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Page 1: チュニジアにおける政治変動を読む - JCCME83 中東協力センターニュース 2012・2/3 はじめに 「アフリカの年」といわれた1960年には数多く

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はじめに 「アフリカの年」といわれた1960年には数多くのアフリカ諸国が政治的独立を達成した。それに先立ち,アラブ世界では1956年にモロッコ,チュニジアが,1962年にはアルジェリアが独立を達成した。マグレブ3国における独立運動の高揚に多大な影響を与えたのは,1952年のエジプト革命である。さらに1954年11月に勃発したアルジェリア独立戦争は,北アフリカにおけるナショナリズムを高揚させた。以降半世紀が経過した現在,マグレブを含む北アフリカ諸国ではアラブナショナリズムの熱気は消失し,大きな地穀変動に見舞われている。 チュニジアでは2011年1月14日,ベン・アリ大統領が家族とともにサウジアラビアに亡命し,24年間(1987年11月~2011年1月)にわたる独裁政権が倒壊した⑴。エジプトでは,ムバーラク退陣を求める100万人規模の抗議運動が展開され,2月11日には,30年間(1981~2011年)政権を掌握しつづけていた親米・親イスラエル政権=ムバーラク独裁政権が崩壊し,軍最高評議会が全権を掌握した⑵。リビアでは,10月20日,カダフィ大佐が殺害された。アラブ世界における政治変動を前にして「アラブの春」が叫ばれているが,果たして春が到来したのだろうか?北アフリカ全域における政治変動を一括してとらえることは極めて困難であるので,本稿ではチュニジアにおける政治変動の背景にある

経済に焦点をあてて問題の所在を明らかにしてみたい。

1.第Ⅰ期:独立直後(1956~1960年) チュニジアは独立してから56年(1956年独立)を迎える。この間の政治の流れは2区分することができる。第1期は,ブルギバ大統領が絶対的支配者として君臨した1987年までの31年間であり,第2期は,ベン・アリがブルギバを追放して大統領に就任した1987年からサウジに逃亡した2011年までの24年間である。ブルギバが君臨していた時代には,ブルギバの政治的責任は一切問われず,全ての政治責任はブルギバが任命した首相や閣僚が引責した。独立してから現在まで独立国家にふさわしい経済を建設するために様々な試行錯誤が繰り返されたが,展開された経済政策を段階的に区分すれば,以下五段階に区分することができる。 第一段階は,独立直後から1961年までの時期。第二段階は,ブルギバがベン・サラーハを登用して社会主義建設を試みた1961年から1969年までの時期。第三期は,ベン・サラーハを国家反逆罪で逮捕・投獄し,1970年11月,ヌイラを首相に任命してから同首相を更迭した1980年までの時期。第四期は,ムザリを首相に任命した1980年4月から,同首相が逮捕され,脱獄して国外に亡命した1986年7月までの混迷期。第五は,ベン・アリが無血クーデタにより政権を掌握し

教授 福 田 邦 夫明治大学 商学部     

チュニジアにおける政治変動を読む

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てからサウジアラビアに逃亡した2011年までの24年間である。 結論からいえば,ベン・アリ体制のもとでのみチュニジアの人々が特別に苦しめられたのではなく,彼らは独立後一貫して政治的苦汁を強いられ,経済的辛苦を強要されてきた,ということだ。むろん政治権力と癒着し,天文学的な富を蓄積した少数者もいたのだが,同国の独立後の歴史を概観すれば世界経済に翻弄され続ける周辺国の苦悩が伝わって来る。 1881年にフランスの保護領下に置かれたチュニジアは1956年3月独立を達成し,1957年7月25日,ブルギバは憲法制定国民議会により初代大統領に選ばれた。ブルギバは前近代的な旧習を打破し,イスラーム法(シャリーア)に基づく法制度や一夫多妻制度を廃止して一連の近代化政策に取組んだ。しかし独立チュニジアの経済建設に関しては,植民地支配下の経済システムを踏襲し,旧宗主国フランスの経済援助に依存した自由主義的開発政策を選択した。またブルギバ大統領は,独立運動の一翼を担ったチュニジア労働者総同盟(UGTT)の指導者ベン・ユーセフを暗殺し,左翼政党を非合法化して激しい弾圧を加えた。ベン・ユーセフに指導されていたUGTTは,社会主義建設とアラブ民族の統一を高らかに謳っていたからである。 だがフランス保護領時代そのままの経済システムのもと,フランス人,イタリア人コロン(入植者)は独立以前と同じようにチュニジアに留まって経済的特権を享受していた。同国経済は停滞し,独立に夢を託した多くの人々は失望の淵に立たされた。

