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香川大学経済論叢 72 巻第 3 1999 12 113-135 嘘の所在-ファブリスと藤十郎- 守矢信明 嘘という事象は言語現象だろうか,社会道徳上の問題だろうか,あるいは心 中深くに秘められた実体不明のなぞ、であろうか。 1.日仏語におけるうそ(嘘)の語源 堀井令以知編『語源辞典』は嘘をつぎのように説明する。 「いつわり。中世以後の語か。関東では,近ごろまでオソといった。つま らない,ばかばかしいを意味する形容詞オゾイと同じ語源。万葉集に出て いるオオオソドリは,やや滑稽の意を含んでいた。たいそうあわてものの 鳥である。嘘の字は,中国では,もとは,息を吐くこと,口を開いて笑う 意味しかなかった。ウソブクのウソと同じ起源か。人の顔のはっきり見定 められぬ夕暮れをウソウソというように,ウソはもと,物事の不安定ではっ きりしないさまをいった。」 ここでは語源的にみて,日本語のくうそ〉が口を通して外部に表出され る何かであること,また,つまらいこと,ばかばかしいこと,物事の不安 定ではっきりしないさまであるという性格づけを読み取ることができる。 そして語源的にはくうそ〉は善悪の彼岸にあり,とくに非難の対象となる ものを指しているわけではない。それがやがて嘘には道徳的にマイナスの 意味がくわわり,広辞苑に見られるように「①真実でないこと。また,そ (1) 堀井令以知編語源大辞典.1,三秀舎,昭和 63 年, 35 頁。 OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ

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  • 香川大学経済論叢

    第 72巻 第3号 1999年 12月 113-135

    嘘の所在-ファブリスと藤十郎-

    守矢信明

    嘘という事象は言語現象だろうか,社会道徳上の問題だろうか,あるいは心

    中深くに秘められた実体不明のなぞ、であろうか。

    1.日仏語におけるうそ(嘘)の語源

    堀井令以知編『語源辞典』は嘘をつぎのように説明する。

    「いつわり。中世以後の語か。関東では,近ごろまでオソといった。つま

    らない,ばかばかしいを意味する形容詞オゾイと同じ語源。万葉集に出て

    いるオオオソドリは,やや滑稽の意を含んでいた。たいそうあわてものの

    鳥である。嘘の字は,中国では,もとは,息を吐くこと,口を開いて笑う

    意味しかなかった。ウソブクのウソと同じ起源か。人の顔のはっきり見定

    められぬ夕暮れをウソウソというように,ウソはもと,物事の不安定ではっ

    きりしないさまをいった。」

    ここでは語源的にみて,日本語のくうそ〉が口を通して外部に表出され

    る何かであること,また,つまらいこと,ばかばかしいこと,物事の不安

    定ではっきりしないさまであるという性格づけを読み取ることができる。

    そして語源的にはくうそ〉は善悪の彼岸にあり,とくに非難の対象となる

    ものを指しているわけではない。それがやがて嘘には道徳的にマイナスの

    意味がくわわり,広辞苑に見られるように「①真実でないこと。また,そ

    (1) 堀井令以知編語源大辞典.1,三秀舎,昭和 63年, 35頁。

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  • -114 香川大学経済論叢 928

    のことば。いつわり。②正しくないこと。③適当で、ないこと。」という,私

    たちが嘘についてふつうに抱く悪しきものという社会通念が一般的となる。

    一方フランス語の mentzrは,語源的には,広く心的作用を指すことばで

    ある。これは後期ラテン語の mentire,さらに古典ラテン語の mentiriにさ

    かのぼるカえ これらの語の核にあるものは「心」を意味する mens,mentis

    である。この mentについて Lanzadel Vastはつぎのような見解を述べて

    いる。

    La mens, menti:s, en latin, couvre tous les sens et combinaisons des

    facultes sensorielles et intel1ectives En francais on la trouve dans

    d'innombrables composes“ Mentalite, mention; mentzr, Enfin dans

    tous les adverbes: bonnement: dans une bonne

    lnjini (e) ment ; dans une (2)

    l'entendement fait defaut

    mesure (mente) infinie

    intention (mente) ;

    Dement, a qm

    (ラテン語の mens,menti:sは感覚機能,知的機能のあらゆる意味,組合

    わせにおよぶ、ことぼである。 フランス語では非常に多くの合成辞のなかに

    それを見い出すことができる。 mentalite(精神構造), mention (言及);

    mentir (嘘をつく)。さまざまな副詞の中にも見いだせる:bonnement,す

    なわち良い意図 (mente)において。 i'nfini(e) ment,すなわち無限の広がり

    (mente)において。 dement,すなわち知性を欠いた者。)

    興味深いのは, フランス語の mentirもまた語源的には精神の働きの 1つで

    あって,出発点はやはり善悪の彼岸にあるということだ。

    2. 日仏語における「うそ」 と動詞の組合わせ

    日本語で嘘は「言う」ものであり rつく」ものであり,古くは「吹く」もの

    である。っくについては「突く」もしくは「吐く」の漢字があてられ, 「狭い口

    を通して外にだす」 さまを指す。用例としては嘘・悪態をつく, ところてんを

    ( 2) Lanza del Vasto, Les Etymologies imaginaires, Paris; Editions Deno邑1,1985, p 199

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  • 929 嘘の所在ーファブリスと藤十郎 -115ー

