マルタ史試論-1 - u-bunkyo.ac.jp...since renaissance times in western europe, malta was...

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129 文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14, pp.129 145, 2013.3 マルタ史試論-1 (紀元前 5000 年~紀元後 1676 年まで) 関根 謙司 Malta has a history that extends back much longer than Ancient Egypt and has a number of unique aspects. Neolithic and Bronze Age Malta left a mysterious heritage. Since the Classical era, Malta had faced struggles with other areas and countries, including Phoenician, Greek, Carthagean, and Roman rulers. In Medieval times, taxes were imposed on Malta by the Byzantine Empire, Aglabiti Dynasty, and the Normans. Since Renaissance times in Western Europe, Malta was controlled under Angevin, Sicilian, Genoese, and Aragonese rulers. In 1530, the Knights of St. John of Jerusalem took control of Malta. Under the rule of the Knights of St. John of Jerusalem, Malta was besieged by the Ottoman Turks. After the Christian victory over the Ottoman Turks, Jean Parisot de la Valette, Grand Master of the Order of Malta, began to build Valletta, a new citadel and capital city named after la Valette,<?> The Knight of St. John of Jerusalem founded a Jesuit college, university, schools, theaters, hospitals, and the Sacred<?> inrmary. The Grand Master succeeded in supplying fresh water to Valletta, and Grand Master de Rohan completed the creation of a legal code. Key Words : Malta, Knights of St. John of Jerusalem, Valletta, Ottoman Turks, Grand Master 1.はじめに マルタを扱った通史はいままでも欧米語を中心に刊行されてきた (注 119 世紀のナショナ リズムの潮流に乗って,欧米では国民史,国家史が検討され,しばしば中等教育の歴史教科書 として編纂されてきた.しかし,1964 年にイギリスから独立したマルタは,イギリスのマル タ支配のための指針となるテキストとしてだけマルタの歴史を論じられてきたというだけでは ない.マルタは,地中海の中央に位置する島であり,その地政学的・戦略的な位置をめぐって, *人間学部コミュニケーション社会学科

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14, pp.129~ 145, 2013.3

    マルタ史試論-1(紀元前 5000 年~紀元後 1676 年まで)

    関根 謙司*

    Malta has a history that extends back much longer than Ancient Egypt and has a number of unique

    aspects. Neolithic and Bronze Age Malta left a mysterious heritage. Since the Classical era, Malta had

    faced struggles with other areas and countries, including Phoenician, Greek, Carthagean, and Roman

    rulers. In Medieval times, taxes were imposed on Malta by the Byzantine Empire, Aglabiti Dynasty, and

    the Normans. Since Renaissance times in Western Europe, Malta was controlled under Angevin, Sicilian,

    Genoese, and Aragonese rulers. In 1530, the Knights of St. John of Jerusalem took control of Malta.

    Under the rule of the Knights of St. John of Jerusalem, Malta was besieged by the Ottoman Turks. After

    the Christian victory over the Ottoman Turks, Jean Parisot de la Valette, Grand Master of the Order of

    Malta, began to build Valletta, a new citadel and capital city named after la Valette, The Knight of St.

    John of Jerusalem founded a Jesuit college, university, schools, theaters, hospitals, and the Sacred

    infi rmary. The Grand Master succeeded in supplying fresh water to Valletta, and Grand Master de Rohan

    completed the creation of a legal code.

    Key Words : Malta, Knights of St. John of Jerusalem, Valletta, Ottoman Turks, Grand Master

    1.はじめに

    マルタを扱った通史はいままでも欧米語を中心に刊行されてきた(注 1).19世紀のナショナ

    リズムの潮流に乗って,欧米では国民史,国家史が検討され,しばしば中等教育の歴史教科書

    として編纂されてきた.しかし,1964年にイギリスから独立したマルタは,イギリスのマル

    タ支配のための指針となるテキストとしてだけマルタの歴史を論じられてきたというだけでは

    ない.マルタは,地中海の中央に位置する島であり,その地政学的・戦略的な位置をめぐって,

    *人間学部コミュニケーション社会学科

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    古来より地中海の歴史に関与してきた.いわば,世界の歴史を左右してきた地中海史の 1つと

    してマルタの歴史が論じられてきた側面を否定できないのである.言い換えれば,マルタの歴

    史は,その意味で世界の文明をながらくリードしてきた地中海世界の一環を担うものであり,

    その文脈で論じられる必要があるともいえる.マルタの歴史は,宗教と深く関係してきた.か

    つて宗教騎士団が統治した唯一の国家が存在したところであり,また対オスマン帝国に対する

    牙城としてしばしばヨーロッパの楯として位置づけられてきた.中世の初期にはチュニジアの

    アグラブ朝に支配されたときもあり,またスペインから追放されたユダヤ教徒が住んだ地でも

    あった.

    地理的な側面から見ると,かつてギリシャの哲学者アリストテレスは有名な気候区分を行い,

    熱帯は文明人には余りにも暑すぎ,寒帯は絶え間なく吹き荒れる嵐のため野蛮人しか住めない

    が,その点,温帯の地中海は文明にすぐれ,ギリシャ文明を生んだと指摘した.この考えはギ

    リシャ賛美以外の何物でもないが,地中海地域が地形的に海と山の漸移帯にあり,夏は乾燥し,

    冬に雨に恵まれていることは事実である.加えて,アジア,ヨーロッパ,アフリカという 3大

    陸の漸移帯にあるため,人と文化の交流が活発であり,新しい文化が形成されてきた(注 2).地

    中海地域では自然と人間が密接に関連し,完全に統合された文化景観を作り上げてきた.ヒュー

    ストンに従えば,地中海地域は 6つの主要な要素があるとされ,気候,海,山,植生,都市生

    活の伝統,異文化理解と併存があげられる.植生に関していうと,世界の 2万 5000種類の植

    物のうち,約半数がこの地域特有のものである(注 3).

    本稿は,マルタの歴史を鳥瞰しつつ周辺諸国との関係を焦点に置きながら,そのもつ世界的

    意味を考察するものである.同時に,マルタ研究の書誌学的・文献学的研究を検証するために

    意図的に文献的注を多くした.小国の宿命である自国のみでは単独で生きることはできず,大

    国に奔放されざるを得ないことをマルタの歴史は教えてくれる.その観点に立ちながら,マル

    タの歴史を考察していく(注 4).

    マルタの歴史区分は,大筋では見解の相違は見られない(注 5).

