バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ...

14
バレエにおける演出について バレエにおけ はじめに 本発表は、 バレエにおける演出の独自性を探ることを目的とする。 現在、上演芸術において我々が演出に向ける関心は大きい。 においては実践的な演出論はもとより、演劇記号論やその他作 演劇史などの観点から演出について様々な研究が行われている。パ レエにおいても演出に対する関心は高まっているが、 バレエにおげ る演出とは何か、その内実は必ずしも明瞭ではない。私の知る限り 舞踊関係の辞典・事典、例えば『バレエ音楽百科」にも独立した演 出の項目は存在せず、 バレエ公演のプログラムやビデオのクレジツ トでの表記も一定ではない。表記のされ方には何種類かのパターン があるが、その中でもよく見られるのが、「振付・演出」或いは「演 出・振付」のように演出と振付とが並置されているパターンである。 これだけを見るとバレエにおける演出とは、振付に付け加えられた ちょっとした表現上の工夫、或いは直接振付に 衣装などに限定されるように思われるかもしれない などに見られる演出についての記述は、しばしば装置・ ついてのものである。ことほどさようにバレエにおける演 71 その意味するところが暖昧なまま、無反省に用いられているとい のが現状であろう。以下の考察は、こうした現状においてバレエに おける演出を独自の相の下に明らかにしようとするものである。 考察は、演劇との比較・対照を手掛かりにして行う。その理由は、 演出概念が元々演劇に由来していることもあり、そこから演出の一 つのモデルを取り出すことが可能だからである。尤も以下の考察は、 演劇の演出モデルに全てを帰してしまおうとするものではない。あ くまでもバレエに固有の演出のあり方を探ることが目的である。 考察の対象はストーリー-バレエ て構成された音楽を持つバレエ)とする。比較対象としての演劇は (物語と、 おおむねそれに沿っ

Upload: others

Post on 08-Sep-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

バレエにおける演出について

バレエにおける演出について

はじめに

本発表は、

バレエにおける演出の独自性を探ることを目的とする。

現在、上演芸術において我々が演出に向ける関心は大きい。演劇

においては実践的な演出論はもとより、演劇記号論やその他作品論、

演劇史などの観点から演出について様々な研究が行われている。パ

レエにおいても演出に対する関心は高まっているが、

バレエにおげ

る演出とは何か、その内実は必ずしも明瞭ではない。私の知る限り

舞踊関係の辞典・事典、例えば『バレエ音楽百科」にも独立した演

出の項目は存在せず、

バレエ公演のプログラムやビデオのクレジツ

トでの表記も一定ではない。表記のされ方には何種類かのパターン

があるが、その中でもよく見られるのが、「振付・演出」或いは「演

出・振付」のように演出と振付とが並置されているパターンである。

これだけを見るとバレエにおける演出とは、振付に付け加えられた

ちょっとした表現上の工夫、或いは直接振付には関わらない装置・

衣装などに限定されるように思われるかもしれない。実際舞台批評

などに見られる演出についての記述は、しばしば装置・衣装などに

ついてのものである。ことほどさようにバレエにおける演出概念は、

71

その意味するところが暖昧なまま、無反省に用いられているという

のが現状であろう。以下の考察は、こうした現状においてバレエに

おける演出を独自の相の下に明らかにしようとするものである。

考察は、演劇との比較・対照を手掛かりにして行う。その理由は、

演出概念が元々演劇に由来していることもあり、そこから演出の一

つのモデルを取り出すことが可能だからである。尤も以下の考察は、

演劇の演出モデルに全てを帰してしまおうとするものではない。あ

くまでもバレエに固有の演出のあり方を探ることが目的である。

考察の対象はストーリー-バレエ

て構成された音楽を持つバレエ)とする。比較対象としての演劇は

(物語と、

おおむねそれに沿っ

Page 2: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

重芸術研究第12号 1999

西洋演劇、特に戯曲を上演の基盤とするものとする。よって、或る

種の現代演劇のように俳優の身体的現前に重きを置くものや、

コメ

ディア・デラルテのように即興を特徴とする類の演劇は除外される

ことになる。考察の対象を以上のように限定するのは、

バレエと演

劇の比較・対照がより明らかになることを期してのものである。考

察を進めるに当たって特に着目するのは、上演芸術としてのバレエ

のあり方を制度として支える文化的な枠組みである。

演劇の演出

演出という言葉は、百戸

moERgoというフランス語が示すよ

うに、元々「舞台に載せること」、すなわち上演・舞台化を意味す

る。このような意味においては演劇の誕生以来常に、すなわち十九

世紀末に演出が一つの職能として確立される以前に既に、演出は存

在していたと言ってよい。しかし演出の重要性が演劇内部で自覚さ

れて後、特に現代は、演出家が或る上演を創出する人物として、そ

してその上演が演出家独特の色付けをされたものとして捉えられる

時代、言い換えれば演出家が観客の主な関心の焦点になりうる時代

である。現代に特徴的な演出とは、演出家と呼ばれる人物が、戯曲

についての彼/彼女独自の解釈を行い、

それに基づいて舞台上での

表現を様々に工夫しながら舞台化の作業全体を統御する仕事である。

山内登美雄氏による演劇記号論的記述に置き換えると、演出家の

基本的な仕事とは以下のようになる。すなわち「台本がある場合[今

回の考察の対象となる演劇は、もちろんこれに該当する]、文字とい

う単一記号で書き表されている劇テクストを多記号の上演テクスト

にコード変換する作業の統御者をつとめること」である。演出家は、

劇テクストの精神的内容・諸記号の具体的構造化、両側面に対する

「解釈」によって、舞台に実現しようとする劇世界の性格を想定し、

舞台化の作業方向を決定する。演劇上演の出発点となるのは、この、

「演出家が準備の一切に先立って脳裏に描く劇世界」である。山内氏

自身がパヴィスの用語を引用するところによれば、「演出家(および

彼のコード変換者のチ1ム)によって「読まれた」テクスト、『メタ

{4)