    突く,息・ため息を吐く,などがある。他方,フランス語で mentirの敷街形と

    しては,dire, faire, lacher un mensonge (うそを言う,発する,もらす),

    invente久 forger,echafauder un mensonge (うそを考案する,作りあげる,組

    み立てる)があり,動調の種類および数は日本語よりもヴァラエティに富んで

    いる。そして先に見た語源上の対立はここにも見受けられる。日本語では口を

    通して外に吐きだされるものであり,-うそ」の生成を言い表す動詞はごくわず

    かなものにかぎられているのに対し,フランス語は精神のはたらきということ

    も含められているために,たんに口外されるというにとどまらず,こしらえ,

    発案し,鋳造し,組み立てるといったさまざまな精神活動上の広がりをもっ動

    詞がその周辺に控えている。この点をもう少し鮮明に言うなら,日本語では口

    を通して顕現する嘘,つまりことばの嘘に第一の力点があるのに対し,フラン

    ス語では口にのぼる以前の嘘,嘘が生成される段階での心的過程にも関心が向

    けられているということである。

    さて日本語の「嘘をつく(言う )Jと,フランス語の動詞 mentzrとの大きな

    違いは,日本語が「嘘」と「つく(言う )Jの2要素に分析できるのにたいし,

    フランス語はそれ自体が対象補足辞を必要としない,自動詞だということであ

    る。日本語でははじめから嘘は言う(つく)ものであることが前提になってい

    るが,先程来述べているように,フランス語は必ずしもそうではない。このこ

    とが mentirに,あるあいまいさを許す原因となっている。つまり mentirは

    dire (言う)行為でもあるが, faire (作る)行為でもあるということである。

    Littreが紹介している Roubaudの見解がまさにそれである。

    Faire un mensonge, dire un mensonge.. Ces deux expressions sont

    synonymes et, ici, faire n'a que le sens de dire, bien que Roubaud ait

    voulu les distinguer, en pretendant que dire un mensonge, c'est le

    proferer, et faire un mensonge, le compser.

    (Faire un mensonge, dire un mensongeこの 2つの表現は同義である。

    ( 3 ) EncycloPedie du bon介。ncaisdans l'usage contemporain, par Dupr, Paris, Editions de Trevise, 1972, Tome 11, p 1586

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  • 116- 香川大学経済論叢 930

    そしてここでのfaireはdireの意味にほかならない。しかしながら

    Roubaudはこの 2つを区別しようとして,dire un mensongeは嘘を口に

    することであり ,faire un mensongeは嘘を作ること,こしらえることで

    あると述べている。)

    日常言語的には Littreが言うようにfaireun mensongeとは direun men-

    songeの意にほかならないだろう。しかし,嘘について考えるとき,あとで見る

    ように Roubaudの提起した区別はかなり重要な意味をもってくる。

    3. うそは口でつくものか?

    ポール・モーラン原作,ダニエル・シュミット監督のスイス=フランス合作

    映画『ヘカテ~ (HECATE)の中に,つぎのような男女の会話が出てくる。

    一一Tune mens jamais? (嘘はつかない?)

    一一-Pas en parlant.. (口ではね。)

    このやりとりはLittreの引用で見たように,はじめから嘘は「言う(つく )J

    ものという前提に立っかぎり,かなり意表をついたものとなる。男の質問「嘘

    はつかない ?JをYes-No疑問(全体疑問)で受け止めるなら,答は「ハイ」

    か「イイエJ,rつく」か「つかない」かのどちらかである。ところが女の答は

    そのどちらでもない。女は質問の内容を全体疑問ではなく部分疑問に変質させ

    て,口ではつかないが口以外ではつくと答えている。では口でっかない嘘とは

    どんなものかという疑問がわくが,それについてはあとで見るとして,そのま

    えにもう 1つ,映画の台詞を引用しよう。

    映画 f フラート.~ (FLIRT) (1995年,ハル・ハートリー監督・脚本,英=独=

    日合作)では,こんなやりとりが見られる(寺尾次郎翻訳)。

    一一とっても嫌な気分。

    一一ーなぜ?

    一一一私,嘘つきなの。

    一一寸童うよ。

    一一般が手紙と電話で“会いたい,愛してる"と。だから“私も"って答え

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  • た。本心は違った。

    一一自分の気持ちが"制

    一一一よく分かつてる。あなたを愛してる。彼も好きだけど,愛するのはあ

    なた。

    一一一ぼくも愛している。

    一一彼への嘘も私たちの愛も,同じことばを使っている。

    女は論理的に整理された言い方ではないが,自分の欺臓について正直に説明

    しようとしている。女は 2人の男にかかわり,ともに愛のことばを交わしてい

    るが,そのことばの一方には嘘が含まれ,他方には含まれない。しかし交わさ

    れていることばはどちらも同じで表面的には見きわめがつかないために,その

    ことが正直であろうとする彼女に一種の失望と困惑をあたえている。嘘の気持

    ちをつたえるときも,嘘ではない気持ちをつたえるときも,同じ「愛している」

    ということばを使わなければならないというジレンマに彼女は立たされている

    のである。

    『ヘカテ』と『フラート』の台調には共通項がある。共通項の 1つは「口」で

    i ある。もう一つはいろいろな呼び方が考えられるが,ここでは仮にそれを「ιJ心L心、と呼ぶぶ、ことにする。さてこの 2つの共通項を使って両者の主張をまとめるなら,

