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Meiji University Title �-Author(s) �, �, Nakamaru, Teiko Citation �, 74: 1-16 URL http://hdl.handle.net/10291/12317 Rights Issue Date 2011 Text version publisher Type Departmental Bulletin Paper DOI https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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Meiji University

 

Titleドイツ民族主義と北欧-「郷土芸術運動」および「血

と大地文学」における北欧文学の受容

Author(s) 中丸, 禎子, Nakamaru, Teiko

Citation 詩・言語, 74: 1-16

URL http://hdl.handle.net/10291/12317

Rights

Issue Date 2011

Text version publisher

Type Departmental Bulletin Paper

DOI

                           https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/

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ドイツ民族主義と北欧

「郷土芸術運動」と「血と大地文学」における北欧文学の受容1

中丸 禎子

1111....導入導入導入導入

まずは、この研究の着想を得た経緯とその目的を略述したい。わたしは、ドイツ文学科

でスウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴ(Selma Lagerlöf, 1858-1940, S2)を研究して

きた。この中で課題となったのが、どのようにしてドイツ文学研究と北欧文学研究を両立

させるか、どのようにしてスウェーデンの一作家研究をドイツ文学と関連付け、その発展

に寄与させるかということだった。その解決策の一つが、ドイツにおける北欧文学の受容

研究である。

ドイツと北欧は、地理的にも、言語的にも、文化的にも近く、長い交流の歴史がある。

北欧語の文学が、国際的に読まれ、評価されるためには、よりメジャーな言語に翻訳され

ることが不可欠だが、ここで、ドイツ語の果たした役割は、英語やロシア語、フランス語

のそれよりも大きかった。逆に、北欧文学がドイツ文学に与えた影響も少なくない。たと

えば、ライナー・マーリア・リルケ(Rainer Maria Rilke, 1875-1926)は、影響を与えた人物

として、オーギュスト・ロダン(François-Auguste-René Rodin, 1840- 1917)と並んでイェン

ス・ペーター・ヤコブセン(Jens Peter Jacobsen, 1847-85, D)の名を挙げ、その作品を聖書

と並ぶ重要書とした。『マルテの手記』(Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge, 1910)

は、『ニイルス・リイネ』(Niels Lyhne, 1880)に触発されて執筆された作品である。トーマ

ス・マン(Thomas Mann, 1875-1955)の『ブッデンブローク家の人々』(Buddenbrooks, 1901)

には、商家の系譜物語である点や語りの文体、イロニーの用い方などにおいて、アレクサ

ンデル・シェラン(Alexander Kielland, 1849-1906, N)の『ガルマンとウォルセ』(Garman och

Worse, 1880; de: Garman und Worse, 1881)と多くの共通点が見られる。また、フリードリッ

ヒ・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844-1900)がドイツおよびヨーロッパで注目さ

れるようになったのは、二人の北欧人による受容がきっかけだった。デンマークの思想家

ゲーオウ・ブランデス(Georg Brandes, 1842-1927, D)は、コペンハーゲン大学の公開連続

講義(1888 年 4 月)で、ニーチェをセーレン・キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard, 1813-55,

D)の思想的後継者として紹介した。この講義の記録は、『貴族的急進主義』(Aristokratisk

1 本稿は、日本学術振興会特別研究員 PD(一橋大学)としての研究成果の一部である。 2 作家名の生没年の後ろにある略号は、D=デンマーク、N=ノルウェー、S=スウェーデン。

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Radikalisme, 1889)というタイトルで刊行され、翌年にはドイツ語訳『貴族的急進主義 フ

リードリヒ・ニーチェ論』(Aristocratischer Radicalismus. Eine Abhandlung über Friedrich

Nietzsche, 1890)が刊行された。ブランデスの影響から、オーラ・ハンソン(Ola Hansson,

1860-1925, S)は、『フリードリヒ・ニーチェ その個性と体系』(Friedrich Nietzsche ― seine

Persönlichkeit und sein System, 1889)と題した論文を発表した。これは、『貴族的急進主義』

のドイツ語版に数ヶ月先立って刊行され、ニーチェについてドイツ語で書かれた最初の刊

行物となった3。この他にも、アルネ・ガルボルイ(Arne Garborg, 1851-1924, N)、ヨナス・

リー(Jonas Lie, 1833-1900, N)、ビョルンスチェルネ・ビョルンソン(Bjørnstjerne Bjørnson,

1832-1900, N)、アウグスト・ストリンドベルイ(August Strindberg, 1849-1912, S)、エドヴ

ァルト・ムンク(Edvard Munch, 1863-1944, N)、エレン・ケイ(Ellen Key, 1846-1926, S)な

ど、ドイツに長期居住し、人気を博した北欧の作家・芸術家・思想家は少なくなかった4。

ドイツにおけるこうした北欧受容には、19 世紀後半から 20 世紀にかけて民族主義が高

揚する中、北欧が「ゲルマン民族の故郷」として理想化されたという背景があった。現在

の日本でも、北欧を過度に理想化する風潮は根強い。このことの一因にも、民族主義期の

ドイツが、明治以降、第二次世界大戦敗戦までの日本の近代化モデルとして、政治的影響

のみならず、文化的・文学的影響を与えており5、その中で、最初から「理想郷」というフ

ィルターをかけられた北欧像が流入したことが挙げられるのではないだろうか。

これらの影響にもかかわらず、日本におけるドイツ文学研究では、北欧文学への言及は

きわめて少ない。また、ドイツの 19 世紀・20 世紀の文学研究全般においては、プロレタ

リア文学や、ナチスに対する抵抗文学の研究が主流であり、ナチスおよびナチスに連なる

民族主義思想・作家の研究は少ない6。本研究の目指すところは、ドイツ文学研究における

北欧文学の重要性を喚起すると共に、ドイツの民族主義文学という新たな研究対象を提示

することである。本稿では、まず、「郷土芸術運動」、「血と大地文学」などのドイツのナシ

ョナリズム運動において、北欧が「ゲルマン民族の故郷」として理想化される過程を概観

3 北欧におけるニーチェ受容については、Jürg Glauser (Hg.): Skandinavische Literaturgeschichte. Stuttgart/Weimar (J. B. Metzler) 2006, S.215-217に、Nietzsche im Nordenという項目が立てられている。 4 a.a.O. S.201. 特に、ベルリンの「黒い子豚亭」(Schwarzer Ferkel)では、北欧系を含む多くの芸術

家が共同生活をしていた。 5 たとえば、森鷗外(1862-1922; 『牧師』、1908)、小山内薫(1881-1928; 『彼得の母』、1905)、生

田春月(1892-1930; 『地主の家の物語』、1928)、石丸静雄(1912-88; 『幻の馬車』、1959 ほか)、

佐々木基一(1914-93; 『地主の家の物語』、1951)らのラーゲルレーヴ翻訳は、ドイツ語訳からの

重訳であり、原文から翻訳した香川鉄蔵(1888-1968; 『飛行一寸法師』、1918)、柴田治三郎(1909-98; 『巴旦杏の花咲くころ』、1950)も、ドイツ語訳を参照している(( )内、生没年の後ろは邦訳と

その出版年)。また、他の北欧文学研究者にも、アンデルセン研究者の大畑末吉(1901-78)、児童文

学研究者の矢崎源九郎(1921-67)、古代・中世北欧文学研究者の谷口幸男(1929-)など、ドイツ文

学科の出身者が少なくない。 6 Uwe-K. Ketelsen: Völkisch-nationale und nationalsozialistische Literatur in Deutschland 1890-1945. Sammlung Metzler Band 142. Stuttgart (J.B. Metzlersche Verlagsbuchhandlung) 1976, S.1.

