一八一二年戦争の外交政策 : ”the innocents abroad”...

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一橋論叢 第109巻 第1号 平成5年(1993年)1月号 (140〕 一八一二年 11㌧↓7①-2さo① 青年期を去りゆく子供がそうで 力は、再び家に戻ることはないので Iールイ はじめに1研究の視角 、ノ、 アメリ 一八一二年戦争は、専門のアメリカ史研究者の間 も、あまり人気のあるテーマとはいえない。この戦争 を扱ったドナルド・R・ヒッキーの近著の副題は、 「忘れられた紛争」であるし、ロジャー・H.ブラウン によるこの著書の書評の表題は、「誰が一八一二年戦 争を台無しにしたのか?」である。自らも一八二一年 戦争を扱った研究奮を著しているブラウンは、この戦 争は研究対象として元々限界があり、これからも一部 の専門家や好事家の関心を引くだけであろうと結んで いる。確かに、一八二一年戦争は独立戦争、南北戦争 などと比べれぱ劇的な戦争ではない。この が、多くの研究老の興味の対象とならないのは だといえなくもない。そこでこうした研究状況に鑑 て、ブラウンのいう一八一二年戦争の「元来の限界 (巨ぎ『昌二ぎ岸9-9)」を乗り越えるためにも、アメ リカ一国史を離れてヨーロッバ史に眼を向けることが (1) 必要になるのである。 当時のヨーロヅバは、ナポレオン戦争(一八〇三 〜一四年)からウィーン体制(一八一五〜)への激変 期にあり、またより広い世界史的文脈では、バヅク ス・ブリタニカ(勺費卑岸嘗巨s)の形成期であっ た。一般に、一八二一年といってまず想い浮かぶのは、 140

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一橋論叢 第109巻 第1号 平成5年(1993年)1月号 (140〕

一八一二年戦争の外交政策

 11㌧↓7①-2さo①目房>一旨o}o、「

青年期を去りゆく子供がそうであるように、

力は、再び家に戻ることはないのである。

             Iールイス・

はじめに1研究の視角

、ノ、

アメリ

 一八一二年戦争は、専門のアメリカ史研究者の間で

も、あまり人気のあるテーマとはいえない。この戦争

を扱ったドナルド・R・ヒッキーの近著の副題は、

「忘れられた紛争」であるし、ロジャー・H.ブラウン

によるこの著書の書評の表題は、「誰が一八一二年戦

争を台無しにしたのか?」である。自らも一八二一年

戦争を扱った研究奮を著しているブラウンは、この戦

争は研究対象として元々限界があり、これからも一部

の専門家や好事家の関心を引くだけであろうと結んで

いる。確かに、一八二一年戦争は独立戦争、南北戦争

佳左

などと比べれぱ劇的な戦争ではない。この時代の歴史

が、多くの研究老の興味の対象とならないのは、当然

だといえなくもない。そこでこうした研究状況に鑑み

て、ブラウンのいう一八一二年戦争の「元来の限界

(巨ぎ『昌二ぎ岸9-9)」を乗り越えるためにも、アメ

リカ一国史を離れてヨーロッバ史に眼を向けることが

       (1)

必要になるのである。

 当時のヨーロヅバは、ナポレオン戦争(一八〇三

~一四年)からウィーン体制(一八一五~)への激変

期にあり、またより広い世界史的文脈では、バヅク

ス・ブリタニカ(勺費卑岸嘗巨s)の形成期であっ

た。一般に、一八二一年といってまず想い浮かぶのは、

140

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(141〕 一八一二年戦争の外交政策

ナポレオンのモスクワからの無残な敗走、あるいはそ

れを祝して作曲されたチャイコフスキーの序曲「一八

二一年」であって、英米戦争としての一八一二年戦争

ではないであろう。ましてやボルティモアの戦いの後

に、現在のアメリカ国歌である「スター・スバングル

ド・バナー(星条旗)」を作った、フランシス・スコッ

ト・キー(軍彗oオω8ヰ宍{)の名を想い出す老はほ

とんどいないであろう。アメリカの一八二一年戦争と、

ヨーロッバのナポレオン戦争、ウィーン会議(一八一

四~一五年)との世界史上の重要性の相違から考える

と、一八=一年戦争は欧米国際関係史という広い文脈

で、世界史の激動期の一事件として扱うことによって

こそ、大いに興味深い研究対象となるはずである。筆

者の間題意識は、この点にあった。

 十八世紀末以来、フランス革命戦争(一七九二~一

八〇一年)、ナポレオン戦争というヨーロッバの大混

乱に乗じ、中立国アメリカの貿易は犬いに繁栄した。

だが、当時のアメリカは、超大国として世界に君臨し

た現代アメリカからは、想像もできないほど弱小な新

興国家であった。イギリスの枢密院令(一八〇七年)、

フランスのベルリン勅令(一八〇六年)、ミラノ勅令

(一八〇七年)に代表される英仏間の封鎖戦により、ア

メリカの中立貿易(烏暮畠;冨宗)が受けた大打撃

は、そのことを示す好例であった。これに対しアメリ

カは、出港禁止法(一八〇七年)、通商禁止法(一八〇

九年)、第ニメイコン法(一八一〇年)など一連の「平

和的強制(肩8墨宴①8990冨)」手段により、両国の

対米政策転換を迫るが、それは失敗に終わった。議会

は一八一二年六月一八日、大西洋公海を支配していた

が故に、アメリカに与えた損害も大きかったイギリス

に対し、遂に宣戦を布告した。イギリス外相カースル

レイ卿(-◎aO鶉匡①篶嵩ゴ)は、宣戦決議の二日前の

六月一六日、枢密院令の即時停止を議会で発表してい

たけれど、当時は大西洋横断ケーブルのような通信手

段はなく、アメリカ議会はこの重大な決定を知る由も

なかったのである。

 一八一二年戦争の外交は、開戦から一八一四年末の

ゲント条約調印まで、ヨーロヅバを主な舞台にして展

141

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一橋論叢 第109巻 第1号 平成5年(1993年)1月号 (142〕

