存在の真理と最後の神 ·...

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存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における 63 キーワード ハイデッガー、最後の神、存在、存在の歴史、真理、アレーテイア、始元 KEY WORDS Heidegger, the last God, Being, History of Being, Truth, , Origin 要旨 本論文の目的は、1936 - 38 年の間に執筆され、1989 年に初めて公刊された『哲学への 寄与』においてマルティン・ハイデッガーが語った「最後の神」が如何なるものであるか を理解し、彼の存在の思索に位置付けることである。この時期、ハイデッガーは存在を 真理として理解する。「存在の真理」とは、存在が隠れと開示、非現前と現前、瞬間と滞 在などの相反する構成要素の「対振動(Gegenschwung)」として生起することを意味する。 また、存在の真理は存在の「歴史(Geschichte)」として現成する(wesen)。最後の神は、 このような存在の真理において理解される。最後の神は、対振動を構成する役割の一端 を担い、存在の歴史を発動させる神、或いは、歴史の「始元(Anfang)」の「自己発動 (Insicheinschwingen)」を意味するのである。 SUMMARY The aim of this article is to clarify Martin Heidegger’s notion of the “last god” by placing it in the fabric of his ontological thinking. Heidegger made this notion public in Beiträge zur Philosophie that was written during 1936-38, but published for the first time in 1989. In this 存在の真理と最後の神 ――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における Truth of Being and the Last God in Martin Heidegger’s Beiträge zur Philosophie 上原 潔 Kiyoshi Uehara

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存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

63

キーワード

ハイデッガー、最後の神、存在、存在の歴史、真理、アレーテイア、始元

KEY WORDS

Heidegger, the last God, Being, History of Being, Truth, , Origin

要旨

本論文の目的は、1936-38年の間に執筆され、1989年に初めて公刊された『哲学への

寄与』においてマルティン・ハイデッガーが語った「最後の神」が如何なるものであるか

を理解し、彼の存在の思索に位置付けることである。この時期、ハイデッガーは存在を

真理として理解する。「存在の真理」とは、存在が隠れと開示、非現前と現前、瞬間と滞

在などの相反する構成要素の「対振動(Gegenschwung)」として生起することを意味する。

また、存在の真理は存在の「歴史(Geschichte)」として現成する(wesen)。最後の神は、

このような存在の真理において理解される。最後の神は、対振動を構成する役割の一端

を担い、存在の歴史を発動させる神、或いは、歴史の「始元(Anfang)」の「自己発動

(Insicheinschwingen)」を意味するのである。

SUMMARY

The aim of this article is to clarify Martin Heidegger’s notion of the “last god” by placing it

in the fabric of his ontological thinking. Heidegger made this notion public in Beiträge zur

Philosophie that was written during 1936-38, but published for the first time in 1989. In this

存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』におけるTruth of Being and the Last God in Martin Heidegger’s

Beiträge zur Philosophie

上 原   潔Kiyoshi Uehara

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基督教研究 第66巻 第2号

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book Heidegger considers Being as “truth” (ALETEIA). “Truth of Being” means that Being

arises as “counter-resonating” (Gegenschwung) between elements of opposition, for example,

between concealment and disclosure, absence and presence, passing and staying. In this way

the truth of Being forms itself as “history”(Geschichte). The last god must be understood in

this context. The last god is a god who plays a role in the “counter-resonating” and originates

the history of Being. The last god means “resonating unto and in-itself” (Insicheinschwingen)

of the “origin” (Anfang) of the history of Being.

