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Instructions for use Title カントの宗教論 Author(s) 宇都宮, 芳明 Citation 北海道大學文學部紀要, 43(3), 1-79 Issue Date 1995-03-30 Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33649 Type bulletin (article) File Information 43(3)_PR1-79.pdf Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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Title カントの宗教論

Author(s) 宇都宮, 芳明

Citation 北海道大學文學部紀要, 43(3), 1-79

Issue Date 1995-03-30

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/33649

Type bulletin (article)

File Information 43(3)_PR1-79.pdf

Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP

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(1き95)北大文学部紀婆 43-3

カン

1:壬f

刀"

への商い

西

理性償却

家識と最高善

『宗教諭いの意図

希盟への聞い

以下

のように考えていたかを短るよ

と略記)であるが、カントはこ

っとも重要な著作は、

んなる理性の撒限界内にお

-1

ッチンゲン大学の神学教護シュトイドリンに

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カントの宗教諭

贈呈する際に一通の手紙を添えていて、そのなかにこの書物を理解するための鍵となる次の一節がある。「-|純粋哲

かなり以前から私が立てていた計画は、次の三つの課題を解決する

(形市上学)、二、私はなにをなすべきか(道徳)、三、

学の領域で私に課せられていた仕事にかんして、

ことでした。すなわち、

一、私はなにを知ることができるか

私はなにを希望することが許されるか(宗教)。私はお送りする書物『たんなる理性の限界内における宗教』で、私の

計画の第三部を完成しようと試みました。この仕事において私を導いたのは、良心を確保することと、キリスト教に

対する真の尊敬とでしたが、

その際またしかるべき公明正大さの原則が、

つまりなにごとも秘密にせず、

私がいかに

してキリスト教ともっとも純粋な実践理性との可能な合一を洞察したと信じたかをあからさまに述べるという原則

カ宝

私を導し3

てきました」

ま民ずさ第、

ここから読み取れることは、

-2

カントにとって、「宗教」とは「私はなにを希望することが許されるか」

という聞いにかかわる事柄であるということであり、第二に、この『宗教諭』では、「キリスト教ともっとも純粋な実

践理性との可能な合一L

が企てられているということである。そこで以下、この発言にそってカントの宗教諭を眺め

ることにするが、

ところでカントはすでに『純粋理性批判』(一七八一年)

の「方法論」第二章「純粋理性の規準L

なかで、

シュトイドリン宛の手紙にあるのと同じ三つの問いを掲げ、「私の理性の一切の(思弁的および実践的な)関

心」はこの三つの聞いに集約される、

と語っていた。(∞∞ωN円)

そこで上述の第一の問題、

つまり宗教がなぜ「私はな

にを希望することが許されるかL

という聞いにかかわるのかを探索するためには、

を検討してみる必要があろう。

まず『純粋理性批判』

のこの箇所

さて、『純粋理性批判』

のこの箇所でのカントの叙述によれば、「私はなにを知ることができるか」という第一の問

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いは、寸たんに思弁的」である。(切∞ωω)

ところで公刊された『純粋理性批判』が、その内容から見て『「純粋思弁理

であることを考えると、この『純粋理性批判』という書物の課題は、なによりもまず、この第一の問いに答

えることにあった、と見てよいであろう。つまりカントは、『純粋理性批判』の「分析論L

で、私はなにを確実な理論

的知識として知ることができるかを探究し、そうした確実な知識が成立するための諸条件を確定しようと試みたので

あって、他方この諸条件を満たしていない知識は、法外な知識(見せ掛げの知識)とじて排除される。「弁証論」の課

題は、このような法外な知識の仮象性を暴露し、純粋理性の諸理念は、悟性のカテゴリーとは違って、対象認識のた

たんに統制的にのみ使用されることを示すことにあった。

性批判』

めに構成的に使用されることはできず、

これに対して、

カントは第二の聞いを「たんに実践的」であるとし、第三の聞いを「実践的であると同時に理論的L

であるとするが、その際カントは、この第三の聞いを、「もし私がなすべきことをなすならば、私はなにを希望するこ

とが許されるか」という形で再提出する。(回包ω)

つまり第三の聞いは第二の聞いと無関係ではなく、第三の聞いを

-3-

問うためには、すでに第二の問いが問われていなければならない。シュトイドリン宛の手紙にあるように、第二の聞

いが道徳に、第三の問いが宗教にかかわるとすれば、宗教とはなにかを解明するためには、それに先立って道徳とは

なにかを解明する必要がある。宗教の解明は道徳の解明をまってはじめて可能である。ここにすでに、宗教に対する

カントの基本姿勢を、すなわち宗教は道徳のいわば延長線上に位置し、道徳を無視して宗教を語ることはできないと

いう基本姿勢を、読み取ることができるであろう。

では、

カントはまず「道徳」をどのように規定するのであろうか。寸私はなにをなすべきか」という第二の問いに対

して、

どのように答えるのであろうか。この間いは、私はどのような実践的法則に従って行為すべきかという聞いと

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

あって、

カントはこの実銭的法制問を

二つの実接的法艇を区躍する。その

な法則、も

Lくは「怜刑の短期」とよぶ。「幸福L

とは、

つは、「幸福受動閣とする実践的法制別L

同じと見てよいが、

カントはそこ

さしあたって

の規{況によると、「われわれのあらゆる額完性の溝口必官ぽ出えユ怠釘cpm弘山内海

CS号号

za告包mg]」であるが、

用的法尉L

は、われわれがそうした筆補そ乎に入れたいと膜うなら、なにをなすべきかを寸勧告」

。合聞き、「ph+品

み/・カイ耳

;t

経験を介してでなければ、

傾向性の満足を生じさせることができる自然原因がなんであるかを知ることも

法則は「経験的諸原理」に基づかざるをえないよお怨色後にカントは、吋道徳形宿上学の議礎づけ』(一

において、「定雷命法」と寸依言命法L

の思剥を導入し、「行為が幸揺促進のための手設として実路的に必然的である

マずL

「伎一言命法」を、「怜粥L

の命法として示、すが向。〈色白・てそこでも需じ趣替のことを語っている。すなわ

の毅念に属するすべての要素はことごとく経験的」であるから、「ひとは準揺であるために確実な原理に淀つ

ただ一平均的に幸福をもっともよく挺進すると思われる吋軽験的な患脅」に従

られることそ欲するどのような領向性が現にあるのかそ知るととができず、また

ぃL

のであるから、この実用的

こと

-4

ちで行為するととはできないL

のであり、

うほかない。

つまり「伶桝の命法L

は「行為晶化客観的に必黙的なものとし

それはその限りで「理性のム叩

AYとは言えず、せいぜい寸理性の勧告L

ことはできない

のであって、

にとどまるのである。(日〈民忽

こうした奨問問的法則と一区別されるいま一つの実畿的法制は、「幸福であるに錯すること

以外のなにも動因としない実銭的法制約」であって、カントはこれを「選議法制加しとよぶ。灘徳法制は、それが「鎖向

性ゃ、傾向性を講恩さそる自紫手段を捨象し、理性的存在者…畿の自由と、この自由がその下でのみ蹴灘に能って幸

一種の配分と合致する必然的諸条件だけに詮冒するL

のであるから、実用的法制則とは違って、「すくなくとも純粋理性の

吋純粋理性批判恥

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たんなる諸理念に基づき、

そこでカン

「私は次のことそ

リオリに認識されるととができる¥

想定する、すなわち、まったくアプリオリに(経験的な諮動閣を、つま

つまり理性的存在者一般の自由の使用を規定する純粋な道諒護法則、が

:・端的に命じ、ぞれゆえあらゆる点において必銭的であることを、想定するし、とc(切∞包)

寸私はなにをなすべきか」という間いが、純粋理教の実接的関心から生じた間いである以上、狸性的存在者としての

私が従うべき実践的法期は、経験的諸原理に基づいた実用用的法則ではなく、「純斡礎性の一敗産L

である「純幹な実践的

法倒的」(MW

間部)でなければならない。道諒的るとは、幸福を動閣として、経験的な諮膜現に基づく怜鋼の規制約に

ることである。ところで「道護法

ないで)

いを規定する、

に存在することを、またこれらの法鰐が

って生きることではなく、「純粋な撲践的法関」である

に従つ

期間」とは、先の規定に見られるように、「幸譲であるに値すること」のみを動霞とする実践的法別別であった。

はない)し、「われわれの理性は、

5-

も、「われわれ

とって、幸福だけではとて

幸福であ

るに寵することと合一していない限りは、幸~鳴を〈たとえ傾向性が幸舗をどれだけ願望しようと〉是認しないしから

である。(∞∞会)

ともあれ、こうして「私はなにをなすべき

という需いに対しては、ー汝がそれによって幸福であ

るに憶するようになることをなせ」という答えが与えられるのであるよ切おさ

だがカントによるど、「幸福」だけで

いように、「道想性」だけでも、

つまり

に鐘

することL

だけでも、まだ

とは一一一一口えない。なぜなら、

るには、準揺に憧しないと

ないようにふるまった人間が、幸福

になること

きなければならない」からである。

∞品川)

そこ

で「もし私がなすべきことをなすならば、私はなにを希望することが許されるかL

とい

の鰐いは、最終的に次

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

のように隈定される。すなわち、「私が幸福に儀しないことがないようにふるまえば、それによって幸福に与るととが

できると希望することも許されるかい、という自がそれであるよ

ω器叶)

カントによると、「すべ

にかか

わる」

器削〉が、この第一一一の問いで希望の対象となる幸一揺は、「掘明性の…腹部において、われわれ自身の不道纏なふる

まいに由来する制限以外にはいかなる制服も見いだされない全体的幸福〔色。繋

HM82普宮丸紅宮山凸

れはまた「理性的存在者がそれによって幸福に備するものとなる道徳慢と厳密に釣り合った幸撞L

である。そしてこ

のような幸揺のみが、吋純粋な、だが実銭的な理性の指令に能ってわれわれが自らをそのうちに置き移さなければなら

を構成するのであるよ∞∞お〉

であって、

ζ

&

、4

T℃‘

U

しかしそれにしても、こうした笠界の最高善が可能であるためには、「幸一穏に備するようになろうとする不畿の[道

纏的〕努力」と、「幸福でありたいという希望」との簡に、寸必熱的な結合L

がな砂ればならないよ∞器三替いかえ

れば、「道徳性の体系が幸福の体系と不可分に結びついていることL

が想定されなければならないよ∞∞勾)さもなけ

れば、われわれは、幸謡に値しようとどれほど道徳的に努力しようとも、それによって実欝に幸揺に与ると希望する

ことはできないであろう。だが理性はこのことを、つまり寸滋徳牲の結果が幸福にどのようにかかわるかL

を、「世界

の事物の密熱本性L

からも、「行為そのものの原悶殺や、行為と道録性、ごの関係」からも、

そこでこの一両者の必熱的結合は、「道語法制別に従って命じるある最高む理性が、

-6-

ことはでお口ない。

に由民然の原習として根底に霊かれ

る場合にのみ、希望すると

最高の浄福と結びついた道徳的にもっとも完全な意士山が、世界における一なおこの幸一識は灘盤投(幸福で

と最寄に釣り合った幸福であるが、そうした泰績の盤国であるような知性体の理念L

であっ

れるL

ようになるよ∞缶∞)

すなわちこζ

で要求されるのは、「そのもののうち

ある

こと)

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高の派生的善の二つの要素[道徳性と、

カントはこの理念を「最高善の理想」とよぶ。そこで「純粋理性」は、コ」の最高の根源的善の理想のうちにのみ、最

それに釣り合った幸福]の実践的に必然的な結合の根拠を見いだすことがで

きる」のである。(回自白・)

この「最高の根源的善」としての「知性体」こそがカントにとっての神である。したがって、道徳性と幸福との合

致は、「ある賢明な創始者・統治者[神]

の下にある英知的世界においてのみ可能」であり、

そこで「理性は、このよ

うな創始者・統治者を、われわれが来世と見なさざるをえないこうした世界におげる生とともに、想定せ、ざるをえな

の必然的結果[幸福]

いことを理解する」が、それと言うのも、「もしこうした前提がなければ、同じ理性が道徳諸法則と結びつけたそれら

は脱落せざるをえないから、道徳諸法則は空虚な幻影と見なさざるをえなくなる」ことになる

こうして第三の聞いに対してはじめて肯定的な答えが与えられる。すなわち、神と来世が想定

7

からである。(∞∞ω@)

される限りにおいて、私が幸福であるに値するようにふるまえば、私は幸福に与ることができると希望することが許

されるのである。

寸方法論」第二章でのカントの論述をここまで追うことによって、寸私はなにを希望することが許されるか」という

第三の聞いが、実は「神は存在するか」という聞いと結びついていたことが明らかになる。私は道徳法則に従って道

徳的に生きることによってのみ幸福であるに値するようになるが、しかしそれによって実際に幸福に与ることができ

るという希望を持つことが許されるのは、神と、ここでカントが来世とよぶ英知界とが想定される限りにおいてであ

る。英知界が存在し、

また英知界を主宰する神が存在することを想定しなければ、幸福に与ることを希望することも

許されない。だがカントにあって、神は存在するかという聞いは、『純粋理性批判』においては思弁理性の関心に由来

北大文学部紀要

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カントの宗教論

する関いとされていた。カントがこの第三の間関いそ離出する臨怖に、こ

いは「実践的であると問詩に理論的いであ

り、ここでは「実験的な事柄がたん

さちにそれが高まれば思弁約な開いへと導

っていたのは、このことを揺すのであろう。「神は存在するか」という思弁約な問いに対しては、こ

って、理論的な爵いへ、

〈」〈∞

うして「実践的な事倒的L

が寸手引き」となることによって、

はじめて答えが、すなわち「神は存在唱するL

という肯定

的な答えが、与えられるのである。

とは言え、これまでの行程では、神的存在は、道徳の立場から想定されただげまだ宗教の設踏には到達してい

ないのではなかろうか。カントがこれまでに麗模したのは、神の春在のいわゆる選語的証間別であって、これは宗教と

脅うよりはむしろ神学に議する事塙ではなかろうか。現にカントはここで「道徳神学」という一言葉を埠い、勺いまやこ

の道憾神学は、思弁神学に対し、われわれを唯一でもっとも完全な醸性的な榎諒的存窓者の議会へと不可鵡的に導く

というと独吉の長所後持つ」と語っている。ー患弁神学L

は、なんらかの寸客観的機拠しに基づいて、こうした根濠的

先に晃た

-8

存在者を

こともできな凶りれば、

ましてやそれを「穫稽おせるいこともできない」∞室ぬ)

総帥的統一性の立場」

といった特性そ鑓えた担諒的存主者の存在を想定することが可能になる

03まω)

も、「超越論的神学」も、ぞれが可能であるとすれば、この「道穂神学L

これを寸必然的な世界法則L

ことによってのみ、「全知」「全能」

「遍在L

カント

では、

いわゆる「自

いてはじめて

のである。

(∞∞AHhS

なおカントはこれ

て、人間程性のこれまでの歴史に触れ、古代ギリシ

に置きながら、「理性の開先い

がかなり選んだ設階でも、「神性」について「たんに粗雑で不安定な概念L

しか生み出さなかったとし、「われわれの

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宗教のきわめて純粋な道徳法則」によって、「道徳的諸理念」が「高度に精練」され、「理性が関心を持たざるをえな

い対象[神]にむけて理性を鋭利にしたへと語っている。「われわれの宗教L

とは、言うまでもなく、キリスト教で

あって、これによって「理性はわれわれが今日正当と認める神的存在者の概念を成立させたL

が、それと言うのも、

「この神的存在者の概念が、道徳的諸原理と完全に一致しているL

からである。こうして「実践理性」は、寸最高善と

しての唯一の根源的存在者の概念L

に達するが、しかしそれだからと言って、この概念によって「新しい対象が直接

に知られた」と考え、逆にこの概念から道徳法則を導出しようと試みたりしてはなら設い。なぜなら、「道徳法則の内

的な実践的必然性こそが、この法則に効果を与えるために、われわれをある自立的な原因、すなわちある賢明な世界

統治者[神]の前提へと導いたしからである。したがってまた、「われわれがもろもろの行為を責務と見なすのは、そ

れらが神の命令であるからではなく、逆にわれわれがそれらの行為に対して内的に責務があるからこそ、

それらを神

9

の命令と見なすL

のである。一一一日いかえれば、われわれは、寸理性」によって「道徳法則L

を「神聖」であると見なす限

りで「神的意志に適合していると信じる」ことができ、

また「自他におげる世界最善を促進するL

乙とによってのみ

寸神的意志に奉仕すると信じる」ことができる。こうしてカントによれば、寸道徳神学」は、超越的な神についてなに

かを知るためにではなく、「われわれの使命を、ここで、この世界のうちで、達成する」ために用いられるのであり、

そうした意味で「内在的使用」を持つにとどまるのである

oaEUR)

カントのこの叙述から知られるように、

カントはキリスト教を高く評価し、そのうちに「きわめて純粋な道徳法則L

が含まれていると見るが、しかしカントによると、それを人聞が順守すべき純粋な道徳法則であると判定するのは、

依然として母怯であ説。キリスト教の神の概念が「正当L

であるとされるのも、それが寸道徳的諸理念と完全に一致

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

則を通じて、

している」ことを理性が認めるからであるし、ある行為が神によって命じられているとしてそれに従うのも、道徳法

その行為に対して「内的に責務がある」と理性が判定するからである。

つまりカントはここでキリスト

教に触れてはいるが、宗教へと移行するために、理性の立場を捨ててキリスト教の信仰を採用すべきだと主張してい

るわけではない。カントはここでも理性を重視し、理性に基づいた道徳の立場に立って事柄を論じているのである。

とすれば、

カントが道徳の延長線上で考えようとしている宗教は、すでに成立しているキリスト教やその他の既成宗

その意味での理性宗教である、と言うべきであろう。後に見るように、カ

教ではなく、理性に基づいた宗教であり、

での論述に際して主軸に据えるのは、まさにこうした理性宗教であるが、しかし理性宗教といえど

も、それがたんなる知識体系ではなく、宗教である以上は、そのうちに知識とは異なった信仰を含んでいると見なけ

それはどのような信仰であろうか。その際とくに問題となるのは、理性と信仰と

ントが『宗教論』

ればならない。

では、

その場合に、

-10

の関係である。これまで見た限りでは、神の存在は理性の想定に基づくが、

では神に対する信仰はこの想定に基づい

てはじめて可能なのであろうか。それともこの想定そのものが、実は信仰に基づいているのであろうか。これは理性

が信何に先立つのか、

それとも信何が理性に先立つのかという問題でもあろう。『純粋理性批判』の寸方法論」第二章

は、これまでの論述に続けて新たな節(第三節)を設け、「臆見する

[EaRロ]」と寸知る[当日回目ロ]L

と「信仰する(信

じる

)[m-2σg]」の区別について論じている。そこで次に、カントがこの箇所で「信仰L

をどのように規定している

かを見ることにしたい。

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理性信仰

カントによると、われわれは、あることを臆見するにせよ、知るにせよ、信仰する

あることを真であると思っている[苫吋者向島門町包Zロ]。この「真であると思っていること」すなわちォ信濃〔匂母宅ω宵・

(信ずる)

にせよ、その際その

}岡山

-Zロ]L

は、

いわば最広義での(われわれが行為に際して拠り所とする)「信じる」ことであると言ってよいであろう。

そこでカントの区別によると、「臆見するしとは、「主観的にも、客観的にも、不十分であることを意識している信癌」

であり、「信何する(信ずるごとは、「信憲が主観的にのみ十分で、同時に客観的には不十分であると見なされるL

合であり、最後に「知るL

とは、「主観的にも客観的にも十分な信憲」である。なおこの場合、「主観的に十分である

ことL

が「(私自身にとっての)確信L

とよばれ、「客観的に十分であること」が寸(あらゆるひとにとっての)確実性」

11-

とよばれる。こうして不十分な信濃から十分な信憲にむけて、「臆見するL

と「信何する

(信ずるごと「知るL

の三

段階が区別されるのである

oagc)

