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Title 80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 -ケルン/シューマンの議論を中心に-

Author(s) 小野, 隆弘

Citation 長崎大学教養部紀要. 人文科学篇. 1992, 32(2), p.17-32

Issue Date 1992-01-31

URL http://hdl.handle.net/10069/15290

Right

NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp

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長崎大学教養部紀要(人文科学篇) 第32巻 第2号 17-32 (1992年1月)

80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間

-ケルン/シューマンの議論を中心に-

小野隆弘

"Neue Produktionskonzepte"

zwischen Rationalisierung und Massenarbeitslosigkeit

in den 80er Jahren in der Bundesrepblik Deutschland.

Takahiro ONO

I. 80年代ドイツ経済の構造変化とケルン/シューマン

Ⅱ. 「新生産概念」と合理化

Ⅲ.大量失業と「新生産概念」

Ⅳ.労働における解放と労働からの解放-むすびにかえて

I. 80年代ドイツ経済の構造変化とケルン!シューマン

戦後の高度成長を経た1970年代以降,とくに80年代になって,これまでの産業発

展に代替しうるモデルが欧米諸国において期を一にしてあらわれている。フランスの

レギュラシオン学派のフォーディズムからポスト・フォーディズムへの移行論,ピオー

リ/セーブルの大量生産の終蔦とフレキシブルな専門化の再生論,オッフェの脱組織

資本主義論などである。それぞれの文化圏ごとの違いを含んでいるとはいえ,彼らの

アプローチに共通にみられる特徴は,最近の経済変動を景気の循環的局面としてでは

なく構造的変動と捉え,さらに現代を技術革新の新局面の到来の認識ばかりでなく,

生産の現場である労働編成に関する新しい構想が検討され,展開された時代であると

指摘する点にみられよう。 80年代になっての資本主義的合理化の構造変化は,労働

のあり方にまでたちかえって問われることになる。

この時代の転換を同じく認識し明確に表現したことで,西ドイツにおいて80年代

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IB 小野隆弘

の議論の中心になったのが1984年に出版されたケルン/シューマン『分業の終蔦?工

業生産における合理化。総括と趨勢』である(1)。ケルン!シューマンは,ドイツの産

業社会学をリードしている研究所のひとつであるゲッティンゲン社会学研究所を代表

する研究者であり,すでに,今回と同じく基幹産業(自動車,工作機械,化学)の事

例研究をふまえた旧著{Industriearbeit und Arbeiterbewuβtsein, 1970)において

学会を越えた話題を集めていた。ほぼ15年ぶりの共同著作は,その刺激的なタイト

ルが示唆するように,かれらの旧著での見解も含め,これまでの「生産概念の根本的

転換」 (S.19)を「新生産概念(NeueProduktionskozepte)」として提示し,合理

化に関する「概念」の変更を求めた。学問と政治の世界において「まったく異常なほ

どの反響」 (Fach/Weigel,S.133)を呼び起こしたが,専門家以外の多くに肯定的に

受け入れられたのとは対照的に,産業社会学という彼らの同僚の内部においては懐疑

的反応と反発をまねいている(Schmidt,S.87; Malsch/Seltz, S.246-7)。この話題の

書の編別構成は以下の通りである。

I研究テーマに接近するに際しての驚き

Ⅱ異郷にて--産業社会学者として"フィールド"に

Ⅲ自動車産業:大量生産の法則の空洞化

Ⅳ工作機械産業:自動化と個別生産との矛盾の克服

Ⅴ化学産業:近づく完全自動化

Ⅵ区分化-両極分解の現代的ヴァリエーション

Ⅶ生産概念を狭除な私企業的な限界から引き出す-近代化政策の考察

ドイツにおける合理化と労働のあり方をめぐる議論の展開(2)は, 60年代末の戦後

はじめての本格的な経済不況以来テーラー主義の限界の指摘とそれに代わり得る新し

い労働形態が模索されるが,とくにSPD/FDP左翼中道政権が1974年に開始した

「労働生活の人間化」プログラムを契機として, 「合理化」はたえず「人間化」との関

連で問われることになる。さらに80年代になって次のような「重要な三つの新しい

出来事」 (野村/アルトマン:68頁)がそれを加速することになる。第-には,経済