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し、次いで、その中でのラーゲルレーヴの位置を確認する。最後に、具体的なラーゲルレ

ーヴ作品を分析し、その民族主義との共通点を指摘したい。

2222.ドイツドイツドイツドイツにおけるにおけるにおけるにおける北欧北欧北欧北欧およびおよびおよびおよび北欧文学北欧文学北欧文学北欧文学のののの受容受容受容受容

19 世紀、20 世紀のドイツにおいて、北欧文学の市場は、民族主義運動と、自然主義や新

ロマン主義などの文学運動という二つの関心領域によって形成された。民族主義的な、す

なわち、「ゲルマン民族のルーツ」としての北欧受容の歴史は、19 世紀初頭にさかのぼる。

フランス革命、ナポレオン戦争を経て、ヨーロッパ全土でナショナリズム、ロマンティシ

ズムの機運が高まると、ドイツでは、領邦として分断されていた国家の「統一」が重要課

題となった。この際に、北欧の神話や伝説を記したアイスランド・サガやエッダは、統一

ドイツのルーツを宿すものとして、盛んに研究・翻訳・出版された7。1871 年、ヴィルヘ

ルム一世(Wilhelm I, 1797-1888; 在位 1871-88)のもと、ドイツ帝国が成立すると、その経

済力・軍事力は急速に拡大した。ドイツの諸都市は目覚しく発展し、鉄道や道路交通、オ

ペラ座、劇場などが整備されて、首都ベルリンは、一躍、パリ、ロンドン、ローマと並ぶ、

ヨーロッパの文化、化学、工業の中心地となった。統一国家として見せた急速な発展は、

国民意識を高揚させる一方、貧富の差を拡大させ、労働問題が新たな課題となった。

こうした中、自然主義と民族主義という二つの関心領域が並行し、時には重なり合いつ

つ、ドイツにおける北欧文学の市場を形成していく。1830 年代から 40 年代にかけて自由

主義が拡大した際、保守主義の上流階級と自由主義の中産階級が対立を続けたこともあり、

ドイツでは、民主的な機運は他の西欧諸国よりも低かった。加えて、宰相オットー・フォ

ン・ビスマルク(Otto von Bismarck, 1815-98; 在任 1871-90)は、1871 年、「社会主義者鎮圧

法(Sozialistengesetz; Gesetz gegen die gemeingefährlichen Bestrebungen der Sozialdemokratie)」

を制定し、労働運動や社会主義運動を弾圧した。ドイツの自然主義文学は、これらの運動

の迂回策という側面も持ちつつ、エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)などのフランス

文学や、ビョルンソン、ヘンリク・イプセン(Henrik Ibsen, 1828-1906, N)、ストリンドベ

ルイ、ハンソン、ヘルマン・バング(Hermann Bang, 1857-1912, D)など、北欧「80 年代文

学8」の影響を受けて展開した。特に、ブランデス『19 世紀文学主潮』は、1872 年にドイ

7 Andrew Wawn, The post-medieval reception of old norse and old icelandic literature. In: R. McTurk (ed.), A companion to old Norse-Icelandic literature and culture. Oxford: Blackwell, 2005, p.328-39. 8 「80 年代文学」(åttiotalet)とは、デンマークの思想家ブランデスが、コペンハーゲン大学で行っ

た連続講義『19 世紀文学主潮』(Hovedstrømninger i det 19de Aarhundredes Litteratur, 1871)に端を発

して展開された、自然主義的な文学運動である。その背景として、1850 年以降急速に進んだ、工業

化、都市化、農村の空洞化、交通網の発達、アメリカ移民、商業や金融業の発達、中産市民階級の

台頭、政治の民主化などがある。また、出版業の活性化により、チャールズ・ダーウィン(Charles

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ツ語訳 Hauptströmungen in der Literatur des 19. Jahrhunderts が刊行され、ドイツ自然主義の

理論的支柱となった。また、イプセンは、長くベルリンに在住したこともあり、「ドイツ文

学作家」として認識される9ほど、その影響は強く、レクラム、フィッシャーそれぞれから

翻訳が刊行されたほか、1889 年から 1904 年にかけて全集も刊行された10。ベルリンの「自

由劇場(Freie Bühne)」は、最初の公演にイプセン『幽霊』(Gengangere, 1881; de: Gespenster,

1884)を選ぶ11など、イプセンを積極的に上演し、ベルリンは、「イプセンの街、すなわち

世界最先端の演劇都市12」となった。ただし、この時期のドイツにおいて、北欧文学は、

しばしば、作家の意図や芸術性を無視して、時にはそれらに反して、「調和の取れた牧歌的

風景」へとステレオタイプ化された。翻訳や翻案の段階で、作品はしばしば「毒抜き」さ

れた。顕著な例として、イプセン『人形の家』(Et dukkehjem, 1879; de: Nora oder ein

Puppenheim, 1880)のドイツ初演では、主人公ノラが、夫に説得され、子どものために家に

とどまる結末が上演された13。「80 年代文学」を代表するビョルンソンも、農民の暮らしを

書いた『日向が丘の少女』(Synnøve Solbakken, 1857)や、アイスランド・サガを素材にし

た演劇『シグルド・スレムベ』(Sigurd Slembe, 1862)三部作等で人気を博し、北欧近代文

学受容の突破口を開いた14が、北欧文学史では自然主義作家とされる彼の、ドイツにおけ

る位置は、農民小説や歴史劇の作家というものだった15。

ドイツの自然主義文学は、1890 年ごろに収束する。1888 年にヴィルヘルム二世(Wilhelm

II, 1859-1941; 在位 1888-1918)が戴冠し、政治的・文化的な保守化が進行すると、自然主

義文学は危険視され、厳しく弾圧された。また、文学界からも、自然主義は「極端」で「想

像力が欠如」しているとの批判があがった16。一方、ヴィルヘルム二世は、毎年のように

自身の帆船「ホーエンツォレルン号」で北欧に旅行し、その自然、生活、神話、英雄など

Darwin, 1809-82)、ハーバート・スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)、ジョン・スチュアート・

