no. 104(2009. 1)yellowcamel3.sakura.ne.jp/.../uploads/2015/03/no104.pdfい た よ う だ。ア...

4
1No. 104(2009. 1) 国際児童青少年演劇協会 日本センター <略称・アシテジ> 102-0085 東京都千代田区六番町13-浅松ビル2A T E L 0352124773 F A X 0352124772 Mail: [email protected] Web: http://www.assitej-japan.jp/ 発行者 アシテジ日本センター 会  長 内木 文英 副 会 長 島田 静仁 大野 幸則 細沼 淑子 事務局長 石坂 慎二 理  事 石川  明 香川 良成 上保 節子 菊田 朋義 理  事 後藤  圭 後藤 武弥 小林由利子 佐藤 嘉一 下山  久 白石 武士 鈴木 龍男 ふじたあさや 町永 義男 山崎 靖明 ことしもよろしくおねがいいたします 国際児童青少年演劇協会 (アシテジ)日本センター 会計監査 鈴木  徹 土屋友紀子 相 談 役 多田  徹 土方 与平

Upload: others

Post on 20-Jan-2021

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: No. 104(2009. 1)yellowcamel3.sakura.ne.jp/.../uploads/2015/03/no104.pdfい た よ う だ。ア メ リ カ は 演 劇 教 育 の 先 進 国 の よ う だ が 、 世 界

いたようだ。アメリカは演劇教

育の先進国のようだが、世界の

児童青少年演劇がどうなってい

るのか。その時の私には、アシ

テジという組織に深い関心があ

ったわけではない。

一九九六年(平成八年)十月

一日(火)午後、ロシアのロス

トフ・オン・ドンで始まった三

年に一度のアシテジ世界大会開

会式に、私は日本を代表して

(会長の多田徹さんが病気だっ

たため)出席している。すべて

を外国語の堪能な青年劇場の土

方与平さん(世界理事)におま

かせしていたが、世界数十カ国

の代表が出席しての世界大会と

いうものに我を忘れるところが

あった。

人間社会というものは劇的な

ものだ。芝居というものは、そ

の劇的な人間関係がもとになっ

て成立する芸術だ。世界中の人

びとが、その価値を認め、力を

合わせてすぐれた児童青少年演

劇を創造しようとしている。み

んな次代をになう子どもたちの

ための文化創造に関心を持ち、

自分をその中に打ち込んでいこ

うとしている。

アシテジの大きな価値を感じ

たのはまさにその時であった。

そのアシテジに日本が参加して

三十年、私たちのできることを

精一杯かんがえなければならな

い。

とを記憶している。私には正直

言ってその時、それほどの思い

が無かった。

学生時分、童話を書いていた

が、アンデルセンやグリムなど、

外国の作品をたくさん読みなが

ら、童話に文学を重ね合わせる

ことばかりを考えていた。

「童話も文学だ。人間の書け

ていないものを文学と言えるか」

と師匠の坪田譲治は言う。

児童青少年演劇には子どもを

喜ばせなければ意味がないとい

うところがある。しかし、演劇

の持っている芸術表現を無視す

ることはできない。

一九七二年、ニューヨークの

スクール・オブ・パフォーミン

グ・アーツの演劇授業を見学さ

せてもらった時、

「演技を学ぶこととは、身体の

中に隠された真実の自分を発見

することだ」と中年の女性指導

者が語っていた。

その頃は、学校で演劇を学ば

せることの意義ばかりを考えて

アシテジ(国際児童青少年演

劇協会)日本センターが設立さ

れたのは、一九七九年(昭和五

十四年)五月十二日(土曜日)

の午前であった。今年の五月十

二日は、その日から数えて満三

十年ということになる。三十年

前のその日、アシテジ日本セン

ターの発会総会と、社団法人日

本児童演劇協会の総会、懇親会

が開かれたと、私のその日の日

記に書かれている。会場は全国

婦人会館であったようだ。

栗原一登、落合聰三郎さん、

その他出席者のほとんどの方々

が、日本のアシテジ加盟をたい

へん喜び、感激しておられたこ

-1-

No. 104(2009. 1)国際児童青少年演劇協会

日本センター<略称・アシテジ>

〒102-0085東京都千代田区六番町13-4

浅松ビル2AT E L 03(5212)4773F A X 03(5212)4772

Mail: [email protected]: http://www.assitej-japan.jp/

発行者 アシテジ日本センター

アシテジに参加して三十年

 世界の児童青少年演劇の中で

  私たちに何ができるか

アシテジに参加して三十年

 世界の児童青少年演劇の中で

  私たちに何ができるか

内 木 文 英

(アシテジ日本センター会長)