2.第Ⅱ期:  ベン・サラーハの時代(1961~1969年) こうしたなか,ブルギバ大統領兼首相は沈没寸前の同国経済を蘇生するため,急遽1961年1月,社会主義者ベン・サラーハを計画・金融庁

長官に任命し,同国の経済運営の全てを任せた。また同大統領は,1964年に開催されたネオ・デストゥール党大会で党名を社会主義デストゥール党に改名し国民に社会主義建設を呼びかけた。ベン・サラーハは,その後1969年9月に国家反逆罪の名のもとに逮捕され国外に逃亡したが,この間に急激な国有化政策を展開し,大地主の土地を没収して協同組合農場を組織しようとした。また鉄鋼公団をはじめ基幹産業部門に国営企業を設立した。ジェルバに次々と観光ホテルを建設し,観光立国の基盤を整備した。ベン・サラーハの最大の功績は,近代国家チュニジアの社会・経済インフラを整備・構築したことである。だが農業集団化政策に対する富農や商工業者の不満が爆発し,1969年1月にはサヘルで農民の大暴動が発生するなど社会的不安が増大した。さらにチュニジアに対する経済援助を約束していた米国が急激な社会主義化政策に異議を唱えて経済援助と食料援助を停止した。IMF・世界銀行も米国に同調した。ベン・サラーハは,急激に増大する対外累積債務と貿易赤字を削減するため,国民に対して厳しい耐乏生活を強要し,さらに徹底した賃金抑制政策をとった。1962年から1970年の期間,輸入総額に対する消費財輸入の割合は,年率3%しか増大していないのに,資本財輸入は年率10.56%も増大している⑶。賃金上昇率は,1962年指数を100とした場合,1970年の賃金指数は97.5(社会保険金融公庫)に低下しており,労働者には過酷な耐乏生活が強要された⑷。こうしたなかベン・サラーハは窮地に陥り,1969年9月,ブルギバにより逮捕・投獄された。以降,ブルギバ大統領は,チュニジアの経済運営をヌイラ首相に一任した。

3.第Ⅲ期:ヌイラの時代(1970~1980年) ブルギバ大統領は,1970年11月にヌイラ中央銀行総裁を首相に任命した。

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 ベン・サラーハの失墜とヌイラ時代の開幕についてチュニジアの経済学者アザイエズは以下のように述べている。 「1960年代初頭以降とりつづけられていたベン・サラーハの計画経済開発政策が,突然,取り止めになったので,社会主義的政策に危惧の念を抱いていた諸国,機関,階層,人々の総てが抱いていた不満は解消された。1969年9月,計画経済は取り止めになり,その指導者は投獄された。このことは,チュニジアの経済政策が根本的に方向転換したことを意味する。それまでチュニジアの生産機構だけではなく,チュニジア人の生存様式そのものまで協同組合化する試みが行われていたが,そうした試みは総て放棄された。(中略) ベン・サラーハが逮捕され投獄されるや否や,フランスからはモーリス・シューマン外相

