film as a narrative a study of...

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223 東京外国語大学論集第 96 (2018) TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018) 語りとしての映画~『チャルロタ』考~ Film As a Narrative A Study of Charulata丹羽 京子 NIWA Kyoko 東京外国語大学大学院総合国際学研究院 Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies はじめに 1. サタジット・レイと映画、そして文学 2. 『毀れた巣』の物語 3. 『チャルロタ』における「語り」 4. 『チャルロタ』の構造 おわりに キーワード:(和文):ベンガル映画、サタジット・レイ、『チャルロタ』 Keywords : Bengali Cinema, Satyajit Ray, Charulata 【要旨】 ベンガル、もしくはインドを代表する映画監督、サタジット・レイ(Satyajit Ray, 19211992は生涯に 36 本の映画を撮ったが、その多くはいわゆる文芸映画である。また、サタジット・レ イはその作品のすべての脚本を彼自身が書き、音楽や撮影、編集にも深く関与していることが 特徴で、これらはサタジットの個性を強く反映していると言える。本稿は文芸映画のひとつで あるタゴール原作の『チャルロタ(Charulata)』をテクストとしてサタジット作品を考察するも のである。 原作のある映画作品の場合、原作と比較され、批判にさらされることがままあるが、本稿で 取り上げる『チャルロタ』(1964)も、映画として高く評価されながら、そうした批判にさらさ れたひとつである。もちろん原作である文学作品と、それを基にしたとはいえ、新たに作られ た映画は別個の作品であり、ここではその異同やどちらが優れているかを問うものではない。 本稿の中心は映画『チャルロタ』にあり、ここでは映画特有の表現形態に注目する。その過程 本稿の著作権は著者が所持し、クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 国際ライセンス(CC-BY) 下に提供します。 https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

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223 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

語りとしての映画~『チャルロタ』考~ Film As a Narrative ~A Study of Charulata~

丹羽 京子 NIWA Kyoko

東京外国語大学大学院総合国際学研究院 Institute of Global Studies, Tokyo University of Foreign Studies

はじめに

1. サタジット・レイと映画、そして文学

2. 『毀れた巣』の物語

3. 『チャルロタ』における「語り」

4. 『チャルロタ』の構造

おわりに

キーワード:(和文):ベンガル映画、サタジット・レイ、『チャルロタ』

Keywords : Bengali Cinema, Satyajit Ray, Charulata

【要旨】

ベンガル、もしくはインドを代表する映画監督、サタジット・レイ(Satyajit Ray, 1921‐1992)

は生涯に 36 本の映画を撮ったが、その多くはいわゆる文芸映画である。また、サタジット・レ

イはその作品のすべての脚本を彼自身が書き、音楽や撮影、編集にも深く関与していることが

特徴で、これらはサタジットの個性を強く反映していると言える。本稿は文芸映画のひとつで

あるタゴール原作の『チャルロタ(Charulata)』をテクストとしてサタジット作品を考察するも

のである。

原作のある映画作品の場合、原作と比較され、批判にさらされることがままあるが、本稿で

取り上げる『チャルロタ』(1964)も、映画として高く評価されながら、そうした批判にさらさ

れたひとつである。もちろん原作である文学作品と、それを基にしたとはいえ、新たに作られ

た映画は別個の作品であり、ここではその異同やどちらが優れているかを問うものではない。

本稿の中心は映画『チャルロタ』にあり、ここでは映画特有の表現形態に注目する。その過程

本稿の著作権は著者が所持し、クリエイティブ・コモンズ表示 4.0 国際ライセンス(CC-BY) 下に提供します。https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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で原作との比較検証も行い、原作があることによって際立つサタジットの作品作りとその「映

画としての語り」を分析するのが本稿の目的である。

English Summary

Satyajit Ray (1921-92), a representative film director of Bengal or even India, directed 36

films in his life and most of them were so called literary films. Satyajit Ray wrote scripts of all his

films and composed the music, did the shooting and editing deeply so that it can be said that

these films directly reflect his personality. This is a study of one such film, Charulata, which is

based on the story ‘Nashtanir’ by Rabindranath Tagore.

Literary films are often compared with original stories, sometimes even criticized as in the

case of Charulata also. Though Charulata was highly appreciated as a film, there was a criticism

related to its comparison with the original story. Of course, a film is an independent work even in

the case of a literary film and we are not going to enter into questions of difference or of

superiority of one over the other here. Our concern is the film Charulata so that we will focus on

the filmic expressions and in the process, there will be a comparison and verification with the

original story. On the whole, our aim is to analyze Satyajit Ray’s film making which stands out

more when he makes films out of literary texts.

はじめに

ベンガルを代表する映画監督 1)、サタジット・レイ(Satyajit Ray, 1921-1992, ベンガル語発音

はショットジット・ラエ)は、生涯で 36 本の映画を撮ったが、その多くがいわゆる文芸映画で

ある。すなわち、サタジット・レイ作品の、ドキュメンタリー映画 5 本を除いた 31 本のうち、

オリジナル脚本によるものは 5 本のみで、残り 26 本は主にベンガル語による小説を原作として

いる。(ただし、自身作家でもあったサタジット自身の作品もそこには含まれている。)サタジ

ット作品の特徴はほかにもある。それらの作品のすべての脚本を彼自身が書いていることであ

る。ここでは考察の対象には含めないが、ドキュメンタリー作品のナレーションも自身で書い

ており、つまり、サタジットにとって映画作りとは、脚本を書くところから始まっているので

ある。さらに音楽に関してもそのほとんどを自ら手掛けているのだが、それについては多少の

試行錯誤があったようである。サタジットはその記念すべき初めての映画『大地のうた』(1955、

原題は Pather Panchali, 「道の物語」ほどの意味)で、シタール奏者のラヴィ・シャンカル(Ravi

Sankar, 1920-2012)を起用し、その後の 2 本においてもラヴィ・シャンカルが音楽を手掛けて

いる。そしてその次の 2 本がヴィラヤット・カーン(Vilayat Khan, 1928-2004)、さらに次がア

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225 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

リ・アクバル・カーン(Ali Akbar Khan, 1922‐2009)と 6 本目までの映画はインド古典音楽の

巨匠がサタジット作品の音楽を担当している。しかしこうした巨匠たちにスケジュールを合わ

せてもらうのがむずかしかったことと、サタジット自身も音楽に造詣が深く、自分なりの音楽

的な構想があったことから、7 作目以降はすべてサタジット自身が音楽も担当するようになっ

た 2)。加えてカメラも自身で回すことが多く、編集にも自ら手を入れることが多かったという。

映画作りは本来共同作業であるが、サタジット作品に関して言えば、これらの映画はサタジッ

ト・レイという一個人の作品として見ることが可能なほど、サタジットはすべての過程に深く

関与している。

さて、その「文芸映画」だが、サタジットの文芸映画 26 本のうち、イプセンの『民衆の敵』

を原作とした 1 本とヒンディー語作家プレームチャンドの作品を原作とした 2 本を除く 23 本は

すべてベンガル文学の有名作家による作品を原作としている(うち 4 本は自身の作品が原作)。

原作のある映画作品の場合、原作と比較され、批判にさらされることがままあるが、本稿で取

り上げる『チャルロタ(Charulata)』(1964)も、映画として高く評価されながら、そうした批

判にさらされたひとつである。『チャルロタ』はタゴール作品を原作とする 3 本の映画のうちの

ひとつで 3)、発表当時、原作と異なる点が批判されたという。4)

もちろん原作である文学作品と、それを基にしたとはいえ、新たに作られた映画は別個の作

品であり、ここではその異同やどちらが優れているかを問うものではない。優れた映画は原作

の隠れた可能性を引き出す可能性もあるし、相互の相乗作用で新たな読みや解釈を生む場合も

ある。ただし本稿の中心は映画『チャルロタ』にあり、ここでは映画特有の表現形態に注目す

る。その過程で原作と比較検証も行うが、原作があることによって際立つサタジットの作品作

りとその「映画としての語り」を分析するのが本稿の目的である。

1. サタジット・レイと映画、そして文学

サタジットが文学者の家系に生まれたことはよく知られているが、それとサタジット作品の

関連については一考の価値があるだろう。サタジットの父、シュクマル・ラエ(Sukumar Ray,

1887‐1923)は多彩な人物だったが、今に残る最大の功績は、チョラと呼ばれるベンガル伝来

のナンセンス・ヴァースを現代に復活させたオリジナル・チョラにある。これらは今日の子ど

もたちにも親しまれているだけでなく、その奥深いひねりは大人になってからも忘れ難いもの

となっている。シュクマルは挿絵も含むいわゆる児童文学に多大な貢献をしただけでなく、カ

メラ技術や印刷術にも造詣が深かった。

シュクマルの父、すなわちサタジットの祖父にあたるウペンドロキショル・ラエ・チョウド

ゥリ(Upendrakishor Ray Chowdhury, 1863-1915)もまた、近現代を代表する文学者のひとりで

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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ある。ウペンドロキショルは児童文学者の草分けとして知られ、自身さまざまな作品を執筆す

