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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 縫い合わされる物語 : E.T.A. ホフマン『ブランビラ王女』におけ Nadel Filetzeug 著者 Author(s) 田中, 早苗 掲載誌・巻号・ページ Citation DA,11:3-34 刊行日 Issue date 2015 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81009434 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009434 Create Date: 2018-09-17

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

縫い合わされる物語 : E.T.A. ホフマン『ブランビラ王女』におけるNadelとFiletzeug

著者Author(s) 田中, 早苗

掲載誌・巻号・ページCitat ion DA,11:3-34

刊行日Issue date 2015

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81009434

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81009434

Create Date: 2018-09-17

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縫い合わされる物語

-E.T.A.ホフマン『プランピラ王女』における NadelとFiletzeugー

問中早苗

はじめに

『プランピラ王女~ (Prinzessin Brambilla, 182 I) 1,士、後期ロマン主義作家 E.T.A.ホフマン

(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1766-1822)によって最晩年に執筆された中編小説である。

発表当初からこの作品は、ある積の当惑と熱狂的な賛同をもって迎えられた。「形式と作品

描写の欠如Jへの厳しい批判の声2が上げられると同時に、ハイネには称賛され3、かのボー

キスム .

ドレールにも「高等美学の教理要綱Jと言わしめたのである。 4 しかしながら友人ヒッツィ

ヒらの評価は芳しくなく、多くの選集で採録されないこともしばしばであった。 5今世紀も

後半に入ってようやく再評価されるようになったこの異色の作品は、そのあらすじを簡略

に示すことすら困難と言っても良いが、それでもあえて表面的な話の流れを追えばこうな

る。

舞台はカーニヴァル開催に浮かれるローマ。売れっ子悲劇役者ジーリオ・ファーヴァは、

夢の中で理想の王女と出逢い、心奪われる。その日の道すがら、奇妙な仮装行列が宮殿の

中に入っていくのを目墜した彼は、行列の中に夢で見た王女がいることを同時に予感する。

I E.T.A. Ho釘inann:Sa・'ml/icheJf告'rkein 6 Banden. Hrsg. von Wulf Segebrecht und Hartmut

Steinecke, Bd. 3: Nachlslucke; Klein Zaches; Prinzessin Brambilla; f伶rke.1816-1820. Frank白rtam

Main: Deutscher Klassiker Verlag, 1985, S. 767・912.以下、この作品からの引用は必ずこの版を

用い、 PrinzessinBrambillaと略記する。

2 Ingrid Strohschneider-Kohrs: Die Romanlische Ironie in Theorie und GeslallUng. TUbingen: Max

Niemeyer, 2007, S. 362. 3 r王女は全くもって素敵な美女で、彼女の驚異の中にありながら頭がくらくらしないよう

な人は、そもそも頭というものを持っていないのだ。ホフマンは全くもって独創的だ。」

(Aber Prinzessin ist eine gar kostliche Schone, und wem diese durch ihre Wunderlichkeit nicht den Kopf schwindlicht macht, der hat gar keinen Kopf. Hoffmann ist ganz original.l Heinrich Heine:

Hislorisch-krilische Gesamlausgabe der Werke. Hrsg. von Manfred Windfuhr, Bd. 6: Briefe aus Ber/in; Ober Polen; Reisebilder IIJJ (Prosa). Hamburg: Hoffmann und Campe, 1973, S. 52. 4 Stefan Scherer: A札 "PrinzessinBrambilla (1820)“. In: E. T.A. Ho.1伽ann:Leben-悦 'rk-Wirkung.

H四 g.von DetlefKremer. Berlin: De Gruyter, 2010, S. 237.

3深田甫「作品解題JE.T.A. ホフマン『ホフマン全集~ (8)深田甫訳所収、書IJ土社、 1971

年、 575・576頁を参照。

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その日寺、夢の女性が今ローマに滞在中のプランピラ王女であることをジーリオに吹きこん

だのは、香具師チェリオナーティであった。夕方、夢の内容を恋人のお針娘ジャチンタに

話してしまい、彼女から怒りを買って追い出される羽目になったジーリオは、この奇妙な

老人に導かれ、夢とも現実とも知れぬ不思議な体験を通し、愛しの姫を探し追い求める。

そんな中ジーリオは、次第に自分こそが王女の婚約者、コノレネリオ・キアッベリ王子であ

ると思い込むようになり、また同じくジャチンタも自分が一国の王女であると主張する。

その後宮殿への侵入や分裂した自己との決闘などを経て、王子への変身を遂げたかに見え

たジーリオであったが、いまだ「慢性二重病Jなるものに椴っていることが判明する。し

かし、最終的に再会したジーリオとジャチンタは、チェリオナーティが折々語っていたウ

ルダルの泉を覗きこむことで自己と互いを認識し合い、もつれ合った糸はほどけ、大団円

へと向かう。二人は喜劇役者へと転身し結婿、晴れて物語は幕を閉じる。

掴みどころのあまりない筋書だが、しかし内容を細かく見れば、そこにはカーニヴァル

の価値転倒の原理、喜劇と悲劇の対立、自我の分裂と統合などといった傑々な意味深なテ

ーマが複雑に絡み合っていることが分かる。当時のドイツ・ロマン主義にありがちな暗く

冷たいグロテスクではなく、咲笑に満ちたバフチン的グロテスクのモチーフの中で6、三文

役者は王子に、お針娘は王女へとその身を変え、鋭い仮面と不恰好な衣装が美女の心を射

止める。チェリオナーティによる劇場改革もこの作品の大きなテーマだ。 7 r書いた作者本

人も理解していないJr朗々と鳴り響く言葉J8を羅列するだけのショーに落ちぶれた悲劇は

噸笑される似lへとまわり、おどけた仮面喜劇が劇場を支配する。

自惚れ屋のジーリオは、きざな見栄っ張りの青年で、儲け役しかやりたがらない。大げ

さな身振りで「自分を演じるJ9ことに夢中なこのジーリオと、その恋人ジャチンタは、自

分の理惣の姿、理怨の相手ばかりを追い求める。しかしチェリオナーティの様々なお膳立

てによって、最終的に二人はウルダルの泉を覗きこみ、ありのままの己自身と世界を認識

6本作品のグロテスクのモチーフについては、とりわけ DetlefKremer: ..Literarischer Karneval.

Groteske Motive in E.T.A. Hoffmanns Prinzessin Brambilla“. In: E. T.A. HojJi叩 nn-Jahrbuch.Bd. 3

(1995),S.15・30に詳しい。

7ネーリングは、『プランピラ王女』の物語を、ウルダルガルテン物語/パスティアネッロ

候(チェリオナーティ)の劇場改革/ジーリオとジャチンタの恋物語、の三つの筋の束に

分類して考察しており、「劇場の世界では、悲劇的パトスと、コンメディア・デッラルテの

フモール的仮面劇との対立が問題となるjと述べている。 Vgl.Wolf匡angNehring: "Nachwo目ぺ

In: E.T.A. Hoffmann: Prinzessin Brambilla. Ein Capriccio nach Jalcob Callol. Hrsg. von Wo1fgang

Nehring・Stuttgart:Rec1am, 1971, S. 161・171.

8 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 833. 9 Ebd., S. 798.

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して、現実の互いの中に理想を見出す。ジャック・カロの銅版画をもとにした持絵と響き

あって目まぐるしく進行するストーリーの中には、ただの気まぐれでは片付けられない文

学的な短めきが存在し、多くの研究者を惹きつけてきた。過去には『理論と実践における

ロマン主義的イロニー~ (Die romanlische lronie in Theorie und Gestaltung, 1977) を著したシ

ュトローシュナイダー・コーアスを筆頭に、プライゼンダンツやネーリングらによって、

作品全体を統べる思想や核となる理念を見出そうとする研究がなされている。中でもコー

アスは、ロマン主義的イロニーが「この作品における芸術理論及び人生教訓|である」、つま

り、「この作品の被底思想(Grundgedanke)である」と述べ、「最も混乱しており、最も厄介

で、最も切り子面の多いJ10この作品を解釈するための重要な方途を提示した。また、デト

レフ・クレーマーの「文学的カーニヴァル (romantischerKamevaI) Jとb、う言葉は、全ての

在り方が逆転する、カーニヴアルという特異な祝祭11そのものを体現しているこの作品の特

徴を見事に捉えている。しかしながら、このような包括的な作品解釈では取り上げられて

いない細部、大きな網目によっては掬いきれないモチーフについては、まだ完全に読解さ

れきれていない面がある。例えば、物語の重要人物ミュスティリス王女は、なぜ「編み物

道具 (FiIetzeug)Jを手にした途端、普通の人間の言葉を喋り、磁器の人形に変身したのか。

その呪いをもたらした小箱の中身はなぜ、終盤で「編み物道具jから「針 (NadeI)Jへと替

わらなければならなかったのか。対応しているように見えるこの二つの小道具は、この作

品にとってどんな意味を持つのか。発砲させない銃は舞台に置いてはならない、つまり無

駄なものは物語に登場させてはならないとチェーホフは述べたが、この二つのモチーフは

((チェーホフの銃》となり得るのだろうか。作品の要所要所にさりげなく登場するものの、

先行の研究ではさほどスポットライトを浴びることのなかったこれら「レース (Filet)J と

「針 (NadeI)Jについて、以下では、この二つのモチーフの、ストーリーの表面的な意味に

おける活躍の意義だけではなく、『プランピラ王女』というテクストそのものとの深い関わ

りを考察することによって、新たな作品解釈を提示する。過去には、メインの扱いではな

いものの、これら小道具について言及している文献がいくつかある。しかしそれらの中で

は、ほぽ「レース (FiIet)J と「針 (NadeI)Jには明確な区別が付けられていない。デトレ

フ・クレーマーは、論文『ロマン主義的メタモルフォーゼ』の中で、「ポエティッシュな針j

10 Wolf追加gPreisendanz: Humor als dichterische Einbildungskrajl Sludien zur Erzahlkunst des

poetischen Realism旧.MUnchen: WiIhelm Fink, 1985, S. 50. 日 「誰も自身のアイデンティティ、行動、発言に責任を負わされることがないJカーニヴ

メタそルフォーゼ

ァルの中だからこそ、ジーリオたちの変身は可能となる。 DetIefKremer: Romantische

Metamorphosen. E. T.A. Hoffmanns Erzahlungen. Stuttgart: Metzler, 1993, S. 21.