内 木 文 英

(アシテジ日本センター会長)

会  長 内木 文英副 会 長 島田 静仁

大野 幸則細沼 淑子

事務局長 石坂 慎二理  事 石川  明

香川 良成上保 節子菊田 朋義

理  事 後藤  圭後藤 武弥小林由利子佐藤 嘉一下山  久白石 武士鈴木 龍男ふじたあさや町永 義男山崎 靖明

ことしもよろしくおねがいいたします

国際児童青少年演劇協会(アシテジ)日本センター

会計監査 鈴木  徹土屋友紀子

相 談 役 多田  徹土方 与平

Page 2: No. 104(2009. 1)yellowcamel3.sakura.ne.jp/.../uploads/2015/03/no104.pdfい た よ う だ。ア メ リ カ は 演 劇 教 育 の 先 進 国 の よ う だ が 、 世 界

-2-

栗原先生の確固たる信念

私は前号の最後に「栗原先生

には確固たる信念があった」と

書いた。

栗原一登先生の確固たる信念

とは何か。

アシテジ日本センターを立ち

上げる以上は、永続性を持たね

ばならない、ということである。

財政の基盤、財政の永続性、財

政を確固たるものにしない限り

は、立ち上げてはならないとい

う信念であった。

当時、アシテジ日本センター

より先行していた国際組織であ

るITIや世界アマチュア演劇

連盟にしても、財政的に苦しん

でいた。そのことを栗原先生は

よく知っており、それだけに慎

重であった。

前々号で、私は、「栗原一登

さんと多田・しかたさんが激し

く?口論しているところを何度

か見ている」と書いた。

これはこのことを指す。

多田・しかた「早く、立ち上

げましょう」

栗原「まだまだ。劇団を少な

くとも20は集めなくては」

といった具合である。

多田さんやしかたさんも大変

である。一方で栗原先生の説得、

一方では劇団の説得と。

栗原「劇団の積極的参加を」

栗原先生の確固たる信念とい

うか、アシテジ日本センターを

立ち上げるに際して、確固たる

想いがあった。それを裏付ける

資料がある。

『日本児童演劇協会30年史』

(一九七九年3月)から。

これは「30年をふり返って」

と題した〈座談会〉である。

司会者が、栗原先生が、ロマ

ンチストで何もかも先陣をきっ

てきた、といった意味のことを

言う。それを受けて当時協会の

事務局長であった田島義雄さん

が「アシテジへの加盟問題でも

同じようなことが言えるんじゃ

ないか」と言う。

それに対して、栗原先生が毅

然と答える。

「いや、アシテジ問題は逆の

立場だよ。ロマンチストじゃな

い。ITI(国際演劇協会)に

しても、世界アマチュア演劇連

盟にしても、日本側は負担金問

題で弱りきっている。アシテジ

は、そんなことがあっては困る。

なんとかうまくやりたい。堂々

とやっていきたい。国際的に恥

ずかしくない態度と責任でやっ

ていきたい、ということから、

現実主義者的立場になってしま

うんです。劇団のほうから積極

的参加の声が出るのを待ってい

た、といってもいい。参加する

んだったらちゃんと継続できな

ければいけないぞ、という、い

わば意地を通してほしいんです」

一九七九年「国際児童年」

多田さんはともかく、しかた

さんは焦っていた。世界のアシ

テジの執行部と直接に“

約束‘

てきていたからである。「国際

児童年」には、アシテジ日本セ

