イラン・イラク関係の変容 ――イスラーム革命思想 …206...

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205 イラン・イラク関係の変容 ――イスラーム革命思想の展開と波及―― 塩見 浩之 * 1. はじめに 本稿の目的は、イラン・イラク関係をとりあげ、イランの対外関係に関わる思想や政策が両国関 係や同国の国際戦略にどのように反映されていたかを考察することにある。 イラン・イラク戦争(1980–1988)は、イラクが革命成立直後のイランに対して戦いを仕掛けたも のであり、それ以降今日にいたるまで、イラクとの関係はイランにとって、革命体制の護持を含め て自国の命運に関わる非常に重要なものであり、イラクとの対立関係にいかに対処するかがイラン 外交にとって最重要課題の一つであり続けた。 本稿では対イラク関係を、イランの革命政権が存亡をかけて「革命の輸出」を中心とする国際戦 略を展開した場として重視した。この事例は、イランの国際戦略を分析する上できわめて大きな 意義を持っている。しかし、イラン・イラク戦争後を取り扱った先行研究においては、湾岸戦争 1991)・イラク戦争(2003)が重視され、イラン外交の文脈では「対話外交」を中心としたイラン・ 欧米関係が主軸とされてきたため、イラン・イラク関係はしばしば看過されている。 本稿では、ホメイニー期・ハーメネイー期という 2 つの時期 1) にまたがり、イラン・イラク関係 * 京都大学大学院アジア ・ アフリカ地域研究研究科 1) 1989 年 6 月 3 日、ホメイニー師が死去し、翌日 1989 年 6 月 4 日にハーメネイー師が 2 代目最高指導者となった。 1979 年 2 月 11 日のイスラーム革命達成から、ホメイニー師の没日までをホメイニー期、翌日のハーメネイー師 の最高指導者就任日以降をハーメネイー期と大別する。 The Transition of Iran-Iraq Relations: The Expansion and Influence of Iran’s Islamic Revolutionary Thoughts SHIOMI Hiroyuki This paper examines Iran’s external relations and international strategies after the Iranian Islamic revolution in 1979. Currently, the Islamic Republic of Iran is one of the most influential states in the Middle East and the Islamic world. Iran’s international politics is based on Ayatollah Khomeini’s ideas. He proclaimed the importance of the unity of Islam, and the Islamic community or ‘Ummah.’ His Ummah thoughts were applied to Iran’s political movement, which I have defined as ‘Ummah politics’ in this paper. Iran has been trying to achieve the unity of Islamic countries with its ‘export of revolution’ strategy; accordingly, this strategy plays a big role in ‘Ummah politics.’ Therefore, it can be said that ‘Ummah politics’ is at the core of Iranian politics. So, this paper examines Iran’s Islamic revolutionary thoughts that are the foundation of ‘Ummah Politics’ with a special focus on Iran-Iraq relations because, for Iran, its relationship with Iraq is of the utmost importance. Saddam’s Iraq challenged Iran’s revolutionary movement. Moreover, Iran-Iraq Islamic international relations have been extremely important and in existence since ancient times; therefore, addressing this relationship is essential for Iran. From the perspective of Iran-Iraq relations, this paper analyses Iran’s own political characteristics. イスラーム世界研究 第 10 巻(2017 年 3 月)205‒216 頁 Kyoto Bulletin of Islamic Area Studies, 10 (March 2017), pp. 205–216

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Page 1: イラン・イラク関係の変容 ――イスラーム革命思想 …206 イスラーム世界研究 第10巻(2017年3月) の変容を分析する。まず、ホメイニー期の歴史的背景、イラン政治の基盤となるホメイニー思想、

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イラン・イラク関係の変容

イラン・イラク関係の変容――イスラーム革命思想の展開と波及――

塩見 浩之*

1. はじめに

 本稿の目的は、イラン・イラク関係をとりあげ、イランの対外関係に関わる思想や政策が両国関係や同国の国際戦略にどのように反映されていたかを考察することにある。 イラン・イラク戦争(1980–1988)は、イラクが革命成立直後のイランに対して戦いを仕掛けたものであり、それ以降今日にいたるまで、イラクとの関係はイランにとって、革命体制の護持を含めて自国の命運に関わる非常に重要なものであり、イラクとの対立関係にいかに対処するかがイラン外交にとって最重要課題の一つであり続けた。 本稿では対イラク関係を、イランの革命政権が存亡をかけて「革命の輸出」を中心とする国際戦略を展開した場として重視した。この事例は、イランの国際戦略を分析する上できわめて大きな意義を持っている。しかし、イラン・イラク戦争後を取り扱った先行研究においては、湾岸戦争(1991)・イラク戦争(2003)が重視され、イラン外交の文脈では「対話外交」を中心としたイラン・欧米関係が主軸とされてきたため、イラン・イラク関係はしばしば看過されている。 本稿では、ホメイニー期・ハーメネイー期という 2つの時期1)にまたがり、イラン・イラク関係