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(と「ボール紙の人形J)について詳細に考察しているが、「レース (Filet)Jへの注目度は

針に比べ非常に薄い。シュテファン・シェーラーはクレーマーの針に関する解釈を踏まえ

た上で、同様に針に関する解釈を述べているが、しかしながら、彼も並行して述べている

編み物道具やフイレレースの網を、別段針に対立する存在とは見なしていない。ミュステ

ィリス王女を元の姿に戻す役割は、レース網ではなく針であったという事実が触れられて

いる程度である。これらの先行研究に対して、本論ではあくまでも編み物道具と針が対照

的な存在として描かれているという点に重きを置いて考察を進める。

1.フィレレース

ホフマン自身がその物語を「カプリッチョ (Capriccio)J、つまり狂想曲と称する日に相応

しく、『プランピラ王女』は実にさまざまなエピソードの片々によって構成されている。序

文に指摘されているように、「真剣にもったいぶった顔つきで解剖Jし、『作者が知織をそ

こから得たと思しき出典の一つ一つを入念に言及J13することはやめ、無鉄砲で気分任せに

楽しむことが実際《正当な読み》なのかもしれないことは考慮に入れておかねばならない

が、しかしながら、一見全くの戯れで挿入されたとしか思えないモチーフやエピソードが、

物語を進める上で実に巧妙に、意外な伏線となっていることは注目に値する。今回考察す

るレースを編むという動作、またそれによって生み出された網と、これに対応する形で登

場する針もまた、このように隠された形で物語全体を貫くモチーフであると考えられる。

本論に入る前に、本章で問題とする「レースJr編むJといった言葉の定義について考え

ておく。本稿では先行のいくつかの翻訳書14を緩みた上で、「レースを編むJrレース編み道

具Jという日本語を使うが、ここにはドイツ語と日本語における言葉のニュアンスの隔た

りが大きく存在する。まず、一般的に我々がレースと言われて想像するような服飾品や工

芸品一一白く細い糸で華やかな模様が形作られた繊細な装飾物ーーにあたるドイツ語は普

通 rSpitzeJで表されることが多い。しかしこれから挙げる本作品の中の例で『レースJと

して釈されている元の単語は、ほとんどが rSpitzeJではなく rFiletJという耳慣れない用

語である(何よりも、フィレと言われて大多数の人がまず思いつくのはフィレ肉だろう)。

だが rSpitzeJという単語が本作品の中で全く使われていないのかというと、そういうわけ

日 Vgl.Hoffm副m,Prinzessin Brambilla, S. 829. 日 Ebd.,S. 769. 14深田甫訳 (Wホフマン全集J(8)所収、創土佐、 1971)、前川道介訳 (fドイツ・ロマン派

全集~ (3)所収、図書刊行会、 1983)、穂村季弘訳(筑摩書房、 1987)、大島かおり訳(光

文字士、 2015)の四つの訳本を参考にした。

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ではない。第一章においてジャチンタが縫い上げていたドレスや、ジーリオが身に付けて

いた服の襟についての説明においては、 rherrlicheSpitzenJ r der SpitzenkrauseJ rSpitzenkragenJ

というようにこの単語が使用されている。また、第四章におけるジャチンタの「彼女の小

さく白い指が触れる全てのレースはみな愛の網に、彼女が結ぶリボンというリボンはあな

たがたを捕える畏へと変わるのですJ15という台詞における「レースJも、原文では rSpitzeJ

である。日本語に訳した場合は、どちらも単なる「レース』という表現で統ーされかねな

いこの rSpitzeJ と rFiletJ という二つの単語であるが、 rSpi回 Jとは別の言葉で表されて

いる rFiletJ とは、一体どういうものなのであろうか。

一言にレースと言ってもその歴史は古く、原型となる技術は紀元前から発明され用いら

れていた。現在イメージされるようなレース、つまり、地布から解放された、糸のみで構

成される装飾性の高いものが誕生したのは、 ¥6世紀半ばのイタリアとされている。イタリ

ア発祥のレースだが、特にルイ十四世の統治下、コルベール時代以降その中心はフランス

へと移っていき、 r17世紀後半のヨーロッパではポワン・ド・フランス(フランスのレース)

という名称がレースの代名詞のようになっていたJ叱現在服飾関係の用語は英語とフラン

ス語のものが多いが、 rFiletJ もフランス語由来の用語である。レースのジャンルは主とし

て大きく手編みレースと機械レースに分けられるが、手編みレースの中でも使用する道具

によって個別に呼び名が分けられている。有名なのはニ一ドル(・ポイント)・レース、ボ

ビン・レースなどだ。ニ一ドル・レースは名前の通り縫い針を使って作られるもので、刺

繍の伎法をベースに生まれたものである。ボビン・レースは、円筒形のピロー(枕)の上

に型紙を置きピンで固定して始点とし、糸をまかれたボビンという木製の道具を交差して

いくことによって編むレースだ。そして今の日本人がレースを編むと聞いてその工程を思

い浮かべるのに一番たやすいであろうものが、クロッ、ンェ・レースなどといった、主に鈎

針やレース針(鈎針より細いもの)で編むタイプのものである。 17 そして本論で問題にな

るフイレレースもここに含まれ、主にレース針と目板という平たい棒状のものを使って編

んでし、く。語源的に説明するならば、 rFiletJはフランス語で「網Jを意味し、漁網と閉じ

技法で編まれることからこう呼ばれる。 ¥8世紀末から ¥9世紀初頭に刊行されたアーデルン

15 Ho汀m聞 n,Prinzessin Brambilla, S. 846. 16飯塚信雄『手芸が語るロココレースの誕生と栄光』中央公論社、 ¥990年、 25頁。

17他にもタティングレースといって、シャトルと呼ばれる小さな舟型の糸巻きを使うもの

や、 U字型の器具を用いて編むへアピンレースなどといったものがポピュラーである。鈎針

はそもそも毛糸などの太い糸を編むための道具であったが、現在日本では区別なくレース

編み用にも使用されることが多い。我々が書庖で目にするレース編み関連の本は、ほとん

どこれらのタイプのレースと言って良いだろう。

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グ(JohannChristoph Adelung)の辞書にも同様にフイレレースの項でこの旨が記載されてい

る。 11 フイレレースでは、漁網状の四角が紫がったレースの土台の上に様々な技法で模様

を作っていくことで、装飾性の高い作品を生み出すことも可能である。ちなみにレースを

「編む」と表現しているが、厳密に言えばここにも注釈が必要となる。フィレレースのよ

うな網状のものを作る技法は、専門的に言えば「編む(ぬlitting)Jというよりも『結ぶ

(Knotting) Jと呼ぶ方が正確だという。"その上、このように幅広い意味を含む日本語の

「編むJとb、う言葉を中国語や英語、 ドイツ語で釈す時には、さらにその言語によって場

合に応じての使い分けが多岐にわたるため、問題は一筋縄ではいかない。また、『プランピ

ラ王女』の中で見れば、フイレレースを「編むJと日本語で釈される動詞の部分は、 ドイ

ツ語の rwebenJや rstrickenJなどではなく、ほとんどの場合において rmachenJが使用さ

れており、直訳すれば「フイレレースを作るJという表現になる。 20 しかし以上の留意点

を踏まえた上で、一般的用法に倣い、以下ではレースを作ることに関して「編む」という

動詞を用いて論を進めていくことを断っておく。

では、なぜホフマンは rSpi回 Jと rFiletJをあえて作中で使い分けていたのか。ファッ

ション用語である Filetをわざわざ用いているあたり、そこには何か確固たる理由があって

もおかしくない。最初に rFiletJという言葉が登場するのは第一章である。ジャチンタと喧

嘩別れする前、ジーリオはピストーヤ宮に向かう奇妙な仮装行列を目墜するが、そこでは

行列に参加している十二人の馬上の女性たちについて、全員せっせとフィレレース編みを

している徹子が描かれている。

素晴らしい腕輪で飾られたこれらの腕の、見事なふくよかさと美しさは、そのガウン

の下に絶世の美女たちが隠されているに違いないことを示していた。のみならず、馬

上の一人一人はみなせっせとレース編みをするのに余念なく (Uberdem盟 E睦 aberauch

jeder官itend 田hremsig~、そのための大きなピロードのクッションが馬の両耳の聞に

鋸え付けであった。 21

11 V gl. http://woerterbuchnetz.de/cgi・binlWBNetzlwb別i-py?sigle=Adelung&lemid=DFO1328, am 18.1.2016.

19石井照子、山村明子、多田牧子『結ぶ・編む・組む・織る・繍う一一絵を見てわかる糸

の手仕事』建帰社、 2014年、 1-5頁。

20ただし、作中の持 (Hoffm釦 n,Prinzessin Brambilla, S. 861 f.)の中の「妖精たちのやさしき

手の編みし網Jというフレーズは原文ではNetzen,/ Die Feenkunst mit zarter Hand gewobenで

あり、 webenが使用されている。

21 Hoffm飢 n,Prinz,回'sinBrambilla, S. 781.

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この行列を目にした頃から、ジーリオは「寄る辺なく驚異の網に絡まってJ22いくのである。

次は第三輩、主人公を導く香具師チェリオナーティが、ドイツ人芸術家ラインホルトたち

を前にして、カフェ・グレコの中で一席ぶつシーンでのこと。チェリオナーティの語るの

は、この世界のどこかにあるとされる「ウルダルガルテン国物語(ウルダル庭園園、 dasLand

U吋argarten)Jでの物語。 23その中で、母なる自然との調和を心から失い憂穆症に陥ったオ

フィオッホ王は、隣国のリリス王女を要るのだが、なぜが彼女は笑ってばかりでオフィオ

ッホ主をますます苛立たせる。そんなリリス王妃が喜んで行う唯一の行為がレース編みで

あった。

ところで王女が本当にやる気があって愉しんでいた唯一のことは、女官たちに固まれ

てレースを編むこと CEi1etzu m配 hen)で、その女官たちも同じようにレース編みをし

なければならなかった。剖

その後オフィオッホ王は、森の中で伝説の魔術師へルモートから啓示を受け、城へ帰った

のちに「思想は直観を破壊した (DerGω飢 kezerstorte die Anschauung) Jという謎めいた言

葉を黒い大理石板に金の文字で刻ませる。そこへリリス王妃もやって来るのだが、その一

文を呼んだ途端、主を不快にしていた笑い声はやみ、やがて二人は長い眠りへと落ちるの

である。彼らが目覚めたとき、予言通りへルモートが現れ、神秘に満ちたプリズムが溶け

た泉を誕生させる。玉と王妃は泉を覗くことで自己と世界を認織し、チェリオナーティの

語る物語は幕を閉じる。

フィレレースの特徴は、なんといってもその名前から分かるように、漁網と同じような

網目にある。『プランピラ王女』の中でも「フィレレースの網 (FiletNetz) Jは重要なキーワ

ードだ。第五輩、ウルダルガルテン国の続きを宮殿の中で話す老人(彼はかの奇妙な行列

の一員である)の周りの風景は以下の通りである。

22 Wolfgang Nehring:めdtromantikerEichen必ず削dE.T.A. Ho.,仰'ann.Gottingen: Vandenhoeck

und Ruprecht, 1997, S. 176. お多くの研究者が、この掃入されたウルダルガルテン国物語に本作品の中心理念や核とな

るモチーフを見出している。例えばプライゼンダンツは、このウルダルの泉の物語が、フ

モールの仲介的なカを証明する神話と見ている。 Vgl.Wolfgang Preisendanz, Humor als dichterische Einbildungs/aψStudien zur Erzlihl,抑 制despoetischen Realismus, S. 51. 24 Ho節nann,Prinzessin Brambilla, S. 819.

