このシリーズの2016年12月号までは協会誌をご覧ください。 …(sheffield,...

4
日本鉄道施設協会誌 1 イギリスにおける初期の鉄道構造物の歴史を辿る 鉄道初期の木造橋梁の建設とその改築シリーズの“その6” では、ブルネル以降の1840−90 年代に 建設された木造橋梁とその後について紹介したい。 このシリーズに関連する都市と構造物のイギリスにお ける位置概念図はシリーズの図❶に示した。 (1)シェフィールド、アシュトン・アンダー・ライン・ アンド・マンチェスタァ鉄道の建設 マンチェスタァとシェフィールドとの間に鉄道建設が 計画されたのは、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄 道が開業 5 年後のことであった。しかし、ペナインズを横 断するための技術的な問題が大きく立ちはだかった。 ヴィニョルス(Charles Blacket Vignoles)は、当時の 蒸気機関車でも定置エンジン(stationary engine)無し に登坂できるように、ペナインズに 3.2km(2mi)のトン ネルを掘削するルートを提案した。それは、マンチェス タァから、ゴートン(Gorton)、アシュトン・アンダー・ラ イン(スティリブリッジ(Stayleybridge)への短い支線を 含む)、ハイド(Hyde)、グロソップ(Glossop)、ウッドヘッ ド(Woodhead)、サールストン(Thurleston)、ペニスト ン(Penistone)、ウォートリィ(Wortley)を経て、シェ フィールド(Sheffield)に至ものである。1836 年ヴィニョ ルスとロック(Joseph Locke:グランド・ジャンクショ ン鉄道(Grand Junction Railway)の技師)に更なる測 量を依頼した。その結果、鉄道は、エザロウ(Etherow) とドン(Don)川の渓谷を通ることになり、アシュトン・ アンダー・ラインの代わりにガイド・ブリッジ(Guide Bridge)でスティリブリッジへの支線を、また、グロソッ プへの約1.2km(3/4mi)の支線を建設することになった。 マンチェスタァのストア・ストリート(Store Street)を 起点とし、シェフィル-ドのキャトル・マーケット(Cattle Market)の東の空地を終点とする65.6km(40.75mi)の 本線とハダスフィールド運河(Haddersfield Canal)に接 する所を終点とする4.0km(2.5mi)スティリブリッジ支 線からなる。ウッドヘッド・トンネルは、そのサミットの 標高を287m(943ft)まで低下させることによって最急 勾配を8.3‰(1/120)とした。 この鉄道の建設は、1836 年に他の117 の鉄道とともに 認可された。マンチェスタァ・アンド・バーミンガム鉄道 (Manchester & Birmingham Railway)のアードウィッ ク(Ardwick)から1.2km(0.75mi)のロンドン・ロード (London Road)(両鉄道の共同駅)間の使用も取り付け た。このような認可を受けたものの、元の計画には若干の 変更も行われた。すなわち、アショトン・アンダー・ライ ンへの支線建設は一時凍結、シェフィールドの終着駅を キャトル・マーケットの代わりにブリッジハウス (Bridgehouse)の ナ ー ス リ ィ・ ストリ ー ト(Nursery Street)とすること、さらにウッドヘッド・トンネルは単線 とすることによって、工事費節減を図ることになった。 この鉄道の開業は1842 年にブロードボトム(Broad bottom)、2 週間遅れてディンティング(Dinting)、1844 年ウッドヘッド、1845 年グロソップへの1.6kn(1mi)の 支線、同年ダンフォード(Dunford)とシェフィールド間 と、段階的に開業した。そして、1845 年12 月22日、ウッ ドヘッド・トンネルの完成ともに、マンチェストァ・シェ フィールド間の全線開業を果たした⁵³ (2) 木造橋梁の建設 a)エザロウ高架橋(Etherow)の建設 シェフィールド、アシュトン・アンダー・ライン・アン ド・マンチェスタァ鉄道によって建設された高架橋と橋 梁のなかで、特筆すべきものは、エザロウ高架橋とディ ンティング・ヴェイル(Dinting Vale)高架橋である。 この2 つの高架橋に対して、ヴィニョルスはニューカー スル・アンド・ノー ス・シ ー ル ヅ 鉄 道(Newcastle & 木造橋梁の建設とその改築:その6 (ブルネル以降の1840-90年代の木造橋梁-1) 国士舘大学 名誉教授 岡 田 勝 也 ■このシリーズの 2016年12月号までは協会誌をご覧ください。 1. まえがき 2.シェフィールド、アシュトン・アンダー・ ライン・アンド・マンチェスタァ鉄道 (Sheffield, Ashton-under-Lyne & Manchester Railway) OKADA Katsuya

