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Kobe University Repository : Kernel タイトル Title 意識の疲れ : 二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 (特集 : フィクション パワー) 著者 Author(s) 矢倉, 喬士 掲載誌・巻号・ページ Citation 美学芸術学論集,16:100-117 刊行日 Issue date 2020-03 資源タイプ Resource Type Departmental Bulletin Paper / 紀要論文 版区分 Resource Version publisher 権利 Rights DOI JaLCDOI 10.24546/81012102 URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81012102 PDF issue: 2021-08-12

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Kobe University Repository : Kernel

タイトルTit le

意識の疲れ : 二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 (特集 : フィクションパワー)

著者Author(s) 矢倉, 喬士

掲載誌・巻号・ページCitat ion 美学芸術学論集,16:100-117

刊行日Issue date 2020-03

資源タイプResource Type Departmental Bullet in Paper / 紀要論文

版区分Resource Version publisher

権利Rights

DOI

JaLCDOI 10.24546/81012102

URL http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81012102

PDF issue: 2021-08-12

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 100101 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

0 一九九〇年代以降のアメリカ文学の見えなさ

 二〇一〇年代のアメリカ文学はどのような特徴を持っているのだろうか。この問いに取り組むにあた

り、さしあたって、「わからない」と答えるところから始める必要がある。現在のアメリカ文学の動向の

掴みがたさについては、これまでアメリカ文学の翻訳・研究を通して日本の読者への交通整理役を務め

てきた柴田元幸や都甲幸治がそろって言及していることが参考になる。二〇一二年に行われた対談の中

で、柴田は「僕自身は、この十年くらいのアメリカ文学の流れがよく見えなくなってきている」(

都甲 『読

んで、訳して、語り合う。』146)

と発言し、二一世紀に入ってからのアメリカ文学の動向の見えづらさを

指摘している。このようなアメリカ文学の見えづらさの原因の一端を、都甲幸治は次のように説明して

いる。僕

が大学に入った九〇年代初頭に「interdisciplinary (学際的な)

」ということが提唱されはじめて、

その後、グローバリゼーションの進展とともに、境界横断的な状況が一気に広まったんです。でも

意識の疲れ──二〇一〇年代アメリカ文学の諸相  

矢倉喬士

 

Takashi Y

AG

UR

A実際そうなると、断片的な専門家はいても、俯瞰的に起こっていることの全体像を把握できる人が

誰もいなくなってしまった。/アメリカ文学の専門家は、アフリカや東欧、中南米から来た人がア

メリカ国内で評価され、精力的に作品を発表している状況をどう論じたらよいのかわからないし、

だからといって、アフリカや中南米文学の専門家も、アメリカやイギリスに渡って書いている人の

ことはよくわからない。(

都甲 156-57)

人とモノが移動する自由度が高まり、あまりにも多くの出自を持つ作家たちがバラバラに活動する状況

では、状況を俯瞰できる専門家はいなくなってしまった。とりわけ、二一世紀に入ってからのアメリカ

文学の動向は、あくまでも個人的かつ断片的な視座から語られる他はないのだ。

 現在のアメリカ文学の見通しの悪さについては、藤井光もまた同様の認識を持っている。アメリカ文

学はあまりにも多様な出自を持つ作家で成り立っており、必然的にアメリカ合衆国の外の様々な土地や

文化に目を向けざるをえなくなっている。

ダニエル・アラルコンを翻訳していたら、ラテンアメリカ文学の動向にも同時に目配せしないと、やっ

てることがよくわからないし、ボスニア出身のヘモンにしろ、ベオグラード出身のテア・オブレヒ

トにしろ、やっぱり同時に東欧の文学や、バルカン半島を巡ってどういう物語が紡がれてきたのか

ということを、並行して見ていかないとわからない。アメリカ文学を読んでいるのに、興味は色ん

なところに向いていかざるを得ない。(都甲 189

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 100101 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

0 一九九〇年代以降のアメリカ文学の見えなさ

 二〇一〇年代のアメリカ文学はどのような特徴を持っているのだろうか。この問いに取り組むにあた

り、さしあたって、「わからない」と答えるところから始める必要がある。現在のアメリカ文学の動向の

掴みがたさについては、これまでアメリカ文学の翻訳・研究を通して日本の読者への交通整理役を務め

てきた柴田元幸や都甲幸治がそろって言及していることが参考になる。二〇一二年に行われた対談の中

で、柴田は「僕自身は、この十年くらいのアメリカ文学の流れがよく見えなくなってきている」(

都甲 『読

んで、訳して、語り合う。』146)

と発言し、二一世紀に入ってからのアメリカ文学の動向の見えづらさを

指摘している。このようなアメリカ文学の見えづらさの原因の一端を、都甲幸治は次のように説明して

いる。僕

が大学に入った九〇年代初頭に「interdisciplinary (

学際的な)

」ということが提唱されはじめて、

その後、グローバリゼーションの進展とともに、境界横断的な状況が一気に広まったんです。でも

意識の疲れ──二〇一〇年代アメリカ文学の諸相  

矢倉喬士

 

Takashi Y

AG

UR

A

実際そうなると、断片的な専門家はいても、俯瞰的に起こっていることの全体像を把握できる人が

誰もいなくなってしまった。/アメリカ文学の専門家は、アフリカや東欧、中南米から来た人がア

メリカ国内で評価され、精力的に作品を発表している状況をどう論じたらよいのかわからないし、

だからといって、アフリカや中南米文学の専門家も、アメリカやイギリスに渡って書いている人の

ことはよくわからない。(

都甲 156-57)

人とモノが移動する自由度が高まり、あまりにも多くの出自を持つ作家たちがバラバラに活動する状況

では、状況を俯瞰できる専門家はいなくなってしまった。とりわけ、二一世紀に入ってからのアメリカ

文学の動向は、あくまでも個人的かつ断片的な視座から語られる他はないのだ。

 現在のアメリカ文学の見通しの悪さについては、藤井光もまた同様の認識を持っている。アメリカ文

学はあまりにも多様な出自を持つ作家で成り立っており、必然的にアメリカ合衆国の外の様々な土地や

文化に目を向けざるをえなくなっている。

ダニエル・アラルコンを翻訳していたら、ラテンアメリカ文学の動向にも同時に目配せしないと、やっ

てることがよくわからないし、ボスニア出身のヘモンにしろ、ベオグラード出身のテア・オブレヒ

トにしろ、やっぱり同時に東欧の文学や、バルカン半島を巡ってどういう物語が紡がれてきたのか

ということを、並行して見ていかないとわからない。アメリカ文学を読んでいるのに、興味は色ん

なところに向いていかざるを得ない。(都甲 189

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 102103 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

あまりにも多様な人々が、アメリカとは限らない場所に住み、アメリカとは限らない場所について好き

勝手に書いている現在、アメリカ文学とは何かという問いは全世界に広がってしまい、答えることは難

しい。

 現在のアメリカ文学の姿を捉えることの難しさは、毎年アメリカ国内の出版社から出されたアメリカ

在住作家の作品を表彰する全米図書賞の候補作を見ても窺える。二〇一七年、全米図書賞委員会は韓

国系アメリカ人作家イ・ミンジン (M

in Jin Lee)

による在日韓国人たちのファミリーサーガ『パチンコ

(Pachinko)