テクスト』」

250zzuazt司円

ES--σ可

poE520円ωロ門HFU宮山

B

mEE052-ogEZ明巳丘:・)である。原文の該当箇所にある

F

72

自己ω官民E

名門戸芹

g=」をあえて「『読まれた』テクスト、『メタテク

スト』」とすることによって、

メタテクストが劇テクストの読みに

よって、

というよりむしろ読みと並行して紡ぎ出されるものである

ことが示唆されている。ここで言うメタテクストは、劇テクストに

基づき、あとは実際に具体化されるばかりのものとして演出家の脳

裏に描かれた劇世界を、具体的な上演に先立つテクストとして捉え

たものである。よりわかりやすく言えば、稽古に移る前に演出家が、

実際に起用される俳優、上演が行われる舞台・ホlル、予想される

Page 3: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

バレエにおける演出について

客層等を念頭に置きながら構想した演出プランということになろう。

このメタテクストの概念を、演劇以外の芸術ジャンルに適用する

ことが可能である。曽根幸子氏は、「映画、写真、絵画を含めた視覚

芸術の中に演出という共通の軸」を見る。特に絵画においては、題

材の中から「場面を設定し、枠づけし、画家の頭の中で人物や事物

の配置が行われていだ」とされる。この、カンヴアスへ移る前に画

家の頭の中でモティ

lフが通過するタプロ

l・ヴィヴァン、カン

ヴアス上で描かれることを前提とした画家の「内的イメージ」をメ

タテクストと考えることが可能である。青木孝夫氏は、「例えば、あ

る周知の物語のテキストを絵になる場面に設定してみること、

それ

は物語テキストから一つの場面を想像し、また場面を構想するとい

う意味でメタテクストの設定であろう」と述べている。このように、

実際の具体化に先立って潜在的な形で構想される作品のイメージと

いうより広い意味で捉えることで、

メタテクスト概念をジャンルを

越えて用いることができる。

以下、

メタテクスト概念をストーリー-バレエの舞台化作業へと

適用してみよう。その際取り上げるのは『ロミオとジュリエット』

である。演劇の『ロミオとジュリエット」もバレエの『ロミオとジユ

リエット』も、

シェイクスピアの戯曲を共通のテクストとする。し

たがってそれがどのように舞台化されているかを見ることによって、

二つのジャンルの特徴が見えてこよう。ただし戯曲は、

バレエにお

いては必ずしも演劇においてと同じように扱われない。厳密に言え

ば、バレエにおける物語と演劇における戯曲とは重なり合うもので

はないのである。演劇における戯曲が、常に舞台化の営みにおいて

立ち戻られるべき基盤であるのに対して、

バレエにおける物語は舞

踊表現のための口実、枠組みとしての性格が強く、しばしばプログ

ラムに記載されるあらすじの域を出ない。戯曲をバレエ化するとき

にも、戯曲のエッセンスをバレエに相応しい形で抽出していると

言った方がよい場合も多い。だがバレエにおいても、戯曲を具体的

表現の立ち上げのために先在するものとして捉えることはできるだ

ろう。以下では、上で述べたようなジャンル聞の違いを念頭に置い

た上でなお戯曲を、演劇、

バレエのどちらにおいても具体的表現の

73

場に先立つテクストとして扱い、考察を進めている。

バレエと演劇のメタテクス卜

今回参考にしたのは、演劇では

BBCビデオの製作セドリック・

メッシナ、演出アルヴィン・ラッコフによるもの(一九八八年)、

ノT

レエでは振付・演出ルドルフ・ヌレエフ、音楽プロコフィエフによ

るもの

(LD、

である。そして全体の中でも特にパル

一九九五年)