Upload: others

Post on 05-Feb-2021

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 日本鉄道施設協会誌 1

    イギリスにおける初期の鉄道構造物の歴史を辿る�

     鉄道初期の木造橋梁の建設とその改築シリーズ�~�の“その6”�では、ブルネル以降の1840−90年代に建設された木造橋梁とその後について紹介したい。 このシリーズに関連する都市と構造物のイギリスにおける位置概念図はシリーズ�の図❶に示した。

    (1)シェフィールド、アシュトン・アンダー・ライン・  アンド・マンチェスタァ鉄道の建設 マンチェスタァとシェフィールドとの間に鉄道建設が計画されたのは、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が開業5年後のことであった。しかし、ペナインズを横断するための技術的な問題が大きく立ちはだかった。 ヴィニョルス(Charles Blacket Vignoles)は、当時の蒸気機関車でも定置エンジン(stationary engine)無しに登坂できるように、ペナインズに3.2km(2mi)のトンネルを掘削するルートを提案した。それは、マンチェスタァから、ゴートン(Gorton)、アシュトン・アンダー・ライン(スティリブリッジ(Stayleybridge)への短い支線を含む)、ハイド(Hyde)、グロソップ(Glossop)、ウッドヘッド(Woodhead)、サールストン(Thurleston)、ペニストン(Penistone)、ウォートリィ(Wortley)を経て、シェフィールド(Sheffield)に至ものである。1836年ヴィニョルスとロック(Joseph Locke:グランド・ジャンクション鉄道(Grand Junction Railway)の技師)に更なる測量を依頼した。その結果、鉄道は、エザロウ(Etherow)とドン(Don)川の渓谷を通ることになり、アシュトン・アンダー・ラインの代わりにガイド・ブリッジ(Guide Bridge)でスティリブリッジへの支線を、また、グロソップへの約1.2km(3/4mi)の支線を建設することになった。

     マンチェスタァのストア・ストリート(Store Street)を起点とし、シェフィル-ドのキャトル・マーケット(Cattle Market)の東の空地を終点とする65.6km(40.75mi)の本線とハダスフィールド運河(Haddersfield Canal)に接する所を終点とする4.0km(2.5mi)スティリブリッジ支線からなる。ウッドヘッド・トンネルは、そのサミットの標高を287m(943ft)まで低下させることによって最急勾配を8.3‰(1/120)とした。 この鉄道の建設は、1836年に他の117の鉄道とともに認可された。マンチェスタァ・アンド・バーミンガム鉄道

    (Manchester & Birmingham Railway)のアードウィック(Ardwick)から1.2km(0.75mi)のロンドン・ロード

    (London Road)(両鉄道の共同駅)間の使用も取り付けた。このような認可を受けたものの、元の計画には若干の変更も行われた。すなわち、アショトン・アンダー・ラインへの支線建設は一時凍結、シェフィールドの終着駅をキャトル・マーケットの代わりにブリッジハウス

    (Bridgehouse)のナースリィ・ストリート(Nursery Street)とすること、さらにウッドヘッド・トンネルは単線とすることによって、工事費節減を図ることになった。 この鉄道の開業は1842年にブロードボトム(Broad bottom)、2週間遅れてディンティング(Dinting)、1844年ウッドヘッド、1845年グロソップへの1.6kn(1mi)の支線、同年ダンフォード(Dunford)とシェフィールド間と、段階的に開業した。そして、1845年12月22日、ウッドヘッド・トンネルの完成ともに、マンチェストァ・シェフィールド間の全線開業を果たした⁵³)。

