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X線分析の進歩 第 44 集(2013)抜刷 Advances in X-Ray Chemical Analysis, Japan, 44 (2013) アグネ技術センター ISSN 0911-7806 (公社)日本分析化学会X線分析研究懇談会 © 和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析 河合 潤 Light Element Analysis of Wakayama Arsenic Case Jun KAWAI

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X線分析の進歩 第 44 集(2013)抜刷Advances in X-Ray Chemical Analysis, Japan, 44 (2013)

アグネ技術センターISSN 0911-7806

(公社)日本分析化学会X線分析研究懇談会 ©

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

河合 潤

Light Element Analysis of Wakayama Arsenic CaseJun KAWAI

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X線分析の進歩 44 165

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

Adv. X-Ray. Chem. Anal., Japan 44, pp.165-184 (2013)

京都大学大学院工学研究科材料工学専攻 京都市左京区吉田本町 〒606-8501

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

河合 潤

Light Element Analysis of Wakayama Arsenic Case

Jun KAWAI

Department of Materials Science and Engineering, Kyoto UniversitySakyo-ku, Kyoto 606-8501, Japan

(Received 31 December 2012, Revised 18 January 2013, Accepted 19 January 2013)

   The Wakayama poisoning case was that curry served at summer festival dated on July 25th,1998, was poisoned by arsenic with a paper cup. The X-ray fluorescence raw data measured byProf. Nakai submitted to the court was re-analyzed in the present paper. Prof. Nakai used onlyheavy elements (Mo, Sn, Sb, and Bi) to identify Specimen #1-#7, and concluded that they were allfrom the same origin; I have analyzed lighter elements (Fe, Zn, Mo, Ba, and As) reported in theNakai’s raw data, and concluded that the arsenic specimen which was found at the house of Mrs. H(Specimen #6), who is now at the deathrow, was significantly different from the arsenic specimentaken from the paper cup found at the venue.[Key words] SR-XRF, Wakayama curry poisoning case, Identification, Forensic analysis, Arsenic

 1998 年(平成 10 年)7月 25日和歌山市の夏祭りのカレーに紙コップで亜ヒ酸が混ぜられた事件の裁判にお

いて,中井鑑定に用いられた蛍光X線スペクトル生データを解析し直した.中井鑑定は重元素(Mo, Sn, Sb, Bi)

のパターンで鑑定資料 1~ 7が同一起源であることを証明したが,鑑定で無視された軽元素(Fe, Zn, Mo, Ba,

As)のパターンを比較したところ,死刑囚宅から発見されたヒ素(鑑定資料6)は紙コップに付着したヒ素(鑑

定資料 7)とは異なることが判明した.

[キーワード]放射光蛍光X線,和歌山カレーヒ素事件,異同識別,鑑識,亜ヒ酸

1. はじめに

 私は 2012年 3月発行の「X線分析の進歩」誌

第43集で,和歌山カレーヒ素事件に提出された

蛍光X線分析に関する鑑定資料を要約し蛍光X

線分析の問題点を指摘した 1).この論文に対し

て,2012年 11月 2日(金)に名古屋大学で開催

された第48回X線分析討論会において,中井泉

氏によって反論の講演が行われた.この名古屋

大学の中井氏の反論を聞いていて,軽元素を鑑

定に用いなければ完全な鑑定とは言えないこと

に気づいたので,本稿では,中井鑑定書にある

蛍光X線スペクトルの生データを解析しなおし

て軽元素の蛍光X線強度を整理した結果につい

E-mail: [email protected] Tel: 075-753-5442 Fax: 075-753-5436

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166 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

て報告する.

 なお本稿では重元素をMo, Sn, Sb, Biとし,軽

元素をFe, Zn, Mo, Ba, Asとする.前者は中井鑑

定で用いられた元素で比較的高エネルギー領域

(Mo以外は20 keV以上)に属し,後者は本稿で

扱う元素で比較的低エネルギー領域(35 keV以

下)に属するからである.後者の元素でも,通

常軽元素と呼ばれている範疇から比較すると重

元素に含まれる.

 本稿の結論を先に述べる.和歌山の関係者宅

から集めたヒ素のうち,どのヒ素が紙コップと

一致するかが分かれば,犯人特定が可能なはず

である.このためには中井鑑定で無視された軽

元素の分析がカギとなる.そこで中井鑑定書に

提示された 7つのスペクトルの生データを解析

しなおした.ピークとして認められるFe, Zn, As,

Mo, Asサムピーク,Baについてその強度をスペ

クトルのエクセルデータから読み取り,カレー

にヒ素を混入させるために犯人が使ったとされ

る「紙コップ」のヒ素との一致・不一致を調べ

た.その結果,紙コップのヒ素と,紙コップ以

外の同一起源の6種のヒ素とは,Fe, Zn, As, Mo,

Ba元素濃度に関して統計的に有意な差異があ

り,6種のどのヒ素とも一致しなかった.紙コッ

プのヒ素が 6種以外のヒ素であったと結論する

ならば,真犯人が別に存在するか,あるいはカ

レー鍋に混入させたヒ素は,H氏宅台所のプラ

スチックケース(鑑定資料6)等,鑑定した6種

のヒ素とは別のものであったと結論できる.

 和歌山の関係者宅から集めたヒ素のうち,ど

のヒ素が紙コップと一致するかが分かれば,犯

人特定が可能なはずである,と上述したが,そ

れは SPring-8を用いた中井鑑定によって明らか

にされていたのではなかったかと大部分の読者

は思ったことと思う.しかし,これは我々X線

分析研究者の誤解である.名古屋の討論会にお

ける中井氏の反論講演を聞いて,我々X線分析

研究者が初めて知った事実は,SPring-8では,こ

のことは証明されていなかったことであり,事

件の翌年(1999年)2月の中井鑑定書(本稿の

Appendix Dに抜粋を掲載)にはすでにはっきり

と記述されていた.このことを今まで知らな

かったというのはX線分析の専門家として我々

は認識不足であった.