ミル(John Stuart Mill, 1806-73)、オーギュスト・コント(Auguste Comte, 1798-1857)、イポリート・

テーヌ(Hippolyte Taine, 1828-93)、ルートヴィッヒ・アンドレアス・フォイエルバッハ(Ludwig Andreas Feuerbach, 1804-72)など、西欧・アメリカの自然科学的・批判的・経験論的思想が流入し、19 世紀

前半のキルケゴールやヴィクトル・リュドベルイ(Vikotr Rydberg, 1828-95, S)の教会批判を背景に、

若い世代に人気を博したことも影響している。ブランデスは、これら西欧思想と北欧の思想・文学

を比較し、当時主流であった後期ロマン主義文学やビーダーマイアー文学を批判した。 9 Glauser (2006), S.201. 10 Ebenda. 11 Jennifer Watson: Swedish Novelist Selma Lagerlöf, 1858-1940, and Germany at the turn of the century. O

du Stern ob meinem Garten. Scandinavian Studies Vol.12. Lewiston/Queenston/Lampeter (The Edwin Mellen Press), p.22. 12 Glauser (2006), S.201. 13 a.a.O. S.202. 14 Watson (2004), p.21. 15 Ibid, p.21. 16 Ibid, p.24.

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を繰り返し称えることで、民族主義の高揚を促した17。この結果、1890 年代の前半には、

ギュスターヴ・フローベール(Gustav Flaubert, 1821-80)、シャルル・ボードレール(Charles

Pierre Baudelaire, 1821-67)などのフランス文学と並んで、クヌート・ハムスン(Knut Hamsun,

1859-1952, N)、ヴェルナー・フォン・ヘイデンスタム(Verner von Heidenstam, 1859-1940, S)、

ラーゲルレーヴ、エリック・アクセル・カールフェルト(Erik Axel Karlfeldt, 1864-1931, S)18、ブランデス、ハンソン19など、北欧「90 年代文学20」への関心が高まった。

ドイツの 1890 年代に展開された、反自然主義的な芸術運動は、主に、象徴主義、印象主

義、新ロマン主義、郷土芸術運動の 4 つで、このうち、「90 年代文学」の受け皿となった

のは、新ロマン主義と郷土芸術運動だった。ドイツの新ロマン主義は、19 世紀初頭のロマ

ン主義文学への回帰をうたい、「民衆ロマン主義(Volksromantik)」や民話に興味を示す作

家も少なくなかった21。たとえば、「90 年代文学」を代表するラーゲルレーヴ『イェスタ・

ベルリングのサガ』(Gösta Berlings saga, 1891)は、美しい言葉と描写、幻想的・神秘的要

素から、まずは新ロマン主義によって熱狂的に受容された。しかし、ドイツの新ロマン主

義文学は、北欧の「90 年代文学」と同じく、1910 年ごろに収束した。

17 Glauser (2006), S.201. 18 スウェーデンは、これまでに 6 人のノーベル文学賞受賞者を輩出しているが、そのうち、ラーゲ

ルレーヴ(1909 年受賞)、ヘイデンスタム(1916 年)、カールフェルト(1931年)の3人が、「90年代文学」作家である。他の「90 年代文学」作家では、ノルウェーのハムスン(1920 年)も受賞

した。ほぼ同年代の「80 年代文学」作家からは、ノルウェーのビョルンソン(1903 年)、デンマー

クのポントピダン(1917 年)らが受賞しているが、ストリンドベルイをはじめとするスウェーデン

人からは、一人も受賞者が出ていない。ストリンドベルイが「危険人物」として選に漏れ、「スウ

ェーデン人初の受賞者」に「闘争的でな」く、「安心」なラーゲルレーヴが選ばれた経緯は、グン

ナー・アルストレーム「セルマ・ラーゲルレーヴに対するノーベル文学賞授与の選考経過」、望月

一男訳、『ノーベル文学賞全集 第 18 巻』所収、1971 年に詳しい。 19 ブランデスとハンソンは、「80 年代文学」から「90 年代文学」へと転換した。 20 「90 年代文学(nittiotalet)」とは、1880 年代の末から世紀転換期にかけて北欧で主流を占めた、

反進歩主義・反啓蒙主義・反科学中心主義的な文学運動である。急激な社会変化に対する危機感と

不安という背景は、「80 年代」から存続するものだったが、「90 年代」の特色として、一方では神

秘的・内面的なもの志向を志向することで、また一方ではナショナリズムや民族主義の高揚を以っ

てこの不安を解消しようとした点が挙げられる。 1880 年代、北欧の政治は民主化から保守化へと一転した。この結果、文学界において、啓蒙によ

って現実の社会生活の変革を目指す気運は下降し、ニーチェとフロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)の受容を背景に、デカダンス、個人主義、人間の精神への関心が高まった。文学の対象も、現実の

社会生活から「目に見えないもの」、すなわち、心理、魂、美、神秘、宗教、また、それらの根源

としての過去、自然などへと移った。「80 年代文学」が叙事的・戯曲的・小説的技法を用いたのに

対して、「精神」「心情」「魂」「美」に重点をおいた「90 年代文学」は、抒情詩の形式を好んだが、

その際にしばしば、地方の民謡の韻・音律・独特の比喩表現などが用いられた。地方あるいは郷土

を重視する傾向は、文学の分野にとどまらず、家族や伝統行事を題材にした絵画や博物館が人気を

博したり、「国旗の日」(のちの建国記念日)が提唱されたりするなど、各分野でナショナリズムや

民族主義の高揚が見られた。Watson (2004), p.24, Karl Rainer von der Ahé: Rezeption schwedischer Literatur in Deutschland 1933-1945. Hattingen (Verlag Dr. Bernhard Kretschmer) 1982, S.188 ff. 21 Watson (2004), p.25.

