ベル研究所における トランジスタの発明者3人の人間像...

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(113)-113一 ベル研究所における トランジスタの発明者3人の人間像 目次 (1)はじめに (2)ベル研究所とアービン・ケリー (3)ケリーとショックレー (4)ケリーによる組織改編 (5)バーディーン,ブラッテンによる点接触型トランジスタの発明 (6)ショックレーによる接合型トランジスタの発明 (7)ブラッテンとバーディーン,ショックレーと快を分かつ (8)ベル研究所でのトランジスタ技術シンポジウム (9)ショックレー半導体研究所 (1)はじめに 18世紀後半に英国で始まった産業革命の駆動力は蒸気機関の発明と改良 であった。蒸気機関の利用により,物の大量生産と大量輸送が可能となり, 工業社会が出現した。 20世紀最大の発明といわれるトランジスタは,半導体結晶を利用した電 気信号の増幅器で,これが改善・改良されることにより,ICやマイクロプ ロセッサが生まれ,大量の情報の迅速な処理,伝送,蓄積が可能となり, 情報化社会の実現をもたらした。

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(113)-113一

ベル研究所における

     トランジスタの発明者3人の人間像

谷 光 太 郎

目次

(1)はじめに

(2)ベル研究所とアービン・ケリー

(3)ケリーとショックレー

(4)ケリーによる組織改編

(5)バーディーン,ブラッテンによる点接触型トランジスタの発明

(6)ショックレーによる接合型トランジスタの発明

(7)ブラッテンとバーディーン,ショックレーと快を分かつ

(8)ベル研究所でのトランジスタ技術シンポジウム

(9)ショックレー半導体研究所

(1)はじめに

 18世紀後半に英国で始まった産業革命の駆動力は蒸気機関の発明と改良

であった。蒸気機関の利用により,物の大量生産と大量輸送が可能となり,

工業社会が出現した。

 20世紀最大の発明といわれるトランジスタは,半導体結晶を利用した電

気信号の増幅器で,これが改善・改良されることにより,ICやマイクロプ

ロセッサが生まれ,大量の情報の迅速な処理,伝送,蓄積が可能となり,

情報化社会の実現をもたらした。

一114-(114) 第47巻第1号

 フランスの情報産業育成のため,時の大統領ジスカール・デスタンの諮

問に答えた大蔵省審議官シモン・ノラ,アラン・マンクの「社会の情報化」

と題する答申書(ノラ・マンク・レポート,1978年)1)

 は情報革命や,情報化社会への考察として,当時,大きな反響のあった

答申書である。20年後の今日,読み返すとその鋭い指摘に驚かされること

が多い。このレポートを要約すると次のような内容だった。

(1)過去の技術革新はいずれも,経済や社会の激烈な再編成を惹起し

  た。

(2)情報処理革命は過去のいずれの技術革新にもまして,社会に大き

  な影響を与えるだろう。

(3)近年の技術革新は,情報処理革命だけではないが,情報処理革命

  は他の技術革新を可能にし,促進するための共通の要因となる。

(4)特に,情報の処理と保存の方法を根本から覆してしまうので,組

  織や社会の神経系統に変革をもたらす。

(5)高性能で安価な小型コンピュータが孤立せず,電気通信というネ

  ットワークによって,相互に結合されること(これをテレマティ

  ークという新造語で表現している)により,産業分野だけにとど

  まらず,文化や権力構造にまで,大きな影響を及ぼす。

 このノラ・マンク・レポートのテレマティークは,半導体技術の粋とも

いうべきマイクロプロセッサと大容量メモリICを使用したパソコン,それ

を電話回線網で結ぶことによって現実のものになってきている。

 マイクロプロセッサにせよ,大容量メモリICにせよ,その技術的源を尋

ねて遡っていけば,半導体結晶を利用した増幅器であるトランジスタにま

でたどりつく。

1)「フランス・情報を核とした未来社会への挑戦」輿寛次郎監訳,産業能率短大,1980

 年,として日本語訳になっている。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(115)-115一

 トランジスタは,1947年,ベル研究所のショックレー(1910-1989),バ

ー ディーン(1908-1991),ブラッテン(1902-1987)の3人により発明さ

れ,これにより,3人は1956年のノーベル物理学賞を受賞した。

 発明に到る経路には,いろいろのパターンがある。偶然の発見(レント

ゲン線など)や個人の溢れるばかりの応用・改善・改良意欲からの試行錯

誤の中から生まれたもの(エジソンの諸発明など2))などだ。

 トランジスタの発明には,偶然の発見の要素,応用・改善・改良意欲か

らの試行錯誤といった要素もあったが,発明に到る全体の経路を眺めると,

(1)企業戦略的,(2)計画・系統的,(3)集団的,(4)先端学問的,

に進められてきた要素が強く感じられる発明であった。

 企業戦略的とは,巨大企業であるAT&T(アメリカ電信電話会社)の研

究部門であるベル研究所が電話事業の将来図を熟慮し,この将来図と現在

の技術水準との格差を埋めるための小手先ではない,戦略的新技術開発の

必要性を明確にし,これによって研究を進めたことである。

 計画・系統的とは,個々ばらばらに,行き当たりばったりに研究がなさ

れるのではなく,幹部や研究者の計画・系統的視野のもとに研究が進めら

れたことである。

 集団的とは,個人の関心の赴くままになされたのではなく,専門分野は

同じだが,得意の分野や個性を異にするメンバーの,チームワークでなさ

れたことをいう。

 先端学問的とは,当時の最先端の学問である量子力学を基盤とし,メン

バーはいつれも,この学問に深い知識のある者であった。経験的,職人的

な改善・改良的な思考と手段で行れたものではなかった。

 (1),(2)に関しては,(ア)企業の長期的展望の下での将来の技術ボ

2)エジソンに関しては,「快人エジソン」浜田和幸,日本経済新聞社,1996年,が興味

 深い。

一116-(116) 第47巻第1号

トルネックの予想・推測とそれへの対処の必要性の認識,(イ)このための

研究開発人材の導入や組み合わせ,組織化といった点でベル研究所副所長

のマービン・ケリーによる力量による所が大きかった。

  (3)に関しては,着想に優れ,失敗の連続にも決してあきらめず,粘

着力がきわめて強く,寝ても覚めても一つのことに集中し続ける,ショッ

クレー,頭脳明晰で鋭い理論家のバーディーン,老練の実験家で実験の虫ブ

ラッテン,こういう絶妙の組み合わせで研究が行われ,そうして成功した。

 これらのメンバーの人選,組み合わせ,採用をリードしたのは,ケリー

だった。ショックレーの才能を見込んで採用し,長期的展望の下に,ある

アイデアを示唆して猫介不羅なショックレーにやる気の火をつけ,しかも

口出しせず,ショックレーを信じて好きなようにやらせたのは雅量の大き

なケリーである。

 メンバーはいずれも,欧州の学問方法から強い影響を受けている東海岸

の伝統的エスタブリッシュメント層とは関係のない,中西部出身であるこ

とも留意すべきだろう。この地には,まだまだパイオニア精神が残ってい

た。

 (4)に関しては,これらの人々が先端学問を駆使して知恵を絞った上

での発明だった。

 メンバーいずれも有名大学で最先端学問の量子力学を深く学び,博士号

を持っており,アカデミーの世界でも充分活躍できた人である。事実,管

理・経営者としての能力のあったケリーを除いて,いずれも,アカデミー

の世界で晩年を過ごしている。

 以上のようなことを考えると,トランジスタの発明は,個人の超人的執

念で実った豊田佐吉の自動織機,御木本幸吉の人工真珠といったものとも,

エジソンのように自身で研究機関を設立しての発明,アインシュタインの

ように大学に所属しての個人研究からの発明というものではなかった。こ

れら巨人による個人的色彩の濃い発見・発明経緯といったものではない,

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(117)-117一

企業戦略的,集団的発明であったといえる。

 企業活動において研究開発部門の比重は人,物,金,のいずれの面にお

いても大きくなってきている。それに応じて,従来よりの個人的改善・改

良研究も重要なことに変わりないが,戦略的・基礎的研究の重要さはます

ます大きくなりつつある。研究開発には個人的要素がきわめて大きい面が

ある。とはいうものの,個人の力だけには頼れないほど,研究対象は大き

く且つ広くなっている。その意味でトランジスタの発明に到る経緯は今後

の企業の研究開発に関して参考になるのではなかろうか。

(2)ベル研究所とアービン・ケリー

AT&T(アメリカ電話電信会社)とその子会社であるWE(ウエスタン・

エレクトリック)の諸研究所を統合してベル研究所が設立されたのは,1923

年。ベル研究所の名前は,電話の発明者グラハム・ベルによる。ベルは1867

年,電話を発明し,翌年ベル電話会社を創設した。この会社がAT&Tと改

名されたのは1899年である。AT&T, WE,ベル研究所はベルシステムと

いう協力形態を作っている。

 電話事業に関して,そのサービス,営業を担当するのがAT&T。電話関

連機器の製造販売をするのがWE。電話関連の基礎的,基盤的研究を担当す

るのがベル研究所である。

 AT&Tの歴史は電話回線網拡充の歴史でもあった。創立10年後の1909

年,AT&Tは,米国全土を覆う電話回線網の構築に着手すると発表した。1)

