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17
寿 ( ) 調 調 125

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告朝

の沖

寿

は昨年三月から今年三月

まで

一年間

(一九八六年度)、

ソウ

ル大学校

経済

研究所客員研究員と

て韓国

に留学

たしました。

留学

目的は韓

国語の学習と日帝植民地時代

の地方農村

の実態

調査。出発時

に明治大学

に提出し

た申請書

に書

いた研

テー

マは

九二〇

・三〇年代

の韓国農村

・農民

・労働者

の社会史的研究」

でした。韓

国語

の勉強は延世大学校韓

国語学

に通

ったり、家庭教

に教わ

ったりした

のですが、本来

の留学目的

である農村調査の方はうまく

いきません

でした。という

のは、地方史料が極め

て少ない。地主文書などはいくらか残

っているよう

でしたが、

いわゆる役場文

書はほとんどありません。聞くところによれば、以

前に日帝時代

の史料を保存す

べきか、廃棄す

べきかをめぐる論争

があり

、その結果、廃棄説が勝ち、文書

を徹底的

に廃棄したとのことです。

その上、私たち

のいわゆる地方史と

いう

考え方も熟し

ていな

い。最近、若手研究者

の間

に反日独立闘争

の地方史的研究が進ん

でいるよう

ですが、地方政治史

や地方

経済史

の分野の研究はまだまだと

った感じです。地方自治が未確立

のこの国

の行政制度も

反映し

ているのか

も知れません。

125

そんなわけ

で、地方実態調査計画が行きづま

っていた頃、嶺南大

学校教授

で韓国経済史学会々長

の権丙卓教授

の紹

で慶尚北道慶山

郡の

「太平洋同志会」の人たち

にめぐり会

ったのです。

「太平洋同志会」と

いうのは、

一九

四四年

(昭和

一九)六月、

「国民徴用令」と

いう最強権を伴

う勅令

によ

って徴発

され、

「軍夫」と

いう名

の軍務雑役

労働者として沖縄

へ送りこまれた、慶山郡出身者

の生き残り二百数十人

り、

一九四六年

一月に結成された旧友会

であります。寄

る年波

には勝

てず、

一人欠け、

二人欠けて現在

の会員数は七、八

十人。毎年四月、亡友

の慰霊

のため会員

一同が集ま

っておられます。皆さんは三

・一独立運動

(一九

一九年)

の頃

お生

まれな

ので、もう七〇歳くら

いになられます。

今日

は彼

の戦争体験

についてご報告した

いと思いますが、

その前

に、日帝

の朝鮮植民地

に対する兵員

・労働力動

ついて概略を述

べること

にします。

朝鮮

に徴兵制が施行

され

るのは、戦争も末期を迎

えた

一九四四年

のことです。朝鮮

人に無差

別に銃を持たせ

ること

ついて不安があり、実施は延引され

ていたが、陸軍

の主導

で徹底した皇民化政策

の後

に徴兵制施行が決定された、

いわれています。解放

(日本

の敗戦)時

に軍人だ

った朝鮮

人は第1表

にみるよう

に二〇万九二七九人。その大部分

は徴兵制

により徴発された兵員と推定されます。

ただし全員

がそう

ではなく、実は

一九

三八年

度以降、朝鮮

では陸軍

特別志願兵制度が実施

され、また

一九四三年

に海軍特

別志願兵令

も公布され、四三年度ま

でに累計

一万七六六四人

それ

に採用され

ていますから、志願兵制

度により軍人とな

った人も含まれているはず

です。

このような軍人

のほかに、軍属として日本

軍籍

にあ

った朝鮮

人が

いる。前掲表

によれば、敗戦時現員は

一五万四九

〇七人

に上

ります。また、第2表

によれば、日清

の朝鮮人軍要員

(軍属)

の徴発は

一九三九年から始まり、四五年ま

126

でに

一四万五〇

一〇人。そ

の中

には捕虜収容所の監視要員

に使役された人も多数

います。数年前

の映画

「戦場

のメリ

ークリ

スマス」

(大島渚監督)