2. 名古屋における中井反論について

 名古屋大学で開催された第48回X線分析討論

会は,10月 31日~ 11月 2日の 3日間,野依記

念学術交流館で開催された.日本全国からX線

分析関係者 160名が参加した.学会における講

演は,講演者の許諾がなければ録音や写真撮影

をしないことになっているが,今回の講演は

「和歌山毒カレー事件の法科学鑑定における放射

光蛍光X線分析の役割」と題し,予稿集の原稿

を読んだところ,私の論文1)に対する直接的な

反論であることがわかったため,その場でとっ

さに iPhoneで録音させていただいた.本稿はそ

の録音に基づいて記憶を確認しながら執筆して

いる.

 SPring-8の中井鑑定によって,複数の容疑者

の中から犯人がH氏であることが特定できたも

のだと,私も含めたX線分析研究者の多くが思

い込んでいたが,そうではなかった,というこ

とが,この時の質疑応答で,わかった.中井鑑

定では,Appendix Dに要点が再録してあるよう

に,複数の関係者宅から収集した亜ヒ酸がすべ

て同じ起源のものであると結論されている.私

は,紙コップのヒ素はH氏所有のヒ素とだけ一

致したものと思い込んでいた.私も含めて会場

にいた X 線研究者もほぼ同様の思い込みが

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X線分析の進歩 44 167

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

あった.

 鑑定書の中から軽元素を見直して軽元素成

分濃度を比較すれば,判決が正しいならば紙

コップとH氏宅のヒ素に含まれる軽元素(Na,

Mg, Al, Si, P, S, Cl, K, Ca, 遷移金属元素など)

が一致するはずであり,決定的な証拠となる.

また紙コップと H氏宅のヒ素に含まれる軽元

素成分濃度が異なれば,判決が間違っており,

別の真犯人にたどり着くことができるかもし

れない.質疑応答をしながら,私はこのように

考えた.

 名古屋の討論会の質疑応答で明らかになった

重要な点は次のとおりである.①中井鑑定は,紙

コップ由来のヒ素(本稿では不純物元素を含ん

だ亜ヒ酸を「ヒ素」と呼ぶ.元素のヒ素そのも

のはAsと表記する),カレー鍋の中に発見され

たヒ素,および和歌山の関係者宅から集められ

たヒ素の合計8種のヒ素が,すべて同じ起源であ

ることを,Mo, Sn, Sb, Biの「パターン認識」に

よって証明した.②関係者宅から集められた,6

種類のヒ素のどれが紙コップに残されたヒ素お

よびカレー鍋の中のヒ素と一致し,どれが一致

しなかったかは,SPring-8およびKEK-PFの実験

からは判定できなかった.

3. 鑑定資料について

 表1にまとめたように,警察はM氏,T氏,H

氏の合計3軒から6種のヒ素資料を入手し(鑑定

資料 1, 2, 3, 4, 5, 6),紙コップに付着したヒ素

(鑑定資料7)およびカレー鍋から発見されたヒ

素(鑑定資料 10)との一致を 3組の鑑定人(丸

茂,中井,谷口・早川)が調べた(表 1参照).

 本論文では中井氏の鑑定資料番号を用いる.

中井鑑定書では図3-1, 3-2, 3-3, 3-4, 3-5, 3-6, 3-7

として7つの蛍光X線スペクトルが示されてい

る(実際にはスペクトル全体と拡大スペクトル

があるので,合計14スペクトル,およびカレー

鍋の中から見つかった資料や中国産,韓国産,

メキシコ産,メルク社製の対照資料のスペクト

ルなども示されている).中井鑑定書の図3-1~

3-7はそれぞれ鑑定資料1, 2, 3, 4, 5, 6, 7 に対応

している.資料6の「H氏シロアリ薬剤容器」と

資料 7の「青色紙コップ付着」のヒ素中の軽元

素が一致すれば,判決どおり,H氏が犯人であ

る決定的な証拠となる.なおカレー中から見つ

かったヒ素に関しては,測定部位などによって

表 1 鑑定資料の由来と鑑定人による「鑑定資料番号」の対応表(再審弁護団による).

請求番号

鑑定人 鑑定書 日付 鑑定資料

M氏 緑色ドラム缶

M氏 ミルク缶

M氏 白色缶(重)

M氏 茶色プラスチック容器

T氏 ミルク缶つよい子

H氏 白アリ薬剤容器

青色紙コップ付着

カレー既食分

T氏 ミルク缶周辺白色粉末

1168 科警研(丸茂義輝ら) H10.12.15 (2) (3) (4) (5) (6) (1) (7)

1170 中井泉 H11.2.19 1 2 3 4 5 6 7 10

谷口一雄 早川慎二郎

H13.11.5 1 2 3 4 5 6 7 8 9

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168 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

スペクトル形状の変化が大きいので,本稿では

扱わない.

 中井氏が証明した,重元素Mo, Sn, Sb, Biの濃

度一致は,資料 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7 のヒ素が,緑色

ドラム缶(鑑定資料1)に由来するものであるこ

とを示しただけで,犯人特定の決定的な証拠に

はなっていない.一方,軽元素は,丸茂鑑定を

コピーした図1に示すように,亜ヒ酸をシロアリ

駆除剤として使う際に,デンプンやカルシウム

によって希釈して使ったと思われ,元の緑色ド

ラム缶から分けたヒ素の保管状況や混ぜ物の種

類に依存して軽元素分布(Na, Mg, Al, P, S, Cl,

K, Ca, Ti~Znの遷移金属元素)が異なるため,

所有者の特定が可能となる.谷口・早川鑑定で

は,彼らの測定した重元素だけからでは,鑑定

資料番号 1, 2, 3, 4, 5, 6のどれもが,紙コップと

同様のスペクトルを示し,ピークが微弱で変動

が大きいために,たとえ起源は同じでも,紙

コップのヒ素が鑑定資料 1~ 6のどれと異なり

どれと同じかを識別することはできないという

表 2 丸茂鑑定書 1168の「表 2」鑑定資料中検出された元素の分析結果,および「表 3」重金属濃度をまとめたもの.

*元のデータは 100ppm単位で 0.55+3.2と記載. 

Asのみ%で,他の元素は ppmで表示.