「知るL

はこのように、

さまざまな信懇のいわば最上位に位置する。「知る」は寸主観的にも客観的にも十分な信憲」

であるが、客観的に十分であるとは、ある判断を下す際に、

その理論的客観的根拠が明白であり、じたがってその真

理性を誰に対しても理論的に証明することができ、

そうした形で誰にでも普遍的に伝達できる、

ということである。

つまりあることを「知っている」と断言しうるためには、そのことをいつでも理論的に証明しうる用意があり、じた

がってそのことが必然的に確実であることを確信しているのでなければならない。その限りで「知る」ことは「主観

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

的にも十分な搭溶」なのである。理性的理論的援用においていつ

るのは、こうした厳密な意味での「知る」

ことである。カントが「方法議」で掲げた第一の関いは、「私はなにを知ることができるか」とい

いであったし、

またすでに触れたように、吋純粋駿性批判官』の課題は、なによりもまずこの間いに答えることであった。カントがここ

っ知るL

を主観的にも客観的にも十分な稽轡として、僚懇の最上控に据えているのも、『純粋現性批判』では理性

の理議的使用加が最重要領されていたからだ

であろう。

では、「信仰する

」については、どうであろうか。カントはことで、

をさらに

222山口色合告さま〕L

と「実践的器開」とに産別ずる。カントは「信網押」そ再度規定して、「ぞうじて

たんに実義的な関係において、理論的に不十分な信譲しであるとするが、ところで寸実践的な意関」には、「任意の偶

然的な閥的」に対する「熟練散の意醤」と、

J締約に必然的な宮前」に対する「道徳性の窓悶L

とがある。

-12-

その麟その必熱性は、「私がまったく偉

の諸条件晶化知らない」場合は、「比較的十分であるL

が、「設定された臨鈴へ導く鑑の諸条件を誰も知ることができな

いことを私が確実に知る」場合は、「端的に、そして誰にでも十分」である。こうして条件の告漉にかんして、ーたん

に縄然的な一傍仰」と「必然的な機的抑」とが区別されるのであって、この陸別が、寸実用的借仰しと寸実議的一倍加仰L

との

れると、「それに遣するため

は寸仮告一間的に必然的」であるが、

区制加につながるのであるよ∞告にい

があるが、カントの説明によると、実践的ではな

い理論的な「全国」にかんしても、「事倒的の確実性そ決定する手段があれば、その企図に対してわれわれが十分な根拠

っていると推定できる」ような企鰐がある。つまり「たんに理論的な制判断のうちにも、そのものの倍農が信仰と

ふちわしい、実義的判断に類比的なものが存在する」のであっ

なおこのほかに

七五

こうした理論的判断に対する傍懇が

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とよ、ばれるのであるよ阿凶器ω)

いては、っ私はこの〔持が現存するという〕

さて、カントによると、神の現存についての環説的議開なるものが存裳ずる。なるほど寸閣議的な世界認識しにお

世界の諸現象の私の解明の条件としてN

皆無的に前提するものはな

にも山市いてはならない」し、「私は:::私の理性を、あたかもすべてがたんに自然であるかのように惑いなければなら

ない凡だがまた経験は、察側測を通じて、これら謡現象の揮にぷ凶器的的統一L

があることを示しており、この合自的

約統一は、「理性を呂熱に適用する障のきわめて重要な条件」をなしている。そしてこの合目的的統一を奇龍にしてい

しては、「最高の知性体がもっとも繁拐な諸目的に従ってすべてをそのように秩浮づけたL

ということしか考

えられない。したがって「賢明な世界制始者を蔀提ずることL

は、「出国然の由同然探究における手引ぢをうるための条件」

そ超えて「信僻」にまで高まるのであっ

マある。この場合の神の犠存について

たんなる

そこ

で「こうした理論的関係において

-13

私は堅く神を…畑山僻する」と主張で怒るのである。いわゆる「白凶器の神学L

よってもたらされる信仰も、このような理説的僧仰に嘉する。だがしかし、カントによると、この「たんなる壊説的

信部」は、コ詰らのうちにある動揺させるものを持つ」のであり、寸思弁において生じるさまやさまな閤難によってL

い込まれる。神に対する理説的信揮は、思弁理性を殺とするが、決し

ばしば放棄させられ

しユ

のではなく、その開じ思弁理性が動掃することによっ

せられる不安定な信停なのである。宙舘止と

次にカントは、先の一分離ではっ実接的信仰WL

に当たる寸道議的儀符L

を取り上げる。道徳的信抑は、現鋭的苦卸と

は異なって、揺るぎない信揮である。と昔、うのも、すでに見たように、「私があらゆる点において道徳法制加に従わなげ

ればならないことは、端的に必然的」であり、ここでは目的もまた「不可避的に確立」しているからである。そこで

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

カントによると、「この目的がほかのすべての目的と関連し、それによって実践的妥当性を持つようになる条件は、私

の洞察をもってしでもただ一つあるだけで、

それは神および来世があるということ」である。しかも「私はまた、誰

も道徳法則の下で諸目的の統一へと導くほかの条件を知っていないということを、まったく確実に知っている」。こう

して神の現存に対する道徳的信仰が成立する。この信仰は、理説的信仰とは違って、「なにものもこの信何を動揺させ

ることはできないL

と確信できるが、と言うのも、「この動揺によって私の道徳的信仰そのものが崩壊するであろうが、

私は私自身の眼に厭うべきものとならずにこの原則を放棄することはできない」からなのである。(切目。)

道徳的信仰によって神の現存を確信することは、もちろん神の現存を「知る」ことではない。「誰も神と来世が存在

することを知ると誇ることはできないL

。もともと道徳的信何において問題なのは、知識の獲得や拡張ではなく、また

道徳的信仰において成り立つ確信も、「論理的確実性」ではなくて、寸道徳的確実性」である。「道徳的確実性は主観的

根拠(道徳的心術の)に基づくのであるから、私は決して『神が存在する、等々』が道徳的に確実である[念堂

B2色町岳

それらを私が道徳的に確実としている

14

問。当日目]

と言つてはならない。そうではなくて、

[凡円

F

F昔日。

s-2のFm州04『町田印]

と言わなければならない」のである。こうして「神と来世に対する信仰L

は、「私の道徳的心術L

と「堅く織り合わさ

れて」いる。私はこの道徳的心術を決して放棄することはできないのであり、したがってそれと緊密に結びついた「神

と来世に対する信何」をも決して放棄することができないのである。(切∞勾)

カントはここで、「道徳的信仰」に変えてはじめて「理性信仰[〈再ロロ民有

E5巴L

という言葉を用い、「この理性信

仰は道徳的心術を前提することに基づくL

と語る。(切缶叶)

カントの道徳と宗教とを結びつける重要な概念であるが、しかし『純粋理性批判』

この「理性信仰」という言葉は、これから見るように、

では、この一箇所にしか登場しな

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ぃ。カントのその後の行程をたどると、『純粋理性批判』に続く『プロレゴ

lメナ』

の基礎づけ』(一七八五年)では、「理性的信仰

EqJ刊号ロロ同MEmoE山口宮]」という言葉は用いられているが(〈包-L〈

日吋∞uω戸w

怠N)

、「理性信仰L

という言葉は用いられていない。だが一七八六年にカントが『ベルリン月刊』に寄稿し

(一七八三年)や『道徳形而上学

た『寸思考において方向を定める」とはどういうことか』(以下『思考方向論文』と略記)では、寸理性信仰L

という言

葉が復活する。すなわちカントによると、もともと寸信仰」は、たとえばある歴史的時点に成立した聖典を拠り所と

する寸歴史的信何」であっても、「真理の最初の試金石はつねに理性である」から、すべて「理性的」であるとも言え

るが、しかしそれとは別に、「純粋な理性のうちに含まれている以外のいかなる所与にも基づいていーない信何L

があっ

て、それが特に「理性信仰」とよばれるのである。(〈田区同)

「理性信仰」という言葉は、『実践理性批判』(一七八八年)

でも用いられる。カントはこの書で、「最高善」につい

-15-

て、「この最高善は、神の現存という条件の下でのみ生ずるから、神の現存の前提は、義務と不可分に結びついている

のであり、言いかえれば、神の現存を想定することは、道徳的に必然的である」とする。(〈巴切)

こうした神の現存

官同議口)

の想定は、「理論理性」にかんしては「仮説L

であろうが、「しかし道徳法則によってわれわれに課せられた客観(最

の、したがって実践的意図における必要の理解可能性にかんしては、信仰と、しかも純粋な理性信仰とよぶこ

とができる」のであって、と言うのも、「ひとり純粋理性:::のみが、この信何が発現する源泉だからL

である。(〈巴∞)

さらに『実践理性批判』には、次のような一節がある。「純粋な道徳法則が命令として:::すべてのひとを仮借なく拘

束することを認めるならば、誠実なひとは次のように言ってもよい。私は神が現存することを、私のこの世界におけ

る現存が自然的結合[である]以外になお純粋悟性界におげる現存でもあることを、最後にまた、私の持続が限りな

北大文学部紀要

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カントの宗教論

いことを、意欲する、私はこのことに固執し、私からこの信仰を奪うことを許さない、と」。(〈

Eω)

カントによると、「純粋な実践的理性信仰L

である

02ESこの「純粋な実践的理性信仰」は、「自発的で道徳的(命

じられた)意図に有効な、そのうえなお理性の理論的必要とも一致した形でわれわれの判断を規定すること」であっ

て、「こうしてわれわれは、世界創始者[神]の現存を想定し、さらにはそれを理性使用の根底に置くが、この信何そ

れ自体は道徳的心術から発現した(傍点引用者)」のである。(〈に∞)

こうした信仰は、

『判断力批判』(一七九

O年)では、「実践的信仰」とか「道徳的信仰」といった言葉は見いだされるが(〈巴ζ

〈怠戸

当。)、「理性信何」や「理性的信仰」といった言葉は見いだされない。しかし『宗教論』になると、ふたたび「理性信

それと言うのも、この信仰は「たんなる理性信何」であり、「誰にでも確信させるように伝達される」からである。(〈H

Eほ・)したがって「ただ啓示によってのみ可能L

な信仰は、「歴史的信仰L

ではあるが、「純粋な理性信仰」ではない。

(〈HE品)「歴史信何として書物[聖典]に基礎を置くすべての信何L

は、「自らを保証するために学識者層を必要と

する」が、しかし寸純粋な理性信仰」は、コ」のような公証を必要とせず、自己自ら自証する」。(〈HHN@)

-16-

仰」という言葉が登場する。たとえば、「純粋な宗教信何」は、「普遍的教会の基盤たりうる唯一の信何」であって、

「啓示信仰L

もしくは「制規信仰[白骨印印片山門己向宮]」は、寸命じられた信仰[同区oEB℃OBE]」であるが、「純粋な理性信何」は、

寸各人によって自由に採用された信仰」であり、「自由な信仰[同Ego-EZ]」なのである。(〈HE印)

以上、「理性信仰」について、『純粋理性批判』から『宗教論』にいたるその用法を通覧した説、これによって言え

ることは、まず第一に、「理性信仰L

は寸歴史的信仰」に対立する概念である、ということである。歴史的信仰とは、

なんらかの歴史的事実に対する信仰であり、またそうした歴史的事実に基礎を置く信仰である。いわゆる寸啓示信何」

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も、ある歴史的時点に成立した聖典に依拠する信何と見るならば、これまた歴史的信仰に属するであろう。これに対

して、理性信仰は、先に見たように、「純粋な理性のうちに含まれている以外のいかなる所与にも基づいていない信何」

である。理性信仰は、いかなる歴史的事実をも所与として含んでいない。歴史的事実は、その根を訊ねていけば、自

分の経験ではなくとも、その事実に出会った他人の経験に行き当たるであろう。その限りでそれは経験的事実である。

それ自体として、「純粋な理性信何L

である。経験的事実

理性信仰はそうした経験的なものを一切排除しているから、

的なものを一切含まないのが、「理性信仰」の第一の特徴である。

「理性信仰」の第二の特徴は、それが「道徳的信仰」であり、「道徳的心術から発現した」信仰であって、道徳的心

術と「堅く織り合わされ」ている、ということにある。いわゆる「理説的信仰」も、それ自体としては一切の経験的

所与を含んでいないが、しかしそれは道徳的心術から発現した信仰ではない。「理性信仰」はこの点で「理説的信何」

からも区別されるのである。だがそれにしても、道徳的心術から発現した信仰が、なぜ「理性信仰」なのであろうか。

17

啓示信仰に従うひとでも、

そのひとの道徳的心術に基づいて啓示信仰を採用する場合があるのではなかろうか。道徳

的心術から発現する信仰が「道徳的信仰L

とか「実践的信仰」とよばれるのは当然であるとしても、

それがなぜ「理

性信何」とよばれるかについては、解明が必要であろう。

道徳的心術とは、なにはさて措き、道徳的に生きるのが人生の最重要事である、とする心構えである。カントの道

徳や宗教についての考えは、すべてこの心構えを基点とし、そこから発している、と言ってよい。今日話題となって

いる「なぜ道徳的であるべきかL

という聞いは、カントには無縁の聞いであった。カントにとって、道徳的に生きる

べきだということは、もはやその背後にまわってその理由を問うことのできない根源的な確信であり、「主観的に十分

北大文学部紀要

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カントの宗教論

な信憲L

であり、

その意味でそれ自体がすでに確固とした信仰であった。なぜ道徳的でなければならないかとその理

由を探し求める乙とは、

おそらくカントによれば、

それだけですでに道徳的心術の腐敗を証する出来事であり、斥け

られなければならない事柄なのである。

このようにカントは「道徳的に生きるべきだ」ということを思索の原点に据えたが、

ではどのように生きれば「道

徳的に生きる」ことになるのであろうか。『道徳形而上学の基礎づけ』は、「道徳性の最上の原理を探究し、それを確

定する」ことを目指しているが(円〈

SN)、これは砕いて言えば、生き方の上で基本的にどのような原理を採用すれば

道徳的に生きることになるかを示すことである。しかしこの基本的原理は、すでに『純粋理性批判』の「方法論」に

おいて想定されていた。すなわち「道徳的に生きる」とは、幸福を動因とする「実用的法則L

に従ってではなく、幸

福であるに値することを動因とする「道徳法則」に従って生きることである。カントはそこからさらに、この「道徳

法則」が「純粋理性の所産L

であることを想定し、またこのような「純粋な道徳諸法則」が「現実に存在する」こと

それに続く『実践理性批判』は、この「想定L

を根

18

を「想定」した。(切∞担増∞ω切)

『道徳形市上学の基礎づけ』や、

拠づけ、正当化する作業なのである。

いわゆる前批判期のカントは、道徳の扱い方にかんして、英国のシャフツベリやハチソンに代表される道徳感情説

の影響下にあった。たとえば『一七六五六六年冬学期講義計画公告』では、「倫理学L

の項で、「行為における善悪

の区別と、道徳的正当性についての判断とは、直接的に、証明の回り道を経ないで、感情[印自己

58同]とよばれるも

のを通じて人間の心情[出馬N]

により容易にしかも正しく認識されることができるL(

口出同)とされているし、また

『視霊者の夢』(一七六六年)でも、「真の知恵は簡素の侍女」であり、

そこでは「心情[国男N]

が悟性に指令を与える」

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として、人間の心情が「直接的な道徳的指令」を含むことが示唆されている。(日勾N)

カントの強聞な確信はすでに古くからのもので、

道徳的に生きるべきだという

カントは前批判期にはこの確信を、「直接的」に「心情」から由来す

るという形で捉えていた。そこでカントは、寸道徳的善悪」も「感情」を通じて「心情」により直接知られる、と考え

たのであろう。しかし批判期のカントは、この道徳的確信を感情や心情から切り離し、理性と結びつけるようになる。

そしてこの変化の背景には、「理性」そのものについてのカントの見方の変革があったと見ることができる。それは簡

単に言えば、理性はたんに思弁的理論的能力を持つだけではなく、実践的能力をも持つ、したがって実践理性なるも

のが存在する、

カントがこのことの解明にどれほど苦慮したかは、たとえば『道徳形而上学の基

礎づけ』の末尾で、「あらゆる実践哲学の究極の限界」として、「いかにして純粋理性が実践的であることができるか」

はもはや「解明」が不可能な事柄であると語り(円〈古∞)、また『実践理性批判』の「序言」で、「この論述はもっぱら

純粋実践理性が存在することを証明しようとするのであり、こうした意図から理性の全実践能力を批判する」と語つ

ということである。

19-

ていることからも(〈

ω)、知られるであろう。『純粋理性批判』の寸方法論L

で、カントはすでに純粋理性の実践的使

用について語り、思弁理性から区別される実践理性の存在を認めていたが、この考えを十分に根拠づけるには、『実践

理性批判』

の完成を待たなければならなかったのである。

では、

カントはなぜ「理性」に実践的能力を認め、しかも「道徳法則」を「純粋理性の所産」と考えるにいたった

のであろうか。『道徳形市上学の基礎づけ』は、その冒頭で寸善い意志」を取り上げ、「善い意志L

はそれ自体におい

その効用とは無関係に「絶対的価値」を持っとするが、カントはそこで、この考えが「たんに奔放な空想」

ではないことを示すために、「自然がなぜわわれわれの意志に理性を支配者として添えたのか」を問題にする。すなわ

て善く、

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

ちカントによると、

そうじて有機体においては次の原則が想定されるが、

それは有機体に備わる寸なんらかの目的の

ための道具」は「いずれもその目的のためにもっともふさわしい道具であり、目的にもっともよく適合している」と

いう原別である。ところで人聞は「理性と意志とを持つ存在者」であるが、もし「自然の本来の目的」が「その存在

者が維持され順調であることL

、つまり「それが幸福であることL

にあったとすれば、人聞にその道具として寸理性」

を与えたのは、「きわめてまずい措置」であったことになろう。と言うのも、幸福が目的であるとすれば、そのための

行為や規則の指示は「理性によるよりも本能によるほうがはるかに正確L

であったであろうし、「そのことによってか

の目的[幸福]ははるかに確実に入手されることができたであろう」からである。だが「それにもかかわらず、われ

われには理性が実践的能力として、

使命は、なにかほかの意図において手段として善い意志をではなく、

それ自体において善い意志を生むことであるに

-20

つまり意志に影響を及ぽす能力として付与されているのだから、:::理性の真の

違いなく、

まさしくこのことのために理性が必要とされた」のである。(同〈

ωER)同じ趣旨の発言は、『実践理性批

判』のうちにも見いだされるであろう。(〈包・¥〈

25

カントはここで、入間の「理性」には「実践的能力」が備わることを認める。しかもそれは、人聞が幸福を追求す

るために必要なのではなく、「善い意志L

によって道徳的に生きるために必要なのである。『純粋理性批判』では、「実

用的法則」と「道徳法則L

とが区別されたが、この区別にそって言うと、「理性」の本来の実践的機能は、幸福追求の

ための「実用的法則L

を示すことにあるのではなく、道徳的に生きるために意志が従うべき「道徳法則」を呈示し、

これによって「意志に影響を与え」、意志をして寸善い意志」たらしめることにある。こうしてカントの道徳的確信は、

もはや以前のように「感情」や寸心情」とではなく、「理性」と結びつくことになる。あるいはむしろ正確には、カン

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トは自らの道徳的確信に基づいて、「理性」をも道徳的実践的能力として把握する方向に進んだ、と言うべきであろう。

このことによって、道徳的心術に基づく「道徳的信仰」もまた、こうした理性能力に基づく寸理性信何」であるとす

る道が聞かれたのである。なおカントがこ乙で、理性が道徳的実践的能力であることを、目的論的な視点から主張し

ていることに注目する必要があろう。後にカントは、『判断力批判』において、神による創造の究極目的とはなにかを

聞い、「人聞は幸福をいつも自分の最終の主観的目的とするかもしれないL

が、しかし「幸福」は決して創造の究極目

的ではなく、「人聞は道徳的存在者としてのみ創造の究極目的であることができる(傍点引用者)」と語る。(〈お。

〉日出・)

カントの考えでは、人聞は道徳的存在者たるべく創造されたのであり、それゆえに乙そ「理性」もまたその

ために道徳的実践的能力として人聞に与えられたのである。

一の末尾で、理性が信仰に先立つのか、

-21-

それとも信仰が理性に先立つのかという問題を提起したが、いまやそれに

対する解答が与えられたと言えるであろう。すなわちカントにおいて、信仰とはとりもなおさず理性信仰であり、そ

の場合の「理性」とは道徳的実践的能力としての実践理性であって、信何はこの実践理性と不可分である。『思考方向

論文』によると、「超感性的なものの、われわれにとって厚い聞に閉ざされた測り知れない空間L

においては、理性は

寸もっぱら理性自身の必要によってのみ、思考において方向を定めるL

ことができるが(〈口H53、この理性の必要と

は実は「実践的意図における理性の必要」であって、方向を定める「理性信仰」は、この実践的な理性の必要から生

カントによると、「理性の要請」とも言えるが、しかしそれはこの要請が「確実性に

対する一切の理論的要求に満足を与える洞察」であるということではなく、「この信濯がその種類にかんして知識とは

じるのである。この理性信仰は、

まったく異なっているにもかかわらず、

その度にかんしていかなる知識にも劣らない」ことを指している。理性信仰

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

は、確実な知識に劣らず確実である。そこで「このような理性信何はまた、

ほかの一切の信仰、

いなそれどころかあ

らゆる啓示に対しても、

その根底に置かれなければならない」のである。(〈田

Eロ・)