開された。イギリスとの講和交渉のために、アメリカ

側が使節団をヨーロソバに派遣しなけれぱならなかっ

たこと自体が、大西洋を挟んだ英米両国の当時の国力

の差を如実に示している。マディソン政権財務長官の

アルバート・ガラティン(>ヨ〕①スO印=黒ま)、ジ冒ン・

クインジー・アダムス(旨ブ=O巨目ξ>O螂冒ω)、ヘン

リー・クレイ(}9qΩξ)といった、次代のアメリ

カ政治を担う独立戦争を知らない第二世代の政治家が、

大西洋を渡りヨーロッバで活躍したことも、心に留め

ておくべきである。

 果たしてこれらの外交官やマディソン犬統領、モン

ロー国務長官らは、夫西洋を挟む国際関係の文脈に自

  パリー

国の力を客観的に位置づけ、そうした見地から外交

を行なったのであろうか。

 ヨーロヅバにおいて彼らに直接・問接に応対したの

は、イギリスの力ースルレイ卿、フランスのナポレオ

ン皇帝、ロシアのアレクサンドル皇帝らであったが、

彼らとの交渉をみる限り、アメリカ側は必ずしも彼我

の国力の差を客観的に認識して、要求を出していたよ

うには思われない。それが可能であったのは、ナポレ

オン戦争後のバックス・ブリタニカ体制下の安定した

国際情勢と共に、三千マイルに亘る大西洋の存在とい

う大きな地理的有利があったからである。通信・交通

手段が未発達の十九世紀には、大西洋が、南部史の大

家C・ヴァン・ウッドワードのいう「無料の安全保障

                 (2)

(守8ω8弓一q)」を提供していたのである。

 一八一二年戦争の外交政策を包括的に扱った薯作と

しては、フランク・A・アヅプダイクの『一八一二年

戦争の外交』と、フレヅド・L・エンゲルマンの『ク

                (3〕

リスマスイヴの講和』という二薯がある。これらに比

し本稿は、アメリカの思潮が対外政策に及ぼす影響を

重視し、それに起因するアメリカの国際関係認識と外

交スタイルに注目した一試論として書かれている。

1 開戦と早期講和の機会

 アメリカは開戦と同時に、イギリスと講和交渉を開

 (4〕

始した。アメリカは、宣戦告知だけでも、イギリスが

態度を変えると考えていたのである。交渉は宣戦決議

142

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{143〕 一八一二年戦争の外交政策

が可決された六月一八日当日より、ワシントンで公使

オーガストス・ジ冒ン・フォスター(>目管ω巨ω-o7目

句◎ω箒『)を相手に始まった。

 フォスターは以前から、親英的な野党フェデラリス

ト党と親しくしており、マディソン政権の強硬路線を

過小評価していた。この高慢なフォスターに対し、国

務長官ジェイムズ・モンロー(言昌鶉竃o胃o①)はカ

ナダ占領をほのめかした。独立後、一八一二年戦争の

頃まで、将来的にはカナダ併合は実現すると信じられ

ていた。また、開戦当初は元老トマス・ジェファソン

(弓ぎ昌鶉忘藏易8)が述べたように、それは「単な

る進軍の問題(與昌胃①ヨ算冨『艮昌胃O巨目胴)」と考え

   ^5)

られていた。大統領ジェイムズ・マディソン(旨昌窃

巨邑尉g)は講和の代償として、(1)枢密院令

(O己①易まOo冒9)の撤回、(2)米国船員の徴発

(ぎ肩窪ω昌①暮)についての交渉、の二つをあげた。外

相力ースルレイ卿は同月ニハ日、枢密院令の即時停止

を下院で発表し、実際、一週問後に枢密院令は撤回さ

れたが、その知らせは大西洋を渡っている最中であ

(6)

った。

 アメリカの意向を受け入れる気のないフォスターは、

本国からの訓令も待たず、二五日にワシントンを去っ

た。その後、イギリスは代理公使アンソニー・ベイカ

i(>暮ぎξ団算R)、西半球全ての英国艦隊を指揮

する提督サー・ジ目ン・ボーレイズ・ウォレン(ω宇

旨巨団實-鍔①ミ彗『g)を通じ、ワシソトンでアメリ

カとの交渉を試みようとした。しかし、マディソンは

ベイカーを公使代理として拒絶し、ウォレンの試みも

失敗に終わった。

 イギリスは枢密院令を戦争の唯一の原因と考え、徴

発は帝国海軍の維持に必要不可欠の伝統的制度である

として、その存続を当然だと主張した。一方アメリカ

は、徴発を自国の海上権(昌ま饒昌①ユ智亘を侵し、

「国家的威信(畠巨昌印;昌O胃)」を傷付けるものだと

して、その廃止を徹頭徹尾要求した。アメリカが徴発

に関し何の権限も持たないベイカーやウォレンを拒絶

したのは、それを廃止する権限を持っリヴァプール卿

(-oa=ぎ暑oo-)内閣と、ロンドンで交渉することを

143

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一橋論叢 第109巻 第1号 平成5年(1993年)1月号 {144〕

      (7)

望んだからである。

 マディソンが宣戦決議に署名して一週間後の六月二

六日、モンローは代理公使としてロンドンに留まって

いたジョナサン・ラッセル(-o自與亭}コ勾一』窃①εに、

開戦後初の書簡を送った。前年二月、公使ウィリア

ム・ビンクニー(奉昌討昌里目斥目2)がロンドンを去

って以来、ラッセルは当地の米国代表の地位にあった。

モンローの書簡は、「我が政府は多大な関心と心から

それを促進する願いを持ちつつ、平和の回復を待ち望

んでいる」と述べていた。彼に示された休戦の条件は、

枢密院令撤回と徴発廃止及ぴ徴発された老の解放であ

った。これらの条件が満たされれば、ラヅセルは「休

戦を取り決める権限を与えられる」ことになっていた。

同時に彼は、上述の条件をイギリスにとって受け入れ

やすいものとするため、米国船舶へのイギリス人水兵

の雇用禁止を提案するように指示されていた。また、

枢密院令による損害の賠償は休戦の条件とはせず、最

終的な講和条約で他の問題と共に取り決める、と伝え

 (8)

られた。

 八月下旬、ラッセルは力ースルレイに指示通りの提

案をした。数日後、力ースルレイはラヅセルに、ジョ

ージ三世(08『潟昌)に代わり為政老となった摂政

皇太子(勺ユコ8宛晶雪け)が、アメリカの条件を「絶対

に認められない」として拒否したことを伝えた。最大

の問題は、やはり徴発であった。力ースルレイは、ア

メリカが休戦の条件としてその廃止を求めることに、

「驚きを禁じ得ない」と述べた。「帝国海軍力の主な源

        や

泉である」徴発を止めるわけにはいかない、というの

である。

 当時イギリスは、ナポレオン打倒に全力を傾けてお

り、徴発廃止は無理な注文であった。しかし、ラッセ

ル自身も報告を受けた下院外交委員会も、イギリスの

                  (9)