るとともに、「ションデシュ」(Sandesh, 1913-, ションデシュとはニュースという意味とお菓子

の一種をかけた名前)という児童文学雑誌の発行を手掛けた。この「ションデシュ」はシュク

マルに引き継がれたが、シュクマルの死とともに中断し、それをのちにサタジットが復活させ、

今日に至っている。

ウペンドロキショルはタゴール家と親しく、ブランモ協会員として志と信仰を伴にする仲で

もあった。ここではブランモ協会について詳細を述べる余地はないが、それは近代ベンガルに

おいて重要な役割を果たしたヒンドゥー教の改革派で、一神教、偶像崇拝の禁止、カースト否

定などで従来のヒンドゥー教とは一線を画していた。サタジットの母もブランモ協会員であり、

サタジット自身も幼いころ、このブランモ協会の礼拝に参加していたことをその回想記で述べ

ている 5)。

サタジットはこうした家系に生まれたわけだが、それがただちに彼の文学的教養につながっ

たと考えるのは早計である。年譜を見れば明らかなように、祖父ウペンドロキショルはサタジ

ットの誕生前に亡くなっており、父シュクマルもサタジットが 3 歳になる前に亡くなっている。

サタジットが自らの血筋、そして文化的なルーツを見出すのは、のちになってからと考えてよ

い 6)。

サタジットは父の没後ほどなくして、母方の親族と暮らすことになる。伝えられるところに

よると、ウペンドロキショル、シュクマルと続いたベンガル文化文学の復権へと連なる流れと

は異なり、それは英領インドとしてのコルカタにあって、ある種西洋化された富裕な家庭であ

ったらしい。ただしそれはサタジットにとって一義的には不幸だったわけではない。若き日の

サタジットの第一の情熱は音楽にあり、それはそうした環境のもと、西洋音楽も含んだもので

あったし、大学生になるころには映画に夢中になり、時代的背景もあって特に入れ込んだのは

アメリカ映画であったという。読む本も軽い英語の読み物がほとんどで、要するに青年時代の

サタジットは、ベンガル文化やベンガル文学にどっぷり浸かっていたというより、むしろモダ

ンな英国風の青年に近かったと考えられる。

サタジットは名門、プレジデンシー・カレッジで経済を学んだが、学位は取ったものの経済

学にはまったく興味が持てなかったらしい。いったん学業を終えたサタジットに、母はシャン

ティニケトン行きを勧める。シャンティニケトンには詩人タゴール(Rabindranath Thakur,

1861-1941)が創設したビッショ・バロティ大学があり、当時まだ存命だったタゴール本人もサ

タジットがシャンティニケトンで学ぶことを強く望んだといわれ、サタジットはその美術学科

に入学することになる。タゴールの近くに暮らし、美術を学ぶことには異議のなかったサタジ

ットだが、実は当初シャンティニケトン行きには乗り気でなかったらしい。サタジットはそれ

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227 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

ある。ウペンドロキショルは児童文学者の草分けとして知られ、自身さまざまな作品を執筆す

るとともに、「ションデシュ」(Sandesh, 1913-, ションデシュとはニュースという意味とお菓子

の一種をかけた名前)という児童文学雑誌の発行を手掛けた。この「ションデシュ」はシュク

マルに引き継がれたが、シュクマルの死とともに中断し、それをのちにサタジットが復活させ、

今日に至っている。

ウペンドロキショルはタゴール家と親しく、ブランモ協会員として志と信仰を伴にする仲で

もあった。ここではブランモ協会について詳細を述べる余地はないが、それは近代ベンガルに

おいて重要な役割を果たしたヒンドゥー教の改革派で、一神教、偶像崇拝の禁止、カースト否

定などで従来のヒンドゥー教とは一線を画していた。サタジットの母もブランモ協会員であり、

サタジット自身も幼いころ、このブランモ協会の礼拝に参加していたことをその回想記で述べ

ている 5)。

サタジットはこうした家系に生まれたわけだが、それがただちに彼の文学的教養につながっ

たと考えるのは早計である。年譜を見れば明らかなように、祖父ウペンドロキショルはサタジ

ットの誕生前に亡くなっており、父シュクマルもサタジットが 3 歳になる前に亡くなっている。

サタジットが自らの血筋、そして文化的なルーツを見出すのは、のちになってからと考えてよ

い 6)。

サタジットは父の没後ほどなくして、母方の親族と暮らすことになる。伝えられるところに

よると、ウペンドロキショル、シュクマルと続いたベンガル文化文学の復権へと連なる流れと

は異なり、それは英領インドとしてのコルカタにあって、ある種西洋化された富裕な家庭であ

ったらしい。ただしそれはサタジットにとって一義的には不幸だったわけではない。若き日の

サタジットの第一の情熱は音楽にあり、それはそうした環境のもと、西洋音楽も含んだもので

あったし、大学生になるころには映画に夢中になり、時代的背景もあって特に入れ込んだのは

アメリカ映画であったという。読む本も軽い英語の読み物がほとんどで、要するに青年時代の

サタジットは、ベンガル文化やベンガル文学にどっぷり浸かっていたというより、むしろモダ

ンな英国風の青年に近かったと考えられる。

サタジットは名門、プレジデンシー・カレッジで経済を学んだが、学位は取ったものの経済

学にはまったく興味が持てなかったらしい。いったん学業を終えたサタジットに、母はシャン

ティニケトン行きを勧める。シャンティニケトンには詩人タゴール(Rabindranath Thakur,

1861-1941)が創設したビッショ・バロティ大学があり、当時まだ存命だったタゴール本人もサ

タジットがシャンティニケトンで学ぶことを強く望んだといわれ、サタジットはその美術学科

に入学することになる。タゴールの近くに暮らし、美術を学ぶことには異議のなかったサタジ

ットだが、実は当初シャンティニケトン行きには乗り気でなかったらしい。サタジットはそれ

までほとんどコルカタを出たことがなく、田舎町であるシャンティニケトンには映画館もない

ことにショックを受けたという。

最終的に美術で学位を取ることはなかったものの、この数年間のシャンティニケトン生活は

しかし、サタジットに多くをもたらした。当時の美術学科は日本画や中国画の素養もある大画

家ノンドラル・ボシュ 7)に率いられており、このノンドラルのほかにも、のちにドキュメンタ

リー・フィルムを制作することになる盲目の画家、ビノド・ビハリ・ムコッパダエ 8)にもサタ

ジットは学んだ。ただしもともとサタジットは芸術性の高い絵よりもデザインに興味をもって

おり、このシャンティニケトン時代、美術的な技術よりも、コルカタの外に広がるベンガル文

化や文学の背景や精神を、身をもって体験したことが大きかったと思われる。母の希望として

も、画家になるというよりも、おそらく父や祖父のように芸術的な、それもベンガル文化の流

れを汲む芸術活動に何らかのかたちで携わってほしい、そしてさらにはもともと一家と親しか

ったタゴールとの絆を深めて欲しいということだったのだろう。

数年間シャンティニケトンで学んだのち、1943 年にサタジットはコルカタのイギリス系広告

会社にグラフィック・デザイナーとして就職する。ほどなくしてサタジットは新しく立ち上が

った出版社、シグネット・プレス(Signet Press)のカバー・デザインや挿絵を担当するように

なるのだが、この仕事がサタジットにとってのひとつの転機となる。シグネット・プレスはネ

ルーの『インドの発見(Discovery of India)』を出版したことでも知られるが、英語の本だけで

なく、ベンガル語の良質の本も手掛けていた。ここでサタジットはビブティブション・ボンド

パッダエ原作の名作『大地のうた』9)の子供向けヴァージョンのデザインを担当することにな

ったのである。サタジットはこの本に感銘を受け、それがのちの映画化につながった経緯はつ

とに知られているが、それ以上に、この仕事を通してベンガル語や英語のさまざまな本を読ん

だことがサタジットにとっては大きな意味を持っていたと言えるだろう。サタジットのカバ

ー・デザインや挿絵は常に高く評価されたが、本を丹念に読み、それを「視覚化」するという

作業は、のちの映画製作につながる第一歩になったことは想像に難くない。

サタジットは無類の映画好きで、いつかは映画を撮りたいと早くから考えていたようである

が、資金の問題もあり、そもそも映画界の人間ではないサタジットにはなかなか実行するチャ

ンスはなかった。サタジットが映画製作に転じたひとつのきっかけは映画監督ジャン・ルノア

ール(Jean Renoir, 1894-1979)との出会いであり、もうひとつがイタリア映画『自転車泥棒』

であったことはよく知られている。ルノアールは『河』(1951)を撮るためにコルカタに滞在し

たが、その際サタジットと知り合い、まだ具体的な展望のないサタジットを励ました。『自転車

泥棒』はサタジットが会社から派遣されたイギリス滞在中に見たもので、これを見たサタジッ

トはその手法とテーマに感銘を受けると同時に、ローコストな制作のありようにも着目したと

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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いう 10)。

サタジットは第一作目として、タゴール原作の『家と世界(Ghare Baire)』も候補に考えてい

たようだが、分離独立を挟んだ 40 年代後半から 50 年代初めに、そこにあらわれるコミュナル

な対立の問題を取り上げるのはセンシティブすぎた 11)。そこで取り組んだのが、不世出の処女

作となった『大地のうた』である。当時サタジットはまだ会社勤めをしていたため週末のみの

撮影で進められたこの作品は、資金不足による中断もあって完成までに 3 年を擁し、55 年にや

っとリリースされた。しかしその努力は、56 年のカンヌ国際映画祭ベスト・ヒューマン・ドキ

ュメント賞受賞という栄誉によって報われる。この第一作目にして国際的に認知されたサタジ

ットは、それ以後もしばしば資金不足や興行的な不振に悩まされたとはいえ、第一線の映画監

督として 70 歳で亡くなるまで精力的に映画を撮り続けたのである。12)