コニ

1の場面を取り上げる。演劇、

バレエのどちらにおいても~習

ミオとジュリエット」

の上演には幾つものバージョンがあるが、V

'-

Page 4: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

喜術研究第12号 1999

の場面は二つのジャンルに、

そしてその中の様々なバージョンに共

通した全編を通しての見せ場と言うべきシ

1ンであり、その意味で

も両者の比較・対照を最も明確に行うことができると思われるから

である。

このバルコニーの場面は劇テクストでは第二幕第二場、

キャピュ

レット家の庭園のシ

lンである。その前の場面はキャピュレット家

の仮装舞踏会であり、そこでロミオとジュリエットは運命的な出会

いをする。舞踏会がお聞きになった後真っ直ぐ帰りかねたロミオは、

キャピュレット家の庭園に忍び込み、

バルコニーに一人現れたジュ

リエットと言葉を交わし、愛を誓う。劇テクストでは二人がパルコ

ニーを越えて近づくような指示は一切記されていない。

BBCのピ

デオでは二人はバルコニーと地面というこつの場所におり、最後に

壁をよじ登ったロミオの手がジュリエットの手にわずかに触れるも

のの、全体を通して互いの愛の確認は言葉によって表現されている。

少なくとも二人の聞に一定の距離を想定させる戯曲にかなり忠実な

BBCのこのバージョンにおいては、二人の間で交わされる言葉こ

そが劇を展開させ、この場面の劇的情感を高めている。

一方バレエでは最初こそジュリエットはバルコニーらしき場所に

いるものの、

ほとんどすぐに降りて来る。バルコニーがセットとし

て組まれているバージョンもあるが、このヌレエフ版では、舞台後

方が階段状になっているのみでバルコニーの部分が装置としてはつ

きり区別されてさえいない。ジュリエットは降りてくるやロミオと

手を取り合い、情熱的なパ・ド・ドゥ、二人の踊り手による踊りを

踊る。ダイナミックなリフトの多用、次から次へと追い上げるよう

なパの流れによって、この場面は観客に強い印象を与える。両家の

確執をものともせずに愛をつらぬこうとする情熱の高まりを表現し、

この後の展開を説得力あるものとするのは、二人がバルコニーと庭

園という舞台設定をあえて無視し、居場所を同じくして舞うところ

の舞踊表現である。

もちろん以上の例のみをもってして、演劇の『ロミオとジュリエツ

ト』ではバルコニーのシ1ンで二人が決して大胆に触れ合ってはな

らないと述べている訳でも、

バレエの『ロミオとジュリエット』で

74

はこのシ

lンが必ずパ・ド・ドゥとして踊られねばならないと述べ

ている訳でもない。演劇においてはいわゆる現代的な演出として、

ロミオがジュリエットにキスを迫るバージョンが一九六一年にゼ

フィレリによって上演されており、また二人がバルコニーで寄り

添っている古い写真も(上演時のものかプログラム用に撮ったもの

か定かではないが)残っている。しかしながらここで、

シェイクス

ピアの研究者の

Eロ〈

E0・∞ω昇。円を官泰男氏が引用した箇所を見て

みよう。菅氏が引いているのは、「二人の恋人を(二階舞台と本舞台

とに)引離しておく装置がかえって情熱的な表現を生み出させ、か

(叩)