』を最終候補作に挙げたのだが、同作品の舞台として登場する日本の生活描写を考慮するな

らば、日本を描いたとしてもアメリカ文学の代表格として評価されうるということになる。こうなると、

いまやアメリカ文学は何でもありで、たとえどの国の何を描いたとしてもそれをアメリカ文学と呼ぶな

らばアメリカ文学になるという様相を呈してくる。

 現在のアメリカ文学はアメリカ合衆国には収まらない。それは世界中の人々と地域を視野に入れたも

のであり、作家や読者がバラバラに、個人的に、世界のあちこちに目移りしながら総体としてのアメリ

カ文学をつくりあげている。そこには統一的な視点や全体像を把握する専門家は存在しない。そのよう

な状況でアメリカ文学とは何かと問うならば、アクセス可能な情報、時間、資金、体力など必然的に何

らかの限界に行きあたることになる。本稿では、現在のアメリカ文学とは何かと問う際に表れるその限

界を「疲れ」と呼び、とりわけ、創作・批評・受容の全てにおいて表れる「意識の疲れ」が二〇一〇年

代のアメリカ文学を特徴づけていることを考察する。

1 全方位意識型フィクション『センス8』と「意識の疲れ」

 一九九〇年代から学際性が追求され、グローバリゼーションの影響下でのアメリカ文学研究を志向す

る傾向については既に確認した。そこでは全体像を把握できる専門家は存在しない。しかしながら、一

つの作品で世界中の地域と人々を視野に入れた包括的アメリカ文学を達成しようとした作品がある。そ

れがウォシャウスキー姉妹 (The W

achowskis)

とマイケル・ストラジンスキー (J. M

ichael Straczynski)

よるN

etflix

ドラマ『センス8 (Sense8)

』(2015-2018)

である

1

 『センス8』は、世界各地で同じ日に生まれた八人が、互いに意識・言語・能力を共有し、彼らを捉え

ようとする組織と戦うという筋書きを持っている。物語の中核となる八人はそれぞれ、ナイロビ、ソウル、

サンフランシスコ、ムンバイ、ロンドン、ベルリン、メキシコシティ、シカゴに住んでおり、互いの意

識や情報を共有している。このような設定は、グローバルな情報社会でインターネットを駆使して、地

球のあらゆる場所の情報を瞬時に得られる現代人の生活を考慮すれば、日常生活の延長線上にイメージ

することも可能に思われる。実際に、『センス8』シーズン2エピソード7では、キャラクターたちが行っ

ているのは「スマホなしのFacetim

e

」であるという発言があり、スマホが普及した二〇一〇年代のオン

ライン会話の延長線上に『センス8』はある。

 しかし、『センス8』は、世界各地にいる者たちが意識を共有するという設定に早速無理があることを

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 102103 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

あまりにも多様な人々が、アメリカとは限らない場所に住み、アメリカとは限らない場所について好き

勝手に書いている現在、アメリカ文学とは何かという問いは全世界に広がってしまい、答えることは難

しい。

 現在のアメリカ文学の姿を捉えることの難しさは、毎年アメリカ国内の出版社から出されたアメリカ

在住作家の作品を表彰する全米図書賞の候補作を見ても窺える。二〇一七年、全米図書賞委員会は韓

国系アメリカ人作家イ・ミンジン (M

in Jin Lee)

による在日韓国人たちのファミリーサーガ『パチンコ

(Pachinko)

』を最終候補作に挙げたのだが、同作品の舞台として登場する日本の生活描写を考慮するな

らば、日本を描いたとしてもアメリカ文学の代表格として評価されうるということになる。こうなると、

いまやアメリカ文学は何でもありで、たとえどの国の何を描いたとしてもそれをアメリカ文学と呼ぶな

らばアメリカ文学になるという様相を呈してくる。

 現在のアメリカ文学はアメリカ合衆国には収まらない。それは世界中の人々と地域を視野に入れたも

のであり、作家や読者がバラバラに、個人的に、世界のあちこちに目移りしながら総体としてのアメリ

カ文学をつくりあげている。そこには統一的な視点や全体像を把握する専門家は存在しない。そのよう

な状況でアメリカ文学とは何かと問うならば、アクセス可能な情報、時間、資金、体力など必然的に何

らかの限界に行きあたることになる。本稿では、現在のアメリカ文学とは何かと問う際に表れるその限

界を「疲れ」と呼び、とりわけ、創作・批評・受容の全てにおいて表れる「意識の疲れ」が二〇一〇年

代のアメリカ文学を特徴づけていることを考察する。

1 全方位意識型フィクション『センス8』と「意識の疲れ」

 一九九〇年代から学際性が追求され、グローバリゼーションの影響下でのアメリカ文学研究を志向す

る傾向については既に確認した。そこでは全体像を把握できる専門家は存在しない。しかしながら、一

つの作品で世界中の地域と人々を視野に入れた包括的アメリカ文学を達成しようとした作品がある。そ

れがウォシャウスキー姉妹 (The W

achowskis)

とマイケル・ストラジンスキー (J. M

ichael Straczynski)

よるN

etflix

ドラマ『センス8 (Sense8)

』(2015-2018)

である

1

 『センス8』は、世界各地で同じ日に生まれた八人が、互いに意識・言語・能力を共有し、彼らを捉え

ようとする組織と戦うという筋書きを持っている。物語の中核となる八人はそれぞれ、ナイロビ、ソウル、

サンフランシスコ、ムンバイ、ロンドン、ベルリン、メキシコシティ、シカゴに住んでおり、互いの意

識や情報を共有している。このような設定は、グローバルな情報社会でインターネットを駆使して、地

球のあらゆる場所の情報を瞬時に得られる現代人の生活を考慮すれば、日常生活の延長線上にイメージ

することも可能に思われる。実際に、『センス8』シーズン2エピソード7では、キャラクターたちが行っ

ているのは「スマホなしのFacetim

e

」であるという発言があり、スマホが普及した二〇一〇年代のオン

ライン会話の延長線上に『センス8』はある。

 しかし、『センス8』は、世界各地にいる者たちが意識を共有するという設定に早速無理があることを

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 104105 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

思い知らせてくれる。最初に立ちはだかるのは、まずもって言語の問題だ。ドラマが始まってみれば、

世界各地に散らばる若者たちはみなそろって英語を話している。ドラマで人々の意識の共有を表現する

方法が他になかったのだろうが、他人と意識を共有する特殊能力を描くフィクションというよりは、英

語を話せなければ世界各地の人々とコミュニケーションがとれないという現実を露呈している。さらに、

ドラマのエピソードが進むにつれて、八人の中心人物たちは自分たちの意識の共有に疲れ始める(本稿

のタイトル「意識の疲れ」はこれに大きく触発されている)。シーズン2エピソード4では、ムンバイと

ナイロビで暴動が起こり、意識を共有する他のメンバーは「何も起こらない日がない」と言って意識に

かかる負荷に苦しむ。シーズン2エピソード11では、サンフランシスコでの結婚式、ケニアの暴動、ソ

ウルの汚職事件とカーチェイスといった出来事が立て続けに起こって疲弊するキャラクターの姿が描か

れる。世界中の情報を得られることは、世界中の危機に向かい合うせわしない日々をもたらす。他の場

所で起こり続ける出来事が絶え間なく意識に流れ込み、『センス8』のキャラクターたちの意識は疲弊す

る。そして極めつけに、作品内のキャラクターたちの意識が疲れるだけでなく、作品自体の体力も続か

なくなってしまう。『センス8』は、五シーズンを一〇年かけて制作される予定であったが、シーズン2

の時点で事実上の打ち切りの憂き目にあう。打ち切りの理由はキャストたちが世界中の諸都市を移動し

ながら撮影する制作コストに視聴者数が見合っていないからであったとN

etflix

最高責任者のテッド・サ

ランドス (Ted Sarandos)