原作『大地のうた』は絶大な人気を誇り、高く評価されたベンガル語小説であるが、サタジ

ット以前にはだれもその映画化を考えていなかったようである。サタジット以前のベンガル映

画にも文芸映画の数は多く、なぜこれがそれまで映画にならなかったのか不思議なほどだが、

はっきりとしたプロットを持たず、ひたすら抒情的なこの作品が映画になり得るとはだれも考

えていなかったらしい 13)。なるほど、この作品は当時盛んに作られていたロマンティックな映

画やコメディ映画とはおよそ趣を異にしている。サタジットは映画界の人間ではなかったから

こそ、そうした定石に縛られず、自らが感銘を受け、「視覚化」したいと考えたものを映画にで

きたのだろう。

映画『大地のうた』の成功は、逆説的ではあるが、サタジットがその文学世界にどっぷりと

浸かってはいなかったからこそではないかという点もここで指摘しておきたい。先に述べた通

り、サタジットは、若かりし頃はベンガル文学にある程度は親しんでいたとしても、それに完

全に傾倒していたというわけではなかった。サタジットが『大地のうた』の魅力に目覚めるの

は、大人になってそのデザインを担当したときのことである。さらにサタジットはほぼ完全な

コルカタっ子で農村生活の経験がまったくなく、映画『大地のうた』で描かれた詩情溢れるベ

ンガルの農村風景はサタジット自身にとってもある種新鮮な驚きでもあったのである。つまり、

サタジットはベンガル文学と、それを支える農村に広がるベンガル文化を大人になってから「発

見」したのであり、そのことが『大地のうた』の客観性と普遍性を支えた面もあるのではない

だろうか。ひいてはそうしたサタジットのいわば「外から眺める視点」が海外で高く評価され

ることを担保したのではないかとも考えられるのである。

2. 原作『毀れた巣』の物語

『チャルロタ』の原作、「毀れた巣(Nashtanir)」は、タゴール中期の傑作短編小説である 14)。

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いう 10)。

サタジットは第一作目として、タゴール原作の『家と世界(Ghare Baire)』も候補に考えてい

たようだが、分離独立を挟んだ 40 年代後半から 50 年代初めに、そこにあらわれるコミュナル

な対立の問題を取り上げるのはセンシティブすぎた 11)。そこで取り組んだのが、不世出の処女

作となった『大地のうた』である。当時サタジットはまだ会社勤めをしていたため週末のみの

撮影で進められたこの作品は、資金不足による中断もあって完成までに 3 年を擁し、55 年にや

っとリリースされた。しかしその努力は、56 年のカンヌ国際映画祭ベスト・ヒューマン・ドキ

ュメント賞受賞という栄誉によって報われる。この第一作目にして国際的に認知されたサタジ

ットは、それ以後もしばしば資金不足や興行的な不振に悩まされたとはいえ、第一線の映画監

督として 70 歳で亡くなるまで精力的に映画を撮り続けたのである。12)

原作『大地のうた』は絶大な人気を誇り、高く評価されたベンガル語小説であるが、サタジ

ット以前にはだれもその映画化を考えていなかったようである。サタジット以前のベンガル映

画にも文芸映画の数は多く、なぜこれがそれまで映画にならなかったのか不思議なほどだが、

はっきりとしたプロットを持たず、ひたすら抒情的なこの作品が映画になり得るとはだれも考

えていなかったらしい 13)。なるほど、この作品は当時盛んに作られていたロマンティックな映

画やコメディ映画とはおよそ趣を異にしている。サタジットは映画界の人間ではなかったから

こそ、そうした定石に縛られず、自らが感銘を受け、「視覚化」したいと考えたものを映画にで

きたのだろう。

映画『大地のうた』の成功は、逆説的ではあるが、サタジットがその文学世界にどっぷりと

浸かってはいなかったからこそではないかという点もここで指摘しておきたい。先に述べた通

り、サタジットは、若かりし頃はベンガル文学にある程度は親しんでいたとしても、それに完

全に傾倒していたというわけではなかった。サタジットが『大地のうた』の魅力に目覚めるの

は、大人になってそのデザインを担当したときのことである。さらにサタジットはほぼ完全な

コルカタっ子で農村生活の経験がまったくなく、映画『大地のうた』で描かれた詩情溢れるベ

ンガルの農村風景はサタジット自身にとってもある種新鮮な驚きでもあったのである。つまり、

サタジットはベンガル文学と、それを支える農村に広がるベンガル文化を大人になってから「発

見」したのであり、そのことが『大地のうた』の客観性と普遍性を支えた面もあるのではない

だろうか。ひいてはそうしたサタジットのいわば「外から眺める視点」が海外で高く評価され

ることを担保したのではないかとも考えられるのである。

2. 原作『毀れた巣』の物語

『チャルロタ』の原作、「毀れた巣(Nashtanir)」は、タゴール中期の傑作短編小説である 14)。

時代は英領時代、物語の中心となるのは、裕福で働く必要もないのに、周りにおだてられて英

字新聞の発行を始めたブポティと、その妻、チャルロタ(略してチャル)である。物語の始め

に「このように新聞という重責を担っている間に、ほんの少女であった彼の妻チャルロタはゆ

っくりとその若さの盛りに足を踏み入れたが、編集長たる彼はその重大ニュースに注意を払い

もしなかった 15」。」と書かれているように、二人は初めからすれ違っている。双方の年齢は書

かれていないが、当時の習慣として、結婚当初の妻はまだ子どもと言っていいほどの年齢だっ

たことが予想され 16)、その妻が大人の女になろうという時期に夫たるブポティはそれにまった

く注意を払っていないのである。

この家にはさらに三人が暮らしている。ブポティをおだてて英字新聞を発行させ、ちゃっか

りとその会計係におさまったチャルの兄、ウマポド、チャルの話し相手にとあとから呼び寄せ

られたウマポドの妻モンダキニ(略してモンダ)、そしてブポティの従弟で大学生のオモルであ

る。物語の前半ではこのオモルと孤独なチャルの独特な絆が語られる 17)。

はじめのころオモルは、チャルにひたすら我儘な要求をするのだが、だれにも必要とされて

いないと感じているチャルにとっては、そうした要求もある種の喜びとなる。次に二人は、荒

れ果てた庭の改造計画を密かに立てる。それはたぶんに想像の産物であったが、二人だけの秘

密であるというところにチャルの喜びがあった。次に二人がのめりこんだのがベンガル語によ

る書きものである。ここにひとつ興味深い構図がある。チャルの夫、ブポティは英語が得意で

あっても、ベンガル語、特に文学的なものの良しあしがわからない。それに対してチャルはベ

ンガル文学を好み、オモルもベンガル語世界において文学的野心を持っているのである。ベン

ガル文学というものが二人を結び付け、小説では時にオモルやほかの作家の文章の一節が挿入

される。

オモルは自分の書きものをチャルに読んで聞かせ、それがチャルにとってのかけがえのない

楽しみとなったころ、オモルの文章がある雑誌に載る。オモルはそれを得意げに報告するが、

チャルは複雑な気持ちを抱く。チャルにとってはオモルの書いた文章を聞くことは二人の絆を

意味し、それは二人の神聖な秘密でもあったのだ。一方のオモルは次第に高まる名声に気を良

くする。それどころか、それまでまったくオモルのことを歯牙にもかけなかったモンダがオモ

ルを尊敬の眼で見るようになり、チャルとモンダの間に一種の緊張関係が生まれてしまう。チ

ャルはモンダに対抗するために、自分も文章を書いてみる。そしてオモルとの絆を取り戻すた

めに二人だけの冊子を作ろうと提案するのである。

しかしこの二人だけの冊子ははじめから崩壊が予想されていた。チャルがあくまでオモルと

二人だけの場にこだわって冊子作りを提案したのに対し、オモルはすでに文学的名声を得るこ

とに気持ちを傾けていたのである。オモルは二人だけの冊子というチャルとの約束を真剣に捉

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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えてはいなかった。オモルはチャルの書いたものを密かに雑誌に送り付けるが、皮肉なことに

それがふたりの間の亀裂を招く。チャルの作品は雑誌に採用されただけでなく、大仰なオモル

の文章を引き合いに出してことさらにチャルの作品を褒め上げる批評が載ってしまったのだ。

オモルはその結果に気を悪くし、チャルにそれを伝えようともしないが、夫からそれについて

知らされたチャルの気持ちは複雑である。チャルは「楽しみのためにまったくの秘密でささや

かな文学という巣を作ったはずだった。そこに突然賞賛という石つぶてが降り注ぎ、台無しに

なろうとしている」18)と感じたのである。公に賞賛されたことを喜べず、二人だけの秘密が崩

れたことに心を痛めるチャル、チャルを指導していたつもりが自分の文章の方が批判されて納

得のいかないオモル、このささいな行き違いが、二人の関係をこじらせていく。

ちょうどそのころ、ウマポドの会計上の不正が発覚し、ウマポドとモンダは出ていくことに

なる。傷心のブポティが理由を明かさなかったのをいいことに、モンダはチャルの差し金で追

い出されるのだとオモルにほのめかす。こうしてオモルとチャルの間に隙間風が吹いていると

きに、オモルに縁談が持ち込まれる。結婚ののち、婚家先でオモルをイギリスに留学させると

いう話で、モンダのことで腹を立てていたオモルは一も二もなく承諾する。チャルは反対でき

るわけもなくそれを受け入れるが、最後までオモルが自分に冷たいのに心を痛め、その別れは

苦いものとなる。

オモルは行ってしまい、新聞も潰れてしまったブポティは、チャルのそばに居場所を求めよ

うとする。しかし長い間すれ違っていた二人の会話や思いがかみ合うことはない。チャルはど

うにも心の空白を埋めることができないでいるが、チャル自身、オモルにいったいなにを期待

し、どんな気持ちを抱いていたのかはっきりとは把握できないのである。どうしても気持ちを

落ち着かせることができないチャルと時間を過ごすうち、武骨なブポティもさすがに妻の心の

内を察するようになっていく。自分以外の人間を想い続けている妻とそれ以上暮らすことはで

きないと考え、最終的にブポティは知り合いの誘いに乗って新たな新聞の編集をすべく、ひと

りマイソールへ行く決心をする。チャルに連れて行って欲しいと懇願され、ブポティは悩みな

がらも逡巡し、一緒に行こうと言うが、チャルが「やっぱりやめておきましょう」というとこ

ろで物語は幕となる。

さてこのタイトルであるが、『毀れた巣』の「巣」とは、ブポティとチャルの二人の家庭であ

ると解釈するのが通例であろう。だが、「巣」という表現が使われているのは、先に挙げたチャ

ルとオモルの二人の冊子についての記述のみであり、こちら、つまり作者はチャルとオモルの

秘密の場所であった冊子を暗示しているか、もしくは両方をかけている可能性もある。つまり

冊子という小さな「巣」が毀れ、その外側で家族を守っていた家庭という「巣」も毀れてしま

ったというわけである。いずれにしてもこのタイトルは「毀れて」しまって元には戻らない関

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231 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

係、もしくは場を意味していることは間違いない。

タゴール小説はその心理描写を妙とするが、この作品にもその手法がふんだんに生かされて

いる。当然ながら小説ではそうした心理描写は文章化されているわけで、随所にチャルの心の

内が語られているのがある種この作品の真骨頂となっているのだが、それをどのように映像化

するのか、あるいは映像で人の心理をどのように語るのか、ということが映画を見る際のひと

つのポイントになるだろう。

3. 映画『チャルロタ』における「語り」

映画『チャルロタ』においても登場人物の構図はほぼ同じである。物語の筋書きも原作から

それほど離れず、多少の異同がある程度で進んでいく。違いと言えば、ウマポドの不正が明る

みに出る経緯や 19)、オモルの結婚話にまつわるプロセスなどで、それほど大きな構造上の変化

をもたらすものではなく、全体として原作と同じ雰囲気を維持したまま終盤まで進んでいく。

にもかかわらず、映画『チャルロタ』の結末の与える印象は、原作とは正反対のものとなっ

ている。原作ではブポティとチャルロタの夫婦の亀裂は修復されず、ブポティがひとり旅立つ

ことが暗示されて終わるが、映画の最後のシーンは二人の和解をほのめかしているように見え

る。それではこの結末はどこから導き出されるのだろうか?