恐慌による失業の大量化・長期化であり,次に保守中道のコール政権による労働関係

の「柔軟化」と「個別化」にむけての労働法制の変更(とくに1985年の就業促進法

の制定)であり,さらにはコンピューター,マイクロ・エレクトロニクスを中心にし

た新技術による合理化の波である。ここに「合理化」と「人間化」の議論は新しい状

況をむかえることになる。この時代の転換を端的に表現しているのが, 80年代のキー

タームになっている「フレキシビリティ(柔軟性flexibility)」である。 「労働市場の

柔軟性」(3)についての稲上の次の説明は,その問題設定がはらむ射程を的確に示して

いる。 「西欧各国の先進経済がその程度に差はあっても市場競争の激化と技術革新の

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 19

昂進という共通の環境条件の下でその(構造調整)の必要と失業問題の解決に直面し

ているにもかかわらず,なお多様な(労働市場の硬直性)に悩まされ,それが経済活

性化の手伽足棚となっている。その困難をよく克服して新たな経済社会を構築するた

めには(労働市場の柔軟性)を高めていく必要がある」 (稲上: 91貢)。

こうみてくると, 80年代の「合理化」の課題は,とくに西欧にとって,一方では,

海外現地生産方式での企業のグローバル化が進展するという国際競争の新時代を,徹

底した「構造調整」によって生き抜くことであり,さらには, 80年代になって物価

の上昇は低くスタグフレーションのおそれはいくらか抑制されたとはいっても,なお

依然として高率のまま持続する失業率の克服である。この「合理化」と「大量失業」

の並存という問題状況は,ドイツにおいても同様である。

ケルン/シューマンも70年代をトランシーバーの時代で「潜伏期」とみて, 80年

代になり新しい技術が郡出することで合理化の基本的転換が起こったとみているが,

注目されるべきは,かれらにとっても「合理化」は,技術革新による「構造調整」だ

けに限定されるのではなく,大量失業の長期化・常態化の問題,さらには労働時間の

短縮,パート労働ならびに期限付き労働が進展するなかで,就業労働-労働と等置さ

れるような労働社会そのものの相対化という「価値転換」の問題をも視野にいれて議

論されるべきものであった(85:S.32)。

シューマンは, K.P.ヴィッテマンとの共同論文において,以上のようなテーマを

めぐるドイツの「労働の将来」の議論をふたっの立場に集約している。ひとっは,こ

れらの現象を「労働社会の危機」としてみる立場であり, 「就業労働がもはや構造原

理たりえない新たな社会類型への意図せざる移行」を展望する。もう一方は,伝統主

義的に「資本主義的発展の表現」として捉える見解である。ケルン/シューマンは,

この後者の立場から,非労働領域が大きくなったといってもなお労働が社会生活の中

心であると捉え,大量失業現象も社会の構造原理の解体を反映しているのではなく,

まさに逆にその有効性を示している(85:S.32-33),と主張する。

本稿では,ケルン/シューマンの著作がひきおこしている「新生産概念」論争に焦

点をあて, 80年代のドイツ労働社会の変容の一端を探ることにしたい。その際かれ

らは, 「合理化」を「労働力の利用の変化」の次元での合理化と「労働の否定」の次

元での合理化とのポジとネガの両面から捉えよう(S.19)としているので,その順序

で考察することにしたい。

Ⅱ. 「新生産概念」と合理化

ドイツ大工業の生産現場に何が起こっているのか。ケルン/シューマンが注目する

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現象は次のような事態である。

「分業の固定化の代わりに,われわれがみたものは,職場を再び広範に構築しよう

という,至るところでの真剣な取り組みである。知的熟練を荒廃させる代わりに,し

ばしば目についたものは労働者の技能をできるだけ包括的に利用しようとする努力で

ある。職業訓練は,廃止される代わりに,しばしば強化され内容も改善された。最後

に,労働者との対話なき(endmiidigende)交渉の代わりに,利害の対立は否定しえ

ないとしても,労働者が人間としてますます強く尊敬される状況にいまやしばしばぶ

つかってきた」 (S.18),と。

ここで挙げられている「生産概念の根本的転換」現象のメルクマールは,テーラー

主義を主とした,これまでの合理化形態の問題点と限界に対比され,さらに展開され

る。

「資本主義的合理化の全ての形態はこれまでひとっの根本的な考えにもとづいてい

た。すなわち,生きた労働を生産の障害として捉え,したがって生産過程においてで

きるだけ広範な技術的自動化を図ることによってその労働を無しにすることが重要で

ある,という考えである。残余の生きた労働はとりわけ擾乱要因の余地とみられ,労

働を制限する方向へとできるだけ徹底して誘導し,統制されるべきであった」 (S.