は述べた

2

 資金難からの作品打ち切り発表後、ファンたちからの抗議もあり、最終話として二時間の特別エピソー

ドを二〇一八年六月に発表し、『センス8』は作品として完結を迎えることができた。しかし、世界各地

の人々の意識を共有するフィクションの事実上の打ち切りは、学際性やインターセクショナリティや惑

星思考を志向するアメリカ文学の、その一つの試みの打ち切りのようにも思われるのだ。この作品、及び、

作品制作をめぐる困難には、現代アメリカ文学における意識と資金の疲れが色濃く刻まれている。

2 オートフィクションの流行と「偉大なるアメリカ小説」の衰退

 現代アメリカ文学を理解しようと思えば、個人的に、バラバラに、偶然に得られた情報を報告し合っ

て認識のレベルを上げざるを得ない。言い換えれば、アメリカ文学の専門家でさえもアメリカ文学に関

する統一的視点を持てず、全体像を把握できないという事態は、作家の側にも共通している。作家たち

もまた、個人的に、バラバラに、そのときの自分がたまたま得た情報から創作している。

 二〇一〇年代に流行した文学形式として、自伝的要素にフィクション性を織り交ぜた「オートフィク

ション」を欠かすことはできない。『ヴァルチャー (Vulture)

』誌は二〇一八年九月、二一世紀のキャノン

となったフィクションの特集記事にて、この一〇年で支配的になった新たな形式として「オートフィク

ション」に言及している。

At least one distinctive new style has dominated over the past decade. Call it autofiction if you like,

but it’s really a collapsing of categories. (Perhaps not coincidentally, such lumping is better suited to

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 104105 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

思い知らせてくれる。最初に立ちはだかるのは、まずもって言語の問題だ。ドラマが始まってみれば、

世界各地に散らばる若者たちはみなそろって英語を話している。ドラマで人々の意識の共有を表現する

方法が他になかったのだろうが、他人と意識を共有する特殊能力を描くフィクションというよりは、英

語を話せなければ世界各地の人々とコミュニケーションがとれないという現実を露呈している。さらに、

ドラマのエピソードが進むにつれて、八人の中心人物たちは自分たちの意識の共有に疲れ始める(本稿

のタイトル「意識の疲れ」はこれに大きく触発されている)。シーズン2エピソード4では、ムンバイと

ナイロビで暴動が起こり、意識を共有する他のメンバーは「何も起こらない日がない」と言って意識に

かかる負荷に苦しむ。シーズン2エピソード11では、サンフランシスコでの結婚式、ケニアの暴動、ソ

ウルの汚職事件とカーチェイスといった出来事が立て続けに起こって疲弊するキャラクターの姿が描か

れる。世界中の情報を得られることは、世界中の危機に向かい合うせわしない日々をもたらす。他の場

所で起こり続ける出来事が絶え間なく意識に流れ込み、『センス8』のキャラクターたちの意識は疲弊す

る。そして極めつけに、作品内のキャラクターたちの意識が疲れるだけでなく、作品自体の体力も続か

なくなってしまう。『センス8』は、五シーズンを一〇年かけて制作される予定であったが、シーズン2

の時点で事実上の打ち切りの憂き目にあう。打ち切りの理由はキャストたちが世界中の諸都市を移動し

ながら撮影する制作コストに視聴者数が見合っていないからであったとN

etflix

最高責任者のテッド・サ

ランドス (Ted Sarandos)

は述べた

2

 資金難からの作品打ち切り発表後、ファンたちからの抗議もあり、最終話として二時間の特別エピソー

ドを二〇一八年六月に発表し、『センス8』は作品として完結を迎えることができた。しかし、世界各地

の人々の意識を共有するフィクションの事実上の打ち切りは、学際性やインターセクショナリティや惑

星思考を志向するアメリカ文学の、その一つの試みの打ち切りのようにも思われるのだ。この作品、及び、

作品制作をめぐる困難には、現代アメリカ文学における意識と資金の疲れが色濃く刻まれている。

2 オートフィクションの流行と「偉大なるアメリカ小説」の衰退

 現代アメリカ文学を理解しようと思えば、個人的に、バラバラに、偶然に得られた情報を報告し合っ

て認識のレベルを上げざるを得ない。言い換えれば、アメリカ文学の専門家でさえもアメリカ文学に関

する統一的視点を持てず、全体像を把握できないという事態は、作家の側にも共通している。作家たち

もまた、個人的に、バラバラに、そのときの自分がたまたま得た情報から創作している。

 二〇一〇年代に流行した文学形式として、自伝的要素にフィクション性を織り交ぜた「オートフィク

ション」を欠かすことはできない。『ヴァルチャー (Vulture)

』誌は二〇一八年九月、二一世紀のキャノン

となったフィクションの特集記事にて、この一〇年で支配的になった新たな形式として「オートフィク

ション」に言及している。

At least one distinctive new style has dominated over the past decade. Call it autofiction if you like,

but it’s really a collapsing of categories. (Perhaps not coincidentally, such lumping is better suited to

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 106107 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

“People Who Liked” algorithm

s than brick-and-mortar shelving system

s.) This new style encompasses

Elena Ferrante’s Neapolitan novels; Sheila H

eti’s self-questing How Should a Person Be?; Karl O

ve Knausgaard’s just-com

pleted 3,600-page experiment in radical m

undanity; the essay-poems of Claudia

Rankine on race and the collage like reflections of Maggie N

elson on gender. It’s not really a genre at all. It’s a way of exam

ining the self and letting the world in all at once. Whether it changes the world

is, as always with books, not really the point. It helps us see more clearly. (Vulture Editors; em

phasis added)

二〇一〇年代に勢力を拡大したオートフィクションの担い手として、ここではエレナ・フェランテ、シェ

イラ・ヘティ、カール・クナウスゴール、クローディア・ランキン、マギー・ネルソンの名が挙げられている。

加えて、オートフィクションは、自己実験であると同時に世界を自己に透過させる方法であり、オートフィ

クションが世界に変化をもたらすかどうかは重要な問題ではなく、それは視界をよりクリアにしてくれ

るものであると述べられている。

 また、二〇一七年に出版されたエリフ・バチューマン (Elif Batum

an)

のデビュー小説『イディオット

(The Idiot)

』のレビュー記事にて、編集者のディーン・キシック(D

ean Kissick)

は、オートフィクショ

ンを「まぎれもなく現在の文学的小説の中でも最も人気のジャンル」と紹介している。

Autofiction is surely the most popular genre of literary novel at the m

oment, as dem

onstrated by

the success of titles such as Teju Cole's Open City (2011), Ben Lerner's Leaving the Atocha Station

