kaldor[1955]1 ricardo[1819] 11...

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1 先進諸国における労働分配率の決定要因―コモンズ的インプリケーション 加藤浩司(京都大学大学院経済学研究科 M2はじめに 本論文の目的は,先進諸国(日本とアメリカ)における労働分配率の決定要因を明らか にすることである。これを説明するマクロ分配理論(分配率の決定理論)には,代表的な ものとして,次の 4 つのアプローチがある。すなわち,リカード派理論(古典派理論), マルクス派理論,新古典派理論 1 リカード派理論は,「限界原理」と「剰余原理」という 2 つの異なった原理に基づいて いる。前者は地代の大きさを決定し,後者は剰余の賃金と利潤への分配を説明するもので ある(Kaldor[1955]3 ページ)。 ,ケインズ派理論である(Kaldor[1955]1 ページ)。リカ ードは,『経済学および課税の原理』の序文のなかで,分配率を規定する法則を確定するこ とが「経済学の主要問題」であると述べている(Ricardo[1819]邦訳 11 ページ)。リカー ド以降のマクロ分配理論はいずれも,リカードのちがった側面を継承し発展させたもので ある。 リカードによれば,地代は「大地の生産物中の,土壌の根源的で不滅の力の使用に対し て地主に支払われる部分」であり(Ricardo[1819]邦訳 103 ページ),それは「つねに 2 の等量の資本と労働の投下によって獲得される生産物の差額」である(同邦訳 108 ページ)。 こうしたリカードの差額地代論は,「資本と人口の増加につれて穀物の増産のために,より 劣等な土地に頼らざるをえないことから,土地の労働生産力が漸減していく,または穀物 一単位当たりの費用が漸増していく,通時的にはたらく動態的な力」である土地の収穫逓 減を前提にしている(菱山[197966 ページ)。そして,穀物の価格は最も生産性の低い 限界地での生産費によって決まるため,より生産性の高い優等地では余剰が発生し,この 差額が地代となる。このように,リカードの地代論では,「穀物が高価だから地代が支払わ れるのである」(Ricardo[1819]邦訳 112 ページ)。 リカードは,商品の価値を投下労働量によって決まると考えた。すなわち,「ある商品 .... の価値 ... すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は ........................... その生産に必要な ........ 相対的労働量に依存する ........... 」と(同邦訳 17 ページ)。そして,そのようにして決まった商品 の価値は,賃金と利潤に分割される。 賃金率は,短期的には労働市場の需給関係によって変動するが,長期的には「マルサス の人口法則」が働くため,「労働者たちが,平均的にみて,生存し,彼らの種族を増減なく 永続することを可能にするのに必要な価格」である自然賃金に落ち着く。そして,その水 準は「食物,必需品,および習慣によって不可欠になっている便宜品の分量に依存」する 1 Kaldor 1955)は,新古典派理論のなかにカレツキの「独占度理論」を含めている。独 占度理論によれば,労働分配率は,「独占度」と「賃金総額に対する原材料総額の比率」に よって決定される(Kalecki 邦訳 64 ページ)。

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Page 1: Kaldor[1955]1 Ricardo[1819] 11 2c-faculty.chuo-u.ac.jp/~jafee/papers/Kato_Koji2.pdfケインズ派理論は,主としてカルドアによって展開された。カルドアは,「ケインズ的

1

先進諸国における労働分配率の決定要因―コモンズ的インプリケーション 加藤浩司(京都大学大学院経済学研究科 M2)

Ⅰ はじめに

本論文の目的は,先進諸国(日本とアメリカ)における労働分配率の決定要因を明らか

にすることである。これを説明するマクロ分配理論(分配率の決定理論)には,代表的な

ものとして,次の 4 つのアプローチがある。すなわち,リカード派理論(古典派理論),

マルクス派理論,新古典派理論 1

リカード派理論は,「限界原理」と「剰余原理」という 2 つの異なった原理に基づいて

いる。前者は地代の大きさを決定し,後者は剰余の賃金と利潤への分配を説明するもので

ある(Kaldor[1955]3 ページ)。

,ケインズ派理論である(Kaldor[1955]1 ページ)。リカ

ードは,『経済学および課税の原理』の序文のなかで,分配率を規定する法則を確定するこ

とが「経済学の主要問題」であると述べている(Ricardo[1819]邦訳 11 ページ)。リカー

ド以降のマクロ分配理論はいずれも,リカードのちがった側面を継承し発展させたもので

ある。

リカードによれば,地代は「大地の生産物中の,土壌の根源的で不滅の力の使用に対し

て地主に支払われる部分」であり(Ricardo[1819]邦訳 103 ページ),それは「つねに 2 つ

の等量の資本と労働の投下によって獲得される生産物の差額」である(同邦訳 108ページ)。

こうしたリカードの差額地代論は,「資本と人口の増加につれて穀物の増産のために,より

劣等な土地に頼らざるをえないことから,土地の労働生産力が漸減していく,または穀物

一単位当たりの費用が漸増していく,通時的にはたらく動態的な力」である土地の収穫逓

減を前提にしている(菱山[1979]66 ページ)。そして,穀物の価格は最も生産性の低い

限界地での生産費によって決まるため,より生産性の高い優等地では余剰が発生し,この

差額が地代となる。このように,リカードの地代論では,「穀物が高価だから地代が支払わ

れるのである」(Ricardo[1819]邦訳 112 ページ)。 リカードは,商品の価値を投下労働量によって決まると考えた。すなわち,「ある商品

....

の価値...

,.すなわちこの商品と交換される他のなんらかの商品の分量は...........................

,.その生産に必要な........

相対的労働量に依存する...........

