レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057...

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池上英洋 Hidehiro IKEGAMI レオナルド派<レダと白鳥>再考 ――主題と源泉、伝播経路

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Page 1: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

池上英洋Hidehiro IKEGAMI

レオナルド派<レダと白鳥>再考――主題と源泉、伝播経路

Page 2: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

056

 本論考は<レダと白鳥>をとりあげ、レオナル

ド派における図像と主題の選択、そして同派内で

の伝播経路の推定を目的とする。<レダと白鳥>

の図像は、確実にレオナルド本人によるものと断

定できる彩色画が残っていないにもかかわらず、

レオナルデスキによる作品や関連作は少なくない。

加えて、レオナルド派以外の画派による同系統の

類似図像がほとんど無く、結果的にレオナルデス

キに特徴的な作品系統となっている。そのため、

<レダと白鳥>は、レオナルドの思想の独自性と

その特質を探るための良いモデルケースといえる。

 こうした特徴により、<レダと白鳥>の作品系

統は大いに研究の余地があり、事実これまで多く

の論考が加えられてきたが、その伝播経路などに

関しては諸説入り乱れ、いまだに一致をみていな

い。そのため本論考では、まず同主題の典拠とな

る神話と古代の文献と、ルネサンス期の芸術家た

ちの図像源泉となった古代作品のリストアップを

おこなう。次いでレオナルド派に関する同主題と

類似図像のリストを作成し、また同作品系統に関

わりのある同時代史料などの記録面の整理をおこ

なう。そして最後には、それらのデータに最新の

情報を加え、先行研究を検討しながら、現在錯綜

した状態にある伝播経路の推定をおこなった。そ

の結果、本論考では<レダと白鳥>の構想の成立

と伝播経路を以下のように推論する。

・1504年頃、レオナルドは彩色画を前提とした跪

座タイプの<レダと白鳥>を構想した。

・同タイプには、簡単なものかもしれないが、レ

オナルドによるスケッチがあったと思われる。

・後に、1508~ 13年の間に、すでに独立してい

ただろうジャンピエトリーノが、上記スケッチ

に基づいて彩色画を制作した。

・跪座タイプにやや遅れて、レオナルドは立位タ

イプの<レダと白鳥>を構想した。

・レオナルドは、1505年頃には原寸大のカルトン

を制作した。そこには背景以外の要素(レダと

白鳥、二個の卵、四人の子)が描かれていた。

・1507年頃から、上記原寸大カルトンに基づいて、

工房の弟子たちによって幾つかの彩色画が制作

された。

・レオナルドによる原寸大カルトンは、おそらく

レオナルドの死に際し、メルツィが相続したと

思われる。

・原寸大カルトンは、『アトランティコ手稿』同様、

ポンペオ・レオーニの手を経て1671年までにア

ルコナーティ家のコレクションに入った。

・同カルトンは、1721年にアルコナーティ家から

カゼネディ家に移るが、1730年の同家の所蔵記

録を最後に以後行方不明となる。

・レオナルド本人による<レダと白鳥>の彩色画

が存在した可能性は否定できないが、本論考で

は、検討の結果、かかる可能性は合理的ではな

いと判断する。

・サライの遺産目録に記載された<レダと白鳥>

に関しては、本論考では、検討の結果、これを

レオナルドの真筆とはみなさない。同様に、こ

れをサライによる模写とも考えず、他の工房の

弟子とレオナルドの共作である可能性を提起す

る。

●抄録

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

057

 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの

作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

とのない新たな視点から再考することを重ねてき

た。例として、「レオナルド<受胎告知>解体」(『レ

オナルド・ダ・ヴィンチと受胎告知』、岡田温司

と共著、平凡社、2007年、に所収)で<受胎告知

>と「Hortus Conclusus(閉ざされた庭)」図像と

の関係性について論じ、『死と復活』(筑摩書房、

2014年)で<洗礼者ヨハネ>と錬金術的アンドロ

ギュヌス図像との思想的関連性を指摘し、また「レ

オナルド<大洪水>シリーズ再考」(『レオナル

ド・ダ・ヴィンチ 人と思想』、古田光、ブリュ

ッケ、2008年、に所収)で<大洪水>シリーズと

レオナルドの「循環」概念と終末思想について述

べ、また「<糸巻きの聖母>の系統作品群につい

て」(『東京造形大学研究報』No.17、2016年、に所

収)において、<糸巻きの聖母>の系統作品群を

もとに、彼の晩年の制作態度とレオナルド派内で

の様式伝播の経路の特定を試みるなどしてきた。

 これらの一連の論考で得られた考察結果をふま

えて、次に論考すべき対象がいくつかある。その

なかから本論考では<レダと白鳥>をとりあげる。

ここではレオナルド派における図像と主題の選択、

そして同派内での伝播経路の推定に焦点をしぼる

が、今後同主題に関しては、ミケランジェロとミ

ケランジェロ一派による同主題作品との比較と、

とくにフィレンツェ共和国の政治理念との間に関

連性が見られるかどうかについて検証することも

必要となるだろう。そのため、本論考の第一章で

は、ルネサンス期の芸術家たちの図像の源泉とな

った古代作品をリストアップするが、今後の発展

のために、レオナルド派の図像源泉にかぎらず、

ミケランジェロ派の源泉となる古代作品も含める

こととする。

 <レダと白鳥>の図像は、<糸巻きの聖母>な

どと同様に、確実にレオナルド本人によるものと

断定できる彩色画が残っていないにもかかわらず、

レオナルデスキによる作品や関連作は少なくない。

加えて、<岩窟の聖母>のように、レオナルド派

以外の画派による同系統の類似図像がほとんど無

く、結果的にレオナルデスキに特徴的な作品系統

となっている。そのため、<レダと白鳥>は、レ

オナルド派独特の作品系統である点において、レ

オナルドの思想の独自性とその特質を探るための

良いモデルケースといえ、また親方本人による彩

色画によらず、工房の弟子や追随者の作品群によ

って形成された作品系統である点で、レオナルド

と工房の関係や、後期レオナルドの制作スタイル、

そしてレオナルデスキ内部での様式伝播のあり方

を探るための良いモデルケースともなりうる。

 こうした特徴により、<レダと白鳥>の作品系

統は大いに研究の余地があり、事実これまで多く

の論考が加えられてきたが、その伝播経路などに

関しては諸説入り乱れ、いまだに一致をみていな

い状況にある。そのため本論考では、まず同主題

の典拠となる神話と古代の文献と、ルネサンス期

の芸術家たちの図像源泉となった古代作品のリス

トアップをおこなう。次いでレオナルド派に関す

る同主題と類似図像のリストを作成し、また同作

品系統に関わりのある同時代史料などの記録面の

整理をおこなう。そして最後には、それらのデー

タに最新の情報を加え、先行研究を検討しながら、

現在錯綜した状態にある伝播経路の推定をおこな

う。

レダと白鳥のテキスト源泉

 レダの物語は、紀元前8世紀末ごろに活動した

と考えられているヘシオドスによる『神統記』に

は記述がないが、同世紀のホメロスによって詠わ

れている。『オデュッセイア』の第11歌に登場す

るレダがそれだが 1、そこではテュンダレオスの

妃で、その間にカストルとポリュデウケスをもう

けたことが詠われるのみで、白鳥との関わりはお

ろか、ゼウスとの交合の物語に関する記述も一切

ない。

 現存する古代テキストのうち、レダと白鳥との

関わりがはっきりと示された最も古いものは、紀

元前5世紀後半に活動したエウリピデスである。

ギリシャ三大悲劇作家のひとりに数えられるエウ

リピデスの『ヘレネ』には、冒頭に以下のような

ヘレネによる口上がある。

わたしには、名高いスパルタこそ父祖の地、

わたしの父はテュンダレオース。でも、べつの

話がある。

ゼウスが白鳥の姿となって

はじめにレオナルド派と<レダと白鳥>の系統作品群

一、<レダと白鳥>の主題と典拠

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して知られている。

 同時にアポロドーロスは、ヘレネを鷲に化けた

ゼウスと白鳥に化けたネメシスとの間にうまれた

子とする異説も紹介している。鳥同士が結ばれて

できた子なので、ヘレネは卵のかたちで産まれて

きている。この卵を羊飼いが森のなかで発見し、

それを得たレダがヘレネを自らの娘として育てた

というストーリーである4。ちなみに神話学者ケ

レーニイはこの異説の典拠をサッフォーにもとめ

ている5。同氏はさらに、ヒュギノスが『神話物語

集』で伝えるところとして、ヘルメスがレダの膝

の間に卵を投げ込んだというヴァージョンも紹介

している6。また、よく知られている異説として、

ディオスクーロイの兄弟をゼウスの子とし、ヘレ

ネとクリュタイムネストラの女児ふたりをテュン

ダレオスの子とし、そのために後者が寿命のある

人間となったとする物語もある 7。

 周知のとおり、ギリシャ神話には正典がなく、

さまざまな地域で語り継がれていた幾つもの神話

と伝承の集合体である。レダに関しても、リユキ

ア人にとって「女」を意味する「ラーダー」を語源

とすると考えられるため、もともとは小アジア(ト

ルコ)の神話がベースとなった可能性が高い8。こ

のことから、ケレーニイはレダを世界最初の女性

とする神話がとりこまれた可能性をみている9。

もしその見方が正しいとすれば、かつて中東地域

で最高神の地位にあった神アドン(バアル)が、

ギリシャ神話にアドニスの名でとりこまれた際、

その属性がゼウスと重複するために役割を変え、

アフロディーテの単なる恋人のひとりにとどまる

結果となった経緯と似た現象がここでも起きたは

ずである。すなわち、ラーダーが世界最初の女神

であればガイアの、そしてもし世界最初の人間の

女性であればパンドラと役割が重複するため、そ

うした栄誉を譲ってしまったのではなかろうか。

 ともあれ、レダの神話は古代ギリシャでは古く

から知られ、ゼウスの変身譚、トロイ戦争のきっ

かけとなったヘレネの物語、そして英雄であるデ

ィオスクーロイにまつわる物語に関わる重要な女

性キャラクターとして語り継がれてきた。そして

人々はそこに、動物と人間が交わるという異類婚

の典型例として、獣姦の官能性を想起させる危険

な魅力を感じていたはずである。そして鳥が産ん

だ卵から人間が孵るというファンタジックな展開

もまた人間の好奇心を刺激し、文学のみならず美

術のモチーフとしても人気をよんできたのだろう。

わが母レーダーのもとに翔び来り、

追いせまる鷲をかわしつつ、

閨のたくらみをなしとげたとのこと、もしこの

話がたしかなら。

わたしはヘレネーと名づけられた 2。

(細井敦子訳)

 ここには、主人公ヘレネの母がレダであること、

そして父親がスパルタ王テュンダレオス、しかし

実際には白鳥に化けたゼウスがレダを襲って産ま

せた子であることが明確に語られている。もちろ

んエウリピデス以前からこの筋の物語が伝えられ

ていただろうことは想像にかたくないが、ともあ

れ紀元前412年に上演されたと考えられているこ

の戯曲が 3、その後のレダと白鳥の基本的な関係

性を決定づけたと言って良いだろう。

 ルネサンス美術のテキストとイメージの源泉は、

古代ギリシャ文化から直接えられるよりもはるか

に多くを、古代ローマ文化を通じて間接的に負っ

ている。そのため、古代ローマ時代のテキスト源

泉のなかにもレダの影を探さなければならない。

その中心的存在として、紀元1世紀から2世紀にか

けて活躍したアポロドーロスによる神話を欠かす

ことはできない。もちろん彼はギリシャ人ではあ

るが、彼の著作は古代ローマ世界に広く受け容れ

られ、とくに神々と英雄たちの家系図的な情報に

富んでいる点で、ギリシャ・ローマ神話体系の基

本形となった。

 そこでは、アレスの子テスティオスと、人間の

娘エウリュテミスとの間にうまれた女性がレダで

あり、スパルタの王テュンダレオスに嫁いだとさ

れる。ゼウスが彼女の姿を見初めたくだりは記さ

れていないが、この人妻に惚れたゼウスは、得意

の変身能力で白鳥に姿を変えて近づき、思いを遂

げる。

 同じ夜にレダは夫テュンダレオスとも交わり、

夫との間にはカストルとクリュタイムネストラを、

ゼウスとの間にはヘレネとポリュデウケス(ポル

ックス)という四人の子をもうけた。カストルと

ポルックスの男子二名は雄々しき偉丈夫に育ち、

二人そろってディオスクーロイ(「ゼウスの子」の

意)と呼ばれ、やがて天にあげられて双子座とな

る。女子二名はトロイ戦争において主要な役割を

果たす。周知のとおり、ヘレネは戦争のそもそも

の発端となった女性であり、クリュタイムネスト

ラは夫である英雄アガメムノンを殺害する悪女と

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

059

と語られる 13。後述するように、レオナルド派に

よる<レダ>の作品群には、レダの足もとに卵が

ふたつあるものと、ひとつしか描かれていないも

のがある。

 この違いを合理的に説明した者はこれまでいな

いのだが、ひょっとすると典拠となるテキストが

異なっていた可能性も考えられる。同書も、ルネ

サンス期に比較的読まれるようになった古代文献

のひとつである。このことから、レオナルド派の

画家たちが<レダ>の背景を描くのに際し、ひと

りは卵が二個登場するパターンの神話をベースに、

また別のひとりは『ホメロス賛歌』をもとに卵を

一個だけ描いたという解釈である。もちろん、そ

の場合、レオナルドはあくまでも人物像のスケッ

チのみを描き、背景は弟子や追随者たちが独自に

描き加えたというパターンでのみ起こりうる現象

である。この点についても後述する。

 ちなみに、ホメロスの『オデュッセイア』では、

カストルとポリュデウケウスは明確にレダとテュ

ンダレオスとの間にできた子であり、ヘレネとク

リュタイムネストラに関してレダとの関係性は語

られていない14。そのため、兄弟たちもゼウスの

子ではないので、ディオスクーロイとも呼ばれて

いない。

レダと白鳥のイメージ源泉

 レダの図像は古くから存在する。当然のように

レダと白鳥が描かれている点は共通するが、レオ

ナルド派内(とミケランジェロ派との間で)の図

像の違いを鑑みて、ここでは以下の点に注目して

特記しつつ、いくつか異なるタイプの図像の主要

作品を列記する。なお、以下に示す古代作品の情

報 の 多 く を、LIMC (Lexicon Iconographicum

Mythologiae Classicae)15に負っている。

 まず、以下の二点を上位の分類項目とする。

一、レダが立像であるか、座位か跪座(ひざまず

くポーズ)であるか、横臥(寝そべっているポ

ーズをとっている)か。

二、白鳥がいるかいないか。いる場合には、ただ

いるだけでレダとの接触がないか(非接触)、

あるいは軽く触れているだけ(半接触)か。あ

るいはキスしているか、さらには露骨に性行為

を思わせる動作をしているか(性的接触)。

 次に、以下の特徴を備えている場合には、下位

分類を設ける。

三、卵があるか否か。もし卵がある場合には、一

ルネサンス期におけるテキスト源泉

 ギリシャ神話によくあることだが、レダの物語

にもかように異説は多く存在する。そうしたなか

でケレーニイは、白鳥に化けたのをネメシスとす

るヴァージョンを主としてとりあげ、ゼウスが白

鳥に化けるパターンを異説として扱っている。し

かし本論文で後に見るように、レオナルドもミケ

ランジェロも後者をもとに作品を構成している。

このことは、ここで紹介したエウリピデスの『ヘ

レネ』とアポロドーロスの『神々について(ギリシ

ア神話)』が、ルネサンス期における神話主題の

主要なソースとなっていたことを意味している。

 エウリピデスの『ヘレネ』を伝える現存テキス

トとしては、オクシュリンコス出土の紀元前1世

紀後半のパピルスなどがあるが、ルネサンス期に

おける影響力を考えれば、中世期に制作された二

点の写本が最も重要である。これらはいずれもフ

ィレンツェのラウレンツィアーナ図書館所蔵のも

ので、14世紀第1四半期にテッサロニケの工房で

制作されたことがわかっている 10。

 これらを底本とする二次制作写本(下位写本)