1.序

────────────────────────────────────

存在と神は伝統的に神学、哲学の中心問題であった。古代教父哲学及び中世のスコラ

学はもとより、その学的基礎となったアリストテレスの第一哲学においても、存在論と

存在の第一原因を扱う神学の二重体制が取られ、不可分とされている。形而上学はその

出発点において既に「存在‐神‐論(Onto-Theo-Logie)」であったと言える。

このような形而上学の構造を解体し、存在を新たに問い直した哲学者としてマルテ

ィン・ハイデッガー(Martin Heidegger)の名が挙げられる。ハイデッガーは「存在と

は何か」と生涯にわたり問い続けた哲学者である。周知の通り彼の「存在の問い」はそ

の途上で大きく変遷する。それに伴い「存在と神」の問題もまた変遷する。例えば、サ

ルトルが「無神論的実存主義」1 と評したように『存在と時間』は伝統的な哲学や神学

から見れば極めて宗教的色彩を脱色した方法論を採る。しかし一方で、いわゆる後期

哲学に触れる者は「神」や「神々」という語が彼の思索において重要な位置を占めてい

ることに気付くのである。自己の哲学の立場を「無‐神論的(a-theistisch)」(GA61,197)2

と呼び、哲学は「神に刃向かうことになることを知っておかねばならない」3 とまで

言い放った若き日のハイデッガーが、晩年には哲学者として神を語り、「かろうじてただ

或る神(ein Gott)だけが我々を救うことができる」(GA16,671)とまで述べるのである。

それ故、晩年に語られた神とは何であり、彼の存在の問いに如何に位置付けられてい

るのかと問うことは、ハイデッガーの思索を理解するのに必須のことである。しかし、

この「神」は、しばしば「後期哲学=神秘主義的」と揶揄されるような存在の問いにおい

て極めて不明瞭且つ詩的な装いで突如として登場する。この読者を惑わせてきた神の問

題に対して『哲学への寄与(Beiträge zur Philosophie)』(1936‐38年執筆。以下『寄与』

と略記)は光を投げかける。何故なら、1989年になって初めて公刊されたこの書物では、

1936年以降彼の思索を導く「性起(Ereignis)」をはじめとした基本概念の展開において、

「最後の神(der letzte Gott)」と表現される「神」が重要な位置を占める形で語られてい

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存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

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るからである。つまり、『寄与』における性起と最後の神とを理解することは、晩年語ら

れた「神」と、その存在の問いへの位置付けを理解するための手掛かりとなるのである。

むろん、性起や最後の神を理解するためには、それ以前の彼の思索を理解している

ことが必要となる。とりわけ神の問題に対しては、O・ペゲラーが伝えているところの

『存在と時間』出版直後の数年の間にハイデッガーが襲われた「神が『死んだ』という基

礎経験」4や、1933年学長就任演説『ドイツ大学の自己主張』で語られた「神の死」の問

題、その時期に並行して現れるいわゆる「形而上学構想」や「マナ表象」、「超力的なもの

(das Ubermächtige)」、「神話」、「聖なるもの」への言及は重要である。しかし、これらの主

題の説明はどれをとっても、それだけで一つの研究論文を必要とする。従って、本稿で

は『寄与』における「最後の神」が何であり、それが存在の思索とどのように関係してい

るのかということを、必要に応じて1936年前後の著作や講義を参照しつつ把握すること

で満足したい。

2.存在

────────────────────────────────────

前述の通りハイデッガーは生涯一貫して「存在とは何か」と問うたが故に、彼の哲

学における一切は存在の問いと不可分である。従って、最後の神の解明に先立ち、存

在の問いの理解が必須となる。それ故に、先ず『寄与』の時期に展開された存在の思

索を、最後の神との関連で重要になる諸概念から把握する。

2-1.真理・非‐覆蔵態・アレーテイア

ハイデッガーの思索は『寄与』の執筆され始めた1936年に大きな転換点を迎える。

この年について『「ヒューマニズム」に関する書簡』では次のように述べられている。「こ

こで言われたことは、……存在の真理(Wahrheit des Seins)を単純に言おうとする試み

の『瞬間』の内で、1936 年に始められた或る道を辿るという試みに基づいている」

(GA9,Anm.9)。更に、1969年のル・トールのゼミナールでの発言、即ちハイデッガー

の「思索の途上における三つの歩み」(GA15,344)を合わせて考慮すると、『寄与』の執

筆を開始した年からの数年間において、ハイデッガーは存在の問いを「真理(Wahrheit)」

を中心に展開していたことが分かる 5 。

しかし、ハイデッガーは一貫して存在を「手前にあること(Vorhandensein)」とする考え

を退けるため、存在の真理ということで、通常考えられるところの認識する主観と手前に

あることとしての存在の間の合致という「正しさ(Richtigkeit)」が考えられているのでは

ない。むしろ、ハイデッガーは真理概念を古典ギリシア語にまで溯って考える。ギリシア

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語において真理は「アレーテイア( )」と言う。そして、ハイデッガーはこのアレ