*  京都大学大学院アジア ・アフリカ地域研究研究科 1) 1989 年 6 月 3 日、ホメイニー師が死去し、翌日 1989 年 6 月 4 日にハーメネイー師が 2代目最高指導者となった。1979 年 2 月 11 日のイスラーム革命達成から、ホメイニー師の没日までをホメイニー期、翌日のハーメネイー師の最高指導者就任日以降をハーメネイー期と大別する。

The Transition of Iran-Iraq Relations:The Expansion and Influence of Iran’s Islamic Revolutionary Thoughts

SHIOMI Hiroyuki

This paper examines Iran’s external relations and international strategies after the Iranian Islamic revolution in 1979. Currently, the Islamic Republic of Iran is one of the most influential states in the Middle East and the Islamic world. Iran’s international politics is based on Ayatollah Khomeini’s ideas. He proclaimed the importance of the unity of Islam, and the Islamic community or ‘Ummah.’ His Ummah thoughts were applied to Iran’s political movement, which I have defined as ‘Ummah politics’ in this paper. Iran has been trying to achieve the unity of Islamic countries with its ‘export of revolution’ strategy; accordingly, this strategy plays a big role in ‘Ummah politics.’ Therefore, it can be said that ‘Ummah politics’ is at the core of Iranian politics. So, this paper examines Iran’s Islamic revolutionary thoughts that are the foundation of ‘Ummah Politics’ with a special focus on Iran-Iraq relations because, for Iran, its relationship with Iraq is of the utmost importance. Saddam’s Iraq challenged Iran’s revolutionary movement. Moreover, Iran-Iraq Islamic international relations have been extremely important and in existence since ancient times; therefore, addressing this relationship is essential for Iran. From the perspective of Iran-Iraq relations, this paper analyses Iran’s own political characteristics.

イスラーム世界研究 第 10 巻(2017 年 3 月)205‒216 頁

Kyoto Bulletin of Islamic Area Studies, 10 (March 2017), pp. 205–216

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の変容を分析する。まず、ホメイニー期の歴史的背景、イラン政治の基盤となるホメイニー思想、その政治的展開などに対して分析を行う。また、それらが隣国イラクにどのようなインパクトを与え、どのような結果をもたらしたかを論じる。次いで、ホメイニー師亡き後のハーメネイー期に注目し、ホメイニー期とは異なる新たな路線を採用しつつも、革命の大義を捨てることなく対イラク関係の構築に努めるイランの国際政治展開を考察する。

2. イラン・イスラーム革命の歴史的背景とその理念

2-1. ホメイニー師の理念形成

 ホメイニー師はイラン・イスラーム革命において比類なき役割を果たした人物2)であり、革命成立後は初代最高指導者の座に就き、絶対的な権力を持つに至った。彼の革命思想は今日まで強く受け継がれており、イラン政治の基盤となっている。 イラン・イスラーム革命思想の原点は 1953 年にあると考えられる。この年は、イランの石油国有化を図った当時のモサッデク3)政権が、米英両政府が画策したクーデターによって打倒された年である。米情報機関 CIAが関わったとされるこのクーデターの結果、アメリカのイランに対する関与は深まっていき、シャー4)の独裁化も進んでいった。反シャー勢力はこの 1953 年のクーデターをシャーの独裁化の起点として位置付け、彼らのアメリカに対するイメージも悪化、シャー政権をその「傀儡」と見なす認識も徐々に成立していった[吉村 2005: 111]。また、この石油国有化運動そのものにも、後のイラン・イスラーム革命と共通して、外部(帝国主義・植民主義)への抵抗、内部の変革というイラン人の願望が見られる[加賀谷 2015: 369]。 ホメイニー師はモサッデクの反植民地主義・反国王姿勢を歓迎したが、彼の世俗主義には懸念を示していた[冨田 2014: 13]。このクーデターを発端とするアメリカの介入は、ホメイニー師の反米・革命思想に多大な影響を与えた。 そしてイラン・イスラーム革命の始点は、白色革命がスタートした 1963 年の 3‒6 月にホメイニー師を先頭とする反政府の抗議運動にさかのぼるとされる。これはホメイニー師が決起して国王と対立を始めた時点でもあり、イラン革命の出発点と言える[加賀谷 2015: 375; 吉村 2005: 112]。ホメイニー師は、「シャー政権はイランの独立、国家主権、及び国家の威厳をみすみす手放し、アメリカやイスラエルの影響力拡大を是認し、アメリカの犬としてイスラームを侵食している」と痛烈に非難し[Azimi 2014: 40]、1963 年 6 月 5 日には「白い革命によって我々を裏切った黒い反動分子」であると激烈な演説を行った[ヘイカル 1981: 124]。 しかし、白色革命の段階では、ホメイニー師の批判の矛先はアメリカよりもイスラエルに向けられていた。アラブ・ムスリムの土地を占領するイスラエルとの政治・経済関係は宗教的「禁止行為(haram)」であり、イスラームとムスリムへの「裏切り」行為とみなされた[吉村 2005: 112–113]。[吉村 2005]では、ホメイニー師の反米思想に関して、白色革命の陰に隠れ今まであまり取り上げられてこなかった「米軍地位協定」というイラン・アメリカ間の間で締結された不平等条約の存在が、ホメイニー師によるアメリカの「大悪魔5)」化を決定づける要因になったとしている。