対応を侮屠的且つ攻撃的とみなしたのである。力iス

ルレイの返事を受け取ると、即刻ラッセルは、ロンド

ンを会る決意を固めた。九月中旬、彼は帰国の準備を

している最中に、モンローから新たな書簡を受けとっ

た。アメリカは幾分態度を軟化させたけれど、皇太子

はこの申し出を再度拒否した。九月二〇日、ラヅセル

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(145〕 一八一二年戦争の外交政策

はロンドンを去った。自宅での彼との話し合いで、カ

ースルレイが述べたように、ラヅセルは、「この問題に

関するイギリス国民の非常な敏感さと警戒心に気付い

        ^10)

ていない」のであった。

 イギリスはアメリカとの講和を諦めた。初めイギリ

スは、枢密院令を唯一の戦争原因とみなし、戦争は通

信手段の不備から誤って生じたのだと考えていた。し

かし、アメリカが徴発廃止に飽くまでもこだわるのを

知り、講和を断念したのである。イギリスが枢密院令

を撤回した最大の理由は、アメリカがそれに応え、対

英通商制限を止めることを期待したからであった。し

かし、アメリカはそのイギリスの期待を裏切った。実

際、ラヅセルの二度目の申し出について枢密院議長ハ

ロウビー伯(向胃-o{回彗;婁耳)は、陸軍・植民地犬

臣バサースト卿(-oa団}穿膏g)にあてて、次のよう

に述べていた。「〔イギリスの〕代償はそれが講和と通

商のためならば、(少なくともその一部は)前回より受

          (u)

け入れやすいかもしれない。」

 しかし、ラヅセルも彼に指示を与えたワシントンも、

ヨーロヅバ国際関係におけるイギリスの立場を理解し

なかった。彼らは、国際政治における自国の重要度の

低さ老顧みないで徴発廃止に固執し、絶好の講和の機

会を逸したのであった。

n

仏米交渉とナポレオンのロシア遠征

 一八一二年戦争中のフランスは、アメリカと正式の

同盟は結んでいなかったけれど、共戦国(8σ①≡需『・

8↓)であった。フランスは一八一〇年八月、同年五月

の第ニメイコン法(竃8旨,ω更昌鳶)に応じて、ベル

リン勅令(団雪-ま宗ρ8)とミラノ勅令(冒旨目

宗R需)を撤回すると伝えてきた。アメリカは一一月、

フランスの通告を正式に承認した。イギリスは、その

後三ヵ月経っても通商妨害を停止しようとせず、アメ

リカは一八一一年三月、対英輸入禁止を施行した。し

かし、事実上フランスは、米国船舶の享捕や破壊を続

けていた。実際、最終的に枢密院令を撤回して通商妨

害を停止したのは、イギリスの方であった。開戦後、

アメリカは海上権侵害を停止するよう、7ランスに強

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一橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号 (146〕

く要求するようになった。しかし、アメリカはスペイ

ン、ポルトガルでナポレオンと戦うウェリントン公

(U鼻①o{考①旨目阻g)の軍隊に、穀物を供給して

^望

いた。マディソン政権は、一八一一年二月の駐米公使

ルイ・セリュリエ(-o巨ωω⑭;二胃)の着任以来、彼に

通商妨害停止を要求してきたが、フランスは、イギリ

スを利する米国-イベリア半島間の貿易が存続する限

り、それを止められなかったのである。

 ジ目ナサンニフッセルは、枢密院令撤回が明らかに

なった一八一二年六月末、元駐米領事ジャン.バティ

スト・ペトリー(言彗由”冥雲①勺gq)にあてて、次

のように述べた。「ご覧の通り二この政府も、かなり

遅くしぷしぷではあるけれど、無礼な枢密院令を廃止

した」、「私はこの措置が、イギリス海峡のそちら側に

おける、我ら二国の友好と通商を推進する決定を早め.

ることを望んでいる。」七月中旬、在仏公使ジヨール・

バーロウ(旨巴団實一〇峯)はラヅセルに、枢密院令撤回

のニュースは、バリで「快い大騒ぎを引き起こした」

と伝えた。バーロウは八月末、外相バサノ公(旨o宗

団鶉ω彗o)臣下のダルベー公(旨o宗o巴思『①q)に、

ナポレオン(z筍o斥昌)皇帝が「我々の問題に思索の

幾らかでも当て、過去六ヵ月間に私が栄誉を得て彼に

提出した書簡の幾つかに、大臣が答えるべきだと同意

          (13)

してくれるように」頼んだ。

 こうしてバリ政府内でも、アメリカの要請に応じる

べきだという意見が強まった。ダルベーもベトリーも、

東欧に遠征中のバサノに書簡を送って警告した。バー

ロウは九月末、「何人かの無邪気な老」は対米関係悪化

に脅えており、交渉の「成功、それも犬成功に非常に

           ^M)

自信がある」と本国に伝えた。マディソンやモンロー

は、イギリスが敗れて、ナポレオンの専制が全世界に

拡がることを恐れていた。バーロウ自身も開戦前、英

米戦争について、「その戦争について私が抱く恐怖は、

この大陸の現状とその支配老〔ナポレオン〕の品性か

らくるものである」と述べていた。バーロウは、英米

戦争がフランスの世界制覇を助けはしないか、と心配

      (15)

していたのである。

 一〇月中旬、バサノはバーロウを、ナポレオンの越

146

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(147〕 一八一二年戦争の外交政策

冬予定地であるヴィルナ(≦一畠)(現在のリトアニア

首都ヴィリニュス)に招いた。ダルベーの下でバーロ

ウとの交渉に当たったペトリーは、彼の第一印象を温

和で慎重だと感じたけれど、間もなく大変な「質問屋」

で「通商以外何も眼中にない」ことを知った。ダルベ

ーも、バーロウについて「アメリカ的頑固さ(>昌胃・

ざ彗ω巨事O∋鳥詔)を棄てようとしない」と、バサノ

に報告していた。

 一八二一年の秋から冬にかけての東欧での交渉で、

バーロウはワシントンからの指示を守らず、通商条約

の締結に固執した。彼は、それが通商妨害の停止と、

「同等あるいはそれ以上に重要」だと考えていたので

ある。マディソンはこれを良しとはしなかったけれど、

敢えてそれを妨げなかった。一〇月下旬、バーロウは

ナポレオンの意向によるヴィルナヘの招待に関する、

バサノの書簡を受け取った。彼は交渉のこれ以上の遅

延を望まず、冬の到来を目前にして、戦場近くの遠隔

地に行く覚悟を決めた。バーロウは、交渉が、「早く有

利な終結に向かっていると信ずる理由がある」と考え

   (16)