で、ビ

ート

・タケシが演じた原軍曹

に処刑された朝鮮人軍属カネ

モトのような人です

の中

には戦後、捕虜

虐待の罪を問われ

て連合

軍に裁かれ、処刑された人も

います。

,

第1表 朝鮮人軍人 ・軍属の復員 ・死亡調査

1復 員1死 亡1 計1敗 戦時現員

人0

4

4

9

3

2

9

7

6

98

z

9。

2

4

4

4280056n◎754⊥2ーウー-qO

人8

5

3

6

2

8

4

7

1797156944933369203

4

L

29414279111224

人0

1

1

8

3

1

8

4

2796012708898303101

5

2

a

a

3

島ーイ⊥呼⊥2

人。8

ρ

英田㎝ω

8

4

13

2

6

8

11

11

22

熟計

露計

熟計

計陸海合

そ の 差121,845~

内海愛子 ・村井吉敬r赤 道下の朝鮮人叛乱』,厚生省資料より作成。

一度第2表

に戻

ると、軍要員徴発は

一九

一年

からは国民徴

用令

による徴発も加わり、徴兵制が実施

された

四四

・四五年

には、

大量

の人員が動

員され、日本内地

・南方

その他

へ送られ、軍務雑役

に従事

させられたことが分ります。「太平洋同志会」

の人

は、

この表

の四四年の欄、「徴用令

被徴用者」三万六

二六人の

に当たるわけです。

とも

かく、敗戦時

に約

一万

人の朝鮮

人軍人と

一五万人余

の朝鮮

人軍属が

おり、合計

三六万四

一八六人が日本

の軍籍

に属していた、

と推定

されます。あ

るいは昭和

二〇年

『朝鮮年鑑』

には、軍人

軍属数

四九万六〇〇〇余人と記され

ています。しかも、

ここには朝

鮮人慰安婦は含まれ

ていない

す。

これは、

七〇万人と

も、八〇万人以上とも

いわれる、

いわゆる強制連行朝鮮

人労働者数

とくら

べても決し

て少な

い数

ではありません。

一九四四~

四五年当

時、

日帝は徴兵適齢者

の朝鮮人を軍人とし

て徴

発し、残

る二〇歳代

の若者を軍属とし

て連行した、と言

っても過言

ではな

いでし

ょう。

127

第2表 軍要員として徴発された朝鮮人

軍 要 員 うち徴用 連 行 先

被徴発者令による被徴用者 内 地 已 方1朝 酬 満 州已 国

人 人 人 人 人 人→

1939年 145 145

40 736 65 656 15

41 ユ6,027 4,895 5,396'

9,2491,085 284 13

42 22,396 4,006 4,171 16,1591,723 293 50

43 12,315 2,989 4,691 5,2421,976 390 16

44 45,442 30,626 24,071 5,885"13,575 1,617 294

45 47,949 41,826 31,603 15,532 467 347一

計 145,010 84β42 69,997 蹴535{・ ぴ89・ い ・・2 735}プ ー

大蔵省 「日本人の海外活動に関する歴史的調査」より作成。一部誤植訂正。

ころが、

これらの朝鮮

人軍人

・軍属が敗戦後どうな

ったか、と言う

と、分らないことが非常

に多

い。第1表

に掲げた、日本政府発表

の朝鮮

人軍人

.軍属

の復員者

は二二万

一五九人、死亡者

は二万

ー八二人、合

二四万

二三四

一人と

され

ています。とすれば、

さき

に敗戦時現員数と

した三六万

一八六

人から差

引いた

一二万

一八四五人はどうな

ってしま

った

のか。『朝鮮年鑑』

のいう四九万六〇〇〇人

差約

二五万人はど

へ消

えてしま

ったのか。

いかにも日本政府

の調査

の杜撰さを指摘せず

にはおられませんが、日韓条約

で彼ら

に対す

る補

一切を打ち切

った現

では分

らず

に、束

のまま捨

てられ

ているのが現状

であります。

一方、私

たち日本近代史研究者の太平洋戦争史研究

の面でも、内海愛

子さん

・村井吉敷

さんの

『赤道

朝鮮

人叛乱』(一九

八〇年、勤草書

房)、内海さん

『朝鮮人BC級戦犯

の記録』

(一九八二年、勤草書

房)

