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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』 -84- 『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』 村 田 麻里子 MURATA Mariko はじめに 文明開化のなかの博物館──明治政府によるミュージアム「輸入」政策 日本人がみたミュージアム 殖産興業と「博覧会=博物館」構想 理想の博物館モデルをめぐって 日本の博物館の位置 「帝国」のなかの博物館──新たなイデオロギーへ 国体護持と社会教育 精神的象徴としての博物館 植民地下における西洋型ミュージアムの接収 戦後民主主義のなかの博物館──社会教育施設としての再出発 さいごに はじめに 本稿は,第33号・34号に引き続き「ミュージアムのメディア論(仮)」の構想の一部をなす ものである。第33号では,ミュージアムが「モノ」を扱うことの意味や,そこに含みうるイデ オロギーについて検討した 1 。また第34号では,中世から続く西洋の蒐集文化の歴史性と権力 性を可視化し,ミュージアムがとりわけ視覚という観点からそうした文化を引き継いだ機関で あることについて検討した 2 。そして,それらのミュージアムが,帝国主義および 博 イストワール・ナチュレル 3 のパラダイムと密接に関わっていることもみた。今回は,そうした西洋のミュージアム文化を, 近代国家を目指した日本がどのような形で受容したのかという点に着目する。日本における ミュージアムのメディア・コミュニケーションを考えるにあたって,まずは歴史文化的にその

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-84-

『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』

村 田 麻里子MURATA Mariko

はじめに

文明開化のなかの博物館──明治政府によるミュージアム「輸入」政策

日本人がみたミュージアム

殖産興業と「博覧会=博物館」構想

理想の博物館モデルをめぐって

日本の博物館の位置

「帝国」のなかの博物館──新たなイデオロギーへ

国体護持と社会教育

精神的象徴としての博物館

植民地下における西洋型ミュージアムの接収

戦後民主主義のなかの博物館──社会教育施設としての再出発

さいごに

はじめに

本稿は,第33号・34号に引き続き「ミュージアムのメディア論(仮)」の構想の一部をなす

ものである。第33号では,ミュージアムが「モノ」を扱うことの意味や,そこに含みうるイデ

オロギーについて検討した1。また第34号では,中世から続く西洋の蒐集文化の歴史性と権力

性を可視化し,ミュージアムがとりわけ視覚という観点からそうした文化を引き継いだ機関で

あることについて検討した2。そして,それらのミュージアムが,帝国主義および 博イストワール・ナチュレル

物 学 3

のパラダイムと密接に関わっていることもみた。今回は,そうした西洋のミュージアム文化を,

近代国家を目指した日本がどのような形で受容したのかという点に着目する。日本における

ミュージアムのメディア・コミュニケーションを考えるにあたって,まずは歴史文化的にその

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組織や空間を考察することが目的である。なお,通常は「ミュージアム」という言葉を使用し

ているが,本稿に限り,日本のミュージアムに関しては「博物館」という言葉を使用する(そ

の理由は,読み進めるうちに明らかになるであろう)。

2007年の1月から2月にかけて,京都国立近代美術館で「揺らぐ近代──日本画と洋画のは

ざまに」という展覧会が開催された4。展示された個々の作品からは,日本という国が西洋か

ら何を吸収しようとしたのか,それをいかに日本の文化の中に着地させようとしたのか,一方

でどのような抵抗を感じたのかなど,当時の西洋に対する憧憬の念や焦り,同時に戸惑いや反

発といった複雑な日本の心象風景が極めて興味深いかたちで浮かび上がっていた。たとえば,

図1は狩野芳崖による『地中海真景図』(1882年)だが,一見伝統的な日本画タッチの岩の上

には,教会が建っているのがみえる。明治に入って後ろ盾を失った狩野派は没落の一途をたど

るが,ちょうどこの頃フェノロサに評価されることで,西洋の新たな画風を取り込み始めた。

その状態を象徴するかのような作品といえる5。また,図2は,田村宗そうりゅう

立の『弁慶曳鐘図』(1901

年)であるが,弁慶に鐘という極めて「日本的」な題材が,西洋風の肉体表現や風景描写で描

かれている。田村は京都の近代化を推進する施策のひとつとして創設された京都府画学校で西

洋画を指導した人物で,実物写生に写真機を利用したり,積極的に洋画の画法を取り入れた画

家であったが,晩年は洋画では食べていけなくなり,再び毛筆画を描いていたという。この絵

はその頃のものであろうことを,図版の解説は示唆している6。このように作品に表れた「揺

らぎ」こそは,急激な近代化が日本という国の社会構造や人々の意識へ与えた揺らぎに他なら

ない。しかし,当時の日本社会のあちこちで露呈した無数の揺らぎを力ずくで突破することで,

日本は近代国家として欧米列強と肩を並べることに成功するのである。

図1─狩野芳崖『地中海真景図』1882年 墨,膠彩/紙(古田亮(編)『揺らぐ近代──日本画と洋画のはざまに』   東京国立近代美術館,2006年,p14より転載)

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では,これまでにみてきたヨーロッパの蒐集文化の結晶としての近代型ミュージアムは,こ

の時期日本にどのような形で入ってきたのだろうか。そして,その後どのような変遷を遂げて

今に至るのだろうか。実は,日本の博物館の歴史(とりわけ通史的なもの)に関する書物は驚

くほど少ない。しかし,日本における博物館が極めて行政的な枠組みの一環として,また文明

開化と殖産興業という大目標を持って,西洋から「輸入」されたことは度々指摘されている。

ここでは,詳細な史実や資料との照合はそれらの数少ない文献に主に依拠することとし7,む

しろそのような受容の仕・方・やプ・ロ・セ・ス・が,その後の博物館文化の形成にとって果たして何を意

味するのか,という点に着目したい。すなわち,近代日本における博物館の受容過程からみた

いのは,最終的には今日の日本における「博物館のポリティクス」である。

したがって,本稿では,あくまで日本の「ミュージアムの思想」の源泉を探る目的で,博物

館の歴史的変遷に着目する。日本のミュージアム・コミュニケーションを考えるにあたって不

可避の前提作業なのである。

構成としては大きく3つに分かれる。一つ目は,日本の博物館の草創期の歴史と考察である。

殖産興業を唯一無二の目的とした草創期の博物館導入の経緯を詳細に検討することで,日本に

ミュージアム文化がどのように「着地」したのか,その受容過程と意義についてつまびらかに

する。次に,やや乱暴ではあるが,殖産興業から国体護持へとイデオロギー・シフトの起きる

明治後期から昭和初期(敗戦まで)のプロセスを追う。皇室の記念事業の一環として博物館は

増えるが,背負わされた象徴性(=精神性)と実体との乖離が進む時期でもある。最後に,文

字通りそれまでの国体の歴史が全面的に否定された戦後民主主義下において,博物館がどのよ

うなパラダイムシフトを迎え,今日の博物館風景が出現するかをみていく。今回は日本の博物

図2─ 田村宗立『弁慶曳鐘図』1901年 油彩,金/キャンバス(古田亮(編)『揺らぐ近代──日本画と洋画のはざまに』   東京国立近代美術館,2006年,p57より転載)

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館の在り方にとってもっとも重要だと思われる草創期を比較的丁寧に考察し,その後明治後期

から戦後に至るまで,草創期の在り方がどう変化していくのかに着目して,ざっくりとした歴

史の流れを追うことにする(大きな流れを重視し,それ以上の細かいことは全て註に入れた。

また史実の精度よりも敢えて流れを重視して書いた部分もある)。膨大で複雑な歴史のどこに

着目して記述するかは困難を極めるが,その際の指標として,西洋の蒐集文化に根をもつミュー

ジアム(=前号までのテーマ)との距離をはかるかたちにしたい。そうすることで,日本の博

物館像の特質を逆照射できればと思う。

文明開化のなかの博物館──明治政府のミュージアム「輸入」政策

日本の博物館草創期の変遷は複雑である。当初は,殖産興業政策の一環として博物館建設が

積極的に推し進められるのだが,旧幕府側と維新政府とをめぐる抗争や,政府内部の権力争い

に博物館設立の計画自体が振り回され,なかなか実のある組織として成立しなかったのが現状

である。表1にあるように,その所轄は目まぐるしく変わり,文部省,博覧会事務局,内務省,

農商務省,宮内省と転々としている。全体を俯瞰してみると,内務省系の博物館と,文部省系

の博物館という二つの大きな流れに分

けることができ,前者は現在の東京国

立博物館,後者は現在の国立科学博物

館へと引き継がれていく。当然,内務

省における博物館政策が中心事業だっ

たといえるが,当初の壮大な構想は時

を経るごとに矮小化されていき,殖産

興業政策としての博物館事業は実質的

には失速する。

考えてみれば,博物館の設立は殖産

興業に「特効薬」として瞬時に作用す

るわけではない。国力を瞬間的に誇示

するのも,市民を啓蒙するのも,博覧

会で事足りる。モノを地道に保存して

おく施設は,結果を急ぐ維新政府の政

策としては魅力を欠く。また,文化施

設ということなら,西洋人と同じよう表1─ 「東京帝室博物館の歴史」(関秀夫『博物館の誕生』    岩波書店,2005年,pⅳより転載)

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な振る舞いで食事や会話やダンスをすることで対等であることをみせようとする鹿鳴館などの

ほうが,よほど直接的な効果を及ぼす。結局,近代化政策としての博物館建設の意義を実感し

ていたのは,実際使節団や留学生としてヨーロッパに赴き,ミュージアムの蒐集文化の厚みを

目の当たりした一握りの人々だけだ。そして,博物館の設立は,そこに情熱を傾ける何人かの

重要人物によって発案・計画されるが,彼らの構想は,スピードの速い不安定な時代状況や政

府の内部抗争に翻弄されるかたちで難航を続ける。その過程において,ヨーロッパ型ミュージ

アムの理念は,当然のことながら大きくかたちを変えていく(そもそもコレクションがないと

ころから出発している点で大きく条件が異なっているのだが)。

以下では,まず日本人がみた西洋,そしてミュージアムとは何だったのかについて,使節団

をはじめとする当時の洋行者の形跡をたどることで検討した後,彼らの吸収してきた西洋近代

の理念が維新政府においてどのような形で実践化されたのかについて,歴史的な流れを追いた

い。そのうえで,そのことが日本の博物館文化に何をもたらしたのか,検討を加える。

日本人がみたミュージアム

「博物館」に関連する語を,諸橋轍次の『大漢和辞典 巻二』で引くと,以下のような説明が

なされている。

【博 物】 1. ひろく事物を知っていること。ものし

り。博識。

2.百般の事物。百科

3.動物・植物・鉱物・生理の総称。

【博物学】動・植・鉱物学および生理学の総称。

【博物館】 多くの物を陳列し,衆人の参考又は総覧に

供する所。

ミュージアム “museum” が「博物館」と訳され

るのはいつ頃のことだろうか。椎名仙卓によれば,

少なくとも1872(明治5)年の辞書ではそのよう

な対訳がみられるという8。それまでは “museum”

という言葉は主に「学術ノ為ニ設ケタル場所」や

「学堂書庫」などと訳されていた(表2)。逆に

“museum” の実物をみてきた使節団や留学生は,

当初は「博物館」という訳以外にも展観場,宝蔵,

宝庫,古物有之館,武器宝庫所などと様々な表現

表2─「辞書などに記されたMuseum(Musée)の訳語」   ( 椎名仙卓『日本博物館成立史──博覧会から

博物館へ』雄山閣,2005年,p39より転載)