が14世紀末頃から制作され、パリやフィレンツェ

に現存する。さらにそれらを底本として、ヴェネ

ツィアのアルドゥス・マルティウス書店から、二

巻組のエウリピデスの戯曲集が1503年2月に出版

された11。

 なお、ヘレネは中世キリスト教世界においては、

ひとびとを誘惑し社会を混乱に陥れた悪女として、

なかばファム=ファタル的な異端的存在とみなさ

れていた。1502年にドイツでヤコブ・ロッヘアに

よって著された戯曲『パリスの審判』などは、そ

うしたヘレネ観に基づいた物語の典型である。

1532年にやはりドイツ人ハンス・ザックスが書い

た『喜劇、パリスの審判』でも事情は同じである。

 そのなかで、イタリアのピエルヤコポ・マルテ

ッロが著した『囚われのヘレネ』はほぼエウリピ

デスに基づいて書かれており、ヘレネも悪女では

なく運命に翻弄される悲劇の女性として描かれて

いるが、発表年代は17世紀後半であり12、ここで

あつかうレオナルドやミケランジェロよりも後世

のものである。しかし重要なことは、準拠して戯

曲が書かれるほどにエウリピデスの著作がイタリ

アで知られていたという点にある。

 興味深いことに、作者不詳の古代詩集『ホメロ

ス(風)賛歌』における「ディオスクーロイ」では、

レダが産んだのはディオスクーロイのふたりだけ

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 レダは立像で着衣。白鳥はいない。卵から孵る

ヘレネ。羊飼いがいるので、前節で挙げたテキス

トのうち、アポロドーロスによって紹介された、

ネメシスとゼウスの間にできた卵(ヘレネ)を、

羊飼いがレダに届ける異説を典拠としている。

 ほぼ同じ構図のものに、アテナの考古学博物館

所蔵のコトン(香油入れ)がある。やや剥落が激

しいが、ヘレネが祭壇風の台座の上で産まれ、左

側にレダがいて驚いている姿などもよく似ている。

掲載作品との大きな違いとして、コトンでは画面

上部に鷲の姿で飛ぶゼウスが描かれており、ネメ

シス=白鳥、ゼウス=鷲、の二羽による交合をも

とにしているか、迫りくる鷲を避けながら行為に

及んだというプロットのいずれかに基づいている

ことがわかる16。

 類似の構図に、着衣で立位のレダがいて、その

横に台座に載った卵がひとつある点まで共通する、

紀元前420-390年頃のヒュドリアがある17。レダ

が両手をやや広げて驚いたような仕草をしている

点も同じだが、卵が割れていない点が大きく異な

る。このように卵が割れていないタイプの作例も

また多い。

A−1)白鳥との非接触・半接触

A-1-1) 非接触タイプ

 レダは立像で裸体(正確には半裸であるが、こ

こでは裸体に含める)。白鳥はいるが肉体接触は

無い。卵無し、子ども無し。パフォスのアフロデ

ィーテの聖所(パレア・パフォス)にあったもの。

 やはりモザイクで制作された、アルカラ・デ・

エナーレスにある作品 18は、本掲載作の派生形と

みてよい。4世紀末から5世紀初頭にかけて制作さ

れたもので、右側に立つレダは鑑賞者側のほうを

向いており、白鳥は左側にいる。白鳥は低い台座

の上にいて、くちばしをのばしてレダの布を引っ

張ろうとしている仕草は共通する。

個か二個か。孵化しているかどうか。もしくは

子どもが描かれている場合には何人か。

四、レダが裸体であるか、着衣あるいは体を布で

覆いかくしているか。

 これらの特徴に基づき、<レダと白鳥>の古代

の図像群を以下のタイプに大別する。

A)立位のレダ

  A-0)白鳥無し

  A-1)白鳥との非接触・半接触

  A-2)白鳥とのキス

  A-3) 白鳥との性的接触

B)座位のレダ

  B-0)白鳥無し

  B-1)白鳥との非接触・半接触

  B-2)白鳥とのキス

  B-3)白鳥との性的接触

C)跪座のレダ

  C-0)白鳥無し

  C-1)白鳥との非接触・半接触

  C-2)白鳥とのキス

  C-3)白鳥との性的接触

D)横臥のレダ

  D-0)白鳥無し

  D-1)白鳥との非接触・半接触

  D-2)白鳥とのキス

  D-3)白鳥との性的接触

 このうち、B-0、C-0、C-2、C-3、D-4には今

のところ該当作例が見あたらない。しかしここで

は、4タイプの比較のためにもこれらの項目をそ

のまま残している。

A)立位のレダ

A−0)白鳥無し

A-0-1)+卵から産まれるヘレネ

図A-0-1 卵から産まれるヘレネが描かれた、プーリア州(南イタリア)出土の赤像式ペリケー、紀元前360-350年頃、キール(ドイツ)、古代美術館(Antikensammlung)

図A-1-1 キプロスの<レダ・モザイク>、     3世紀、ニコシア、キプロス美術館

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

061

描かれている。

A−2)白鳥とのキス

A-2-1)+着衣のレダ

A-2-2)+全裸のレダ

 レダは立像で裸体であり、台座の上に立つやや

小型の白鳥に腕をまわし、キスをしている。この

タイプの作例は少数であり、ほかにポンペイの「メ

レアグロスの家」で発見された第四様式の壁画な

どが知られている。消失作品のため、描き起こし

図しか残っていないが 19、左右の位置を逆にした

立像のレダと白鳥がいて、接吻をしている。白鳥

に台座はなく、その足もとにクピドがいる点が掲

載作と異なっている。

A-1-2)半接触タイプ

 レダは立像で裸体、左手に握った布の端でわず

かに下半身を隠すばかりである。右手は隣に立つ

大型の白鳥の首を掴み、頭部をやや傾けて視線を

送る。同様のポーズをとる類似作例がいくつか現

存する。

A-1-3)半接触タイプ +白鳥を抱え、布を広げ

て守る(=ティモテオス類似型)

 後述する「ティモテオス型」はほぼすべてが岩

に浅く腰掛けた座位のポーズをとるが、ほぼ同じ

ポーズをとりながらもレダがまっすぐ立っている

作品群がある。ほかに紀元前5世紀末から4世紀初

頭のものと推測される小型テラコッタ作品(コペ

ンハーゲン、国立美術館Iv.No.755)などが知られ

ているが、制作年代から考えて、おそらくティモ

テオスの先行例とみてよい。

A-1-4)半接触タイプ +上半身をややかがめた

レダのポーズ

 ほぼ全裸の立位のレダが、傍らにいる白鳥に腕

をまわしている。エトルリアの赤像式キュリクス

に描かれたもので、頭部の特徴的な装飾など、ギ

リシャ的伝統と異なる点も見られる。

 後述するように、レオナルド派のレダのタイプ

のひとつには、本作品とよく似たポーズのレダが

図A-1-2 アンティノーリの<レダ>、2世紀後半、フィレンツェ、アンティノーリ宮

図A-1-3 おそらくアテネ出土の<レダ>のテラコッタ、紀元前4世紀中頃、ロンドン、大英博物館

図A-1-4 レダと白鳥のキュリクス、紀元前4世紀、ジュネーヴ美術館

図A-2-1b レダと白鳥部分の拡大図   レダは立像で着衣。白鳥と接吻。卵無し、子

ども無し。葬祭用のものと考えられている。

図A-2-1 レダと白鳥の赤像式ルートロフォロス、プーリア州出土、紀元前330年頃、ロサンゼルス、ゲッティ美術館

図A-2-2 レダと白鳥の指輪レリーフ、紀元前4-3世紀、ナポリ、国立博物館

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係性において、横臥式をとるミケランジェロ派の

レダの系統作品群と、強い関連性を持つとみてよ

い。

B)座位のレダ

B−0)白鳥無し

 該当作例無し。

B−1)白鳥との非接触・半接触

B-1-1)半接触タイプ +白鳥を抱え、布を広げ

て守る(=ティモテオス型)

 両足をやや開き、岩に浅く腰掛けたポーズをと

るレダ。コントラポストによって、左ひざを前に

突き出している。前節で引用したように、エウリ

ピデスの『ヘレネ』には「ゼウスが白鳥の姿となっ

て わが母レーダーのもとに翔び来り、追いせま

る鷲をかわしつつ」とあるので、本作品はこの記

述を忠実に視覚化しようとしたものとみてよい。

 ティモテオスは紀元前4世紀のアッティカで活

躍した彫刻の大家であり、エピダウロスでアスク

レピオスの聖域のために神殿のレリーフを制作し

たことなどがわかっているが、現存作品群のいず

れが彼の手になるかは判別できない。彼はフェイ

ディアスの様式を忠実に守ったとされるため、掲

載作も広義にはフェイディアス様式の系譜上に位

置する。

 高名な彫刻家の作例に基づいているため、この

ポーズをとるギリシャの模刻作例は多く、古代ロ

ーマでも多くの模刻が制作されている。代表的な

ところで、ハドリアヌス帝時代の模刻であるロー

マのボルゲーゼ美術館所蔵のもの、同じくローマ

のカピトリーニ美術館所蔵のものなどがある。ま

た、頭部や両腕が欠けた断片作品がボストンの

MFAにあるが、制作年代は紀元前410年ごろまで

遡ることができ23、おそらくティモテオス型の模

刻としては最初期のものと思われる。

A-2-3)+全裸のレダ、+卵と、それを手にする

幼児

 レダは立像で裸体であり、白鳥がキスをしよう

として嘴を近づけている。レダは両手で布を広げ、

両足を交差させている。注目すべきは、卵を手の

ひらに載せている幼児がレダの足元に描かれてい

る点である。白鳥と卵と幼児が同時に描かれた珍

しい作例であり、孵っていない卵がひとつありな

がら、すでに生まれた幼児が同時にいる点で、卵

がふたつというパターンの神話を視覚化したもの

であることが推測される。

A−3)白鳥との性的接触

A-3-1)

 レダは立像で裸体であり、白鳥との性行為を思

わせる構図をとる。卵はなく、子どもの姿もない。

古代のレリーフのなかでは、両者の肉体接触を比

較的あけすけに描きだした作例である20。

 このタイプの先行例として、紀元前3世紀頃に

制作された、大英博物館所蔵のレリーフがある21。

レリーフの彫りの深さがやや浅い点を除けば、ア

テネ国立考古学博物館所蔵の掲載作例と構図やポ

ーズが酷似している。他にも1世紀のレリーフ(ア

フロディシアス(トルコ))や2世紀初頭にカルタ

ゴで制作されたランプのレリーフなど 22、いずれ

も掲載作とほぼ同じポーズのレダと白鳥が彫られ

ており、かなり忠実にオリジナルのギリシャ図像

がローマ世界でも継承されていったことがわかる。

 本作品は立ち姿ではあるが、レダと白鳥との関

図A-2-3 銀製シトゥラのレリーフ、400年頃、サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館

図A-3-1 アッティカの<レダのレリーフ>、ブラウローン(アッティカ)出土、2世紀、アテネ、国立考古学博物館

図B-1-1 ティモテオスの失われたオリジナル作品に基づく、ローマ時代の模刻、<レダと白鳥>、1世紀、マドリッド、プラド美術館

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

063

と白鳥との関係性においてはミケランジェロ派と

の近似性を感じさせる。

C)跪座のレダ

C−0)白鳥無し

C-0-1)レダ、あるいは跪くウェヌス

 欠損部分が多く、跪座のレダだとしても白鳥と

の接触・非接触を確かめる情報に乏しい。また、

類例が非常に多い「跪くヴィーナス」の系譜にあ

る作品の可能性も高い。ただ、本作品はルネサン

ス期にはローマにあり、マールテン・ファン・ヘ

ームスケルクもこれを<レダ>として、三方向か

ら見たスケッチを残しており25、当時はレダとし

て認識されていたとも考えられる。

C−1)白鳥との非接触・半接触

C-1-1)半接触タイプ

 膝は地面に着いていないが、跪いたポーズをと

るレダは、鷲を追い払うためか、あるいは水浴中

の表現なのだろうか、両手で布を頭上にかかげて

いる。白鳥は小型で、レダの膝の上にちょこんと

乗り、くちばしをレダの乳房にあてている。古代

作品には跪座のポーズをとるレダの図像そのもの

が少なく、本掲載作はその例外的な一作品である。

C−2)白鳥とのキス

 該当作例無し。

C−3)白鳥との性的接触

 該当作例無し。

B-1-2)半接触タイプ

 横向きで座るレダの向かいに白鳥がいる。白鳥

が脚を一本だけレダの膝にかけ、それ以上の肉体

的接触はない。このポーズにも、ボスコレアーレ

出土の銀鏡レリーフ24など、いくつか類例がある。

B−2)白鳥とのキス

B-2-1)

 横向きで座るレダの向かいに白鳥がいて、両者

がキスをしているタイプ。剥落が激しく、レダの

座る岩が欠けているが、座位に分類して良いだろ

う。両者の下半身の密着度なども判断が難しく、

次の「性的接触」(B-3)に含まれるべき作品かもし

れない。

B−3)白鳥との性的接触

B-3-1)

 ポンペイ第四様式によって描かれたフレスコ画。

浅く腰掛けたレダの真向かいにいる白鳥は、レダ

の唇にくちばしを押し当て、下半身を密着させ、

直接的な肉体的接触を思わせる。本作品は、やや

立ち姿である点ではレオナルド派の、そしてレダ

図B-1-2 レダと白鳥のいる指輪レリーフ、紀元前1世紀頃、マリブ、ゲッティ美術館

図B-2-1 レダと白鳥の銅鏡、紀元前4世紀、バークレー、大学美術館

図B-3-1 ヘルクラネウムで発見された壁画、紀元前150年頃、ナポリ、国立考古学博物館

図C-0-1 レダ、あるいは跪くウェヌス、ヘレニズム期、パリ、ルーヴル美術館

図C-1-1 紅玉レリーフ、1-2世紀、コペンハーゲン、トールヴァルセン美術館

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064

構図をもつ古代作品群の意である)。

D−3)白鳥との性的接触

D-3-1)

 大理石のテーブルの脚に彫られたレリーフの断

片だが、ほぼ独立彫像と言えそうなほどに凹凸が

激しい。キスこそ交わしていないが、レダと白鳥

との位置関係は前タイプ「キス」に非常に似てお

り、両タイプの区別はそれほど厳密にできるもの

ではない。以上のふたつのタイプのどちらにも分

類できそうなタイプの作例は多いが、本掲載作の

ように、レダの両太腿の間にレダを挟み込むポー

ズは、明確に両者の性行為を示すものと言うこと

ができる。

 横臥式で、かつレダが白鳥を両膝の間に挟み込

むポーズをとる点において、本作品はミケランジ

ェロ派のレダと共通している。また、左手をあげ

て考え込むようなポーズをとっている点では、や

はりミケランジェロの<夜>(フィレンツェ、メ

ディチ家新礼拝堂)のポーズに近い。

 レダと白鳥を主題とする古代作品のタイプ別リ

ストは以上のとおりである。これらを整理すれば、

以下のような点が明らかとなる。

・作例が最も多いのは立位と横臥の両タイプであ

る。

・ヴァリエーションが最も多いのは立位である。

作例の多い横臥図像は、3タイプとも構図が非

常によく似ており、ヴァリエーションは限られ

る。

・着衣のレダは、基本的に立位のレダ図像にのみ

登場する。

・着衣のレダのほぼすべての作例と、それを含む

立位のレダ図像の大部分が、図像史のなかでは

初期か早い時期に制作されている。

・性的接触を強くにおわせるタイプの図像は、す

でに指摘されているように26、紀元前5世紀末

頃から登場する。これはやはりエウリピデスの

戯曲の普及に依るものと考えてよいだろう。

D)横臥のレダ

D−0)白鳥無し

 該当作例無し。

D−1)白鳥との非接触・半接触

D-1-1)非接触タイプ

 エルコラーノ(ヘルクラネウム)で見つかった

壁画。横たわるレダの足もとに白鳥がいる。白鳥

は直接レダに触れることはないが、彼女の方へ首

をむけて見ている。ミケランジェロ派のレダのポ

ーズとやや近い。

D-1-2)半接触タイプ

 赤像式リュトン(角杯)に描かれたもの。

D−2)白鳥とのキス

D-2-1)