    1)先史時代からローマの支配が始まるまで(紀元前 5000年~紀元前 218年)

    2)聖パウロの漂着から諸王国の支配が終わるまで(紀元後 60年~ 1530年まで)

    3)聖ヨハネ騎士団による支配からナポレオンの侵攻まで(1530年~ 1798年)

    4)フランスの占領時代(1798年~ 1800年)

    5)イギリス植民地時代(1800年~ 1964年)

    6)マルタ共和国独立以降(1964年~現在)

    本稿では,この歴史区分に沿って,マルタの歴史を概観・検討しつつ,そのもつ意味と特異

    性について論究していく(注 6).

    現在の共和国としてのマルタは,5つの島から成っている.古来よりヒトが住んできたのは,

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    247平方 kmのマルタ本島と 68平方 kmのゴゾ島で,コミーノ島はイギリスの植民地下では軍

    事的に,独立後は調査用・観光用にヒトを住まわせた島であり,またコミノット島とフィルフォ

    ラ島は無人島である.その広さはしばしばイギリスではイングランド南部のワイト島,日本で

    は淡路島の半分という表現がされてきた.地中海のほぼ中央に位置するマルタは(注 7),近代に

    おいては植民地主義・帝国主義を推進するイギリスにとってはジブラルタルとスエズを結ぶ生

    命線であり,大西洋とインド洋というヨーロッパとアジアを結ぶ最短の航路であった.また,

    古来よりマルタは天候が荒れやすい地中海中央において避難場所としての役割を果たしてきて

    おり,マルタという名称もヘブライ語の避難所を意味している(注 8).

    マルタの地図

    関根謙司「マルタ文芸復興とカトリシズム」,『地中海世界と宗教』,

    慶応義塾大学地域研究センター,1989より(地図作成は関根)

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    2.先史時代

    マルタは 5つの島からなっているが,有史以来ヒトが住んだ形跡があるのは,マルタ島とゴ

    ゾ島だけである.すでに紀元前の時代,具体的には,紀元前 5000年ころからマルタでは巨石

    文化が見られる.マルタの巨石文化の特色は,建物でもなく,墓石でもなく,立石あるいは立

    石群でもなく,巨石神殿であったことである.しかも古代エジプトよりも先行していたという

    ことに驚嘆する.

    先史時代のマルタは,次のように 3つの時期に分類される(注 9).

    時代区分 年代 現存する遺跡の場所

    初期新石器時代BC5200年~ BC4500年 Għar DalamBC4500年~ BC4400年 Grey SkorbaBC4400年~ BC4100年 Red Skorba

    神殿文化時代

    BC4100年~ BC3800年 ŻebbuġBC3800年~ BC3600年 Mģarr

    BC3600年~ BC3300/3000年 ĠgantijaSafl ieniBC3300/3000年~ 2500年 Tarxien

    青銅器時代 BC2300年~ BC1450年 Tarxienの墓

    BC1450年~ BC800年 Borġ in-Nadur

    BC900年~ BC800年 Baħrija

    それにしても,シチリア島とも陸続きであった時代がなかったマルタ島に始めてのヒトが

    入ったのが紀元前 5200年と考えるとある種の驚きである.マルタに最初のヒトが上陸したこ

    とについては多くは知られていない(注 10).アール・ダラム(Għar Dalam)には多様な動物の骨に混じり,およそ 4万年前からのネアンデルタール人の一対の骨が発掘されており,海岸線

    の崖にそって存在する洞穴に住んでいたことが伺える.彼らは柔らかい石を掘り,洞穴に住ん

    だと思われる.

    デヴィッド・トラムプ(David Trump)によって発掘されたことで知られるスコルバ地区

    (Skorba)に住んだ人々は,住居を洞穴から小さな小屋に住居を変えた.現在,マルタ島の西

    部に彼らの小屋の跡が残っている(注 11).

    エジプトでピラミッドが作られたころ,またクレタ島でクノッソス宮殿はなくミノア文明が

    開化する以前のマルタではすでに巨大な神殿が建設されていた.初期の新石器時代に続きム

    ガッル(Mģarr)の神殿が巨大神殿の最初のものと思われる.そしてゴゾ島の Ġgantija,マルタ島のMnajdra,Ħagar Qimの神殿建設が続いた.多くの神殿がいくつもの岩を重ねて建設された中で,Ħagar Qimの神殿は 6メートルに及ぶ一本の石が使用されている.神殿は宗教儀礼

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    に利用されていたと考えられる.それにしても,神殿建設にあたった当時の職人たちの技術の

    高さを感じさせてくれる.タルシーン(Tarxien)の神殿にそれは見事に表れている.タルシー

    ン神殿は,1914年に発見された.農夫が農作業をしているときに発見されたもので,その後,

    マルタの考古学者テミストクレス・ザッミト(Themistocles Zammit)によって周辺の地域も含

    めて発掘が進められた.これによって,神殿建設時代のマルタでは,女性像は腕と足は人間だ

    が,身体のプロポーションは象の姿が特色であることが判明してきた.

    Hal Safl ieniのハイポジウム(Hypogeum)は,マルタにある 3つの世界遺産の 1つに指定さ

    れていることで知られる.Paola地区の丘陵にあるHal Safl ieniの地下墳墓は 1912年に発見され,

    世界遺産には 1980年に登録された(注 12).三層の地下に延びた総面積 500平方メートルに及ぶ

    もので,三層の地下の下に 38室ある石室からは 7000体の人骨が見つかっている.中央部には

    丸天井の礼拝堂が現存しており,部屋ごとを結ぶ通路は迷路のようになっており,階段には段

    差があり,侵入者を防ぐ仕掛けが随所にある.建設当時,ここは豊穣祈願の神殿として建設さ

    れ,その後,墓地になったと考えられている.2000年前に姿を消した謎の古代マルタ人を知

    る重要な手掛かりとなる遺跡であり,また子供を宿し,豊穣をもたらす象徴として女性が高い

    地位をもっていたことも伺える.女性が高い地位をもっていたことで知られるのが,古代エト

    ルリア人である.古代の地中海世界の文化の伝播については,貿易と農業の分野において新石

    器時代から活発に行われてきた.人口増加に対処する方法としてヒトが移動を繰り返してきた

    ことはよく知られている.より農地として有望な場所を求めて,紀元前 5000年にすでに島で

    あったマルタに移住するヒトがいたことは指摘されてきたことである(注 13).

    イギリスでストーンヘンジの土塁と直立巨石が建てられたと考えられる紀元前 3600年から

    2500年のころ,青銅器時代を迎える前に遠く離れてマルタに巨石神殿文化が栄えていたこと

    は驚くべき事実である.フランスのブルターニュの「カルナック列石」(1996年に世界遺産暫

    定リストに登録)が建造されたのが,紀元前 5000年あるいは紀元前 3000年から 2000年ごろ

    とされ,アイルランドではドルメンで有名な支石墓が大西洋・北海・バルト海沿岸各地に建造

    されたのが,紀元前 4000年から 3000年と考えられる.