たのである。

 以前よりバーロウは、執勧に通商条約の締結を欲し

ていた。また、アメリカの通商に対する損害賠償につ

いて合意が成立することを、条約締結の前提条件とし

た。バーロウは、ナポレオンのロシア遠征の成功を確

信しており、彼がヴィルナに凱旋すれば、すぐに問題

は解決すると確信していた。結局バーロウは、二週間

余りヴィルナに滞在した。だが一一月末、総勢五十万

に昇るナポレオン軍が、ベレジナ川越えでロシア軍の

ゲリラ部隊に襲われて大惨事に見舞われ、彼の望みは

泡沫と化した。皇帝は、「お前も余もワルシャワに行

くと、彼ら〔バーロウらの一行〕に伝えよ。そして、

                  (17)

彼らをすぐにそこへ送れ」とバサノに命じた。ナポレ

オンのロシア遠征は、余剰穀物を抱えたロシアが、イ

ギリスとの貿易再開を望んで、一八一〇年一二月末、

夫陸封鎖から脱退したのが原因であった。一八二一年

の冬は異常気象で、非常に寒かった。「冬」はまさに口

          ^㎎)

シアの「同盟国」であった。冬の到来を待ちながら、

ロシア国民はナポレオンに対する復警を、虎視眈々と

147

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一橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号 (148〕

狙っていたのである。バーロウの不運は続き、彼はバ

リに戻る途中で体調を悪化させ、一二月二六日、ポー

ランドのザーノウィエク(N彗箏o奏げo)において肺炎

で逝去した。

 仏米交渉が失敗したのは、大部分、ナポレオンがア

メリカ問題を十分に顧みる余裕がなかったことと、バ

ーロウの不運な死による。しかし、もしバーロウが通

商条約・協定に執着せず、賠償問題の最終的解決を急

がなければ、交渉はまとまったかもしれない。「アメ

                 (19)

リカのイデォローグの典型」であった彼は、アメリカ

の対外ムードの代弁老であり、政府もそうと知りつつ

バーロウを公使に任命した。「マディソンの頑固な公

使」バーロウは、ナシ目ナリズムの高まりから教条主

義的になり、柔軟性を失いつつあったアメリカ外交を

象徴する人物だと考えらよう。

III

ロシアの調停

 一八一二年の夏から秋にかけて、徴発問題に関する

アメリカの提案をイギリスは拒否し、早期講和の望み

は消えた。アメリカも英仏両国との戦争は避けたかっ

たので、フランスに対する圧力を弱めた。ジョール・

バーロウの死により、仏米交渉が挫折すると、対英宥

和の兆しが見え始めた。ここで、ロシア皇帝アレクサ

ンドル一世(≧異彗ま『-)による英米交渉調停の申

           (20)

し出が、新局面を作り出した。フランスが衰退して英

露対立が顕在化する中で、露米は政治体制の違いを越

えて協力関係にあった。リヴァプール首相は、「ロシ

ア皇帝は、半分アメリカ人ではないかと心配だ」と述

  (21)

べていた。

 イギリスは、「恐怖だけが彼〔ロシア皇帝〕の心を支

                 売)

配する」と考え、厳しい対露政策をとった。一八一〇

年末、案の定ロシアは、フランス主導の夫陸体制

(Oo鼻巨彗S-ω壱8昌)から脱退した。一八二一年六

月、これに怒ったナポレオンが対露戦争を開始すると、

英露は同盟を結んで二国問の貿易は再開した。故に調

停を申し出た時点で、ロシアにとりイギリスは、アメ

リカと共に通商上の重要な相手であった。アレクサン

ドル一世は、英米戦争がロシア経済に悪影響を与える

148

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(149) 一八一二年戦争の外交政策

ことを危倶し、また両国が疲弊してフランスが覇権を

再ぴ確立することを恐れていた。

 一八=一年九月一八日、外相ルミアンツォフ伯

(Oo冒↓内昌己彗旨婁)は皇帝の命により、コペンハー

ゲン滞在中の駐英代理大使ニコライ男爵(団胃g 亭

;8-昌)に、イギリスに戻り次第、政府に調停の申し

        ^23)

出をするように命じた。同じ頃ルミアンツ才フは、首

府ペテルブルクにおいて、イギリス大使カスカート卿

(■oao印夢S3にも調停を申し出た。九月二〇日、

カスカートは本国政府に、急信でそれを伝えた。翌日、

アメリカ公使ジ目ン・クインジー・アダムズは、ルミ

ァンッォフから調停の申し出をされた。当時、アダム

ズは公式の宣戦通知を受け取ってはいなかったけれど、

本国政府がロシアの調停を歓迎するだろうと答えた。

外相はアダムズに、調停の企図は、既にイギリスに提

示済みであると伝えた。また彼は、駐米代理公使アン

ドレ・ド・ダシュコフ(>邑箒序U竃寿◎く)に訓令

         ^刎)

を送る予定だとも述べた。 .

 一〇月中旬、再度、アダムズは外相と会見した。彼

は、その直前に届いたラッセルの書簡から、ロンドン

での交渉が物別れに終わったことを知っていた。アダ

ムズは外相に、交渉挫折はロシアの調停の必要を確信

させるものだと語った。同じ頃二三フイは、調停をリ

ヴァプールに通告した。リヴァプールは、アメリカで

ウォレンの交渉が継続中なので、この問題は、当座そ

のままにしておくのが良いと考えた。一.一月一八日、

力ースルレイはニコライに、「友好的勢力の介入は、平

                    (25)

和回復を促進するようには思われない」と述べた。イ

ギリスが調停を拒否したのは、外交的勝利を与えるこ

とによって、戦後処理に際しロシアの発言力が増大す

るのを恐れたからである。また、「海洋の自由(事窪・

ま冒o;ぼωsω)」の原則を掲げる回シアに、徴発や

海上封鎖の問題を調停させるのは不利であった。海上

 ヘケモン

の覇老として君臨しようとしていたイギリスにとって、

ロシアは邪魔な存在だったのである。

 対照的にアメリカは、イギリスの返事を待たず、す

ぐに調停に飛びついた。海上権問題に関し、ロシアを

味方にできると考えたのである。」八二二年三月九日、

149

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一橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号 {150〕

半官の『ナショナル・インテリゲンサー(きぎ§、

ぎ迂膏§ミ)』紙がロシア調停の受諾を報じた。そ

の二日後、モンローはダシュコフに、「彼〔大統領〕は

               (26)

調停を喜んで受け入れる」と通達した。マディソンは、,

アダムズ、財務長官ガラティン、上院議員ジェイム

ズ・A・バイヤード(言昌窃>.}黛彗o)の三人を特

命全権使節に任命した。一八=二年七月二一日、彼ら

はペテルブルクに到着した。しかし、同年一一月四日、

カースルレイはモンローに、直接交渉を希望する旨の

書簡を送った。結局、マディソン政権は一八一四年一

         ^27)

