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東レリサーチセンター The TRC News No.109(Mar.2010) 25 ●Incurred Sample Reanalysis(ISR)の実施状況について 1.はじめに 医薬品の研究開発においては、被験薬をヒト等に投 与した時に発現する薬効薬理や毒性と体内薬物濃度と の相関を調べることが重要な要素である。特に、ヒト に初めて被験薬を投与する前に毒性評価を目的として 実施される安全性試験のトキシコキネティクス(TK測定、並びにヒトに投与する臨床試験のファーマコキ ネティクス(PK)測定においては、その目的上、よ り信頼性の高い定量値が求められる。そのため、事前 に厳格な分析法バリデーションが実施され、信頼性が 検証された分析法がこれらの薬物濃度測定に適用され る。しかしながら、実際の検体測定においては、検証 された分析法で測定を行っていても想定外の事態が定 量値の信頼性に影響を及ぼす場合がある。こうしたこ とから、定量値の信頼性をより確実なものにするため に、米国食品医薬品局(FDA)の指導を受けて欧米で Incurred sample reanalysis(以下、ISR)が広く実施 されている。一方、国内申請においては現状ISRの実 施は求められていないが、海外申請でのデータ活用を 想定して、一部でISRが実施されている。本稿では弊 社におけるISR実施状況を紹介する。 2.ISR実施の背景 2.1 分析法バリデーションについて 現在、生体試料中における低分子薬物の濃度測定に は、高感度かつ高選択的な測定が可能なLC/MS/MS広く利用されている。分析法バリデーションでは、表1 に示す基本項目(下線で示した項目を除く)が、HPLC が薬物濃度測定に多用されていた1990年代から実施され ており、FDA Bioanalytical Method validationガイダン 1) にも記載がある。一方で、ガイダンス発行当時、既 に主流になりつつあったLC/MS/MSを用いた薬物濃度 測定では、マトリックスの違いや併用薬の共存が測定対 象物質のイオン化を抑制又は促進し、定量値に影響を及 ぼすことが知られるようになった。また、高感度化され る質量分析計にオートサンプラーの性能が追いつかず、 注入機構周りに残留した微量の薬物が次のサンプル測定 時に検出されて定量値に影響を及ぼすキャリーオーバー が問題となった。こうしたことから、表1に下線で示す バリデーション項目が追加的に実施される事例が増加し た。20065月に開催された第3AAPS(米国薬学会︶/ FDA Bioanalytical WorkshopCrystal City III)におい て分析法バリデーションに関する討議がなされ、得られ たコンセンサスが翌20072月にWorkshop/Conference reportWhite paper2) にまとめられた。White paperは、ISR をはじめ、Matrix effectsCarry-over effectどの新たな項目が記載されている。 2.2  Incurredsamplereanalysis(ISR)とは ISRとは、被験薬を動物やヒトに投与後に採取した血 漿等の検体を再測定して定量値の再現性を確認すること である。FDAISRの実施を求めている背景は、第3AAPS/FDA Bioanalytical Workshop2008年の質量分 析総合討論会で調査事例として紹介されている。すなわ ち、分析法バリデーションで良好な結果が得られた分析 法を実際の検体測定に適用したにもかかわらず、初回測 定値と再測定値の乖離が20%超を示した試験の調査事例 が多数認められ、また乖離が大きい事例は被験者母集団 や被験者により偏りがあったことが示された。弊社にお いても、ISRにおける事例ではないが、過去に同様な経 験をしている。すなわち、分析法バリデーションは判定 基準を満たしていたが、試験Xで臨床検体の測定に適用 すると問題が生じた。初回測定値が検量線上限を超えた ため、ブランク血漿で希釈後再測定を行ったところ、初 回測定値[検量線外挿値(参考値︶]と再測定値の乖離 が大きな検体が多数確認され、被験者によっては全時点 20%超の乖離が認められた。詳細は割愛するが、定量 値が被験者の個体差の影響を受けた事例といえる。 ISR の具体的な実施方法は 2008 2 月の AAPS Workshopでハーモナイズされ、20094月にWorkshop report 3) が公表されている。 IncurredSampleReanalysis(ISR) の実施状況について 薬物動態研究部 野口 隆典 表1 基本的な分析法バリデーション項目