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そのまわりを半円形に取り囲んで座っているのは、百人ほどもいるだろうか、妖精の

ように素晴らしく美しい貴婦人たちで、衣装のほうも、妖精ならではのふんわりと豊

かで軽やかな豪華さだ。みんなせっせとレース編みをしている (Allemachten sehr emsig

Filet) 0 25

この女性達に固まれて話す老人の物語はチェリオナーティが開陳した先の物語とリンクし

ており、オフィオッホ王亡き後のウルダル国での出来事が語られる。その頃ウルダルの泉

はすっかり織れ、人々の心は荒んでいた。困り果てた大臣たちの前に、漣の花の中から登

場するのがミュスティリス王女である。王女は誰にも理解できない言語を話し、まわりを

当惑させるが、偽の魔術師の予言によって、隠されていた象牙細工の小箱の中にあった編

み物道具 (Filetzeug)を手にした途端、普通の言葉を話し始める。しかしそれと同時に王女

は陶器の人形 (PorzellanpUppchen)へと姿を変えてしまうのであった。

ウルダルガルテン国に帰ると、彼ら(大臣ら)はオフィオッホ王とリリス王妃が¥3掛

ける 13カ月を目黒って過ごした広間へと即刻向かい、床の中央にはめ込まれた黒い石を

持ち上げると、奥深くの地面に、全く見事な彫刻が施された美しい象牙の小箱 (ein

k1eines gar herrlich g田 chni回 sKastchen von dem schonsten E1fenbein)を見つけた。彼らが

それ(イタリックは原文"7"7)をミュスティリス王女の手に渡すと、彼女はすぐさま小箱

の仕掛けのパネを押し、議がぽっと開いて、小箱の中にあった可愛らしい素敵なフィ

レレース編み道具 (dashUbsche zierliche Fi1etzeug) を取り出すことができた。しかし彼

女は編み物道具を手にするやいなや、歓ぴを前に突如大声で笑いだし、その時完全に

はっきりと聞き取れる言葉でこう言った。「おばあちゃまがこれを私のために揺りかご

へ入れてくださったのよ。でもあなたたちならず者がその宝物を私から盗んだんだわ。

森でヘマをしでかさなければ、あなたたちはこれを私に再び返してくれることはなか

ったでしょうね!Jすると王女はすぐさませっせとレースを編み始めた。大臣たちが

すっかり嬉しくなって、今にも一同揃って歓ぴに跳びはねようとしたそのとたん、突

然王女は硬直し、可愛らしい小さな磁器の人形 (Porzellan-PUppchen) の姿へと縮まっ

てしまった。 26

25 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 856. 26 Ebd., S. 862f.直接的にフイレレースに関連する事柄ではないが、ここであまり先行の研

究では触れられてこなかった磁器人形 (Pozell叩 ・ PUppchen)について少し述べておきたい。

陶機器と聞けば、まず食器や査などの実用的なものをイメージする人が多し、かもしれない

10

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が、磁器製の人形も、それと同様にメジャーな陶磁器製品の中の一つである。 ドイツのマ

イセンやスペインのリヤドロといったブランドは世界的にも名高く、現在では日本におい

ても多くの人気を集めている。特にマイセンは、『プランピラ王女』の中でも重要な役割を

果たしているコンメディア・デッラルテのキャラクターを模した人形を長きに渡って生産

していることで有名だ。陶磁器という言葉には陶器も磁器も含まれているが、磁器はカオ

リン(高嶺)土を多く含んだ素地に納をかけ、高火度で焼成するタイプのもので、白磁が

生まれたのは六世紀後半の中国においてのことである。ヨーロッパでは、大航海時代以来、

中国や日本の磁器がその美しさ、希少性や神秘性のために王侯貴族にもてはやされた。当

時のヨーロッパではまだ磁器の製法が知られておらず、わずかに 16世紀にメディチ家のフ

ランチェスコ一世によって作られたものが現存するばかりであるが、しかしメディチ磁器

と呼ばれるこの器もまた、カオリンを含む硬質磁器とは区別されるべき代物であった。 17

世紀に入ると、東洋の膨大な磁器がポルトガルやオランダ、イギリス等の舟でヨーロッパ

へ運ばれ、各地でそのコレクションを壁面いっぱいに飾り立てる「磁器の間Jが流行する

のであるが(大平雅巳『西洋陶磁入門』岩波新書、 2008、 149~ 17l頁)、この世紀にマイセ

ン磁器も誕生する。ザクセン侯とポーランド国王を兼ね、アウグスト強王と称されていた

フリードリヒ・アウグスト一世(1670・(733)のもと、 1709年にドイツ人ヨハン・フリード

リヒ・ベドガー(1682-1719)が白磁を発明したのがその始まりである(長谷部楽爾『世界

やきもの史』美術出版社、 1999、 29・42 頁、 133~143 頁)。中でも、ヨハン・ヨアヒム・ケ

ンドラー(1706-1775)、ベーター・ライニッケ(1715-1768)、ヨハン・フリードリヒ・エパ

ーライン(1695・(749)、フリードリヒ・エリアス・メイヤー(1723・(785) らマイセン工房

の塑像家たちは、コンメディア・デッラルテの磁器人形を、当時流行した優雅なバロック・

ロココ調でもって数多く生み出した。 1710年には既にコンメディア・デッラルテの人形が

作られていたとあるから (MeissenerManuskriple. Hrsg.von Uwe Bezer, Sonderheft 5: Harlekin

& Arlecchino: Figuren der Commedia dell'arle in Meissener Porzellan. Dresden: Staatliche

Porzellan・ManufakturMeissen, 1994, S. 4)、このイタリアの即興芝居を作品に取り入れたホフ

マンが、 7 イセンの芸術品からヒントを得てミュスティリス王女を磁器人形に変えること

を思い付いたとしても不思議ではない。特に、これらマイセンの磁器人形が、ジャック・

カロら銅版画家のイラストを見本に作られていたことは注目に値する (Ebd.,S. 4)。また、

磁器はもともと東洋からの舶来品であったと述べたが、『プランピラ王女』の中では磁器人

形の他にもオリエンタルな世界を匂わせるモチーフが数多く登場する。第一章の奇妙奇天

烈な行列の中にはムーア人が参加し、プランビラ王女はエチオピア、そしてキアッペリ王

子はアッシリアから来駕したのだと述べられている。また、ウルダノレガルテン国物語自体

はその名前や泉のモチーフから北欧神話を元にしていることが窺われるし (Ygl.

Strohschneider-Kohrs, Die romanlische lronie in Theorie und Geslallung, S. 373)、本給で考察する

レース編み道具や縫い針が入っていたのは、当時においても高級な舶来品であった象牙製

の小箱である。キアッベリ王子(=ジーリオ)の祖国 (Yaterland)が字義i湿りのエチオピア

を意味しているのかどうかには議論の余地があるのと同様に (Ygl.Strohschneider-Kohrs, Die

romanlische lronie in Theorie und Geslallung. S. 381)、他のモチーフに関しでも、貫主要なのは言

及されている場所の実際の地理的な問題等ではないだろう。異国的な存在がメルヒェンの

中にファンタジー性をもたらすキーをなっていることをここでは強調しておきたい。

I1

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『プランビラ王女』の中ではその折々に、実に意味ありげな宣託やお告げ、詩が導入され

ている。それは時に霊長場人物たちの行動の指針を示す謎解きでもあり、またこの作品の重

要な線源的思想が誠われたポエムでもある。ここでその一例を見てみたい。第五章におい

て、意味の分からない言葉を喋るミュスティリス王女を何とかしようと苦心する大臣らに、

魔術師へルモートの偽物である魔神 (Damon)テュフォン27は次のような宣託を言い渡す。

H音き広聞に黒き石ひとつあり、/そこでかつて玉と妃は眠りにとらわれ/沈黙の蒼白

な死を額と頬におびて、/魔法のお告げの力強き響きを待ちわびていた!

そしてこの石の下深くに極められたるは/花より生まれしミュスティリスに/あらゆ

る生の歓びを与えるべく選ばれし/彼女のために照り輝く、世にも妙なる贈り物

その時色とりどりの烏は捕らえられる/妖精たちのやさしき手の編みし網 (Netzen,

IDie Feenkunst mit zarter Hand gewoben)によって。/目くらましは去り、霞 (dieNebel)

は四散し、/敵みずからも死に至る傷を負うほかない!…(賂)28

最初の広聞や贈り物に関しては、第三章でチェリオナーティが聞かせた物語の中の出来事

と対応しており、大臣らはそのお告げ通り光り輝く贈り物、つまり先ほど引用した、象牙

の小箱の中のレース編み道具をミュスティリス王女に渡してしまうわけである。そして「色

とりどりの烏が網に捕らえられるJという言葉は、物語内物語、すなわちこのウルダルガ

ルテン因物語の時間と場所の次元を超えて、ジーリオたちのいるローマでの現実について

予告していることが次の展開で明らかになる。ウルダルガルテン物語を老人が語り終える

と、美しい婦人たちはこれもまた物語の重要な核になりうる詩を朗目前し、そこにいたジー

リオを先ほど述べられた「網Jにより捕獲する。この網こそは、先ほどまで婦人たちがせ

っせと作っていたフィレレースで出来たものである。その後登場するチェリオナーティは、

ジーリオはn鴨の黄色い鳥J(Gelbschnabel)として捕まえられたのだとあざ笑うのであるが、

その実、ジーリオは鳴の黄色い烏=未熟者であると同時に、持の中で詠われた「色鮮やか

な烏J(der bunte Vogel)でもあるのだ。ここで第五章のはじめ、ジーリオが宮殿に忍び込む

前にベスカ}ピ親方のもとへ押しかけ、派手な衣装を身にまとうシーンが生きてくる。

27 テュフォン (Typhon:テューボーンなどとも)は、ギリシア神話に登場する巨大な怪物。

ここでもホフマンは異国の神話の中からキャラクターを採っている。

28 Ho節nann,Prinzessin Brambilla, S. 861 f.

12

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そう言うと親方は、最高に豪華でこの上なく素晴らしい服ばかりを吊るしである衣装

棚を開いた。ジーリオはすぐに一着の申し分ないひと揃えの服を自に留めたが、これ

は実際、異様に色とりどり (seltsameBundheit)なせいでいくぶん奇抜に見えはするも

のの、実に豪勢である。 29

ここにきて、「次第に挿話の中の出来事が本文のローマの出来事の中へと実際に滑り込んで

来J、「ローマの位相と帰話の世界の位相Jとが「震なり合い始めj るのである。 30 また、

ジーリオがこの「色とりどりの烏Jであることは、第一輩、彼が登場するシーンにもそれ

となく述べられている。

彼の身なりは奥様としか言いようがなさそうだ。というのも、身につけている一つ一

つのもの自体は、色といい仕立てといい、非難すべきところはないものの、しかし全

体としてはまったく調和が取れておらず、どぎつく目立つ色と色の戯れ (eingrell

abstechendes FarbenspieI)といった観を呈しているのだ。 31

そしてこれを機に((反省》したジーリオは、色鮮やかな烏に間違えられた「ばかげた仮装

(abgeschmackter Mummerej) J 32を脱ぎ捨て、コンメディア・デッラルテ風の衣装に袖を通

す。その時の台詞が次のものである。

そうだ、そこに中身を失くして横たわっている馬鹿みたいに不恰好な化け物、それが

僕の自我なんだ。そしてこの王子の服は、暗黒の魔神が鳴の黄色い烏(訳注:ジーリ

オのこと。ここでは主人公の自我は分裂し、彼はコルネリオ王子になりきっている)

から盗んで僕に着せたもので、あの絶世の美女たちが不幸にも煽されて僕をその黄色

い噴だと勘違いするように仕組んだんだ!33

このように、「網Jは烏=ジーリオを捕らえ、チェリオナーティのお膳立て通りに《改心》

29 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 853. 30亀井伸治 wrすべてはいま見出されているJ-E.T.A.ホフマン『プランピラ王女』 の時

間構造』一、早稲田大学大学院文学研究科『早稲田大学大学院文学研究科紀要』第2分冊 (45)、

1999、125・¥35頁、 128頁。

31 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 775. 32 Ebd.. S. 867.

3J Ebd., S. 868.