など、

ごく

一部

の研究を除けば、

まるで落

丁のよう

に朝鮮

人軍人

・軍属

の問題はす

っぽり脱け落ち

ています。

被害者である韓国側

にも、

この問題

の研究書

・体験記などはほとんど

ない。人びと

の歴史意識

の根底

に植民地体験

はど

っかり腰をすえ

ている

けれども、

その極限状況だ

った戦争は、受難者

の立場から被害

の実態を

通し

て把

えられ

ていません。

128

語る

のも

いまわしく、語り尽せな

いほど深

い傷痕をも

っているためかも知れません。韓

国人の植民地時代

の歴史記

述は、日帝支配

の暴虐

や日本人

の蛮行を描

いても、自分

たち

の惨状

については封印

しているよう

に見受

けられます。

そう

いう状況

の下

で、「太

平洋同志会」の人たちは、勇気をふる

って自ら

の体験を語

ってくれ

た。私たち

は、彼ら

の血を吐くような証言

に耳を傾け、太平洋戦争史の空白を埋めるととも

に、日本

人としての戦争責任を考え

てみたいと思

います。

慶尚北道慶山

に暮す若

者たち

の許

へ、国民徴

用令

「白

紙」が届けられた

のは、

一九四四年六月中旬

のこと。当

の戦況

は、六月

一五日米軍サイパン島上陸

(七月七日守備隊

玉砕)。六月

一九日

アナ沖海戦、日本海軍壊滅的

打撃を受

ける。七月米軍グ

アム、

ニアン島上陸。七月

一八日東条内閣

総辞職等

々。

次期戦場が東

シナ海域

であることも

確実視され、沖縄防衛

の第

三二軍

の兵力が増強されようとした段階

で、日本政

・軍部が本土防衛

の捨

て石とした沖

へ、朝鮮

の若者たちを送り

こむ

ことを企

んだのであります。

朝鮮総督府から慶尚北道

へ通達された徴

用人員は約

三〇〇〇人。さら

に道から慶山

へ割り当

てられた人員は三〇

〇人余

り。

これを面

(村)

に割

りふり、各

面長

(村長)らが二〇歳代の青年名簿

からえらんだ、と

いいます。

有無を言わせぬ徴

・連行

です。官憲

一体

の人狩

りで、ある人は

「ち

っと面事務所

(村役場)

に用事が

できた

で」とだまされ、ある人には

「割

のよ

い仕事がある」と甘言が投げかけられた。忌避

.逃亡

のお

それのあ

る者は厳重

に監視され、脅迫され

ています。

誰もが破局に瀕した戦場

へ送り

こまれる

ことを恐れていた

のです。それでなくとも、収穫物

のほとんどを供出させ

られた上、連年

の凶作

で農民は塗炭の苦しみの中

にや

っと生き

ていました。皆、田植

えの最中、土足のまま引

っ張ら

129

れたり、寝込みを襲

われ

て連れ去られたりし

て、拒否、逃亡は絶対

にできませんでした。

慶山

郡では、

青年

二七人が

「決心墜

を結成、竹槍

や鎌を持

・て山頂

に籠城。徴

用令発動

に抵抗する・と

いう

「事

件」

さえ起き

ています。

二四日、彼・り

「応徴士」(被徴用者)たちは、慶尚北道の道都である姦

へ集められ

した・形だけで不合格

看なしの身体誓

の後、軍服、軍帽、軍靴などが支給され、誓

から練兵場や宿舎とな

った師範学校で基礎訓練が始

まります。「前

へ進め!

回れ右前

へ」、日本語

による自

己申告、

「皇国臣民の誓

詞」暗唱、

「君が代」斉

唱・

軍歌練

。農事

にいそしむだけ

で、

ろくな教

育を受けた

こと

のな

い彼らがうまく出来

るわけがな

い。日本語

の意味

は分らな

い。失敗するたびに日本

人分隊長、

班長

の平手が頬

に鳴

った。

彼らが配属された部隊

の正式名称

「特

設水上勤務中隊」と

いいます。

一個中隊

が七〇〇人前後

で、慶尚北道出身

で第

一〇

一中隊~第

一〇

四中隊

まで四個中隊

が編成され、後

に宮古島

・徳之島

・沖縄本島

へ送ら

す。「太平洋

同志会」

の人たち、

つまり慶山郡出身者は第

一〇

三中隊第

二小隊

および第

三小隊

に属します。

別れを惜しむ暇もなく、夫

や息子と引き裂かれた家族たちは、宿舎

の師範学校

の塀

の外

に群がり面会を求めたそう

です。だが、日曜日

でも面会

は許されなか

ったばかりか、塀

にとりすが

って泣き叫

ぶ人びとを騎馬兵が馬蹄

にかけ、

憲兵は軍用犬を

けしかけたといいます。

七月

二三日出動命令

が下る。出動

の知らせを聞いて街

道沿

いに集まり、悲痛な叫び声をあげる家族たちと

一語を交

ことも

許されず太

郎駅

へ。誰も

"北"

へ行く

ことを願

っていました。"南

"