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東レリサーチセンター The TRC News No.109(Mar.2010)・25

●Incurred Sample Reanalysis(ISR)の実施状況について

1.はじめに

 医薬品の研究開発においては、被験薬をヒト等に投与した時に発現する薬効薬理や毒性と体内薬物濃度との相関を調べることが重要な要素である。特に、ヒトに初めて被験薬を投与する前に毒性評価を目的として実施される安全性試験のトキシコキネティクス(TK)測定、並びにヒトに投与する臨床試験のファーマコキネティクス(PK)測定においては、その目的上、より信頼性の高い定量値が求められる。そのため、事前に厳格な分析法バリデーションが実施され、信頼性が検証された分析法がこれらの薬物濃度測定に適用される。しかしながら、実際の検体測定においては、検証された分析法で測定を行っていても想定外の事態が定量値の信頼性に影響を及ぼす場合がある。こうしたことから、定量値の信頼性をより確実なものにするために、米国食品医薬品局(FDA)の指導を受けて欧米ではIncurred sample reanalysis(以下、ISR)が広く実施されている。一方、国内申請においては現状ISRの実施は求められていないが、海外申請でのデータ活用を想定して、一部でISRが実施されている。本稿では弊社におけるISR実施状況を紹介する。

2.ISR実施の背景

2.1 分析法バリデーションについて 現在、生体試料中における低分子薬物の濃度測定には、高感度かつ高選択的な測定が可能なLC/MS/MSが広く利用されている。分析法バリデーションでは、表1に示す基本項目(下線で示した項目を除く)が、HPLCが薬物濃度測定に多用されていた1990年代から実施されており、FDA Bioanalytical Method validationガイダンス1) にも記載がある。一方で、ガイダンス発行当時、既に主流になりつつあったLC/MS/MSを用いた薬物濃度測定では、マトリックスの違いや併用薬の共存が測定対象物質のイオン化を抑制又は促進し、定量値に影響を及ぼすことが知られるようになった。また、高感度化される質量分析計にオートサンプラーの性能が追いつかず、注入機構周りに残留した微量の薬物が次のサンプル測定時に検出されて定量値に影響を及ぼすキャリーオーバーが問題となった。こうしたことから、表1に下線で示すバリデーション項目が追加的に実施される事例が増加した。2006年5月に開催された第3回AAPS(米国薬学会︶/

FDA Bioanalytical Workshop(Crystal City III)において分析法バリデーションに関する討議がなされ、得られたコンセンサスが翌2007年2月にWorkshop/Conference report(White paper︶2) にまとめられた。White paperには、ISR をはじめ、Matrix effectsやCarry-over effectなどの新たな項目が記載されている。

2.2 �Incurred�sample�reanalysis�(ISR)とは ISRとは、被験薬を動物やヒトに投与後に採取した血漿等の検体を再測定して定量値の再現性を確認することである。FDAがISRの実施を求めている背景は、第3回AAPS/FDA Bioanalytical Workshopや2008年の質量分析総合討論会で調査事例として紹介されている。すなわち、分析法バリデーションで良好な結果が得られた分析法を実際の検体測定に適用したにもかかわらず、初回測定値と再測定値の乖離が20%超を示した試験の調査事例が多数認められ、また乖離が大きい事例は被験者母集団や被験者により偏りがあったことが示された。弊社においても、ISRにおける事例ではないが、過去に同様な経験をしている。すなわち、分析法バリデーションは判定基準を満たしていたが、試験Xで臨床検体の測定に適用すると問題が生じた。初回測定値が検量線上限を超えたため、ブランク血漿で希釈後再測定を行ったところ、初回測定値[検量線外挿値(参考値︶]と再測定値の乖離が大きな検体が多数確認され、被験者によっては全時点で20%超の乖離が認められた。詳細は割愛するが、定量値が被験者の個体差の影響を受けた事例といえる。  I SRの具体的な実施方法は 2 0 0 8年 2月のAAPS Workshopでハーモナイズされ、2009年4月にWorkshop report3) が公表されている。