ーテイアという語には主観と客観の合致としての真理概念が成立する以前の、より根源

的な存在の経験が隠れていると考える。ハイデッガーによると、アレーテイアとは、一切

の物事を包括する概念である「ピュシス(自然 )」の根本規定であり、そこからギ

リシア人をギリシア人たらしめていた存在の経験を意味するのである(Vgl. GA45,126)。

このアレーテイアの基本的な特徴は、この語のドイツ語翻訳に表れている。ハイデッ

ガーはアレーテイアを「非覆蔵態・隠れなさ(Unverborgenheit)」と訳す。これは、ア

レーテイアの を「否定接頭辞 」と考えることに由来する。つ

まり、ハイデッガーはアレーテイアを「レーテー(覆蔵態・隠れ )」の「欠如」

状態、つまり「非‐覆蔵態・隠れ‐なさ(Un-verborgenheit)」であると考えるのである。

このような翻訳作業から次の理解が生じる。つまり、アレーテイアとしての真理は、根

本において「覆蔵・隠れ(Ver-bergung)」を「露開(Ent-bergen)」させるという「欠如的

(privativ)で否定的な(negativ)性格」(GA34,126)を持ち、この両者の間の「抗争

(Streit)」の内で生起するということである。それ故に、ハイデッガーは存在の真理とい

うことで、存在が以上のようなアレーテイアとしての真理の性格を持つということ、厳

密に言えば、存在が本質的にアレーテイアとして生起するということを表現しているの

である。なお、『寄与』の本質的なタイトルであり(Vgl.GA65,3)、それ以降「思索の主

導語」(GA9,316)となる「性起(Ereignis)」6 や、十字符をつけられた存在、また〈Seyn〉

と表記される存在は、以上の性格を持つ存在にハイデッガーが与えた術語である 7 。以

下では真理としての存在を更に立ち入って理解する。

2-2.現成・開示・自己覆蔵

真理としての存在は、以上のアレーテイアの性格から動的な様相を持つ。このことは

『真理の本質について』において次のように述べられている。「真理の本質への問いは、

本質の真理への問いから発源する……真理の本質は本質の真理である」(GA9,201)。こ

れは一見すると、「真理の本質(Wesen der Wahrheit)」を「本質の真理(Wahrheit des

Wesens)」と単にひっくり返しただけと思われるが、実はここに重要な洞察が潜んでいる。

ここでハイデッガーはこの〈Wesen〉という語を「動詞的に『統べる(walten)こととし

て』」理解している(ebd.)。つまり、〈Wesen〉は動詞的に「現前する(Anwesen)」の

〈Wesen〉であり、そこから「現成する」という意味を持つこととなる。つまり、「真理の

本質」とは「現成の真理」なのである。ハイデッガーによれば、ギリシア人はピュシスを

「それ自身において明け開けの中へ立ち現れること(das Her-vor-gehen)であり、『こちら

へ進み出てくるもの(das Her-vorige)』として『前からのもの(das Vor-herige)』、自ら明

け開けの中へと現成するもの(das Wesende in die Lichtung)であり、こうして初めて人

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間へ向かって現成してくるもの」(GA6.2,293)として経験していた。このような動的な

ピュシスの根本規定がアレーテイアである。真理としての存在とは、源泉から水が湧き

出すが如く「覆蔵態・隠れ」が裂開して、そこから一切の物事が現成・出来する事態を

意味するのである。

この覆蔵態が裂開・現成する場、前引用文では「こちらへ進み出てくるもの」の「こ

ちら(her)」や「明け開け(Lichtung)」と呼ばれていたものこそが「現存在(Dasein)」で

ある。『存在と時間』においては、現存在は人間という存在者とほぼ同義の意味で使用さ

れていたが、存在の真理を語る『寄与』の時期においては「存在の現(Da des Seins)」、

「現‐存在(Da-sein)」、「存在の明け開け(Lichtung des Seins)」という表現で、存在が

現れてくる存在の「そこ(Da)」という意味が強められる。むろん、現存在と人間は無

関係ではない。むしろ、「現存在は人間を人間の可能性において際立たせる存在であ

る」(GA65,301)。しかし、ここでの人間とは現代的な「人間学の対象」(GA45,214)と

なる人間や、客体としての存在に対する主体を意味しない。真理の場合と同様に、ハイ

デッガーは人間を、ロゴスを持った生き物、つまり、「ゾーオン・ロゴン・エコ

ン 」というギリシア的人間規定にまで溯って考える。それ故、

先の人間の可能性とは「ロゴス(言葉 )」のことである。しかしながら、このロ

ゴスもまた、通常考えられる単なる伝達手段、人間的主体に付随される一能力、理論的

な悟性能力といったものを意味しない。ギリシア的な意味でのロゴスの本質とは、ピ

ュシスを「絶えずこちらへ到来させ、現前性において立たせることであり」、それによ

りピュシスが「まさにそれ自身へと立ち返って自立させられる」ようにする契機であり

(GA45,139)、またピュシスの動態を「レゲスタイ(集結する )」、「集める

(versammeln)」ことを通して現前させる契機なのである。詳細を追うことは出来ない

が、いわゆる後期ハイデッガーは「言葉とは存在の棲家である」(GA5,310)という簡

潔な叙述に見られるように、言葉こそが存在の開示の場であると考えるのである。

「言葉において存在者の開示が行われる。すなわち、……根源的露開(Enthüllung)そ

のものが行われるのである」(GA39,62)。ロゴスをその本質とする人間は存在の「現」へ

と晒し出され、現存在という明け開きの「中に立つ状態(Inständigkeit)」においてその本

来性を発揮する。その意味において人間は「存在の真理を根拠付け、守護するもの」

(GA45,214)であり、また「存在の牧人(Hirt)」8 (GA9,331)と表現される。「存在はそ

れが現成するために人間を必要とし、人間はその究極の規定を現‐存在として成就す

るために存在に帰属するのである」(GA65,251)。

このようにして覆蔵態は非覆蔵態となるのであるが、その際、存在の真理において

は非覆蔵態よりも覆蔵態の方がより根源的であるという点が重要である。「全体として

の存在者の覆蔵態、つまり本来的な非‐真理は、この存在者とかあの存在者とかが開

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示されることがいかなることであるにしても、そのことよりも一層古い」(GA9,193)。

