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Title マレショーセ隊員と社会 : Eric Hestaultの最新の研究に寄せて

Author(s) 正本, 忍

Citation 長崎大学総合環境研究. 2008, 10(2), p. 53-65

Issue Date 2008-03-31

URL http://hdl.handle.net/10069/21495

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

長崎大学総合環境研究 第 10巻 第 2号 pp.53-65 2008年 3月

マレショーセ隊員と社会

-EricHestaultの最新の研究に寄せて-

正本 忍*

Lescavaliersdemarechausseeetlasociete:

1irelederniertravaild-EricHestault

ShinobuMASAMOTO

【研究動向】

Resume

Cettenoteapourbutdesituerdamsl'histor10graPhiedelamarechausseeledeniertravaild'EricHestaultpublieeen

2002.Al'icoledirecteetindirected'AndreCorvisieretdeJean -PierreBois,chercheursdellくくHistoiresocialedes

soldats)),ilar6ussiadonneruneimagefld占Iedescavaliersdemar6chausseealafindel'An cienRegimeencentrant

son6tudesurlalieutenancedelacompagnlenantaisede1770a1790apartirdudepouillementdescontr6lesdela

marechauss6e,desreglStreSParOissiauxetdesprocesIVerbauxdecapture.L-etuded'EricHestaultsecaracteriseparla

nouveaut6dluneapprochequlposeunregardsurI-intem占decivildesfuturscavaliersdemar6chauss占e.