    マルタの巨石神殿文化について論じたことで知られるイアン・ファーガソン(Ian F. G.

    Ferguson)は,「なぜ石で建造されたか?」について「新石器時代の難易な技術にもかかわらず,

    建造に携わった人々は祖先の地に不朽のものを作ろうとした」し,「なぜ神殿を建設したか?」

    という問題については「建設に携わった共同体の人々が自分たちの共同体のためにみんなが集

    まる記念碑を作った」と指摘している(注 14).

    マルタから最短ならわずか 80キロほどしか離れていないシチリア島は,ギリシャの植民都

    市として発展した.キクラデス諸島の人々は膨大する人口に対して新天地を求めた.紀元前

    750年以降シチリア島に移住した人々は,主としてロードス島に住んでいた住民であった(注 15).

    人間は移住するときに地形や自然環境が似ているところを好むといわれる.マルタ島に最初に

    上陸した人々は,シチリア島のアグリジェントあるいはシラクサ付近からマルタに移住したも

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    のと考えられている(注 16).

    繁栄を誇ったと思われる古代マルタ人のミノア文明は,紀元前 1300年代に突如として衰退

    の道を歩む.テラ(サントリーニ)島における火山爆発とそれに続くテラ島の三分の一が海に

    沈み,地中海世界に地震と津波によって,マルタも大きな被害を蒙ったと推定される.マルタ

    がミノア文明の影響下にあったことは,ミノア線文字を刻んだ数珠がタルシーン神殿で発見さ

    れていることからも伺える(注 17).また,ホメロスの叙事詩にはオデッセイアが 10年間ほど過

    ごした謎の島のことが描かれており,そこは仙女カリプソ(Calypso)が住む島として謳われ

    ている.ゴゾ島にはカリプソが住んでいたといわれる洞窟が残っている(注 18).いづれにしても,

    マルタは青銅器時代にエーゲ海で活躍していたギリシャの来訪を受けていたことを物語ってい

    ると考えられる(注 19).

    ミノア文明下のマルタには車輪を走らせたと想定される古代轢轍跡が残っている.道はやや

    高台に向かって鉄道網のように延び,いきなり絶壁で終わっている.いったい何のために作ら

    れたのかはいまなお謎である(注 20).

    3.フェニキア・カルタゴとローマの時代

    地中海の中央に位置するマルタの島々は,海洋民族にとっては魅惑的であった.紀元前 10

    世紀,フェニキアはスペインの銅のための海路を必要としており,マルタ島に来訪した.紀元

    前 9世紀の末にはカルタゴが植民都市を建設した.ゴゾという名称もフェニキア語の Gaulos

    に由来するとされる(注 21).同じ頃,カルタゴはシチリア島の Panormos(現在の Palermo)や

    Soeis(現在の Solonte)あるいはパンテラリア(Pantellaria)島にも植民都市を建設している.

    マルタにはMelquart神に捧げられた碑文が残っており,フェニキア語とギリシャ語の二カ国

    語で書かれている.現在のマルタ語がフェニキア語の洗礼を受けたのはこのころと想定され

    る(注 22).

    紀元前 8世紀になると,ギリシャがシチリアならびに南イタリアと交易を始め,植民都市を

    建設した.ギリシャの文化がマルタにもたらしたものは,碑文の他にも貨幣,壺,ヘラクレス

    像に及び,古代ギリシャではマルタはメリテという名称で知られていた.

    紀元前 4世紀になると,ローマの力が南イタリアにまで及ぶようになった.シチリアをめぐ

    るローマとカルタゴの争いは,3度におよぶポエニ戦争を引き起こした.マルタは,第一次ポ

    エニ戦争(BC262年 -BC242年)の際にカルタゴの軍港が作られ,ポエニ戦争の過程でローマ

    の支配を受けるようになった.紀元前218年,ローマ総督ティベリウス・セムプロニウス(Tiberius

    Sempronius)がマルタにローマの住民を引き連れてマルタにやってきたと思われる.これ以降,

    マルタはローマの支配を受けるようになった(注 23).

    紀元 60年,ローマ市民であったため皇帝から直接,裁きを受けるためにエルサレムからロー

    マに連行された「神のライオン」こと使徒の聖パウロは,船が難破し,マルタ島に漂着した.

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    漂着した中には他の囚人に混ざって 4人のキリスト教徒がおり,その中には聖ルカもいた.難

    破船は漁師と付近の農民によって助けられた.ここが現在のマルタのセイント・ポール・ベイ

    である.伝説によると,聖パウロはマルタ島に着くと,すぐさま礼拝堂の建設を始めた.ロー

    マの代理人であったプブリウス(Publius)によって住居を与えられた聖パウロは,病気であっ

    たプブリウスの父親の病気を手で押しつけることによって治した.プブリウスはキリスト教に

    改宗した.伝説では,彼プブリウスはマルタでの最初の司教であった(注 24).

    マルタには Għajin Tuffi eħaにローマ風呂の跡が残っており,またラバト(Rabat)にはキリ

    スト教徒のカタコンベもある.当時,マルタはバルバロイ(野蛮人)の島として知られていた.

    また,マルタにユダヤ教徒が来訪したのも,ローマ時代である(注 25).ユダヤ教の燭台(Menorah)

    が持ち込まれたのもこのときである.ラテン語もギリシャ語も通じない島だったためで,後の

    アラビア語やイタリア語の洗礼をまったく受けていない時代であったことを考慮すると,当時

    のマルタはフェニキア語の方言が話されていたと想定される.

    ローマ帝国の分裂後の 395年,マルタは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の支配下に入った.

    325年のニカエアの公会議の決定に沿って教会区はコンスタンティノープルの管轄下に置か

    れ,シチリアの大司教がマルタの司教を兼ねた.ビザンチンの支配はマルタにとっては不幸で

    あり,惨めなものであった(注 26).ビザンチンの支配時代,マルタはゲルマン民族の侵入にお

    かされる.454年,ヴァンダル族が侵入したのに続き,464年にはゴート族が侵入している.

    ビザンチンが支配権を回復するのは 533年になってからである.