19)。

この「高い業績要求と職務の単純化・非熟練化との結合」 (S.20)という,生きた

労働にたいする根本的不信を基底に据えたテーラー的労働編成に対し, 「新生産概念」

の基本理念が宣言される。

「このような考えは,今日もはや雇用者の観点からだけでなく,資本の増殖それ自

体の視点からしても問題になる。人間の働きに代替しようという技術的可能性が爆発

したこの歴史的時点において膨大な解雇が結果としてもたらしたものは,逆説的にみ

えるかもしれないが,人間の労働が果たす質的な意義にたいする自覚と生きた労働の

独自な資質にたいする高い評価とが,まさにこの時代に高まっているということであ

る」。ケルン/シューマンはさらにつづけて,結論する。 「新生産概念の信条は次の通

りである。すなわち, a)生きた労働に逆らって技術化によって生産過程を自動化し

ようとすることは,それ自体何の価値もないということである。生きた労働を最大限

縮滅することが,それだけで経済最適性をもたらすことはない。 b)この労働力を制

限しようとすることは,重要な生産の余力をみすみす無駄にしてしまうことになる。

より総合的に職務を統合することはなんらリスクではなく,チャンスなのである。す

なわち,熟練形成と専門的主権は,労働者にとっても,それを強力に利用することが

肝心な生産力なのである」 (以上, S.19),と。

「合理化」と「人間化」というドイツにおける議論の脈絡においていえば, 「合理化」-

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 21

「人間化」の道が開けつつあること,さらにいえば,テーラー主義を否定して生きた

労働を復権する方向に「人間化」してこそ「合理化」もさらに進展できることへの,

決定的な「概念」の変化を時代が要請していることを彼らは強調している。技術の可

能性が無限に浸透してきたとはいっても,人間が生産を全く労働なくおこなうことを

あてにすることはできないのである。したがって, 「分業の後退は,もはや雇用者に

たいする方便や譲歩では決してなく,新しい積極的な合理化戦略である」 (85 : S.39)。

ベッケンバッハは,ケルン/シューマンの新説を,フランクフルト社会研究所の

「資本による労働の実質的包摂」テーゼに代表される70年代の産業社会学を支配して

きた「構造的パラダイム」に対して「決定的なアクセントの移動」を与え, 「資本中

心的パラダイムから近代化パラダイムへの転換」を促進したものとして位置づけてい

る(Beckenbach, S.150-152)。

Iでみたように,テーラー主義の危機認識とそれに代替しうる新しいフレキシブル

な労働形態の模索というドイツにおける長い議論の流れにおいても,テーラー主義的

労働編成はもちろんすでにその限界が共通の前提になっており,その上でいまや, 80

年代の合理化の課題は, 「構造調整」のあり方, 「フレキシビリティ」の方向に問題の

重心は移っている,と言えるだろう。とすれば, 「合理化」と「人間化」という問題

設定の脈絡のなかで, 「新生産概念」宣言は,さらに,フレキシブルな「構造調整」

が「人間化」につながるかどうかという問題を中心においたことになろう。

アルトマンは,先にふれた80年代初の三つの状況変化のなかで,ふたっの根本的

に異なる合理化の理念が対抗しあうことに注目し,以下のように説明している(野村

/アルトマン, 71-72頁y4)。 CIM (コンピューターによって統合された生産システム)

を推進して無人の自動化工場を実現するという考えと,分権的に組織された労働過程

という,熟練度の高い,しかも等質的な労働者がチームを組んで生産過程を自律的に

管理するという考えとである。前者は「技術中心的」な合理化戦略であり, 「中央集

権的自動化の目標は,労働力の最小化人間の手作業の廃絶,作業環境への無関心,

生産現場における熟練労働の廃絶である。これまで生産現場で熟練労働者がおこなっ

てきた業務は,現場の外の開発部署,計画部署,管理部署に集中される」。後者は,

「人間中心的」な合理化戦略であり,これを支えるのは, 「自動化生産工程はその操業

に多くのトラブルをともない,しかも最適制御がむっかしいが故に,労働者が生産能

力の重要な要因になる。要因数は少なすぎてはいけないし,職務内容も狭すぎてはい

けない。労働過程のトラブルを避け,その生産能力を完全に引き出すためには,労働

者の熟練が広く利用されねばならない」,という考えである,と。

ME化をはじめとする新技術がフレキシブルな「構造調整」を押し進めるにつれて,

作業の標準化・単純化が労働者の大部分に割り当てられるのか,それとも仕事全体の

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仕組みが複雑になり,段取りや保全などの知的熟練がいっそう必要になるのか,ケル

ン/シューマンは基幹産業の現状を表1(S.316)のように説明して,自動化が進展す

るなかでも人間労働の重要性が失われないことに注目するのである。

技術の機能形態 労働組織の機能形態

自 動 車

機械の自動化に向けての 職務統合の原則による

新技術の積極的利用, 職場の定義○

産 業 にもかかわらず 労働形態の趨勢 :