KeyWords:marichaussee,France,AncienRegime,police,Bretagne

1 はじめに

マレショーセ (marechaussee)はアンシアン・レジ

ーム期フランスの裁判所かつ警察である。主として

田園地帯、国王道路 (grandchemin)(≒幹線道路)上

の治安維持を担 う警察 ・軍隊 (騎馬警察隊)であり、

同時に、浮浪、乞食、国王道路上での窃盗、騒擾な

どプレヴォ専決事件 (Gasprev6taux)を最終審として

裁く裁判組織 (プレヴォ裁判所)でもある。そしてま

たマレショーセは国王軍の一部隊でもあった。本稿

ではこの組織に関する最も新しい総合的研究である

EricHestaultの近著(1)のオリジナルなアプローチに

注目し、マレショーセ、さらに警察及び軍隊の研究

史における当該研究の重要性について検討してみた

い。

*長崎大学環境科学部

受領年月日 2007(平成 19)年 10月 31日

受理年月日 2008(平成 20)年 3月 5日

-53-

さて、マレショーセは 1720年の改革を経て、王国

全体をカバーし、統一された組織を持つ、中央集権

的な裁判 ・警察組織として全面的に再編される。こ

の改革によって全国30の総徴税管区 (generalite)の

それぞれに1つのマレショーセの中隊が設置 され

た。中隊はいくつかの副官管区 (lieutenance)に分割

された上で、5名の隊員 (本稿では班の指揮官とその

配下にある騎兵を合わせて隊員と呼ぶ)か ら成る班

(brigade)の形をとって総徴税管区内に広く展開し

た 。 中隊全体 を統括す るのはプ レヴォ (pr6V6t

general)で、その副官 (lieutenant)が副官管区を担

当し、副官が駐在する都市にはプレヴオ裁判所が置

かれ、プレヴオ裁判役人 (陪席裁判官、国王検事、書

記官)がプレヴオや副官とともに訴訟に携わること

になる(2)。

広大なブルターニュ総徴税管区にもマレショーセ

の 1中隊が置かれ、その中隊はレンヌ、ナント、ヴ

アンヌ、カンペールの4つ (1773年以降はレンヌ副官

正本

管区からサン-ブリウ副官管区が分かれ5つ)の副官管

区に分かれている(3)。ブルターニュ地方のマレショ

ーセに関してはすでに 1960年代の終わりに Eliane

Bertin-Mourotの博士論文があるが(4)、Hestaultは対

象を18世紀未の20年間のナント副官管区のマレシ

ョーセに限定し、さらに特に隊員の徴募と活動、し

たがってマレショーセの騎馬警察としての部分によ

り焦点を当てて研究を深化させた。本書の構成に見

るように、Hestaultはマレショーセの隊員像を様々

な角度から描き出すが(5)、本稿では以下、その中で

も特にオリジナルな部分を紹介 ・検討していこう。

2 研究史上の位置づけ

Hestaultの研究の内容に入る前にまず、マレショ

ーセの研究史を概観 し、その中に当該研究を位置づ

けておきたい。

2.1. マレショーセの研究史概観

マレショーセの研究史を播けば、19世紀にまず国

家憲兵隊 (Gendamerienationale)の何人かの将校に

よって国家憲兵隊の歴史研究が行われ、その枠内で

マレショーセについても言及された。というのも、

マレショーセはフランス革命を経て国家憲兵隊-と

改組されたからである。ただし、これらの研究に対

する評価は低く、実際、ここ数十年間のマレショー

セ研究でこれらが引用されることはほとんどない。

また、例えば、camilleBlochやchristianPaultreの

研究のように、20世紀初頭には公的扶助 (assistance

publique)と下層民-の関心から乞食や浮浪者の取

締り機関としてのマレショーセ-のアプローチも行

われた(6)。

しかし、マレショーセに関する本格的な研究が始

まるのは、ようやく1910年代から20年代にかけて

のことである。GabrielLeBalTOisd-OrgevalやGeorges

Guichardの博士論文はいずれも法学部に提出され

たもので、マ レショーセだけでなくコネタブ リ

(conn6tablie)も視野に入った研究である(7)。この時

期にとりわけ重要なのは、憲兵将校であった Louis

Lamieuの研究である。これはマレショーセに関する

最初の総合的研究というべきもので、2002年には第

四共和政期の国家憲兵隊に関する論考を補充して再

出版され、現在でもマレショーセ研究の基本的文献

である(8)。

1950年代までのマレショーセ研究は、その他の多

くの国制史の領域と同様に、基本的に法制史的、制

度史的アプローチとして行われていた。1950年代の

終 わ りに公 刊 され た国立古文書館 (Archives

nationale)の裁判史料の研究案内がコネタブリとマ

レショーセに充てられた分類番号 (sdrie)zIC を解

説する際、コネタブリの説明に終始して、この分類

番号のかなりの部分を占めるマレショーセに関して

はほとんど説明していないことも見ても(9)、当時の

フランスの歴史学界はマレショーセ、あるいはマレ

ショーセ文書にさほど関心を示していなかったとい

えるであろう。

しかし、状況は1960年代から徐々に変化を見せ始

める。折からの 「社会史」的な問題関心の拡がりと

ともに、マレショーセ研究の視野も拡がっていくの

である。一方では 1960年代に AndreCorvisierが 「軍

隊の社会史」的な観点からマレショーセの隊員名簿

を播い たし(10)、他方では 1960年代から70年代にか

けてマージナルな世界に関心が向けられ、何人かの

歴史家がマレショーセ文書-と向かった。例えば、

リヨネ (Lyomais)地方をフィール ドとする社会史

家 Je肌 -PielTeGuttonがリヨネ地方のマレショーセ

文書の豊かな可能性を指摘 したのもちょうど 1970

年のことである(ll)。以降、マレショーセ研究はそれ

までに蓄積された法制史的、制度史的知識をベース

にして社会史的なアプローチを取り込んだものにな

っている。

2.2. Hestaultの研究の特徴 ・重要性

Hestaultの研究との関連で言えば、マレショーセ

の隊員名簿を用いた研究がフランス内外の研究者に

よって開始されるのも1960年代である。ギュイエン

ヌ地方をフィール ドとした JuliusRuだ、アランソン

(Alen90n)総徴税管区など諸地方のマレショーセ研

究を王国全体にまで拡げた ClaudeC.Sturgill、ギュ

イエンヌとオーヴェルニュ地方のマレショーセを扱

った IainA.Cameron、Hestaultと同様にアンシアン

・レジーム末期の 20年間に時代を限定した Clive

Emsleyなどアングロサクソン系の研究が続々と世

に問われることになる(12)。一方、フランス国内では

DanielMartin がオーヴェルニュ地方のマレショーセ

隊員について研究し、JacquesLorgnierもフランドル

地方のマレショーセに関する大部な著書の中で隊員

について言及している(13)。

しかし、以上に挙げた研究はいずれもマレショー

-54-

マレショーセ隊員と社会 -EricHestaultの最新の研究に寄せて-

セの研究史を語る上では欠かすことのできない研究

だが、隊員に関しては主に隊員名簿を分析していて、

そこには当然、史料による限界がある。隊員名簿は

氏名、通称、年齢、身長、出身地、親任状 (lettrede

commission)の日付、任命及び受入れの日付、就任

前に所属 していた部隊名及び就任前の軍隊在籍年

数、退職の理由 (解任、辞職、死亡)、異動先などの

情報を提供する均質な史料であり、マレショーセ研

究において貴重な文書であることは言 うまでもな

い。しかしながら、出身地に関する情報は 1730年か

ら 1760年にかけての隊員名簿にはほとんど記載さ

れておらず、隊員の出身社会層もこの史料から知る

ことはできない。マレショーセに入隊する前、隊員

たちは何をしていたのか、マレショーセを去った後

はどうなったのかといった疑問に関する情報も記録

されていない。

Hestaultの研究の研究史上の重要性は、ヴァンセ

ンヌの陸軍歴史課文書館 (SeⅣicehistoriquede

1-Am iedeTeITe)に所蔵されているマレショーセの

隊員名簿や国王軍の兵員名簿 (contr61edetroupes)

など軍隊関係の史料に加え、県文書館にある小教区

記録簿 (registreparoissial)やマレショーセの裁判文

書などを渉猟して、マレショーセの隊員とは誰か、

日常的にどのような活動をしていたか、という点を

明らかにしている点である。 当該研究は、マレショ

ーセの研究史上で最も詳細なマレショーセの隊員像

を提示している。

このような細かな研究が可能になったのはまず、

Hestaultが研究対象の時期と場所を狭く絞ったから

である。また、1770-1790年の時期は 1760年、1769

年の改革を経てマレショーセがより細かく管理 ・監

督された時期であり(14)、その分様々な史料、したが

って情報が残 りやすかったということもあるであろ

う。 しかし、何より注目すべきは、Hestaultが A.