では、寸理性信仰Lは、「理性洞察[〈

055岸巳EWE]Lや「理性霊感[〈

qED岸包括与gm]Lか

ら区別される。(〈

EEC)超感性的なものについては、それを人間の理性が理論的に洞察できるとするのは誤りであ

るし、またそれを理性が一種の霊感によって、あたかも神の理性であるかのように直接に知るとするのも誤りである。

『思考方向論文』

理性信何は超感性的な事柄について立言をするが、この立言を理性洞察や理性霊感によるものとしてはならない。理

性信仰による立言は、道徳的確信に基づいていて、その立言の確実性は道徳的確信によって支えられている。道徳的

確信に支えられていなければ、超感性的な事柄にかんするいかなる立言も無効なのである。カントはまた、この論文

-22-

の末尾で、「思考の自由L

について語っている。もともと思考の自由とは、「理性が自分自身に与える法則以外のなに

ものにも従わないL

ことであって、その反対は「理性を無法則に使用するという格率L

である。だが、「理性が自分自

身に与える法則に従おうとしないならば、理性は他のものが理性に与える法則の桂措の下に屈従しなければならない」

のであって、真の信仰とは言えない「狂信」や「迷信」はことから生じる。だがまた、そうした桂槍が破壊されると、

理性能力はもはやいかなる制限にも依存しないという寸借越な信頼L

が生じ、「思弁理性の独裁L

がはじまる。理性は

その場合、自らの実践的必要に依存しないという格率を採用するのであって、これにより理性信仰は放棄され、それ

にかわって「理性不信何[〈日ロロ

EEHHESσσ]」が登場する。すなわち「理性不信仰L

とは、「道徳諸法則からまずもっ

て心情に対する動機の一切の力を奪い、そのうえ時とともにその一切の権威すらも奪い、ひとびとが自由精神とよん

つまりいかなる義務ももはや認めないという原則を引き起こすといった、好ましからぬ人間の心の

でいる心構えを、

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カントの寸理性信仰L

は、当時においても現代においても見いだされるこうした「理性

不信仰L

に正面から対決するのである。

状態L

である。(〈口HE臼・)

カントの「理性信何L

は、「理性による信仰L

だげではなく、「理性に対する信仰」を

も合意していることが知られるであろう。カントは道徳的に生きるべきだという道徳的確信に基づいて、人間にはそ

このようにたどってみると、

のために道徳的実践的能力としての実践理性が備わることを確信したが、これがもっとも原初的な意味での理性信何

であり、「理性に対する信仰L

である。この信仰を失えば、人聞は「思弁理性の独裁」による寸理性不信何」に陥らざ

るをえない。次いでカントは、この理性信何を携えて超感性的な世界にむかい、理論理性によっては「知る」ことの

できなかった「英知界L

や「神」の存在を「信仰する(信じるどことによって確信する。理性信仰はこの場合には「理

性による信仰」であり、時には「理性的信仰L

とも表現されるのである。

ここでふたたび「知る」と「信仰する(信ずるごとの区別について、『純粋理性批判』第二版(一七八七年)の「序

言L

でカントが語っていることに触れておきたい。『純粋理性批判』は、その内容からして、寸純粋思弁理性批判L

言えるが、カントによると、この批判は思弁理性による理論的認識を「感性の限界L

のうちにある感性界の認識にと

どめ、感性界を超える超感性的な事柄にかんする思弁理性の「法外な洞察L

を排除するのであるから、この批判の効

用は思弁理性にとっては「消極的L

である。だがこのことによって、超感性的な事柄にかんする実践的な理性使用を

制限したり否定したりする障害が除かれ、「ひとが純粋理性の端的に必然的な実践的(道徳的)使用が存在することを

確信する(傍点引用者)」にいたるのであるから、この批判はまた「積極的な、きわめて重要な効用を持つ」ことにな

る。つまり『純粋理性批判』は、「純粋思弁理性を制限する批判」であると同時に、純粋理性の寸実践的拡張L

をも保

北大文学部紀要

-23-

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カントの宗教諭

証する批判であった。短縮した表現によれば、「それゆえ私は、告己ること

に場所を得させるために、知るこ

を止めなければならなかったL

のであるよMWMMnH〈ア凶凶対〉

ここで語られているォ借じることいすなわ

が寸理性傍倖L

であることは、これまでの行程かかであろう。なお付け加えると、この吋純粋理性

批判』第二寂序替は、吋遵諒影詰上学の基礎づけ』や『思考方舟論文』がすでに発表された後のものであるο

カントは

『純粋理性批判恥第一版でも「理一殺稽仰しという言葉後一回用いていたが、「理性信知」についてむ確信がいっそう、深

まるのは、爽銭哲学の構築にむかうその後の段踏においてであったことができるであろう。

ちきて、カントの論述をとのようにたどってくると、カン

の全体が実農理性に対する、また実践理性による「理性信部L

によって支えられていると言わなければならない。し

かしそれなら説、「道徳」と

J一本紙」の区別はどうなるのであろうか。先に

嬉しから限期されるのではないかと予劃したが、しかし検討の結果、

したがってカントの「遵繕」は、実はそ

は「信仰」

ことによって

-24

そのものがすでに理性器開という形で

{時1

それを土台として成立していることが明らかになっ

とすれば、

カントにおいて、

と「出部教」

とはもはや区別されないということになるのであろうか。だがカントは、「私はなにそなすべきか」という需いと、「私

はなにを希援することが許されるかいという筒いを区加し、この区別に基づいて「道徳」と

とを区制加した。

そこでいま

護この区別に撰つ

っ希望」と

との関援につい

てみることにしたい。

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幸福と最高善

『純粋理性批判』での叙述によると、道徳法則に従う行為は、幸福を動因とする行為ではなく、幸福であるに値する

ことを動因とする行為であった。だが幸福であるに値する道徳的な行為をいくら積み重ねても、それによって確かに

幸福に与ることができると希望できるためには、道徳性と幸福とが合致して最高善を形成する英知界が、

さらにはこ

の英知界を主宰する根源的善としての神が、前提されなげればならない。この前提は、理論的仮説ではなく、実践的

要請であるから、理性信仰によって確信される事柄である。つまりその人間の道徳性に応じて幸福を配分する神の存

在を理性信仰によって確信していなければ、道徳法則に従って生きても、将来の幸福に与ることを希望することはで

きないのである。カントが「宗教」を「道徳L

から区別したのは、道徳法則そのもののうちには含まれていない、こ

の幸福への希望という契機に注目したからであろう。実際、既成のどのような宗教を取り上げても、そこには幸福へ

-25-

の希望が見いだされる。宗教に救いを求めるのも、救いによって不幸な状態から離脱することを願うからであろう。

宗教は、どのような宗教であれ、幸福への希望から生じたとも言えるのである。キリスト教もまた、「信仰L

と寸愛」

と並べて、「希望」を重視する。カントはとくにこの寸希望L

という契機に注目し、そこに宗教の決定的な徴表を認め

たのである。

そこで道徳と宗教との関係をめぐって、新たな問題が生じることになる。この論文の官頭で、カントは宗教を道徳

の延長線上において捉えた、と述べた。ところでこのことは、宗教は道徳にいわば付随する事柄であり、道徳は道徳

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

とじて、宗教在、必要としないそれだけで自立してあることができる、ということであろうか。カントの道徳と怒

教の涯践に期して言えば、人間は幸福への希盟を持たなくても、瀧穣法到に従って道篠的に生きることが可能なので

あろうか。これはカントの実践哲学をその全体において理解する上で、きわめ

って、

の自立性

が可能であるという考えを推し議めるど、ぞれはさらにカントが敦り上げた

という考えずらもが無用のも

のであり、披露斡警である神への矯伸もまた無用であるという結論にまでいたるであろう。たとえ迂和辻哲郎が

J内

最理性批判h

の「弁註議L

について下した解釈によると、「カントはここで、何らか哲学的ならざる理由により、突知

として古来の最高普の考えを取り入れ、ぞれそ拡軸として神や不死の理念を解釈しようとしたL

のであり、「最高善を

媒介とする神む寮鱗は、議々の弁韓協にも持らず、カントの持勢に対する妥壊と見るべき」なのである。もっとも和

辻は、神にいたるカントの手続きを問題視したのであって、地仰を否定しようとするのではない。和辻の考えでは、

護法則の主体、本来的自日、これらは最高替を族介とすることなしに我々を絶対者ま

であり、「彼[カン

-26

ことの出来るものい

はあくまでも主体的なるものの患に主体的なる神を見いだすべきであったL

し、吋また実際カ

ントにはこの方向への動きが存するL

りである。和辻がコ主体的なる持L

で具体的にどのような神安考えていたかは

明らかではないが、しかしはたしてカントは、持に対する一信鍔を確立する際に、「哲学的ならざる理由」から寸突知と

して古来の最高普の考えを敢り入れ」たのであろうか。カントは踏段、吋実践理性批判恥の「弁誼払調L

で突如として最

高替の問題を導入したのではない。カントは吋選議形市上学の纂礎づけ』で定一窓口命法や意志の自捧を道傭憾の基本とし

て獲立する以前に、すでに『純粋理性批判』で最高善を取り上げ、これを道徳や宗教を解明するため合鍵として重視

していたのである。そこでまず吋純粋理性批判』でのカントの発一一百に詮詩し、次いで『実議報性批判』に駿を移すこ

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とにしたい。

すでにこれまでに引用した部分に、注目すべき発言がある。カントによると、最高善を介して神と不死が前提され

るが、それは寸もしこうした前提がなければ、同じ理性が道徳法則と結びつけたそれらの必然的結果[幸福]は脱落

せざるをえないから、道徳諸法則は空虚な幻影と見なさざるをえなくなる(傍点引用者)」からである。(切器。)

同門H

趣旨の発言は、別の箇所にも見いだされる。すなわち「神と、われわれに今は見えないが希望された世界[英知界]

とを欠くならば、道徳性の崇高な諸理念は、賛意と賛嘆の対象ではあっても、しかし企図と実行の動機とはならない

(傍点引用者)」のである。(切∞出)

これらの発言が意味しているのは、最高善のいま一つの要素である幸福を配分す

る神の存在を確信していなければ、たとえ賛嘆すべき道徳法則や道徳的諸理念が示されても、

それらは「空虚な幻影L

に過ぎなくなり、したがってそれらを実行することも困難である、

ということであろう。もちろんカントは、最高善

-27-

におげる道徳性と幸福との結合について、「道徳的心術が条件となって幸福に与ることをはじめて可能にするL

ので

あって、その逆、つまり「幸福への見通しが道徳的心術をはじめて可能にするL

のではない、と考えていた。(切∞出)

しかしそれにもかかわらず、幸福を配分する神の存在を確信しない限り、道徳法則は無効であるとされるのは、なぜ

であろうか。

これまで何度も触れたように、『純粋理性批判』でのカントは、「道徳法則」を規定して、「幸福であるに値すること

以外のなにも動因としない実践的法則」とした。この「道徳法則」の規定のうちには、「幸福であるに値する」という

形ではあるが、すでに「幸福」という概念が含まれている。なるほど道徳法則は、「実用的法則」とは異なって、直接

に幸福を動因とする実践的法則ではない。しかしそれでも道徳法則は、幸福であるに値することを動因とする法則で

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

ある。道徳法則に従う人聞は、実用的法則に従う場合のように、自らの手で直接に幸福を得ょうとしているのではな

いが、しかしなにものかによって幸福であるに値すると認定され、そのものの手によづて幸福が授けられることを求

めている。幸福を獲得したいという願望ではなく、幸福であるに値することによって幸福に与りたいという希望が、

道徳法則に従うべきだという確信に力を与える。だがそのためには、道徳性に応じて幸福を配分するなにものかが、

すなわち眼には見えない道徳的心術の奥底までも洞見する神が、前提されなければならない。神の存在を確信しなげ

れば道徳法則も実行力を持たないというカントの主張は、ひとまずこのように理解できるであろ目。

カントが、実用的法別であれ、道徳法則であれ、実践的法則の規定に際して幸福という概念をそのうちに取り入れ

たのは、人聞はどのような形であれ、幸福を求める存在である、ということを前提としたからであろう。この前提の

およそ人聞は神のように自足し完結した存在ではなく、なにかに欠けていることを意識している不

満足な存在であり、この欠如を解消することによって満足を得たいと願望している存在である、という考えである。

幸福を求めるとは、そうした欠如を補完したいということにほかならない。とすれば、なにが欠けているかという意

識の違いに応じて、なにを幸福と考えるかの違いも生じるであろう。カントは実用的法則によって求められる「幸福」

を「傾向性の満足L

という形で捉えたが(切包念、では道徳法則に従って「幸福であるに値すること」を求める場合の、

背後にあるのは、

値するとされる寸幸福」もまた、傾向性の満足から生じる幸福なのであろうか。だが最高善の一要素としての幸福は、

道徳性に応じて配分される幸福であって、最高善が英知界において成立すると考えられる限り、この幸福もまた英知

界においてはじめて成立する幸福と見なければならない。ところでこの英知界は、『純粋理性批判』でのカントによる

と、「われわれが来世と見なさざるをえない」世界であり(∞包@)、寸われわれに今は見えないが希望された世界」であ

-28-

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とすれば、幸福であるに値することによって配分される幸福は、来世における幸福ということになろう。

最高善や神とともに不死が前提されるのも、来世においてとの幸福に与るためにである。だが来世にまで存続するの

る。(回∞AFH)

は心だけで、来世においては傾向性は消滅するであろうし、

したがって来世で配分される幸福は、もはや寸傾向性の

カントはいま一方で、英知的世界としての道徳的世界は「たんなる理念」では

あるが、それでもこの理念は「実践的理念」であり、「感性界をできるだけこの理念に合致させるために、現実に感性

また持つべきである」とする。この理念が空虚ではなく、「客観的実在性」を

満足」ではないであろう。とは言え、

界に対してその影響を持つことができ、

持つのも、このゆえにである。(切白。)

そこでカントの考えでは、われわれは「われわれおよび他のひとびとにおけ

る世界最善

ZS君。冨)gZ]を促進するL

ことによって、神の意志に奉仕することができるのであって(∞∞当)、実

際にも神の意志は「最高の世界最善

ZSFREZ当色号

gZ]Lを求めているのである。(切∞お)

カントはこ乙で、

29-

「最高善」にかえて「世界最善」とか「最高の世界最善L

という表現を用いているが、これは来世ならぬこの世におい

ても、各人の道徳性に応じて幸福が配分されるべきであり、各人はそうした世界の実現を目指して努力すべきである、

ということであろう。しかしそうだとすれば、この場合に配分される幸福は来世での幸福ではなく、現世での幸福で

あることになる。ではこの現世での幸福においては、寸傾向性の満足L

という規定が復活するのであろうか。

この問題はひとまず措くとしても、カントが寸最高の派生的善」とする「世界の最高善L

は、それが来世において

成り立つと見るか、それとも現世において成り立つべきものと見るかによって、その一要素である「幸福L

の内容も

異ならざるをえないであろう。『純粋理性批判』でのカントの叙述のうちには、この二つの見方が平行していて、どち

らか一方を切り捨てることは困難である。だが敢えて言えば、『純粋理性批判』においては、最高善にかんして前者の

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

ちで提題されているからであり、なによりもまず、私という倒人における道穂性と幸補との合致が求められているか

らである。しかし後に見るように、明実践理性批判』では寸民家高普の挺進L

が義務として麓携され、後者の見方が機勢

となる。カントの際心は、自己だけではなく龍者をもA

含めた教界での最高善の策現にむかうのである。だが『実銭理

性批判h

に移る前に、カントが吋道諜形而上学の議礎づげ』で、ォ領向性の満足」としての

ここで

れるかL

という細川いのう

についてどのよう

者が維持され順調であることい

向性の「全体の満足L

〈円〈きα)であるとかがそれである。そこでこれらの規定を見ると、幸福と

的存義者である人聞が「維持され轍識であるしことによって「告分の状態に安んずることお弘氏。号吾OR5洋的低苦言

に考えているかを見ておくことにしたい。

『道議静間上学の基礎づけ恥では、

J辛一議」

「まったく息災で詣分の状態に安んずることLQぐ詰どであるとか、「理性と議議とを持つ存在者において、その存在

べての傾向性の満足の総体いお〈であるとか、欲求と傾

一に、理性

にさまざまな表現が賠いられている。たとえば「幸播」とは、

認印)であるとか、

-30

N戸M

的宮口宏〕」を指しているが、私はこれがおそらく幸福なるものについてのカントの基本的イメージではなかったかと

考える。主言うのも、カントが後年に理説の形で完成した『道徳形部上学い(一七九七年〉においても、「幸一端」は「自

分の状態に安んずること」(ぐ凶器叶)、もじくは寸自分の状態に完全に安んずること弘〈山品。)とされているからである。

は第ニに、欽求や鰻向性の「満足の総体」もしくは「全体の溝足L

であっ

とまったく間同じである。では、

粋盟後批判』でのの農定〈∞

ずることL

は、こうした欲求や横向性の寸満足の総体L

によっ

の意味での

これは先に見た叶錦町

の状態に安ん

ところで

るのであろうか。

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カントはこの第二の意味での幸福について、次のように語っている。すなわち「およそ人聞はすでにおのずからに

して幸福へのきわめて強力で根深い傾向性を持つ」が、それは寸まさにこの幸福という理念において、すべての傾向

性が一つの総体へと合体している」からである。だがしかし、寸幸福への指令は、多くの場合、いくつかの傾向性に多

大の損害を与えるし、しかも人聞は幸福という名でよばれるすべての傾向性の満足の総体について、確実で信頼でき

またいっその満足が得ら

る概念を作ることができない」。そこで「たった一つの傾向性でも、

それがなにを与えるか、

れるかがはっきりしていると、

そうした一傾向性が[幸福という]ふらふらした理念を押し退けてしまうことがある」

のであって、たとえば「足の通風に悩む人聞が、美食を楽しんで苦痛をできるだけがまんすることを選んだりする」

が、それは「すべてを見積もった後に、すくなくとも健康のうちに含まれるであろう幸福をあてどなく期待して現在

の瞬間の享楽を失うまいとしたから」なのである。(同〈

SS

-31-

カントは怜例にかんする仮言命法を説明する際にも、同じことを語っている。「一種の自然必然性によって、理性的

存在者のことごとくが所有すると確実に前提できる一つの意図が存在するL

が、それは「幸福への意図L

である。(同〈

AFHU)

しかし「不幸なことに、幸福の概念はきわめて暖昧な概念であって、人聞は誰でも幸福を得たいと願望するが、

かれが本来願望し意欲しているのがなんであるかを、

はっきり自分自身にも納得する形で言うことは決してできな

つまり私の現在およびすべての未来の状態における幸せの最大量が必要

とされるL

からである。洞察力や能力に優れていても、「かれがこの場合に本来意欲しているものについて、明確な概

の理念のためには、

い」。と言うのも、寸幸福の概念に属するすべての要素は、ことごとく経験的」であるが、それにもかかわらず「幸福

一つの絶対的な全体が、

念を作り上げることは不可能」である。神のような全知を持たない以上、「かれは自分を真に幸福にするものがなんで

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

あるかそ、なんらかの票則に詑ってまったく確実に規定することはできない」。棒鋼の命法がコ行為を客観的に実接的

日必然的なものとし

ことが

ぃLmw

も、そのためである。したがって「どのような行為が璃性的存在者

まったく解決不可能」である。もともと「幸福」は

牲の理想」ではなく、「構想力の理懇L

であって、ご」の理懇はたんに経験的な諮椴拠に基づいており、これらの諸根

拠が一行為奇襲定して、さまざまな結限木の実際は無限の系列からなる会体が達成されると期待するのは、無敢なこと」

カントは吋純粋瑠性批判』で、挙縮努山畿圏とする1

笑照的法則」は「経験的諸原理」に基づ

『道議影海上学の基礎づザ』においても、まったく変化し

の幸舗を銘濯するか

に規定するという課題は、

なのであるoQ〈

いていて、英は法則たりえないとしていたが、

ていない。

「jすべての傾向性の満足の総体」としてのは、以上の叙述に詫う限り、人間関がそれを所有しようと願翠して

も、所有することは不可能である。なるほど人間は、一つの構内性を議足させることによって幸揺そ得たと主観的に

は思うかもしれないが、それは傾向性の満足の総体である幸福にはほど議いのである。カントは、人聞を「索福にす

ることL

と「養くすることへ「怜備にして自利に抜け目なくちせることL

と「有纏にすることL

はまったく別別である

から、

2自分自身の幸福の鍍糠」は「道徳性の基礎づけになんら寄与しない」ばかりか、この臨総理はまた「穂へお動因L

と「悪徳への動毘L

とそ開発に置き、「ただ一計算に巧みになることだけを教え、両者の種的な藍wmそまったく解語させ

るいから、決して道譲住の原寝たりえないとするがぬぐ怠N)