    4.アラブ支配の時代

    711年,アラブ =イスラムの軍勢はイベリア半島に侵攻し,イベリア半島のアラブ時代,イ

    スラム時代が始まる.827年,アラブ軍はシチリアを支配下に入れ,地中海の制海権を手に入

    れた.869年,チュニジアのアグラブ朝の創始者アグラブの息子にしてトリポリの総督であっ

    たアフマドは,マルタを探索するための船を派遣した.パレルモ(シチリア)のアラブ人の総

    督であったムハンマド・イブン・ハファージャ(Muħammad ibn Khafāja)は,ビザンチン軍の

    動きがないことを知ると,マルタに援軍を送った.激しい抵抗ののち,870年 8月 29日,マ

    ルタの島々はアグラブ朝の手に落ちた.マルタの司教は囚人としてパレルモに連行された(注 27).

    当時,シチリアはイスラム支配下にあり,のちのアラブ・シチリア時代の繁栄を予期させるも

    のがあった(注 28).

    アラブ支配下のマルタについては,知られていないことも多い.あれほど歴史本や自らの征

    服史を好んで書いたアラブの歴史家もマルタについては,シチリアあるいは北アフリカの歴史

    の一部としか扱っていない.地租税(Khalāj)の徴税ために膨大な地理書や地政学書を残した

    アラブの地理学者もマルタについては補足的にしか記述していない(注 29).アラブとビザンチ

    ンとカトリック世界の争奪戦の地となったマルタには多くの(軍人)奴隷も導入された.991

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    年当時のマルタは,イスラム教徒が 1万 5000人に対してキリスト教徒が 6339人だったと記さ

    れている.土地がけして豊かでなかったのか,彼らのすぐれた農業技術が導入された形跡もな

    い.しかし,アラブ時代を通じて,今日のマルタ語の基礎が作られたのは間違いない.その一

    方で,マルタの現在の地名はアラブ支配のもとで改名されたもので,フェニキアやギリシャ時

    代の地名は今日では少数になっている.

    1090年まで続くマルタのアラブ支配は,ノルマン伯ロジェールが占領するまで続くが,

    1048年にはビザンチン帝国はマルタの奪回を試みている.

    5.シチリア・フランス・スペインの支配

    10世紀にゲルマン民族の移動よりも遅れて活動を開始したノルマン人(ヴァイキング)の

    たび重なる侵入に耐えかねたフランス王は,ノルマンの指導者ロッロ(Rollo)に爵位ととも

    にノルマンディーの土地を与えた.これがノルマンディー公の誕生である.彼らはキリスト教

    を受け入れるとともに,1066年,ノルマンディー公ウィリアム(征服王)はイングランドを

    征服し,イングランドの国王も兼ねた.1090年,ノルマンディー伯ロジェール(ルッジェー

    ロ 1世)は,シチリアの全土を征服した.シチリアのノルマン時代は,ノルマン人,アラブ人,

    ギリシャ人の共存が見られた.シチリアを支配下に置くと,ノルマン人たちはマルタを征服,

    マルタにとって中世の繁栄の時代が始まった.ノルマン人たちはアラブ人にイスラムの信仰と

    習慣を認めた.ノルマン人は,シチリアを足がかりにマルタや南イタリアも支配するようになっ

    た.ルッジェーロ 1世は,イスラムの地理学者イドリースィーを招聘し,世界地図(現在シカ

    ゴ大学が収蔵)を作製したことでも知られる(注 30).ルッジェーロ 1世の娘のコンスタンス王

    女は神聖ローマ帝国のハインリヒ 4世と結婚したことでも知られる.

    マルタの統治したシチリア・ノルマン王(1090年~ 1194年)在位期間 ノルマン王名 備 考1090年~ 1101年 ルッジェーロ 1世 シチリア伯.

    1101年~ 1154年シモネルッジェーロ 2世

    シチリア伯シチリア伯.1130年ナポリ・シチリア王国国王となる.

    1154年~ 1166年 グリエルモ 1世 悪政のため,悪王と呼ばれた.1166年~ 1189年 グリエルモ 2世 善政のため,善王と呼ばれた.1189年~ 1194年 タンクレード

    1144年,ビザンチン皇帝は再度マルタとゴゾの奪回を計ったが,多くのマルタ人部隊を集

    結させ,ルッジェーロ(ロジェール)2世はそれを阻止した.ルッジェーロ 2世は,マルタの

    船に 300人のマルタの船乗りたちを乗せてシリアのトリポリに到達している.マルタ人とノル

    マン人の間には強固の関係が築かれた.マルタは中世ヨーロッパの封建性とラテン語ならびに

    シチリアのイタリア語の影響を受けるようになった.

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    ノルマン王タンクレードが亡くなると,神聖ローマ帝国のハインリヒ 4世は,妻コンスタン

    スがルッジェーロ 2世の娘であったこともあり,シチリア王を受け継いだ.これによってマル

    タもシチリア王の支配するところとなった(注 31).

    神聖ローマ帝国支配時代のマルタ(1194年~ 1266年)在位期間 兼王となった皇帝 備 考1194年~ 1197年 ハインリヒ 6世 ナポリ・シチリア王も兼ねる.1197年~ 1250年 フリードリヒ 2世 アンティアキア公.1250年~ 1254年 コンラート アンティアキア公.1254年~ 1266年 マンフレーディ

    1223年の記録によると,神聖ローマ帝国はともに支配していたマルタを南イタリアの反乱

    に対する流刑地として利用していたことが報告されている.しかし,マルタへの永久流刑では

    なく,3年後に戻っている.

    1241年の記録によると,マルタには 1119の家族が住んでおり,宗教も混在していたことが

    知られる(注 32).1240年から 1250年にかけて皇帝フリードリヒによって,マルタのイスラム教

    徒は追放されるか,あるいは改宗した.イスラム教徒たちは言語だけではなく,マルタ女性の

    習慣も近現代まで残した.結婚したマルタの女性が身につけるファルデッタ(faldetta)は 19

    世紀まで普通に見られたもので,イスラム教徒の女性のヒジャーブを思わせ,イスラム教徒た

    ちが残した遺産の 1つである.

    宗教別家族 キリスト教徒 イスラム教徒 ユダヤ教徒 合計家族数マルタ島 47 681 25 753ゴゾ島 203 155 8 366

    合計家族数 250 836 33 1119

    1266年,潜王マンフレドはアンジュ伯シャルルに殺害された.シャルル伯はフランス王ル

    イ 9世の兄弟であり,ベネヴェントの戦いに勝利し,シチリアの一部とマルタをアンジュ家の

    支配下に置いたのである.アンジュ家の支配は,マルタにとっては圧政であり,国王は暴君で

    あった.1282年,歴史に名前を残した「シチリアの晩鐘」(注 33)でルッジエーロ・ロリア(Ruggiero

    Loria)のもとアラゴン家のペテロの艦隊はアンジュ家の艦隊を撃破し,マルタから追い出した.