つ持続せしめる」というの

Eロ〈

E0・回記WRの言葉である。

Page 5: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

バレエにおける演出について

のEロ〈ロ-0

・∞RWRをしてこのように言わしめることを可能にした

のは、家同士の抗争に悩みつつも最終的には秘密の結婚を約するに

至る二人の心の機微を、距離を隔ててなお表現し、劇世界を展開さ

せるものとして言語が持つ力である。俳優の語る言葉は、劇世界進

行の中心的な担い手として、舞台上のあらゆる表現手段の中でも本

質的に優位に立っている。

より一般的な角度からさらに、演劇の上演において本質的な表現

手段である言語について考えてみよう。アリストテレスは「詩学』

において、演劇を、「すべての登場人物をみな行動し現実に活動して

いる者として再現す純」ものとして述べている。ここから佐々木健

一氏は、「この芸術〔演劇〕にあっては、人物が生き身の姿で観客の

一人称的な言葉を語り、それによって劇世界を展

開してゆくことが、そのジャンルの本質規定の中に含まれている」

目の前に現れて、

とする。確かに演劇が上演芸術である限り、「人物が生き身の姿で観

客の目の前に現れ」ることは必要不可欠な条件である。この条件に

は、舞台上で登場人物を演じる俳優が身体的所作を行い、台調だけ

ではなく所作そのものによっても観客に何かを伝えることもが含ま

れている。しかしながら、少なくとも戯曲を核とする西洋演劇は言

語の芸術である。ホンズルのように、俳優の語る台詞を含めた舞台

上のあらゆる表現手段は同等に働きうるとする議論もあるが、佐々

木氏は言語的な表現を非言語的要素に置き換えることができない場

合を指摘し、他の要素によって代替できない言語の優位性について

述べる。機能としては等価であっても、劇世界を担いそれを展開さ

せるのはやはり、俳優が語る台詞という言語的なものである。

『ロミオとジュリエット」においても、元々の二階建て舞台がその

ままバルコニーとなった初演当時の上演から現代のより多様な演出

に至るまで、演劇における表現手段として言語が持っこの本質的な

優位性は貫かれていると見るべきであろう。したがって戯曲を上演

の基盤とするタイプの西洋演劇においては、

メタテクストは、人物

以外の舞台上の表現体をも内包しつつ言語を軸として展開する劇世

界の潜勢態として思い描かれることになる。

バレエにおいてもこのシ

lンがパ・ド・ドゥ以外の形で演じられ

75

ることは可能である。しかし私の知る限りにおいては絶対と言って

よいほど、この場面は二人が手を携えて踊るパ・ド・ドゥである。

又たとえ二人がこの場面の問中離れた場所で演じるような上演の形

であったとしても、二人の心情を表現し場面を進行させていくのは

やはり舞踊的なものであろう。バレエにおいて他のどんな表現手段

メタテクストは舞踊表現を

バレエの舞台

よりも優位に立つのは舞踊表現であり、

軸として構想される。舞踊的メタテクストの創出が、

化の第一歩である。よって後の議論を幾らか先取りして言えば、舞

踊表現を創出する振り付けというプロセスがバレエの舞台化におい

て中心的な働きをすることになる。

Page 6: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

警術研究第12号 1999

だがバレエの上演において舞踊表現が軸となるということは、

ノT

レエがバレエである限り無条件に受け入れられるべきジャンルの特

質なのか。

メタテクストの段階から既に舞踊表現を軸としてバレエ

の上演を構想せしめているのは、

バレエを取り巻く人々のバレエに

対する理解でもあるのではないのか。

バレエの演出

(

一、-'舞踊表現

バレエの舞台化は、

メタテクストの段階から舞踊表現を軸とする。

舞踊表現という言葉によって私が意味しようとしているのは、第一

義的には踊り手に振り付けられるいわゆる「振り」であり、踊り手

が舞台上で遂行することが期待され、

そして実際に行うところの動

きである。それは踊り手が全身で引き受け、

一人、或いは多人数で

行うところのものであり、ダンス・クラシックのパに代表されるよ

うな、名付けられ分類される動きはもちろんのこと、

それ以外の動

きも含む(「振り」は単なる動きの連続であり、それが質的に高めら

れて初めて舞踊表現になるという議論も可能であるが、ここではそ

ういった価値的な意味ではなく記述的な意味を念頭に置いている)。

加えて舞踊表現は、踊り手の身体によって遂行され観客が現に知覚

する現実的・身体的な相と、現実化・身体化されるべく振付家の脳

裏で構想される可能的・想像的な相という二つの相にまたがる。「メ

タテクストの段階から舞踊表現を軸とする」と述べるときに指して

いるのは後者である。振付家は、

その殆どが踊り手としての経験を

持つこともあり、脳裏に思い描く振りを自らの身体感覚でもって極

めてリアルに感じることができる。バレエの舞台化において核とな

り、根本的に上演を支配するのはこうした舞踊的なものである。

確かに、これまで常にバレエが総合芸術として語られてきたこと

バレエの上演を構成する様々な要素は有機的

からもわかるように、

に結びついている。例えば今世紀初頭にバレエ・リユツスにおいて

独特な形で見出された他ジャンルの人々との協働は、今日でも劇場

スタッフとの協働において見ることができる。だがバレエの上演の

76

論理は舞踊の論理である。他の要素は舞踊表現に奉仕する。これは

一方で舞踊そのものが持つ力に大きく負っている。松津慶信氏が述

べるところの「舞踊の力学」が、バレエにおいては作用しているの

である。

(

一一)