ンターを設立、加盟すると。

一九七九年(昭和54年)は、

「国際児童年」であった。私自

身の歴史においても最も多忙な

一年であった。

当時の福田内閣は国債をドン

ドン発行、公共事業にあて、文

化予算もそのオコボレを頂戴

し、文化庁に申請すれば何で

も?通してくれた。アシテジ日

本センターも、そのまたオコボ

レを頂戴し二冊ほど、小冊子を

発行しているはずである。

その文化庁の助成を得て、協

会はカナダの劇団、ビヨンド・

ワーズ『ゆかいなポテト一家・

ほか』を招聘し、北海道から九

州まで、二十数都市40ステージ、

二ヶ月間にわたる公演を実施。

さらに文化庁の助成で三十周年

記念行事「現代日本の子ども演

劇展」(講習会・講演会も併せ

て実施)の全てに私がついてい

た(あまりの私の激務をみかね

た当時協会の事務局長の田島さ

んが手伝いに出てくれたもの

の、北海道で倒れ、入院してし

まうという、オマケもあった)。

そういうわけで、私は、アシ

テジ日本センターの設立前後は

殆んど事務所にいなかった。

その私が、栗原・多田・しか

た会談、あるいは栗原・多田会

談を3・4度見ているだけだ

が、とにかく頻繁に開かれてい

た形跡がある。

会長ほか役員をどうするか

その頻繁に開かれた会談の中

で、財政問題の次に重要だった

のが、設立時の役員問題である。

つまり会長を始めとする役員問

題である。

私は前号で、「しかたさんの

“腹‘」として、「多田徹会長、

しかたさんの事務局長」と書い

た。しかたさんは少なくとも、

そう考えていた。しかし、多田

さんは違っていた。「会長はや

はり栗原さんであろう」という

のが、多田さんであった。

そのことは、当時の“

状勢‘

らきていた。

①前述のように、文化庁の窓口

は、協会であり、栗原先生で

あったこと。

②当時“

大同団結論‘

があり、つ

まり児童演劇界はひとつにま

とまるべきだという論があ

り、協会を中心に、という想

いが多田さんにあったこと。

とは、無縁ではなかった。

栗原先生と多田さんは、所謂

刎頸‘

の友であった。協会の

「児童演劇地方巡回公演」の助

成金の獲得にも二人は(本間整

さんを入れると三人は)、足繁

く役所へ通った仲であった。

しかたさんにとって、多田さ

んより、栗原先生はずーっと“

い‘

人であったから、多田さん

と組みたかったはずである。

しかし、そうはならなかった。

この頃、児童演劇界の最大の

イベントに「児童演劇の現状と

未来を話し合う会」があり、そ

の打合せの会議がよく開かれ、

各団体の首脳が集まり、そこで

も「アシテジ」について話し合

われていた。

次号でようやく「設立総会」

に辿りつけそうである。

石 坂 慎 二

(アシテジ日本センター事務局長)

石 坂 慎 二

(アシテジ日本センター事務局長)

アシテジ日本センターの

    歴史を振り返る⑤

―前史Ⅴ(日本センター設立準備委員会の動き)

アシテジ日本センターの

    歴史を振り返る⑤

―前史Ⅴ(日本センター設立準備委員会の動き)

Page 3: No. 104(2009. 1)yellowcamel3.sakura.ne.jp/.../uploads/2015/03/no104.pdfい た よ う だ。ア メ リ カ は 演 劇 教 育 の 先 進 国 の よ う だ が 、 世 界