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を用いているが,やがて博・く物・を陳列する館

・を意味する「博物館」という訳が徐々に定着して

いく9。この訳の使われ方を厳密に調べていくことは極めて困難だが,いずれにしろ政府の使

節団らによる報告や日記が「博物館」という訳を定着させていったことは間違いない。

幕末期から明治初期にかけて日本から派遣された3つの使節団は,いずれもミュージアムと

いう施設を見学している。

公式な使節団としてはじめてミュージアムを見学した日本人は,日米修好通商条約の批准書

交換のために1860年に派遣された遣米使節団である。首都ワシントンでスミソニアン・インス

ティテューション10と,当時パテントオフィス(patent office)と呼ばれた特許局の陳列場を見

学している。前者では天産資料や生きたワニなどなどの展示物に加え理化学実験も披露され,

後者では,機械類や農器具類,世界各国の民族資料などが集められていたという。ただ,いず

れも厳密にはヨーロッパのミュージアムとは質の異なる施設であるうえに,そもそもは批准書

交換のための渡米であったため,施設見学は彼らの主な目的ではなかった。

1861年には,竹内下野守保徳を正使とした38人の竹内遣欧使節団がヨーロッパに赴くが,こ

こで彼らは日本人として初めて直に博覧会(1862年のロンドン万博)というものを見学する。

一行は,大英博物館をはじめとする主要なミュージアムも見学しており,福沢諭吉がその数年

後に『西洋事情』で博覧会とミュージアム(福沢は「博物館」という訳語を使用している)に

ついて書いた記述は有名である。このなかで,福沢は,ミネラロジカル・ミュージアム,ズー

ロジカル・ミュージアム,動物園,植物園,メディカル・ミュージアムと5種類のミュージア

ムを挙げているが,いずれも自然科学系のミュージアムであることは注目に値する。

さらに,1871(明治4)年,混乱さなかの維新政府が大胆にも派遣した総勢100人以上の岩

倉具視使節団(中には木戸孝允や大久保利通もいた)は,1年10ヶ月という歳月をかけてアメ

リカ,イギリス,フランス,ドイツ,イタリア,ロシアなど実に11カ国を縦横断しながら主要

なミュージアムをみてまわっている。その種類は美術館,歴史博物館,自然史博物館,動物園,

植物園など多岐に渡っている。一行はウィーン万博も見学しており,14日間のウィーン滞在の

うち丸4日間があてられている。

他にも何人かの重要人物が,当時欧米に渡っていた。そのひとりが,草創期の博物館政策の

鍵を握ることになる町田久成11である。1865年,薩摩藩の英国親善使節団の副使として他の薩

摩留学生とともに英国に派遣され,2年間滞在している。この間,町田はロンドンのサウス・

ケンジントン博物館(現ヴィクトリア&アルバートミュージアム)や大英博物館をはじめとす

るミュージアムに足繁く通っている。とりわけ大英博物館は,のちの町田が博物館のモデルと

して常に念頭に置いていた存在であり,彼の理想の博物館像となる。また,パリでは,フラン

ス国立自然史博物館(ジャルダン・デ・プラント)や,パリ万博も見学している。

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町田の見学した1866年のパリ万博は,薩摩藩,佐賀藩が単独参加したと同時に,幕府が正式

参加した万博でもある。ここには,のちの博物館政策において重要な役割を果たすことになる

田中芳男,佐野常民,手島清一,九鬼隆一といったメンバーもそれぞれ来ていた。彼らもまた,

この滞在中に精力的なミュージアム見学を行っている。田中芳夫12は,本草学者として物産会

から博覧会の開設を町田とともに現場で行い,最後まで自然史系の博物館つくりに奔走した人

物である。開成所(前身は蕃書調所,のちの大学南校物産局)の役人としてパリ万博に派遣さ

れ,10ヶ月間の滞在中に精力的に植物園や博物館を視察するなかで,彼がもっとも心を奪われ

たのがフランス国立自然史博物館(ジャルダン ・デ ・プラント)であった。このことは,本草

学者としての彼の出自からして当然のことといえるかもしれない。一方,佐野常民13はパリ万

博では佐賀藩の出展責任者として,またのちの維新政府の博覧会事務局においては副総裁とし

て博覧会を取り仕切った人物である。博覧会と博物館をセットで考え,殖産興業の一貫として

博物館建設を推進する構想を練ったのは,他でもないこの佐野である。

町田の理想とする大英博物館,田中の理想とするジャルダン ・デ ・プラント,そして佐野の

理想とするサウス・ケンジントン博物館(後述)──この三つのミュージアムがその後日本の

博物館モデルとして言及されることになる。このように,博覧会とミュージアムという西洋近

代の申し子を当時の日本人は精力的に視察し,それらを必死で吸収しようとしたのである。

前号でみたように,ミュージアムと博覧会は,西洋近代の思想(と歴史)をもっとも顕著に

体現している視覚装置であった。当時洋行した日本人は,科学技術と帝国主義とが織り成す,

地球を凝縮したような一大スペクタクルを目の当たりにし,一同圧倒されたのである。しかし,

その驚きや感嘆よりも重要なのは,いったい彼らがそこから西洋近代の何を汲み取り,それを

どのように日本の近代化政策に収斂させていったか,という点である。

使節団がミュージアムをみてどのように受け止めたかについては,松宮秀治が『「米欧回覧

実記」を読む』(法律文化社,1995年)のなかで極めて興味深い分析をしているので,少し紹

介したい。『米欧回覧実記』(以下『実記』)は,1871(明治4)年に欧米視察のために派遣さ

れた岩倉使節団のひとり,久米邦武が編集した公式報告書である14。松宮は,久米が米・欧・

露の主たるミュージアムをほとんど見学しておきながら,西洋のミュージアムの背後にある膨

大な歴史と思想を十分に読み取れなかったことを,『実記』から明らかにしている。

このことがもっとも端的に現れているのが,久米を初めとする一行のミイラ展示に対する認

識である。彼らは博物館から管・ ・ ・ ・ ・ ・理された死の匂いを嗅ぎ取っていながらも,単純にそうした展

示に対する生理的嫌悪感と,非道徳的な西洋人に対する(屈折した)優越感に回収してしまい,

ミュージアムにおける死の標本の存在が,(死や生といった)自然さえも人間の管理の対象と

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する近代合理主義の思考様式を,典型的に表わしていることには考えが至らないのである。

こうした理解は当然「ミュージアムとはどのようなものか」という彼らの認識に大きな影響

を与えているはずである。

「岩倉使節団一行と久米が訪れた1870年代のヨーロッパにおいてミュージアムは,ほぼその

機能分化を完了していた。したがって彼らのみたミュージアムとは観念大系としてのミュー

ジアムではなく,機能分化を完了した形で集められたもの,つまり「コレクション」であっ

た。彼らは各機能に応じ,ミュージアムに適宜「集古館」「博古館」「集書館」「動物園」「植

物園」という訳語を案出し,与えていった。」(松宮,1995:271)

このように,既に分化したミュージアムを束ねる思想を読み取るのはなかなか困難だったので

ある。

こうした事例が示唆するのは,使節団が実際に何をみてきたかということ以上に,それをど

のように理解してきたのかが,維新政府の近代化政策をかなりの部分で規定しているという事

実である。当然維新政府の目指す博物館のかたちもここに大きく左右されるわけである。

しかし同時に,一行がこのような幹の太いヨーロッパ文化を実際に目の当たりにしている,

という点は揺るぎない事実である。彼らの解釈はどうであれ,彼らは実際に帝国主義と博物学

とが強力に結びついたミュージアムの文化を嫌というほど体感してきたのである。それらが織

り成す壮大なスペクタクルをみてきたことこそが,近代国家としての権力性を誇示する博物館

を建設する彼らの原動力になったのである。

日本の博物館建設構想は,このような洋行メンバーによって支えられていた。当然のことな

がら,彼らの強烈な実感と経験は,維新政府の他のメンバーとは完全には共有されないもので

あった。博物館建設の物語は,このようないくつもの温度差を確認するところからはじめなく

てはならない。

殖産興業と「博覧会=博物館」構想

博物館建設が本格的に始動するのは,オーストリア政府からのウィーン万博出展要請によっ

てである。これを機にウィーン万博の出展準備を兼ねた国内博覧会を開き,そのコレクション

を元に博物館を建設するというシナリオである。

この草創期の博物館建設構想は,一言で言い表せば「博覧会=博物館」政策だったといえる。

すなわち,殖産興業と富国強兵を目的とした博覧会を開き,その延長線上に博物館を開館させ

るという構想である。この構想こそが,使節団が西洋で「学習」した西洋近代を,日本の近代

国家政策として実質的に走らせるためのプログラムだった。

そのシナリオを描いたのは,ウィーン万博出展を準備する「博覧会事務局」の事務副総裁,

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佐野常民である。「墺国博覧会報告書」には,彼が当初博覧会を博物館建設の前提作業として

位置づけていたこと,また博物館と博覧会をいずれも「国家富殖ノ源,人物開明ノ基」という

意味において「主旨同クスルモノ」と捉えていたことが伺える15。そして大博物館を建設し,

それとセットで博覧会を開催する必要性を説いたのである。松宮によれば,佐野がここで唯一

のモデルとしていたのが,サウス・ケンジントン博物館(旧産業博物館,現ヴィクトリア&ア

ルバートミュージアム)だったという16。博覧会会場がそのまま終了後に博物館になったもの

で,工芸品や工業デザインなどを奨励する産業館であるが,こうした産業的側面の強い狭隘な

博物館像を,彼は敢えて意図的に選んだのだという。その真意は定かではないが,少なくとも

この頃の政府の方向性を鑑みるに,博物館建設を「博覧会=博物館」構想として進める以外の

選択肢は,おそらくなかったであろう。博物館に重点をおく佐野とは裏腹に,維新政府全体の

方針としては,博覧会開催のほうがはるかに現実的で望ましい目標だったからである。

さて,ウィーン万博(1873年5月開催)への出展は,維新政府が始めて正式に受け入れたも

のである。このため,国家を揚げて準備することが決定される。急遽「澳国博覧会事務局」が

太政官正院直属の臨時機関として設置されることになり,組織の縦割りを超えて各省から職員

が出向くこととなる。当然メンバーの中には町田久成や田中芳男もいた17。こうして事務総裁

の大隈重信,事務副総裁の佐野常民(いずれも佐賀藩出身であることに着目)を中心に18,日

本で博物館政策を推進しようとした人物のほぼ全て──それはわずか15人前後であった──

が,この博覧会事務局に集められた。

実は,国内博覧会の構想自体は,既に事務局設置以前から文部省で始まっていた。そして,

町田や田中はこの頃から「博覧会=博物館」のための蒐集に奔走していた。しかし,コレクショ

ンの存在を前提として出来上がった西洋のミュージアムとは全く異なり,まだ日本で誰もみた

ことのない博物館というものをつくるために一から収蔵品を集めることは,極めて無謀な試み

にみえた。その時わずかに手元に存在していたのは,博物局(物産局の後身)が抱えていた資

料と,かつて物産局時代に開催した「物産会」19での蓄積である。この物産会の資料は,本草

学者の伊藤圭介(田中芳男の師)の指揮で集められたということもあり,鉱物・植物・動物三

部門の天産資料が大部分を占めていた。歴史的資料や文化財は,雑多なもののかき集めに過ぎ

なかった。伊藤のみならず,当時の日本には,歴史や文化を保存・蓄積するという発想はなかっ

たのである。

博覧会事務局は,大々的な蒐集を始める。同じものを2点集め,1点は将来の博物館に向け

て保管し,もう1点はウィーン万博行きとなった。1871(明治4)年には古器旧物保存法が公

布され,ここで日本の古器旧物の体系的な蒐集が初めて行われることになる。博覧会事務局(と

りわけ蒐集に直接関与した町田)は,ウィーン万博への出品物としての見栄えを相当意識して

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いたと思われる。万国博覧会で日本は西洋の喜ぶような品々を多数取り揃え,自ら「まなざさ

れるオリエント」の役割を演じることで,賞賛を受けたのである。園田英弘が,「日本にとって,

万国博で自己主張するのに,「文化」の独自性を演出すること以外,どのような方法があった

だろうか」20と述べているように,日本人は自分たちが異種の文化を持つことが西洋人に受け

ることを瞬時に理解していた。既にオールコックが日本コーナー21に出展した1862年のロンド

ン万博(図3)や,ふんだんに日本のエキゾチックイメージを演出した1867年のパリ万博の頃

から,その方向は定まっていた。その後も万国博覧会では,日本人自らの手でエクキゾチック

なイメージがその都度再生産されていくことは,周知の通りである。

すなわち,博覧会とセットの博物館が,古器旧物を軸とする歴史美術系になっていくのは,

むしろ自然のなりゆきといえる。結果として,日本がヨーロッパに対抗しうる近代国家である

ことを誇示できる唯一のものは,古器旧物し・ ・かなかったからである。実際博覧会の出品物にお

いて,天産資料は当初の予定よりもぐっと縮小され,変わって古器旧物は格段に増えている。

物産会の延長線上にあって自然史色の強かった博物館の母体だったが,政府の博物館構想は,

ここで歴史美術系にも振れ始める。「博覧会=博物館」構想は,具体化するにつれ早くも様々

なブレを生じ始めていた。

1872(明治5)年,いよいよ国内で初の官設博覧会22が開かれ,ウィーン万博に送る展示品

の数々が人々に公開された(図4)。会場は,文部省博物局の聖堂大成殿23で,会期は当初20

日間であったが,あまりの人気で50日間に延期された。図4はその盛況ぶりを伝えているが,

まず中央の通路には,一躍話題となった名古屋城の金鯱,そして水瓶の中を泳ぐオオサンショ

ウウオがみえる。向かって右手にはさまざまな動植物の標本や動物剥製などの天産資料が,そ

図3─ オールコックが出品した日本コーナー   (吉田光邦(編)『図説万国博覧会史 1851-1942』思文閣出版,1985年,p145より転載)

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して左手には,兜や甲冑,器などいかにも日本的な古器旧物が展示されている。この錦絵から