では米軍がサイパ

ン島

に上陸し交戦

中。海

は火

に包まれていると聞

いていたから

です。しかし、期待を裏切

って、彼らを乗せた貨車は南を指しました。

釜山

へ。

ユ30

朝鮮海

峡を渡

って下関港

で下船

。逃亡防止の厳し

い監視

の下

一週間

ほど訓練を受けた後門司

へ移動。七月三〇日

貨物船改造

の大徳丸と

いう船

につめ

こまれ

て出航。九州西海岸を南下して着

いた鹿児島港

で下船

の望

れ、八月

五日朝、

軍艦や飛行機

に援護された輸送船団

に編成され

て再出発。

一路南下します。

蚕棚

のよう

に仕切られ、-四肢を伸ばす余地

のな

い空間

に閉じ

こめられた彼ら

の船は、奴

隷船と呼

ぶにふさわし

い。

船内

は家畜小屋

のよう

に蒸れ、小窓から流れ込む空気を争

って吸わなければなりませんでした。

その上、潜水艦攻撃

を避

けて蛇行

する船

の揺れ

で、船酔

いが疲労を倍加させ、

食欲さえなくなりました。

っと

の思

いで八月

一〇日那覇

着。一

〇日間も

の奴隷船

の船倉生

で、上陸し

ても病犬

のよう

に足がふら

つくと

いう

のに、彼らはその日から働かせら

れました。埠頭

に陸揚

げされた資材、荷物

の運搬作業

で、食事も

与えられずに翌朝ま

で続

けられたのです。

那覇は、

それまで聞

いた

こともな

い所

でしたけれど、上陸地が激戦中

の南太平洋

の島

ではなく、日本

「本土」

であ

った

こと

に、かすかな安堵

の息を

ついた

のでし

たが。

131

那覇での軍夫たちの主な作業は、那覇港の荷役作業と物資の運搬

です。「水上勤務中隊」という名称もそれを意味

しているように思われます。船から荷物を陸揚げし、それを倉庫や施設に運ぶ作業。分解した砲を高射砲陣地

へ担ぎ

上げたこともあ

ったそうです。

はんこう

日の労働が易しか

ったわけ

ではな

いけれども、彼

らの苦痛

は作業よりも飢えと

のたたかいでした。飯

の蓋

一杯

のメシを

三人

で食

べ合う分量

では、空腹

と疲労が肉体をさ

いな

みます。骨が浮き出た腕を

ふる

い、鉛を流

しこんだよ

うな重

い脚をひきず

っての果

でしな

い労働のある日、Tと

いう軍夫

が、包装

の破れ目から罐詰

一個を取り、ポケ

ット

に入れようとし

て発見されました。

あい

日本

人分隊長は、分隊全員

に命じ

てTを

一発ず

つ殴打させた。左頬

への

「気合

い」が

一巡し、右頬

へ移

って間もな

けいれん

く彼

は気絶し

て倒れた。痙攣を起

こしてどこか

に運ばれた彼

は、再び同僚

の前

に姿を現わしませんでした。こぼれ落

ている食

べ物

ひとかけらを拾

っても、同じような処罰を受けた

のです。軍規を乱した、という

のです。

「十

.十

那覇大空襲」

にもあ

っています。

これは

一九四四年

一〇月

一〇日、

アメリカ太平洋艦隊第三八機動部隊

ら発進した、延

べ手数百機

による五波

にわたる空襲

で、軍事施

・武器弾薬

・物資

・市街地が

一日

にして灰燈

に帰し

た空襲

です。

その概

要はす

でに知られ

ていますが、朝鮮

人軍夫

の被害は明らかではありません。

那覇大空襲

は、

その後

の本

土大空襲

に比

べると、物的被害

の膨大さ

に比して人的被害

は軽少

のように思われます。

防衛庁防衛研修所戦史室編

『沖縄方

面陸軍作戦』

(戦史叢書)