-3-

総ての始まりは、この会話か

らでした。

「石川、英語は話せるか」

「全く話せません」「じゃあ駅前

留学してこい」「わかりました」

何もわからないままに、人生

初の海外行きを了承してしまい

ました。

韓国での3ヶ月間は、挑戦と

挫折、まさに闘いの連続でした。

最初に立ちはだかったのは、

やはり英語、言葉の問題でした。

自分の伝えたいことが伝えら

れない、相手の言いたいことが

わからない。これは想像以上に

大きな壁でした。最初の内は、

とにかくこの環境の中で自分が

何ができるのかもわからずに、

ガムシャラに歩き回っては壁に

ぶつかる毎日でした。

しかし2週間ほど経ったある

日、ルームメイトに尋ねられた

のです。「今日はなんで覇気が

ないのか」と。そのことは自分

でも自覚していました。それま

で無我夢中で過ごしてきました

が、徐々に自分は何ができて何

ができないのか、はっきりして

きたのです。自分ができないこ

ーマンスを創るという最終目標

は一緒であっても、そこへ到る

道は参加者の数だけあり、その

違いは常に意見の衝突へと繋が

りました。

正直、最初はこの状態で作品

創りができるのか疑問でした。

話し合ったからといって、す

ぐに意見の相違がなくなったわ

けではないですし、むしろ大き

くなることすらありました。

しかし、そんな衝突を繰り返

していくうちに、だんだんとお

互いへの理解が深まっていきま

した。もちろん意見の衝突が最

後まで無くなることはありませ

んでした。しかし、違う考えを

背負った人間同士が何か一つの

ことを成し遂げようとすれば、

意見が合わないことがあるのは

当たり前のことです。

大事なのは、その中で何がで

きるのか、ということでした。

このメンバーだからこそでき

ることを見つけ出すこと。違う

文化・言語を背負った自分たち

ができることは何なのか?その

一つの形が今回の作品です。

そしてパフォーマンス当日、

たくさんの子どもたちの笑顔を

見ることができました。今まで

の苦労が報われた瞬間でした。

このプログラムを企画し、招

待してくださったアシテジ韓国

センターの皆様に深く感謝申し

あげます。

と、言いたい言葉がすぐに見つ

からないため、いろんなことに

一歩踏み出せずにいました。

「英語が上手くなりたいのな

ら、話さなければ上手くならな

い」。その時に言われたこの一

言が、大きな転機になりました。

かなりでたらめな英語でした

が、相手が理解できるまでトラ

イするようになったのです。

もともとここに集まってきた

メンバーも、皆が英語堪能なわ

けではありません(参加者は、

インド・台湾・日本・ベトナ

ム)。だからこそ、相手が理解

できるまでトライし続けること

は、必要不可欠でした。

自分は英語が上手くないとい

うのは変わらない事実。それを

隠しても意味がない。一言で通

じなければ、二言三言と費やせ

ばいい。できないことを嘆くの

ではなく、何ができるのかを考

え行動に移すことが最も大事な

ことでした。

さて今回のプログラムでは、

最初の一ヶ月半を韓国の伝統芸

能(歌・踊り・打楽器)を学ぶ

ことに費やしました。

でもここで大きな問題が持ち

上がったのです。それはこのプ

ログラムへの取り組み方の違い

です。もっと韓国のことを知り

たい人。それよりもお互いの国

のことを知りたい人。伝統芸能

をできる限り修得したい人。体

験するだけで十分だという人。

皆との関係をすぐにでも深めた

い人。ゆっくりがいい人。

それは文化の違いから来るも

のばかりではなく、背負ってい

るものの違いから起きた問題で

もありました。

「ここで“

世界‘

を感じたい」、

それは私の一番の目的でした。

日本にいてもいろんな情報を知

ることはできます。でも実際に

体験しなければ、感じることは

できません。それゆえに韓国の

伝統芸能を学ぶということは、

時を越えてこの芸を創り出して

きた韓国の人の心に触れるとい

うことであり、異文化をどのよ

うに受け入れるか、そしてそれ

をどう使えるのか、という挑戦

でもありました。

しかし、これはあくまで私の

目的であって、皆の目的が一緒

なわけではありません。パフォ

アシテジ韓国センター主催

協同制作『アジアの龍』に参加して アシテジ韓国センター主催

協同制作『アジアの龍』に参加して

アシテジ韓国センターは、アジアの若手俳優による『アジアの

龍』(宋仁鉉演出)を制作。日本から石川健二、李史恵(前如月

舎)、上地陽紗(ACO沖縄)の三人が参加。その他インド・ベ

トナム・台湾からも参加。昨年10月から3ヶ月にわたりソウルで

稽古、今年1月10日に発表。その報告を石川さんにお願いした。

言葉の壁を越えて

演技集団朗

石 川 健 二

▲「打ち上げ」で(左から2人目筆者)

Page 4: No. 104(2009. 1)yellowcamel3.sakura.ne.jp/.../uploads/2015/03/no104.pdfい た よ う だ。ア メ リ カ は 演 劇 教 育 の 先 進 国 の よ う だ が 、 世 界