月初旬、それを受諾した。一八一四年一月二六日頃、

ガラティンとバイヤードはペテルブルクを去った。

 調停が挫折したのは、ナポレオン打倒に力を注ぐロ

シアが、それをあまり顧みる余裕がなかったことも一

因であった。イギリスの対応は、ヨーロッバ国際政治

上の考慮故だったけれど、同時にアメリカ問題は、「外

務省事務官の骨折りにも値しない小さな煩い」だった

   ^28)

のである。アメリカは、ヨーロッバ国際関係における

イギリス外交を読み誤ると共に、英露両国にとっての

自国の重要性を過大評価した。そして、使節団をペテ

ルブルクに、半年近く無為に滞在させるという失策を

演じたのである。

                   ^29)

   V ナポレオン戦争の終結とゲント講和

   ー

 マディソンはジ目ール・バーロウの後任に、上院議

員ウィリアム・H・クローフォード(峯≡討冒甲

OS婁{oa)を任命した。ヨーロッバ的国際政治観か

らすれぱ、当然彼は、共戦国である仏米の協力関係強

化に尺力するはずであった。しかし、彼はフランスが

通商妨害を止め、過去の損害賠償を払えば、通商条約

を締結すると主張した。一八二二年七月、バリに到着

したクローフォードは、ロシア遠征中のナポレオンの

帰還を待った。だが、彼はライプチヒの戦い(同年一

〇月)後の一一月まで、皇帝に会えなかった。二の時

期のフランスにとって、アメリカ問題は「周辺的

               (30)

(肩ユ昌①S-)」なものに過ぎなかった。フランスの敗

北を決定的にした、ライプチヒの戦いが継続していた

ことを考えれぱ、それは止むを得ないことであった。

150

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(151) 一八一二年戦争の外交政策

 一八一四年四月のナポレオン退位後も、アメリカは

フランス外交を読み違えた。クローフォードは、ロシ

アと共にフランスが、海上権に関しアメリカの立場を

支持すると考えたのである。このような誤った認識に

基づく彼の助言が、一八一四年の夏から秋にかけて、

ゲント(Ω訂暮)に多く送られた。モンローも、クロー

フォードの見解を信じ込んでいた。こうして、イギリ

スと好条件で講和を結ぷことができると、ゲントのア

メリカ使節団は信じるようになった。フランスは、一

八一四年九月のプラヅツバーグの戦い(団津匡① o{

=算誌げ冒智)における、アメリカの勝利を歓迎した。

ウィiン会議でフランスは、イギリス主導に対するバ

ランサーの役割を果たした。しかし、タレイラン

(↓竺2s邑)が力ースルレイの好意によって、フラ

ンスの特権を維持し得たのに明らかなように、ブルボ

ン朝(ルイ十八世)フランスはイギリスに依存してい

た。アメリカは、フランスの運命はイギリス次第であ

ることを見抜けず、「幻想({冒冨望)」のフランス像を

          (班)

思い描いていたのである。

 アメリカは、イギリスの直接交渉提案の書簡を受け

取ってから、一週間も経たない内に返答した。モンロ

ーをはじめとする政府首脳が、その提案をイギリスの

弱気な態度の反映と解釈したからである。イギリスは

米露両扇が組むのを恐れるあまり、調停を拒絶して直

接交渉を提案したと、彼らは受け取った。実際には、

それは国力の優勢に基づく、アメリカに対する強気な

態度の表れであった。モンローの強い愛国心からくる

アメリカ中心主義が、彼の国際情勢を見る目を曇らせ

たのだろう。

 一八一四年春、ナポレオンを倒したイギリスは、「ジ

目ナサン〔ニフヅセル〕にとっておきの痛撃を与えよ

            ^32)

う」とアメリカ打倒を目指した。同年八月末、アメリ

カは、ワシントンのホワイトハウスと議事堂が、イギ

リス軍に焼かれるという犬惨事に見舞われた。一八一

四年七月初めまでに、アダムズ、ガラティン、クレイ、

バイヤード、ラヅセルの五人は、ベルギーのゲント

(ガン)に集合した。約一力月後の八月六日、サー・ヘ

ンリー・グールバーン(ωオ=①コ『くoo邑げ仁『目)、ガン

151

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一橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号 (152〕

ビエー男爵(団賢昌o”冒巨胃)、ウィリアム・アダム

ズ(幸昌討昌>ま昌ω)の三人で構成された、イギリス

使節団も到着した。力ースルレイが、ウィーンに有能

な者を皆遵れて行ったため、何とも貧弱な使節団であ

った。その代表格グールバーンの九十ぺージある自伝

の内、一八一二年戦争についての部分は四ぺージのみ

で、ゲント条約(↓『gξo{oぎ鼻)も=一月二四日で

はなく、一四日に調印されたと書かれている。イギリ

                     菊)

スが、アメリカを非常に軽視していたことがわかる。

 八月八日、交渉は開始された。カースルレイは一八

=二年末、講和条件は〃戦前状態。(冬雲q§§膏

ざ§§)を保持することだと言明していた。しかし、

ナポレオン敗退後イギリスは、現存の米加国境の変更

を望むようになった。イギリスは、北西部に垣久的な

インディアン領を設けることを計画した。最初、イギ

リスはインディアン問題が解決しない限り、徴発など

の海上権問題は交渉しないという姿勢をみせた。力ー

スルレイは一〇月から始まるウィーン会議に向かう途

中、交渉が停滞しているゲントを通り、自国側が要求

を和らげるように指図した。彼はロンドンに対しても、

同趣旨の提言をした。一八一四年一〇月、ロンドンに、

ニューヨーク州北部シャンプレイン湖畔プラヅツバー

グでの敗北の報が届いた。一一月上旬、ウェリントン

は、「戦争の現状から考えると、……アメリカに領土譲

渡を要求する権利はない。……領土の割譲を主張でき

         (別)