人間なき生産の見通 しは無い0 生産労働の再専門化○

工作機械

切削加工における 包括的な職務 タイプへの執着○

新技術の利用○ 既存の生産知識の利用○

半自動化 した連結機械 専門工の経営は

産 業 の レベルでの機械化の飛躍 もはや必要悪ではなく,

しか しなが ら, 非効率で,

過剰な技術化は存在 しない0

積極的な構成概念である○

化学産業

全自動化に向けての 職務統合の原則による

自動化率の完全実施○ 職場の定義○

生産労働の再専門化傾向の継続0

結 論

技術化, しか しながら 包括的な職務設定が

生きた労働を何とか して

縮減するということは無い0

新 しい生産力を開示する○

こうしてケルン/シューマン自身が二分法的な対比をするなかで, 「新生産概念」を

「人間中心的」な方向で特徴づけたことが,このような基本理念の対立をさらにあら

わにしてきたと言える。彼らの主張内容は,オスタロ- (Osterloh,S.125-)とバー

ダー(Bader,S.97-102)の整理の助けをかりれば,次のように要約できよう。まず,

オスタローがまとめた次の四テーゼはケルン/シューマンの主張の全体に関するもの

である。

(1)自律性獲得のテーゼ。

(2)経営者と労働者との間ではじめて可能になった近代化の契約。

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 23

(3)両極分解のテーゼから「区分化」のテーゼへの修正。

(4)経済的技術的決定論のテーゼの放棄。

次に労働組織形態の変化に関してはバーダーの整理が適切で,ケルン/シューマン

の説を次のような二分法に表現している。

①労働の分断化(Fragmentierung)あるいは労働分割に対する職務の統合

②他律性あるいは上からの規律化・制御に対する自律性

③非熟練化に対する再専門化

④生産の知識の分離に対するその再結合

⑤人としての対応拒否に対する労働者の意見尊重

⑥疎外された労働に対する自由な労働

さらに,ケルン/シューマンの「新生産概念」という問題提起を受け,その後のド

イツの動向を検討したのがユルゲンスの1990年の論文である。彼は, 「これまでの生

産概念の漸次的変化」をもたらしている「80年代の基本的趨勢」として次の三つの

契機を挙げている(Jiirgens, S.414-415)。

(1)職務統合

労働内容・職務の範囲の拡大。したがってテーラー的職務の単純化・専門化の後退

(2)自己制御

ヒエラルキー的形式の制御からの転換。雇用者の実行部面における自己制御と自己

責任の増大

(3)参加

職場・経営の決定にたいする参加の促進

こうみてくると,ケルン/シューマンの「新生産概念」は,単にテーラー主義ある

いはプレイヴァマンのような,古典的な熟練労働と非熟練労働の二元論,両極分解論

に対する批判だけでなく,その現代的な変種である集権的自動化論をも対象とする批

判であると受け取ることができよう。 80年代の合理化に関する概念-理念と戦略を

めぐる論争に対して,かれらが「人間中心的」合理化の方向に純化した解答をあえて

明示したことの意義は,概念論争を活性化したこと自体にまず認められるべきであろ

う。

「新生産概念」論争はいまも続いているが,ケルン/シューマンに対する批判の要点

は,彼らの二分法的問題設定とあまりに「人間中心的」で楽観的にみえる結論への純

化にむけられている。ドイツ産業社会学の中核を担う研究所の代表的研究者,すなわ

ちフランクフルト社会研究所のW. Brandt,ミュンヘン社会科学研究所のN. Altmann,

K.Dull,ベルリン科学センターのU.Jiirgens,T. Malsch, R. Seltzなどの批判を受

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24 小野隆弘

けているが,その論点には共通した面がある。ケルン/シューマンが基幹産業の一部

の現象を一般化,普遍化しすぎていること,労働者の立場は「責任ある自律性」とい

うより「制御された自律性」に陥らないのか(Brandt,S.337)ということ,そして

結論としては,依然として「企業の戦略は主としてテクノクラート的,中央集権的で」

(アルトマン, 72頁)あり,両極分解テーゼが妥当する,という見解が圧倒的であ

る(5)。

企業の「合理化」戦略が成功するためにも労働の「人間化」を押し進めざるをえな

い,という点に「新生産概念」宣言の中心的論点があるとすれば,実証的かっ理論的

にその根拠を提示する必要があろう。ケルン/シューマンの各産業ごとの事例研究に

即した実証的検討は今後の課題にせざるをえないが,現代の「合理化」が「人間化」

を要請する技術的組織的根拠はいくらか示唆されてもいる。まず確認されるべきは,

彼らの主張が大工業の生産現場における労働編成の性格規定に徹底して焦点を当てて

いることである。 「経済力は,新生産概念の出現にとっての必要条件ではあっても十

分条件ではない。追加として,職務の統合と熟練形成によって有効な労働力利用を担

えるに十分で,質的な実体を含むような,労働工程での具体的な前提条件Stofflich-

arbeitsprozeβliche Voraussetzungenが,すくなくとも新生産概念と関連して創出

されなければならない」 (S.317)。この追加的条件が存在しない限り,新生産概念は

断片的なものにすぎず,影響力や転移力をもつことはない,という。

次に注目されるべきことは,生産現場における職務統合と知的熟練形成の意義につ

いてのケルン/シューマンの認識である。先のアルトマンの指摘とも重なるが,彼ら