広大な米大陸を覆う電話回線網のためには,高性能の中継増幅器が必要で

ある。この増幅器には,ド・フォレストが1906年に発明した3極真空管が

使用された。

 もちろん,発明されたばかりのこの真空管は,最初は使用に耐えるもの

1) 「電子の巨人たち(上)」マイケル・リオーダン,リリアン・ポジソン著,鶴岡雄二,

 ディーン・マツシゲ訳,ソフトバンク社,1998年,pp.126一ユ27。

一118-(118) 第47巻第1号

ではなく,改善と改良が加えられ,何とか実用品になるのは,数年後のこ

とである。

 1913年10月,この真空管増幅器を使用して,ニューヨーク・ボルチモア

問の長距離電話が開通した。第一次大戦中の1915年1月には大西洋岸と太

平洋岸を結ぶ電話が開通した。ちなみに,大陸横断鉄道が完成するのは,

1869年である。

 電話中継器の開発と,これによる大陸横断電話線の開通はAT&T幹部

に,最新の物理学の応用がビジネスに有益なことを教えた。2)このような

AT&Tの歴史的背景の下に設立されたに持つベル研究所は真空管を長距

離電話用の効率のよい増幅器にしようという電話事業の研究を出発点とし

た。3)

 ベル研究所は新鋭の物理学者を毎年のように採用してきたが,大恐慌の

時代にはそれもできなくなった。1929年10月24日,ニューヨーク株式市場

が大暴落し,大恐慌が始まった。ニューディールを掲げるフランクリン・

ルーズベルトが大統領選挙に勝利し,大統領に就任したのは,1933年3月

である。

 この年までに,工業生産は半減し,失業者の数は1300万にも達していた。

 ルーズベルトの第一期の施政が終わる頃になると,経済界にも薄明りが

見え始めた。

 ベル研究所で8年間真空管課長として真空管の改善・改良に取り組み,

1936年研究部長となっていたマービン・ケリーは,真空管の限界を感じ始

めていた。真空管に替わる増幅装置は考えられないだろうか。人間の言葉

を電流の強弱の波に変えて他の場所に送るのが電話だが,電話線の電波の

波は電線の銅の抵抗によって,減衰する。必要に応じて増幅してやらない

2) ibid., p.131.

3) ibid., pp.125-126.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(119)-119一

と,聞こえなくなってしまう。この増幅には真空管が使われているが,真

空管には欠陥がある。真空管は白熱電球の似ていて,ある一Zの通電や振

動でフィラメントが切れる。常に,フィラメントを熱していなければなら

ないので,電力消費量も馬鹿にはならない。多数の真空管を使うと,大き

な空間ながいる。当時のAT&Tは数100万本の真空管を使用していた。4)部

品ないし装置は,その物自身はさほど大きくない物であっても,多数使用

する場合には,必要空間は無視できぬものになる。世界最初の電子計算機

ENIAC(1946年)は2万本弱の真空管を使用したが,体育館ほどの空間が

必要だった。

 デスク・トップ型パソコンのブラウン管(大型真空管)の大きさも,最

近,問題になっている。

 東京都庁の新庁舎には3千台のデスク・トップ型パソコンが導入された

が,これには貴重な空間の2フロアが必要だった。5)

 ベル研究所はAT&Tの将来に必要な技術を開発する所だ。 AT&Tの電

話事業の10年後,20年後を考えると,広大な米大陸で多くの人々が隣と話

をするくらい,気軽に電話をかけあうことのできるような技術基盤が必要

となってくるだろう。そのためのボトルネックになるのが真空管だ。真空

管に替わる,全く概念の異なる増幅装置の研究に着手する必要がある。最

近急速に進んでいる量子力学を基盤とする固体物理学が何かのきっかけと

なるのではなかろうか,とケリーは考えるようになっていた。6)

 ミズリー州の片田舎で育ったケリーは,ミズリー州の冶金学校からケン

タッキー大学,シカゴ大学へと進み,博士号を修得してWEに入社した。ベ

ル研究所の発足でベル研究所に移った。WEに入社以来,真空管の研究開発

4) ibid., p.135.

5) 「アメリカはこれで大丈夫か」唐津一,PHP研究所,1998年, p.83。

6) 「電子の巨人たち(上)」前出,p.150。

一120-(120) 第47巻第1号

に携わり,1928年には真空管課長になり,36年には研究部長になった。7)

 ケリーは研究者や研究グループを巧みにリードする才能に恵まれていた。

これは,後に第二次大戦中,ベル研究所でのレーダー開発プロジェクトの

実行指導で大きな成果をあげたことでも分かる。

 アイルランド人の血をひくケリーは怒りっぽく,押しが強い。よく雷を

落とす。ケリーが口角泡をとばして言いはじめる時は反論してはいけなか

った。1日か2日問を置いてて,ケリーの落ち着くのを待つことが利口だ

った。強い態度には辟易する部下もいた。場合に応じて,おだてたり,強

い態度をとったりして,部下の能力を引き出す力を持っていた。将来技術

の動向に洞察力があり,人の能力や特性を見る口もあった。8)

 大恐慌時代新規採用は凍結されていたが,1936年になると凍結は解除さ

れた。ケリーは固体物理学を学んだ新進気鋭の人材を導入しようとした。

ケリーが目をつけた一人がMITで研究に励んでいたショックレーだった。

(3)ケリーとショックレー

 ショックレーの父,ウィリアム・ヒルマンは捕鯨船船長の長男とし℃マ

サチユセッッ州に生まれた。1)

 祖母方の先祖を遡るとメイフラワー号で米国へ渡った先祖までたどれる

という由緒ある家柄である。

 父はMITを卒業後,鉱山技師として世界各地を巡った。鉱山技師には珍

しく,美術や文学にも関心が深かった。父はネバタ州の鉱山町で母と知り

合い結婚した。母メイはスタンフォード大学で美術と数学を専攻し,義父

の経営する測量事務所で働いていた。この町で女性として初めての連邦鉱

山検査官代理に任命されている。父母が結婚した時,父は51歳,母は27歳

7)ケリーの生い立ちその他は,ibid., p.177。

8) ibid., p.201, pp.213-214.

1)ショックレーの生い立ちは,ibid., pp.56-66,参照

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(121)-121一

だった。二人はロンドンに渡った。

 父の仕事の根拠地はロンドンだった。子供がすぐに生まれ,ウイリァム・

ブラッドフォードと名付けられた。ブラッドフォードは母方の苗字である。

ショックレーは瘡の虫が強く,手数のかかる子供だった。絵かきになるの

が夢の母は手数のかかる息子の世話に疲れ,絵を描くことも,美術館巡り

もできず,子供は一人だけにしようと決心した。

 当時の婚期を失して,年令の差の大きい,父親くらいの男性と結婚し,

子供は一人だけと決心したショックレーの母親と同じような人物に,第二

次大戦時大統領だったフランクリン・デラノ・ルーズベルトの母親サラが

いる。サラは裕福な海運業者の娘で26歳の時,父親ほどの年令の52歳のジ

ェームス.ルーズベルトと結婚し,すぐに長男のフランクリンを生んだ。

ショックレーのミドルネームが母親の旧姓であるのと同様,ルーズベルト

のミドルネームのデラノも母サラの旧姓である。サラは父親ほどの夫の年

令を考え,子供は一人だけと考え,以降は夫と接しなかった。その分だけ

息子を溺愛した。2)

 ショックレーの母メイも同様だった。ルーズベルトはこのような家庭の

育ちからか,自己中心の性向が強く,諌言するタイプを極度に嫌った。同

じように,ショックレーも人一倍利己主義的な性格に育った。

 その後,両親はロンドンからカリフォルニアに移った。一人息子に特別

甘かった両親はわがままな息子に厳しい規律が必要だと考え,私立の陸軍

幼年学校(パロアルト・ミリタリー・アカデミー)へ入学させたりした。

パロアルトからロサンゼルスへ移り,個性と自惚れの強い映画人の子弟の

多いハリウッドの高校へ通った。チャップリンの活躍する無声映画の黄金

時代だった。

 15歳の時,父が自宅と75000ドルの株式と公債を遺して死んだ。大学はカ

リフォルニア工科大学に入った。ここを卒業して,大学院はMITに入学し

2)FDR  A Biography ,by Ted Morgan, Grafton Books,1985,参照

一122-(122) 第47巻第1号

た。3)

 博士号を取得してもこの時代,就職は難しく,ショックレーは職探しに

苦労した。GE(ゼネラル・エレクトリック社)やRCA社へも回ったがうま

くゆかなかった。エール大学の講師のポストがあり,この話を進めようと

した時,ケリーがMITへやってきた。ショックレーの希望である年俸3000

ドルを聞いたケリーは,すぐニューヨークのベル研究所に長距離電話し確

認を取った上,承諾の返事をした。ショックレーは具体的条件まで話し,

迅速に雇用条件を決める行動をとったケリーに強い印象を受けた。4)

 ベル研究所入りが決定して,恩師の教授陣を招いて夕食会を開いた。論

文指導教授は招かなかった。

 何事も自分中心で,指導教授の話などに耳を貸さぬショックレーは,論

文作成の最後の頃には,指導教授をほとんど相手にしないようになってい

た。5)

 他人の忠告やアイデアには全く耳を貸さず,人の思惑など意に介さぬシ

ョックレーの性格は幼年時より顕著だったがMIT時代もそうだった。

 1936年6月,ベル研究所に入所したショックレーはニューヨーク市内の

ウエストエンド・ストリート463番地にある研究所で仕事をすることになっ

た。この研究所は1925年にベル研究所が独立した時にWEのエンジニアリ

ング・センターだったものを転用していた。

 ニューアークから40キロ離れたニュージャージー州の37万坪の広大なマ

レーヒルの敷地に新しい研究所の建物ができ,スタッフがここに移るのは

太平洋戦争勃発後である。6)

 大恐慌で凍結されていた新人採用が解禁となり,最初に採用された第一

3)ショックレーの入学からベル研究所入所までは,「電子の巨人たち(上)」前出,pp.

