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「南アジア/インド班」第 2 回研究会講演録 アイデンティティ ブリティッシュ・エイジアン音楽という「一体性」とその多様性 栗田知宏 (東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所ジュニア・フェロー) はじめに 「ブリティッシュ・エイジアン」と呼ばれる人々や、かれらの文化についてご存知でしょうか。 日本ではその名称自体があまり聞き慣れないものかもしれませんが、ロックバンド、クイーンのヴ ォーカリストだったフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)や、映画『ガンジー』 11982 年) でアカデミー賞主演男優賞を受賞した俳優のベン・キングズレー(Ben Kingsley)、小説『悪魔の 詩』(1988 年)で物議を醸した作家のサルマーン・ラシュディ(Salman Rushdie)などは、日本で も知られた存在だと思います。ブリティッシュ・エイジアンとはイギリスに住む南アジア系の人々 のことで、かつて南アジアの国々(英領インド)を植民地統治していた歴史的背景から、イギリス では「アジア系(エイジアン)」とは主に南アジア系の人々を指します。先に挙げたかれらは皆南 アジアにルーツを持っており、この他にもイギリスで活躍するエイジアンの人々は枚挙にいとまが ありません。 本報告では、ブリティッシュ・エイジアンの人々の文化のなかでも「エイジアン音楽」と総称さ れる在英南アジア系ポピュラー音楽に焦点を当て、その発展と、イギリスにおけるエイジアンの社 会的布置がエイジアン音楽というジャンルの成立とどのように関係してきたかについて、現地調査 の結果を交えながらご紹介します。後半に具体的な事例として取り上げるのは、ジェイ・ショーン Jay Sean)という人気 R&B シンガーの音楽活動とエイジアン音楽業界における彼の位置づけ、そ してエイジアン音楽が演じられる具体的な場所である「メーラー(Mela)」という南アジア系フェ スティバルと、それがエイジアン音楽の流通において果たす役割です。 1.なぜエイジアン音楽に注目するのか 「エイジアン音楽」と総称される音楽実践と音楽産業の力学に注目することで私が見ていきたい のは、「エイジアン」というエスニック・グループの境界がどのように形成されているかです。 民族的な帰属意識の形成が、自身の属するエスニック・グループの内側から設定される境界── 自身の集団内部で育つなかで培われた文化的・宗教的な経験、言語や慣習の共有といった「本源的 紐帯」 2によって──と、他の異なるエスニック・グループとの相互交渉を通じた外からの境界と ────────────── 1)ヒンディー語の発音により忠実に表記すると「ガーンディー」となります。 2)Geertz, Clifford, 1973, The Interpretation of Cultures, New York : Basic Book. (=1987、吉田禎吾・柳川啓 関西学院大学 先端社会研究所紀要 12 136

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「南アジア/インド班」第 2回研究会講演録

アイデンティティ

ブリティッシュ・エイジアン音楽という「一体性」とその多様性

栗田知宏 氏(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所ジュニア・フェロー)

はじめに

「ブリティッシュ・エイジアン」と呼ばれる人々や、かれらの文化についてご存知でしょうか。

日本ではその名称自体があまり聞き慣れないものかもしれませんが、ロックバンド、クイーンのヴ

ォーカリストだったフレディ・マーキュリー(Freddie Mercury)や、映画『ガンジー』1)(1982年)

でアカデミー賞主演男優賞を受賞した俳優のベン・キングズレー(Ben Kingsley)、小説『悪魔の

詩』(1988年)で物議を醸した作家のサルマーン・ラシュディ(Salman Rushdie)などは、日本で

も知られた存在だと思います。ブリティッシュ・エイジアンとはイギリスに住む南アジア系の人々

のことで、かつて南アジアの国々(英領インド)を植民地統治していた歴史的背景から、イギリス

では「アジア系(エイジアン)」とは主に南アジア系の人々を指します。先に挙げたかれらは皆南

アジアにルーツを持っており、この他にもイギリスで活躍するエイジアンの人々は枚挙にいとまが

ありません。

本報告では、ブリティッシュ・エイジアンの人々の文化のなかでも「エイジアン音楽」と総称さ

れる在英南アジア系ポピュラー音楽に焦点を当て、その発展と、イギリスにおけるエイジアンの社

会的布置がエイジアン音楽というジャンルの成立とどのように関係してきたかについて、現地調査

の結果を交えながらご紹介します。後半に具体的な事例として取り上げるのは、ジェイ・ショーン

(Jay Sean)という人気 R&B シンガーの音楽活動とエイジアン音楽業界における彼の位置づけ、そ

してエイジアン音楽が演じられる具体的な場所である「メーラー(Mela)」という南アジア系フェ

スティバルと、それがエイジアン音楽の流通において果たす役割です。

1.なぜエイジアン音楽に注目するのか

「エイジアン音楽」と総称される音楽実践と音楽産業の力学に注目することで私が見ていきたい

のは、「エイジアン」というエスニック・グループの境界がどのように形成されているかです。

民族的な帰属意識の形成が、自身の属するエスニック・グループの内側から設定される境界──

自身の集団内部で育つなかで培われた文化的・宗教的な経験、言語や慣習の共有といった「本源的

紐帯」2)によって──と、他の異なるエスニック・グループとの相互交渉を通じた外からの境界と──────────────1)ヒンディー語の発音により忠実に表記すると「ガーンディー」となります。2)Geertz, Clifford, 1973, The Interpretation of Cultures, New York : Basic Book.(=1987、吉田禎吾・柳川啓 �

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いう、いわば「二重境界」によって形成され維持されている3)とひとまず捉えるとすると、ブリテ

ィッシュ・エイジアンの場合、まず外から設定される境界として、マジョリティであるいわゆる白

人との関係性があります。エイジアンとは、イギリスでは旧植民地である南アジア諸国にルーツを

持つ人々を指すため、非常にコロニアルな、またポストコロニアルな名づけだと言えます。また、

アフロ・カリビアン、アラブ系、中国系といった他のエスニック・グループとの関係性によって

も、エイジアンという集団の境界は維持されていると考えられます。

一方、エイジアンの内部を見てみると、非常に複雑で多様性のある世界が存在しています。多様

性というのはどのエスニック・グループについても言えることですが、エイジアン社会はルーツの

ある国や地域、言語に加えて、宗教やカーストなどの面でも多様性を有しています。インド系の場

合では、パンジャーブ地方にルーツを持ちパンジャービー語を話すパンジャービー4)の人々や、グ

ジャラート州にルーツを持ちグジャラーティー語を話すグジャラーティーの人々が多く、グジャラ

ーティーのなかにはケニアやタンザニアといった東アフリカの国々から再移住してきた人 (々twice

migrants)も多く含まれています。パキスタン系では、パンジャービーのなかでもアーザード・カ

シミール地域のミールプルという町の出身者が多く、バングラデシュ系では北東部のシレットとい

う都市の出身者が多数を占めています。スリランカ系では民族紛争によって難民として渡英してき

た少数派のタミル系が多いですし、ネパール系もそれほど数は多くないものの存在します。こうし

た地域や言語に基づく差異に加えて、宗教・宗派の違い、カーストの違いなどが重なってくるた

め、その内実は非常に複雑かつ多様であり、決して一枚岩ではありません。

しかし、だからと言って「エイジアン」という単一的なカテゴリーには意味がないかというと、

そうとも言い切れません。「エイジアン」とは、単なる白人社会からの一方的な名づけという側面

だけではなく、南アジア系の人々の自称としての側面も持っているからです。イギリスの南アジア

系メディア──新聞やラジオ、インターネットなど──においては、「ブリティッシュ・エイジア

ン」という用語が頻繁に使用されています。ここからは、南アジア系の人々や文化を総称する集合

的アイデンティティとしての意味づけの様子がうかがえます。

また、南アジア系の人々のなかでよく使われるのが「デーシー(Desi)」という言葉です。デー

シーとは、「国」を意味するサンスクリット語の「デーシュ(Desh)」から派生した言葉で、南ア

ジアでは広く「ある地域に属する」とか「国産の」といった意味で用いられます。イギリスのエイ

ジアンの間でも、広く南アジア系の人や事物を指す言葉として用いられています。イギリスの文脈

で例を挙げると、南アジア本国で生産された低品質の製品を、「遅れたもの」といった意味で否定

的に「これはデーシー・プロダクトだから壊れるのはしょうがないね」のような形で使うことがあ

ります。また、南アジアのトイレでは紙を使わず、左手を使って水でお尻を洗うことが多いのです

が、イギリスの南アジア系の家庭でもしばしば、トイレで水を使うのにプラスチックのボトルが置

いてあることがあります。こうしたやり方を「デーシー・スタイル」と呼んだりして、南アジア系

──────────────� 一・中牧弘允・板橋作美訳『文化の解釈学Ⅰ・Ⅱ』岩波書店)3)綾部恒雄、1993『現代世界とエスニシティ』弘文堂4)パンジャーブとは北インドとパキスタンにまたがる地方で、1947年の印パ分離独立の際にインド側のパンジャーブとパキスタン側のパンジャーブに分断されました。