自身の現代の労働の性格についての説明は,次の箇所に典型的にみられる。

今日の仕事は,伝統的な製造過程の労働に比べて,非常にさまざまな機能からなっ

ている。人間労働は,もはや直接に原料や生産物に接して商品を作るのではない。そ

のかわりに,人間労働は,技術システムを操作する際の計画,調整,制御の活動をす

る。この仕事は,分業に抵抗するのであり,この労働者は「技術者あるいはエンジニ

アではなくて,一種の偵察兵」である。すなわち,トラブルに対する感受性,すばや

く即応できる能力ならびに予防的行動が重要である(89 : p.93-94),と。

ME化が促進するノ自動化の波が定型作業だけでなく非定型作業にも及ぶのかどうか,

作業組織における知的熟練の特質について明快な理論的説明を与えているのは日本の

小池和男である。小池は,日本的生産モデルの最も中心的な特質を作業現場での「技

能」形成のあり方にみる。作業の分業形式が「分離方式」ではなく, 「統合方式」で

ある点,また現場での幅広いOJTを中心にしたその「技能」形成の特色が「ふだん

とちがった作業」をこなし, 「変化」や「異常」に対処する能力と,職場での多くの

持ち場をこなす能力にある点を日本モデルの利点の根拠に挙げている(小池, 65-77

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 25

頁)。ケルン/シューマンの「偵察兵」説が小池説に近似的であることは興味深い。

さらにこの問題で注目されるのは,同じく無人化的自動化論に否定的な芋仁が「多能

工に必要なスキルは旧来の熟練工のスキルとは異なる」と指摘した点である。彼は,

現代多能工の熟練は「ビヘイビアル・スキル」であり,それは「動作の確実さ,柔軟

性,判断の速さ,正確さといった動作的な熟練にすぎず,技術的には不熟練,半熟練

労働にすぎない」と主張する(宇仁, 22-25亘)。ここで検討する余地は無いが,ケ

ルン/シューマン説に対する重要な反論になる指摘であろう。

もちろんケルン/シューマンは, 「新生産概念」がすでに現実になっていると主張し

ているのではない。またそれが問題を何もはらまないとも捉えてはいない。 「新生産

概念への移行は進行中であって,完全な転換は未だ先の将来のはなしである」 (89 :

p.95)。衰退産業(マーガリン産業,造船産業など)では困難であり,あくまで基幹

産業にみられる「合理化のポテンシャルの質」 (S.16)がかれらの問題であった。

Ⅲ.大量失業と「新生産概念」

80年代のドイツ経済の最大の問題のひとっが大量失業,しかもその長期化・常態

化の問題であることはさきにIでもふれたが,その点日本とは対比的な経過を示して

いる。すなわち,日本の失業率の水準は低く,かつその変動が小さいのに対して,欧

米の失業は,一時的経済の擾乱という循環的様相を越えて,失業の大量化・長期化が

高齢層・外国人だけでなく若年層にも及ぶという特徴を共通に示すからである。西ド

イツに関していえば,失業率は1960-73年の平均率で1%前後という低水準にあっ

たが, 73年の第一次石油ショック以降上昇に転じ,表2から読み取れるように, 73

/74-79年が3.5%で, 80年代になるとさらに79/80-85年が6.5%へと急上昇し高

失業率が持続する。とくに83年に9.1%, 226万人というピークを迎え,経済の停滞

もありコール保守政権へと転換する。こうして戦後のケインズ的完全雇用政策ならび

に福祉国家の基盤が現実的にも政策理念の面においても掘り崩され,その有効性への

疑念を招いたのである(6)。

ケルン/シュ-マンは,この問題を「ドイツの工場の新しい発展に内在する問題の

外部化」 (89:p.96)として捉え,新生産概念にとって大きな問題は,ドイツ社会が大

量の失業者を抱えて長期的に安定し続けることが出来るかどうか(89:p.102),とい

う。彼らは,先にふれたように,資本主義的合理化のふたっの次元,すなわちⅡでみ

てきた労働力の利用の次元とここⅢでの労働の否定の次元という,ポジとネガの両側

面を関係づけて考察する。

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26 小野隆弘

表2主要先進諸国の経済指標1960-1985

1 2 3 4

消費者失業1人当たり貿易収支物価指数の(総労働力の実質GDP (GDPの推移の割合)の推移割合)

国名順位%順位%順位% 計

西ドイツ

1973/74-79 4.7 3.5 2.5

1979/80-85 2 4.2 2 6.5 2.5

1960-85 3.9 2.8

日本

1973/74- 79

1979/80- 85

1960-85

アメリカ

1973/74- 79

1979/80- 85

1960-85

フランス

1973/74- 79

1979/80- 85

1960-85

イギリス

1973/74-79

1979/80- 85

1960-85

313

232

454

545

064

036

日印 日

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534

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SOURCE:Organization for Economic Cooperation and Development, Economic Outlook:

Historical Statistics/Perspectives (Paris: OECD, 1987), pp. 39, 44, 68, 83.

(Katzenstein, p. 326による)