coⅣisier、Jean-PierreBoisと続く 「軍隊の社会史」、

あるいは元兵士の研究の系譜に連なる研究者だとい

うことである。

先述のように、フランスにおいて軍事史 ・軍隊史

に社会 史 的視 点 を本格 的 に取 り入れ た の は

coⅣisierである。彼は兵員名簿を分析したその博士

論文においてマレショーセの隊員名簿も分析してい

る。この分析こそが 1970年代からのマレショーセの

隊員-のアプローチの出発点となるのである。

coⅣisierは陸軍歴史課文書館に所蔵 されている

約 2000もの兵員名簿を分析し、博士論文にまとめ

た。彼はアンリ4世高校時代に教師から歴史研究の

手ほどきを受けると同時に兵員名簿の史料としての

重要性を指摘 され、 ソルボンヌ大学では最初に

GastonZellerの指導を受け、RolandMousnierの指導

下で博士論文を仕上げることになる。国制史研究に

「社会構造」という視点を導入した Mousnierの影

響はもちろん大きかったであろう(15)。coⅣisierは王

令や陸軍卿 (secretaired-Etatalaguerre)の往復書簡

(coITeSpOndance)による制度面の把握の必要性と刊

行史料の調査の必要性を意識しつつ、兵員名簿とい

う大部な史料の分析に取りかかったのであった(16)。

この CoⅣisierの許で博士論文を終えたのが、

Hestaultの指導教官である J.-P.Boisである。Boisの

博士論文は、そのタイ トル 『18世紀フランス社会に

おける元兵士』が明瞭に示すように(17)、18世紀にそ

れまでのマイナスのイメージから復権が進むという

元兵士の存在を軸に、軍隊と社会の繋がりに注目し

ている。 このように Hestaultの研究は CoⅣisier、

Boisと続く兵士及び元兵士に関する研究にも連な

るものなのである。

2.3. 警察研究としてのマレショーセ隊員の研究

ところで、マレショーセの隊員に関する研究は、

アンシァン・レジーム期の警察史の面からも重要で

ある。というのも、第一に、マレショーセが農村及

び国王道路という王国の人口と空間の大部分を占め

る場所の治安維持を担ったからであり、それを担っ

たのが具体的にどのような人物であったかを明らか

にすることは警察史において必要不可欠だからであ

る。

第二に、マレショーセの隊員研究が従来の警察史

の欠落部分を照射しうるからである。アンシアン ・

レジーム期の警察制度研究の中心はいうまでもなく

パリの治安総代理官 (lieutenantgeneraldepolice)研

究だが(18)、その研究においては治安総代理官の創設

の経緯、組織、管轄 ・権限が研究の中心であり、管

見の限り、実際に犯罪者や住民と対峠した多くの下

級の警吏にまでは未だ研究は及んでいない 。 マレシ

ョーセの場合、警察機能を果たした軍隊組織であっ

たため、たまたま兵員名簿として隊員のより詳細な

記録が残 り、組織の末端にいる騎兵に至るまでが研

究の対象となったわけである。

実は、国王権力を支える重要な統治機関の1つで

-55-

正本

ありながら、絶対王政期の警察に関する研究は必ず

しも十分に為されてはいない。確かに、関連する領

域を見れば、1960年代から1970年代にかけてクリ

ミナリテ (犯罪行為)(criminaliti)研究が広く行われ

た。しかし、 「社会史」の潮流の中で生み出された

クリミナリテ研究はどのような人物が、どのような

犯罪によって摘発され、どのように処罰されたかを

問題とする 「犯罪と刑罰」の研究であって、権力に

よって取り締まられた側-の注目はあっても、誰が、

どのように取り締まったかという取り締まった側の

具体像-の関心は低かったのである(19)。このような

クリミナリテ研究の進展が醸し出すイメージとは異

なり、絶対王政期の警察研究はその重要性に比して

研究が進んでいない領域であり、この研究史の欠落

を埋める意味でも、先述のようにマレショーセ隊員

の日常的な警察活動にアプローチした Hestaultの

研究は貴重なのである。

以上のような研究史上の位置づけを踏まえた上

で、以下では Hestaultの研究について具体的に見て

いこう。ここでは、マレショーセの隊員とは誰かと

いう点と、彼らが隊員の職をどのように見ていたの

かという点に注目してみたい。

3 マレショーセ隊員とは誰か :採用の条件

マレショーセ隊員とは誰かと考える場合、どのよ

うな人物が、どのようにマレショーセに入り、どの

ように勤務し、どのようにマレショーセを離れ、そ

の後どうなったのか、という隊員のある種の個人史

が想定されるが、これらが全て史料から再現される

わけではない。ここでは 「誰が」という点を史料上、

最も多くの事例で最も確実に示す採用条件と採用の

実態を取り上げよう。

実は隊員の採用基準が明確に規定されるのは

1760年代以降のことで、1720年のマレショーセ改革

の際には、プレヴオや副官といった将校たちについ

ては徴募の条件が付けられているものの、隊員に関

しては明確な徴募の条件は課されていない。1720年

の改革時には何より、従来の売官制に基づく徴募か

ら親任状による徴募-の変更が最も重要なポイント

であったと思われる(20)。

1760年代以降、隊員の採用に付けられた条件は、

5ピェ4ブス以上の身長、軍隊経験、読み書き能力、

そして品行方正でカ トリックであることの4つであ

る。この採用条件がどれだけ厳密に遵守されている

か否か、遵守されていなければその理由は何かを

Hestaultは検証している。

3.1. 最低身長の規定

1760年4月 19日の王令第1編第8条でマレショ

ーセの騎兵になるには、5ピェ4ブス (約 173cm)

以上の身長が必要とされる。この条件はカービン銃

を持った騎兵 (Carabinier)や騎兵部隊の騎兵に対す

る条件と同じで、歩兵に対する5ピェ 2ブス (約168

cm)や民兵 (milicien)に対する5ピェ (約162cm)よ

りも厳しいものであった[134](以下、Hestaultの当該

著書からの引用についてはこのようにページを示す)(21)。

それでは、この5ピェ4ブスという身長は、当時

どの程度の背の高さだったのであろうか。第一帝政

期の新兵の平均身長はアンシアン ・レジーム期の国

王軍の兵士の平均身長よりもずっと低かったという

し(22)、現在の国家憲兵隊の最低身長規定は 168cmで

あるから[138]、5ピェ4ブスというのはかなりの高

身長といえそうである。

Hestaultは、当時民兵徴募の対象となる16-41才

の男の中で民兵の最低身長 5ピェに達する者は老若

男女合わせた人口30人に1人、同様に5ピェ 3ブス

(約 170cm)の男は人口 1000人に1人と推定した

Boisを引用しつつ(23)、マレショーセの隊員が 「身体

的エリー ト」であることを強調する[137]。マレショ

ーセの隊員は元兵士の中から多く徴募されていた

が、その元兵士は、兵士と同様、民間人に比べてか

なり大きかった。したがって、マレショーセの隊員

の多くは、軍隊に入る段階で身長において選別され、

さらにマレショーセ入隊の際にもう一度さらに厳し

く選抜されたということになる。

軍人にせよ警官にせよ、何よりも体力を必須とす

る職業であればこのような体格の良さが実務の面か

ら重視されたであろうことは、想像に難くない。ま

た、当時の軍隊では高身長という外見の良さが何よ

り考慮されたということも想起せねばならない。特

にエリー ト部隊にとっては身長は重要な採用基準で

あり、18世紀、連隊の見栄えの良さは部分的に兵士

の身長によって判断されたという[135]。以上の点を

考慮すれば、マレショーセの隊員が彼らが日常的に

接した地域住民に比べかなり大柄であったことは間

違いないであろう(24)。 Hestaultが指摘するように、

マレショーセにおいてはこのような高身長、そして

騎馬と制服の着用が隊員たちに王権の威光を与える

-56-

マレショーセ隊員と社会 -EricHestaultの最新の研究に寄せて一

相乗効果を為していたと考えられる【138]。

それではこの高身長という徴募条件はどれだけ遵

守されていたのだろうか。当該時期のナント副官管

区のマレショーセの騎兵 150名のうち、5ピェ4ブ

スの基準を満たさなかった者は4名に過ぎない。そ

の4名のうち2名は最低身長が規定される前に入隊

した者で、残る2名は 「部隊の子弟 (enfantdecorps)」

で、一方は班長であったその父親のマレショーセに

おける功績が評価され、他方は本人の軍隊における

功績が評価されて、身長の条件を満たさず就任した。

採用者の人選はプレヴォに任されていたが、プレヴ

オが最低身長に達しない候補者を任命する際にはそ

の根拠を明示する必要があった[136-137]。したがっ

て、身長規定はかなり厳格に守られていたというこ

とができるであろう。

3.2. 軍隊経験、従軍年数、所属部隊

次に、マレショーセ入隊前の従軍経験についてだ

が、前述の 1760年の王令はまだこの点についてはっ

きりした基準を示していない。 「可能な限り、陛下

のその他の部隊で従軍していた」ことを求めている

だけである。マレショーセ隊員の採用に求められる

従軍年数が明確に規定されるのは 1769年 12月 27

日の王令 (第2条)からで、班の指揮官には12年間、

騎兵には8年間の従軍が求められるようになった。

騎兵就任に求められる従軍年数は 1778年4月28日

の王令でさらに16年間にまで延ばされる。研究者た

ちはこれを 18世紀の後半に進行したマレショーセ

の 「軍隊化 (militarisation)」として評価 している(25)。

Hestaultは先行する CoⅣisier、Bois、Emsleyの研

究 ・データを引用しつつ、自らのデータを示してい

る。Boisによれば、18世紀末期、従軍経験のない者

の採用は例外的で、しばしば騎兵の子弟に対する優

遇措置として為されたものだという。CoⅣisierはブ

ルターニュのマレショーセについて、従軍経験のな

い者の隊員採用を 1720-30年で約 40%、1730-60

年では約20%としている。さらに、Emsleyは、1771

年にブルターニュのマレショーセに所属した 199名

の騎兵の中で従軍経験のない者は1名に過ぎないと

しているから(26)、従軍経験のない隊員の採用は時代

が下るに従って減少していく傾向にあったと考えて

良いであろう。Hestaultによれば、当該時期のナン

ト副官管区では、隊員全員が従軍経験を持っている

【138-139]。

入隊前に求められる従軍期間について Hestault

は、当該時期のナント副官管区の隊員を入隊時期か

ら3つに分けて分析する。1769年より前に徴募され

た者は、入隊前の従軍期間について明確な規定はな

かったものの、66%が8年以上の従軍経験を持って

いる。最も数が多いのは6年間従軍した者 (6年間と

い うのは 1763年まで軍隊における 1志願従軍期間

(engagement))と14年間従軍した者である。1769年か

ら 1778年にかけて徴募された者では 70%が8年以

上の従軍を経てマレショーセに入っている。最も多

いのは8年間の従軍で、8年間というのは 1763年以

降の1志願従軍期間である。入隊前の従軍が8年に

満たない者は 12%に過ぎない[139-141]。

しかし、1778年の王令が求めた 16年間の軍隊経

験というのは厳しすぎたようである。騎兵の採用を

実質的に司るプレヴォたちは、この規定に対して反

感を露わにしている。16年も軍隊にいればもう下士

官にはなっているだろうし、その部隊が確保してい

る貴重な人材である、もし下士官にもなっていなけ

れば、マレショーセに不適当な凡庸な人物だ、とい

うわけである。勿論、16年間の軍隊経験がある者が

いればその者を優先的に採用したであろうが、全て

の空きポス トを埋められるほどそのような元兵士は

多くはなかった。実際、1778年以降に徴募された者

では29% しか 16年以上の入隊前の従軍という規定

を満たしていない。それをはるかに超える45% の騎

兵は8年間の従軍後にマレショーセに入隊してい

る。結局、1778年の王令の規定は死文に終わったの

である[141-142]。

マレショーセ入隊前に所属した部隊についてはど

うだろうか。騎馬警察隊であるマレショーセの隊員

には入隊前に騎兵の経験が望まれるはずである。

1769年及び 1778年の王令は、マレショーセの騎兵

は騎兵部隊 (troupemontee)から、 「騎兵、竜騎兵、

軽騎兵」の中からのみ徴募されると規定した。しか

し、これらの王令は厳格には適用されなかった。当

該時期のナン ト副官管区のマレショーセの騎兵の

51%が歩兵出身者で、騎兵出身者 (24%)、竜騎兵出

身者 (15%)に比 して圧倒的に多いか らである

[142-143].