(2011), Tao Lin's Taipei (2013) and Rachel Cusk's Outline (2014), and also one that m

irrors changing attitudes towards authenticity. (Kissick; em

phasis added)

さらに、オートフィクションは「ポスト・ファクト」の時代にふさわしい文学形式で、虚実入り混じっ

た文章はジャーナリズムの領域にまで広がっているとも書かれている。

autofiction is an ideal form for a post-facts age: it reflects a m

oment in which we all tell our own,

carefully edited, largely dishonest stories about ourselves online; and in which the personal essay is one of the dom

inant forms of journalism

. (Kissick)

現代人にとって、オンラインで虚実入り混じる自己提示を行うのは日常茶飯事で、ジャーナリズムの分

野でも公的な物事と私的な物事を混ぜ合わせた個人的エッセイ風の文章が見られる。事実を個人的に演

出し、編集することが当たり前の現代的環境において、オートフィクションは特定の職業作家たちにの

み見られる作風には収まらない普遍性を持っているのだ。

 ここで「オートフィクション」という用語に立ち返ってみよう。この言葉は一九七七年にフランスの

作家セルジュ・ドゥブロフスキー (Serge D

oubrovsky)

が自身の小説『糸/息子(Fils)

』を形容するため

に使用し始めたもので、既に四〇年の歴史を持っている。ドゥブロフスキーの発言を参考にしつつ、イ

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 106107 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

“People Who Liked” algorithm

s than brick-and-mortar shelving system

s.) This new style encompasses

Elena Ferrante’s Neapolitan novels; Sheila H

eti’s self-questing How Should a Person Be?; Karl O

ve Knausgaard’s just-com

pleted 3,600-page experiment in radical m

undanity; the essay-poems of Claudia

Rankine on race and the collage like reflections of Maggie N

elson on gender. It’s not really a genre at all. It’s a way of exam

ining the self and letting the world in all at once. Whether it changes the world

is, as always with books, not really the point. It helps us see more clearly. (Vulture Editors; em

phasis added)

二〇一〇年代に勢力を拡大したオートフィクションの担い手として、ここではエレナ・フェランテ、シェ

イラ・ヘティ、カール・クナウスゴール、クローディア・ランキン、マギー・ネルソンの名が挙げられている。

加えて、オートフィクションは、自己実験であると同時に世界を自己に透過させる方法であり、オートフィ

クションが世界に変化をもたらすかどうかは重要な問題ではなく、それは視界をよりクリアにしてくれ

るものであると述べられている。

 また、二〇一七年に出版されたエリフ・バチューマン (Elif Batum

an)

のデビュー小説『イディオット

(The Idiot)

』のレビュー記事にて、編集者のディーン・キシック(D

ean Kissick)

は、オートフィクショ

ンを「まぎれもなく現在の文学的小説の中でも最も人気のジャンル」と紹介している。

Autofiction is surely the most popular genre of literary novel at the m

oment, as dem

onstrated by

the success of titles such as Teju Cole's Open City (2011), Ben Lerner's Leaving the Atocha Station

(2011), Tao Lin's Taipei (2013) and Rachel Cusk's Outline (2014), and also one that m

irrors changing attitudes towards authenticity. (Kissick; em

phasis added)

さらに、オートフィクションは「ポスト・ファクト」の時代にふさわしい文学形式で、虚実入り混じっ

た文章はジャーナリズムの領域にまで広がっているとも書かれている。

autofiction is an ideal form for a post-facts age: it reflects a m

oment in which we all tell our own,

carefully edited, largely dishonest stories about ourselves online; and in which the personal essay is one of the dom

inant forms of journalism

. (Kissick)

現代人にとって、オンラインで虚実入り混じる自己提示を行うのは日常茶飯事で、ジャーナリズムの分

野でも公的な物事と私的な物事を混ぜ合わせた個人的エッセイ風の文章が見られる。事実を個人的に演

出し、編集することが当たり前の現代的環境において、オートフィクションは特定の職業作家たちにの

み見られる作風には収まらない普遍性を持っているのだ。

 ここで「オートフィクション」という用語に立ち返ってみよう。この言葉は一九七七年にフランスの

作家セルジュ・ドゥブロフスキー (Serge D

oubrovsky)

が自身の小説『糸/息子(Fils)

』を形容するため

に使用し始めたもので、既に四〇年の歴史を持っている。ドゥブロフスキーの発言を参考にしつつ、イ

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 108109 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

ギリス文学者のハイウェル・ディックス (H

ywel Dix)

は自伝とオートフィクションの違いについて以下

のように説明している。

[Doubrovsky] was, he says, a ‘nobody’, whereas only ‘som

ebodies’ are sociologically justified in com

mitting their autobiographies to print. Autofiction then becom

es a form of autobiographical

writing that offers to fill the gap created when more traditional form

s of autobiography are rendered sociologically unavailable by the status of the writer (which m

ay of course be ‘real’ or perceived). It is, m

oreover, a form of autobiographical writing that perm

its a degree of experimentation with the

definition and limits of the self, rather than the slavish recapitulation of known biographical facts. (D

ix 3)

ディックスによれば、自伝(autobiography

)とは、社会的に認められた何者かが社会的に記録される価

値を備えた事実を記したものであるのに対し、オートフィクションとは、何者でもない者が自分は何者

でありうるのかを実験する試みである。オートフィクションは誰かに読まれるよりも、著者が自己を探

求及び実験する試みであり、それゆえトラウマ的体験後の反応を描いたり、自己を新たな状況に位置づ

けることが重要になる。

[. . .] autofiction is a project of self-exploration and self-experimentation on the part of the author.

This in turn is partly because many works of autofiction have been written in the afterm

ath of some

kind of traumatic experience

─real or imagined

─so that the process of writing in response to traum

a can be seen as a means of situating the self in a new context when other relational constructs

have been removed or jeopardized. (D

ix 4)

 英語圏においてオートフィクションが流行した理由について、ディックスは三つの理由を挙げている。

一つ目は女性の創作の価値の上昇、二つ目は自費出版を含む小規模出版の増加、そして三つ目はテレビ

や出版物におけるリアリティ・ショー的なコンテンツの増加である(D

ix 10)

。既存の価値体系において

評価を受けてこなかった来歴を持ち、何物でもなかった者たちが新たな環境に自己を適応させたり、位

置づける試みにふさわしい形式としてオートフィクションが機能している。

 このように、二〇一〇年代に何者でもない者が自分のために語るオートフィクションが流行したこ

とは、裏を返せばアメリカとは何かという国家規模の問題を扱う「偉大なるアメリカ小説」の衰退を

意味する。もちろん、ジョナサン・フランゼン (Jonathan Franzen)

やリチャード・パワーズ (Richard

Powers)

のように、当代のアメリカ合衆国を描き続ける作家もいる他方で、アメリカ小説を志向せずた

だ小説を書く作家が増えたことは、藤井光の『ターミナルから荒れ地へ』(2016)

に詳しいのでここでは

詳述しない。代わりに、本稿のタイトルを「意識の疲れ」とした理由として、米国小説界の大御所トマス・

ピンチョン (Thom

as Pynchon)

やドン・デリーロ (D

on DeLillo)