は,西洋を見据えて古器旧物蒐集に力を入れた政府側とは裏腹に,画家があきらかに天産物の

ほうに驚きと魅力を感じ,詳細に描写しているさまが伺える。実際民衆の側は,近世までの物

産会文化(詳しくは後述)の延長線で政府の近代化政策を受容していたのである24。

しかし,この博覧会は博物館建設にはまだ結びつかなかった。その後,湯島より内山下町25

に移された博覧会事務局は,今度は主に内国勧業博覧会のための事務局として機能することに

なる(1873年には内務省が設置され,博覧会事務局もここに属す)26。ここで,関係者の努力

により,かろうじて事務局内に博物館に準ずるものが出来上がる。通称「山下門内博物館」と

呼ばれたこの施設は,人工物(古器旧物や舶来品)および天産資料を展示する通常の博物館施

設のほかにも,農業や工芸器械を展示する館や,動物園の原型ともいえる蓄養所などの施設が

あり,ジャルダン・デ・プラントのような自然史博物館と,サウス・ケンジントン博物館のよ

うな産業館の混合型ともいうべき構成になっていた。しかし,当時はまだ博物館という概念の

理解は一般には得られず,結局「博覧会」という名での長期開催を実現していた。

一方,文部省の所有していた博物局・聖堂大成殿・書籍館・小石川薬園は,博覧会事務局に

一時吸収されていたが27,1875(明治8)年には文部省に戻され,その後「東京博物館」(1877

年には「教育博物館」,1881年には「東京教育博物館」と改称)へと展開していく28。実は,一

連の文部省施設は先の博覧会事務局吸収後に,当初の契約に反して文部省から内務省管理に移

し変えられそうになった経緯がある。しかし,当時の文部大輔田中不二麿が,国民の教育に供

するべき施設であり,「博覧会事務とは,もとより相違」であると主張し29,殖産興業的な博物館

図4─ 昇斉一影『元ト昌平坂聖堂ニ於テ 博覧会図』   (千葉市美術館(編)『青木コレクションによる幕末明治の浮世絵』千葉市美術館,2005年より転載)

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京都精華大学紀要 第三十五号 -95-

を目指す博覧会事務局とのモデルの違いが,ここで浮き彫りになるのである。両者の食い違い

は,ヨーロッパのミュージアム(蒐集文化型)と,アメリカのミュージアム(教育型)という

モデルの違い30を意味し,ここに早くも日本の博物館の二つの流れの源流が見出せる(日本の

博物館がやがてアメリカ教育型にシフトしていくのはもう少しあとの話である)。この論争の

末,新しい博物館に必要な物品を残して施設や人員はすべて文部省に返還することになり,こ

れが教育系の博物館となっていくのである31。この博物館の1階には学校用品や実験器具など

教育に関する資料が,2階には動植物や鉱物の標本が陳列された。内務省系の博物館が歴史美

術系へと収束していったのに対し,こちらが自然史系の流れを引き継いだといわれているが,

もちろん国家としての博物館設立の主要な流れは当初は内務省のほうであった。

1877(明治10)年,上野公園において第一回内国勧業博覧会が内務省管轄で開かれる。内務

卿大久保利通自ら指揮をとったこの博覧会は,西南戦争の混乱から中止まで検討されたのを押

しきって開いたため準備は万全とはいえなかったが,それでも前回の国内博覧会と比べても,

その規模において,また殖産興業的な側面において,全く異なるものといえる。会場内には美

術館(後に,遂に開館する博物館の第一付属館になる),器械館(同じく第二付属館になる),

農業館,園芸館,動物館などが建てられ,さらには大時計や風車などが登場した。着飾った工

女たちの製糸パフォーマンスも披露され,無数に設置された提灯は場内を夜通し照らした。こ

の博覧会が,のちの政府の博覧会の基本形となる。

博覧会終了1ヵ月後,大久保は元寛永寺本坊跡地(上野の山は,もとより文部省が管理して

おり,また寛永寺も所有権を主張していた土地であるが,幕末の戊辰戦争以降焼け野原になっ

ていた)に博物館を建設することを強引に決定し,コンドルに建築を依頼する。ここで,よう

やく博物館建設は具体化するかにみえた。しかし,その矢先の大久保の死(1878年)がまたも

や博物館の道を遠のかせることになる。さらに,西南戦争時に膨れ上がった戦費が政府の資金

不足を加速させ,それに対処すべく大蔵卿松方正義が進めたデフレ政策は,始まっていた建設

工事を中断させてしまう32。博物館建設の夢は,風前の灯であった。

実は,博物館建設構想のこうした陰りは,かなりの部分が内部の権力争いや政治抗争に因る

ものであったことが予測される。これまであまり言及してこなかったが,博覧会事務局の設置

以前からここに至るまでの間,博物館の設立に向けて現場レベルで粘り強く動いてきたのは町

田久成であった。そして,同じ薩摩藩出身であり,博物館に理解のあった大久保が内務卿とし

て省内に絶対的な権力を及ぼしていたことで,かろうじて建設計画が進んでいたのである。逆

に言えば,大久保の死は,内務省における博物館建設の後ろ盾がなくなったことを意味してい

た。さらに,明治十四年の政変33では,やはり「博覧会=博物館」構想に絡んできた大隈重信

の失脚と佐賀藩の排除(=薩長藩閥路線の確立)が決定的となった。こうした一連の事情によ

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-96-

り,博物館建設は内務省における足がかりを失ってしまったのである34。

博物館の窮地を救ったのは,宮内省である。このとき天皇の大権強化を目指していた岩倉具

視が,博物館をのちに皇室財産として宮内省で管理することを引き受けるのである。そしてこ

れを機に,博物館はやがて「皇国内の主館」として位置づけられ,歴史美術色をいっそう強め

ていくことになる。

したがって,博物館建設という,殖産興業からみれば最重要たりえなかった構想は,天皇の

大権強化という別のイデオロギーを岩倉が与えたことによって,かろうじて生き残ったと考え

るほうが妥当であろう。博物館の歴史は,おそらく想像以上に,当時の権力抗争の影響を受け

ているのである35。

1882年3月20日,工事費の捻出やその後も続いた内務省の干渉を潜り抜け,とうとう第二回

内国勧業博覧会の「美術館」として,文明開化を象徴するはずだった博物館が開館する36。館

長は町田久成である。そして皮肉にも,博物館の開館と同時に「博覧会=博物館」構想は終焉

を迎えるのである。町田は,その年のうちに館長を解任された37。

理想の博物館モデルをめぐって

草創期の博物館建設が一筋縄ではいかなかったことは,こうした過程をみるだけでも想像に

難くない。しかし,どのような博物館が結局目指されたのかという点に関しては,極めて曖昧

でみえてこない。維新政府内には同時にいくつもの思惑や方向性が渦巻いており,これらがそ

のまま博物館政策のなかに混在していたのである。それはしいて言えば,2つの軸として整理

できるのではないだろうか。

ひとつには,そもそも「博覧会=博物館」という構想自体に無理があったという点である。

当時の維新政府の方針からすると,博覧会と博物館をセットにした構想は,博物館建設にとっ

ては唯一残された選択肢だったわけだが,当然のことながら博覧会の展示品を基につくる博物

館はコレクションを選べない。つまり佐野の当初の構想では,博物館の前提としてあった博覧

会なのだが,実際セットで運営してみると,博物館が博覧会の形に左右されるという事態が起

きたのである。そのことによって歴史美術系の要素が大きくなったこと,にもかかわらず物産

会の延長として天産資料も抱えていたことは,先にみたとおりである。この構想からは,博物

館はモデルなど当初より持ち得なかったともいえるのである38。

しかし,仮に現実がそうだったにせよ,博物館建設を夢見た佐野にも,町田にも,田中にも,

彼らの理想とする博物館モデルはあった。そして,いまひとつの混乱は,こうした彼らに象徴

される,描かれた博物館モデルの相違によるものであろう。「博覧会=博物館」政策という国

家の一大プロジェクトを走らせる博覧会事務局は,せいぜい15人前後の集団であったが,この

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中ですら,佐野の「狭隘」な博物館構想は若干の不協和音をもたらしたという39。さらに町田・