このことから、非覆蔵態という開示が覆蔵態を露開し尽くしてしまうのではないとい

う事態が生じる。「非覆蔵態は覆蔵態を食い尽くすのではなく、非覆蔵態は絶えず覆蔵

態を必要としており、そのような仕方で覆蔵態をアレーテイアの本質源泉(Wesensquell)

として確証する」(GA79,49)。確かに、覆蔵態は非覆蔵態の明け開けに至り、そこに

一切の存在者が存在することとなるが、同時に覆蔵態は覆蔵態として非覆蔵態を「拒

絶(Verweigerung)」し、その明け開けから「脱去(Entzug)」するのである。既に述べた

ようにアレーテイアは抗争的な性格を持つ。真理として現成する存在は開示に対する

覆蔵的性格として「無(Nicht)」や「無化(Nichtung)」といった契機を孕むのである。

存在は存在者を「現」に有らしめる(da sein lassen)。しかし、「現」に有るところのも

のは存在者であって、存在者を開示させる存在そのものは無の如くに脱去する。あた

かも存在者のみが有るように思われるのは、存在者は存在する(Das Seiende ist.)から

であり、あたかも存在など「無い」かのように思われるのは、存在は現成する(Das

Sein west.)からである9。このような存在の自己覆蔵をハイデッガーは「存在棄却

(Seinsverlassenheit)」――存在が存在者を見捨てる(verlassen)こと――と呼び

(Vgl. GA65,111)、存在の真理において重要な位置を与えている10 。しかし、以上の説

明からも解るように、覆蔵態は単なる非現前としての隠れを意味しない。むしろ、ロゴ

スに先立つより古いものという意味での「語り得ないもの」を意味し、一切がそこから

出来してくるという意味での「豊饒」を意味するのである。

以上のように現存在は存在の開示の場となることを存在から求められ、反対に

(umgekehrt)、存在は現存在を開示の場とすることによって現成する。この関係が「転

回(Kehre)」11 と呼ばれ、『寄与』以降の重要概念のひとつとなる。「現‐存在があると

ころ、あるときにのみ、存在の真理と存在そのものは現成する。真理の存在があると

ころ、あるときにのみ、現‐存在は『ある』。存在そのものの現成を、自己の内で対振

動する性起(das in sich gegenschwingende Ereignis)として告知する一つの転回、まさに

転回そのもの」(GA65,261)。もっとも、この転回は現存在と存在という個別的な二つの

極が前もって独立して存在しており、それからそれぞれが互いに転回的に関りあうとい

うものではなく、また、隠れと開示という独立した二つのものが転回的に関りあうとこ

ろに存在が生じるというわけでもない。「というのも、このような合わせたものや両者自

身が性起において初めて振動させられるからである。性起においては性起それ自身が対

振動において振動する。性起の転回におけるこのような振動の震え(Erzittern)が最も

覆蔵的な存在の本質である」(GA65,262)。つまり、存在が現存在を必要とすることと、

現存在が存在へと帰属すること、或いは、隠れと開示が抗争的に転回することは、存在

の真理の根源的な出来事における二つの契機であり、存在そのものが「対振動

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(Gegenschwung)」として両契機を「運び‐出す(aus-tragen)」のである。

2-3.存在の歴史

以上が存在の真理の最も基本的な性格であるが、次に「存在の歴史(Geschichte des

Seins)」或いは「存在史(Seynsgeschichte)」という概念を把握してみたい。というの

も、この概念の理解は最後の神を理解するのに必須であるのみならず、『寄与』やそれ

以降の著作で展開された現代批判やキリスト教批判とも密接に結び付いているという

点においても重要だからである。

歴史は既に『存在と時間』の時期でも語られている。その場合、歴史は人間とほぼ同

義の現存在の時間性に由来していた。そこでは、「現存在がある限りにおいてのみ存在は

与えられている」(GA2,212)という洞察に基づいて、「存在理解の歴史性」(GA26,197)

という表現がなされるように、歴史は人間の存在理解の変遷という意味を持っていた。

存在の真理においては、この関係は逆転して「投企において投げるもの(das Werfende

im Entwerfen)は人間ではなく、……存在そのものである」(GA9,337)と述べられる。大

雑把に言えば、前者においては歴史の「主体」は人間であり、後者においては存在であ

る。つまり、存在の歴史、存在史とは人間が存在をどのように理解してきたのかという人

間の歴史ではなく、存在そのものの現成が歴史として出来することを意味するのである

(GA65,479)。歴史とは、存在が自らを現存在へと贈り届ける(zuschicken)その贈りと

しての歴運(Geschick)なのである。しかもその場合、存在の現成が歴史という時空間の

内部で展開するというのでなく、根源的には存在の現成が歴史という「時‐空(Zeit-Raum)」

を形成するとハイデッガーは考える12。以下では、この存在の歴史を具体的に把握する。

a)始元(Anfang)

