イスラームネットワークと現代...イスラーム世界は、自然地理的な環境、生態系において多様なところである。砂漠や草...

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イスラーム世界は、自然地理的な環境、生態系において多様なところである。砂漠や草 原で家畜を遊牧しながら生活する者もいれば、オアシスや河川の流域で農業を行う人たち もいる。また、地中海やインド洋といった海を暮らしの舞台とする人たちも多い。こうし た生活様式のきわだった違いが、この地域に早くから分業を前提とした交換、商業を発達 させてきた。 遊牧民と農民は、不足するものをたがいに交換しあっていたが、そうしたなかからいつ しか市ができ、都市に発展し、それを核にしてあちこちに局地的な交易市場圏といえるも のができあがっていった。そして、各地に点在するこのような交易市場圏はキャラバンや 船で結ばれ、さらに広域的な、時には国を越える交易市場圏が形成されていったのである。 イスラームネットワークとは、このような複数の局地的な交易市場圏とそれらを重層的 につないでつくられる広域的な交易市場圏をイスラームという宗教、法によって秩序づけ ながら、モノ、ヒト、カネ、情報が流れる有機的で一体化された空間的な広がりのことだ いうことができる。これが姿を現すのは7世紀前半のアラブの大征服、それにつづく8~ 10世紀のウマイヤ朝、アッバース朝の時代である。そして、これはイスラームがさらに伝 播していくにしたがって、その範囲を中東の諸地域から東は中央アジア、中国へ、西では -1- イスラームネットワークと現代 慶應義塾大学文学部教授 坂 本 勉 イスラームの交易圏(帝国書院『高等世界史B 新訂版』より) 交易市場圏とネットワーク

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Page 1: イスラームネットワークと現代...イスラーム世界は、自然地理的な環境、生態系において多様なところである。砂漠や草 原で家畜を遊牧しながら生活する者もいれば、オアシスや河川の流域で農業を行う人たち

イスラーム世界は、自然地理的な環境、生態系において多様なところである。砂漠や草

原で家畜を遊牧しながら生活する者もいれば、オアシスや河川の流域で農業を行う人たち

もいる。また、地中海やインド洋といった海を暮らしの舞台とする人たちも多い。こうし

た生活様式のきわだった違いが、この地域に早くから分業を前提とした交換、商業を発達

させてきた。

遊牧民と農民は、不足するものをたがいに交換しあっていたが、そうしたなかからいつ

しか市ができ、都市に発展し、それを核にしてあちこちに局地的な交易市場圏といえるも

のができあがっていった。そして、各地に点在するこのような交易市場圏はキャラバンや

船で結ばれ、さらに広域的な、時には国を越える交易市場圏が形成されていったのである。

イスラームネットワークとは、このような複数の局地的な交易市場圏とそれらを重層的

につないでつくられる広域的な交易市場圏をイスラームという宗教、法によって秩序づけ

ながら、モノ、ヒト、カネ、情報が流れる有機的で一体化された空間的な広がりのことだ

いうことができる。これが姿を現すのは7世紀前半のアラブの大征服、それにつづく8~

10世紀のウマイヤ朝、アッバース朝の時代である。そして、これはイスラームがさらに伝

播していくにしたがって、その範囲を中東の諸地域から東は中央アジア、中国へ、西では

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イスラームネットワークと現代

慶應義塾大学文学部教授 坂 本 勉

イスラームの交易圏(帝国書院『高等世界史B 新訂版』より)

交易市場圏とネットワーク

Page 2: イスラームネットワークと現代...イスラーム世界は、自然地理的な環境、生態系において多様なところである。砂漠や草 原で家畜を遊牧しながら生活する者もいれば、オアシスや河川の流域で農業を行う人たち

イベリア半島、アフリカ大陸、バルカン半島へ、北ではヴォルガ川流域地方、南ロシア草

原へ、南ではインド亜大陸、東南アジアへと拡大させていったのである。

このネットワークを有効に機能させたのは、商人や交通・運輸をになう遊牧民、海上民

の活発な往来・移動である。しかし、それ以上に重要なのは、イスラームそのものだとい

わなければならない。そこでは商行為はどうあるべきかという理念の問題から具体的な取

引の仕方、係争事件の解決法、非ムスリム商人や外国商人がイスラーム世界で商売をする

ときの条件、安全保障までこと細かに規定している。これがイスラームネットワークに世

界でもまれな緊密なまとまりを与えてきた。ここでは商品とそれを動かした商人に光をあ

てながらネットワークの歴史的な変遷とそれが現代にどうつながっているのかをみていく

ことにしよう。

16世紀以降、ヨーロッパの資本主義を核とする近代世界システムが広がっていくまで、

世界には複数の相互に独立した経済システム、交易市場圏が併存していた。そうしたなか

でイスラーム世界を覆う広域的な交易市場圏、ネットワークは、『異文化間交易の世界史』

を著したカーティンや、『ヨーロッパ覇権以前』を書いたアブー=ルゴドがいうように、

750年頃から少なくとも1500年まで旧世界の中心文明でありつづけ、東西の相異なる文化、

世界を結びつける媒介者として重要な役割を果たしていた。

こうしたこともあって16世紀以前におけるイスラームネットワークが論じられる場合、

それがいかに他を圧倒するほど優勢であったかを強調する傾向が強いように思われる。ベ

ルギーの歴史家ピレンヌの「ヨーロッパはイスラームの勃興によって地中海を逐われ、内

陸部に閉じこめられた」という有名なテーゼはその代表といっていいだろう。また、イン

ド洋海域においてアラブ、イランの商人、船乗りは、マラッカ海峡を越えて南シナ海、東

シナ海にまでそのネットワークを伸ばし、広州、泉州などの中国の港市に居留地をつくり

ながら旺盛な交易活動をつづけていた、というのもその例として挙げることができる。

しかしながら、11世紀、ヨーロッパで商業が復活し、イタリア商人、十字軍が進出して

くるようになると、イスラームネットワークは、少なくとも地中海においてその優位を失

っていく。これに対してイスラーム世界は、ネットワークの中心をアッバース朝の首都バ

グダードからファーティマ朝の新しい首都フスタート(現在のカイロの前身)に移し、広

域的な交易市場圏の再構築をはかっていった。紅海に進出しようとするイタリア商人の動

きを封じてインド洋における交易をこれまでどおり独占し、それとユーラシアを東西に貫

くシルクロード、ステップルートを結びつけながらイスラームネットワークを発展させて

いくというのが、イスラーム世界の側からの対応であった。

13~14世紀のモンゴル帝国とマムルーク朝の時代、イスラームネットワークは海の道と

陸の道を有機的に結びつけて最盛期をむかえる。インド洋周辺の東アフリカ、インド、東

南アジア島嶼部は、熱帯・亜熱帯地域ならではの物産に恵まれていたが、このようななか

で最大の商品は、なんといってもインドの胡椒、モルッカ諸島で産するクローブ、シナモ

ンなどの香辛料であった。これらは、最終的にはエジプトに本拠をおくカーリミーと呼ば

れるアラブ商人の手で集められ、アレクサンドリアでヴェネツィア商人に渡されて地中海

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近代世界システム以前の状況

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からヨーロッパへと輸出されていったのである。

15世紀末のポルトガルのインド洋海域への進出、それにつづく17世紀以降のオランダ、

イギリス両東インド会社による交易活動は、この地域をヨーロッパの近代世界システムの

なかに組みこみ、それまでの強固で伝統的なイスラームネットワークを弱めたという評価

がされていくのがふつうである。

しかし、これに対して最近ではヨーロッパの経済的な浸透を過大視すべきではない。そ

れに抗してこの海域で交易を行ってきた商人たちは、旧来のネットワークをなお保ちつづ

けていたという反論も出されている。このような考え方は、ヨーロッパを中核地域とし、

その他の諸地域を従属地域とみなす近代世界システム論を批判し、アジア諸地域における

ネットワークの自立性を強調するため「アジア交易圏論」といわれている。

確かにポルトガルは、インド洋海域の主要な港市をおさえながら香辛料を中心とする交

易ネットワークに直接参入しようとした。しかし、現実には昔からそこに根をはり、ネッ

トワークをはりめぐらしていた土着の商人の交易活動にとって代われず、通行税を徴収し

つつ、彼らから香辛料を買いつけるということで妥協せざるをえなかった。

また、オランダ、イギリスは、東インド会社という当時としてはけた外れの巨大企業を

バックにして香辛料交易をおさえていこうとした。しかし、オランダもイギリスもモルッ

カ諸島で香辛料を買いつけるためには現地の住民がほしがる更紗に代表されるインドの綿

織物を調達し、もっていく必要があった。

このため、オランダ、イギリスの東インド会社は、16世紀以降、それまでのアラブ、イ

ラン商人に代わってネットワークをはりめぐらし、綿織物の流通をおさえていたグジャラ

ート商人の力を借りなければならなかった。彼らは宗教という点おいてすべてムスリムと

いうわけでなく、ヒンドゥー教徒、ジャイナ教徒、ゾロアスター教の流れをひくパールシ

ー教徒を多く含んでいた。こうした信仰、さらには血縁、地縁、言葉の違いは、同じグジ

ャラート商人といっても集団を細分化し、個々につくられた複数のネットワーク間の競争、

摩擦をはげしくしていた。しかし、全体としてみると、彼らはオランダ、イギリス両東イ

ンド会社がつくる交易ネットワークに呑みこまれず、それに対抗していけるだけの力をも

つ別個の自立的なネットワークをもっていたのである。

18世紀後半以降、東インド会社とそれを引き継ぐ英領インド帝国によって進められた植

民地統治によってインドは、綿織物の生産地から原料である綿花の供給地に転落し、これ

にしたがって伝統的な商業ネットワークも失ったといわれる。確かにこれはインドをイギ

リスとの関係においてみるかぎり的を射た見方だといえるだろう。

しかし、インドを東南アジア、東アジアとの関係のなかで眺めてみると、別な顔もみえ

てくる。それは、インドの特産品である綿花を19世紀後半以降、積極的に輸出しようとす

る商人が増え、東方にその市場を広げていこうとするたくましい姿である。そのネットワ

ヨーロッパ進出後も健在なネットワーク

台頭する非ムスリム商人

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ークは遙か日本にまで及び、すでに明治の時代に神戸には彼らのコミュニティがつくられ、