田中というキーパーソンも,それぞれ異なる博物館像を描いていたのであった。彼らのモデル

の食い違いは,元々本草学者であった田中がパリのジャルダン・デ ・プラントのように植物園

や動物園をも含む博物館をモデルとして想定し,町田がロンドンの大英博物館のように,古器

旧物や文化財,さらには古文書などのある施設をモデルとしていたことから起きている40。こ

の二人のヴィジョンの違いは,これまでの政府の博物館構想にも陰に陽に影響していた様子が

伺えるが,それが決定的な形で露呈したのが,上野動物園の設立をめぐってであった。第2回

内国勧業博覧会を終えて博覧会事務局が農商務省の管轄になった際に,農商務局長になった田

中が,博物館建設計画の最終段階で突如動物園と植物園をもつくる構想を持ち出し,前者が省

内で認められるのである。その結果上野動物園41が博物館と同じ敷地内に完成するが,これは

博物局長42の町田にとってはかなり不本意だったようである。

この二つの軸が交差しながら,結局産業系,歴史美術系,自然史系,という3つのモデルが

拮抗していた。そもそも,こうしたモデルを巡る一連の混乱は,博物館が行・ ・ ・ ・ ・ ・ ・政機関として導入

された帰結である。財力のある個人が貪欲に蒐集した結果,溢れかえったモノを収納する建物

があちこちで建設され,ジャンルごとに分化したミュージアムが結・ ・ ・ ・果的に市民に開かれること

になったヨーロッパの博物館と違って,当初より行政的に博物館をつくろうとしたからこそ,

日本という国にとってのあ・ ・ ・ ・るべき博物館像を巡って争いが繰り広げられたのである。ここに,

ミュージアムと博物館の沿革の決定的な相違がある。行政機関としての博物館は,常に合目的

的で機能主義的な博物館を意味するからである。

日本における博物館の位置

前号2回分でみてきたように,ヨーロッパのミュージアムは 博イストワール・ナチュレル

物 学 と切っても切れな

い関係にあった。その意味では,「博・ ・物館」という日本語は原語以上に名訳である(おそらく

訳の意図としては,博物学との関係で捉えたというより,広く物事に通じている,という意味

の「博物」という意味を宛がったにすぎないのであろうが)。蒐集した自然や文化を整理分類

して体系的に並べるという思想を体現している場こそがミュージアム(博物館)である。いっ

ぽう日本の博物館は,訳とは裏腹に,こうしたヨーロッパの博物学の思想から切り離されたも

のとして生まれた。ミュージアムという機関の「形式」を輸入したところから出発しているか

らである。しかも,博物館政策が困難を極めたことから,そうした「形式」ばかりの先行に拍

車がかかってしまったのである。日本にいまもって国立の自然史博物館が存在しないことは,

このことを象徴しているように思われる43。

ところが,それと同時に,西洋文化を吸収することが目的であったことから,日本が国内で

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-98-

古くより培ってきた本草学や古器旧物を蒐集する文化をも,日本の博物館は継承していないの

である。いや,全く継承していないという言い方には少々語弊がある。たとえば江戸期の本草

学といえば,もともと中国から来ており,主に薬学的効用に注目する体系の学問であった44。

ここでは自然物を有用性という観点のみならず,モノそのものとして鑑賞する視座は当初はな

かった。しかし,やがて朱子学の教えが徳川幕府体制における唯一の幕府公認の学派となって

いくなかで,モノそのものを探求する視座45──あくまで比較の問題だが,西洋の 博イストワール・ナチュレル

物 学

により近いかたちの──が徐々に生まれ,さらには吉宗の時代には幕府の殖産興業政策と結び

ついて,より実学に近くなってゆく。やがて園芸や浮世絵(視覚文化)をはじめとする江戸の

華やかな庶民文化とあいまって,博物学と博物趣味は,西洋とほぼ時期を同じくして日本でも

ブームになったのである46。そして,これらの品々を見る/見せる薬品会(物産会)47の開催へ

とつながる。この薬品会は,当初は主に薬草や鉱物などが出品されたが,やがて各地域の特産

品なども出品される,物産会的性質を帯びるものとなった。

したがって,西洋の近代文化を取り込むために政府が躍起になって実現させた博覧会は,こ

うした江戸期の文化を基盤にもしていた(特に受容する民衆の側にとっては,それは延長線上

であった)。さらに博物局が官製博覧会を開いた湯島の聖堂大成殿や,元をたどれば徳川家光

までも遡ることができる小石川薬園など,土地や設備自体が,当然日本のそれまでの施設を再

利用したものであった。にもかかわらず,博物館はやはりこの日本の本草学文化を受け継いだ

ものではなかったというべきである。なぜなら博物館の組織づくりにおいて維新政府が参考に

したのは明らかに西洋のミュージアムであり,また使用した分類方法は,本草学ではなく,あ

くまで西洋から入ってきた博物学の分類体系に拠るものだったからだ48。すなわち,実際に使

われた施設や民衆の受容がどうであれ,政府側はかなり意識的にこれまでの物産会や開帳文化

との線引きを図ったのである。また,物産会が物品の蓄積や知識の習得(=啓蒙)を前提とし

ていなかったことも,大きく異なる点である。

古器旧物に関しても,同様である。当初は物産局から引き継いだ天産資料に偏っていたコレ

クションが,保存法の公布による日本の伝統意識の喚起により,大きく古器旧物の蒐集・保存

という目的へシフトしていったこと,それ故日本の博物館が西洋文化と日本の伝統との混在型

であることがこれまで指摘されてきた。しかし,果たしてそうであろうか。このときの蒐集は,

ウィーン万博という西洋へのプレゼンテーションを意識してなされたはずである。それまでは,

古器旧物は不・ ・ ・ ・ ・特定多数の人々に向け展示されて眺められるものとして扱われていなかった。ま

た,たとえば床の間にかけられた掛け軸のような総合的な空間を目指すのではなく,モノをモ

ノとして切り離して鑑賞するという習慣もなかった。さらに,あまねく地方のものを体系的に

集めるという発想もなかったはずである。つまり,ウィーン万博出展準備の段階で,古器旧物

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京都精華大学紀要 第三十五号 -99-

は西洋にまなざされるという目的をもって,はじめて「文化財」や「古美術」49になったので

ある。そして,そのような類いのまなざしが,はじめてそれらに対して投げかけられたのであ

る。ちなみに鈴木廣之は,そもそも「古器旧物」という括り自体もこの時期に新しく登場して

おり(それまで何の関連性もなかった「古いもの」を,保存の対象になるべきものの総和とし

てひとつの言葉で束ねた),さらにウィーン万博出展やその後の内国勧業博覧会は,そうした

古器旧物が「篩にかけられ,新たな有用性の観点から選別されていく」転機となった,とモノ

の扱いの変化について指摘する50。この時期,江戸時代から続く「古い物」の蒐集家たちの世

界が,維新政府=「官」の新しい蒐集の枠組みから取り残されていくのだという。

こうして日本には存在しなかったモノの扱い方やまなざし方が導入されていったという意味

において,博物館は日本のそれまでの文化とも決定的に異なるパラダイムをもつのである。そ

もそもモノをあまねく体系的に蒐集して並べるという考え方そのものが,博物学や分類学より

派生している。第33号「ミュージアムの「モノ」をめぐる論考」で論じたのは,モノをどのよ

うな論理と思考で蒐集・分類するかが,近代型ミュージアムの核であるという点だった。そし

て日本はこの博物学や分類学の「形式」を模倣することで,西洋文化を吸収しようとしたので

ある。

その結果,博物館は西洋の蒐集文化とも,日本のそれまでの文化とも切り離れた存在となっ

た。言葉をかえるなら,博物館は日本社会の習慣とヨーロッパ的な形式の狭間で,いや「断絶」

のなかで形を為したのである。

「帝国」のなかの博物館──新たなイデオロギーへ

日本の近代化に向けて欧化政策が次々に打ち出された明治前期,紆余曲折を経ながら博物館

はかろうじて存立への道を切り拓いた。しかし,殖産興業策として博覧会とともに輸入されな

がら,結局は博覧会ほどにはその意義を理解されることはなかった。この「挫折」を経て,以

降敗戦までは,時代や状況に応じて小さな方向修正や揺らぎを繰り返しながら,博物館は増え

たり減ったりを繰り返すのである。そこには国家の政策に関わる「大きな物語」と,政策を超

えた個人や地域の「小さな物語」が交錯している51。

1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布をはじめ,教育勅語や諸法令の公布は,近代国家体

制の「確立」を意味していた。ここでヨーロッパ型ミュージアムの「輸入」政策は,国家の殖

産興業としての積極的な意味をもはや喪失しており,「大きな物語」ともいうべき政策的な足

場は失われることになる。一方で,明治前期の中央官庁主導の博物館政策に変わって,後期か

ら大正期にかけては,博物館の流れは徐々に枝分かれしはじめる。市町村制度の導入により,

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-100-

郷土色の強い小さな地方博物館がいくつか現れ,また産業系・勧業系の博物館(陳列館)が地

方の博覧会と組み合わせる形で開館するケースも出てきた。さらに,大正期に入ると第一次世

界大戦の特需により台頭する富裕層が私立博物館を建設しはじめる一方,大正デモクラシーの

機運やそれに伴う「通俗教育(社会教育)」へのテコ入れにより公立博物館も少しずつ数を増

やした52。決して多くはないが,少しずつ増えていったこの時期の博物館は,もはや進んだ西

洋文化の「輸入」という認識は薄れ,形式を踏襲しながらも日本の文脈の中のいくつも「小さ

な物語」を体現しはじめる。

ところで,日本が西洋列強とともに本格的な戦時体制(ファシズム体制)になってゆく直接

的なきっかけとなるのは1929(昭和4)年の世界恐慌だが,既にそれまでの間に,「帝国」と

しての緩やかなイデオロギーは形成されつつあった。大日本帝国憲法発布以来,「大きな物語」

はもはや殖産興業ではなく帝国主義へと衣替えされており,博物館も同じく緩やかにその方向

へと向かっていた。かつての内務省系(農商務省系)博物館は明治後期から皇国博物館として

の地位を築き上げ,その後国体を支える象徴としての自らの位置づけを準備していた。一方の

文部省系博物館は,それまでの細々とした活動状況から,大正期には国体護持イデオロギーを

啓蒙する「社会教育」の枠組みのなかでその規模を徐々に拡大させていくことになる。やがて

表3─「戦前の年代別博物館設立数と種類別,設置者別内訳」    (伊藤寿朗・森田恒之(編)『博物館概論』学苑社,1978年,p92-93より転載)

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京都精華大学紀要 第三十五号 -101-

帝国議会を中心とする政府は,東亜博物館構想や国史館構想などを掲げ,博物館を国体の精神

的支柱として位置づけようとするが,実体が伴わないまま失速する。

 以上がこの節で扱う明治後期から敗戦期までのざっくりとした流れである(表3も参照され

たい)。これは大きく分けて,

・近代国家体制「確立」期…1889(明治22)年-1910(明治43)年頃

・第一次世界大戦特需による繁栄期…1910(明治43)年-1930(昭和5)年頃

・戦時体制期…1930(昭和5)年-1944(昭和16)年頃

という3つの時代に区切ることができるが,ここでは引き続き宮内省博物館(東京国立博物館

の前身)と,東京教育博物館(国立科学博物館の前身)を中心に,この「大きな物語」の象徴

的変化を追ってゆく53。さらに,戦時体制期の植民地下での西欧型ミュージアムの接収につい

ても少し触れたい。

「国体護持」と「社会教育」

1882(明治15)年,長い道のりの末,ようやく宮内省頼みで開館にこぎつけた博物館は,そ

の後1886(明治19)年に正式に宮内省に移管され,宮内省博物館となる。ここで博物館は上野

公園とともに皇室財産に組み込まれることになる(その後も博物館の名前は幾度も変わり,

1889年には「帝国博物館」に改称,1900年には「東京帝室博物館」の名を冠す)。ここにきて

博物館は農商務省管轄の総務局博覧会課と袂を分かつことになり,内務省系による,殖産興業

を目的とした博物館政策は実質的に終焉を迎える(一方博覧会のほうは継続的に催され,それ

に伴ってより勧業的な展示館や,娯楽施設としての水族館や動物園などが博覧会と共に発展し

ていく)。

宮内省に移ったこの時期に登場するのが,博物館の性格をして国体護持へと大きく舵を切ら

せる九鬼隆一である。伊藤博文のもとで「帝国博物館」設立にむけて尽力し,さらに京都・奈

良にもそれぞれ帝国博物館を設立した九鬼は,初代総長という身分に任命され,岡倉天心らと

ともに皇室博物館づくりを進める。彼らの構想によれば,皇室博物館は,「東洋古美術」の殿

堂であるべきであり,日本の「国体の精華である「美術」を展示する」博物館であるという54。

九鬼は,博物館に相応しい資料は皇国の歴史を象徴する美術の名品であるとし,これまで歴史

美術系といえども天産資料なども所蔵・展示していた博物館は,ここで完全なる美術館として

の体裁を整え始める55。とりわけ1909(明治42)年に皇太子(のちの大正天皇)成婚記念とし

て表慶館が完成し,日本美術を中心として中国・朝鮮・インドなどの美術品が展示されると,

その傾向はいっそう強まった。

これまで殖産興業を軸として設立に至った日本の博物館が,列強進出とともに国体護持の一

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-102-

翼を担っていくことになるのは,想像に難くない。目標だった西洋は一転して否定すべきもの

となったが,文化財という,元は西洋の目線を意識して蒐集したものは,徐々に西洋に汚され

ていない日本の伝統と栄華を内外に伝播するものとしての役割を付与されていくのである。

このような古美術への傾倒は,日清戦争や日露戦争の時期に自覚されつつあったナショナリ

ズムや古美術保護運動の機運となって,古社寺保存法を成立(1897年)させ,宝物館や戦争記

念館の増設をもたらす56。そして大正期に入ると,大倉喜八郎や松方幸次郎ら実業家57による

私立美術館建設計画,国民美術協会の結成,由緒ある史蹟や自然の美を守る「史蹟名勝天然記

念物保存法」の公布,文展から帝展への変身などをうながし,美術愛好そのものの流れを太く

していく。日本の美術愛好は,皇室文化と古美術(=近代以前の宝物や古器旧物)という,近

代以前の日本からなじみのある二つを近代制度(=博物館)に巧妙に結びつけたことによって,

現代にまで脈々と息づいていくのである。そして,九鬼の「帝国博物館」は,このような

緩・ ・ ・ ・やかなナショナリズムや緩

・ ・ ・ ・やかな帝国イデオロギーの象徴的存在であり,精神的支柱といえ

る。

こうして今日知られる「東京国立博物館」58になるまで,日本随一の美術の殿堂として,ま

た皇室にゆかりの深い博物館として,際立った存在感を放っていくのである。関東大震災では

表慶館以外の建物は使用が不可能となる大打撃を受けるも,1938(昭和13)年には大修復を受

け,再び開館する。その費用の半分は,当時組織された「帝室博物館復興翼賛会」が国民に募っ

た寄付である。これが現在にまで残る本館であり,今日もなお貴重な資料と多くの来館者を誇

る。ちなみに「紀元二千六百年祭」の年には,「正倉院御物特別展観」が開催され,20日間で

40万人が来館したというが,戦後から始まる正倉院展のルーツはここに存在する59。

ところで,明治の初期から博物館が宮内省に移管されるまで,内務省系と文部省系というそ

れぞれ思惑の異なる博物館構想が一本化されることなくここまで並行してきたわけだが,ここ

からは文部省系博物館のほうに主に目を転じてみよう。内務省系博物館の陰で苦労を重ねた東

京教育博物館は,手島清一の指導により成人の啓蒙活動に精力的だった時期もあったが,大学

と小学校を中心に中途段階で区切る近代教育制度の確立に伴い,1888(明治21)年には事実上

解体させられる。わずかに所有していた教育品は「高等師範学校附属東京教育博物館」へ移さ

れた。博物館は学校の附属施設になってしまったのである。ここで,日本における教育博物館

は大きな挫折を迎える60。

ところが,1910(明治43)年の「大逆事件」をきっかけに,政府は国民思想の統制化のため

の通俗教育61推進に乗り出し始め,その一環で講演会の開催や図書館の充実,映画や展覧事業

の推進を具体案として打ち出す62。ここで,学校附属の博物館も,学校教育外の通俗教育を推

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進する中核を担うよう要請を受けるのである。この要請を受けて「通俗教育館」63が併設され,

そこでは観覧者が実際に器具を操作して科学の原理を理解するような展示方法が取られた(図

5)。さらに1913(大正2)年,再度東京教育博物館として高等師範学校からの独立を果たすと,

「生活の科学」に密接に関わる展覧会(及び附属事業)を数多く開催するのである(表4)。ち

なみにここでいう「生活の科学」は,どちらかといえば病気予防などの家庭の医学や節約生活

の方法など,民衆の健康維持や道徳に関わる内容である。こうした推進活動において活躍した

のが,高等師範学校教授の中から任命された主事棚橋源太郎である。日本の「博物館の父」と

いわれる棚橋は,学校で理科教育を手がけてきた手腕を生かし,自然科学系の博物館としての

東京教育博物館64の拡充のため力を注いだ。

棚橋という人物は,博物館に関する文章を精力的に残している65。内容は,博物館が社会教

育施設としていかに重要であるか,そしていかに日本でその重要性が看過されているかという

主張と,欧米(とりわけアメリカとドイツ)の博物館紹介に多く割かれており66,一貫して博物

館とは民衆の教育に貢献するものでなくてはならないという認識を持っている。彼にとっては,

博物館とはその歴史性や蒐集コレクションの厚みよりも,あくまで教育機関として民衆の教育

にいかに携われるかという点が評価の対象となっている。この教育や啓蒙に対する盲目的とも

いえる信念ゆえに,こうして民衆教化政策という国策を支える機関となりえたのである。

実際にこの時期,帝国議会においても,科学知識普及のための博物館に関する建議が複数回

上程されている。こうして社会教育(通俗教育)推進をはかるという形で,日本の博物館は教

育色・啓蒙色を色濃くしていくのである67。

1928(昭和3)年,棚橋は初の博物館関係者の組織である「博物館事業促進会」(現在の日

本博物館協会。1931年に改称)を結成することにも成功する。「博物館ニ関スル思想ヲ普及セ

シメ之レカ建設完成ノ機運ヲ促進スルヲ目的」68としたこの組織は,日本で初めて博物館を全

表4─「大正期の特別展覧会」(椎名仙卓『図解 博物館史』雄山閣,2000年,p116より転載)