coⅣisierは除隊証明を得て正規に軍隊を離れた

兵士の数を年平均6000人と見積もり、うち歩兵、砲

兵、その他が4500人、騎兵 1000人、竜騎兵 500人

と推定している(27)。つまり騎兵 ・竜騎兵の3倍の歩

-57-

正本

兵などが軍隊を離れたわけで、先に挙げた歩兵出身

の隊員の多さは、この除隊者の比率を反映したもの

である。 Hestaultによれば、プレヴオとしても、上

官に推薦された、功績ある歩兵を隊員の採用から除

外する気はなかったようである。優先的に騎兵をマ

レショーセ隊員として採用するという考えは国家憲

兵隊には引き継がれず、1791年の国家憲兵隊の創設

時には騎兵と歩兵の区別なく採用された[143]。

なお、出身部隊名も隊員名簿には記載されている。

過去の戦功や隊員の外見などでその部隊の評判やイ

メージが決まり、それがその部隊出身者の評価にも

影響するということはなかったのだろうか。Hestault

によれば、出身部隊がどこかという点は採用の可否

には影響しなかったという[143]。Sturgillは隊員の

出身部隊を抽出し統計処理しているが、出身部隊と

徴募の頻度や条件あるいはその後の昇進などに関す

る分析は行っておらず(28)、他の先行研究もそのよう

な分析を行っていないので、特定の部隊からマレシ

ョーセ隊員が多く採用されることはなかったようで

ある。

3.3. 読み書き能力、品行方正

マレショーセの隊員にはある程度の知的レベル、

読み書き能力も求められる。隊員はパ トロール中に

遭遇する疑わしい人物を取り調べる際、その人物が

所持する旅券、除隊証明、書簡などを読まなければ

ならない。また、彼らは事件や逮捕の状況などにつ

いて調書を作成する必要がある[147]。

当該時期のナント副官管区ではこの規定は必ずし

も全員に適用されてはいない。7名の騎兵が署名 し

かできなかったからである。Hestaultによれば、プ

レヴオは適格検査を全くせずに採用しているという

から、このようなことも起こりえるのである。読み

書きができなかったからといって解任されるわけで

もなか った よ うで、マ レシ ョーセの視察官

(inspecteur)によって視察記録に好意的に記載され

ることもあったようである。例えば、先の7名のう

ちの1人は 「良い騎兵。知的。勇敢。署名しかでき

ない」と記載されている[148]。

Hestaultは18世紀においてはこのような知の最低

限の表現でさえ、敬意と自尊心をもたらすと指摘し

ている。フランス語を知っていることは社会的な上

昇にとって不可欠であり、騎兵に大きな力を与える

という。 アンシアン ・レジーム末期に至るまで、書

くことができるのは住民のごく少数にすぎず、この

ことは特にブルターニュ地方に当てはまる。すなわ

ち、1786年から 1790年にかけてのロワールエア ト

ランティツク (Loire-Atlantique)県の小教区記録簿

によれば、男の23-30%、女の 10-20%しか婚姻証

書に署名できなかったのである。隊員に捕らえられ

た者あるいは彼らの管轄区の住民はごく少数しか調

書を読むことができないわけで、その調書を作成す

る隊員には自尊心と住民からの敬意がもたらされる

というのである[151]。

最後に、品行方正やカ トリックであることという

条件だが、これについては証人3名が必要とされた

こと、うち1名は聖職者であったことだけ付け加え

ておこう。つまり、信用される証人を3名用意でき

るほど、入隊希望者はその時に住んでいた地域との

繋がりが必要とされたわけであり、交友関係のある

程度の広がりも欠かせなかったのである[152-154]。

4 マレショーセ隊員とは誰か :出身社会層、親

族ネットワーク

次に、我々が 18世紀前半のオー ト-ノルマンディ

ー地方のマレショーセ研究を進める中で関心は持ち

ながらもアプローチが難しい2つの点、すなわち隊

員の出身社会層と彼らの親族ネットワークについて

見ていきたい。これらの2点は隊員とは誰であった

かを社会集団として見たものである。

4.1. 隊員の出身社会層

Hestaultはマレショーセの隊員となったのは職人

及び商人の息子が典型的だと指摘しているが、具体

的な数値を示していない。マレショーセの班は都市、

小都市 (bourg)に置かれていたから、隊員たちは駐

在した都市で自ら出身社会層の者たちと共存してい

たことになる[180】。

ただ、元兵士からの採用が最も多かったのははっ

きりしている。それでは兵士になる前はどうかとい

えば、18世紀の国王軍にはあらゆる社会層が兵士と

して集まっていた。最下級層は稀で、逆に上級貴族、

資産家の子弟は皆無である。したがって、マレショ

ーセの隊員に職人や証人の家系の者が多いことは十

分に考えられるだろう。羊飼いだった者の採用が却

下された事例を CoⅣisierが報告しているが(29)、マ

レショーセは最下層の者を計画的に排除していたわ

けではなく、軍隊での優れた職務によって隊員に採

-58-

マレショーセ隊員と社会 -EricHestaultの最新の研究に寄せて-

用される場合もあったようである[179-180]。

マレショーセ-の入隊に最も障害となるのは、社

会的出自よりもむしろ金銭的な問題の方である。入

隊に際してプレヴオに手数料などを払 うといったこ

とはなかったが (1720年3月の新マレショーセ創設の王

令第 5条で禁止)、入隊した者には自分で騎乗馬を調

達するに足る資産がある必要があったし、あるいは

1778年からは隊員として受け入れられて1ケ月後

までに新馬の補充積立金 (massederemonte)として

300リーヴル (この時の騎兵の俸給は366リーグル[222])

を払い込まねばならなかった。多くの騎兵はこの資

金の調達ができず借金をしたが、それでもある程度

のまとまった金額を用意できるということはそれな

りの家系の出身者 とい うことになるであろ う

[179-180]。

また、隊員の代父 (pamin)が親戚でない場合に

は、しばしばその都市や村の最も影響力を持つ人物

であったという指摘があるし[182,332]、隊員の採用

条件に読み書き能力が課せられていたことも考え併

せれば、隊員たちは少なくとも中程度の社会層に属

していたといえるであろう。

最後に、マレショーセにおける 「部隊の子弟」、

すなわちマレショーセの隊員の子弟の採用につい

て、Hestaultの挙げる具体的な事例を紹介しておこ

う。ある隊員は息子をマレショーセに入隊させるべ

く、16才で息子を軍隊に送り、経歴をつくらせてい

る。すなわち、 「(息子が)武器を持てるようになっ

たので、息子をマレショーセに入れようと考え、父

親は息子をロレ-ヌ歩兵連隊 (LorraineInfanterie)

に送り込み、7年半の従軍の後に退役させた」ので

ある[182]。これはモルビアン (Morbihan)県文書館

の 分類番号L (フランス革命期 (1790-1800年)の行

政・司法文書)にあるモルビアン県行政府の行政官宛

の書簡 (1791年)からの情報だが、オー ト-ノルマ

ンディーのマレショーセに関して我々はこのような

具体例を示す史料に遭遇したことがなかった。マレ

ショーセの隊員の実像を知るためにはこのような具

体例 1つ 1つが貴重なのである。

マレショーセにおける親族関係 :Nozayの Audrain家、Chateignier家、Juhel家、及びLeRoydelaCorbinaye家

FamillesAUDRAm,CHATEIGNIER,JUHELetLEROYdelaCORBINAyEaNOZAy

Marie-buiseJUHEL

27.IV1752

FranGOJSAngilique

CHATEIGNIER

u恵ende;

1.・ ,..