日本の産業革命を支える京阪神の紡績会社にさかんに綿花を売りこんでいた。こうした流

れのなかで昭和に入ってこの地に日本最初のモスクが建設されるが、これはインドから力

強く伸びるムスリム商人ネットワークを示す何よりの証しということができよう。

このようにイスラームネットワークは、近代になってもなおヨーロッパ資本主義に完全

に包摂されず、独自の交易活動を行っていた。最後に、こうした点をオスマン帝国とカー

ジャール朝イランにまたがる広域的なネットワーク、そこで流通していた主要な商品たる

生糸、繭の交易を例にとってみていくことにしよう。

生糸と繭は、リヨンとミラノをそれぞれ中心とするフランス、イタリアの絹織物業にと

ってなくてはならない原料であった。それは、マンチェスターの綿織物業にとってインド

の綿花が占めた位置に相当する。このため二つのヨーロッパの絹織物業の生産地は、生糸

と繭を16世紀以来、中東イスラーム世界の産地として有名なアナトリア西北部のブルサ、

イランのカスピ海南岸ギーラーン地方からさかんに輸入していた。

この交易は、アレッポ郊外のイスケンデルン、イズミル、イスタンブルを積出港として

行われたが、これらの港に至る陸と海のルートをおさえて生糸、繭の交易を牛耳っていた

のは近代以前はアルメニア商人、近代以降はギリシア商人であった。いずれもイスラーム

諸王朝のもとで庇護民(ジンミー)として扱われる東方キリスト教徒の商人たちである。

彼らはカピチュレーションのもとで移動を制限されていたヨーロッパの商人たちに代わ

って港の奥に広がる後背地を自由に往来し、交易を独占していた。こうした状況は、19世

紀前半に自由貿易システムにもとづく通商条約が締結されたあとも変わらなかった。新し

い条約によると、ヨーロッパの商人はどこでも自由に赴いて商売を行えるはずであった。

しかし、現実にはイスラーム世界のむずかしい商慣習に阻まれ、交易は困難をきわめた。

このため、イスラーム世界を知り尽くし、そこにしっかりと根をはる東方キリスト教徒の

商人たちの力を借りて交易を行わざるをえなかったのである。

イスラームネットワークというと、それを担うのはムスリムの商人ばかりと思いがちで

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ある。しかし、16世紀以降、イスラーム世界とヨーロッパとの経済関係が強くなると、ア

ルメニア正教、ギリシア正教などの東方キリスト教、さらにユダヤ教を信仰する非ムスリ

ム商人の力が強まっていく。彼らは、ヨーロッパの商人にとって宗教的にイスラームより

も身近な存在であり、プロテジェという国籍に準じた市民権をヨーロッパの国々から獲得

しながらそのネットワークを広げていったのである。

イスラームネットワークは、20世紀を越えても国を越えた広域性をなお維持しつづける

ことができた。しかし、第一次世界大戦後、世界がナショナリズム・社会主義にもとづい

て政治的、経済的に再編成され、新しい秩序が形成されていくと、その広域性を失い、ネ

ットワークとしての有効性を分断されていった。

これをオスマン帝国崩壊の過程に例をとってみていくならば、同じ広域的な交易圏を構

成していたバルカンとアラブの諸地域はナショナリズムにもとづいて一国経済化を進め、

離れていった。また、黒海をはさんで経済的な関係が深かった帝政ロシア支配下のウクラ

イナ、ロシア、ザカフカスもロシア革命によって独自の社会主義経済の道を歩んでいった。

こうした流れのなかでオスマン帝国のあとに成立したトルコは、アナトリアという狭い地

域で一国単位の経済を志向することを余儀なくされていくようになるのである。

こうした体制は、第二次世界大戦をはさんで約70年間ばかりつづくが、1980年代末から

90年代初頭にかけて冷戦構造が崩壊し、それをうけてバルカン諸国、ソ連邦の社会主義体

制が終焉の時をむかえると、再びこれらの地域において広域的なネットワークにもとづく

交易圏の重要性が高まってくるようになる。

トルコを例にとるならば、かつて鉄のカーテンによって堅く閉ざされ、往来することも

ままならなかった、バルカンや旧ソ連から多くの人びとがやって来て雑貨、衣料品を安く

仕入れ、それを故国にもち帰って価格差を利用して高く売るという草の根レベルの商売が

さかんになってきている。また、言語、文化を同じくするトルコ系のアゼルバイジャン、

中央アジア諸国にトルコ製の軽工業製品を輸出したり、現地で合弁企業を設立するトルコ

人の数も増えている。これは、パン・トルコ経済圏といってもよい広域的な交易市場圏へ

と発展する可能性をひめる、新しいうねりとしてとらえることもできる。

トルコは、すでに1970年代頃から世界経済が一体化する流れのなかで一国経済の殻をう

ち破り、新たな経済の広域的なネットワークを構築しようとつとめてきた。それは、すで

に中東イスラーム諸国との緊密な経済関係の確立、ヨーロッパ連合への加盟申請というか

たちをとってあらわれているが、冷戦構造崩壊後に生まれた新しい動きは、トルコにとっ

て今までとは別の広域的なネットワークに発展していく可能性をもつものなのである。

広域的なネットワークの新たなる模索

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左も女であると主張して大騒ぎになった。確かに

顔は男女同じである。これが春信の美男の描き方

であると言うと、生徒はむしろこの方に粋を感じ

るようであった。

1 この縦縞の織物は、「桟留(さんとめ)」

とよばれ、従来の

日本の着物にはな

い模様であった。

南蛮渡りの布に、

当時の日本では生

産できなかった八

十番手から百二十

番手のたいへん細

くて長い糸を使って縦縞が織られたのである。そ

もそも「縞」は、「島物」「島渡り」を省略した

「島」という音に、絹を意味した「縞」の字をあ

てたものであった。この縦縞は「唐桟留縞(略し

て唐桟)」とよばれ、唐、つまり外国産の織物を

示している。

2 鈴木春信以前のいつ頃この織物は日本に

もたらされたのだろうか? 次の史料は、1640

(寛永17)年11月の平戸のオランダ商館の仕訳帳

に掲載されているものを紙面の関係で抄録したも

ので、ここに奥嶋(下線部②)と記されているの

が、縞の綿織物である。生糸輸入が主であったこ

の時期にオランダの手で日本にもたらされている

ことがわかる。それも、松平伊豆守信綱(下線部

生徒は、世界史と日本史とに明確な境界を引き

たがり、日本のできごとを世界史の視点で見るこ

とに抵抗を感じる。今回の授業案は、それを打破

するねらいをもつ。題材として、インドの綿織物

がオランダの手を経て江戸時代の日本にもたらさ

れ、庶民生活に大きな影響を与えたこと、そこに

活躍した一人のオランダ人の生涯を見る。また、

このインド産綿織物がイギリスでも大人気となり、

産業革命につながるなど、世界史上でインド産綿

織物が与えた影響についてもふれてみた。

生徒は絵を描くの

が大好きで、色まで

つける者も登場する。

すでにこの絵や浮世

絵を見ている生徒は

縦縞を選ぶが、斜め

縞と絵模様を選ぶ者

も結構多い。春信の

『絵暦 風流四季哥

仙』の『水無月』

(本誌表紙裏)を見

せ縦縞を確認させる。

左が川辺で涼む侍、

右が美女だと言うと、

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桟留から世界を見る-世界に大きな影響を与えたインド綿織物

神奈川世界史教材研究会

はじめに

鈴木春信の浮世絵を使った導入 作業して考える

ア) イ) ウ) エ)