図5─ 通俗教育館の内景(椎名仙卓『図解 博物館史』雄山閣,2000年,p115より転載)

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-104-

国規模で束ねてネットワーク化することを可能にし,今日に至るまで日本の博物館の在り方を

大きく規定している。結成当初より政府に対して度々建議も出しており,特に1930(昭和5)

年の建議69では,職員養成の方法や博物館令制定にまで言及し「これまでのただ建設してほし

いという建議から一歩前に出て,建設したあとの運営はどのようになるかという面まで立ち入」

(椎名,2000:134)る内容になっている(逆に言えば,日本の博物館政策は,明治初期から50

年以上たってもここまでしか実質的には進んでいなかった)。また,博物館の振興を,明確な

る戦略をもってはかっていくのである。のちに満洲事変が起きて戦争の影が忍び寄る頃には,

日本博物館協会は文部省内に移され,積極的に国体護持イデオロギーの一翼を担っていくこと

になる。

実は,大正期あたりから,博物館振興は,天皇即位,皇太子成婚,皇太子誕生などをはじめ

とする皇室行事や儀式にあわせて進められるようになっていた。嚆矢は大正天皇の即位記念事

業といわれ,1928(昭和3)年の「昭和大典事業」(博物館事業促進会結成と同じ年)でその

動きは本格化する(表5)。博物館事業促進会は,日本の各府知事や全国市長をはじめ,「満洲

国」や朝鮮をはじめとする植民地統治下の関係者にも博物館建設呼びかけの勧奨状を送付し,

それに応えた自治体が博物館建設に乗り出す。ここにきて,ようやく日本各地に博物館という

表5─「昭和御大典記念博物館計画一覧」 (金子淳『博物館の政治学』青弓社,2001年,p42-43より転載)

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京都精華大学紀要 第三十五号 -105-

建物が一定数存在しはじめるのである。「つまり博物館界は,その組織的成立時に,天皇制と

いう権威に依存することで振興をはかるという手段を選択したのであり,同時に,その後の博

物館界のありようを方向づけることになる」(金子,2001:39)わけだが,これまでの博物館

の設立経緯に鑑みて,この方向性はきわめて「自然」な選択といえよう。ようやくこぎつけた

日本初の博物館開館以降,日本に博物館が一定数を越えて増えていくには,このような「お上」

から進言される方法しかおそらくありえなかったであろうと思われる70。博物館という組織が

草の根的に下から増えていく素地(認識や思想)は,日本にはなかったからである。

このように,日本の博物館政策が,当初は中心的でなかった文部省系に急速に収束していき

今日に至る理由は,博物館振興が上記のような政治状況下で着々と進められたからに他ならな

い。教育は,常に国策にぴたりと寄り添って発展していくことで,国のイデオロギーの一番の

伝達装置となる。国体護持と社会教育(通俗教育)は表裏一体をなして,博物館文化を形成し

ていったのである。したがって,現在,日本の博物館が国立レベルでは歴史美術系であり,か

つ全体としては(県および市町村レベルでは)社会教育施設であることは,この博物館設立の

歴史をたどると納得がいくのである。

殖産興業から国体護持へ──このイデオロギーの衣替えを批判することには当然ながら何の

意味もない。重要なのは,こうした政治的状況のなかで,「お上」に寄り添う形で数を増やし

ながら日本の博物館文化がか・ ・ ・ ・ ・ろうじて形成されてきたという,日本社会における博物館の存

・在・

の・仕・方・そ・の・も・の・である。日本における博物館は,日本の生来的な精神構造のなかに存在しない,

ある意味社会から宙に浮いた存在ともいえるのだ(草創期の考察で,西洋と日本両者の「断絶」

のなかで形を為したことは指摘した)。だからこそ,現在の日本の博物館に何が起きているのか,

ということをこの歴史の延長線上で考えていくことは興味深い。近年の日本の博物館がいとも

あっさりマネージメント・ビジネスに転身できるとしたら,それはこうした自生文化の根っこ

から切り離れているゆえの身軽さであろう。

精神的象徴としての博物館

戦争の匂いは1930年代には漂い始めていた(本稿では,この時代を含めて戦時体制と呼ぶ)。

1937(昭和12)年に戦争が本格化すると,博物館におけるプロパガンダ色はよりいっそう強まっ

ていく。国体護持イデオロギーを精神的に象徴する役割を担うなか,多くの展覧会が開かれる

一方で,いくつかの大博物館構想はことごとく潰れる運命をたどる。精神的象徴はあくまで精

神的象徴であり,実体を伴うことはなかった。

戦時体制下,教育審議会によって検討された教育全般の見直しは,当然社会教育にも及び,

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-106-

その答申(1941年)において,博物館は改めて以下のように位置づけられた71。

・博物館の普及充実を計画的に進め,東亜に関する総合博物館を設置すること

・博物館は教育的使命を負い,積極的な(移動)展覧その他の活動を行うこと

・展覧会・博覧会は教育的配慮を加えた内容にすること

こうした流れを受けて,博物館では東亜の理念を広めるための特別展覧会──たとえば新東亜

建設展覧会,大陸開発衛生展,支那鉄道展,支那美術展覧会,軍事郵便と航空安全展,… etc.

──が数多く開催される。同時に,資料貸し出しも活発になり,東京科学博物館(前身は東京

教育博物館)や遊就館などが,各地からの貸し出し要請に応じた。さらにもっとも大きな行事

となるはずであった「紀元二千六百年祭」を機に多くの博物館が記念事業として出現する72が(日

本博物館協会は,当然「昭和大典」のときのような博物館振興を推し進めようと動いていた),

むしろここでも目を引くのは,表6にみられるような多くの記念展覧会の開催である。巡回展

なるものが確立されたのも,この頃である。

このようにみてくると,日本に定着したのは博物館文化ではなく展覧会文化なのではないか

という感がぬぐえない。本稿の前半でみてきたように,博覧会と博物館は当初セットで輸入さ

れたが,結局は博覧会により近い一時的な展示・展覧の文化が,日本に定着したのではないだ

表6─「紀元二千六百年記念展覧会一覧」(金子淳『博物館の政治学』青弓社,2001年,p56-57より転載)

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ろうか73。いや,というよりも,日本における博物館文化とは,展覧会文化のことなのかもし

れない。この文化は,今日におけるデパートの催事場の隣にある展覧会場や新聞社主宰の特別

展の多さにそのまま通じる。

ところで,こうした展覧会の開催に加え,戦時体制期に進んでいたのが国史館構想や大東亜

博物館構想であった74。国史館は,「紀元二千六百年祭」事業の一貫として,日本で初の大規

模な歴史博物館として構想されていた。皇室の歴史を系統立てて提示し,臣民に国体の優位性

を認識させることを目的としていた。1936(昭和11)年に国史館建設計画案が出されてから,

話は具体化しており,その建設方法や名前をめぐって敗戦時まで議論が繰り広げられたようだ

が(1941年頃から議論は下火にはなっていた),政府内の思惑の違いや,戦争の混乱・資金難

から実現することがなかった。一方「大東亜博物館」の建設構想は,東京の本館と植民地下の

分館からなる壮大な計画である。この計画が始めて成文化されたのは1940(昭和15)年であり,

これは日本が植民地を獲得しはじめたことと連動して発想されたものである。内閣総理大臣監

督下の教育審議会,それを受け継いだ東亜建設審議会,そして日本博物館協会で,構想はそれ

ぞれ議論され,建設計画が新聞で発表された。1944(昭和19)年には文部省内に「大東亜博物

館設立準備委員会」が設置されるまでに話は進行していたが,ここに至るまでに計画は二転三

転を繰り返していた。結局は日本の敗戦によりこの計画も準備委員会も白紙に戻った。

このように,日本における骨太な博物館建設は,まるで明治初期を髣髴とさせるように,計

画が実現するその前に結局立ち消えてしまうのである(戦争状況下という状況を考慮に入れた

としても)。それは,同じ時期に国家の意向に沿った展覧会が数多く開かれているのと対照的

である。つまり,博物館に対して国体の象・ ・ ・ ・ ・ ・徴としての意義は誰もが見出すのだが(したがって

計画が抽象的な間は話が進む),ひとたび物理的に実体性を帯びようとしたとたん,ブレーキ

がかかるのである。それは思惑の違いであったり,博物館像の違いであったり,その場ではい

ろいろ原因があるのだが,結局のところ日本の博物館文化は実体をともなわない精神主義的な

産物にすぎないことを物語っているのではないだろうか。

植民地における西洋型ミュージアムの接収

話はやや逸れるが,戦時中の博物館周辺におけるもうひとつの現象として,植民地政策下の

文化施設の接収について少しだけ触れておきたい。西洋のミュージアムとの距離をはかるとい

う観点から考察に値すると思われるからである。

開戦当初,南方において日本軍が記録的な勝利をおさめはじめる。ここで,日本はマレー半

島,ジャワ島,スマトラ島においてイギリスとオランダの所有していた南方文化施設(博物館・

動植物園・図書館・天文台・大学・研究所・試験場等)を複数接収している。田中館秀三の『南

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-108-

方文化施設の接収』(時代社,1944年)におさめられた地図をみただけでも,50以上の施設が

接収されており,そのなかにはシンガポール(昭南)植物園,ラッフルズ(昭南)博物館及び

図書館,クアラ・ルンプール博物館,ペラ博物館,ペナン植物園,ジャカルタ(バタビア)博

物館,バンドン図書館,ボゴール(ボイテンゾルグ)植物園,メダン博物館・図書館,スボラ

ンギッド植物園などの博物館関係施設が含まれていた。

このようにヨーロッパの所有するミュージアムを接収するという体験は,日本の博物館への

認識にどのような変化をもたらしたであろうか。『思い出の昭南博物館』(コーナー,E・J・H,

中央公論社,1982年)の訳者である石井美樹子によれば,日本はイギリスやオランダが植民地

にまず病院と博物館を建てたということにまず驚いたという。当然,きちんと施設を管理して

利用するための発想も人材も日本にはなく,結局は接収した施設をもてあますことになる。

ヨーロッパの国々が植民地になぜミュージアムを立てたのかは,今更説明するまでもないで

あろう。実際,立派に独立国家として存在しているはずの今日でさえ,ヨーロッパはこうした

旧植民地に圧倒的な影響を及ぼすことに成功しているのである。博物館は,その支配力を象徴

している装置ともいえる。ちなみに文化面でも,現在ユネスコや国際博物館会議(ICOM)75を

初めとする世界規模の博物館政策において非ヨーロッパ圏から参加しているミュージアムは,

そのほとんどがこうして植民地占領下にヨーロッパにおいてつくられたミュージアムが母体と

なっているのである(独立後,国などの公的機関によって運営されているケースが多い76)。

日本による南方文化施設の「接収」がそれほど実体を伴ったものではなかったことは,当時

の日本(特に軍)の博物館や図書館に関する認識および軍事力的な余裕から考えても,容易に

想像しうる。重要だったことは,南方におけるこれらの博物館が元宗主国のもの,すなわち西

洋の知の産物であり,日本は一時的にだがそれらを目の当たりにしたということであろう。実

際,『博物館研究』(日本博物館協会)などではこれらの博物館を紹介する記事が当時徐々に増

えている。当時の「大東亜博物館」構想の一貫として,積極的に紹介されたのだろう(ちなみ

に,この時期,同時に「満洲国」,朝鮮,樺太における博物館や,遊就館,民藝館,帝室博物館,

といった日本の伝統文化を強調する博物館も積極的に紹介されている77。)

たとえば現在も残るシンガポール植物園は,イギリス人が精力的に東南アジアの全種類の植

物を蒐集したものである。占領下において植民地国のあらゆる種類のものを蒐集しようとする

この発想は,まさに西洋の蒐集文化そのものなのである。思えば日本の博物館をつくるために

西洋のミュージアムをみてきたのは,明治初期の洋行者たちであった。その後時代が下り,博

物館行政に携わった役人たちのうち,そうしたヨーロッパ文化を目の当たりにした人間はほん

の一握りである。その意味で,博物館関係者(主に日本博物館協会に関わる人々)が西洋のミュー

ジアムの在り方の一端を垣間見たのは事実であろう。

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一方で,このような施設を管理するだけの基礎体力は日本の博物館界においてもなかった。