順を追って見ていこう。映画は刺繍をしているチャルのシーンから始まる。時計の鐘が鳴り、

使用人にお茶を入れるように言いつけるとチャルは刺繍を放り出す。カメラはいかにも退屈し

ているようなチャルを追い続けるが、ここに興味深いシーンが挿入される。それはチャルが双

眼鏡を取り出し、それで外を眺めるシーンである。双眼鏡は原作にはない、そして映画におい

てチャルの内面を映し出す重要な小道具である。なぜなら、画面はチャルが双眼鏡でなにかを

覗いているシーンを映すだけではなく、チャルが見ているものを映し出すからである。このチ

ャルの双眼鏡は、折に触れて現れる。例えばこのすぐあとのシーンでブポティがあらわれ、な

にかを読みながらチャルの前を通り過ぎ、そのまま行ってしまう際には、チャルはその後姿を

双眼鏡で追う(画面にはチャルが覗いているブポティの後姿が映し出される)。その後ブポティ

の姿が消え、カメラは双眼鏡をおろしたチャルの姿を映す。そしてそのままチャルの顔のアッ

プとなり、むっとした表情のチャルの表情を捉えるのである。

少し先のシーンで、チャルはブポティに刺繍入りのハンカチを渡すが、この刺繍も映画では

ひとつのモチーフとなっている。刺繍にはブポティのイニシャルである B が縫い込まれており、

これは冒頭のシーンでチャルが縫い込んでいたものである。原作ではチャルはオモルにねだら

れて靴を縫い、蚊帳に刺繍をほどこすが、ブポティのために刺繍をすることはない。それに対

して映画のチャルは暇にあかせてであれ、自ら刺繍をしたハンカチを夫に贈り、そして次はス

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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リッパを作ってあげる、とブポティに言うのである。

原作ではオモルはもともとこの家に同居している学生だが、映画ではある日突然現れる。そ

してその登場シーンを印象付けるのは嵐である。突風の中、チャルとモンダがベランダのもの

を片付けようとあたふたしているときにオモルはさっそうと現れる。嵐と重なるその訪れは、

この先この家を襲うことになる「嵐」を予感させると言ってもいいだろう。

映画のオモルは大学を卒業したてで、これからの人生をいかに生きようかと迷っている若者

である。映画では、オモルとチャルが庭についてあれこれ思いを巡らすくだりと、二人だけの

冊子を作ろうとするチャルの希望が相次いで描かれており、その間のプロセスはかなり切り詰

められている。このシーンについて少し詳しく述べると、それはチャルがオモルに絨毯を持た

せ、庭に出てくるところから始まる。チャルはブランコに乗り、二人は庭の話やオモルの書き

ものの話をする。そこでチャルがノートを取り出し、書くことを促すと同時に、そこに書いた

ものは雑誌に載せてはいけないと言う。オモルはどんどん筆を進め、ひとつの作品が完成する。

(この間、だいぶ時間が経過していることが示唆される。)オモルはチャルにもなにか書くこと

を勧めるが、ブポティにチャルの「指導」を頼まれたことをほのめかしてチャルの機嫌をそこ

ねてしまう。

この一連の庭のシーンでも、刺繍と双眼鏡が印象的な小道具となっている。チャルが取り出

してオモルに渡すノートはチャル特製のもので、表紙にはオモルの名前が刺繍されている。ち

なみにこのノートを手にしたとたんにオモルは「私の白いノートよ」という文章を即興で朗唱

するのだが、この文章はそっくりそのまま原作にも出てくるものである。双眼鏡の使い方はさ

らに印象深い。チャルはブランコに乗ったまま、双眼鏡でオモルの手先を覗き、綴りの間違い

を指摘したりするのだが、そのあとあちこちに視線を移す。ほどなくしてチャルの眼を捉えた

のは隣家のベランダで、そこでは見知らぬ女性が赤ん坊をあやしていた。すっと双眼鏡を下ろ

して顔を曇らせるチャル。これはおそらく子供のいない寂しさをチャルが感じているシーンだ

と解釈できるだろう。このあとチャルは再び双眼鏡でなにやら熱心に書き続けるオモルの横顔

を覗くが、先に挙げたシーン同様、双眼鏡のシーンはそのあと、つまりチャルが双眼鏡を下ろ

した直後にその顔のアップにつながる。この組み合わせ、すなわち「チャルが見ているもの」

と「チャルの表情」の組み合わせは、この映画においてチャルの心理をあらわす効果的な組み

合わせとなっている。

このあと少しして、ブポティがオモルに縁談の話を持ち出すが、そこに居合わせたチャルの

反応も興味深い。はじめ、婚家先でイギリスに留学させてくれるという条件に心動かされたよ

うに見えるオモルが映し出され、次にチャルの後姿が現れる。ここではチャルの表情はちらり

としか見えないが、心穏やかではないことは十分に伝わってくる。オモルがノーと言うとチャ

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233 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