この縦縞は何で、いつ頃もたらされた

のだろうか? 史料を読む

【作業1】 下のイラストは、美人画の代表作家

といわれる鈴木春信が描いた人物像である。江戸

時代、センスがいいことを「粋(いき)」とよん

でいる。イラストの着物に、ア)縦縞、イ)横縞、

ウ)斜め縞、エ)絵模様を入れて、「粋」と考え

られるものを選んでみよう。

現在残っている桟留の一部(『高等世界史B 新訂版』より)

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登場し始めるのは1638(寛永15)年頃とされる。

1 島原の乱(1637~38)をきっかけにポル

トガル人追放の動きが加速されるなかで、幕閣に

は硬軟2派が存在していた。酒井讃岐守忠勝(下

線部③)を首席とする年寄(老中)たちは軟派を

形成し、ポルトガルのもたらす生糸などをオラン

ダが肩代わりできるかオランダ側に下問している。

需要の多い生糸や織物の必要量が日本に入らない

と、すべての商品の価格上昇につながり、経済の

混乱をまねくとの認識が幕府側にはあった。彼ら

は、ポルトガルを追放せず、ポルトガル船と中国

船を長崎に、オランダ船を平戸に入港させて貿易

を行い、そのうえでキリシタン禁制は可能と考え

たのである。しかし、家光側近で大目付兼宗門改

役の井上筑後守政重(下線部⑤)はキリシタン禁

制のためポルトガル追放を断行した。強硬派の井

上筑後守は決して異国を嫌っていたわけではない。

キリスト教も理解していたし、ワインも好きで、

フランソワ=カロン(下線部①)とも親しかった

のである。ライバルのポルトガル追放は、まさに

オランダ側に好都合であったが、マカオを手にし

て生糸や絹織物を大量に扱えるポルトガルと同じ

量を供給することはオランダには不可能であった。

オランダとしては、中国以外の地域から代替商品

を日本に供給しなければならなかった。その代替

商品として登場したのがこの奥嶋、つまり桟留な

どの縞木綿だったのである。

2 このフランソワ=カロンは、教科書など

には掲載されていないが、オランダと日本の交易

におけるキーパーソンであり、フランス東インド

会社の再建にかかわった人物でもある。教科書の

ゴシックの人物だけが重要とする生徒たちの誤解

を解き、初見の人物を通して当時のできごとを見

てみたい。

1600年にブリュッセルで誕生したフランソワ=

カロンは、オランダ東インド会社の賄い方手伝い

として入社、1619(元和5)年19歳のときに平戸

④)など幕府要人に配られた。献上品の内容は、

幕府通詞の助言や幕府側の要求などにもとづくこ

とが多いので、奥縞は幕閣にたいへん好まれたこ

とになる。これ以前にはポルトガルがもたらした

絹奥縞の名称があるものの、奥縞の名称で木綿が

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【資料2】 1640年11月1日

[借方]進物費[貸方]下記諸口

この金額は、[東インド]総督閣下の命令に基づき。

同閣下の書翰に添えて平戸の領主肥前様[松前鎮信]

と長崎代官[末次]平蔵殿に贈呈されたる進物、同様

にプレジデント、①フランソワ=カロン閣下の宮廷で

の拝謁実現に際し、多大の援助を賜わりし下記の殿た

ちに対し、その謝礼として呈されたる進物、並びに

[上記進物を届けた]プレジデント閣下[カロン]の

長崎往復と使用人ヘーベエ殿の江戸往復に要したる食

費などの旅行経費の総額なり。内訳は以下の如し。

平戸の領主、肥前様[松浦肥前守鎮信]充て

1頭 ペルシア産の馬

1反 緋羅紗 他

長崎代官、[末次]平蔵殿充て

1反 緋羅紗、

3反 サージ即ち小羅紗

50反 ②奥嶋 縞木綿

閣僚、讃岐殿[③酒井讃岐守忠勝]充て

1反 ペルシア産金羅紗

5反 ②奥嶋 縞木綿 他

閣僚、伊豆守[④松平伊豆守信綱]充て

1反 ペルシア産金羅紗

5反 ②奥嶋 縞木綿 他

閣僚、豊後殿[阿部豊後守忠秋]充て

3反 ②奥嶋 縞木綿 他

閣僚、八太夫殿[牧野八太夫尹成]充て

閣僚、大炊殿[土井大炊頭利勝]充て

閣僚、対馬殿[阿部対馬守重次]充て

閣僚、加賀殿[堀田加賀守正盛]充て

閣僚、弥五左衛門殿[兼松正直]充て

閣僚、筑後殿[⑤井上筑後守政重]充て

閣僚、備中殿[太田備中守資宗]充て

各 3反 ②奥嶋 縞木綿

閣僚、江戸の市政官[江戸町奉行]2名充て

6反 ②奥嶋 縞木綿

(後略) (平戸商館の仕訳帳より抜粋)

※史料はスペースや授業展開の関係で編集してある。

日本に「桟留」がもたらされた背景は?

それはどのように広まっていったのか?

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1 生徒に、当時日本に入ってきた桟留以

外の織物の名称を、これらが地名であると言った

うえで示し、上の作業をさせる。この作業で舶来

の縞の名称がインドや東南アジアの地名であるこ

とを気づかせ、桟留もインド東岸(コロマンデル

海岸)にあるチェンナイ(マドラス)のマイラポ

ール地区のサントメからきていることを示す。で

きれば帝国書院の『明解世界史A』p.83の地図を

参照させたい。

2 日本のこの地域に対する知識はおもに中

国から入ってきた。この地域と中国との交流を見

ると、元代にインド東岸のコロマンデル沿岸にあ

ったマバルの名が朝貢国として残っている。しか

し、明代には消えてしまう。明が重視したのは、

アラビア海側のマラバル沿岸の港市国家であった。

鄭和の大艦隊もインド東岸には立ち寄ってはいな

い。大きな入り江や内陸部に通じる大河川もない

コロマンデル沿岸よりも、天然の良港に恵まれ、

に到着した。日本語も習得し、1636(寛永13)年

商館長ニコラス=クーケバッケルに随行して江戸

に参府し、ピストルや銅製大燭台(日光東照宮廟

前に納められた)を献上している。この年、バタ

ヴィア商務総監の諮問に答えて『日本大王国志』

を執筆し、日本を紹介した。井上筑後守と日本語

で対応するなど日蘭双方の信頼を厚くしたカロン

は、平戸商館長にのしあがる。しかし、幕府強硬

派である井上筑後守が、1641(寛永18)年に平戸

のオランダ商館破却命令を出し、長崎出島への移

転を命じた。カロンはこれに素早く対応し、オラ

ンダ追放の口実を幕府に与えない。その点、事態

を甘く考えて追放されたポルトガルとは随分違う。

その後、セイロン島遠征司令官、台湾長官、バ

タビア商務総監を歴任して業績をあげたが、政敵

からの讒言ざんげん

で解任された。しかし、1665年コルベ

ールからフランス東インド会社首席理事に招聘さ

れ、ムガル帝国・バンタム・カリカットなどにフ

ランスの地歩を築き、成果をあげる。1672年、リ

スボン入港の際に浅瀬に座礁し、その生涯を閉じ

た。

3 カロンが贈ったこの奥縞は、その後どの

ような広がりをみせたのだろうか? このオラン

ダが幕閣に贈った「桟留」は、大奥や上級武士に

好まれるようになり、さらに彼らとかかわった遊

女たちにも広がっていった。それが18世紀以降、

一般庶民に流行するようになったのである。その

流行に一役買ったのが、この縦縞の着物姿の「粋」

な美女を錦絵に描いた鈴木春信だった。

- 8 -

「桟留」はどこからもたらされたのだろうか?

関ヶ原 奉書

ピューリタン ウェストファリア ルイ14世

島原

【作業2】カロンの生涯と日本を含む世界のできごとの空欄にあてはまる語を記入しよう。

【作業3】 下線部に注目して( 空欄 )にあ

てはまる地名を、地図帳を参照して推理しよう。

地図読みとり

●弁柄ベンガラ

縞=インドの( ベンガル )地方産の経

(たて)は絹糸、緯(よこ)は綿糸の縞織物

●茶宇チャウ

縞=インド西海岸のチャウル地方産の軽く

て薄い絹織物で、元禄期の袴に使用

●セイラス縞=( セイロン )島からオランダ人

が江戸初期にもたらした絹の縞織物

●咬カ ル バ

縞=インドネシアの( ジャカルタ )産

といわれるが、南インド産のものが再

輸出された可能性がある。

●カピタン縞=経(たて)は染糸、緯(よこ)は

白糸の朧おぼろ

地で、オランダ商館長の

名称である(カピタン)にちなむ。

人物史

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人気で、「キャラコ(カリカットの名称に由来)