(Maurice Schumann)を団長とする一大代表団がチュニジアを訪問し,新政府が必要とする支援を約束し,援助を申し出た。欧州共同体,米国,西独,イタリアもフランス同様に,危険な崖淵に立っていたチュニジアの新政府が選択した穏健な政策を支援することを約束し,食料援助を再開し,さらには紐つき資金援助を再開した。こうした『同盟国』の跳躍は,ヌイラ首相が『新しい開発モデル』を選択したからであったが,ヌイラが選択した新たな経済政策は,かつての保護領時代の経済成長政策そのものであった⑸」。 ヌイラ首相は「新しい開発モデル」を掲げて登場し,窮乏生活を強いられていた多くの国民はヌイラに夢を託した。だが9年後の1978年1月,チュニジアは政治的・社会的危機に陥った。ヌイラが首相に任命されてから1975年までは,

「チュニジア経済の黄金期」と命名されているように原油,燐鉱石価格が高騰したので独立後初めての高成長を達成した。 この間,ヌイラ首相は公共事業を拡大し重化

学工業部門に対する投資を推し進めた。工業化を達成するためにはオイル・マネーだけでは足りないので国外からの資金(借款)を導入しなければならなかった。このためインフレが昂進し,貧しい人々の生活を直撃した。だが1975年を境にして一次産品ブームが過ぎ去り,EEC

(European Economic Community)が経済不況に陥るや否や,同国経済は危機に直面し,1978年には同国は再び深刻な政治危機に陥った。なかでもオイルショックの衝撃を受けたフランスが「マグレブ社会の安全弁」といわれた移民の受入れを厳しく規制し移民労働者の帰国を奨励するようになったためチュニスをはじめとする主要都市は失業者の群れで溢れた⑹。 同首相はベン・サラーハが着手した農業生産者協同組合を解体し,食料の自給体制の確立を目指して大土地所有者主導による農業の機械化・近代化を推し進めた。だが復活した大土地所有者は,換金作物に専念し穀物生産には着手しなかったので食糧輸入は同国経済にとって大きなネックになった。また期待されていた主要換金農産物(オリーブ油,柑橘類,アルファ草)の生産は伸びず,貿易は赤字を記録しつづけた。食料輸入は年を追うごとに増大し,未だに同国経済にとって大きなネックになっている。 また同首相は,農業,商業・流通部門の協同組合を解体したが,ベン・サラーハが構築した工業の基本的骨格(観光産業,農産物加工産業,石油・燐鉱石産業,繊維・皮革産業,機械製造産業,鉄鋼産業)は国営企業として保護・運営する方針を打出した。しかし,工業化基盤そのものが不在であり,植民地支配により歪められた社会・経済構造を維持したまま,近代的工業を打ち建てることはできなかった。重化学工業化政策を実現するために国家の全ての資源と外部借款を投入したアルジェリアと同じく,チュニジアも対外債務が急増し,1980年代になると,債務の返済が困難な状態に陥った。

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 またヌイラが政権の座に就いた直後の1970年初頭からは,失業問題に加えて新卒者でありながら就職できない若者が続出し,若年層の失業が深刻な社会問題として表面化した。厳しい言論統制が行われていたため,政府の批判をした大学教授や学生が社会的地位を抹殺されることに対して大きな不満も蓄積されていた。ヌイラ首相が選択したケインズ政策(インフレ)により1974年から1975年の期間,生活必需品の価格は2~5倍に上昇したため勤労者の生活は圧迫される一方,大都市とその周辺には農村から流れ込んだ農民が住みつき広大な貧民窟が形成されるようになっていた。チュニスの都市人口は1970年には総人口の43%であったが2010年には67%に達し,異常な勢いで農村から都市に人口が流入している⑺。こうしたなかで,経済的恩恵を受けた新興中産者階級と,恩恵を受けることができない階級とに二極分解し,住宅難を利用した土地投機が蔓延し,家賃や地価が驚くべき勢いで上昇していた⑻。このため UGTT は1975年,借家住まいをしている労働者に対して家賃支払拒否運動を指令し,同年5月1日,独自に住宅建設会社を設立しホームレス・ワーカーを救おうとしたが,都市部での住宅問題を解決するには程遠く,年を追って深刻化した⑼。