J3

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させる上での軍要なアイテムであるとともに、魔神テュフォンによる民の象徴でもある。

また、第三章におけるウルダルガルテン因物語の前編でも、不気味な高笑いばかりするリ

リス王妃はレース編みばかりに気を取られているが、このような王を不快にさせる彼女の

在り方も、魔術師へルモートの r(…)私は怒りを鎮めた母上の、最も美しい贈り物をあな

たに持って来ょう。それはあなたの苦痛を至上の歓ぴに溶かし込み、その歓びを前にして

は、悪霊とし、う慈霊の中でも最も憎むべきやつが、あなたの奥方リリス王妃をかくも久し

く閉じ込めていた、あの氷の牢獄も溶け去るだろう J34という予言から、「悪霊という悪霊

の中でも最も憎むべきゃっ (derfeindlichste aller OaJnonen) J、つまり魔神テュフォンの影響

によるものであったことが怨像できる。しかし先のテュフォンの予言は、このような不吉

な意味だけを持っているわけではない。悲嘆に暮れる大臣たちの前に現れた本物の魔術師

へルモートは、彼らがテュフォンによって耳目され、「レースの小箱の不吉な秘密 (dasunselige

Geheimnis des Filetkastchens) Jを呼び出したことを叱略すると同時に、「しかし彼(テュフォ

ン)は、自業自得なことに、意図した以上に真実を語ってしまった」という台調を口にす

る。「妖精のようなご婦人方の華容な手がレースを編めば、色とりどりの鳥は捕まるかもし

れないが、本来の謎をよく聴くが良い、これが解ければ、王女の呪縛も解かれるのだから1

3S 本来の謎」とはどういう意味であろうか。この謎解きは本論次章にて行いたい。

最後にレース網のモチーフが登場するのは最終章である。パンタローネ・キアッペリ王

子(その実ジーリオ)は、自分こそが「レースの績に捕らえられるべき、本物の色とりど

りの烏 (dereigentliche bunte VogeJ) J 36ではないかと述べる。その後、やはり先ほどレース

を編んでいた貴婦人たちによって投げかけられたレースのベール (Filetschleier)に王子=ジ

ーリオと、玉女=ジャチンタはぎゅうぎゅうと絡め取られ、最後には深い夜の聞へと覆い

隠される。しかしそのレースの覆い (dieNebeld田 Filets)が解け落ちると、場所はいつの聞

にかピストーヤ宮へと移動しており、ここに至って、貴婦人たちはもうレース編みをして

いないことがさりげなく触れられている。

このように、物語の中ではレース網が主人公らを捕らえるアイテムとしてところどころ

に笠場していることが分かる。いくつかの日本語訳でレースと訳されている Filetは、 Netz

の機能を重視してむしろ網目細工、もしくは注釈をつけた上でフィレレースと訳出した方

が適切かもしれない。

さて、このレース網 (Filetnetz)について考える時、そこに「陥れるJという意味合いを

34 Ebd., S. 821. 3S Ebd., S. 864. 36 Ebd., S. 902.

14

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取ることはさして難しいことではないだろう。「現代ヨーロッパのほとんどの言語では「陰

謀jや「策謀j を行うことを「織るj とか「紡ぐJという動詞を使って表現しているJ37と

いうマイケル・ファーパーの指摘を倹たずとも、 ドイツ語、日本語、その他の言語におい

て、網を編む行為には「畏にかけるJという意味合いの用例が多くみられる。魔神テュフ

ォンにそそのかされた大臣らによって、編み物道具を手にしたミュスティリス王女が陶器

人形に変えられる事件は象徴的である。一方で、網自体は最終章において二人をピストー

ヤ宮殿にいわば移動させるための道具としても使われているので、完全にネガティヴな存

在として用いられているわけでもないようだ。実際に、種村はこのレース網がジーリオを

天上界へ導くためのアイテムと読み解いている。 38以上のように、レース網は何かを拘束

し、時にはそれを民にはめるものの象徴として、そして編み物道具はそれを生み出すもの

として物語に登場していることが分かる。また、網が重要な役割を果たす他の物語として

は、ホフマンが本作品でも一部そこからモチーフを汲んでいるギリシア神話が挙げられる

だろう。へパイストスの網がそれである。ゼウスとへラの息子で、ギリシアの鍛治の神で

もあるへパイストスは、妻アプロディテと愛人アレスの浮気現場を捕らえるために、目に

見えない鎖の網をこしらえる。そして妻と愛人が床に入り横になった途端、その網によっ

てまさに二人は「ぎゅうぎゅうと絡め取られ」、身動き一つ取れなくなってしまうのであっ

た。正式に結婚することになるジーリオとジャチンタが繊細なレースの網に縛られるのと

は対照的に、愛人関係であるアプロディテとアレスは頑強な鎖の網に鰯め捕られるのであ

る。 39

2.針

前章では、主にレース網がb、かなるシーンで登場し、どんな役割を担っているかについ

て考察してきた。一方で、これに対置されるべきアイテムとして登場するのが「針 {Nadel)J

である。フィレレース編みの場合も、レース用ニ一ドルといった棒状の道具を使用するた

め、「レース編み道具 (Filetzeug)Jと「針 (Nadel)Jは同じ象徴性を持っていてもおかしく

ない。しかし本作品の中では、針と編み物道具は厳密に区別されており、ラストシーンで

37 "7'イケル・ファーパー『文学シンボ‘ル事典』植松靖夫訳、東洋書林、 2005年、 15頁。

38種村季弘『詐欺師の勉強あるいは遊戯精神の締惣一一種村季弘単行本来収録論集』幻戯

書房、 2014年、 62-72頁参照。

39 このエピソードに関しては、以下のテクストを参考にした。ホメロス『オデュッセイア

(下u松平千秋訳、岩波書応、 1994年。ちなみに、北欧神話では、海の神エーギルの妻ラ

ーンが、同じように網のアイテムを持っている。この網で、ラーンは船乗りたちをすばや

く捕らえ、海底に引きずり込む。

15

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の小箱の中身の相違はそれを際立たせている。

王家のあのカップル、つまりコルネリオ・キアッベリ王子とプランピラ王女の背後に

は、たいそう彩り豊かな長衣に身を包んだ、小柄な男が立っていて、きれいな象牙の小

箱 (einsaubres Elfenbeinkastchen)を両手で持っていた。小箱の蓋は開いていて、中に

はキラキラ光る小さな縫い針一本 {einekleine funkelnde NahnadeOの他には何も入って

いないが、男は朗らかな微笑みを浮かべて、その針をじっと見ていた。 40

このように、中に入っていた編み物道具でミュスティリス王女を陶器人形に変えてしま

った象牙の小箱は、第八章において再び登場し、しかもその中に入っているのは『一本の

キラキラ光る縫い針Jに変わっているのである。この針が気まぐれに登場したアイテムで

ないことは、ヒロインのジャチンタや物語の立役者となるべスカーピ親方が、「お針娘

(Putzmacherin) Jや「仕立屋 (Schneider)Jという職業であることからも想像できる。物語

の導入部でジャチンタは針で指を刺してしまい、注文のドレスに血と油を務とすが、その

シミはいくら探しでも見当たらない。 41 ドレスの神秘性、ひいては物語のファンタジー性

を始めに示すアイテムとして針は早速活隠しているのである。

では針はこのいかなる意味を持っているのだろうか。まず、「縫い針Jではなく単なる「針J

と言うとき、そこには作者の創作原理を支えたカロのエッチング(銅版画)の針の意味が

同時に浮かび上がってくる。ジャック・カロ(JacquesCallot, 1592・1635)は、 17世紀初頭、

バロック時代に活隠したロレーヌ生まれの岡家である。とりわけ 20代を過ごしたフィレン

ツェでは、大公コジモ二世のもと、宮廷で催された祝祭や上演物を描いた作品を数多く残

した。カロの銅版画は『プランピラ王女』以前のホフマン作品にも大きな影響を与えてい

る。 1814年に出版された『カロ風幻想作品集』において、ホフマンは「ジャック・カロj

というタイトルのもとに独立した論考を掲載し、以下のような言葉でカロを称賛している。

なぜ僕は、あなたの一風変わった幻想的な絵を一枚一枚見飽きることがないのでしょ

う、いなせな巨匠よ!ーなぜ僕は、たいていほんの二三本の大胆な線で暗示されたに

すぎないあなたの造形物が忘れられないのでしょう?

(...)

40 Ho汀inann,Prinzessin Brambilla, S. 903f. 41

Ebd., S. 773.

16

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b 、かなる巨匠といえども、カロように、小さな空間いっぱいに物をぎっしり詰め込む

ことはできない。それも、見る者の視線が混乱しないように並べて、その上それぞれ

が目立つようになっており、その結果、個々のものは個々のものとしてそれ自体存在

しながらも、それが全体に加わっているのだから。 42

ホフマンが文学のみならず音楽や絵画にも造詣が深かったことは周知の事実である。そん

な彼の怨像力は、「視覚的に凝結させられた現住の瞬間を捉える具象的な画像の世界を溶解

し、流動化し、そこから過去のモチーフ、そして未来のモチーフまでも展開させることに

よって物語を成立させ、文学的な具象性を獲得するJ43ことを可能とした。カロの『スフェ

ッサーニアの踊り~ (Balli di排lIsania,1622) という連作版画集を 44歳の誕生日に送られた

ホフマンは、その中から八業を選ぴ、知り合いの版画家ティーレに模写させたものを『プ

ランピラ王女』の挿絵に据える。どれだけ彼がカロの銅版画を重視していたかは、本文を

読むだけでも祭することが可能だ。例えば物語冒頭に置かれた序文では、

[…]編者はしかし平身低頭して申し上げるが、どうか全体の基盤を為すもの、すなわ

ちカロの奇想天外な戯画連作から絶えず目を離されず[...]制

という断りが述べられ、物語を陰で操るチェリオナーティもまた、フィクションという

舞台を超えてカロの挿絵について時に言及する。

それにしても、もしカロ画伯が一役買って、ジーリオ、君の立役者の舞台衣装から君

という人物をひねくりだしてくれなかったとしたらー柑

また、五章、ウルダルガルテン国(続編)の物語終了後では、貴婦人たちが詠む音寺に「こ

の王国の扉を開くのは巨匠のすばらしい針 (diewunderbare Nade1 des Meisters) J 46というフ

レーズがあり、この五章の待のリプライズとなる最終章の歎においても『巨匠の奇跡の針

42 E.T.A. Ho陥 lann:Fantasie・ 捌dNachtstfJcla. Hrsg. von MUller-Seidel, MUnchen: Winkler, 1976, S.12. 43西村美絵子 rE.T.A.ホフマンの文学と絵画一特にジャック・カロとの係わりからーJ関

西大学独逸文学会『独逸文学J(31)、 1987、1・30頁、 10頁。

制 Hoffinarm,Prinzessin Brambilla, S. 769. 4S Ebd., S. 911. 46 Ebd・, S.865.

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(WundernadeI)が王国の鍵を開けたのだJ47という同様の表現が見られる。ここで述べら

れている「巨匠の針j こそ、後述する、物語をつなぎ合わせるべスカーピ親方の縫い針で

あると同時に、『プランピラ王女』の着想の源を提供したカロのエッチングの針であると考

えられるのではないか。実際に大島かおりは『プランピラ王女』の自身の釈の中で、第五

章に見られる "diewunderbare Nadel d田 Meisters“という表現を「巨匠のすばらしいエッチン

グの百ルJ柑と訳出している。ついでながらエッチングとはいわゆる「腐蝕法』で制作され

る銅版画のことを指す。鋼板の表面に防蝕弗u(これはグランドと呼ばれる)を塗布して乾

燥させ、薄い防蝕膜を作り、この上にニードルなどで描画すると、その部分のみグランド

が削り取られて銅が露出する。あとは酸溶液に浸けて銅を腐蝕されることによって寝みを

作り、そこへインクを詰めて刷れば完成だ。 49特にカロはエショップというナーデルを愛

用し、一本の中で抑揚のある線をつくり出した。 50

続いて直接的に縫い針と関係する衣装の面から、この小道具の役割の意味を考える。先ほ

ど述べたように、物語はジャチンタがベスカーピ親方から請け負った豪勢なドレスを縫っ

ている針仕事のシーンから始まるのだが、ここでジーリオよりも一足早くジャチンタの王

女への変身がにおわされている。きらびやかなドレスが似合っていると言われ、まんざら

でもない彼女は、あれよあれよという聞にベアトリーチェ婆さんにドレスを着せられてし

まう。そして不思議なことに、王女に俸げられるのであろうとも恩われたそのドレスは、

お針娘であるジャチンタの体に驚くほどフィットするのである。

しかし今やこの少女にその華麗な衣装を着せてみると、まるで目に見えない精霊が手

助けしてくれているようであった。すべてはしっくりと姿に適い、一針ー針の縫い目

Uede NadeI)がたちどころにぴったりとおさまり、どの援もおのずと整って、この衣

装がまさにジャチンタ以外の誰かのために銚えられたとは思えなかったほどである。引

その直後登場するジーリオは、このドレスを着たジャチンタを見て、夢で逢った女性を思

い起こす。「はっ!何を僕は見ているのかーまたしても僕をたぶらかす夢か?ーいや!これ

ぞ神々しい彼女その人だ一大胆な愛の言葉で思い切って彼女に語りかけてみょうか?ー王

47 Ebd., S. 905. 柑E.T.A.ホフマン『くるみ割り人形とねずみの王さま/プランピラ王女』大島かおり訳、

光文字士、 2015年、 336頁。

49重野克明「銅版画廊蝕法と直3司法の制作JW版画進化する技法と表現』所収、文遊社、

2007年、 51-86頁参照。

50菅野陽『銅版画の技法』美術出版社、 1962年、 108頁。

51 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 774.