Se, Sn, Sb, Pb, Bi, Asに対して,丸茂鑑定書「表 2」1)は 1回目の測定値,丸茂鑑定書「表 3」1)では鑑定資料(2)~

(6)をさらに4回分析し,合計5回の測定値の平均値と標準偏差を求めたものが掲載されているので,本表ではSe, Sn,

Sb, Pb, Bi, Asは「表 3」の値,他の元素に対しては「表 2」の値を示した.丸茂鑑定では,資料(4)~(7)は酸に

不溶物があったため,ろ過した溶液を分析した.蛍光X線分析では不溶物も分析対象としているので,ICP-AES結果

と蛍光X線分析結果が異なる理由の一つである.

中井試料番号 1 2 3 4 5 7

丸茂試料番号 (2) (3) (4) (5) (6) (1)

Na 35 ppm 32 ppm 59 ppm 70 ppm 87 ppm 393 ppm

Mg 6 5 105 49 203 16

Al 0 0 308 170 2266 138

P 5 5 85 86 234 7

Ca 3 6 3965 147 >10000 >10000

Cr 0 0 2 4 4 12

Mn 1 1 17 15 7 3

Fe 36 28 303 861 153 146

Ni 2 2 2 4 7 7

Zn 203 201 178 205 124 297

Se 99+19 96+24 104+13 96+2 62+7 111

Sn 23+3 23+2 24+6 20+2 14+2 25

Sb 27+1 27+1 28+1 23+7 16+2 23

Pb 198+4 195+3 175+8 166+3 124+5 180

Bi 57+6 55+3* 62+20 49+1 35+2 55

As 77.0+3.4% 77.6+4.0% 68.6+2.2% 65.7+1.6% 48.7+0.8% 74.8%

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X線分析の進歩 44 169

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

結論であった.

 資料1~7及び10(表1参照)の起源(起源と

はここでは緑色ドラム缶を指す)が同じもので

あることを示す目的の分析ならば,中井氏のい

う「パターン認識」による異同識別でも十分であ

ることは賛成できる.しかし,同一起源の資料6

と 7が,所有者が同じであり,かつ,資料 1~ 5

とは異なるという鑑定のためには定量的な議論

が必要である.資料1~7が同一起源であること

は,緑色ドラム缶から分けたという裁判での証

言で十分わかることである.その証言を分析化

学的に裏付けたからと言って有罪の決定的な証

拠にはならない.

 なお本稿では,丸茂鑑定の資料番号には括弧

をつけて「鑑定資料(1)」のように表し,中井

鑑定の資料番号は「鑑定資料1」と記述する.鑑

定資料以外に「対照資料 1」などもあるが,単

に「資料 1」と記述した場合は,鑑定資料を意

味する.

4. ワイドスペクトル

 中井鑑定書 1170の鑑定資料 1~ 7(鑑定書の

図 3-1~3-7のスペクトル)を,エクセルデータ

をもとにプロットしなおしたものが図2である.

エクセルのデータは裁判に証拠として提出され

たものである.エクセルの内容は 2列のデータ

で,エネルギー列は0~102.1 keVの範囲を1022

チャネルで,強度列は整数のカウント値で記載

されている.エクセルは「図3-1」のようにファ

イル名がつけられているので,生データと鑑定

資料番号との対応は明瞭である.

 図 2を見て気づくのは,70 keV~ 90 keVの範

囲のスペクトルがよく一致していることである.

鑑定資料1~7のどれもが,緑色ドラム缶から分

かれた同一起源の試料であると考えられるので

当然である.しかし図2で注目すべきピークは,

実は○印のついたピークのみである.すなわち,

スペクトル全体の形状がよく似ているという印

象を与えるピークの多くが,Pbのピークであり,

図 1 丸茂鑑定書における資料(1)~(7)の素性につての記述部分.中井鑑定の資料番号 1~ 7との対応は表 1参照.

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170 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

Kα2 Kα1 Kβ1,3 Kβ2

Pb 72.8042 74.9694# 84.936, 84.450 87.23*,87.364*

Bi 74.8148# 77.1079 87.343*,86.834* 89.733,89.864

Pbはシンクロトロンビームラインのコリメータ

に用いられているため,試料からのものなのか,

ビームライン由来なのか判定できない.ブラン

ク・スペクトルが鑑定書に提示されていないた

め,資料に起因するPbがどの程度の強度なのか

は,判定できないが,おそらく,Pbピークの大

部分はビームライン・コリメータに由来するも

のであろう.ブランクは必ず測定されているは

ずであるが鑑定書に提示されていないのはなぜ

であろうか?学術論文なら許されないミスであ

る.図2において,73.0 keVはPb Kα2,75.1 keV

は Pb Kα1 + Bi Kα2,77.3 keVは Bi Kα1,85.2

keVは Pb Kβ1,87.6 keVは Pb Kβ2 + Bi Kβ1であ

る(表 3参照,実測値とデータベース値とは 0.2

keVずれがある).Bi Kβ2(Kβ1,3 の 1/3の強度)

は図2では見えない.強いコンプトン散乱(~95

keV)の低エネルギー側の裾に重なっているため

であろう.前報 1)でも指摘したが,入射X線の

弾性散乱ピーク(115 keV)が測定範囲に入って

いないのも問題である.入射光強度はどこかで

モニターしていたはずであるが,これも鑑定書

で述べられていない.

 図 2を詳しく見ると,確かにMo, Sn, Sb, Biの

強度比の傾向が一致するので,同一起源の(同

図 2 中井鑑定資料 1~ 7.○は中井鑑定で異同識別に用いたピーク.×は本稿で異同識別に用いたピーク.

表 3 PbとBiの特性線のエネルギー(keV)2,3).

#どうし,*どうしのピークは重なって観測される.