の時代」をもたらした。日本などのアジア、そし

てヨーロッパ諸国で需要が高まったばかりでなく、

服飾文化にも大変動をもたらしたのである。浅田

実氏によれば、イギリス東インド会社がヨーロッ

パに輸出した綿布は1613年には5000反にすぎなか

ったのに、1720年代には50万反近くにもなった。

イギリスでは、絹や毛織物の業者がインド綿織物

の輸入に反対して「輸入禁止法」や「使用禁止法」

を成立させたものの、安価で品質の良いインド産

綿布の需要はこの後も変わらなかったのである。

このグラフから、イギリス産綿布がインド産綿

布にとってかわったことがわかる。その背景には

人気のあるインド産綿布への模倣が続けられ、大

量の綿布生産をめざす試みがイギリスで成功した

ことがあげられる。この技術革新が産業革命とな

り、イギリスは工業化への道を歩み始めた。その

結果、インド産綿布は駆逐され、インドには「木

綿織布工たちの骨はインドの平原を白くしてい

る」とさえいわれる状況を生み出した。インド綿

産業を崩壊させ、イギリスがインドを直接支配す

るのはもう目前のことであった。

参考文献

『春信の春,江戸の春』早川聞多著 文藝春秋 平成14年

『江戸はネットワーク』田中優子著 平凡社 1993

『マドラス物語』重松伸司 中公新書 中央公論社 1993

『平戸市史』海外史料編Ⅲ 平戸市 平成10年

『近世日本とオランダ』金井圓著 放送大学教育振興会 1993

- 9 -

後背地からの運送に水路(クリーク)を使えるマ

ラバル沿岸の方が魅力だったに違いない。ゴアや

カリカットなどのマラバル沿岸の港市国家は、北

のイスラーム国家と対峙するヴィジャヤナガル王

国の支配を受けていた。しかし、ヴィジャヤナガ

ル王国は、北に備えるための軍馬の恒常的な輸入

や貢納収入を確保するため、これら小王国を保護

していたのである。

3 インド東岸のサントメとはどのような都

市だったのだろうか?

イタリア人宣教使モンテ=コルヴィノが、元の

大都で布教する前に南インド東岸のマバルに立ち

寄って、この町に「使徒聖トーマスの教会があり」、

奇跡を体験したと記している。『東方見聞録』に

も聖トーマスにからんだ同様の記述がある。聖ト

ーマスは十二使徒の一人で、伝承では西暦1世紀

中頃南インドに到来したとされている。その真偽

はさておき、南インドは、インドのなかでも最も

キリスト教徒が多く、シリア派キリスト教(聖ト

ーマス派キリスト教)がしっかりと根をおろして

いる。また、ユダヤ教徒が多いこと、季節風を使

ったローマ時代からの交易がさかんであったこと

などから、この伝承を否定しきれるものではない。

サントメの名称がこの聖トーマス由来であること

を含めて生徒に気づかせる。

16世紀初頭に、ヒンドゥー教の聖地でもあるマ

イラポール(孔雀都市)にサントメの町を建設し、

要塞を築いたのはポルトガル人であった。しかし、

1600年頃繁栄を迎えたサントメも、その北方に拠

点を築いたオランダ東インド会社にしだいに圧迫

されていった。

人気のある「唐桟留縞(唐桟)」を模倣する試

みは日本各地で行われた。高機(たかばた)の導

入によって可能になったもので、川越唐桟(川唐)

が有名である。しかし、この川唐は、天保当時で

すら「粗眞物を欺く物あり」とされて、舶来品の

品質には及ばなかった。また、薄くてプリントも

容易であったインド産綿布は、ヨーロッパでも大

インドの綿織物産業の優秀性とその影響

イギリス綿布とインド綿布の輸出量(『最新世界史図説タペストリー 最新版』より)

【作業4】下のグラフを参考にどのようなことが

おこったか推理してみよう。 グラフの読みとり

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教科書ではバルフォアは第一次世界大戦中のイ

ギリスの戦時外交における「バルフォア宣言」と

いう事項名としてのみ登場する。授業では「フサ

イン=マクマホン協定」「サイクス=ピコ協定」と

ともに、イギリスの二枚舌外交の例として取り上

げられるのが一般的である。そして授業後は、バ

ルフォアはもはや登場することはなく、生徒は

「帝国主義者」「植民地主義者」「ユダヤ人寄りの

姿勢をとる外相」と言う印象を持つのがせいぜい

である。しかしこのバルフォアこそ、日英同盟締

結の当事者であり、日露戦争を通じて首相として

日英同盟を最大限に活用した人物であり、しかも

同盟締結から20年後のワシントン会議において日

英同盟を破棄した当事者であるということはほと

んど知られていない。

本稿ではバルフォアがどのような経歴を持った

人物であり、どのように日英同盟を捉え、関わっ

たか、授業においてバルフォアがどのように活用

できるのかについて述べてみたい。

A.J.バルフォア(1848~1930)はスコットラ

ンドの地主の家柄に生まれた。父方は祖父の代に

インドで富を得たネイボッブと呼ばれる成金であ

り、その富によって所領を得た。彼は幼くして父

を失い、母方の叔父ソールズベリ(1830~1903)

の影響を受けて育った。ソールズベリはのちに3

回にわたって組閣する保守党政治家である。

1874年に庶民院議員となり、78年には外相ソー

ルズベリの秘書としてベルリン会議に出席した。

86年に入閣し、87年に

はアイルランド問題担

当大臣となった。91年

には蔵相となり、95年

成立の第3次ソールズ

ベリ内閣では、健康を

害したソールズベリに

代わって98年から実質

的に政務を取り仕切り、

南ア戦争を指導する。

1900年にはランズダウ

ンを外相としたが、ラ

ンズダウンこそ02年1

月の日英同盟成立に中心的な役割を果たした人物

である。南ア戦争終了後の02年7月、ソールズベ

リから首相の地位を譲られたバルフォアは、アジ

アにおける英露対立、ドイツの世界政策、日露戦

争(1904~05)英仏協商(1904)等の外交問題を

処理していく。しかし閣内不一致によって、05年

12月総辞職し、さらに06年1月の総選挙での保守

党の大敗で下野する。その後バルフォアは保守党

党首として自由党アスキス内閣の議会法改正に反

対する抵抗勢力となった。しかしこれが保守党の

支持率低下を招いて総選挙に敗北し、11年末に党

首を辞任した。

第一次世界大戦の勃発後、彼は14年10月に内な

る内閣(inner Cabinet)である帝国防衛委員会

に入り、15年5月のアスキス連立内閣成立の際に

海軍大臣となった。彼はドイツ艦隊を封鎖するこ

とによってその消耗を待つ作戦を採った。それは

圧倒的な海軍力の差を前提とした戦略であったが、

そのために彼は首相時代から10年以上に及ぶ独自

の建艦政策を実現させてきていた。しかし、この

「戦わずして勝つ」戦略は、主戦論の同僚やマスコ

バルフォアと日本 ~イギリスから見た日英同盟~

千葉県立浦安南高等学校 石 井 聡

- 10 -

1.はじめに

2.バルフォアの経歴

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ミの批判を招き、アスキス内閣瓦解の一因となっ

た。16年12月のロイド=ジョージ内閣の成立とと

もに、バルフォアは外相に横滑りする。ロイド=

ジョージは政治的立場を超えてバルフォアの建策

を参考にし、政治的表明はロイド=ジョージが、

裏での秘密外交の立案はバルフォアが行うという

関係がつくられた。一方、バルフォアは外務省の

スタンスとは別の立場で発言することが多かった

ため、「イギリスのよくわからない外相」と呼ば

れた。17年の「バルフォア宣言」も実際は彼の私

的な書簡であり、外務省の立場とは異なる。彼は

19年のパリ講和会議では、イギリス代表団の長で

あり、また同年外務省を去って枢密院議長となっ

ても外交に携わった。1920~23年には国際連盟の

イギリス代表であり、ワシントン会議(1921~22)