    ロリアがペテロ王とともにマルタに着いたとき,マルタ人たちは歓迎した.こうしてマルタの

    アラゴン家の支配が始まった.

  • - 138-

    マルタ史試論-1(関根謙司)

    アラゴン家がマルタ支配したときの王(1283年~ 1410年)在位期間 アラゴン王 備 考1283年~ 1286年 ペドロ 1世 シチリア王ならびにアラゴン王1286年~ 1296年 ハイメ

    1296年~ 1337年 フレデリコ 2世シチリア王.ナポリ王シャルル 2世の娘エリエノールと結婚することによりシチリア家系となる.

    1337年~ 1342年 ペドロ 2世1342年~ 1355年 ルードヴィッヒ1355年~ 1377年 フレデリコ 3世1377年~ 1402年 マルティン 1世 最初の妻マリアとともに.

    1402年~ 1409年 マルティーノ 1世二番目の妻名ナバーラのブランシュとともに.

    1409年~ 1410年 マルティーノ 2世

    アラゴン家は歴代の王たちがマルタを戴冠式の場に選んだ.しかし,アラゴン家の支配はマ

    ルタにとって暗黒の時代であり,とりわけマルティン 1世と妻マリアの時代は,「暴君の時代」

    で知られる.マルタは中世封建制そのままの土地支配に組み入れられた.

    マルタの民話にはよき王と悪しき王がしばしば登場する.神聖ローマ帝国,フランス,スペ

    インの支配はそれだけ奔放されてきた証しであろう.(注 34)

    1410年,マルティーノ 2世が死去すると,アラゴン家の支配に代わってカスティーリャ家

    がマルタを支配するようになった.

    カスティーリャ王家がマルタを支配したときの王(1412年~ 1530年)在位期間 カスティーリャ王 備 考1412年~ 1416年 フェルディナンド 1世1416年~ 1458年 アルフォンソ 5世1458年~ 1479年 フアン1479年~ 1516年 フェルディナンド 2世 カトリック王.妻はイサベル女王.1516年~ 1530年 カルロス 1世 神聖ローマ帝国ではカール 5世.

    アラゴン王家はカスティーリャに金貨 3万枚の借金があり,その返済のためにシチリア副王

    の 1人であったドン・アントニオ・カルドーナ(Don Antonio Cardona)にマルタ島を与えた.

    1420年 1月 20日,シチリアのカルドーナ副王はマルタの総督になった.中世のマルタはシチ

    リアを支配した君主によって統治され,シチリアの情勢が変化すると,それに応じてマルタも

    影響を受けてきた歴史があった.その意味では,マルタが政治的・経済的に大きな役割をもつ

    ことは少なかった.

    1429年,マルタに 1万 8千隻のイスラムの艦隊が押し寄せ,マルタに金貨 3万枚の支払い

    を要求してきた.チュニス王が差し向けたイスラム軍は 3万人を捕虜とした.いままでもマル

    タに艦隊が押し寄せたことはなかったわけではなく,1419年と 1422年も襲撃を受けた.当時,

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    地中海の覇権はスペインを筆頭とするキリスト教世界とオスマン・トルコのイスラム教世界で

    争っていた.マルタはその争奪戦に置かれたのである.スペイン王であり,神聖ローマ帝国皇

    帝でもあったカルロス 5世ことカール 5世はオスマン・トルコのスレイマン大帝と対決するの

    を余儀なくされていた.

    十字軍がエルサレムに残した宗教騎士団であった聖ヨハネ騎士団は,1522年,ロードス島

    を追われ,さらにモンテネグロや北アフリカのトリポリを転々としていた.1530年,カルロ

    ス 5世は聖ヨハネ騎士団にマルタ島とゴゾ島を与えた.毎年,忠誠の証しで鷹 2頭を献上する

    約束で,キリスト教世界における地中海の防波堤としてマルタを位置付け,聖ヨハネ騎士団に

    期待したのである.

    6.騎士団の時代

    聖ヨハネ騎士団は言語別・習慣別にプロヴァンス,オーヴェルニュ,イタリア,カタラン(ア

    ラゴン,カタルーニャ,ナバーラ),イギリス,ドイツ,ポルトガル,カスティリア(スペイン)

    の 8つの地域からなり(注 35),騎士団長を頂点としていた.彼らはマルタ騎士団とも呼ばれて

    いた(注 36).

    歴代のマルタ騎士団長(1522年~ 1797年)在位期間 騎士団長の名前 出身地域1522年~ 1534年 リラダム(L’Isle Adam) フランス1534年~ 1535年 ピエリーノ・ダ・ポンテ(Pieirino da Ponte) イタリア1535年~ 1536年 フラ・デシデリオ(Fra Desiderio) フランス1536年~ 1553年 フアン・デメデス(Juan d’Omedes) アラゴン1553年~ 1557年 クロード・ド・ラ・サングル(Claude de la Sengle) フランス

    1557年~ 1568年ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレット(Jean Parisot de la Valette)

    フランス

    1568年~ 1572年 ピエトロ・デル・モンテ(Pietro del Monte) イタリア

    1572年~ 1581年ジャン・ルヴェスク・ド・ラ・カッシエーレ(Jean Levesque de la Cassiere)

    フランス

    1581年~ 1595年ユーグ・ルーヴァン・ド・ヴェルダーレ(Hugh Louvenx de Verdale)

    フランス

    1595年~ 1601年 マルチーノ・ガルセス(Martino Garces) アラゴン

    1601年~ 1622年アロフィウス・ド・ウィニャクール(Alophius de Wignacourt)

    フランス

    1623年~ 1636年 アントワーヌ・ド・ポール(Antoine de Paule) フランス1622年~ 1657年 ジャン・ポール・ラカリ(Jean Paul Lascaris) フランス1657年~ 1660年 マルティーノ・デ・レディン(Martino de Redin) アラゴン

    1660年アネット・ド・クレルモン・ゲサン(Annette de Clermont Gessan)

    フランス

    1660年~ 1663年 ラフェエル・コットネル(Raphael Cottoner) スペイン

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    1663年~ 1680年 ニコラス・コットネル(Nicholas Cottoner) スペイン1680年~ 1690年 グレゴリオ・カラッファ(Gregorio Caraffa) イタリア

    1690年~ 1697年アドリアノ・ド・ウィニャクール(Adriano de Wignacourt)

    フランス

    1697年~ 1720年 ライモンド・ペレリョス(Raimondo Perellos) アラゴン1720年~ 1722年 マルカントニオ・ツォンダダー(Marcantonio Zondadari) イタリア

    1722年~ 1736年アントニオ・マノエル・デ・ヴィレーナ(Antonio Manoel de Vilhena)

    ポルトガル

    1736年~ 1741年 ライモンド・デスプイグ(Raimondo Despuig) スペイン1741年~ 1773年 エマヌエル・ピント(Emmanuel Pinto) ポルトガル

    1773年~ 1775年フランセスコ・ヒメネス・デ・テハダ(Francesco Ximenes de Texada)

    スペイン

    1775年~ 1797年エマニュエル・マリー・ド・ロアン(Emmanuel Marie de Rohan)

    フランス

    マルタの名声を一躍高めたのは,ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの時代である.それ

    以前もマルタはオスマン・トルコに雇われた海賊(Corsair)の襲撃に度々遭っていた(注 37).