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ドイツにおける北欧文学受容のあり方を決定付けたのは、「郷土芸術運動

(Heimatkunstbewegung)」による受容である。「郷土芸術運動」は、1890 年ごろから 1918

年ごろにかけて展開された民族主義的、国家主義的な運動である。19 世紀にすでに、「村

落物語(Dorfgeschichte)」や「農民小説(Bauernroman)」などの「郷土文学(Heimatliteratur)」

は存在したが、ここでの「郷土」は、中立的な概念で、排他性やイデオロギーと直接結び

つくものではなかった。これに対し、世紀転換期に、フリードリヒ・リーンハルト(Friedrich

Lienhard, 1865-1929)、アドルフ・バルテルス(Adolf Bartels, 1862-1945)らは、反自然主義・

反近代の立場から、「大都市芸術(Großstadtkunst)」の対概念として、「郷土芸術」を提唱

する。彼らが創刊した雑誌『郷土』(Heimat, 1900-04)は運動の理論的支柱となり、彼らの

小説も、爆発的な人気を誇った。彼らを支持したのは、ドイツの工業化によって生活基盤

を脅かされた、営農中産階級だった22。「郷土芸術運動」は、「ベルリンから離脱せよ(Los

von Berlin)」をスローガンに、「工業化と貨幣経済(Industurialisierung und Geldwirdschaft)」

の形態をとる資本主義と、「賎民的懐古(pöbelhafte Rückspiegelung)」としての社会主義を

同様に批判し23、「地域(Provinz)」に根ざした「民族性(Volkstum)」、「部族(Stammesart)」、

「風土(Landschaft)」を賞賛し、そこに宿る「根源的な力(Urkräfte)」を追求した24。この

過程で、「郷土」という概念は、感傷的・排他的なイデオロギーへと変貌していった25。農

民を「神話化」し、その土との結びつき、郷土愛、家族あるいは血統を重視するこうした

傾向は、「血と大地文学(Blut- und Boden-Literatur)」において頂点を迎え26、ナチズムの思

想的根拠を形成した。このような民族主義の成立に大きな役割を果たしたのが、スウェー

デン人のチベット探検家スヴェン・ヘディン(Sven Hedin, 1865-195227)や、北欧の「90 年

代文学」だった。特に、クヌート・ハムスン『神秘』(Mysterier, 1892; de: Mysterien, 189428)

は、北欧ブームを巻き起こし、北欧とドイツは、ともに「男らしさ(Mannhaftigkeit)」や

「好戦性(Kampflust)」といった「ゲルマン民族気質(Germanische)」を持つ一つの民族で

ある、というイデオロギーを形成した。同時に、北欧は、ヴィルヘルム二世の北欧神話・

伝説受容に典型的にうかがえる通り、目まぐるしく発展する工業時代にあるドイツを補填

する、前時代的な場所でなければならなかった。こうして、「孤独(Einsamkeit)」、「静けさ

(Stille)」、「自然(Natur)」、「根源性(Ursprünglichkeit)」を担う、文明の外にある反近代

22 濱崎一敏『「郷土芸術」の思想的背景―J.ラングベーンとA.バルテルス―』、長崎大学教養学

部紀要(人文科学篇)第 36 巻第 1 号、1995 年 7 月、4 ページ。 23 Ketelsen (1976), S.37. 24 Otto F. Best: Handbuch literarischer Fachbegriffe. Definition und Beispiele. Frankfurt a.M. (Fischer) 1972, S.201. 25 Herald Fricke (Hg.): Reallexikon der deutschen Literaturwissenschaft. Bd.II. (Neubearbeitung des Reallexikons der deutschen Literaturgeschichte), Berlin/N.Y. (Walter de Gruyter) 2000, S.19. 26 Fricke (2000), S.20. 27 Ahe, S.170 ff. 28 Glauser (2006), S.202. 『神秘』は、Albert Langen Verlag の最初の出版物でもあった。

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的な「資本主義化以前の牧歌的世界(präkapitalistische Idylle)29」という北欧像が成立した30。

3333....ドイツドイツドイツドイツのののの民族主義民族主義民族主義民族主義におけるにおけるにおけるにおけるラーゲルレーヴラーゲルレーヴラーゲルレーヴラーゲルレーヴのののの受容受容受容受容

以上では、ドイツの民族主義と北欧文学の受容の関係を概説したが、ここでは、その具

体例として、「90 年代文学」の代表的作家セルマ・ラーゲルレーヴ31のドイツにおける受容

を採りあげたい。ドイツにおいて、ラーゲルレーヴは、他の「90 年代文学」の作家と同じ

く、まずは新ロマン主義によって受容され、後に、「郷土芸術運動」、「血と大地」思想、そ

してナチス政権のもとで人気を博した。特に、「郷土芸術運動」の作家グスタフ・フレンセ

ン(Gustav Frenssen, 1863-1945)は、『イェスタ・ベルリングのサガ』に触発されて『イェ

ルン・ウール』(Jörn Uhl, 1901)を執筆した。同作は、ホルシュタイン32の農夫の息子が、

普仏戦争(1870-71)や家族の崩壊などを経て知事になるまでを書いた教養小説的な作品で、

『イェスタ・ベルリングのサガ』と同じく読者に向けた語り口調を特徴とし33、半世紀で

50 万部を売り上げた34。運命の甘受、意味の追求、内面への埋没といった特徴を持つ同作

は、後に「血と大地文学」へと至る「プレ・ファシズム作品群(präfaschistische Werke)」

の一つである35。ただし、それだけを理由に、ラーゲルレーヴを排他的民族主義者と断定

することはできない。というのは、イプセンやビョルンソンと同じく、ラーゲルレーヴも、

翻訳・翻案の段階で「牧歌的な北欧像」にあわせて「毒抜き」されたからである。原文の

スウェーデン語が難解であるのに対して、もっともよく読まれたパウリーネ・クライバー

29 a.a.O. S.201. Barbara Gentikow: Skandinavien als präkapitalistische Idylle. Rezeption gesellschaftskritischer Literatur in

deutschen Zeitschriften 1870 bis 1914, Neumünster(Karl Wachholtz Verlag) 1978. 30 Glauser (2006), S.202. 31 ラーゲルレーヴの伝記的事実や文学史上の位置づけについては、すでに、『詩・言語』掲載の拙

論で紹介している。詳しくは、拙稿「男性・耕地・健康/女性・森・病―セルマ・ラーゲルレーヴ

『エルサレム』における「血と大地」」、「詩・言語」70 号(東京大学大学院人文社会系研究科ドイ

ツ語ドイツ文学研究会)、2009 年 3 月、27~46 ページ他を参照のこと。この論文は、「東京大学学

術機関リポジトリ」内の、以下のURL で閲覧することが出来る。http://hdl.handle.net/2261/24316 32 ホルシュタインは、その北部にあるシュレスヴィヒと共に、長い間、デンマークとの間で帰属問

題が争われてきた土地である。1865 年の「第二次シュレスヴィヒ・ホルシュタイン戦争」で、同地

はプロイセン・オーストリア共同管理地となり、普墺戦争(1866 年)でプロイセン領、ドイツ統一

でドイツ帝国領となった。 33 『イェスタ・ベルリングのサガ』における語り口調については、拙稿「たそがれの物語―セルマ・

ラーゲルレーヴ『イェスタ・ベルリングのサガ』における前近代的世界(前編)」、「詩・言語」61号(東京大学大学院人文社会系研究科ドイツ語ドイツ文学研究会)、2004 年 9 月、40 ページ以降参

照。http://hdl.handle.net/2261/25398 34 Ketelsen (1976), S.42. 35 Fricke (2000), S.20.