と、

民間人死

者三三〇人、軍人

・軍属戦死

一二

八人。ただし同書

「陸軍関係

の人夫約

一二〇名

が死亡し、約七〇名

が負傷した」と述

べています。

ここでいう

「陸

軍関係

の人夫」が朝鮮

人軍夫だ

ったと断定

でき

ないも

のの可能性は大き

い。そうだとすれば空襲犠牲者

の中

で朝鮮

人の占める比率

は高

い。空襲下

でも

っとも危険

な作業をさせられ

ていたのではな

いか、と思うのです。

軍夫たち

は空襲

にも無事だ

った

ことを故郷

に知らせる手紙を出す

ことも許されず、焼け跡整

理、復

旧作業

に追

い立

てられ

ていた

のですが、

一九四四年末、部隊移動

のうわさ

た。徴発され

てから半年た

つので帰国かと喜

び、靴

に手をかける人も

いたが、ある晩、漁船

に分乗

して運ばれたのは那覇から西

へ四〇キ

ロメート

ル離れた海上

浮かぶ慶良間諸島でした。第二小隊が阿嘉島

・慶留間島、第三小隊が座間味島。渡嘉敷島

へは第

一〇四中隊の

一小隊

が配置されています。

とくこう

はんすい

島での軍夫の仕事は、⑫とよばれた陸軍特攻艇の秘匿壕

(掩蔽壕ともいう)掘りと特攻艇の淀水

(出撃艇を海

に浮

132

べる)作業

です÷

縄守備軍は米軍の本島上陸を予想し、米機動部隊が本島

に接近し

てき

たとき、

その背面から特攻奇襲攻撃を加え

る作戦をたて、慶良

間諸島

に特攻艇を配置し

ていました。

この特攻艇は長

さ五

・六

メート

ル、

ニヤ板製

のモーター

ボート

で、艇後部

=

一〇キ

ログ

ラムの爆雷二個を積

み、敵艦船

に肉薄

して爆雷を投

下す

ると

いうも

の。阿嘉島

(慶

留間島を含む)と座間味島

にそれぞれ

一〇〇隻

ほどあ

りました。

軍夫

たちは、座間味島

では国民学校校舎、阿嘉島

でははじめ野営、

のち

に仮小屋を作り、

そこに寝起きし

て海

に面

した崖

にのみを立て、

つるはしを振

って秘匿壕

の洞窟を掘り、山から木を伐り出し

て枕木とするなど

の作業

に従事

ていました。米軍

の沖縄来攻間近

し、と予想

されると、作業は昼夜兼行

でピ

ッチがかけられたが、食糧事情

の悪化、

栄養失

調、

マラリ

ア病

の蔓延などで衰え切

った身体

では作業能率が上らず、監督

の日本兵

せたと

いいま

す。

ころが米軍は日本軍の作戦

の裏をかく

よう

に、沖縄本島上陸

に先立

って慶良

間諸島

にまず集中攻撃を加え

る。

一九

四五年三月二三、

二四日の艦載機

による連続空襲

つづいて、

二五日

には水平線が見えなくなるほど海上を埋

つくした大艦隊か

らの艦砲射撃も加わりました。対空砲火をもたな

い日本軍

は、敵機

の跳梁を

ほし

いままにさせる

ほかなく、各島

の軍事施設は破壊され、集落

は焼

き払

われました。兵隊も島

民も、空と海から

の挟

み撃ち

に対し

て、

洞窟

にひそんで砲撃を避

け、島を包

んだ炎

から逃げまどうばかり

でした。

三月二⊥八日、米軍は阿嘉島

・慶留間島

・座間味島

に上陸。日本

軍のわずかば

かり

の抵抗を排除

して島を制圧し、

七日上陸

の渡嘉敷島

をあわせ、

二九日

に慶良間列島占領を宣言する。

算を乱

した日本

軍は、洞窟

に隠れ潜むか、岩陰を伝

って山間

に敗

走し、特攻艇

は空襲

や艦砲射撃

で破壊

され、残

133

た艇も出撃

の機会を失