4.第Ⅳ期:ムザリの時代(1980~1986年) チュニジア労働総同盟は,賃金引上げと労働条件の改善を要求したが,政府は一貫して拒否したため,1978年1月26日にはUGTT中央執行委員会の指令に基づいて全国規模のゼネスト

(暗黒の木曜日)が決行された。ゼネスト指令が出される以前から山猫ストが続発し,既に多くの青年,学生が街頭に繰出してデモ行進を行っていた。1月26日,首都チュニスで集会に結集した学生を軍が包囲して発砲したため,130人の学生が死亡(公式発表では51人)した。この日,ヌイラ首相はチュニジア全土に非常事態宣言と

夜間外出禁止令を発動。また翌27日には,UGTT書記長 H. アシュール他,組合幹部1,100人を逮捕した。徹底的な弾圧・逮捕が行われたのでゼネストは封殺され,非常事態宣言は3月20日に解除された⑽。ブルギバ大統領はヌイラ首相を解任し,1980年4月,後継者にムザリを任命し,

「私の後継者(dauphin)はムザリ」であると度重ねて公言した。ムザリ首相はヌイラ体制とは正反対の政策を掲げて登場した。同首相の常套句は「自由」「自由化」「新しい自由」であり,ヌイラ時代に投獄されていた政治犯のほとんど全てを釈放したので,これまで徹底的な言論弾圧下におかれていた国民は自由を求めて歩み出した。1978年の暴動以降,小規模な抗議運動が地方都市で見受けられたが,1984年1月,再び大規模な暴動が発生した。暴動の発端は,1983年9月,ムザリ首相が,IMFの勧告にしたがって食料品に対する補助金を大幅にカットしたためパンの値段が2倍に値上がりしたためである。パンに連動して肉や油など,生活必需品の価格が一挙に上昇した。同年12月には,ケビリ,ドゥーズ,トラハ等の南部都市でも暴動が発生した。1984年1月1日には南部鉱山都市ガフサで鉱山労働者による暴動が発生した⑾。軍が出動し暴動を鎮静しようとしたが,翌日の1月2日にはリン鉱石積出港ガベスでも暴動が発生,さらにブルギバ大統領の生誕地モナスティールにも波及した。1月3~6日には首都チュニスで街頭に繰出してパンの値上げに抗議する大規模なデモ隊に軍が発砲し約60名(政府発表,UGTTは147名)の市民が死亡,数百名が負傷した。1月3日には,非常事態宣言と夜間外出禁止令が布告されたが,抗議運動が次第に激しさを増すなか,1月6日,ブルギバ大統領はテレビを通じて食料品の値上げを撤回する宣言を行った。その瞬間,デモに参加していた民衆は大統領の宣言を支持し歓喜して乱舞し,首都チュニスは歓喜する民衆の波で埋めつくされた⑿。

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 暴動が鎮まった直後,ブルギバ大統領はムザリ首相ではなくギガ内相を罷免し,国家反逆罪の罪で10年間の禁固刑を言い渡した(同相は国外に脱出し,アメリカに亡命した)。翌年の1986年7月,ブルギバ大統領は突如,ムザリ首相を罷免し,スファール経済相を新首相に任命した。またムザリ首相夫人も全ての役職を解任された⒀。同国の経済状態は1975年以降急激に悪化し,1983年には対外累積債務返済が困難な状況に立ち至り,IMFと債務返済繰り延べ交渉が行われていた。また若年層の失業問題が深刻化し,貧富の格差は蔽い難いまでに拡大していた。こうしたなか大統領夫人ワシーラの実家ベンアマール家の蓄財は多くの国民の非難の対象となっていた。そこでブルギバ大統領は国民の不満を和らげるため,86年8月,ワシーラ夫人(当時75歳)との離婚を発表した。ワシーラ夫人はチュニジア最大の富豪,かつ伝統的名家ベンアマール家の出身であり,ベンアマール家は政治権力と癒着することにより法外な富を蓄えていた。チュニジア各地に建立されている英雄ブルギバの銅像やモナスティールのブルギバ・モスク,ブルギバ家の霊廟はベンアマール家によって建設されていた。ワシーラ夫人との離婚直後,ベンアマール家の公有地の不正取得,密輸,外為法違反を中心に100件を超える汚職収賄事件