 石に彫られたレリーフで、横たわるレダに白鳥

が覆いかぶさっている。両者はキスをかわしてい

るが、下半身の接触度合いは判別しがたく、次の

「性的接触」のタイプとの区別は曖昧である。本

作品にみられるポーズは、ミケランジェロにとっ

ての直接的な図像源泉となったものと考えられる

(当然ながら、ここに掲載した作品そのものとい

う意味ではなく、本作品にみられるポーズと同じ

図D-1-1 ヘルクラネウムで発見された<レダと白鳥>の壁画、62-79年、パリ、ルーヴル美術館

図D-1-2 レダと白鳥のリュトン、年代不明、ブリュッセル、王立美術館

図D-2-1 紅玉レリーフ、紀元前1世紀、デンハーグ、王立コイン・キャビネット(ライデン、王立美術館寄託)

図D-3-1 卓脚、大理石、紀元前3世紀、イスタンブール考古学博物館

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

065

L−1)レオナルドの手稿・素描に描かれた全身の

<レダ>

L-1-1)<チャッツワースのレダ>

 表面右下部に、17世紀か18世紀初頭の頃と思わ

れる「Leonardo da Vinci」との記入が、ペンとブ

ラウン・インクでなされている。おそらくは第二

代デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディ

ッシュ(1672-1739)が入手したものと思われ、

その後デヴォンシャー公家のコレクションとして

代々伝えられた。27

L-1-2)<ボイマンスのレダ>

 表面右下隅に、17世紀か18世紀初頭のものと思

われる「Lionardo da Vinci」の、ペンとブラウン・

インクによる記入。ブリストルとロンドンにいた

トーマス・ローレンス卿(1769-1830)旧蔵。その

後、ハーグのオランダ王ヴィルヘルム(ウィリア

ム)二世(1792-1849)が入手し、死後、1850年8月

12日に売りに出されたが取りやめ。彼の娘である

ザクセン=ヴァイマール大公女ソフィーが相続し、

そのままザクセン=ヴァイマール大公カール・ア

レクサンデル、同公ヴィルヘルム・エルンストが

所蔵。そして1923年頃には、ルツェルンのW. ベ

ーラー、1929年にはハールレムのフランツ・ケー

ニグのコレクションにある。1940年にロッテルダ

ムのD. G. ファン・ベニンゲンが入手し、1941年

・白鳥がいないパターンは、立位のレダの図像に

しか無い。他のポーズをとるレダは必ず白鳥と

セットで登場する。

・跪座のレダの図像は、白鳥と向かい合わせに並

ぶ半接触タイプのみである。

・卵が描かれるパターンは、ほぼ立位の図像にし

か現れない。ただし、画面内に円形や楕円形の

モチーフを配したものは幾つかあるため、それ

らのうちいくつかは卵を意図して描かれたもの

である可能性があるため、このかぎりではない。

・卵は原則的に一個しか描かれていない。ただし、

これも円型および楕円形モチーフの解釈によっ

ては例外がありうる。

・子どもらしき姿は、立位のレダの図像中に、割

れた卵の中にいる姿で登場する。エルミタージ

ュの作例(A-2-3)では、例外的に先に生まれた

子と、まだ孵化していない卵が同時に描かれて

いる。ただし、幼児とクピドやプットーとの判

別は容易ではなく、これもあくまで「原則的に」

との但し書き付きになる。

問題点

 レオナルド派の<レダ>には謎が多い。まず、

レオナルド本人が描いた彩色画が現存していない

こと。彼の生存中の記録がほとんど無いこと。そ

れなのに、レオナルド派(レオナルドの弟子・協

働者・追随者たちの総称)による作品がいくつか

あること。そしてその構想が、いつ、どのように

形成されていったかという点。そしてそもそもレ

オナルド自身が、これを誰のために、どのような

意味をもたせて描いたのか。

 先行研究の多いレオナルドのこと、<レダと白

鳥>に関する考察もまた多いが、以上の点はいま

だに明確になっておらず、整理されてもいない。

ここではまず、レオナルド派による<レダと白鳥

>の関連作品を挙げ、続いて関連史料を列記し、

クロノロジカルな考察を加えることとする。

レオナルドの<レダ>と関連作品群

L−0)レオナルド本人による<レダと白鳥>の彩

色画

 現存せず。

二、レオナルド派による<レダと白鳥>

図L-1-1 レオナルド、跪くレダのスケッチ、1504年頃、紙に木炭あるいは黒チョーク、ペンにブラウン・インク、ブラシにブラウン・ウォッシュ、16×13.9㎝、チャッツワース、デヴォンシャー公コレクション(inv.no.717)

図L-1-2 レオナルド、跪くレダのスケッチ、1504年頃、紙にペン、ブラウン・インク(ほぼ褪色)、木炭あるいは黒チョーク、12.8×10.9㎝、ロッテルダム、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館(inv.no.I466)

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066

あり続けたが、本紙葉の馬は<アンギアーリの戦

い>における軍旗争奪のシーンに酷似したモチー

フが描かれているため、1504年頃の制作と考えら

れる。

L-1-4)レダの立ち姿のアイデアか、ウィンザー

紙葉12642v

 幾何学に関するメモと同じ紙葉に描かれたもの

で、非常に小さく、おそらく布かなにかで拭われ

たのだろうか、とても薄くなっていて判読はしに

くい。しかし、両足をコントラポストの位置に置

き、頭部を向かって左前方やや下へ傾け、上半身

を左側(向かって右)へとよじり、左手を大きく

横後方向へと伸ばしたポーズであることは明確で、

レオナルド派による立ち姿のレダ図像の主流を占

めるポーズ(L-0)に近い。

 同紙葉の制作年代は、同じ紙葉で展開されてい

る幾何学問題に没頭していた時期(1504-08年頃)

から推定される。ペドレッティは、本スケッチを

レダ構想の最初期のものとみている。30

L-1-5)レダの立ち姿のアイデアか、ウィンザー

紙葉12642r

 ウィンザー紙葉12642v(L-1-4)の表面にあるも

のだが、小型の窓枠に差し込む形で挿入されてい

る。したがって前者と同じ制作時期のものかどう

かは定かではない。「30」の書き込みが上方にある。

ポーズはレオナルド派のレダで主流を占める立ち

に彼からボイマンス美術館財団に寄贈され、同館

のコレクションに入った。28

L-1-3)馬のスケッチの隣に描かれた<レダ>の

スケッチ

 本紙葉に二点ほど枠付きの人体スケッチがある。

枠があるということは、それらのスケッチが彩色

画を念頭にいれた準備段階のものであることを思

わせる。ただ、サイズがあまりに小さく、ためら

いや描き直しの線があまりに多いので、下絵とし

ても最終段階のものではなく、構想のかなり初期

の段階のものと思われる。

 二点とも立ち姿のレダではなく、跪いたポーズ

をとらせている。最大の特徴は白鳥がいない点に

あり、そのためマルマンジェのように、レオナル

ドは最初、白鳥のいない<レダと子>を構想して

いたとする見方がある29。白鳥がいないならレダ

を描いたものではない可能性もあるのだが、大き

なサイズの枠内ではどうやら卵らしきものが描か

れていること、そしてやはりジャンピエトリーノ

作とされる<レダ>(図L-0-6)にポーズがかなり

似ているため、やはりレダを主題としたものとし

て良いだろう。とくに、ジャンピエトリーノ作と

される彩色画にも白鳥がいない点は、本紙葉にお

けるスケッチとの特筆すべき共通点である。

 本紙葉には<アンギアーリの戦い>のためと思

われる、馬のデッサンがある。馬はスフォルツァ

騎馬像制作時から一貫してレオナルドの関心事で

図L-1-3 レオナルド、馬のスケッチの隣に描かれた<レダ>、1504-05年頃、黒チョーク、部分的にペンとインクで重ね描き、29.3×41.3㎝、ウィンザー城、王立図書館RL12337r.

図L-1-3c 同、部分拡大図c図L-1-3b 同、部分拡大図b

図L-1-4 レオナルド、レダの立ち姿のアイデアか、 1504-08年頃か、ウィンザー城、王立図書館、(inv.no.12642v)

図L-1-5 レオナルド、レダの立ち姿のアイデアか、1504-08年頃か、ウィンザー城、王立図書館、(inv. no.12642r)

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

067

ヴを作り出してもいない。本作品について、ナン

ニらはその制作年代を「1504年頃」としているが 33、

後述する理由により、ここでは「1504年以降」と

したい。

L−2)レオナルドの手稿・素描に描かれた<レダ

>の部分スケッチ

L-2-1)レダの頭部デッサン、ウィンザー紙葉

12516

 紙にペンとインク、黒チョーク。四つの視点か

ら見た女性の頭部デッサンで、レオナルドの関心

は女性の表情よりも頭髪の編み方にある。その毛

の長さと量から考えてかつらと思われるが、あま

りに緻密なため、実物を見て描いたものでないこ

とは明らかである。

L-2-2)レダの頭部デッサン、ウィンザー紙葉

12518

 褐色をおびた紙にペンとインク、黒チョーク。

姿の系統にあり、12642vのスケッチとの類似から、

編纂者ポンペオ・レオーニが同一紙葉に納めたも

のと考えてよいだろう。

L-1-6)レダの立ち姿のアイデアか、アトランテ

ィコ手稿 f.423r

 20.8×29.3㎝のサイズの紙葉。幾何学の学習メ

モが占めるページの最下部に、おそらくレダの立

ち姿と思われる非常に小さなスケッチがある。31

 非常に小さなサイズながら、線が明瞭なため、

レオナルド派による「立ち姿のレダ」の主流のポ

ーズ(L-0)をとっていることは明確である。ペド

レッティは、ウィンザー紙葉12642番紙葉と同じ

幾何学の学習メモにあたる紙葉であっても、その

研究テーマは異なり、アトランティコ手稿のもの

は1514年以降に関心をもっていたものとしている32。その場合、これはフィレンツェ時代の一群の

レダ構想とは無関係のメモであるか、あるいはロ

ーマやフランス時代にもレオナルドがレダのテー

マにひきつづき関心を持っていたことの証左とな

る。

L-1-7)レダの立ち姿のアイデアか、トリノ王立

図書館15577

 立ち姿のレダとの関連性を強く感じさせるスケ

ッチだが、頭部の向きが左右逆であり、したがっ

て身のよじり方は強くなく、体全体でS字のカー

図L-1-6 レオナルド・ダ・ヴィンチ、『アトランティコ手稿』、ミラノ、アンブロジアーナ図書館、f.423r

図L-1-6b 同、部分拡大図

図L-1-7 レオナルド・ダ・ヴィンチ、レダの立ち姿のアイデアか、1504年以降、トリノ、王立図書館(inv.no.15577)

図L-2-1 レオナルド・ダ・ヴィンチ、レダの頭部デッサン、20×16.2㎝、ウィンザー城、王立図書館、(inv.no.12516)

図L-2-2 レオナルド・ダ・ヴィンチ、レダの頭部デッサ ン、17.7×14.7㎝、 ウィンザー城、王立図書館、(inv.no.12518)

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 この他に、パルマ国立絵画館、フィラデルフィ

ア美術館、ロンドンのホルフォード=メルチェッ

ト・コレクションなどに残る、一連の「乱れ髪の

乙女」とも呼ぶべき女性頭部デッサン群が存在す

る。それらはいずれも頭の傾きと向ける方向、伏

し目などの点で上記デッサン群と共通点が多い。

これらのことからゴールドブラットのようにそれ

らを<レダと白鳥>と結びつける研究者もいるが36、より細い楕円の卵型のシルエットと、なによ

り渦巻き状の編み目ではなく風にたなびく乱れ髪

である点など、違いも多い。筆者はそれらをむし

ろ<岩窟の聖母>のマリアとの結びつきで考えて

おり、よって本論考のリストからは外している。

L−3)レオナルド派の可能性がある<レダと白鳥>

L-3-1)通称<スピリドン・レダ>(ウフィツィの

<レダ>)

 ロブル男爵から受け継いで、パリのロツィエー

レ侯爵のコレクションにあった本作品は、1874年、

未亡人からルドヴィコ・スピリドンへと所有が移

された。その後、1941年にガロッティ・スピリド

ン公爵夫人からゲーリングに売却され、大戦後の

1948年にロドルフォ・シヴィエロ大臣によって取

り戻された 37。

 帰属問題は諸説あって決着をみておらず、たと

えばマラーニは「Ferrando spagnolo」の可能性を

提起している。この「スペインのフェルナンド」

は1505年に<アンギアーリの戦い>を制作中に登

場する名前である(後述)。他にメルツィの名も

取り沙汰されてきた。

 制作年代はラファエッロによるスケッチとの関

連性などから、ツォルナーや多くの研究者によっ

て 38、1505年から1515年頃までの間に制作された

ものと考えられている。

L-2-3)レダの頭部デッサン、ウィンザー紙葉

12515

 褐色にあせた紙に、ペンとインクによって描か

れている。

 左側に「questa sipo / levare eppo / re sanza gu

/ asstarsi」のメモ。これらは(編みを)ほどくこと

なく上げることができる、の意。

L-2-4)レダの頭部デッサン、ウィンザー紙葉

12517

 褐色をおびた紙にペンとインク、黒チョーク。

L-2-5)スフォルツァ城の頭部スケッチ

 1879年から市のコレクションに「レオナルド派

の作」として加わったが、帰属問題を常にかかえ

ており、1890年にはモレッリによってソドマに帰

属され、1921年にはアドルフォ・ヴェントゥーリ

によってレオナルド本人の作とされた。ペドレッ

ティやヴェッツォージはヴェントゥーリの説を支

持し(ペドレッティは1510-11年頃、ヴェッツォ

ージは1505年頃としている)、一方、マラーニや

マリア・テレーザ・フィオリオらはレオナルドに

よるオリジナル作からの模写と考えた34。フィオ

リオは本作品を1515年頃の作とし、作者としてジ

ャンピエトリーノの可能性を挙げている 35。

図L-2-3 レオナルド・ダ・ヴィンチ、レダの頭部デッサン、9.2×11.2㎝、ウィンザー城、王立図書館、(inv.no.12515)

図L-2-4 レオナルド・ダ・ヴィンチ、レダの頭部デッサン、9.3×10.4㎝、ウィンザー城、王立図書館、(inv.no. 12517)

図L-2-5 レオナルド・ダ・ヴィンチか、<レダの頭部>、赤染めされた紙に赤チョーク、20.0×15.7㎝、ミラノ、スフォルツァ城 Civico Gabinetto dei Disegni(inv.no.B1354)