    }{ll

    931 嘘の所在ーファブリスと藤十郎一 ~117~

    両者の言おうとしていることがより明らかになってくる。すなわち,

    『ヘカテ私は嘘を口ではつかないが,心ではつく

    『フラート私は嘘を口ではつくが,心ではつかない

    と言い換えることができる。すると,ここでは 2種類の嘘が関われていること

    がはっきりする。 1つは口による嘘,もう Iつは心による嘘である。そしてこ

    の場合,口とはことばを指すから,ここでは「ことばによる嘘」と,ことばに

    よらない嘘,すなわち「心の嘘」が問題だということになる。

    別の角度からあらためて嘘の種類を考えてみよう。たとえば LogosBordas

    では mensongeを3つに分けて説明している。

    ① Parole ou assertion contraire a la verite et dite ou ecrite avec

    l'intention de tromper

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  • -118 香川大学経済論叢 932

    ② Action de mentir

    ③ (par exteηsion) Se dit d'une chose trompeuse

    ①は「ことばとしての嘘j,②は「行為としての嘘j,③は意味を広げて「人

    を欺くこと全般」である。説明をかねて Bord,ω に示されている例を見てみるこ

    とにする。たとえば①では ungrossier mensonge (見え透いた嘘,図々しい嘘),

    mensongeρzeux 思いやりから出た嘘)がある。歯の浮くようなお世辞は見え

    透いた嘘であり,失意の人に向かつて激励するようなときに, とかく人が口を

    すべらせる嘘は,思いやりの嘘である。また Bordasはmensongeρar omis-

    sion: alteration de la verit邑parun silence (r言い落しによる嘘j,沈黙によ

    る真実の改ざん)を「ことばの嘘」のなかに加えている。これは故意の言い落

    しとも言われるもので,知っていながらそ知らぬそぶりを通すとか,証言すべ

    きときに沈黙を守る場合である。②では selonla morale chrtienne, le menson-

    ge est unρeche.. (キリスト教徒のモラノレによれば,嘘は罪である)という場合

    の嘘があげられている。嘘の中身ではなく,嘘をついたか,つかなかったかと

    いう虚言行為の有無に焦点、が当てられる場合だ。③は嘘ということばの拡大解

    釈で,虚偽一般,偽りを指す。例としては Quelsmensonges queωsρorlraiぉ

    exposes aux vitres des marchands de gravures.. [Balzac] (画商のガラス・ケー

    スに陳列されたこれらの肖像画はどれもこれもインチキではなし功>[パルザッ

    ク])があげられている。

    Bordasの分類と,先の「ヘカテ」型嘘および「アラート」型嘘をつき合わせ

    てみるなら,

    という図式が考えられる。これについては次節でさらに検討をくわえたい。ま

    たBordasでは故意の言い落しを「ことばの嘘」にくわえているが,これは分類

    としては行為としての嘘や,虚偽全般にくわえてもおかしくはない。

    ことばの嘘| 行為としての嘘 |虚偽全般

    フラート型 | フラート型/ヘカテ型 | ヘカテ型

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  • 933 嘘の所在ーブアブリスと藤十郎一 ~119

    4. faire un mensongeとdireun mensonge

    前節ではアラート型嘘と,ヘカテ型嘘,およびBordasによる 3つの区分を見

    た。両者をつき合わせて表にしてみたが,はたしてこの対応が正しいかどうか

    もう少し検討してみよう。

    Bordasの説明は実は嘘のもつ三つの側面の説明であって,嘘の本質にもと

    づいたものではない。というのも,たとえば空腹ではないにもかかわらず r空

    腹である」と発言した場合を例にとるなら,これは 1つにはことばの嘘である

    が,同時に嘘の発言をしたという行為としての嘘でもあり,嘘であるかぎりは

    虚偽全般にふくめることもできる。したがって Bordasの3区分は嘘の諸相を

    3つに分けて説明したものであって,それぞれは対立した区分ではない。一方,

    フラート型とヘカテ型ではことばで言うか,ことばで言わないかという対立が

    ある。

    嘘の区分という点に関して,先に Roubaudの主張について触れた。彼の区

    分,faire un mensongeとdi'reun mensongeの区分にははたして対立が存在

    するだろうか。一見して対立しているようだが,これも実は Littreとは違った

    意味で対立がない。 Roubaudが主張したfaireun mensongeとdi'reun men-

    songeの区別について Littreはこの 2つの動調は同じ意味だと述べ,対立を否

    定した。だがここでは動調よりも,動詞の対象辞(mensonge)がむしろ問題に

    なる。たとえば「パンを焼く」と「パンを食べる」は同じ対象辞に見えるが,

    意味論的に前者は何か(ここでは小麦)を焼いてパンを作る以上,理屈の上で

    は小麦を焼くと言わなければならない。しかしこの種の表現は,材料(原因)

    の代わりに完成品(結果)を充てる修辞法(メトニミー)として,しばしば日

    常レベルでも見受けられるものだ(御飯を炊く,お湯をわかす,ラジオを組み

    立てる,等)0 faire un mensongeも同じことで,これを論理的に言うなら,

    faire de quelque chose un mensonge (何かから,嘘をこしらえる)

    ということになる。 quelquechoseが材料(原因)で, un mensongeは完成品

    (結果)である。他方,dire un mensongeにおける unmensongeは,すでに

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  • 120- 香川大学経済論叢 934

    こしらえられたもの,結果としての嘘が direの対象辞になっているという点

    で,前者と異なっている。

    このように見るとき,faire un mensongeとdireun mensongeはもはや同

    一表現でもなければ,対立表現でもなく,いわば嘘製造の一連の過程として位

    置づけることができょう。そして dire un mensongeの前提にはfaire un

    mensongeがあるが,その逆,つまり faireun mensongeは,かならずしも dire

    un mensongeを予定しない。その結果,先のフラート型,ヘカテ型に話をもど

    すなら,faire un mensongeにつづいて direun mensongeがなされれば「フ

    ラート型」の嘘となり,なされない場合は「ヘカテ型」の嘘が成立することに

    なるわけだ。 Bordasで「ことばの嘘」の中にあげられていた故意の言い落しに

    ついても,ここでの分析に即していえばルireun mensongeはあるが,dire un

    mensongeがなされていないわけで,それゆえこれはヘカテ型の嘘だというこ

    とカまできる。

    5.動調mentirのsyntaxeおよびsemantique

    プランス語の動調 mentirは自動詞であって,対象辞を取らない。虚偽の対象

    を示したい場合は mentirsur quelque chose, sur quelqu 'unという構成を取

    る:

    (1) Le temoin nous a menti sur son emploi du temps伽(証人は自分の日

    課に関して,嘘をついた)

    この用法は古くは mentirde~だった:

    (2) Trouvez-vous.. que je vous aie menti de ce que je vous avois dit?