つまり建物が建っていても,そうしたノウハウや管理体制基盤が確立されていないままだった

のである。これらの施設は,日本の敗戦とともに,あっさりと元宗主国の手元に戻ることにな

る。そういう意味で,この接収はほとんど日本の博物館界にとって意味をなさなかったのかも

しれない。

このように,当初殖産興業の一貫として構想された博物館は,戦争前夜から戦時中において

は,国体護持を掲げる国家のプロパガンダ装置として発展する。元は西洋のまなざしを意識し

てつくった博物館は,この国家的なプロパガンダ装置の枠組みの中では,今度は東洋をまなざ

す装置として,あるいは東洋のなかの自分たちを位置づける装置として機能していた。日本の

博物館は,一方では西洋にまなざされる視点をそのままに引き継ぎ,もう一方では東洋をまな

ざす視点が織り込まれた,ふたつのまなざしが複雑に絡み合った機関だった。しかし,敗戦後

は,後者のまなざしは,少なくとも博物館においては連合軍最高司令部(以下,GHQ)によっ

て完全に解体されることになる。

戦後民主主義のなかの博物館──社会教育施設としての再出発

日本の博物館が法令として整備されるのは,戦後である。1951(昭和26)年(55年に一度大

きな改正),今日までほぼ内容の変わらない博物館法が制定されてから,日本の博物館界は現

在もこの枠組みのなかにある(近年やや異なった傾向が生まれつつある端境期に入りつつある

が,これは次稿で扱う)。GHQが実質的に建て直しをすることになった戦後日本において博物

館はどのような変遷と発展を遂げたのだろうか。

戦争により壊滅的になった博物館の復興は驚くほど早い。東京科学博物館は敗戦の年の12月

には既に再開され,東京帝室博物館も翌年の3月には公開される。1947(昭和22)年の9月の

段階では,戦後に残った238館のうち実に86%以上を占める206館が開館を果たした78。この驚

異的な復活の早さこそは,日本政府を当時実質的に動かしていた GHQによる,一刻も早いファ

シズム体制の完全解体(「軍国的思想及施策ヲ払拭」79)と再教育化=「民主化」という方針に

他ならない。この教育強化方針に沿って1945(昭和20)年10月には社会教育局(博物館は文化

課所管)が復活する80。

当時,文部省の指導を受けながら博物館復興の中心を担ったのは日本博物館協会であったが,

彼らが日本の「新しい博物館」のモデルや理論を求めて注目したのは,再び欧米の博物館であっ

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-110-

た。実際,棚橋源太郎や木場一夫,青木国男らの著作では欧米の博物館の視察や報告が頻繁に

なされている81。このことは戦前の日本に博物館が結局根付かなかったことを如実に物語って

いるといえる。ただ,唯一明治初期のモデル探しと異なることは,戦後に参考にされた博物館

が一貫して教育系の博物館だったことである。昭和初期あたりから,棚橋らによりアメリカ型・

教育型博物館の紹介がみられたが,その流れが戦後も続くのである。当然このことは,GHQ

=アメリカがファシズム体制を解体にするために徹底的に教育と文化を推進したことと密接に

連動している。博物館はアメリカ的な戦後民主主義の枠組みの中で,教育の一環として整備さ

れていく。

博物館が教育機関に位置づけられる出来事を象徴しているのは,1947(昭和22)年に帝室博

物館が再びここで文部省の管轄になったことだ。1951(昭和26)年には東京国立博物館,京都

国立博物館,そして27年には奈良国立博物館に改称された。そして博物館法の制定(1951年,

翌年施行)をもって,日本の博物館は社会教育施設としての役割を一義的に与えられるのであ

る82。博物館法は,教育基本法(1947年公布)と社会教育法(1949年公布)を拠りどころに制

定された。考えてみれば,ここに至るまで博物館は悲願であった法令を持つことが出来なかっ

たのである。日本の近代博物館制度がようやく成立したのだ。

この法令の内容は,細かい改正は行われているものの,今日までその骨子はほとんど変わっ

ていない。総則・登録・公立博物館・私立博物館の4章から構成される博物館法の特徴を椎名

は以下のように挙げている。

1.新しい博物館の機能を確立し,博物館が教育委員会の所管に属すること

2.専門職員の資格及びその養成の方法を定め,職員制度を確立したこと

3.民主的な運営を促進するため,博物館協議会を設け,博物館のあり方を規定したこと

4.公立博物館に対して補助金の交付を規定し,助成措置に講じたこと

5. 私立博物館については,各種の課税免除を規定し,独自な運営発展を促進するようにし

たこと (椎名,2000:162)

中でも学芸員という専門職員の制度を確立したことは,日本における博物館のその後の方向性

を決定付けるものとなった。登録制度とあわせて,博物館をある一定の水準まで引き上げるこ

と,その水準を標準化させることを目的としていた。

しかし,「1952(昭和27)年3月博物館法の施行から1955(昭和30)年法改正にいたる期間は,

…一方では「新しい博物館」についての理念的・組織的形成が,しかし他方ではそうした理想

とは著しく乖離した現実があり,その矛盾と相克に法改正に結果する時期(伊藤,1978:

161)」となる。当然ながら,このもっとも大きな原因は,実際の博物館が到底この法令を満た

す水準にはなかったことである。その現実的な調整として,55年の法改正があり,具体的には

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京都精華大学紀要 第三十五号 -111-

「…一方で法理念のレベルダウンというその専門性の後退として,他方では博物館活動の教育

的機能への一面化(伊藤,1978:164)」をもたらしたという83。法の理念と現実との間にギャッ

プが生じた事実からわかることは,ここでも日本の博物館は先・ ・に行政的な枠組みとして整備さ

れようとしたことである。すなわち,実体から派生したのではなく,まず博物館というものが

こうあるべきだという理念があり,それにあわせて博物館をつくりあげていく,という方法で

ある。

戦後日本の行政が,今度はアメリカという「お上」からのトップダウンであったことに異論

を唱えるものはいないであろう。そして,このような行政の枠組みに拠る博物館建設は,往々

にして政治的な目的性を帯びる。日本という国にとって,明治の文明開化以来,博物館とは常

になんらかの政策や理念をアピールするための装置であり,デモンストレーションなのだ。実

際こうした博物館法の制定,すなわち標準化を果たしたことで,1952(昭和27)年には国際博

物館会議(ICOM)への加入が認められ,日本の博物館界は世界の「仲間入り」を果たすこと

になる。これにより,中止されていた全国博物館大会も翌年復活し84,それと連動するかたち

で戦前に棚橋がつくろうとしたようないわば地域ネットワーク(県立の博物館協議会)が相次

いで誕生する。

昭和40年代には,明治百年記念事業(=県制・開道100年記念でもある)としての公立博物

館の設置計画があちこちで持ち上がり(またもや記念!),1965 (昭和40)年から1969(昭和

44)年までの間に実に260館以上の博物館が誕生している85。こうした博物館の増加に伴い,『全

国美術館ガイド』(1960年),『日本動物園水族館要覧』(1962年),『全国博物館要覧』(1966年),

『全国天文教育施設一覧』(1967年)など各種

協会による要覧発行も相次ぐ。

1960年代後半から前半期にかけては,文化

庁の設立や博物館法施行規則改正など,博物

館にとっていくつかの大きな改革が行われる

が,基本的な拡大路線は変わらない。この時

期,市町村レベルの小規模博物館を含む公立

博物館が飛躍的に数を伸ばす。1975(昭和

50)年に日本博物館協会がはじめて刊行した

博物館白書86に掲載された調査結果による

と,博物館の数はこの時期1307館に膨れ上が

り,続く1982(昭和57)年の調査では,2080

館に増えている87(歴史系と美術系が圧倒的表7─ 日本博物館協会(編)『博物館白書』昭和49年版,

日本博物館協会,1983年, p9より転載

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-112-

な数を占めるなか,自然科学や理工系の博物館も増える。表7を参照)。このようにデモンス

トレーションとしての博物館という流れはその後も続き,高度経済成長期からそのままバブル

期の波に乗って,かくも多くの「ハコモノ」博物館88が地方自治体レベルで登場するのである。

それは他の県,他の市町村に対する体裁としてつくられていった。同時に,戦後復興にともな

い,法体制外でも企業博物館をはじめとする私立博物館が増えるのもこの時期である。

こうして戦後日本の博物館風景は,まるで戦前までの取り組みを忘却したかのようなアメリ

カ型戦後民主主義による教育の枠組みと,全国に散らばるハコモノの公立博物館に象徴される

のである(たいがい県は博物館をつくり,その次に美術館をつくる)。実ははや昭和49年版の『博

物館白書』で,ハコモノ行政は既に懸念され,「県や市町村は建物づくりを競い合ってきたき

らいはないだろうか。このような傾向は手放しでよろこべる姿ではない。博物館は建物が出来

上がってからが勝負である。市民にとって博物館は一体何であったのかを問われる日が必ず来

ることを懸念せざるをえない」(日本博物館協会,1975:1)と記念事業的につくられた博物館

の問題点が指摘されている。にもかかわらず,こうした懸念をよそにバブル崩壊まで(実質的

には建設のタイムラグからそれ以降まで)その路線を一途にたどったという事実は,これだけ

多くの公立博物館が究極的な横並び発想から出でたものにすぎないことを物語る。さらに白書

は,公立博物館が肝心の事業費や人件費などソフト面で出し渋ること,実際経営も苦しいこと,

私立博物館も法律上のサポートが不十分であり豊かでないこと,学芸員や博物館ボランティア

が少ないこと,学芸員の労働条件が過酷なことなどを挙げている。興味深いことに,雨後の竹

の子のように出来たその当初より,日本の近代博物館は一度たりともお金に困・ら・な・か・っ・た・こと

がないようだ。ハコに巨額の費用をかけてつくったのは記念事業だからであって,その後の運

営を熱心に支える主体や財源が決定的に不足していた89。

ここまで博物館の歴史を見てきて,いったい日本の博物館とは何なのか,とこの段階で問え

ば,それは記念であり,精神的象徴ではあるが,日本社会に実体的に根付いたものではない,

ということがいえるであろう。それは,日本の博物館が行政の枠組みのなかで,常に「お上」

からの何らかのメッセージを発信する組織として存在してきたことを意味する(もちろんこの

ことは,博物館を訪れる来館者の楽しみや学芸員による諸活動を否定するものではない)。

ところで,ここで美術館という種類の博物館について少し述べておきたい。この白書による

と美術館に限って,黒字経営が成り立っているところが存在するという結果が出ていて90,調

査者自身が驚いている。その原因を「美術博物館としての活動費を学芸員人件費も含めて極度

に押さえている結果とも考えられる。支出は収入の範囲内のという企業的原則によって博物館

経営がなされているとしたら,博物館に課せられている教育とか研究活動は先細りしていくの

ではないかと危惧される」(日本博物館協会,1975:56)とむしろ否定的な見方をしているが,

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京都精華大学紀要 第三十五号 -113-

おそらくこの黒字の本質的な原因はそこにはない。戦前の帝室博物館の話の際に少しだけ言及

したように,日本には美術愛好(とりわけ日本美術・東洋美術)の文化だけは驚くほど根付い

ている。それは明治初期にウィーン万博をきっかけに歴史美術系の博物館建設として出発した

ことや,明治後期に入って,古美術がそれまで脈々と引き継がれてきた皇室文化と結びついて

きたことと決して無縁ではない。美術館では,基本的にありがたい宝物や美しい非日常品を拝

むという鑑賞方法が基本だが,そのことも,どうやら日本人の気質にあっているように見受け

られ,現在の厳しい博物館界においても美術館だけはやや事情を異にする。このことについて

は次稿で詳しく扱いたいが,ここで一言だけ言及しておいた。

このように,現在の日本の博物館の基本的な地図が総体として出来上がったのは,1980年代

である。これ以降のことや,この基本的な地図の今日につながる意味については,次の稿で扱

いたい。この後90年代のバブル崩壊を経て,21世紀のポストモダンにまでつながっていくから

である。これまで意識してきた,日本における博・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・物館の存在の仕方という観点から今日の博物