って自爆

・自沈するほかなか

ったのでした。

ヨン

のテク

「太平洋同志会」会長

の千澤基さんは、座間味島

の第三小隊第二分隊

に所

属し

た。彼は二六日を山麓

の大きな

洞窟

の中

で日本兵、島民、同僚ととも

に過ごしたのですが、砲声が遠のいた夜

になると、日本

人将校

から再起のため

山上

へ集合す

るよう

に命じられた

のです。だが、千さんら軍夫数人はそれを無視し

て近

くの秘匿壕

に隠れました。米

軍が上陸した瞬間から、死

の道連れ

にし

ようとする日本軍人と朝鮮人軍夫と

の間

に無言

の戦

いが

始ま

っていた

ので

す。や

がて千さんらが隠れ

ていた秘匿壕

に、正装した若

い特攻隊員が現われ、特攻艇を淀水し

ろ、

と言う

ので、命じら

れたと

おり

にすると、東北

の空

に敬礼し

てから操縦席

に飛び乗

った彼

は、「軍夫たち、気を付けろ」と言いざ

装置

をたた

いた

のです。物凄

い爆

発音ととも

に天地が揺れた。少年特攻隊員が艇も

ろとも自爆した

のでした。

一帯は焔

包まれ、硝

煙が軍夫

を襲

ったのです。素

早く身を伏せた千さんは命を拾

ったが、同僚

四人が巻き添

えをく

いました。

気をとり直し、生

き残

った同僚八

人ととも

に山

に登

ること

にしました。しかし朝から何も食

べていなか

ったので、

まず食料を入手すること

にし

て日本軍

の糧秣壕

へ行

った

のです。

そこ

へ辿り着

いて壕内

に入

った時、地獄を見

てしま

った。家族らし

い集団が向か

い合

って座り、互

いに首

に縄をかけ、くび

り殺し合

い、果

です。血

にまみ

れ、散乱した晴れ着

の中

で生き

ていた女が言

いました。

「兵隊さん、私たち

はこうしなければ

ならな

いんです。どうかそのまま行

って下さ

い」

のもうひと

つの壕

でも、別

の家族

の自決死体が重な

っていた。主人らし

い男

は、首筋をかき切

って死

んでいる。

の傍

で三歳くら

いの子ども

が泣きもせず立

っている

のです。千

さんらは胸を

つかれる思

いがしたけれど、連れ

て行

134

わけ

にも

いかな

いのでそ

の場

に残し、壕を離れました。

総数

三〇〇人とも言われる座間味島

の集団自決

一部だ

ったのでし

ょう。集

団自決は軍命令

による、と

いう説もあ

るけれども、憤死する

ことはあ

っても、絶望から自殺す

ることはなく、粘

りに粘

って生き残

る道を探す朝鮮

人の心性

からすれば、

それは狂気の沙汰としか言

いようがありません。老

いた親をなぐり殺し、子どもを絞め殺す

ことが、ど

うし

て国のためな

のか、

理解

できな

い。千

さんは、今

でもそう思

っています。

千さんらは、廃城

とな

った集落

に立ち寄

っていくらか

の食料を入手し、

二日ほど洞窟

で過ごし、別

の安全そうな壕

へ移

ったと

ころで、も

う会

えま

いと思

っていた同僚

二〇余人と合流。また穴居生活を続け、夜

は食料探し。木

の芽、

雑草、

ヤドカリ、ヤシガ

ニ等、

べられるも

のなら何

でも拾

い集め

て生命を

つな

いでいました。

そのうち米軍から投降を呼びかける放送が繰り返され、宣伝隊

の中

にはす

でに米軍

の捕虜

とな

っていた親し

い同僚

の姿も見

えた、

いう人も

います。

「山を下

りよう」

(投降

の意)