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X線分析の進歩 44 171

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

一の緑色ドラム缶から分けた)亜ヒ酸であると

結論できる.図2の○印で示したのがこれらの元

素のピークであり,スペクトルから受ける印象

と比較すると,あまりに弱いピークであること

がわかる.本稿ではこれらと同程度,場合によっ

ては少し強い強度のピークも含むFe(6.40 keV),

Zn(8.63 keV),Mo(17.44 keV),Asサム(21 keV),

Ba(32 keV)の 5つ(図 2の×印のピーク)につ

いて考察する.Asサムを基準にとると,×印の

ピークは,資料1~7ですべて異なった傾向を示

している.Feと Zn以外の遷移金属元素や,Na,

Mg, Al, P, S, Cl, Caについても検討したかったが,

空気中での実験であったためNa, Mg, Alのピー

クは見えていないようであり,P, S, Cl, Caや Fe

と Zn以外の遷移金属元素もはっきりしないた

め,解析しなかった.2.5 keV付近に弱いピーク,

その低エネルギー側にも強いピークが観測され

る.生データでは横軸のエネルギー値がFe~As

Kβにわたるスペクトル範囲では0.33 keVずれて

いる.2.5 keV近傍など強いピークの高エネル

ギー側ではこのずれが 0.33 keVとは違うようで

あり,そうなると PbのM線,S Kα線,Cl Kα

線などの可能性もあって,ブランク・スペクト

ルが提供されていないので2.5 keVのピークの帰

属はできなかった.

 図 3は同じく中井鑑定のエクセル生データの

中からメルク社製亜ヒ酸のデータをプロットし

たものである(中井鑑定書では図3-13).中井鑑

定書(1170)では,対照資料として中国産(対

照資料1),韓国産(対照資料2),メキシコ産(対

照資料 3),およびメルク社製の亜ヒ酸(対照資

料4)のスペクトルが掲載されている.メルク社

製でもSbが取り除けていないのかという点に驚

くと同時に,Biなどの不純物はないので,図3の

40 keV以上のエネルギー領域のスペクトルは,

一応ブランク・スペクトルとみなすことができ

図 3 メルク社製亜ヒ酸のスペクトル(中井鑑定書 図 3-13をプロットしなおしたもの).

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172 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

る.しかし図 3を見るとメルク社製亜ヒ酸にも,

Fe(6.40 keV)とZn(8.63 keV)とが含まれてい

ることがわかる.したがって本当のブランク・ス

ペクトルは本稿の解析のためには実は必須であ

る.FeやZnはビームラインに由来するかもしれ

ないからである.ブランク・スペクトルが鑑定書

に与えられていないので,試料からのものと仮

定して解析を進めることにする.後述するよう

に,丸茂鑑定のICP-AES分析結果と比較すると,

FeとZnが他の遷移金属(Cr, Mn, Ni)より2桁程

度高濃度なために(表 2参照),X線スペクトル

でもFeとZnだけが資料1~7で観測可能である

ことがわかり,丸茂鑑定と中井鑑定が整合して

いる.したがって,FeとZnのブランク強度は無

視できる.シンクロトロン・ビームラインはステ

ンレス製であり,Fe, Ni, Crが出現する可能性が

高いが,図3のメルク社製亜ヒ酸のスペクトルに

はNiとCrが出現していないので,FeやZnも計

測装置由来ではないと考えて妥当である.

 中井鑑定の結論をX線分析討論会の質疑応答

をもとに整理すると,鑑定資料1~7と,中国産,

韓国産,メキシコ産,メルク社製など他の起源

の亜ヒ酸とでは,Mo, Sn, Sb, Biの強度比(図 2

の○印の4つのピーク)が明らかに異なる傾向を

示すので,違う起源のものであり,しかも中国

産(対照資料 1),韓国産(対照資料 2),メキシ

コ産(対照資料3),メルク社製(対照資料4)と

鑑定資料1~7の強度比とを「パターン認識」する

と,鑑定資料 1~7はスペクトル間の差異が小さ

く,同一起源であると結論できる,ということ

のようである.緑色ドラム缶(鑑定資料1)は中

井鑑定書によると「中華人民共和国制造等と記

載されたもの」(ママ)とある.同じ中国産でも

鑑定資料1と対照資料1とでスペクトルが異なる

ので,製造者が異なればスペクトルも異なるこ

とが予想できる.

 中井鑑定では,資料 7の「紙コップ」と資料6

の「H氏白アリ薬剤容器」(いわゆる「H氏台所

プラスチック容器」,「H氏台所の小物入れ」など

とも呼ばれる)のヒ素との一致,および中国産,

韓国産,メキシコ産など他の起源のヒ素との違

いが記述されている.「鑑定資料1~鑑定資料7,

鑑定資料 10-1は同一物,すなわち,同一の工場

が同一の原料を用いて同一の時期に製造した亜

ヒ酸であると結論づけられた」というのが中井

鑑定の結論である(Appendix D).鑑定書には

「(4)台所の小物入れから採取した白色粉末(鑑

定資料 6),紙コップから採取した白色粉末(鑑

定資料7)の主成分はヒ素であり,それらに含ま

れる微量の重元素の特徴は,上記(2)の特徴と

一致した」と記述されている(Appendix D参照).

しかし,図2の低エネルギー領域に注目すると,

資料1~7では,特に×印で示した細かなピーク

の様子が異なる.この部分を拡大したスペクト

ルを図4,図5に示した.これらのナロースペク

トルについては次節で論ずる.

5. ナロースペクトル

軽元素を異同識別に用いることが不適切である

という理由は,丸茂鑑定(図 1)でも述べられて

いるし,中井氏の公判速記録でも中井氏自身が述

べている1).しかし軽元素が異同識別に適さない

というのは,資料1~7が同一のドラム缶に由来

するのか,そうではないのか,という異同識別が

目的の場合であって,M氏(資料1~4),T氏(資

料5),H氏(資料6)の3軒のヒ素のどれが紙コッ

プ(資料7)に付着していたかを決定するために

は軽元素の分析が重要な手掛かりとなる.

 図 4には 0~ 25 keVのエネルギー範囲を,図

5には20~40 keVを拡大したスペクトルを示す.

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X線分析の進歩 44 173

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

図 4は縦軸対数目盛で示した.

 拡大したスペクトル(図4, 5)から次のような

点に着目することができる.Sn:Sbのピーク強

度比は鑑定資料1~7までほぼ一定であるが,Ba

のピーク強度は変化している.鑑定資料 3, 4, 6

ではBaが出現している.特に資料4はBaのピー

クが他に比べて格段に強い.資料7はBaのピー

クが有るとも無いとも判断は難しい(資料 7の

Ba Kα位置の信号は,周りの信号のばらつきと

同じ程度であるが,わずかに小さなピークらし

きものが見えなくもない).それに対して資料1,

2, 5は Ba Kαピークが認められない.資料 7は

図5からわかるとおり,Sn, Sbの信号が強いにも

かかわらずBaは弱いので,資料3, 4, 6に比べる

と Baの濃度は有意に低く,仮に Baが入ってい

たとしても資料 1, 2, 5と同程度に低い濃度であ

るということができる.したがってH氏白アリ

薬剤容器(資料 6)とはBaの濃度に限って判断

しても,同一ではないと言うことができる.