    (2)木造橋梁の建設a)エザロウ高架橋(Etherow)の建設 シェフィールド、アシュトン・アンダー・ライン・アンド・マンチェスタァ鉄道によって建設された高架橋と橋梁のなかで、特筆すべきものは、エザロウ高架橋とディンティング・ヴェイル(Dinting Vale)高架橋である。 この2つの高架橋に対して、ヴィニョルスはニューカースル・アンド・ノース・シールヅ鉄道(Newcastle &

    木造橋梁の建設とその改築:その6(ブルネル以降の1840-90年代の木造橋梁-1)

    国士舘大学 名誉教授 岡 田  勝 也

    ■このシリーズの2016年12月号までは協会誌をご覧ください。

    1.まえがき

    2.シェフィールド、アシュトン・アンダー・ ライン・アンド・マンチェスタァ鉄道 (Sheffield, Ashton-under-Lyne & Manchester Railway)

    OKADA Katsuya

  • 2017-52

    トン&クラーク(Buxton & Clarke)が請け負ったこの高架橋は、全長が442m(1452ft)、河床からレール・レベルまでの高さが38m(125ft)、幅7.3m

    (24ft)で、16連の複線アーチ橋からなる。このうち、5連はスパン38.1m(125ft)の木造アーチ、11連は15.2m(50ft)のレンガ造アーチ橋である⁵⁴)⁵⁵)。 9,688m³(342,155ft³)の橋台と橋脚用の石材、73.9 m³(2,641ft³)のアーチ用のレンガ、1,146m³

    (40,476ft³)のメーメル(Memel)木材と5,573m(18,285ft)の仮設用木材などが使用された¹⁷)。図❶の上図には建設当時の木造高架橋の縦断図を描いた。c)エザロウ高架橋とディンティング・ヴェイル高  架橋の改築 1850年代末には両者の高架橋の劣化が進んだ。1859年11月にこれらの木造アーチ橋を錬鉄桁に取り替える工事が始まった。錬鉄桁はボックス断面をしており、複線2主桁構造である。1863年にホークショー(Jhon Hawkshow)が描いた当時の設計図⁵⁶)は寸法を示していないので、軌間の長さをもとに描き直したのが図❷である。この図によれば、線路中心間隔は3.22m、高欄間の幅は7.70mである。ボックス断面は幅67cm×高さ293cm、このフランジの幅は77cmである。ホークショーはボックス桁の高さはスパン38.1m(125ft)の1/13であると述べているが、図と一致する。また、彼は、上部と下部のフランジの面積は7:6であることも記している。 エザロウ高架橋はその年末に、ディンティング・ヴェイル高架橋は翌年の春には完了した。この取り替え完了時の高架橋縦断図を図❶の中図に示した。橋梁の取り替えは列車の運転を遮断することなく行われた。橋梁の両端のアプローチ盛土の際で新しい桁を組み立て、それを工事車両によって取り替える予定の木造アーチ橋まで移動させ、架設した。なお、橋梁取り替えが完成した2年前には、シェフィールド、アシュトン・アンダー・ライン・アンド・マンチェスタァ鉄道は他の鉄道会社と合併し、マンチェスタァ、シェフィールド・アンド・リンカンシァ鉄道(Manchester, Sheffield & Lincolnshire Railway)になり、さらに1897年にはグレート・セントラル鉄道

    (Great Central Railway)と名を変えた。この鉄道は、ペナインズ横断鉄道として、旅客・貨物の基幹輸送の幹線ルートとなった。そのために、両高架橋は補強せざるを得なくなった。d)エザロウ高架橋とディンティング・ヴェイル高  架橋の補強工事 1918年、グレート・セントラル鉄道は両高架橋を補強することになった。エザロウ高架橋は既に1894年に桁を