    (Malherbe)

    (私があなたに申し上げたことについて,私があなたに偽りを申し上げ

    たとお思いか?)

    (3) Il faut que la marquise entende Saint-Aubin lui dire, en ma pre-

    sence, qu'on lui a repete un sot conte, et que ceux qui l'ont forge en

    ont menti. (Musset)

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  • 935 嘘の所在ーファブリスと藤十郎 -121ー

    (馬鹿馬鹿しい話がくりかえされており,その話をでっちあげた連中は

    嘘をついているのだと,サン=トパンが私のいる前で言うのを侯爵夫人

    は聞くべきである)

    そしてこの用法についてR.Le Bidoisが次のような見解を述べている:

    Ce qu'il faut noter a propos de ce tour, c'est qu'il s'emploie toujours en

    phrase positive et que le verbe y est necessairement a un temps com-(4)

    pose.

    (この言い回しに関して記しておくべきことは,つねに肯定文で用いられ,

    動詞がかならず複合時制におかれるということである)

    しかしなぜ mentirde, en mentirの構成が否定文では用いられず,単純時制

    におかれないかという理由については詳らかではない。類似の見解は Bordas

    でもくりかえされている:

    Vous en avez menti .1 (en= a ce sujet), ne s'emploie que dans la langue

    litt邑raireou par plaisanterie, et seulement aux temps composes: vous

    avez ({所rmezque vo附 n'etiezραsau courant de cette affaire, eh bien,

    vous en avez mentil, s'il dil au'il ne m'aρas rencontre he杭 ilen a

    menti

    (Vous en avez menti! そのことであなたはお戯れを申されておるの

    ですな!]は,文語もしくはふざけて言う場合にしか用いられない。また

    複合時制においてしか用いられない:vo附仰白句rirmezque vous n 'etiez

    ραs au courant deωtte affaire, eh bien, vous en avez menti l , それ

    についてはあなたはハツキリご存知ないと申された。いやはや,あなたは

    ご冗談を申されておるのだリ)

    文語であるというのは,この言い回しが現代ではアルカイックに感じられる

    からであり,あえて現代語の中に古めかしい語法をおけば,そこになんらかの

    効果,上の説明によるなら,冗談めかしたニュアンスが生まれるということは

    ( 4 ) Ibid, p. 1587

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  • ← 122- 香川大学経済論議 936

    よく理解できる。しかしなぜ肯定文と複合時制でしか用いられないのだろう。

    LEROBERTのmentirの項には,熟語表現および代名動調表現をのぞいて,

    全部で 13の例文が挙げられている。そのうち現在形が5例,半過去形が l例,

    不定詞形が6例,複合過去形が 1である。つまり複合形が 1例であとは単純形

    である。また肯定文か否定文かという点では 1例が否定文で残りは肯定文であ

    る。さらに mentirde~, en mentirの形の例は 1例のみでR.Le Bidois, Bor-

    dasの指摘するように「肯定文」で「複合形」になっている(先に引用の Musset

    の例文(3)を参照のこと)。そこで以下にこれ以外の現在形の例,半過去形の例,

    不定詞形の例,否定文の例をそれぞれ 1例ずつ取り上げて,その意味を確認し

    てみたい。

    (4) L'homme du Midi ne ment pas, il se trompe.. 11 ne dit pas toujours

    la verite, mais il croit la dire...... Son mensonge a lui, ce n'est pas du

    mensonge, c'est une esp色cede mirage..... (DAUDET Tartarin de Ta-

    rascon, 1, VII)

    (南仏の人聞は嘘はつかない,思い違いをするのだ。彼はかならずし

    も真実を言うとはかぎらない。だ、が真実を言ったつもりでいる。彼の,

    南仏人の嘘は,嘘ではない。一種の幻想である)

    (5) ... je mentais assez souvent, non par interet, mais par bonte, par

    dedain, par la fausse idee qui me porte toujours a prおenterles choses

    a chacun comme il peut les conmprendre. (RENAN, Souvenir d'en・

    fance., VI, IV)

    (一"私はよく嘘をついたものだ。損得からではない。善意から,軽蔑

    の思いから,物事を示すときにいつも人々が理解しやすいようにという

    宜しからざる考えに駆られてのことだ。)

    (6) 11 ne dit pas de mensonges, mais il ne dit pas toute la verite, ce qui

    est une facon de mentir.. (FLAUBERT, Correspondances, 1741, 9

    juillet 1878)

    (彼は嘘をついてはいない,しかし真実のすべてを述べているわけで

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  • 937 磁の所在ーブァブリスと藤十郎一 -123-

    はない。これは一つの嘘のつき方である)

    (7) Quoique les personnes n'aient point d'interet a ce qu'elles disent, il

    ne faut pas conclure de la absolument qu'ils ($た)ne mentent point,

    car il y a des gens qui mentent simplement pour mentir. (P ASCAL,

    Pensees, II, 108)

    (人が語ることのなかに利害がからんでいないからといって,その人

    が嘘をついていないなどとは絶対に結論づけてはならない。世の中には

    たんに嘘をつくために嘘をつく人々がいるからである)

    以上の例を通覧するとき, (3)の例との違いが見えてくる。それは(3)の例が具

    体的にある物事に関して虚言を言い放ったと述べる言表であるのに対し, (5)以

    下の文はすべて虚言行為一般を問題にしているにすぎず,誰がどういう嘘をつ

    いたかという具体的な問題には関与していない。これだけの材料から結論を導

    くのは危険であるが,少なくともここに見る例をもとにR.Le Bidois, Bordas

    の指摘を考えるなら, mentirという自動調は,一般に「嘘つき行為をする」と

    いう意味であって,もし誰それが具体的にある事柄について嘘の発言をしてい

    るという場合は me印nt凶ti白ir d白e~, e印n ment凶ti凶i訂rの形を取り (現代の構成は me叩n抗凶t仕耐ir r

    s叩ur.凶....)川H

    形がないということ,完了形(複合時制)しかないということは,嘘に関して

    は事実のみを陳述する形しかないという結論になる。

    6. ことばの嘘と言語の恋意性

    (2)の文例に少し手をくわえ,別の角度から検討してみたい。

    (8) Trouvez-vous que je vous ai menti sur ce que je vous avais dit ?