の作風の変化を挙げておきたい。

 ピンチョンと言えばアメリカ文学におけるポストモダニズムの代表格的な作家で、一九七三年に発表

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 108109 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

ギリス文学者のハイウェル・ディックス (H

ywel Dix)

は自伝とオートフィクションの違いについて以下

のように説明している。

[Doubrovsky] was, he says, a ‘nobody’, whereas only ‘som

ebodies’ are sociologically justified in com

mitting their autobiographies to print. Autofiction then becom

es a form of autobiographical

writing that offers to fill the gap created when more traditional form

s of autobiography are rendered sociologically unavailable by the status of the writer (which m

ay of course be ‘real’ or perceived). It is, m

oreover, a form of autobiographical writing that perm

its a degree of experimentation with the

definition and limits of the self, rather than the slavish recapitulation of known biographical facts. (D

ix 3)

ディックスによれば、自伝(autobiography

)とは、社会的に認められた何者かが社会的に記録される価

値を備えた事実を記したものであるのに対し、オートフィクションとは、何者でもない者が自分は何者

でありうるのかを実験する試みである。オートフィクションは誰かに読まれるよりも、著者が自己を探

求及び実験する試みであり、それゆえトラウマ的体験後の反応を描いたり、自己を新たな状況に位置づ

けることが重要になる。

[. . .] autofiction is a project of self-exploration and self-experimentation on the part of the author.

This in turn is partly because many works of autofiction have been written in the afterm

ath of some

kind of traumatic experience

─real or imagined

─so that the process of writing in response to traum

a can be seen as a means of situating the self in a new context when other relational constructs

have been removed or jeopardized. (D

ix 4)

 英語圏においてオートフィクションが流行した理由について、ディックスは三つの理由を挙げている。

一つ目は女性の創作の価値の上昇、二つ目は自費出版を含む小規模出版の増加、そして三つ目はテレビ

や出版物におけるリアリティ・ショー的なコンテンツの増加である(D

ix 10)

。既存の価値体系において

評価を受けてこなかった来歴を持ち、何物でもなかった者たちが新たな環境に自己を適応させたり、位

置づける試みにふさわしい形式としてオートフィクションが機能している。

 このように、二〇一〇年代に何者でもない者が自分のために語るオートフィクションが流行したこ

とは、裏を返せばアメリカとは何かという国家規模の問題を扱う「偉大なるアメリカ小説」の衰退を

意味する。もちろん、ジョナサン・フランゼン (Jonathan Franzen)

やリチャード・パワーズ (Richard

Powers)

のように、当代のアメリカ合衆国を描き続ける作家もいる他方で、アメリカ小説を志向せずた

だ小説を書く作家が増えたことは、藤井光の『ターミナルから荒れ地へ』(2016)

に詳しいのでここでは

詳述しない。代わりに、本稿のタイトルを「意識の疲れ」とした理由として、米国小説界の大御所トマス・

ピンチョン (Thom

as Pynchon)

やドン・デリーロ (D

on DeLillo)

の作風の変化を挙げておきたい。

 ピンチョンと言えばアメリカ文学におけるポストモダニズムの代表格的な作家で、一九七三年に発表

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 110111 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

された『重力の虹 (Gravity’s Rainbow

)

』は第二次世界大戦末期のヨーロッパを舞台にした百科全書的メ

ガノヴェルとして名を馳せている。しかし、彼が全世界規模で張り巡らされる陰謀論をとてつもない知

的体力で描き続けているわけではない。二〇〇九年に出された『インヒアレント・ヴァイス (Inherent

Vice)』は、難解なイメージを持たれがちなピンチョン作品でありながらリーダビリティを備えていた。

このようなピンチョンの作風の変化について、二〇一四年一〇月五日(日)に北海学園大学で行われた

講演「U

ncreative writing

をめぐって」の中で、作家の円城塔は「疲れたピンチョンも好き」だと発言し

た。かつて百科全書的博識で、知の巨人たる己の意識で世界を覆わんとした大作家の「疲れ」を円城は

指摘したのである。そのピンチョンと同世代で、一九九七年に八二七ページの大著『アンダーワールド

(Underworld)

』を発表してから四年後、二〇〇一年にわずか一二八ページのミニマルな作品『ボディ・アー

ティスト (The Body Artist)』を発表したドン・デリーロにも同様のことが言える。かつて百科全書的メ

ガノヴェルで名を馳せた作家たちの「疲れた」作風への移行が、本稿の「意識の疲れ」というタイトル

を導いた理由の一端を担っている。加えて、二〇一四年の円城の講演内容が「U

ncreative writing

」につ

いて、すなわち、G

oogle

で自動生成される詩や、プログラムで生成される言語芸術についてであったこ

とを思えば、現代の言語芸術は人の意識が疲れていても、いや、人の意識がなくとも生まれうるのでは

ないかということまで考えさせるものであった。

3 ポスト・トゥルース時代に失われゆく解釈、意識の消滅へ

 二〇一〇年代の言語環境を考えるうえで、二〇一六年の大統領選挙戦以来、「ポスト・トゥルース」「フェ

イクニュース」「オルタナファクト」といった語が飛び交うようになったことは重要である。オックス

フォード辞書が二〇一六年を代表する一語に「ポスト・トゥルース (post-truth)

を選出したことについ

て、リー・マッキンタイア (Lee M

cIntyre)

はその著書『ポスト・トゥルース (Post-Truth)

』(2018

、未邦訳)

の中で、二〇一五年から語の使用率が二〇〇〇%も急増した事実に鑑みて妥当だと述べている(M

cIntyre 1)

。 それでは「ポスト・トゥルース」とは何を示す語なのだろうか。千葉雅也は「ポスト・トゥルース」

とは真理をめぐる諸解釈がなくなった後に揺らぐことのない事実と事実が衝突する状況だと『意味がな

い無意味』の中で述べている。

ポスト・トゥルースとは、ひとつの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実

と事実の争いが展開される状況である。さらに言えばそれは、別の世界同士の争いに他ならない。

真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=

世界のあいだで展開される。[. . .]

そうなると、他者はすべて、別世界の住人である。(千葉 32

真理の後の時代には解釈が消滅し、世界と世界が争う。これは解釈が世界を貧困化及び委縮させること

を危惧したスーザン・ソンタグの議論(

『反解釈』 22-23)

が徹底された状況と言えるかもしれない。もは

や誰も解釈を行わない時代の到来である。

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 110111 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

された『重力の虹 (Gravity’s Rainbow

)

』は第二次世界大戦末期のヨーロッパを舞台にした百科全書的メ

ガノヴェルとして名を馳せている。しかし、彼が全世界規模で張り巡らされる陰謀論をとてつもない知

的体力で描き続けているわけではない。二〇〇九年に出された『インヒアレント・ヴァイス (Inherent

Vice)

』は、難解なイメージを持たれがちなピンチョン作品でありながらリーダビリティを備えていた。

このようなピンチョンの作風の変化について、二〇一四年一〇月五日(日)に北海学園大学で行われた

講演「U

ncreative writing

をめぐって」の中で、作家の円城塔は「疲れたピンチョンも好き」だと発言し

た。かつて百科全書的博識で、知の巨人たる己の意識で世界を覆わんとした大作家の「疲れ」を円城は

指摘したのである。そのピンチョンと同世代で、一九九七年に八二七ページの大著『アンダーワールド

(Underworld)