ない」との見解を示した。一一月下旬、力ースルレイ

とウェリントンの意見が通って、イギリス側使節団の

主張は和らげられた。実際、ウィーン会議において、

イギリスはロシァがポーランド全土、プロシアがザク

セン地方の割譲を要求するという困難に直面し、アメ

リカ問題を早く片づけることが先決になったのである。

最初、モンローは徴発問題に執着したけれど、ゲント

交渉が開始される頃には、それを重視しなくなった。

徴発は交渉が進展するにつれて、軽んじられるように

なっていった。領土問題は、〃戦前状態”の回復という

ことでほぼ解決した。故に、最終的に問題となったの

は、イギリスのミシシヅビ川自由航行権と、アメリカ

のカナダ沿岸漁業権であった。八月一〇日以来、書簡

152

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{153) 一八一二隼戦争の外交政策

のやりとりしかなかった英米両国の使節団は一二月一

日、再ぴ会談を開始した。アメリカは、イギリスが提

案した漁業権を否定する条項に反対した。

 結局、アメリカはインディァン、徴発、通商妨害の

賠償、漁業権、ミシシッピ川航行権の全てを、条約で

規定しないことを提案した。アメリカの主張は受諾さ

れ、 =一月二四日の夕刻、つまりクリスマスイヴにゲ

ント条約は調印された。条約は翌年二月一四日にワシ

ントンに届き、二日後に上院において全員一致で批准

された。条約の交渉過程で、戦争の大きな原因だった

徴発間題が外されたことに象徴的に示されているよう

に、アメリカは講和時には、当初の戦争目的をあまり

問題にしなくなっていた。結局、この戦争は、アメリ

 サアイ,ル・インタレヌト

カの死活利益をかけた戦いではなかったのである。

何も勝ち得なかったゲント講和が、大いに歓迎された

のはそのためであった。アメリカ国民は、一八二一年

戦争における自国の無力を忘れ、引き分けだった戦争

に、あたかも勝利したかのような対応をみせた。一八

一五年一月八日、アンドルー・ジャクソン(>邑富毫

旨o臣冒)は、ニューオーリンズの戦い(困g巨① oh

2①ξ◎ユ①彗ω)で英国海軍を撃退した。む。だ、戦争終

結の報を受けていなかったからである。ジャクソンは

英雄となった。多くのアメリカ人は、ジャクソンがニ

ューオーリンズで勝ったために、イギリスは講和に応

じたのだと信じたのだろう。それは後に顕著になる、

国際的視野に乏しいアメリカ中心主義的態度による自

国像形成の第一歩なのであった。

                 ^35)

   結ぴ-アメリカ的理想主義の萌芽

 ハリー・L・コウルズは、一八=一年戦争を「酔い

覚ましの戦争(↓思ω◎σ邑長ミ彗)」と呼び、薯名な

アメリカ史家ダニェル・J・ブァスティン(∪竃-①こ.

      ,                   ^36)

}◎o易饒目)は、戦争が幻想をかき消したと主張する。

つまり、対英戦争によって、アメリカは自国の弱体を

自覚したというのである。しかし、必ずしもそうとは

いえない側面もある。フランス敗退後、ヨーロヅバは

                (釧)

英露間のゆるやかな「冷戦」体制にあり、南北アメリ

カ大陸に及んだスペイン帝国は解体した。このような

153

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一橋論叢 第109巻 第1号 平成5年(1993年)1月号 (154

国際構勢の力の真空の中で、アメリカはヨーロヅバ列

強の底力を認識できず、自国中心主義的な自己像を形

成していった。このことを示す一例が、モンロー・ド

クトリン(一八二三年)だといえよう。

 独立戦争の際、「建国の父祖(句O冒昌握霊艘胃ω)」

は、独立宣言にみられる理想主義を保持しながらも、

現実主義的な外交を行なった。一八一二年戦争は、独

立革命から約三〇年が経過し、建国の父祖に代わる新

しい世代が、アメリカ政治を動かすようになった頃に

起こった。宣戦決議を可決した「ウォー・ホーク・コ

ングレス」(第十二議会)で「好戦派(峯彗麸奏訂)」

と呼ぱれた人々も、下院議長ヘンリー・クレイや途中

から下院外交委員長に就任したジ目ン・C・カルフー

ン(-o~O・O巴ぎ冒)など、若い世代に属する老が多

、 つ 二〇

。刀  ナグ

 一八一二年戦争中、外交に携わった人々の多くも、

新しい世代に属しているか、その世代の対外ムードを

代弁していた。彼らは、独立革命の外交(革命外交)

が持っていた現実主義から逸脱した。独立の達成から

暫くは、革命外交の現実主義が維持されたけれど、戦

争の苦難を知らない世代と、対外関係にそれほど気を

使わなくても済む西部住人の台頭によって、それは失

われていった。そして戦争という非常事態の中で、現

実主義の喪失がはっきりしたのである。アメリカは、

独立戦争を経てヨーロッパから隔絶され、「無料の安

全保障」を獲得した。そして、独立に際して辛苦を舐

めた世代やセクション(地域)の影響力が弱まるにつ

れ、国際関係を現実的に把握し得なくなったのである。

 一八二一年戦争の外交政策に、その後次第に色濃く

なる、アメリカ独特の理想主義の萌芽を見い出すこと

は容易である。その理想主義は具体的には、契約杜会

であるアメリカ国内の有り様を、国際関係にも適用し

ようというものであった。一八=一年戦争の外交政策

を通じて掲げられた「海洋の自由」の原則などに、そ

れは反映されている。第一次大戦後のウヅドロウ・ウ

ィルソン(ミ8阜◎毫ミ豪8)大統領の国際連盟創設

は、そうした理想主義が具現化した奥型であるが、そ

の萌芽は、一八一二年戦争の時代に見られたように思

154

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(155〕 一八一二年戦争の外交政策

  (鍋)

われる。

 一八一二年戦争は、アメリカのインテレクチュア

ル・ヒストリー(思想・思潮史)上、十八世紀的な古

典的共和主義から十九世紀的な個人主義的・資本主義

的自由主義への転換点として、重要な役割りを果たし

た。スティーヴン・ワヅツが主張するように、「合衆

国は、十八世紀的共和主義の世界を去って、十九世紀

的自由主義の世界に入るために、戦争という乗り物に

         (39)

乗った」のだといえよう。ナポレオン戦争後、国際情

勢の安定によって、ヨiロヅバとの絶縁体として犬西

洋の存在が強調され、時に自由主義が「絶対主義

    (ω)

(き8巨茅冒)」と化し、それと共に理想主義がアメリ

カ外交を支配していったのである。

 一八二一年戦争当時、フェデラリスト党員の多いニ

ューイングランド地方では、この戦争は侮蔑的に「マ

ディソン氏の戦争(雪H・竃邑}ω旨、ωミ胃)」と呼ぱれ

た。ナシヨナリズムに対する留保が、まだ残存してい

たのである。しかし、一八一二年戦争を経たアメリカ

は、恵まれた国際環境に起因する戦勝ムードに促され

たナシ冒ナリズムを背景に、法治杜会アメリカのイメ

ージに基づく国際法の重視を追求した。一八二一年戦

争の外交政策は、英仏両国に国内法体系のイメージを

投影した国際法の遵守を要求した。それは、ナショナ

リズムによる自由主義の「絶対主義」化の始まりでも

あった。錯綜したヨーロッバ国際関係の現実に、アメ

リカ杜会のイメージを投影するとは、何と無邪気なこ

とか。

 一八一二年戦争中、ヨーロッバに渡ったアメリカ人

      イ ノ セ ン ス

は、そうした無邪気さを代弁していたといえよう。彼

らは、マーク・トウェイン(竃彗汗Hミ與εのいう「海

                (刎)