2) 冨田[2014]は、ホメイニー師を「イラン革命の祖」と定義付けている。3) イラン現代史上の最も著名な民族主義者として挙げられる。現在でも彼への思慕の念を持つイラン市民は多い。

1951 年 4 月に首相に就任したが、国王と対立、英米両政府の画策したクーデターにより首相の座を追われた[吉村 2005: 22–23]。

4) シャー(shah)とはペルシア語で王を意味する。ここでは、具体的にはパフラヴィー朝 2代目国王モハンマド・レザーのこと。

5) 大悪魔(Sheitan-e bozorg)はホメイニー師によって度々用いられた、アメリカを指す蔑称。他には「世界的な傲慢

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 アメリカやイギリスといった帝国主義、その傀儡と化したシャー政権、及びイスラエルを「不正(zulm)」であるとし、それらに対して闘うべきだというホメイニー師の思想は、「数億人の人間の幸福に至るこの道において、抑圧的な諸統治を打倒しイスラーム統治を樹立する必要がある」という彼の言葉によく示され[ホメイニー 2003: 40–41]、国際システムに対する見方として、アメリカのような超大国や列強が国際社会において多大な影響力を持つ状況にも厳しい批判を加えている。彼はこういった超大国を、「違法な存在」と否定している[Ramazani 1986: 21–23]。 このような反米・反植民地主義的革命思想を構築していったホメイニー師は政権側から危険視され、幾度もの投獄を経た後、イラン国外に追放されることになった。10 年にも及ぶ国外追放の身にあったホメイニー師であったが、その期間中に彼は自らの思想を固めていくことになる。 1964 年 11 月、ホメイニー師は拉致されて車でトルコ国境地区へと運ばれ、そこの荒れ地に放り出された。そしてトルコを経由した後、1965 年 10 月にイラクのナジャフに落ちつくことになった。この地で、彼は 1971 年に「法学者の統治論(velayat-e faqih)」[ホメイニー 2003]を説き、王制を反イスラーム的として否定した。彼は元々パフラヴィー朝の反イスラーム的姿勢を非難していたが、当時は「王制自体を否定」したわけではなく、言わば王権と並立するイスラーム法学者の伝統的な目付役としての立場から、王制の専制化や行きすぎを牽制するものであった。この基本姿勢は「法学者の統治論」の樹立をもって変化したと言える[冨田 1993: 24]。法学者の権限を政治の領域まで拡大させた、この「法学者の統治論」は、革命成就後にはイラン・イスラーム共和国体制の基盤となる。 ナジャフ滞在中、ホメイニー師の講義やメッセージはカセットテープの形で密かにイランへと送られ、その革命思想がイラン国内へ広がり、大きな影響を与えることになった。1978 年 1 月にコムの進学生が蜂起した事件や、同年9月にテヘランで起きたデモに対して銃撃が行われた際も、彼は絶え間なく王権打倒や蜂起継続のメッセージを出し続けたが、あくまでも武力闘争は避ける旨の発言を行ない、人々にストライキを呼びかけた。特に石油会社や銀行でのストライキにより、王制は多大な打撃を受けた[冨田 2014: 25]。シャー政権はイラクと交渉してホメイニー師をイラクからも追放し、彼はフランスのパリ郊外に移転することになるが、彼の影響はそれでも盤石で、1979 年2 月にイランに帰国した彼は、王政崩壊の決定打となり、イラン・イスラーム革命は達成された。 アメリカの傀儡と化したシャー政権に代わって、今や法学者がイスラームに基づいた統治を行うべきだという思想が、ホメイニー師指導下の革命体制の核心となった。ホメイニー師は自らの新秩序構想に反対する諸勢力の動きをアメリカの陰謀であると位置づけたが、「大悪魔」としてのアメリカが、反ホメイニー派を排除する道具と化した面もあった[吉村 2005: 129]。彼の反米思想は、その没後もイラン政治文化の中にも脈々と受け継がれることになる。

2-2. ホメイニー師のイスラーム革命思想とウンマ・ポリティクス

 1979 年 2 月 11 日、イラン・イスラーム革命の達成により、イランは王制からイスラーム共和制へと変貌した。「革命の祖」として大きな役割を果たしたホメイニー師は、最高指導者の座につき、かねてより自らが唱えていた「法学者の統治論」に基づくイスラーム統治を開始した。 さらにホメイニー師は、イスラーム革命を「革命の輸出(sodur-e enqelab)」戦略によって、中東域内各国へ拡大しようと試みた。「我々は、自らの革命を全世界へ輸出する。なぜなら我々の革命は、イスラームであるからである。世界のどこかで、傲慢な者(アメリカ・ソ連のような超大国)への

(Estekbar-e jahani)」といった呼称を用いてアメリカやソ連のような超大国を非難している。Darini[2005(1384)]はこの 2つの呼称を用い、ホメイニー師の見地の分析を行なっている。