リッパを作ってあげる、とブポティに言うのである。

原作ではオモルはもともとこの家に同居している学生だが、映画ではある日突然現れる。そ

してその登場シーンを印象付けるのは嵐である。突風の中、チャルとモンダがベランダのもの

を片付けようとあたふたしているときにオモルはさっそうと現れる。嵐と重なるその訪れは、

この先この家を襲うことになる「嵐」を予感させると言ってもいいだろう。

映画のオモルは大学を卒業したてで、これからの人生をいかに生きようかと迷っている若者

である。映画では、オモルとチャルが庭についてあれこれ思いを巡らすくだりと、二人だけの

冊子を作ろうとするチャルの希望が相次いで描かれており、その間のプロセスはかなり切り詰

められている。このシーンについて少し詳しく述べると、それはチャルがオモルに絨毯を持た

せ、庭に出てくるところから始まる。チャルはブランコに乗り、二人は庭の話やオモルの書き

ものの話をする。そこでチャルがノートを取り出し、書くことを促すと同時に、そこに書いた

ものは雑誌に載せてはいけないと言う。オモルはどんどん筆を進め、ひとつの作品が完成する。

(この間、だいぶ時間が経過していることが示唆される。)オモルはチャルにもなにか書くこと

を勧めるが、ブポティにチャルの「指導」を頼まれたことをほのめかしてチャルの機嫌をそこ

ねてしまう。

この一連の庭のシーンでも、刺繍と双眼鏡が印象的な小道具となっている。チャルが取り出

してオモルに渡すノートはチャル特製のもので、表紙にはオモルの名前が刺繍されている。ち

なみにこのノートを手にしたとたんにオモルは「私の白いノートよ」という文章を即興で朗唱

するのだが、この文章はそっくりそのまま原作にも出てくるものである。双眼鏡の使い方はさ

らに印象深い。チャルはブランコに乗ったまま、双眼鏡でオモルの手先を覗き、綴りの間違い

を指摘したりするのだが、そのあとあちこちに視線を移す。ほどなくしてチャルの眼を捉えた

のは隣家のベランダで、そこでは見知らぬ女性が赤ん坊をあやしていた。すっと双眼鏡を下ろ

して顔を曇らせるチャル。これはおそらく子供のいない寂しさをチャルが感じているシーンだ

と解釈できるだろう。このあとチャルは再び双眼鏡でなにやら熱心に書き続けるオモルの横顔

を覗くが、先に挙げたシーン同様、双眼鏡のシーンはそのあと、つまりチャルが双眼鏡を下ろ

した直後にその顔のアップにつながる。この組み合わせ、すなわち「チャルが見ているもの」

と「チャルの表情」の組み合わせは、この映画においてチャルの心理をあらわす効果的な組み

合わせとなっている。

このあと少しして、ブポティがオモルに縁談の話を持ち出すが、そこに居合わせたチャルの

反応も興味深い。はじめ、婚家先でイギリスに留学させてくれるという条件に心動かされたよ

うに見えるオモルが映し出され、次にチャルの後姿が現れる。ここではチャルの表情はちらり

としか見えないが、心穏やかではないことは十分に伝わってくる。オモルがノーと言うとチャ

ルは振り返り、自分はベンガルに生きるというオモルの宣言を聞いてにわかに笑い出すのであ

る。

このあとで映画の物語もオモルが自身の作品を雑誌に載せることから話がこじれる方向に進

んでいくのだが、その前にちょっとしたシーンが挿入されている。それはチャルがオモルのぼ

ろぼろのスリッパを目に留めるシーンである。チャルは綺麗に刺繍をほどこしたスリッパ――

もともとはブポティのためのスリッパである。これ以前に刺繍をしているチャルのシーンがあ

り、それをモンダがブポティのためのスリッパと言っている――をオモルに渡そうとするのだ

が、渡す寸前のところで、オモルの叫び声が聞こえてくる。オモルは自分の書いたものが雑誌

に掲載されると知って大喜びしていたのだ。

その知らせにチャルは動揺して新しいスリッパは渡さずじまいとなる。このあたりから原作

ではモンダとの絡みもあって二人の行き違いが深刻になっていくのだが、映画では二人のすれ

違いはもう少しシンプルで、またオモルもなぜチャルが怒っているのかを理解しているようで

ある。オモルはこのあとチャルのところに来て、いいものが書けたらそれを二人のノートだけ

に留めておくのは正しいことだろうか、などと弁明しているのである。

チャルはというと、オモルが行ってしまってからふと雑誌を目に留め、自分もものを書き始

める。このあたりのチャルの気持ちの展開は少々読みづらいが、自分に黙って雑誌に自作を送

ってしまったオモルに対抗しようとしていることは伺える。チャルはなにかを書き始めるが、

そのシーンも印象的である。はじめなかなか書き始められずチャルは紙を散らかすばかりなの

だが、ブランコに乗ってなにごとかを一心に考えているチャルの顔のアップからさらに目がア

ップされ、そこに河の風景が浮かんでくるのである。続いて美しい舟、チャルカ(糸車)を回

す老婆、移動遊園地やジャットラ(野外劇団)と次々に画面が浮かび上がり、チャルは「私の

村」という文章を書き始める。ここでは双眼鏡は使われていないが、やはりチャル「が」見て

いるものが映し出され、次々と文章が浮かんでくるさまが生き生きと感じられる。

チャルの書いたものは雑誌に載り、それをチャルはオモルに見せる。オモルはチャルの文章

を見て驚きを隠さず、その文才を認めるが、チャルはなぜかその雑誌を投げ捨て、オモルにパ

ーン 20)と新しいスリッパを渡す。オモルはこれからもっと書かなければとチャルを励ますが、

チャルはもう二度と書かないと言い、泣きじゃくるのである。もとよりチャルが文章を書いて

雑誌に送ったのは、文学的な野心があってのことではない。オモルに対抗し、そしてなにより

オモルの関心を自分に向けさせるためのものなのである。

チャルが泣くシーンは原作にもあらわれるが、文脈は異なっている。原作では、オモルとの

行き違いからくやしいやら悲しいやらで頭がいっぱいになっていたときに突然ブポティがあら

われ、チャルは思わず泣き出してしまうのである。どうしたのかと問うブポティに対してチャ

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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ルは自問する。「どうしたのかを口で言うのはむずかしい。特になにも起こったわけではないの

に。オモルが新しい作品を自分に聞かせず、モンダに聞かせたなんてどうやってブポティに訴

えられるだろう。そんなことを聞いてブポティは笑うだろう。こんなささいな出来事のなかの

どこに、どんな重要なことが隠されているのか、チャルにはどうしても探り当てることができ

なかった。わけもなくなぜこんなにつらい思いをしなければならないのか、それを理解するこ

とができず、彼女の苦しみは増すばかりだった」21) のである。この「自分でもどうなっている

のかわからない」心理状態がチャルを巡る物語のひとつのポイントである。チャルはオモルに

恋しているのか?それはどのような気持ちなのか?当人にも図りかねるその心の内は、映画で

は時としてあらわれる、いかんとも判断しにくいチャルの表情のアップに反映されていると言

えるだろう。

このあとは映画でも、ウマポドの裏切り、英字新聞の終焉、チャルのもとに居場所を持とう

とするブポティ、と話は進んでいく。外出したままなかなか帰ってこないブポティを待つ不穏

な状況で、チャルはオモルに自分たちを置いて出ていかないでくれと懇願するが、オモルはな

んとも答えない。この時点で二人はブポティの苦境に関する不穏な空気を共有しているが、そ

れもまた、原作とは異なっている。原作ではチャルはオモルの関心を惹きつけることに気を取

られ、ブポティの苦境に気づくことはない。オモルが先に異変を察知し、それが最終的なイギ

リス行きへの強い動機にもなるのである。

持ち込まれた結婚話を承諾する原作とは異なり、映画ではオモルは結婚するのではなく、こ

うした状況でやっかいになってはいられないと黙って家を出て行ってしまう。オモルは逡巡し

た末にチャルが贈った刺繍入りのスリッパを置いていく。朝になってオモルの不在を告げられ

たチャルは動揺するが、ブポティはオモルの心情を説いて聞かせるのである。

次のシーンは双眼鏡から眺める海の光景から始まる。もちろん見ているのはチャルで、ブポ

ティとともに海辺にやってきたようである。ここから先、結末までの部分は原作と大きく異な

っている。原作では最後の 6 章を費やして、チャルに歩み寄ろうとするブポティやそれに対す

るチャルの困惑や複雑な心の動きが丁寧に語られる。そしてそうしたやり取りの末にブポティ

はチャルの思いに気づくのだが、映画ではいきなりこの海のシーンになる。ここまでの時間の

経過は明確ではなく、この時点でのチャルの心の内も明確ではないが、ここでの二人は明らか

に歩み寄りを見せている。海辺でブポティはチャルにもう書かないのかと尋ねる。なぜ、と問

うチャルに、ブポティはチャルの書いたものはよくわかる、ほかの人が書いたものはわからな

いけれど、と言う。ブポティの同じような台詞は原作にもあるが、そこではチャルはにべもな

い答えをし、苛つくだけである。それに対し映画では、チャルはあなたがまた新聞を始めたら

書くわよ、と言う。そこから二人の間で、ブポティが英語欄を担当してチャルがベンガル語欄

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235 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

ルは自問する。「どうしたのかを口で言うのはむずかしい。特になにも起こったわけではないの

に。オモルが新しい作品を自分に聞かせず、モンダに聞かせたなんてどうやってブポティに訴

えられるだろう。そんなことを聞いてブポティは笑うだろう。こんなささいな出来事のなかの

どこに、どんな重要なことが隠されているのか、チャルにはどうしても探り当てることができ

なかった。わけもなくなぜこんなにつらい思いをしなければならないのか、それを理解するこ

とができず、彼女の苦しみは増すばかりだった」21) のである。この「自分でもどうなっている

のかわからない」心理状態がチャルを巡る物語のひとつのポイントである。チャルはオモルに

恋しているのか?それはどのような気持ちなのか?当人にも図りかねるその心の内は、映画で

は時としてあらわれる、いかんとも判断しにくいチャルの表情のアップに反映されていると言

えるだろう。

このあとは映画でも、ウマポドの裏切り、英字新聞の終焉、チャルのもとに居場所を持とう

とするブポティ、と話は進んでいく。外出したままなかなか帰ってこないブポティを待つ不穏

な状況で、チャルはオモルに自分たちを置いて出ていかないでくれと懇願するが、オモルはな

んとも答えない。この時点で二人はブポティの苦境に関する不穏な空気を共有しているが、そ

れもまた、原作とは異なっている。原作ではチャルはオモルの関心を惹きつけることに気を取

られ、ブポティの苦境に気づくことはない。オモルが先に異変を察知し、それが最終的なイギ

リス行きへの強い動機にもなるのである。

持ち込まれた結婚話を承諾する原作とは異なり、映画ではオモルは結婚するのではなく、こ

うした状況でやっかいになってはいられないと黙って家を出て行ってしまう。オモルは逡巡し

た末にチャルが贈った刺繍入りのスリッパを置いていく。朝になってオモルの不在を告げられ

たチャルは動揺するが、ブポティはオモルの心情を説いて聞かせるのである。

次のシーンは双眼鏡から眺める海の光景から始まる。もちろん見ているのはチャルで、ブポ

ティとともに海辺にやってきたようである。ここから先、結末までの部分は原作と大きく異な

っている。原作では最後の 6 章を費やして、チャルに歩み寄ろうとするブポティやそれに対す

るチャルの困惑や複雑な心の動きが丁寧に語られる。そしてそうしたやり取りの末にブポティ

はチャルの思いに気づくのだが、映画ではいきなりこの海のシーンになる。ここまでの時間の

経過は明確ではなく、この時点でのチャルの心の内も明確ではないが、ここでの二人は明らか

に歩み寄りを見せている。海辺でブポティはチャルにもう書かないのかと尋ねる。なぜ、と問

うチャルに、ブポティはチャルの書いたものはよくわかる、ほかの人が書いたものはわからな

いけれど、と言う。ブポティの同じような台詞は原作にもあるが、そこではチャルはにべもな

い答えをし、苛つくだけである。それに対し映画では、チャルはあなたがまた新聞を始めたら

書くわよ、と言う。そこから二人の間で、ブポティが英語欄を担当してチャルがベンガル語欄

を埋めるという新しい形態の新聞を作る話が盛り上がる。その思いつきにブポティは興奮し、

すぐに家に帰って始めようと提案するのである。

すっかり元気を取り戻して家に戻ってきた二人だが、そこにはオモルからの手紙が届いてい

た。さっそく新しい新聞の相談をするためにブポティが出かけると、チャルはオモルの手紙を

握りしめて泣き崩れる。しかし出かけたと思ったブポティは嵐の兆候を見て戻ってきてしまい、

オモルの名を口にしながら泣きじゃくるチャルを見てしまう。思わず踵を返して出ていくブポ

ティとそれに気づいて後姿を認めるチャル。この場面の嵐の使い方も興味深い。突風が部屋に

吹き込むと同時にチャルは泣き崩れるのだが、その同じ嵐がブポティを家に引き返させる。そ

してこの映画の中で嵐のシーンは、オモルの最初の登場と、この場面だけに現れる。

次の場面ではブポティが涙を浮かべつつ馬車に乗っている。一方チャルは落ち着きを取り戻

してオモルの手紙を読む。読み終わったチャルは何とも言えない表情を浮かべて手紙を破く。

再びカメラはブポティを映し出すが、ブポティは涙を拭いているハンカチが、チャルの刺繍し

てくれたものであることに気づくのである。

そして最後の場面。チャルは身づくろいをして、髪の分け目にシンドゥールを塗っている。

シンドゥールは既婚女性が必ず塗るもので、チャルのこの行動は、ブポティの妻として生きる

意志をあらわしているようにも見える。チャルはオモルが置いていった刺繍入りのスリッパを

取り出して椅子の前に置く。これはおそらく夫がいつも座る椅子であろう。振り返ればこのス

リッパはそもそもブポティのためのものだったのである。ブポティは戻ってきたが、戸口に立

ち尽くしている。そのブポティにチャルが手を差し伸べ、ブポティがその手を取ろうとすると

ころで静止画像となり映画は幕となる。つまり、明確ではないものの、二人がこれからともに

生きていくことを予感させて映画の物語は終わっている。

さて、この原作とは異なる結末部分であるが、それについてサタジットは以下のように語っ

ている。

わたしが考えるに、チャルを捨てて旅立つことは、タゴールの造形したブ

ポティの性格にはそぐわないものである。しかしだからと言って、この状況

で新たに喜びの巣を造ることは可能なのだろうか?和合は可能なのか?二人

ともお互いの罪を許し、共に暮らすことはできるのだろうか?