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のスタンダップ・コメディーなどでは笑いのネタにするわけです。さらに、インドやパキスタンの

いわゆる伝統的な音楽を、プラスの意味を込めて「デーシー・ミュージック」と呼ぶこともありま

す。何が「南アジア的」なのかは文脈にもよりますし、その人のバックグラウンドによっても異な

りますが、それでも「デーシー」という概念は「南アジア的」「エイジアン的」といった意味とし

て広く共有されているわけです。

こうしたことを踏まえた上で「エイジアン音楽」という包括的な音楽カテゴリーを見てみると、

何が「南アジア的」な音楽実践なのか明確な定義があるわけではないけれども、曖昧模糊とした形

でありながらも存在し続けているという点で、この「エイジアン音楽」というカテゴリーは「デー

シー」という概念のいわば音楽的なヴァージョンと捉えることができるかもしれません。

ここで考えなければならないことは、音楽カテゴリーとエスニシティとの結びつきという問題で

す。キース・ニーガス(Keith Negus)は、「特定の人々と特定の種類の音楽のあいだの繋がり」の

例として「黒人音楽」や「ラテン音楽」を挙げ、それらのなかのレゲエやラップ、あるいはサルサ

といった代表的なスタイルが作られてきた歴史、また移民・ディアスポラの置かれてきた社会的背

景を検討することで、集合的な音楽カテゴリーとエスニック・アイデンティティとの関係性につい

て考察しています5)。

そのニーガスの議論のなかでも挙げられている、ポール・ギルロイ(Paul Gilroy)の「変わって

ゆく同じもの(changing same)」という考え方は、こうした音楽と共同体とが取り結ぶ関係性を考

察するためのひとつの手がかりになるのではないかと思います。アイデンティティというのは固定

的なものではなく、他者との相互交渉によって常に変化や変形のプロセスにあるという構築主義的

な考え方が、現在では一般的なものとなりました。しかし、だからと言ってアイデンティティとは

単なるフィクションであり、構築物に過ぎないのだと言い切ってしまうこともおそらくできませブラック・アトランティック

ん。ギルロイは、「黒い大西洋」と彼が呼ぶディアスポラ世界における黒人の歴史や音楽を考察す

るなかで、本質化された「黒人性」なるものを見出すのでもなく、また反本質主義的に「黒人性」

を否定するのでもなく、それぞれの社会的・歴史的な文脈において「黒人」として人種化された経

験に基づいた、ハイブリッドなディアスポラ的アイデンティティを見出そうとします6)。

こうした音楽と共同体との関係性を考える上で興味深いひとつの事例が、エイジアン音楽です。

エイジアン音楽というのは非常に広い包括的な音楽カテゴリーであり、広範な南アジア各地にルー

ツを持つあらゆる形のポピュラー音楽的な実践を含み得るはずです。しかし、実際にはパンジャー

ビー語で歌われる「バングラー(Bhangra)」と呼ばれるスタイルや、パンジャービー語のポップス

が常に代表的な地位を占めているというのが実情です7)。──────────────5)Negus, Keith, 1996, Popular Music in Theory : An Introduction, London : Polity Press.(=2004、安田昌弘訳『ポピュラー音楽理論入門』水声社)

6)Gilroy, Paul, 1993, The Black Atlantic : Modernity and Double Consciousness, London : Verso.(=2006、上野俊哉・毛利嘉孝・鈴木慎一郎訳『ブラック・アトランティック──近代性と二重意識』月曜社)

7)それを象徴したのが、2012年夏季ロンドン・オリンピックの閉会式です。イギリスで愛されてきたコメディーグループ、モンティ・パイソンのメンバー、エリック・アイドル(Eric Idle)によるパフォーマンスの最中に、突然バングラーのダンサーたちが登場しバングラーを踊り始め、ついにはアイドルも一緒に踊り出すという非常に印象的な場面がありました。このパフォーマンスは、イギリス社会におけるパンジャービーの存在感の大きさと、バングラーがブリティッシュ・エイジアンの音楽文化をいわば「代表」す �

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私の関心は、外部との関係性からどのようにエイジアン音楽というカテゴリーが形成されている

かということよりも、エイジアン音楽という多様な音楽実践を含み得るカテゴリーの内部で、どの

ように音楽業界の人々の戦略や駆け引きが繰り広げられており、それらによって「エイジアン音アイデンティティ

楽」という一体性が作られ維持されているか、そしてその境界線が引き直されているかという、音

楽産業内部における力学にあります。本報告で取り上げるジェイ・ショーンとメーラーというふた

つの事例は、そうしたエイジアン音楽産業の内部において形成される「エイジアン」という境界の

強固さ、そして揺らぎを示すことになると思います。

2.エイジアン社会の形成とその生活世界

イギリスにおいて本格的な南アジア系移民の受け入れが始まったのは 1950年代で、その背景に

は第二次世界大戦後の経済復興に伴う労働者不足がありました。しかし、移民たちの増加とかれら

の集住によって、白人住民との間に軋轢が生じ、移民規制の声が上がるようになります。そうした

背景から、1962年の英連邦移民法によって、労働移民の流入に最初の規制がかけられました。し

かし、この法律は逆に駆け込み入国的な移民の増加をもたらす結果となり、この 62年前後に数が

急増します。この頃の移民は出稼ぎ型、すなわち男性労働者が単身で渡英するというケースが多か

ったのですが、イギリスに定住する者が増えるにつれて、今度は本国からの扶養家族の呼び寄せが

進みました。また、60年代後半から 70年代前半にかけては、イギリスの植民地であった東アフリ

カ諸国の独立に伴うケニアやタンザニアのアフリカ化政策や、ウガンダでのインド人追放から逃れ

た南アジア系の人々が、イギリスに再移住する動きがみられます8)。

初期の南アジア系労働者の多くは、ロンドンをはじめとして、主にイングランド中部のバーミン

ガムやコヴェントリー、レスター、マンチェスター、ブラッドフォードといった産業都市に移り住

み、非熟練・低賃金労働に従事しました。現在でもこれらの都市には南アジア系の集住地域があ

り、ルーツのある国や地域、言語、宗教などによってある程度の住み分けができていますが、その

背景には、先に移住した者を頼って本国の親戚や同郷の人々が「連鎖移住(chain migration)」して

きたという事情があります。

南アジア系の人口の内訳を見てみると、最新の 2011年のセンサスでは、エイジアン9)の人口は

約 300万人で、全人口の約 5パーセントとなっています。ただ、地域的に見ると、エイジアンの

人々の主な出身地は大きく分けて 3つ挙げられます10)。まずはパンジャーブ地方です。先に触れた──────────────� るポジションを与えられていることを世界中に示したと言えるでしょう。イギリスの多文化主義をアピールするひとつのパフォーマンスに過ぎないといった見方もできるかもしれませんが、もし実際にエイジアンの人々に「こうした大規模な国家的イベントで南アジア的な出し物をやるとすれば、何が最もふさわしいか」と質問するとしたら、おそらくパンジャービー以外の人々であっても「バングラー」と答える人がいちばん多いのではないかと思います。

8)浜口恒夫、2000「イギリスの南アジア系移民社会──多様性と変動」古賀正則・内藤雅雄・浜口恒夫編『移民から市民へ──世界のインド系コミュニティ』東京大学出版会

9)イギリスのセンサスでは 1991年から、エスニック・グループの「エイジアン」の下位カテゴリーとして、「インド系」「パキスタン系」「バングラデシュ系」「その他のアジア系(中国系は除く)」が設けられています。この数字は「インド系」「パキスタン系」「バングラデシュ系」の人口の合計です。

10)Ballard, Roger, 1994,“Introduction : The Emergence of Desh Pardesh”, in Roger Ballard ed., Desh Pardesh : �

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とおり、パキスタン系のパンジャービーにはミールプルの出身者(ミールプリー)が多くいます。