    North Shields Railway)でグリーン(Green)兄弟が建設した木造アーチ橋(シリーズ�参照)と同じような設計をしようと意気込んでいたが、1939年に技師長を辞任した。この考えを引き継いで建設を推進したのはロックである。彼によって、グリーン兄弟の名声もまた確固たるものとなった²¹)。 エザロウ高架橋の施工業者はメサズ・ヘンリィ会社

    (Messrs Henry & Co of Chester)であったが、高架橋の4基の石造橋脚に対する用地交渉がうまく行かなかった。そのため、鉄道会社は橋脚数を少なくすると共に、メサズ・ヘンリィ会社を解約し、新たに、メサズ・スミズ会社(Messrs Smith & Hattersley)と契約した。そして1842年に完成した²¹)。 この高架橋は全長280m(918ft)、河床からの高さ41m(136ft)、スパン38.1m(125ft)の3連の木造複線アーチ橋である。近郊のティントウィスル採石場(Tintwistke Quarries)から採掘した186,000tonの石材と1,160m³

    (41,000ft³)の木材が使用された⁵³)。b)ディンティング・ヴェイル(Dinting Vale)高架橋  の建設 シェフィールド、アシュトン・アンダー・ライン・アンド・マンチェスタァ鉄道におけるもう一つの特筆すべき高架橋はディンティング・ヴェイル高架橋である。バク

    図❶ ディンティング・ヴェイル高架橋の変遷

    図❷ ディンティング・ヴェイル高架橋の錬鉄桁の構造 (1863年)

    (a) 1842年(木造アーチ)

    (e) 1860年(錬鉄桁)

    (c) 1918年(橋脚追加)

  • 日本鉄道施設協会誌 3

    増設する工事が行われていたが、橋脚を3基増設することになった(写真❶)。ディンティング・ヴェイル高架橋では7基の橋脚が増設された(写真❷)。これらの補強工事は1919年に完了した²¹)。新しいレンガ橋脚は木造高架橋当時の対称性のある見栄えを破壊するものであった。新橋脚は道路や水路を避けるために些かスパンが不規則である。ディンティング・ヴェイル高架橋では、旧橋脚を挟んで1基あるいは2基の新橋脚が入ることになった。この補強改築後の高架橋縦断図を図❶の下図に示した。さらにこれら不規則性に拍車をかけたのは電化工事による電柱の配置であった。しかし、これらの新橋脚と旧橋脚の配置のバランスは見方によっては美しい不規則性光景を醸し出しているとも言えそうである。

    (1)“Old Main Line”の建設 ダーリントン(Darlington)からニューカースル

    (Newcastle)のタイン(Tyne)川対岸のゲイツヘッド(Gateshed)までのルートは建設過程が複雑である。現在のイースト・コースト幹線(East Coast Main Line)はダラム(Durham)を通過しているが、その建設よりも早

    く、鉄道はロンドンからニューカースルに到達した。そのルートは1844年に全通した”Old Main Line”と言われるものである。この鉄道路線の概念図を図❸に示した。 ダーリントン(バンク・トップ(Bank Top))からパークゲイト・ジャンクション(Parkgate Junction)間は、ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道(Stockton & Darlington Railway)によって1829年に開業、後者とシンクリッフェ(Shincliffe)間はグレート・ノース・オブ・イングランド鉄道(Great North of England Railway)によって 1836年に開業、シンクリッフェとレイントン・クロッシング(Rainton Crossing)間はニューカースル・

    写真❶ 深い渓谷を横断するエザロウ高架橋。手前には中世の石造 アーチの道路橋が見える。右はマンチェスタァ方。

    写真❷ ディンティング・ヴェイル高架橋。左はマチェスタァ方。

    図❸ “Old Main Line”を中心とした鉄道路線図

    3.イースト・コースト幹線の“Old Main Line”