……だからこのシーンでは手と手を合わせてはいない。この先合わせるこ

とができるのか?それはわからないし、わかる必要もない。タゴールもそれ

を知る必要を感じてはいなかったに違いない。今日そうあるように、家とい

うものが毀れ、信頼も失われ、子供っぽい想像の世界から厳しい現実の世界

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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に二人はやってきた。それこそが重要なことであり、『毀れた巣』のテーマな

のである。そしてわたしが考えるに『チャルロタ』においてもそのテーマは

変わっていない。22)

つまりサタジットによれば、原作の結末も映画の結末も、おとぎ話的な「家」、つまり幻想の

終焉を意味し、この先の「本物の現実」を予感させるという意味で同じであるということにな

る。広い意味で捉えればそうとも言えるだろう。しかし素直に原作を読み、そして映画を見た

鑑賞者にとっては、これらはやはり同じ結末とは感じえないものではないだろうか。

先に挙げた文章は、「チャルロタについて(Charulata prasange)」という小文から取られて

おり、ここに至るまでの論の展開で、サタジットはかなり詳しく『チャルロタ』の構成につい

て述べている。総じてこの一文には映画にするためのテクニカルな改編が語られており、それ

によってサタジットは、この『チャルロタ』は自分なりの解釈やオリジナリティーを追求した

ものではなく、あくまで原作に忠実に映画化したものであることを主張しているように読み取

れる 23)。

サタジットの『チャルロタ』論には興味深い記述がいくつかある。ウマポドの不正やオモル

の結婚話についての細部の筋を変えなければならなかった理由のほかに、時間の感覚について

の鋭い指摘がある。例えば原作では「ときどき(majhe majhe)」「毎日(pratidin)」「時おり(samay

samay)」などの表現が頻発するが、映画では「ときどき」や「毎日」同じようなシーンを見せ

ることはできないとサタジットは述べている 24)。確かに文章においてはひとことで述べられる

こうした記述を画像でそのままあらわすことはできない。ただしここでもまた、サタジットは、

こうした映画におけるテクニカルな問題を原作と異なる場面を追加せざるを得なかった理由と

して述べているのであり、積極的に原作とは異なるものとしての映像表現を主張しているので

はない。

奇妙なことに、この一文でサタジットは、映画で特徴的な、そして効果的な「改編」であっ

た双眼鏡や刺繍にまつわるシーン、そして嵐などについてまったく触れていない。しかしこれ

らこそが映画としての説得性であり、原作では現れえなかったチャルなのではないか。最後に

この点について構造的な観点から考察してみたい。

4. 『チャルロタ』の構造

あらためて映画の構造を見てみると、さまざまな個所でシーンが対をなすように構成されて

いることに気づく。映画はまずチャルが刺繍をしているシーンからはじまるが、最後の場面で

はその刺繍入りのハンカチを見てブポティが戻ってくる。あるいは映画の最初の台詞はチャル

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237 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

が使用人を呼ぶものだが、映画の最後では向かい合った二人のところに同じ使用人がランプを

持ってくる。あるいはチャルとオモルのからみは嵐に始まり嵐に終わるなど注意深く配置され

たシーンや、あちこちに垣間見られる伏線の結果、原作とは異なる結末は不自然なものとはな

っていない。例えばチャルの刺繍入りのスリッパはそもそもブポティのために作られたもので

あり、いったんオモルに贈られたにせよ、結局ブポティのためのものとなるなど、原作にはな

い伏線が最後にうまく回収されているのである。嵐についてさらに加えると、オモルの最初の

登場は嵐であらわされ、最後にチャルがオモルの名を呼びながら泣きじゃくる場面も嵐ととも

にあらわされているが、ここでこうして感情を爆発させることによってチャルはある種自分の

気持ちに決着をつけているように見える。だからこそチャルは居住まいを正し、ブポティを待

っているのであり、最後にブポティに手を差し伸べることができるのである。つまり嵐から嵐

の間の部分はチャルとオモルを巡る物語の変奏部分となっており、嵐の前と後はチャルとブポ

ティの二人の一種の均衡状態――最後の均衡状態が最初の均衡状態が異なったものとなってい

ることは言うまでもない――になるという対称的な構造をなしていると言えるだろう。

原作の『毀れた巣』はタゴール作品の中でもよく知られたもので、これをすでに読んだ読者

は、その圧倒的な心理描写によってすでに独自のチャルロタ像を持っていることが予測できる。

そのためこの結末は、そうした観客にとっては違和感を感じさせるものになる可能性がある。

しかし上に述べたように、映画「だけ」を見れば、最初の段階から原作にはない、あるいは異

なるさまざまなシーンがあちこちに配置されており、その積み重ねによって納得のいく結末と

なっているのではないだろうか 25)。

この映画にはもうひとつ興味深い事実がある。それは映画のタイトルである。サタジットは

文芸作品を映画にするとき、原則タイトルを変えることはなく、『毀れた巣』の映画化タイトル

が『チャルロタ』になる、というのは珍しい例であると言える。ただしそれによってサタジッ

トがなんらかの独自の主題を主張していると考えるのもまた早計である。なぜならそれは偶然

によって生まれたものだからである。サタジットは始め、この映画のタイトルも恒例通り『毀

れた巣』にするつもりだったが、そのタイトルがすでにほかのだれかによって登録されてしま

っており、別のタイトルにすることを余儀なくされたと伝えられる。考えを巡らせた末に、サ

タジットは映画のタイトルを『チャルロタ』にする。そして「このタイトルが映画に合うかど

うか見てみよう」と言ったという 26)。

この偶然の改編はしかし、期せずして映画の性格を表しているとは言えないだろうか。原作

においても主人公はチャルロタであることは間違いない。しかし原作ではチャルよりずっと少

ないとはいえオモルやブポティの心の動きも語られているのに対し、映画の中で心の動きが読

めるのはチャルのみである。例えばブポティに関しては、原作では新聞に夢中でチャルにさし

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

238

たる関心を向けていない時期――それは主としてチャルがオモルに心を傾けていく時期でもあ

る――にはその心の内はあらわれないものの、最後の六章においてチャルの傍に自らの居場所

を見出そうとする場面では、ブポティの側のさまざまな葛藤も描かれている。この六章は映画

ではほぼ削られてしまっているが、この部分は映像化しにくい以上に、焦点がずれてしまう危

険性をはらんでいたのではないか。

すでに述べたように、チャルの心の動きは双眼鏡(から見ているもの)やしばしばアップに

される表情によってあらわされているが、ほかの登場人物にはそれに匹敵する場面はない。オ

モルははじめ快活で、チャルをからかう場面は生き生きとしているし、また登場シーンの最後

には思いつめた表情も見せるが、チャルのように極端な顔のアップはない。この映画は終始チ

ャルの視点から描かれており、全知の視点を避けることによってメロドラマになることを回避

しているとも言える。つまり、映画『チャルロタ』の中心はあくまでチャルロタの心の動きに

あり、その「巣」が毀れてしまうかどうかという事実にはないのである。原作ではブポティが

逡巡の末にチャルを連れて行こうとすると、チャルが結局「やめておきましょう」と断って終

わる。それに対し、映画では二人の手は合わされないままであろうとも、チャルが手を差し伸

べているシーンが最後の場面となる。つまりチャルはブポティを受け入れると決意していると

いう点で、チャルの心の動きに焦点を合わせてみれば、映画の結末は原作とは正反対なのであ

る。

つまりサタジット自身はそう主張してはいないものの、そしてサタジットがどれだけ意識的

であったかも明確ではないものの、映画『チャルロタ』の主題はチャルの心そのものであり、

そしてそのように見たとき、この映画は真価を発揮する。

おわりに

サタジットがことさらに『チャルロタ』のオリジナリティーを主張しなかったことについて

はいくつか理由が考えられる。まず原作者のタゴールは、ベンガル人にとって単なる偉大な詩

人、もしくは作家を超えた存在であることが挙げられよう 27)。タゴールの作品に手を入れるこ

とはできない、という風潮は確かに存在するし、サタジット自身にもそれに「手を入れる」と

いう意図はなかっただろう。しかしそれでもなお、サタジットの『チャルロタ』は、その「読

み」自体が「彼の」作品となっており、偶然のタイトルに合致したかたちで新たなチャルロタ

像を提示していることはすでに述べたとおりである。

最後にひとつ、この作品が一種のタゴールへのオマージュになっているのではないかという

点を付け加えたい。サタジットは 1961 年のタゴール生誕百周年に際してはドキュメンタリー映

画を撮っているが、――そしてそのことはタゴールソング・シンガーでもあった母をことさら

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239 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