存在の歴史において最も重要であるのは「始元」である。「始元」と訳した〈Anfang〉

というドイツ語が「始まり」や「発端」を意味するように、始元は存在の歴史の始まりで

ある。しかし、この始元は直線的な時間概念における「開始(Beginn)」とは大きく異な

る(GA39,3)。前述の通り、存在の現成は時空内部的に生起するのではなく、存在の現

成そのものが時空を形成すると考えられるために、存在の歴史の始元は、そこから一切

の物事が裂開して顕わになってくるような生起、歴史的、時間的に展開されることとな

る一切の事柄を前もって内に包括する生起を意味する。「始元とは自ら建立しつつ、前

もって把握しているもの(das Sichgründende Vorausgreifende)である」(GA65,55)。それ

故にまた、始元は唯一性を有し、追い越すことができない固有のものであると考えられ

る。このような始元の性格から、ハイデッガーは存在の歴史の始元は「瞬間(Augenblick)」

において生起すると考える。むろん、ここでの瞬間は通常考えられるところの極めて

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短い時間のことを意味するのではない。繰り返しになるが、始元は時間内部的な生起

ではないので、この瞬間は因果関係を前提にする時系列における瞬間ではないのであ

る。むしろ、これはカイロス概念や、時空を切り開くところの「震え」や「振動」の発

動を表現したものと言えよう 。例えばこのことは、ハイデッガーのヘルダーリンの詩

『エーゲ海』の解釈から明らかである。そこでは、この瞬間概念をヘルダーリンの「引き

裂き行く時(die reissende Zeit)」という語に見て取り、それが現在、過去、未来の中へと

引き裂かれるところに「同一のもの」が生じると解釈しているのである(GA4,39)。

b)始元からの立ち去り(Fort-gang)・没落(Untergang)

始元において存在は歴史として展開し始める。そして、この一切の物事を前もって

内に含んだ始元が、展開、即ち「襞を‐分かつ(Ent-faltung)」ことによって歴史が生じ

る。その際、ハイデッガーは存在の歴史の運行が「始元からの立ち‐去り」(GA6.2,444)、

或いは「没落」を歩むと考える。これは以下の二点に由来する。

第一に、これは存在の真理の性格に由来する。前述の通り、真理とは隠れと開示の

抗争的関係であり、根源的には覆蔵態がその源泉である。そこから真理としての存在

は非覆蔵態としての歴史の中で自らを覆蔵し、存在棄却が起こるのであった。存在の

歴史の始元においては一切の物事は隠れと開示の抗争的関係、つまり、アレーテイア

を根本規定とするピュシスとして経験されていた。そして、その始元が歴史という開

示の場で展開されるに従って、覆蔵態は自らを開示の場から脱去させ、開示の場から

文字通り「忘却 」されるのである。それ故に、存在の歴史は、隠れと開示の抗

争的関係としての真理という本来的な存在の現成から見ると、始元からの立ち去り乃

至没落の歩みをなすのである。

第二に、これは始元の瞬間性に由来する。一切の物事を存在せしめるところの生起は、

始元の瞬間において発動した震えや振動であるが、前述の通り、このことはまた、転回

的に覆蔵態が非覆蔵態へと、隠れが開示へと至ることをも意味する。つまり、存在は

「瞬間的」な動態を、現存在において「留まらせる」ことによって同一性を持つ存在者を

存在せしめるのである。このことを存在史的に見るならば、次のようになる。存在は始

元において自らを現存在へと送り届ける。現存在は覆蔵態を転回的に「エポケー(停止・

留まること・停滞期 )」し、そこに「時代・エポック(Epoche)」が形成されるの

である(Vgl. GA5,338f.)。始元は「瞬間」において生起するが、一切を前もって内に含む

ところの始元が現に時代として展開されるには、現存在において「留まる」ことが必要

となる。それ故に、始元は留まるものとして、つまり時代的、歴史的なものとして展開

すればするほど、次第に本来的な動態を失い、始元から立ち去り、没落を歩むのである。

ハイデッガーはこの一連の流れ、つまり、始元において生起し、没落を歩む存在の

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存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

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歴史こそが西洋の歴史であると考える。ハイデッガーはこの洞察を各時代の「思索家

