつある畏敬の負の側面

をふまえるならば︑その絶妙なバランスをとるため

の〝畏敬の行〟は宗教的課題としても重要な位置を

占める︵鎌田東二氏︹上智大学グリーフケア研究所特任

教授︺の指摘による︶︒その〝行〟の継続により︑集

団間葛藤の予防の急所の一つを見出すことができな

いだろうか︒

4バイアスからの解放―瞑想・ヨーガ

などの身体技法

離れる︑止める︑放す︑捨てる︒脱中心化あるい

は止

ニローダと

も呼ばれる状態は︑バイアスから逃れる手立

ての一つである︒例えばマインドフルネス︑瞑想・

座禅あるいはヨーガ等は︑近年︑心理学・健康科学・

神経科学等の多様な研究領域の関心を集めつつ︑そ

の機能・効能にかかわるエビデンスの多くが示され

つつある︒

前後するが︑筆者は二〇一一年にヨーガと出会っ

た︒腰痛緩和というプラクティカルな目的のもと︑特

定のポーズを日々継続するなかで腰痛は再発するこ

となく︑やがてヨーガの指導者︵倉田信行氏︶に師事

するなかで︑深い呼吸にともなうポーズを通じた主

客一致の感覚も楽しめるようになってきた︵初心に

て日々実践中︶︒二〇一七年は︑ジャイプール︵イン

ド︶にて教育機関を視察し︑ヨーガと瞑想の実践が

道徳教育の一環として定着していることを確認した︒

そこにいかなるヒントが潜んでいるのか︒先の縁に

より︑インドとの教育・研究面での連携に着手した

ところであり︑今後その進捗についての報告の機会

をみたい︒

身体感覚は︑これを有する主体により認識される︒

自らの呼吸を対象化し︑注意を継続するときに実現

する﹁集中瞑想﹂︑あるいは身体感覚をスキャンする

ことによる﹁洞察瞑想﹂︵Lutz et al ., 2008

︶︒そのいずれ

のタイプの瞑想もが︑脳のデフォルトモードネット

ワーク︵D

MN

: Default m

ode network

︶に作用し︑その

活動低下という形で現れる︒DMNの機能をふまえ

るならば︑瞑想中に︑自己再帰的な︵過剰な︶内省

状態が低下していることの証左である︒こうした瞑

想中の脳活動について︑筆者らのグループは︑﹁集中

瞑想﹂にともなう注意の制御にかかわる脳ネットワ

ークの活性化︑および﹁洞察瞑想﹂による過去のエ

ピソード記憶を表象する脳ネットワークの活動低下

等を見出した︵Fujino et al ., in subm

ission

︶︒得られた結果

の意味することは︑過去のエピソードから離れるよ

うな状態が瞑想により実現され︑そこにおいてある

種のとらわれ・バイアスから解放されているという

ことである︒

このように瞑想中の構造・機能が明らかとなって

きた︒重要な進展であるとともに︑今後は上記の二

分法︵集中/洞察︶から一歩踏み込んだ検討が必要と

なるだろう︒例えば︑認識する﹁主我﹂の視座にた

ち自身を観察すると︑対象となる﹁客我﹂の底深く

にある﹁覚﹂︑サーンキヤ哲学で言うところの存在に

気づく︒西田哲学においては﹁平常底﹂に相当する

ものだろうか︒そこからさらに観察を深めると︑﹁覚﹂

を観照する﹁霊我﹂とよばれる視点が備わることに

気づく︒この﹁霊我﹂という表現に抵抗感を覚える

研究者もいるだろうが︑言い換えるならばおおよそ

﹁メタな﹃メタ認知﹄﹂となる︒その視点を個人に内

在化する場合︑あるいは外部存在に求める場合︑そ

こにはいかなる差異が存在し︑いかなる脳︱心︱身

体によって実現しているのだろうか︒内在化した視

点はそのときどきで移り変わるだろうし︑外在化し

たものはある種の準拠枠として機能するだろう︒こ

うした課題のいずれも宗教学︑哲学あるいは歴史学

との連携のもとで︑用語の示す概念・機能の整理・

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バイアスを理解する歴史の視点―個人・集団間葛藤の予防に向けた予備的考察Ⅲ

Page 5: バイアスを理解する歴史の視点cogpsy.educ.kyoto-u.ac.jp/member/pdf/... · 恐ろしくとも︑恐怖ばかりが続くものではなく︑と 身体技法を述べる︒その上でバイアスから逃れる術としての向性のみならず︑歴史性の観点からひも解く必要性る心のバイアスは︑そのときどきの状況・状態・志への影響を明らかにする︒続いて集団間葛藤にいたは畏敬のバイアスとしての

体系化が欠かせない︒それは﹁精神世界﹂と科学あ

るいは﹁近代合理主義﹂とを融合する極めて重要な

チャレンジとなるだろう︒

まとめ

畏敬は道徳教育の要である︒本論文では従来にな

い視点から︑そのネガティブな側面を問うているが︑

畏敬の根幹には︑自然の生命を感じとり︑それとの

繫がりを見出し︑共生すること︑他者とともに生き

る喜びを分かち合うこととの深いかかわりがある︒オ

ットー・フリードリヒ・ボルノーは﹁畏敬すべきも

のは彼に対して威嚇的ではなく︑むしろ友愛的で促

進的に向かう﹂と述べたように︑畏敬は恐怖に含ま

れない︵ボルノー︑二〇一一︶︒と同時に︑畏敬が︑そ

の源泉そのものに対してではなく︑これを感ずる者

の﹁ソト﹂に対して攻撃行動を喚起しうることもま

た事実であるようだ︒そうしたありありとした畏敬

のダイナミズムを︑諸刃の剣ともいえよう性質を止

揚した上で︑二一世紀を生きる力の涵養に活かす必

要がある︒

人間には傾性としてのバイアスが存在する︒これ

を実装するハードウェアに加えて︑個人と環境との

かかわりにおいて形成される個人のエピソード記憶︑

のみならず集団レベルでの記憶が﹁ウチとソト﹂と

を分かつ︒従来心理学においてその研究体系の歴史

は語られることはあったが︑コンテクストとしての

歴史は注視されておらず︑未着手の状態といっても

よい︒その知性はその時代により変わるために︑過

去から未来を予測することはできない︵カール・ホパ

ー︑二〇一三︶︒しかしながら︑比較的限られた期間

における〝トレンド〟は記述可能である︒その予測

に安住せず︑複雑・曖昧・不確実な未来に向けて︑バ

イアスを克己する技法をいっそう深化させる必要が

あるだろう︒

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第五部 ❖身心変容の科学