館の現象と照らし合わせ,読み解いていきたいと思う。

さいごに

本稿では,ミ・ ・ ・ ・ ・ ・ュージアムの思想が,政策のなかでどのようにして博

・ ・ ・物館になっていくかをみ

てきた。日本における博物館のコレクションは,西洋にまなざされるところから出発している

という点で,西洋のそれとは大きく異なるパラダイムの中に位置づけられる。西洋にいかに追

いつき追い越すかを軸に行政単位で増えていった博物館であり, 博イストワール・ナチュレル

物 学 から切り離され

て発展した博物館である。その意味で,日本の博物館を西洋のミュージアムと安易に比較して

論じることには意味がない。また日本におけるコレクションの貧弱さを西洋のコレクションの

厚みと比較して論じることも,無益である。みてきたように,日本は西洋の蒐集文化圏とは全

く異なる経緯で博物館を増やしてきたからである。

その一方で日本の博物館文化を日本独自の文化として賞賛することも,同じくらい無益であ

る。そもそも筆者が西洋のミュージアムと日本の博物館の相違をここまで書いてきたのは,

ミュージアムというものがそもそも「何者」なのか,どのような歴史を背負ってここまで来て,

もっかどういうパラダイムをもつ存在なのか,を考えるための前提作業としてである。同時に,

現在の日本の博物館を取り巻くメディア・コミュニケーションの在り方を探るためである。

さいごに,今回のような歴史研究からみえてくるものは非常に大きいと確信しているが,一

方で,このような歴史を追うことだけでは,博物館をとりまく来館者のコミュニケーションは

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-114-

みえないのも事実である。これに関しては,今回の歴史を踏まえたうえで,別途論じる必要が

ある。

【註】

1  詳細は,村田麻里子「ミュージアムの「モノ」をめぐる論考」『京都精華大学紀要』第33号,2007年を

参照のこと。

2  詳細は,村田麻里子「蒐集する「まなざし」──「芸術 =驚異陳列室」からケ ・ブランリ美術館まで」

『京都精華大学紀要』第34号,2008年を参照のこと。

3  本稿では博物学という言葉を,自然史よりはるかに幅広い文脈で使用している。詳細は第34号を参照

されたいが,博物学とはモノを体系的に分類し,視覚と名称とを1対1の関係で切り結んでいく思想で,

これがヨーロッパのミュージアムの重要なパラダイムとなっている。

4  東京国立近代美術館と京都国立近代美術館主催の展覧会。東京には2006年11月7日-12月24日,京都に

は2007年1月10日-2月25日巡回。

5  ちなみに『地中海真景図』自体はフェノロサに会う以前(直前)の制作と言われているが,その後の

作風を象徴的にあらわしているので,今回はこれを使用した。

6  古田亮(編)『揺らぐ近代──日本画と洋画のはざまに』(東京国立近代美術館,2006年)。狩野芳崖に

ついては古田亮,田村宗立については山野英嗣(京都国立近代美術館)による執筆。

7 史実に関しては,全て参考文献に掲載した本に拠っている。明治初期の博物館政策の「思想」を把握す

るうえでは松宮秀治「万国博覧会とミュージアム」(『「米欧回覧実記」を読む──1870年代の世界と日

本─』,法律文化社,1995年)を主に参考にした。また通史を把握するのに依拠したのは,明治期に関

しては主に関秀夫『博物館の誕生』(岩波書店,2005年)と椎名仙卓『日本博物館成立史──博覧会か

ら博物館へ』(雄山閣,2005年),大正期以降に関しては金子淳『博物館の政治学』(青弓社,2001年)

と椎名仙卓『図解 博物館史』(雄山閣,2000年)である。

8  椎名仙卓『日本博物館成立史──博覧会から博物館へ』雄山閣,2005年,p37-40

9  椎名は,幕府の遣欧使節団のひとり,名村五八郎元度が日記の中で,パテントオフィスに博物館とい

う訳をあてているのが,はじめてこうした記録で使われた「博物館」という言葉であろうと述べている。

(椎名『日本博物館成立史──博覧会から博物館へ』p30-31)

10 現在は計18の博物館,美術館,国立動物園という世界最大の博物館群からなるスミソニアン博物館だが,

当時はまだ設立15年ほどで,研究所の趣が強かった。

11 1838-97年。島津一門の三名家である町田家に,久長の長子として生まれる。19歳で江戸へ出て昌平

坂学問所に学ぶ。帰藩の命を受けて鹿児島に戻り,26歳の若さで大目付となる。親善使節団として2年

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京都精華大学紀要 第三十五号 -115-

間英国に滞在。帰国後は,外務省の外務大丞として維新政府の外交に積極的に加わっていたが,内外

の混乱から「大学」(10ヵ月後より「文部省」に名を変える)へと異動=降格になり,ここから町田の

博物館人生がはじまる。

12 1838-1916年。信州飯田の医師田中隆三の三男として生まれる。20歳のとき名古屋の伊藤圭介(尾張

本草学として隆盛極めた一派を形成した人物)の門に入り,蘭学・洋学・本草学を学ぶ。1861年,蕃

所調所に設けられた物産所に,伊藤に付いて江戸に赴く。ここで,当初は物産会,のちに博覧会,そ

して博物館建設に生涯携わることになる。

13 1822-1902年。佐賀藩士の子として生まれる。緒方洪庵の塾で洋学を究め,1855年には長崎の海軍伝

習所で学ぶ。維新後は,政府内で要職を歴任し,博覧会のプロデュースに尽力した。

14 実はこの実記に関しては本当に公式書なのかどうかなどをめぐって今もなお評価がわかれるようであ

るが,ここでは言及しない。詳しくは西川長夫・松宮秀治『「米欧回覧実記」を読む──1870年代の世

界と日本』(法律文化社,1995年)を参照のこと。

15 佐野常民「博物館創立ノ報告書」『墺国博覧会報告書』博物館部,1875。西川・松宮『「米欧回覧実記」

を読む』から間接的に引用している。

16 松宮「万国博覧会とミュージアム」(西川・松宮『「米欧回覧実記」を読む──1870年代の世界と日本』)

p239-240

17 二人とも文部省より出向している。町田は内外の混乱から外務省より「大学」(10ヵ月後より「文部省」

に名を変える)へと異動=降格させられて来ており,一方田中芳男は,師の伊藤圭介に付いて蕃書調

所内の物産所(物産局の前身)の頃から勤務していた。当時より町田や田中は文部省で博覧会の準備

に着手していた。

18 より正確には,彼らがこの役職に付くのは,1871(明治5)年10月,国内博覧会が終了し,ウィーン万

博の準備の見通しがついてからである。しかし,事務局設立当初から二人とも御用係として任命され

ていたことに鑑み,ここでは細かい事情は省略した。

19 当初「博覧会」と銘打つはずだったものは,その趣旨を理解されずいつのまにか「物産会」になって

いたという経緯がある。その原因は,現場の指揮をとった伊藤圭介が十分にこのなじみのない枠組み

が理解できなかったためだろうと関は述べている。関『博物館の誕生』p46-47

20 園田英弘「日本イメージの演出」『図説万国博覧会史1851-1942』(吉田光那(編),思文閣出版,1985年)

p143-144の解説文より引用。

21 はじめて設けられた日本コーナーでは,初代駐日公使オールコックの蒐集した美術品が展示されたが,

日本が正式に参加するのはそのつぎのパリ万博(1867年)である。ここでは先にみたように幕府,薩

摩藩,佐賀藩がそれぞれに出展した。そして明治政府がはじめて出展するのが,ウィーン万博(1873年)

ということになる。

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-116-

22 博覧会には民間のものがあり,むしろ実現はこちらが先であった。初回は1871年,京都博覧会社によっ

て開かれた京都博覧会である。ある時期からは政府の殖産興業策から離れてむしろ民間において博覧

会が多産されていき,「ランカイ屋」などと呼ばれるようになる。

23 文部省博物館ともいわれるが,ここでは進行中の博物館構想と混同しないように,敢えて博物館とい

う名前を使用しない。

24 吉見は,この後に開かれる第一回内国勧業博覧会の際に維新政府は博覧会があくまで近代的なもので

あり,それまでのご開帳や見世物と連続性を絶つことを重視したにも関わらず,民衆の側はそのよう

に受容しなかったことを指摘している。吉見俊哉『博覧会の政治学』(中央公論社,1990年,p130-

135

25 江戸城門のうちもっとも小さな門である山下門から入るのが近かったため,このような呼び名になっ

た。現在の千代田区内幸町1丁目の帝国ホテルのある場所にあたる。

26 ここでは省略するが,このあたりの博覧会事務局や山下門内博物館をめぐる経緯はかなり複雑である。

大久保は,博覧会と博物館を同時に育て上げるのは無理だと考え,組織的にも両者を分離させること

を試みている。詳しくは関『博物館の誕生』pp62-69を参照されたい。

27 1873(明治6)年に吸収された。

28 文部省系の一連の施設は,元をたどれば伊藤圭介の開成所物産学,旧幕府がパリ万博に出品した天産

資料の蒐集に始まっている。

29 田中不二麿は,アメリカ独立100年記念万博博覧会を見学するために渡米し,その際にカナダのトロン

トにある教育博物館を視察していることからも,教育のための博物館のイメージが強かったのであろ

うと思われる。

30 ヨーロッパのミュージアムが圧倒的な蒐集文化に裏打ちされている一方で,アメリカという新しい国

家(むしろヨーロッパの蒐集の対象になっていた地域)は,民主主義と教育という枠組みでミュージ

アムが増えていく。日本は,第一次大戦前後からアメリカ型のほうに徐々にシフトしていくが,それ

が決定的になるのは,戦後である。これに関しては後述する。

31 とはいえ,ここで博覧会事務局に残った天産資料などがコレクションの核だったことはいうまでもない。

またその後上野の山から追い出され,高等師範学校附属の施設になる運命をたどる。

32 政府が戦費調達のために乱発した不換紙幣はインフレを誘引する。そこで,大隈重信(明治十四年の

政変で失脚する)に変わって大蔵卿についた松方はデフレを誘導する財政政策を取り,政府の資本蓄

積を狙った。その一環として,どうしても必要な経費以外はすべて削られることになった。

33 1881(明治14)年,伊藤博文と岩倉具視が国会開設を急いだ大隈重信を追放し,薩長藩閥体制を確立

するきっかけとなる政治事件。

34 博物館の管轄は1881(明治14)年に農商務省に移る。内務省の勧業部門と大蔵省の商務局が移管・統

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合されて,農商務省が新設されたのだ。ただし,農商務省には内務省の権力が及んでいるため,この

後も博物館建設に対する内務省の影響を,干渉というかたちで受けることになる。

35 ちなみに,この時期これらの博物館しか全くなかったわけではなく,地方で行われた博覧会を機に出

来た産業館や,教育博物館を模したもの,社寺宝物館,植物園などがごくわずかに散見される。

36 工事再開は,第二回内国勧業博覧会に博物館を使用することが条件となった。さらには第三回博覧会

にも内務省が使用するという話まで浮上する。結局,井上馨(町田の旧友)が鹿鳴館を旧山下門内に

立てるために,山下門内のコレクションを至急上野に運ぶという計画を立て,なんとかコレクション

を移動させ,第二回内国勧業博覧会の「美術館」として博物館が開館する。

37 町田が館長として就任したとき,彼は農商務省博物局長であった。農商務省少輔品川弥二郎による突

然の町田の館長解任は,金銭トラブルを口実としているが,おそらく権力争いの一環であろう。2代目

の館長は農務局長の田中芳男である。その田中も,町田と同様7ヶ月で解任となる。1884(明治17)年

には宮内省の杉孫七郎が館長につき,実質的に宮内省博物館となる準備が整う。

38 もちろん,ヨーロッパにも博覧会会場がそのままミュージアムになったものや,博覧会で集められた

コレクションが母体となったミュージアムは,かたちとして多くみられた。しかし,それはむしろ大

航海時代以降の貪欲な蒐集文化が先にあり,その結果博覧会というスペクタクルが生まれ,せっかく

一箇所に集まったので博物館に収めた,ということにすぎない。これは日本の「博覧会=博物館」と

いう発想とは本質的に全く異なる。

39 松宮によれば,佐野のサウス・ケンジントン博物館一筋の構想は無理があるとして,町田が大英博物

館とサウス・ケンジントン博物館の折衷案の建議を提出し,博覧会事務局としてもこれが現実路線で

あったという。松宮「万国博覧会とミュージアム」p241-242

40 大英博物館は,1753年に博物館法によって設立されたが,もともとハンスローンが寄贈した博物学コ

レクションや書籍が母体。スローンの遺言で歴史的・芸術的な文化財や古文書が膨大に蒐集され,町

田は専らこうしたコレクションに惹かれている。(その後自然史コレクションは,1883年に自然史博物

館として分館へ移動し,大英博物館は文化財や古文書などの歴史美術系の資料に特化している。)一方

のジャルダン ・デ ・ プラントは,1635年にフランス国王ルイ13世の「王立薬草園」に溯るが,その後

博物学者のビュフォンの監督下で整備され,1793年には自然史博物館に編入される。植物園,動物園,

自然史博物館,書籍館を総合的に兼ね備えた施設である。

41 恩賜上野動物園になるのは,1922(大正11)年のこと。

42 農商務省の新設にあたり,内務省の博物局長であった町田はそのまま農商務省の博物局長にスライド

していた。一方で田中は農商務局長というポストに昇進する。両者が互角のポストになったことで起

きた事態でもある。

43 荒俣宏『大東亞科学綺譚』において,荒俣は,中井猛之進を中心として,日本の自然科学者たちの奮

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闘が報われなかった近代博物館成立の経緯に光をあてている。ここで夢見られながらも政治闘争に巻