 154-159,pp.172-176。

4) ibid., pp.174-175.

5) ibid., p.175.

6) ibid.,230-232.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3入の人間像(123)-123一

号がショックレーだった。

 米国の電話事業はショックレーの入社の頃までに,二つの重大な危機が

あった。第一の危機は,増大する通話量が膨大な数の交換手を必要とし,

交換手が多くなるほど時間がかかり,コスト高となった。これは1930年代

の大恐慌時代の危機の折,電話交換を手動式から自動式に切り替えること

によって解決した。自動交換機は機械式リレーと真空管を使ったものがあ

った。前者はコストが安く,劣化も少ないがスピードが遅い。後者は高速

だが,フィラメントが切れ,このため,保守が大変という増幅器と同じよ

うな真空管に固有の問題点があった。双方とも体積が大きく,大きな空間

を必要とする。真空管の代りに固体で電流の増幅や整流(電流のスイッチ

として利用できる)が可能なものはできないだろうか。電話事業の面から

このような要望が高まっていた。

 ケリーは入社早々のショックレーにベル研究所の目的が米国の将来の通

信システムの開発にあることを説明し,次のようにいった。

 「電話ネットワークの充実を図るためには,回路を切り換えるスイッチ

と,信号の減衰を防ぐ増幅装置の高度化が不可欠だ。いまあるのは真空管

だが,この真空管の機能の限界は見えている。真空管をはるかに超える能

力を持つ増幅装置を考え出して欲しい。真空管と全く異なった概念のもの

を作ってもらいたい」。ショックレーは,このケリーとの対話が「私の人生

を決定した。私はこの仕事を自分の使命と考えるようになった」と語って

いる。7)

 ショックレーは個性が強く,殿誉褒貝乏がある。自己を信じるところが大

で,容易に人の言に影響されない。いったん熱中し始めると,寝ても覚め

てもこれに没頭するタイプ。自分で「自分に長所があるとすれば,諦めな

7)「日本の半導体40年

 年,pp.43-45。

ハイテク技術開発の体験から  」菊池誠,中公新書,1992

一124-(124) 第47巻第1号

いことだ」8)というくらい粘着力がある。ケリーはベル研究所の使命に関し

て,長期的展望を持ち,ショックレーのような一癖も二癖もある人物を採

掘し,やる気に火をつけた。ケリーの研究リーダーとしての端侃すべから

ざる点である。

 このとき以降,ショックレーは大きな野心を持つようになった。「なんと

かして,真空管と同じ働きを持つ装置を真空管を使わないで,なにかの結

晶を使って実現したい」9)

 ケリーはこの年1936年に物理研究部を再編した。ショックレーの他に冶

金学,物理学を専攻した新鋭二人の計三人による固体物理の基礎研究グル

ープを作った。電話事業に役立つ新素材や新素材の処理方法の発見と促進

がこのグループの目的であった。三人はベル研究所の目的から離れない限

り,研究者としてのカンに従って,どんな研究をしてもかまわない,とい

う今までにない自由を与えられた。1°)

 ショックレーは次から次へと可能性を求めて実験し,失敗を続ける。

 1939年12月29日には,研究ノートに「真空管によらない半導体の増幅器

は,原理的に実現可能だということが分かった」と書いた。11)

 ショックレーらによるトランジスタの発明は,全く突然に生まれたもの

ではなかった。それまでに多くの学者達の研究・発見があり,それらの成

8) 「若きエンジニアへの手紙」菊池誠,ガイヤモンド社,1990年,p.45。

9)ケリーのショックレーへの示唆や,ショックレー,バーディーン,ブラッテンの人

  柄,研究方法,ベル研究所の雰囲気,半導体理論の形成などは,次を参考にした。

  「若きエンジニアへの手紙」前出,

  「日本の半導体40年一ハイテク技術開発の体験から  」

                       菊池誠,中公新書,1992年,  「半導体の話  物性と応用」菊池誠,日本放送出版協会,1983年,

  「半導体を支えた人ぴと一超LSIへの道一」鳩山道夫,誠文堂新光社,1980年。

10)「電子の巨人たち(上)」前出,pp.179-180。

11) ibid., p.183.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(125)-125一

果を土台としてトランジスタは生み出された。物質には電気をよく通す良

導体,通しにくい絶縁体,それからある場合は通し,ある時は通さない半

導体があることは昔から知られていた。

 半導体という材料はよく分らないままに,その便利な性質は比較的早く

から経験的に見つけられ,利用されてきた。しかし,何故そうなるかは分

っていなかった。鉱石ラジオが分りやすい一例だ。何故半導体鉱石に針を

立てただけで,検波(アンテナを流れる交流電流をイヤホンが要求する一

方向に流れる直流に変換する,あるいは,周波数を変換する)する能力が

現われるのだろうか。その理由は分っていなかった。

 ここで,トランジスタの発明の意義をよく知るために,それ以前の半導

体に関する主要な発見を眺めてみたい。

 1839年,ファラデー(英)は硫化銀の導電率が温度とともに増大するこ

とを発見。

 1873年,スミス(英)は,セレンに光を照射すると,その導電率が変化

すること,そして,この性質は金属にはなく,半導体でこの効果が著しい

ことを発見した。

 1874年,ブラウン(独)は方鉛鉱上に金属線(ホイスカ)を接触させ,

最初の金属・半導体接合を作り,その整流特性を確認した。このホイスカ・

ダイオード検波器は,無線周波数信号の検波器として,一時的に使用され

た。しかし,1904年にフレミング(英)が二極真空管,1906年にド・フォ

レスト(米)が三極真空管を発明してからは使われなくなった。

1920年代には,片面を酸化した銅板を積み重ねた整流器が作られるよう

になった。この整流器がどうして整流作用があるかは分らなかったが,と

にかくこのような整流器(セレン整流器や亜酸化銅整流器)は大量に製造

一126-(126) 第47巻第1号

された。温度差で起電力が生じる現象,光を感じる現象,整流現象などは,

その理由の分らないままに実用品として利用された。この現象が分るよう

になったのは,1900年初頭頃から成立する量子力学を基本として,解明が

進んだ1930年頃であった。それは固体内の電子の振舞いが説明できる研究

といってよい。1900年のプランク(独)によって量子仮説がたてられ,1926

年のシュレジンガー(オーストリア)の量子力学方程式によって固体内の

電子の振舞いが定量化できるようになり,1931年にはウィルソン(英)に

よって「半導体のウィルソン模型」が作られた。量子物理学の発端は,原

子や分子の中の電子が起す現象を解明しようとする研究である。

 量子物理学から発展した量子力学により,原子や分子の中の電子が関係

する現象をうまく説明できるようになり,この量子力学の力を借りて半導

体結晶中の電子の現象を説明しようと考えたのがウィルソンである。ウィ

ルソンは量子力学に基礎を置いた最初の半導体理論を提唱し,金属,半導

体,絶縁体の相違を理論的に説明した。このウィルソンのモデルによって,

’卜導体結晶中の電子の振舞いが説明できるようになった。半導体の整流現

象についても多くの研究がなされ,1938年を過ぎると,セレン整流器や亜

酸化銅整流器の現象についても,かなりよく説明のつく理論ができていっ

た。このような固体内の電子の振舞いが解明され,この解明を武器に,真

空管に替る固体増幅という概念が多くの発明家によりなされたが,なかな

か,その実現には至らなかった。

(4)ケリーによる組織改編

 米国が第二次大戦に参入すると,戦時中のベル研究所の所員の半数以上

が海軍技術関係に携わるようになった。その中心はレーダーの基本部品と

システムの開発だった・研究所の予算の九割が軍関係となった。米軍のレ

ー ダー・システムの半分以上がWE製となった。1)

1) 「電子の巨人たち(上)」前出,p.219。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(127)-127一

 戦争となると,ショックレーは1942年5月,ベル研究所を退所して,コ

ロンビア大学内に置かれた海軍主催の「対潜水艦作戦研究(OR)班」の研

究主任となった。班長はMITのフィリップ・モース教授で,ショックレー

はMIT時代に量子力学の指導を受けている。この班は確率と統計学を対潜

水艦作戦に応用して,適切な戦術を編み出すことだった。被害を最小限に

抑えるための護衛船団の配置や,潜水艦の撃沈率を最大限にするための爆

雷投下パターンを編み出していった。2)

 その後,ショックレーは陸軍航空隊の顧問として,新型大型爆撃機B29

に搭載するレーダー爆撃照準器(設計ベル研究所,製作WE)の使用法を訓

練するプログラムを作り,各地のB29基地に赴き,この訓練プログラムに

よって操縦者と爆撃手に新式レーダーの使用法を習熟させる仕事に携わっ

た。3)

 ベル研究所とWEによる新規高性能レーダーの要となる部品の開発に力

量を発揮したケリーは,これらの研究を指導していく過程で,真空管に代

る固体素子技術が戦後の電話技術を牽引するものになるだろうと予測する

ようになった。ケリーは大戦当初,レーダー用の真空管検波器を開発しよ

うとしたが駄目だった。敵機から反射してくる超短波は電気回路の中で増

幅しやすい低周波に変換しなければならない。これは真空管ではできず,

シリコンなどの鉱石検波器でないとできなかった。4)

 ケリーが1938年に発足させた固体物理の基礎研究グループは戦争中は閉

店休業せざるを得なかった。

 ケリーはこの研究には,改善屋ではない,物の本質まで遡って考える者

が不可欠と考えた。固体の中を動く目に見えぬ制御を考えるにはショック

2) ibid., pp.220-221.