-4-

一〇月一一日、ハンガリーの

首都ブダペストのコリブリ劇場

が、私の「ベッカンコおに(さ

ねとう・あきら原作)」をレパー

トリーにしてくれて、初日に招

待してくれたので、行ってきた。

ブダペストは美しい町だっ

た。経済的には苦しいというこ

とだったが、往年の栄華を語る

町並みは「ドナウの真珠」とい

うネーミングにふさわしかっ

た。王宮の丘のあるブダから、

ドナウ川をへだてて、ペストの

町が放射状にひろがり、大聖堂

も主要な劇場もここにある。コ

リブリ劇場は、そのなかのオペ

レッタ劇場の横にあり、すぐ前

からレストラン街がはじまると

いう、またとない立地条件のと

ころだった。

子どもたちに親しまれるよう

な薄桃色に塗られた劇場の正面

には「K

OLIBRISZINHAZ

」の

切り文字があり、その左側には

ASAYAFUJITA

BEKKANKO

AGRIMASZDEMON

と新作の初日を知らせる切り

文字がかかげられている。一歩

劇場に入ると、二階まで吹き抜

けのロビーには、ルソーの絵を

模した壁画が描かれていて、い

かにも児童劇場にふさわしい。

コリブリ劇場はハンガリー・

アシテジの事務所が置かれてい

るところで、劇場の演出家がア

シテジの代表なので、かなり大

きな規模で上演活動をしている

のだろうと予想していたのだ

が、予想通りだった。コリブリ

劇場は二七〇人ほどのメイン劇

場のほかに、市内に二つの小劇

場(五〇人程度)をもっていて、

多面的な活動をしているという

ことだった。ブダペストにはほ

かに専門的な児童劇場はないと

いう。

「『ベッカンコおに』を選ん

だ理由は?」という僕の質問に、

演出のノヴァク・ヤーノス氏

は、モントリオールの世界大会

で観て気に入ったのだという。

スタッフの中にドイツ語圏での

上演(ドレスデンを皮切りに六

つぐらいの都市で上演された)

を観たものがいて、ドイツ語の

訳本を手に入れてきたのがきっ

かけで、ドイツ語からの重訳で

最初のハンガリー語台本を作

り、それにフランス語訳と英語

訳を参照して、上演台本を作っ

たのだという。ノヴァク氏は

「日本の児童劇には大変興味を

もっています」といってくれた

が、ことばの壁は厚いようだっ

た。たまたまモントリオールで

観る機会があり、各国語に訳さ

れていたから上演の機会があっ

たので、それがなければ、目に

留まることはなかったろう。

上演はなかなか興味深いもの

だった。一番面白かったのは全

員が白塗りだったことである。

ことに男たちは全員歌舞伎風の

隈取りで、やたらに見得を切る。

台詞もそういう様式に見合った

物言いを工夫しているようだっ

た。衣裳も写真を見ながら作っ

たらしい着物で、左前もあった

りして、頬笑ましいものだった。

ぼくの日本版の演出を見てい

るノヴァク氏が、ぼくの作った

形を外しながら、及ぶ限りの情

報を集めて、彼なりの〈日本〉

を作ったのだった。「おかしく

ないか?」「これで通用する

か?」と彼はしきりにぼくに聞

いたが、ぼくとしては「日本で

やるのでなければ、充分通用す

るよ」というしかなかった。こ

れはドイツ語圏での最初の上演

だったドレスデン青少年劇場の

舞台が、国籍を超えたファンタ

ジーであったのに対して、〈日

本〉にこだわることで異国的な

ファンタジーに仕立てたもの

で、たしかに一つの行き方を示

すものだった。

度肝を抜かれたのは、〈山母〉

という山の女神を、花魁(おい

らん)のなりで演じたことだっ

た。コロスの演じるかむろの肩

を借りながら外八文字で登場す

る。「これがどういう職業の女

の扮装か、知っているか?」と

聞いたが、知らないようだった。

歌舞伎の舞台写真で見て、この

役に使えそうだと思ったのだろ

う。ここまでくると、あきらか

にこれは、日本文化についての

情報不足からくる誤解である。

しかし同じような誤解を我々も

やっていないといえるだろうか。

初日は日曜の午後三時だった

が、次の日は朝一〇時から、教

師に引率された子どもたちの団

体鑑賞だった。子どもたちの集

中力はなかなかのもので、休憩

時間の過ごし方といい、拍手喝

采のしかたといい、劇場そのも

のを楽しんでいることがよく分

かった。作品は子どもたちにも

しっかり受け入れられているよ

うだった。

コリブリ劇場の年間予算のう

ち、入場料収入の割合はどのく

らいになるのか、聞いてみた。

わずか一〇%だという。あとの

九〇%は政府からの助成金だと

聞いて、落ち込んだ。これが世

界の常識なのだ。

―――――――――――――――

【編集委員】石坂慎二、上保節

子、菊田朋義、林 陽一、ふじ

たあさや

ハンガリーの

 『ベッカンコおに』

ふじたあさや

ふじたあさや

ハンガリーの

 『ベッカンコおに』

▲劇場正面に「ASAYA FUJITA」の看板が

t演出家とふじたあさや氏