」と(同邦訳 17 ページ)。そして,そのようにして決まった商品

の価値は,賃金と利潤に分割される。 賃金率は,短期的には労働市場の需給関係によって変動するが,長期的には「マルサス

の人口法則」が働くため,「労働者たちが,平均的にみて,生存し,彼らの種族を増減なく

永続することを可能にするのに必要な価格」である自然賃金に落ち着く。そして,その水

準は「食物,必需品,および習慣によって不可欠になっている便宜品の分量に依存」する

1 Kaldor(1955)は,新古典派理論のなかにカレツキの「独占度理論」を含めている。独

占度理論によれば,労働分配率は,「独占度」と「賃金総額に対する原材料総額の比率」に

よって決定される(Kalecki 邦訳 64 ページ)。

Page 2: Kaldor[1955]1 Ricardo[1819] 11 2c-faculty.chuo-u.ac.jp/~jafee/papers/Kato_Koji2.pdfケインズ派理論は,主としてカルドアによって展開された。カルドアは,「ケインズ的

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(同邦訳 135 ページ)。それゆえ,食物や必需品の価格が上昇すれば,自然賃金は上昇し,

それらの価格が低下すれば,自然賃金は低下する。 リカード派理論では,利潤は残りの「剰余」として発生する。すなわち,「土地の生産

物のうち,地主と労働者とが支払われた後に残る分量は,必然的に農業者に帰属し,彼の

資本の利潤を構成する」(同邦訳 159 ページ)。それゆえ,賃金と利潤は相反関係にある。 以上をまとめると,次のようになる。資本蓄積と人口増加の進展に伴い,より生産性の

低い土地の耕作が進むことで穀物価格が上昇し,地代が発生する。地代は,劣等地の耕作

が進むにつれて上昇していく。リカードによれば,賃金は主として農産物価格に依存する

ため,穀物価格の上昇によって自然賃金が上昇し,利潤シェアが低下する。そして,最終

的には,利潤がゼロとなる「定常状態」に行き着く。 リカード派理論では,分配率は(農業における)労働生産性によって規定される。 マルクス派理論は,リカードの「剰余原理」を継承し発展させたものである

(Kaldor[1955]7 ページ)。マルクスは「収穫逓減の法則」を受け入れなかったため,地代

を利潤(剰余価値)のなかに含めた。それゆえ,商品(純生産物)の価値は,賃金(可変

資本)と利潤(剰余価値)から構成される。そして,その大きさは,リカードと同様に投

下労働量によって決まると考えた。 マルクスは,賃金で買うことのできる諸商品の価値を「労働力の価値」と呼んだ。労働

力の価値は,「他のどの商品の価値とも同じく,この独特な物品の生産に,したがってまた

再生産に必要な労働時間によって規定され」る。労働力の再生産に必要な労働時間は「生

活諸手段の生産に必要な労働時間に帰着する」ため,労働力の価値は「労働力の所有者の

維持に必要な生活諸手段の価値」に等しくなる(Marx[1867]邦訳 291-292 ページ)。そし

て,その水準は,長期的には「産業予備軍効果」が働くため,労働者の生存費に落ち着く。

ただしマルクスは,『資本論』において,労働力の価値から労働力の価格が上方向に趨勢的

に乖離することを認めた(宇仁[2009]25 ページ)。 マルクスによれば,利潤は剰余価値の現象形態である。剰余価値とは,最初に投下され

た貨幣額を越える増加分,または最初の価値を越える超過分である。それは,労働者が生

産過程で剰余労働を行うことによって生み出されるものである。 可変資本 vに対する剰余価値m の比率を,剰余価値率( vm )という。これは,「資本

による労働力の,または資本家による労働者の,搾取度の正確な表現」である(Marx[1867]邦訳 369 ページ)。剰余価値率は価格タームを使えば利潤を賃金で割ったもの )( WΠ と表

すことができ,これはさらに次のように展開することができる。 )()( YWYW Π=Π

この式からわかるように,剰余価値率は,利潤シェアを労働分配率で割ったものである。

そして、剰余価値率と労働分配率は,常に反対方向に動く(Sherman/Evans[1988]222 ペ

ージ)。賃金および労働分配率の循環的変動の要因について,マルクスは産業予備軍効果を

はじめ,かなり明確な説明を残しているが,その趨勢的な変化の要因については断片的な

Page 3: Kaldor[1955]1 Ricardo[1819] 11 2c-faculty.chuo-u.ac.jp/~jafee/papers/Kato_Koji2.pdfケインズ派理論は,主としてカルドアによって展開された。カルドアは,「ケインズ的

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説明しかない。今日の多くのマルクス派は,賃金および労働分配率の長期的趨勢は,主と

して労使の力関係の変化によって決定されると考えている(Kuhne[1979]Part6,宇仁

[2009]27 ページ)。 新古典派理論は,リカードが地代の説明のために導入した「限界原理」を継承し発展さ

せたものである(Kaldor[1955]10 ページ)。新古典派理論は,限界原理の適用範囲を土地

以外にまで拡大し,すべての生産要素の価格が,それぞれの限界生産力によって決まると

考える。ドップによれば,「ジェヴォンズとオーストリア学派以来のいくつかの変種におい

て「近代理論」が本質的に行っていることは,分配理論を市場関係あるいは交換表面の圏

内に位置付けるということであり,ワルラスのいわゆる諸要素の生産的用役の価格(それ

ゆえまた所得分配)を商品の一般的価格決定過程の一部として導くことである。しかもそ

のことは,いかなる社会学的与件も考慮に入れることなく,マルクスのいわゆる生産の社

会的関係ともまったく無関係に行われる」(Dobb[1978]24 ページ)。そして,「すべての要

素(土地のみならず)の総供給が価格から独立に与えられたものであり,すべてがお互い

に制限的代替物であると仮定されるならば」,分配率はそれらのあいだの限界代替率

(MRS)によって決定される(Kaldor[1955]11 ページ)。MRS=1 の場合,分配率は不変

のままである。MRS<1 の場合には,労働分配率は上昇し,利潤シェアは低下する。MRS>1の場合には,逆の関係が成立する。

ケインズ派理論は,主としてカルドアによって展開された。カルドアは,「ケインズ的

思考装置が,生産の一般的水準の問題に対してよりも,むしろ分配の問題に対して適用さ

れうる」と考え,ケインズの乗数理論を分配理論に適用した(Kaldor[1955]1 ページ,18ページ)。カルドアのケインズ派理論は,次のようなものである。完全雇用の仮定によって