3) ibid., pp.225-26.

4) ibid., p.213, p.230, pp.208-209.

一128-(128) 第47巻第1号

レーのような分析的能力が絶対に必要である,とケリーは思った。5)電子の

動きというのは頭の中で抽象的に把握しなければならない。原理を踏まえ

た上で,純粋に理論的な対応が必要になる。6)この辺が目に見える物を扱

い,経験からの判断力がものをいう分野とは異なるのである。

 取締役副所長となったケリーは,第二次大戦終結直前の1945年7月,ベ

ル研究所の戦後の研究組織の大掛かりな変更を行った。クビになった者や

降格者もでた。

 物理関係の基礎研究グループは(1)物理電子研究グループ,(2)電子

力学研究グループ,(3)固体物理研究グループ,の三つのグループが創設

され,(3)はショックレーと化学屋のスタンリー・モルガンがリーダーと

なった。管理業務をショックレーは嫌ったので,モルガンが管理業務を担

当することになった。

 アイデアマンではあるが,本質的に部下管理の才能に欠陥のあるショッ

クレーを補完するためにケリーが配したのがモルガンだった。モルガンは

気さくで,心が広く,人をまとめるのに巧みで,交渉もうまい。ショック

レーとは正反対の人物だった。7>

 ケリーは(3)のグループの発足に先だって,1945年,次のようなこと

をいっている。

 「量子力学の進展により,固体を構成する原子,電子の配置やその振舞

いが判明してきた。これらの原子,電子を制御する方法を発見すれば,有

益な応用分野の技術を開く可能性がある。固体量子力学の理論と,それに

対応,応用する実験を統合化し,総合的に取り組めば,大きな成果が出る

だろう」8)

5) ibid,, p。235.

6)「はじめに仮説ありき」佐々木正,クレスト社,1995年,pp.126-127。

7) 「電子の巨人たち(上)」前出,p.240, pp.246-248。

8) ibid,, pp.247-248.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人聞像(129)-129一

 戦争中,分野の異なる多くの科学者を擁して短期間に大きな成果を出し

た研究所に電波研究所(ラド・ラボ)とロス・アラモス研究所があった。9)

前者は戦時中の緊急プロジェクトとして,マグネトロンからレーダーシス

テムまでを開発する目的で本部がMITに置かれた研究所。20以上の大学と

多数の企業から数百人の科学者や技師が参加した。1°)後者は原子爆弾の開

発で有名である。

 ケリーはこれらのプロジェクトからの経験で理論家の存在が有益なこと

を痛感していた。11>

 ベル研究所でも一流の理論家が必要と考えるようになっていた。

 ショックレーも,固体物理に精通した理論家の必要を感じていた。MIT

時代,一緒に勉強した人を通じて,かつてハーバード大学で1年間研究し

ていたバーディーンの名前を知っ.た。ショックレーはこの友人を通じてバ

ーディーンの意向を尋ね,ケリーにバーディーンのベル研究所入所の勧誘

を頼んだ。12)

 バーディーンは戦前ミネソタ大学で教鞭をとっていた。戦争中は海軍で

潜水艦探知機関連の仕事をしていた。戦後のバーディーンの進む道はミネ

ソタ大学に帰ることだったが,給与が不満だった。こんな時,ケリーが訪

れ,ミネソタ大学の倍以上の年俸6600ドルの条件を示した。バーディーン

がベル研究所の固体物理研究グループに加わったのは,終戦の年の10月だ

った。そのグループには,プリンストン時代に知り合ったブラッテンがい

た。二人はウマが合い,生涯の友となった。13)

 ここで,ショックレーとともにトランジスタの発明者となるブラッテン

とバーディーンについて,その生い立ちとキャリアを略述しておきたい。

9) ibid.,249.

10) ibid., p.211.

11) ibid., p.249.

12) ibid., pp.250-251.

13) ibid., pp.253-254.

一130-(130) 第47巻第1号

ウォルター・ブラッテン14)

 ウォルター・ブラッテンは1902年,清朝末期の度門(アモイ)で生まれ

た。父はこの地の私立男子学校の理科と数学の教師だった。ブラッテン家

は米国の独立以前にまで遡れる家系で,先祖は大西洋岸から徐徐に太平洋

岸まで進み,祖父の代にオレゴン州に移ってきた。母方は,祖父の代にド

イッからカリフォルニアの金探しにやってきたドイツ系。父はブラッテン

が生まれた年に帰国し,ワシントン州で牧場と農業を営んだ。弟と妹がい

た。少年時代は父の農業を手伝い,乗馬と射撃が得意だった。

 シアトル近くの私立幼年学校(ミリタリー・スクール)を卒業し,オレ

ゴン州のウィットマン大学に進んだ。ウィットマン大学は鉱山,農業を中

心科目とする学生数500人規模の小さな学校だった。ここで,ブラッテンは

初めて量子論とか原子構造の概念に接した。WE発行の「ベル・システム・

テクニカル・ジャーナル」誌に載っていた,欧州の斬新な物理学の概念を

要約した記事でこれらのことを知った。

 ブラッテンはその後,オレゴン大(修士過程),ミネソタ大(博士過程)

で学んだ。

 ワシントンの国立標準局の無線部門で働いた後,研究の仕事がしたくて,

1929年,ベル研究所に入所した。真空管のフィラメントの材料であるタン

グステンにさまざまな元素を付加することにより,フィラメントから放出

される電子の流れをよくすることが最初の研究テーマだった。ブラッテン

の入所する4年前の1925年,AT&Tの研究部門が独立し,ベル研究所とし

て独立していた。当時,AT&Tは電話回線網に主として増幅器として数百

万本の真空管を使用していた。この真空管の性能は,AT&Tにとって重大

14)ブラッテンの生い立ち,ibid., pp.36-43。

  ウイットマンカレッジ時代,ibid., pp.70-73, pp.102-103。

 オレゴン大,ミネソタ大時代 ibid,, pp.115-118。

 国立標準局からベル研究所へ ibid., pp.122-125。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(131)-131一

なもので,当然,ベル研究所はエネルギーの多くを真空管の研究に注いで

いた。

 その後,シリコンの純度を上げる研究に取り組んでいたが,戦争になる

と,潜水艦探知機の開発に携わった。鉄の塊である潜水艦は海中に潜って

も,地球の磁気に微妙な変化を起こさせる。これを感知した潜水艦を探知

する装置だ。海軍基地で過ごし,試作品を載せた飛行機に乗ってテストし

た。この研究が一段落すると,1943年にベル研究所に戻って,爆撃機の爆

撃照準用の赤外線探知機の研究を行った。戦争が終わると,固体物理研究

グループに入ることをケリーから命じられた。

ジョン・バーデイーン15)

 ジョン・バーディーンは1908年,五大湖に接するウイスコンシン州のマ

ジソンに生まれた。

 父はウイスコンシン大学医学部の創設に携わった。初代の医学部長であ

る。きょうだいには兄と弟と妹がいた。子供の頃から神童ぶりを発揮し,

小学校では3学年を飛び級した。

 10歳の時,高校生向け代数のコンテストに優勝したこともある。16)

 もの静かで内気だったバーディーンが10歳の時,母がガンで死んだ。14

歳で私立高校を卒業し,そのまま進学もできたが,公立高校でさらに1年

間学んだ。ウイスコンシン大学電気工学科へ進学したのは1923年で15歳。

 卒業は1年間遅れて1928年。その後,2年聞で電気工学と物理学の修士

号をとり,ガルフ・オイル社のピッツバーグ研究所に入所した。地球の磁

場のひずみを利用して地下構造を推測し,石油鉱脈を発見する方法の開発

15)バーディーンの生い立ち。ibid., pp.43-50。

 ウイスコンシン大,プリンストン,ハーバード,ミネソタ大助教授 ibid., pp. 165-

 172。 海軍からベル研究所へ ibid., pp.251-255。

16) 「若きエンジニアへの手紙」前出,p.90。

一132-(132) 第47巻第1号

に携わった。3年間勤めた後,プリンストン大学の博士課程に入学した。

ここで,ブラッテンの弟ロバートと親しくなった。ロバートの紹介でベル

研究所で酸化銅整流器の研究をしていたブラッテンを知った。プリンスト

ン大学で2年間,その後ハーバード大学で1年間研究し,学んだ。

 1938年,ミネソタ大学へ物理学の助教授として赴任した。戦争の直前,

海軍兵姑研究所に移り,ドイツの磁気機雷対策を研究した。水中にある磁

気機雷の上を通っても,機雷を爆発させることなく安全に航行しうる程度

にまで,磁場を減らす研究だった。研究グループのメンバーは90人を超え,

このリーダーがバーディーンだった。

 戦後,ケリーの奨めで,バーディーンがベル研究所に入所し,固体物理

研究グループに加わったのは,1945年10月。

 ケリーは入所早々のバーディーンに,将来の電話網の夢と,この夢の実

現には今の真空管では駄目なこと,をいった。これはショックレーにいっ

たのと同じことだったが,次に,「真空管に代わる全く別の概念の増幅器を

考えるにしても,物質の本質を深く理解することが必要で,その知識なく

しては物質の改良はできない。量子物理学によって,物質の電子的,原子

的な性質を正確に理解する努力をして欲しい」とバーディーンへの期待を

伝えた。

 ケリーは,ショックレーとバーディーンの性格,能力,好みを見抜いて,

違った形で二人のやる気を刺激したのだった。17)