    ここには「私があなたに申し上げたこと」の中身が具体的に示されていない。

    そこで発言内容を仮に(Je suis heureux) (私は幸せだ)であるとしよう。

    (9) Trouvez-vous que je vous ai menti sur ce que je vous avais dit: (Je

    suis heureux)? (私があなたに申し上げたこと,つまり「私は幸せだ」

    ということばは,嘘であるとお思いか?)

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  • -124 香川大学経済論叢 938

    (9)には mentirの対象が surで示され,さらにその直接的な発言内容がギユ

    メによって示されている。しかしながら(Jesuis heureux.)が虚言であるとい

    う印はどこにもない。ギユメは本人のことばであることを証明しているだけで,

    その真偽については無関心である。言語は現実世界に対して怒意的な関係にあ

    り,現実に直接しばられない。しばられないことによって人は実世界から解放

    され,自由に物事を反省し,思考することができる。 Ch..Ballyはその点を強調

    してつぎのように述べている:

    En effet, le sujet peut enoncer une pensee qu'il donne pour sienne bien

    qu'elle lui soit etrang色re. 11 s'agit alors d'un veritable dedoublement de

    la personnalite Le mensonge en est la forme la plus caracteristique"

    Un temoin dit au tribunal: {Cet homme est coupable) tout en sachant

    parfaitement qu'il est innocent.. Ce fait n'est pas particu日erau lan-

    gage, mais est propre a tout s)ぽ色mede sigens [,...,.J

    (実際主体は,思ってもいないことを自分の考えであるかのように申し述べ

    ることがある。それこそまさに人格の二分化である。嘘はそのもっとも特

    徴的な形態だ。証人が法定で言う Iこの男が犯人ですJ,彼が無実である

    ことを知悉しておりながら。このことは言語活動にかぎったものでなく,

    すべての記号体系に固有のものである。)

    人はことばによって嘘をつくが,嘘であるとして告発されることばそのもの

    はそれが言語であるかぎり,まったくの無実である。ことばは文法にかなって

    いさえすれば十分でトあるからだ。文法性を離れたとき,初めてことばは不条理

    であるとして告発される。R.Jakobsonが,論文 {Lanotion de signification

    grammaticale selon Boas)の中で論じようとしたのもこの問題である。彼は

    言う, Chomskyの“Colorlessgreen ideas sleep furiously,"という文は無意味

    な文とされているが,この文は文法関係を保持していることによって,はたし

    ( 5) Ch. Bally, Linguistique generale et linguistique francaise, Editions Francke Berne, 1965, p..37 (シャルル・パイイ,小林英夫訳『一般言語学とフランス言語学.1,岩波書庖,

    1970)

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  • 939 嘘の所在ーファブリスと藤十郎一 125ー

    てそのような事柄がありうるのか否か,真偽を問題にすることができる。それ

    ゆえこれは「有意味」な文である。しかしながら文法関係が崩されるとき,こ

    の文はもはや不条理な記号の羅列と化してしまう,と。

    Plus les formes syntaxiques et les concepts relationnels qu'elles

    vehiculent viennent a s'obliterer, plus difficile est-il de soumettre le

    message a une epreuve de verite, et seule l'intonation de phrase tient

    encore ensemble des(mots en liberte}tels que silent not night by silently

    unぬ~y (e e.. cummings) ou Furiously sleep ideas green colorless (N

    Chomsky) Un enoce tel que (Cela semble toucher a sa fin) dans sa

    version agrammaticale (fin toucher semble a sa) peut difficilement etre

    suivi par la question : (Est-ce vrai ?) ou (En etes-vous sur?) Des enoces

    d'ou toute grammaire a completement disparu sont evidemment denues

    de sens

    (統辞形式と,それらが担う関係概念が薄れるほど,メッセージの真偽テ

    ストは実行しにくくなる。そして silentnot night by silently unday (e e

    カミングズ)とか Furiouslyslee.ρideas green colorless (N“チョムスキー)

    のような自由な語を結び合わせるのは,匂の抑揚だけとなる。 Celasemble

    toucher a sa fiu. (終わりに近づいていくように見える)という発話を fin

    toucher semble a sa (終わり・近づいてゆく・見える・その・に)のよう

    な無文法の言い換えにしてしまうと,それについては“本当か"とか“本

    当にそう思ってるのか"といった質問がその後に続くことがまずもってで

    きなくなる。全く非文法的な発話は,実に無意味である。)

    無意味で、ある(非文法的文,真偽が問えない)ということと,有意味である(文

    法性を維持した文,真偽が問える)ということはきわめて重要な区別である。

    こうして例えばロートレアモンの「手術台のうえのミシンと傘の偶然の出会い

    ( 6) R J akobson, Essais de linguistique geneγ-ale, traduit et preface par Nicolas Ruwet, Les Editions de Minuit, p. 206 (ロマーン・ヤーコブソン,川本茂雄監査修一般言-語学J,みすず書房, 1973)

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  • f4tttLLb-La'bt§aghnku制SFERマFh引08RH

    126 香川大学経済論叢 940

    のように美しく J (W マルドロールの歌~)という一文は,文法性を維持している

    という点で真偽を問うことのできる有意味の文であり,無意味な文ではない。

    同じ理由で「円い四角J,,-ぼくは女だー(JEest un autre) (私は他者である)