総所得Y が与えられており,総所得は賃金W と利潤 P という二つの広いカテゴリーに分

割され,貯蓄 S は賃金からの貯蓄 wS と利潤からの貯蓄 pS から構成されるとすると,次の

恒等式が成立する。 PWY +≡

SI ≡

pw SSS +≡

投資を与えられたものとし,単純な貯蓄関数 WsS ww = , PsS pp = を仮定すれば,次式を

得る。

WsPsI wp += YsPss wwp +−= )( (1)

両辺をY で割り,移項すれば次式が導かれる。

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wp

w

wp sss

YI

ssYP

−−

−=

1 ただし wp ss ≠ , ps > ws

(2)

したがって,労働者と資本家の貯蓄性向が与えられれば,利潤シェアは産出に対する投資

の比率に依存する。 本論文の構成は,以下の通りである。Ⅱでは,マクロレベルと産業レベルの労働分配率

を推計し,それらの短期的および長期的変動を検討する。Ⅲでは,日本とアメリカの労働

分配率の決定要因を明らかにする。Ⅳでは,2000 年代における賃金低下の原因を分析する。

Ⅴでは,コモンズ的インプリケーションと結論を述べる。 Ⅱ 労働分配率の短期的および長期的変動 本章では,マクロレベルと産業レベルの労働分配率を推計し,それらの短期的および長

期的変動を検討する。図 1 は,内閣府「国民経済計算」を用いて 1956 年から 2009 年まで

のマクロレベルの労働分配率 2

と実質GDP成長率を示したものである。

図 1 マクロレベルの労働分配率(左目盛)と実質 GDP 成長率(右目盛)

出所:内閣府「国民経済計算」。

はじめに,労働分配率の短期的変動について述べる。1956 年から 73 年に至る約 20 年

間は,「高度成長期」に位置づけられる。この時期の平均実質 GDP 成長率は,9.3%(1956-73年)であった。内閣府が公表している「景気基準日付」によれば,高度成長期には 3 回の

拡張期と 2 回の後退期を経験した。前者は「神武景気」(54~57 年),「岩戸景気」(58 年

~61 年),「いざなぎ景気」(65~70 年)と呼ばれ,後者は「なべ底不況」(57~58 年),

2 マクロレベルの労働分配率の計測には,国民所得から自営業主や家族従業者にかかわる

所得を除いた「雇用者報酬/(国民所得-個人企業所得)」という方法を用いる。

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「40 年不況」(64~65 年)と呼ばれる。1956 年に 83.9%と高い水準にあった労働分配率

は,神武景気を背景に 57 年には 78.4%まで低下している。なべ底不況の 1957 年から 58年には,わずかではあるが上昇した。そして,岩戸景気の始まる 1958 年には再び低下し, 61 年には 70.7%まで低下している。その後,40 年不況を受け 1965 年には 76.7%まで上昇

したが,65 年に始まるいざなぎ景気を背景に再び低下し,70 年には戦後で最も低い 68.3%まで低下した。

高度成長期は,1973 年の第一次オイルショックを契機に終わりを迎える 3

オイルショック後の 1974 年からバブル崩壊前の 1990 年に至るおよそ 15 年間は,「安

定成長期」に位置づけられる。この時期の平均実質 GDP 成長率は,4.1%(1975-90 年)

であった。安定成長期には,4 回の拡張期と 3 回の後退期を経験した。この時期には,後

退期にもかかわらず労働分配率は横ばいかわずかの上昇しかみられなかった。1986 年 11月に始まる「平成景気」を受けて,90 年には 73.1%まで低下した。

。1974 年に

は,戦後で初めてのマイナス成長を経験する。これを受けて労働分配率は大幅に上昇し,

1975 年には 80.9%に達する。吉川[1994]は,こうした「70 年代初頭における分配率の

動きは,予想されない形で経済成長率が急落したこと,資本に比べ労働インプットの調整

が遅いこと,実質賃金上昇率の急激な鈍化に抵抗がなされたことなどによって説明される

べきである」と述べている(吉川[1994]137 ページ)。

1991 年以降は,バブル崩壊後の「長期停滞期」に位置づけられる。1991 年にバブルが

崩壊し,日本経済は長期不況に突入した。実質 GDP 成長率は大幅に低下し,93 年には 0.2%まで落ち込んだ。こうした景気後退を背景に労働分配率は大幅に上昇し,95 年には 81.1%まで上昇した。1997 年には,消費税の引き上げ,アジア通貨危機,北海道拓殖銀行や山一

証券などの大手金融機関が倒産する銀行危機などがあり,98 年の実質 GDP 成長率は,マ

イナス 2%まで低下した。これを受けて,1998 年には労働分配率が 83.0%に達した。2000年代に入ると,2002 年 1 月から 2007 年 10 月まで 69 ヶ月続く戦後最長の拡張期を経験し

た。2000 年代には,実質 GDP 成長率が 2%台まで回復した。これを背景に労働分配率は

低下し,2007 年には 76.9%まで低下した。野田・阿部[2010]は,2000 年代以降の労働分

配率の低下を主として賃金の伸び悩みによるものであることを上場企業のパネルデータを

用いた実証分析によって明らかにしている。そして 2007 年には,リーマンショックによ

る景気後退を受けて労働分配率は大幅に上昇し,09 年には戦後で 2 番目に高い 83.4%まで

上昇した。

3 吉川[1992]は,「石油価格のレベル

...の(1 回限りの)急上昇が,経済の成長率

...を恒久的

...に

引き下げる,という事は必ずしも自明ではない」と述べ,こうした通説を否定している。

そして,高度成長の終焉は,「農村の『過剰人口』が涸渇したことによる人口移動の低下,

その結果としての世帯数伸び率の急速な鈍化,あるいは既存の耐久消費財の普及率が高ま

ったこと,こうした条件変化を背景とする国内需要の低迷によって利潤率および設備投資

の趨勢的低下がもたらされた」ことによるものだと述べている(吉川[1992]88 ページ)。

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次に,財務省「法人企業統計年報」を用いて製造業と非製造業の労働分配率 4

の動きを

みていく。図 2 は,1960 年から 2010 年までの両者の労働分配率の動きを示したものであ

る。

図 2 製造業法人企業と非製造業法人企業の労働分配率(左目盛)と実質 GDP 成長率(右

目盛)