 紙コップの亜ヒ酸が鑑定資料1~6のどの亜ヒ

酸に由来するのかは,Sn, Sb, Biを測定していた

のでは,すべて同じ起源(ドラム缶)なので,判

定は不可能である.Baを指標とすれば,どれに

由来するのかを推定することが可能となる.紙

コップのヒ素の試料量は蛍光X線測定には十分

な量があり,しかもシンクロトロン・ビームサ

イズはSPring-8でもKEK-PFでも中井鑑定では2

mm × 2 mmだったので,試料の平均的な組成を

図4 0 keV~25 keVの拡大図.縦軸は対数目盛.スペクトルと鑑定資料番号の関係は色で示したが,上から概略 1, 7, 5, 2, 4, 6, 3の順である.図 4のスペクトル範囲に現れる元素で,資料に含まれている元素はAs, Se, Pb, Bi, Moである.Pbはビームラインの遮蔽材に用いられているが,もしPbが分析可能であったとしても,以下のような特性線の重なりがある:Se Kα(11.2 keV) = As Kβ(11.7 keV),Se Kβ(12.5keV) = Pb Lβ(12.6 keV),Bi Lα(10.8 keV) = Pb Lα(10.5 keV) = As Kα(10.5 keV),Se Kβ(12.5 keV)= Pb Lβ(12.6 keV).資料 4の 15.2 keVのピークはBi Lγ.

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174 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

代表するのに十分な大きさのビームサイズで

あったということができる.このことはAppendix

の図 B1に示した資料 7のAsピーク強度が,プ

ロットした 7つの資料の中で最強のグループに

属していることからもわかる.また中井鑑定書

には,紙コップそのものにKEK-PFで放射光を照

射した測定をおこなったところ,「ヒ素の蛍光X

線で検出器が飽和して測定不能になるほど多量

のヒ素がほぼ紙コップ全面に付着していること

が判明した」(Appendix D)と記述されているこ

とからも,十分な資料量であったことがわかる.

 図 4を見ると,Pbは上述した理由によって議

論できないが,Fe, Zn, Moのピーク高さが資料

によって有意に変化しているのが分かる.図4は

生データの7つのスペクトルを重ねたプロットで

あるため,個々のピークの様子が分かりづらい.

そこで,As Kα × 2サムピークの高さ,そのサム

ピークの高エネルギー側の極小点,Fe, Zn, Mo

ピーク全体がすべて入るようにプロットしなお

したものを図6に示す.FeとZnのピーク高さは,

資料によって逆転しているのがわかる.Moもす

べての鑑定資料に含まれているとはいえ,Asサ

ムピークと比較するとその強度はずいぶん変化

が大きいことがわかる.特に,鑑定資料7(紙コッ

プ)に含まれるMoのピーク高さが,Asサムピー

クと比較して極端に低いことに気づく.

 図5および図6のスペクトルから,Appendix A

に示した方法で Fe, Zn, Mo, As Kα × 2サムピー

ク,Baのピーク強度(積分強度ではなくピーク

カウント値)とピークの両側のバックグラウン

ドに当たるカウント値を読み取り,直線バック

グラウンドを引いてネットピーク強度を算出し

た結果を表 4に示す.

 表 4には,丸茂鑑定書における ICP-AES分析

値を括弧にいれて示した.丸茂鑑定のFeとZnは

各1回しか分析していないので,誤差範囲は示さ

れていない.Feは丸茂鑑定では資料によって

28ppm~ 861ppmという広い範囲で変動してい

図 5 20 keV~ 40 keVの拡大図,数字 1~ 7は鑑定資料番号 1~ 7を示す.

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X線分析の進歩 44 175

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

図 6 鑑定資料 1~ 7の 0~ 25 keVの拡大スペクトル.縦軸はリニア目盛.中井鑑定書の図3-1~図 3-7に対応する.

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176 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

る.Znは 200ppm前後(124ppm~ 297ppm)で

ある.丸茂鑑定では,FeとZnの濃度は,資料に

よって逆転している.蛍光X線スペクトルでは,

FeとZnピーク強度は同じオーダーであり,原子

番号が近いFeとZnでピーク強度が同程度なら濃

度も同程度であることを考えると,丸茂鑑定の

ICP-AESの分析値は,蛍光X線分析結果とよく整

合していることがわかる.ICP-AESによるヒ素の

分析は,十分な量の試料を用いて繰り返し測定

も行われていることから,精度が高く,信頼でき

ると考えられる.紙コップ(資料7)の分析にも

十分な試料量を消費しており,信頼性は高い.

 以上のような理由から,Fe:Zn:Mo:Ba:As

を比較すれば,異同識別が可能であると考えら

れる.しかしAsピークは106カウントのオーダー

で極端に強い.極端に桁数の異なる数値の比を

とると,誤差が増幅するので,Asピークの代用

としてAsサムピークを用いることにした.Asサ

ムピークを用いることの妥当性に関しては,

Appendix Bで述べた.

 Fe:Zn:Mo:Ba:(Asサム)の比を比較する

ために,算出したカウント数をそのまま棒グラ

フで図7に示した.縦軸は表4のネットピーク高

さ(カウント数),横軸は元素を鑑定資料番号ご

とに示した.この棒グラフを各鑑定資料どうし

比較すると,紙コップのヒ素と同じ元素組成比

を持つヒ素は資料1~6の中に存在しないことが

わかる.表4にはネットピーク強度の誤差範囲の

最大値も±で示したが,中井鑑定書のスペクト

ルの場合には,十分に密なエネルギー間隔でス

ペクトルが測定されているので,Appendix Bに

述べた理由から,表4に与えた誤差より小さいと

考えてよい.図7では表4の±値をエラーバーで

棒グラフに示した.図7の資料1~資料7の棒の

高低の「パターン」を見比べれば,資料7(紙コッ

プ)と一致するものがないことがわかる.