    しかし,オスマン・トルコのスレイマン大帝にしてみれば,たいした成果を上げることができ

    なかった.1565年 5月 18日,ムスタファ・パシャ(Musŧafa Pāshā)とピヤレ・パシャ(Piyale

    Pāshā)の両提督の指揮下のもとオスマン・トルコの艦隊は,180隻の船に 4万の大軍を乗せ,

    マルタを攻撃した.史上,これを大包囲(The Great Siege)という(注 38).対するマルタ騎士団

    は 600名であり,マルタ人の兵士は 700名,住民は 5500名であった.勝敗は明らかのように

    見えた.オスマン・トルコはエルモ砦で総攻撃をかけ,マルタ騎士団の降伏を期待してマルタ

    側の士気を失わせる作戦にでた.騎士団長は西欧諸国に援軍を求めたが,援軍はなかなか来な

    かった.援軍が来るまで持ちこたえるようにとの返答であった.西欧諸国にとってはマルタが

    降伏すれば,今度は自分たちに攻撃が仕掛けられることと知っていた.マルタ側は,男のみな

    らず,子供や女も参加して 8000名に膨れ上がった.マルタ側の必死の攻撃を抑えてエルモ砦

    にムスタファ将軍が入ったとき,139名の騎士団の死体とともに 1300人のキリスト教徒の死

    体を確認した.しかし,オスマン・トルコ軍の犠牲も大きかった.勝利の代償として 8000人

    が戦死していたのである.オスマン・トルコ軍の攻撃はなおも続いた.史上,火器を使った近

    代戦といわれるマルタ騎士団とオスマン・トルコ軍の戦闘は壮絶な消耗戦になっていった.

    9月 7日,シチリアから 8500人の援軍がメリーハ(Mellieħa)に上陸した.翌日,セント・ポー

    ル・ベイにも 7000名の援軍が上陸した.少数のマルタの軍勢がヨーロッパの楯になって西欧

    諸国を救ったのである.オスマン・トルコの艦隊は撤退した.スルタンの誇った無敵艦隊が敗

    れたのである.

    ローマでマルタ騎士団の勝利を聞いた教皇ピウス 4世は,勝利の祝賀を祝った.スペインの

    フィリペ 2世は,騎士団長のジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットに短剣とともに,金や宝石

    やエナメルで飾った刀剣を送った.スペインに敵対し,カトリック主義を嫌っていたイギリス

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    のエリザベス 1世までもが英国国教会の祈祷書に感謝の言葉を挿入するように命じた.

    ムスタファ・パシャの率いる艦隊がイスタンブルに戻ると,スルタンのスレイマン大帝は激

    怒した.スルタンはマルタに再度,攻撃を仕掛けることに計略を練った.しかし,スルタンの

    野望を実現する余命を神は与えなかった.

    一方,マルタでは再度の襲撃に備えていた.1566年 3月 22日,新しい城塞都市の建設が決

    定された.エルモ砦は海に面していたが,そこから内陸には険しい坂があった.その地を利用

    し,火器の時代に備えて城壁ではなく,それぞれの建物の壁を数メートルの分厚いマルタストー

    ン(石灰岩の 1種)にしたのである.いわば,建物が城壁であり,坂を上ってくる敵兵を狙撃,

    不意打ちあるいは上から石を転がすことができたのである.火器時代のための城塞都市ヴァ

    レッタはこうして作られた.8000人の奴隷と 12歳から 60歳のすべてのマルタ人の男女が建

    設に関わった.騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの名をとり,町はイタリア語風

    にヴァレッタ(Valletta)と命名された.オスマン・トルコから自分たちを防備するためにも,

    マルタの城塞都市を援助することは必要であると西欧のカトリック諸国からの惜しみもない財

    政援助があったことも幸いした.1568年,新しい都市は完成した.湾に挟まれた港はいつで

    も封鎖でき,また高台から砲撃できるようになっていた.会議場,騎士団長の家も新都市ヴァ

    レッタに置かれた.同年 8月 21日,騎士団長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットはセント・

    ポール・ベイを散策しているときに狙撃され,74歳の高齢で亡くなった.遺体は出来たばか

    りのヴァレッタに移され,のちに当地に建てられた聖ヨハネ教会に埋葬された.

    史上初めての宗教騎士団が支配する近世のマルタではオスマン・トルコの侵攻に備えながら

    も,一定の繁栄が見られた.オスマン・トルコの標的はヴェネツィア共和国の領土であったキ

    プロス島に向けられた.1571年 10月 7日,レパントの戦が戦われ,オスマン・トルコは西欧

    に敗北した.しかし,海ではオスマン・トルコの勢力は絶大であった.キプロス島もロードス

    島もオスマン・トルコの領土となり,地中海の中部・東部の島でオスマン・トルコの支配を免

    れたのは,マルタ・ゴゾ島とクレタ島だけとなった.

    マルタでは中世末期からユダヤ教徒たち(注 39)が集まり,地中海の中央に位置するという地

    の利を生かして交易が盛んに行われた.しかし,ユダヤ教徒の活躍は,1492年のスペインが

    発布したユダヤ教徒追放令とそれに続く改宗の強要と異端審問によってユダヤ教徒にとっては

    暗黒の時代になっていった.宗教騎士団であるマルタ騎士団は,宗教の自由と多様性を認める

    ことはなかった.