次にグジャラート地方で、グジャラーティーには東アフリカから再移住した人々が多く含まれてい

ます。そしてもうひとつは、バングラデシュ北東部のシレットという都市の出身者です。東ロンド

ンのタワー・ハムレッツという地区の界隈には、シレット出身者の人口が集中しています。

3.エイジアン音楽の発展と現在

様々な南アジア的なポピュラー音楽の実践は、最初から「エイジアン音楽」という名称のもとで

発展してきたわけではありません。それぞれのエイジアンのサブグループやコミュニティの内部で

様々な実践が行われてきたと考えられますが、そのなかで最初に、そして最大の商業的な成功を遂

げたのが、パンジャービーの人々によるバングラーです。バングラーは、元々はパンジャーブ地方

の農村で新年や収穫を祝うための音楽であり、またそれと結びついたダンスでした11)。イギリスに

生活の基盤を置くようになったパンジャービーの移民労働者たちが、祖国の伝統を維持する必要性

の自覚から、結婚式や家族行事、コミュニティの行事などでバングラーを演奏するようになり、ア

マチュアのミュージシャンがバングラー・バンドを次々と結成します。80年代に入ると、バング

ラーはシンセサイザーやドラムマシンなどの電子音との融合によって、よりポップなサウンドを帯

びるようになります。さらにそれがディスコカルチャーと結びつき、クラブでかかることによっ

て、パンジャービー以外の幅広いエイジアンの若者からも人気を博したと言われています。エイジ

アンの家庭では、子どもが夜遅くまでクラブで遊ぶことを快く思わない親が多いため、昼間に楽し

めるデイタイム・ディスコというものがこの頃できて、人気を博しました。「自分たちの文化」を

持ってこなかったエイジアンの若者にとって、バングラーはジャマイカ系のレゲエに匹敵する文化

になったとも言われています。

80年代後半から 90年代にかけては、バングラー、インドのヒンディー語の娯楽映画であるボリ

ウッド映画12)の音楽、またカウワーリー(Qawwali)というイスラーム神秘主義音楽をリミックス

する動きが出てきます。こうしたリミックスの出現によって、西洋の音楽レーベルがエイジアン音

楽に関心を示すようになり、コンピレーション・アルバムなどが発売されて世界中で流通しまし

た。加えて、この時期にはそうした南アジア的なサウンドと、ヒップホップ、テクノ、ハウス、ド

ラムンベースといったダンス・ミュージック的な音楽スタイルとの融合がなされ、「エイジアン・

アンダーグラウンド」と呼ばれるハイブリッドで実験的な音楽実践が盛んになります。ニティン・

──────────────� The South Asian Presence in Britain, London : Hurst & Company.11)バングラーは、ドールやドーラクと呼ばれる両面太鼓のビートが効いた躍動感のあるリズムが大きな特徴

で、場を盛り上げるために“Chak de!”(「いくぜ!」といった意味)、“Balle Balle”や“Bruuuaaaaah!”といった掛け声がよく用いられます。

12)ムンバイー(旧ボンベイ)で制作され、イギリスの南アジア系の人々にも人気があります。近年は拡大するインド系移民市場を意識してか、舞台を海外に設定し、現地に暮らすインド人を主人公とした作品が増えています。インドでヒットするポピュラー音楽の多数がボリウッド音楽であり、「ポピュラー音楽的リンガ・フランカ」として、ヒンディー語話者以外の人々にも親しまれています。(Farrell, Gerry, with JayeetaBhowmick and Graham Welch, 2005,“South Asian Music in Britain”, in Hae-Kyung Um ed., Diasporas and In-

terculturalism in Asian Performing Arts : Translating Traditions, London : RoudledgeCurzon.)

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ソーニー(Nitin Sawhney)やタルヴィン・スィング(Talvin Singh)といったアーティストが、そ

の代表的な存在として挙げられます。

こうした実践は、テクノなどとミックスされることで白人にも受け入れられやすくなったため、

オリエンタルなエキゾティシズムを体験するものとして「エイジアン・クール(Asian Kool)」な

どと呼ばれ、白人の消費の対象となりました。その背景として、エイジアン文化の要素をエキゾテ

ィック化したようなカルチャー雑誌やファッション雑誌がエイジアン・クールを商業的に利用した

ということ、またこの時期はいわゆる「ワールド・ミュージック」が流行した時期でもあり、エイ

ジアン音楽がワールド・ミュージックのラベルを貼られてもてはやされたということがあります。ハイブリディティ

音楽的な異種混淆性は、エイジアンのアーティストたちが様々な実験的なサウンドを作っていく原

動力にもなりましたが、その一方で、白人によるオリエンタリスティックなステレオタイプに基づ

く消費をも促したというわけです。

また、90年代前半から中盤にかけては政治的・社会的なメッセージ性を発するエイジアンのバ

ンドがいくつか登場し、国際的にも人気を得ました。その代表的な存在は、日本でも人気のあるエ

イジアン・ダブ・ファウンデーション(Asian Dub Foundation、以下 ADF)です。こうしたバンド

は、南アジア系住民に対する差別や欧米社会における人種差別、警察による暴力、新自由主義的な

世界システムや政治体制に対する激しい批判や、異なるマイノリティ・グループの連帯を訴えるよ

うな左翼的なメッセージを、英語で歌ったりラップしたりしています。こうしたバンドの闘争的な

スタンスは、アフロ・カリビアンのレゲエやラップといったスタイルから得られたという指摘もあ

り、エイジアン自らの政治的なエイジェンシーを表現する手段ともなりました。しかしながら、こ

ういったバンドの活動は ADF を除けば、現在ではすっかり下火になっているという状況です。

2000年代に入ると、90年代から行われるようになったヒップホップへのアプローチという傾向

がさらに強くなり、また R&B を志向するエイジアンのアーティストが増えてきます。こうした傾

向が強まった背景には、アメリカのミッシー・エリオット(Missy Elliott)やトゥルース・ハーツ

(Truth Hurts)といったラッパーや R&B シンガーが南アジア的なサウンドを用いた楽曲が、2000

年代初頭にイギリスのシングルチャートでも上位に入るヒットとなったということがあります。

2003年には、コヴェントリー出身のパンジャービー MC(Panjabi MC)というプロデューサーと、

アメリカの大物ラッパー、Jay-Z のコラボレーション“Mundian To Bach Ke(Beware of the Boys)”

が世界中でヒットしました。こうしたヒップホップや R&B を志向するエイジアンのアーティスト

たちは、自分は英語で歌ったりラップしたりして、フィーチャリングするアーティストがパンジャ

ービー語で歌ったり南アジア的なサウンドをサンプリングしたりする場合が多くみられます13)。90

──────────────13)近年の動向で注目すべきなのが、スィジオ(Shizzio)という東ロンドン出身のパキスタン系ラッパーが提

唱し、エイジアン音楽界におけるひとつのムーヴメントとして広めようとしている“Burban”なる音楽スタイルです。“Burban”とは「ブラウン・アーバン(Brown Urban)」の略です。エイジアンのヒップホップや R&B はそれまで「アーバン・デーシー」といったカテゴリーで括られてきましたが、スィジオはその名称が気に入らず、新しくカッコいいエイジアンのイメージを出したいということで、この“Burban”という言葉を提唱しました。そして 2011年、Brit Asia TV Music Awards(エイジアン専門テレビ局 Brit AsiaTV が主催する音楽賞の授賞式)でこれをお披露目し、他のエイジアンのラッパーたちとともにステージでパフォーマンスを披露しています。「ブラウン」という言葉を選んでいるところに、「黒人(ブラック)」との差異を強調する意図が見て取れます。

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年代にいわゆる「エイジアン・クール」と呼ばれたハイブリッドな音楽実践は、主に白人によって

消費されましたが、2000年代のこうしたヒップホップや R&B はエイジアンの独立系レーベルか

ら発売される場合が大半ということもあり、英語のみで歌ったりラップしていたりしていても、あ

くまでエイジアン音楽の枠内で流通する傾向があります。

また、英語のみでパフォーマンスする場合、「エイジアン音楽」としてみなされるかどうかとい

う問題が出てきます。この後見ていくジェイ・ショーンも、活動当初からヒップホップや R&B を

志向しており、現在では完全に英語のみで、南アジア的なサウンドを排した R&B を歌っていま

す。こうした、パフォーマンス面でのいわば「エイジアン性(Asianness)」がない状態において

は、アーティスト本人が「エイジアン」としてのバックグラウンドを持っているかどうかが、「エ

イジアン音楽」としてみなされるかどうかの大きな要素となってきます。これについては後で再度

触れます。

ここまでまとめてきたエイジアン音楽の歴史からその特徴を挙げると、まず、バングラーに代表

されるパンジャービー音楽が圧倒的に多いということがあります。これは逆に言うと、他の南アジ

ア系言語のなかで相対的に話者人口の多いグジャラーティー語やベンガル語などを用いた音楽が一

般的にはほとんど流通していないということになります。グジャラーティーやベンガーリー、また

スリランカ系といったパンジャービー以外のアーティストもここ数年かなり出てきてはいるもの

の、かれらはそれぞれの言語では歌わず、英語の R&B やラップにアプローチする傾向がありま

す14)。

もうひとつの特徴は、エイジアン以外にあまり開かれていないということです。90年代にエス

ニック・マイノリティの音楽を称揚する白人リスナーによってエイジアン音楽が消費されたことも

ありましたが、現在かれらの音楽がイギリスのいわゆるメインストリームの音楽市場に出回ること

は、メジャー・レーベルから楽曲を発表でもしない限りほとんどありません。また、ニティン・ソ

ーニーやインド系タミルのスシーラ・ラーマン(Susheela Raman)、スリランカ系タミルのラッパ

ーである M. I. A. といった南アジア系アーティストは、エイジアン市場にターゲットを絞らない

形で幅広く活動していますが、こういったアーティストはむしろ少数で、かれらはエイジアン音楽

のイベントに登場したり、楽曲がエイジアンの音楽番組でかかったりすることはあまりありませ

ん。エイジアン音楽の市場は非常に狭く、アーティストの多くが南アジア系の独立系レーベルから

楽曲を発表しています。このため CD の売上枚数の把握が難しく、最近はダウンロードが主流に──────────────14)パンジャービー音楽に「支配」された状況の例外が、ヒンディー語やウルドゥー語で歌われるボリウッド