出所:内閣府「国民経済計算」,財務省「法人企業統計年報」。 図 2 によれば,製造業と非製造業の労働分配率ともに,拡張期に上昇し,後退期に低下

しているのがわかる。しかし,製造業の労働分配率の方が景気循環に対する変動幅が大き

い。これは,製造業で付加価値が大きく変動するためである。 1973 年から 75 年における労働分配率の上昇は,製造業の方が大きい。西村・井上[1994]

は,1970 年代以降の製造業における労働分配率の上昇は,もっぱら大企業における労働分

配率の上昇に起因し,それがホワイト・カラーの「福利厚生費」と「研究開発関連の給与

支払額」の増大によるものであることを明らかにしている。 高度成長期には,非製造業の労働分配率が製造業のそれを一貫して上回っていたが,70

年代以降は両者に差がみられなくなり,80 年代半ば以降には製造業の労働分配率が非製造

業のそれを上回るようになった。しかし,2004 年から 08 年には再び非製造業の労働分配

率が製造業のそれを上回っている。 先述したように,マクロレベルの労働分配率は,バブル崩壊による景気後退を受けて

1990 年代初頭に大幅に上昇したが,図 2 はそれが主として製造業における上昇によるも

のだということを示している。この時期の非製造業における労働分配率の上昇は,それほ

ど大きくない。2000 年代におけるマクロレベルの労働分配率の変動についても,それが製

造業での変動によるものであることがわかる。

4産業レベルの労働分配率の計測には,「人件費/付加価値」という方法を用いる。

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以上のように,日本の労働分配率は,短期的には景気循環に対してカウンター・サイク

リカルに変動している。そして,マクロレベルの労働分配率の変動には製造業の影響が大

きい。 次に,労働分配率の長期的変動について述べる。図 1 からわかるように,マクロレベル

の労働分配率は,10 年から 15 年周期で循環しながら変動している。具体的には,高成長

の時期に低下傾向にあり,低成長の時期に上昇傾向にある。Ⅲで述べるように,マクロレ

ベルの労働分配率の中長期的トレンドは,製造業の労働分配率の中長期的トレンドによっ

て規定されている。図 2 が示しているように,製造業と非製造業の労働分配率はともに,

長期的には上昇傾向にある。両者とも 1960 年代には 50%台であったが,1970 年代以降

70%台に上昇している。 最後に,日本の労働分配率の変動パターンの特徴を明らかにするために,アメリカのそ

れと比較してみる。図 3 は,1947 年から 2011 年までのアメリカの法人企業全体,製造業,

非製造業の労働分配率の動きを示したものである。 図 3 アメリカの法人企業全体,製造業法人企業,非製造業法人企業の労働分配率

出所:U.S.Bureau of Economic Analysis. National Income and Product Accounts. 利潤

所得は,Corporate Profit by Industry(Table6.16)を,賃金所得は,Compensation of Employee by Industry(Table6.2)を使用した。

アメリカの法人企業全体の労働分配率は,日本のそれと比べ変動幅は小さいが,よく言

われるように,決して一定ではない 5

5ケインズは,労働分配率の長期的な「安定性」について,「あらゆる経済統計のなかで,

最も驚くべき,しかし最も確立された事実の 1 つである」と述べ,それを「ちょっとした

奇跡」と呼んだ(Keynes[1939]48 ページ)。

。その動きを全米経済研究所(NBER)が公表して

いる「景気循環日付」と照らし合わせてみると,景気循環に対してカウンター・サイクリ

カルに変動していることがわかる。そして,日本と同様に製造業の方が景気循環に対して

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敏感に反応している。これは,製造業で付加価値が大きく変動するためである。 製造業と非製造業の労働分配率は,ほぼ同じ動きをしているが,非製造業の労働分配率

の水準は,製造業のそれよりも一貫して高い。これは非製造業では製造業に比べ労働集約

的な産業が多いため,労働者への分配率が高くなるからである。そして,両者とも景気循

環に対してカウンター・サイクリカルに変動している。 長期的にはアメリカの各労働分配率は 1980 年代くらいまで上昇傾向にあるが,その後

は低下傾向にある。 アメリカの労働分配率の変動幅が日本のそれと比べて小さいのは,アメリカでは景気循

環に合わせて雇用調整が素早く行われるため,人件費総額と付加価値が連動して動くこと

で両者が相殺されるからである。 Ⅲ 日本における労働分配率の決定要因 本章では,労働分配率の決定要因を明らかにする。はじめに,短期的な決定要因につい

て述べる。労働分配率は,付加価値Y に占める賃金W の割合 )/( YW である。そして,両

者を雇用者数 N でそれぞれ割れば,1 人当たり賃金と労働生産性に分解できる。 )//()/( NYNWYW =

この式からわかるように,1 人当たり賃金が上昇するか労働生産性が下落すれば,労働分

配率は上昇する。反対に、1 人当たり賃金が低下するか労働生産性が上昇すれば,労働分

配率は低下する。 図 4 1 人当たり雇用者報酬と労働生産性の上昇率

出所:内閣府「国民経済計算」,総務省「労働力調査」。

図 4 は,1956 年から 2009 年までの 1 人当たり雇用者報酬上昇率と労働生産性の上昇率

を示したものである。図 4 によれば,両者はともに 1970 年代以降低下傾向にある。とり

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わけ,1990 年代以降非常に低い水準となっている。それはこの時期以降,実質 GDP 成長

率が低下したためである。 先述したように,1970 年から 75 年にかけて日本の労働分配率は大幅に上昇したが,そ

れはこの時期に 1 人当たり雇用者報酬上昇率が労働生産性上昇率を上回っていたためであ

る。これは,拡張後期に農村の過剰人口が枯渇したことによって「産業予備軍効果」が働

かなくなったことや,それにより労働者の交渉力が強まったからだと考えられる。 1990 年代の初頭にも労働分配率は大幅に上昇したが,それはこの時期に労働生産性上昇

率が大幅に低下したためである。これは,経済成長率=労働生産性上昇率+就業者増加率

という関係から,1990 年代初頭にバブルの崩壊を受けて実質 GDP 成長率が大幅に低下し

たためである。 1990 年代には,ほとんどの年で労働生産性上昇率が 1 人当たり雇用者報酬上昇率を下

回っているが,2000 年代にはほとんどの年で労働生産性上昇率が 1 人当たり雇用者報酬

を上回っている。これは,2000 年代に戦後最長の拡張期を背景にして実質 GDP 成長率が

上昇したためである。図 4 が示しているように,2000 年代には景気の拡張期にもかかわ

らず,1 人当たり雇用者報酬はほとんど上昇していない。それゆえ,2000 年代には労働分

配率は低下傾向にある。2000 年代に賃金が低下した理由については,Ⅳで述べる。 労働生産性上昇率の動きに対して,1 人当たり雇用者報酬上昇率の動きが非弾力的なの