き込まれて実現しなかった自然史博物館構想について読み取れるのは,そもそも日本においては博物

館が博物学から切り離されて輸入されたという歴然とした事実である。

44 明の李時珍の『本草網目』は,日本に輸入されて多大な影響を及ぼし,貝原益軒が日本の薬物研究を

進めて『大和本草』を著すのである。

45 朱熹が唱えた「格物致知」や「窮理」といった宇宙の根本法則では,人と自然とは一体であり,共通

の法則性によって導かれている。したがって,自然界に存在するどんな小さなモノからでも,宇宙の

根本法則,ひいては人間世界の道徳律を引き出すことが出来る。こうした考えが,モノを有用性とい

う観点からではなく,モノそのものとして眺める姿勢を促した。詳しくは,西村『文明のなかの博物学』

p102-105を参照。

46 西村『文明の博物学』p104

47 1757年に湯島で開かれたものを皮切りに,各地で流行しはじめる。出品されるモノの種類によって薬

品会,博物会,本草会,産物会などと呼ばれる。個人が主催者となり,同好者や関係者がモノを持ち寄っ

てみせあったり,意見交換をしたりする場として機能した。同好会的なものから専門的なものまで幅

広く存在した。

48 町田は,大学南校の物産局が開いた物産会において蒐集されたものをみて,その体系性のなさ,基準

のあいまいさ,領域の偏りや質の低さを反省したといわれる。関『博物館の誕生』p51

49 鈴木廣之は「美術」という漢語にはない言葉が,ウィーン万博の規約の訳文に始めて登場したことを

指摘している。鈴木廣『好古家たちの19世紀──幕末明治における《物》のアルケオロジー』(吉川弘

文館,2003年),p17

50 鈴木『好古家たちの19世紀──幕末明治における《物》のアルケオロジー』p7-22

51 ここでいう「物語」とはナラティヴのこと。もともと「大きな物語」「小さな物語」という概念は,フ

ランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールがポストモダン時代のナラティブを説明するために

使用した。前者がモダニズム的で,権力者や知識人による社会的・政治的に「正当」なナラティブを

表し,それに対し後者はポストモダニズム的で,エフェメラルな個人個人のナラティブを表す(リオター

ルによれば,ポストモダン時代は「大きな物語」の終焉を意味する)。ここではポストモダンの概念で

はなく,国家の大きな論理を「大きな物語」,個人的で集合的でない論理を「小さな物語」というかた

ちで捉え,リオタールの概念を援用している。

52 伊藤によれば,明治後期(1891-1911)には55館の博物館が設立され,その後大正期から昭和初期(1912

-1927年)にかけてはいっきに160館に増えるという。伊藤・森田『博物館概論』(学苑社,1978年),

p101,p112

53 「小さな物語」は,ひとつひとつには確かな物語があっても,時代状況としてみると個人の采配によっ

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京都精華大学紀要 第三十五号 -119-

て出来たものや,地域ごとの政策によって出来たものなどの集合体にすぎない。ひとつひとつ追うこ

とで日本の博物館の流れの全体性がみえてくるわけではないので,ここでは言及しない。

54 関は,当時の二人の皇室博物館構想が,のちの関東大震災で崩壊後に東京帝室博物館復興翼賛会のま

とめた「復興趣意書」と「事業要旨」に凝縮されているとして,これらから皇室博物館の設置目的を

解説している。関『博物館の誕生』,p188-189

55 ただし,本来早々に引き渡したかった天産資料も,諸々の事情から関東大震災の後まで東京教育博物

館に渡すことが出来なかった。

56 伊藤は,東本願寺宝物館,厳島神社宝物陳列所,長谷寺宝物陳列所,鶴岡八幡宮宝物殿,典厩寺宝物

仮陳列所,中尊寺宝庫,金比羅宮宝物館をはじめとする計17の社寺宝物館と,徴古館,松本記念館,

元寇記念館をはじめとする計6の日露戦争記念館,旅順要塞戦記念品陳列所をはじめとする計3の海外

植民地における博物館を挙げている。伊藤・森田『博物館概論』,p103

57 大倉喜八郎の大倉集古館(東京都港区虎ノ門)は日本初の私立博物館であり,大正6年に完成。また有

名な松方コレクションは,結局当時は美術館建設に至らず,その後散逸などを繰り返しながらも,国

立西洋美術館の母体となった。

58 戦後に文部省に管轄が移され,1947(昭和22)年に「東京国立博物館」(現在の名称)になる。

59 1875(明治8)年の奈良博覧会でも正倉院の御物は一般公開されている。ただし,定期的な公開は戦後

からで,初回は1946(昭和21)年の奈良帝室博物館において。

60 棚橋は『世界の博物館』のなかの「日本の博物館」という章のなかで,この出来事が原因で全国の博

物館が指導奨励の中央機関を失ったため,45年間博物館の進歩がぴたりと止まり,日本の博物館界は

大きく遅れを取ったと嘆いている。棚橋源太郎『世界の博物館』(大日本雄辯會講談社,1947年)p214

-215

61 今で言う社会教育,生涯教育のことで,学校教育以外のものを指す。1921(大正10)年には,文部省

の官制改正により「通俗教育」は「社会教育」という言葉に改められた。

62 1911(明治44)年に,文部省は「通俗教育調査委員会」を設置するとともに,通俗教育推進の具体策

を提示。さらに「通俗教育調査及施設に関する件」が可決され,そこには「各種展覧事業」の普及改

善と利用が盛り込まれた。

63 天産部,重要商品製造順序標本,理学器械,器械模型,天文地理,衛生という5分野から構成されてい

ることからも,自然科学色の強い展示であることは一目瞭然である。

64 ちなみに関東大震災後,ようやく東京帝室博物館の天産資料を取得し,これが現在の国立科学博物館

として形を整える基礎になる。

65 博物館に関する膨大な著書は,伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』に一部復刻されている。代表的な

ものとしては,『眼に訴へる機関』『郷土博物館』『世界の博物館』『博物館学綱要』『博物館教育』など。

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66 紹介は,アメリカやドイツの教育系博物館の取り組みが多いが,歴史に関して言えば,ヨーロッパの

博物館の通史を書いている。それ以外にも,彼の日本の博物館に対する認識が,そのまま現在に引き

継がれていることがわかる。

67 1924(大正13)年には文部省普通学務局内に「社会教育課」が設置され,さらに1929(昭和4)年に

は「社会教育局」になっていくことからも,社会教育行政が推進されていく様子が伺える。

68 博物館事業促進会規則第二条。椎名『図解 博物館史』および金子『博物館の政治学』より引用した。

69 「博物館施設ノ充実完成ニ関スル建議」

70 もちろん,実業家や芸術家たちによる博物館もいくつかは開館している。大原美術館(1930(昭和5)

年開館),日本民藝館(1936(昭和11)年会館)などはその代表であろう。

71 答申のなかの「文化施設ニ関スル要綱」では,博物館,学校図書館,私立図書館,国宝・史蹟名勝に

ついて触れられている。

72 椎名と伊藤は紀元二千六百年祭は,博物館に影響を及ぼさなかったという解釈をしているが,それに

対して金子は,問題は博物館の数そのものではなく,むしろそこで博物館がこの祭典をどう利用した

かであると主張している。本稿では金子の意見を採用する。金子『博物館の政治学』,p53

73 いまは法律上「博物館」の定義に入る水族館や動物園といった人気施設も,むしろ博覧会とともに発

展してきたことは先に述べた。

74 金子が『博物館の政治学』のなかでかなり詳しく取り上げているので参照されたい。

75 The International Council of Museums. ミュージアムとその専門スタッフのための国際機関で,世界の

自然・文化遺産の保存と継続及び社会とのコミュニケーションに従事する。UNESCO と公式な協力関

係を結んでいる非政府団体(NGO)で,国連の経済社会委員会の顧問としての役割を果たす。1946年

に設立され,147カ国におよそ15,000人のメンバーを有す。メンバーは116の国内委員会と,25の国際委

員会の活動に参加。ユネスコの博物館のためのプログラムや,公的機関・民間からの資金提供を受け

ている。

76 当然,現在では表向きは被植民地としての陰を消し去り,国家の民族性や一体感を喚起させる施設に

一新されている。昔の建物も一新され,陰も形もない場合が多いのは,過去の歴史との決別を望む(本

当は無理なのだが)国家の当然の選択であろう。

77 1939年から1944年に発行された『博物館研究』を概観すると,日本の世界的位置や東亜に関する記事,

「満洲国皇帝陛下の御来訪」などといった軍人や皇室が博物館を訪れたという記事,皇室記念行事によ

る博物館開館の紹介記事,植民地下における博物館事業の状況解説,接収した博物館の素朴な紹介記事,

欧米の素朴なミュージアム情報,国史館構想や大東亜博物館構想における役員や敷地決定などの報告

などがかなり多くみられる。

78 1948年文部省社会教育局による戦後初の本格的調査の結果。数字は伊藤・森田『博物館概論』より引用。

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京都精華大学紀要 第三十五号 -121-

79 文部省「新日本建設ノ教育方針」より。

80 1949年には文化課は廃止され,新設の社会教育施設課が所管することになる。

81 たとえば棚橋源太郎『世界の博物館』(1946年),『博物館学要綱』(1949年),『博物館教育』(1953年),

『博物館・美術館史』(1957年),木場一夫『新しい博物館──その機能と教育活動』(日本教育出版社,

(1948年),木場ほか『見学・旅行と博物館』(1952年),青木国男『博物館のはなし』(1957年)など。

伊藤によれば,「新しい博物館」というスローガンのための理論化は,棚橋の『博物館学要綱』および

木場の『新しい博物館─その機能と教育活動』に集約されているという。伊藤・森田『博物館概論』,

p161

82 ちなみに,このプロセスにおいて動物園・植物園・水族館などが博物館の概念として包含されること

になった。

83 これ以上の細かい内容については,伊藤・森田『博物館概論』p163-164,p166-167を参照。

84 とはいえ,当時の博物館関係者は大会を主催できる基礎体力を備えておらず,第6回大会までは,文部

省が実質的な主催者であった。

85 これを受けて,1973(昭和48)年には「公立博物館の設置および運営に関する基準」が公示された。

86 日本博物館協会(編)『博物館白書』昭和49年版,日本博物館協会,1975年

87 日本博物館協会(編)『博物館白書』昭和57年版,日本博物館協会,1983年

88 「ハコモノ」とは,公共事業において中身をよく検討せず文化施設の建物だけを建ててよしとする風潮

を揶揄して使われるようになった言葉。

89 これを象徴するかのように,増える博物館数や関係者に比して,70年代の日本博物館協会の大会参加

者が減少しているという現象がみられる。伊藤・森田『博物館概論』,p191

90 私立美術館で63館中16館(25.4%),公立博物館で43館中3館(7.0%)

【参考引用文献】

荒俣宏『大東亞科学綺譚』筑摩書房,1996年

伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』大空社,1990-1991年

伊藤寿朗・森田恒之(編)『博物館概論』学苑社,1978年

大出尚子「「満洲国」の博物館建設──国立博物館の成立過程と収蔵品」『史境』第55号,2007年

金子淳『博物館の政治学』青弓社,2001年

木場一夫『新しい博物館──その機能と教育活動』日本教育出版社,1949年(出典:伊藤寿朗(監)『博

物館基本文献集』大空社,1990-1991年)

國雄行『博覧会の時代──明治政府の博覧会政策』岩田書店,2005年

コーナー,E・J・H・石井美樹子『思い出の昭南博物館』中央公論社,1982年

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『ミュージアムの受容──近代日本における「博物館」の射程』-122-

椎名仙卓『図解 博物館史』雄山閣,2000年

椎名仙卓『日本博物館成立史──博覧会から博物館へ』雄山閣,2005年

鈴木廣之『好古家たちの19世紀──幕末明治における《物》のアルケオロジー』吉川弘文館,2003年

関秀夫『博物館の誕生』岩波書店,2005年

田中館秀三『南方文化施設の接収』時代社,1944年

棚橋源太郎『眼に訴へる機関』宝文館,1930年(出典:伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』大空社,

1990-1991年)

棚橋源太郎『郷土博物館』刀江書院,1932年(出典:伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』大空社,1990

-1991年)

棚橋源太郎『世界の博物館』大日本雄辯會講談社,1947年(出典:伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』

大空社,1990-1991年)

棚橋源太郎『博物館学綱要』理想社,1950年(出典:伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』大空社,1990

-1991年)

棚橋源太郎『博物館教育』創元社,1953年(出典:伊藤寿朗(監)『博物館基本文献集』大空社,1990-

1991年)

千葉市美術館(編)『青木コレクションによる幕末明治の浮世絵』千葉市美術館,2005年

西川長夫・松宮秀治『「米欧回覧実記」を読む──1870年代の世界と日本』法律文化社,1995年

西村三郎『文明のなかの博物学──西欧と日本』紀伊国屋書店,1999年

日本博物館協会(編)『博物館白書』昭和49年版,日本博物館協会,1975年

日本博物館協会(編)『博物館白書』昭和57年版,日本博物館協会,1983年

橋爪伸也(監)『別冊太陽 日本の博覧会──寺下勍コレクション』平凡社,2005年

古田亮(編)『揺らぐ近代──日本画と洋画のはざまに』東京国立近代美術館,2006年

松宮秀治「万国博覧会とミュージアム」『「米欧回覧実記」を読む──1870年代の世界と日本』法律文化社,

1995年

村田麻里子「ミュージアムの「モノ」をめぐる論考」『京都精華大学紀要』第33号,2007年

村田麻里子「蒐集する「まなざし」─「芸術 =驚異陳列室」からケ ・ブランリ美術館まで」『京都精華大

学紀要』第34号,2008年

吉田光邦(編)『図説万国博覧会史 1851-1942』思文閣出版,1985年

吉見俊哉『博覧会の政治学』中央公論社,1992年