(5)バーディーン,ブラッテンによる点接触型トランジスタの発明

 半導体には経験的に整流作用があることが知られており,量子物理学の

発達によって,固体の中の電子の振舞いの説明ができるようになりつつあ

った。そうして,固体増幅器のアイデアは1920年代から30年代にかけて数

17)「日本の半導体40年 ハイテク技術開発の体験から 」前出,pp.48-49。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(133)-133一

多く出されていた。シックレーは半導体の結晶を使った増幅器を考え,こ

の固体増幅器の研究に情熱を燃していた。

 この時期,ベル研究所での半導体研究グループは研究対象の材料を最も

簡単なゲルマニウムとシリコンに絞っていた。半導体の性質が充分に分っ

ていない段階で,単結晶でない亜酸化銅や構造の複雑なセレンを研究する

よりも,単純な元素であるゲルマニウムやシリコンに研究対象を絞るべき

だとベル研究所は考えた。ベル研究所では,「第一にゲルマニウム,第二に

シリコン,それがこなせたら,次は化合物」という方針を立てていた。

 シリコンと同じ第四族のゲルマニウムは1886年にドイツの化学者ビング

ラーが発見し,自分の国にちなんでゲルマニウムと命名した元素。鉛の精

練の際に副産物としてできるゲルマニウムは,他の元素と化合してできて

いるものではない。その結晶はゲルマニウムが規則正しく並んでおり,実

験する上でも,理論的に考える時にも単純な思考が可能だから都合がよい。

 シリコンはゲルマニウムとよく似た性質を持っている。第四族の兄弟分

の元素であるが,次のような理由で開発が遅れていた。その理由とは,シ

リコンの融点(1420度C)がゲルマニウムのそれ(940度C)と比べて高

く,しかもシリコンは高い温度では他の物質と反応しやすいため,高温で

の処理が難しいことであった。しかし,シリコンのよさも多くて,のちに

はトランジスタ用には殆どシリコンが利用されることになる。これは,シ

リコンが地球上に酸素に次いで多い物質であることや,高温になってもト

ランジスタの機能が落ちないこと(ゲルマニウム・トランジスタでは150度

Cくらいで機能が落ちるが,シリコン・トランジスタは250度Cくらいまで

問題がない),シリコン表面には強くて安定した酸化膜を作ることができ,

これは多くの目的に利用できること,などの理由からである。

 ベル研究所では,ゲルマニウムとシリコンに研究対象を絞ったが,研究

は特にゲルマニウムに集中された。シリコンよりもゲルマニウムの性質が

当時はるかによく知られていたからである。それは米国における戦時中の

研究の成果によるものだった。レーダーに使用する超短波の検波は真空管

一134-(134) 第47巻第1号

では不可能だったから,シリコンの鉱石検波器が使用されていた。このた

め・シリコン鉱石検波器の改良・開発が緊急の問題となった。電波研究所

を中心にシリコンの精製や,不純物の添加による電気特性の変化が詳しく

調べられた。シリコン鉱石から検波器ができるのだから,周期律表ですぐ

下の同じ第四族のゲルマニウムを調べようとする動きが生まれた。

 パーディユー大学では,1942年3月,電波研究所の援助で鉱石検波器に

関する研究を行なうこととなった。物理学科のホロビッツ教授の指導でゲ

ルマニウムの性質と振舞いを調べる研究を始めた。1)高純度のゲルマニウ

ムの精製と,これに微量のボロン,リン,アルミニウム,ヒ素などを添加

して,これが整流にどのような影響を与えるかを調べていった。ゲルマニ

ウムの電気的特質を,その不純濃度から予測できるほどにこの元素の特性

を調べ上げた。この研究が固体増幅器の実現に大きな手掛かりを与えたこ

とは,多くの人々の認めるところである。第二次大戦によって,シリコン

とゲルマニウムに関する研究が急速に深まった。これは戦争中に最重大研

究開発項目としてのレーダー開発プロジェクトのお陰だった。

 シリコンとゲルマニウムはこの時期で最も制御しやすい半導体物質とい

えた。

 バーディーンのショックレー・グループへの重大な貢献は「結晶表面」

の物理学だった。ショックレー達は半導体の結晶を使って増幅装置を作ろ

うと実験を繰り返した。実験の前提理論は,量子物理学を取り入れた結晶

中の電子の振舞いを基礎にしていた。ショックレーはこの結晶中の電子の

振舞いを前提として増幅器のアイデアを出し,実験をしたが予想通りの結

果は出なかった。バーディーンはその原因を考えた。バーディーンの指摘

は,結晶中の電子の振舞いといっても,実際実験に使う結晶は小さいもの

1)「エレクトロニクス50年史と21世紀への展望」日経エレクトロニクス編,

 日経マグロウヒル社,1980年,p.219,「電子の巨人たち(上)」前出, pp.259-260。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(135)-135一

で,これは表面を持っている。結晶の表面と結晶の中が電子にとって同じ

ものとは限らない,という指摘である。バーディーンは「結晶の表面には

電子を入れておく容物が存在する」という仮説を考えた。結晶表面は電子

をつかまえて入れておく性質を持っているので,結晶表面はマイナスの電

荷を持っており,その付近はとられたマイナス電荷が減ってプラスの電荷

となっている。だから結晶の表面近くは「電気的二重層」を持っている,

という仮説を作った。このため,ショックレーのアイデアは予想した結果

を出さないのだ。2)

 仮説は実験によって検証されなければならない。増幅器を作ろうという

試みは中断して,表面状態に関する実験をブラッテンを中心にして進める

ことになった。3)

 ブラッテンは根っからの実験屋だった。実験の虫のようなところがあっ

た。自分でも次のようにいっている。「バーディーンは偉大だ。私は彼の論

文を読んでもわからない所が多かった。でも自分は実験が好きだから実験

だけは自分の責任でできる。時々,彼に質問して,少しわかるとまた,実

験の工夫をする。そんなやり方で仕事をしてきた」4)

 実験屋ブラッテンは,理論屋バーディーンの「電気的二重層」の検証の

ため,実験を繰り返しているうちに1947年12月16日,トランジスタの最初

の実験に成功した。ケリーにはすぐには伝えなかった。ケリーは短気で怒

りっぽい。確実だと確信を持てるまで報告は控えられた。皆はケリーに報

告した後で,間違いだった,というのを恐れたのだ。5)

 ブラッテンは後に次のような興味深いことをいっている。「固体装置を使

った増幅器の重要性は,この分野で働いている者ならば,だれもが1925年

頃から承知していたことだ。私が面白いと思うのは,このような目的に直

2)「電子の巨人たち(上)」前出,pp.255-257。

3) ibid., p.266.

4)「若きエンジニアへの手紙」前出,pp.68-69。

5) 「電子の巨人たち(上)」前出,p.294。

一136-(136) 第47巻第1号

接に挑戦した企ては失敗して,シリコンやゲルマニウムのような単純な半

導体の中で何が起こっているかを理解するための研究努力が突破口になっ

たことである。私はこの研究分野の研究に14年間もかかわってきて,そろ

そろ自信があやしくなってきていた。けれども,上(ケリー)から方向を

変えよとか続行せよとかいう圧力は一切なかった」6)

 固体物理の基礎研究に重点を置いたケリーの方針の結果ともいえた。量

子力学の基礎的な研究やアイデアがなければトランジスタの発明は実現で

きなかっただろう。理論(バーディーン),実験(ブラッテン)のエキスパ

ー トのコンビも成功の原因だった。7)

 たしかに,バーディーンのいうように,1920年代後半から30年代後半に

かけて,多くの発明家達が真空管に替わる固体増幅という概念をめざして

努力していた。

 リリエンフェルト(米)による固体結晶増幅器の概念についての研究

(1926年),ヘイル(英)による半導体抵抗(酸化銅や五酸化バナジウムな

どを使用)を制御電極に使って電流を制御するデバイスの研究(1935年)

などはそうであった。しかし,それらの研究はいわばアイデア倒れのもの

であった。ゲルマニウムやシリコンのような単純な元素の半導体の中で電

子がどのように振舞っているのか,という戦争中からの基本的研究のうえ

にトランジスタの花が咲いたのである。

 ショックレーは1938年頃からこのテーマに取り組んできたが,最初に実

験を成功させたのはブラッテンとバーディーンで自分はその場にいなかっ

た。ショックレーは複雑な思いだった。この研究グループのリーダーとし

ては祝福すべきことなのだが,自分がタッチしていない実験だったことで,

残念さが胸に迫った。ケリーは直ちに特許申請の手続きを命じる。ブラッ

テンとバーディーンが特許課で手続きを始めたのを知ったショックレーは

6)「半導体を支えた人びと 超LSIへの道

7)「電子の巨人たち(上)」前出,p.295。

」 肩ij liム, P.74。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(137)-137一

自分の仕事が無視された,と怒った。ショックレーは二人を一人つつ自分

の部屋に呼んで文句を言った。この特許を自分の名前で申請すべきだ,と

いい,「時々,他人の仕事を自分の手柄にする奴がいる」とまでいった。二

人は唖然とすると同時に憤慨した。8)

 ショックレーは自身で特許課と交渉をはじめたが,彼の電界効果のアイ

デアは20年前にリリエンフェルト(ライプチヒ大学物理学教授,後に米国

に移住)によって特許申請されているのが分った。リリエンフェルトは,

電流を流す半導体物質として硫酸銅を指定はしているが,強い電界によっ

て薄膜を通る電流を操作するという考え方はショックレーの基本概念と同

じだった。このため,特許課では,今までに特許になっていない電荷キャ

リアを半導体に導入することにより,電気信号を増幅するバーディーンと

ブラッテンのやり方を特許申請することにした。申請者はブラッテンとバ

ーディーンの両名となった。この件に同じ程度の貢献をしたと考えられた

からである。二人の意見も研究ノートもそのことを示していた。9)

 ショックレーにとっては衝撃だった。自分のアイデアが20年も前に特許

になっており,トランジスタの特許申請人には自分の名前が入れられなか

ったからだ。ケリーはブラッテンとバーディーンの発見に関して,関係者

に籍口令をひいた。

 この発見をさらに進めるため,ケリーは「表面状態プロジェクト」の正

式コード名をつけ,人員を増やし,メンバーにベル研究所内でもこのプロ

ジェクトの実体を口外せぬよう厳命した。1°)

 ブラッテンとバーディーンの発明は点接触型トランジスタと呼ばれるも

のである。ゲルマニウムの表面に二本の針を立てただけという簡単な構造

の点接触型トランジスタが何故真空管と同じ増幅作用をするのか,生みの

8) 「電子の巨人たち(下)」マイケル・リオーダン,リリアン・ポジソン著,

 鶴岡雄二,ディーン・マツシゲ訳,ソフトバンク社,1998年,pp.19-20。

9) ibid., pp.20-22.