バレエ共同体

しかしながら、

バレエにおける中心的な表現手段を舞踊表現とし

ているのは、舞踊そのものが持つ力ばかりではない。

バレエが踊り

によって全てを語るものとして了解されたのは、

およそ十八世紀以

降である。科白や歌なしで踊りだけでバレエの内容を表現しようと

Page 7: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

パレヱにおける演出について

する動きが最初に現れたのは、十七世紀末から十八世紀初頭にかけ

てであった。特に有名なのは、ウィ

lヴァーによる『マ

lスとヴィー

ナスの愛』(一七一七年)である。この作品自体はあまり反響を呼ば

なかったらしいが、これを含んだ幾つかの作品を先駆けとして、特

にバレエ・ダクシオンが提唱された十八世紀半ば以降、バレエは他

の表現媒体から独立していった。以来バレエを取り巻く人々が、あ

らゆる要素の軸となって物語を展開させるものとして了解するのは、

舞踊表現であると言っていい。バレエの中心的な表現手段が舞踊表

現であるということは、舞踊そのものが持つ力だけでなく、文化的

な枠組み、制度的なものによっても支えられている。具体的に言う

ならば、

バレエの上演に様々な立場から関わる人々からなるバレエ

共同体の営みによって、

である。

芸術を取り巻く制度的なものについて考察を進めるために、

デイツキ1の制度理論を援用しよう。デイツキ

lは、「今私が制度的

アプローチによって意味しているのは、或る芸術作品が芸術である

それが或る文化的営みの内部で占める位置のためであるとい

う見方である。」と述べる。そしてその内部で或るものが芸術作品と

のは、

して創り出され呈示される制度、「芸術作品が芸術であるのが、芸術

作品がその内部で占める位置或いは場所の結果としてであるところ

の、或る確立された営み」をア

1トワールドと呼び、絵画・演劇の

ような個々の芸術ジャンルに相当し、そのジャンルの芸術作品が芸

術作品として創り出され呈示される枠組みをアlトワールド・シス

テムと呼ぶ。ア1トワールドはあらゆるア

lトワールド・システム

の全体であり、

アートワールド・システムは、

アートワールドの下

位システムとして働いている。

バレエは、舞踊というアlトワールド・システムの下で、

さらに

下位のシステムを形成しており、その構成員はバレエ共同体に属す

ると言うことができる。バレエ共同体の具体的な成員としては、振

付家、踊り手、舞台関係者などからなる芸術家と公衆、そして両者

の関係を補完し媒介する批評家、教師などが挙げられる。

ただしバレエ共同体は幾つかの点において均質かっ一枚岩的な構

造を持つものではない。先ず、全体の傾向をリードする部分とそれ

77

に従う部分とでは知識や関心に大きな幅がある。

バレエ共同体の中

枢をなすのは、上演の鑑賞やよりアカデミックなアプローチを通し

てバレエに造詣の深い人々や、自ら経験を積んだ踊り手、教師たち

である。バレエ共同体は、これらの人々を中核に据えた極めてヒエ

ラルキカルな構造を持っている。

次に、地域性・歴史性を考慮する必要がある。現在バレエは世界

各地で上演されているが、人々のバレエに対する姿勢、

バレエの捉

え方は様々な歴史背景・文化を持った国や地域によって異なる。

つの例として日本を考えてみよう。日本にバレエが入ってきたのは

およそ二十世紀初頭とされる。以来我々日本人はバレエを受け入れ、

Page 8: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

警術研究第12号 1999

着実にバレエ人口を増やしてきた。だがバレエの踊り手であること

が職業的選択肢の一つとして確立している海外の国々に比べて、日

本ではバレエは職業としてというよりはむしろお稽古事的な性格を

強く持つものとして捉えられている。最近ようやく国立のバレエ団

が設立されたが、日本国内では、少なくとも女性の踊り手が踊るこ

とを生業とすることは極めて難しいというのが暗黙の了解となって

いる。ま

たバレエ発祥の地であるヨーロッパ、さらにはアメリカを含む

西洋諸国を本場とする意識が、人々の意識の中に根強く存在し続け

ていることも見逃せない。確かにバレエ関係者の国際的な交流が盛

んな現在にあっては、状況は変化しつつあるのだろう。だが、若手

の育成を目指して催されるロ

1ザンヌ・バレエ・コンクールで賞を

得、留学する権利を得た若い踊り手たちのための留学先として、ど

このバレエ学校が選ばれているだろうか。ここでも今なお西洋諸国

を頂点とする、この意味でも階層的なバレエ共同体の構造を見るこ

とができる。舞

踊表現とバレエ共同体

バレエ共同体内部において、舞台上の出来事は舞踊表現を軸とし、

,ー‘、一一一、‘"

それに奉仕する形で組み立てられるものとされる。上演芸術として

のバレエの創造と享受の両契機において、

バレエ共同体構成員の関

心の焦点となるのは舞踊表現である。

さらにバレエ共同体は、舞台上で踊り手によって遂行される動き

が舞踊表現として適切かどうか、その妥当性を規定する枠組みとし

ても働く。上演芸術としてのバレエにおいて、何が舞台上で演じら

れるべき舞踊表現として妥当であるかは時を経て変化してきた。今

日ではダンス・クラシックの基本に従わない動きが行われるのを目

にするのはごく普通のことである。またかつては脚を高く上げるこ

とが体操めいた、上品でないものとされ、足を高く上げることので

きる踊り手が敢えて足の高さを抑えることもあったが、現代では必

ずしもそうではない。踊り手が舞台上で行う様々な動きを適切な舞

踊表現として保証するのは、動きそのものがもっている特性もさる

78

ことながら制度的なものでもある。振付家によって創出され、踊り

手によって観客に呈示されるべきものとして振り付けられる振りは、

歴史的に展開し過去の営みをその内に累積してきた、

そして今後も

そうしていくであろうバレエ共同体において上演の中心的表現手段

とされ、

かつ舞踊表現としての妥当性を与えられるのである。

(四)

狭義の振り付けと広義の振り付け

以上で述べた、踊り手に直接課せられるものとしての舞踊表現を

創り出すのが狭義の振り付げだとすると、

バレエにおいては広義の

振り付けとでも言うべきものが存在する。それが照明や装置、衣装

Page 9: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

バレエにおける演出について

の配置・設定である。

一つのバージョンは大抵お決まりの装置や衣

装、照明などを持っているものだ。それら衣装、照明、装置をどう

設定するかは、観客が捉える踊り手のライン、その動き、すなわち

振りの輪郭に影響する。したがってたとえ動きそのものをいじらず

とも、衣装などが変更されれば振りの輪郭は変わってしまうことに

なる。新演出と称して振りにはあまり手を加えずに衣装や装置だけ

を変える場合もあるが、その場合でも振りが全く変わっていない訳

ではない。そもそも上演の一回性の問題をおいておくにしても、踊

り手は衣装が変わっただりでも以前と同じように踊ることはできな

ぃ。袖の長さなど物理的な変更から生じる影響は言うに及ばず、心

理的な影響もある。踊り手が違う衣装で踊るということは、

コン

ピュ

lタ・グラフィックスの画面上で色味だけ変えてみるのとは訳

が違うのである。衣装などの設定も又、字義どおりの振り付けとは

別の次元での、すなわち広義の振り付けである。舞踊表現としての

振りは、狭義・広義両方の形で振り付げられている。

尤も、広義の振り付けは狭義の振り付けに従属すると見るべきで

あろう。バレエにおける中心的な表現手段として了解されているの

は、舞踊表現たる振りである。衣装や装置、照明などのみが一新さ

れる場合でも、

それら自体が悪目立ちすることが目指されているの

ではない。衣装や装置、照明は、踊り手の遂行する振りに強く結び

っき、それに結果として奉仕することが求められているのである。

(五)

演出と振り付け

バレエ共同体は、舞踊表現を舞台化の核とする制度を営んでいる。

そうした制度の下で、

ストーリー・バレエにおいては物語が、そし

てその物語ための音楽が舞踊として表現されるべく解釈されること

によって、舞踊的メタテクストが紡ぎ出される。舞踊的メタテクス

トの構想そのものが、想像的なものであれ、すでにして或る種の振

り付けである。バレエにおける『ロミオとジュリエット』は、初め

から舞踊的に表現されるべく構想されるのであって、その結果パル

コニ

1のシlンは、

ロミオとジュリエットがバルコニーなど無視し

て踊る場面として一番の見せ場となる。

振付家は、自らの持つ舞踊的身体図式を用いながら、狭義・広義

79

の両側面において舞踊的メタテクストを構想する。舞踊的メタテク

ストは実際の上演の潜勢態であり、舞踊的メタテクストの構想は想

像的な振り付けである。具体化されるべく想像的に振り付けられた

舞踊的メタテクストは、振付家によって実際に振り付けられる。(尤

も、想像的メタテクストから現実的な振りへの移行は一方向的な流

れではない。振り付け現場の状況に応じてしばしば修正が必要にな

り、振付家はその都度舞踊的メタテクストへ立ち戻るよう促される。

一日一実際に振り付けの作業が始まれば、舞踊的メタテクストの構想

と実際の振り付けとは可逆的な関係にある。)ストーリー-バレエの

舞台化、すなわち演出は、潜勢態であるメタテクストの創造の段階

Page 10: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

警術研究第12号 1999

からすでに振り付けと分かちがたく結びついている。振り付けはス

トlリl・バレエの演出において、中心的かつ不可欠のプロセスそ

のものである。そしてその担い手たる振付家が、多くの場合ストl

リl・バレエの演出において中心的な役割を果たすことになる。す

なわち、演出家となるのである。

(六)