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=ゴットシャウ(Pauline Klaiber=Gottschau, 1855-1944)のドイツ語訳 Gösta Berling. Roman

(1903)36は、非常に平明で、郷土芸術運動の担い手となった中産階級の嗜好に合致して

いた。また、初期の翻訳は、ラーゲルレーヴの許可なく出版されており、必ずしも作者の

気に入るものではなかった37。ラーゲルレーヴに影響を受けた作家は、他にも、イナ・ザ

イデル(Ina Seidel, 1885-1974)、フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883-1924)、ゲルハルト・

ハウプトマン(Gerhart Hauptmann, 1862-1946)、ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht,

1898-1956)、ネリー・ザックス(Nelly Sachs, 1891-1970)、ヘルマン・ヘッセ(Hermann Hesse,

1877-1962)、トーマス・マンなど多岐に渡っており38、必ずしも民族主義だけが、その受容

の理由ではなかった。更に、ラーゲルレーヴ自身は、同じ「90 年代文学」のハムスンとは

対照的に、一貫してナチズムを批判した。すなわち彼女は、『土間で書いた話』(Skriften på

jordgolvet, 1933)において、ナチスの反ユダヤ主義を公然と批判し、その収益はユダヤ人の

亡命のために寄付した39。1938 年には、スウェーデン政府に対して、ネリー・ザックスと

その母親の亡命を嘆願してもいる40。また、ラーゲルレーヴは国際ペンクラブ(Internationale

Schriftstellervereinigung)の常任理事会会員として、文化の保護という観点からも、ナチズ

ムと相容れることはなかった41。しかし、ナチス政権は、その人気にかんがみて、ラーゲ

ルレーヴを発禁処分の対象にはしなかった。それどころか、『イェスタ・ベルリングのサガ』

や、自伝『モールバッカ』三部作は、「ユダヤ人と共産主義者に毒される以前の健康で素朴

なドイツ的生42」を体現した作品として、ナチズムの格好のプロパガンダとなった43。戦時

下のドイツで刊行されたラーゲルレーヴ作品は 12 作にのぼり、そのうち、『アルネ師の宝』

(Herr Arnes Penningar, 1904)は、1943 年に国防軍出版部(Wehrmachtsausgabe)から44、翌

44 年には、『イェスタ・ベルリングのサガ』が戦線出版局(Frontbuchhandler Ausgabe)から

刊行され、ドイツの民族ナショナリズムの雑誌『新文学』(Die Neue Literatur)、『文学』(Die

36 クライバー=ゴットシャウのドイツ語訳は、現在もラーゲルレーヴ翻訳のスタンダードで、直近

のものは、2007 年 9 月にDTV から再版された。同作にはこのほか、Margarethe Langfeldt 訳(1896年)、 Mathilde Mann 訳(1899 年)など、複数の翻訳があり(vgl. Watson(2004), p.28)、2007 年には、

新訳Die Geschichte von Gösta Berling. Paul Berf (Übrs.), Piper Nordiska, 2007.が刊行された。 37 Watson (2004), p.28-29. 38 Ibid. 39 Ibid, p.34. 40 Ibid, p.165. ただし、ネリー・ザックスが手紙で亡命の仲介を依頼した際、ラーゲルレーヴはすで

に 80 歳を迎え、長年にわたって健康上の問題を抱えていたためもあるが、すぐには返事を出さな

かった。彼女がスウェーデン政府にザックスの亡命を働きかけたのは、ザックスの友人グドルー

ン・デーネルト(Gudrun Dähnert, 1907-1976)が渡瑞して直接ラーゲルレーヴに掛け合った後のこと

である。 41 Ahé (1982), S.227. 42 Watson (2004), p.25. 43 Ibid, p.34-35. 44 Regina Quant: Schwedische Literatur in deutscher Übersetzung 1830-1980. Eine Bibliographie. Paul, Flitz; Halbe, Heinz-Georg(Hg.). Göttingen (Vandenhoeck & Ruprecht) 1987, S.1307.

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Literatur)、『高地』(Hochland)、『北欧』(Der Norden)、あるいはスウェーデンの民族ナシ

ョナリズムの雑誌『スウェーデン・ドイツ』(Sverige-Tyskland)などでも、ラーゲルレーヴ

は盛んに紹介された。こうした経緯から、戦後ドイツにおいて、ラーゲルレーヴは、一般

読者の間で人気は保っていたものの、「ナチスの御用作家」として、長く研究の対象から外

された。スウェーデンやアメリカでは、1980 年代に、フェミニズムの観点から、それまで

の「童話作家」というイメージを塗り替えるべく、再評価が始まったが、それを受けて、

ドイツで再び研究・翻訳がなされるようになったのは、2000 年代のことである。

4444....ラーゲルレーヴラーゲルレーヴラーゲルレーヴラーゲルレーヴ作品作品作品作品にににに見見見見られるられるられるられるナチズムナチズムナチズムナチズムとのとのとのとの共通点共通点共通点共通点――――『『『『エルサレムエルサレムエルサレムエルサレム』』』』のののの一場面一場面一場面一場面のののの考察考察考察考察

では、ラーゲルレーヴ作品の具体的にどのような点が、「郷土芸術運動」以下の民族主義

運動に歓迎されたのだろうか。日本において、ラーゲルレーヴは、「良心的な平和主義者」

として紹介されることが多い45。確かに、愛や赦し、善意、健全さといった「倫理性」は、

彼女の作品の最大の魅力の一つである。しかし、作品における「倫理性」は、「郷土」、「農

民」などの民族主義モチーフと深く結びつき、ナチズムにつながる「排他性」を必然的に

はらんでいる46。ここでは、ノーベル文学賞受賞作『エルサレム』において、障碍者が、

主人公の倫理と啓蒙的理性によって排除されていること、そのことが血統の問題と結びつ

いていることを論じる。

『エルサレム』に描かれるさまざまな他者排除の中で、特に障碍者排除を取り上げる理

由は、それが、ドイツと北欧の共通項だからである。19 世紀後半にイギリスのゴルトン(Sir

Francis Galton, 1822-1911)が提唱した優生学思想は、20 世紀に入ると欧米諸国を席巻し、

障碍者は、「劣等な」遺伝子を持つ者として、国家的な排除の対象となった。ドイツでは、

ナチスが政権を奪取した 1933 年に、精神疾患をはじめ、当時遺伝性と考えられていた障碍

を持つ者に対する断種法「民族および国家の危難を除去するための法律(Gesetz zur

Behebung der Not von Volk und Reich)」が施行され、のちのホロコーストの嚆矢となった。

スウェーデンでは、翌 34 年に、ほぼ同内容の「特定の精神病患者、精神薄弱者、その他の

精神的無能力者の不妊化に関する法律(Lag om sterilisering av vissa sinnessjuka, sinnesslöa

eller andra som lida av rubbad själsverksamhet)」が制定され、同法は 1976 年まで存続して、

福祉政策の柱となった47。片やナチズム、片や福祉国家という、正反対のイメージを持つ

45 ラーゲルレーヴの日本における受容については、拙論「日本における北欧受容―セルマ・ラーゲ

ルレーヴを中心に」(「北ヨーロッパ研究」第 6 号、北ヨーロッパ学会、51~60 ページ、2010 年 7月)を参照。http://hdl.handle.net/2261/37504 46 ラーゲルレーヴの民族主義モチーフについては、拙稿(2009)も参照。 47 米本昌平ほか『優生学と人間社会』(講談社現代新書、2000)。ただし、この中で、ドイツと北欧