    1592年,ペスト惨禍に見舞われたが,もともとエルサレムで医療事業をしていた聖ヨハネ

    騎士団の経験を生かしてヴァレッタの海沿いに病院を建設している.教会,修道院,神学校が

    建設されたのは,ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットの後継者の騎士団長ユーグ・ルーヴァ

    ン・ド・ヴェルダーレであった.1573年,聖ヨハネ教会が完成した.1592年にはイエズス会

    の神学校が創設された.これが今日のマルタ大学の前身である(注 40).ときおり,オスマン・

    トルコの艦隊の襲撃もあった.1614年,60隻のガレー船が6千名の兵士を乗せてマルサシュロッ

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    フ地区に上陸した.1615年,騎士団長アロフィウス・ド・ウィニャクールはマルタ人に新鮮

    な水を提供することに成功した.雨水を貯め,海水から塩分を取り出し,飲むに値す水の恩恵

    を蒙ることができたのである.1676年,ヴァレッタに騎士団の病院が出来た.騎士団の作っ

    た病院は,第二次世界大戦で大きな役割を果たすことになる.(注 41)

    ⑴ マルタの通史を扱ったものとして,著名なものだけでも,Brian Blouet, The story of Malta, London, 1967を定本にマルタで増補改訂された同名の書籍がある(Malta, 1993)がある.同書には末頁に詳細な参考文献が解説付きで紹介されている.また,Joseph A. Abela, Malta – A Panoramic History, SanĠwan(Malta), 1997は最新の研究が反映され,前著よりもやや詳しくマルタの歴史が整理されている.Jacques Codechot, Histoire de Malte, Paris, 1952はマルタ独立以前までの歴史がコンパクトにまとめられている.Codechotの著書は,Blouetには余り触れられていないフランス語やイタリア語による参考文献が紹介されているのが便利である.また,マルタ人の視点から書かれた,A. V. Laferla, The Story of Man in Malta, A. C. Aquilina & Co. (Valetta, Malta), 1972も分かりやすく時代がさらに細分化されていて興味深い.また,文献書誌研究としては,Paul Xuereb, Meditensia, Misda(Malta), 1974や同書著の Bibliography of Maltese Bibliograpies, Msida(Malta), 1978が小冊子ながら便利である.

    ⑵ 田林明「地中海森林地域―漸移住と中庸」,山本正三・内山幸久・犬井正・田林明・菊池俊夫・山本充共著『自然環境と文化』,原書房,改定版 =2004年収録,100頁

    ⑶ 前掲書,101頁⑷ 本稿は,人間学部コミュニケーション学科の学生でマルタでのフィールドスタディズを希望した学生がマルタ大学での英語による歴史文明の講義を補佐するものとして準備された.もとより,日本語によるマルタの歴史は旅行ガイドブックを越すものはなく,かつて筆者が日本語で書いたものも 19世紀を扱ったものに過ぎない.なお,のべ 20時間でマルタ大学での歴史文明の講義に使用された教科書は,Malta and the Islands of Gozo and Comino, Luqa (Malta), 2007であるため,学生たちを考慮し,専門書に加えて有益な日本語の文献も注で紹介できるように配慮した.

    ⑸ ちなみに,世界的に広く使用されている旅行書である Carolyn Bain, Lonely Planet – Malta & Gozo, London, 2000や Le guide du Routard-Malte, Paris, 2006/7もこの歴史区分に依っている.なお,Carolyn Bainの著書に収録されている歴史の項目は,コンパクトなマルタ史として便利である.

    ⑹ 筆者はかつて英文ではあるが,マルタの歴史区分について触れたことがある.Sekine Kenji, Intellectuals in Malta Between West and East, 『慶応義塾大学日吉紀要―言語・文化・コミュニケーション』(第 5号)

    ⑺ マルタはジブラルタルまで 1820km,ポートサイドまで 1750km,チュニスまでは 320km,リビアのトリポリまで 330km,シチリア島までは 80kmである.Codechot, op.cit., p.6

    ⑻ Antonio Emanuele Caruana, Vocabolario della Lingua Maltese, Valetta(Malta), 1903, p.300,またマルタ語についての概観について筆者はかつて,関根謙司「マルタ文芸復興とカトリシズム」,『地中海と宗教』,慶応義塾大学地域研究センター,1989でも触れたことがある.

    ⑼ Carolyn Bain, op.cit., p.22⑽ マルタには最初に上陸したヒトについて,シチリア島を追われた数名がたらいのようなボートでマルタに上陸したという伝説をマルタで耳にしたが,出典は確認できていない.この伝説が事実

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    に近いものであるならば,共同体から追放あるいは脱出によってシチリア島を離れざるを得なかったと考えられる.古代マルタについての記述については,Aquilina Ross ed., Insight Guide Malta, APA Publication LTD.(Malta), 1991, pp.39-41の記載に依っている.

    ⑾ マルタの地名の日本語名は観光地として著名な場所を除いて定着しているとはいえず(日本の一部のガイドブックでは現地ではとうてい通じない,マルタ語とは程遠い呼称を用いている),アルファベットによるマルタ語の綴りで表記した.また,観光名所として定着しているものについては初出のみ日本語名とマルタ語の綴りを併記し,重複時は日本語のみを表記した.なお,マルタの地名の詳細については,Charles Fiott, Towns and Villages in Malta and Gozo, Rabat, Part1=1994/Part2=1996/Part3=1997参照のこと.

    ⑿ 世界遺産としての「ハル・サフリエニの地下墳墓」について NPO法人世界遺産アカデミー監修『すべてはわかる世界遺産大事典』,マイナビ,2012年,下巻,212頁を参照のこと.

    ⒀ Anthony Bonanto, “Malta’s Changing Role in Mediterranean Cross-Currents, - From Prehistory to Roman Time”, Stanley Fiorini & Victor Mallia-Milanes ed., Malta – A Case Study in International Cross-Currents, Malta University Publications (Msida, Malta), 1991, p.1

    ⒁ Ian F. GF. Ferguson, “The Prehistoric Temples of Malta”, Journal of Mediterranean Studies, Volume 1, Number 2, 1991, p.288

    ⒂ ラッセル・キング編,蔵持不三也監訳,リリー・セルデン訳『図説人類の起源と移住の歴史―旧石器時代から現代まで』,柊風舎,2008,45頁

    ⒃ Bonanno, op.cit., p.1の脚注 3⒄ Bonnano, op.cit., p.5⒅ ホメロス,松平千秋訳『オデュッセイア』,岩波文庫ワイド版,2001年,上巻,第五歌,参照.

    また,カリプソの洞窟は Ramla Bayにある.Calolyn Bain, op.cit., p.162⒆ Bonanno, op.cit., p.5⒇ 筆者はかつて関根謙司「古代マルタ文明の謎」,『歴史読本ワールド』(‘94・5),1994,新人物往

    来社でこの問題を扱っている.21 Godeochot, op.cit., p.1222 近代のマルタ語研究の過程でマルタ語はフェニキア語の分派あるいはエトルリア語の影響を受けたなどの諸説が繰り広げられた.A. J. Arberry, A Maltese Anthology, Oxford, 1960, p. Xxvi

    23 ローマ時代のマルタについては,雄弁家キケロも記している.それによると,マルタは蜂蜜で有名だったという.Godochot, op.cit., p,15, Brian Blouet, op.cit., p.34

    24 小冊子ながら,マルタにおける聖パウロについては,フランスの学者が特異とするところであるGodohot, op.cit., pp.16-18.また熱心なカトリック国マルタを反映して,A. V. Laferla, op.cit., pp.22-26にも詳説されている.