Gl滋と左

Daftd'e・n〝fEEtk∫0,・iieducoPJゐLlmGrfcbdu∬Zt

過堅塁 ←

LEROYdellCORBINAyEarrivadeLlmballele18fivrier173l

ctdemandasoncongale14octobre1735.fticnJICAUDR山N,aLfectH Nantesjusqu'au15)'anvier1729,mourutle26ocrobre1749.Son丘Isafne,Jean-M打ic,venudeJanzd

en1770,mutapourIAGuercheen17730hilobtintsaretraileen1782;sonfrかeIDuis,enposteiRain-de-BretagneJusquen1776

PuisiNoZay,futrenvoyeen1787.Jea・lJUHJiLneconnutquecetterisidence・Ilmourutle23septem-bre1754,muJlidetouslessacrementsctdluneindulgencepliniとre

dupareBenoltXIV,Fhnf0呈SAn giliqtleCHATEIGNIERfulnleauCOurSd■uneri又edamsraubergedeLdCTVirvErteaBain-de-Bfetagne,le2juin1766lUnekRrederemissionmilfinauprocとsintenteとrencon【redesonmeurtrier(CHAN,Z)C429).

出典 :Hestault,LaheulenancedemardchaussdedeNantes,p.429,AnnexeX

-59-

四X

Le

sliensdepafentida

AStamlrichltLSSie

正本 忍

4.2. 隊員間の親族ネットワーク

「部隊の子弟」は親子関係が 1つの部隊で見ら

れる事例だが、それが兄弟、親戚と拡がる事例も

Hestaultは取り上げている。Nozay班の事例であ

る[182](Hestault作成の前ページの図参照)。

図を右側から見てみると、1735年まで班長を務

めた MichelLeRoydelaCorbinayeがお り、その

寡婦 LouiseMichelが騎兵の JeanJuhelと再婚 し

ている。その JeanJuhelの姉妹の Marie-Louise

Juhelは妻に先立たれた騎兵 EtienneAu血ain と

1737年に結婚している。したがって、Etienneと

JeanJuhelは義理の兄弟になる。Etielmeは副官の

奉公人から 1724年に騎兵に採用され、1749年ま

で勤めている。Etiemeと Marie-LouiseJuhelの間

には Jean-Marieと Louisの兄弟が生まれ、彼 ら

は父の死後 17-21年 して騎兵の職を得ることに

なる。寡婦となった彼 らの母親 Marie-LouiseJuhel

は、1750年から騎兵を務める FrangoisAn gelique

Chateignierと 1752年に再婚する。Chateignierは

1766年、旅龍での殴 り合いの最中に殺され、彼の

義理の息子 Jean-MarieAudrainがそのポス トを引

き継いだのであった。

この事例では親族間のネットワークの拡がり方

がよく分かり、再婚によって、つまり複数回の結

婚によって親族の範囲も拡がることが見て取れ

る。縁戚関係が採用に何 らかの作用を及ぼしたこ

とは明らかであり、 「部隊の子弟」の存在も考え

合わせれば、マレショーセの隊員を多く出す家系

の存在も想定されるのである。

実際、18世紀前半のオー ト-ノルマンディーの

マレショーセの場合でも、同じ姓の隊員が同じ班、

あるいは近隣の班にいることも時々見られる(30)。

しかし、隊員名簿に彼 らの関係を示す記載がない

場合も多く、この図のようなネットワークを示す

ためには小教区記録簿の助けを借 りたより細かな

調査が不可欠である。

5 職業としての隊員職

マレショーセと社会との関係にアプローチする

には、地域住民がマレショーセ隊員をどう見てい

たのかという点に注目するのと同様に、マレショ

ーセに入隊しようとする者 (多くは元兵士)がマレ

ショーセの隊員を職業としてどのように見ていた

のかという点についても考える必要があろう。 こ

のアプローチもまた Corvisierが元兵士に関する

研究で先鞭を付けたものである(31)。

職業として隊員職をどう見たかという点を検討

するには、俸給額、職に伴 う諸特権、特別手当、

職務内容なども併せて見る必要があることはいう

までもない【206-207,221-258]。また、除隊時、特

に辞職の場合には、例えば、昇進できない不満に

よる辞職、規律の厳 しさに対する失望による辞職、

乏しい俸給の割に辛い職務に対する失望が引き金

になった辞職、隊員職が気に入らなかったことに

よる辞職など[212]、隊員のこの職に対する考え方

や気持ちが汲み取れるだろう。 しかし、ここでは

自らの職務に対する隊員の特に採用時に見られる

隊員の態度に注目して、職業として隊員職をどう

見たかとい う点に関する情報を拾い上げてみよ

う。

5.1. 志屠理由

まず、なぜマレショーセに志願 したのかという

点だが、Hestaultは、志願の動機は個人的要因が

大きいので明 らかにす るのは難 しい、 とい う

[176]。実際、志願の動機がどのように史料として

残 り得るかを考えてみれば、この困難さは領けよ

う 。

Hestaultは母数も典拠も示さないまま、マレシ

ョーセに志願 した元兵士について、 「彼 らの半数

近く (王国の残りの地方においては4分の3)にとっ

て」、マレショーセ-の入隊は 「定期的な収入を

確保 しつつ生まれ故郷に戻る好機であった」と書

いている。 Hestaultが挙げる具体的な事例、例え

ば、移動の多い軍隊生活から定住を求めてマレシ

ョーセに入った事例、結婚を機に除隊しマレショ

ーセに入った事例、駐屯中に私生児が生まれ軍隊

を去ってマレショーセに志願 した事例などは、定

住がマレショーセに志願 した主な動機 となってい

るといえる[176-178]。

「この種の研究の難 しさについて正確な考えを

与えうる」唯一の事例としてHestaultが挙げるの

は、1789年にシャ トーブリアンの班長であった

Jean-LouisMaussionの事例である。Maussionは、

1776 年 に Penthievre 歩 兵 連 隊 (Penthievre

Infanterie)に9年間勤めた後、マレショーセに入

隊した。1790年 10月 9日のシャ トーブリアン郡

(district)の選挙人集会は、Maussionに副官の階級

を与えるべく、称賛の言葉をもって敬意を表 し、

彼の全経歴を次のようにたどっている。すなわち、

-60-

マレショーセ隊員 と社会 -EricHestaultの最新の研究に寄せて-

シャ トーブ リアンの名家の出身である Maussion

は Penthiとvre歩兵連隊に入 り、勤務態度も良く、

上官からの敬意 と信頼を得ていた。伍長、軍曹と

昇進 し、8年間の従軍の末、より上の階級に昇進

しようとするその時、家庭の事情で軍隊を辞め、

シャ トーブリアンに戻らねばならなくなった。そ

こで、彼の上官たちは彼のためにマレショーセに

ポス トを請願 したとい うのである。 マレショーセ

-の入隊は優秀な兵士-の一種の褒賞としても機

能するのであった[178-179]。

この史料はロワールエア トランティツク県文書

館の分類番号 L、すなわち大革命期の行政文書の

中の国家憲兵隊文書からのもので、Hestaultによ

れば、分類番号 L593は 「成員の境遇、様々な書

簡 類 、 1790- 1793 年 (situation du persomel,

courriersdivers1790-1793)と表題がついている

[464]。このような性質の文書でなければ、この種

の情報は残 らないであろうし、18世紀前半のマレ

ショーセ関連文書では恐 らくこの種の情幸削こは遭

遇できないであろう。

5.2. 除隊からマレショーセ入隊までの間隔