は,日本の企業では景気変動に伴う雇用調整の速度が遅いのに加えて,賃金が企業収益に

あまり関係なく支払われる固定費的な性格を持っているためである。そのため,労働分配

率の変動幅が大きくなる。 図 5 は,1949 年から 2011 年までのアメリカの 1 人当たり雇用者報酬上昇率と労働生産

性上昇率を示したものである。 図 5 アメリカの 1 人当たり雇用者報酬上昇率と労働生産性上昇率

出所 U.S.Bureau of Economic Analysis. Gross Domestic Product by Industry Data.

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アメリカの 1 人当たり雇用者報酬上昇率と労働生産性上昇率は,日本のそれらと比べて

大きく変動しながら推移している。とりわけアメリカの 1 人当たり雇用者報酬上昇率は,

日本のそれよりも変動幅が大きい。これは,アメリカの企業では景気循環に伴って素早く

雇用調整を行うため,それに合わせて人件費総額が変化するからである。両者とも,1980年代以降低い水準で推移している。

1964 年から 70 年にかけてアメリカの労働分配率は上昇したが,それはこの時期に 1 人

当たり雇用者報酬上昇率が労働生産性上昇率を上回っていたためである。マグリーンは,

こうした 1960 年代末および 1970 年代初頭における賃金上昇は,失業コストの低下にある

と述べている。それゆえ,この時期に労働生産性上昇率が低下し,賃金上昇圧力が増大し

た(Marglin[1990]邦訳 23 ページ)。 1996 年から 2000 年にかけても労働分配率は上昇したが,それはこの時期に労働生産性

がほとんど上昇していないにも関わらず,1 人当たり雇用者報酬が上昇したためである。

その理由は,好景気を背景に失業率が低下したことで労働者の賃金交渉力が増大したため

であると考えられる。 次に,労働分配率の長期的な決定要因について述べる。マクロレベルの労働分配率は,

各産業の労働分配率を合計したもの )( ii YWYW ∑∑= である。W は総賃金,Y は総付加

価値, iW は各産業の賃金, iY は各産業の付加価値である。そして,マクロレベルの労働

分配率の変化は,次のように各産業の労働分配率の変化と産業構造の変化に分解できる。

==

∑∑= ii

n

ii

nYWYW

11 (3)

∑+

∑=

=

=))(())((

11iii

i

n

iii

nYWWWYYWW

(4)

^は変化率, WWi は総賃金に占める各産業の賃金ウェイト,∧

YYi は総付加価値に占め

る各産業の付加価値ウェイトの変化率,∧

ii YW は各産業の労働分配率の変化率である。大

川一司は,前者を「構造的シェアー」,後者を「部門別シェアー」と呼んだ(大川[1965]2ページ)。上式では、賃金ウェイトと「構造的シェアー」を掛け合わせたものは「産業構造

の変化」を、賃金ウェイトと「部門別シェアー」を掛け合わせたものは「各産業の労働分

配率の変化」を表す。 表 1,2,3 は,法人企業全体の労働分配率を産業構造の変化と各産業の労働分配率に分

解した結果を示している。

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11

表 1 日本の法人企業全体の労働分配率の変化の要因分解 1960-70 年 1970-75 年

産業構造の変

化 各産業の労働

分配率の変化 産業構造の変

化 各産業の労働分

配率の変化 農林漁業 鉱業 建設業 製造業 卸売・小売業 不動産業 運輸・通信業 電気・ガス業 サービス業

-0.002 -0.024 0.044 -0.072 0.019 0.007 0.015 -0.007 0.025

0.002 0.000 -0.001 0.070 0.033 0.000 0.002 0.002 0.001

-0.002 0.004 0.004 -0.040 0.029 0.005 -0.001 -0.003 0.002

0.001 -0.006 0.003 0.037 0.000 0.001 0.006 0.002 0.010

合計 0.007 0.110 -0.002 0.054

労働分配率の変

化率 0.117 0.053

出所:財務省『法人企業統計年報』のデータを用いて筆者が算出。 表 2

1975-81 年 1981-91 年 産業構造の変

化 各産業の労働

分配率の変化 産業構造の変

化 各産業の労働分

配率の変化 農林漁業 鉱業 建設業 製造業 卸売・小売業 不動産業 運輸・通信業 電気・ガス業 サービス業

-0.002 -0.001 0.003 -0.008 -0.009 0.003 -0.008 0.002 0.017

0.001 -0.001 0.003 -0.033 0.009 -0.002 0.000 -0.004 -0.002

-0.002 -0.004 0.013 -0.055 -0.007 0.006 0.015 -0.002 0.041

-0.001 0.002 -0.012 0.005 -0.012 -0.002 -0.002 0.001 -0.004

合計 -0.002 -0.029 0.006 -0.026

労働分配率の変

化率 -0.031 -0.020

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出所:表 1 と同じ。 表 3

1991-99 年 1999-2007 年 産業構造の変

化 各産業の労働

分配率の変化 産業構造の変

化 各産業の労働分

配率の変化 農林漁業 鉱業 建設業 製造業 卸売・小売業 不動産業 運輸・通信業 電気・ガス業 サービス業

-0.001 0.000 -0.002 -0.026 -0.002 -0.001 -0.012 0.001 0.044

0.001 0.000 0.026 0.031 0.029 0.002 -0.002 0.001 0.010

-0.001 0.001 -0.019 -0.021 -0.012 0.003 0.040 -0.004 0.011

0.000 -0.002 -0.010 -0.041 -0.017 -0.002 -0.007 0.001 -0.001

合計 0.000 0.099 -0.002 -0.079

労働分配率の変

化率 0.099 -0.081

注:卸・小売業は,04 年から卸・小売業と飲食店の合計である。運輸通信業は,04 年か

ら運輸業と情報通信業の合計である。 電気・ガス業は,04 年から電気業とガス・熱供給・

水道業の合計である。サービス業は,04 年から宿泊業を含む。 出所:表 1 と同じ。 合計でみれば,法人企業全体の労働分配率の変動に対する影響が大きいのは,すべての