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闘争が続く限り、我々は居続ける」[Khomeini 1982d: 265–266 ]という彼の言葉から、イランのみならず他の国々についてもイスラーム統治が行われるべきと考えていたことが分かる。 そして、アメリカの介入や、正しいイスラーム統治が不在であった時代を経験し、それを超克したイランこそが、正しいイスラーム統治を広めるべき主体たるべきと、ホメイニー師は考えていた。「イスラーム世界の最大かつ最も力強い基地」としてイランを定義した彼の言葉に[Fars News

Agency 2006(Dec. 30)]、イランのイスラーム世界におけるリーダーシップ性の強調が垣間見える。 こういった考えには、彼のウンマ6)思想も大きく関わっている。「イランはムスリム諸国と共に、イスラーム世界の統一達成に向け努力する。そして、私は世界のムスリムの繁栄を望んでいる」[Khomeini 1982c: 119]、「私たちの計画は、イスラームそのものである。その計画とは、ムスリムの統一であり、イスラーム諸国の連帯である」[Khomeini 1982a: 83]といった彼の発言から、イスラームの連帯(ettehad)やウンマ(ommat)を重視する彼の思想が垣間見える。パフラヴィー朝時代にアメリカの介入を受け、反米・反植民地主義的革命思想を形成してきたホメイニー師は、イランやイスラーム世界の利益を確保する上で、超大国に対抗し得る強力なイスラーム圏の必要性を感じていた。実際に、ホメイニー師は「ムスリムやイスラーム諸国の団結は、植民地主義国家に対抗し得る力を持つことができる」[Khomeini 1982a: 84]といった言葉や、「もし(イスラーム諸国、ムスリムが)互いに連帯し、同盟したならば、超大国による侵略を排除することもできる」[Khomeini

1982b: 104]といった言葉を残している。「革命の輸出」戦略は、このような、イスラームの統一やウンマの復興を果たすという目標において、特に重要な役割を果たしてきた[Firouzabadi 2009

(1388): 167]。 ホメイニー師は、イスラーム革命を達成して超大国の介入を阻止することに成功したイランが持つ力を信じ、イスラーム世界、すなわちウンマにおけるリーダーとして、それを対外的に発信すべきであると考えた。このように、イスラームの連帯やウンマを重視しながら展開されるイラン独自の国際政治運営を「ウンマ・ポリティクス」と定義したい。 このウンマ・ポリティクスにおいて根幹となる国際戦略が「革命の輸出」戦略であり、それを推進するイランの国際政治は、中東域内諸国に多大な影響を与えてきた。次節では、イスラーム革命やホメイニー思想がイラクに与えてきた影響について論じる。

3. ホメイニー期のイラン・イラク関係

3-1. イスラーム革命のイラクに対する影響と波及

 イラン・イスラーム革命は中東諸国に大きな衝撃を与えたが、隣国イラクへの影響はとりわけ多大であった。イラク国内で多大な影響力を持つシーア派ウラマーであるサドル師7)は、イラン革命時には革命及びホメイニー師への支持を行った[酒井 2002: 404]。そして、イラク国内のシーア派運動を刺激し、イラク・ムジャーヒディーン運動8)の創設へと繋がった[トリップ 2004]。イラク・ダアワ党9)もイラン革命を支持し、イラン側もダアワ党の武装蜂起を支持するなど、両者の関係は

6) イスラーム共同体のこと。ここでは、精神的共同体として実在し続けているものではなく、その政治的実現としての統一国家の復興が目標とされる。イラン・イスラーム革命や、「革命の輸出」戦略でも、このウンマ復興の意識が見られる。イスラーム統一を目標の一つとする革命は、このイラン革命が初である[小杉 2006: 515]。

7) ムハンマド・バーキル・サドル。イラクのカーズィマイン出身のシーア派ウラマー。現代アラブ世界におけるシーア派イスラーム復興運動の祖とされる[酒井 2002: 404]。

8) イラク革命を目指す新しい組織として、サドル師の弟子達によって創設された[小杉 1992]。9) イラクの政党の 1つ。サドル師の思想を中核として、1957 年末に成立したイラクのイスラーム復興主義組織。

シーア派系イスラーム政治組織の源流。2016 年 7 月現在は与党の座にある。

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緊密なものであった。1979 年にはダアワ党本部はイランの首都テヘランに置かれることになった[Wright 2001: 124]。 このように、イランがイラク国内のシーア派運動を刺激し、イラクの体制を揺るがしかねないと恐れた当時のサッダーム・フサイン政権は、1980 年にサドル師の処刑に踏み切った。前年にイランで成立したようなイスラーム革命がイラクにも生まれ、イランのホメイニー師の地位をサドル師が占めることを恐れたためであると考えられている[小杉 1992]。サッダーム政権側がいかにシーア派運動を危険視していたかを示すサドル師の処刑であったが、国内のシーア派弾圧に留まらず、その矛先はイランそのものに向けられることになった。サッダーム政権はイラン革命への挑戦という「反革命戦争」[小杉 2006: 310]としての戦争をしかけ、イラン・イラク戦争が勃発し、国家間関係としてのイラン・イラク関係は劣悪なものになった。 この戦争によって、イラク国内のシーア派イスラーム主義勢力はイランに亡命を余儀なくされた。サドル師の処刑、イラン・イラク戦争勃発を経て、引き続きダアワ党はイランを中心とした諸外国を活動の拠点とした。そのダアワ党に比して、より親イラン的なシーア派勢力であるイラク・イスラーム革命最高評議会(SCIRI)10)は、イラン革命防衛隊と共に、祖国イラクとの戦闘に身を投じ[山尾 2011: 127, 129]、イランとの緊密な関係を続けていった。 こうしたイスラームの紐帯を基にした超国家的なイラク・シーア派主義勢力との関係は、既存の理論では明らかにし得ない、地域固有の国際関係であると言える。イスラーム国際関係[小杉2006]とも定義されるこの関係は、イラク・シーア派主義勢力への援助という形で展開されたイランの「革命の輸出」戦略によって醸成されていった。 イラク・サッダーム政権を筆頭とし、欧米諸国・スンナ派諸国からの脅威のパーセプションで見られるようになったイランは、イラン・イラク戦争によって革命拡大を阻害されて苦境に立たされることになる。しかし、革命の影響や波及は確かに存在し、イラクに対する「革命の輸出」戦略も粘り強く継続し続けた。