』を発表してから四年後、二〇〇一年にわずか一二八ページのミニマルな作品『ボディ・アー

ティスト (The Body Artist)

』を発表したドン・デリーロにも同様のことが言える。かつて百科全書的メ

ガノヴェルで名を馳せた作家たちの「疲れた」作風への移行が、本稿の「意識の疲れ」というタイトル

を導いた理由の一端を担っている。加えて、二〇一四年の円城の講演内容が「U

ncreative writing

」につ

いて、すなわち、G

oogle

で自動生成される詩や、プログラムで生成される言語芸術についてであったこ

とを思えば、現代の言語芸術は人の意識が疲れていても、いや、人の意識がなくとも生まれうるのでは

ないかということまで考えさせるものであった。

3 ポスト・トゥルース時代に失われゆく解釈、意識の消滅へ

 二〇一〇年代の言語環境を考えるうえで、二〇一六年の大統領選挙戦以来、「ポスト・トゥルース」「フェ

イクニュース」「オルタナファクト」といった語が飛び交うようになったことは重要である。オックス

フォード辞書が二〇一六年を代表する一語に「ポスト・トゥルース (post-truth)

を選出したことについ

て、リー・マッキンタイア (Lee M

cIntyre)

はその著書『ポスト・トゥルース (Post-Truth)

』(2018

、未邦訳)

の中で、二〇一五年から語の使用率が二〇〇〇%も急増した事実に鑑みて妥当だと述べている(M

cIntyre 1)

。 それでは「ポスト・トゥルース」とは何を示す語なのだろうか。千葉雅也は「ポスト・トゥルース」

とは真理をめぐる諸解釈がなくなった後に揺らぐことのない事実と事実が衝突する状況だと『意味がな

い無意味』の中で述べている。

ポスト・トゥルースとは、ひとつの真理をめぐる諸解釈の争いではなく、根底的にバラバラな事実

と事実の争いが展開される状況である。さらに言えばそれは、別の世界同士の争いに他ならない。

真理がなくなると解釈がなくなる。いまや争いは、複数の事実=

世界のあいだで展開される。[. . .]

そうなると、他者はすべて、別世界の住人である。(千葉 32

真理の後の時代には解釈が消滅し、世界と世界が争う。これは解釈が世界を貧困化及び委縮させること

を危惧したスーザン・ソンタグの議論(

『反解釈』 22-23)

が徹底された状況と言えるかもしれない。もは

や誰も解釈を行わない時代の到来である。

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 112113 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

 「ポスト・トゥルース」時代に解釈は存在しない。文学研究にとってこれは大変な事態である。「ポスト・

トゥルース」状況においては、小説を読んでも解釈できない、あるいは、テクストを読んでも解釈は生

まれないということだろうか。完全に解釈が失われるとまではいかないにしても、それに近い事例として、

二〇一七年に発表されたクリステン・ルーペニアン (Kristen Roupenian)

の短編「キャット・パーソン ( “Cat

Person”)」とその受容を挙げることができる。

 「キャット・パーソン」がオンラインで発表された二〇一七年一二月当時は、その二か月前に起こった

映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン (H

arvey Weinstein)

へのセクハラ告発をきっかけに

#MeToo

運動が加速し始めていた時期だった。勢いに乗る #M

eToo

運動に共鳴するかのように「キャッ

ト・パーソン」は騒然の話題作となった。女性読者たちはマーゴと似た経験を言葉にして感情や経験を

共有した。その後それに対抗するように、男性読者たちから反「キャット・パーソン」的な運動が現れ

た。一部の男性たちは、「男性キャラクターのロバートの方が被害者だ」、「女性キャラクターのマーゴ

は自意識過剰だ」とする否定的な意見をSNSに投稿し始め、それらは「M

en React to Cat Person(@M

enCatPerson)

」というツイッターアカウントにまとめて晒されるようになった。「キャット・パーソン」

に否定的な感想を述べている男性アカウントをまとめておけば女性が関わるべきでない有害な男性たち

を一覧表示することができ、何らかの対処ができるというわけだ。その後「キャット・パーソン─ロ

バートが考えていた(であろう)こと (“Cat Person: W

hat Robert (probably) thought”)

」という作者不詳

の二次創作がネットに出回り、本家の「キャット・パーソン」の公開から九日後にはBBCが公式にオ

ンライン掲載するに至った。このロバート視点の二次創作ではロバートはネコが嫌いで実は「犬派(dog

person

)」だと書かれており、元の作品から想像しがたい別世界が展開されている部分も見受けられる。

タイトルは「ドッグ・パーソン」とした方が気が利いていただろう。

 同じ作品を読んだはずなのに読者たちは全く別様の「キャット・パーソン」をそこに見出し、挙句の

果てに別のバージョンを制作して流通させる。それは解釈や意見の衝突というよりも、ただ別の作品が

あり、作品どうしが争っているような状況である。ここではファクトに対してオルタナファクトが提出

されるように、ノベルに対してオルタナノベルが提出されているのだ。建築的比喩を用いるならば、小

説は読者たちが解釈を持ち寄る待合室ではなく、別世界の住人たる読者たちを隔てる壁として機能して

いる。

 上記のような「キャット・パーソン」の受容状況について、作者ルーペニアンはどのように感じたの

だろうか。あるインタビューの中で、彼女は「キャット・パーソン」が #M

eToo

運動の一環として多く

の女性読者たちが日常を語るきっかけになったことを「完全に正当化しうるフィクションの使用方法 (a

perfectly justifiable use of fiction)

」と述べて歓迎している。しかし、その後マーゴとロバートのどちらが

真の犠牲者かという論争が起こり、読者どうしを別世界の住人として分断したことについては、誰しも

が強く明確な意見を持たなければならなくなるという、インターネット上の会話が陥りがちな結末になっ

てしまったと語っている (D

aum 22

段落)

。「キャット・パーソン」を自分の経験を語るきっかけとして(読

むというより)使用することは大いに結構だ。しかし作品解釈が弱った先に、「マーゴ良し、ロバートダ

メ (“Margot good, Robert bad”)

」か「マーゴダメ、ロバート良し (“M

argot bad, Robert good”)

」の二択

以外に読者の意見が出にくくなった作品受容の第二段階については快く思っていないようだ。

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 112113 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

 「ポスト・トゥルース」時代に解釈は存在しない。文学研究にとってこれは大変な事態である。「ポスト・

トゥルース」状況においては、小説を読んでも解釈できない、あるいは、テクストを読んでも解釈は生

まれないということだろうか。完全に解釈が失われるとまではいかないにしても、それに近い事例として、

二〇一七年に発表されたクリステン・ルーペニアン (Kristen Roupenian)

の短編「キャット・パーソン ( “Cat

Person”)

」とその受容を挙げることができる。

 「キャット・パーソン」がオンラインで発表された二〇一七年一二月当時は、その二か月前に起こった

映画プロデューサーのハーヴェイ・ワインスタイン (H

arvey Weinstein)