期間で各産業の労働分配率の変化である。産業単位でみれば,産業構造の変化はほとんど

の期間で製造業が大きなマイナスの値をつけ,サービス業で大きなプラスの値となってい

る。これは,脱工業とサービス経済化を意味している。両者が相殺されて合計ではほぼゼ

ロとなっている。これには,図2が示しているように,製造業と非製造業の労働分配率に

大きな差がないことが関係している。各産業の労働分配率の変化は,ほとんどの期間で製

造業の値が大きくなっている。つまり,製造業の労働分配率の中長期的トレンドが,日本

の法人企業全体の分配率の中長期的トレンドをほぼ決定している。 次に,比較のために同様のことをアメリカについても行う。表 4,5,6 は,法人企業全

体の労働分配率を産業構造の変化と各産業の労働分配率に分解した結果を示している。

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表 4 アメリカの法人企業全体の労働分配率の変化の要因分解 60-70 70-75 産業構造の

変化 各産業の労働

分配率の変化 産業構造の

変化 各産業の労働分

配率の変化 製造業 通信業・公益事業 卸売業 小売業 その他

-0.043 -0.011 0.005 0.011 0.046

0.033 0.011 0.001 -0.001 0.003

-0.021 -0.003 0.010 -0.002 0.018

-0.022 0.002 -0.008 0.001 -0.003

合計 0.009 0.048 0.002 -0.029 労働分配率の変化率 0.057 -0.027 注:2001 年以降は,「通信業・公益事業」は,「公益事業」「輸送,賃貸業」「情報」の合計。

「その他」は,「農林漁業,狩猟業」「鉱業」「建設業」「不動産,レンタル及びリース業」

「専門的・科学的技術サービス業」「管理・支援及び破棄物処理並びに除去サービス業」「教

育サービス業」「医療及び社会福祉業」「芸術,娯楽及びレクリエーション業」「宿泊業・飲

食サービス業」「その他サービス業」の合計。 出所:U.S.Bureau of Economic Analysis. National Income and Product Accounts を用い

て筆者が算出。利潤所得は,Corporate Profit by Industry(Table6.16)を,賃金所得は,

Compensation of Employee by Industry(Table6.2)を使用した。 表 5 75-81 81-91 産業構造の

変化 各産業の労働

分配率の変化 産業構造の

変化 各産業の労働分

配率の変化 製造業 通信業・公益事業 卸売業 小売業 その他

-0.013 0.001 0.001 -0.011 0.025

0.009 0.001 0.003 0.004 0.006

-0.075 -0.002 -0.004 0.009 0.084

0.015 -0.008 0.007 -0.003 0.003

合計 0.002 0.022 0.012 0.014 労働分配率の変化率 0.024 0.026 出所:表 4 と同じ。

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表 6 91-99 99-2007 産業構造の

変化 各産業の労働

分配率の変化 産業構造の

変化 各産業の労働分

配率の変化 製造業 通信業・公益事業 卸売業 小売業 その他

-0.041 -0.010 0.000 0.003 0.055

-0.010 0.005 -0.004 -0.007 -0.011

-0.069 0.017 -0.013 -0.036 0.112

-0.019 -0.009 -0.006 -0.008 -0.018

合計 0.006 -0.027 0.011 -0.060 労働分配率の変化率 -0.021 -0.049 出所:表 4 と同じ。

合計でみれば,法人企業全体の労働分配率の変動に対する影響が大きいのは,すべての

期間で各産業の労働分配率の変化である。産業単位でみれば,産業構造の変化はほとんど

の期間で製造業が大きなマイナスの値をつけ,その他でプラスの大きな値となっている。

これは,脱工業化とサービス経済化を意味している。両者が相殺されて合計では小さくな

っている。しかし,日本とは異なりマイナスにはならない。そして各産業の労働分配率の

変化は,製造業の値がほとんどの期間で大きい。要するに,アメリカにおいても製造業の

労働分配率の中長期的なトレンドが,法人企業全体の労働分配率の中長期的なトレンドを

規定しているということがわかる。 Ⅳ 2000 年代における賃金低下の原因 前章までで明らかにしたように,日本の労働分配率は 2000 年代初頭以降低下傾向にあ

る。これは主として,賃金の低下によるものであった。本章では,こうした 2000 年代に

おける賃金低下の原因を明らかにする。はじめに,厚生労働省「毎月勤労統計調査」を用

いて賃金の動きをみていく。 図 6 は,1981 年から 2009 年までの「現金給与総額」と「所定内給与」の変化率を示し

たものである 6

6 「現金給与総額」とは,「所定内給与」「所定外給与」「特別給与」の合計である。「所定

内給与」とは,基本給,家族手当などである。「所定外給与」とは,所定の労働時間を超え

る労働に対して支給される給与や,休日労働,深夜労働に対して支給される給与などであ

る。「所定内給与」と「所定外給与」を合わせたものを「きまって支給する給与」と呼ぶ。

「特別給与」とは,夏冬の賞与や,期末手当等の一時金などである。

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図 6 現金給与総額と所定内給与の変化率(年率,単位:%)

注:就業形態計(30 人以上)。1-12 月の年平均。 出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」。

両者ともバブル期を除き,ほとんどの年で低下傾向にある。現金給与総額変化率は,バ

ブルが崩壊した 1991 年とアジア通貨危機などが発生した 1997 年に大幅に低下している。

1998 年以降は,2005 年,06 年を除き、ほとんどの年でマイナスとなっている。所定内給

与変化率は,1990 年代に一貫して低下しており,2000 年代に入ると 2005 年,06 年を除

き,ほとんどの年でマイナスとなっている。このように,賃金は 2000 年代に低下してい

ることがわかる。 次に,産業別所定内給与の動きをみていく。図 7 は,2001 年から 2009 年までの産業別

所定内給与の変化率を示したものである。 図 7 産業別所定内給与の変化率(年率,単位:%)