音楽です。近年ではボリウッド音楽の制作にブリティッシュ・エイジアンのアーティストが関わるケースも増えており、エイジアン音楽として認識されているという側面もあります。パンジャービーでないアーティストの代表的な存在が、マムズィー・ストレンジャー(Mumzy Stranger)

という歌手・プロデューサーです。彼はロンドンのタワー・ハムレッツの出身(1984年生まれ)で、親がシレット出身という典型的なバングラデシュ系のブリティッシュです。作風はレゲエを取り入れた R&Bで、主に英語で歌っており、パンジャービーの歌手と共演する時はパンジャービー語で歌うこともあります。私は 2012年 8月にマムズィーにインタビューする機会を得ましたが、なぜベンガル語で歌わないのかと質問したところ、「ベンガル語があまりうまくないから」という答えが返ってきました。彼は将来的にはベンガル語で歌うこともあるかもしれないとも語っていましたが、イギリス生まれの移民第 2世代ともなるとやはり英語で歌うのが自然なことであり、また彼の場合はレゲエや R&B を志向しているため、そうした点からも英語を選んでいるのではないかと思います。

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なってきているため、CD をリリースしないアーティストも多く出てきました。このため、どうい

った音楽やアーティストが人気なのかは、ラジオでのオンエアの傾向、SNS での口コミ、音楽イ

ベントなどのラインナップ、ラジオの音楽チャート番組などで測るしかありません15)。

エイジアン音楽の発展とその主な特徴について述べてきたなかで浮かび上がってくるのが、黒人

とエイジアンとの関係性という問題です。エイジアン音楽ではヒップホップや R&B にアプローチ

するアーティストが多い一方で、ロックをやるアーティストは非常に少ないという状況がありま

す。これは、南アジア本国のインドやパキスタン、バングラデシュでロックが盛んなのとは対照的

です。ADF のようなファンクやヘヴィメタルから影響を受けたバンドも存在しますが、こうした

バンドは同時にレゲエやヒップホップの持つプロテスト的なスタイルからの影響も非常に強く受け

ています。ここからは、イギリスにおける反人種主義というひとつの政治的な立場性を表明する上

での、エスニック・マイノリティとしての「黒人」への共感や同一化という契機を見て取ることが

できると思います。これはさらに、ヒップホップというカウンターカルチャーと結びついた反抗の

シンボルとしての「黒人性(Blackness)」の利用といったことと結びついてくるかもしれません。

実際に業界関係者に、なぜエイジアン音楽にはヒップホップや R&B 的なテイストのものが多いの

かと尋ねますと、「マイノリティである黒人に同一化しているから」とか、「音楽的にも黒人音楽に

影響を受けているから」といった意見がしばしば聞かれます。

現在では、「異なるマイノリティ・グループとの連帯」や「反レイシズム」といったプロテスト

的なエイジアン音楽の実践は、ADF など現在も活動している数少ないバンドなどを除けば、あま

りみられません。ヒップホップや R&B がエイジアンのアーティストにもてはやされる背景には、

政治性といったところとはまた別のレベルで、黒人性をカッコいいものとみなす若者の嗜好がある

のではないかと個人的には見ています。これは特にエイジアンの若者に限った話ではなく、白人の

若者でもそうですし、世界的に見ても、いわゆるアウトサイダー的な立場性を表現する音楽のスタ

イルがロックからヒップホップに移行してきたという状況を考えますと16)、イギリス生まれの若い

第 2世代が増えてきたエイジアン音楽業界でヒップホップや R&B を表現方法として用いるアーテ

ィストが多くなってきているのは、ある意味自然な流れなのかもしれません。

──────────────15)人気を測る大きな指標としては、まず 2003年から開催されている UK エイジアン音楽賞(UK Asian Music

Awards、オンライン投票とエイジアン音楽・メディア業界からの審査員によって受賞者を決定、2013年と2014年は開催されず)の受賞アーティストや楽曲があります。もうひとつは、BBC Asian Network(イギリス BBC の在英エイジアンをターゲットとした専門ラジオ局)で 2010年に放送が開始された“The OfficialAsian Download Chart”というチャート番組で、ホームページでは「世界で唯一の公式デーシー・ダウンロードチャート」と紹介されています。これまでエイジアン音楽のチャートは、それをコンパイルするラジオ局やメディアの独自の調査で作られていたため、客観性に欠けるところがありました。このダウンロードチャートはその名のとおり、イギリス国内のデジタルセールスのデータからランキングを決定しており、ダウンロード数というより「客観的」なデータを用いている点で、他の音楽チャートよりも信頼できるひとつの指標になっています。