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両国において、ほぼ同時期に、障碍者の種としての排除が、共に、国家存続のための重要

課題として合法化されたのである。もちろん、『エルサレム』刊行と「断種法」成立の間に

は 30 年の隔たりがあり、それらを留保なしで同列に論じることはできない。しかし、すで

に述べたように、ナチズムの萌芽は、19 世紀末にすでにあったのであり、その時から第二

次世界大戦終結まで、ラーゲルレーヴは、ドイツ・スウェーデン両国で国家的な人気を博し

た、言わば「共通項」だったのである。そのラーゲルレーヴの特色である「倫理的農民」

が、両国のナショナル・アイデンティティを共に体現するのみならず、もう一つの共通項

である「断種法」に連なる障碍者排除とも結びついていたとすれば、ここで、作品におけ

る「農民」のアイデンティティ完成と障碍者排除の不可分性を示すことは、こうした問題

の更なる考察への第一歩となるはずである。なお、ここでは、作品における障碍者排除の

構図を明らかにするため、あえて、blind というスウェーデン語に対して「盲」、idiot に対

して「白痴」という、差別的な日本語訳を当てる。

『エルサレム』は、スウェーデン・ダーラナ地方48の農民 37 人が、宗教上の理由からエ

ルサレムに集団移住するという、史実に取材した長編小説で、外面は醜いが内面は偉大な

「倫理的英雄」という、スウェーデンのナショナル・アイデンティティとしての農民像を

確立したとされる49。作品は、人望ある富農一族の当主イングマル・イングマルソンと、

エルサレム巡礼団の対立・和解を軸に展開する。イングマルは、巡礼団の中心人物となっ

た姉が競売にかけた屋敷を取り戻すため、婚約者を裏切って、屋敷を競り落とした富農ス

ヴェン・ペーションの娘バルブロ・スヴェンスドッテルと結婚する。バルブロは、もとも

と、作男のスティーグ・ベルイェソンと愛し合っていたが、突然スティーグに捨てられた。

心配して結婚相手を探す父に、バルブロが、誰とも結婚したくないがために「イングマル

屋敷のイングマル・イングマルソンとなら結婚してもよい」と告げたため、父はイングマ

ル屋敷を競り落とし、イングマルとの結婚を段取りしたのだった。結婚後、スティーグに

よって、バルブロの出自が明らかになる。バルブロの母方の先祖は、「憂いの丘

(Sorgbacken)」の馬喰で、ある時、市で、言葉巧みに自身の老馬を美しい黒馬と引き換え

た。しかし、美しい黒馬は盲目で、怒った馬喰は馬を崖から落として殺してしまった。そ

れ以来、この家系の全ての息子は「盲で白痴(blind och idiot)」であり、娘は「美しく賢い

(vacker och klok)」のだという。バルブロも、イングマルも、この話を信じなかったが、

最初に生まれた「五体満足で美しく、高く広い額に大きく澄んだ目」をした男児を、スヴ

ェンの後妻が「頭が大きく、いつも白目をむいている」と評したために、バルブロは疑心

の優生学を論じる市野川容孝は、断種法がホロコーストの嚆矢となったという大方の意見に対し、

ドイツの断種法と安楽死計画は、ホロコーストによって終了したという観点を提示している。 48 ダーラナ地方は、田園の広がる風光明媚な地方で、「90 年代」のナショナリズムにおいて、「最も

スウェーデン的な地域」とされた。ダーラナの農民が「故郷」を捨てて他国に移住したという事実

は、当時のスウェーデン社会に衝撃を与えた。 49 Vivi Edström: Selma Lagerlöf. Livets vågspel. Uddevalla (Natur och Kultur) 2002, S.254-257.

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暗鬼に陥る。この息子は、真偽を確かめる間もなく、生まれて一週間で病死する。

イングマルは、こうした出来事を経て、バルブロを愛おしく思うようになっていくが、

バルブロは、自分のせいでイングマルの元婚約者がエルサレムに行ったことを心苦しく思

っており、父が死ぬと、イングマルに離婚を申し出る。イングマルがエルサレムにいる間、

屋敷を管理するバルブロは、再び息子を産むが、彼女はこの子も「盲で白痴」であると信

じて疑わず、何度も殺すことを考える。結局それはできず、彼女は、その子の父親がイン

グマルではないと偽り、洗礼を受けさせないまま、エルサレムから帰郷するイングマルを

迎えることとなる。イングマルは、バルブロの体面を保つため、一族に仕える自分と同名

の小作人の名を取って子どもをイングマルと名づけるよう提案する。バルブロは、子ども

の父親を偽ることでイングマルを苦しめることに耐えられなくなり、子どもの父親は確か

にイングマルだが、「盲で白痴」であるため、屋敷の跡取りにはできない、と告白する。

バルブロを「呪い」から解放する鍵は、イングマルの啓蒙的理性である。彼は、子ども

たちに読み書きを教える教師さえもが独学のこの教区において、唯一、正式な学校教育を

受けた人物である。父の死まで、彼はダーラナの州都ファールンの師範学校で寄宿生活を

送っており、父の死に際して、義兄に学校を辞めさせられてからも、独学の教師の家で育

てられた。少年時代の彼は、将来は教師になりたいと望んでいた。イングマルは、バルブ

ロの「呪い」を信じず、帰郷してすぐ、目の腫れた子どもを医師に診せる。

―お医者様に聞いたわ、そして今はそれが本当のことだと知ってる。

彼女は腕を天に伸ばした。とらわれていた鳥が自由を取り戻し、翼を広げたようだ

った。あなたは、イングマル、不幸とはどういうものか知らないでしょ、彼女は言っ

た。それは誰も知らないのよ。

―バルブロ、イングマルは言った。僕たちの将来のことを、あなたに話してもいいか

な?