「合理化の解雇効果は長期的には技術進歩の職場創出効果によって相殺されるとい

う古典的な楽観主義的なテーゼは,結局のところ棚上げにされたものとみなされねば

ならない。したがって次のジレンマが存在することはあきらかである。すなわち,人

間の労働余地の暴力的否定をともなう生産装置の巨大な変革は,失業という社会的ス

キャンダルと結びつく」 (S.18)。このように, 84年の著作では,技術進歩の進展が

失業と必然的に結びっく傾向があることを確認することから出発している。 「合理化

は,使用労働の生産性を増大する手段としてたえず職場の否定というヴィールスをと

もなう」 (S.18),と。

89年の論文になると,西ドイツ経済が86年秋以降高失業の持続にもかかわらず成

長の回復と低インフレのなかで再び自信をとりもどしたこともあり,ケルン/シュー

マンの主張にもいくらか楽観的なトーンがでているようにみえる(7)。彼らの見解で

は,高失業の原因を新概念から生じた生産性の上昇のせいにするのは正しくない。そ

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 27

の意味で, 「技術的失業」論争は失業を技術の改良に帰してあまりにも単純すぎる。

新生産概念を使用する産業は,かなり安定した職場を確保しており,新技術と雇用の

安定とは,むしろ正の相関関係にある,といえる。労働需要の減退の主な責任は弱体

産業にあり,基幹産業は雇用の不安定化を防ぐに十分な経済成長を達成しているが,

ただ衰退産業の雇用減少を埋め合わせることまではできず,その結果社会全体として

は失業率が上昇するのである(89 : p.96-97),と。

だが問題は残るのであって,どのような労働者が失業に直面することになるのかと

いう失業の構造を分析すると,失業のリスクは職業訓練と先任権を欠いている労働者

にとくに高くなる傾向があるからである。たとえば,現在25才の世代の平均失業率

は8%であるが,他方学歴がなく職業訓練を受けていない層では18-23%とはるか

に高い数値を示す。職業訓練を終えた若者も,先任権を欠いているため失業のリスク

は大きく,訓練後すぐの時点で平均14%の失業率, 14週間の失業を示す。しかも,

この労働市場のバッファ-をなす産業予備軍は新生産概念の部門へリクルートされる

ことはない(89 : p.97-98)。

こうして「産業生産の中心の内部における分業の終蔦は,外部に対する閉鎖を先鋭

化する傾向をともなう」。すなわち, 「新生産概念」が労働者に及ぼす作用は一様では

なく,平均値では読みとることができない。労働市場危機の配分に異常な不平等が存

在するからである。一部の被用者(ますますその数は増大する)は比較的安定した職

場を保持するのに対して, 「最後の雇用者が最初に解雇される」 (S.312)事態にみら

れるように,特別の参入リスクを担うのは特定の人々であり,留まることのリスクに

晒されるのも同一の集団であり,失業の悪循環は拡大再生産することになるのである。

こうして,内部の労働編成における「人間化」の傾向とは異なって,外部労働市場で

は両極分解テーゼを否定することはできない。むしろ,両極分解テーゼの現代的なヴァ

リエーションとして「区分化(Segmentierung) 」が規定される(S.319)。ケルン

/シューマンは, 「新生産概念」がもたらす「リスクとチャンスの様相の差異」 (S.22)