いう声も高まりました。

でも慎

重な千さんは迷

ていた。捕虜

の身分保障を案ず

るより、日本軍

の敗残兵

に見

つかる

ことを恐れたから

です。

しかし、千さんも

「下山」を

決心します。

三七人

の同僚ととも

に四月

二五日の朝、西海岸

の崖

で落ち合う計画をた

て、前夜、

二手

に分かれ

て脱出し、計画どおり集合地点

に集結

しました。海上

から米軍に発見されるのを息

つまる

思いで待

つこと数時間。ようやく発見された時

は、日本

人分隊長

から教わ

った

「アイ、

コリ

アン」を絶叫したと

いい

ます。

無事救出されて、

ンチで座間味キ

ャンプ

に収容された

のは四月

二六日。米軍上陸からち

ょうど

一カ月後

のことで

た。

135

さんら座間味島

の軍夫

たちが無事脱出

できたのは、四月

一〇~

一二日

の掃討戦で日本

軍が壊滅的打撃を受け、部

隊解散指令が出

ていたため

でもあります。その点

では戦隊本部を残し

ていた

阿嘉島

(八月二二日投降)、軍夫

ちが

いつま

でも軍の統制下

におかれ、悲劇を生む結果となります。

米軍上陸

の三月二六日夜、島

の中央高地

に集められた軍夫

たち

は、手榴弾を渡され、阿嘉部落

の米軍陣地

へ突撃を

命ぜられました。

シム

 ヂ

エオ

「太平洋同志会」幹事の沈在彦さんもその

一人

でし

た。軍夫隊が手榴弾攻撃を行い、米軍陣地が混乱したら、別行

動で陣地に接近した兵隊たちも攻撃を始め、米軍を鋏み撃ちにして全滅させるという子どもじみた計画です。

それまで朝鮮人軍夫は武器を渡されたことはありません。彼らが武器を持

つことを日本軍が恐れていたためです。

渡嘉敷島の赤松戦隊長は座間味島の梅沢戦隊長

「朝鮮人には武器を渡すな。米軍上陸の場合は朝鮮人を皆殺しにし

36

た方

がよい」と連絡し

ていた

ことを伝令兵だ

ったS氏が証言し

ています。

-

さすがにこの無謀な計画は実行

されませんでしたが、

軍夫を危険な先鋒隊とし

て敵前

に差向け、手榴弾だけ

で肉弾

戦を強

いることは皆殺し

にひとし

いこと

です。

沈さんは、軍夫頭

の宮

田清次郎

(創氏名)を隊長とするグ

ループ

に入

って山を下りかけたが、途中

で僚友

と相談し

てずらか

った。

それ

に気付

いた宮田は、沈さん

の名前

げ、「逃げ

る気か、明日は銃殺だ」とわめ

いたため、

その

荒めがけ

て機関銃が集中

したのです。死傷者を出した宮

田隊

の進退はきわまります。宮

田は同僚二十数

人に集団自決

を強

要し、自ら

「天皇陛下バ

ンザ

イ」と叫

んで手榴弾

で爆死。その巻き添

えで三、四人が死傷しました。宮

田は日本

に取り入り、

日本人を真

似たあわれな青年だ

ったのです。

逃亡した沈さんらは、寄り集

った同僚と廃坑

にこも

ったが、日本兵

に山上陣

へ連れ戻されまし

た。

そこでは持

久戦

に備えるため、陣地壕を構築す

る計画がたてられ

ており、早速

軍夫たちはその作業

に追

い立

てられます。逃亡を

防ぐために厳重

に監視され、差別的

に少量

の食料しか与えられず

に終日重労働

に従事させられ

るので、

みるみるうち

に体力

が減耗し

ていきます。

米軍

の投降呼びかけ放送も聞

こえたが、日本兵

は、

「あれはう

そで、捕ら

えて殺し

てし

う虚偽宣伝だ」と説

明し

たけれど、

明らか

に動

揺している様

子で、迫害を

一段と強化し、残忍、冷酷な本

性をむき出し

にし

て軍夫を虫

けら

も劣るほど

に扱

いました。

危険な夜

間の食料収集も命じられたが、軍夫

たち

はひそかに喜んだも

のです。外部

の状

況を知

ることができたし、

脱走

のチャンスにもな

ったから

です。

朝鮮

人は日本

人よりはるか

に強

い生き

る力と意志をも

っているので、

こうなると信じられないほど

の勇気をもち始

ていたのです。ビクビクし

ているのは支配者

の日本

軍人であり、被支配者

の朝鮮人はむし

ろ大胆

でさ

た。生活能力

にすぐれた朝鮮

人は、巧

に草木を

えり分け

て取り、食

べられる物を探す嗅覚を働かせた。日本兵と

無言

の戦争

では、す

でに朝鮮

人軍夫

が勝利し

ていた

のです。

いくら監視を強化し

ても逃亡者は続出す

る。「菓子を食

べに行

こうしと

いう新造語も流行し

た。米軍が落

とし

た菓子を拾

って食

べた

こと

に由来するが、脱走し

て捕虜

にな

ろうと

いう

意味

です。

次第

に軍夫

の数が減

っていく

こと

にいら立

った日本兵

は、

四月下旬

のある日、山を下りポ

ット

にさ

つま

いもをし

のばせ

て戻

って来た軍夫を摘発し、

それま

でに住民

の畑作物を掠

めた者、

食料収集を命ぜられ帰隊時間内

に戻らなか

った者など、七人

の軍夫

に銃殺刑を言

い渡しまし

た。

うしろ手

に縛られ引き立

てられ

て行く七

人の後

に、墓穴掘りを命ぜられた七人の軍夫

ついて行きました。沈さ

137

その

一人

です。深さ三〇

センチくらいに掘

った穴

の前に立たされた七人に対

し、指揮者

の兵隊が

「最期

に言いた

ヨン

 ユグ

ことはな

いか」と説

いた

のです。すると、年長

の千有亀という軍夫

が昂然と答

えました。

「われわれは腹

が減

っていた。

それなのに君たち

は食料をくれなか

った

ではないか。われわれは働く

のは

いい。ど

んなに働かされても我慢

しよう。仕事な

のだから。しかし、働けるだけの食料もくれず

にただ

こき使

った

のだ。わ

れわれは心から君たちを恨む。腹が減

っていた

のだ」

刑死を前

に言

い放

つ、

その凄然な言葉

に、兵隊

たちは

一瞬

ひるんだ様子

でしたが、

「朝鮮

人は死ぬまでメシか」

と、憎

々しげ

に侮蔑

に満ち

た悪態を

つくと、生

いもを取り出して千有亀

の口へ押し

こんだ

のです。

この軍夫処刑事件

にシ

ョックを受けた沈さんは、もは

やここに留る

べき

ではな

い、脱走しようと決意し、親しい仲

38

間と

ひそか

に脱出計画をねり上げ、

一四人の同僚

と五月

四日夜、実行

に移

しました。幸

い日本兵

にさとられず

に成功

1

し、翌朝、米軍ラ

ンチに救出される

のですが、沈

さんはひど

い栄養失

調で視力が低下しており、海上を近づ

いてくる

ランチが見えなか

った、と言

っておられます。

こうして多く

の軍夫

は米軍捕虜

となり、沖縄

(一部

ハワイ)