が発覚している。

5.第Ⅴ期:  ベン・アリの時代(1986年~2011年) 先に見たように,ベン・サラーハが失脚してから80年代までチュニジアは国外からの援助と債務によって急場を凌いでいた。1987年,ベン・アリがブルギバ大統領を追放して大統領に就任する前年の1986年,チュニジアは遂に対外債務返済が不可能になり,IMFに救済を依頼(リスケ宣言)していた。ベン・アリ大統領は,1988年にIMFに同国の経済運営を委ね,国営企業の解体と徹底した民営化政策(構造調整政策)を推進した。また1995年7月には EU との協力協定(自由貿易協定)に調印し,同協定は1998年3月に発効した。以降,外資の導入と並行して関税率を引き下げ,2008年には EU との間で製造品に関する貿易が自由化された。国有企業を民営化し,市場を外資に開放したのでチュニジアにはカルフールをはじめ多くの外資系企業が進出した。同国政府は,1987年から2010年の期間,主要な219の国営企業を民営化し,国内外の資本に売却した。確かに図2に示されるように一時的には FDI(海外からの直接投資)が伸びた。 だが慢性的な経常収支赤字がつづき,同国経

(図1)対外累積債務残高推移(単位:100万ドル)

(出所)World Development Indicators 2011より作成

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済は深刻な様相を呈している。赤字を埋めるため,移民からの送金と観光客が落とす外貨や直接投資(FDI)を当てにしていたが,それだけでは埋め合わせることができず,農地まで外資との間で99年間のリース契約をした。要するにチュニジアの国家経済は借金漬けになりながらも,更に借金しなければ立ち行かない状況に陥っていたのである。こうしたなかベン・アリ一族は,民営化を合言葉に国民の財産を私物化し,外国資本と結託して法外な富を築いていたのだ。 IMF や世界銀行は,チュニジアの国民(約1,000万人)の93%が中産階級であり,貧困層はわずか7%にすぎないとして,エジプト同様に市場経済を導入した同国の経済パーフォーマンスを褒めちぎっていた。だが格差は異常なまでに拡大し,失業者も急激に増大していた。なかでも若年層の失業問題は深刻な様相を呈していた。 チュニジアの場合,軍出身のベン・アリは,軍の反乱を恐れ,軍事予算と兵員を徹底的に削減した。その代りに20万人もの秘密警察を育成して言論を弾圧した。経済が混迷する中,ベン・アリ大統領夫人トラベルシー一族は,かつてのワシーラ夫人同様,政治権力と癒着して利権を手に入れ法外な蓄財を行い,国民の批判の的になっていた。また軍事費を大幅に削減され冷遇

されていた軍部のベン・アリに対する不満は極限状況に達していた。だから今回の民衆蜂起に際して,軍はベン・アリに国外逃亡を勧め,反乱に立上った若者を傍観していたのだ。新生チュニジアの未来を担う憲法制定国民議会選挙は,2011年10月23日に行われ,イスラーム色の濃い「アンナハダ」(再生党)⒁が得票率35%を獲得して第1党,第2党は「共和国会議」(CPR)で15%,第3党は「労働・自由民主フォーラム」

(FDTL)となった。選出された憲法制定国民議会は,新憲法の起草委員会を設立し,セブシ移行期政権に代わって,ジェブリ(アンナハダ事務局長)暫定政権とマルズーキ(元 CPR 党首)暫定大統領を選出した。さらに1年後,国民投票で新憲法が制定された後,新政権を選ぶ総選挙が予定されている。 セブシ移行期政権は,2011年12月,「チュニジアの開発戦略と地域開発2012-2016年」⒂を発表し,EU も IMF もこれを賞賛し,同国に対する経済援助に乗り出した。同開発戦略の基本骨子は,従来通り国外からの資本誘致とテクノパークの完備であり,ハイテク国家チュニジアの建設を高らかに謳っている。独裁者さえいなければ,チュニジア民衆は経済的困苦から脱出し,