のイギリス首席全権であった。26年にはウェスト

ミンスター憲章のもととなる「バルフォア報告書」

を公にしているが、28年以降、健康が衰え、29年

にボールドウィン内閣の枢密院議長を辞してその

政治的経歴を終える。彼は30年3月に死去した。

バルフォアが政府の中枢を占めていた期間は、

多少の離脱はあるものの、1886年から1929年まで

40年以上にわたっている。

それでは、バルフォアは日英同盟をどのように

考えていたのであろうか。それにはまず同盟締結

のいきさつから振り返る必要がある。日本の世論

が日英同盟をほとんど無条件に受け入れたことは、

よく知られている。しかし、イギリスは当初から

同盟相手国を日本と考えていたのではなかった。

イギリスが同盟を模索したのには、日本とは異な

る事情があった。その1つは露仏同盟の成立や三

国干渉以後のロシアの中国進出が極東におけるイ

ギリスの地位の低下をもたらしたことであり、も

う1つは南ア戦争における国際的孤立であった。

そこで首相代理であったバルフォアは、伝統的な

外交政策である「光栄ある孤立」を放棄し、同盟

を模索する方向への転換を図ったのである。

当初、バルフォアはアメリカとの同盟を考えて

いた。アメリカは中国の門戸開放に好意的であり、

その点で極東における利害が一致していた。しか

し、米大統領マッキンリーは伝統的な孤立主義政

策を捨てず、同盟は実現しなかった。そこでバル

フォアは98年3月末にドイツとの同盟実現に方針

を転換し、植民地相チェンバレンに非公式な交渉

を行わせた。しかしドイツはロシアを刺激するこ

とを望まず、交渉は不調に終わった。それでもバ

ルフォアはドイツとの同盟に執着し、翌99年にも

滞英中のヴィルヘルム2世に打診している。1900

年にも外相ランズダウンと植民地相チェンバレン

とともに、ソールズベリに対して英独協定を推し、

それは「中国の門戸開放を維持する」という内容

で締結された。しかしロシアが北清事変で満州に

軍隊を増派すると、この協定は効力を失った。

1901年11月にソールズベリの決裁で日本との同

盟交渉がランズダウンに一任された。しかしバル

フォアはこれに批判的であった。彼は書簡でラン

ズダウンに「日本との同盟は、ドイツと同盟する

のと同じ敵との戦いを我々にもたらし、しかもよ

り弱いパートナーと対処しなければならないので

ある」「日本と同盟をするよりも、独墺伊三国同

盟と結びつくほうが危険は少なく得るものが多

い」と述べている。このことからバルフォアが日

英同盟を最善の選択とは考えていなかったことが

わかる。当時の日本はいまだ不平等条約の撤廃も

実現しておらず、言うならば「東洋の三等国」で

あった。そのような日本を考えるならばバルフォ

アが不安を覚えたとしても当然であろう。日英同

盟は1902年1月に締結された。

バルフォアは1902年7月に首相となった後は、

同盟相手が日本では力不足ではないかという自ら

の懸念を隠し、公式には一貫して「極東における

日英の利害は一致している」と表明し、こののち

日英同盟を最大限に活用する方向で行動していく。

その後、日露の関係が悪化する中で、バルフォ

アは有事の際の日露への対応を考慮している。彼

は1903年10月の段階では、日本が戦争に突入して

も勝利の可能性がないとして戦争回避を図ってい

3.日英同盟締結とバルフォア

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たが、12月には日本が戦争することを支持する方

向に傾いていた。彼はロシアが侵略することがな

ければ日本は戦わないだろうが、それは不可能だ

と考えた。「もしイギリスが日本に極東で譲歩す

るように忠告したら、日本はイギリスを偽りの友

人とみなし、日本を救おうとして結果的には日本

を失うであろう」と述べ、「同盟の本当のねらい

は、日本をロシアと戦わせることだったのではな

いか?」と自問している。彼は日露戦争によって

得るものがあると判断していた。しかし同時に日

本が勝利するとは考えていなかったのである。彼

はイギリスが戦争に巻き込まれないこと、日本が

決定的な敗北を蒙らないことに留意しようとして

いた。彼は次のメモを残している。

このように日露戦争直前のバルフォアの政治的判

断は、日本の犠牲においてロシアの軍事的・財政

的負担を増大させ、ロシアを極東に釘付けにする

ことを意図したものであった。

1905年1月までにバルフォアはロシアの決定的

勝利はないと考えるようになった。そこで彼は日

本を国際的に強い立場に置くべく、アメリカに仲

介を頼んで有利な講和に持ち込もうとした。とい

うのは、ドイツが三国干渉のときのように日本に

圧力をかける可能性があったからである。またバ

ルフォアは2年早く日英同盟を改訂することによ

って日本の立場を強めることにした。その結果、

05年8月には第三国条項のない日英同盟が成立し

たのである。このことはバルフォアが日英同盟の

強力な推進者であるというイメージを一般に植え

つけることにもなった。それは同盟の絆を一貫し

て主張するバルフォアの政治的発言と相俟って、

バルフォアこそ日英同盟の提唱者であり、同盟を

- 12 -

ほとんど無条件に支持しているという印象を日本

側にも与えることとなったのである。

1905年にはロシアの脅威は消滅し、いまやドイ

ツの脅威にのみ対処すればよいことになった。こ

うしてバルフォアは日英同盟を最大限に活用する

ことによって、戦わずしてイギリスの国際的な地

位を改善することに成功したのである。

それでは、バルフォアはなぜ日英同盟を廃棄し

たのであろうか。

第一次世界大戦後、日本は同盟国でありながら

イギリス政府および海軍省から筆頭潜在敵国とし

て扱われるようになる。その流れのなかで、日英

同盟廃棄の動きが現れ、それが現実化したのが

1921年のワシントン会議であった。

日本では、ワシントン会議はアメリカとの関係

で語られることが多く、イギリスとその全権バル

フォアの果たした役割についてはほとんど知られ

ていない。彼がこの会議に臨むに当たって本国の

首相ロイド=ジョージに宛てた電信には次のよう

に記されている。

ここにバルフォアの政治的リアリズムが現れてい

るというのは過言であろうか。

会議においてはバルフォア自身も駆け引きの中

で揺れ動き、個別の発言を取り上げれば「日英同

盟の廃棄はバルフォアの策謀」と解釈できるもの

もある。しかし、会議の席上、四か国条約が日英

同盟の拡大版であるかのように扱われたこと(現

実にはそうではなかったが)や、会議の流れの中

日本は朝鮮半島から撤退し、戦争を後悔することになる

だろう。同時にロシアが朝鮮半島で経費とトラブルを抱え

るようになることは我々にとって好都合である。これはロ

シアが極東に大艦隊を、そしてロシアの根拠地から数千マ

イルのところに大陸軍を保持することによってはじめて維

持することができるものである。

4.日英同盟廃棄とバルフォア

本計画[ワシントン会議]の目的は、

a)アメリカ人が軍事力行使に訴えることのない形で、条

約の賛同者とすること。

b)我が同盟国[日本]の感情を逆なですることなく、同

盟廃棄の際に同盟以前の関係に復すること。

c)日本が再びドイツあるいはロシアによって脅かされる

ときには、同盟を更新すること。

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- 13 -

でバルフォアが英米同盟(ときには英米日同盟)