図L-3-1 レオナルド派、レオナルドの下絵に基づく、<レダと白鳥>、1505-15年頃か、板に油彩、130×78㎝、フィレンツェ、ウフィツィ美術館

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

069

L-3-5)通称<ヘイスティングス・レダ>

 本作品も、レオナルド作としてマーケットに登

場したもの。詳細はいまだ不明である。

L-3-6)ジャンピエトリーノの<レダ>

 伝統的にジャンピエトリーノに帰属される本作

品は、1749年にパリで「発見」され、1756年にヘ

ッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム八世によって

購入された。その時点で卵と子供がひとり塗りつ

ぶされた状態にあり、そのためレオナルドによる

<カリタス(慈愛)>と誤った主題で1783年の目

録に記録された(<カリタス>の擬人像は、一般

的に三人の子供を抱えた女性の姿であらわされる

ため)。これをうけて、ゲーテも紀行文に同主題

名で記している。43

 1806年にナポレオンのフランス軍によってパリ

に運ばれ、1821年にパリで売却され、ついで1833

年にロンドンのクリスティーズで売りに出された。

L-3-2)伝チェーザレ・ダ・セスト、<レダ>(<

ペンブローク・レダ>)

 1730年以前の記録に欠ける本作品は、はやくか

ら「失われたレオナルドの原作の模写」として知

られ、クラークによって1939年に「チェーザレ・

ダ・セストの作であることはほぼ確実で、彼が

1507年から1510年の間にレオナルド工房で描いた

ものであろう」39とされた。

L-3-3)ボルゲーゼの<レダ>

 1693年のボルゲーゼ家財産目録で最初に言及さ

れ、その時点でレオナルドに帰属されていた40。

19世紀になって、ソドマとバッキアッカ、ブジャ

ルディーニ、メルツィらの名が作者として挙げら

れているが 41、様式的に、彼らと本作品を結びつ

けるには否定的な分析結果が出ている。ヴェッツ

ォージによれば、様式的にはミラノのレオナルド

派ではなくむしろトスカーナやローマ周辺に近い

としている。また、科学調査により、もともとは

卵がふたつ、子どもが四人描かれており、後世の

加筆によって現在の姿になったことが明らかにさ

れている 42。

L-3-4)フィラデルフィアの<レダ>

 1917年までジョンソン・コレクションにあった

作品。フェルナンド・イャネス・デ・ラ・アルメ

ディーナの名が挙げられることが多い。

図L-3-2 レオナルド派(チェーザレ・ダ・セストか)、<レダと白鳥>、1505-15年頃か、板に油彩、96.5×73.7㎝、サリスベリー、ウィルトン・ハウス・トラスト(ペンブローク伯爵蔵)

図L-3-3 レオナルド派(ソドマ派?)、<レダと白鳥>、1515-20年頃、板にテンペラ、112×86㎝、ローマ、ボルゲーゼ美術館

図L-3-4 レオナルド派か、<レダと白鳥>、16世紀、板に油彩、131.1×76.2㎝、フィラデルフィア美術館

図L-3-5 伝ジャンピエトリーノ、<レダと白鳥>、16世紀か、板、132.7×104.8㎝、ロンドン、ギブス・コレクション(旧ヘイスティングス侯コレクション)

図L-3-6 ジャンピエトリーノに帰属、<レダと白鳥>、1508-1513年頃か、板(ハンノキ)に油彩(およびテンペラか)、128×105.5㎝、カッセル市立美術館

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070

L-3-8)ルーヴルの模写デッサン

 「レオナルド派」に漠然と帰属されてきた作品。

コスタマーニャはこれをバッチョ・バンディネッ

リに帰している 46。バンディネッリは一時期ミケ

ランジェロとライヴァル視されていた彫刻家であ

り、1530年頃にブロンズ製の<レダと白鳥>(フ

ィレンツェ、バルジェッロ美術館)を制作してい

る。それも立ち姿だが、ただ白鳥の位置、レダの

顔と手の向きが本デッサンとは左右逆である。

L−4)その他の主要関連作品

L-4-1)ラファエッロによる<レダ>のスケッチ

 よく知られているように、ラファエッロはレオ

ナルドの原画に基づくと思われるスケッチを残し

ており、またレオナルド作品に由来する構図を自

らの制作に応用している。なかでも<若い女性>

のスケッチ(ルーヴル美術館)は、明らかにレオ

ナルドの<ラ・ジョコンダ(モナ・リザ)>を模

写したものであり、女性のポーズと配置、バルコ

ニーと両端の円柱の位置まで酷似している。この

ことから、<若い女性>のスケッチはレオナルド

が<ラ・ジョコンダ>に着手した1503年以降で、

かつラファエッロがフィレンツェに出たと思われ

る1504年以降に描かれ、レオナルドがミラノとフ

ィレンツェを行き来するようになる1506年以前の

ものと思われる。

この間、1835年以前のどこかで加筆が取り除かれ、

本来の姿と主題が明らかになった。その後も複数

のコレクションを渡り、1962年にカッセルへと帰

還。その後断続的におこなわれていた修復が1984

年に終了した。この過程でジャンピエトリーノに

帰属され、ほぼすべての研究者によって支持され

ている。

 1984年から1989年にかけておこなわれた赤外線

調査によって、下絵の下に、ルーヴル美術館所蔵

のレオナルド<聖アンナと聖母子>の構図が発見

された 44。スポルヴェロ転写法の跡(孔をあけた

カルトンから炭の粉で転写する)らしきものがあ

ることもわかっており、最初は<聖アンナと聖母

子>の下絵用か複写用の板であった可能性が高い。

この点も、1508年から1513年にかけての時期を本

作品の制作時期とする根拠となっている。

L-3-7)腰巻の<レダ>

 裏面に「Leonardo dauincj」との18世紀の銘記あ

り。2000年にチューリッヒで開かれた展覧会に出

品された記録をのぞいて、来歴はおろか、現在の

所在も不明である。

 ただ、レダと白鳥のポーズと位置関係、卵と子

らの配置などの点において、本作品がレオナルド

派の<レダと白鳥>の派生作品であることは明ら

かである。他の同系統作品群と異なる点として、

レダの下半身を覆うような布(腰巻)があるが、

ほとんど薄くかすれていることから、ちょうどミ

ケランジェロの<最後の審判>にダニエーレ・

ダ・ヴォルテッラが描いたように、本作品を猥褻

と判定した後世の加筆かもしれない。

 ペドレッティは本作品の作者としてサライの可

能性を挙げているが 45、本論考では後述する理由

によりサライの名を画家として挙げることに躊躇

せざるをえない。

図L-3-7 レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく、<レダと白鳥>、1510-1550年頃 か、22.0×14.3㎝、 厚紙にペン、油彩とテンペラ、板に接着、所在不明

図L-3-8 作者不詳、レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく、<レダと白鳥>の模写デッサン、16世紀か、パリ、ルーヴル美術館

図L-4-1 ラファエッロ・サンツィオ、おそらくレオナルド・ダ・ヴィンチの原画に基づく、<レダと白鳥>のスケッチ、1504-05年頃、紙にペン、31.0×19.0㎝、ウィンザー城、王立図書館(RL 12759)

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

071

レオナルドがかなりの制作エネルギーを注いだ頭

髪の複雑な渦巻き紋様が無いため、工房内の誰か

の作品ではなく、工房とは無関係のやや後世の追

随者によるものと考えたい。

 女性の下半身に縦の線が加えられている点をも

って、ペドレッティは、マルカントニオ・ライモ

ンディによる版画<ディルドをもつ女性>(1515

年頃、ストックホルム国立美術館)と本作品との

影響関係を示唆している 48。

L-4-4)フィリッピーノ・リッピの<エラトー>

 本作品はギリシャ神話のミューズの一柱エラト

ーを描いたもので、制作年代は1500年と推定され

ている。レダではないが、白鳥を従えている点で、

そして左(向かって右)へ身をよじっている点な

どから、ルネサンス時代における「立ち姿の女性

と白鳥を描いた彩色画」として、レオナルドに先

行する非常に珍しい作例である。フィリッピーノ

はフィレンツェにおける重要画家のひとりであり、

当然ながらレオナルドと交流もあり、レオナルド

の図像の源泉のひとつとなった可能性がある。

 同様のケースとして、ラファエッロによる<ガ

ラテアの凱旋>(ローマ、ヴィッラ・ファルネジ

ーナ)も、レダではないがやはりコントラポスト

のポーズをとる立ち姿の女性が、大きく身を左へ

とよじる点などに共通点をもつ。ただしこちらは

白鳥がおらず、また制作年代も1511年なので、レ

オナルドの着想源のひとつである可能性はほとん

ど無い。

L-4-5)ポントルモ帰属の<レダと白鳥>

 本作品は、1589年にすでにウフィツィ宮殿にあ

ったことがわかっている。最初はアンドレア・デ

ル・サルトに帰属されていたが、その後、ポント

ルモやペリン・デル・ヴァーガ、バッキアッカら

の名が作者として挙げられてきた。現在はポント

ルモへの帰属が一般的に支持されているが、カル

 <若い女性>のスケッチと同様に、本作品も同

時期にレオナルド工房で見かけた<レダと白鳥>

をもとに描かれたとして良いと思われる。単彩ス

ケッチであるため、レオナルドの原画が彩色画か

素描かはわからないが、レオナルドのレダ構想の

初期段階にあたる頃から、おそらく彩色を前提と

した大型の素描を見た可能性が高い。そしてそこ

には、後のレオナルド派のレダ系統作品群で主流

となる、「立ち姿」「コントラポスト」「頭部を斜め右

(向かって左)下へ傾ける」「体を左によじる」「大型

の白鳥を左手で抱える」「白鳥はレダに頭部を近づ

ける」「画面左下のレダの足元に子」といった要素

がすでにすべて描かれていたことがわかる。

L-4-2)ジャンピエトリーノによる<ヴェーネレ

とクピド>

 レオナルド工房にいた弟子のひとりジャンピエ

トリーノに帰属されている本作品は、ヴィーナス

のポーズにレオナルドのレダとの明確な影響をみ

ることができる。マラーニは、ジャンピエトリー

ノの他の作品との関連などから、本作品の制作年

代を「1510年代なかば」と推定している 47。

L-4-3)べネヴェントの模写デッサン

 本作品もレオナルド派のレダの派生作品である

ことは確かで、主要人物のポーズなどは忠実だが、

図L-4-2 ジャンピエトリーノ、<ヴェーネレ(ヴィーナス)とクピド>、1515年頃か、ミラノ、ネンビリーニ・コレクション

図L-4-3 作者不詳、レオナルド・ダ・ヴィンチに基づく、<レダと白鳥>の模写デッサン、16世紀、20.0×14.0㎝、べネヴェント、サムニウム(サンニオ)美術館(inv.no.2143)

図L-4-4 フィリッピーノ・リッピ、<エラトー>、1500年頃、ベルリン、国立絵画館

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072

作年代も定かではない 50。短剣を自らに突き立て

ようとしているのでルクレツィアがモチーフだと

わかるが、ポーズや身振りはレオナルド派のレダ

からの影響を示している。

L-4-8)バンディネッリのデッサン

 立ち姿ではなく座位のレダだが、体のよじり方

などにレオナルド派からの影響をみることができ

るかもしれない。

L-4-9)バンディネッリのブロンズ像

 

 立ち姿のため、バンディネッリ本人による前掲

デッサンよりもレオナルド派との繋がりを思わせ

るが、白鳥の立ち位置、それにともなうレダの頭

部の向きなど、相違点もまた多い。

L-4-10)バッキアッカによるトロワの<レダと白

鳥>

ロ・ファルチアーニのように、本作をアンドレア・

デル・サルトか彼の追随者とする説もいまだ存在

する 49。

 いずれにせよ、コントラポストや頭部の向きと

傾きなどはレオナルド派に主流の要素と共通する

ものの、両手を広げたポーズや白鳥との位置関係

など、本作品に個有の要素は多い。

L-4-6)アンドレア・デル・サルトの<レダと白

鳥>

 コントラポストの姿勢をとる点、白鳥との位置

関係、左に身をよじって白鳥を抱えている点など、

本作品にはレオナルド派のレダとの共通点は多い

が、頭部の向きと傾き、子らの位置などは大きく

異なっている。

L-4-7)ルイーニ帰属の<ルクレツィア>

 もともと手紙として用いられたもので、裏面に

五行ほどの書き込みがある。帰属に諸説あり、制

図L-4-5 ヤコポ・ダ・ポントルモに帰属、<レダと白鳥>、1512-15年頃、板に油彩、55.0×40.0㎝、フィレンツェ、ウフィツィ美術館(inv.1890, no.1556)

図L-4-6 アンドレア・デル・サルト、<レダと白鳥>、1513-15年、ブリュッセル、王立美術館

図L-4-7 ベルナルディーノ・ルイーニに帰属、<ルクレツィア>、 1514年 頃か、 紙にセピア・ インク、 16.5×9.1㎝、ミラノ、アンブロジアーナ図書館(Cod.F271, inf.14)

図L-4-8 バッチョ・バンディネッリ、<レダと白鳥>、1517年頃か、紙にペン、28.8×19.3㎝、フィレンツェ、ウフィツィ美術館素描版画室(inv.no.509F)

図L-4-9 バッチョ・バンディネッリ、<レダと白鳥>、1530年以降、ブロンズ、高さ31.5㎝、フィレンツェ、バルジェッロ美術館(inv.no.401B)

図L-4-10 フランチェスコ・ウベルティーニ(ウベルティーノ・ヴェルディ)、通称バッキアッカ、<レダと白鳥>、 1518-20年頃、板に油彩、 35.0×26.0㎝、トロワ(フランス)、トロワ美術館(inv.no.875.3.1)

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

073

想定することができるが、座位で両膝に白鳥を挟

み込む点などは、むしろティモテオス型(B-1-1)

やミケランジェロ派との共通点を示している。

<レダと白鳥>に関連するクロノロジカルな史料

 レオナルドとレオナルド派による<レダと白鳥

>に関連する情報を、以下に年代順に列記する。

レオナルドと<レダと白鳥>を直接結び付ける存

命中の確たる記録は存在しないが、同時代史料お

よび後世の記録、そしてさまざまな状況証拠から

推定される制作年代に関連する記録を挙げる。

 原史料原文のうち必要と思われる個所は原文を

併記する(現代イタリア語とは綴りと文法が若干

異なるが、原文表記を優先する)。<レダと白鳥

>に直接関連するもの以外にも、同系統の比較対

象となる作品系統に触れている個所と、工房での

当時の制作スタイルがわかる情報を含む。

1501年4月3日

・フラ・ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラ、イザベ

ッラ・デステにあてた報告書。

  (…)L a u i t a d i L e o n a r d o e u a r i a e t

indeterminate forte siche pare uiuere a gornata.