、しかし横向性による全体的な宰播の実現はもともと不

可能なのであるから、自己幸一語の原理は、叫地徳設の原理とされようとされなかろうと、実は貫徹不可能な盟理である、

と言うべきであろう。したがってもし「自分の状態

に安んずることL

が「幸謡」の蔀畿であるとするならば、

-32

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それは綴向性全体の溝足として

よっては議成不可能である、ということになる。このことは、「最高普L

要素としての

がなにを揺すのかを考えるときにも、

ぺき事柄であろう。

ここで『実義理性批判恥均三主試論L

に般を移そう。カントが金箸存のうちで

についてもっとも組蟻立つ

ているのはここ「弁証論しにおいてであるが、それそたどっていくと、吋純粋理性批判』での

できるであろう。

まのず叙、述

2 と1ほの

葉開践へ理↓性会の 5T持、 主主

整、童話はぢ?な

蒔 r的 ?総主体 sと微b妙援な

守主義

52 オ1, .7己

る1,,)o 7,ζ

二ミす

<0 。。

ここでは

は「純粋意志の全

ぞれが直ちに「純粋意志の規定模擬」であるのではない。ー純粋意

寄附善とその生抑制や促進が客壊とされる根拠L

も「道徳法則」にあ

カントはとれに続げて、「だがもし最高善の概念のうちに道橋法則が最上の条件としてすでに

一緒に含まれているならば、最高善はたんに客観である、ばかりではなく、最高善の概念と、われわれの爽接理性によっ

て可能な最高善の環存の表象は、問問持に純粋鰭恋の想定損撫である、ということはおの、ずから明らかである」と語る。

(〈}活己最高警は、道徳法制がその最上の条件をなしている摂りにおいて、実接還殺の対象であると同時に、純粋

意志の規定接融純である。『鈍枠理性批判』を振り譲ってみると、そこで

したがって

とも言えるが、しかしそれだか

志の唯

の規定根拠」は

であって、

る。(〈

33-

が導入されたのは、「私はな

ことができるという希望を叶えるための条件として設定されたのである。もっとも、すでに触れたように、カ

るためにであっ

最高善は、

ントはいま

で、寸われわれおよび龍のひとびとにおける世界最善」を誕進ずることによって神に奉仕することがで

『実践理性批判恥で最高善が

きると語ってい

北大文学怒紀婆

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カントの宗教諭

希望を叶えるための条件としてよりも、われわれの吋世界最善」を促進するための条件として設定されている、

えるであろう。

は、「われわれの意志のア

胤徳法制到によって規定可能

「最高醤を産出するために出来るだけ寄与すること」は、「純粋実践理性の命

令L

であるし(〈己匂)、「われわれは最高善を促濯するよう努めるべき」である。(〈口忠つまりつ世界におい

私一人

このことは、『実態理性批判恥において、最高替の産出や提違が義務とされることに賠応ずる。先の引用にもあるよ

うに、「道密法則L

は「最高善の生記や偲濯が客観とされる穣機」である。「最高普の罷一

プリ、だりに必然的な客観L

であるし(〈戸念、「境界のうちで最高善を捷柄引すること」は、

の必郎知的客観」である。(ぐロピ

議を産出し程還するように努めることL

は、人間の「義務」であるよ〈

58

への希望を叶え

-34

ることではなく、払と他者を含む世界の最高蕃を保護することなのである。

とは言え、最商畿のために寸心の不苑」と「神の現存いとが前提きれなけれ、ばならないのは、『実践盟性批判』にお

いても変わりはない。寸心の不死L

と「神の現存L

は、ここでは「純粋撲銭理性の要請」とされるむなるほど心が不死

であるとか神は現存するというのは、形のよでは理論的命顕である。だがここで「護請」というのは、寸理論的ではあ

るが、ぞれがアプリオリに無条件に妥当する実践的法則に謡び付いている醸り、それとして〔環論的には]

これは理性情的仰とい

るrえ

い〉つこと

隠者はいずれも理性一信仰によって確信され

この点にかんしても吋純粋理性批判h

での叙述と異なる点はない。

ない命題L

のことであるよ〈ロピ

そこで神の期間顕に入る前に、、むの不死の製請を取り上げると、

カントはここ吋殺到践一理性誌判』では、次のように語つ

ている。、すなわち最高善が可能であるためには、コムV

術が道語法制問と発全に適合」しなければならないが、しかしこの

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こ》」、

つまり「意志が道徳法則に完全に適合している」ことは「神聖性」であり、有限な理性的存在者にとってはっ所

有不可能な完全性」である。しかしそれでも「この適合は実践的に必然的として要求される」から、この適合は「か

の完全な適合への無限に進む進行のうちにのみ見いだされるL

。だがこの「無限の進行」は「同一の理性的存在者の無

限に持続する現存と人格性を前提としてのみ可能」であり、そこで最高善は「実践的にはただ心の不死を前提として

『純粋理性批判』では、私が来世と見なされる英知界において幸福に与ることができ

るために不死が前提とされたが、ここでは人聞に道徳性の完成にむけて努力することを義務づけるために不死が要請

される。この点に『純粋理性批判』との違いが見いだされるが、だが道徳性の完成は現世においては不可能とされて

その限りではそれに応じた幸福の配分もやはり来世において可能であると見なければならない。では、そ

のみ可能」なのである。(〈ロN)

いるから、

最高善における徳と幸福との結合は、

カントによると、寸分析的」ではなくて「綜合的L

であり、しかも徳を原因と

ストア派やエピクロス派が誤ったのは、両者の結合を

-35-

の場合の幸福ということで、

カントはどのような幸福を考えているのであろうか。

して幸福を結果とする「原因と結果の綜合」である。(〈戸ω)

分析的と考えたからで、そこでエピクロス派は「幸福へといたる自らの格率を自覚しているのが徳であるしと主張し、

ストア派は「自らの徳を自覚しているのが幸福である」と主張したのである。(〈口同)

ば、それは「徳が全体的な最高善であり、幸福はたんに徳を所有しているという意識で、これは主観の状態に属するL

このストア派の考えは、エピクロス派とは異なって、実践的原理を「感性的必要の意識L

ストア派の主張を言い換えれ

ということである。(〈口N)

にではなく、「一切の感性的規定根拠からの実践理性の独立性」に置いている点では(〈口N)

、カントの立場に近いが、

しかしカントはこのストア派の考えをきびしく批判する。と言うのも、ストア派は、「かれらの最上の実践的原理すな

北大文学部紀要

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カントの宗教議

度が、この般におい

わち儲畑中台、まったく正当に最高議の条件として選んだが、しかしかれらは、憾の純粋法制問によって要求される憾の程

に到達可龍であると考えることによっ緊者の名の下に人揮の道櫨能力、をそ鈴本憾の一

切の制限を超えて極壌に緊議させ、あらゆる人間知に矛窟ずることを想定したL

からであり、さらには

する第二の成立饗紫すなわち幸福を、人慌の欲求能力の特殊な対象たらしめようとはまったくせず、かれらむ言う費

者を神性同様にその人格の卓越殺の意識において::・自黙にまったく故存しないものとしたL

からである。こうして

ストア派は、」誠亮善の第二の要素である自分自身む幸福」をたんに「行為と自らの人格的価値に安んずることL

とに

踊飽き、ぞれゆえ幸謹を「議穂的な心構えの窓識に告括させるL

ことによって、それをよ積絡したL

のであるよ〈ロ叶)

カントはまた、ストア援の道憩とキリスト教の道徳とを比較しつつ、次のように翻る。ストア派にとって、「議」とは

1

人聞の動物的本性を超えていく賢者が持つ一麓の英雄精神L

である。この「驚者」は、「自らに自足し、他人には義

務を課すが、蕗分は義務を鵡えており、道繕法制燃の違反に対するいかなる誘惑にも識していないL

と考える。だが「も

しかれらがこの法射を福音響の指令が考えているように純粋に、かつ巌轄に考えたならば、これらすべ

-36-

プ}シ」

はできなかったL

のであるよ〈お吋〉ロヨ・)

カン

i-11品、

ji ストア派は三灸誰的L

ではあるが「道穂的

切を寸夢想された道穂的完全性という

状態に聡欝ずることを許さない義務の規律L

に議設させ、また「ともすれば有摂な存荘者の際界を見損なううぬぼれ

や私紫に対しては、

ζ

れそ謙持(すなわち自呂謀議)という制限の下に霞いた」のである。{〈∞∞)カントがここでス

トア派との対比において説くキリスト教の福音警の道認が、撲はカント自身が立轄している道徳であることは明らか

であろう。カントにとって道穂法則は持塑であり、脊殿な人間は現世においてそれに完全に合致した道嬉的完全性に

な狂信」

のであり、これに対して

は、寸人間の

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とうぬ詑れではなら、ず、謙抑でなければならない。人揮は道穂的完成にむけて無限に努力しなげればならない

のであり、ぞおために心の不死が饗議されるのである。

さて、ここでカントが吋実験理性批判』におい

「幸福」についてどのように語っているかを克ることにしたい。

カントはまず、寸幸揮であるととは、必然的に、理性的ではあるが有際なすべての存在畿の要求であり、ぞれゆえとの

存悲者の欲求能力の不可避的な規定根蜘純である」とするが、その理由は、「かれの金現存に安んずること宮山ぬNC主主S'

宮山片岡口広鵠

05α器哲同

MNS己主包己は、

かれが生まれ

ているのでもなM

りれば、またなににも依存していない

というかれの昌三充足の意識切告さ加え話山口語宮内肖ロロωσU苦ぬ目撃。

ω命日ぴ印仲間州

ggぬgswo山品を前提するような浄穣

2awEEでもなく、必擦に迫られている門欠乏した]存夜者であることから、かれmw有限な本性そのものによって

かれに強いられた課離だからであるヘということにある。だがこの「必要しは、「中京揺への欽求」においては、「主観

的に根惑にある快不快の惑構に関係する」「欲求能力の護費L

にかかわることになり、その擦そのJ夫質的規定議拠L

は、「主姻腕によってたんに経験的に認識されるしにとどまる。そこで「各人が自分の幸福をどこに璽くことになるかは、

各人それぞれの挟不快の締憶に依脊するし、開一の主観においですら、この感情の変先によって必要が変わることに

に基づく実接的指令は‘決して普通的であることはできない」のである。

-37

議存する」のであり、こうして「自愛

〈〈

N2・

)

によって追求される「幸福」は、以前に「蛸傾向性の満足の総体」という形で捉えられた「幸福」であろ

のも、「あらゆる実費的な実践的親期は意志の規定援制純愛下級の欲求能力に蹴くL

2

N

N

)

し、また「設求能

力が感覚に依存していることが額向性、とよばれる」(同ぐ出巴からである。だがカントがそれに先立つ

寸かれの全現

北大文学部紀褒

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カントの宗教諭

存に安んずるとと」とよぶ

は、先に見た「指分の状態に安んずることL

と同じで、これがカントの

いわ試「幸補」の原義である、と考えられる。しかしこのつ幸一種」を実

ょうとすると、それは領向教の満足としての「宰領L

に変賞するのである。ところで

幸福の原義とち替えるよゑ現存に安んずること」は、先の引隅滑によると、「出制日充足の意識を前提ずるような浄一福」か

らも一区別されているが、この点にかんしてカントが躍の箇所で語っていることに詮目したい。

それはエピクロス諌の弁諜と批判官に続く箇所であるが、カントはそこ

についての基本的イメ

iジであり、

根拠に接う欲求によっ

「幸橿L

はなくて、しかも「自らの現存に対する遺意しを、すなわち「寵の意識に、必祭的に伴わな凶りればならない

に「享受〔の窓口問的〕」

ような、幸福に類似するもの」

いかと問い、

ぞれは「自己に安んずること言。

-Z定弘氏ゆ母島包乙」であ

るとする。こ

おいては、「われわれがなにも必饗としないこ

ているといっ

-38

と-断毘とした心術をもって道纏法則そ顕守

は、ブ少なくともわれわれの故求そ規定する:::動閣としての傾向性からの独立性」で

あり、「私が私の選議柏町格率の順守に離してこの独立牲を議識している限りにおいて、自由とその意識は、この頼守と

必然的に結びついた、いかなる特殊な惑簿にも基づかない不変的な安らぎ

Y22苦骨吋訟のぎNえ江え

05a乙の噌…

の根源いである。この安らぎは、「横向性を満たすことに基づく惑性的な安らぎL

(

カントによると、「感性的な安らぎL

んに自らの環存に対する消標的な選意」を暗示する。ところで

ずる能力として

という表現は不連切であるが〉ではなくて、「知性的L

な安らぎであり、さらっその根濯において'自らの人

格に安んずることおロま

agERg洋諸

zqp肖き己」である。しかしこの「感情の騰緩的参揺しに依存

また「蟻密に諮問えば、静一福とよぶこともできない凡なぜなら、こ

しないから、

とよぶことは

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ぎは、浄福とは異なって、「傾向性や必要からの完全な独立性を含んでいない」からである。だがそうであるにしても、

この安らぎは、「少なくともかれの意志規定が傾向性や欲求の影響から自己を自由に保つことができる限りにおいて、

浄福に似ており、それゆえ少なくともその根源から見て、最高の存在者にのみ帰属できる自己充足と類似している」

のである。(〈口記-v

カントの以上の論述は、次のように整理できるであろう。「自由とその意識」を「唯一の根源L

とする「不変的な安

らぎ」は、もはや傾向性の「感性的」な満足ではなく、寸知性的L

な安らぎであって、これは実は「自らの人格に安ん

ずること」であり、

その意味での「自己に安んずることL

である。そこで道徳法則によって生きる道を選んだ人聞は、

本来の自己が傾向性からの独立によって成り立つことを意識している限りにおいて、現世においても実際にこの安ら

福」(寸享受」としての)

であると規定するならば、この「自らの人格に安んずること」を「幸福L

とよぶことはでき

-39-

ぎを味わうことができる。だがこの安らぎは、傾向性の満足を含んでいず、そこでもし傾向性の満足をも含むのが「幸

hih

、AO

中心】し

一方この安らぎは、「意志規定が傾向性や欲求の影響から自己を自由に保つことができる限りしにおいて、完全

に自らに充足している神の「浄福」に類似する。だが現世における人聞が自らの人格に安んずることは、「傾向性や必

要からの完全な独立性」を内に含まないから、直ちに「浄福L

と同じであるとも言えないのである。

カントにおける「幸福」の

原義ではないかということは、すでに述べた。「自らの人格に安んずることL

は、「自己に安んずること」であり、そ

の限りで「自らの現存に対する適意」を含むであろうが、しかしこれは自分の状態や現存に完全に安んずることでは

寸自分の状態に(完全に)安んずること」もしくは「自分の全現存に安んずること」が、

なく、「幸福」の原義を満たすものではない。しかし人間の意志が傾向性の影響をまったく排除して道徳法則と完全に

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

一致し、神製性に達することができれ語、そのとき入関は寸傾向性や必要からの完全な独立性いな成就し、神の滞績

と等しい「自己充足」としての滞一橋にいたるであろう。それは自分の状態もしくは現存に克金に安んずる議議であり、

すなわちっ幸福L

ということになろう。選欝劫叫に生きる人間関が来世において希望で怒る最高善は、完全性に逮した道

ト教の道纏について語っていることと合致する。すなわちカントによると、「キリスト教の道徳論」においては、

穣の禅塑性は、理性的存荘者に対し、この世の生においてすでに規準として示されるが、これに比椀した幸せ、つま

り滞揺は、永遠において務違しうるものとしてのみ表象されるいのであり、寸静福しは「との世で幸福という名の下で

は決して到議されることができない(われわれの能力にかんする眼り)し、ぞれゆえたんに希望の対象とされるだけい

なのであるよ〈諮問ヤカントはここで、先に見た笛所と同撲に、キリスト教の道徳に託して自らの道徳を語ってい

る、と見るべきであろう。カントにあっても、「遊擦の神聖性」は、「この世L

においてすでにつ規準L

として示され

ている。人聞はこの世において、神聖牲を規準として、自らの遊諮的完成にむけて緩践の努力を重ねなければならな

い。この世の人聞には類向性が伴っている以上、意志に対するその影響を楳絡することはできず、人慌にできること

はそむ影響をできるだけ小さくし、選植法起の力をできるだけ一大にするように努力することである。そうした人間関は、

自らが絶えず法制間違反にむかう額向があるのを自覚しているから、潜熱に「謙掠」である。ストア派のように、この

震ですでに道纏釣完成に透したと誇るのは、吋遊徳的狂信L

にすぎない。

カントが「もし私がなすべきことをなすならば、私はなにを希望することが許されるか」

の幸福は、

このように見てくると、

という荷いにおいて求めてい

すなわち私にとって「希望することが許されるし

-40-

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己充足としての浄福であった、と言えるであろう。人聞は誰でも来世での幸福を願うであろうが、しかしそれを希望

することが許されるのは、現世において道徳的完成にむけて努力する人間だけである。また事実そうした人間だけが、

現世においても自己の人格に対して浄福に類似した安らぎを意識することができる。との安らぎは、来世での浄福の

いわば象徴であって、道徳的に生きる人聞はこの象徴を介して、来世での幸福を浄福という形で確信するのである。

そうした道徳的努力をしなくても、人聞はそれ以外の手段で神の気にいることができ、それによって来世での幸福(諦

福)を得ることができると考えるのは誤りであり、もしそのように主張する宗教があるとすれば、それはカントによっ

て不純な宗教(思恵を求める宗教)

として斥けられる。希望できる来世での幸福は、最高善の一要素としての幸福で

あり、道徳性と合致した幸福なのである。

だがしかし、最高善を構成する幸福については、

まだ解決しなげればならない問題が残っている。これまで見てき

-41-

たのは、私の希望の対象としての幸福であり、これは来世における私の幸福であった。しかしカントは、いま一方で、

最高善は現世においても成立すべきであると考えていたのであり、そこで『実践理性批判』では、現世におげる最高

善の産出と促進が人聞に課せられた義務とされたのである。では、この現世で成立すべき最高善は、したがってまた

その一要素である幸福は、これをどのように考えたらよいのであろうか。この幸福は、傾向性からのまったき独立と

しての静福ではなく、またその象徴としての人格に対する安らぎでもないであろう。最高善の一要素としての幸福も、

「幸福」の原義に照らせば、「自らの状態もしくは現存に安んずること」であろうが、しかし現世で促進されるべきで

あるとされる最高善は、われわれの最高善である。したがってそこで考慮されるべき幸福も、私一人の幸福ではなく、

われわれの幸福である。私と他のひとびとを共に含む世界の最高善を促進することが私の義務なのである。では、私

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

はどのようにふるまえば、私ーの能力の範囲内で、世界における最高善

われわれの幸福を促進することのうちには、当然ながら強入の幸摘を挺進することも含まれる。だがカントはずでに、

吋滋徳都市海上学の基礎づけ恥や吋実践理性批判恥で、他人の幸一衝を慌進ずること

こで義務とされる他人の幸一議の挺進が、そのまま最高品替の傑遂につながるの

を手掛かりとして、この問題を考えてみたい。

『道議形而上学』では、

に寄与することが

むであろうか。

つに数えてい

では]こ

か。ここ℃は吋道徳形寵上学』

寸同時に義務でもある目的L

と規定大切れる。

ここでの論述によると、そうじて「話的L

とは「自由な語意の対象」であるが、しかしここで取り上げ一られるのは、

「人間が告らの自然本性に能って自ら形成する目的」ではなく、「自由な髄意の法剰の下にある自由な随意の対象L

あって、これは吋人間が自ら日的へと形成すべき対象L

である。つまりこれは定書命法の下にある意志の対象であり、

行為の問的であって、カントはこれを寸同時に義務でもある目的L

とよぷ。実繋「いかなる行為も無言的であること

ぃLから、もしこのような言的が存在しないなら、「すべての目的は実践瑳牲にとってつねに散の閥的のため

ことになり、

J一盛一一出口命法は不可能である」ととになろう。そうなれば行為のためには「怜

と「徳義務」とが…俸制加され、

-42

はの手段としての

例の填黙しがあれば十分で、道穂波別はもはや不必袈であろう。(〈日

ω∞抹)

この1

問時に義務でもある自的」は、寸自己の兜全性L

と寸能人の率補L

である。これな入れ換えて

と「他人の完全性L

とすることはできない。人間判は誰でも「白鶴本教の蕎動L

によっ

の幸福を求める傾向があ

るから、それを自分の義務として求めるべきであるとするのは自己矛重であるし、また強入の完全性はその本人によっ

てのみ求められることができるのマあるから、

それを本人以外の私が義務とすべきであるとするのも矛重である。こ

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うして「自己の完全性」と「他人の幸福」とが「同時に義務でもある目的」とされるが、カントがここで「自己の完