を模索していたことによる誤解が含まれている。

バルフォアが意図したことは、やはり彼のトータ

ルな言動から判断する必要がある。すると彼が世

論に配慮しつつも、イギリスの海軍力が相対的に

低下する現状を容認し、アメリカがイギリスと対

等の世界一の海軍力を持つことを認め、その代わ

りにアメリカを新たなパートナーとすることで、

イギリス帝国の安定をもたらそうとしたことがわ

かる。

本稿では、日英同盟を材料にバルフォアの言説

から「自己」である日本と「他者」であるイギリ

スの思惑の違いについて述べてきた。近年、多文

化共生・国際理解の視点から複眼的に事象を捉え

る必要が叫ばれている。『学習指導要領』の内容

の取り扱いには「政治、経済、社会、文化、生活

などさまざまな観点から歴史的事象を取り上げ、

近現代世界に対する多角的で柔軟な見方を養うこ

と」「日本と関連する諸国の歴史については当該

国の歴史から見た日本などにも着目させ、世界の

歴史における日本の位置づけを明確にすること」

とある。日英同盟を授業で扱うとき、我々はとも

すればその締結については日本の状況に重点を置

きがちで、イギリスの思惑に注目することは少な

い。またその廃棄についても、日米関係の視点か

らのみアメリカ外交の勝利、日本外交の敗北と捉

え、イギリスの意図や動きを看過しがちである。

同盟の成立についても、廃棄についてもイギリス

からの視点を生徒に注目させることが、歴史を多

面的に捉える力を養わせることになるであろう。

バルフォアは『オリエンタリズム』のE.サイー

ドやA.J.P.テイラ-などの歴史家からはもちろん、

当時も今も「帝国主義者」「保守的政治家」のレ

ッテルを貼られ続けているが、意外なことに彼を

重用したのは帝国主義者カーゾンや保守党党首ボ

ナ=ローではなく、自由党のアスキスやロイド=ジ

ョージであった。それはバルフォアが政治力・軍

事力に依存しない、英語を話す人々(English

speaking people)による世界秩序を構想してい

たことによると思われる。この考え方は同時代の

帝国主義者に違和感を与えたが、これは今日で言

う言語帝国主義、それもポストコロニアル型の言

語帝国主義からの発想であった。したがってワシ

ントン会議におけるアメリカに対する譲歩も、そ

の構想から言えば、十分に彼の政治的選択肢の1

つであったといえよう。今日のアメリカによる世

界支配と、それに対するイギリスの協調路線を生

徒に理解させようとするとき、バルフォアの構想

した英語文化の世界支配(英語による文化帝国主

義)とそれに連動する経済のグローバリゼーショ

ンをからめた視点から現代世界の特質を確認させ

ることも1つの方法であろう。たとえば、帝国書

院の教科書『新編高等世界史B』新訂版の第5部

第2章「相互依存と世界政治」あるいは最終ペー

ジ「世界史と21世紀の人間社会」で、バルフォア

を「いち早くグローバリゼーションの流れに気づ

き、言語(英語)を媒介とした情報化による世界

秩序を構築することを企てた人物」として用いる

ことができよう。

バルフォアに限らず、生徒が主体的に特定の人

物を追究していくならば、その人物が持っている

様々な側面が明らかになり、「歴史的思考力を培

う」ことにつながると考える。バルフォアを教材

の1つとして活用していただければ幸いである。

参考文献

木畑洋一『支配の代償』東京大学出版会、1987年

木畑洋一編著『大英帝国と帝国意識』ミネルヴァ書房、

1998年

小池滋編『ヴィクトリアン・パンチ』全7巻、柏書房、

1996年

E.サイード『オリエンタリズム』今沢紀子訳、全2巻、

平凡社、1993年

東田雅博『大英帝国のアジア・イメージ』ミネルヴァ

書房、1996年

細谷千博、イアン・ニッシュ監修『日英交流史1600-

2000』全6巻、東京大学出版会、2000-02年

5.結び ~「他者」のまなざし~

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これは従来の世界史授業の報告ではない。本校

独自の「探究科」における世界史を題材に使った

総合的な能力開発をめざした授業の実践報告であ

る。以下、少々この「探究」をめざした授業につ

いて説明をしておきたい。

本校では1999年4月より、校舎改築に伴って、

普通科に併せて、人間、自然の両探究科が設立さ

れた。従来の通学圏にとらわれず府内全域から募

集した生徒が通学するようになった両探究科が2

クラズずつおかれており80名ずつ160名が在籍し

ている。

従来の高校における学習というと、知識理解に

偏る傾向があったが、これからの教育においては

「生徒の自ら学び、自ら考える力を育成」してい

くことが求められている。そこで、本校では従来

型の学習に加えて、探究的な学習を通じて見方や

考え方を育成するため、探究科生徒に「個人研究」

を課した。これは、テーマ設定→調査・資料収集

→考察→レポート作成→研究発表、を通じてこれ

までの座学中心の授業では育成し切れなかった

「生徒の自ら学び、自ら考える力」を引き出すと

ともにそれを論理的に表現する力を育てていこう

とするものである。これは各教科の枠を越えた科

目を設定し、全体のスキルを向上させることを目

的とする過程では全教科の教師が協力して取り組

んでいる。

授業は1年生から2年生の前期にかけて設定さ

れており、1年前期ではコンピュータや文献資料

によって必要な資料の探索を行う能力など基礎能

力の開発を、1年後期から2年の初めまでは開発

された能力を使ったグループ研究とプレゼンテー

ションによる情報発信の能力をつけることをめざ

- 14 -

した授業を行っている。そして2年前期から個人

研究の能力を磨く過程に入っていく。この授業は

その段階をなすものである。

個人研究の段階になると生徒は各教師が開く講

座(ショップと呼ぶ)に分かれて所属し、それぞ

れの興味関心にそって研究を始める。それに先だ

って教師はテーマに沿った研究方法を示すために

テーマ授業を行うことになっている。その際のテ

ーマは各教師が任意に設定するが、生徒に資料や

文献の読解能力をつけさせるためにすべての生徒

が必ず読む課題図書を使用することだけを申し合

わせている。

「歴史・文化」のショップを担当している筆者

は、生徒の主体的な学習を支援し、問題発見的、

問題解決的な学習をすすめるために、従来から具

体的な生活文化の中からテーマを選び出し、その

背後に存在する歴史的、社会的な意味に気づかせ

ることに主眼をおいて授業を行ってきた。たとえ

ば2000年には『中華料理の文化史』(張競 ちく

ま新書)を使って中国の各時代の料理事情を調べ、

現在の中華料理が長い時代変遷の中で様々な民族

の文化の混合によって成立してきたことを知るこ

とができたし、01年には『バナナと日本人』(鶴

見良行 岩波新書)を使って現在の我々の食料が

広く世界を覆うシステムによって支えられている

ことを知ることができた。

『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)は世界

史を教えるものにとってはよく知られた本であろ

う。大阪大学の文学部長もつとめられ、近世イギ

リス史研究の第一人者として知られる川北 稔氏

『砂糖の世界史』を教材とした「探究基礎」授業

京都市立堀川高等学校 印 牧 定 彦

探究科の指導方針

授業テーマの設定

『砂糖の世界史』

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が「砂糖」という身近なありふれた食材がいかに

近代の世界の貿易構造を支配し、その結果、近代

を規定した「世界システム」の形成にいかに影響

を与えたかを高校生などを対象に、極力、平易に

伝えようと努力された好著である。そしてこの本

の優れた点は、平易な記述のうちに現在の世界史

研究の中で広く注目されている「世界システム論」

へのアプローチを可能にしてくれていることであ

る。「世界システム論」は現在、「環大西洋革命」

と呼ばれる18世紀以後の世界史的変化の理解のた

めにはどうしても押さえておくべきアプローチ方

法と考えられる。

本校では本年、近現代史から授業を開始した経

緯もあり、「近世・近代」とは何か、というテー

マをいかに生徒に説明するかということに努力す

る必要に迫られた。この立場からも今年の「探究

基礎」のテーマとしてこの本を扱うことにした。

まず基本的な知識を共有する目的と、発表方法

を例示するために筆者がこの本のプロローグと第

一章を題材に講義発表を行った。以下はその要旨

である。

砂糖は一時はその消費量がその国の生活や文化

の水準を表すと考えられた。その理由は、砂糖と

いう嗜好品は抗しがたいその魅力的な味から世界

中の誰からも好まれるからである。他の嗜好品は

必ずしもそうではない。この点で、世界中で求め

られる商品(世界商品)になりやすいことを意味

する。

さて、世界商品とは何であろうか。毛織物は古

くからのヨーロッパの輸出品であり、ルネサンス

期などにヨーロッパの主要な輸出品としてその貿

易を支えたのは事実である。しかしこの商品は暑

い地方にはむかない。ゆえにヨーロッパ勢力がイ

ンドなど東方との貿易に乗りだした際には主要な

輸出品にはなり得なかった。しかしインド原産の

綿織物は薄くて染色しやすく暖地にも寒地にも適

応できることで各地で好まれる。すなわち綿織物

の方が「世界商品」として好適であることをこの

ことは意味する。

つまり世界商品とは、世界のどの土地でも使わ

れ、入手したいと思わせられる商品のことである。

この意味からは現代の石油や自動車も「世界商品

(ステイプル)」である。

このことは「世界商品」の生産や流通を独占で

きれば大きな利益を上げることができることを意

味する。個々で注目されるのは従来、「世界商品」

であったもの、例示するならば、銀、タバコ、茶、

香料、コーヒー、ゴムなどの多くはアジアやアフ

リカ、アメリカの鉱山や農場で生産され、ヨーロ

ッパでは容易に入手できないものであった。

そのためヨーロッパ諸国はこれらの土地を囲い

込み、他の勢力を排除する競争を繰り広げたので

あって、16世紀以後の大規模なヨーロッパ人植民

地の形成の動機はまさにここにある。

そして「世界商品」の最も初期の例が砂糖であ

る。このことから16~19世紀の世界中の様々な勢

力がその生産と流通の独占をめぐって努力を重ね、

ブラジルやカリブ海地域をはじめとする全世界に

どのような生産の様式を生んだか、ということに

注目してほしい。ここに生じた大農園(プランテ

ーション)は砂糖など商品作物の生産に特化して、

食料すら輸入するような工場的な経営に基づく農

場経営であって、この経営にはヨーロッパ資本と

りわけイギリス資本が大量に流入して大きな利潤

をあげる結果を生んだ。

そしてこの経営を成り立たせる労働力として大

量の黒人が強制的に奴隷として使用されることが

絶対的な条件となり、このことが奴隷貿易の成立

の理由である。だから、「近代世界」が形成され

ていくために必然的に「奴隷」という犠牲者が必

要であったことに注目してほしい。

我々は近代の奴隷制というとすぐに南北戦争の

原因となったアメリカのそれを思い浮かべるが、

綿織物のために砂糖の生産形態に倣うかたちで、

アメリカ南部に時間的には少し遅れて同様の綿花

プランテーションが成立したのである。この関係

からは「アメリカの綿花奴隷制は巨大な砂糖奴隷

制の残照にすぎない。」と言っても過言ではない

なぜ砂糖なのか、また砂糖はどこからきたのか

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ルトガルの勢力範囲となることもこのとき確定し

たのである。このことはブラジルの砂糖生産がア

フリカの奴隷を労働力として行われる道が開かれ

ることを意味した。

一方、砂糖生産は産地が移動していく宿命を持

つ。それは土地が肥料分を失って荒廃するので土

地を替える必要があることと、大量で命令が行き

届きやすい労働力が必要であることが主要な理由

である。この事実は砂糖のプランテーションと奴

隷制が砂糖の需要を満たすまで無限に拡大してい

くことを意味したのである。

教師による発表後、生徒の発表の足がかりを作

るためにアプローチの方向を提示して生徒の発表

を割り振った。このときの留意点として、生徒の

希望する章が重複しても基本的には希望通りに選

択させた。これはこの過程が探究の方法を理解さ

せることが目的であって、同じテーマ、文献を使

用しても発表者の関心によって異なった発表がな

される可能性があることを生徒に理解させるため

である。

- 16 -

関係が両者の間には存在する。

そもそもヨーロッパ人が砂糖と初めて出会った

のは前4世紀にインドに侵入したアレクサンドロ

スの軍隊であるらしい。しかし砂糖の伝播を担っ

たのは7世紀から各地に拡大したイスラーム教徒

である。イスラーム教徒の拡大により地中海の島

島や北アフリカ、スペインにも砂糖生産が拡大し

た。砂糖きび栽培が土壌を荒らして土地を次々に

替える必要があること、集団的で規則的な労働が

必要であることはこの時も大きな影響を与え、イ

スラーム世界でも奴隷的な農民の出現を見る結果

となる

さて西ヨーロッパ人の砂糖との本格的な出会い

は十字軍によるイスラム世界との交流による。し

かし、15世紀に海上に進出したポルトガル人は大

陸沖合の大西洋に浮かぶ島々(マディラ島など)