 丸茂鑑定でAs濃度が低いのは資料5の49%で,

他は66~78%なので,丸茂鑑定で測定しなかっ

た資料6も含めて,Asは同じオーダーの濃度(50

~ 80%程度)であると考えて差し支えない.し

中井資料番号

資料の 意味 Fe Zn Mo Ba As Kα×2

(Sumピーク)

丸茂資料番号

1 M 緑色ドラム缶

744±127 (36 ppm)

1620±140 (203ppm) 1281±130 0 18833±178

(76.95±3.37%) (2)

2 Mミルク 678±115 (28 ppm)

1788±126 (201ppm) 1246±110 0 10099±140

(77.57±4.03%) (3)

3 M白色缶 639±99 (303 ppm)

4619±99 (178ppm) 604±80 267±47 2994±93

(68.60±2.20%) (4)

4 M茶色 1907±116 (861 ppm)

1146±116 (205ppm) 813±100 1636±67 7161±124

(65.65±1.62%) (5)

5 Tつよい子 888±131 (153 ppm)

2075±143 (124ppm) 1515±122 0 13340±158

(48.73±0.82%) (6)

6 Hシロアリ 4314±119 1469±105 329±77 420±49 2135±90

7 紙コップ 2972±138 (146 ppm)

1891±140 (297ppm) 366±121 265±65 15150±165

(74.7800%) (1)

表 4 Appendix Aの方法で算出した Fe, Zn, Mo, Ba, Asサムのネットピーク強度.

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X線分析の進歩 44 177

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

たがってAsサムピークで図7の縦軸を規格化し

て比較することができる.紙コップ(資料7)は

Fe > Zn > Moであり,この条件に合う鑑定資料

は,4,6だけである.しかしAsサムピークで規

格化したとして図7を見てみると,資料4は7に

比べてBaが強すぎるし,資料6は7に比べてFe,

Zn, Mo, Baのいずれも強くなりすぎる.ただし

Asサムピーク強度比は,(資料 6):(資料 7)≒

1:7 であり(図7参照),As Kαピーク強度比は,

(資料6):(資料7)≒1:3 である(図B1参照).

したがって,As濃度で割算して規格化する操作

では,3倍から7倍の不確定さが存在する.Asは

除外して Fe, Zn, Mo, Baだけを比較するなら,

H氏白アリ薬剤容器(資料6)と紙コップ(資料

7)は同一の可能性が高いと結論できる.しかし

主成分のピーク強度が3倍~7倍の誤差がある測

定は測定自体を信用できるものなのか? 1回の

測定だけからでは資料の不均一性による分析値

のばらつきの効果を評価することはできないの

で,今回の 1回のデータだけしか得られないな

ら,無罪となる.有罪とするためには資料が不

均一で測定のばらつきが大きいことを証明する

必要があるが,ばらつきが大きすぎると,異同

識別の証拠としては採用できない.

 丸茂鑑定の ICP-AES分析結果の中からFeとZn

を抜き出して図 7と同様な棒グラフであらわす

と,図 8となる.資料 1, 2, 4の FeとZnの大小関

係は図 7と図 8とで一致している.資料 3, 5, 7に

関しては,大小関係は図7と図8とで逆転する.表

2の脚注に示したように,資料(4)~(7)は酸

に不溶物があったためろ過した溶液をICP-AES分

析した.丸茂鑑定の資料(4),(5),(6)は中井

1 2 3 4 5 6 70

5000

10000

15000

20000

Net

inte

nsity (

counts

/2400 s

)

Specimen #

Fe

Zn

Mo

Ba

As-sum

図 7 鑑定資料 1~ 7の Fe, Zn, Mo, Ba, Asの傾向.誤差は表 4の±の値で,計算方法の詳細はAppendixAに示した.誤差範囲は試料を移動させずにそのまま何回も繰り返し測定した場合のデータのばらつきに相当する.「資料」から毎回サンプリングして別の「試料」を測定する,ということを繰り返し行なった場合には,誤差範囲は一般に一桁程度大きくなると言われている7).またこの図のエラーバーは,ピーク1点,その両側のバックグラウンド2点の合計3点だけしか測定データがなかった場合の±標準偏差であり,測定データ点の密度がより濃密な場合には,このエラーバーより小さな誤差範囲となる.

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178 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

鑑定の資料 3, 4, 5に対応している.資料(7)は

表1でわかるように,「T氏ミルク缶周辺白色粉末」

である.この資料は図1に示すように「ほこりな

ど外部からの汚染が明らかな鑑定資料(7)は異同

識別に適さない」と丸茂氏が指摘しているので,

資料(7)に関する考察は本稿でも行わなかった.

 以上のような考察から,中井鑑定のスペクト

ルにある Fe, Zn強度は,完全ではないが丸茂鑑

定と傾向が一致し,Mo, Baも含めた紙コップ(鑑

定資料7)のヒ素の蛍光X線スペクトル強度の傾

向は,鑑定資料1~6のいずれとも統計的に有意

な差があり,同一とは認められない.

7. おわりに

 私自身も H氏が犯人の可能性が最も高いと,

当時のテレビ報道を見て,今でもそう信じてい

る.しかし,Fe, Zn, As, Mo, Baを解析し直した

結果は,H氏が犯人ではないことを示している.

今回の再分析の結果のように,無罪とすべき分

析値が出たからと言って,軽々しく分析値を棄

却することはできない.一旦得られた分析値を

棄却するためには,それ相当の論理的な根拠が

必要となる.裁判に提出される証拠は,特定の

人物を有罪としたり無罪としたりする目的で取

捨選択されるべきではない.中井鑑定では,軽

元素(本稿で言う Fe, Zn, Baなど)に対しても

少なくともピークの帰属はなされたはずである.

これらのピークの帰属についての記述が鑑定書

に無いのは不思議である.Moを定量的に議論す

るとつじつまが合わないので中井鑑定では「パ

ターン認識」としたのではないかと思われる.