    (Rimbaud, cf. Je suis un autre)等の言語表現は無意味な表現ではない。ただ

    し,これらが日常言語とやや異なる印象をあたえるのは,それらが日常言語で

    いまだ許容されないある種の選択制限を犯しているからである。けれどもこれ

    については,かつて「月でうさぎが餅つきをしている」という言い方がほとん

    どの日本人に抵抗なく受け入れられていたものの,今日ではおそらく“手術台

    でこうもり傘が昼寝をしている"という表現と同じ程度に奇異な響きをあたえ

    ることと軌をーにしている。またある種の言語要素の組合わせが存在しないか

    らといって,そういう事態,現実が当時存在しなかったことにはならない。 sex-

    ual harassmentは,こうした言い方が存在する以前から存在したし,公害はこ

    うした言い方が存在する以前から存在した。存在しなかったのはそのような事

    態をそのように認識する人々の意識であった,というにすぎない。ある種のこ

    とばの組合わせが生まれることで(発明される,あるいは発見されると言って

    もいい),人々の意識に変化が起こるとき,フランス語では時間をさかのぼり,

    その事態をあらためですくいとる言語形式が存在する。 {avantla lettre) (術

    語ができる以前の)がそれである。例えば LucianBoiaは19世紀末の「科学技

    術の勝利は人間の生物学的衰退を意味した」と述べるくだりで,ある本を紹介

    しながら次のように述べる:

    Dans La Vie eleclrique (1892) de Robida [一J,nous voyons deja une

    humanite en voie de 併記nerescence,touchee a la fois par le sur-

    menage, la polution et l'abus d'electricite, minee en meme temps par

    les injustices sociales et la guerre

    (ロビダの『電気生活.~ (1892)を読むなら [......J,すでに過労,汚染,電気

    ( 7 ) Lucian Boia, La βn du monde, Une histoire sa四sfm" Editions La Decouvette, Paris, 1989, p 184 (;レチアン・ボイア,守矢信明訳『世界の終末終わりなき歴史J,パピノレス, 1992)

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  • 941 嘘の所在一ファブリスと藤十郎 -127-

    の乱用による悪影響を受け,社会的不公正と同時に戦争によって徐々に疲

    弊した,退化途上の人聞を見ることができる。)

    そしてそこに再掲されたロビ夕、の想像図に,つぎのような説明を付してい

    る:

    Ecologie avant la lettre ... laρollutiOn imagineeραr Robida, il y a cent

    ans (Alberl Robiぬ ;op cit)

    (この語が存在する以前のエコロジー。 100年前のロビ夕、による公害想像

    図(アルベール・ロビダ,前出)