外の無邪気な人々(-昌O09房>90邑)」(筆者訳)だ

ったのである。一九一〇年代、特にウィルソン政権下

の第一次大戦参戦後、アメリカのイノセンスの終わり

が唱えられるようになり、第二次大戦後、アメリカが

グロiバルな介入主義を唱道するようになると、それ

は一層強く主張された。一九七〇年代のヴェトナム戦

争での敗北、ウォータiゲイト事件の後にも、同様の

見解が示された。イノセンスの喪失については、ノス

155

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(156〕一橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号

タルジックなトーンで語る老もいれば、「イノセンス

のリベラリズムから責任のリベラリズムヘ」の変質と

        (〃)

して賞揚する老もいた。トウェインは因習に囚われた

ヨーロッパ文化を一笑に付し、無垢なアメリカ人を賛

美している。しかし、彼が賞賛したイノセンスは、し

ばしぱアメリカ外交を前述の理想主義に走らせた。

 その意味で、今日なお論議の多いアメリカのイノセ

ンスの終わりは、諸手を挙げては歓迎し得ないまでも、

アメリカの行く末としては納得のゆくものであろう。

 (1) Uo目印巨丙.匡庁汗oき§雨§、県-曽~㌧トき、

 管§s9ミミ (∈}凹目凹一d邑く胃色ξ艮≡巨o尿

 勺8ω9畠oo㊤)一丙o鷺『}-}『o幸貝..幸=o里旨町q-①庄穿①

 ミ彗o{Hoo旨一.、氏§帯ミ吻ぎト§“辻§s雰ざミLo』

  (-=目①-㊤㊤H)一-OOω100べ一

 (2)O.ξ冒幸8庄姜貝..;o>潟o{零巨艘肩①冨.

  巨oP,、ト§“辻§s雰ざ、〔ミ元“ミ“§一①①一H(09--o①o)一

  --畠参照。

 (3一~彗斥>』亘芸9§雨b曹ざ§§ミ§§・

  ミー的-~(}印三昌昌?-oブ目ω=oo=冨}冨窒一H胃㎝)一

  句『&-.向昌o目9昌凹p§“専§“県o}妾“§易bミ

  (zω奏く冒7匡胃8ζ斗一}冨o①俸幸冒5一岩竃)・

(4) 交渉の詳細は、}轟昌oa思『ζ冨一蟹さミ亮ぎ

亀ミ、トき§㎞、向亀ざミ、亀ミ、き“§“膏、吻ざ膏仰-oo』~

1-§ (}①『斥①5く一一⊆目-く①『ω-一くo}O與={o『冒-印}『①ω9

岩賓)一〇ゴ」参照。1の記述も、この薯書に多くを負

 っている。

一5一=雪qま彗9雰ざミ県ぎ§“ミ吻ざ雲

 “ミ、轟き雨ト、§ぎ芝§ざ姜ミ§δoミsミ、§、宇

 ○ミ(㊤くo-ω’z①婁くo『τωρ旨篶『.ωHooo。㊤--oo胃)一<-

 ω彗-一

6一§・き・§§きミ旨ぎ雪言§一膏§・

 -防oψざ§“~寒ミ§§“(き§sミ)一××-戸とoo①、

 邊oo(旨pHgHoo嵩)一き“、.、H甲曽(旨p轟一崖嵩)・

(7) ベイカーとの交渉は、旨巨O轟ぎ昌8内ζ窃①=一

 >自oq.9HgHoo旨一㌧§吋辻§ミωざ討§“葛㌧きミ暗ミ

 尋ミざ§(以後トり、、声と記す)一昌しo。①1。。べ

 を、ウォレンとの交渉は、ミ彗『昌8竃昌;9ω8。

 ω〇一HOO旨一きミー一㎝竃18一…O冒88峯胃鳥P09ーミ一

 Ho0Hドきミ’8?彗一>-{『&-…団す與貝吻§きミミぎ

 豪完“ざ辻oミざき“ミ}、県-oo-N(Nくo尿二}ogo『一一

 =匡9甲oミ貝H8㎝)L一ω竃-竃参照。

一8一竃。昌8a彗窪一こ冒-墨一曇ドトら、、き

 =一蜆oo蜆-oo①一・

(9) 丙目窒①-;oO竃芭o冨印町q戸>=的』戸Hoo-ドきミJ蜆oo㊤一

156

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157) 一八一二年戦争の外交政策

  ○葺一①8品ζO害簿=一ぎ胴’革畠員§}墨㊤-8一

  寄窃①一=o雪昌;9ω①o」一畠員§}畠。。一トミ§涼

  県Oo轟§竃一HN一-Oo目胴.-N庄ω①ωω1(-”戸N9-oo-ω)-㊤ωN

  ーミ.

一10一竃昌§8昏秦一こ巨.きH。。員ト吻1、、戸

  目一蜆oo①一宛目昭①=甘oO凹ω巨①『o凹①目タω①P-ドー㊤一Hoo-ド

  きミーふ旨-竃一9邑①昌印血q=o寄ω邑一ω夢員-。。員

  §}sざ昏留①=8…o目89ω遣;鼻畠貝“㌻ミ一

  8㌣竃.

(n) 目印ミoミσ}3}印艘目易戸ω①oI弓一Hoo冨一雪尿↓oユo巴

冒団昌弩貢ωo§ま色g(軍與己ω里鼻一§①e一

  完患oミ§§“きミ姜h喜冴呉§ミ黒きs逐~竃、ー

  ミ辻ミoざs§ミ尋喜(-冒』g≡.;ω.ρL竃ω)一

  N;戦争が長期化した後、通商制限は有利な講和を導

  き出すために、戦争遂行上の一手段となった。

Uo量5肉.雪鼻睾、>冒&o彗箏ぎ①雰ω巨〇一ざ易

旨ユ長享①ミ彗o片畠員..さミ§ミ県㌧§§、o§

雰ざ§g二(忌〔.-竃-)}-司-睾

(12)ミー軍8昌彗3冒P..↓訂>昌①ま彗O邑自

宇注二〇亭①留彗季}昌一富巨戸崖昌-畠貝.。㌧§ミ一

  }§ミ婁ざミ.§、きき§.墨」(Oo↓」oS)L』-宣参

  照。

(13)昏窃①=8~弩く」冒‘ωP畠畠一霊ユo峯8彗ω1

  邑こ目=♪崖嵩葛胃一〇峯8冒豪曇>E胴.罫H。。長

  ○目〇一〇〇-昌O=弍oH庄■-向胴団貝>““き雨、き亀〔“>“「§、.・

  ~§O-㌧§ミ§きざま.O§畠轟-畠曽(霊↓昌

寄長?-g邑彗凹ω§①c邑く婁ξ軍窪一嚢ω)一

  -ooH.