A facto solo dopoi che e ad firenci vno schizo in

vno Cartone: (…)Et questo schizo ancora non e

finito. Altro non ha facto senon che dui suoi

garzoni fano retrati et lui ale uolte in alcuno

mette mano. Da opra for te ad la geometria

Impacientissimo al pennello (…)52

 「…レオナルドは、まるでその日暮らしのよ

うに、不規則で定まっていない日々を過ごして

います。フィレンツェでは、カルトンにスケッ

チを一点描いたきりです。(中略)この下絵はま

だ完成していません。二人の弟子が手掛けてい

る肖像画に時おり手を入れるほかは、彼はなに

もしていません。幾何学に没頭していて、絵筆

 推定される制作年代も近く、主題選択と全体的

な構図にレオナルド派からの影響をみることがで

きるが、違いもまた多いため、直接的模写や、レ

オナルドの原画を着想源とするような密接な関係

性を見出すことは困難である。

L-4-11)バッキアッカによるボイマンスの<レダ

と白鳥>

 ウィーンのアウスピッツ・コレクションにあっ

た本作品は、スイーダらからバッキアッカの作と

推定された 51。詳細不明の本作品は、バッキアッ

カへの帰属が提案されているが、前掲の同作者の

作品とは大きく異なり、より詳細な作者同定分析

を必要とするだろう。

L-4-12)伝バッキアッカの<レダと白鳥>

 本作品もバッキアッカへの帰属が提案されてい

るが、前掲の同作者の二作品とは大きく異なる。

たしかに胸に白鳥がくちばしをあてている点は三

作品に共通する独特の点だが、卵が四つあるなど、

神話の内容と図像伝統からの逸脱も多い。

L-4-13)コレッジョによる<レダと白鳥>

 非常によく知られた本作品は、レオナルド様式

の追随者でもあったコレッジョによる。よってお

そらくはレオナルド派による彩色画ではなく、レ

オナルドの初期構想の跪座のタイプからの影響を

図L-4-11 バッキアッカ、<レダと白鳥>、1518-20年、板に油彩、ロッテルダム、ボイマンス・ファン・ベニンゲン美術館

図L-4-12 伝バッキアッカ、<レダと白鳥>、板に油彩、42.9×31.8㎝、 ニ ューヨーク、メトロポリタン美術館

図L-4-13 コレッジョ、<レダと白鳥>、1531-32年頃、カンヴァスに油彩、152.0 ×191.0㎝、ベルリン、国立絵画館

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作品のいくつかに関わる、Fernandoの名を持

つ画家の記録と思われる。であれば、一時期レ

オナルド工房にいたはずのフェルナンド・イャ

ネス・デ・ラ・アウメディーナである可能性が

非常に高い。

・4~ 8月、<アンギアーリの戦い>の支払い記録。

・4月14、15日、『鳥の飛翔に関する手稿』に日付。

1506年~1507年

・レオナルドはこの間フィレンツェとミラノを行

ったり来たりの状況にある。

1507年8月15日

・シャルル・ダンボワーズからフィレンツェ政庁

への書簡。

 Vene lì maestro Leonardo Vinci pittore del

Christianissimo Re, al quale cum grandissima

dificultà havemo dato licentia, per essere

obligato fare una tavola ad esso molto carissima,

(…)54

 「信心深き王(訳注:フランス王ルイ十二世

のこと)の画家であるレオナルド・ダ・ヴィン

チ親方は、王が望まれている一点の板絵を描か

なければならないため、非常に困難ながらも許

可を与えた(訳注:フィレンツェに帰国するた

めの出国許可証)」(筆者訳)

 本書簡は、レオナルドが遺産相続の裁判のため

にフィレンツェに帰国することを許可し、フィレ

ンツェ政府に通告するものである。文中の「一点

の板絵una tavola」が何を指すのか定かではなく、

<レダと白鳥>のほか、<糸巻きの聖母>の系統

作品などの可能性がある。

1508年

・ミラノに帰還。サンタ・バビエラ地区のオリエ

ンターレ門の近くにあらたな工房を設ける。サ

ライ、メルツィ、ジャンピエトリーノらがいる。

聖アンナと聖母子>などに取り組む。

1516年

・この年より、フランスのアンボワーズにて活動。

1517年

・(10月10日、ルイジ・ダラゴーナ枢機卿の一行

がアンボワーズのクルー城を訪問。デ・ベアテ

ィスが<洗礼者ヨハネ><聖アンナと聖母子>、

を取りたがりません」(筆者訳)

 報告書で言及されている「カルトンにスケッ

チ」は、<聖アンナと聖母子>の系統にある下絵

の一点である。その前後の記述は、当時のフィレ

ンツェのレオナルド工房内での制作スタイルをう

かがわせる重要な証言であり、後述するように<

レダ>においても分業式や引継式をとった証左と

なる。

1501年4月14日

・フラ・ピエトロ・ダ・ノヴェッラーラ、再びイ

ザベッラ・デステにあてた報告書。

(…)Insumma li suoi experimenti Mathematici

lhano distracto tanto dal dipingere, che non puo

patire el pennello (…)53

 「…要するに、数学の実験で彼は描くことに

気が向かず、絵筆を持つことに耐えられないの

です。」(筆者訳)

1503年

・前年度のチェーザレ・ボルジア軍との同行の後、

おそらく年初からフィレンツェへ戻っている(3

月5日付、ヌオーヴァ病院からの出金記録など

から)。

・同年10月、フィレンツェ政庁より、ヴェッキオ

宮殿五百人広間にて<アンギアーリの戦い>の

制作を委嘱される(10月24日、サンタ・マリア・

ノヴェッラ教会サーラ・デル・パーパ(教皇の

間)の鍵の交付記録などから)。

1504年

・おそらくこの年、ラファエッロがフィレンツェ

に移住している。ラファエッロは1505年以降、

ペルージャなどへ制作にまとまった期間出るこ

とがあり、1508年の末にはローマへと移り住む。

一方のレオナルドは1506年以降、訴訟処理など

のためにミラノへ長期間でかけることが多くな

り、徐々にミラノへと活動の場を移していく。

以上のことから、ラファエッロがレオナルドの

<レダ>のスケッチを描いたのは、ほぼ確実に

1504年から1505年にかけての時期と思われる。

1505年

・<アンギアーリの戦い>を制作中、工房に

「Ferrando spagnolo (スペインのフェルナン

ド)」がいると記述。<糸巻きの聖母>系統の

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

075

る。ちなみにフィリッピーノ・リッピによる<聖

母の戴冠>(ウフィツィ美術館)が240フィオリー

ニであり、サライが所有していた<レダと白鳥>

は充分に良質な資産と評価されていたことがわか

る。

 サライの扱いは常に難しく、ただの召使いと考

えるものもいれば、れっきとした弟子のひとりと

する見方もある。筆者は前者の立場をとる。これ

はレオナルド晩年の、サライへとメルツィへの尊

称の使い方の大きな違いなどを根拠としている。

その場合、サライ所有の<レダと白鳥>は、もし

彼本人が描いたものであるとすると価格が高すぎ、

よってサライ以外の誰かによるものと考えられる。

そしてそれは、彼よりは名の知れた工房の同僚(た

とえばマルコ・ドッジョーノなど)の誰かである

可能性もあるだろうが、それならなぜサライが持

っているのかという問題が生じる。つまり、やは

りそれは師もしくは主人であるレオナルドによる

ものでなければならない。

 しかし、レオナルドの真作であるとするなら、

評価額はむしろ低すぎるようにも思える。ならば

彩色画ではなく素描の類かなにかである可能性を

考えたくなるが、遺産目録には「Quadro dicto vna

ledde n(umero)j(=1)」(レダと呼ばれる絵一枚、

筆者訳)と記載されている。「quadro」は通常であ

れば「彩色画のタブロー」を指す。結果的に、レ

オナルドによる彩色画のレダであったとすれば評

価額はやや低く感じられ、サライによるものとす

れば価格は高すぎるのだ。

1531年

・サライの遺品に関するミラノの公証人記録に、

<イォコンダ>を含む7点の絵画の記載がある

が、<レダと白鳥>は無い。

1540年

・おそらくこの年、『アノニモ・ガッディアーノ(逸

名の年代記者によるガッディ家文書)』に以下

の記述。

 E ancora una leda dipinse Adamo e Eva d’

acquerello, oggi in casa messer Ottaviano de’

Medici.58

 「そして今日オッタヴィアーノ・デ・メディ

チ邸にある、水彩の<アダムとエヴァ>と一枚

のレダも描いた」(筆者訳)

 この記述はレオナルドの同時代史料として非常

およびおそらく<ラ・ジョコンダ>を含む二点

の女性肖像画を見ている)…<レダと白鳥>に

関してではないが、後で言及するため記載。

1518年

・サライがフランス王フランソワ一世に絵を何点

か売却したことを、ミラノ公に会計報告。ジェ

スタッツはこれを、2604リーヴル4ソルディ 4

デナーリの額の支払い記録とあわせ、現在ルー

ヴル美術館にあるレオナルド最期の三点(<

ラ・ジョコンダ><聖アンナと聖母子><洗礼

者ヨハネ>)とともに<レダ>を売却したもの

とみている55。ただしこの記録は他の<レダ>

関連の文献では扱われていないことが多い。

  この記録は<レダ>の伝播経路を探るうえで

重要なポイントとなるものであり、後章の考察

部分において詳しくとりあげる。

1519年

・5月2日レオナルド死去。4月23日に作成された

遺言状にて、メルツィにすべの書籍、芸術家と

しての仕事のための道具と肖像画を贈与。また

ミラノに所有する庭園を、召使いのバッティス

タ・デ・ヴィラニスとサライに分けて贈与して

いる 56。

1525年

・サライ(ジャコモ・カプロッティ、前年の1524

年に死亡)の遺産目録に、<レダ>を含む12点

の絵画作品のリスト有り57。<レダ>の評価額

が最も高く、比較のために他の作品の評価額も

いくつかあわせて以下に示す。

<レダと呼ばれる絵>、200スクーディ。

<聖アンナ>(ルーヴルにあるタイプの<聖ア

ンナと聖母子>のことと思われる)、100スクー

ディ。

<ラ・ジョコンダと呼ばれる女性の肖像>、

100スクーディ。

<聖ヨハネ>(洗礼者ヨハネ)、80スクーディ。

<聖ヒエロニムス>、40スクーディ。

<裸体の半身像>、25スクーディ。

<半裸の聖ヒエロニムス>、25スクーディ。

(…)