にプランテーションを建設し始めた。つまり、大

航海時代の訪れが西ヨーロッパに砂糖生産をもた

らすこととなったのであり、同時にその勢力下に

あった地方のアフリカ人奴隷の使用も始まる結果

を生んだ。

この当時生産された砂糖は国内で消費されるだ

けではなくベルギーのアントウェルペンに集めら

れ、全ヨーロッパに売りさばかれていた。これは

砂糖がそれまでの贅沢品から「世界商品」に変化

し始めたことを意味することに注意してほしい。

砂糖生産が増大するとその需要も拡大し消費が消

費を生んで無限の「市場」があることが予想され

るようになった。そこで各国は競ってその生産を

組織しようとするが大西洋の島々は手狭になって

しまった。このようにして「広い土地と豊富な労

働力が存在すれば大いに儲かる。」という条件が

存在したことが、大航海時代を推進していった原

動力の一つであることを理解する必要がある。

さてこのような見方から奴隷制に目をむけると、

大航海時代のいろいろな事件も別の意味づけを持

っていることが解る。1493年、ポルトガルはスペ

インと世界を勝手に分割(94年に改変:トルデシ

リャス条約)し、ブラジルがポルトガル領となっ

たことは有名である。しかし同時にアフリカがポ

生徒への疑問の提示

私の発表で得られた知識をもとにして、以後の内容を

読み、知識をまとめていこう。

各章のまとめるべきポイントを紹介する。

第2章 カリブ海と砂糖

カリブ海に形成された砂糖プランテーションは大西

洋岸の各地を結ぶ巨大な貿易システムを生み出す。そ

の実態を解明しよう。

第3章 砂糖と茶の遭遇

イギリスにおける砂糖の消費はこれもイギリス人に

とって新奇な産物であった茶と出会うことによって飛

躍的に拡大する。それはなぜ可能だったのだろうか。

第4章 コーヒーハウスが育んだ近代文化

近代のヨーロッパ世界では、コーヒー、茶などの飲

料はある意味では現代においてよりも社会的に重要な

意味合いをもっていた。その実態を調べてみよう。

第5章 茶・コーヒー・チョコレート

商業の発展にともなってヨーロッパで一般化した新

奇な飲料はヨーロッパの各国で受け入れられ、それぞ

れの国の状況の下で独自に発展した。その影響につい

てまとめよう。

第6章 「砂糖のあるところに奴隷あり」

砂糖生産にある時期、必要不可欠であった奴隷労働。

これをイギリス人はいかにして支配し大きな利益を上

げたのか整理しておこう。

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以下に生徒の発表のレジュメの一部を提示する。

生徒たちはだいたいこちら側が意図したとおりの

成果をあげてくれたと思う。

例示した2枚のレジュメはともに第6章に関す

るものであるが、<例1>の発表者が三角貿易を

はじめとするイギリスの経済活動がいかにイギリ

ス上流階級の暮らしを支えていたかに関心を持っ

- 17 -

て、スペイン継承戦争後の大西洋奴隷貿易のアシ

ェント権の重要性を説く発表を行ったのに対し

て、<例2>の発表者はホガーズの風俗画を題材

としてイギリス社会における黒人奴隷のあり方を

発表の切り口とした対比は印象的であった。

紙数も尽きたので、ここに生徒の感想文を掲載

して一つの評価としたい。

「この講座では同じテーマで様々な結論が導き

出された。ある生徒の発表の言葉を借りれば『世

界システムとはある国の営みが世界貿易なしには

成り立たなくなるような世界のあり方』だそうで

ある。一冊の本から一つの歴史観を学ぶことがで

きる。この発見は僕には大きな発見であった。」

生徒の発表

生徒の感想

第7章 イギリス人の朝食と「お茶の休み」

イギリスの朝食に現在でも当たり前のように出てく

る「砂糖入りのお茶」。しかしこれは近代が始まろうと

するイギリスの社会が必要とした変化に対応するもの

であった。それはどのような変化であったのだろうか。

第8章 奴隷と砂糖をめぐる政治

これほどに利益をもたらした砂糖と奴隷の貿易は政

治にも大きな影響をもたらした。その問題をめぐる対

立はついに奴隷労働に依存した砂糖生産に大変化を引

きおこす。19世紀の政治や経済に与えたこの大変化に

ついて探ろう。

第9章 砂糖きびの旅の終わり

独占的な「世界商品」であった砂糖について様々な

国がその独占を破ろうと努力する。そのような試みは

どのように行われたのか。また砂糖が「世界商品」と

しての地位から後退した原因は何か。

<例1><例1>

<例2>

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トルコの人々の主食はパンであり、麦作が中心

である。しかし、トルコでも、米は作られている。

米は、もみがら入りのはトルコ語起源のチェルテ

ィクの名で呼ぶが、ふつうはペルシア語起源のピ

ンンチュの名で呼ばれる。トルコの国土は海岸部

は地中海性気候、内陸部の多くはステップ気候で

乾燥しており麦作に向く。しかし、降雨もあり川

もあるため、トルコの稲作は陸稲(おかぼ)だけ

でなく水稲もあちこちで作られている。そして、

いわゆるインディカ米だけでなくジャボニカ米に

近い米も作られており、トルコを訪れる邦人の口

にもあうこととなる。

ただ、やはり気候が最適で大量に生産されてい

る小麦にくらべると収量も少なく値段もはるかに

高い。そこで米で作ったピラフなども、かなりの

ご馳走に数えられる。それでも米はピラフや他の

おかず、甘味の材料として必須の食材である。

トルコの米の用途は、おかず用とデザート用に

大別される。そして、おかず用も、ピラフ用と他

のおかずの材料用に二分される。トルコはパン食

圏なので、我々には主食のようにみえるピラフも

トルコ人にとっては一種の副食なのである。ただ

使用量としては、おかず用の米のうち圧倒的な部

分がピラフ用に用いられているであろう。とはい

え、他の用法もトルコ料理にとっては甚だ重要な

のである。

ピラフ以外のおかずの材料としての米の最大の

トルコ食文化のなかの米

東京大学東洋文化研究所教授 鈴 木 董

- 18 -

活躍の場は、ドルマと呼ばれる、一連の野菜に具

をつめた料理である。ドルマには、肉を主体とす

る具を本来はバターで調理してつめる温かい肉入

りドルマと、肉は用いず米を主体とする具をオリ

ーヴ油で調理してつめる冷たいオリーヴ油入りド

ルマ(ゼイティンヤール・ドルマ)があり、いず

れにも米は必需品である。つめ物に使う野菜とし

て、ピーマン、トマト、茄子、ズッキーニなどが

よく使われ、また葡萄の葉やキャベツもある。

肉入りの場合は、羊の挽肉と刻み玉葱と米など

をバターでいため塩・胡椒とスパイスで味をつけ

た具をつめ、羊か鶏のスープで煮る。冷たい方は、

オリーブ油で米と刻み玉葱と松の実とカラント

(クシュ・ユズム)をいため塩・胡椒で味をつけ

た具をつめ、同じく羊か鶏のだしで煮る。

米は、他にも各種スープの材料ともなり、また

ほうれん草などの煮込みに少量加えることもあり、

トルコ料理の欠かせぬ食材の一つとなっている。

とはいえ、トルコの人々にとり、米料理の中心

は何といってもピラフである。トルコ語ではピラ

フをピラウというがこれはペルシア語に由来する。

ピラフはトルコ人がアナトリアに到達する前から

食べてきた古い歴史をもつ一品なのである。

ピラフは、料理としても重宝がられるが、食卓

に供するときは、メイン・ディッシュが出終わり

デザートに移る直前に出されることが多い。そこ

で、邦人は、もう満腹なのにごはんのようなピラ

フが出され、日本人は米が好きだからと再度勧め

られて閉口することにもなる。ピラフがいかに尊

重されていたかといえば、オスマン帝国時代、ス

ルタンの慶事の祝祭の招宴で重臣たちにピラフが

供せられた様子を描くミニアチュールがいくつも

残されているし、帝国の拡大に力のあった常備歩

兵軍団イェニチェリの兵士たちに、あるいは祝宴

で、あるいは俸給支払いの際に、ピラフが供され

ていたことからもわかる。

ときに、ピラフには、いろいろ具の入ったもの

もあるが、基本は、サーデ・ピラウすなわち、米

麦作圏トルコの稲作

おかずの材料としての米

ピラフとその周辺

君府菜時記(7)