を基準に労働者を次の4グループに区分する(S.22-23)。

第一のグループは,基幹産業における「新生産概念」の担い手である専門工,保全

工などの熟練労働者からなる「合理化の利得者」である。

第二のグループは,同じく基幹産業に帰属するが,伝統的な職務を担う人々からな

る。雇用は法律によって保護されているためにさしあたり解雇の畏れはないが,多能

工的熟練の欠落と高齢,女性,外国人などの属性のために長期的にはその職務が消滅

していく危険がある「合理化の忍耐者」である。

第三のグループは,衰退産業の労働者である。

第四のグループは,失業者という「合理化の犠牲者」である。

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28 小野隆弘

ドイツ大工業の作業現場における「新生産概念」の展開は,効率の追及と職務の単

純化・不熟練化とのテーラー的結びつきを廃し,熟練と不熟練との二分的固定化ある

いは「構想と実行の分離」とを否定するところに成立する以上,職務の統合と幅広い

熟練形成を介して,従業員集団の仕事への定着性を増し,長期雇用を促進するように

働くことは間違いない。内部労働市場の形成であるが, 「よい仕事には,その工場で

すでに働いているひとを優先するという原則」 (小池),あるいは勤続年数が長い熟練

した労働者を特権化するという雇用慣行は,先進国に共通にみられる。ただ,その雇

用慣行を支える具体的な制度は各国ごとの違いを示すのであって,ドイツ大工業の

「中位雇用政策」は,アメリカにおける「短期的な採用・解雇の繰り返し政策」 (hire

&fire Politik)のように従業員数の変動で対応するのではなく,時間外労働・操業

短縮などを容認することによって従業員数をできるだけ維持していく労働者雇用保護

政策の性格をもっている。この点で日本の終身雇用制といわれる雇用慣行と共通な面

を保持しているのであって,日本の「異質性」を強調することだけでは何も明らかに

ならないのはいまや自明のことであろう(8)。

しかし問題は,この基幹産業内郡における労働の「人間化」の進展が, 「外部に対

する閉鎖を先鋭化」して, 「区分化」という労働者に対する分断と差別的作用をみち

びくと共に,失業という労働の否定を一部の労働者に長期に固定化しないか,という

ことである。ケルン/シューマンは,資本主義的合理化の現実を捉えるのに,失業と

いう労働の否定の方向での合理化にだけ固執していては正当な評価ができないと主張

していた(S.19;85:S.32-33)が,失業現象をも「産業発展の表現」として捉える

この立場は, 「新生産概念」による内部隔離効果に一定の合理的根拠を認めたとして

ち,大量失業と「区分化」の現実を甘受せよと言うのではない。彼らにとっても,節

しい合理化の形態が,なによりもまずは,基幹産業におけ'る内的発展像にすぎないと

いうことはしっかりと確認されている。そのために, 「新生産概念」という合理化の

ポジが不可避的にまねくことになる労働への参入障壁の高まりを打破することが,政

策的要請へのバネとなって表現されることになる。

「もし生産構造の転換がもっぱら個別経済で捉えられた生産概念の方向でおこなわ

れる場合は,社会的不均衡が激化する」 (S.321)。したがって, 「新生産概念が私企業

的狭除さにおいて把握される限り,それは近代化の限界を意味するにすぎず,全体社

会の合理性を評価することにはならないのである」 (S.321)。こうして, 「新生産概念

の限定性を克服する産業の近代化の実践」 (S.331)が「労働政策のパラダイム転換」

として要請され,次のような具体的な政策が提起される。 1.近代化と危機の際の調整

負担の社会化, 2.労働時間の短縮による労働の配分, 3.能動的な労働形成と熟練形成

の政策,である(S.322-327)。

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 29

ミクロレベルの経営戦略から出発した合理化概念がマクロレベルでの近代化の政策

主張へと広がることによって, 「80年代の(代替的)な合理化理解を採る試みは,政

治的対立の焦点にならざるをえない」 (S.18)ことになる。基幹産業に限定された労

働の「人間化」の進展が,一方においては,外的フレキシビリティと結びつき,パー

ト労働や期限付き労働の普及のなかで雇用と失業との境界を流動化すると同時に,失

業を一部の「合理化の犠牲者」に固定化するという, 「合理化の利得者」の所得と雇

用保障の強化にのみ帰結するかたちで中核労働者層の「集団エゴ」に終わる可能性が

あり,他方では「新生産概念」を基盤に労働時間の短縮要求など介して,労働者全体

の「階級的連帯」への道が開くような近代化政策の可能性もあるということになる。

このような「集団エゴと階級的連帯との矛盾という合理化のジレンマ」 (S.125)がど

のような道筋において解決されていくのか。労働編成の変化に注目したミクロ分析と

労働政策的主意主義との距離を彼らが克服していないという批判(Malsch/Seltz, S.