    25 Encyclopedia Judaica, Volume 11, Jerusalem, 1972, p.83126 A. V. Laferla, op.cit., p.2927 Mohamed Talbi, L’Émirat Aghlabide, Paris, 1966, pp.475以降参照.なお,同書にはアラビア語版もあ

    り,アラビア語資料を直接,参照できるので便利である.Al-Munjī al-Sayyādi 訳,Al-Dawla al-Aghlabīya, Beirut, 1985, 518頁以降参照.アラブ時代のマルタについては主に同書ならびにそのアラビア語訳を参考にした.

    28 アラブ時代のシチリアについては多くを語らないが,大部な二冊本と補遺を残したMichele Amari, Biblioteca Arabo-Siculo, Palermo, 1982(1881のリプリント版 ) がいまなお定本である.また,

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    マルタ史試論-1(関根謙司)

    Girolamo Caracausi, Arabismi Medievali di Sicilia, Palermo, 1983は中世のシチリア語に残るアラビア語の研究であり,興味深いものである.イスラム支配下のシチリアで使用されていたアラビア文字の使用法については,Michele Amari, Le Epigraph arabiche di Sicilia, Rome, 1974(リプリント版Palermo, 1971)が興味深く,マルタのイスラム時代で使用されていたアラビア文字の使用法を示唆するものがある.また,マルタについての多くの記述はないが,高山博『中世地中海世界とシチリア王国』,東京大学出版会,1993は日本語による貴重な中世シチリア研究である.

    29 Yākūt al-Rūmī, Muʽjam al-Buldān, Beirut, 1977, vol. V, p.43アラビア語の歴史書にマルタが登場するのはむしろイスラムの衰退期に入ってからで,著名な歴史家のイブン・アル =アスィール(Ibn al-Athīr), イブン・アル =ハティーブ(Ibn al-Khaŧīb), カルカシャンディー(al-Qalqashndī), イブン・ハルドゥーン(Ibn al-Khaldūn)などによって断片的にマルタが記録されている.これについては,別稿を準備中である.

    30 関根謙司『アラブ文学史―西欧との相関』,六興出版,1979年,93-94頁.なお,イドリースィーが作成したといわれるシカゴ大学収蔵の世界地図は,解説つきの DVDで原色絵入りのものが入手できる(ただし英語版の OSでないと動作しない).

    31 この時代のマルタについては,Anthony T. Luttrell, Studies on Malta before the Knights, London, 1975が詳しい.また,マルタを支配したシチリアのノルマン朝,フランスのアンジュ家,スペインのアラゴン家ならびにカスティリアの王たちの在位期間については,A. V. Laferlaの前掲著書を参考にしたが,国王や皇帝の呼び方についてはイタリア語(シチリア・ノルマン朝君主),ドイツ語(神聖ローマ皇帝),カタラン語(アラゴン王),カスティリア語(カスティーリャ王)に修正した.

    32 Ibid., pp.38-39.なお,別の資料ではマルタ島のキリスト教徒が 1047家族とし,マルタ全土の人口総数を 2119家族としている.これを記録した当時のラテン語資料が数字ではなく,文字で数を記載していた結果に起きたためと考えられる.

    33 スティーブン・ランシマン,榊原勝・藤澤房俊訳『シチリアの晩鐘』,太陽出版,2002年参照.34 小沢俊夫編・訳『世界の民話―地中海』,ぎょうせい,1978には 13編の民話が収められている.マルタの民話については,Joe Friggieri, Ħrejjef GĦal Żmiena, Pieta(Malta), 1996,英訳は Paul Xuereb tr., Tales for our Times, Valletta(Malta), 2400が興味深い.マルタの民話については,Joseph Cassar Pullicino, Studies in Maltese Folklore, Msida(Malta), 1992ならびに Tarcisio Zarb, Folklore of an Island – Maltese Threshold Cutoms, San Gwann(Malta), 1998が資料的価値と民俗的研究の点から興味深い.

    35 マルタ騎士団の旗ならびに現在のマルタ航空の徽章の 8つの方角に向けたマルタ十字はこの 8地域を表したものである.

    36 マルタ騎士団についての著書は,L'Abbé de Vertot, The History of the Knight of Malta, London, 1823(2冊本)がいまでも権威をもっており,1989年にValletta(Malta)でファクシミリ版が出版されている.また,Victor Mallia-Milanes, Hospitaller Malta, 1530-1789, Msida(Malta), 1993は最新の研究が取り入れられ,大部ながら貴重な資料となっている.

    37 マルタはしばしばバルバリア海賊の襲撃に遭っている.スタンリー・レーン・プール,前嶋信次訳『バルバリア海賊盛衰記』,リブロポート,1981,143頁以降.また,ゴゾ島の西部には海賊映画そのものの満潮のときは塞がれ,引き潮になると海にでることができる海賊たちの基地だった場所がある.

    38 The Great Siegeのときのオスマン・トルコの余裕ある出陣とマルタでの落胆と狼狽の様子については,スルタンに送った書簡でも明らかである.これについては,Arnold Cassola, The Siege of

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    文京学院大学人間学部研究紀要 Vol.14

    Malta (1565) and the Istanbul State Archives, Valletta(Malta), 1995に詳しい.39 本稿では詳しく扱うことはできないが,Godfrey Wettinger, The Jews of Malta in the Late Middle Age,

    Valletta(Malta), 1985は興味深い記述で満載されている.また,エリザベス朝の繁栄期の 1592年 2月 26日(ただし異説もあり)にマルタのユダヤ人をテーマにロンドンで戯曲(Christopher Marlowe, The Jews of Malta)が初演されている.

    40 詳しくは,Andrew P. Vella, The University of Malta – A Bicentenary Memorial, Msida(Malta), 1969参照.41 1676年以降のマルタについては枚数の関係上,次回に掲載する予定である.1767年,フランス出身のグランド・マスターであるド・ロアン(De Rohan)は法律の完備を行い完成させ,中世そのもののマルタ騎士団も近代への道を歩み始めた.また,参考文献は紙面の関係に加え次回分と重複するものも少なくないので次回にまとめて列挙する.

    (2012.9.13受稿,2012.10.30受理)