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注:事業所規模 5 人以上。1-12 月の年平均。 出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」。

先述したように所定内給与は 2000 年代に低下しているが,図 7 よれば、それはサービ

ス業の賃金が低下しているためであるということがわかる。とりわけ,「飲食店,宿泊業」

「教育,学習支援業」で大きく低下している。製造業は,ほとんどの期間で横ばいであっ

た。 次に,以上みてきた 2000 年代における賃金低下の原因について検討していく。賃金の

低下は多数のさまざまな原因が複合して生じるものであるが,ここでは特に非正規雇用者

の増大に着目する。雇用者は一般的に,「正規雇用者」と「非正規雇用者」に区別すること

ができる。総務省「労働力調査」によれば,非正規雇用者とは,「パート」「アルバイト」

「労働者派遣事業所の派遣社員」「契約社員・嘱託」「その他」といった雇用者の総称であ

る 7

はじめに,総務省「労働力調査」(詳細集計)を用いて雇用者数の推移をみていく。図 8は,1985 年から 2012 年までの雇用形態別雇用者数(役員を除く)の推移を示したもので

ある。

。正規雇用者と非正規雇用者では,労働時間や契約期間,勤め先での呼称,人事労務

管理などが異なる(阿部[2010]443-445 ページ)。

図 8 雇用形態別雇用者数(役員を除く)の推移(単位:万人)

注:1985 年から 1998 年までは 2 月,1999 年から 2001 年までは 8 月,2002 年以降は,

4-6 月平均のデータを用いた。2001 年以降,「契約社員・嘱託,その他」は,「契約社員・

嘱託」と「その他」の合計。 出所:総務省「労働力調査」(詳細集計)。 7 厚生労働省「平成 22 年就業形態の多様化に関する総合実態調査」は,「正社員以外の労

働者」を「契約社員」「嘱託社員」「出向社員」「派遣労働者」「臨時的雇用者」「パートタイ

ム労働者」「その他」に区分している。

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正規雇用者は,1997 年の 3812 万人をピークに減少している。それに対し,非正規雇用

者は 1985 年には 655 万であったが,95 年に 1000 万人を突破し,2012 年には 1775 万に

達している。非正規雇用者の役員を除く雇用者に占める割合は,1985 年には 16.4%であ

ったが,1990 年代に 20%,2000 年代には 30%,2012 年なると 34.5%に達し,今では雇

用者の約 3 人に1人が非正規雇用者となっている。2000 年以降に増加したのは,「派遣社

員」「契約社員・嘱託,その他」の非正規雇用者である。派遣労働者は 1999 年には 28 万

人であったが,2005 年には 100 万人を突破し,2008 年には 140 万人に達した。 次に,産業別の非正規雇用者の割合をみていく。表 7 は,1997 年,2002 年,07 年の産

業別の非正規雇用者の割合を示したものである。 表 7 産業別非正規雇用者割合の推移(単位:%) 1997 年 2002 年 2007 年

建設業 製造業 電気・ガス・熱供給・水道業 運輸・通信業 卸売・小売業,飲食店 金融・保険業 不動産業 サービス業

16.1 18.5 7.0

14.3 39.9 11.3 23.1 27.0

19.7 23.4 8.8

22.2 49.4 22.3 32.4 33.8

19.9 27.2 9.0 26.8 52.1 24.9 36.2 37.4

注:2002 年,07 年の「運輸・通信業」は,「情報通信業」「運輸業」の合計である。同年

の「卸売・小売業,飲食店」は,「卸売・小売業」「飲食店・宿泊業」の合計である。2007年のサービス業は,「学術」「生活関連」「教育」「医療・福祉」「複合サービス」「サービス

業」の合計である。 出所:総務省「就業構造基本調査」。 1997 年以降,すべての産業で非正規雇用者の割合が増加している。とりわけ,「卸売・

小売業,飲食店」「サービス業」で高くなっている。元々、非正規雇用者の割合が高いこれ

らの産業に加えて,「製造業」「運輸・通信業」「金融・保険業」「不動産業」でも大幅に増

加している。図 7 が示していたように,サービス業の賃金は 2000 年代以降低下している

が,これは賃金水準の低い非正規雇用者が増大したことによるものだということがわかる。 1997 年以降に非正規雇用者が増加した背景には,労働者派遣法の改正による労働市場の

規制緩和がある。労働者派遣法は 1985 に制定(86 年に施行)され,当初は専門的知識・

技術を要する 16 業務のみについて労働者派遣事業が解禁された。その後,日経連が 1995

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18

年に「新時代の『日本的経営』」と題する報告書を発表し,労働者を「長期蓄積能力活用型

グループ」(無期雇用の正規労働者),「高度専門能力活用型グループ」(有期雇用の契約社

員),「雇用柔軟型グループ」(有期雇用のパートタイム労働者,派遣労働者,請負労働者)

の 3 種類に分ける雇用戦略を打ち出した。これを受けて 1996 年には労働者派遣法が大幅

に改定され,派遣の対象業務が 16 業務から 26 業種に拡大された。1999 年には再び労働

者派遣法が改正され,建設,港湾,警備,製造,医療などの派遣禁止業務以外は原則自由

となった。さらに、2003 年の派遣法改正では,製造業への労働者派遣が解禁されたほか,

専門 26 業務への派遣可能期間の制限が撤廃され,それ以外の業務への派遣期間の限度が 1年から最長で 3 年に延長された。派遣労働者の増加の背景には,こうした労働者派遣法の

改正による労働市場の規制緩和があった(宇仁[2010]136-140 ページ)。 厚生労働省「就業形態の多様化に関する総合実態調査」(非正社員計の総数)によれば,