16)南田勝也、2001『ロックミュージックの社会学』青弓社

特集 3 2012年度先端社会研究所定期研究会

143

4.「エイジアン」という属性とエイジアン音楽──ジェイ・ショーンの事例から

ここからは、エイジアン音楽業界の内部において「エイジアン」という境界が引かれ、また引き

直される様相を、ジェイ・ショーンという R&B シンガー、ならびにメーラーという南アジア系フ

ェスティバルの事例から検討していきます。

ジェイ・ショーンは、本名を Kamaljit Singh Jhooti と言い、スィングという姓が示すとおりスィ

ク教徒です。1981年に西ロンドンで生まれ、パンジャービーをはじめとするエイジアン人口の多

いサウソールやハウンスローで育ちました。元々は医師を目指していた彼は、パンジャービーの有

名プロデューサーのリシ・リッチ(Rishi Rich)に見出され、2004 年にファーストアルバム Me

Against Myself をリリースします。このアルバムにはボリウッド音楽をサンプリングした曲や、パ

ンジャービー語の歌詞を含んだ曲も収録されている一方で、ショーンはデビュー当初からヒップホ

ップ色の強い R&B を志向していました。バングラー・サウンドを得意とするリシ・リッチのプロ

デュースにもかかわらず、本人にはバングラーをやる意向は当初からほとんどなかったと思われま

す。このアルバムでショーンはまた、アーティストとして追及したい音楽、表現方法(いわゆるメ

インストリームな R&B)と周囲から求められる音楽(エイジアン的なサウンドやビートを用いる

こと、パンジャービー語で歌うことなど)とのズレという問題を提起し、その葛藤をラップの形で

吐露しています。

その後、ショーンはリシ・リッチのプロデュースから離れ、自らレコードレーベルを設立、プロ

デューサーも一新し、2008年にセカンドアルバム My Own Way を発表します。ここでショーン

は、ドールやドーラクといったバングラーでよく用いられる楽器のサウンドや、パンジャービー語

の歌詞といったエイジアン的な要素を一切排した R&B アルバムを制作しました。イギリスのアル

バムチャートでは初登場 6位と好調で、エイジアン以外のリスナーを獲得するようになりました。

その後、ショーンはエイジアン音楽からの距離をますます取るようになっていきます。My Own

Way 発表後、彼はアメリカの大手ヒップホップレーベル、Cash Money Records に移籍し、2009年

にはアルバム All or Nothing で全米デビューを果たします。そのアルバムからのファーストシング

ル“Down”(featuring Lil’ Wayne、2009年)がビルボードのシングルチャートで 1位を獲得し、ア

メリカをはじめ世界中で大ヒットしました。それまで 26週連続シングルチャート 1位というすさ

まじい記録を更新していた人気ヒップホップ・グループのブラック・アイド・ピーズ(Black Eyed

Peas)を首位の座から引きずりおろす形で 1位となったことで、アメリカだけでなく、イギリスで

も非常に大きな話題となりました。これ以降、ショーンは「ヒップホップ・ソウルの女王」と呼ば

れるメアリー・J・ブライジ(Mary J. Blige)との共演を果たすなど、完全にアメリカの R&B、ヒ

ップホップに音楽表現の方向性をシフトし、活動拠点もアメリカに移して、イギリスでの音楽活動

をほとんど行わなくなりました。渡米後には、イギリスの南アジア系週刊新聞 Eastern Eye のイン

タビューで、イギリスのいわゆるメインストリームな音楽シーンで成功できないことへの苛立ちを

語り、イギリスの音楽業界の保守的な体制やレイシズムを暗に批判しています。つまり、自分の音

楽がイギリスでは狭いエイジアン音楽市場でしか受容されないことへの不満を彼は表明したわけで

す。

関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 12号

144

ジェイ・ショーンはイギリスの新聞 The Independent(電子版)でこれまで 2回大きなインタビ

ューに答えていますが、そこで彼は自分の音楽が「エイジアン R&B」と括られてきたことへの違

和感を示し、そうした分類枠を壊したいと感じており、音楽の境界を越えるのが自分の使命だと語

っています。また、インド系人口の多い地元の西ロンドンよりも人種的に多様性のある環境での生

活を望んでいたため、ロンドン中心部の私立学校に通って黒人や白人の若者と接する機会を得たこ

とに大きな影響を受けたと語っています。

しかしその一方で、ショーンは下積み時代に西ロンドンの南アジア系フェスティバルやコミュニ

ティのイベントに数多く出演しており、現在でもしばしばエイジアン・コミュニティへの愛着を表

明しています。例えば 2011年 9月に催されたロンドン・メーラー──メーラーについてはこの後

詳しく取り上げます──の会場で行われた BBC Asian Network による公開インタビューで、ショ

ーンは自分のステージ・デビューの場所がサウソールの公園だったことや、サウソールに程近いハホーム

ウンスローでの少年時代について懐かしそうに語り、「故郷」に戻ってきたことを強調しました。

ショーンはまた、「アメリカにいると、イギリスだけでなく、自分のコミュニティを代表している

と感じる。自分は良い模範でいたいし、若い子たちに自分のことを誇りに思ってほしい。自分たち

の一員がアメリカにいて、きちんと発言し、行動し、歌っていることを、自分たちのコミュニティ

にとって良いことだと感じてほしい」と発言しています。このインタビューで、彼はパンジャービ

ー語を交えて答えたり、さらにその後のメーラーのライブでは、同じ西ロンドン出身の友人でもあ

るバングラー歌手のジャギー D(Juggy D)との久々の共演を披露し、パンジャービー語で歌った

りして会場を盛り上げました。

ショーンのこうしたインタビューからは、エイジアン的な環境だけに身を置くことへの違和感

や、自分の音楽が常に「エイジアン」と形容されることへの抵抗感を示しながら、一方ではエイジ

アン・コミュニティへの帰属をも公言するという、一見矛盾しているかのような言動を彼が取って

いることが分かります。これは、イギリスの「主流」メディア向けの発言と、エイジアン・メディ

ア向けの発言を、ショーンが器用に使い分けていることの現れとみなせるかもしれません。

ショーンは実際にエイジアン的なサウンドの音楽を作らなくなってからも、自らのエイジアンと

写真 1 ロンドン・メーラー(2011年)の会場で行われたジェイ・ショーンの公開インタビューの様子。(撮影:筆者)

特集 3 2012年度先端社会研究所定期研究会

145

しての属性を意識した活動を行っています。例えば 2008年夏には、アルバム My Own Way のヒン

ディー語盤をインド限定で発売しています。これは巨大市場インドでのヒットを目論むレコード会

社の商業的な戦略とみなせますが、実際には YouTube などによってイギリスでも聴くことが可能

です。2010年には、イギリスとアメリカで展開する南アジア系のファッションブランド、Khub-

soorat Collection のモデルを務めてもいます。また、イギリスで優れた業績を残したアジア系の人

に贈られるエイジアン・アワード(The Asian Awards)という賞を、2011年に音楽部門で受賞し、

ロンドンで催された授賞式ではスピーチも行っています。

つまりジェイ・ショーンは、「エイジアン的」なものとの距離を取りながらもそれを完全に断ち

切ることはせず、エイジアン・コミュニティにおいて自らの存在感を常に維持しようとしていま

す。また、ここで重要となるのが、ショーンのいわば「脱エイジアン的」な音楽実践が、DJ のリ

ミックスによってエイジアン・サウンドを再び帯びるという点です。YouTube で“Jay Sean desi re-

mix”などと入れて検索すると、様々な DJ によるショーンの楽曲のデーシー・リミックス・ヴァ

ージョンを聴くことができます。こうしたことからも、ショーンの楽曲とエイジアン音楽との間に

は、非常に曖昧な関係性があることが分かります。

一方、アメリカで成功して以降のジェイ・ショーンがエイジアン音楽業界によってどのような評

価を与えられたかと言いますと、2010年の UK エイジアン音楽賞では最優秀アルバム賞をはじめ

とする全 4部門にノミネートされ、それら全てを受賞しました。また、2010年にリリースしたシ

ングル“2012(It Ain’t the End)”(featuring Nicki Minaj)が BBC Asian Network の“The Official Asian