    DictiOnnaire des Mots Contemρorainsによれば, ecologieなる語が自然破

    壊,汚染に対することばとして登場したのは 1965年以降のことである。当然ロ

    ビダの時代にそのような観念を表す言い方は存在しなかった。

    7.嘘の成立要件

    これまで「嘘」をいくつかの観点から見てきた。要約するなら,嘘はコトパ

    による嘘と,コトパによらない嘘の 2つに大別できた。しかしコトパは「嘘」

    の運び手ではあっても,嘘そのものではない。となるとコトパによる嘘と言っ

    ても結局は,

  • 128ー 香川大学経済論叢 942

    あいだに真実(事実)についての共通の基準が存在しなければならない」。例え

    ば〈私は幸せだ〉という言表が虚偽になるためには,発話者と聞き手の聞に「幸

    せ」についての共通基準がなければならない。真実基準の相違はわれわれの周

    辺にいくらでも見い出すことができる。「子どもと大人のあいだでよくある現実

    観念・感覚の相違による事実の差異J,rある発達段階の子どもや狂信者,空想、

    癖の人の場合J,r科学や社会認識の理論枠組みの相違による事実認識の差異」

    などである。しかしより一般的に真実基準の相違は,異なる文化圏のあいだで

    しばしば起こる。真昼の太陽を赤く塗る日本の子供と,黄色に塗るフランスの

    子供では太陽の色に関して食い違いがある。このような場合,どちらかが間違っ

    ていて,どちらかが正しいと言うことはできない。あるいはとんぼという日常

    的な生き物について,日本と英語圏の子供では受け取り方が異なる。山岸勝柴

    はこれについて次のように述べている。

    「日本ではトンボは子供に愛され,季節を感じさせる虫としても親しまれて

    いるが,英語圏では悪魔から送られてきたものとみなされ,こわがられる

    ことが多い。別名を (devil's)darning needle ((悪魔の)かがり針)といい,

    うそつきの子供はこれで口を縫い合わされるという俗信もある。トンボは

    刺す昆虫だと信じている子供もいてトンボ捕り』をする習慣はない。」

    それゆえ例えば「トンボは悪魔の申し子だ」という発言は日本人グループの

    間ではかなり物議をかもすが,英語圏の人々の間ではより真相に近い発言とし

    て受け容れられることになる。

    第 2の成立要件は「自覚性」である。すなわち「ある言語的表現がうそであ

    るのは,なによりもそれを表現する当の本人の理解する真実(事実)一一一主観

    的真実一ーと背反した場合である。カントはこの点を鮮明にしてうそをこう定

    義する。うそとは『舌にのぼすことと胸におさめであることが別々である』こ

    とであり自分の考えを表現する際の故意の不真実』である」。嘘に関するこ

    (10) 亀山純生『うその倫理額h 大月脅庖, 1997, 33頁。

    (11) 山岸勝栄編集主幹『スーパー・アンカ一英和辞典~,学習研究社, 1997, p 4490

    (12) 亀山純生,前掲香, 35頁。

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  • 943 嘘の所在ーブアブリスと藤十郎 129ー

    の考え方はアウグスチヌスに始まり,スコラ哲学を経て,カント,サルトルの

    西欧哲学にまで受け継がれた。

    「嘘は,違う様に述べる事が,意識的な欺臓の意図と一緒になっている場合

    に,はじめて存在する。ここからアウグスチーヌスの有名な定義が出てく

    る。『嘘とは,いつわりを言う意志をともなった陳述である。』スコラ哲学

    はこの定義をとり入れ,それをヨーロッパ哲学に遺産として残した。」

    「違うように述べる」とは,自己が真実と考える命題 (A)とは異なる命題(非

    A)を述べるということである。

  • 130- 香川大学経済論叢 944

    発的棚上げ(willingsuspension of disbelief)Jを行っているからである。だが

    もし「これはフィクションである」というメタメッセージが同時発信されてい

    ない場合はどうなるか。当然人は,それを真実のメッセージと受け取る。ある

    いはそのようなメタメッセージがなされていない場合には「真実のメッセージ

    がなされる」という「共通の真実基準」が働いている。今,虚言者がメタメッ

    セージを故意に発信せず,自らは無実の人であると信じているにもかかわらず,

    〈この人が犯人である〉と断言するとする。メタメッセージが発信されている

    のであれば,たとえ事実に反する命題であっても事実であるか否かの判定は受

    け手の側に委ねられている。だが彼は受け手に検証権のあることを初めから隠

    している。「この隠蔽は,自らの言説によって他者の誤解を期待し,他者の印象

    を操作しようとする意図と密接に関連して」いる。

    8.心からの嘘,ファブリスと藤十郎

    これまで見てきたように,嘘とは①共通の真実基準を有する者どうしの聞で,

    真実基準に反するメッセージを②自覚をもって相手に示唆または言明し,③真

    の意図は相手に気づかれないようにするという,一連の心の働きであると言う

    ことができる。したがって「私は幸せである」というメッセージはこの働き如

    何で真実にも,虚偽にも,本人の単なる思い違いにもなりうるわけである。

    本節では,このような心的作用が虚と実をいかに巧みに操るものであるかと

    いう視点から 2つの小説を取りあげ,真実基準の共通性,自覚性,秘密性・操

    作性という 3つの要件がどのようにからみあうかを見てゆくことにする。

    最初に取りあげるのはスタンダーノレの『パJレムの僧院』に登場するファブリ

    スの「恋」である。恋の相手はランドリアーニ大司教,学者にしてお坊さん,

    権力の頂点に立つ男である。他方,ファブリスは「イタリアーの美男子の一人」

    でありながら Iこうした年にも似合わず,彼は恋を知らないということができ,

    (14) 月干リ「言語J(特集:ウソの言語学ーウソの意味,ウソの機能), 1996年 3月号,大衆館

    書庖, 20頁。(15) 亀山純生,前掲香, 37頁。

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  • 945 嘘の所在ーファブリスと藤十郎一 -131ー

    そのためますます女から愛された」という,幸福にして純真な青年である。そ

    の青年に,ある日,叔母のサンセヴエリーナ公爵夫人がこんな忠言をする。

    Mon seigneur Landriani, esprit superieur, savant du premier ordre, n'a

    qu'un faible, il veut etre aime: ainsi, attendris-toi en le regardant, et,

    a la troisieme visite, aime-le tout a fait Cela, joint a la naissance, te 。曲

    fera adorer tout de suite

    (ランドリアーニ閣下は卓越した精神を持ち,第一流の学者ですが,ただ

    一つの弱点があります。つまり「人に愛されたい」という欲望です。だか

    ら彼を見たら感動を面に現し 3度目の訪問のときには本当に愛しておし

    まいなさい。そうすればあなたの生まれも手伝って,すぐ可愛がられるよ

    うになります。)

    ここで注目すべきは伶 latroisieme visite, aime-le tout a fait} (3度目の

    訪問のときには,彼を完全に愛してしまいなさい)というくだりだ。ここでの

    「愛する」は単なる敬愛の念,崇拝の情,好意,好感の類ではない。女を心か

    ら愛するように,ランドリアーニ閣下を愛し遂げなさいと叔母が甥に命じてい

    るのである。ところでわれわれの「真実基準」では恋愛の情は自然発生的なも

    のであって,意図的,作為的なものではない。サンセヴ、エリーナ公爵夫人もそ

    のことは承知している。だからこそ,自然発生的と同じように,完壁なかたち

    で,意図的,作為的に愛し尽くしなさいと命じているのである。ファブリスは

    さっそくランドリアーニ大司教の館に馳せつける。ファブリスはもともとミラ

    ノの大貴族デノレ・ドンゴ家の次男なのだが,このときはたまたま「ファブリス

    という若い僧が来た」としか告げられず,面会までに 45分間待たされることに

    なる。大司教はちょうど「あまり品行のよくない」一人の司祭を呼び、つけて叱っ

    ているところであった。

    「その司祭をいちばん下の控え室まで送っていった帰りに w何かご用です

    か』と聞きながら,ちらと紫色の靴下を見,ファブリス・デル・ドンゴの

    (16) Stendhal, LA CHARTREUSE DE PARME, FLAMMARION, PARIS, 1981, pp 97-99 (スタンダ-Jレ,大岡昇平訳『パノレムの僧院J,中央公論社,昭和40年)