(Denker)」と各時代間の思索の移行を省察することを通して獲得した。もっとも、こ

の思索家における「思索(Denken)」とは単に主観としての人間に付随された一能力や

理論的な悟性の能力といったことを意味しない(Vgl. GA9,313ff.)。むしろそれは「存

在の思索」(GA9,316)であり、それにより人間が転回的に「存在の関係を遂行する」

(GA9,313)ところの人間の本質、つまり、現存在という存在の明け開きを根拠付ける

ような人間の究極の使命を意味する。思索としての哲学は存在から呼びかけられるこ

とである(Vgl. GA54,179)。思索家は存在の声に応答し、存在は思索という現存在にお

いてロゴス化され開示される。それ故に、思索の推移はそれによって現成するところ

の存在の歴史の推移と同一視されるのである。

ハイデッガーによれば、存在の歴史の始元は具体的にはソクラテス以前の哲学者達の

時代に生起した。存在の歴史の始元における哲学者としてアナクシマンドロス、ヘラク

レイトス、パルメニデスが挙げられる(GA54,2)。彼らの残した命題には、アレーテイア

が黙然と輝いている(Vgl. GA45,222)。この時代のギリシア人にとって、一切の物事を

意味するピュシスはアレーテイアとして、つまり覆蔵態と非覆蔵態との間の抗争的関

係から経験されていたのである。

存在の歴史はプラトンにおいて決定的な没落を開始することになる。ハイデッガーは

一連のニーチェ解釈から、西洋の歴史において「プラトンがキーポイント

(Schlüsselstellung)である」(GA65,219)という見解を持つに至った。ハイデッガーは

プラトンにおいて生起したことを次のように述べる。「真理はもはや、非覆蔵態として

の、存在そのものの根本動向ではない。真理は、イデア の下へ軛を付けられ

従属された帰結として、正しさ(Richtigkeit)になったのであり、それ以来ずっと存在

者を認識することの卓越性である」(GA9,234)。このことをハイデッガーはプラトンの

「洞窟の比喩」の解釈を通して説明する。それによると、プラトンはアレーテイアとして

のピュシスを覆蔵態と非覆蔵態の対立から見るのではなく、単なる開示、もしくは開示

された存在者のみに注目する。そして、この開示において開示されたものは、もはや覆

蔵態からではなく、自らを示すもの、つまりイデアに由来すると考える。イデアは全てに

光を投げかけ支配するものとされる。ここから、アレーテイアは非覆蔵態でなく、イデア

が立てた基準をいかに正しく認識するのかという「視線」の方向の「正しさ」という意味

の「真理」になる。このことによってプラトン以降の西洋の諸科学は形而上学という決

定的刻印を押されることとなる。ハイデッガーの述べる「形而上学」の意味をここで詳

細に説明することは出来ないが、大まかに言って次のような事態を意味する。先ず、形而

上学は存在を真理の現成からではなく、現に存在するところの存在者から考える。しか

し、形而上学は同時に、存在の真理を欠いたまま手前にあることとしての存在者を問う

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基督教研究 第66巻 第2号

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ために、それを成り立たせるような原因根拠を必要とする。そして、それはイデア、存