3-2. ホメイニー師とイラン・イラク戦争

 イラン・イラク戦争が勃発したのは 1980 年 9 月で、以降 8年もの長期に及ぶ戦争となった。この戦争をイラクから仕掛けた動機として、その反革命性は前述したが、より具体的には、イランの「革命の輸出」戦略、イラク・シーア派住民の反体制運動の高揚、両国間の国境紛争の頻発などを背景に、イスラーム革命の波及防止を目的にサッダーム・フサイン政権から強行された、防衛的侵略戦争であると定義される[吉村 1996]。イランに対する脅威のパーセプションを共有していた欧米諸国や湾岸スンナ派諸国はイラクの側につき、イランは厳しい戦況に立たされることになった。 ホメイニー師はこの戦争に関して、サッダーム政権や、それを支援する湾岸スンナ派諸国に対し、「イスラームに対する冒涜を止めるよう、彼らに説教や提唱を行なっている」と発言し、イスラームを冒涜するものとして、イランに敵対するイスラーム諸国を非難11)している[Khomeini

10)サドル師の有力な弟子で、元ダアワ党幹部のムハンマド・バーキル・ハキームと , サドル師の最も有力な弟子であるマフムード・ハーシミーの働きにより、イラク・イスラーム主義運動のアンブレラ組織として 1982 年 11 月に創設された。端的に言えば、イラン国家に近いウラマー(知識人・法学者)勢力を中心とする人的ネットワークを核にした、緩やかなアンブレラ組織である[山尾 2011: 148–151]。シーア派政権成立後、「革命」の要素が取れてイラク・イスラーム最高評議会(ISCI)となる。

11)彼はサウディアラビアをはじめとする湾岸スンナ派諸国やエジプト、その他アメリカと同盟関係にある国々、あるいはイラン・イラク戦争でイラク側についた国々を、「大悪魔」の罪を手助けする「小さい悪魔(sheitan-e kuchek)」であると、批判している[Ramazani 1986: 23, Takeyh 2006: 19]。

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1980a(1359a)]。サッダーム政権に関しては、イラクやイスラーム国家における裏切り者であると非難し、それに対する蜂起をイラク国民に呼びかけている[Khomeini 1980b(1359b)]。加えて、彼は「サッダームによって、イラン、強いてはムスリム国家に課されたこの戦争について。サッダームは敗北するだろう。なぜなら我々は東も西も恐れることはなく、ただ神にのみ依るからだ」とも発言[Khomeini 1981(1359c)]しており、「東でも西でもない、イスラームだ」という彼の思想の根幹をなすスローガンを、この戦争においても適用していることが分かる。 イラク側はこの戦争において、こうしたホメイニー師主導のイスラーム革命の脅威を拭い去ることを大きな目的としていたが、同時にシャットル・アラブ川12)やイラン・イラク国境周辺地域の領土権の回復を志向し、究極的には、湾岸地域において、イラクを盟主とする新たな秩序の強要、次いでアラブの盟主の地位の確立13)を狙ったものであると思われる[鳥井 1990: 129]。ヒンネブッシュは、イラン・イラク間のイデオロギーの衝突を指摘しているが[Hinnebusch 2015: 216]、特に、ホメイニー師が志向するイスラーム・ウンマ思想と、サッダームが志向するアラブ・ウンマ思想とが衝突したと考えられる。「革命の輸出」戦略の根幹に存在するイランのウンマ思想に対しても、イラクは脅威のパーセプションを抱いていた。 8年にも渡って展開されたイラン・イラク戦争は、アメリカの介入が決定打となり、1988 年 6月から 7月にかけ、イランは数年がかりで占領した地域をわずか数ヶ月で失うことになり[吉村2005: 195–196]、戦況はイラクが優位となった。長期にわたる戦争の中、イラン国内は疲弊し、最終的にホメイニー師は停戦受諾を決意、1988 年 7 月にイランは国連決議 598 号を正式に受諾し、イラン・イラク戦争は終結した。 ホメイニー師は停戦受諾に関して、「決議受諾は私にとって、毒の杯を飲むことよりも殺人的である(Qabul-e qat’name az nushidan jam-e zahr baraye man koshande-tar ast)」14)という言葉を残している[Jamaran 2010 (Jul. 18)]。革命理念と現実との狭間で、政策決定上の「ジレンマ」に悩み抜いた最高指導者としての苦悩を最も明確に示した発言とされ[吉村 2005: 205–207]、苦渋の選択であったことが伺える。 その後、わずか 1年足らずの 1989 年 6 月 3 日、ホメイニー師は没する。1979 年 2 月の革命達成から、イラン・イラク戦争の勃発など、彼の最高指導者在位期間は激動の時代であった。戦争による国内の疲弊、国際的な脅威のパーセプションなど、内外両面に大きな負の遺産が残されたものの、「革命の輸出」戦略によって醸成されたイスラーム国際関係は、その後のイランにとって大きな役割を果たすことになる。次節からハーメネイー期のイラン・イラク関係に着目していく。