18

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女さまーおお、王女さま!Jo 52そして同時にジーリオがプランピラ王女に会うための必要

条件とされたのも、彼のコスチュームであった。夢で見た女性に会うために、ジーリオは

チェリオナーティから身に着ける衣装の指示を受ける。しかしその老人の指定する道化じ

みた奇怪な扮装に耐えられなくなったジーりオは、せめて「すらりとした柱脚j は見せよ

うと、「真紅の繍の入ったきれいな空色の絹のズボン」に「蓄積色の長靴下Jr深紅の軽や

かなリボンが付いた白い靴J53を身に着け通りに出ていく。結局そのせいで、彼は王女の「上

半身Jにしか会うことができない。彼女が全身の姿を現したのは、ジーリオが「二本の長

い雄鶏の羽で飾られた珍妙な帽子j、「放持極まるどんな浮かれ切った鼻をもしのぐほどの、

たいそう長くとがった鈎型の赤い鼻を付けた仮面J、「ブリゲッラのものに似ていなくもな

い大きなボタン付き胴着j、そして『幅広い木製の責IlJ54というコンメディア・デッラルテ

風の衣装に身を包んだ時だったのである。

コンメディア・デッラルテは、即興芝居を売りにしたイタリアの仮面喜劇だ。 16世紀後

半に完成した形態となり、各地で人気を博したが、 18世紀には衰退した。その台本はいつ

も大筋しか決まっておらず、役者逮が即興で物語を演じるのが最大の特徴である。すべて

の役柄は大まかに基本的性格が決められていたが、「それぞれの役の科白は役を演じる役者

の創意工夫にほとんど全面的にまかされ」日ていた。ホフマンは、カロの絵にあったキャラ

クターの様子を文字にそのまま起こし、それをジーリオやジャチンタに当てはめた。 56 ま

た、物語の中ではこのイタリア喜劇がジーリオたちの今後を示す青写真にもなっている。

第二章の中で、劇場をクヒ'になった傷心のジーリオが観るパントマイム劇lがそれである。

「金持ちの老人パンタローネの魅力的な娘コロンピーナ」は、「ぴかぴかに着飾った騎士や、

52 Ebd., S. 775f.

53 Ebd., S. 788. 54 Ebd., S. 787f.

55 コンスタン・ミック『コメディア・デラルテ』梁木靖弘訳、未来社、 1987年、 18頁。

56 中村茂裕は、ジーリオとジャチンタの聞に「女性支配の構造Jが浮かび上がってくると

し、ジャチンタが「ホフマン的な意味における単なる市民の娘ではないこと、またロマン

派の女性像に見られがちな「偶像的J存在でもなく、むしろそれ以上の意味内容を付与さ

れた人物像であることが予想されるJとしている。中村茂裕 rE.T.A.ホフマンの『プラン

ビラ王女』一道化ジーリオ・ファーヴァと笑いーJ大阪産業大学学会『大阪産業大学論集

人文科学編~ (66)、1989、45・65頁、 62・63頁。ホフマンがそれを意図したかは別の穏だが、

実際にイタリア喜劇は「女性を舞台にあげるという改革」を成し遂げた。中世の頃は「女

性は例外的にしか舞台に参加することを許されず、参加するにしてもごく稀で、さらに脇

役とかアクセサリー(たとえば活人画など)のようなものに抑えられていた」が、 16世紀

中葉のイタリアにおいて、「女性が舞台を征服し、決定的に居すわるJことが可能となった。

コンスタン・ミック『コメディア・デラノレテ』、 180・182頁。

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賢いドットーレJの手を振り切って、きっぱりとこう宣言する。彼女は「兎にも角にもあ

の小柄で機敏な、たくさんのボロ切れを綴り合わせた胴着を着た男J、つまり「アルレッキ

ーノ」以外の誰も愛さないし、結婚もしないと。 57 ここではコロンピーナがジャチン夕、

アルレッキーノがジーリオを指している。アルルカン、ハーレクインとも称されるアルレ

ッキーノの見た目の簸大の特徴は、その色とりどりの衣装にあるだろう。コンスタン・ミ

ックは「アルレッキーノの衣装が他のザンニたちのと際立って異なるのは、そのみみっち

さによってである」とし、以下のように説明する。

というのも、彼の衣装はつぎはぎで出来ているのだ。ロ}マ時代の「ミセス・セント

ウンクルスJ(ボロ布のマイム)をJ恩わせるその服は、アルレッキーノの貧しさを表す

とも、彼の主人の強欲ぶりを表すとも言われるが、後年になると様式化され、同じ大

きさのさまざまな色の小さな三角布で構成されるようになった。 58

ぼろ布の継ぎはぎの服から、最終的には「様々な色」の「三角、またはひし形に形作られ

たコスチュームJ却を身に付けるようになり、その目立つ格好からか、現在においてもアル

レッキーノは他の道化より圧倒的に知名度が高いように思われる。このような端切れを縫

い合わせた一つの衣装を生み出すためにも、針は重要な役割を担っていると言えよう。

また、継ぎはぎという言葉と関連して、種村はジャチンタやベスカーピ親方が、「お針娘

や仕立屋のような、ばらばらの布をつなぎあわせる職人であるJという伏線を意味深長な

ものとし、 ドイツ語での『百面相をつくるJという慣用句が『顔面をばらばらに刻む (die

Gesichter schn(,;den) Jであることを指摘した上で、「彼らこそは虚無の淵で支離滅裂の夢想

に酔いしれていたジーリオをひとつの全体に織り上げ縫い合わせる、陰の演出家Jであっ

たと述べている。第七章、「俳優ジーリオを追いかけまわしているプランピラ王女Jになり

きっているジャチンタの次の台飼は、その事を裏付ける。

(…)あなたが憂愁の王子ぶるつもりでも、私にはあなたがみすぼらしいと仰るあの

役者の方が、ずっとかけがえのない人に思えますよ。あの人は今のところバラバラに

桜れている (auseinandergenommen)けれど、私が何度でも縫い合わせて(zusammennahen)

57 Hoffmann, Prinzessin Brambilla. S. 800f. 調コンスタン・ミック『コメディア・デラルテ』、 49頁。

59 Meissener Man悶 "crip館, S.4.

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あげられるんだもの。 60

自己の分裂というキーワードは、昼は判事、夜は小説家としてのこ量生活を送っていた

ホフマンにとって馴染みの深いものであっただろう。自惚れの強い一介の悲劇l役者であっ

たジーリオ・ファーヴァというアイデンティティは、不思議な行列と怪しい香具師に出会

ったのをきっかけに次第に揺るがされ、もう一人の自我、コンメディア・デッラルテの仮

装を愛するコルネリオ・キアッペリ王子を生み出していく。ついにはその自我がもう一人

の自分を倒したかに見えたが、それは「キアーリ附とかいう方の悲劇作品で演じた役がい

っぱいに詰まったJ61ボール紙の人形であることが判明し、ここでジーリオは長らく執効に

しがみついていた悲劇l性と決別するのである。しかしまだ彼の自我は内で統合されること

なく存在し続け、チェリオナーティはその状態を「慢性二元病 (chronischerDualismus) J 62と

呼んだ。彼の病は最終的にウルダルの泉を覗くことで快癒する。彼の自我は新しい《喜劇

役者ジーリオ・ファーヴァ》として止揚され、ここに至って自己の分裂という難題を克服

するのである。そしてそこまでの道を用意し、裏で活鼠していたのは、老チェリオナーテ

イは勿論のこと、仕立屋ベスカーピ親方、そして図らずもその結果を導いたジャチンタな

のである。先ほど挙げたいくつかの例とは別に、第四章において針が登場するコミカルな

シーンがある。悲劇作家キアーリ師に会い、「悲劇的パトスJ63に満ち溢れたジーリオは、

ジャチンタのもとへひざまずき、「僕のジャチン夕、僕の甘い命よ!Jと大仰に述べてその

手を取る。しかしその途端、ジャチンタは「痛みが情熱/受難 (p酪 sion) に不可欠な要素

であることを彼に気付かせるj“かのごとく、ジーリオの指に『深い針のー懲 (einentiefen

Nadelstich) Jをお見舞いするのである。痛さに跳ね困る恋人に対し、「ご存じのように、私

はそういう話を聞くのは好きよ。あなたがあのシニョール・キアーリ師にたぶらかされて

ーだからといって神様が師から永遠の祝福をお取り上げになりませんように!ーいまいま

しいお涙頂戴の激情に陥りさえしなければ、あなたの話はまずまず聞けるものですもの」“

と言い放つジャチンタは、自己の変身にかけてジーリオより一足先を行っていたようだ。

また、物語の最後では、はしゃぎまわるジーリオとジャチンタの会話から、縫い針の入

った象牙の小箱を持っていた男の正体が告げられる。

曲 Hoffmann,Prinzessin Brambilla, S. 900. 61 Ebd., S. 889.

62 Ebd., S. 893. 63 Ebd., S. 840.

“Kremer, Romantische Metamorphosen, S. 306. 6S Hoffinann, Prinzessin Brambilla, S. 843.

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わからないわけがないよ、愛しのジャチンタ。あれはまさしく創造の針 (schopferischen

Nadellを手にしたシニョール・ベスカーピその人だもの。“

ジーリオの言う、ベスカーピ親方の「貴IJ造の針Jとはいかなるものなのであろうか。そ

れは《ジーリオを一つに縫い上げる針))と同様に、具体性を持った単なる縫い針以上の存

在の象徴であるように恩われる。この点を本稿の次章に引き継ぐ。

ここで、本輸の前章で言及したテュフォンの謎掛けに対する答えについて見ていきたい。

本稿で引用したテュフォンの予言の一部は、以下のようなものであった。

そしてこの石の下深くに埋められたるは/花より生まれしミュスティリスに/あらゆ

る生の歓びを与えるべく選ばれし/彼女のために照り輝く、世にも妙なる贈り物

その時色とりどりの烏は捕らえられる/妖精たちのやさしき手の編みし網によって。

/目くらましは去り、霞は四散し、/敵みずからも死に至る傷を負うほかない!