Incurred�Sample�Reanalysis(ISR)の実施状況について

薬物動態研究部 野口 隆典

表1 基本的な分析法バリデーション項目

26・東レリサーチセンター The TRC News No.109(Mar.2010)

●Incurred Sample Reanalysis(ISR)の実施状況について

3.定量値の再現性が得られない原因

 定量値が再現しない原因には様々な理由が考えられる。表2にLC/MS/MS分析における代表的な原因例を示す。これらの問題点を事前に十分クリアにして分析法を開発することが望ましいが、未知の代謝物や臓器不全患者などの病態マトリックスの影響は通常事前に確認することは難しい。また、人為的ミスを完全に防ぐことは不可能であるが、ミスを防止するシステムを構築した上で担当者に十分な教育を行い、操作ミスの発生を可能な限り少なくすることが肝要である。

4.ISRの実施状況

 弊社では2009年2月にISRの実施に関するSOPを発行した。以下に弊社におけるISRの標準的な実施方法について概略を紹介する。

 対象となる試験 動物種、分析法ごとに1試験。最初に行われる安全性試験や臨床試験の検体で実施することが望ましい。均質な環境で飼育された動物を対象とするTK測定とは異なり、ヒトを対象とするPK測定では被験者や被験者母集団による差を受ける可能性が高いため、First in manだけでなく、First in patientや生物学的同等性試験など臨床試験の性質に応じて対象試験を設定する。

 ISR対象試料の選択方法 ISRのキーポイントになる作業が対象試料の選択である。実薬投与群の個別の検体を対象とし、TK測定で

は20検体を原則投与1日目から選択する。臨床試験では全検体の5~10%(20検体以上)を選択する。 次に選択方法の一例を述べる。初回測定値がCmax(最高血中濃度)付近と消失相付近の検体について、雌雄や群間の偏りがなるべく小さくなるように配慮して最低10例以上から対象検体を選択する。検体の選択に偏りがあると、ISRで定量値の異常を検出する能力が低下するため注意が必要である。

 判定基準・ 2/3以上の対象検体について初回測定値と再測定値の乖離が±20%以内(参考:Ligand binding assayは、2/3以上の対象検体について乖離が±30%以内)

 乖離(%)=︵再測定値-初回測定値︶/平均値×100

 データの取扱いと報告 ISRで得られた定量値は分析法の再現性の有無を確認することを目的としているため、TK測定やPK測定の報告値としては使用しない。また、ISRの結果は、初回測定値とISRで得られた再測定値、及び乖離をまとめた別表を濃度測定報告書に添付する。

 判定基準を満たさない場合の対応 試験委託者と協力して早期に原因究明に努める。原因が解決されるまでは測定を中止し、必要に応じて分析法を改良する。

5.おわりに

 これまでに当研究部では10試験以上(Ligand binding assayは3試験)のISRを実施し、結果はいずれも合格であった(判定基準を超える乖離を示した検体の割合は対象検体の5%未満︶。当研究部は、薬物濃度測定の豊富な実績に加え、問題解決型の分析受託施設として分析法開発や改良を強みとしており、引き続き試験を安心してご依頼頂けるよう努力して行きたい。

6.参考文献

1) Food and Drug Administration, Guidance for Industry: Bioanalytical Method Validation(2001).

2) Viswanathan CT, et al, Workshop/Conference Report (White paper), AAPS Journal, 9(1), E30-42(2007).

3) Fast DM, et al, Workshop Report and Follow-Up, AAPS Journal, 11(2), 238-241(2009).

■野口 隆典(のぐち たかのり) 薬物動態研究部 薬物動態研究室 主任研究員 趣味:旅行

表2 定量値の再現性が得られない原因の一例