在者性(Seiendheit)、本質存在、とりわけ「神」などの特別な存在者に求められるので

ある14。第一に存在者を認識し、次いでその根拠を措定する。ハイデッガーによれば、

この「存在者‐根拠」という基礎付け主義的図式が形而上学である。

プラトンにおいてこの図式は「感性的なもの‐超感性的なもの」を意味し、また伝統的

には根拠の部分に「神」が当てはめられてきた。ハイデッガーは存在の歴史におけるキ

リスト教の登場も一貫した始元からの立ち去りの過程として、もしくはその立ち去りを

大きく促進させた事態として考えるのである。ハイデッガーによれば、西洋の歴史におい

てユダヤ‐キリスト教神学はプラトンから始まる形而上学によって可能となったのであ

り、その意味で「ギリシア形而上学の残滓にしか過ぎず」(GA48,14)、根本的にはプラト

ニズムの継承者である。つまり、キリスト教神学は「感性‐超感性」図式を「地上的‐超

地上的」或いは「被造物‐創造主」という教義の弁証に利用したというのである

(Vgl. GA40,113)。以上のことからハイデッガーは形而上学の本質を「存在‐神‐論」と

名付ける。ハイデッガーは、プラトン以降、一貫して西洋の思索は形而上学或いは存在

神論に規定されていると考えるのである。

確かに、近現代においてはいわゆる「世俗化」が進み、存在「神」論は廃れたように思

われる。例えばそれは、神と教会の権威に替わる良心の権威、理性の権威、社会的本能、

歴史的進歩、最大多数の幸福に代表されるだろう(Vgl. GA48,113)。これらが行き着く

先は、現代の科学技術に代表される「有用性」のもとでの一切の機能化である。以上の

諸目標は確かに「超地上的」なものに対する「地上的」なものには違いないが、「存在

者‐根拠(目標)」という図式は依然、プラトン‐キリスト教的な存在神論に規定され

ており、その変容態に過ぎないのである。ハイデッガーはこの形而上学の必然的な成

り行きこそニーチェが述べた「神の死」、ニヒリズムであると考える。しかし、「ニー

チェは、彼以前の全ての西洋の思索者と同様に一つの決定の内に立っている。ニーチェ

は彼らと共に、存在に対する存在者の優勢を肯定するが、このような肯定のうちに何

が潜んでいるのかを知らない」(GA47,5)。そして、まさにニーチェが「神の死」を真摯

に受け止め、そこから、全体としての存在者を「価値」として定立する「力への意志の

無制約的な主観性の形而上学」(GA48,266)を展開するとき、始元の可能性は全て展開

され尽くされて、形而上学は完成するのである。存在の歴史において、ニーチェは西洋

形而上学の完成者であり、ニーチェにおいて始元は「エスカトン(終末 )」に

至るのである。

c)別の始元(der andere Anfang)

このように存在の歴史は没落し「終末」に至るが、ハイデッガーはそこで存在の歴

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存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

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史が「終わる(enden)」とは考えない。存在の歴史は終末に至るが、再び新たに「別

の始元」が生起すると考えるのである。また、そこから現代は古代ギリシアに生起し

た始元(「初めの始元(der erste Anfang)」)の終末と別の始元との間の移行期であると

考えられる。この時期のハイデッガーの多くの文章からは「将来」への待望を聴き取

ることが出来る。また、彼の現代批判やキリスト教批判、古代ギリシア哲学の詳細

な研究はいずれもこの将来の観点に導かれて遂行されているのである。しかし、実

際にヤスパース(Karl Jaspers)やレーヴィット(Karl Löwith)が激しく批判するよう

に、この洞察を受け入れるのは極めて困難である。というのも、ハイデッガーはこ

の洞察に対して充分な説明を与えていないからである。また、そもそも彼が哲学者

である限りそれは不可能なことだろう。何故なら、始元は、追い越すことができな

い固有のものという始元の性格を持つが故に、別の始元は、初めの始元とは「別の」

歴史的時空なのであり、たとえ現代が両始元間の移行期であるにせよ、始めの始元

によって生起した時空において別の始元について語ることは不可能であるからだ。

それ故、ハイデッガーにとって、「思索の別の始元はいまだなお予感されたものに留

まる」(GA65,4)。そして、ハイデッガーはこの予感を「詩人(Dichter)」とりわけヘル

ダーリン(Johann Christian Friedrich Hölderlin)から得ている。初めの始元への洞察は

諸哲学者の研究に依るが、別の始元への洞察においてはヘルダーリンの詩の解釈が

比類ない位置を占めているのである。ハイデッガーのヘルダーリン解釈は膨大な量

に及び、その解釈も思索の途上的性格に応じて変化するが故に、ここで詳細を追う

ことは出来ない。しかし、基本的に、ハイデッガーはヘルダーリンを「歴史学的に計

算すれば我々にとって一層遠い過去の人ではあるが、一層将来的な人」(GA45,135)、

別の始元を指し示す詩人であると考えている。ヘルダーリンは『ムネモシュネー』に

おいて「時は長い、しかし、真なることは生起する(Lang ist/ Die Zeit, es ereignet sich

aber/ Das Wahr)」と詠う。ハイデッガーはこの詩句から、いつの日か再び存在の真理

が生起し、別の始元が始まると考えるのである。

3.神、或いは、最後の神

────────────────────────────────────

以上のように、ハイデッガーは『寄与』の時期において存在を真理として理解する。

それ故、この時期のハイデッガーの思索において展開された事柄は、存在の真理と何

らかの関係を持つ。当然これは神や最後の神にも妥当する。ハイデッガーの思索にお

いては真理としての存在の外部では神のための可能性はないのである(Vgl. GA66,244)。

それ故、ハイデッガーの述べる神は一先ず「存在『の』神(Gott »des« Seins)」

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(GA47,294)であると言える。むろん、ハイデッガーは形而上学における神、ギリシア