へのセクハラ告発をきっかけに

#MeToo

運動が加速し始めていた時期だった。勢いに乗る #M

eToo

運動に共鳴するかのように「キャッ

ト・パーソン」は騒然の話題作となった。女性読者たちはマーゴと似た経験を言葉にして感情や経験を

共有した。その後それに対抗するように、男性読者たちから反「キャット・パーソン」的な運動が現れ

た。一部の男性たちは、「男性キャラクターのロバートの方が被害者だ」、「女性キャラクターのマーゴ

は自意識過剰だ」とする否定的な意見をSNSに投稿し始め、それらは「M

en React to Cat Person(@M

enCatPerson)

」というツイッターアカウントにまとめて晒されるようになった。「キャット・パーソン」

に否定的な感想を述べている男性アカウントをまとめておけば女性が関わるべきでない有害な男性たち

を一覧表示することができ、何らかの対処ができるというわけだ。その後「キャット・パーソン─ロ

バートが考えていた(であろう)こと (“Cat Person: W

hat Robert (probably) thought”)

」という作者不詳

の二次創作がネットに出回り、本家の「キャット・パーソン」の公開から九日後にはBBCが公式にオ

ンライン掲載するに至った。このロバート視点の二次創作ではロバートはネコが嫌いで実は「犬派(dog

person

)」だと書かれており、元の作品から想像しがたい別世界が展開されている部分も見受けられる。

タイトルは「ドッグ・パーソン」とした方が気が利いていただろう。

 同じ作品を読んだはずなのに読者たちは全く別様の「キャット・パーソン」をそこに見出し、挙句の

果てに別のバージョンを制作して流通させる。それは解釈や意見の衝突というよりも、ただ別の作品が

あり、作品どうしが争っているような状況である。ここではファクトに対してオルタナファクトが提出

されるように、ノベルに対してオルタナノベルが提出されているのだ。建築的比喩を用いるならば、小

説は読者たちが解釈を持ち寄る待合室ではなく、別世界の住人たる読者たちを隔てる壁として機能して

いる。

 上記のような「キャット・パーソン」の受容状況について、作者ルーペニアンはどのように感じたの

だろうか。あるインタビューの中で、彼女は「キャット・パーソン」が #M

eToo

運動の一環として多く

の女性読者たちが日常を語るきっかけになったことを「完全に正当化しうるフィクションの使用方法 (a

perfectly justifiable use of fiction)

」と述べて歓迎している。しかし、その後マーゴとロバートのどちらが

真の犠牲者かという論争が起こり、読者どうしを別世界の住人として分断したことについては、誰しも

が強く明確な意見を持たなければならなくなるという、インターネット上の会話が陥りがちな結末になっ

てしまったと語っている (D

aum 22

段落)

。「キャット・パーソン」を自分の経験を語るきっかけとして(読

むというより)使用することは大いに結構だ。しかし作品解釈が弱った先に、「マーゴ良し、ロバートダ

メ (“Margot good, Robert bad”)

」か「マーゴダメ、ロバート良し (“M

argot bad, Robert good”)

」の二択

以外に読者の意見が出にくくなった作品受容の第二段階については快く思っていないようだ。

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 114115 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

 ポスト・トゥルース状況においては小説の解釈が弱り、ノベルに対してオルタナノベルが提出され、

読者たちは別世界の住人になる。そのような事例として「キャット・パーソン」の受容状況を分析して

きたが、これを本稿のテーマに引きつけるならば、読者が作品に滞留し、解釈を育てるだけの意識が疲

弊しているのだと言える。ポスト・トゥルース時代には解釈がなくなり、ただ事実と事実が衝突すると

いう千葉の議論は、本稿がキーワードとして掲げた「意識の疲れ」をも超えた「意識の消滅」とも言う

べき事態を思わせる。現代アメリカ文学の創作や研究環境において、包括的な状況把握にはどこかで限

界が訪れるという「意識の疲れ」は、作品の受容においても表れているのだ。ただし、そうした「意識

の疲れ」は必ずしも否定的な意味を持つわけではない。フレドリック・ジェイムソン (Fredric Jam

eson)

が言うように、文学史が多様化及び増殖の一途を辿り、一人の専門家では到底その全体像を把握できな

いとしても、研究者それぞれの限界(「意識の疲れ」)を持ち寄れば「到達不可能なものの輪郭」(ジェイ

ムソン 20

を浮かび上がらせるような試みが可能となるからだ。続くジェイムソンの別の表現を借りる

ならば、現代の文学研究は、「多様性と矛盾でもって、弁証法的に徐々にそれに接近していく」のである。

他方で、解釈能力の衰弱のような形で「意識の疲れ」が表れる際には、失われた解釈を取り戻す方策を

創作者も読者も引き出しとして持っておくことが好ましい

3

。二〇一〇年代アメリカ文学の創作、研究、

受容、そのどの段階においても表れる「意識の疲れ」を意識するからこそ、ありうべき対処が可能とな

ることに疑問の余地はない。

 註本

稿は、二〇一九年一二月七日(土)に神戸大学六甲台キャンパスにて開催された、神戸大学芸術学研究室主催のシンポジ

ウム「第一四回神戸大学芸術学研究会 

フィクションパワー」における口頭発表に加筆修正したものである。なお、発表内

容の一部に手を加えた文章「ガールズ・パワーからホラーへ

─クリステン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代

の小説戦略」が、出版社書肆侃侃房が運営するウェブサイト「W

eb

侃づめ」内のマガジン『現代アメリカ文学ポップコー

ン大盛』に二〇二〇年二月一三日付けで掲載された。

1

ここでドラマを文学の範疇で扱うことに疑問を抱くかもしれないが、二〇一六年にノーベル文学賞をボブ・ディラン (Bob

Dylan)

が受賞し、グラフィック・ノベルが小説と同じく文学賞を争うことが当たり前になった現在の文学環境において、

文学がどの媒体を対象とするのかは自明ではない。『センス8』でも小説家のアレクサンダル・ヘモン (Aleksandar Hem

on)

やデイヴィッド・ミッチェル (David M

itchell)

が最終話の脚本に参加しているように、たとえ一人の小説家を軸にした作家

研究を試みるにしても、多岐にわたる作家活動を追ううちに文学研究は必然的にメディア横断的にならざるを得ない。

実際の発言は以下の通り。 “He spoke sim

ilarly of “Sense8,” citing expensive costs for the cast to travel across the w

orld to film in eight different cities sim

ultaneously. . . . the audience was very passionate but just not large enough

to support the economics of som

ething that big, even in our platform.”