「本来の謎Jを解けとへルモートが述べるこの予言には、吉凶の両面性がある。確かに

『石の下深くに埋められたJ小箱の中の編み物道具によって、テュフォンの呪いは王女を

人形に変え、その呪いを解く役目を持った主人公ジーリオは「色とりどりの烏J、また「鳴

の黄色い鳥Jとしてレース網に捕らえられてしまう。しかし物語の終盤において、これら

のモチーフは再登場し、物語をハッピーエンドに導く鍵となるのである。第八章で、「カピ

ターノ・パンタローネJに仮装したキアッベリ王子、つまりジーリオは、せっかく会えた

プランピラ王女、すなわちジャチンタと再び喧嘩別れをしてしまう。嘆く主子にもとに、『い

かれた玉子よ。プランピラ王女に迎えに来いだと?ーピストーヤ宮でのことを忘れたの

か?J という野次が飛ぶのだが、これに対する王子(ジーリオ)の応答が以下の台調だ。

「黙れ、でしゃばりの黄色い鴨め!烏鈍から逃げられたことをありがたく思え!ー皆

の者、私をよく見て、言ってくれ、この広(イタリックは原文........)こそ、レースの網に

捕まるはずの、本物の色とりどりの烏 (dereigentliche bunte Vogellではないか?J

第五章の中で、「本物Jでない「色とりどりの烏Jとしてジーリオが捕まえられた理由は、

“Ebd., S. 909

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ジーリオが「ばかげた仮装Jと呼んだ、「ぱけばしく目立つ色と色の競り合い (eingrell

abstecl暗 ndesFarbenspieO Jが特徴的な衣装のせいであった。ならば今回も「本物の色とりど

りの鳥Jの要素を、「カピターノ・パンタローネJたるジーリオの外観から見て取るのが妥

当だろう。チェリオナーティやプランピラ王女がジーリオに求めた《正装》は、長い鼻の

ついた珍妙な仮面、幅広の木刀、寸胴な衣装といったものをまとった姿であった。そして

それに併せて仮装時のジーリオが身に付けていたものに、「二本の長い雄鶏の羽根」を飾っ

た帽子がある。第一章で、上半身のみ仮装したジーリオに対し、パンタローネは語りかけ

る。「この鼻ーこの雄鶏の羽根 (dieseH油nfedem)ー我がかけがえのない王子ーおお、コル

ネリオ様!J 67 第七章の録後、主女として現れたジャチンタに、王子(ジーリオ)は、「見

たまえ!ー私の騎士たる印は地に下りた。雄鶏の羽根 (Hぬnf己dem)は、我が聞き兜から抜

け溶ちたのだ。私は貴婦人たちへの奉仕の誓いの解消を宣言した。なぜなら彼女たちはみ

な、忘恩と不実で私に報いたからだ!J柑と言い放っ。そうかと,思えば最終章にはあっさり

と彼女に「私は何もかも全部貴方のもの。兜につけた羽根 (die田 Fedem)を見てくれ!こ

れは私が掲げる白旗だ、女神のような貴方に、なりふり構わず無条件に服従するという証

に!J帥と脆いて降参してしまうのであった。カロが「動物と人聞から創りだしたグロテス

クな姿J70は、まさにキメラ的であり、長く尖った鼻を鳥の鳴に見立てることも不可能では

ない。第八章で、落ち込んでいるジーリオの前に現れたジャチンタも、「色とりどりの羽根

(bunte Fedem)がピン立ったJr見事にきらめくティアラJ71を付けている。ここではジャ

チンタもまた、ジーリオと同じ「色とりどりの鳥Jとなるのだ。こうして二人は二羽の「色

とりどりの鳥Jとして、貴婦人たちの「やさしき手の編みし網Jに捕らわれ、物語を解決

に導くためにラストシーンへの舞台へと移動する。 72 そしてウルダルガルテン因物語後編

において「石の下深くに埋められJていたあの象牙細工の小箱の中には、《真の}}rこよな

く貴重な、彼女のために光り輝く贈り物J、すなわち「キラキラ光る小さな縫い針Jが入っ

ている。ここに至って、魔神テュフォンの不気味な予言は魔術師へルモートの明るいお告

げへと裏返るのである。ベスカーピ親方の「創造の針Jがもたらした奇跡によって、「目く

らましは去り J、磁器人形へと変えられていたミュスティリス王女はもとの姿を取り戻す。

日 Hoffinann,Prinzessin Brambilla, S. 789. 岨 Ebd.,S. 899. 69 Ebd., S. 902. 70 Ho飴nann,Fantasie-und NachtstiJcla, S. 12f. 71 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 902. η 二人が絡めとられる「レースの覆い (dieNebel des Filets) Jは、テュフォンの予言に出て

きた「慣 (dieNebeOJに対応している。

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3.縫い上げられる物語

最初にも述べた通り、『プランビラ王女』は一見何の脈絡もないエピソードの集成のよう

な様相を呈した作品であるが、しかしメルヘンチックに見せかけたこの作品はその実、鰍

密に計算されたギミックに満ちている。その物語布陣造が前章まで考察してきた「針 (Nadel)J

とどう関連していくかを明らかにするため、以下では『プランピラ王女』に股けられた仕

掛けについて考察する。

『プランピラ王女』には、頻繁な語り手の介入、物語の突然の断絶、ーキャラクターと

して作品と自己に言及する登場人物など、物語に没入していた読者の意識をはっとさせる

仕掛けが至るところに散見される。例えば、語り手は時に「読者諸賢」に語り掛け、 19世

紀当時の作家の作品について言及し、そして唐突に物語を断ち切ったかと思えば続きを語

ることすら放棄してしまう。第六章では、ジーリオが宮殿の中で白昼夢のような体験をし

た後、どんな騒動が起こったのかは誰にも分からない。「語り手が正確に模写してきた、こ

の最高に奇想天外なカプリッチョの原作では、ここである空隙があるJ73という、無責任と

も思える理由で事は片付けられてしまうからである。また、この章の冒頭では物語の形式

が戯曲風に変えられ、「男Jと「女J以外にも「剣Jや「タンバリンJが会話を始める。そ

して幾重にもなる複雑な入れ子情造も、我々を迷わせる仕掛けの一つである。本編でも扱

ったウルダルガルテン因物語は、『プランピラ王女』というテクストの中にある物語内物語、

もっと本編にふさわしく言えば劇中劇であり、しかも単なるアレゴリーのメルヒェンと恩

われたこの物語は、ジーリオたちの世界に対応するだけでなく次第に接近し、最後には『プ

ランピラ王女』の地の文と溶け合う。しかしながら枠の破嬢はそこで終わらず、チェリオ

ナーティという香具師の存在による虚構性の暴露が行われることで、さらなる次元の突破

が図られるのである。

チェリオナーティは、作者の次に優錯した権利を持つ存在と言っても良いほど、他のキ

ャラクターとは一線を画した立場を与えられている。まるで「繰り人形師やマリオネット

操者J、あるいは「物語の戯れの演出家Jのように、「その手の中にストーリーの糸を鎧っ

ているJ74人物であり、彼は軽々と舞台と観客席へ同時に足を掛けることができる。一般的

な小説の《不文律》がチェリオナーティには通用しないのだ。例えば、第七章でウルダル

ガルテン因物語の続編をねだられたチェPオナーティはこう言い放つ。

73 Hoffm副m,Prinzessin Brambilla, S. 876f. 74 Strohschneider-Kohrs, Die romantische lronie in Theorie und Gestaltung, S. 386.

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第二部とは何です?第二部とは?一体わしはこの前、不意に言葉を切って咳払いし、

お辞儀をしながら、この続きはまた今度、とでも言ったかね?ーしかもその上わしの

友人の魔術師ルッフィアモンテが、あの話の先をすでにピストーヤ宮殿で読んで聞か

せている。(...)ここで今わしがもう一度繰り返したとしたら、いつもわれわれと共に

いて、かの講義も聴き、したがって万事をすべてご存知の方々に、ひどく退屈な気を

催させてしまいますぞ。つまりわしの言いたいのは、プランピラ王女というカプリッ

チョの読者のこと。この物語には、われわれも登場して一役買っているのですぞ。

さらに彼は「読者Jのみならず「詩人J、つまり作者についても次のように言及する。

しかし君らに言っておくがな、わしを創り出した詩人は、わしがこんな風になってし

まうとは思ってもみなかったのだ。もしも彼が、君らがわしを時折こんなにおざなり

に倣っているのを見れば、こいつはなんて不肖の子だろうかと思うだろうよ。 75

(…)そこでまず君たちに注意しておきたいことがある。というのは、われわれを創

りだした人、われわれが現実に存在しようと思うのならばその人のために進んで役に

立たねばならない作者が、われわれが存在し活動しているのはいつのことなのか、特

定の時代をまるっきり指示しなかったということだ。だから実に好都合なことに、わ

しは時代錯誤を犯すことなしに、こう前提を立てることができる。君たちはさるドイ

ツの大変才知ある著作家の著作から、二重の皇太子について知っているとね。 76

このようなチェリオナーティの台詞は、さながら飛び出す仕掛け絵本のように、キャラ

クターの虚構性を読者の前に突き出し、我身を揺さぶる。 77極め付けは、ミュスティリス

75 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 892. 市 Ebd・, S.894.77 この読者一語り手が「親愛なる読者よJと呼びかける時の「読者Jは、厳密に言えば

《想定された読者》に過ぎない。例えば語り手が「一足七マイルの長靴Jや、「ペルーの宝

石Jについて触れる時、想定されている読者は、前提としてシャミッソーの物語について

知識があり、ベルーが「金と宝石の宝庫として諺になるほど有名だったJ(大島かおり「解

説J260頁)ことを知る当時の読者、しかも、《語り手の誘導通りの読み方をしてくれる》

読者のことである。また、同様に、語り手の意見がそのままホフマンのそれであるという

風には安直に重ね得ない。語り手も一種の登場人物であり、語り手というキャラクター独

自の意見を持っていると見ることもできるからである。しかしホフマンに関する当時の書

簡や記録を作品と照らし合わせてみる限り、彼の作品では、語り手の意見に作者の思想、が

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王女がジーリオたちの《現実》に姿を現し、幾千もの声によって最後の持が緬い上げれた

途端、唐突に突きつけられる「真夜中は過ぎ、民衆が劇場から流れ出てきたJ78という一文

である。これによって、現実ー舞台、また過去ー現在ー未来という時空間は濃密に圧縮さ

れ、物語に没頭していた読者は、どこまでがジーリオの世界における実際の出来事だった

のか、何かの劇だったのか、物語はどうなったのかという基本的な認識さえ、一見あやふ

やなものとされてしまうのだ。 79 ホフマンの、このような枠破綴的かっ自己言及的な仕働

けを持った物語は、様式的に何と呼ぶべきであろうか。創作メルヒェン (Kunstmarchen)を

いかに定義するかにもよるだろうが、単なる童話の類とするにはあまりにこの物語は込み

入っているo ホフマン自身は第四章のはじめに『プランピラ王女』を「カプリッチョと自

称しているものの、メルヒェンとの違いは紙一重、まるでメルヒェンそのもののような物

語J80と称しているから、メルヒェンにことごとく近接した、もしくはメルヒェンに見せか

けたカプリッチョというところが順当だろうか。周知のとおり、カプリッチョとは形式に

とらわれない気ままな性格を表す芸術用語で、音楽においては狂想曲や奇想曲と訳される。

その起源は 16世紀のイタリアにあり、当初は音楽や美術との結びつきを持つ言葉であった

が、のちに自然の流れの中で文学にも使われるようになった。 19世紀初頭にはドイツにお

いても「カプリッチョ j が一般的名称として登場し、続く数十年の聞に広く使用されるよ

うになったとされる。「イマジネーションの働きの産物Jとしてのカプリッチョは、マニエ

リスム様式81に根を持ち、「ユニークで天才的J、「ルールに縛られなし、J反古典主義的な色

大きく反映されていると言って良いだろう。

78 Ho汀m叩 n,Prinzessin Brambilla, S. 907. 79 この文の後、時は一年後に飛んでおり、ジーリオとジャチンタは結婚して喜劇役者にな

ったことが二人の会話から判明する。今度はこの二人が、ウルダルの泉のカを観客に伝え

る側の立場となるのである。

80 Hoffm皿 n,Prinzessin Brambilla, S. 829. 81 ルネサンスからバロックへの移行期に興った、元来は絵画を中心とする芸術様式。マニ

エラ (maniera)はイタリア語で手法、様式の意。その特色は人体表現において顕著で、派

手な色彩、誇張された肉付け、引き伸ばされた姿勢の様式化などが認められる。 17世紀に

おける新古典主義美学からは激しい誹りを受け、長きにわたりその真価が認められずにい

たが、 20世紀に入り再評価された。そのスタイルはジャンルの垣根を超え、文学において

も応用されている。「マニエリスム文学はつぎのような基本傾向を表明する。すなわち、表

現の効果甚大なつり上げ、もしくは極端に冷ややかな還元、秘匿と極度の明快、謎化と喚

起、暗号記号化と憤りを喚ぴ起こす〈啓示〉など。(略)人工的、作為的、虚飾的な、極端

につり上げられた、もしくは極端に誇張した表現形式は、固有の自我、社会、因習的思考

ピア ν ・パン.ン

による(良き忠、組家たち)の哲学的宗教的諸伝承にたいする問題的な関係と関連してい

る。 J グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスム~ (1)種村季弘訳、現代思潮社、

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合いを持っている。回 『プランピラ王女』では、第六章における物語の突然の断絶の際、