4. ハーメネイー期のイラン・イラク関係

4-1. ハーメネイー師の理念と対イラク政策

 ホメイニー師の死去の翌日、1989 年 6 月 4 日、2代目最高指導者にハーメネイー師が就任した。イランの体制はホメイニー期から、ハーメネイー期15)へと突入し、対イラク関係も新たな段階を迎えることになる。

12)イラン・イラク国境地帯を流れ、航路を提供する重要な川となっている。1975 年のアルジェ協定により、この川をめぐる両国の対立関係に終止符が打たれたが、1980 年にサッダーム政権によって一方的に破棄された。

13)1980 年 2 月 8 日、サッダームはサウディアラビアを始めとする穏健派諸国と手を組み、「リヤド・バグダード枢軸」を中核とする中東アラブ世界の統一と秩序確立を目指す大構想、「汎アラブ民族憲章」を発表した[鳥井 1990: 79]。

14)日本では通常「毒を飲むより辛い」と意訳されている。15)ポスト・ホメイニー期とされる場合もあるが、ホメイニー体制よりも長期に渡るハーメネイー体制を示す上で、

ハーメネイー期と示す方が適切であると考えられる。

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イラン・イラク関係の変容

 ハーメネイー師は、ホメイニー期の 1981 年から 1989 年までの 8年間大統領職を務め、ホメイニー体制を大統領として支え続けてきた。彼自身が最高指導者に就任した後も、ホメイニー師の革命思想を多分に受け継いでおり、イラン政治を運営する上での革命の大義は保持し続けている。「我々はホメイニー師の革命的スローガンを受け継いでいる」というハーメネイー師の演説から[Khamenei 2006 (1385)]、ハーメネイー期においても、ホメイニー師の理念が基盤とされるイラン政治のスタンスが見て取れる。 しかし、その国際政治運営に関しては、ホメイニー期のような強硬性は抑えられることになる。対イラク関係に焦点を当て、その内実を見てみよう。 1990 年、イラン・イラク戦争終結からわずか 2年足らずのうちに両国の外交関係が回復された[Dehghan 2011]。同年 8月 15 日、サッダーム政権はイランと平和条約を締結し、イラン側の要求を全て認め、イラン国内の占領地からも撤退している[Lee 2008: 47]。前述したシャットル・アラブ川の領有権に関する問題も、サッダーム政権側がアルジェ協定を再確認したことで解決の方向へと向かった。 イランの対イラク政策としても、1991 年 3 月にイラク人殉教者のための式典が開催され[Khamenei.Ir. 1991(Mar. 18)]、同年 4月にはイラク人難民を救済するための事務所が設立される[Khamenei.Ir. 1991(Apr. 5)]など、活発に行われている。これらは最高指導者ハーメネイー師の名の下に敢行されているが、イラクとの関係改善に応じ、友好的なイラク政策を積極的に行う姿勢から、彼が対イラク関係を重要視していることが伺える。 1991 年 3 月のノウルーズ(イラン暦正月)スピーチで、ハーメネイー師は湾岸戦争の勃発を受け、「去年(1990‒91 年にかけて)は、私たちの地域やウンマ(ommat)、特に湾岸やイラクにとって非常に厳しい 1 年だった。これらの出来事は、自身の利益しか考えていないもの(アメリカを始めとする国々)によるもので、これらの事件を通じての経験と教訓を忘れないようにしなければならない」と発言している[Khamenei 1991a (1370a)]。ホメイニー師のウンマ思想を受け継ぎながらも、新たなイラク関係を構築しようとする姿勢が垣間見える。 1991 年 7 月の金曜礼拝における説教で、ハーメネイー師はイラン・イラク戦争についても言及しているが、「イラン・イラク戦争はイラクが単独で起こしたものではない。(サッダーム)政権は要因の 1つであり、傲慢な世界(donya-ye estekbari)16)の存在がより議論される必要がある」と主張しており[Khamenei 1991b (1370b)]、この戦争における責任の所在をイラクからやや外した形で指摘する点が非常に特徴的な言説である。 イランは、クウェート侵攻に関してはイラクを非難こそしているが、湾岸戦争では中立の立場[Marschall 2003; Moslem 2002]である。サッダーム政権との静かな対立関係は続きながらも、その理念や政策から、対イラク関係の構築には慎重に務めているというイランの姿勢が見て取れる。1993 年から 2005 年にかけて、イランは人種(宗教)的差別廃止主義(integrationist)、非対立的(nonconfrontational)な対外政策を基軸とし、域内イスラーム勢力との関係を構築していったとされる[Ehteshami 2014: 269]。対イラク関係にもこのスタンスが適用されていると考えられる。