「異同識別に適した元素として,アンチモン,錫,

ビスマス,モリブデンを選択した理由は,アン

チモン,ビスマスはヒ素と化学的性質が似てお

り,亜ヒ酸の結晶中でヒ素を置換して固溶体を

形成しており,一方,錫,モリブデンも原料鉱

石に含まれる元素であって,いずれの元素も製

造後の汚染や人為的に混入されたものではない

と考えられるからである」と中井鑑定書には記

述されている(Appendix D参照).Moが不均一

で,資料ごとにばらつく理由の合理的な説明で

あるとは言えない.

 本来は事件のあった地域ですべてのヒ素を収

集して,その所有者と紙コップとの異同識別を

すべきであった.しかし,鑑定時には,逮捕すべ

き犯人が既に決まっていたために,起源(すなわ

ち製造者あるいはドラム缶)が同一であるとい

う議論にすり替えた証拠が提出された.SPring-8

という何かすごい分析装置で分析したから正当

な証拠として扱われたのではないかと思う.

 丸茂鑑定で分析されたNa, Mg, Al, P, Caなど

の軽元素や,有機物成分の化学状態分析によっ

て,本報告と同様の資料6と資料7の異同識別を

行わなければ有罪の決定的な証拠とはならな

かったはずである.このような元素分析や化学

図8 丸茂鑑定(ICP-AES)によって得られた鑑定資料 1~ 7(6を除く)の Fe, Zn濃度の傾向.資料番号は図 7と同じ.

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X線分析の進歩 44 179

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

状態分析には放射光蛍光X線分析はむしろ不得

意である.Na, Mg, Al, P, Caは,SPring-8より

SEM-EDXの方が空間分解能も良く,高感度であ

ることは前報 1)で述べた.SPring-8にこだわり

すぎたためにこのような重要な鑑定がなされず,

自白もなく,状況証拠に頼ったということは,大

きな問題である.

 我々の研究室では,1ワットの懐中電灯なみの

X線管を用いた,片手で持ち運びできるX線分

析装置8)を開発したが,全元素分析を行う場合

には,SPring-8を超える感度を達成している(1

元素だけのオリンピックデータ的な比較ではわ

れわれの1ワット装置はSPring-8より3~4桁悪

いが,放射光による選択励起で1元素だけ高感度

分析しても実際の役には立たない).このような

研究成果を持つ我々の研究室ではシンクロトロ

ン放射光に対する幻想がない.そういう目で鑑

定資料を見直すと,多くの問題点が明らかに

なった.なお,「オリンピックデータ」とは,多

くの犠牲,例えば91元素を検出できない実験条

件で1元素だけ世界トップの分析感度を目指す,

というような意味である.

 名古屋のX線分析討論会では,私が,もっと

きちっと定量化すべきだったのではないのか,

と質問すると,中井氏は,学術論文ならその必

要もあるが,事件の緊急性(逮捕を急ぐという

意味か)と世界初の実験だったため,と鑑定書

が拙速な理由を述べた.蛍光X線分析という点

では,励起エネルギーが高いからと言ってそれ

が世界初ということにはならない.むしろ感度

が悪いために和歌山事件まで使われていなかっ

たというべきである.ハンドヘルド型蛍光X線

分析装置では 1 WのX線管(懐中電灯なみの電

力)の蛍光X線分析装置を使っても30秒で数十

ppmまで分析可能である8,9).高エネルギー蛍光

X線分析は試料量が 0.1 mg以下の少ない場合に

有利であるとも言われるが,質量分析法の方が

当時も現在でも,より適した分析法である.高

エネルギー蛍光X線分析法が本当に役立つ分析

法ならば他の重要な分析に使われていない10)の

はなぜであろうか.

参考文献

1) 河合 潤:和歌山カレー砒素事件鑑定資料-蛍

光X 線分析,X線分析の進歩,43,49-87 (2012).

2) 日本分析化学会編:「分析化学便覧,改訂六版」,

§8.10, p.739 (2011), (丸善).

3) J. A. Bearden: X-ray wavelengths, Rev. Mod. Phys.,

39, 78-124 (1967).

4) H. Amekura, V. Voitsenya, T. T. Lay, Y. Takeda, N.

Kishimoto: X-ray emission induced by 60 keV high-

flux copper negative-ion implantation, Jpn. J. Appl.

Phys., 40, 1094-1096 (2001).

5) G. F. Knoll,木村逸郎,阪井英次訳:「放射線計

測ハンドブック,第2版」,pp.659-670 (1991), (日

刊工業新聞社).

6) SHIMADZU APPLICATION NEWS,No.X238,土

砂類中全ひ素及び全鉛の定量分析 [JIS K 0470],

(2009), http://www.an.shimadzu.co.jp/apl/an/x/

x238.pdf

7) 河合 潤:「分析化学実技シリーズ 機器分析編 6

蛍光X線分析」,pp.28-30 (2012), (共立出版).

8) 永井宏樹,中嶋佳秀,国村伸祐,河合 潤:SDD

を搭載したポータブル全反射蛍光X線装置による

感度及び定量性の改善,X線分析の進歩,42, 115-

123 (2011).

9) 河合 潤:ハンディー型蛍光X線元素センサー,

材料と環境,60 (12),512-517 (2011).

10) 河合 潤:SPring-8高エネルギー蛍光X線分析

と ICP-AESの元素分析感度の比較,日本学術振

興会製鋼第19委員会凝固プロセス研究会・製鋼計

測化学研究会提出資料,19委 -12634,凝固プロセ

ス -VII-14,製鋼計測化学 -VII-18,平成 25年 1月

17日,非公開.