語り手が以下のように述ベている。

音楽的に言うなら、ある調から他の調への移行部が欠けているので、しかるべき準備

が全くなしに、新たな和音がガーンと鳴り響く。そう、このカプリッチョは解決なし

の不協和音でもって中断されている、と言ってもいい。田

ネーリングはホフマンがこの物語の副題を、「メルヒェンJではなく「カプリッチョJと

していることを強調し、『プランピラ王女』の「驚異 (Wunder)は純粋な驚異ではないJ、

つまりそれは「意図的に準備されたものであるJと述べ、その物語形式について触れてい

る。制破かに作者の、そしてそれに準ずる役割を持つチェリオナーティの「意図的Jさ、

もしくは《物語外部に対する意識》、さらに言うならば《メタ性》とでも言おうものは、純

然たるメルヒェンには無い要素と言って良いだろう。例えばミヒヤエル・エンデの『はて

しない物語』には創作メルヒェンの中にいわゆるメタフィクション的仕掛けが設けられて

いるが、この作品が出版されたのは『プランピラ王女』から 150年以上も後、ポストモダ

ンを経た 1979年のことである。《メタ (meta)))はギリシア語で、超越した、高次の、とい

う意味を持つ接頭語だ。メタフィクションとは、もともと 60年代以降、権力機構の複雑化・

文化的多元主義の出現といった急激に変化する社会の中で、そのような前提を維持し是認

してきたリアリズムのフィクションを小説形式自体の内部に対抗相手として設定したもの

のことであり、主にポストモダン小説において使用される用語である。田この手法の代表

的な例は次のようなものだ。「ひとつの小説内部にもうひとつの小説を物語るもうひとりの

小説家が登場することJ、「小説内部で文学史上の先行作品からの引用が織り成され、批判

的再創造が行われることJ、「小説内の人物が実在の人物の作品と時空を超えて対話したり、

作者自身や読者自身と対決したりすることJo86つまりは《小説(虚構)に言及する小説(虚

構)))のことであり、演劇で言うところの《第四の壁》を役者が破嬢し異化効果をもたらす

1977、3・11頁参照。

82 Reinhold Grimm: "E.T.A. HotTmann and the Tradition ofthe Capriccio“. In: MLN Vol. 93, No. 3

~J9.~8~p仰p.399-415久5, here pp. 400-401. 3 Ho汀inann,Prinzessin Brambilla, S.876-877.

制 Vgl.Nehring, Splitromantiker Eichendorffund E目 T.A. HQ仰 ann,S.178・179.目パアトリシア・ウォー『メタフィクション自意織のフィクションの理論と実際』結城英

雄訳、泰流社、 1986年を参照。

“巽孝之『メタフィクションの謀略』筑摩書房、 1993年、 9・11頁を参照。

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ことと一部で共通している。 87

『プランピラ王女』を語る上で欠かせないのも、この《メタ性》ではないだろうか。本

作品の、このメタ性を駆使した物語形式について考えるとき、そこに一貫したメルヒェン

の物語秩序に対する抵抗を見ることが可能だ。そのヒントとなるものとして、ウルダルガ

ルテン国物語前編、魔術師ヘルモートが二度にわたってオフィオッホ王に残した「思想は

直観を破壊した」というメッセージがあるロ

思考は直観を破漉した(DerGedanke zerstor胞 dieAnschauung)。しかし灼熱の治々たる

流れが、敵対する毒物との婚礼の闘いをするうちに水晶が生じ、その水品のプリズム

から、生まれたての直観、つまりは思考の胎児そのものが輝き出るのだ!回

思考は直観を破捜する (DerGedanke zerstort die Anschauung)。そして人聞は母の胸から

引き離されて、故郷なきまま迷妄の狂気と盲いた無感覚のうちに紡偉うが、最後には

思考そのものの鋭像が、思考自体に次のような認識をもたらしてくれる。すなわち、

思考は、母なる女王が開きし;最も深く最も豊かな竪穴に支配者としてよ'ftEf....(イタリッ

クは原文........)、同時に母なる女王の臣下として従わねばならない、という認識を。帥

ヘルモートの台詞は、直観、霊感、インスピレーションたるものと、思考、理性、ロゴ

スなるものとの関係性を明らかにしている。理知的な大人に成長すればするほど子供の頃

の感性を失ってしまう、という表現はあまりに月並みであるが、そのような一般論の本質

をこの台詞は突いていると言える。しかしそれだけでなく、直観と思考の関係は、物語を

構築するという行為自体にも深く関わっている。「直観Jによって、母なる自然(カオス)

から得られたありのままのイメージを、「思考Jを通し秩序立てテクストに整える、そのた

87 20世紀メタフィクションを代表する文学作品としては、ジョン・ファウルズ{JohnFowles,

1926-2005) の『フランス軍中尉の女~ (Sarah et le Iieutenantfrancais, 1969)やイタロ・カル

ヴィーノ(ItaloCalvino, 1923・ 1985) の『冬の夜ひとりの旅人が~ (Se Una Notte D'lnverno Un

Viaggiatore, 1979) などが挙げられるが、リアリズ、ム小説への対抗というイデオロギーを抜

きにすれば、先に述べた手法の一端に当てはまる作品の数は枚挙にいとまがない。かの『千

夜一夜物語』でさえも、その構造から言えば立派な入れ子構造を有しているのであるから。

現在日本では「メタJとb、う言葉自体も広く世間に浸透し、より一般的に使われているよ

うに思われる。

回 Ho釘inann,Prinzessin Brambilla, S. 821. 89

Ebd., S. 825.

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めには、ある種のバランス感覚を必要とし、どちらか一辺倒に偏ってしまえば魅力的な物

語は生まれない。恩考に偏れば物語は硬直し、直観に偏ればそもそものストーリーが破綻

してしまうからである。生き生きとした臨場感を演出しつつ、一つの作品として構成を支

えること。ここでその直観と思考の絶妙な仲介役を果たし得るのが、ジャチンタやベスカ

ーピ親方の針であり、この針の機能を通して生まれたものがメタフィクション的形式なの

である。最終章において、陰の立役者チェエリオナーティと共に主人公ら二人を導いた仕

立屋ベスカーピ親方は以下のように発言する。

私はいつも自分をこんな風に思っていましたよ。裁断で全てが、言うなれば形式や様

式といったものが、ただちに台無しにされてしまわないように気を配っている人間だ

とね!刊

ともすればバラバラになりかねない個々のエピソードの断片を、カプリッチョの形式でも

って一つの物語としてつなぎ合わせる。それは一本の糸から網の目に禦いで制作するレー

ス編み道具では叶わないことである。

そもそも textの語源となったラテン語の textusは「編むことJr編まれたものJを指し、

それが転じて「つなぎ合わせるJr構成する」とb、った意味が生まれた。また、編まれてい

たFi1et、フィレレースはフランスから入ってきた輸入語で、これは白10(つむぐ)、 filum(糸)

というラテン語に由来しており、 filumに関しては Lebensfaden(人生・運命の糸)とb、う意

味の用いられ方もされていたようである。連締と続く人生の一本糸を「物語、 textJ として

「編むJと考えるならば、これらの言葉の紫がりは深いものがあると言って良いのではな

いだろうか。

連続的に物語を編んでいくことは文学の表現の上で必要不可欠な行為である。しかし一

貫性を持って編まれた文章は、本来書き手が有していたはずの直観的イメージを掬い落し

てしまう。それを何とか伝えようと表現に工夫を凝らすのが、作品内では「詩人J引と呼ば

れている人物である。ウルダルガルテン因物語の前編、オフィオッホ王が憂穆症にかかっ

明 Ebd.,S. 911. 9¥ 感性を最大限に言葉に落とし込む「詩人Jは、通常の文章が有する言葉の並びにとらわ

れない。特にロマン派は従来の例(古典主義)に追従しない新たな文学を模索した。ロマ

ン主義文学を「発展的普通文学Jと称したのは、『アテネーウム断片』を著したフリードリ

ヒ・シュレーゲルである。フリードリヒ・シュレーゲル『ロマン派文学論』山本定祐訳、

冨山房、 1978年、 43-45頁参照。

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たのは、ザフランスキーの言葉を借りれば「生けとし生けるものの一体感 (Einheitalles

Lebendigen) Jが失われてしまったからであり、その原因は「距離をおこうとする、対象化

する思考、反省J92にある。言うなれば、オフィオッホ王はもっぱら恩考 (Gω削除)のみ

に頼ったために感性を硬直させてしまったのである。それがゆえにリリス王妃との婚礼の

儀式において、以下のようなハプニングが発生する。

万事はめでたく見事に進んだのだが、最後にちょっとした事故があった。というの

は、ある宮廷詩人が王に婚礼の祝歌を手渡そうとしたところ、それをオフィオッホ

王が投げつけたので、詩人は恐れと怒りを前にして不幸にも狂気に陥り、自分は詩

的心情の持主だが、それが以後の詩作を妨げ、宮廷詩人としての今後の務めを果た

せなくなったと思い込んだのだ。回

ここに、詩的直観を言葉として書き留めようとする芸術家を結え難く思う、オフィオッ

ホ玉の苦悩が窺われる。そしてそれとは逆に、この世の秩序に全く縛られない直観の権化

として表されるのが、蓮の花から生まれたミュスティリス王女である。

ところが王女は、相応に言葉が話せるくらいの齢になると、誰にも理解できない言語

をしゃべり始めたので、彼ら(大臣一同)はひどく頭を抱えた。四方八方から言語学

者を呼び寄せ、王女の言葉を研究させたが、恐ろしく怒いある運命がそうさせたのか、

より学識があって賢い言語学者ほど、耳には実に分かりやすく利口そうに響くその言

葉の言っていることが理解できないのであった。 94

その後魔神テュフォンの計略により、王女は磁器人形へと姿を変えてしまうが、その直

前、編み物道具を手にした時彼女は初めて『維にでも通じるj普通の言葉を口にする。こ

こでは、「原像 (Urbild)J聞を直観的に受けとっていた王女が、他の大人と悶じく、思考を

通して秩序立ったテクストを編む方法を手に入れたと見ることができる。

『プランピラ王女』の中で、語り手は高らかに創造性豊かな内面世界を称賛しているが、

目 RUdigerSafranski: E.T.A. Ho.ffmann Das Leben ein田 s1aplischenPhanlaslen. MUnchen: Carl

Hanser, 1984, S. 450. 訳は、リュディガ}・ザフランスキー WE工A.ホフマンある懐疑的

な夢想家の生涯』識名章喜訳、法政大学出版局、 1994を参考にした。)

93 Hoffm組 n,Prinzessin Brambilla, S. 819. 判 Ebd.,S. 860. 9S Ebd., S. 8¥3.

30

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時にそれは思考と直感の関係性に対する作者の考えを明らかにしている。第四章の冒頭に

おいて、語り手は人間精神を f無尽蔵なダイアモンド鉱脈J(unversieglichen Diamantgrube)

にたとえ、その存在を称揚したのち、次のように述べる。

それよりさらに天賦の才と幸せを褒め称えられるべきは、おのれの内面のペルーの宝

石をただ悟っているだけでなく、それを掘り出し磨き上げて、華麗な火花の輝きを誘

い出すすべを心得ているもの。同

「思考は直観を破漉したJという言葉をへルモートは残すが、決してそれは思考の存在を

否定しているのではない。創造の源となる「ダイアモンドJをより美しいものへと昇華さ

せるには、理知的な思考もまた欠くべからざるものと言えるからである。しかしそのバラ

ンスを保つのは容易なことではない。思考 (Ged回 ke)に偏れば朗らかな感性を失い、そう

かと言って直観 (Anschauung)のみに頼れば世界と共存することができなくなる。そのこ

つを良い塩梅に仲介して統合し得るのが、オフィオッホ王とリリス王妃、そしてジーリオ

とジャチンタが覗き込んだウルダルの水鏡なのだ。この直観と思考の関係は、過去の研究

者たちが繰り返し考察してきたこの物語の核となるモチーフ、つまりファンタジーと現実、

肉体と精神の和解といった対立する関係の在り方にも通じている。第二章や第四寧の官頭

で、語り手は「興奮した精神の見る幻像Jや「夢」、「われわれの胸の内で火を点じられた

天上の光j について語っているが、それらが存在する「素晴らしい魔法の国J91は、普段わ

れわれの手には届かないファンタジーの域にある。しかしホフマンは、現実のみに縛り付

けられることも、幻想世界へ行ったきりになることも、この作品では提唱していない。「人

がそれによってより高次の領域へ登って行こうとする天上への悌子の土台Jを、「生活の中J

に「固定するj蝿ことこそが肝要なのだと伝えているのである。「わしにはこう言える。君

崎 Ebd.,S. 830. 91 Ebd・, S. 791 und S. 830.