4-2. ラフサンジャーニー大統領期のイラン・イラク関係

 ラフサンジャーニー大統領期(1989–1997)には安定した対イラク関係が目標とされており、表向

16)ホメイニー師やハーメネイー師が、アメリカやソ連のような超大国を指して用いた言葉。語順が入れ替えられ、「世界的な傲慢(Estekbar-e jahani)」となる場合もある。

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イスラーム世界研究 第 10 巻(2017 年 3 月)

きには囚人交換やイラン人聖職者のイラク聖地滞在許可などの交流[Calabrese 1994]などが見られている。イラクは、イランとのイスラーム的な「同胞関係(Islamic “brotherly relations”)」に応じたとされている[Lee 2008: 47]が、国際的孤立打破のためにイランへの接近を試みたという背景も存在する[酒井 2004: 197]。様々な背景の存在が挙げられるが、その結果としてイラン・イラク間に関係改善の潮流が生まれたことは明らかである。 1992 年 9 月、イスラームの統一に関する国際会議におけるハーメネイー師の発言[Khamenei

1992 (1371)]においても、「皆(アメリカを中心とした国家)がイスラームの分裂を試みている。ムスリムの同胞達は互いに敵対しているというバイアスをかけられ、苦い運命に直面している」と、イスラーム的「同胞」のフレーズが掲げられている。イスラーム国際関係を、対イラク関係にも適用していることが見て取れる。 しかしその一方ではイランによるサッダーム政権の転覆の試みも指摘されており[Calabrese

1994]、イラン・イラク戦争中からイランと密接な関係を有する SCIRI(イラク・イスラーム革命最高評議会)は、戦後もイランを本拠地とし、イランも彼らに対して支援を継続し続けた[山尾 2011:

229, 259]。イラク革命(政権奪取)を目標とする彼らへの援助は、イランがサッダーム政権の転覆を狙っていることを端的に示している。 1993 年 5 月、巡礼に関するハーメネイー師のメッセージでは、「イスラーム(ムスリム)の目覚めの広がりは、最も重要な役割を果たしている……(中略)……イラク南部では、サッダーム政権に対して戦いを挑むイラク市民の全ては、イスラームのスローガンを導入している」という発言が見られる[Rasekhoon 2009(Feb. 20)]。ハーメネイー師の、対イラク関係に関する本音が表されていると考えられる。非対立的な態度でイラク関係を構築する一方、サッダーム政権転覆を狙った種を確実に撒いており、きわめて戦略的なイラク政策を採っている。

4-3. ハータミー大統領期のイラン・イラク関係

 「文明の対話17)」アプローチが有名なハータミー政権(1997–2005)であるが、このアプローチは対イラク関係においても運用された。 例えば、1997 年 11 月、1998 年 1 月の 2度に渡って、サッダーム政権によって国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会査察団に対する妨害工作が行われ、結果として米英による武力行使の可能性が上昇し、一時緊迫した状況となった事件があった。イランはこの際、問題解決のために会議の場を設けるなど、外交的解決の模索に協力している[Marschall: 2003]。イランにとっては、域内における自国の立場を向上させる好機であったと思われるが、対イラク関係に関しても対話外交によるアプローチが進められていたことを示す事例であると言える。実際、1997 年 11 月には、イラン国内のイラク人捕虜・囚人送還に関する合意が両国間で達成されており[Khamenei.Ir. 1997(Nov. 27)]、浅からぬ関係が展開されている。 1997 年にテヘランで行われた OIC(イスラーム諸国会議機構)の総会において、ハーメネイー師は「イランはあらゆるイスラーム諸国にとって、脅威とはならない」と発言しており[Takeyh 2006:

68]、ハータミー大統領の対話外交を是認しながら、広くイスラーム世界にそれを発信していた。その上で、1999 年 2 月、革命 20 周年を受けて彼が民衆へ向けて発したメッセージでは、「多くのイスラーム諸国では、若者や知識人の運動やそのスローガンにおいて、イスラームの尊厳と自

17)[ハタミ 2001]を参照のこと。国際政治学者ハンチントンが著した『文明の衝突』に対し、対話による宥和の可能性を主張した。

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イラン・イラク関係の変容

立、そしてイランの(イスラーム的な)行動規範が、そのモデルとされてきた」と発言し[Khamenei

2010 (1388)]、イラクを始め、域内のイスラーム勢力に影響を与えるイランの姿を主張するなど、ホメイニー師同様に自国イランのリーダーシップ性を強調している。 2000 年には数千人のイラン人がナジャフやカルバラーなどのイラク・シーア派聖地を擁する都市を訪問しており[Dehghan 2011]、対イラク関係の中で聖地ネットワークを中心としたイスラーム国際関係も継続している。 このように、イランはイラクとも対話外交を進め、サッダーム政権とも一定の関係を保ち続けるとともに、イスラーム的な紐帯を生かした国際関係も維持し続けた。