10) ibid., pp.33-34.

一138-(138) 第47巻第1号

親の二人さえもよく分っていなかった。ショックレーとブラッテン,バー

ディーンの間は微妙なものとなった。ショックレーは一人で自分の理論を

まとめるのに没頭し始めた。ケリーはショックレーに好きなようにやらせ

た。11)

 1948年初め,ブラッテン・バーディーンの発明をもとにカートリッジ式

の点接触型トランジスタがベル研究所内の技術者の手によって作られた。

この増幅器の名前は抵抗・変換を表すトランス・レジスタンスという言葉

からもじってトランジスターと名付けられた。12)

 1948年6月23日,軍関係者に発表され,1週間後,一般報道陣に公表さ

れた。

 7月12日付の週刊誌タイムは「小さな頭脳組織」と題して次のように伝

えた。

 「真空管は現代技術の脳細胞である。機械がより複雑な仕事をするよう

になるにつれて,ますます多くの真空管が必要になった。だが,真空管は

その製造にかなりの熟練を要するし,しかも,かさばって,もろいもので

ある。真空管は使用前にウオーミングアップが必要だし,いつもフィラメ

ントを温めておく電力がいる。精巧な電子システムの設計者達は,こんな

欠点のない真空管を求めていた」

 電子工学の専門誌「エレクトロニクス」は1948年9月号は,「そのユニー

クな性質のゆえに,トランジスタはエレクトロニクス技術に測り知れない

影響を与える運命にあり,従来の電子管に替って,幅広く応用されること

になるのは疑いの余地がない」と書いた。13)

 この号の表紙には右下に「革命的な増幅器,結晶3極管(Revolutional

Amplifiler, The Crystal Triode)」と書かれ,ショックレー,ブラッテン,

11) ibid., p.39.

12) ibid., p.45.

13> ibid., p.58.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(139)-139一

バーディーンの三人がにこやかに並んで実験をしている写真が使われてい

た。ショックレーが実験台の前に座り,顕微鏡を覗きながらゲルマニウム

上の点接触を調整している。それをブラッテン,バーディーンの二人が後

ろかた立ってながめている構図である。これは,やらせの写真だった。実

験を繰り返してやっていたのはブラッテンだった。実験を成功させたのは

ブラッテン,バーディーンの二人だ。ショックレーはリーダーだったが,

点接触型トランジスタの発明に直接タッチしたわけでもない。ベル研究所

がチームワークのイメージを伝えようとして撮影した写真だった。ブラッ

テンは後のちまでこの写真を嫌っていた。14)

(6)ショッ.クレーによる接合型トランジスタの発明

 ブラッテンとバーディーンに先を越された無念さは,ショックレーを次

のステップの研究に駆り立てた。

 ショックレーは電気・電子技術(IEEE)学会誌「エレクトロン・デバイ

セス」(1976年)に「接合型トランジスタ発明までの道」と題して次のよう

に書いている。1)

 「点接触型トランジスタの誕生は,グループ全体へのすばらしいクリス

マスプレゼントになった。私もその喜びにあずかった。しかし,私の心に

は葛藤があった。というのは,私は発明者の一人ではなかったために,グ

ループの成功に手放しでは意気揚々とはなれなかった。私は8年以上も前

から努力し続けてきたにもかかわらず,私自身の手で重要な発見を行えな

かった。私は要求不満になっていた。この要求不満がきっかけとなって,

私は次の5年間にどんどんトランジスタの特許を出すようベストを尽くし

た」

 それなら,理論上こんなタイプのトランジスタもできるはずだと,点接

14) ibid., pp.58-59.

1) 「電子立国日本の自叙伝(上)」相田洋,日本放送出版協会,1991年,pp.164-165。

一140-(140) 第47巻第1号

触型とは全くタイプの違う,現在の接合型トランジスタの設計理論を組み

立てた。それは,P型,あるいはN型と呼ばれる二つのタイプの半導体を

作り,それをサンドイッチのようにPNP,あるいはNPNの順につなぎ

あわせればトランジスタができるはず,と考えたのである。このタイプは

接合型とよばれ,点接触型のように何かのひょうしに針がはずれて特性が

変わることはない。

 ショックレーのこの考案は1949年7月のベル・システム・テクニカル・

ジャーナル誌に「半導体およびPN接合トランジスタにおけるPN接合の

理論」と題して掲載された。2)

 しかし,理論は完成しても,このトランジスタはなかなか完成しなかっ

た。純度のよいP型,N型の半導体をつくらねばならないし,真ん中に入

れる層は数十ミクロン以下にしなければならない。1949年から50年にかけ

て,実験が繰り返され,1951年の初め増幅作用を持った最初の接合型トラ

ンジスタが完成した。点接触型トランジスタは,その特性が半導体の表面

の特性に依存しており,さらに二本の針を正確に順序よく置かねばならず,

再現性,信頼性が悪かった。これらの問題をこの接合型トランジスタは解

決したのである。

 1951年7月,ベル研究所で接合型トランジスタの記者発表が行われた。

このトランジスタの特徴は点接触型トランジスタよりも,さらに消費電力

が少なくて済むことだった。通常の真空管は一本に1ワットの電力が必要

だが,接合型トランジスタが消費する電力は百万分の1ワット。これは数

千本もの真空管を使用する電子コンピュータには最も適しているものとい

えた。3)

 ちなみに,世界最初のペンシルバニア大学で作られた大型電子コンピュ

ー タ・エニアック(ENIAC)(1946年)は1万8千本の真空管を使ってい

た。

2) 「電子の巨人たち(下)」前出,p.82。

3) ibid,, pp.110-111.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(141)-141一

 その後,さまざまのデバイスが華々しく登場しては消えていったが,エ

レクトロニクスの中核技術としての,この接合型トランジスタの地位は全

く揺るがなかった。IC, LSI,超LSI,となっても,基本要素は相変らず接

合型トランジスタである。

以上,見てきたように,接合型トランジスタがブラッテンとバーディー

ンによって発明されたのは1947年。点接触型トランジスタの理論がショッ

クレーによって発表され,実現されたのはそれぞれ,1949年,1951年であ

った。

 トランジスタ発明公表の後,ケリーはこの発明の製品化グループを作り,

リーダーにはマイクロ波用の超小型真空管増幅器を開発して頭角を現して

いたジャック・モートンを指名した。ケリーは基礎研究と開発は分けて行

なった方が効率が上がると考えていたからである。

 モートンはミシガン大学(修士課程)を卒業して,ショックレーと同じ

年にベル研究所に入所していた。モートンはA型トランジスタの実験生産

ラインを作った。このA型トランジスタは,軍,企業,大学からサンプル

見本として多くの注文があった。これらの注文の製造過程で問題点が噴出

する。モートンはこれを一つ一つ潰していった。4)

 その後,ブラッテンとバーディーンは表面効果と点接触時の半導体の振

舞いの問題に集中した。

 1949年中頃までにはモートンの生産ラインは3700個以上のA型トランジ

スタを製造し,2700個を軍,企業,大学へ配付していた。依然として同等

の真空管と比ベノイズがひどく,性能の特質にばらつきが大きかった。5)

4) ibid., pp.62-65.

5) ibid., p.86.

一142-(142) 第47巻第1号

(7)ブラッテンとバーディーン,ショックレーと訣を分かつ

 半導体グループを率いていたショックレーは理論的アイデアは自分で考

え出すことができるから,メンバーは彼のアイデアを実験させるだけでよ

いと思っていた。そうして自分のアイデアを研究・実験させるためにグル

ープを使った。こんな所ではバーディーンは疎外されるだけとなった。彼

は理論屋として,基礎研究に関係している実験物理学者と協力している時

に最も力を発揮するタイプだ。このような状況のままにしている研究所幹

部に抗議したがだめだった。ケリーはショックレーの研究にかけており,

自由にやらそうとしていた。ショックレーは接合型トランジスタの開発に

熱中していた。部下達に検討させた理論的問題点は,ショックレーの接合

型トランジスタの検証ばかりだった。1)

 バーディーンはショックレーとの仲が微妙となり,1950年の春からは超

伝導の研究を始めていたがはかばかしくなかった。友人の口ききでイリノ

イ大学へ移る話を始めた。

 ブラッテンによると,「バーディーンはベル研究所,とりわけ特定のある

人物(ショックレー,)に全くうんざりしていた」という。2)

 ショックレー・グループ内ではショックレーの独裁的なやり方に不満が

広がっていた。3)

 ブラッテンとバーディーンは直接研究所幹部に不満を訴えた。

 問題をようやく感じは始めた研究所は1951年3月,ショックレーの固体

物理研究グループを固体物理グループ(モルガン)と,トランジスタ物理

グループ(ショックレー)に分割し,ブラッテンとバーディーンをはじめ

元々からのメンバーの大部分はモルガンのグループに移った。こうしたべ

1) 「電子の巨人たち(下)」前出,pp.96-98。

2) ibid., p.105.