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  • 132 香川大学経済論叢 946

    名を聞いたときの,繰り言と絶望をどう描いたらいいだろう。万事わが主

    人公にあまりうまく行ったので,この最初の訪問から,彼はあえて愛情こ

    めてこの聖者の手に接吻したぐらいである。大司教は『デル・ドンゴ家の

    かたを控室でお待たせするなんて!~と何度もなきけない声で繰り返した。

    申し訳に例の司祭の話をくどくど繰り返し,その過失や答弁の様子まで述

    べるのだ、った。」

    2人の愛のその後について,小説はこれ以上触れていない。しかし本稿のテー

    マに関するものとしてはここまでで十分である。ファブリスの「恋」ははたし

    て本物か,虚偽か。

    先に述べたように嘘の成立条件のうち,第 1の「真実基準」という点で彼の

    恋は作為的であり,計画的であり,人為的であって,そのようなものをわれわ

    れは普通「恋」と呼ばない。それは単なる女(男)たらしの動機と変わるとこ

    ろが無い。第 2の「自覚性」という点でも,彼は叔母の言いつけをしっかり念

    頭に置いて行動している(,万事わが主人公にあまりうまく行ったので,この最

    初の訪問から,彼はあえて愛情こめてこの聖者の手に接吻したぐらいであるJ)。

    だがここで lつの疑問がわく。ファブリスの心中にあるものは叔母の言いつけ

    を忠実に守ること(3度目の訪問までに,本気で愛してしまうこと)だけであっ

    て,このかぎりでは,彼の恋は本物の恋と同じではなかろうか。嘘は,心中に

    2つの命題,

  • 947 嘘の所在 ファブリスと藤十郎一 -133-

    いるがゆえに,偽りをまぬがれているのである。

    ファブリスの「同イ七」と,サンセヴエリーナ夫人の「虚偽性J,この両方を体

    現しているのが藤十郎の恋である。「虚実皮膜」は近松門左衛門のことぼとされ

    るが,菊池寛作『藤十郎の恋』は「門左衛門が藤十郎に書きあたえた狂言」を

    迫真の演技をもって演じる話である。藤十郎の鬼気迫る演技はまさに虚実皮膜

    のうちだが,それはただの演技に終わらず一人の犠牲者を生む結果となる。

    あらすじを追いながら物語を見ていくことにしよう。藤十郎は傾城買いの役

    では右に出るもののない名優であった。しかし「近松門左衛門が藤十郎に書き

    与えた狂言は,浮ついた陽気なたわいもない傾城買いの濡れ事とは違うて,命

    を賭しての色事であった」。一歩深く人の心のうちに踏み入った世界をまえに,

    彼は自らの芸の行き詰まりを感じていた。そこに現れたのが茶屋「宗清」の主

    人の女房,お梶である。

    「藤十郎の心にある悪魔的な思い付きがムラムラとわいて来た。それは恋で

    はなかった。それははげしい欲情ではなかった。それは恐ろしいほど冷た

    い理性の思い付きであった。」

    藤十郎の迫真の,しかし偽りの恋の告白に,お梶は覚悟をきめ,行灯の火を

    吹き消す。男の近寄るのをわなわなふるえながら待つお梶。だが今こそと覚悟

    を定めたその時,藤十郎は彼女のわきをすりぬけて去っていく。あとには「人

    間の女性が受けた最も皮肉な残酷な辱めを受けた」お梶だけが残される。

    「この恐ろしい誘惑のために,自分の操を捨てようとした一一→否,ほとんど

    捨ててしまった罪の恐ろしさに,彼女は腸をず、たずたに切られるようでω

    あった。」

    京の大経師の女房おさんと手代の茂右衛門が不義をして,粟田口に刑死する

    までの,のろわれた命がけの恋を元にした,この近松の狂言は大評判を呼び,

    「藤十郎殿は,このたびの狂言のくふうに,ある茶屋の女房を偽って恋をしか

    (18) 菊池寛『藤十郎の恋J (ちくま日本文学会集),筑摩書房, 1991, 98頁。(19) 菊池寛,同書, 109頁。(20) 菊池寛,同書, 116頁。

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  • -134- 香川大学経済論叢 948

    け,女がなびいて灯を消す時,急いで逃れたとの事じゃが,さすがは三国一の

    名人の心がけだけある」といううわさが立つ。そして「こうしたうわさまでが,

    いやが上に,この狂言の人気をそそったおそれから半月後,万太夫座の楽屋の

    片隅の梁に,首をくくって死んでいる中年の女が見、つかった。宗清の女房お梶

    だ、った。それに対し,藤十郎はどう反応したか。物語の終わりの部分で作者は

    次のように役者の様子を描いている。

    「お梶が死んでト以来,藤十郎の茂右衛門の芸は,いよいよさえて行った。

    彼のひとみは,人妻を奪う罪深い男の苦悩を,ありありと刻んでいた。彼

    がおさんと暗やみで手を引き合う時,密夫の恐怖と不安と,罪のおそろし

    さとが,からだいっぱいにあふれでいた。

    そこには,藤十郎が茂右衛門か,茂右衛門が藤十郎か,何の差別もない

    ようであった。恐らく藤十郎自身,人の女房に言い寄る恐ろしさを,肝に

    銘じていたためであろう。」

    ファブリスの場合はサンセヴエリーナ公爵夫人が書いた筋書きを,甥のフア

    ブリスがランドリアーニ大司教相手に演じ,始まりは「虚」であったものが,

    “3度目"には「実」に変わる物語だ。それに対し藤十郎の恋は,-虚」が「実」

    に勝つ物語である。いやそれ以上に,ファブリスと藤十郎の恋は虚実の問題を

    超えてわれわれの精神の働きを極限化した物語と言えないだろうか。

    9.終わりに

    本稿では初めに,日本語の「嘘」は語源的に善悪の彼岸にあると述べた。そ

    してフランス語の場合,嘘を意味する mentirは語源として「心」を意味する

    mentを核にもち,これまた善悪の彼岸にあることを指摘した。 mentirは対象

    辞を持たない自動調であり 1つの精神の働きを言い表す動詞だ。それは嘘と

    いうものが犯罪性と犯罪以前の状態の双方にまたがっていることを示す。嘘と

    は相対的な問題であって,われわれが嘘を定義しようとして結局,その実体を

    (21) 菊池寛,問書, 119頁。

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  • 949 嘘の所在 ファブリスと藤十郎 135

    捉えることができず,とどのつまり嘘はひとつの精神作用であり,同じメッセー

    ジも成立条件次第で嘘にも真にもなりうるというところに落ち着いたのは,そ

    うした理由からである。かくして嘘の問題は,小さくは社会道徳上の問題であ

    るが,大きくはわれわれの精神活動と密接にからみあった問題だと言うことが

    できょう。

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