 この目録にある<レダと白鳥>の価格は、現在

通貨にやや強引に換算すると、およそ600万円前

後となる。当時としてももちろん高額な部類に入

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076

 引用文中の in grembo は、通常であれば「膝の

中に挟み」こんだ状態を指すが、「膝の上にのせ

て」の意味で解釈できなくもない表現である。前

節の関連作品リストからわかるように、この表現

にそのまま当てはまるものは、レオナルド派の作

品群にはない。わずかに、やや遅れて描かれたコ

レッジョの作品(L-4-13)が該当するのみである。

この記述はむしろ、ミケランジェロ派の作品を思

わせる。

1590年

・ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォ(ジャンパ

オロ・ロマッツォ)が、この年に刊行された著

書『Idea del Tempio della pittura』のなかで、以

下の記述を残す。

 Il che chi desidera di veder nella pittura, miri

l’opere finite (benché siano poche)di Lionardo

Vinci, come la Leda ignuda et il ritratto di Mona

Lisa napoletana, che sono nella Fontana di Beleó

in Francia, e conoscerà quanto l’arte superi e

quanto sia piú potente in tirare a sé gli occhi

degli intendenti, che l’istessa natura.63

 「絵画を鑑賞したいと願う者は、裸のレダと

ナポリのリザ夫人の肖像画のような、リオナル

ド・ヴィンチ(=レオナルド・ダ・ヴィンチの

こと:引用者注)が完成させた絵(数は少ない

が)を観るとよい。それらはフランスのフォン

タナ・ディ・ベレオ(=フォンテーヌブローの

こと:同)にあり、自然を芸術が超越し、鑑賞

者の目をいかに強く魅了するか教えてくれる」

(筆者訳)。

 ロマッツォの証言は、実際には彼が1571年に失

明した後に書かれている。しかし彼は執筆にあた

り、過去の記憶に加え、レオナルドの愛弟子メル

ツィに直接取材しており、検討に値する。

1625年

・カッシアーノ・ダル・ポッツォがフォンテーヌ

ブローにおいてレオナルドの<レダ>を見て、

以下の記述を残している。

 「全裸に近いレダが立っていて、その足もと

には、白鳥と二個の卵があり、卵の殻が破れて

四人の赤ん坊が出てくるところが描かれている。

この絵は、筆致はやや堅いが、きわめて美しく

仕上げられており、とくに女性の胸部がすばら

しい。またその他の点では、風景と植物がすこ

に重要であり、レオナルド本人が<レダと白鳥>

を描いていた確たる証拠に思われる。しかしこと

がそう単純でないのは、なぜか una leda の語だ

けが線で消されていることにある。事実、抹消さ

れた語について注記がある翻刻本はフライ注解版59などむしろ少数であり、ここに引用したフィカ

ッラ注解による普及版やベルトラーミによる史料

集 60などでは、una leda の語は消去されたままで

注記もなく、ここでは引用に際し筆者が補ってい

る。

 問題は、この語を誰が消去したかである。後世

の第三者によって消去されたのであれば、その頃

にはすでにレオナルド本人の<レダと白鳥>が行

方不明になっていたことを受けて、「失われた作

品」という意味で消した可能性が高い。しかしも

し消したのが年代記者本人であれば、レオナルド

本人が<レダと白鳥>を描いていたこと自体が誤

りだったとわかったために消したとも考えられる。

 つまり、前者であればレオナルド本人が描いた

<レダと白鳥>はいったんは存在したことを意味

し、後者の場合には、<レダと白鳥>はやはりレ

オナルド本人ではなく工房の誰かが描いていた

(そしてそのことを年代記者が知ったために記述

を消した)可能性があるのだ。いずれにせよ、消

去の線がいずれの手によるものかは不明なままで

あり、断定はできない。

・同年、フォンテーヌブロー宮殿のフランソワ一

世の浴室に、<レダと白鳥>および<ラ・ジョ

コンダ>が所蔵されていたとの記録。ケンプは

このことから、フランソワ一世がサライの相続

人から両作品を直接購入したものとし、浴室に

置かれていたことが劣化の原因と考えている 61。

1584年

・ジョヴァンニ・パオロ・ロマッツォ(ジャンパ

オロ・ロマッツォ)が、この年に刊行された著

書『Trattato dell’ar te della pittura, scoltura et

architettura (絵画・彫刻・建築の美術論)』のな

かで、以下の記述を残す。

 E Leonardo Vinci l’osservò facendo Leda tutta

i g n u d a c o ‘ l c i g n o i n g r e m b o , c h e

vergognosamente abbassa gl’occhi.62

 「レオナルド・ダ・ヴィンチはそれ(=その

原則:引用者注)に則り、白鳥を両足ではさみ

こみ、恥ずかしそうにうつむく裸のレダを制作

した」(著者訳)。

Page 23: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

レオナルド派<レダと白鳥>再考

077

サイズがあったことになる。このサイズであれば、

通常の構想スケッチとは異なり、これが転写用に

描かれる原寸大カルトンであったことを意味して

いる。そのため、ここでは便宜的に、本デッサン

を<レダの原寸大カルトン>と呼んでおく。

1692年

・エルベ・フェリックスによるフォンテーヌブロ

ー宮の所蔵品目録に、「レオナルド・ダ・ヴィン

チによる<レダ>の板絵」との記載有り68。

1694年

・フォンテーヌブロー宮の所蔵品目録に<レダ>

の記載有り(以降、同宮殿の目録に記載なし)69。

1719年

・卑猥だとの理由でレオナルドの<レダ>を焼却

させたとする伝説がある(同時代史料無し)マ

ントノン夫人(ルイ14世の寵姫)が死去(同伝説

は以下に登場するゴルドーニの書簡などにみら

れる)。仮にこの伝説が真実であるとすれば、

1694年以降、1719年までの間に焼却されたこと

になる。

1730年

・イギリス人のエドワード・ライトによる著作

『Some observation made in travelling through

France and Italy, etc. in the Years 1720, 1721,

and 1722』に、以下の記述あり。

The Marquis Casenedi, the son, has a room

entirely furnished with drawings (…)A Leda

standin, naked, with Cupids in one of the

corners at the bottom. All these are by Leonardo

da Vinci, and are as big as the life.70

 「カゼネディ侯爵(子)は、デッサンですっか

り飾られた部屋を持っていた。(中略)レダは、

立ち姿で裸であり、下部の隅にクピド達がいる。

これらはすべてレオナルドによるもので、ほぼ

実物大の大きさがあった」(筆者訳)。

 これはミラノを訪れた時の紀行文であり、デッ

ラ・キエーザはこれを前述のアルコナーティ・コ

レクションの<レダの原寸大カルトン>と同一の

ものとみている 71。確かに、「ほぼ実物大」という

記述は、前述の<レダの原寸大カルトン>のサイ

ズとも合致する。アルコナーティ家のコレクショ

ンにあった<バーリントン・カルトン(ロンドン

ぶる入念に描かれている。だが残念なことに、

絵の状態は大変悪い。というのは、これは三枚

の長い画板に描かれているのだが、板に割れ目

ができ、絵具がかなり剥げ落ちているからであ

る」64(丸山修吉・大河内賢治訳)。

1642年

・ダン神父による『Le Trésor des Merveilles de la

Maison Royale de Fontainebleau(フォンテーヌ

ブロー王宮の驚くべき宝物)』に以下の記述が

ある。

  …sur la cheminée est vn autre Tableau

representant Leda accompagnée de Iupiter, sous

la figure d’vn Cygne.65

 「(第三室の)暖炉の上にまた別の絵があり、

そこには白鳥の姿をしたユピテルをともなった

レダが描かれている」(筆者訳)。

 同書はフォンテーヌブロー宮の解説付き収蔵品

リストのような書だが、同書のレオナルドの作品

リストの中に<レダ>はない。一方、上記の引用

部分で解説されている作品はレダを主題としてお

り、レオナルドの作品が誤って作者不詳のものと

して記載された可能性がある(それにしても、同

宮コレクションのなかでレオナルドの<レダ>は

比較的知られた作品であり、レオナルドの帰属を

著者が知らないとも思えないが)。 

1671年

・同年3月のアルコナーティ家の所蔵目録に以下

の記述。

 「縦3ブラッチョと4オンチャ、横2ブラッチョ

と3オンチャの寸法の、レダの姿と四人の子供

たちとを明暗法によって描いたカルトンがさら

に一枚。レオナルド・ダ・ヴィンチの真作」66(久

保尋二訳)。

 これはカルヴェージによって報告されたもので

あり、彼自身はこれを<スピリドン・レダ>と関

連付けている 67。アルコナーティ家はアンブロジ

アーナ図書館に寄贈した『アトランティコ手稿』

をはじめ、ポンぺオ・レオーニの相続人からレオ

ナルドの作品コレクションを継いだ一家である。

アルコナーティのコレクションにあったのはレオ

ナルドのデッサンであるため、ここに記された<

レダ>は彩色画ではない。

 1ブラッチャは約55~ 60㎝であり、本デッサン

は縦約2メートル、横120センチメートル以上もの

Page 24: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

078

図像の源泉

 レオナルドには、「跪座」と「立位」の二種類のポ

ーズのレダがある。

 そのうち「跪座」には彩色画がないもの、レオ

ナルド本人による習作が残っている。それらを代

表する二点(L-1-1, L-1-2)によれば、レダは左

ひざを前に出し、右足をやや後ろに引いている。

両手はやや広げ、左手だけを、白鳥を包み込むよ

うにまわしている。頭の向きと傾きは一定ではな

い。いずれもレダの足もと、画面左前方に卵と、

生まれたばかりの乳児が四人描かれている。

 ジャンピエトリーノの彩色画(L-3-6)は、レオ

ナルド派のなかでこのタイプに属する唯一の彩色

画だが、右手で赤子を抱えており、また画面に白

鳥がいない点で、レオナルドによる習作デッサン

と大きく異なっている。

 跪座をとるレダの古代作品(C-1-1など)は、白

鳥とレダが向かい合わせになる構図をとる点で、

レオナルドにとって、間接的ではあっても直接的

な着想源となった可能性は低いと考えてよい。一

方、マラーニが指摘するように73、ルーヴルなど

に残る古代の彫像(C-0-1)なども間接的な着想源

として考慮に入れるべきだろう。ただ、当該彫像

がそうである可能性が高いように、当タイプの古

代作品のほとんどはレダではなく、いわゆる「跪

くヴィーナス」を彫ったものである。

 一方の「立位」のレダに関しては、レオナルド

本人によるスケッチもいくつか残っているものの、

いずれも小サイズかつ構想段階のものにとどまっ

ており、レオナルド本人の最終段階の構想を直接

知ることはできない。ただ、レオナルド派による

「立位」のレダの彩色画は多く残っており、レオ

ナルドによる構想がいかなるものだったかを推測

することができる。

 いずれも左ひざをやや前方に出すコントラポス

トの姿勢をとり、画面右側に大型の白鳥が首を上

方に伸ばした姿で寄り添う。レダは上半身を左回

転させ、伸ばした左手で白鳥の首を抱え、首の付

け根に右手をかけている。頭部は白鳥から目を逸

らすように反対側やや下向きに傾け、目を伏せ、

口元にうっすらと微笑を浮かべる。その足もと、

画面左下前方に割れた卵がふたつあり、中から四

人の赤子が生まれている。

のナショナル・ギャラリー所蔵<聖アンナと聖母

子>)>が、やはりカゼネディ(カスネーディ)家

へと1721年に移っているため、<レダの原寸大カ

ルトン>も同様の経路を辿ったとみることは可能

である。この場合、当然ながら、なぜか<レダの

原寸大カルトン>だけがどこかの時点で紛失した

ことになる。

1775年

・カルロ・ゴルドーニによれば、フランス王室の

コレクションを引き継いでいるはずのヴェルサ

イユ宮殿に、すでに<レダ>は無い(同作品の

消息を知りたがったヴェナンツィオ・デ・パガ

ーヴェへの返信書簡)。

 「フランスには、この絵があったという記録

さえ残っていません。私は、何種類かのフラン

ス国王の財産目録と古い蔵品目録とを調べ尽く

しましたし、さらに、誤った信仰から燃やされ

た絵や打ち砕かれた彫刻のリストにも目を通し

てみました。しかしながら、レオナルドの<レ

ダ>は、それらに載っていないばかりか、フラ

ンスの学者も美術愛好家たちも、口を揃えてそ

んな絵はかつて存在したことがない、そもそも

レオナルドはそんな絵を描かなかった、という

のです」72(久保尋二訳)。

 「そのような作品はかつて存在したことがな

い」とは、かつてフォンテーヌブロー宮にレオナ

ルドのものとされる<レダ>が記録されている以

上、事実ではない。であれば、1775年にいたるま

でに、その<レダ>が失われて記憶が薄れていた

か、あるいは<レダ>の作者同定がレオナルド以

外に帰属されていた可能性も考えられる。

 前者であるとすれば、売却の他にはやはり破棄

の可能性がある。ゴルドーニの書簡中にある「信

仰から燃やされた絵」との記述は、実際にそのよ

うにして失われた絵画作品が少なからずあったこ

とが裏付けられる。事実、コレッジョの<レダ>

は、フィリップ・ドルレアン公の息子の手で、卑

猥すぎるとの理由で傷つけられている。一方で、

もしレオナルドの<レダ>が同様の理由によって

破壊されたとするならば、その知名度から考えて、

「信仰から燃やされた絵」のリストの中に当然入

っているべきであり、つまりは、マントノン夫人

が焼却させたとする伝説が真実である確率もまた

高くないものとみなければならない。

三、総合的考察―図像・主題・年代・構  想と伝播経路

Page 25: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

レオナルド派<レダと白鳥>再考

079

聖母>が、独自の教義解釈に加え、「母体回帰=洞

窟での再会」というやや個人的な解釈を含んでい

るように、<レダと白鳥>の主題選択にも、レオ

ナルドの個人的な思考を読むことは可能と思われ

る。よく知られているように、彼は幼少時の記憶

として、ゆりかごの中にいる時、一羽の鳶が入っ

て来て尾を口のなかに突っ込んできたと語ってい

る 77。これをもとにフロイトらがエディプス・コ

ンプレックスの観点から分析を加えたこともつと

に知られている。

 フロイトの論文に対しては批判も多いが、鳥が

レオナルドにとってなんらかのセクシャルなシン

ボルとなっていると読むことは誤りではないだろ

う。「レダと白鳥」という主題は、神と人間の交

わりの物語だが、視覚的には鳥と人間との獣姦を

描いたものだ。つまり、レオナルドがセクシャル

な意識と鳥とを結びつけるにあたって、「レダと白

鳥」以上に格好のエピソードも無いといえる。

 ただ、彼の解剖学の探求において、男女の交合

図における女性性への無関心さがよく示している

ように(男性の構造を詳細に描く一方で、女性は

子宮周辺以外を省略する)、同性愛者である彼は、

女性の性的な側面にそれほどの関心を寄せてはい

ない。だからこそ彼の描く女性像は揃いも揃って

官能性に欠け(ルネサンスの女性像としては珍し

いことである)、母性ばかりに光があてられてい

るのだ。彼にとって人間の女性は性的な対象では

なく、あくまでも母と子の関係において愛情を欲

する相手でしかない。

 レダは卵を産み、卵から子が孵る。この奇妙な

プロットも、地球全体をひとつの生命体として考

えるようなレオナルドにとっては、生命の誕生の

神秘そのものに感じられたことだろう。そして、

幼少時に実母と離れ離れになった自らの体験から

くる、母性への切実な欲求に応えてくれるエピソ

ードでもあったのではなかろうか。というのも、

彼は私生児であったことにより、職業選択の不自

由などの不利益に生涯苦しめられた。彼はモラリ

ストらしく肉欲を軽蔑する言葉も残しているが、

一方で肉欲こそ生命の誕生をもたらすものと肯定

的にも述べている 78。彼は私生児であるコンプレ

ックスをはねのけるように、婚姻によらず肉欲に

よって結ばれた男女の間にできた子は、純粋な愛

によって生まれた子だと言いたいのだ。

 レダとユピテル(白鳥)は、もとより夫婦関係

にない。ふたりの愛は純粋に本能的なものであり、

 レオナルドの立ち姿のレダのポーズは、マール

テン・ファン・ヘームスケルクによるミューズ<

カリオペ>(プラド美術館)や、それを下地にし

たと思われるアゴスティーノ・ペンナによるミュ

ーズ<テレプシコラ>(ローマ、ヴェネツィア宮

殿)の源泉となった74。

 ケネス・クラークが指摘する通り75、1503年以

降のレオナルド作品は古代作品から着想を得てい

ることが多いが、立ち姿のレダには完全に合致す

る図像源泉はいまだ見つかっていない。そのなか

では、アンティノーリの作品(A-1-2)の白鳥とレ

ダとの関係性は(左右逆ではあるが)レオナルド

派にやや近い。ジュネーヴにあるキュリクス(A-

1-4)の姿勢と白鳥の位置などもレオナルド派に

近いが、レオナルドがこれを目にできたほどの類

似作例が当時あったことは考えにくく、よってむ

しろ、古代のレダ作品ではなく、「恥じらいのヴィ

ーナス(ウェヌス・プディカ)」の姿勢をレオナル

ドが加工して編み出したものと考えるのが、より

妥当であるように思われる。

 なお、フィリッピーノ・リッピによる<エラト

ー>(L-4-4)を着想源のひとつに加えることは妥

当であるように思われる。ルネサンス当時のフィ

レンツェで、交流のある人気画家が手掛けたもの

として、レオナルドが目にした、あるいはその評

を耳にした可能性も否定できない。レダを扱った

ものでこそないが、大型の白鳥がとなりにいて、

女性主人公が体を左回転させて白鳥を抱えようと

する仕草は、レオナルド派の立位のレダとよく似

ている。

主題の選択

 ミケランジェロによる<レダと白鳥>が、第二

フィレンツェ共和政における古代の共和政のシン

ボリックなアイコンのひとつとして選択された可

能性はあるが 76、レオナルドによる同主題の選択

は、いかなる動機に基づいてなされたものだろう

か。

 レオナルドがレダの構想に着手した頃、滞在地

フィレンツェはメディチ家追放後の共和政時代に

あたる。注文主が不明である以上、正確な制作動

機は不明だが、ミケランジェロ同様、共和政体に

ふさわしく、かつての共和政の成功例である古代

ギリシャや共和政ローマの神話に主題を求めた可

能性はある。

 ただ、「無原罪の御宿り」を主題とする<岩窟の

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080

ルギーを1501年頃から失い始めている。

・跪座タイプのレダのスケッチは、<アンギアー

リの戦い>のための習作と同じ紙葉(L-1-3)に

登場する。それらには枠が付けてあるため、最

初から彩色画として構想されたと思われる。

・レオナルドは<アンギアーリの戦い>を1503年

に受注し、1505年6月には同壁画制作中に嵐に

襲われて大損害をうけている。同壁画のための

人体習作は主として1504年から05年のはじめに

かけてと思われるため、跪座のレダのスケッチ

もその頃のものと思われる。つまりレオナルド

は1504年頃に跪座の<レダと白鳥>の彩色画の

構想に着手したとみてよい。

・ラファエッロは、フィレンツェに出てきた1504

年から06年にかけてのどこかの時点で、レオナ

ルドの立位のレダを見ている(L-4-1)。

・以降のレオナルド派による<レダと白鳥>はす

べて立位であり(L-3-1~ L-3-5など)、よっ

て比較的早い時期に立位が主流となったことが

わかる。

・レオナルド派による立位の<レダと白鳥>は、

背景の風景部分以外のかなりを共有しており、

それらの共有モデルとなった人物部分の下絵が

あったはずであり、もしそのようなものがあっ

たとすればやはりレオナルド本人によるものが

まず第一に考えられる。

・ジャンピエトリーノによる跪座のレダ(L-3-6)

は1508年から13年までの間に制作されたと思わ

れ、つまりは立位が主流となった後にも、跪座

のレダを扱った弟子がいたことを示す。ただし、

ジャンピエトリーノは1508年にウーゴ・デ・フ

ァイエーテという弟子を雇ったことがわかって

おり、すでに親方として独立していた可能性が

ある。すなわち、レオナルド工房の外にいて、

かつて工房にいた頃に入手したレオナルドによ

る跪座のレダのスケッチかなにかを基に自分の

作品を描いたとも考えられる。

・1517年10月10日にデ・ベアティスがクルー城で

絵を観ている。それらは<洗礼者ヨハネ><聖

アンナと聖母子>と、おそらくは<ラ・ジョコ

ンダ>を含む二枚の女性の肖像画である。

・[要検討:サライがフランソワ一世に絵画を高

額で売却したとの記録。]