3) ibid., p.107.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(143)-143一

ル研究所の動きもバーディーンの心を癒すことはできなかった。イリノイ

大学から研究の自由を保証するという連絡でバーディーンはイリノイ大学

へ移ることを決心する。

 バーディーンはベル研究所を辞めることになったいきさつを手紙に書い

てケリーに送った。4)

 バーディーンにとって,トランジスタの発明まではこの職場は素晴らし

かった。ところが,トランジスタの発明以降,ショックレーは無神経に研

究分野に入り込んできて,自分の目的のためにバーディンらを利用し始め

たことで,内気でおとなしいバーディーンの心を逆なでし続けたのだった。

バーディーンの決心を知ったベル研究所は大幅な昇給や彼自身の研究グル

ープを作るという条件を出したが手遅れだった。1951年5月,バーディー

ンはベル研究所を去った。5)

 バーディーンはイリノイ大学へ移って超伝導の研究をし,1972年にこの

研究で再び,ノーベル物理学賞を受章した。ノーベル賞の賞金をテキサス・

インスッルメンッ社(TDやゼロックス社に投資し資産を作った。晩年は

質素で静かな余生を送った。1991年,死去。享年82歳。6)

 ブラッテンは定年までベル研究所でいた。1960年代初め,エジプトへ旅

行し,ラクダの駅者がトランジスタ・ラジオを聞いているのを見て,この

発明が与えた影響の大きさを実感した。定年後は母校のウイットマン大学

で物理学を教えて余生を送った。1987年,長らく患っていたアルツハイマ

ー のため,85歳で生涯を終えた。7)

 なお,ショックレーはカリフォルニアで1989年,前立腺ガンのため,89

歳で没している。8)

4) ibid., pp.110-111.

5) ibid., pp.105-109.

6) ibid,, pp.278-279.

7) ibid., pp.276-277.

8) ibid。, pp.274-275.

一144-(144) 第47巻第1号

 3人はいずれもキャリアの最後はアカデミーの世界で過し,長命を保ち,

故郷で晩年を過ごし,ここで死んでいる。

(8)ベル研究所でのトランジスタ技術シンポジウム

 1951年9月,ベル研究所でトランジスタ技術シンポジウムが開かれ,全

米から関係者が集まった。ケリーが歓迎の挨拶を行い,WEが秋から点接触

型トランジスタの製造を始めること,接合型トランジスタも限られた数で

はあるが,研究目的に提供できるようになろうと伝えた。1)

 このトランジスタ技術シンポジウムの8日後の9月25日,申請していた

接合型トランジスタの特許が認められた。

 WEは点接触型トランジスタと接合型トランジスタの製造の特許を2万

5千ドルで公開した。2)

 1952年4月,特許料を支払った会社の関係者を招待者とする第二回トラ

ンジスタ技術シンポジウムが開かれた。参加者には,WEのトランジスタ工

場の見学が許された。このシンポジウムではゾーン精練法と呼ばれるゲル

マニウムやシリコンの超純粋化技術が明かにされた。

 この年の夏,WEは「トランジスタ技術」2巻を発行した。この第2回シ

ンポジウムを記録したものである。これはその後,トランジスタ製造の解

説書として広くりようされた。3)

 ソニーが初めてトランジスタを製造する時も,盛田昭夫がWEからもら

って帰ったこの「トランジスタ技術」が大変参考になった。

 トランジスタに強い関心を示したのは軍だった。航空機搭載用のレーダ

ー にせよ,通信機器にせよ,小型化は切実な問題である。真空管の焼き切

れ,電力消費量,大きな空間といった欠点は,電話の増幅中継器や自動交

1) ibid., pp.114-115.

2) ibid., pp.117-118。

3) ibid., pp.118-119.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(145)-145一

換機以上に問題だった。軍関係製品の特色の一つは,コストよりも性能第

一主義なことである。当時,真空管の一本1ドルに対し,点接触型トラン

ジスタは20ドルもしたが,軍は意に介さず,使用しようとした。4)

 ベル研究所が1953年から55年にかけてトランジスタ開発に投入した資金

の半分は軍の資金だった。WEが1953年にトランジスタの大量生産のため

ペンシルバニア州に建設した工場は陸軍通信隊の資金によるものだっ

た。5)

 1953年3月のフォーチュン誌は「トランジスタの年」と題する記事を載

せた。米国での真空管の月産は3千5百万本に対し,トランジスタのそれ

は5万個だが,将来は明るいと予言していた。6)

(9)ショックレー半導体研究所

 ショックレーはベル研究所内での自分の地位に不満を感じ始めていた。

1950年代の半ばになっても,トランジスタ物理研究グループのリーダーに

過ぎなかった。MIT時代の学友で自分より3年後に入った者が何年も前に

研究部長になり,このころには副所長になっていた。1)リーダーだった固体

物理研究グループの成果からの将来予想される膨大な特許料は研究所に入

るだけだ。2)

 ベル研究所内にはショックレーの競争心むき出しの傲岸不遜な態度や,

人事管理の無神経さを嫌う者が多くなっていた。3)

カリフォルニアに本拠を持つヒューズ・エアクラフトなどから誘いがあ

4) ibid., p.130.

5) ibid., pp.130-131.

6) ibid., p.134.

1)「電子の巨人たち(上)」前出,P.171, P. 213,「電子の巨人たち(下)」前出, P.173。

2> 「電子の巨人たち(下)」前出,P.174。

3)ibid., P.173.

一146-(146) 第47巻第1号

ったが,地位に不満で断った。4)

 ショックレーの野心や希望の大きさを考えると大学の方が二の足を踏

む。5)

 当時のトランジスタ生産の大手のレイセオンやTI(テキサス・インスツ

ルメンツ)にも話を持っていったがだめだった。6)

 ベル研究所の恩人ケリーにも相談し「専門誌のフィジカル・レビューだ

けでなく,経済専門紙のウォールストリート・ジャーナルに名前が載るよ

うな人間になりたい」といって,助力を頼んだ。7)

 自己中心の性格に加え,功名心が強烈なのもショックレーの特色だった。

 ケリーは知人のベンチャー・キャピタリストに電話してくれたが,これ

もうまくゆかなかった。8)

 ショックレーとアーノルド・ベックマンが最初に出会ったのは1955年2

月,ロサンゼルス商工会議所の夕食会だった。ベックマンはカリフォルニ

ア工科大学で化学を教えていたこともある学者で,酸・アルカリを測定す

るPHメーターを考案してこれを製造する会社を1935年に創設し,当時,

従業員?OOO人の大会社にまで育て上げていた。9)ショックレーは半導体会

社を作るという自分の夢に助力を求めるため,その年夏に再び会って,夢

を語った。話を聞いたベックマンは半導体にはかねがね関心を持っていた

ので助力を決める。

 ショックレーはまず,ベル研究所のこれぞと思う知り合いに声をかけた

が,皆断られた。

 モトローラ,フィルコ,レイセオン,シルバニアといった,一流電子会

4)ibid., PP.185-186.

5)ibid., P.186.

6) ibid,, p.188.

7) ibid., p.188.

8) ibid., pp.188-189.

9) ibid., pp.190-191.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(147)-147一

社から若い人材を引き抜こうとして,全国をまわった。1°)

 しばしば名前を聞いたのがフィルコ社フィラデルフィア工場で高周波用

の最新式トランジスタを作っていたロバート・ノイスだった。ショックレ

ー は1955年11月,ノイスに電話し,入社しないか,と誘った。翌年2月,

ノイスは入社に関して一つだけの条件の心理テストを受けた。

 ニューヨークの心理学研究所の事務所で一日がかりで,IQテスト,ロー

ルシャッハ・テスト,語連想テストを受けた。11)

 後に,ノイスらとショックレー研究所を去り,フェアチャイルド半導体

社を創設するユージン・クライナーはショックレーから電話勧誘を受け,

3日間も知能指数テスト,心理テスト,病理テストなどを受け,更に専門

分野の面接を受けた。同じく,ビクター・グリニチは専門誌の研究員の募

集広告を見て,連絡先の電話番号の暗号を解読して応募した。12)後に,ショ

ックレーは人間の資質をIQの数字に置く考えで話題を提供したが,その片

鱗は後述の博士号への異常な信頼とともに既にこのころから見えていた。

 カリフォルニア大学,カリフォルニア工科大学,MITといった一流大学

の人材も物色した。ショックレーが求めたのは論文と特許を大量に生産す

る者だった。研究所の場所としてベックマンは彼の本拠のロサンゼルス付

近を希望したが,ショックレーはサンフランシスコのスタンフォード大学

周辺がよいと考えた。スタンフォード周辺の方がトップクラスの固体物理

学者を雇いやすいと考えたからだ。スタンフォード大学近くに研究所を置

くことは,人材を招く上でも,大学と密接な関係を築く点でも役に立つ,

とベックマンを説得した。13)

 1956年2月,ベックマンはショックレー半導体研究所の発足を発表した。

10) ibid., p.195.

11) ibid., pp.198-200.