25)が一定正当であると思われ,ケルン/シュ-マンにとって今後の課題として残る

であろう。

Ⅳ.労働における解放と労働からの解放-むすびにかえて

以上みてきたように,ケルン/シューマンは,労働の「合理化」と「人間化」とい

うドイツの議論のコンテキストのなかで,人間中心的視点を前面に据えた明確な主張

を提示してきた。調査対象を限定しての精緻な実証研究とそれとは対照的なマクロ的

広がりをもった政策的主張とのアンバランスな並存という理論構成の特徴が,ケルン

/シューマンの魅力をなすと同時に彼らの弱点をも内包することになっている。

80年代の資本主義的合理化を規定してきたのは,まず第-にⅡでみたように,新

技術と国際的競争の新たな展開が契機となって生じた,生産現場における労働力の利

用の質的変化である。ケルン/シューマンは,この「新生産概念」の誕生の様相を,

それまでのテーラー主義が解体され,絶えざる自動化の流れに抗して生きた労働が復

権し, 「分業の終蔦」に向かうような「新しい積極的な合理化戦略」のなかに読みとっ

ている。さらに第二にⅢで考察したように,この労働の「人間化」の進展が不可避的

に内部労働市場の閉鎖的な形成を促すことによって,労働の否定という合理化の次元

では大量失業を欧米経済に共通した現象としてもたらした。

カッチェンシュテインが要約したように,ケルン/シューマンにとって,この80年

代のふたっのトレンドである合理化のポジとネガのどちらが大きくなるかが,技術的

にも政治的にも決定的であることになる。さらに,この見解からふたっの政治モデル

が想定できるという。ひとつは,労働力内部の分業が探化して,合理化の勝者と合理

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30 小野隆弘

化の敗者とが新しい社会的同盟を構築する政治的基盤が存在しなくなる道であり,ら

うひとつは,生産技術の変化が労働運動を再活性化することによって抵抗の継続を可

能にし,合理化の勝者と敗者の双方によって支持された改革への政治的土台を創造す

るという構想である(Katzenstein, p.315)。

フレキシブルな「構造調整」を要請されるに至った80年代の「合理化」は,どの

ような方向へと労働社会を変容させているのであろうか。ケルン/シューマンは, 「合

理化」をすでに経過した現象として事後的分析の対象にするのではなく,今なお進展

している運動として,現に生じつつある「合理化のポテンシャルの質」を捉えようと,

あくまで仕事としての就業労働のあり方を問うなかで時代の転換方向を見定めている。

「新生産概念」が複数で規定されているように,テーラー主義から「新生産概念」へ

と単線的な発展像が描かれているわけではない(85 : S.37-38)。 「新生産概念」宣言

が強調するのは,新たな技術革新を契機として人間の生きた労働の復権の可能性が生

産現場において開けているということである。産業労働は,なお社会発展の不可欠の

前提をなし, 「非常に重要な活動領域であって,アイデンティティの形成を労働から

離れて求めていることはありえない。自律した生活という展望は,労働においてさら

に自律性が得られることなしには単なる仮構に終わるであろう」 (S.326, : Schmidt,

S.148も参照),と。

この「新生産概念」宣言とは対極的な方向から80年代の変化を見据えようとする

のが, C.オッフェ, A.ゴルツなどに代表される「労働社会の危機」論である(9)。そ

のテーゼは,期限付き労働など労働の「個別化」や多様化が進行することによって,

労働-就業といえる事態が希薄化し,労働を就業労働の外部の活動一般へと拡張する

解釈も現実性をもつようになり,労働を基底に据えた社会である労働社会の自明性が

喪失しつつあることに注目する。この点をさらに大胆に定式化したのがU.ペックで

ある。 「標準化された完全雇用システム」から「フレキシブルで,多元的な過小雇用

システム」への移行として整理するペックは,前者の雇用システムは労働契約,労働

場所,労働時間などが,全産業部門,全グループを横断する形で高度に標準化されて

いるのに対して,後者では,労働と非労働,また雇用と失業との境界が流動的になり,

生涯を通してのフルタイム労働というノルムはパート労働など労働時間のフレキシブ

ル化の多様な形態によって停止されてしまう,という(Beck,S.222-236)。 「自律的

領域の拡大は他律的な産業労働を前提とする,という二元論的解決があるだけである」

(S.328に引用されたゴルツの主張)という現実のなかで,ゴルツは労働時間の短縮-

自由時間の獲得の先に非労働社会を展望しているが,そのユートピアに現実的基盤を

与えるのがこの「フレキシブルで,多元的な過小雇用システム」への進展である。

ケルン/シューマンは,その主著の最終箇所でこの労働からの解放(10)というゴルツ

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80年代ドイツ経済における合理化と大量失業の間 31

の主張を批判検討して,自らの立場を位置づけている。 「労働の外部空間が自律した

固有の領域になるのは,労働過程のなかでは消耗されず,破壊もされない人々によっ

てその外部空間が保持されるかぎりにおいてである」 (S.328)。彼らの「新生産概念」

の魅力はそれが労働における解放に執着する点にあろうが,何度もふれてきたように,

問題は労働における解放が大量失業と「区分化」をはじき出すことであり,その問題

の解決のために彼らはマクロレベルの近代化政策を提起している。しかしながら,こ

のミクロとマクロの距離を埋めることには未だ成功しているとはいえない。いずれに

しても,労働における解放と労働からの解放とが対抗しあうだけでなくどのように結

びっけられるのかがケルン/シューマンにとってもゴルツにとっても大きな課題にな

ることは同じであろう。したがって,彼らの議論の射程を見通すためには,労働社会

の変容についてのドイツの諸説をさらに幅広く検討していくことが要請される。今後

に期したい。

(1)ケルン/シューマンのこの著作に関する内容紹介は野村(1988)をみられたい。ケルン/シューマンの

著作,論文からの引用は, 『分業の終蔦?』については貢数のみ,その他の論文については著作年,貢数

のみを本文中に略記する。

(2)とりあえず野村/アルトマン縮,とくに第1章(N.アルトマン/G.ベヒトレ),第2章(N.アルトマン)

を参照されたい。

(3) 「労働市場のフレキシビリティ」の内容規定については, J.アトキンソンとレギュラシオン学派が手

際のいい分類をしている。アトキンソンは,仕事の縄張りの緩和や柔軟な人の配置を意味する「機能的

柔軟性」,パートタイム労働者などの雇用拡大を意味する「数量的柔軟性」,厳格な職務賃率制度の見直

しや実績評価給の導入を意味する「金銭的柔軟性」ならびに業務の外注・下請化を意味する「距離化の

戦略」に区別している(稲上92貢)。レギュラシオンは,企業内部における多能工や熟練・参加の進

展を「内的(質的)フレキシビリティ」と規定し,雇用・賃金の調整を意味する「外的(量的)フレキ

シビリティ」から区分している(山田, 141-161頁;宇仁, 23貢)

(4)ユルゲンスも同様に,西欧企業の生産改革のために必要な三つの戦略を挙げている(Jiirgens, S.416-

147)。

①自動化の戦略であり,技術中心的な戦略である。

②自律したサブグループにおける分権的自己制御の戦略であり,人間性中心の戦略である.

③日本的生産概念の導入と模倣の戦略である(After Japan!) (Hinter Japan her)c

その他,ベルリン科学センタ-編(1988)所収のプレートナー論文などをみよO

(5) Malsch/Seltz(Hr.)がケルン/シュ-マンの84年の著作に対する論文を集めていて,便利であるO

(6)この80年代ドイツの大量失業の原因については,次のような要因が指摘されている(橘木論文ならび

にベルリン科学センター編所収のドスタール論文を参照)。

供給面では, ①60年代中期のベビーブーム世代による若年人口の増大, ②女性の労働参加率の上昇,

③外国人労働者の増大,需要面では①製造業を中心にした雇用量の減少, ②労働時間の短縮, ③実質賃

金の上昇,などである。

(7) Katzensteinの指摘(p.3-4)を参照。

(8)ベルリン科学センター編の第5章(W.ゼンゲンベルガー/c.ケーラー),第6章(A.エルンスト)に

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32 小野隆弘

おける「労働市場の柔軟性」についての日独米の比較をみられたい。

(9)とりあえず山口論文をみられたい。その他, Offeなど参照。

(10)エリティエ所収のゴルツの序文を参照.

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