再演における演出

以上で焦点が当てられていたのは、物語から直接舞踊表現を立ち

上げる場面であった。『ロミオとジュリエット」についても、初演以

来様々なバージョンがあることについては触れながらも、それぞれ

のバージョンの関わりを特に強調することはしていない。以下では

再演の場合を取り上げる。なぜなら今日バレエにおげる演出がパレ

エ共同体構成員の関心を引くのは、しばしば一つの版をオリジナル

とし、多様に演出された複数のバージョンを持つような作品の再演

だからである。例として先ず挙げることができるのが『白鳥の湖」

である。この非常に有名なバレエ作品の初演は一八七七年であるが、

プティパ|イワノフによって振り付けられた一八九五年の上演が今

日一般にオリジナル版とされる。以来様々な版を重ね今なお世界各

地で頻繁に再演されているが、その多くがプティパ|イワノフ版に

拠っている。だが再演を取り上げる理由はこれだけではない。再演

について考えることによって、

バレエ演出のより独自な一面が明ら

かになると思われるからである。以下、振付家が新しいバージョン

をどのようにして生み出していくのかを手掛かりにして、

いま少し

考察を進めてみよう。

再演に当たって振付家は、物語、物語の枠内での音楽、

さらには

先行する振りをも舞台化の基盤とし、これらの聞をときに重心を移

しつつ揺れ動きながら、上演のイメージを作っていく。その際には

物語や音楽についての解釈と協働させながら、自身が形作りつつあ

るイメージに照らして先行する振りに何が欠けており何が余分であ

るかを判断する。こうして潜勢的な振りとして新たな舞踊的メタテ

クストが紡ぎだされる。これが実際に踊り手に振り付けられ装置な

どとともに具体化されて新しいバージョンが誕生する。

80

再演においても振り付けは演出と不可分であり、舞台化の過程に

おいて中心的な役割を果たしている。前述の『白鳥の湖』

の各々の

バージョンは「

OO版」というように振付家の名を冠して呼ばれる

のが常である。この背景には、振り付けを行う者が上演の全体的か

つ最終的な責任者であり、振り付けという舞踊表現へと至らしめる

プロセスがバレエ演出において重要な役割を担っているという、

ノt

レエ共同体内での一般的な了解があると見るべきであろう。

尤も、振り付けが演出と不可分であり、

バレエの舞台化において

中心的な役割を果たしているということ自体は、物語から直接舞踊

表現を立ち上げる場合と何ら変わりはない。再演において事情が異

Page 11: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

バレエにおける演出について

なるのは、再演の場合には先行する振りもが演出上の基盤となると

いう点である。なぜこのようなことが起こるのか。それは振り付け

がバレエ演出の中心的かつ不可欠のプロセスであるが故に、振り付

けられた振りが、創造と享受の関心の中心にあって自律的な性格を

帯びるからである。或る時点で振り付けられた振りはバレエ共同体

内部で共有され、物語や音楽の解釈と協働するものとして、

とい

h

よりはむしろしばしば物語や音楽の解釈以上に重要な位置を占める

ものとして、それ以後の上演の基盤として働く。

一目張り付けられ

た振りを振りテクストと呼ぶこともできよう。ここで言う振りテク

ストとは、少なくとも一度は上演された振り、すなわち踊り手の身

体によって具体化され観客に享受された振りをその後の舞台化の下

敷きとして捉えたものである。舞踊譜・ビデオなどによって記録さ

れている場合もあるが、記録として残っていなくても、

いやむしろ

残っていても多くの場合バレエ共同体構成員の記憶の相で生き続け、

一つのバージョンをそれとして認識するよすがとなる。

スト

l

リl・バレエの演出は、物語の舞踊的具体化であると同時にバレエ

共同体の財産たる振りテクストの創造でもある。我々はしばしば

OO版による」という言い回しを何気なく口にするが、振り返っ

てみればこの言い回しは既に、過去に振り付けられた振りがそれ以

後の演出の拠り所となることを明白に語っていたと言える。さらに

新演出と言うときバレエ共同体の構成員の関心は、物語や音楽がい

かに解釈され、

いかに舞踊化されたかもさることながら、基盤たる

振りテクストと新たに創出された振りとの聞にどれだけ新たな展開

が見られるかにも向けられる。バレエの演出においては、創造され

享受されるものと保存され受け継がれるものとが重なり合っており、

バレエ共同体の成員は振りそれ自体を舞踊表現として創出し享受し

つつ、先行する振りテクストから新たな振りへの展開にも関心を寄

せているのである。

踊り手と演出

最後に踊り手について述べよう。踊り手はバレエ共同体の構成員

81

である。踊り手は狭義の振り付けによる振りを実際に遂行すること

によって、

バレエ上演の第一原理たる舞踊表現を直接担う。踊り手

は、振付家が思い描く舞踊的イメージやバレエ共同体内部で共有さ

れる振りテクストを自らの身体によって具体化するのである。また

振りテクストが舞踊譜やビデオなどで記録・保存されていない場合

には(或いは記録されている場合でさえて振りテクストの伝達はそ

れを踊った経験を持つ踊り手の身体的記憶に大きく依存する。踊り