12) 「電子立国日本の自叙伝(3)」相田洋,日本放送出版協会,1995年,pp.120-121,

 pp.123-124。

13) 「電子の巨人たち(下)」前出,pp.193-196。

一148-(148) 第47巻第1号

 化学者が必要だったショックレーはゴードン・ムーアにも電話して誘っ

た。ムーアはできたばかりのショックレー半導体研究所でショックレーか

らものすごい早さの質問を次から次へと受けた。答えるまでの時間をショ

ックレーはストップウォッチで測っていた。14)1956年春,発足した時のメン

バーは25人だった。この年の11月1日の朝,ショックレーの下にノーベル

物理学賞受賞の報が入った。翌日は仕事にならなかった。全員が近くのレ

ストランに集って祝賀昼食会を開いた。この日のニューヨーク・タイムズ

はベル研究所のトランジスタ発明はチームワークによって実現されたもの

であるとし,ショックレーをチーム・キャプテンと書いていた。15)

 1958年夏までにベックマンは百万ドル以上をショックレー半導体研究所

に注ぎ込んでいた。ショックレーのアイデアによる4層ダイオードを日産

数百個を生産できるようになったが,性能にバラツキがあり,本格的に購

入してくれる所はなかった。16)アイデアはよくても,品質を一定に保った信

頼性の高い商品の製造は簡単でない。より簡単なものを作ろうという所員

の意見には相変らず耳をかさず,4層ダイオードの開発,製造がうまくい

かないのは所員のせいだと考えるようになった。17)

 理論的に正しい構想を考え出しても,それを製品化するには材料の品質,

製造方法等で膨大なエネルギーがいることをショックレーは理解できず,

理解しようという気も全くなかった。

 トランジスタの製品化に悪戦苦闘を続けたベル研究所のジャック・モー

トンの苦労など考えることもなく,考えたとしても,そんな泥くさい仕事

を評価する気もないのがショックレーだ。

 世界の半導体産業の育成に大きな力のあった井深大は研究者の発明にか

14) ibid., pp.200-201.

15) ibid., pp。205-207.

16) ibid,, p.250.

17) ibid., p.254.

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(149)-149一

けるエネルギー量を1とすれば,その発明が応用品として物になるかどう

か,を見究めるために必要なそれは10で,さらに商品にする100のエネルギ

ー量がいる,といっている。意味の深い言葉だ。ショックレーの考えでは,

発明が全てで,応用への見極めや,商品化など,凡庸な者の誰にでもでき

る,はした仕事である。

 やがて,メンバーはショックレーについてゆけなくなる。原因の一つは

ショックレーの「博士号を持っている者は持っていない者よりも仕事がで

きる」という奇矯な信念だった。「便所掃除でも博士の方がいい仕事をする」

と公言し,本当にそう信じていた。’8)

 メンバーはショックレーの人格に不安を感じた。

 次から次へと目先の変わったものをやろうとする。人の既にやったこと

には全く関心を示さない。毎日の思い付きで仕事を変える。シリコン・ト

ランジスタの開発をやっていたのに,突然スイッチング素子の4層ダイオ

ードの開発を命ずる。「このダイオードの試作を6週間でやれ。できなけれ

ば首」といった指示を出す。スタッフだったグリニッチは次のようにいっ

た。

 「人を公平に扱うことに無神経だった。他人の発想や試みに極めて冷淡。

他人の話を真剣に聞く姿勢が全くない。仕事を部下に委ねて見守ることな

どとてもできないタイプ。どんなプロジェクトにも口を出し,部下のやる

気をうしなわせた」19)

 ショックレーは有能な人々の知恵と活力を集合させる雅量人と正反対の

狭量で自己本位の性格だった。

 ある日,スタッフを集めて,「この中に自分の方針に反対する者がいる」

と切り出し,全員を「うそ発見器にかける」といい出したこともある。う

そ発見器の使用ができぬとわかると,自分のやりかた反対する者は誰かと

18) 「電子立国日本の自叙伝(3)」相田洋,日本放送出版協会,1995年,p.130。

19) ibid., pp.142-145.

一150-(150) 第47巻第1号

捜し続けた。執拗な性格の上に猜疑心が人一倍強いのがショックレーだっ

た。20)

 ある時は,メンバー全員の前で「ここにいるのが不満なら,どこへでも

行けばよい」といった。21)ショックレーは部下を自分の考えのもとに,完全

に掌握しなければ気がすまず,部下のいうことを全く無視するタイプの人

だった。22)

 ショックレーのやり方ではどうにもならぬ,と考える者が自然と7人集

まった。7人は人望があって,若い自分達より批間を知っている者をリー

ダーにしようとした。彼らはショックレー研究所主任研究員で円満,如才

のない人柄のロバート・ノイスを自分達のリーダーに担ぎkげようとした。

彼らはショックレーに黙って,ベックマンと数度にわたって相談した。シ

ョックレーをスタンフォード大学の教授に送り,会社の経営者としてでな

く,技術顧問にする案をベックマンに提案した。

 ベックマンはショックレーを管理者の地位からはずすことも考えたが,

ノーベル賞受章のショックレーを研究のリーダーから遠ざける決心はでき

なかった・ショックレー研究所での騒ぎを耳にしたベル研究所のケリーが

ベックマンに電話をかけ,ショックレーのキャリアを損なうようなことは

やめた方がよい,と説得したのではないか,とムーアは推測している。23)

 研究所のメンバーが櫛の歯が欠けるように1人,また1人と去って行く

ようになった。24)

 アイオワ州という保守的な土地で牧師の家で育ったノイスは集団退社な

ど人を裏切るようなことで世間から許されるだろうかと悩んだ。悩んだ末

ノイスは決断する。ノイスの決断で事は一潟千里に集団退職へと進んだ。

20)日本経済新聞1995年2月9日,「私の履歴書,ゴートン・ムーア(9)」

21)「インテルとともに一ゴードン・ムーア私の半導体人生」玉置直司取材構成,日本

 経済新聞社,1995年,p.48。

22) 「日本の半導体40年一ハイテク技術開発の体験から一」前出,p.114。

23) 「電子の巨人たち(下)」前出,pp.221-222。

24)「インテルとともに一ゴードン・ムーア私の半導体人生」前出,pp.48-49。

ベル研究所におけるトランジスタの発明者3人の人間像(151)-151一

そうして,ショックレーが頼みとしたノイスをはじめ有力なメンバー一 8人

が一斉に退社し,彼らはフェアチャイルド半導体社を設立する。有力メン

バー8人の退社を直前まで気づかなかったショックレーは驚き,怒って「8                           はうぜん人の裏切者ども」と叫んだ。25)エミリー夫人によるとその日情然と裏口から

帰ってきたショックレーは今までに見たこともない青ざめた悲痛な顔をし

ていた。26)

 ベックマンは百万ドル以上を注ぎ込んでも赤字続きで,フェアチャイル

ドが百万ドルの売上があるのを知って,黙っていられなくなった。ショッ

クレーがやっているのは営利企業のやることではなく,利益をあげる見込

のないショックレー個人の個人的好みのアイデアの研究開発に専念する組

織にすぎなかった。ベックマンもショックレーの資質を痛い目にあって知

らされる。

 ITT(インターナショナル・テレグラフ)がベックマンからこの研究所

を買い,フロリダに移すという話もあった。1958年,ショックレー・トラ

ンジスタ研究所と改名して再起を期したが,新しい商品は何も産まれなか

った。ベックマン・インスッルメンツは1959年,この研究所をクレバイト

社に売却するに及んで,ショックレーも退いた。1965年,クレバイト社も

ITTに買収された。そして,1968年には閉鎖された。27)

 ショックレーはスタンフォード大学に招かれる。何といってもノーベル

賞受章者は私立大学の看板になる。ただ,ショックレーの関心は半導体か

ら離れて,「人間の資質の問題」になった。例によって人並みはずれた粘着

25) 「日本の半導体40年」前出,p.115,「インテル急成長の秘密」天野伸一,日刊工業

 新聞社,1993年,p.61。

26) 「電子立国日本の自叙伝(3)」前出,pp.162-163。

  「日本の半導体40年」前出,p.1ユ5。

27) 「電子立国日本の自叙伝(3)」前出,pp.169-170。

  「インテルとともに一ゴードン・ムーア私の半導体人生」前出,p.69。

一152-(152) 第47巻第1号

力でこの問題に取り組んだ。初めからこれはピントの外れたものだった。

彼にとって人間の資質とはIQテストの数字の多寡であった。人間の先天的

要因の強さを信じ,IQテストに異常な信頼を置いた。先天的能力の人種に

よる差異を熱心に研究した。自身では客観的にデータで分析するつもりな

のだが,結果が米国黒人の先天的能力の低さを示すので,人種差別者のレ

ッテルを張られた。28)

 大学の研究室のスタッフはアングロサクソン系米人はいなくて,欧州人

ばかりだった。29)テレビのトランジスタに関する取材を受けて人問の先天

的能力の持論をしゃべり続けて取材班と口論になったこともある。

 外国人でなければとても「黙って俺のいうことを聞け」というタイプの

ショックレーに付き合いきれなかったのだ。

 1975年,大学定年。続けて勤務を希望したが,大学側は断った。3°)

28)「半導体を支えた人びと 超LSIへの道一」前出, p.64,「若きエンジニアへの手

 紙」前出,p.100,「電子立国日本の自叙伝(3)」前出, pp.170-181,「インテルと

  ともに一ゴードン・ムーア私の半導体人生」前出,p、64。

29) 「エレクトロニクスからの発想」菊池誠,講談社,1982年,p.72。

30) 「電子立国日本の自叙伝(3)」前出,p.172。