平成 15 年,19 年,22 年のいずれの調査においても,企業が非正規雇用者を雇用する理由

として最も多かったのは,「賃金の節約のため」である。次に多かったのは,「一日,週の

中の仕事の繁閑に対応するため」である。このように,企業が非正規雇用者を雇用するの

は,主として人件費の削減と雇用の柔軟化のためである。 最後に,2000 年代における賃金の低下に対する非正規雇用者の増大の影響についてみて

いく。平均賃金の変化率は,次のように要因分解できる。

)(1

iii

nNWNW

=

∑= (5)

{ }NNWW iii

n)(

1=

∑= (6)

+

∑=∧∧

−=

∧−

)()(

1NNW

W

NNWW ii

ii

i

n

(7)

∑+

∑=∧

−=

−=

∧−

NNW

NNWW

W

NNWW i

ii

i

n

iii

i

n )()(11

(8)

∧は変化率,

W は平均賃金の変化率, iW は各雇用形態別の賃金, iN は各雇用形態別の雇

用者数,N は総雇用者数である。初項は賃金変化要因を,第 2 項は雇用形態変化要因を表

す。 表 8 は,平均賃金を賃金変化要因と雇用形態変化要因に分解したものである。

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表 8 平均賃金変化の要因分解 93-99 2002-2011 賃金変化

要因 雇用形態

変化要因 賃金変化

要因 雇用形態

変化要因

正規 パート アルバイト 嘱託その他

0.075 0.004 -0.001 -0.002

-0.047 0.005 0.005 0.001

正規 パートアルバイト 派遣 契約・嘱託 その他

-0.017 0.003 0.000 -0.001 -0.005

-0.073 0.008 0.005 0.016 -0.001

合計 0.077 -0.037 合計 -0.019 -0.045

変化率 0.040 変化率 -0.064

注:93-99 年は,「労働力特別調査報告」,2002-2011 は,「労働力調査」(詳細集計)のデ

ータを用いて筆者が算出。 出所:「労働力調査特別調査報告」,総務省「労働力調査特別調査」,「労働力調査」(詳細集

計)。

93-99 年の期間では,合計でみれば,平均賃金の変化に対して影響が大きいのは賃金変

化要因である。各雇用形態別でみれば,賃金変化要因では「正規」が 0.075 と最も大きい。

雇用形態変化要因では,「正規」が-0.047 と最も小さくなっている。つまり,正規雇用者

の賃金が上昇したことは平均賃金を押し上げる要因となったが,正規労働者の構成比は低

下したため平均賃金を押し下げる要因となった。それに対して,「パート」「アルバイト」

「嘱託その他」などの非正規雇用者の賃金変化,構成比変化が平均賃金に及ぼした影響は

小さい。 2002-2011 年の期間では,合計でみれば,平均賃金の変化に対して影響が大きいのは雇

用形態変化要因である。各雇用形態別でみれば,賃金変化要因では正規労働者の賃金低下

が-0.017 という押し下げ効果をもった。雇用形態変化要因でも正規労働者の構成比の低下

が-0.073 という押し下げ効果をもった。「その他」を除き,「パートアルバイト」「派遣」「契

約・嘱託」などの非正規雇用者の構成比増加は押し下げ要因となったが,そもそも非正規

雇用者の賃金水準が平均賃金よりも低いので押し下げ効果は小さい。 Ⅴ おわりに

本論文では,先進諸国(日本とアメリカ)における労働分配率の決定要因について論じ

た。それにより次のことが明らかになった。

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20

日本の労働分配率(マクロレベル,製造業,非製造業)は,短期的にも長期的にも大き

く循環しながら変動している。短期的には,景気循環に対してカウンター・サイクリカル

に変動している。とりわけ,製造業においてその傾向が強い。具体的には,いずれの労働

分配率も,高度成長期が終焉した 1970 年代初頭とバブルが崩壊した 90 年代初頭に大幅に

上昇した。1970 年代初頭における上昇は,この時期に 1 人当たり雇用者報酬上昇率が労

働生産性上昇率を上回っていたためである。こうした背景には,拡張後期において農村の

過剰人口が枯渇したことによって産業予備軍効果が働かなくなったことや,それにより労

働者の交渉力が強まったことが考えられる。1990 年代初頭の上昇は,この時期に労働生産

性上昇率が大幅に低下したためである。これは,バブルの崩壊によって実質 GDP 成長率

が大幅に低下したためである。そして,2000 年代に入ると労働分配率は下落傾向にあるが,

それはこの時期に 1 人当たり雇用者報酬上昇率が低下したためである。こうした背景には,

Ⅳで明らかにしたように,非正規労働者の増加がある。 長期的にも高成長の時期に低下し,低成長の時期に上昇している。マクロレベルの労働

分配率の変動に対しては,製造業の影響が大きい。製造業で労働分配率の変動が大きいの

は,同産業では景気変動に伴い付加価値が大きく変動するためである。 また、日本の労働分配率は,アメリカのそれと比べて変動幅が大きい。これは日本の企

業では,景気循環に伴う雇用調整の速度が遅いことに加え,賃金が企業収益に連動して動

かない固定費的性格を持っているため,人件費総額と付加価値の変動テンポにズレが生じ

るためである。 日本の法人企業全体の労働分配率の変化に対する影響が大きいのは,ほとんどの期間で

各産業の労働分配率の変化である。合計でみれば,産業構造の変化の影響はほとんどない。

産業単位でみれば,産業構造の変化はほとんどの期間で製造業が大きなマイナスの値をつ

け,サービス業で大きなプラスの値となっている。これは,脱工業とサービス経済化を意

味している。両者が相殺されて合計では小さくなっている。各産業の労働分配率の変化は,

製造業の値がほとんどの期間で大きい。要するに,製造業の労働分配率の中長期的トレン

ドが,法人企業全体の労働分配率の中長期的トレンドをほぼ決定している。アメリカでも

ほぼ同様の結果となっている。(コモンズ的インプリケーションについては,当日の報告時

に述べる。) 参考文献 阿部正浩[2010]「非正規雇用増加の背景とその政策対応」樋口美雄編『労働市場と所得分

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Page 21: Kaldor[1955]1 Ricardo[1819] 11 2c-faculty.chuo-u.ac.jp/~jafee/papers/Kato_Koji2.pdfケインズ派理論は,主としてカルドアによって展開された。カルドアは,「ケインズ的

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