Download Chart”で初登場 1位、8週連続 1位となり、同番組の年間チャートでも 1位となりまし

た。さらに、2011年の UK エイジアン音楽賞でも彼は 3部門にノミネートされ、そのうち 2部門

を受賞しています。このように、ショーンの音楽はいわば主流のエイジアン・サウンドを否定する

形でヒットしたにもかかわらず、なおも「エイジアン音楽」としての意味を業界の一部から与えら

れているわけです。

しかし、必ずしも業界の全ての人々が「エイジアン音楽」のアーティストとしてジェイ・ショー

ンを評価しているわけではありません。以下の見解は、私がこれまでにインタビューしてきたエイ

ジアン音楽業界関係者のものです。

例えば、あるエイジアン音楽プロダクションの代表の A 氏──彼は元 DJ で、ジェイ・ショー

ンの初期のプロモーションにも関わったことのある人です──は、このように語っています。「エ

ンリケ・イグレシアス(Enrique Iglesias)、シャキーラ(Shakira)、リッキー・マーティン(Ricky

Martin)、クリスティーナ・アギレラ(Christina Aguilera)は皆、スペイン語アルバムを作った。セ

リーヌ・ディオン(Celine Dion)はフランス語アルバムを作った。まずはコミュニティがやってほ

しいと思うことをやらねばならない。コミュニティが自分のやり方を受け入れてから、自分のやり

たいようにやるべきだ。」この A 氏の語りには、「アーティストは自分のコミュニティを代表すべ

き」だという信念が示されています。そして、この A 氏の言う「コミュニティ」とは、様々な差

異を内部に抱えながらも「ブリティッシュ・エイジアン」であるという点で共通の属性を有してい

るとみなされる共同体です。

次に、有名な DJ で、エイジアンのラジオ局の番組でプレゼンターを務めている B 氏の見解で

関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 12号

146

す。彼は、ショーンが 2010年の UK エイジアン音楽賞に 4部門ノミネートされたことについて、

次のように語っています。「前回ノミネートされたのはとても重要なことだった。彼が我々のシー

ン出身であり、ブリティッシュ・エイジアンのコミュニティとブリティッシュ・エイジアン音楽シ

ーンが全米 1位シンガーを生み出した、という認識があったから。しかし、全米 1位にはなった

が、ジェイ・ショーンはボブ・マーリー(Bob Marley)ではない。世界のナンバーワンであるボブ

・マーリーは、彼の人々や音楽を常にリプリゼントしていた。」

それから B 氏と同様、DJ で 2012年までエイジアンのラジオ局で音楽番組のプレゼンターを務

めていた C 氏は次のように語っています。「ジェイ・ショーンはクロスオーヴァーによってメイン

ストリームに入っていった。賞を与えることで、彼を讃えたのだと思う、よくやった、おかえり、

素晴らしい、とね。でも、彼には別の種類の賞をあげられたはず。」かれらは 2人とも、ショーン

の音楽はもはやエイジアン音楽とは到底呼べないのに、ショーンにエイジアン音楽賞を与えるのは

おかしいと捉えているわけです。

先ほど見ましたとおり、エイジアン音楽業界の一部では、ショーンの R&B がなおもエイジアン

音楽のカテゴリーのなかで評価されていますが、これはエイジアンであるショーンが全米チャート

1位を獲得したことへの祝福や、そうした成功を収めた彼をエイジアン音楽に取り込むことで、エ

イジアン音楽業界全体の価値上昇を図る試みだと捉えることができます。しかし B 氏は、ラスタ

ファリ運動と結びついたレゲエによってアフロ・カリビアンのコミュニティを代表したボブ・マー

リーとは違って、ショーンの音楽はエイジアンの人々やコミュニティを全く代表していない、ゆえ

にエイジアン音楽の枠組みで語るのはおかしいと主張しているのです。

以上で検討してきたジェイ・ショーンの音楽活動と、それに対する音楽業界の反応や認識から、

どういったことが言えるでしょうか。ジェイ・ショーンという事例が示しているのは、「エイジア

ン」というエスニシティと「エイジアン音楽」というカテゴリーの間の曖昧な関係性です。エイジ

アン音楽というのは、必ずしも表現内容のエイジアン性を前提としているわけではありません。しアイデンティティ

かしそこでは、エイジアンとしてのポジショナリティや文化的な要素に基づいた、ある種の一体性

のような感覚──それは「デーシー」という感覚とも結びついてきます──も曖昧ながら意識され

ているように思われます。ショーン自身、エイジアン音楽との距離を取りながらも、エイジアンと

いう自分の属性を意識した活動を同時に行い、南アジア系のリスナーを確保し、コミュニティにお

ける自らの存在感を維持しています。こうした彼の活動は、エスニックな帰属意識を部分的かつ操

作的に用いる、いわば記号としての「エイジアン・アイデンティティ」を状況に応じて、より軽や

かに、パフォーマンス的に用いる試みと言えるかもしれません。また、彼自身のそのようなやり方

に加えて、DJ によるリミックスという音楽加工の実践も、ショーンの R&B を容易に「エイジア

ン音楽」のカテゴリーへと引き戻し得るのです。このように、ジェイ・ショーンの脱エイジアン的

な音楽実践は、エイジアン音楽の業界関係者やリスナーたちによる流通や消費の文脈において、常

に様々に意味づけられているということが分かります17)。──────────────17)2014年 10月、ジェイ・ショーンはアメリカの Cash Money Records を離れ、今後は新しい独立系レーベル

で楽曲を制作することを発表しました。この直後からショーンは、イギリスのエイジアンのラジオ番組に立て続けに出演したり、Eastern Eye のインタビューに答えたりするなど、エイジアン・コミュニティに�

特集 3 2012年度先端社会研究所定期研究会

147

5.南アジア系フェスティバルにおける音楽ステージの象徴的機能──メーラーの事例から

それでは、今度はエイジアン音楽が実際に演じられる場所である南アジア系フェスティバル、メ

ーラーについてお話しします。エイジアン音楽においては、パンジャービー音楽が代表的な地位を

占めているということをすでに指摘しましたが、その背景として、バングラーが歴史的に見て最初

に成功し大きな影響力を持ったからとか、ノリの良さが幅広いエイジアンから支持されているから

といったことが挙げられます。しかしながら、そういったバングラーの人気は、エイジアン音楽業

界の人々──レコードレーベル、プロダクション、ラジオ局などの関係者、プロデューサー、DJ

といった人々──にプッシュされることによってももたらされていると考えることができます。こ

の点において、エイジアン音楽が演じられるステージでのアーティストのラインナップが、パンジ

ャービー音楽が代表的なエイジアン音楽だという印象やイメージを発信する上で、重要な要素にな

ってきます。そこで、ここでは具体的な事例としてメーラーを取り上げ、パンジャービー音楽が常

に前面に押し出される背景について検討していきます。

メーラーとは、「集まり」や「フェスティバル」を意味し、インド亜大陸の広い地域で宗教的・

文化的なイベントを行う際に用いられてきた名称です。イギリスでは宗教的なメーラー──ヒンド

ゥーやスィク、イスラームの新年などを祝う祭としてのメーラー──は催されてきていましたが、

宗教的な性格ゆえにあまり開かれた形では行われてきませんでした。ここで取り上げるメーラーと

はそうした宗教的なものではなくて、地域に開かれた文化的なイベントとしてのメーラーを指して

います。このような文化的なメーラーのイギリスでの開催の最も早い例は、1986年のレスター・

メーラー、また 88年のノッティンガムとブラッドフォードでのメーラーです。以降、メーラーは

エディンバラ(1995年~)、ロンドン(2003年~)、カーディフ(2007年~)、ベルファスト(2007

年~)、ケンブリッジ(2010年~)、バーミンガム(2011年~)など、イングランドのみならずス

コットランドやウェールズ、北アイルランドの主要都市でも始まり、現在に至っています。アーツ

カウンシルや地元自治体からの助成を受けるのが一般的で、南アジア系を中心とした企業がスポン

サーとなることも多いです。近年ではケンブリッジ(Big Weekend)やブラッドフォード(Bradford

Festival)18)のように、市の文化フェスティバルの一環として、他の様々な野外イベントと同時に

(同じ会場の一角で)催されるという形も出現してきています。

開催時期は毎年 6月から 9月にかけての週末の 1日ないし 2日間で、主に地元の公園が会場とな

ります。会場にはメインステージが設置され、複数のステージが設けられて異なる出し物を行う場

合もありますが、ポピュラー音楽はほぼ例外なくメインステージで演じられます。入場料は基本的

に無料で、動員数は会場や開催年によって異なりますが、2012年の場合、現在最も大規模と言わ

れているロンドン・メーラーは 1日だけの開催で約 8万 2千人を動員しています。バーミンガムの

場合は 2日間催され、両日で 12万 5千人を動員しました。イベント全体としては家族向けの性格──────────────� 戻った活動を展開しています。ここには、ショーンが脱エイジアン的な R&B を志向しながらも、自分のルーツに忠実だという姿勢を見せることによってエイジアンのリスナーを確保しようという、エスニシティの巧みな利用を端的に見て取ることができます。

18)ブラッドフォード・メーラーは 2013年から、単独開催ではなくこのような市主催のフェスティバルの一環としての開催となっています。

関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 12号

148

が強く、また音楽に特化したイベントというわけではありませんが、音楽はプログラムの大きな位

置を占めています。プログラムは音楽の他にも、ダンス、コミュニティのグループによる発表、子

どものためのワークショップなど多彩です。会場によっては移動型遊園地が設置されたり、石持ち

上げ大会やカバッディといったスポーツ、パレードや大道芸のようなストリートアーツが行われた

りします。会場にはメーラーのスポンサーやパートナーのブース、南アジア料理の屋台、衣料品や

宗教グッズを売る店などのテントがずらりと立ち並び、1日中楽しめるようになっています。

ポピュラー音楽のステージの特徴としては、まずパンジャービー音楽が圧倒的に多いということ

が挙げられます。例えば 2012年のロンドンの場合では、メインステージに立ったラインナップ 8

組中 7組が、バーミンガムの場合では 1日目のラインナップ 11組中 10組がパンジャービー語を用

いたパフォーマンスを行いました。また、どの会場でも大抵の場合トリを務めるのは大物バングラ

ー歌手です。また、パンジャービー音楽に加えて、エンターテインメントとしての性格が強いボリ

ウッド音楽も流れ、ダンサーたちが映画さながらに華やかに踊るパフォーマンスが繰り広げられる

場面もあります。リズミカルなサウンドを伴ったボリウッド・ダンスは飽きやすいオーディエンス

の注意を引きつけるのに有効な方法となっており、アーティストの交代時間につなぎとしても、DJ

がバングラーやボリウッド音楽のヒット曲を流してオーディエンスを盛り上げています。家族向け

という性格からか、過度にクラブ・ミュージック的なものは行われませんが、ロンドン・メーラー

ではメインステージの他に複数のステージを設けており、クラブ・ミュージックに特化した BBC

Asian Network Mix Tent がクラブ好きの若いオーディエンスを集めています。

アーティストにとってのメーラーのメリットとは、まずパフォーマンスの機会が得られることで

す。エイジアンのアーティストは組織的に全国ツアーを行うことは非常にまれで、通常は単発的に

コミュニティ行事やクラブイベントに出演することが多いです。このため、全国的に催されるメー

ラーは、地方でパフォーマンスするという上でも非常に良い機会ということになります。

1980年代に行われた初期のメーラーは、バングラーのバンドがコミュニティ行事や結婚式とい

った地域の限られたイベント以外で、不特定多数のオーディエンスの前で演奏するための機会を提

供しました。また、複数のバングラー・バンドが出演するため、切磋琢磨するための良い場所にな

ったということ、また特にバングラーの場合はパンジャービー以外のオーディエンスにも自分の音

写真 2 マンチェスター・メーラー(2010年)の会場の様子。(撮影:筆者)