全性」の下で考えているのは、まず第一に「人聞の能力の開化」でありτ

、次いで「人間の意志の開化」である。人間

の能力の開化においてもっとも重要なのは「悟性」の開化であるが、と言うのも、悟性はもともと「概念の能力」で

あり、そうしたものとしてそれは同時に「義務にかかわる概念の能力L

だからである。意志の開化について言えば、

それを「もっとも純粋な徳の心術」にまで高めることが目的であって、ここで求められているのは「内的な、道徳的H

実践的完全性」である。(〈Hω∞2・)

の能力の開化」(カントはこれを「自然的完全性L

とよぶ)と、「われわれのうちにある道徳性の開化」であるが、前

者は最終的には人間の道徳的完成のために必要なのであるから、自己の完全性は、つまるところ自己の道徳的完全性

に帰着すると見てよいであろう。(〈同包ロ・)人聞は自己の道徳的完成を目指して(たとえ現世ではまったき道徳的完

つまり「自己の完全性」という目的の下で義務とされるのは、悟性を含む「一切

全性に達することができないとしても)努力すべきであって、このことが「自己の完全性L

が「同時に義務でもある

43-

目的」とされる所以なのである。

では、「他人の幸福」についてはどうであろうか。カントはここで、「幸福L

を(先にカントにおける「幸福L

の原

義と解した)「自分の状態に安んずることL

と規定し、その追求は人間の自然本性にとって不可避であるから、自己の

幸福は「同時に義務でもある目的L

ではないと再度否定した上で、次のように語る。っそれゆえ私の目的として目指す

ことが義務であるような幸福が問題になるとすれば、それは他の人間の幸福でなければならず、そこで私はかれらの

(許された)目的を同時に私の目的とするのである。かれらが自分たちの幸福になにを数えようと、それはかれら自身

の判定に委ねられている。だがかれらが幸福に数えているものの、私がそうは見なしていない多くのものについて、

北大文学部紀要

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カントの宗教論

かれらがそれをかれらのものとして私から要求する権利がない場合は、ぞれを拒む譲利が私にもある。」(〈同総∞〉

カントは蔀半部分では、

V

'-

能抽出人の「(許された〉接的L

(

つまり非選徳的ではない屈

的)そ階特に私

cg的とする乙とが義務であるとするが、しかし後半部分では、幸橿と、他人が幸福に数えるものと

を一区別しているように見える。つまり地人が挙舗に数えて追求しているものでも、私がそれを宰福と箆なさない場合

は、強入が法的権利に基づいてそれを患に要求する権問刊があれば別であるが、そうでなければ払はそれに協力する必

要はない。これは前半部分と結びつけると、たとえ他人が泰襖そ非道徳的ではないえ許された)

ていても、私がそれを幸譲に数えないなら、それを私の目的と

トによると、その轄寸私臨身の(昌熱的〉

の表現はかなり数妙であって、

の実現に求め

ぃ、ということになろう。もっともカン

幸信樹を削除巡しないことを正当化しではならないのである。(MW-m

・o・)

は「自らの義務への選筑に導く大きな誘惑いであり、「選度一の簡や強壮や鐘康や安泰」は前者の影響力に対読するから、

後者は密日にとって「同時に義務である冒的」のように晃えるが、しかしその場合に義務である自的は

J自分自身の

挙摺」ではなく、あくまでも「主体の滋議笠L

であって、「ゆいの主体から障警を取り除くことしはたんに「許された手

段」にすぎない、と語る。たとえば寸自分告身のために適度の寓を求めることL

は、寵識的には義務ではないが、間

接的には義務とも惜…悶えるのであって、ぞれは「悪徳への大きな誘惑の一つである麓闘を訪ぐ」ためなのであるよmH・s・0・)

も配慮しなげればならないということを「糞神戸と併称して、能人の

「苦難や苦痛や窮乏し

なおカントはこれに続け

-44

させて、「他人

の完全性」にかんして自銭的発全性と道徳的完全性とを区別したが、それに対誌

にかんしても「指然的な幸せ」と寸道機的な幸せL

とを阪判別して扱っている議所がある。前者

については、カントはまず地人に親切を尽くすことが義務である理由そ述べた後で、ー私が報欝を期待しないで私の幸

先に見たように、

カントは

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せの一部ゆ信組入のために犠牲に

を示すことは不可能である」として、 べ

き」ことは義務であるが、寸ど

でそれが可能であるかについて一定の限界

さらに次のように諮るα

♂」こできわめ

のは、各人にと

それぞれの

感じかたに蕗じてなにが真の必獲であろうか、ということで、それそ決めることは各人自身に餐ねられていなければ

して他人の幸福狭山捉進することは、それが普遍的

な法則とされた場合は、ぞれ自体において矛臆した格率となるであろうからである。ぞれゆえこの義務はたんに広い

畿務であり、多かれ少なかれ活動の余地を賎し、その摂界をはっさり告げることはできない。」(〈凶器ピついでに「道

徳的な幸せL

に触れておくと、他人の道徳的な幸せを挺進することは議務であるとしても「消機的な義務L

にすぎず、

そこで義務とされるのは、鶴間単に一吉田って、私が地人の良心そ苦しませるような機縁を作らない、ということなのであ

ならない。なぜ

自分自身の率調

の必要〉

る。(〈円

45~

きて、以上から、カントが飽人の幸識的り慌進を義務であるとする擦に、促進すべき億人の「幸一調」をどのように考

えていたかについて、そのおおよその輪郭を知ることができるであろう。カントが

しくは現存に安んずること」に置いていることは、これまで筒撲か触れた。このことは、カント白

この原畿の下で理解していたことを物語るものでもあろう。自分の状態についての讃足は、ぞれが白熱的状態につい

ての満足である以上、浄揺に類似した人格についての満足とは奥なって、傾向性の議定を伴うものと沼凡なければ体なら

ない。だがもちろんカントは、額向性を野放しの状態においてそ必携肢を求めているの

摘の能慮もまた間嬢的な畿務であると諮るとき、その幸一議は、たとえば適度

務違反への誘惑を免れている状態である。こ

ぃ。カントが白日

ていて、賞闘から生ずる義

は、健盛縦であるこ

さまざまな危険から安泰であることも

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

の擦義に従えば、義務違反への誘惑を含む「苦難や苦籍や欝乏」から免れてい

て、告らの状態もしくは現寄に安んずる門盟主色合忠ことができるならば、それがなのである。議己幸福の

数えられるマあろう。

つまり

原理に徒って額向殺の溝足を求める銀り、それはどこまで行ってもとどまることを知らず、したがってその人聞は自

らの現在の状態に絶えず不識であり、議らの状態に安んずることはできないであろう。頚向性が人間関の自然本殺に罵

している限り、それを鰐庄するζ

とは不可能であるが、しかしそれを抑制制することは苛能であり、自らの状謹に安ん

ずるためには、それを必饗とするであろう。自らの状懇に安んずるために必要なのは、鶴向性の満足をどこまで

いだし、緩向撃の溝足をそれに摂定するととなのである。

の原義は、地人の幸揺の促進が議務とえ切れる場合の他人の」平一種しにも当てはまるであろう。地人が

道椋抜期に違反してまでも告自家揮を追求しているとすれば、もちろん私にはそれを能進する義務はない。しかし他

人が道鑓法則に溜合して幸福を適求していても、その幸福が・自らの状態に安んずることを超えた瀧大なものであり、

「真の必要L

を超えたもの〈たとえば驚沢)であるならば、ぞれを保進するのが私の義務であるとは震えないであろう。

『道徳形誌上学の基礎づ砂』で強人の挙…砲の促進が義務とされる場合でも、カントがあげている例では、その他人はっ大

きな辛苦と戦わな凶りればならないL

状謹にある他人であり、勺罰窮した」勉人であるoQ〈お印)またカントによると、

笠間には

J同情心L

に寵み、「』虚栄や自制約」といった動因からではないにしても、「自分の周閣のひとびとに喜びを広

い続けることではなく、「自分の真の必要」

この

めることに内的な瀦足を見いだし、

のせいで偶人が安んずるむを楽しむ」人慨がいるが、しかしその行為は「た

とえ義務にどれほど適合しいでも、「棄に道穂的な価錨をそなえてはいその地の傾向門性と、た

傾向性と、同等の資惑そもつにすぎない凡これに対して、こうした博愛的な人間の心摺が「指分自身の器窮にかかり

-46-

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きり」になり、もはや「地人

〔密分の「内的な満足」によっ

心中佐動かすにはいたらないL

状態出になって

も、なおかつ地入の臨踏を救うとすれば、ぞれは義務に基づいた一行為であり、その場合にこの行為は寸はじめて真正

な滋徳的錨値をもっ」の明、ある。(同〈詰∞〉

から区別するために用いた機であるが、しかしこうした倒においても、どりような場合に他人の幸福を促進するのが

義務に基づく行為で道議的簡値を持つのかが示されていると見てよいであろう。他人が「苦難や苦痛や窮乏L

によっ

これはカントが

いた一行為L

なたんに「義務に適合した行為レ

て自らの状態に安んじ讃足するととが

い状態は、

強入の率補の罷進とは、なによりもまず、他人

をこうした不幸な状態から救い、龍人が他人密身の状態に安んじ満足することができるようにすることである。もっ

とも、地入の幸揺の促進は、この一事に尽きないかもしれない。カント自身も語っているように、能人の幸福の架道

一定の援界そ示すことのできない「誌い義務」である。

綾的に一一割問J

「できるだけ地入に緩切であること」は

47-

iま

である。(同〈

ω議〉

たとえカントによると道議的欝髄を持たない向精心からの親切であっても、それはやはり

義務に適合した行為でああ。また昌己

さらになにを数えるかによって、そのひとが義務とする鵠人的幸福の

促進も異なる明、あろう。だがカント自身は、自ら

の誘惑が生じない程度において、自らの状態に安んずることに藍いていた。カントが、促進すべき龍人の幸福をも、

夫すもってこうした視点から提えていたことは、十分納得できるであろう。そしてこれはまた、目的ぞれ自体として

の斜地入の人格に対する尊敬と肥慮にもつながっているのである。

つつましい範囲において、

つまり滋徳法副知

なく、自ら

に安んじ満足することであった、

カントが現世における白熱的〈道徳的ではない〉挙福の基本としたのは、自己と舘人との別

一要素と

しかしそれでは、この幸福は、

このよう

クハ》シ」、

北大文学怒紀要

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カントの宗教諭

のであろうか。これまで『道纏影間上学』を手掛かりにして眺めてつまりその偲瀧が龍

に対しては間接的な義務とされる幸福は、義務違反への誘惑を排除しうるよ

において求められている現世での察識は、道徳法則に祭った

る入聞が、その結果として受け

行う 人為な にの、対結、自し果、らてと のはし状産

態援に約対なす 畿る務安とらさぎれで 、

あった

べき幸福である。求められているのは、選締法制約に従つ

取る準備であり、道密性に適合した幸語なのである。したがってこのニつの幸福は直ちに蹄じであるとは替えないが、

しかし結論を先に誘うと、この二つの慾犠は出の出内容にかんしては関乙であり、原義として

らの状畿に安んずること、としての幸福である、

在意味しないことは、

すなわち自

奔放な傾向性の満足

はたして私が(あるいは各人が)道纏法制別に能って行為するこ

つねに自らが安んずることができる状態が現出するか、ということにある。璃様法則に従って金怒るこ

かえって「苦難や苦痛や窮乏」が増大し、告らの状態に安ん、ずることができなくなることも考えられる。

さまざまな脅迫手段によって鋳証を追られた場合、選語法制に従ってそれを揺苔ずるならば、たとえ萌ら

の良心は窓められでも、謡底自らが安んずることができない状態に諮るであろう。落躍的にふるまっても、道密性に

適合した泰摘が持られるとは隈らないし、むし

れる。

要素として

でもない。だが問題は、

-48

とによっ

とによって、

たとえば、

なる可能性すらある。しかしまたそれ、だからこそ、

挙播とが必然的に結びついた最高警の帯殺が要請されたのである。

ところマ均実践理性批判恥では、最高善を鑓進ずることがわれわれ

された。『議徳形一如上学』では、

それ以外につ法論L

を通じて「血液

のなかで「永遠平和L

「最高の政治的善L

とされているが

ωω一山)、

高善」についての言及はない。しかし『道縛形関上学』に先立つ『制判断力批判』では、『紫践灘性批判判』に緩い

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高議官由化促進することがやはりわれわれの義務とされている。すなわちカントによると、寸道徳法則はアプリオリに、わ

れわれに対してある究種目的を規定し、この究極昌的にむかつて努力するようにわれわれを拘束する」が、この究撞

は「自由によって可能な世界の最高普」である。(〈

80〉吋理性的世界諾存在容の最大の幸せとそれらの存在者

リ寸リに規定された事柄である。(〈

にお

いかえれば、

V'

て成り立つ

全力を尽くして淀進するL

ことは、護霊によって

致して可能である限りで

そ促進するとい

は、「義務の

寸あらゆる理性的存空審の究極目的

を通じて、われわれに諜せられているのである。(〈白川

世界の最高穫を促進するのがわれわれの義務と

り他人の幸福を促進したりする場合の義務とは、

は、自鑑が自らの状態に安んじ、

自強が道穂法則に従つ

私がいわば個別的に私お幸福そ配議した

った義務と見なけれ誌ならない。と欝うのも、後者の義務

へとむかわないことを目的としているが、読者の義務は怒らに積彊的に、

49-

司令と品口、と

ることによっ

れるべき

を目的としているからである。吋駒郡教論』

では、こ

二種独特な義務」として一諮られることになる。しかしこの問題は、次の第四節のなかで改め

察することにしたい。

吋宗教諭』の窓諮

すでに述べたように、

カントにとって宗教とは、理性借仰に基づく瑳性議教である。カントの漆性器郁は、人鵠は

北大文学部紀要

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カントの宗教論

理性的存在者として実銭理性が指示する道穂法期に従って生きなげれ、ばならないという選権的確窪か

あり、したがってカントが理性宗教、として捉える宗教は、当然ながら入閣が道機的に生きるこ

し、その上

に議かれる宗教である。その際議密から宗教への移行を決定づけるのが」穂高善」であり、最高善を介して持への館

開が成立するのである。明実接理性批判恥のなかの次の一節は、この(道徳から最高普を経て宗教にいたる〉連関を明

確に伝えている。「こうして選構法郎は、純粋実験理性の客観であり究楼目的である最高畿の機念を通じて宗教へと、

すなわち一切告義務安神の制裁としてではなく、神の命令として認めることへと、つまりある他の議蕊のそれ自体鋳

然的な指簡としてではなく、おのおのの自由な窓議ぞれ申出身の本繋的な法黙として認めることへと導くが、この法制問

はそれでもなお最高存在者の命令と解きれなければならないのであって、そ

のも、道穣法制は最高善をわれ

-50

的に完全な(神盟

われの努力の対象とすることをわれわれに義務づけるが、われわれがこの最高善を希望することができるのは、

い)しかも開時に全能な意恋によってのみであり、ぞれゆえこの意士山との合致によってそ

ことを希望できるからである。い〈〈

の議務」を「持の命令L

として認めることである。これがカントによる「宗教」の張本規定であることは、司判断力批

暫b

においてもまったく民じ規定が、すなわち

J指数」とは寸われわれの義務を神の命令として認めるととL

である

という規定が与えられ完急円)、さらによ部教諭』ではこの鍔じ規定が宗教のよ応義」とされている〈

25ω〉言乙

〈門ど

ことからも知られるであろう。人間の実践理性が灘諜法則を通じて…釈す義務が、「それでもなお」神の命令と認められ

なければならないのは、この道纏法制そのものが「最高警なわれわれの努力の対象とすることをわれわれに義務づけ

るしから?あり、地方またわれわれが三」できるしのは、最高善をこの世にもたらす全慈・

ここに

れているように、

とは、われわれの吋

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の意志

ることによっ

からである。

世界における最高の可龍な蓄を私の一一切のふるまい

と合致するととによってのみである。L(pm・o・〉議護法則に従うことと神を信仰することは、つまり道徳と京教は、道

徳的心舗においてはもともと…体であるが、道徳伝道徳の教えとしての道繕議と晃るならば、それは「われわれはい

かにしてわれわれを幸彊にするの教えではなく、吋われわれはいかにして幸福に値するようになるべきかL

の教え

のは、

でるって、「宗教がこれに加わるとき、そのときにのみ、われわれが幸一還に植しなくはないように商議した程度に応じ

ていつかは幸一種に与るという希望もまた生じる」の守ある。〈ぐのものを決して幸福議と

かえれ眠、

して、すなわち幸一種に与るようになる指示として援つてはならない」が、

しかし「道曜が完全に講述されたしなら、

た段鱈においては、♂」む道徳論は幸一穂議ともよばれることが

るL

のであっ

へと移持する。この移行が生り

それは「幸福へ

ただ宗教

51-

そこから

という「掛則に基づ

とともにはじめて姶まるL

からなおである。〈mrmycu

カントは可純粋犠牲批判』やシぷトイドリン宛の手紙で、

Jm教」

は「私はなにを希望すること

判』の富所からも確認できるであろう。宗教はいわば鵡舗の延長義上

れるかL

とい

の聞いにかかわるとしたが、そ

れカま こ吉宗、 の謡、こへ、との、は希、上輩、述との結びっくとき

に成立するのである。

絞の「序言」で、

理性批判恥での先の説明と大筋において変わるところはない。カントが

ろだけを引用すると、「もし選議議剰のもっとも薮格な服守が最高善(自的とじての〉招来の原悶と考えられるべきで

は、その第

不可避的に挟教にいたる」所以を説明するが、この説明は『実践

のなかの拾の米揮で語っているとこ

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

あるならば、人間の能力はこの設界での幸福を幸播であるに値することと

全能な道語的存在者後世界支記者として懇窓し、この支配者の先患の下でこ出ことが生じる、としなげればならない」

のであり、こうして「道籍は不可避的に宗教へといたる」のであるよく同∞〉員三

いずれの説明においても、ともに現設での最高普として扱われており、したがっ

世における鰻高善の実現である。人間はこの希翠の下に、地上

しなげればならない、というのがカントの考えなのである。

致させて実現するには十分ではないから、

なおここで討蓄すると、

の対象と

のも、この現

ぺく、自らの能力の及ぶ眼り、

これま

きたように、

カントはすでに『実蟻理性批判』において、議徳が不苓避的に宗教にいたるこ

カントがその五年後に公判したよ一本根強恥は、なにを主題としているのであろうか。ぞれは道穂か

していた。

では、

トがシュトイドリン苑の手紙で語っていたことを思い出す必繋があろう。すなわちそれによると、

では

「カキ、ン

-52

ら婦結した理性宗教をその市内容にかんして盤識的に幾関することを目的としているのであろうか。だがここで、

L

が企てられるのである。

3示教諭b

理性宗教の組織化

体系北にあるのではなく、ぞれと客示宗教であるキリス

どのような方法によってこ

の可能な合一を悶ることにある。それではカントは、

を翻るのであろうか。

すなわち『たんなる理性の隈界内における宗教〔宮内

岡山内

w-夜吉山口語忌包ぴ仏言。号提言内日常

ZC印印

g〈建防白骨

γという比較的長い標題が、本来なにを意味し、なにを議を

ぃ。と言うのも、この標題は、少なくとも一一一通りの意味で理解することがで怒るからである。

たんなる理性の限界内で論じられた哲学的な宗教諭である、というこ

そこでこのこ

ために、

の書物白正式

までず い第、る

かを考え

に、この標題は、こ

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で、この窪田物が「純粋な哲学的宗教論いの

J手引きL

として

の書物そ構成する包つの掘の探題が、それぞれ諮問門学的宗教論』の第

一、第三、第四畑酬とされていること、また鍔じく第一認の「序言」で、盗品護神学と哲学的神学とが限別され、

寸この留学的神学は、それがたんなる理性の鰻界的にとどまっていさえすれば::・その学関の及ぶ限り広く伸捜してい

く十分な臨樹を持つは、ずである(傍点引患者)」(〈HSと一諮られていることからも推測される。ちなみに、この議物の

準錆露霜のなかでは、との書物を指して、「純粋理性の概棋界内におげる宗教議」という欝葉が寵われているし〈MHEMg)、

一草案では、哲学と聖書神学がそれぞれ独立した学問であるという視点から、学聞の教郊の毅務は「その

しているよう

このことは、第一販の

利用可能なことがほのめかされ(ぐ同

学問の限界内に自己を保持し、たまたま二つの学問が結びつけられる場合があっても、その一向者を互いに混同しないL

「自らの桝限界内に臨己を罷持し、

るべきで、

む権利になんらの慢害をも加えないL

のは、

つまりカントは、それぞれの学問は自立性を保ち、自らに間有な原理の上

の混同は戒めるべきだと考えていたのであり、こ

時一

ことにあると

でるる、とされているよ凶凶

に基づいて、ここ

Jm教諭L

でも、

カントは、哲学者としての信分の主張がなんら襲書神学を授堂一閃するものではない、

ていた。

カントは、『学部の争いh

のなかで一京されているように、ブリ

1トリッヒ・ウィルヘルムがカントに下し

た翻令、すなわちこの宗教議やその他の小論文でカントが自らの哲学を乱用し、

教畿の線本原理を歪曲し、その品位を間引き下げたという吃棄に対して、告分は

ゆえにこそ、

よぴキリスト教の多くの主要

のうちに決して聖書およびキリスト教の癌値判定を議入しなかったこと、

の講義

また「扱っている学問のもろもろの限界を

として、

逸説したり、あるいはそれらを護持させたりする誤謬しなたえず学生

てきたことを述ぺて、「私は上述

北大文学部紀婆

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カントの宗教諭

において、

それがキリスト教の評舘を求ったく含んでいないから、

キリスト教の品位の間引き下げ

金うこともない」と弁明できたのである。

uw一戸)