手は生きた舞踊譜であると言ってもいい。ただし踊り手は単に抽象

的かつ超歴史的な存在として、振りテクストや振付家が抱くイメl

ジを仲介する媒体ではない。バレエの舞台化はその時々の、そして

Page 12: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

警術研究第12号 1999

個々の踊り手の具体的なあり方と密接に結びついている。

バレエ共同体は、

それまで培われてきた歴史的背景に加えその時

代特有の特性をも併せ持つ。踊り手は彼らが生きる時代のバレエ共

同体の内部で妥当とされる訓練を受ける。上演の妥当性の或るレベ

-レふ品、

,,,BιM

バレエ共同体内部で育まれた踊り手の身体そのものでもって

枠取られる。また踊り手は、当然のことながら各々個性を持ってい

る。よって振りは踊り手の個性に相応しいように振り付けられる。

予め振付家が考えてきた振りは、しばしば踊り手に合わせて現場で

変更される。振りに既製品はなく、あるのは誰かのための振りであ

るこのような無自覚なレベルに加えて踊り手は、舞台化のプロセス

に能動的に参与する。踊り手には、作品の具体化を実際に担うもの

として自覚的かっ能動的な態度を取ることが常に求められている。

例えば踊り手が、自分の解釈に基づいて音の取り方を変えたり振り

にアクセントを付けたりすることがある。より実践的には、例えば

滑りやすいリノリュ

lムの継ぎ目を避げるために指定された場所よ

りも少しずれた位置に立つこともある。

確かに、振りという道守すべき枠組みを与え、上演に向けた稽古

の過程をも統御することによって踊り手に方向性を与えるのは振付

家である。最終的な上演の責任者として振付家は、自らの抱いてい

るビジョンに近づけるべく踊り手に様々な指示やアドバイスを与え

る。さらには踊り手の個性を把握した上で、上演の場でのみ醸しだ

されるような、稽古場とは又違った踊り手の魅力をも想定しそれを

引き出すべく努める。だが、踊り手に与えられるのはあくまでも方

向性に留まる。振付家は踊り手を人形のように扱うことはできない。

以上で述べた如く舞踊表現の直接の担い手たる踊り手は、その具体

的な存在によってバレエ上演において本質的に重要な位置を占める。

演出効果が振付家の意図によるものなのか、踊り手自身に由来する

のかを判断することがしばしば難しいのはこのためである。演出効

果は、振付家の演出意図と踊り子による身体的具体化との協働作業

の成果である。

82

まとめ

ストーリー・バレエにおいて舞踊表現が第一の原理とされるのは、

舞踊そのものが持つ力はもとより制度的なものによってである。そ

うした制度を生きるバレエ共同体構成員の眼差しの下で、物語の解

釈も音楽の解釈も舞踊表現に奉仕するためのものとなる。ストー

リー・バレエの演出とは、舞踊化されるべきものとしての物語や音

楽を解釈し、舞踊表現として踊り手に振り付け具体化する作業全体

を指す。舞踊表現の創出に直接関わる振付家が上演全体の構成を担

う者、すなわち演出家である。

一日一振り付けられた振りは、それ自

Page 13: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

バレエにおける演出について

体新たな舞踊表現創出の基盤となる。バレエ共同体構成員の関心は、

先行する振りテクストが新たに創出された振りにおいてどれだけ展

関されたかにも向けられる。新演出を「新」演出と呼ばれるのに相

応しいものにするのは、新旧の振りの聞に見出される発展的差異で

ある。以

上の考察は、ごく一般的なものとして通用していると思われる

ジャンル設定に則って行った。しかし現在様々な芸術分野で他ジヤ

ンルの表現手段を取り込んだ作品が創られており、その結果ジャン

ル聞の境界が不明確になってきている。バレエを始めとする舞踊も

例外ではない。尤も、様々な要素が導入されその各々が自己をより

強く主張しながら一つの作品を作り上げている状況にあって、それ

でもなおその作品を舞踊と呼ぽうとするとき、そこには舞踊表現を

舞台化の軸とする人々の眼差しが以前にもまして強く作用している

とすることもできよう。

だがどのように述べようとも、今回の考察が対象をかなり限定し

ていることは否定できない。バレエ一般、

さらにはモダン、

コン-ア

ンポラリーなどを含んだ上演芸術としての舞踊一般への展開を目指

す際に今回の考察がどこまで妥当性を持っか。これらについては今

後の課題としたい。

‘玉(1)

ジョ

lン・ロ

lソンによると、バレエは、創作の側面から三つの種

類に分類される。すなわち、ストーリー・バレエ(物語のあるバレ

エ)、テ1マをもったバレエ、ダンスを主体にしたバレエとアブスト

ラクト・バレエである。ジョ

lン・ロ

1ソン著、石田種生監訳、渡辺

洪訳「バレエ創作ハンドブック』大修館書底、一九九五年、七二|五

頁参照。

(2)

山内登美雄「演出家のメタテクスト」、青木孝夫編『演劇と映画」

晃洋書房、一九九八年、三頁。

(3)

同前、四頁。

(4)

同前、四頁。

(5)EE83i印・hashR尼崎町的失雪量高町、同

ME05田口nmKだ丹田

OC吋口同-司ロ

σ】山口同片山。ロ凹・

HU∞N-℃

-H品品・

(6)