さて、我々が Hestaultの研究で最も興味深いと

思 うのは、国王軍除隊後マレショーセに入るまで

の期間 (以下では Hestaultに倣って 「中断期間」と呼

ぶ)-の注 目である。 マ レショーセの隊員名簿に

は入隊の日付や軍隊における経歴が記載 されてい

るが、その統計的な処理だけでは、除隊とマレシ

ョーセ入隊との間の時期には関心が向かわない。

実際、マレショーセの先行研究でこの点には誰も

注 目していない。除隊 - 民間社会-の復帰 -

マ レシ ョーセ入隊 とい う流れは、Corvisierや

Boisによる元兵士研究、そして彼 らの民間社会復

帰とい う視点がなければ、成 り立たないものであ

る。

この 「中断期間」を知るためには軍隊を去った

日付とマレショーセに入った目付が必要である。

Hestaultによれば、除隊の日付は兵員名簿と隊員

の婚姻証書で分かるといい、彼は当該時期のナン

ト副官管区の隊員 150名のうち71名の情報を得て

いる。18世紀の後半、 「中断期間」は減少傾向に

ある (グラフ参照)。平均の 「中断期間」は 1770

年より前では29ケ月、1773-1788年では 15ケ月、

1789-1790年では7ケ月だが、1770-1772年では

71ケ月 (6年 11ケ月)と突出して 「中断期間」が

長い(32)。Hestaultはこの長さを、1770年に班の増

設が行われてポス トが急増 し多くの元兵士がマレ

ショーセに入隊することになったため、と解釈 し

ている[159-160】。

当該時期全体の 「中断期間」を見れば、54.9%

の騎兵が3年未満の 「中断」でマレショーセに入

隊している。 7ケ月未満の 「中断」を経て入隊し

たのは29.6%、3年以上の 「中断」では 15.5%で

ある。つまり、当該時期のナン ト副官管区の騎兵

の8割以上は3年以内の 「中断」 を経てマレショ

ーセに入隊していて、最も多いのは 1年間の 「中

断」を経て入隊した事例である。 逆に、10年を超

えるブランクを経て入隊した者は稀である。勿論、

あまりに長い 「中断」があると元軍人を隊員とし

て採用す るメリッ トがなくなるわけで、王権は

1778年4月28日の王令(第1編第 19条)でこの「中

断期間」問題の対策として、 「3年以上軍隊勤務

の中断がある場合には、騎兵として採用されない」

と規定した。この規定はほとんど遵守されたよう

で、1778年より後に徴募された騎兵では2人だけ

が3年以上のブランクを経てマレショーセに入隊

したとい う[160-163]。

出典 :Hestault,LalieulenancedemardchaussdedeNantes,

p.421,AnnexeVI.ただし、Hestaultは1773-78年

の数値を間違ってグラフを作成しているので、上

のグラフは筆者が作り直したものである。

5.3. 後にマレショーセに入隊する元兵士の民

間社会復帰後の就職先

以上のように除隊後マレショーセにポス トを得

るまでにある程度の時間が経過 しているとすれ

ば、必然的に、その元兵士は民間人社会に復帰 し

て何 らかの職に就いていたと想定される。しかし、

この点については Hestaultもはっきりとしたこ

とを述べていない。 Corvisierによれば、除隊した

兵士の半分はかつて住んでいた場所には戻らなか

-61-

正本 忍

ったという。 したがって、従軍はアンシアン ・レ

ジーム期の重要な人口移動の要因だったというが

(33)、もしそうだとすれば、元兵士の半数は実家に

帰ったわけではないので、蓄えや年金等の支給が

なければ、何らかの職に就いていたはずである。

「中断期間」に就いていた職業としては、Hestault

は総徴税請負 (Fermegen6rale)の部隊に勤務して

いた事例を挙げている。総徴税請負はフランス全

体で約 2万人の取締 り部隊を持っていたというが

(34)、この部隊については研究が進んでいない(35)。

先行研究でもこの部隊とマレショーセとの関わり

について特に言及されたことはない。Hestaultも

本 書 で 、総 徴税 請 負 の部 隊 の 「班長 補 佐

(sous-brigadier)」を辞してマレショーセの騎兵にな

った事例などを挙げているものの、それ以上の言

及はない。Hestaultによれば、総徴税請負文書に

はそこで雇われていた者の個人の特徴を記したカ

ー ドがあるということだが、1980年代初頭にボル

ドーに移されてしまって、彼はこの研究では参照

しなかったようである[161]。

この 「中断期間」 の問題に関しては、1778年に

設置された定員外隊員 (cavaliersumumeraire)も

注目される。彼らは欠員となった騎兵職を補充す

るために設けられたもので、正式採用に際しては

他の志願者に対して優先権がある。勿論、王権と

しては正式採用前に志願者をテス トするというね

らいもあった。彼らは正式な隊員ではないので、

隊員の補助しかできず、調書を作ることもできな

かった。しかし、この制度はプレヴォにとっても

定員外隊員にとっても有益であった。プレヴォに

とってはすぐに採用できる人材を確保 し、現場で

訓練できるわけだし、定員外隊員にとっては俸給

(額についてはHestaultは書いていない)をもらいな

がら隊員の仕事を習得できるからである。 この制

度以前には採用までの待ち時間が長くて、入隊を

断念する事例もあったから、定員外隊員の制度は

騎兵の補充について有効な制度であったといえ

る。なお、定員外隊員はずっとその資格に置かれ

たわけではなく、数ヶ月勤務した後に、正式に採

用されるか、あるいは免職された[164-166]。

6 おわりに

以上、EricHestaultの近著 『ナント副官管区の

マレショーセ (1770-1791年)』について、当該

研究を研究史の中に位置づけた上で、マレショー

セの隊員とは誰かという点と、彼らが隊員の職を

どのように見ていたのかという点を中心に紹介 ・

検討 してきた。Hestaultは従来からの隊員名簿や

プレヴオ裁判文書の詳細な検討に加え、小教区記

録簿などの史料で情報を補強することによって、

ある限られた時期、地域ながらマレショーセの隊

員の実像をより具体的に描き出すことに成功 し

た。今後のマレショーセ研究には Hestaultの当該

研究のような隊員の実像、彼らの職務の実像をよ

り明らかにするような研究を積み重ねていく必要

があるだろう。

とはいえ、小教区記録簿は必ずしも簡単にアク

セスできる史料ではない。我々が 18世紀前半のオ

ー ト-ノルマンディーのマレショーセ研究におい

て小教区記録簿の参照を断念したのは、出身地に

関する情報が少なく、またその同定が難 しいから

であった。すなわち、1730-60年の隊員名簿では

そもそも隊員の出身地に関する記述がなく、1720

-30年の隊員名簿では出身教区が示されてはい

ても、同じ名前の教区が同じ地方でも時に複数存

在し(36)、出身教区の同定ができないのである。さ

らに、ルアンにあるセーヌ-マリティーム県文書

館では常連の家系図調査愛好家 (gin6alogiste)が

多く、小教区記録簿の閲覧に非常に時間がかかる

という問題もあった。したがって、仮にオー ト-

ノルマンディーのマレショーセに関して Hestault

と同じ精度の研究をするとすれば、対象時期をア

ンシアン・レジームの最後の20年に絞 り、小教区

記録簿や公証人文書を丹念に播くしかないであろ

う 。

なお、本稿では紹介できなかったが、俸給など

収入 (特にそれが不十分であったという点)、労働条

件、地域住民との関係、職務内容なども、隊員の

職が隊員からどう捉えられていたかを見る上では

重要な要因であり、いずれ別稿の中で言及するこ

とにしたい。

(1)Hestault(Eric),Lalieutenancedemardchaussdede

Nantes(1770-1791),Maisons-AlfTort,2002.

(2)マレショーセについてより具体的には、拙稿 「1720

年のマレショーセ改革 -フランス絶対王政の統治

構造との関連から-」 (『史学雑誌』第 110編第 2

号、2001年、1-36頁)を参照。

-62-