そこで

なる理性の限界内にお砂る宗教』という探題は、ま

ず第

に、この審物では宗教がよ九んなる理性の隈界内におい

が寸たんなる哲学的輔限内」にとどまっているとと

(MM

カントが咋道諜形市上学』のなかで、そこ

ており(凶凶口凶器)、したがってこ

を告げている、

ことが可能である。これはまた、

ている「法論L

をよんんなる理散の限界内における法論L

とよ

んでいること(〈円

ωω忽

に対応する

しかしそれにしても、この欝胸部の標題は、寸たんなる理笠の限界内における宗教論いではなくて、「たんな

綴限界内における宗教L

である。準欝顔稿に見いだされた「続料理性む限界市内における宗教論」という欝棄も、出版さ

一に、この標題は、カントがこの審物のなかで、宗教そのものを

と解釈することもできるであろう。

れた

むうちに

しユ

せない。そこ

-54

叶たんなる理性の限界内におげる宗教L

として援おうとしたことを意味している、

第二版棋の

を見ると、そこでは次のよう

ている。ごいの欝物の標題について;::さらに次のこ

しておきたい。

それでも純粋な穏性説教を自らのうちに包含することが

より狭い

いから、

しかし逆に後者は爵者の一濯

しての後者を佃摂ずるより広い倍mw韻域と

るが、

史的なものを包含することが

〈一一つの互いに離れて存在する円とし

はな〈、同心円として)見なすことができるが、このより狭い領域の市内で哲

学者は純斡な濠性教蔀として

切の経験を捨象しなければならない。さ

〈たんなるアプリオリな援理に基づい

ふるまわなげればならず、

それゆえその騒

この立場

私はまた第

の試みをなすことができるが、

それは

つまり、そのように[純粋な畷性宗教を程合すると〕見なされるなんらかの啓示から出発し、純粋な理性宗教〈ぞれ

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がそれだけで存立する体系をなす限りで)を捨象することによって、歴史的体系としての啓示を道徳諸概念にたんに

断片的にあてがい、この体系が先と同じ宗教の純粋な理性体系へと連れ戻しはしないかを見ることなのであって、こ

の理性体系は、理論的意図においては自立的であって、

アプリオリな理性概念として、この

[実践的]関係において

のみ生じる本来の宗教にとっては、これで十分ではないか、

ということである。これが当たっているとすれば、理性

一致点すらも見いだされうるし、したがって一方に(道徳諸概念の

と聖書との聞にはたんに協調点だけではなくて、

手引きによって)従うものはかな白ず他方とも合致する、と言えるであろう。」(〈H

H

N円)

はカントの『宗教論』の方法のみならず、その内容を知る上でも重要な箇所と言える。カントはここでまず、「純粋な

理性宗教」と「啓一示」とを区別している。つまりここでの「純粋な理性宗教」とは、啓示にではなく、理性に基づい

た宗教であり、これまでに見てきたカントの理性信何に基づく理性宗教であって、これは啓示を必要としないでコ'で

引用が長くなったが、これ

れだけで存立する」体系である。とすれば、『たんなる理性の限界内における宗教』という標題は、理性に基づいたこ

-55

の「純粋な理性宗教」を指す、

ところが宗教諭準備原稿を見ると、

という解釈も可能であり、これがこの標題について考えられる第二の意味である。

カントはそのあちこちでこの著作の標題を「たんなる理性に基づく宗教」や「た

んなる理性の宗教」とすべきではないと述べている。たとえばある箇所にはこうある。「標題について。標題は『たん

なる理性に基づく宗教[何色町ZDE印

Eogq〈角ロロロロ]』とすべきではない。なぜなら、おそらく理性だけから生じ

た宗教は存在しないので、たんなる理性に基づく宗教というのはたんなる理想にすぎなかろうし、

にあまりにも頼りすぎて~しかも私の領域をきわめて狭めてしまうことになったであろうから。L(凶凶口目白)

その場合私は理性

また別

の箇所にはこうある。「もし代わりに『たんなる理性の宗教[岡山色柱。ロ

aqzg∞g〈号ロロ民同]』というのが標題とさ

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

あろうし、したがっ

れたならば、ここでしばしば山引き合いにされる啓示の教えがたんに特殊な衣をつけた理性の教えであると啓されるで

は哲学的道議的構築物を表象するという態味だけが押し付けられようとしている、と思

のは次の箇所でるる。「私は諜教を理性の領域内で、しかも

われたであろう。L

〈凶凶MMM

ゆど

しかし

そうした宗教がまたいかにして一民族において教会とし

話下のところ、私はζ

のような議形式晶化、現実に存姦する諸形式を利用しなげれ試適切に思案することができなかっ

たからマある。

liし

れうるかを、開明らかにしようとした。なぜならば、

凶器内同雪ぐmw吋ロロロ患ではなく、

MNm込町均一OHMmw

ロ4

門的》吋山口側一命事己

ともかく経験のうちにも与えられた(教会としての〉京教であるが、しかしその宗教

たのは、

にあって理性の限界内に議する事柄である。

iiこのことから明らかであるが、私は聖書になにも持ち込んではいな

-56

理性そのものと問様に、ある絶対的統一を影或しなければならないから、ぞれはなるほど断片的

にしか探究されることができないが、しかし非捧系的に一全体として総話されることがで怒るのである

OKM門出口器)

そこでこの断片から、吋たんなる理性の限界内にお砂る宗教bkいう標題は、第一一一に、すでに与えられているキリス

ト教のうちに含まれていて、しかも捌暗殺の限界内に麗する事柄吾、非体系的に

見ることができるのであって、これが実はカントがこの課題に托し

全体として総括したものを示す、

はないかと考えられる。この作業は、

に引用した第ご版「序一言」のなかでカントがの試み」とよんだ枠業に対蕗する。繰り返すと、それは」純斡な

理教諜教を包含すると〕見なされるなんらかふ一ら出発し、純粋な理性宗教:::を捨象することによって、歴史

的体系としての饗示を遊館的諸概念にたんに断片的にあてがい、この体系が先と同じ宗教の純粋な理性体系へと瀧れ

一民しはしないかを見るL

という作織で、この作業によって取り出された祭教がまさに「たんなる理性の脂棋界市刊におけ

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る宗教L

なのである。

ところでカントは、この作業の方法を、準備原稿のなかで、「分析的」とよんでいる。すなわちカントによると、『宗

教論』で問題なのは、「実定的(制規的)宗教を綜合的にたんなる理性諸概念にもたらす」ことではなく、「たんなる

理性が、分析的方法によって、自分自身から認識しうるものだけをその宗教から捨象すること」である。(凶凶昌宏)

準備原稿ではほかに、「与えられた宗教を『限界内云々』において見いだす分析的方法は、

そうした宗教を綜合的に理

性を通じて作り出すことではない」(凶凶口HHHU)

とされている。つまりカントは、これらの断片で、綜合的方法と分析

的方法との区別を念頭に置いて、『宗教論』では分析的方法が用いられている、

と語っているのであって、綜合的方法

が成就すれば、

にかんして言えば、これは二番目の断片にあるように、宗教を「綜合的に理性を通じて作り出す」方法で、もしこれ

一切の啓示を排除した、自立的な、体系としての「純粋な理性宗教L

ということになろ

その宗教は、

57-

うカントは『プロレゴ

lメナ』で、『純粋理性批判』の方法と『プロレゴ

lメナ』の方法を対比しつつ、綜合的方法と

分析的方法の区別について語っているが、

それによると、寸分析的方法」とは、「求められているものから、あたかも

それが与えられているかのように[前提して]出発し、そのものがその下でのみ可能となる諸条件へと遡る」方法で、

綜合的方法が「前進的」であるのに対して、分析的方法は「背進的」である。(円〈N

弓〉ロ戸)つまりカントによると、

『純粋理性批判』は、「理性そのもののほかにはなにものをも与えられたものとして基礎に置かず、したがってなんら

かの事実に基づかずに、認識をその根源的萌芽から展開しようと試みるL

のであって、これは原理から出発して下降

する「綜合的L

な仕方である。これに対して『プロレゴ

lメナ』は「分析的L

であって、「すでに信頼できるものとし

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

て知られているあるものに基づ」い

♂てこか

て出発し、

まだ知られていない漉泉へと遡る」といっ

を取るのである。(同〈ミぇ・〉

この分新語方法は、

け』の第一、

いられている方法

であると晃一ることがで議

(〈mt-L〈話法、

では

3示教議』では、この分析的方法は悶具体的にどのような形を数るの

であろうか。

分析的方法では、このように「求められているものから、あたかもそれが与えられているかのように

では、この吋求められているもの」は、純粋な翠性宗教であり、よ

[前提し

出発するL

ことになるが、

純粋な実接的理性信揮である。そしてそれを、啓示脅揮に基づいのうちに、「あたかもそれが与え

られている」かのように前提し、それが務一不信仰の体系のうちでも可能になるとすれば、それはどのような条件の下

においてであるかを探索するのが、Jm教論』における分析的方法である、と見てよいであろう。だがそうした条件は、

聖書のうちに読み取られなければならず、そのため"には聖書の解釈があ嬰になる。カント

み品、;

れた

-58

は純粋な京教信保安その緩商の解釈者とし

っL(〈H

H

Oゆ)

って、「道徳的催都の基礎が、外見上機然われわ

れの手中におちたようなこうした経験的問摺伸一啓一不信mm〕と合致するためには、:・:・われわれの手に入った薯一部の解

釈が、言いかえれば、純粋な理性挟教の普遍的実践的規制加と間内謁する意味にいたるまで啓示を議議して解釈すること

カントがここで「最高の解釈者」とよぶ「純粋な宗教信仰」とは、議軌什

カ宝

ってくるしの

(〈HHHO)

な議競的理性信邦と見てよいであろう。つまりカントは、

において、純粋な繋践的理性信停を議礎としつつ、

それを聖書のうちに投入し、聖書を「純粋な理性宗教の欝灘的実践的規制約と同調する意味にいたるま

寸僻徹底して解

釈する」こ

ているのである。なおカントは、

して、このほかに聖書の歴史的部分にか

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書の学識」を鑓えた

釈には容曝しない。カントは『宗教議b

のなかのある設で、

をあげるが(〈MMMNR)

、理性器停に基づく盟書解釈は、こ

ト4F

こで語られていることが・あたかも繋欝解釈であるかの

てはならない」とし、寸聖書解釈はたんなる理設の権能の限界外にあるL

の場合の寸聖治資解釈」は、聖書神学者による襲警解釈と解ずべきであろう。

「たんなる理性が、分析的方法によって、自分自身から認識しうるものだけをその宗教から抽象するL

とい

このように理性器仰を基礎に霊き、盟議閥解釈を還じて、理性一情的仰に適合したものだけを啓示宗教から抽象する作業で

あるとも一訪問えるが、このことはまた、カントが吋純粋理性批判』第二援の「序で、ガリレイなどの名をあ、げ、こ

うした「自然掠究者たちL

による「実験的方法L

の意義を潟く評価していたこ

かれらはこの爽験的方法によっ

ょっ

(〈同会〉旨阿川心、こ

い出させる。カントによると、

「理性はただ現性自身が自らの金額によって産出するものだげを語察する」こどを

的-

たのであり〈切凶出ご

形藷上学者も形市上学の進歩そ悶るなら、この実験的方法を損範としなけれぜならな

の「白熱探究者に畿った方法」は、「純料理設の諸要素を、

もののうちに求めるL

といった方法で窃凶

AF12〉ロヨ・)、「純斡理性のこの実験L

は、しばしば

ぃ。そ

よって確証されたり反証されたりする

とよば

れる「化学者の実験」に酷糾問しているのである。(切河凶日〉言戸)

カントは『実践理性批判判』の寸分析論」において、この「先学者の実験」に酷似した方法を採用した。寸純粋実践理

性の分析論における第一の、もっとも重要な課題作業L

は、「[経験的諮臨壊に基づく]幸譲論晶化門経験的語家環そ…

ここでは:・:もっとも大きな困難と戦わなければな

い]道寵論から臨別ずること」である。だが、

らない」の

って、

それは「かれがいかなる蔑観も〈純粋な本体の)

ことが

い」からである。し

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

かし「それや、も哲学者にとって好都合なのは、道徳的な〈純粋な)規定根拠を経験的な規定根拠から区附加するために、

かれはほとんど先学者であるかのように、あらゆる人間の英機種性にいつでも実験を試みることができるいからであ

う理由から、嘘をつきたい

る。それはどのような場合かと言えば、「経験的に触発された窓議{たとえば嘘をつくことでなにかな護得できるとい

に、道徳法制約(規定椴挺としての)そ加える場合L

であって、

っているひと

それはっ化学者が石一次土の塩酸溶液にアルカリを加える場合L

と同じである。後者の場合、「境酸はすぐに石一次から分

離してアルカリと化合し、若灰は践に詑澱させられるしが、それと罰じように、「いつもは正甚な人物:::の酪に道議

法闘を突き付けるとヘこの法制郊によってかれは嘘つきが尊敬に鏑しないことを認識し、

llすぐにかれの実銭理性は

:::利益から分離し、自分自身の人格に対する尊敬をかれに得させるもの〈正産)と化合するL

のである。(〈お〉

同じ『実藤理性批判恥の「方法議L

のなかでも、「われわれの本性の道態的索繋を扱う」擦の方途について、次のよ

うに語られている。っ事実われわれは、道術協約に判断する理殺の諸実例を手許に持っている。そこでこれらの実倒そそ

の基礎概念へと分析することによって、だが数学を欠いているので化学に類似した方法を、つまり経験的なものをこ

れらの実関のうちに含まれていると思われる合理的なものから分離する方法を、通常の人間関紙同性について繰り越し試

みることによって、われわれはこの寓者をそれぞれ純粋に、またそのおのおのがそれだけで成就できるものがなんで

60

あるかを確実に知ることができるJ〈〈

Hag

したがって

このいわゆる「化学的方法L

は、カントが実践哲学を構築していく轄にあらゆる場面で活用している方法令あり、

一伊の場合にも当熱漉間服されている方法と見ることができる。宗教は幸福への希望から生ずるから、

にいたるための手だてを含んでいる。宗教は本繋的に幸譲論である。だがカントの考えでは、この

宗教はつね

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には選議論が先行しなければならず、後者がつねに館者の謀礎に置かれていな砂ればならない。幸福議が道穂

論に基づいていない場合は、入閣は自己幸福の原理により、神をただ幸一識を与えてくれる者とし、神に気にいられる

ようにへつらい、それによってただちに幸摘を需ょうと努める。これはカントの曾う神へのふ阿奉仕であるが、しかし

それがまさに偽奉仕であることが暴露されるのは、議徳島心術に基づく道議的ふるまいによって神に奉仕せよという、

の宗教信部を可能にする条件は、つね

一克来この真正な道律的諮仰であること

実銭的道徳的な理性一信仰がそれに「突き付けられるL

ことによってである。

にこの道織的心舗にある。カントはぷ邪教諭』において、聖書が説く信得は、

を解き明かすことによって、事示倍m仰のうちにも純粋な理性一一印刷仰と一致する要素があることを示したのである。

純紳な理性宗教は、したがって、道諒的燦教とよぶこともできるのカントによると、「すべての諜教L

は、「思惑を

求める(たんなる祭認の〉宗教」であるか、それとも「道徳的宗教すなわち議き一行状の宗教L

であるか、そのいずれ

かであって、前者においては、人間は、「よ

い人間関になることを特に、必裂としなくても、神がきっとかれを永遠に

-61-

してくれるであろう〈かれの弾糞の数免によっ

になっている」か、それとも「神はきっとかれそ

い人間になすこ之ができ、その際かれはそれそ乞うこと以上になにもする必要がない、と好い気になっている」

かである。だが「道徳的強教L

は、「人間関は誰でもより善い人関になるためには自らのカのある制限りを尽くさなければ

ならず、::諮問への棋源的素質をより善い入簡になるために利用した場合にのみ、自らの能力のうちにないものがいっ

そう高次の協力によって補足されるであろうと希望するととができる」ということをコ原知いとする。そしてカント

によると、「これまでに惑在した公の宗教のうちで、

bfリスト教だけがこうした設教」なのであるよ〈同盟ご

このようにカントは、キリスト教を道徳的宗教として高く評寵するが、しかしそれは、聖書の解釈を通じてそこに

と好い

北大文学部紀婆

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カントの宗教一議

純粋な遊館略的理性宗教そ謹認した結果によるのであって、議史におけるその後のキリスト教の艇関については、決し

て好意的ではない。カントによると、「歴史議抑として警物に基礎を置くすべての信仰」は、「自らを白保証するために

学識者間績を必要L

とするがハすでに述べたように、これに対して「純粋な現性信仰」は、「こうした公証を必要とせず、

自己自ら臨証するL、こうした事需は競史器開としてのキリスト教においても同樺である。そこでカントの見るとと

ろでは、キリスト教のそもそあの鵠緒から、キりスト教が自らこうした学識者壊を形成した持代にいたるまでの援史

は「暗黒」であり、不明であるが、しかし「キリスト教そのものが

ってから後」の「キリスト教の麗史」

は、とても道徳的宗教のための「推薦状」とはならない。そこには「隠者や修道士の生活における神盤的狂信L

があ

り、またいわゆる奇銭信揮は「畏衆を官僚目的渡欝の一トに抑圧した」し、教権制制度の穣立とともに「正借性という恐ろ

-62-

ししユ

口から発せられ、そこからまた識しい分派の争いが生じたのである。東方では「鴎家は笑う

べき仕方で祭司の寵抑制壌や僧糠制にまでかかわりあい」、

またちを子供のように支舵」して、外径

は「神の代瓶入と称

L

ずる」

J一小教上の元首」が

に駆り立て、また隠舟では

一つの替選的ないわゆるキリス

ト教のなかで国思想を異にする伶間に対しての残忍な潜悪L

に駆り立てた。グキリスト教のこの続出史は、:::もしひとが

望の下に説えるならば、吋曲部教はかくも多くの実悪ななさしめることができたmルクレティウ

これを一轄の絵として

』という時びを十分認めることもできる」のであるよ〈同

今リスト教の歴史がこのような道をたどることになった援問は、どこにあるのであろうか。カントの考えで

は、「キリスト教の第干の意鴎」は、あくまでも吋純粋な祭教器開L

を導入することにあったが対しかしその後の震史

でこのような接乱が生じたのは、「人爵本牲の性霧によって、端緒においては棋粋な宗教鐙仰を導入するのに役立った

スでは、

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はずのものが、

つまり特有の先入見によって用い麓史信停になじんでいた民族を新しい議鍔の味方とするの

たはずのものが、その後において普選的な世界宗教の基礎とされた」ことによっている。(〈HEH〉襲警のゑ

「沼い(モ

iセの)立法や範鈎」があたかもキリスト教の教えを藤一献するかのように語られているが、しかしこれは ?