彼女は彼の言うことを聞いていなかった。彼女は手を組み、神に感謝し始めた。彼

女は低く、ふるえる声で語ったが、イングマルにはきっと彼女の言うことが聞こえた

ことだろう。呪われた子どものことでわずらっていたあらゆる憂いを、彼女は今、神

に告白し、そして感謝した。なぜなら、彼女の子どもはほかの皆と同じようになり、

彼女は彼が遊び、跳ね回るのを見ることができ、彼が学校に行って読み書きを習うの

を見ることができ、彼は斧を操り鋤の後ろを行く強い若者になり、妻を得て家長とし

て古い屋敷に住むことができるだろうからだ。50

子どもの「呪い」が、バルブロの言うように、イングマルの「巡礼」によって解けたの

50 Jerusalem II, s. 260 (S.506). Hemma från valldarten/ Wieder daheim

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か、それとも、イングマルの言うように事実無根で、子どもは最初から「正常」だったの

かを、語り手は明らかにしないが、本作は、スウェーデンの「国民文学」として国民を啓

蒙し、悪しき「迷信」から解放する役割も担っていた。ラーゲルレーヴは、『ニルスのふし

ぎな旅』で、結核は呪いではなく、正しい知識があれば予防も可能なのだと強調する51が、

『エルサレム』においても、「盲で白痴の子ばかり生まれる呪い」の事実無根であることを

証明する。子どもが生まれて半年間、その子が「盲で白痴」であることを片時も疑わなか

った頑迷なバルブロは、医師の一言であっさりと「迷信」を捨てる。愛を以って子どもを

受け容れてなお、「あらゆる憂い」に苦しんでいた彼女は、近代医学によって、完全に「自

由を取り戻」すのである。

一方、作中で明言されていない以上、物語内の「真実」として、子どもは本当に「呪わ

れて」おり、イングマルの巡礼によって解放された可能性も存続する。作中には、「呪い」

の原因となったバルブロの先祖と思しき人物が、エルサレムでイングマルを助ける場面が

ある。聖地エルサレムにおける先祖とイングマルの「善行」により、バルブロが呪いから

解放されたとする解釈は可能である。

更に、作品の構造に目を向けると、障碍者の排除は、一組の夫婦とその息子の問題にと

どまらず、富農一族の血統の問題として描かれていることが分かる。この作品は、本編の

前に、主人公の父を扱う「導入部」を置く、「予型論」的構造を取っている。そこでは、主

人公と同名の父イングマル・イングマルソンが自分を愛していない女性ブリッタを権力に

ものを言わせて娶る。ブリッタは、夫への復讐心から、生まれたばかりの第一子を殺して

投獄される。夫は、出所した彼女を再び妻として迎え、彼女は彼の良き妻、5 人の娘と本

編の主人公の良き母親となる。導入部の父親と本編の主人公には、「イングマル・イングマ

ルソン」という名前と、同じ女性といわば二度結婚し、二番目の息子を跡継ぎとして得る、

という人生の構図が共通する。この構図は、彼らの血統が、名前とともに世代にわたって

受け継がれ、同じ大地の上で繰り返されていくことを示している52。

予型論的構図において、ブリッタの対型となるのが、B という頭文字と「美しさと賢さ」

を共有する、バルブロである。森の中で子どもを産み、殺すブリッタを、主人公の父は、

大地を耕して荒地を農地に変えるように、自身に子孫を与える従順な妻へと変貌させる53。

同じく本編の主人公も、バルブロを「呪い」から解放することで、彼女を跡継ぎを産む正

式な妻へと馴化し、「盲で白痴」の血統を家系から排除する。

ここにおいて、「呪われた」子どもをめぐる「母性愛」の物語は、イングマルの血統によ

51 Nils Holgerssons underbara resa genom Sverige. XLIV. Åsa gåsapiga och lille Mats. Sjukdomen. 52 作品の予型論的構造については、拙稿「死・救済・天啓―セルマ・ラーゲルレーヴ『エルサレム』

における宗教運動の描写」、『詩・言語』71 号(東京大学大学院人文社会系研究科ドイツ語ドイツ文

学研究会)、2009 年 9 月、1~31 ページの II を参照。http://hdl.handle.net/2261/29101 53 「大地母神」としてのブリッタの馴化については、拙稿(2009 年 3 月)、30 ページ以下を参照。

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る、「憂いの丘」の一族の接収の物語へと反転する。もちろん、20 世紀の啓蒙的文学作品

として、『エルサレム』は、子どもが本当に「呪われて」いた、という結末を示すことはで

きない。また、現代の倫理観に照らすと、障碍を持つ子どもが受け容れられるか否かとい

う議論そのものが差別的である。というのは、この議論には、「健常者」は無条件に家庭や

社会の一員たりうるが、障碍者が一般社会で生活するためには、葛藤を経て、愛によって

受け容れられなければならないとする前提があるからである。しかし、どこまでも差別性

を含むにせよ、イングマルが帰郷するまでのバルブロの人物像においては、障碍者が排除

されない可能性が示されていた。ところが、この作品は、息子が「呪われて」いなかった

という筋へと展開し、そのことをもってハッピーエンドを迎える。彼が障碍者でないこと

が判明することで、バルブロが彼を受け容れるまでにした葛藤と、受け容れた愛の意味は

無化されるのであり、結果として「健常者」が一族の次期当主に収まることで、「盲で白痴」

の息子が当主となる可能性は、否定されている。同時に、作品が「呪い」の存在そのもの

を完全には否定していない以上、「呪い」の消滅を、「イングマルソンたち」という「正当

な農夫」の血統による、「盲で白痴」の息子の血統の駆逐として読むことも可能である。

いずれにせよ、「美しい盲の馬」に由来する息子の「呪い」が消えた、あるいは事実無根

だと判明したということは、バルブロの娘が「美しく賢」く生まれつく保証もないという

ことである。バルブロが、血統としては実母から、作品構成上はブリッタから受け継いだ

「美しさと賢さ」は、ここで断絶する。バルブロの母方の血統は、男系が断絶し女系が存

続する「母権的」な血統でもあったのだが、ここにおいて、それは、イングマルの父系の

血統に取り込まれる。「倫理的英雄」イングマルの、啓蒙的理性と善行による、「呪い」か

らの妻子の解放は、大地の農地化、男性による女性支配という、文明が根源的に有する暴

力を背景に、障碍者の血統の断絶と農民の血統の「純化」という、ナチズムにつながるイ

デオロギーを体現している。

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Völkischer Nationalismus und Skandinavien

Die Rezeption der skandinavischen Literatur in der Heimatkunstbewegung und der

Blut- und Boden-Literatur

Teiko NAKAMARU

Der Aufsatz behandelt die Rezeption der skandinavischen Literatur in Deutschland zwischen 1871

und 1945, als Skandinavien eine große Rolle bei der Entstehung des völkischen Gedankens und

seiner Entwicklung zum deutschen Nationalismus und Nationalsozialismus spielte.