叫 E.T.A.Ho伽叩n:E. T.A. Hoffi加 nnSamt/iche 駒市.Hrsg. von Har加 utSteinecke und Wulf

Segebrecht, Bd.4: Die Serapions-Bruder. Frankfurt am Main: Deutscher Klassiker Verlag, 2001, S. 721.亀井はこの部分を引用した上で、従来のホフマン作品では「現実の生から分離された

幻想世界への離脱に終わJっていた「理想と現実の確執Jが、『プランピラ王女』に至って

肯定的に解釈されたと述べている。亀井、前掲書、 130頁。一方で、フモールは現世におけ

る肉体という牢獄の存在を、寛容に精神と和解せしめる。生身の女性と、処女マリアに表

される天上の女性像との傘離に絶望した画家が、妻と我が子を手に掛けたことがほのめか

される fG町のジェスイット教会』とは別に、『プランピラ王女』では、ジーリオとジャチ

ンタの幸せな結婚生活が揃かれる。また、「仮面を放棄して、顔にばかり執着するようにJ

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は空想カだ。君の翼は、天河けるにはまずフモールを必要とする。だがフモールという身

体がなければ君はただの羽以上の何物にも過ぎず、風にもてあそばれて空中をふわふわ漂

うだけだJ99というチェリオナーティの台詞は、「天上の梯子Jである「フモールJの重要

性を的確に表している。間以下は、ウルダルガルテン因物語の中で、オフィオッホ王とリ

リス王妃が泉を覗きこんだ時の様子である。

いまや彼らは、果てしない深みに、青くきらめく空、茂み、樹木や花々、自然のすべ

て、自分たち自身がさかさまに映っている姿を見た。この時、まるで暗いヴェールが

巻き上げられたかのように、生命と喜びに満ちた一つの新しい素晴らしい世界が彼ら

の眼前にはっきりと現れ、そしてこの世界を認識したことで、彼らの中にこれまで知

りもせず予感すらしなかった枕惚感が燃え上がった。長いこと二人は覗き込んでいた

が、やがて立ち上がるとお互いを見交わし、そして一笑った。と言ってもそれは、心

の底からの気持ちよさの肉体的表現というよりはむしろ、内面の精神のカが勝利した

ことを喜ぶ笑いと言わねばならない。 101

同様にして、ジーリオとジャチンタもウルダルの泉を覗きこむ。

ところが湖面に己の姿を見つけたとき、そこで初めて彼らは自分自身を郵謀者L-(イタリ

ッタは原文ママ)、お互いをじっと見つめ合い、どっと笑い始めた。しかしそのなんとも

不思議な笑い方といったら、これに比べられるのはかのオフィオッホ主とリリス王妃

の笑いだけであった。そして二人は天にも昇るようなうっとりした気持ちの中で、互

いの腕の中に身を投げ合ったのだった。 102

二人は己を《メタに》認識し、泉のアレゴリーである「内面の真のフモールJ103によって

なり、「身体をないがしろにしてきたJ 当時の演劇に対し、イタリアの仮面喜劇は身体の

復権を主張する。コンスタン・ミック『コメディア・デラルテ~ 129頁。

99 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 911. 100プライゼンダンツはフモールが「幻想と経験的知識、ポエジーと現実、心中と外の世界

の仲介物」であるとし、ジャン・パウルの「フモールの全体性Jとの関連についても触れ

ている。 Vgl.Preisendanz, Humor als dichterische Einbildungkrafl Studien zur Erzlihlkunst des poetischen R回 lismus,S. 55・57.101 Hoffmann, Prinzessin Brambilla, S. 824. 102 Ebd., S. 906. 103 Ebd., S. 910.

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相対するものを和解させ、全てを朗らかな笑いのうちに包み込む。ウルダルの泉をジーリ

オとジャチンタが覗いて微笑んだ時、人形に身をやっしていたミュスティリス王女が、「す

っくと立ち上り Jrみるみるうちに背丈を伸ばしてJr育き天空のてっぺんまで鋒えるJが、

「その足は湖の底深くにしっかり根を張っていたJことも、ミュスティリス王女が泉によ

ってフモールの「神均しい女人像J1倒となったことを暗示している。この泉は《人生哲学》

とも言えるものを登場人物らに伝え、またメタフィクション的仕掛けを用いて我々読者に

もそれを体感させるのである。思考とは考える対象を自分と「区別」する作業であり、こ

の過程で自己は「個体化」されるため、オフィオッホ王は本来持っていた「一体感からの

疎外J105を感じて苦しんでいた。ジーリオは悲劇的な自分の役にのめり込んでは、自分を

本来以上のものに見せようとし、遥か高みにある理想像ばかりを追い求めていた。ウルダ

ルの泉に己と世界を映すことで、このような二人は心に本来の調和を取り戻すのである。 106

しかし相反するものの聞を取り持つのは、ウルダルの泉だけではない。本論で主題的に

論じてきたように、ベスカーピ親方の創造の針 (NadeJ)も、同じような意味を持つ存在と

して物語に使用されているのではないだろうか。いかに感じたまま、ありのままを言葉に

しようと、物語を綴るということそれ自体、筆者の価値観のもとで出来事を何らかの一定

した秩序にはめ込む行為であり、自己矛盾を苧んでいる。しかし断片的なシーンをカプリ

ッチョの形式に乗せてまとめあげる針の存在は、そのジレンマを解決する一つの手立てを

示している。また、《起こったかもしれないし、起こらなかったかもしれなしゅ出来事、「不

徳実な夢と日常、妄想と現実Jを表現するという、ホフマンの「文学的コンセプトJ107 を

実現するにも、この、機身な場面を糸で縫い合わせたような《モザイク的》手法が最適だ

ったのだろう。さらにこれによって、直接描写することが困難なカーニヴァルという祝祭

の混乱した様子、「感覚的な対象j が、「多量に生き生きと動いている有様Jを、「直接目の

前にして、各人が自分なりのやり方に従ってじっくり眺め、把握するJ108ことが可能とな

104 Ebd., S. 906. 105 Safranski, E. T.A. Hoffmann. Das Leben eines skeptischen Phantasten, S. 451. 1価「ウルダルの泉のなかへまなぎしを向けたからといって、事情が変わったわけではない。

陶酔感がこみあげてきたのも、一体感が再び蘇ったからではなく、反映の反映から、自然

と自我の鏡像にまなぎしを向けたからである」と述べるザフランスキーは、キャラクター

たちが「世界が主観的に映し出されている状態の乗り越えがたさと了解 (Einversttindnis)

のようなもの」をとりつけたのだと説明している (Sa合anski,S. 452)。仏教でいう諦念の思

想を初練とさせるものがあるが、そこにはポジティプな笑いに満ちた楽観性がある。

107 Kremer, Romantische Metamorphosen E. T.A. Hoffmanns Erztihlungen. S. 314・315.

108 Johann Wolfgang Goethe: Stimtliche Werke. Briefe. Tagebucher und Gesprtiche. Hrsg. von

Christoph Michel und Hans-Georg Dewitz, Bd. 4: Italienische Reise Teil 1. Frankfurt am Main:

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るのである。

シェーラーは『プランピラ王女』のテクストにおける針が、縫い針とカロのエッチング

のナーデルを示すと同時に、空中で編まれたテクストを知覚可能なファンタジーの形式に

仕立てるべスカーピ親方の創造の針として見ている。剛一方大島は、ミュスティリス王女

に残されたレース編み道具が、「議輔Jを編むという寓意を含んでいることを指摘している

が、しかしシェーラーも大島も、針と編み物道具を対置して述べているわけではない。本

論では、「はじめに」で述べた通り、あくまでも編み物道具と針が対照的な存在として描か

れているという点に重きを置いた考察を行った。そうでなければ、編み物道具を手にした

ミュスティリス王女が人形へと姿を変え、敵対する魔神テュフォンがあえてレース網を編

むように仕向けた展開への、正当な理由付けができないからである。レース編み道具は、

一本の糸から連続的に網(テクスト)を生成する。ペネロペイアが織った織物を夜な夜な

ほどいて婚約者たちの目を欺いたように、一度解いた編み物は、またそこから一続きに編

み始めるしかない。それは物語を紡ぐ上での前提的条件であると同時に、逃れ難いテクス

トの呪いでもある。一方で針は、気ままに断片岡士を縫い合わせることを可能にする。突

如の断絶を挟むも良し、戯曲的な形式を挿入するのも良しという自由さだ。さらにつなぎ

合わせるのはテクスト同士だけではない。テクスト内世界とわれわれ読者の世界、多様な

神話たち、古今東西の異国の地、対立するモチーフの数々。『牡猫ムルの人生観』

(Lebensa間 ichlendes Kalers Murr, 1820)でも、猫の自伝と人間の伝記が交互に入り混じる

という奇妙なスタイルがとられているから、《針の精神》はホフマン作品に一定程度は共通

のものだとも言えよう。ちなみに、文学的に見た場合のフーガとカプリッチョの関係は、「“普

通の"英雄叙事詩と、スターンの『トリストラム・シャンディ~ IIOJのそれだとラインホル

トは述べている。 111 単なるフーガも良いだろう。しかし作者はカプリッチョを選んだ。そ

してそのカプリッチョにふさわしい小道具こそが、物語全体を通してさりげなく、しかし

重要な役割を様々にこなす針 (Nadet)なのである。

Deutscher K1assiker Ver1ag, 1993, S. 518.当時のカーニグアルの様子について、ゲーテの父ヨ

ハン・カスバル・ゲーテやカーノレ・モーリッツらも自身の紀行文の中に記している。彼ら

のカーニヴァル観の違いは、松村朋彦「ローマのカーニグアルとドイツ文学:ゲーテと

E.T.A.ホフマンJr京都大拳文撃部研究紀要~ (46)、2007、127・155頁に詳しい。

叩9Vgl. Scherer: ,,Prinzessin Brambil1a (1820)", S. 254・255.110メタフィクションの文脈において、このスターンの『トリストラム・シャンディ』は必

ずと言って良いほど言及される。

川 Grimm,E. T.A. Hoffmann and Ihe Tradilion ollhe Capriccio, S. 401.

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