」み品、

Bi

の教え〔キリス

そのもの

ためにではなく、全面的かつ寄目的に出になじんでいるひとびとの間に

それもそ導入するために引証されたにすぎないL

のである。(〈H55

のように解説すべきかという詞震にも関連する。カントによると、三人の教師

は、「かの轡議的な理笹宗教をすべての宗教信鍔に不可欠の最高条件とし、次いでかの原理に基づいて築かれ

築現するための手段として設立つべき犠礼や典礼を含むある離の制規を一付砂加えた弘ぐ日目∞)のであって、その額規

むなかには、出い信仰になじむ人踏を新しい信仰に導くために、「指い立法や髄例」も含まれているであろう。しかし

イエス台本来の主張は、「外的な公民的あるいは制規的な教会畿務の遵奉がではなく、ただ純粋な選傭略的心構のみが人

聞を樽意に趨うものにすることができる」ということにある。(〈H55

たとえイエスが「務分はユダヤの律語そ完全

に成就するつもりである」と語っているにしても、寸その待法の解釈者」は、寸隣諸議の学識L

ではなく、「純粋な理性宗

教L

でなければならないよ〈円以S

一方また人聞にうちには、「神に泰仕する鼠役信mmへの性繰」があり、寸道棟的儒

鰐(自らの義務一…離を灘奉して神に奉仕するという)よりも賦役信仰仰に最大の議弾一牲を与えるだりではなく、それに

その飽の一切の欠陥を謂う唯一の譲要性を与えるという自黙の額出向」がある。(〈HZ∞〉宗吋乙そこでカントによる

と、寸啓示を、必要とする制規的律法の遵奉をただたんに道態的心構のためむ手段としてではなく、護援神撃に遭うよう

善い行状への努力をこの歴史的借仰の後に聾く・

こりことは、

エス〕L

63-

になるための客観的条件とし

神への奉仕をた

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

んなる続物崇揮に変え、真

へのあらゆる努力そ退持させる穐務仕を行う者L

である。この二つを結びつ砂ょう

そのどちらを先行させるべきかという嬢序が重要であるし、このように間者を正しく思削剥して附順序づける

の啓蒙」が成り立つのである。

ロ∞戸〉ロ戸)

と思えば、

ことのうちに、

この順序の転倒は、カントの言う人間の「接調悪」に由来すると見てよいであろう。すなわちカントによると、「道

徳法期L

は寸人聞の道穂的素質」によって寸読しがたくかれに肉薄する」のであり、そこでもしこれに抗するいかな

る動機もなければ、人間は当黙に道徳法制を「自らの最高格率のうちに採揺する」であろう。しかし人聞は同時に「告

然的紫繋いによって「感性の鰭動機L

につながれており、「これらの鯖動機をも(岳愛の主観的原理に従って)また自

らの格率むうちに採用する」。人間関はこうして二つの格率を詞特に採用するが、その諜人間の善悪は、寸人間が一向者の

うちのいずれを他方の条件とするかL

によって定まる。悪にかんして欝うと、「入聞が(もつ、むも蕃き人揮でも)惑で

あるのは、ただかれが動機を告らの接率に探思する隈に、その動機の道譲的秩序をい総倒ずることにのみよる」のであっ

て、「」転倒するとは、人関は道籍法則を岳愛の法制加とともに格率のうちに採用するが、しかしかれは一方が龍方となら

んで存立することができず、一方がそしての館方に詑議しな

ηればならないことを認めるから、そこで

-64

かれは、むしろ道徳法制問こそが自愛を満足させ

して韓議の普遍的格率のうち

一の動機とし

されるべきであるのに、自愛の動携とその様向性とを道徳法制約繍守の条件とする、ということ」なの令ある。カント

によるk、「人間本性」にはこの「軽欝への性癖いが備わっており、この性癖そのものが端端であって、しかもこの懇は

「根本的L

である。この性癖は「自然的性癖」であって、「人聞のカによっては根絶できないL

が、しかしそれでも「こ

の性癖は自由に行為する寄在者としてむ入閣のうちに見いだされるいのであるから、「これ

つことが可能でな

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ければならないL

のである。

一山内山内・)

これがカントの「摂源悪」の所説であるが、この所設がキリスト教で説かれる

でもないであろう。カントはキリスト教む歴史のうち

たキリス

いわゆる「原罪」の解釈であることは、

ト教の細腕議後、この課掘削悪の思畑山と結びつけたの

議拳を霊援するのは、もっぱらにその禅法に能う偽奉仕によって信分の幸福を得たいからであり、ぞれはつまるとこ

ろ自愛そ道徳法部に先行させるという転留にほかならないのである。

カントはこのようにキリスト教の麓史に対して批判的な態度をとるが、しかしまたカントによると、「これまでに知

の時代がもっともよい時代か」

って、

と言うのも、人興が道徳的心術に先立って諮規的隷訟の

ぞれは「現代」である。なぜなら、

スト教界において、いまはほんの少数のひとびとによってであるが、しかしそれでも公に植え付けられた真の宗教信

mWC萌穿を、ひとはただそれが描げられないようにして次第に発育させていけば、そのことによって、自に見えぬ神

られている教会史全体のうち

が期待できる」からである。

の悶の地上での話に見える表象(罰式)を成すところの、人間全体を永遠に合一させる教会へと不器に接近すること

の聞では、

65-

「われわれの大陸内のすべての留しにおける

次の

つの原黙が銀揮されていて、その

にする」という原別であり、いま

つは、「啓示とよばれる一切の事柄についての発言は、こ

に謹え百

ためにつくられた神聖な璽史は、ただそれだげとしては

道徳的諮率の採用にまったくなんの影響をも及ぼさないし、また及廷すべきではないいという京別である。〈〈

HZ=・

)

これらの膜則は、道徳的な理性諜教の発震にとって好都合であろうし、ぞれによって「人間関全体を永遠に合一容せる

フキ品、「ご

μ

Jd?V

ナ''pf

む地上での実現が期待できるようになろう。それは

という言葉を探えば、現世で

の実現が

期待できるということである。そこで最後に、

カントがよ一本紙議』

におい

との問題をどのように扱っている

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

見ておくことにしたい。

Jm…教議』第一一一一織は、の原理に対する諮問の原理の勝利と地上におげる持の簡の建設L

ではまず、人聞が「倫理的蕗然状態」から観して「倫理的共日間体」を難殺すべきことが一諮られる。人間関はすでに

的自然状襲しを脱して「政語的共団内体」奇形成しているが、しかしこの共同体の成員はいまだ倫理的自熱状態にある。

つが、ここ

たとえ「各鋼人が善い意忘そ持つL

L

蕎という共詩体的思的から遠ざかり、

互いに競争乞ふたたび悪の支配の手中に委ねるという危険に縮れる」のである。だがしかし、政治的共同開体は、その成

義を倫理的共同体の形成にむけて強制することはできないし、また強制叫すべきではない。もともと倫理…的共同体はそ

の額愈のうちに「強制からの街由しということを伴っているのであり、もし政治的共同肉体の元替{立法者)が或織に

倫理的共同体の形成を強制するなら、それは虫記矛屠であっかれは「倫躍的共肉体とはまさに正反対のものを生

それは「人関各自のうち

七五

れる悪による不断の交戦状態」であって、

しでも、「かれらを合

ずる原理が欠けているL

ので、寸かれらの不一致によっ

← 66

じさせるばかりでなく、自らの政治的体制をもくつがえして不安定なものにしてしまうL

であろう。さらにはまた、

「傭憾の義務は全人類にかかわる」のであるから、「倫理的共同開体という概念はすべての人聞の全体という理懇にかかわ

るしのであり、この点でも倫理的共同体という概念は政治的共同体の概念とは区別されるのであるよ〈Hcmご

カントが『道徳形一関上学』の「法論」で、「永遠平和」を「最高の致治的善L

とよんでいることは、すでに触れた。

政治的共同体としての霞家が設摘すべきことは、関内の安寧秩序だけマはなく、地国家との漉合を通じて、世界に永

藤平和をもたらすことである。カントは、人間(錨人であれ、人類であれ)は開ル住出〔州問内己己妥』

〔豆

O2吋E凶包巴円ロ凹貯芝印包仲没⑦実吋2ロ叫ロ凶一巴m巴〕とい〉うフ三段階を経て先成すると考えていたが、永遠平和の逮成は人間の市民化・文鴇

門戸戸口問〕

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化の完成であり、それを土台として人類全体の選徳化が可能になる。だが人類の道寵化を企てることは、もは

や政治の仕事ではない。政治は人間的道機化に蓋接関与すべきではなく、もし鶴附与することによって政治が道憶に先

行し、前者が後者を指令するようになると、ここでも悪しき転倒国が生じるととになる。カントが吋永遠平和のために』

二七九五年

披二七九六年りのなかで語っているところによると、「議様性から善い国家体制が期待され

い題家体制からはじめて国民の善い道徳的形或が期待されるしの?ある。(ぐ口同京急

るのではなく、りしろ逆に、

のような事柄にかんしてであれ、カントが目的論的考察を隈関する際にいつも心が

ηていたのは、そこ

る藷自的の秩序(先後関係〉安維持することであり、またこの秩序のい転倒を防止することであった。

態調也的共同肉体の建設は、したがって、自崩な個人に諜せられた遵語的義務である。とは言え、カントによると、こ

の義務は「人聞の人間に対する義務L

ではなく、吋人類の人類そのものに対する義務L

であるから、「一撞独特な畿務」

明、ある0

1

理性的存夜者の全類は、:::ある共間体的目的へと、つまり共同体的替としての最高普を挺進するようにと

規定されているL

が、この「最高の人倫龍一善」は、「個々の人格が密日臼身の選第品開完全牲を求めて努力するだけマは

提灘きれず、摺々の人絡が冊一の目的を、つまり善い心舗を持つ人間の体系を諒揺す一全体に合一されるととを要求

する」のであって、寸照望商の人倫的議はひとりこの体系においてのみ、またこの体系の続一によってのみ、成り立ちう

る」のである。カントはこの体系を「徳の法則に従う普遍的共和昭」とよぶが、これは「一切の道犠説鰐とはまった

く異なった理念L

であり、ーある全体安目指すもの」であるが、「その全体がそのものとしてまたわれわれ

あるかどうかをわれわれは知ることができないL

から、三」の義務はその種類と探諜とにかんしてその他の

から区別されるL

ことになる。そしてここからまた、♂」の義務がある到の理念を、すなわち

だされ

67-

切の義務

段と高い道露的存荘者

北大災学部紀要

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カントの宗教諭

前提とするこ

この存在者の静道的な処方によってそれだけでは不十分な鵠々人の力がある共

間の作用mへと合一される」ということが「予測」されるおであるよ〈

H2ご

カントは吋英接理性批脳科b

で、最高善の促進はわれわれお義務であると諮っていた。

れは「人類の人類そのものに対する義務L

とされ、その他の…切の義務から区附加される二種独特の義務L

とされる。

最高諮問もここでは明謹に現世での寸最高の人倫的普いすなわち「共同体的議どとして規定怒れる。最高善に対するカ

ントの関心が綴人よりも人類に、披向一時よりも此山一停に向けられていることが、ここにはっきり示されていると言えるで

あろう。最高の人倫的義である吋舗の法震に従う鷲適的共和国」が実現するには、最終的には神の「普遍的な処方」

が必要であろう。しかしそれでも入閣がその力の及ぶ範腐でこの共和国の実現に向けて努力することは、人簡に課せ

られた義務である。「人間が尽力できる限りで

のこの筒所では、そ

の支配しは、「織の法制別に従い、かっそれを呂的とする社会

の建設と拡大とによる以外には成就不可能L

であり、そこでご」の社会を全域にわたって完成することが理性によっ

-68

られた課題であり、義務L

なのである。(〈

HE)

カントはそこで、全人懇を包含するこの倫理的共同体を、国家や政治的共間体とは異なった体制を持つつ教会しに

求める。倫理的共同体では「すべての個人L

は「公の立法」に服さなければならず、また「諸鏑人を結合する一切の

法期L

は「共向体抽出な立法者の命令」と肉凡なされなげればならないが、しかしここでは法則はすべて「行為の道纏性

[適法性マはなくて〕を龍進するこたを自標とする」法別別であるから、その立法者は政治鵠共肉体の立法者とは異なり、

は別の者L

すなわち神でなければならない。つまりここでは

J切の義務は、したがってまた鎗聴的義務も、関

れなげればならない」のであり、そこで「倫理的共同体は、神的命令の下にある

特にかれ

の命令とし

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民としてのみ、言いかえれば、神の民であってしかも徳の法則に従う民としてのみ考えられることができるL

のであ

る。(〈同混同しこの「神的にして道徳的な立法の下にある倫理的共同体L

は寸教会」であって、それが寸可能な経験の

対象ではない限りにおいてL

は寸見えざる教会」であり、これに対してこの見え、ざる教会を「原型」とし、「人聞がこ

の理想と一致する全体を目指して作る現実の合一」が「見える教ム主である。「真の(見える)教会は、人聞がなしあ

たう限りにおいて、神の(道徳的な)国を地上に表わすところの教会」なのである。(〈HEH)

カントはさらにこの「真

(見える)教会」が備えるべき資格や特徴について語っているが、乙れは当面の問題ではないので、ここでは触れ

ないことにする。

ムユ度繰り返すと、「道徳的な神の民を建設すること」は、「その実施が人聞にではなく、神そのものにのみ期待さ

はしないし、

また各人はただ自らの道徳的な私事にだけ専念すればよいので、人類の出来事全体は

(その道徳的規定

-69-

れる業」である。だがカントによると、寸それだからと言って、人間はこの仕事にかんしてなにもしないでよいとされ

にかんして)ある一段と高い知恵に委ねてよいといった具合に、摂理に任せ切りでよいとされもしないL

のであって、

その際寸人間はむしろ一切がかれにかかっているかのようにふるまわなければならない」。人聞は、コ」の条件の下で

一段と高い知恵がかれの善意の努力を完成してくれるであろうと希望してよいL

のである。(〈H52・

)

がここで、人聞は「自らの道徳的な私事」に専念するだけでは不十分で、さらに倫理的共同体の建設にむけて「一切

のみ、

カント

がかれにかかっているかのようにふるまわなければならない」と語っていることを、重く見なければならない。カン

トは『人間学』(一七九八年)

のなかで、「仕事や、われわれの幸せに影響するもろもろの事実にかかわる

ことにしか関心を持たない」「地上の子[開

E88Fロ]L

に対して、「人類とか、世界全体とか、諸事物の起源とか、そ

の「遺稿L

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

れらの内的儲鑑とか、究様閥的とかに盟関心を持つ「世界市民〔垣内込接持警ユ」を対寵させ

トによると、「世界市撲は苦界の住人として世界を見なければならず、よそ賓として傍からそれそ眺めではならない」

のであり、一諮問いかえれば、寸世界静観者[者合同52mMYh凶器円〕ではなくて、世界帯民でなければならない」のであるよ凶〈

出忽ここにはカント自身の人類に対する姿勢が示されていると一叫言えるが、これは島分をいったん人類の外に重き、

よそ者の世界観察者として人緩やその壁史的運命受静観するのではなく、自分もまた大鎮の一

〈凶〈切HU1)

しかもカン

て、人類の出向に

留まりながら、人繍得議警を目指して努力するといっ

遠平和の実現を課証するのは吋偉大な技巧家である臨然L

であるがお志、しかしそれ詑からと言って人間関はなに

もしないでよいのではなく、この課証は「この目的にむかつて努力することをわれわれに義務づげる」のであるよ〈回目

ぞれと同じように、倫線的会共体の建設は、議轄的には「神そのものに期待される議L

であるが、しかしここ

としてではなく「世界市民」としあたかも一切が自らにかかっているかのように、そ

『永遠一平和のために』によると、将来における永

70

川町内山∞)

でも人聞は、

の実現にかけて努力しなければならない。これは地上におい

これを、世界市民

むけて努力することであり、

カントは

ら、寸人類の人類そのもの

と考えたのである。

のでは、ここで要求される努力は、どのような努力なのであろうか。カントは最高善が策現ずる倫理的共同体を

る努力のうちには、現存するキリスト教教会をそうした方向にむけ

(見える)教会」

いているから、

て改善していく努力も含まれるであろう。しか

の問問題は、地上における最高善の実現である。

と泰揺との合致において成り立つのであるから、それは率摘であるのに穣ずるように遭穂的にふるまった入簡が、

擦に幸一識に与ることができる状態であると見てよいであろう。だが地上でお最高善が問題ぞある限り、その

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は来世における「諦福」ではなく、この世におげる幸福であり、これは先に見たように、人聞が「かれの全現存に安

んずること」である。とすれば、道徳的にふるまう人聞が、

その結果として、自らの全現存に安んずることができる

状態にあるならば、そしてすべての人間(人類全体)についてこのことが成り立つならば、ここにはすでに地上での

最高善が実現していると見るべきではなかろうか。地上での最高善の実現は最終的には神の業とされるが、その神は

カントの考えでは、神聖な立法者であり、慈悲深い統治者であり、さらには公正な審判者である。(〈HEPEH)これ

はつまり、幸福であるに値する者が幸福に与り、幸福であるに値しない者が幸福に与らないということが公正であり、

正義である、ということであろう。したがって、幸福に値する者が必ず幸福に与る状態は、正義が実現した状態であ

る、と言ってもよい。これに反して、幸福に値する者が幸福に与らなかったり、幸福に値しない者が幸福に与るのは、

不正な状態である。「人類の人類そのものに対する義務L

とは、つまるところ、全人類のうちにこうした正義の状態が

.71-

あまねく実現するように努力することなのである。

もちろんそのためには、入聞の各自が自らの道徳的完成にむけて努力することが必要であるが、ではこの場合、他

人に対する義務はどうなるのであろうか。先に見たように、カントは他人の幸福の促進を義務の一つに数えたが、し

かしその本来の趣旨は、他人が困窮し、その結果として道徳法則に対する違反を余儀なくさせられるような、そうし

た状態から救出することにあった。自己にとっても自己の幸福の促進がある意味で義務とされたのも、この視点から

である。こうした他人の幸福の促進は、先のカントの表現では、寸自らの道徳的な私事」に当たるが、しかし最高善の

促進に際して問題なのは、道徳法則に従った人聞が、その結果として、幸福を、つまり自らの全現存に安んずること

ができる状態を確保できる、ということである。そのためには、そうした正義が人類の聞にあまねく実現するための、

北大文学部紀要

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カントの宗教諭

いわば立畿の体制とでも一言うべきものが確立されなければならない。これは消極的に表現すれば、道徳的にふるまっ

た人関が、その結果として、決して不挙な状態に揺ることがない、といった体制である。あるいはそれは、俗な言葉

を龍えば、倍賞品罰の体艇と替ってもよい。人間はカの及ぶ摂りこうした体説の地上での爽現にむけて努力すべきで

あり、そうした努力がまた、公正な審判者としての袴に対ナる奉仕となる。神は問時に慈悲深い神でもあるが、カン

トの考えでは、これは神がすべての人患に無条件に挙謹を授けるということではない。「議商立法者の慈悲L

は、「そ

の被造物に対する無条件の好意にあるのではなく、被造物がそれによってかれの窓に適うことができるその道徳的性

費をまず議視し、この条件を・自分で満足させる能力が被造物に欠けているときに、それそただ補足するにすぎない」

のであるよ〈

HEごともあれ、ヵントが

3m教論』で掲げた倫理的共同体の理念は、理性信鐸による譲位京教が目指

す究極の理念であって、入額全体の道能的完成とそれに伴う地上での畿鴎醤が可能であるとすれば、それはこの理念

-72

の実現によってのみ苛能なのである。

ω翠

カントの務作にかんする引用もしくは参照韓国所の指示は、

アカデミー版カント会集の務数(ロ

iマ数字で訴す〉とペー

ジ数による。なおぶ純粋理性批判』第二絞にかんしては、慣

例に従って記号Bを、またメンツア!編集の『カント倫潟学

講義」門司・

gS8F盟諸〈Cユ窓口口問沢陣添付加刊誌異例広岡山WW

H

申立〕にかんしては記号泌を用い、その後にページ数を示し

た。原語は〔内に示したが、そのほか引用文などで[

でくくった部分は、筆者が檎足した部分である。

(1)

カントはv

判断カ批判』のなかのある筋一般で、「道徳哲学L

がキリスト教の1

信仰L

とか、それに伴う道徳諮概念を自ら

のうちに摂取したのは、「追従約な模倣」によるのではないと

して、次のように怒る。すなわち「この索晴らしい宗教」は、

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寸その論述の最大の単純さにおいて、哲学がこれまで伝えるこ

とができたものよりももっと明確でもっと純粋な道徳諸概念

で哲学を豊かにしたL

が、寸しかしこれらの諸概念は、いった

ん存在するとなると、理性によって'自由に是認され、理性に

よって理性が自分から到達し、自分から導入でき、自分から

導入すべきであったような諸概念として採用される」のであ

る。(〈むN

〉ロB・)

(2)

カントが「理性信仰」という言葉を使用するにいたった経

緯を知るには、カントが論理学講義のテクストとして用いた

マイア

lの『理性論綱要』に付した書き込みゃ、この講義を

聴講した学生のノ

1トなどが参考になる。これについては、

拙稿『カントと理性信仰』(『北大文学部紀要』四二の三・一

九九四年三月)参照。

(3)

批判期のカントは、いわゆる道徳感情説に対して批判的な

態度をとるが、その理由は第一に、「程度にかんして本性上互

いに無限に異なっているさまざまな感情が、善悪にかんして

等しい基準を与えることは不可能であり、そこでひとは自分

の感情によって他人に対して決して妥当な判断を下すことが

できない(傍点引用者)