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とバターと塩と羊か鶏のスープだけを用い具の入

らないピラフである。この作り方には二種あり、

ともに米をよく洗った後、一つでは、米に塩とス

ープを加えて炊きあげ、最後にバターを入れて仕

上げる。いま一つでは、米をバターでいためたう

えで、熱したスープと塩を入れて炊きあげる。油

が入っているわりにはさっぱりしており、西欧人

のように米のおねばを洗い流してパサパサにした

りしないので適度に粘りもあり邦人の口にもあう。

ただ、ピラフを食するとき、よくヨーグルトか

果物の汁気の多い甘煮であるコンポスト・ホシャ

プが添えられ、ともに食する。これは邦人には慣

れないと閉口のもとになる。

具の入った変わりピラフも種類が多い。ドゥユ

ン・ピラウすなわち「婚礼ピラフ」というのは、

さいの目切りの羊肉がたっぷり入っている。婚礼

の宴席用に貴重な羊を屠って大ご馳走をした名残

である。イチュ・ピラウというのがあり、これは

よく子羊や鶏などの丸焼きを作るときその中身と

して入れるものだが、米に肝の細切れや刻み玉葱、

松の実、カラントにハーブのディルまで入れて羊

などのスープを加えて炊きあげる。これを丸焼き

につめて焼いた場合、肉に添えて供される。トル

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コ人の大好物の一つである。

広大なトルコのことゆえ、郷土食もあり東方ア

ナトリアの方ではピラフの上にパイ皮をのせ蒸し

焼きにしたぺルデ・ピラウ(カーテン・ピラフ)

というのもあるし、黒海方面では名物鰯のピラフ

もある。またかつて、オスマン帝国時代、イスタ

ンブルと中央アジア各地の交流もさかんで、イス

タンブルのアジア岸のウスクダルにはウズベク人

の宿坊ともなるウズベク・テッケスィ(ウズベク

道場)というのがあり、ここではウズベク・ピラ

ウというのを作っており、ラマザンすなわちイス

ラムの断食月には、これを近隣にもふるまったと

いう。共和国になり、道場も閉鎖され、わずかにウ

スクダルの一レストランが伝統をうけついでいる。

米はデザートの材料ともなり、米粉か洗い米を

臼で挽いた米乳というべきスビエを材料に、いろ

いろのプディングが作られる。これに水のみまた

はミルクも加えて煮て平たい器に流し固め四角に

切ったのはアラビア語起源のムハッレビの名をも

ち、プディングの代表格で粉砂糖とバラ水をかけ

て出す。ちなみにムハッレビジとはプディング専

門店のことである。米粉かスビエにミルクを加え

て煮てささみをゆでてほぐしたのと砂糖を入れて

作ったタヴク・ギョウス、そしてその片面に焼き

目をつけたカザンディビは珍しい一品である。や

はり米粉かスビエにミルクと砂糖と米少々を加え

煮て小さな器に分け表面をオーヴンで色づけると

フルン・ストラッチュとなり古くからのデザート

の代表の一つである。

ここで、米を煮て砂糖とサフランとターメリッ

クを加えて鮮やかな黄色とし、器に流して冷やし

上に彩りにカラントとピスタチオなどをかけたデ

ザートをゼルデと呼ぶ。このゼルデは、オスマン

帝国時代、3か月に1回、歩兵のイェニチェリを

中心とする常備軍団の兵士に、トプカプ宮殿で俸

給が支払われたとき、スープとピラフとともに必

ず供せられた。米製の菓子が帝国の精鋭慰撫に一

役買ったのである。

変わりピラフのいろいろ

ゼルデとイェニチェリ

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スワヒリ世界の歴史

本書の第一部「スワヒリ社会の歴史」では、ザンジ

バルを中心にスワヒリ社会の歴史が辿られている。そ

の起源は、8~11世紀のイスラーム受容期にまで遡る

ことができる。ザンジバルにおいて、人びとの中に

「シラジ」というアイデンティティが存在した。シラ

ジという言葉は、10世紀頃に繁栄したペルシア(イラ

ン)の都市シーラーズに発するという。シラジという

アイデンティティは、ザンジバルがかかる古い時代か

ら、中東世界との強い結びつきがあったことを示して

いる。中東世界は、スワヒリ文化に、アラビア語とイ

スラームという二つの重要な要素をもたらした。1498

年にヴァスコ=ダ=ガマがこの海岸を訪れた時、この海

域はすでに長い交易の歴史を持つ世界であった。彼の

「インド航路発見」は、実はこのインド洋交易圏への

参入を意味し、ヨーロッパ人にとっての偉業であるに

過ぎない。その後、ポルトガルの軍事力によって、こ

の海域はその支配下に置かれたが、長続きせず、17世

紀には再び中東アラブ世界の影響を強く受けるに至る。

遠くアラビア半島の東南部に位置するオマーン王国の

支配を受けるようになったのである。

19世紀前半、オマーン王国の英君サイード=ビン=ス

ルターンがザンジバルに王都ストーン・タウンを建設

し、王国の中心をここに移した。この時代に、ザンジ

バルは、文化的にも経済的にも一つの繁栄の時代を迎

える。イスラームによる文明開化(「ウスタアラブ」)

が進んだ。また、内陸部から来た象牙と奴隷を積み出

し、綿布とビーズを輸入する交易港として栄えた。こ

の取引をめぐって、アラブ人、インド人、スワヒリ人、

アメリカ人など様々な商人が活躍した。しかし、ウス

タアラブは、奴隷貿易という裏面を抱え持っていた。

「ザンジバルで笛ふけば、湖水の人びとが踊りだす」という謎め

いた俗謡の一節から本書は始まる。ザンジバルは、インド洋に浮か

ぶ島であるが、東アフリカの海岸線に接するように存在している

(今日、タンザニア連合共和国に属している)。過去に、この島はイ

ンド洋交易の東アフリカにおける一大拠点として栄えた。加えて、

ここはスワヒリ世界の典型であった。「スワヒリ」とは、東アフリ

カ沿岸部に形成された、異文化融合的な社会をさす。著者は、あと

がきで、このスワヒリ世界を「一筋縄ではゆかぬ多様で重層的な歴

史と文化であり、国境を越え、インド洋を超えて広がる多元的な世

界である」と記している。本書を読むと、この歴史の重層性と多元

性が伝わってくる。私はインド経済史を専攻するが、19世紀に英領イ

ンドを後にしたインド人移民の歴史に関心を持っている。この移民

の流れの一部が、インド洋海域の西半分に向かった。なぜか。答え

は、歴史的なインド洋交易圏の存在にあった。本書に惹かれたのは、

このようなインド洋交易圏の実相を教えてくれる一書であるからだ。

そもそもイスラームと奴隷貿易は、切っても切れない

関係にあったが、19世紀にも奴隷貿易は盛んに行われ

ていた。サイード王は、ザンジバルに輸出向けにクロ

ーブ(丁字)農園を作ったが、その労働力は奴隷であ

った。19世紀は、奴隷廃止運動が盛り上がった時代で

もあった。ヨーロッパのキリスト教宣教師は、奴隷解

放を目的にこの地にやってきた。しかし、彼らととも

に、ヨーロッパの諸列強は、この地域の分割に乗り出

してくる。19世紀末というまさに「帝国主義」の時代

が始まりを告げていた。・・・・・・

海域世界の歴史学

本書の歴史篇(第一部)の概要は、以上の通りであ

る。なお、本書の後半をなす第二部「スワヒリ社会の

女性と文化」では、いささか散漫なという憾うら

みもある

が、スワヒリ世界の文化の諸相(女性・芸能・服装・

信仰など)が活写されている。いずれにせよ、本書の

魅力は、スワヒリ世界の歴史が、豊富なフィールド・

ワークによる見聞を基礎にして、まるで紀行文のよう

な文体とともに瑞々しく語られている点にある。もち

ろん、東アフリカ史の書物として読むことができるが、

私はむしろ海域世界の歴史学の実践として読んだ。海

の香りがするのである。海洋史観とか海域世界の歴史

とか、半ば流行となっているけれども、ともすれば上

滑りになりがちである。その点、本書は、ザンジバル

という土地に根ざしつつ、インド洋という広大な世界

を感じさせてくれる点で、良きバランスを保っている。

本書冒頭の俗謡の一節にあった、湖水の人びと(内陸

部の人びと)が踊りだしたザンジバルの笛の音とは、

インド洋から吹く風のことであったに違いないと思い

をめぐらすのである。

(大阪市立大学大学院経済学研究科教授 脇村孝平)

富永智津子

ザンジバルの笛東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化

未来社 2001年

(本文221ページ 2200円+税)

書評 わたしの一冊