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180 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

Appendix A.     ネット強度とその標準偏差の算出

 バックグラウンドのカウントを図A1に示すよ

うに,N1,N3とし,ピークのカウントをN2とす

る.ピークのチャネルは必ずしもバックグラウ

ンドのチャネルの中央にはならない.本稿の表4

では,ネットピーク強度を,

  1 3

net 2 2N N

N N+

= − (A.1)

とした.中心が1チャネル程度ずれることはよく

あるが,バックグラウンドのカウント数は安定

しているので,N2がN1とN3のチャネルの中心

とした式(A.1)は,N2が中心ではなくN1とN3

の内分点の直線バックグラウンドの値を計算し

た値とするよりも安定である(ノイズに強い)と

考えられるからである.また仮にスペクトルが

この 3点だけからなったとしたときに,ネット

ピーク強度の誤差を,

   1 3

2 2N N

Nσ+

= ± + (A.2)

とした.この標準偏差も表4には±の複合をつけ

て示した.X線カウント数がNカウントのとき,

その標準偏差が N になることから,式(A.2)

は,ネットピーク値の不確かさの最大限度と考

えることができる.実際にはピークの前後の

チャネルには数値が近いカウント値のデータが

存在するし,バックグラウンドの近傍にも同様

に複数のデータが存在するので,誤差は式

(A.2)より小さくなる.ピーク近傍値がピーク

以外にもう一点存在すれば誤差は12に減少す

る.ピーク強度ではなく,積分強度を計算する

考え方もあるが,本データのように,強いバッ

クグラウンドの上の微弱なピークの強度を求め

る場合には,積分範囲を 1チャネル変化させる

だけで大きく変化するため,積分強度は採用し

なかった.

サムピークのネット強度は,

  N2 - N3 (A.3)

とし,その誤差は

   2 3N N± + (A.4)

とした.

Appendix B.     サムピークと親ピークの強度の関係

 親ピーク(As Kα線強度)とKα + Kαサムピー

ク強度の関係は,比例関係にあると考えられる4,5).

ヒ素の Kα親ピークと Kα + Kαサムピーク強度

の関係を,鑑定資料1~7に対してプロットした

のが図B1である.しかし高次のサムピークにな

ると(たとえばKα + Kα + Kα)比例関係は成立

せず,Kα + Kα + Kα の場合にはAsの親ピーク

強度の概ね 2乗に比例する.Kα + Kα + Kα + Kα

の場合には概ね3乗に比例する4).またKαとKα

が重なればサムピークはKαの2倍のエネルギー

位置に出現するが,重なり方が少しずれると,見

かけのエネルギーはサムピークの低エネルギー

側へシフトする.これが,サムピークの低エネ

N2

Nnet

N3

N1

図A1.

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X線分析の進歩 44 181

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

ルギー側へテールが広がる理由である.

 中井鑑定において,スペクトルの測定時間は

2400秒 /試料,すなわち 40 分である.ピークは

6.6 × 106カウントなので 2700cpsであって,そ

れほど高い計数値ではないが,全エネルギー範

囲のスペクトル積分強度はヒ素のピークが最も

強い資料 5で 35457611カウント,最も弱い資料

3で16197114(ただし,資料3の生データでは0.2

keVのデータが消去されており,もしも電気ノ

イズなどのために極端に強いカウント値を手作

業で修正したとすれば,総カウント数はもっと

強い可能性がある)なので,1秒当たりの総カウ

ント数は,14700~6700cpsの範囲である.通常

はスペクトル全体の積分強度が1万cpsを超えな

いように測定すべきであると言われてる.サム

ピークの扱いについて親ピークとの強度比の関

係を専門家に問い合わせたところ,サムピーク

が出現するような条件では測定しない,という

のが検出器の専門家複数のコメントであった.

図B1を見ると 1500000カウント /2400秒になれ

ば,サムピークは無視できそうである.

 JISにおける土壌中の Asと Pbの分析(JIS

K0470)では,鉄がメジャーな元素である場合が

多いため,Fe Kαサムピーク(12.8 keV)が Pb

Lβ1線(12.6 keV)に重なるので,Fe Kαサムピー

ク強度が,Fe Kα親線強度の 1/1000以下になる

ような条件で測定するように規定されている6).

今回の測定では,As親ピークはAsサムピーク強

度の約300倍なので,まあまあということができ

るが,文献 1)に述べたように,サムピークの低

エネルギー側テールに重畳した,サムピークよ

りも弱いピーク(Mo)を議論する場合には問題

がある.

Appendix C 中井鑑定のKEK-PFでのMo測定スペクトル

 中井鑑定では,SPring-8の高エネルギー励起

蛍光 X線分析ではMoの強度が弱すぎたため,

KEK-PFで20~21 keVの入射光を用いて一試料

あたり 2400秒で測定した.その結果を鑑定書

1170から抜き出して図C1に示す.強度が任意単

位(arbitrary units)となっているので,実際に各

資料ごとに濃度に換算することはできない.ど

のスペクトルもMoピークがほぼ同じ強さにな

るようにプロットされているが,鑑定資料4など

はノイズが大きく,実際の強度は弱かったこと

0 2000000 4000000 6000000

0

8000

16000

24000

7

6

5

4

3

2

1

su

m

As

図 B1 As Kα親ピークとKα +Kαサムピーク強度の関係.番号1~7は鑑定資料1~7に対応.直線は最小 2乗フィット.

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182 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

を示している.入射光の散乱ピークなどのよう

に,基準となるスペクトルピークが示されてい

ないことと,ビームサイズ(2 mm × 2 mm)と

試料面積との関係が不明なので,濃度に換算す

ることはできない.対照資料4はメルク社製亜ヒ

酸であり,Moが出現していないので,この領域

のブランク・スペクトルと考えることができる.

本文の図 4,図6,図 7,表 4に示したようにMo

の強度がAsに対して大きく変化していたにもか

かわらず,Moの部分だけを拡大することによっ

て,強度が極端に異なるデータを,同じ傾向を

持つデータであると錯覚させる効果があったこ

とがわかる.鑑定資料6を採取したプラスチック

容器そのもの[図9-(1B)],および紙コップその

もの[図 9-(2B)]のスペクトルも引用して示し

た.プラスチック容器にはヒ素はほとんど残っ

ていなかったということであるが(0.1 mg以

下),Moがピークとして検出できるほど容器の

壁にも残留していたのはどういう事であろう

か?紙コップ自体に付着したMoは高強度であ

るが,そこから採取した資料7のMoは極端に弱

いので,基準となるスペクトル成分で規格化す

る必要性が大きいこともわかる.

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X線分析の進歩 44 183

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

図C1.

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184 X線分析の進歩 44

和歌山カレーヒ素事件鑑定資料の軽元素組成の解析

HAppendix D 中井鑑定書 1170の抜粋

 SPring-8における高エネルギー放射光励起蛍

光X線分析のまとめ.

 KEK-PFにおける 21 keV以下の放射光励起に

よる蛍光X線分析のまとめ.

 中井鑑定書の結論