In Japan gibt es wenige Beiträge über die Beziehung zwischen der deutschen Literatur und der

skandinavischen oder deren Vergleich, obwohl Deutschland und Skandinavien immer wieder

einander politisch, ökonomisch und kulturell beeinflusst haben. Noch dazu gibt es weder in Japan

noch in Deutschland viele Untersuchungen zur völkisch-nationalen oder nationalsozialistischen

Literatur im Gegensatz zur langen Forschungsgeschichte in Bezug auf die proletarische Literatur

oder die damalige Widerstandsliteratur. Ziel dieses Aufsatzes ist es daher, die Wichtigkeit der

skandinavischen Literatur für die Forschung zur deutschen Literatur anzudeuten und die

völkisch-nationale Literatur als ein neues Gebiete der Literaturforschung bekannt zu machen.

Zunächst einmal gebe ich einen Überblick über die Beziehung zwischen der deutschen Geschichte

und der Rezeption der skandinavischen Literatur von der Zeit der national bestimmten Romantik bis

zum Ende des Zweiten Weltkriegs. Am Anfang des 19. Jahrhunderts entstand die national bestimmte

Romantik unter dem Einfluss der Französischen Revolution und der Napoleonischen Kriege.

Damals wurden die isländischen Sagen und die Edda rezipiert, weil man glaubte, dass sie die uralte

Geschichte der Deutschen oder der Germanen darstellen würde. 1871 wurde Wilhelm I. zum

deutschen Kaiser gekrönt. Das geeinte Deutschland entwickelte sich wirtschaftlich, militärisch und

kulturell. Daraus folgte ein Anwachsen des nationalen Selbstbewusstseins auf der einen Seite, aber

auf der anderen Seite stand man vor einem Arbeiterproblem. In Auseinandersetzung mit den sozialen

Problemen der Moderne entstand der Naturalismus unter dem Einfluss sowohl des französischen

Naturalismus wie der skandinavischen åttiotalet (Literatur der achtziger Jahre) wie z. B. Brandes,

Ibsen, Strindberg und Bjørnson. Allerdings wurde die skandinavische Literatur nicht nur aus

Interesse an der sozialen Frage rezipiert, sondern auch aus völkischem Interesse; man entnahm den

Texten das Stereotyp einer harmonischen, friedlichen und unterentwickelten Region.

In den 1890er Jahren war der Naturalismus nicht mehr vorherrschend, denn Wilhelm II., der 1888

gekrönt geworden war und weitaus konservativer als Wilhelm I. war, unterdrückte diese Bewegung.

Auch die deutschen Schriftsteller selbst wandten sich gegen den viel zu „extremen“ und

„imaginationsarmen“ Naturalismus. Stattdessen dominierten Symbolismus, Impressionismus,

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Neuromantik und Heimatkunstbewegung. Die zuletzt genannten beiden literarischen Bewegeungen

spielten eine große Rolle für die Rezeption der skandinavischen Literatur in Deutschland, besonders

die Heimatkunstbewegung erwies sich als entscheidend. Sie ist eine völkische, nationalistische

Bewegung, die durch Friedrich Lienhard und Adolf Bartels entwickelt wurde und von 1890 bis 1918

vorherrschte. Sie bevorzugte die skandinavische nittiotalet (die Literatur der neunziger Jahre),

vertreten durch Autoren wie z. B. Brandes, Hamsun, Hanson, Heidenstam und Lagerlöf. In der Folge

kam es zu einer regelrechten „Skandinavienmode“. In der skandinavischen Literatur glaubte man das

den Deutschen und Skandinaviern gemeinsame „Germanische“ oder die „präkapitalistische

Idylle“ als Kompensation für das schnelllebige, technisierte Deutschland gefunden zu haben. Aus der

Heimatkunstbewegung entstand schließlich die sog. „Blut- und Boden“-Ideologie, die den

Nationalsozialismus theoretisch unterstützte.

In einem zweiten Schritt stelle ich Selma Lagerlöfs Rezeption innerhalb der

Heimatkunstbewegung vor. In Schweden und in Japan hält man Lagerlöf für eine warmherzige,

mütterliche Pazifistin, während sie im Gegensatz dazu in Deutschland für eine bei den Nazis beliebte

Autorin gehalten wird. Zwar war Lagerlöf selbst gegen Antisemitismus, aber sie beeinflusste

zugleich Gustav Frenssen, dessen Jörn Uhl (1901) ein repräsentativer Text der

„präfaschistischen“ Literatur war. Noch dazu liebten die Nationalsozialisten die Autorin Lagerlöf,

weil sie „das gesunde und ehrliche deutsche Leben, das noch nicht von den Juden und Kommunisten

zerstört worden“ sei, beschriebe. Während des NS-Regimes wurden ihre 12 Werke veröffentlicht.

Abschließend analysiere ich die Beschreibung einer Bauernfamilie in Lagerlöfs Jerusalem

(1901-02), wofür sie den Nobelpreis bekam. Jerusalem handelt von einem Bauern, der Ingmar

Ingmarsson heisst und in der Zeit der Freikirchenbewegung in der zweiten Hälfte des 19.

Jahrhundert lebt. In der schwedischen Literaturgeschichte war Ingmar die erste Bauergestalt, die als

„ein moralischer Held“ zur nationalen Identifikationsfigur wurde. Jerusalem handelt von dem

Gerücht, dass Ingmars Frau, Barbro Svensdotter, nur einen blinden, idiotischen Sohn gebären könne,

weil ihr Ahn ein blindes Pferd ermordet habe. Während Ingmar in Jerusalem ist, gebiert Barbro

allein in Schweden einen Sohn und ist fest davon überzeugt, dass er blind und idiotisch sei.

Schließlich nimmt sie ihn aus Liebe an, nachdem sie mehrfach erwogen hatte, ihn zu töten. Dagegen

glaubt der aufgeklärte Ingmar, der von Jerusalem zurückgekommen ist, nicht an das Gerücht und

bringt den Sohn zum Arzt. Der Arzt versichert ihm, dass der Sohn gesund sei. Barbro dankt Ingmar,

weil sie glaubt, dass sie wegen Ingmars Wallfahrt von dem Fluch des Pferdes befreit wurde. Es bleibt

zweideutig, ob der Sohn von Geburt an gesund war oder ob er wegen der Wallfart gesund wurde.

Aber sicher ist, dass das Werk die Möglichkeit verneint, ein behindertes Kind in einer gesunden

Bauernfamilie aufzunehmen, obwohl Barbro sich schließlich dazu entschlossen hatte. Der

moralischen, aufgeklärten Art und Weise des Denkens und Handelns Ingmars entspricht die

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Beseitigung des Behinderten durch den gesunden Bauern, einer Idealgestalt, die auch in der „Blut-

und Boden“ideologie verbreitet ist.