特集 3 2012年度先端社会研究所定期研究会

149

楽を聴いてもらえるといった利点もあります。このように、プロモーションの場所になっているこ

とがアーティストにとっての大きな魅力になっていると言えます。基本的にメーラーは無料のた

め、「お試し」的に見てもらえるということ、また週末の日中に催されるので子どもや若者が来や

すいということ、さらにクラブより健全なので親も子どもたちを行かせやすいといったこともあり

ます。こうした理由から、メーラーへの出演は新たなファンを開拓するチャンスともなっているの

です19)。

出演アーティストは誰が決定するかと言いますと、これには大きく分けてふたつのケースがあり

ます。ひとつは、メーラーと連携するメディアパートナーが決める場合です。その代表的な例が、

ロンドンなどのメーラーを担当する BBC Asian Network で、バーミンガムでは地元のパンジャー

ビー語専門コミュニティラジオ局の Raaj FM がプログラミングを行っています20)。もうひとつは、

地元の文化団体やシティカウンシルのチームが関与する場合です。その例が、ブラッドフォード・

メーラーのプログラミングを担当している地元の文化団体、Oriental Arts です。ブラッドフォード

では、この Oriental Arts がシティカウンシルのチームと相談しながらアーティストの決定を行って

いるということです。

ではラインナップ決定の背景を、それぞれのパートナーの例から見ていきましょう。まず、BBC

Asian Network が関わるロンドンなどの場合です。Asian Network のイベントチーム責任者 D 氏に

よれば、メーラーのラインナップには、過去 12ヶ月間に局の番組がサポートしてきた、また今後

数ヶ月間にサポートするであろうアーティストが反映されるとのことで、局がプッシュするアーテ

ィストが積極的に起用されていることがうかがえます。また、特に新人のアーティストに機会を提

供しており、メーラーが催される地域出身のアーティストを選ぶようにしているということです。

ロンドン・メーラーはユニークで独特なプログラムを目指しており、2012年のメインステージ

では若手バングラー歌手のジャズ・ダーミー(Jaz Dhami)とフィルハーモニア管弦楽団の共演を

実現させています。こういった大規模な企画はやはり BBC だからこそ可能だと言えるでしょう。

しかし、こうした独自色のあるプログラムを企画する一方で、地元のタレントを積極的に出演させ

ているということは、パンジャービー人口の多い地域のメーラーであれば必然的にパンジャービー

のアーティストが選ばれる可能性が高くなるということになります。この点に関して D 氏は、エ

イジアン音楽ではパンジャービーのアーティストが支配的であると語り、ラインナップがパンジャ

ービー音楽に偏るのは仕方がないということを暗に指摘しています。

その一方で D 氏は、局はアーティストやプロデューサーなど業界関係者とのネットワークを築

いてはいるが、メーラーにおいてはオーディエンスにとってどんなラインナップが良いかが最も重

要なことなので、そうした関係性に影響されることはないとしています。ただ、プログラムのチー

ムがメーラーにふさわしいと判断したアーティストがたまたま局のスタッフと旧知の仲であった場

合は、スケジュール調整やブッキングが容易になるであろうことは想像に難くありません。

──────────────19)イギリスのメーラーの詳しい情報については、以下の文献を参照しました。Qureshi, Irna, 2010, Coming of

Age : Celebrating 21 Years of Mela in the UK, Bradford : City of Bradford.20)このパートナーシップは毎年必ず同じメディアと結ばれるわけではなく、他のメーラーの日程との兼ね合

いやラジオ局側の都合によっても変わってきます。

関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 12号

150

次に、バーミンガム・メーラーの場合です。バーミンガム・メーラーは、パンジャービー・スィ

ク教徒の人口が多いスメティックという地域の公園を会場としています。このため、オーディエン

スの多数がパンジャービーということになります。

アーティストの選定基準として、Raaj FM のディレクターの E 氏が強調するのは、オーディエ

ンスにとって魅力があるかどうかということです。メーラーはパンジャービー・コミュニティだけ

ではなく地域のあらゆる人々のためのイベントであるため、オーディエンスの文化的な多様性はプ

ログラミングの際に考慮すると E 氏は語っています。

実際に、2012年のバーミンガム・メーラー(1日目)の場合、ステージでのポピュラー音楽のパ

フォーマンスが始まったのは午後 2時頃からで、メーラーの開始からそれまでの時間帯は、地元の

白人やアフロ・カリビアンの子どもたちや学生たちによる「西洋的」なダンスやバングラー・ダン

ス、知的障害者施設の入所者たちによる旗を使ったパフォーマンスなどが次々と行われました。こ

うしたエイジアン以外の人々による出し物は、オーディエンスをエイジアンに限定せず、文化を通

じた地域社会の人々の交流をより促すものであり、住民のエスニックな多様性やフェスティバルを

通じた「多文化共生」という自治体の理念を十分に意識するものだったと言えます。しかし、それ

らのプログラムが終了してポピュラー音楽のパフォーマンスが始まると、それまで多かった白人や

アフロ・カリビアンのオーディエンスは次第に減っていき、最後(午後 7時頃)にはほとんど残っ

ていませんでした。ここには、アーティストたちが多くはパンジャービー語で歌うのに加え、曲の

合間にもパンジャービー語でオーディエンスに話しかけたり、スィク教の挨拶を(パンジャービー

語で)したりするなど、言語がエスニックなマーカーとして作用したために、それを理解しない

人々が一種の疎外感を覚えたという理由が大きくあると思われます。

また E 氏は、Raaj FM とアーティストやマネージメント・チームが密接な関係性を築いており、

そうした関係性がメーラーの音楽ステージのラインナップ決定にも影響し得ると認めています。な

ぜなら、どのアーティストが信頼でき、出演時間に柔軟に対応できるかが分かるし、あるいは予算

の関係でどのアーティストなら引き受けてもらえるかが分かりやすいからだといいます。実際に

2012年のバーミンガム・メーラーには局との結びつきが強いアーティストが何人か出演しており、

アーティスト決定のプロセスで有利に作用したことがうかがえます。

次に、ブラッドフォード・メーラーの場合です。Oriental Arts という文化団体は 1976年に設立

された歴史のある団体で、主な活動として、あらゆる種類の南アジア系音楽──古典音楽、民俗音

楽、ポピュラー音楽など──のイベントの制作やプロモーション、音楽やダンスのワークショップ

の開催、アーティストの手配などを行っています。アーティスティック・ディレクターの F 氏に

よれば、Oriental Arts はアーティストやマネージャーとの長年にわたる関係性を築いており、それ

が実際にイベントのブッキングに影響することもあり得るそうですが、F 氏が強調するのは、ブラ

ッドフォード・メーラーは開始以来多様性を重視してきたということです。メーラーはあらゆる南

アジア系のみならず、地域の全てのコミュニティに開かれたものであるべきであり、多様なオーデ

ィエンスに合わせてプログラムもクリエイティブでバランスの取れたものでなければならず、バン

グラーとボリウッド音楽ばかりなのは良くないと、F 氏は現在のメーラーの傾向に苦言を呈してい

ます。

特集 3 2012年度先端社会研究所定期研究会

151

F 氏は出演アーティストの選び方の例として、2012年のメーラーのトリに選んだドール・ファ

ウンデーション(Dhol Foundation)を挙げています21)。このグループは、バングラーに用いられる

ドールという両面太鼓を中心とした演奏で有名なバンドです。F 氏がドール・ファウンデーション

を選んだのは、ライブバンドとして優れているからだけではなく、中心メンバーのジョニー・カー

ルスィー(Johnny Kalsi)が世界トップのドール奏者のひとりであり、学校でのワークショップや

国内外でケルトやスコットランド、カナダ、アメリカのアフロ・カリビアンなどの様々なアーティ

ストやバンドと数多くのコラボレーションを行う、素晴らしいクリエイターだからだということで

す。つまり、バングラーと密接に結びついたバンドではありながらも、決してパンジャービーとい

うエスニックな境界内に留まらず、音楽を通じた他文化との相互交流を積極的に続けている点が重

視されています。加えて F 氏は、メーラーが将来も続いていくためには、アーティストからオー

ディエンスへの一方向的なパフォーマンスだけでなく、ワークショップやストリートアーツといっ

た観客参加型や相互交流型のプログラムを組み込むことが必要だと強調しています。

それでは、全体的に見て、なぜ多くのメーラーのパフォーマンスはパンジャービー音楽に偏りが

ちなのでしょうか。まず、先に見たとおり、パンジャービーが在英南アジア系の 3大グループのひ

とつであり、どの都市においてもパンジャービーのオーディエンスがある程度の割合を占めること

によって、オーディエンスとしてのパンジャービーの人々の存在を無視できないという事情がある

と考えられます。バーミンガムの場合は、パンジャービー人口の多さという地域的な要因に加え、

メディアパートナーの Raaj FM がパンジャービー語専門ラジオ局であること、さらに局と関係性

を築くアーティストが必然的にパンジャービー語で歌うという要因があります。

歴史的に見ると、ブラッドフォードやノッティンガムのメーラーが開始された 1980年代後半は、

イギリスにおけるバングラーの黄金期と重なっていました。また、バングラーのアーティストの多

さゆえに、かれらのブッキングが初期の頃から容易であったこともあり、かれらの音楽ステージへ

の出演はメーラーの主催側とアーティスト側の双方にとって好都合であったという事情も大きな要

因として挙げられます。

こうした背景に加えて、バングラーなどのパンジャービー音楽やボリウッド音楽はそのリズミカ

ルなサウンドゆえに、同時多発的に様々なプログラムが行われるメーラーの会場でオーディエンス

の興味を引きつけ飽きさせないという点で、重宝する音楽スタイルだということも指摘できます。

アーティストの交代時間には DJ がつなぎとしてバングラーやボリウッドのヒット曲を流します

が、ノリの良さ、またヒップホップやドラムンベースといったリズミカルな音楽スタイルとミック

スさせやすいために、盛り上がる要素のひとつとなっています。ステージの設備の都合上あるいは

予算の都合上バンドの生演奏ができない環境であっても、ドールの奏者やバングラーのダンサーを

入れることは比較的容易ですし、これらが入ればライブ感のあるパフォーマンスが可能となりま

す。

こうしたバングラーの有利さと表裏一体なのが、他の音楽をやっているアーティストが少ないと──────────────21)この年のブラッドフォード・メーラーは、開催の数日前に降った大雨による会場の公園のコンディション