L

(

円〈主どということであり、第二に、

「ある種の道徳的な特殊な感官を想定するひとびとの説」によ

ると、「道徳法則を規定するのは理性ではなくてこの感官であ

り、この感官によって徳の意識は安らぎと満足に、悪徳の意

識は心の不安と苦痛に直接結びつけられ、こうしてすべては

北大文学部紀婆

結局自分の幸福への要求に委ねられる(傍点引用者

)L28)

ことになるからである。この第二の理由から、カントは『道

徳形市上学の基礎づけ』では「道徳的感情の原理L

を他律的

で経験的な寸幸福の原理L

に数え入れ(円〈主回〉ロ日・)、『実践

理性批判』ではハチソンによる「道徳的感情」を「道徳の原

理における実践的実質的規定根拠」の一つに数え入れた(〈

ち)のである。

ところでカントは、英国風の道徳感情説とは別に、『道徳形

而上学の基礎づけ』で、「義務とは法則に対する尊敬に基づい

た行為の必然性である」と規定した後に、注で「尊敬」とい

う感情について語っているが、それによると、「尊敬は確かに

感情ではあるが、しかしそれは[外からの]影響によって受

げ入れた感情ではなく、理性概念によって自ら引き起こした

感情」であり、「前者のたぐいのすべての感情から種的に区別」

される。「乙の尊敬は、私の意志が、私の感官に対するほかの

影響を介することなく、ある法則に服従している、という意

識を意味するにすぎない」のであり、「法則による意志の直接

的な規定と、この規定の意識とが、尊敬とよばれる」のであ

る。(同〈8HKFロB・)カントはこの注の末尾で、「すべてのい

わゆる道徳的な関心も、もっぱらこの法則に対する尊敬に基

づいている」(白・同・0)とするが、乙れと関連して、カントは別

の箇所で、「人間は現実に道徳法則に対して関心を持ってお

り、われわれはわれわれのうちにあるこの関心の基礎を道徳

-73-

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カントの宗教諭

的感情とよぶのであるが、しかしあるひとびとによってこの

感情が誤ってわれわれの道徳的判定の基準と称せられたので

あって、それが誤りであるのは、この感情はむしろ法則が意

志に及ぼす主観的結果と見られなければならず、意士山に対し

ては理性のみが客観的根拠を与えるからなのである」(同〈

怠C)

と語る。また『実践理性批判』では、「尊敬」は分析論

第三章で詳しく論じられているが、そこでの叙述によると、

「道徳法則そのものに対する尊敬」が「本来の意味での道徳的

感情」であり(〈∞0

・〈岡戸w

〈司)、「義務に対する尊敬」が「唯

一の真正な道徳的感情」なのである。(〈∞印)以上から、カン

トは真の道徳的感情を能動的な道徳法則に対する尊敬として

捉え、これに対して道徳的感情を受動的な感情と見、しかも

それに「道徳的判定の規準」を求めたところに、道徳感情説

の誤りを見いだした、と言えるであろう。カントが前批判期

において、道徳的感情を重視したのも、実は「証明の回り道」

を経ないで人間の「心情」が「直接的な道徳的指令」を含む

ととに注目したからで、ここで心情のうちに見いだされた感

情は、すすんで道徳の指令に従うべきだという能動的な(後

に「尊敬しとよばれる)感情ではなかったかと思われる。一

方カントは、当時はまだ「理性」をもっぱらつ証明の回り道L

をたどる)思弁的もしくは理論的な理性として捉えていたの

であり、そこで行為の善悪や道徳的正当性が理性によってで

はなく、「直接に」「感情とよばれるものを通じてL

判定され

るという道徳感情説に共鳴したのであろう。しかしカントは、

批判期になって、意志に直接に影響を与える実践理性が存在

し、またこの実践理性が人間の通常の理性においても生き生

きと働いていることを認めるにいたった。カントが一方で道

徳法則に対する尊敬を説き、他方で道徳感情説を斥けるよう

になったのも、その結果と見てよいであろう。

(4)

シュヴアルトレンダ

iは、カントが道徳的なものの拘束性

の本質を理性のうちに求め、道徳的な意識を「理性の事実」

とよんだことにかんして、こう語っている。「極言すると、わ

れわれは次のように言える。すなわち人聞は、理性を持ち、

それゆえにまた道徳的でもあるというのではなく、人聞は道

徳的であるがゆえに理性的なのである、と。すなわち人聞は、

根源的意味において理性的であるが、それは人聞が道徳的存

在者であるからであり、またその限りにおいてである。と言

うのも、人間は、自らの道徳的な自由な自己規定、すなわち

理性による自らの意志の規定のゆえにのみ、理性的存在者と

よばれるに値するからである。」

(]ω円伊者同ユ日間口仏印♂巴

R

昌吉∞岳庄司28psg-ω-HN品邦訳室同一七四ページ)カ

ントが人間を「理性的存在者」という表現で示す箇所は、『純

粋理性批判』ではほんの僅かしかないが、この「理性的存在

者」という表現は『道徳形而上学の基礎づけ』にいたって頻

出する。これはカントが、理論理性よりも実践理性との関連

において人間を「理性的存在者」と規定したことを窺わせる

-74-

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ものであろうο

またラクロワが、吋カントとカント哲学』のな

かで、「カントの思怒の根本的主緩は、調筏性と哀の実存すな必

ち道徳的笑存との同一位マある」とし、「人間どは、そとにお

いて現性が笑韓協約となるものぞある」と語るが〈HFh酬のさ安値

州内側兵

azrg江田SFH叩

gw句、仏邦訳窪田九三ページてこれ

も以上の視点から理解することがでぢる。

(5)

「理性不信仰」、という言葉は、ゆいと以外にカントの著作の

うちには見いだせないが、『判断力批判h

では、「不信EHM,

m

阿川献立笠間]」な人とは、「かの〔神とか不死といった〕捌明性務理念

にそれらの漫論的な根拠づけが欠陥りているという開明治から、

これらの纏性議潔念に一切の妥当伎を矩むような人」であり、

その際かれは「独断的に判断」していることになるが、との

寸独断的不信仰」は、「心構えのうちで支配している道徳的格

率と跨立することは令品川切ないL

、とされている。「滋性不信仰L

山林、この「独断的不信仰L

と悶じと見てよいであろう。つま

りそれは、滋議遜性には信頼するが、実銭理性の存在中ぞ認め

ないといった。笑銭理性に対ずる一小織田仰である。(〈札口∞)

(6〉この点にかんしては、荷揚『カントと棚明性信仰』参照。

〈7}

和辻哲郎『カント爽滋理数批判』岩波議銭・一九三五年・

…五八

i九ページ可和辻毅郎会集第九巻』務波幾脂・一九

七七年・一一九二|三ページ〕

和辻はとこマっ笑銭理性の対象の全体性」は「道徳法郊の

全体性」であり、したがってここべきは「最高婆」

北大文学部紀要

ではなくて寸目的の国」であるとするが、この解釈はコ

1へ

ンの解釈に依拠しているのかも知れない。シュヴアルトレン

ダーはコ

lへンを一例として、カント解釈品物のなかに、「最高議出

の教説は、カントの本来の実践哲学にとって築資で非本来約

な部分であり、それはただ際交約に理解されたり弁幾怒れた

りするだけで、そこでこの部分は鱒単に除外されたり、絞れ

ずにすまされたりする」といった傾向があることを議鰭ずるo

any毛恒三円安弘巾〆知-mrp弘980邦訳畿二八七ページ)『実践

滋性批判』の注釈番号緩いたペツクも、緩んお畿の糊同題をあま

り滋綴していない。すなわちベックによるとミ議官附畿の概念」

は「滋性の弁鉦論的理念」であって、なんら寸実践的機念L

ではない。「この概念がどのような災践的帰結をもたらそう

と、それはカント留学において蓑獲ではない」し、「最高警が

道徳殺にとって夜擦に必婆である」とか、道徳法制約の形式に

よって規定される義務のほかに「最高善を促進する道徳的義

務」があるといった考えに歎かれではならないのである。

p・

4タロ巾nrw〉〈V055きSミoロ州内印口付加興行広三門山口冊。同

HM窓口弘幸}

MNE出OロJ

S怒鳴移民会邦訳書二九段ページなおベヅグの

こうした解釈をカントのテクストに節して批判したものとし

て、認-tHW-N昂]向山宮崎吋叩MmwωHMg円UZHH戸田Cロロ叫吋Mup昂ヌミ州岡山

HL2F

間以内凶仲}阿部将封-注目ロ円冊。向。。門戸川

MMHM内出三

ωさ己ZPMW門HA山UYMmw吋]j

mvhsR参照。〉とれに対して、シュヴアルトレンダーは逆

に、最高替の教鋭に見られる「理論的持思弁的傾向」そで務

75-

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カントの宗教諭

るだけ排除することによって、その「根源的に実践的詩道徳

的な意義」が明らかになる、とする。

3・MCM

邦訳畿二八九

ページ)ナなL

かやりシュヴアルトレンダーによると、「カント

にとって、最高善の教説は、笑践的な、しかも終粋な哲学に

麗しでもいるばかりか、かれにとってその岬息子の本質的部分

であって、これを欠けば倫理学も必然的に不完全なものとな

る」のである。

(ω・8C〉渓口・邦訳番三七一一一ページ〉

〈8〉メンツア

i編集の吋カント倫理学講義』によると、一一切の

責務は

4w刑務づげる者〔C玄広告的〕」との関係においであるか

ら、そこでわれわれに道徳法制別を資務づける穏として神が考

えられる。道徳法郎そのものは「第一一一審」が符在しなくても

渡しく、したがって「道徳性を制判定する」ためには第三点鳴を

必婆としない。しかし滋徳法制問の執行〔HWHr口氏。色のために

はこの第三者として、「最上の審判事官」である神が必要である。

寸もし綾上の審判者がいなければ、一切の遂徳法則は効鵠燃を持

たない〔CYロ昂一設な山内ふであろうし、その場合はわれわれを道

徳法則の般市守にむかわせるいかなる動機も存在しないであろ

うJ

つまり「神の認識は道機法則の実施

[krg筈

zm}にか

んして必要L

なのマある。(沼会ご

また別の議所によると、「道輸憾の概念」はおのずから「怖に

対する信仰」へと導くが、と時一一尚一うのも、道徳伎においてもっ

とも重要なのは、よd

わめて純粋な、心術いであるが、「もしこ

のような心術を知覚できる↑得税務がいな砂れば、この心衡は

失われてしまうでるろう」からマあるロ「ぞれゆえ、道徳的に

純粋な心衡を懐くことは、とれを知覚でさる唯一の翠雨海在

者とζ

の心衡とが総合していると同時に考えるのでなければ

不可緩であるα

神を信じないならば、道徳牲にむかうことも

できない。一一切の道徳的指令は、それを悶川護る存在者がいな

ければ、ナ・なわち道徳的諮概念に出来ずる悩仰の表象がなりれ

ば、祭しいものとなるであろうJ{ζ52・)

さらにまた別の務所によると与一切の抑制教は道徳性を基礎

として前擬するL

が、しかし逆に

Jm教は道徳性に掛緩みと炎

と笑在性とを与える」。と議うのも、「私は、準綴になれると

いうどんな品物議も持たずに道徳伎の棚概念に従うべきである」

というのは不可能であるからで、それに従うにはこの滋念そ

執行する〔巾阿付信念品ね乱存在者が必要である。宗教はこうし

て道徳牲に「滋みL

を与えるし、「道徳の動機L

となるのであ

る。〈ヌ呂はい

〈白pd

1スは吋カントにおける最高警の二つの概念』という議

文で、ヵントの最高善には「神学的一概念L

としての最高畿と、

「役務的(政治約)概念」としての最高替というこつの遜があ

ることを指摘する。〈〉同凶agg印刷

NhwmH件

yw、吋場

onsnaz霊的。片

手巾同町鵠叩凶作伯仲の00弘吉同内田何回

FELg渡部口語己内由三iーの一弘氏打開}

〉間的巾協同包括HHaw昂円悼ぴMNm-同付-mい叩同信込者HnF〈CMMMFS3・HYNHa)

リースによると、論議の重要な特徴は、最高義が「神の繍開発切

によって来蛍で生じる出来務L

とされ、後者のそれは毅商品番

-76

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が「現役において達成されるべき出楽樹?とされていること

にあるよ刷yおとまたり!スによると、第一批判および第二

批判においては総務の概念が顕一著であり、第三批判および『宗

教諭h

では後者の概念が鎖議であるよロNNm)

リースはカン

トの綴潟議を理解するには後点慢の概念が重要であるとする

が、それはそれとして、リ;スもまた来世において笑現ずる

最高議官と務世に料ぬいて実現すべき最高務を区別して考えるべ

きだとする点で、畿各と間意見である。

なお、小倉志祥氏は、吋カントの倫理怒懇も〈東大出版会・

一九七二年〉で、最高警に対するカントの視点の移動につい

て、第一批判判では「道徳と率療の絡会のためよりもひしろ滋

徳的世界そのものの理念を実環するために不可欠の条件とし

て最高意志としての拙仰が建立されている」〈問一一一

0ページ)の

であり、第二批判では「論述の中心は個人における徳と幸福

の絡会明、あり、従って道徳的役界という世界を媒介にしてそ

の絡会後説くという方向はむしろ後退している」(閉山一一二ペー

ジ)のであり、吋脚部教諭』では寸領人における徳と福の結びつ

きは無視されてはいないが、しかし道徳的努力の主体は、同

時に倫理的共同体の態談受忍向する者とみなされ、従ってそ

こでは徳一福一致の最高慈の綴念はむしろ後退している弘四三

五ぺ

iジ〉とする。

私の解釈では、ヵントは一貫して融緩潟義を道徳性と泰穏と

の合致に澄いていたが、しかしカントはそれそ「私」という

北大文学部紀要

個人にかんしては来世において実現するものと考え、寸われわ

れL

という人類にかんしては現役において笑浸すべきものと

考えていた、ということである。個人レししての私にとっての

義務は、あくまでも遂綴伎の完成を

E世治して努力することで

あり、私はその努力に応じて来世での幸福を希望することが

できる。しかし人類の一員としての私にとっての義務は、こ

の地ょに緩いて滋徳的に生きる人間がすべて幸福にた一

J

ること

ができるような体制の笑漢を呂指して努カナることである。

緩滋養のこのこつの級一燃は、カントのどの議官肱げにおいても見

いだ品州知れる。だが最高畿の促進が義務とされる場一期明、は、当

然ながら第二の銭面が前面に押し出され、この薗が議議され

ることに絞る。したがって♂邪教諭恥においても、純粋な心

術に基づく滋徳的信仰が主題とされる場閣では前者が、「倫理

的公共体」の建設が主題となる場面では後説明が、透視される

ととになるのである。

(泌)カント自身が「幸福」などのように考えていたかについて、

私はすくなくとも次の密つの場閣が区別できるのではないか

と考える。川村自分の状態もしくは鴇桃山絡に安んずることとして

の幸福。私はこれが「祭福」についてのカントの基本的イメー

ジと見る。。傾向性の櫛廷の総体としての幸議。これはカン

トが「政己幸福の原理」の一??考えでいる幸福である。何回徳

の意識に伴う、自己に安んずることとしての黍福〈道徳的療

福)。蹄線源的幾としての神に伴う祭擦としての浄福。これは

77-

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カントの宗教諭お

いて与る最高替の…翻訳索としての宰認のイ

メ!ジの原型となる。以下の論述において、相執はつねにこの

四通りの区別そ念頭に霞いた。問題ゆ惜しかし、地上において

実現されるべき最高善のご幾索としての幸福をどのように考

えるべきかにあるが、私はとれを幸福についてのカントの基

本約イメージマあるけに即して理解しようと努めた。

〈日)明笑銭理性批判』のなかのある注によると、三時間への遂行に

おいて自らの心術が揺るぎないという篠傍」受持つことに

よって「浄…憾な米米への展望」が関汐る。この場合「浄領」

とは寸潟明性が世界のあらゆる偶然約原菌に依存しない完全な

幸せを示すために潟いる表現L

であって、それは「神宮中一性と

同じく…つの理念」である。ぞれは「被造物」としての人間

にとって現世では到途不可能であるが、しかしそれでち道徳

的に生きる人総は、「浄福な未来への凝議」を懐くことができ

るのであるよ〈おω〉口議ヤ

〈門凶)カントのこの「宗教」の規定に必いて愛獲なのは綴序で

あって、ぷ邪教」とは「われわれの毅務L

を勺抽僚の命令」とし

て認めることであり、その逆、つまり「神の命令」品化「われ

われの義務L

として認めることではない。〈後期制の立場に立っ

と、それはカントが斥げる「掛思議の他律」を招来するととに

・なろうJ

J恭一教論隔によると、寸時一家紋」をこのように幾定ずる

ことによって、ぷ蕊紙一般の概念についての多くの誤った解釈

が防比されるL

ては、環論的認識と信仰告自にかんしてはなんら突然的知識

は(神の現存にかんしてすらも〕必要とされない」のであり、

第二に、「宗教一般のこの定義によって、宗教が神に直接関係

づけられた特殊な義務の総括判、あるかのように恕う繰った考

えが妨止され」るの℃ある。そうじて「枇岡緩釣家教において

は、神戸払対する特殊な義務などというものは存在しないLO

〈〈円以hw円〉ロヨ・)

〈お〉詳しくは前掲吋カントと理性信仰』参照。

(辺)こうしたカントのイエスやみT

りスト教に対する議本的態

後はずでに古くからのもので、このことは一七七蕊年四月二

八包付のラブアーク1宛の手紙からも緩うことができる。た

とえばカントはこの手紙のなかで、「キリストの教銭円&巾

rw尚一品。司馬町田昨日〕L

をぞれの「所伝

[Z訟のぽ片ぽ

γから区制約し、

前者を「拙純粋に取り出すL

ために、「滋繍滅的教談を新約襲警の

すべての教義

[ω田仲NC3況から区別して引き出す」必擦がある

とするが、それはご」の道徳的教説こそが蕊ぢに簿登書の根

本数説訴さ口伝聞宵乙であって、残りはただその瀦助教鋭

口信州mwgy吋出]であるにすぢない」からである。(洲口念にも

かかむらず「後後たちはこの福音寮の補助教鋭をその線本教

説よりも優先させた」のであり、「との翌なる教婦の実践約な

宗教教説を本質的なものとして推奨するかわりに:::この教

額自身を凶崇拝したり、へつらいや賛炎によって怒盛時を得ょう

とする仕方ぞ推奨した」の守あるぷ河口∞)カントはこの乎

~78

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紙明、、輪対話心部閣に基づく「道徳的………一出仰」の重要性を綴り返し

強調しているの明、あって、ここには後のぷ水教諭』での主授

がことごとく含まれていると塗っても遜一一一一日ではない。

(旬以)際講義のなかには道徳的信仰と復援にはかかわりを持たな

い燦史的な一挙柄が含まれているが、ぞれに対するカントの甘端

本的態度は次の言葉に尽くされている。「ひと跡、ぞれがどの

ように解されるにせよ、より叫脅さ人穏になるためになんの役

にも立たないものや、その歴史的権威について、必要もない

のに争ってはならない。:::このことにかんして、なんら市内

約な、万人に妥当するかかわりを持たない燈史的認識は、然

記の一つに属するが、ぞれがそれだけでためになると思えば、

誰でもそれに同意しておけばよいのであるOL(

〈同お円〉議ぴ・)

〈印刷)この点にかんしては、総稿『カントの教育協伊(『理想』六

一一号・…九八関口年・一般奴〉および拙稿『カントの一平叙の哲

学』(『北大文学部紀前宜』一一一六の一・一九八八年)参照。

〈げ〉カントの永遠平和識がっ世界市民」の立蝋明からの立論であ

ることについては、前掲『カントの平和の哲学』参照。

(お)私とは視点な災にするが、この地上での緩高普を、寸自己

の議績とすべての他者の機穏とが一致する」可愛遜的幸福L

見る見方として、牧野菜ニァカントにおける道徳と幸福』〈鱗

廃ドイツ観念論第二巻ァ刃ント哲学の現代糾広三弘文堂・一九

九O年〉参照。

お大文学部紀要

付記本織はカントの理性信仰に議づく理性宗教の解明安全怒

としており、カントの爽銭哲学が全体として滋性億仰に基づくこ

とを一析した前掲『カントと潔数協同制仰」(『北大文学部紀要』四二の

一一一・一九九邸付十三月〉の姉妹編とも綴綴とも震えるが、カントの

理性楽教の基礎となる潔性信仰の実態ぞまず紛らかにしておく

必裂があるので、前稿の婆約そも林水ねた一と二の部分を加えた。

なお、一九九三年一一月二七日、東京都立大学にてカント協会第

…八回学会が関僚され、シンポジウムの窓口討としてァ刃ントの宗

教諭』が鶏同貼れたが、その際祭事制が「叶宗教諭』の方法について」

という題で報告した際の原稿を本稿の留の一部に使用した。

〈一九九四・九・一一

O)

79-