の捕虜収容所

で日本敗戦

の日を

つ身

となるのです

が、徴発以来

のこの間、多数

の犠牲者を出しました。

慶山

郡から連行された朝鮮

人軍夫

は三〇〇人余りと前

に述

べましたが、

その中、「太平洋同志会」が確認

死亡

は四〇人。全部と

は言

い切れず、調査は難航し

ています。

今年

三月

一八日

に帰国した私は、

その翌日から厚生省援護局

へ行き、死亡者名簿から氏名を確認し

た。しかし判

明した

のは戦死

一二人、戦傷死

一人、戦病死

二人で、

「太平洋同志会」

の確認数

の半分

にも足りません。

しかも戦死者

の中

には、前述

の処刑者が

二人も

っているのです。復員時

に各部隊

は戦闘経

過、死亡者の報告を行

た、と聞きますが、

この水上勤務中隊

は朝鮮

人軍夫

ついて正確な報

告をしなか

ったのではな

いかと思われます。あ

いは処刑責任

の追及を

恐れ

て処刑事実

の隠蔽

を図り、どさくさ紛れ

に処刑者を戦死者

の中

にはめ

こん

で報告した

ろうと思われます。

さら

に驚

いたのは、

これら処刑者も、

その他

の死没者ととも

に靖国神社

に合祀され

ていた

です。

「特水勤

一〇

三朝鮮

人状況不明者名簿

」の死没者欄

には、「合祀済」と

いう鮮

やかなゴ

ム印が並

んでいま

た。植

民地時代、日帝

は朝鮮

に神社参拝を強

要し、民族

の憤激を

買いました。その歴史的

経験を反省

することなしに、天皇崇拝と軍国主

のシンボ

ルである靖国神社

に朝鮮

人を

祀る非礼、侮蔑を

憤らず

にはおられません。

後日訪韓した折

に、私

は何人かの韓国人

の友

にこのことを話しました。しかし、意外

にも反応が鈍いのです。

皇崇拝と神社参拝を強制

された彼

らの屈辱感は消

えてしま

った

のか、不思議

でした。

ソウルの

友人

いまし

た。

「海

野さん。彼ら

の大部分

は犬猫

のよう

に棄

てられたのですよ。

たとえ靖国神社

であろうと、

一人ひとり

の名前入

で死んだ

ことが確

認され

ているだけでも

いいのです。韓国

の民衆

はそう思うのです」

返す言葉がありませんでした。靖

国問題は私

たち日本

人の民族的責任

の問題である

ことをあらため

て痛感

しな

いわ

には

いきませ

んでした。

139

実は、昨年

一一月末、「太平洋同志会」の代表五人が沖縄を訪問しました。権丙卓教授と私も同行が許されました。

生あるうち

に同僚

が眠り

つづける地を訪れ、魂

を故郷

に連

れ戻

そう、

いう彼らの宿願が沖縄大学

の招請

の形

で実現

した

のでした。滞在費は沖縄県

民のカ

ンパでまかなわれました。那覇刑務所

に服役中

の在日韓国人から

いち早く

一万

円が届けられ、関係者を感動させも

しました。

彼らは慶良間

に渡

り、七人

の軍夫

が銃殺された処刑地跡

で招魂祭を行

い、土と化した亡友

の骨を箱

に納めました。

また、沖縄大学

の土曜教養講座

に出席し、自

己の体験を詳細

に語

ってくれました。予定

の二時

間が四時間におよび、

教室を埋め

つくした聴衆を釘づけにしました。市民たちが声もなく証言

に聴き入

ったのは、

いまま

で知らなか

った事

実が明るみ

に出された

こと

への驚き

であるととも

に、太平洋戦最大

の被害者

であり、国内被差別者

であるはず

の沖縄

県民が、「日本

人とし

ての沖縄県民」とし

て植

民地

民衆

に対

しては、加害者

・差別者

の立場

にあ

ったこ

問われて

いたから

でした。もちろん証言者たちは、韓国人らしく節度をわきまえ、日本軍を激しく非難し

ても、住民から虐待

されたことはな

い、と言

い、温情

には感謝する、

とも言

い添

えました。だが、本

当にそうだ

った

のか。軍夫

の行動を

日本軍

に密告した

り、

住民の食料が盗まれた

ことに対し軍夫を処罰するよう要請した

のは、やはり住

民だと

いう話も

よくきかれます。琉球

大学

の岡本恵徳教授

(近代文学)

も、

「そのことを語るにはあ

(加害者とし

ての)苦

思いをしなければ語れぬという事情

が、

その背景

にあ

る」

(『毎日新聞』

一九八七年九月九日夕刊)と述

べておられま

す。

一八七九年

(明治

=

一)

の沖縄

併合

(琉球処分)以来、本土と差別され

け、

いま、「皇土保衛」

のため

の犠

にされた彼ら

でも、朝鮮人

に対す

る差別意識を超克す

ることが

できなか

ったのです。沖縄県民

でさ

え、と言う

べき

でありまし

ょう。本土

(ヤ

マトンチ

ュー)も関東大震災

における朝鮮人虐殺体験をも

っていることを忘れるわけ

いきません。

ほんとう

に苦

い、重

い問題で、

できるも

のなら避

けて通りたいこと

ですけれど、率直

に民族的加害

の事実を明らか

140

にし、民族的責任を自覚すること

によ

って、

と思います。

はじめ

てアジ

ア民衆と共有

できる歴史認識をうる

ことが

できるのだろう

沖縄から持ち帰

った土を納めた慰霊碑が、慶山郡百合公園の丘に建ち、「太平洋同志会」の人

びと

は、権丙卓教授

ハン

と私の共著である

『恨-

朝鮮人軍夫の沖縄戦ー

』(河出書房新社刊)が出版されたことを喜んでおら

ます。沖

縄県民と

の交流も始まりました。しかし、靖国問題

や日本

の民族的責任

の問題を考

えると、

これ

で彼ら

"恨"は

解けた

のだろうか。今

でも私

の脳裡に、

その疑念が

つきまと

って離れようとしな

いのです。

(一九八七

・一二

・=

駿台史学会

一九

八七年度大会)

141