・1525年のサライの遺産目録のなかに<レダ>が

あり、評価額は200スクーディで<聖アンナ>

や<ジョコンダ>の倍であり、その他の作品は

そこから生まれた子たちに自らの姿を投影してい

たとしても不思議ではない。つまりレオナルドに

とって「レダと白鳥」の主題は、共和政のシンボ

ルとして以上に、母性愛のイメージを可視化した

ものであり、さらには私生児としての自分の立場

を肯定してくれる主題だったかもしれないのだ。

 第一章で見たとおり、レダとその子ヘレネの物

語は、古代彫刻やメダルのみならず、文学として

もルネサンス期の知識人たちには知られていたと

考えてよい。そして、エウリピデスの著作を通じ

て広まっていたヘレネのイメージは、ファム=フ

ァタル的な異端的存在であり、そして一方では運

命に翻弄される悲劇の女性というものだった。レ

ダとヘレネの物語が、ただ単に獣姦の性的なイメ

ージや、トロイ戦争をひきおこした悪女のイメー

ジでのみ認識されていたわけではない。レオナル

ドの描くレダが、完全な裸体でありながら、そし

て性愛の相手である白鳥と接触しながらも、その

恥じらいをおびた伏し目がちな顔つきや上品な微

笑みにより、エロティックな要素をさほど感じさ

せない理由は、そうした動機に基づいているから

と考えることもできるだろう。

 なお、『ヘレネ』や『ホメロス賛歌』という、ルネ

サンス期に知られていたレダに関する文献に、子

が四人と二人の違いがあることはすでに述べた。

卵がひとつのものとふたつのものという二種類の

タイプが、レオナルド派の作品群にも見出せるこ

とは興味深い。基本的にレオナルド派は卵が二つ、

子が四人のパターンをとっているので、エウリピ

デスの著作を中心としたレダ伝説の主流に基づい

ているとみてよい。一方、ボルゲーゼの<レダ>

(L-3-3)は卵が一、子がふたりのタイプだが、こ

れは科学的調査によって後世による加筆であるこ

とがわかっているので、つまりは加筆させた時点

での所有者か加筆者は、『ホメロス賛歌』で詠われ

るところのレダの伝説に基づいていたと判断して

良いだろう。

制作年代・構想・伝播経路・その後の行方

 制作年代や帰属問題に関して、文書記録と作品

群から、まず以下のことがらが明らかだと言える。

―文書記録と作品群によって明らかと言えることがら― ・ダ・ノヴェッラーラ神父による手紙から、レオ

ナルドは自分で一枚の彩色画を完成させるエネ

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

081

録を現在のルーヴル所蔵作品(および失われた<レダ>)と仮定した場合― ・1519年以前、レオナルドがフランスに持参した

彩色画のたぐいは、彼の居宅であるクルー城に

ある。

・1519年、レオナルド死去。

・その後、<レダと白鳥>と現在ルーヴル美術館

にある彩色画がサライの所有となる。

・1524年、サライ死去、翌1525年、彼の遺産目録

作成。

・1531年から1540年までの間に、フランス王がそ

れらの作品群を購入。

 この流れが成立するためには、当然ながら<レ

ダと白鳥>および<ラ・ジョコンダ>など現在ル

ーヴル美術館にある彩色画が、レオナルドからサ

ライに対して譲渡されなければならない。しかし、

遺言状において彼の彩色画を贈られているのはサ

ライではなくメルツィである。

 それなら、遺言状が作成される1519年以前にサ

ライへ上記彩色画群が譲渡されていなければなら

ないが、しかし1517年の10月にはデ・ベアティス

がクルー城で<聖アンナと聖母子>や<洗礼者ヨ

ハネ>を観ている。そのため1517年10月から1519

年4月23日までの期間のどこかで、それらがサラ

イに譲渡されていなければならない。

 しかしそれらの彩色画は、レオナルドがフラン

スで自ら所有していた「芸術家としての財産」の

ほとんどすべてである。それを、たとえ伝説通り

サライが彼の恋人だったとしても、おいそれと無

償で譲るようなことをしただろうか。

 このプロセスを検討する際、ジェスタッツによ

って報告された1518年の文書を考慮に入れなけれ

ばならない。サライとレオナルド、フランソワ一

世の三者の関係をみるうえで、非常に重要な記録

である。史料リストにも示した通り、そこには以

下のことが記されていたという。

・サライがフランス王フランソワ一世に絵を何点

か売却したことの、ミラノ公への会計報告。総額

2604リーヴル4ソルディ 4デナーリ。

 ジェスタッツはこのことから、サライが現在ル

ーヴル美術館にあるレオナルド最期の三点(<

ラ・ジョコンダ><聖アンナと聖母子><洗礼者

ヨハネ>)とともに、<レダ>をフランソワ一世

へ売却したものとみている。

 この報告は1999年に発表されたものだが、レオ

さらに低い評価である。

・1531年のサライの遺品リストには、<ジョコン

ダ>を含む7点の絵画があるが、<レダ>は無い。

・1540年時点で、フランス王フランソワ一世の居

城フォンテーヌブロー宮に、<レダと白鳥>と

<ラ・ジョコンダ>がある。

・1540年頃に書かれたガッディ家文書に、レオナ

ルドが<レダと白鳥>を描いたと記され、なぜ

か同作品の記述だけが消去されている。

・1625年にダル・ポッツォが同宮殿で<レダと白

鳥>をみており、その作品はレオナルド派で主

流となる立位のレダが持つ特徴を備えている。

・1671年、レオナルドの『アトランティコ手稿』

などの所有者としても知られるアルコナーティ

家の財産目録に、<レダと白鳥>の原寸大カル

トンがある。

・1694年、フォンテーヌブロー宮に<レダ>があ

る最後の記録。以降記載なし。

・1721年、アルコナーティ家にあったレオナルド

の<バーリントン・カルトン>がカゼネディ家

に移る。<レダ>の原寸大カルトンも同時に移

った可能性がある。

・1730年、カゼネディ家が<レダ>の原寸大カル

トンを所有していた最後の記録。以降行方不明。

・1775年、フォンテーヌブロー宮に<レダ>が無

いとの記述。

 久保尋二は<レダと白鳥>の制作を、第一ミラ

ノ時代と推測しているが79、以上のことから、<

レダ>構想は第一ミラノ時代の後、第二フィレン

ツェ時代のことである。なおペドレッティは最初、

ウィンザー城第12642番紙葉裏の<レダ>(L-1-4)

と同じ紙葉にある解剖学素描と、同第19030紙葉

における解剖学素描との関連性をもとに、後者の

制作年代を<レダ>にあわせて1504年頃としてい

たが、のちにむしろ後者にあわせて前者の制作年

代を、1508年以降(ミラノに戻って以降)とあら

ためている 80。

 さて<レダと白鳥>の行方を考えるうえで、サ

ライの遺産目録のリストは重要となる。そのなか

に登場する作品群を、素直に現在ルーヴル美術館

にあるレオナルドの真作と解釈すると、レオナル

ド死後の作品の流れは以下のようになるはずであ

る。

―レオナルド死後の作品の流れ:サライの遺産目

Page 28: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

082

るようなレヴェルの画家なのだろうか。彼はたし

かに長い年月をレオナルドのもとですごしている。

1490年7月に少年ジャコモをひきとったとレオナ

ルドが書いているが 82、それから30年近く経った

レオナルドの遺言状でも、レオナルドはサライの

ことを「servitore (召使い)」と呼んでいる83。これ

はもうひとりの(純粋な)ただの召使いであるデ・

ヴィラニスに対する呼称となんら違いがない。こ

のことは、同じ遺言状のなかで、貴族の家系の出

とはいえ弟子メルツィが「Messer Francesco de

Melzo, Gentilomo di Milano (ミラノの貴族、フラ

ンチェスコ・メルツィ殿)」と記されているのと

良い対照をなしている。もしサライが彼の画業を

引き継げるような弟子だったとしたら、これほど

の扱いの差を師匠が両者の間に設けるだろうか。

 三、同様に、メルツィに動産や不動産に加え、

それら以上の評価額となっただろう手稿や絵画の

すべてが遺贈されているのに対し、サライにはミ

ラノの庭園が贈られたにすぎない。それも、二分

した大きな区画のほうではあるが、もうひとりの

召使いデ・ヴィラニスと分け合っている。合理的

に考えて、メルツィがレオナルドの知的遺産の相

続に足る人物とみられているのに対し、サライは

もうひとりの召使いとまったく同じ扱いであり、

つまりは芸術活動上の弟子ではなくやはりただの

「召使い」と考える方が妥当なのではなかろうか。

帰属の定かでないレオナルド派作品をサライに帰

属させる傾向がここ近年強まっているが、筆者は

率直な疑問を抱かざるをえない。

 四、史料編で述べたとおり、もしサライの遺産

目録にある絵画がサライによる模写作品だとして、

評価額合計が1000スクーディもあるのは高すぎは

しないだろうか。かといって、レオナルドの真作

であるとすれば明らかに低すぎる。この矛盾の説

明を可能にするものとして、たとえばそれらはレ

オナルド派の他の弟子によるものとは考えられな

いだろうか。

 サライのような召使いに近い者が短期間で描い

たものではなく、それらを工房に他の弟子たちが

残したものと仮定する。マルコ・ドッジョーノ、

ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオ、

ジャンピエトリーノといった名前が考えられる。

そうすれば、彼らの作品がレオナルドとサライの

かけ離れた評価額の中間に位置しておかしくはな

いし、わずか半年か一年ほどですべて用意される

必要もないので、レオナルドがフランスに旅立つ

ナルド研究者で同文書を検討したものは多くない。

そのなかで、重要な研究者のひとりスカイエレー

ズは同文書を信頼し、以下のような仮説を立てた81。そこでのレオナルド死後の作品の流れを示す。

―レオナルド死後の作品の流れ:ジェスタッツ報告に基づいたスカイエレーズ説― ・フランスに渡ったレオナルドの手もとには、<

洗礼者ヨハネ><聖アンナと聖母子><ラ・ジ

ョコンダ>などがあった。

・1517年10月(デ・ベアティス証言)から1518年(ジ

ェスタッツ報告)までの間に、レオナルドはサ

ライに上記の彩色画群を贈与した。

・贈与されてから1518年までの間に、サライは上

記作品群の模写を制作した。

・1518年、サライはレオナルド真作の上記作品群

をフランス王フランソワ一世に売却。約2604リ

ーヴル(トゥール貨)。これらはそのままフォ

ンテーヌブロー宮のコレクションとなった。

・1524年にサライは死去。翌25年の遺産目録に<

レダと白鳥>を筆頭に、上記作品群の模写作品

がある。評価合計額約1000スクーディ。

 この仮説であれば、デ・ベアティス証言、ジェ

スタッツ報告、サライ遺産目録、そしてフォンテ

ーヌブロー宮目録のすべての文書に<聖アンナと

聖母子>などの現ルーヴル所蔵絵画が登場するこ

との説明はつく。しかしこの仮説を認めることは、

同時に以下のようなあらたな疑問が生じることを

意味する。

 一、1517年10月にクルー城にあった作品を、そ

の後レオナルドがサライに贈ったとして、それか

ら1518年にフランソワ一世に売却されるまでの間

に、サライがいずれ彼の遺産目録に記されること

になる12点の絵画を、はたしてひとりですべて模

写できるものだろうか。それらの模写をするため

には、板を入手して乾燥させ、同じ大きさに切断

して表面をならし、彩色用に下地を塗付しなけれ

ばならない。自らがレオナルドに召使いとして雇

われているサライが、それらの作業を手伝わせる

ような弟子や助手を雇えるとは思えない。という

ことは、サライはそれらの作業をすべてひとりで

おこない、緻密な描写を特徴とするレオナルドの

絵画を、12点も模写するのだ。それも、わずか半

年間から長くても一年ほどの間に。

 二、そもそも、サライはそのような制作ができ

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

083

 以上のことから、<レダと白鳥>と現ルーヴル

所蔵作品群の流れを、筆者は現時点で以下のよう

に推論づけることができるだろう。

―<レダと白鳥>とレオナルド死後の作品の流れ: 本論考による推論―①跪座タイプの<レダと白鳥>の流れ:

・1504年頃、レオナルドは彩色画を前提とした跪

座タイプの<レダの白鳥>を構想した。

・同タイプには、簡単なものかもしれないが、レ

オナルドによるスケッチがあったと思われる。

・後に、1508~13年の間に、すでに独立していた

だろうジャンピエトリーノが、上記スケッチに

基づいて彩色画(L-3-6)を制作した。

・レオナルドによる上記スケッチは白鳥が描かれ

ていないタイプのものだったか、あるいはジャ

ンピエトリーノが独自の解釈を加えている。

②立位タイプの<レダと白鳥>の流れ:

・跪座タイプにやや遅れて、レオナルドは立位タ

イプの<レダと白鳥>を構想した。

・レオナルドは、1505年頃には原寸大のカルトン

を制作した。そこには背景以外の要素(レダと

白鳥、二個の卵、四人の子)が描かれていた。

・おそらく1505年頃、ラファエッロは上記カルト

ンを観て、スケッチ(L-4-1)を残した。

・1507年頃から、上記原寸大カルトンに基づいて、

工房の弟子たちによって幾つかの彩色画(L-3-

1~ L-3-5、L-3-7のすべてか一部)が制作さ

れた。

・レオナルドによる原寸大カルトンは、その後『ア

トランティコ手稿』などと運命をともにしてい

るので、おそらくレオナルドの死に際し、メル

ツィが相続したと思われる。

・原寸大カルトンは、『アトランティコ手稿』同様、

ポンペオ・レオーニの手を経て1671年までにア

ルコナーティ家のコレクションに入った。

・同カルトンは、1721年にアルコナーティ家から

カゼネディ家に移った。

・同カルトンは、1730年の同家の所蔵記録を最後

に以後行方不明。どこかの時点で失われたと思

われる。

③レオナルド本人による<レダと白鳥>の彩色画

について:

・存在した可能性は否定できない。もしそれがあ

ったとすれば、1540年のフォンテーヌブロー宮

で記録された作品が該当するはずで、1694年を

際にミラノに残していったとも考えられる。事実、

レオナルドはフランス行きに際し、蔵書を選別し

て携行した。それらと同じように、上記の彩色画

についても、それらは工房の弟子たちが描いたも

のなので彼はフランスへ持参せず、イタリアに残

していった。ミラノの葡萄園に残されたそれらは、

庭園を引き継いだサライが自動的に引き継ぐ形に

なる。だからこそそれらはサライの遺産目録に入

ったのではなかろうか。

 五、もしジェスタッツ報告が正しいとしたら、

彼はレオナルドから譲渡された彩色画群を、一年

経つか経たぬ間にすべて売却したことになる。彼

はレオナルドから遺言状で庭園の半分を遺贈され

る間柄にあるにもかかわらず、譲渡された絵画を

師匠に断りもなく勝手にすべて売却することなど

できただろうか。しかも、相手はフランス王フラ

ンソワ一世である。レオナルドが日々顔を合わせ

る相手であり、そのような相手に師匠の全作品を

独断で売却することは可能だろうか。

 六、同様に、ジェスタッツ報告によれば、売却

額は約2604リーヴル(トゥール貨)にものぼる。

これを帝国貨に換算すれば約6250リーヴル。つま

りレオナルドがフランス王から受けていた年金額

の三年分に相当する。レオナルドはイタリア各地

の宮廷に技師として仕えたが、ついぞそれほどの

額の年収を得たことがなかった。その水準を、レ

オナルドはようやく晩年になってフランス宮廷で

叶えたことになる。もしジェスタッツ報告が正し

いとすれば、レオナルドはようやくフランスで得

た年収の三倍にも値するほどの自らの絵画を、サ

ライという召使いただ一人に贈与し、しかもそれ

らを自分の目の前で、自分が仕えるフランス王に

売られたことを意味する。つまり自分が贈ったギ

フトをすぐに売り払って、自分自身よりもはるか

に巨額の資産を手にした男に、遺言状で小さな庭

園の半分を贈与する。これを不思議と言わずして

何と言えるだろうか。

 結論として、ジェスタッツの報告書をそのまま

信じることはとてもできない。ツォルナーは慎重

にも、ジェスタッツの報告を自らの考察に取り入

れた上で、ひとこと「しかし1999年に出版された

ベルトランド・ジェスタッツの資料は再考を要す

る」との但し書きを加えている 84。ここで筆者は

より明確に、同資料の信頼性に対して疑問を呈し

ておきたい。

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084

と白鳥>は、評価額と制作に必要な時間から、

レオナルド本人でもサライではなく、他の弟子

がかつて描き、渡仏に際してレオナルドがイタ

リアに残していった作品のひとつと思われる。

・1518年にサライがフランソワ一世に絵を売って

巨万の富を得たとの記録は、その額と師との関

係、師と王との関係、師の遺言状で贈られるも

のとの額の差などに辻褄があわない点が多く、

信頼性が確実なものとわかるまで考慮から外す。

・サライの遺族は、1531年以前に遺品のなかから

<レダと白鳥>だけを売却している。その理由

はおそらく、最も評価額が高かったためと考え

られる。

・サライのその他の遺品は、その後順次売却され

たか紛失した。それらが、現存する<ラ・ジョ

コンダ>などの模写作品に含まれている可能性

はある。

 本論考では、レオナルドとレオナルド派の研究

の一環として、<レダと白鳥>をとりあげ、主題

を特定し、図像の源泉となりえたものを列挙し、

現存作品群と年代記録をもとに、レオナルド派の

同主題作品群の制作年代と伝播経路を推測した。

その過程で、<レダと白鳥>を含む「サライの遺

産目録」記載情報についても検討した。

 <レダと白鳥>にしても、サライの扱いについ

ても、研究者間でいまだに一致をみていない。本

論考はそのなかにあって、これまでの先行研究を

ふまえ、伝播経路をより明確にし、これまでに提

出されてきた諸説が抱える問題点を検討すること

で、現時点で最も妥当と思われる伝播経路とレオ

ナルド死後の作品の行方について、仮説を立てる

ことができた。

 本論の最後に提起した仮説のうち、図式化する

ことで理解の一助となりそうな部分を以下に図示

する(図P-0-0)。

 今後の課題も残された。ひとつは今回は否定す

る結果となったジェスタッツ報告について、その

信頼性をより高い精度で再検討する必要があるだ

ろう。第二に、ここに掲載した以外にも<レダと

白鳥>の派生作品はあるはずで、今後はリストを

さらに拡充しなければならない。

 また、今回は考察の対象とはしなかったが、レ

最後に、1775年以前のどこかの時点で失われた。

・しかし筆者は、断定はできないものの、レオナ

ルド本人による彩色画は最初から存在しなかっ

た可能性をより高く感じている。というのも、

1501年以降彼は彩色画をひとりで仕上げること

に対するエネルギーを失っており、ダ・ノヴェ

ッラーラ神父が記録するように、彩色は弟子に

まかせて、時おり手を加える制作方法を主とし

てとっていたと考えられることによる。この制

作方法の典型と思われるのが、ほぼ同時期に構

想が開始された<糸巻きの聖母>の作品群であ

る。この制作方法の特徴として、レオナルドは

主要な人物像のみ下絵を描き、それをもとに弟

子たちが制作した可能性が高い。筆者によるこ

の推論 85を証明するように、現存する数多くの

<糸巻きの聖母>の彩色画は、人物像と主要な

モチーフを共有するものの、背景の風景部分の

描写が著しく異なっている。

・同様の現象を<レダと白鳥>の現存彩色画群に

も見ることができる。もしレオナルド本人によ

る<レダと白鳥>の完成彩色画があったとすれ

ば、弟子たちは当然その作品に忠実に倣うはず

であり、当然ながら風景部分もすべて同じ描写

になるはずである。そうではない事実からして

も、レオナルド本人による完成彩色画は最初か

ら存在せず、弟子たちが参照したのは、あくま

で人物と主要モチーフのみが描かれた前述の原

寸大カルトンだったとする方が理にかなってい

る。

・この場合、フォンテーヌブロー宮に入ったのは、

レオナルドが所有していた上記のような「工房

作(弟子たちとの共作)」だったと思われる。そ

れらは現存作品のいずれかかもしれないし、失

われてしまったかもしれない。いずれにせよ、

フォンテーヌブロー宮には1540年、1625年、

1642年、1692年、1694年に立位の<レダと白鳥

>があったことが記録されており、以降、1775

年以前に失われている。

④サライの遺産目録にある<レダと白鳥>につい

て:

・サライはただの召使いであり、芸術上の弟子で

ある可能性は低く、もし師から絵を学んだとし

ても、弟子扱いはされていない。つまり画家だ

ったとしてもそう認識される程度の画家にすぎ

ない。

・1525年にサライの遺産目録に記録された<レダ

おわりに―<レダと白鳥>の特質

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レオナルド派<レダと白鳥>再考

085

 そして当然ながら、横臥タイプをとるミケラン

ジェロ派の<レダと白鳥>についても、本論考で

おこなったような考察がはかられねばならず、そ

うしてはじめて、レオナルド派とミケランジェロ

ダの頭髪の編み目紋様は、レオナルドが徐々に抱

いていったアナロギア思索の一例であり、今後は

彼の哲学のなかに占める<レダと白鳥>の役割も

検討すべきだろう。

図P-0-0 

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086

28 Ibid., p.530.

29 Anna Lange Malmanger, “The legacy of Leonardo da Vinci’s

LEDA in cinquecento ar t”, in: Ashes to Ashes: ar t in Rome

between humanism and maniera, ed. by R. Eriksen, V. P. Tschudi,

Edizioni dell’Ateneo, 2006, pp.103-124.

30 『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集(英国王室ウィンザー城所

蔵)』、ケネス・クラーク、カルロ・ペドレッティ解説(Phaidon

Press、1969年版)、細井雄介ほか訳、朝倉書店、1997年、

Vol.1, pp.156-157.

31 Leonardo Da Vinci, Il Codice Atlantico, ed. Giunti, 2000, Tomo II,

(Vol. V), f.423r, p.785.

32 『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集』、前掲、p.156.

33 Romano Nanni, Maria Chiara Monaco, Leda: Storia di un mito

dale origini a Leonardo, Zeta Scorpii editore, 2007, p.219.

34 Pietro C. Marani, Leonardo e I leonardeschi nei musei della

Lombardia, Electa, 1990, p.64.

35 AA. VV., Disegni e dipinti leonardeschi dale collezioni milanesi,

Electa, 1987, p.102.

36 Maurice H. Goldblatt, Leonardo Da Vinci: A newly-identified head

of Leda, The Citadel Press, 1961, 特に、pp.23-31.

37 Leonardo e il mito di Leda: Modelli, memorie e metamorfosi di

un’invenzione, a cura di G. D. Regoli, R. Nanni, A. Natali,

SilvanaEditoriale, 2001, p.140.

38 フランク・ツォルナー、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 全絵画

作品・素描集』、タッシェン・ジャパン、2007年、p.247.

39 ケネス・クラーク、『レオナルド・ダ・ヴィンチ』第二版、丸山

修吉・大河内賢治訳、法政大学出版局、1974年、p.177.

40 Leonardo e il mito di Leda, op. cit., p.144.

41 『ボルゲーゼ美術館展』カタログにおける、マヌエーラ・ジャ

ンナンドレアによる解説。そこでは、制作年代を「16世紀第一

四半期」、サイズを「115 × 86 cm」としている。

42 『ボルゲーゼ美術館展』カタログ、NHKプロモーションほか、

2009年、p.96.

43 『レオナルド・ダ・ヴィンチ 美の理想』展カタログ、毎日新

聞社ほか、2012年、p.127.

43 チャールズ・ニコル、『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』、越

川倫明ほか訳、白水社、2009年、pp.576-577.

44 フランク・ツォルナー、前掲書、p.246.

45 Carlo Pedretti, “Leda col ‘dildo’”, in: Leonardo: AA. VV.,

L’”Angelo incarnate” et Salai, a cura di C. Pedretti, Cartei &

Bianchi Publishers, 2009, p.336.

46 P. Costamagna, “L’influence de Léonard de Vinci sur les artistes

toscans et ses apports à la Maniera”, in: Léonard de Vinci entre

France et Italie, Presses Universitaires de Caen, 1999, pp.99-111.

47 I leonardeschi: L’ereditá di Leonardo in Lombardia, Skira, 1998,

p.280.

48 Carlo Pedretti, “Leda col ‘dildo’”, cit., p.335.

49 Leonardo e il mito di Leda, op. cit., p.146.

50 Disegni e dipinti leonardeschi dale collezioni milanesi, cit., pp.112-

113.

51 Wilheim Suida, Leonardo e I leonardeschi, 1929, ed. it. da Marta

Ricci, Neri Pozza editore, 2001, p.414.

52 Archivio di Stato di Mantova, Archivio Gonzaga, serie E, XXVIII,

3, busta 1103.

53 ニューヨーク、個人蔵。旧Archivio di San Fedele a Milano.

54 Archivio di Stato Firenze, Carteggio Signoria, filza 63.

55 Bertrand Jestaz, “Francois Ie, Salaì et les tableaux de Léonard”,

in: Revue de l’art, n.126, 1999, pp.68-72.

56 『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』、杉浦明平訳、岩波書店、

1958年、下巻p.335.

57 Lista scritta dal notaio Pietro Paolo Crevenna (サライの遺産目

録、公証人ピエトロ・パオロ・クレヴェンナによる), 1525,

Fondo notarile, Archivio di Stato di Milano, filza 8136, citata da

Janice Shell e Grazioso Sironi, “Salaì and Leonardo’s Legacy”, in:

The Burlington Magazine, CXXXIII, feb 1991, pp. 95-108.

派それぞれの<レダと白鳥>の機能と特徴とが、

比較考察によって明らかになるはずである。ルネ

サンス美術の隆盛のなかで、なぜその二派だけが

同主題を大々的にとりあげたのか。そして両者の

様式と構図の違いは、両者のいかなる動機と思想

の違いを反映しているのか―。今後、こうした点

をより深めていく必要があるだろう。

注1 ホメロス、『オデュッセイア』、第11歌第298行、松平千秋訳、岩

波書店、1994年、p.291.

2 エウリーピデース、『ヘレネー』、プロロゴス第16-22行、細井敦

子訳、『ギリシア悲劇全集8』、岩波書店、1990年、p.5.

3 上演年度に関しては以下の文献を参照されたい。

新関良三、『ギリシャ・ローマ演劇史3 エウリピデス』、東京堂、

1956年、pp.273-274.

4 アポロドーロス、『ギリシア神話』、高津春繁訳、岩波書店、

1953, 1990年、pp.148-149.

5 カール・ケレーニイ、『ギリシアの神話 神々の時代』、植田兼

義訳、中央公論社、1985年、p.126, 注82.

6 同前、注84.

7 Lucia Impelluso, Eroi e Dei dell’antichità, Electa, 2002, p.153.

8 Clive Scott, “A Theme and a Form: Leda and the Swan and the

Sonnet,” in: Modern Language Review, Vol.74, 1979, chap. I-II.

9 ケレーニイ、前掲書、p.127.

10 Codex “Laurentianus 32.2”、およびCodex “Conventi soppressi

172”の二冊で、うち前者が先行テキストと考えられている。

なお後者のうち一部は、ヴァチカン図書館にCodex “Palantinus

graecus 287”として所蔵されている。

11 刊行にいたるまでの史料は細井による。

細井敦子、「『ヘレネー』解説」、エウリーピデース、前掲書に所

収、pp.375-376.

12 ロッヘアからマルテッロまでの史料は新関に基づく。

新関、前掲書、pp.290-292.

13 ケレーニイ、前掲書、p.127.

14 ホメロス、『オデュッセイア』、松平千秋訳、岩波書店、1994年、

上巻 p.291.

15 AA. VV., LIMC (Lexicon Iconographicum Mythologiae Classicae),

Artemis Verlag, 1992、「Leda」の項。

16 卵から産まれるヘレネが描かれた、キノウリア(ギリシャ)出

土の赤像式コトン、紀元前5世紀第四四半期、アテネ、国立考

古学博物館

17 卵とレダが描かれたヒュドリア、紀元前420-390年頃、パリ、

ルーヴル美術館

18 LIMC, cit., VI: 1-p.237, 2-p.117.

19 LIMC, cit., VI: 1-p.239.

20 リチャード・バクストン、『ギリシア神話の世界』、池田裕ほか

訳、東洋書林、2007年、p.98.

21 ロンドン、大英博物館、Inv.No.2199.

22 LIMC, cit., VI: 1-pp.240-241, 2-pp.122.

23 LIMC , cit., VI: 1-p.232, 2-p.108.

24 <レダと白鳥>のレリーフが施された銀鏡、制作年代不明、パ

リ、ルーヴル美術館

25 Pietro C. Marani, Leonardo: una carrier di pittore, Federico

Motta Editore, 1999, p.264. ヘームスケルクによるスケッチはベ

ルリン国立美術館にある。

26 『世界美術大事典』、小学館、1990年、Vol.6, pp.251-252.

27 Leonardo Da Vinci: Master Draftsman: Catalogue to an

Exhibition at the Metropolitan Museum of Ar t, ed. by C. C.

Bambach, Yale University Press, 2003, p.531.

Page 33: レオナルド派<レダと白鳥>再考...レオナルド派<レダと白鳥>再考 057 筆者はこれまで、レオナルド・ダ・ヴィンチの 作品をとりあげては、いまだ分析を試みられたこ

レオナルド派<レダと白鳥>再考

087

58 L’Anonimo Gaddiano (Codice Magliabechiano) , a cura di

Annamaria Ficarra, Fiorentino Editore, 1968, p.121.

59 Il Codice Magliabechiano, scritte da Anonimo Fiorentino, (detto il

“Anonimo Gaddiano”), von Carl Frey, G. Grotesche Verlag, 1892,

p.369.

60 Documenti e Memorie riguardanti la Vita e le Opere di Leonardo

Da Vinci, a cura di Luca Beltrami, Fratelli Treves Editori, 1919,

p.162.

61 マーティン・ケンプ、『レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術と科

学を越境する旅人』、藤原えりみ訳、大月書店、2006年、pp.82,

204.

62 Giovan Paolo Lomazzo, Trattato dell'arte della pittura, scoltura et

architettura, citato e curato da E. Solmi, in: Archivio Storico

Lombardo, Milano 1907, p.164.

63 Giovan Paolo Lomazzo, Idea del Tempio della pittura, a cura di

Robert Klein, Istituto Nazionale di Studi sul Rinascimento (di

Firenze), 1974, Vol. I, Capitolo II, p.25.

64 K・クラーク、前掲書、p.174.

65 Pierre Dan, padre, Le Trésor des Merveilles de la Maison Royale

de Fontainebleau, Sébastien Cramoisy, Paris, 1642, pp.95-96.

66 久保尋二、『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』、平凡社、1999年、

p.173.

67 Leonardo. La pittura, a cura di D. Arasse, M. Calvesi, ecc.,

Giunti, 1977, 1985, p.195.

68 Eugène Müntz, “The ‘Leda’ of Leonardo da V inci”, in:

Athenaeum, IX, 1898, pp.393-394.

69 K・クラーク、前掲書、p.174.

70 Edward Wright, Some observation made in travelling through

France and Italy, etc. in the Years 1720, 1721, and 1722, Vol.1 by

Ward and Wicksteed, Vol.2 by Millar, London, 1730, Vol.2, p.471.

71 Angela Ottino Della Chiesa, L’Opera complete di Leonardo pittore,

Rizzoli, 1967, p.113.

72 久保尋二、『宮廷人レオナルド・ダ・ヴィンチ』、平凡社、1999年、

pp.171-172.

73 Pietro C. Marani, Leonardo: una carrier di pittore, cit., pp.264-

268.

74 Ibid., p.262.

75 Kenneth Clark, “Leonardo and the Antique”, in: AA. VV.,

Leonardo’s Legacy: An international symposium, Berkeley, Los

Angeles, 1969, p.12. (cit. by Marani, Ibid., p.299.)

76 Michelangelo: La “Leda” e la seconda Repubblica fiorentina,

Silvana Editoriale, 2007, pp.116-146.

77 Leonardo da Vinci, Codice Atlantico, f.66v.

78 Leonardo da Vinci, Codice B, f.32rなど。

79 久保尋二、前掲書、p.169.

80 『レオナルド・ダ・ヴィンチ素描集』、前掲、p.17.

81 セシル・スカイエレーズ、『モナリザの真実』、花岡敬造訳、日

本テレビ、2005年、特にpp.32-36.

82 Leonardo Da Vinci, Codice C, Parigi, Bibliothèque Nationale, f.

15v.

83 Testamento di Leonardo da Vinci, 1519, copia eseguita da

Ve n a n z i o d e P a g a v e ( o r i g i n a l e n o n t r a c c i a b i l e ) ,

(レオナルドの遺言状、ヴェナンツォ・デ・パガーヴェによる

写し、オリジナル紙葉現存せず), Milano, Biblioteca Melzi,

citata da Luca Beltrami, Documenti e memorie riguardanti la vita

e le opere di Leonardo da Vinci, Milano, 1919; Pietro Marani,

Leonardo, Federico Motta Editore, Milano 2003, pp. 365-366.

84 フランク・ツォルナー、前掲書、p.240.

85 池上英洋、「<糸巻きの聖母>の系統作品群について―レオナ

ルド・ダ・ヴィンチとレオナルド派」、『東京造形大学研究報』、

Vol.17、2016年、pp.71-108.