(Ge “Netflix Boss on ‘The Get Down,’ ‘Sense8’

Cancellations: ‘We Couldn’t Support Those Econom

ics’”

ごく限られた解釈しか生まれなくなった短編「キャット・パーソン」の作者ルーペニアンが、失われた解釈をどのよう

に取り戻そうとしたのかについては、書肆侃侃房運営のW

eb

サイト内の記事「ガールズ・パワーからホラーへ

─クリス

テン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代の小説戦略」にて論じた。

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 114115 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

 ポスト・トゥルース状況においては小説の解釈が弱り、ノベルに対してオルタナノベルが提出され、

読者たちは別世界の住人になる。そのような事例として「キャット・パーソン」の受容状況を分析して

きたが、これを本稿のテーマに引きつけるならば、読者が作品に滞留し、解釈を育てるだけの意識が疲

弊しているのだと言える。ポスト・トゥルース時代には解釈がなくなり、ただ事実と事実が衝突すると

いう千葉の議論は、本稿がキーワードとして掲げた「意識の疲れ」をも超えた「意識の消滅」とも言う

べき事態を思わせる。現代アメリカ文学の創作や研究環境において、包括的な状況把握にはどこかで限

界が訪れるという「意識の疲れ」は、作品の受容においても表れているのだ。ただし、そうした「意識

の疲れ」は必ずしも否定的な意味を持つわけではない。フレドリック・ジェイムソン (Fredric Jam

eson)

が言うように、文学史が多様化及び増殖の一途を辿り、一人の専門家では到底その全体像を把握できな

いとしても、研究者それぞれの限界(「意識の疲れ」)を持ち寄れば「到達不可能なものの輪郭」(ジェイ

ムソン 20

を浮かび上がらせるような試みが可能となるからだ。続くジェイムソンの別の表現を借りる

ならば、現代の文学研究は、「多様性と矛盾でもって、弁証法的に徐々にそれに接近していく」のである。

他方で、解釈能力の衰弱のような形で「意識の疲れ」が表れる際には、失われた解釈を取り戻す方策を

創作者も読者も引き出しとして持っておくことが好ましい

3

。二〇一〇年代アメリカ文学の創作、研究、

受容、そのどの段階においても表れる「意識の疲れ」を意識するからこそ、ありうべき対処が可能とな

ることに疑問の余地はない。

 註本

稿は、二〇一九年一二月七日(土)に神戸大学六甲台キャンパスにて開催された、神戸大学芸術学研究室主催のシンポジ

ウム「第一四回神戸大学芸術学研究会 

フィクションパワー」における口頭発表に加筆修正したものである。なお、発表内

容の一部に手を加えた文章「ガールズ・パワーからホラーへ

─クリステン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代

の小説戦略」が、出版社書肆侃侃房が運営するウェブサイト「W

eb

侃づめ」内のマガジン『現代アメリカ文学ポップコー

ン大盛』に二〇二〇年二月一三日付けで掲載された。

1

ここでドラマを文学の範疇で扱うことに疑問を抱くかもしれないが、二〇一六年にノーベル文学賞をボブ・ディラン (Bob

Dylan)

が受賞し、グラフィック・ノベルが小説と同じく文学賞を争うことが当たり前になった現在の文学環境において、

文学がどの媒体を対象とするのかは自明ではない。『センス8』でも小説家のアレクサンダル・ヘモン (Aleksandar Hem

on)

やデイヴィッド・ミッチェル (David M

itchell)

が最終話の脚本に参加しているように、たとえ一人の小説家を軸にした作家

研究を試みるにしても、多岐にわたる作家活動を追ううちに文学研究は必然的にメディア横断的にならざるを得ない。

実際の発言は以下の通り。 “He spoke sim

ilarly of “Sense8,” citing expensive costs for the cast to travel across the w

orld to film in eight different cities sim

ultaneously. . . . the audience was very passionate but just not large enough

to support the economics of som

ething that big, even in our platform.”

(Ge “Netflix Boss on ‘The Get Down,’ ‘Sense8’

Cancellations: ‘We Couldn’t Support Those Econom

ics’”

ごく限られた解釈しか生まれなくなった短編「キャット・パーソン」の作者ルーペニアンが、失われた解釈をどのよう

に取り戻そうとしたのかについては、書肆侃侃房運営のW

eb

サイト内の記事「ガールズ・パワーからホラーへ

─クリス

テン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代の小説戦略」にて論じた。

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 116117 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

参考資料

・円城塔「Uncreative W

riting

をめぐって」北海学園大学豊平キャンパスにて講演、二〇一四年一二月五日。

・千葉雅也 『意味がない無意味』河出書房新社、二〇一八年。

・都甲幸治 『読んで、訳して、語り合う。

─都甲幸治対談集』立東社、二〇一五年。

・藤井光『ターミナルから荒れ地へ──「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』中央公論新社、二〇一六年。

・矢倉喬士「ガールズ・パワーからホラーへ──クリステン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代の小説戦略」『現

代アメリカ文学ポップコーン大盛』、二〇二〇年二月一三日、二〇二〇年二月一七日アクセス。

・スーザン・ソンタグ『反解釈』高橋康也、出渕博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄訳、筑摩書房、一九九六年。

・フレドリック・ジェイムソン「「新しさ」の終焉とそれ以降の新しい文学史」、『世界文学史はいかにして可能か』、木内徹・

福島昇・西本あずさ監訳、成美堂、二〇一一年。

・“Cat Person: What Robert (Probably) Thought.” BBC

, 13 Dec. 2017. Accessed 7 Feb. 2020.

・Daum, M

eghan. “The Lessons of ‘Cat Person.’” GEN, 21 Feb. 2019. Accessed 17 Feb. 2020.

・Kissick, Dean. “i-D book club: the idiot.” i-D, 2 M

ay 2017. Accessed 17 Feb 2020.

・Ge, Linda. “Netflix Boss on ‘The Get Dow

n,’ ‘Sense8’ Cancellations: ‘We Couldn’

t Support Those Economics.’” The

Wrap, 10 Jun 2017. Accessed 17 Feb 2020.

・Dix, H

ywel. “Introduction: Autofiction in English: The Story So Far.”Autofiction in English. Ed. H

ywel D

ix. Palgrave M

acmillan, 2018. 1-23.

・Lee, Min Jin. Pachinko. Head of Zeus. 2017.

・McIntyre, Lee. Post-Truth. The M

IT Press, 2018.

・The Wachow

skis, J. Michael Straczynski. Sense8. Netflix, 2015-2018.

・Vulture Editors. “A Premature Attem

pt at the 21st Century Canon: A Panel of Critics Tells Us What Belongs on a List of

the 100 Most Im

portant Books of the 2000s . . . So Far.” Vulture, 17 Sep. 2018. Accessed 17 Feb. 2020.

・Roupenian, Kristen. You Know You Want This. Jonathan Cape, 2019.

美学芸術学論集 | 第 16 号 | 116117 | 特集 | 意識の疲れ―二〇一〇年代アメリカ文学の諸相 矢倉喬士| Takashi YAGURA

参考資料

・円城塔「Uncreative W

riting

をめぐって」北海学園大学豊平キャンパスにて講演、二〇一四年一二月五日。

・千葉雅也 『意味がない無意味』河出書房新社、二〇一八年。

・都甲幸治 『読んで、訳して、語り合う。

─都甲幸治対談集』立東社、二〇一五年。

・藤井光『ターミナルから荒れ地へ──「アメリカ」なき時代のアメリカ文学』中央公論新社、二〇一六年。

・矢倉喬士「ガールズ・パワーからホラーへ──クリステン・ルーペニアンによるポスト・トゥルース時代の小説戦略」『現

代アメリカ文学ポップコーン大盛』、二〇二〇年二月一三日、二〇二〇年二月一七日アクセス。

・スーザン・ソンタグ『反解釈』高橋康也、出渕博、由良君美、海老根宏、河村錠一郎、喜志哲雄訳、筑摩書房、一九九六年。

・フレドリック・ジェイムソン「「新しさ」の終焉とそれ以降の新しい文学史」、『世界文学史はいかにして可能か』、木内徹・

福島昇・西本あずさ監訳、成美堂、二〇一一年。

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