マレショーセ隊員と社会 -EricHestaultの最新の研究に寄せて-

(3) Declaration du Roi, concernant les nouvelles

marechaussee(donneeaParisle9avril1720),Service

historlquedel・Arm6edeTerre,XF 1;Bertin-Mourot

(Bliane),LamardchaussdeenBretagneauWIIlesidcle

(1720-1789),UniversitedeRennes,1969,p.41,n.2.

(4)前註(3)0

(5)当該著書の本論の構成は以下の通 り。

第 1部 マレショーセの組織と任務

第 1章 領域的編成 と人員

第 2章 マレショーセの任務

第 3章 将校 と職務の管理

第 2部 マレショーセ隊員

第 1章 マレショーセの騎兵の徴募基準

第 2章 兵士からマレショーセ騎兵- :徴募

第 3章 「キャリア」の展開

第4章 生活条件、労働条件

第 3部 日常のマレショーセ :住民及び諸権力との

関係

第 1章 日常のマレショーセ :パ トロール、移送、

逮捕

第 2章 住民及び諸権力との関係

第 3章 マレショーセは有効だったか ?

(6)Paultre(Christian),Larepressiondelamendicitdetdu

vagabonhgeenFrancesousl'ancienregime,Paris,1906;

Bloch(Camille),L'assistanceetl'EtatenFranceala

veilledelaRevolution.GdndralitdsdeParis,Rouen,

Alendcn, Orldans, Chalons, Soissons, Amiens

(1764-1790),Paris,1908.

(7)Orgeval(Gabriel,LeBarroisd'),LeTribunaldela

ConndtabliedeFranceduXVsi∂clea1790,Paris,1917;

Guichard (Georges),Lajuridiction desprdv∂tsdu

Con〃占tableetdesMare!chauxdeFrance,Lille,1926.

(8)Larrieu(Louis),Histoiredelagenあrmeriedepuisles

originesdelamarefchauss∂ejuSqu'dnosjours,Paris,

1927-1933,2vols;id.,Hisloiredelamardchausse!eetde

lagenゐrmeriedesoriginesalaQuatri∂meRtpublique,

Maison-Alfbrt,2002.

(9)Ferry(Ferreolde),《ZICconnetablieetmarechaussee)),

Antoine(Michel)etautres,Guidedesrecherchesdbnsles

fondsjudiciairesdel'AncienRegime,Paris,1958,pp.

247-254.

(10)Corvisier(An dre),L'ArmdejlangaisedelafinduXVIle

si∂cleauminist∂reduducdeChoiseul.Lesolht>Paris,

1964,2vol;id.,Lescontr∂lesdetroupesdel'Ancien

Rdglme,Paris,1968,4vol. 「軍隊の社会史」に関する

研究動向については、主として ドイツ史のものであ

るが、鈴木直志 「近世 ドイツにおける軍隊と社会 -

「軍隊の社会史」研究によせて-」 (『桐蔭法学』

第 6巻第 1号、1999年、181-212頁)及び阪口修平

「近世 ドイツ軍事史研究の現況」 (『史学雑誌』第

110編第 6号、2001年、84-103頁)、丸畠宏太 「下

からの軍事史 と軍国主義論の展開 - ドイツにおけ

る近年の研究から-」 (『西洋史学』第 226号、2007

年、38-51頁)を参照。

(ll)Gutton(Jean-Pierre),《Unesourcede1-histoiresociale

de1-An CienRegime:lesarchivesdelamarechauss6e)),

BulletinduCentred'hisioiredconomlqueetSOCialedela

rdgionlyonnaise,1970,no4,pp.519.このような研究

動向に関しては、Goubert(Pierre),《Lemondedes

errants,mendiantsetvagabondsaParisetautourdeParisau18e siecle)),id.,Clioparmileshommes,LaHaye,

1976,pp.265-278も参照。

(12)Ruff(Julius),((Law andorderineighteenth-century

France:theMarechauss6eofGuyenne)),Proceedingsof

theIVthannualMeetingoftheWesternSocieO)for

FrenchHist.,Reno 1976,Santa-Barbara,California,

1977,pp.1741181;Sturgill(ClaudeC.),((Lrorganisation

et1-administrationdelamarechausseeetlesystemdela

Justiceprev6taledamslageneralitedrAlen90n,1720-1730)),

Socidtdhistoriqueetarchdologlquedel'Orne,1978,t.96,

no2,pp・6132;id・,L'organisationetl'administrationde

lamare;chaussdeetdelajuSticeprdv∂taleゐnslaFrance

desBourbons,1720-1730,Vincennes,1981;Cameron

(IainA.),CrimeandrepressionintheAuvergneandthe

Guyenne1720-1790,Cambridge,1981,Emsley(Clive),

くくLamar6chausseealafindel'AncienRegime:notesur

lacompositionducorps)),Revued'hisloiremoderneet

contemporaine,1986,t.33,pp.6221644.

(13)Martin(Daniel),くくLamarechausseed.Auvergneface

auxautoritesadministrativesetjudiciaireauXⅥⅠIesiecle)),

Cahiersd'histoire,1973, t.18,no4,pp.337-352;id,,《

La marechaussie au XVIIIe siecle:leshommeset

I.institutionenAuvergne)),Annaleshistoriquesdela

RdvolutionPancaise,1980,a.50,no239,pp.911117;

Lorgnier (Jacques), Mardchaussde, histoire d′une

rdvolutionjudiciaireetadministrative,Paris,1994,2vol

(tomeI:Lesjugesbottds,tomeII:Quandlegendarme

juge).

(14)1760年代の諸改革に関してはLarrieu,Histoiredela

mardchaussdeetdelagendarmerie,pp,144-147を参

-63-

正本 忍

照 。

(15)林田伸一 「ロラン ・ムーニエと絶対王政期のフラ

ンス」 (二宮宏之 ・阿河雄二郎編 『アンシアン ・レ

ジームの国家と社会』山川出版社、2003年、第 7章、

195-215、77-84頁)。

(16)Corvisier,L'Armdejlancaise,pp.VIII-ⅩIII.