悪化のため、残念ながら中止となりましたが、ドール・ファウンデーションは 2014年にステージに登場しました。

関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 12号

152

いう現実です。バングラー以外のアーティストの発掘や、コンタクトを取ることの手間を考慮する

と、現実的に既存のパンジャービー音楽のアーティストに頼らざるを得ない傾向が生じてくると言

えます。

そういった現状に加えて、不況による自治体やアーツカウンシルの文化予算削減がプログラミン

グの規模縮小を招き、これが多様性あるステージの実現を困難にしているという側面もあります。

また、ロンドンなどのメーラーのメディアパートナーとして重要な役割を担っている BBC の運営

方針が、メーラーの音楽プログラムの内容にも少なからぬ影響を与えているようです。Asian Net-

work では 2012年の夏から秋にかけて大幅なスタッフ削減が行われ、これと連動した 2012年秋の

番組改編でいくつかの音楽番組が終了しました。スタッフ削減は、Asian Network を含む BBC の

ラジオ局(Radio 1, 1 Xtra, 2, 3, 4, 4 Extra, 6 Music)で、2017年までの間に各部門で約 15パーセン

ト減らすというものです22)。このリストラの影響で、D 氏によれば残留したスタッフの仕事量が

増加しているということで、イベントチームも人員が少ないために新たな試みがなかなかできない

という事情がうかがえます。

そのような予算減などの厳しい状況のなかで、ブラッドフォード・メーラーは少しでも多様性の

あるプログラミングを目指しており、例えば地元のアマチュア・ミュージシャンを積極的に起用す

るといった試みを行っています。これによって地域に開かれたイベントという性格をより出すこと

ができますし、予算の面でも助かるということです。

メーラーの現状と将来についてまとめますと、メーラーは全てのコミュニティに開かれたイベン

トを謳ってはいるものの、音楽ステージのラインナップにおいてはパンジャービー音楽偏重の傾向

がみられます。その背景としては、そもそもエイジアン音楽におけるパンジャービー音楽の人気が

──────────────22)Baddhan, Raj, 2014,“BBC Asian Network embraced for further job cuts”(www.media247.co.uk/bizasia/bbc-

asian-network-embraced-for-further-job-cuts, September 20, 2014)

写真 3 ケンブリッジ・メーラー(2012年)におけるバングラーのステージの例。ガプスィー・オージュラー(Gupsy Aujla)とサイニー・スリンダル(Saini Sur-inder)によるパフォーマンス。録音済みの音源とドールを叩くオージュラー、ヴォーカルのスリンダルと若い男性ダンサーたち──しかも全員がカジュアルな私服──で躍動感のあるパフォーマンスが成立しています。(撮影:筆者)

特集 3 2012年度先端社会研究所定期研究会

153

ありますが、音楽業界がそれをプッシュし、メーラーなどでさらに露出が増え、それがパンジャー

ビー音楽のさらなる人気につながるという循環的な構図が見て取れます。近年ではバングラデシュ

系やスリランカ系といった、パンジャービーでないアーティストも登場してきてはいるものの、圧

倒的に少数という状況です。加えて難しいのが、オーディエンスが必ずしも音楽を主目的にメーラ

ーに来ているわけではないということです。つまり、ステージに注目させるため、人気のアーティ

ストに頼らざるを得ないということ、そうすると必然的にヒット曲を多く出しているバングラーの

歌手を起用することにつながるといった側面があります。

しかしながら、メーラーは将来のエイジアンのタレントを育成する機会ともなっています。実際

の例として、メーラーのコミュニティ・ステージに登場した子どもが、数年後にパフォーマーとし

てメインステージに登場し、パフォーマンスを行うといった例もあるようです。こうしたことから

も、メーラーはバランスの取れたプログラムによって多様なオーディエンス、つまりパンジャービ

ーだけでなく、他のインド系やバングラデシュ系、スリランカ系、ネパール系といったオーディエ

ンスに参加の機会を提供する必要があります。この点で、メーラーという南アジア系フェスティバ

ルは、エイジアン音楽全体に多様な音楽実践を広げる可能性を持ったイベントだと言えるでしょ

う。

6.まとめ

「エイジアン」というカテゴリーは、在英南アジア系の人々がブリティッシュあるいは西洋的な

文化的実践とエイジアン的なそれとを対比するための枠組みになったり、時にはイギリス生まれの

ブリティッシュとしての立場から、馴染みの薄い「想像上の場所」としての南アジアを思い描くた

めの枠組みになったりと、その意味を絶えず変化させていると言えます。また、パンジャービー、

グジャラーティー、ベンガーリー、インド系、パキスタン系、スィク教徒、イスラーム教徒といっ

た個別的で多様な複数の自己認識に加えて、イギリス社会で他のエスニック・グループとともに生

活をしていくなかで、曖昧な形で意識され続けている「エイジアン」なる集合的な枠組みが、「エ

イジアン音楽」なる曖昧な音楽的カテゴリーの存続に影響を与えていると考えられます。すなわ

ち、南アジア的なサウンドや音楽の作り手の「エイジアン」としてのバックグラウンドを根拠とし

ながらも、その実践が「エイジアン音楽」に含まれるかどうかは文脈に依存しており、その境界が

常に引き直される可能性があるということです。ジェイ・ショーンの音楽実践とその解釈、そして

メーラーの出演アーティストのラインナップというふたつの事例は、まさにそうしたエイジアン音

楽の境界が書き換えられる現場ということになります。

エイジアン音楽においては、パンジャービー音楽が圧倒的な存在感を誇っていますが、こうした

状況を否定的に捉える声も業界関係者のなかからは少なからず聞かれます。例えば、私が調査でお

世話になっているある女性 DJ は、エイジアン音楽がパンジャービー音楽に偏った状況を“lack of

representation”、つまり「代表性が欠けた状態」だと表現しました。しかし、最近ではパンジャー

ビー以外のアーティストも増えてきています。私の知っている例では、あるスリランカ系の若い音

楽ビデオ監督は、ロンドンでエイジアンやアフロ・カリビアンのアーティストの音楽ビデオを制作

関西学院大学 先端社会研究所紀要 第 12号

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する一方で、歌手としても活動しています。まだ正式にデビューはしていませんが、彼は自分の言

語であるシンハラ語で歌うことに強くこだわっています。つまりエイジアン音楽とは、その包括的

なカテゴリー性ゆえに、新たなテイストの音楽が出現する可能性を常に秘めているわけです23)。し

かしながら、そうした新たな音楽実践が「エイジアン音楽」に含まれて語られるかどうかは、業界

内での扱い方、プロモーションの仕方にも依存しますし、さらにはそれを聴くリスナーたちがどう

受容するかということにも大きくかかっています。

最後になりますが、「エイジアン音楽」というカテゴリーはその境界が常に揺れ動きながらも、

イギリスに暮らす「エイジアン」としての文化的ポジショナリティを確認するための、いわば「可

変性」を有したある種の「不変的/普遍的」な音楽ジャンル──ギルロイの言う「変わってゆく同

じもの」とも重なってきます──として、様々な差異を包含しながら存在してきたと言えるかもし

れません。南アジア系の人々が「エイジアン」と呼ばれ続け、かれら自身が自分たちを「エイジア

ン」と呼び続ける限り、かれらの作る音楽もまた「エイジアン音楽」として今後も存在し続けるの

ではないかと思います。

付記

本報告で取り上げた現地調査の一部は、独立行政法人日本学術振興会の「組織的な若手研究者等

海外派遣プログラム」による支援を得た「東京大学大学院人文社会系研究科 次世代人文社会学育

成プログラム」(2009年度~2012年度)の助成によるものです。

──────────────23)さらに、2014年 10月には BBC Asian Network で、初の南インド系・スリランカ系音楽番組“Ashanti Om-

kar”の放送がスタートしました。これが、Asian Network がメディアパートナーとなっているメーラーの出演アーティストのラインナップなどに今後どのような影響を及ぼすか、注目されます。

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