曽根幸子「イメージの演出について||絵画・写真・映画||」、

青木孝夫編『演劇と映画』、四二頁。

(7)

同前、四八頁。

(8)

同前、四九頁。

(9)

青木孝夫「結び||終章に代えて||」、青木孝夫編『演劇と映

画』、四O二頁。

(叩)菅泰男『シェイクスピアの劇場の舞台」あぽろん社、一九六三年、

ニ四一頁。

(日)アリストテレス著、今道友信訳「詩学」、『アリストテレス全集口』

岩波書店、一九七二年、二二頁。

(ロ)佐々木健一『せりふの構造」講談社、一九九四年、五O|五一頁。

(日

)EEnFEE--sgミロミをめ宮町誌を

gSHR.-EF・

宮丘町}ES品目

-dHEEa印)・

P3柏町。町宮口

¥

hミ||甲高是

~まロミ向。ミミザミEll-冨耳目

MEm-HU弓・

83

Page 14: バレエにおける演出について - 広島大学 学術情報リ …...バレエにおける演出について バレエにおける演出について はじめに 本発表は、

重芸術研究第12号 1999

(M)

「デュオに関してそれ〔言葉以外のランガlジュがデュオを構成す

る二項のうちの一方の項を形成しうるということ〕が可能である理由

は、デュオにとって最も重要なのが、『答える』という行為であり、

答えることによって、一体性を形成する意志だからである。これに対

して、他の形態の台詞にあっては、分節言語でしか表現しえないよう

な複雑な思想内容を欠くことができないがゆえに、言葉を完全に他の

舞台的ランガ

lジュによって置き換えることは不可能なのである」

(佐々木健一『せりふの構造』、一四四頁)。また、この部分に付けられ

た注では次のように述べられている。「序論で簡単にふれたように、

プラハ学派の一人J・ホンズルは、演劇におりる記号の変動性という

注目すべき考え方を示した。すなわち、同一の表意作用を行う表現手

段がいくつもある。例えば、空間的な移動を表すのには、俳優の身体

運動だけでなく背景画や幕を変えたり、擬音を用いたりする手段をと

りうる、ということである。ここには演劇の記号論における重要な事

実があるが、今われわれの確認したこともまた、この枠組みの中に取

り入れて考えるべき事実であろう。それは、表現内容を分節する上で

の言語の圧倒的な優位(従って、他によって代替することができな

い)と、表現の事実におげるあらゆる表現手段の同等性を示すもので

ある」(同前、一四八|一四九頁)。

(日)「舞踊という芸術ジャンルにおけるコラポレ

1シヨンの問題として

興味深い点は、舞踊が『舞踊の力学」とでもいうべき舞踊ジャンルの

もつ特権を内在していることである。つまり言葉によって意味論的な

指示が明確にされるのではなく、舞踊は意味論的に指示機能が暖昧な

ゆえに構成要素や素材あるいはモティ

lフをなんでも溶解して舞踊

に盛り込んでしまえるという特権を有しているというのだ」(セゾン

美術館・一候彰子編『ディアギレフのバレエ・リュス

Hus-EN丘、

セゾン美術館、一九九八年、三二六頁)。

(日)「これよりと期待をかけて上演された作品はジョン・ウィ

1ヴァ

l

の〈マ

1スとヴィーナスの愛〉で、一七一七年、ディプレがマ

lス役

を演じ、ロンドンで上演された。科白とか歌を使わず踊りだけで内容

を表現しようとしたバレエとしては、この作品が史上初の試みとされ

ているが、たいした反響はなかった」(ジヤツク・アンダソン著、湯

河京子訳『バレエとモダンダンスーーその歴史』音楽之友社、一九

九三年、九四頁)。

(口)「劇場技法の開発に専念する時代がしばらく続き、舞踊の表現性を

忘れかりていた一八世紀後半に入ると、ジャン・ジヤツク・ノヴェー

ル(』

gロのg円

mgz。〈

25・口出iEHC)の理論(バレエ・ダクシオ

ン)によってバレエの本質的表現手法の追求がなされることになる。

〔改行〕①あらすじを展開させるために用いていた歌や台詞は一切排

除され、表情的身振り(マイム)と劇的表現をする新しい動きを取り

入れる。②顔の表情を隠す仮面や不必要な装飾を廃止する。③コー

ル・ド・バレエ(群舞)の動きに劇的真実性をもたせる。〔改行〕つ

まり、歌唱によるオペラ的部分が排除され、バレエはマイムや動きが

重要な部分を占める舞踊劇になったのである」(舞踊教育研究会編

『舞踊学講義』、大修館書底、一九九一年、四四頁)。

(問)

[

i

]

04司

58己σ可

poE2XC昨日。ロ回一回目】刷出・0出口町目的同町巾

O吋}向。岡山門片山田由江

σmn出口町巾

O同

Eoロ山門

onnZ12君津窓口出ロロ

]EEごν円白一円片付m

w

[

・:](MJHN町弘司叫内凡

RN吋w

白血〈ぬロ

同uzuzn白巳Cロタ]{由∞AHW

同)・印N)

(印)[・:]者。『W印色白再出足同門門出回岳巾円何回三件。同同町巾℃C田町民Oロ。円立回円叩

pmu可

onn己目】山、豆岳山口問ロ何回

SE島町仏間】

EnznpE自己

ESE-(同おきを円Heshch皇室町内的ーーととお守号凡な3RF

Ill-。以内

OEC口町〈巾円印日同可可円凸凹

PEU戸匂-∞∞)・

84

(はりの・なおこ

広島大学大学院)