(17)Bois(Jean-Pierre),Lesancienssolhtsdbnslasoci∂td

PancaiseauXTqIIesi∂cle,Paris,1990.

(18)治安総代理官に関しては、以下の事典が簡潔にま

とめている。Carbasse(Jean-Marie),articleくくlieutenant

generaldepolice)),Bluche(Fran90is)(sousladirection

de),DictionnaireduGrandSi∂cle,Paris,1990,pp.

879-880 ; Bimbenet-Privat (Mich占Ie) et Limon

(Marie-Fran90ise),art.くく1ieutenantg6n6raldepolice)),

Bely(Lucien)(sousladirectionde),Dictionnairede

l'AncienRegime,Paris,1996,pp.739-741.邦語文献と

しては、千葉治男 「ジャック ・プ-シェの業績 一忘

れられた碩学の遺産 (3)-」 (『ヨーロッパ文化

研究』、成城大学、第 17集、1998年、5-84頁)、

高揮紀恵 「近隣関係 ・都市 ・王権 -16-18世紀バ リ

ー 」 (『主権国家と啓蒙 16-18世紀 (岩波講座世界

歴史 16)』、岩波書店、1999年、171-193頁)、同

「パ リのポ リス改革 -1666-1667-」 (『思想』、

No.959、2004年、62-87頁)がある。

(19)クリミナリテ研究、犯罪史の研究動向に関しては、

志垣嘉夫 「アンシアン ・レジームの犯罪社会学的研

究 一最近の諸研究について-」 (『史淵』第 113輯

1976年、177-210貞)及び浜田道夫 「アンシャン ・

レジーム期犯罪史研究の諸問題」 (『商大論集』、

第 47巻、1995年、 1-50頁)を参照。

(20)拙稿 「1720年のマレショーセ改革」、19-24頁。

(21)Corvisier(Andre),Lescontr∂lesdetroupesdel'Ancien

Rdglme,t.Ⅰ,Paris,1968,pp.83-84.

(22)フランス中部アンジュー地方メ-ヌ-エ-ロワー

ル県の 1807年の徴兵適齢者 2919名に関する調査に

よれば、彼 らの平均身長は 161.2cm に過ぎない。Bois

(Jean-Pierre),《 Anthropologieduconscritangevinsous

rEmplre)),AnnalesdeBretagneetdespaysdel'ouest,t.

LXXXIV,nO4,1977,p・615・

(23)Bois,Lesancienssoldats,p.141.実はこの Boisの

推定には疑問がある.BoisはMoheau,Rechercheset

considdrationssurlapopulationdelaFrance,1778,

publi6avecintroductionettableanalytiqueparRend

Gonnard,Paris,1912,p.72(p.119de1-original)を根拠

として示 しているが、そこでは5ピェ以上の身長の

18-41才独身男性は、年齢 ・性別を問わず人口 30

人につき 1人、 5ピェ3ブスの身長では 199人の 1

人とされている。年齢層を16-41才と拡げた場合、

一方はそのまま 30人に 1人で、他方は 1000人に 1

人と変わるのはなぜか、Boisはその算出方法などを

示 していない。参考までに、該当箇所を以下に挙げ

ておく。 ((Danscettecontree,unepopulationde30

personnesdetoutageetdetoutsexenefburniten

celibatairesmalesentre18et41ansqu■unhommede

clnqPiedsouplus;ilfaut48personnespourtrouverune

taillede5pieds1pouceetaudessus;85pour5pieds2

pouces;199pour5piedstroispouces;511pour5pieds

4pouces;1417pour5pieds5pouces;2398pour5pieds

6pouces;7795pour5pieds7poucesetaudessus.》

ところで、この Moheauの著書に改めて注釈を付

けて 1994年に出版 した EricVilquinは、人口論と呼

べるフランスで最初のものだと Moheauの著書を評

価 しながらも、Moheauは引用 している統計の時期、

場所をしばしば示 さず、典拠も稀にしか示 さないと

して、Moheauが提示するデータの問題点を指摘 して

いる。 Moheau,Recherchesetconsi(滋rationssurla

populationdelaFrance(1778),r66ditionannot6epar

EricVilqulnaVeCdescontributionsdeC.L.Beharetal.,

Paris,1994,pp.IX,16-17.実際、上に引用 した部分の

((cettecontree))(この地域、国)もどこを指 している

のかはっき りしない。 したがって、身長に関す る

Moheauのデータを基にした Boisや Hestaultの見

解には再考の余地がある。

(24)当時の軍隊の身長測定がどのように行われたかわ

かっていない こと (Bois,Lesancienssoldats,pp.

130-131.)、文書によって身長が異なる騎兵が複数い

ることを考えれば、隊員名簿の測定値をそのまま信

用する訳にはい かないだろう。 特に最低身長の条件

が付けられて以降は、条件を満たすために志願者の

測定値を操作することはありえることである。 しか

しながら、身長は見ればすぐ分かる基準なので、測

定値の若干の操作はできても、極端なごまかしは難

しかったであろう。

(25)Corvisier,L'ArmdejTrancaise,p.926;Bois,Lesanciens

soldats,p.297;Lorgnler,Mardchaussde,histoired'une

rdvolutionjudiciaireetadministrativ,t.Ⅰ,pp.163-164.

(26)以上、Hestaultが参照した箇所は以下の通 り。Bois,

Lesancienssoldats,pp.297-298;Corvisier,L'Armde

Pancaise,p.929;Emsley,《Lamar6chausseealafinde

l'AncienRegime)),pp.625,628.

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マレショーセ隊員と社会 -ErlcHestaultの最新の研究に寄せて-

(27)Corvisier,L'ArmdePangaise,p.903・

(28) Sturgill,L'organisation etl'administration de la

mardchausse!eetdelajuSticeprdv∂tale,pp.2251244.

(29)Corvisier,L'Arm∂ePanETaise,pp.926.

(30)例えば、ヌーシャテル班には 1723年に 30才で採

用された Fran90isGuillaumeChandelier、1730年に20

才で採用された Fran90isChandelierの2名の騎兵が

いた。彼 らは別人で 1730年から 1731年にかけて一

緒に勤務 していたこともあるが、彼 らの関係につい

ては不明であるoServicehistoriquedelrArmiedeTerre,

Yb 859,p.473;Masamoto(Shinobu), くくListedes

hommes de la marechaussee en Haute-Normandie

(1720-1750)))(『総合環境研究』、長崎大学環境科学

部、第 6巻第 2号、2004年)、pp.102-105,mos189et197.

(31)Corvisier,L'ArmdePangaise,pp.926-934.

(32)Hestaultのこのデータは貴重であるが、それぞれの

時期の事例数を示していないとい う問題点もある。

(33)Corvisier,L'ArmdePancaise,p.911.

(34)Ibid・,p.936.

(35)総徴税請負人研究の第一人者 Durandは、博士論

文の再版の際に補充された参考文献目録において総

徴税請負の部隊に関する研究を2、3しか挙げてい

ない。Durand(Yves),LesfermiersgdndrauxauJWIIIe

si∂cle,Paris,1971(Paris,1996).

(36)例えば、オー ト-ノルマンディーには Tocqueville

とい う名の教区が4つの徴税管区に分かれて存在す

る。

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