たる関心を向けていない時期――それは主としてチャルがオモルに心を傾けていく時期でもあ

る――にはその心の内はあらわれないものの、最後の六章においてチャルの傍に自らの居場所

を見出そうとする場面では、ブポティの側のさまざまな葛藤も描かれている。この六章は映画

ではほぼ削られてしまっているが、この部分は映像化しにくい以上に、焦点がずれてしまう危

険性をはらんでいたのではないか。

すでに述べたように、チャルの心の動きは双眼鏡(から見ているもの)やしばしばアップに

される表情によってあらわされているが、ほかの登場人物にはそれに匹敵する場面はない。オ

モルははじめ快活で、チャルをからかう場面は生き生きとしているし、また登場シーンの最後

には思いつめた表情も見せるが、チャルのように極端な顔のアップはない。この映画は終始チ

ャルの視点から描かれており、全知の視点を避けることによってメロドラマになることを回避

しているとも言える。つまり、映画『チャルロタ』の中心はあくまでチャルロタの心の動きに

あり、その「巣」が毀れてしまうかどうかという事実にはないのである。原作ではブポティが

逡巡の末にチャルを連れて行こうとすると、チャルが結局「やめておきましょう」と断って終

わる。それに対し、映画では二人の手は合わされないままであろうとも、チャルが手を差し伸

べているシーンが最後の場面となる。つまりチャルはブポティを受け入れると決意していると

いう点で、チャルの心の動きに焦点を合わせてみれば、映画の結末は原作とは正反対なのであ

る。

つまりサタジット自身はそう主張してはいないものの、そしてサタジットがどれだけ意識的

であったかも明確ではないものの、映画『チャルロタ』の主題はチャルの心そのものであり、

そしてそのように見たとき、この映画は真価を発揮する。

おわりに

サタジットがことさらに『チャルロタ』のオリジナリティーを主張しなかったことについて

はいくつか理由が考えられる。まず原作者のタゴールは、ベンガル人にとって単なる偉大な詩

人、もしくは作家を超えた存在であることが挙げられよう 27)。タゴールの作品に手を入れるこ

とはできない、という風潮は確かに存在するし、サタジット自身にもそれに「手を入れる」と

いう意図はなかっただろう。しかしそれでもなお、サタジットの『チャルロタ』は、その「読

み」自体が「彼の」作品となっており、偶然のタイトルに合致したかたちで新たなチャルロタ

像を提示していることはすでに述べたとおりである。

最後にひとつ、この作品が一種のタゴールへのオマージュになっているのではないかという

点を付け加えたい。サタジットは 1961 年のタゴール生誕百周年に際してはドキュメンタリー映

画を撮っているが、――そしてそのことはタゴールソング・シンガーでもあった母をことさら

に喜ばせたと伝えられる――タゴールがサタジットにとって特別な存在であり、またサタジッ

トがその人となりを含めてタゴールを深い次元で理解していた、あるいは少なくともサタジッ

ト自身、自らのタゴール理解に自信を持っていたことは想像に難くない。

映画『チャルロタ』には、よく知られたタゴール・ソングが 2 曲効果的に使われているが、

それもそうしたサタジットならではの演出であると言えるだろう。はじめの一曲、「花は花は揺

らぐ揺らぐ(phule phule dhale dhale)」は登場して間もないオモルによってまず歌われるが、

庭でチャルが口ずさむ場面が特に秀逸である。この歌は花や川やカッコーの鳴き声に彩られた

春の喜びを歌ったもので、庭の草木に囲まれてチャルがブランコを漕ぎつつ口ずさむのにまさ

にふさわしい。カッコーの声は伝統的に愛を象徴しており、その意味でもこの歌はこのシーン、

ひいては映画全体に深みを与えていると言えよう。そしてさらにその次に来る最後の一節、「な

ぜかわからない、なんのために心が締め付けられるのか(ki jani kiseri lagi pran kare hay hay)」

を口ずさみながら、ふと曇るチャルの表情を映し出す映像も印象的である。歌詞と映画のシー

ン、そしてチャルの心情が一体となっている見事な演出である。

もう一曲の「わたしは君を知っている(ami chini go chini tomare)」は物語の中盤、オモル

によって歌われる。これは「異国のひと(bideshini)」と呼ぶ女性に対するある種の愛の歌だが、

オモルはその歌を完璧に歌ってみせたうえ、最後の一節で「異国のひと」を「義姉さん

(bauthakurani)」に差し替えて歌うのである。オモルは戯れにそうしているように見えるが、

それでもなお、これはチャルに対する一種の愛の告白とも言えるもので、このあとチャルが例

のスリッパを取り出して渡そうとする場面に続く。

このほかにもこの映画にはさまざまな歌が用いられ、それはベンガル人以外にはほぼ感知で

きないものの、この「わかる人にはわかる」という絶妙な組み合わせ 28)は、まさに音楽監督と

してのサタジットの面目躍如と言えよう。

このようにタゴール・ソングを随所で使ってみせたサタジットだが、タゴールはサタジット

のメンターとしての役割を果たしていたという点もしばしば指摘されている 29)。サタジット作

品が当時の主流である娯楽的なベンガル映画とは一線を画していたことはすでに述べたが、そ

れらとは異なる「社会派」映画の主流ともサタジット映画は異なっていた。すなわちこの時代、

ベンガルでは左翼思想が強い影響力を持ち、同時代で同じく高く評価されていた――ただし海

外での評価はもっと時代が下ってからとなる――リッティク・ゴトク(Ritwik Ghatak 1925-76)

らはその流れに位置付けられるが、サタジットはそれとも対極の存在だったのである。サタジ

ット作品はしばしば「問題意識がない」と批判されたが、その作品全体をつらぬく「人道主義」

とも称されたトーンに、タゴールと似た立ち位置を見出すのはあながち無理なことではない。

総じて映画『チャルロタ』はサタジットによる「毀れた巣」の別ヴァージョンと考えるべき

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語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

240

であること、そしてそれは異なるヴァージョンとしての独自の完成度を持っていることはすで

に述べたとおりであるが、それはまた、タゴールを知り尽くしたサタジットならではのもので

あったこともまた確かである。

1) サタジット映画は、ヒンディー語作家プレームチャンド原作のものを除き、すべてベンガル語映画で

ある。インドではトーキー以後言語別に映画が作られているため、サタジット映画は基本的にベンガ

ルで公開されるものであった。サタジットは世界的にその名を知られるようになったほぼ初めてのイ

ンド人監督であるため、インドを代表する映画監督と捉えられるが、インドでは字幕をつけて映画鑑

賞する習慣がほとんどないため、ベンガルを除けば海外の方がサタジット映画にアクセスしやすいと

いう側面もある。 2) [Sarkar 1992: 78] サタジットは正式に音楽の教育を受けたことはないが、映画に夢中になる前は音

楽に最も熱を上げていたようである。家系を紐解けば、父シュクマルは歌が得意で、祖父ウペンドロ

キショルは当時としてはめずらしいヴァイオリンを弾いていた。母もタゴール・ソング(タゴールの

作った歌)の歌手であり、タゴール本人より教授されたこともある。また青年期を過ごした母方の家

には当時としてはめずらしく蓄音機と西洋古典音楽のレコードもあったといい、サタジットはインド

古典音楽、西洋古典音楽、タゴール・ソングという幅広い素養を持ち、それは例えば『音楽堂』(1958)などに生かされた。なお、ここで扱う『チャルロタ』の音楽もサタジットが担当している。

3) タゴール原作のサタジット作品は『三人娘』(1961)、『チャルロタ』(1964)、『家と世界』(1984)の 3本だが、『三人娘』は実際には女性を主人公とする三篇の異なる短編小説をそれぞれ映画化したもので、

短編映画三本でひとつになったものである。 4) [Ray, Satyajit 1994: 79]サタジットによると、ほとんどの場合原作者本人が映画を認めてくれたため異

論はあまり出なかったが、タゴールの場合はすでに故人だったことと絶大な存在であったことから批

判にさらされたとのことである。 5) [Ray, Satyajit 1992b: 18] 6) 1961 年、サタジットは父の死によって途絶えていた「ションデシュ」の再発行に踏み切る。それとと

もにサタジットは本格的に創作にも取り組むようになり、父や祖父と同じように、そしてまたまった

く違う個性を持った児童文学者としても大成していった。さらにサタジットは祖父ウペンドロキショ

ル原作の『グピとバガの冒険』(1968)を撮ったほか、父に関してはドキュメンタリー・フィルム『シ

ュクマル・ラエ』(1987)を作成した。 7) Nandalal Bose(1882-1966)ベンガルを代表する画家の一人。ビッショ・バロティ大学美術学科長を務

め、横山大観などの日本画家との交流でも知られる。 8) Binod Bihari Mukhopadhyay(1904‐80)もともと目に障害を持って生まれ、生まれつき片方の眼は見

えなかったが、ビッショ・バロティ大学の美術学科に学び、画家として大成、同大学などで教鞭を取

り多くの後進を育てた。のちには不成功に終わった手術の結果、完全に視力を失っている。サタジッ

トはこの恩師を尊敬し、『心の眼』(1972)と題するドキュメンタリー・フィルムを作成した。 9) 原題は Pather Panchali(道の物語)、1929 年に初版が出たが、それ以前の雑誌連載当時から絶大な支

持を受けたベンガル語小説。実はサタジットはそれまでこの作品を読んだことがなく、会社から派遣

されてイギリスに出発する直前にシグネットプレス(Signet Press)のディリップ・グプタにこの本を

渡され、「そのままでは君の教育は未完成だ」と言われたとのことである。イギリスに向かう船中サタ

ジットはこの本を読んで夢中になり、帰路の船中で台本を書き上げた。[Ray, Bijoya 2008: 95] 10) [Sarkar 1992: 85] 11) [Sarkar 1992: 55] 『家と世界』はずっとのちの 1984 年にサタジットによって映画化された。 12) サタジットの 2 作目『大河のうた(Aparajit)』(1956)は『大地のうた』の続編で、これもヴェネチア