(u)oき雪oq8霊詔彗9ω⑦o.員嵩旨一屠ξε

  霊窃彗9ω①ol員畠-N三=o8巳己三長軍彗戸..旨①一

  霊まき…印象昌,ωω巨事o;;邑ω華一、、§“ミト

  、ぎ§亀s、きミ9§き、膏一ω『oω①『’H㎝二(09」旨oo)一

宝3霊『一…8竃ぎぎ貝ω①olN9畠旨一霊『一姜8

昏昏霊まヌω①ol罫畠-ドεo8三目拝§§.n

  の記述は、イーガンとブラントの著作に負うところが

  多い。

(15);彗88ω.宍岩一彗一..宰彗8彗o穿①ミ彗o{

曇“..旨ミ§良県㌧§豊§ミ雰ざ§雪二(』冒①

畠εら凹色員霊ま峯8竃ぎ涼昌一害『.員曇ド

信g&巨甲彗FおΦ.

(16)Oき胃困8霊銘彗oこ昌.H仰曇N二ε匡5

§>宝ω一霊『一;8望ωω彗9竃ξ戸畠員トり、

勺戸員8㌣霊窃彗o8団胃一〇ヌooけ戸曇ド

ミ}8†霊『一;8竃O目昌900け.員崖HNしミ‘一

 雪ω-oム.

(17)ξ亘①昌8霊窃竃9Zoく.軍曇N一εo重ま

157

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橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号 (158〕

 宰彗Fと鼻

(18)向鍔彗一畠卜

(19)ζq彗一ω9

(20) 『『}目斥>.Oo巨q一.、↓巨①丙巨詔旨目O津o『o{雲①昌亭

ま三目亭①奉胃o{畠員,、き§§、卑“§sc§き喜一

 曽一ω(ω召■岩崖)LO.O-㊤-.mの記述は、この論文に負

 うところが多い。

(21)旨巨,皇ω3婁9氏萎“亀-§吻§ミS}§

 §、き“§害、ωざ雲-.トミぎ膏§ミ“§雰ざミ

  (Z①冬ko『斥一峯箏⑦さ-㊤べoo)一㎝1o〇一ピーくo『ooo-“oO凹9-

一§鍔戸ω夢き曇戸>ま員ω①8目」旨訂o{

奉①≡目阻旨一①庄’吻§蕎§§ざミb慧亀§・μ9§-

書ミ§§§、き§§ミき県ミ雨、、きδぎ、㌧き-

  ミ§ぎミ§ミ亮、§宍ρ(Hコ〇一ω’-昌庄昌一

  旨巨書員冨き嵩墨-嵩s)一-〆s-.

(22)ωマぎ昌9ω童召80①o轟①O巨罵易も;ま

○罰8{昌↓墨量一)oρ員H。。量きs§〔喜沫ミ

  ま§ミ這し零-撃

(23)昏邑竃§二〇;8ξ一ω書量富員、.■等婁

邑き長ざ幕看。目o豪↓一昌ω斗9雪戸畠嵩-曇戸、

  ふ§§.O§婁ざ、ミ尋e“§一昌」(OO斤岩εL8-

  HO-

(刎) ω①P Nポ ーoo-N一〇プ凹二①ω 句H印目o尿 >ら閏昌9 ①ら二

き§ぎミさぎ§ぎQ㌧き§(旨く〇一ω1㌔…邑①一・

冒デ=君ぎO員富ざ-畠3L一§-冒一ま螂ヨω8

 竃o目『o9ωoOIωP-o0HN一一くo『↓ブー目阻o目O.}o『P①O’

§“董ミ§ミ旨ぎ9ぎ§ト§§一~〇一ωjz婁

くOHτ竃胃昌…彗L㊤Hω-岩-↓)L<一竃O-㊤ご>註妻

8…O胃09忌ρ戸崖旨一ト吻.、、記j昌一竃㌣睾

(25) >o印昌ω ↓o …o目HoP Oq. H一 きミニ ①N㎝.N①・

;8一ξ8丙仁ま曽訂oく(一八一二年一一月四日着)一

 、,巨①易……一、、-昌-旨・力ースルレイの言葉は、oo--

宗■竃Nより。

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(28)ヨ潟一昌彗しo.

(29) Wの記述は、次の薯作に負うところが多い。

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一八一二年戦争の外交政策1159〕

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(35) 本稿における理想主義・現実主義の用語は、E・

 H・力1が両大戦間の国際関係を論じた際に用いた概

念を援用している。詳しくは単甲O彗’§“

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冒胃昌昌彗しま&.L竃①)し-昌〔井上茂訳『危機の

 二十年-国際関係研究序説1』(岩波現代叢書、一

九五二年)、六-一四〕参照。

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(37) アーネスト・R・メイ編(中屋健一監訳)『アメリ

 カの外交』(東京大学出版会、一九六八年)、二。

(38) 新興共和国時代の外交と二十世紀アメリカ外交と

 の共通性については、ジェファソンの伝記宛oぼユ幸・

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 ジェファソン外交は、ウィルソン外交の前兆であった。

 §“〉8占.ウィルソン外交の「遺産」であるアメリカ

 外交の理念を、冷戦初期アメリカ外交と国連との関係

 に焦点を当てて実証的に論じた研究として、西崎文子

 『アメリカ冷戦政策と国連H㊤島-岩雪』(東京大学出版

会、一九九二年)が大変輿味深い。当時の外交指導老

 は、「アメリカの大義と国連の大義は同一である」とみ

 なした。前掲書、一九八。

(39) oo試く9奉黒亘§“氏患ミミ“o完“ぎ§㌧§、§、

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(160〕一橋論叢 第109巻第1号 平成5年(1993年)1月号

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 零碧①旨畜冒く斥-岩雷)』o。[ルイス・ハーツ(有賀

貞・松平光央訳)『アメリカ自由主義の伝統』(有信掌

 一九六三年)、四六]

(41) §ミ』[邦訳書、六]・§“ぎ§、§沫』㌻§亀、(一

 八六九年)は、周知の通り、トウェインのヨーロッ

 パ・聖地旅行記のタイトルである。

(ω)本間長世『理念の共和国』(中央公論社、一九七六

年)、二六五-二七三及ぴ同薯老『アメリカ史像の探

究』(東京大学出版会、一九九一年)、七-八、一五、

 二八八。

(付記) 本稿は、アメリカ研究振興会の助成を得た研究

の一部である。ここに記して感謝の意を表したい。

           (一橋大学大学院博士課程)

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