  • 2017-54

    アンド・ダーリントン・ジャンクション鉄道(Newcastle & Darlington Junction Railway)によって1842年に開業、さらに北のクロッシングとワシントン(Washington)間はこれより先の1832年に開業していたダラム・ジャンクション鉄道(Durham Junction Railway)に連絡した。ワシントンからブロックリィ・ウィンズ(Brockley Whins)間は鉱石運搬用として建設されたスタナップ・アンド・タイン鉄道(Stanhope & Tyne Railway)を用いて、ブロックリィ・ウィンズでスイッチバックして、1839年に既に開業していたブランドリング・ジャンクション・鉄道(Brandling Junction Railway)を通って、ゲイツヘッド(Gatehead)に到達した。 こうして1844年6月、ロンドンからゲイツヘッド間を所要時間9時間21分で走る列車が登場した。しかし、ブロックリィ・ウィンズでスイッチバックする必要があった。これを解消するため、1844年8月にドン(Don)川を横断する木造橋梁を架設して配線変更が行われ、スルー運転が可能となった。さらに、ワシントンとピーロー(Pelaw)間に、1850年、ブロックリィ・ウィンズを経由しない短絡線が建設され、最終的な“Old Main Line”が確立された⁵⁷)。

    (2)シャーバン(Sherburn)木造高架橋の建設と  盛土への改築 ニューカースル・アンド・ダーリント・ジャンクション鉄道が1842年に開業させたシンクリッフェとレイントン・クロッシング間にあるシャーバンには、長大橋梁が建設された。 この橋梁は、延長204.2m(670m)のシャーバン高架橋 で、シャー バン ハウス・ベック(Sherburnhouse Beck)という深さ20mにも達するV字型の谷川を横断する。この高架橋は上部工・下部工を含めてすべて木造である。1859年の陸地測量部地図⁵⁸)にはこの高架橋が示されているが、木造橋脚は30本であるので、スパンは6.6mと推定される。これらの情報をもとに、この高架橋の縦断図を描いたのが図❹である。施工基面高さの標高は約75mである。

     一方、1844年7月20日の“Illustrated London News”にはこの高架橋の版画¹⁸)が描かれている。この版画が描かれた場所は、シャーバン・ハウス炭鉱(Sherburn House Colliery)の位置から西方を眺めたものと想像される。版画の右上にはダラム大聖堂が遙か遠くに見え、標高90mの丘陵が高架橋の背後にある。シャーバンハウス・ベックの谷は描かれていないが、版画の右方欄外にある。版画に示された高架橋の木造構造も描かれているが、その詳細、とくに木造トラス構造は、工学的には不可解なところがある。そこで、木造トラスの工学的な考察を加えて、版画の一部をスケッチし直したのが図❺である。高架橋の橋脚は2本の斜材からなり、上部工はハウトラスの構造を呈する。高架橋の高さは17mに及ぶので、全体的には非常にスレンダーである。 この木造高架橋は石炭輸送の増加に伴って、盛土に変更されることになった。木造高架橋はこの盛土の中にそのまま埋設されたので、線形には変更はない。1861年の陸地測量部地図⁵⁹)では木造橋梁であるが、1897年のそれ⁶⁰)では盛土になっている。したがって、遅くとも1897年までに、木造橋梁は盛土に変更されたものと考えられる。

     鉄道初期に建設された木造橋梁とその改築のシリーズの第6回として、ブルネル以後の1840-90年代の木造橋梁のうち主としてイングランド中部で建設されたものについて述べた。次回はイングランド北部で建設された木造橋梁を紹介する。なお、本文中に引用した文献の詳細は紙面の都合上割愛し、下記の引用文献の文末に示した。

    (引用文献) 岡田:初期の鉄道構造物の建設と地盤工学の芽生え:その16、木造橋梁の建設と地盤工学の芽生え、国士舘大学理工学研究所報告、No.25、2013.

    4.あとがき

    図❺ シャーバン高架橋(1844年の版画の一部をスケッチ)

    図❹ シャーバン高架橋の縦断図