4-4. イラク戦争(2003)後のイラン・イラク関係

 2003 年 3 月 20 日、イラク戦争が勃発し、再びイラクは戦火に晒された。米英をはじめとする有志連合軍によってサッダーム政権は崩壊し、中東地域に大きな影響を与え、イラン・イラク関係も一変する。 2003 年 3 月 21 日、ハーメネイー師はイラク戦争勃発からわずか 1日後に声明を発出しており、この声明の中で彼は、「我々は、イラクの人々のために祈る。この祈りが意味するところは、独 裁者サッダーム不在のイラクを守るための祈りだ。イラクの運命や未来を決める権利は、他でもないイラクの人々に属すものだ。イラクの未来や政権を決定するにあたって、投票によってのみそれが可能になる」と発言している[Khamenei 2003a (1382a)]。 2003 年 4 月 13 日には、イラク国民に対して「(イラン・イラク間の)学者や聖職者、モスクとの協力のもと、思いやり(を持った行為)や宗教的関与を進めることで、公共・民間の財産を守り、殺人や略奪を防ぎ得る。全イラク市民のための安全で静かな環境が、真のイスラーム文明と民族文化を実証する団結や能力、知識をもたらす」というメッセージを送っている[Khamenei 2003b

(1382b)]。この発言の 3日後、彼はイラクに向けて具体的に人的・物資・金融・医療などのあらゆる面から援助を行うことを明言しており、イラク市民を「イラクの同胞(baradar-e eraq)」と呼称している[Khamenei 2003c (1382c)]。 イラク戦争によるサッダーム政権崩壊を契機として、イランは介入を始めたという訳ではなく、サッダーム政権時代から養い続けてきた関係を生かしながら、イラクへのアプローチを継続しているという様相である。しかし、サッダーム政権が崩壊したことで、イランにとって千載一遇の好機が訪れたことは疑いを入れない。 イラン・イラク戦争中からイランと深い関わりを持ち続けてきた SCIRIやダアワ党は、イラクへの帰国を果たす。2003 年 4 月 19 日には、SCIRIの支部がナジャフに 3カ所開設された。亡命勢力故に国内基盤に乏しいとされていたが、住民からは「大歓迎」を受け、多くの支持を集めることになる[酒井 2004: 150]。2005 年 1 月の制憲議会選挙では、シーア派連合(SCIRIやダアワ党を含む)が大勝し、同年 12 月の第 1回国会選挙を経て、翌年 4月にはマーリキー氏が首班指名を受け、親イラン的なシーア派系政権が成立した。 イランは、慎重にイラクとの関係構築に努め、粘り強く「革命の輸出」戦略を続けてきたが、結果としてそれがイラクで成功を果たしたと言える。

5. おわりに

 1953 年以来アメリカの介入を受け続けてきたイランは、ホメイニー師主導のイスラーム革命に

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よってそれを打破することに成功した。ホメイニー師は、この革命の潮流を「革命の輸出」戦略によって広め、強力なイスラーム圏としてのウンマを復興することを大きな目標としたが、イラン・イラク戦争や欧米諸国からの圧力によって苦境に立たされ続けた彼はそれを達成し得なかった。 ハーメネイー期のイランはホメイニー師の思想を受け継ぎながら、イスラーム的連帯を基にした理念や政策を展開し続けた。表では「対話外交」的アプローチで対外関係に上手く対処し、自国に対する脅威のパーセプションをかわしながら、裏で「革命の輸出」戦略を粘り強く継続し続け、非常に戦略的な国際関係の醸成に努めてきた。ことイラク関係においてはその戦略性が如実に表れており、結果的として、イラクに親イラン・シーア派政権を誕生させ、ホメイニー師の宿願とも言える「革命の輸出」に成功した。イラン・イラク関係は、イランにとって「革命の輸出」戦略を展開してきた場として、強いてはそれが結実した場として、非常に重要な地位を有している。かつての仇敵イラクがイラン最大の友好国と化し、この両国の同盟関係は、現在も中東地域で大きな存在感を放っている。 イランは湾岸戦争・イラク戦争という域内の変動を上手く利用し、対話外交的アプローチを基に対米関係をも上手く処理しながら、対イラク政策におけるイラン・アメリカ間の協調を果たしてもいる。対米関係はアフマディーネジャード大統領期(2005–2013)に悪化の様相を見せるが、ロウハーニー大統領期(2013–)に入ってから、再び対話外交的アプローチを展開し、関係改善に成功している。しかし、イラクやアメリカとの関係を深めるイランの動向を脅威と捉える国も多く、サウディアラビアをはじめとする湾岸スンナ派諸国との対立関係は、近年緊張の度合いを増してきている。 こうした、イランの対外関係における対立・協調の両側面を捉える上で、イラン独自の国際政治運営に着目しながら論及を行っていく意義は確かなものであると考えられる。今後も、イランの対外関係や国際戦略に軸足を置きながら、現代中東地域の動態を実証的に分析していきたい。 参照文献

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如実

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