国際映画祭サン・マルコ金獅子賞を受賞するなど、海外で高い評価を得た。その後もサタジット映画

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241 東京外国語大学論集第 96 号 (2018)TOKYO UNIVERSITY OF FOREIGN STUDIES, AREA AND CULTURE STUDIES 96(2018)

であること、そしてそれは異なるヴァージョンとしての独自の完成度を持っていることはすで

に述べたとおりであるが、それはまた、タゴールを知り尽くしたサタジットならではのもので

あったこともまた確かである。

1) サタジット映画は、ヒンディー語作家プレームチャンド原作のものを除き、すべてベンガル語映画で

ある。インドではトーキー以後言語別に映画が作られているため、サタジット映画は基本的にベンガ

ルで公開されるものであった。サタジットは世界的にその名を知られるようになったほぼ初めてのイ

ンド人監督であるため、インドを代表する映画監督と捉えられるが、インドでは字幕をつけて映画鑑

賞する習慣がほとんどないため、ベンガルを除けば海外の方がサタジット映画にアクセスしやすいと

いう側面もある。 2) [Sarkar 1992: 78] サタジットは正式に音楽の教育を受けたことはないが、映画に夢中になる前は音

楽に最も熱を上げていたようである。家系を紐解けば、父シュクマルは歌が得意で、祖父ウペンドロ

キショルは当時としてはめずらしいヴァイオリンを弾いていた。母もタゴール・ソング(タゴールの

作った歌)の歌手であり、タゴール本人より教授されたこともある。また青年期を過ごした母方の家

には当時としてはめずらしく蓄音機と西洋古典音楽のレコードもあったといい、サタジットはインド

古典音楽、西洋古典音楽、タゴール・ソングという幅広い素養を持ち、それは例えば『音楽堂』(1958)などに生かされた。なお、ここで扱う『チャルロタ』の音楽もサタジットが担当している。

3) タゴール原作のサタジット作品は『三人娘』(1961)、『チャルロタ』(1964)、『家と世界』(1984)の 3本だが、『三人娘』は実際には女性を主人公とする三篇の異なる短編小説をそれぞれ映画化したもので、

短編映画三本でひとつになったものである。 4) [Ray, Satyajit 1994: 79]サタジットによると、ほとんどの場合原作者本人が映画を認めてくれたため異

論はあまり出なかったが、タゴールの場合はすでに故人だったことと絶大な存在であったことから批

判にさらされたとのことである。 5) [Ray, Satyajit 1992b: 18] 6) 1961 年、サタジットは父の死によって途絶えていた「ションデシュ」の再発行に踏み切る。それとと

もにサタジットは本格的に創作にも取り組むようになり、父や祖父と同じように、そしてまたまった

く違う個性を持った児童文学者としても大成していった。さらにサタジットは祖父ウペンドロキショ

ル原作の『グピとバガの冒険』(1968)を撮ったほか、父に関してはドキュメンタリー・フィルム『シ

ュクマル・ラエ』(1987)を作成した。 7) Nandalal Bose(1882-1966)ベンガルを代表する画家の一人。ビッショ・バロティ大学美術学科長を務

め、横山大観などの日本画家との交流でも知られる。 8) Binod Bihari Mukhopadhyay(1904‐80)もともと目に障害を持って生まれ、生まれつき片方の眼は見

えなかったが、ビッショ・バロティ大学の美術学科に学び、画家として大成、同大学などで教鞭を取

り多くの後進を育てた。のちには不成功に終わった手術の結果、完全に視力を失っている。サタジッ

トはこの恩師を尊敬し、『心の眼』(1972)と題するドキュメンタリー・フィルムを作成した。 9) 原題は Pather Panchali(道の物語)、1929 年に初版が出たが、それ以前の雑誌連載当時から絶大な支

持を受けたベンガル語小説。実はサタジットはそれまでこの作品を読んだことがなく、会社から派遣

されてイギリスに出発する直前にシグネットプレス(Signet Press)のディリップ・グプタにこの本を

渡され、「そのままでは君の教育は未完成だ」と言われたとのことである。イギリスに向かう船中サタ

ジットはこの本を読んで夢中になり、帰路の船中で台本を書き上げた。[Ray, Bijoya 2008: 95] 10) [Sarkar 1992: 85] 11) [Sarkar 1992: 55] 『家と世界』はずっとのちの 1984 年にサタジットによって映画化された。 12) サタジットの 2 作目『大河のうた(Aparajit)』(1956)は『大地のうた』の続編で、これもヴェネチア

国際映画祭サン・マルコ金獅子賞を受賞するなど、海外で高い評価を得た。その後もサタジット映画

は、『大都会(Mahanagar)』(1963)、『チャルロタ』(1964)、『英雄(Nayak)』(1965)において三年連続

ベルリン国際映画祭監督賞を受賞し、73 年の『遠い雷鳴(Asani Sanket)』では同じくベルリン国際映

画祭の金熊賞を受賞するなど、国際的に評価されてきた。ただし興行的には必ずしも成功したわけで

はなく、サタジットの映画は一貫していわゆる「芸術映画」として当時のインドもしくはベンガル映

画界の主流とは異なっていた。 13) [Sarkar 1992: 54] 14) 初出は 1901 年の Bharati 誌。単純に長さだけで見れば中編ほどの長さがあるが、通常短編小説集に収

められる。 15) [Thakur 1946: 208] この小説には優れた日本語訳[タゴール 1981 大西正幸訳]もあるが、ここでは説

明の都合上すべて拙訳となっている。 16) 例えばタゴール自身の妻、ムリナリニは結婚当時 10 歳に満たず、対するタゴールは 22 歳であった。

当時はこのような幼な妻はめずらしくなく、また夫婦の年齢が離れているのも普通であった。 17) 多くの親族が同居する当時のジョイント・ファミリーでは、このように比較的年の近いもの同士がし

ばしばある種緊密な関係を築いた。このあたりの事情については[丹羽 2011]の第六章「女性たち」

を参照。 18) [Thakur 1946: 231] 19) ちなみにサタジット自身はこの映画のなかのウマポドの造形について、原作では登場場面も限られて

いて人物像も曖昧になっているが、映画では「血肉のある」人間が演じるので具体的なキャラクター、

そしてなぜブポティを裏切ったのかの説明が必要になると再三述べている。[Ray, Satyajit 1983a: 80, 83, 85, 94, 98]

20) キンマの葉に包んで作る嗜好品の一種。 21) [Thakur 1946: 234] 22) [Ray, Satyajit 1983a: 99] 23) このサタジットの文章は、タゴールを原作とするサタジット映画に対する批判を受けてのものなので

多分に防衛的な側面がある。 24) [Ray, Satyajit 1983a: 86-7] 25) 原作を読んでいない非ベンガル語圏の鑑賞者と原作のイメージがある地元の鑑賞者ではこの映画の受

け取り方は異なることが考えられる。映画『チャルロタ』は 1965 年のベルリン国際映画祭で監督賞を

受賞したほか、欧米では高く評価され、そのチェーホフ的な雰囲気が指摘されたり、「女の映画」であ

るとしてフェミニズムの観点から評価されたりもした。[Sarkar 1992: 108, 112] 26) [Ray, Bijoya 2000: 241]夫人の証言による。 27) サタジットが『チャルロタ』の脚本に着手する前、少し筋を直さなければならないと夫人に語ったと

ころ、夫人は「タゴールの書いたものに手をいれるなんて勇気があるわね」と言ったとのことである。

このようにタゴール作品に手を加えるということに関して、一般にベンガルでは抵抗感があると言え

よう。ただし夫人はできあがった脚本を読んでその出来具合に感嘆したそうである。ちなみにサタジ

ットはすべての脚本をまず夫人に読ませていた。[Ray, Bijoya 2000: 238] 28) 例えばブポティが開催する宴で歌われる歌のひとつはあるタゴール・ソングの原曲になっており、そ

のタゴール・ソングの歌詞(映画ではあらわれない)が映画の主題と結びついているという見方も存

在する。 29) [Dasgupta 1994: 14]

参考文献

Dasgupta, Chidananda. 1994. The Cinema of Satyajit Ray. New Delhi: National Book Trust. Goopru, Sharmisha. 2011. Bengali Cinema. London: Routledge. Ray, Bijoya. 2000. Satyajit Ray at Work. Kolkata: Lustre Press. ――――. 2008. Amader Katha. Kolkata: Anand Publishers.

Page 20: Film As a Narrative A Study of Charulatarepository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/92408/1/acs096012...Satyajit Ray (1921-92), a representative film director of Bengal or even India, directed

語りとしての映画~『チャルロタ』考~ :丹羽 京子Film As a Narrative ~ A Study of Charulata ~ : NIWA Kyoko

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Ray, Satyajit. 1976. Our Films, Their Films. Kolkata: Orient Longman Ltd. ――――. 1982a. Bishay Chalcchittra. Kolkata: Ananda Publishers. ――――. 1982b. Yakhan Chhoto Chhilam. Kolkata: Ananda Publishers. Sarkar, Bidyut. 1992. The World of Satyajit Ray. New Delhi: UBS Publishers. Thakur, Rabindranath. 1946. “Nashtanir.” In Rabindra Rachanabali 22. Kolkata: Visvabharati, pp207-263. 浅沼圭司 2005 『映画における「語り」について』 水声社 杉本良男 2002 『インド映画への招待状』 青弓社 タゴール 1981 大西正幸訳 「毀れた巣」『タゴール著作集』第四巻 第三文明社、pp75-131. 丹羽京子 2001 『タゴール』 清水書院 野崎歓編 2013 『文学と映画の間』 東京大学出版会 レイ、サタジット 1994 森本素世子訳、『わが映画インドに始まる』、第三文明社 DVD Charulata. 1964. Signature Collection, Reliance. チャルロタの映画は以下のサイトで見ることもできる。 https://www.youtube.com/watch?v=fpg89MTaU_U