「春」を謳歌できるのだろうか。

(図2)チュニジアの貿易収支と FDI

(出所)World Development Indicators 2011より作成

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(注)⑴  Chronologie:les 30 jours qui ont fait bas-

culer la Tunisie: http://www.leparisien.fr/international/ tunisie-chronologie-d-un-mois-de-crise-14- 01-2011-1227217.php⑵  アムネスティ・インターナショナルによる

と,18日間にわたったエジプトの反政府デモでは約840人が死亡,6,000人以上が負傷した。ムバ-ラク前大統領はデモ参加者の殺害を命じた罪のほか汚職罪にも問われ,有罪になった場合は死刑を言い渡される可能性がある。

  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=00000008-cnn-int

⑶  輸入総額に対する消費財輸入の割合は1962年には46.3%(4,400万ディナール)であったが,1970年には33.3%(5,600万ディナール)に減少している。他方,輸入総額に対する資本財輸入が占める割合は,この間に4,700万ディナールから1億500万ディナールに増大している。

⑷  Tahar LETAIEF AZAIEZ, Tunis ie :Changements politique et emploi(1956-1996), Paris, Harmattan(Histoire et Perspec-tives Néditerranéennes), 2000. P.55

⑸ 前掲書,pp.74-75.⑹  Noureddine Sraieb,Chronique sociale et

culturelle Tunisie, Annuaire de l’Afrique du Nord. 1975 . CNRS. Paris. p.632.

⑺  http://perspective.usherbrooke.ca/bilan/tend/TUN/fr/SP.URB.TOTL.IN.ZS.html

⑻  チュニスでは1m2当たりの地価が10倍になり,結婚した若者は家賃が高いため住居をみつけることが不可能になった。詳しくは以下を参照。Noureddine Sraieb, op. cit ., p.630.

⑼ Noureddine Sraieb, op. cit ., p.630.

⑽  とはいえ,首都チュニスやスースでは学生や大学生,さらに教職員のストがひきつづき行われていた。このため UGTT 新執行部は,6月12日,UGTTチュニス地区委員会および高等教育・科学研究者組合に対して解散命令を出した。なお逮捕された組合幹部ならびにスト参加者は3~5年の禁固刑判決が下されたが,H.アシュウールは10年間の禁固刑と強制労働判決が下された。だが,1977年にブルギバ大統領の恩赦により出獄し,自宅拘禁措置に移行された。1978年1月以降,UGTTは激しい弾圧を受けた後,政府=党に懐柔され,労働者の権利を擁護する組織ではなく,政府の飾り物になり下がってしまった。

⑾  ガフサにおける労働者の暴動については以下を参照。「マグレブ」日本アルジェリア協会出版部,1986年11月号,17~27ページ。

⑿  パンの暴動については以下を参照。武内進一「チュニジアにおける食糧暴動」『マグレブ』日本アルジェリア協会出版部,1985年4月号,17~38ページ。

⒀  同夫人は1983年11月から家族・家族計画相に就任。同時に国民議会副議長,チュニジア婦人全国連盟議長を務めていた。同首相の次男は国営酪農公社総裁を務めていたが経営悪化の罪で逮捕された。

⒁  アンナハダは,1981年に「イスラーム潮流運動」として設立された。89年に,ベン・アリ政権下で行われた総選挙で第2党になったが,迫害されて,党首ラシッド・ガンヌーシはパリに亡命,現在の党名に変更。党首は2011年3月に帰国。

⒂  Le Développement régional dans le cadre de la stratégie de développement de la Tu-nisie pour la période de 2012-2016.