形而上学の残滓としてのキリスト教の神、道徳的な神、最高の価値としての神、哲学

者の神としての存在‐根拠の神についてニーチェと共に、元来これらは「自分と生と

を否定する人間の『失敗作』」(GA6.1,286)であったと考えるために、「存在の神」とは

以上のような神ではない。最後の神は「既在のもの(Gewesen)、とりわけキリスト教

的なものとは全く別のもの」(GA65,403)である。では、最後の神は真理としての存在

において如何なるものとして考えられているのであろうか。答えを先取りして端的に

述べれば、ハイデッガーは最後の神を「始元の自己発動(Insicheinschwingen)」

(GA65,416)、もしくは、覆蔵態が裂開し現存在へと至るという表現に則れば、「裂開す

ること」と考えている。以下では、このことを確証しつつ、最後の神が如何なるもの

であるのかを把握する。

3-1.最後の神と歴史の始元

真理としての存在は歴史として生起するが故に、最後の神もまた歴史的な神であ

る。そのことは既に、この神が「最後の(letzt)」と形容されていることからも明ら

かである。というのも、「最後のこと(das Letzte)」とは端的に「エスカトン(終末)」

を意味するからである。それ故に、最後の神とは「終末論的」な神である。しかしな

がら、その際、終末論的な神ということで、地上的なものを無効にしたり、何らか

の地上的な事柄からの解放を起こしたり、そのような救いの成就によって地上的な

ものを決定的に終わらせるという意味での神が考えられているのではない。存在の

終末においては「いかなる解‐放(Er-lösung)も起こらない」(GA65,413)のであり、

更に「最後の神の『最後』を単に終止(Aufhören)や終わり(Ende)と考えるならば、

……最後の神についてのあらゆる知は不可能になる」(GA65,406f.)のである。そもそ

も、以上のような終末が考えられている場合は、地上的な有限的、内時間的存在者

に対して、無制約的、「永遠的(aeternitas)」性格を持つ絶対者としての神が想定されて

いるのであるが、これは前述の通りプラトン以降の存在神論的な「地上的なもの‐超

地上的イデア」という図式に基づいているのである。それに対し、最後の神は超時間

的性格の絶対者ではなく、存在の歴史という時間的性格を持つ。それ故に、最後の神

の終末論的性格は、「存在の終末論(Eschatologie des Seins)」(GA5,327)の意味におい

て考えられねばならない。

「存在の終末論」とは、前述の存在の歴史が終末に至り、新たに別の始元が生起する

という存在の命運を意味する。しかし、初めの始元と別の始元は異なる歴史の時空で

あるために、ハイデッガーは別の始元への移行を単純に直線的時間概念において考えて

いるのではない。そうではなく、初めの始元は「終末」即ち「エスカトン」に至り、そ

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存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

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の終末が転・

じ・

て・

「究極のもの(das Letzte)」即ち「エスカトン」となるのである。その際、

ハイデッガーにおいては「究極のもの」とは一切を内に含んだ始元を意味する。終末と

は究極のものであり、究極のものとは始元であるために、終末とは始元であるとハイデ

ッガーは考えるのである。このようにハイデッガーは「エスカトン」が持つ「終末」と

「究極のもの」という二義性、〈das Letzte〉が持つ「最後のもの」と「究極のもの」とい

う二義性から、終末と始元の転義的同一の必然性を主張するのである(Vgl. GA5,327)。

そこで重要であるのは終末が始元に「転じる」ことである。そして、終末を始元へと

転じさせ、再び新たな歴史を切り開くところのものこそが最後の神なのである15。

このことを、初めの始元の終末から見ると、「最も高い始元はそれ自身に閉鎖し、そ

こから最も深い没落を始元する。そのような没落において最後の神が現れる」

(GA66,253)ということになる。初めの始元はニーチェにおいて終末に至り、存在の覆

蔵性は存在者から全くその姿を消す。結果、存在は真理として考えられるのではなく、

現代の自然科学が扱うような自然事物や、主観と切り離された手前にあること、「それ

自体で存続すること(In-sich-bestehen)」(GA40,224)、有用性に従って裁断することの

出来る硬直した物体、つまり単なる存在者、或いはその存在者性として扱われる。そ

こでは存在棄却が、もはやそれと気付かれることがないほどに隆盛を極めるのである。

「最後の神の最も偉大な近さが性起するのは、躊躇いつつの自己拒否としての性起が拒

絶の内へと登り詰めるときである」(GA65,411.Vgl. GA65,412)。そして、存在の終末は

最後の神の到来によって別の始元に転じる。「最後のこと」とは「終止ではなく、最も

包括的な、最も追い越し難いところの、最も深い始元」(GA65,405)、「我々の歴史の計

ることの出来ない可能性としての別の始元」(GA65,411)であり、最後の神とは「配定

しつつ性起として性起するところの来るものの中の最も来たるべきもの(Kommendste

im Kommen)」(GA69,105)なのである。

ハイデッガーはこのような神と歴史の関係について、『寄与』の時期の講義や論文

において暗示している。例えば、『ヘルダーリンと詩の本質』では、「詩人は神々に名

前をつけ、すべての事物を、それが何であるかということに応じて名前をつける。

……詩人が本質的な言葉を語りながら、この名を挙げることを通して、存在者は初

めて、それであるところのものへと任命されるのである」(GA4,41)と歴史の始元と

神についての関係を述べ、『哲学の根本的問い』では「転覆というものは、もし芸術が

真理を『作品の中に据えること』であるとするならば、最も遠い神によって『要請さ

れ獲得された』芸術によってのみ成し遂げられ得るのである」と歴史的「転変」につ

いて語り(GA45,194)、『芸術作品の起源』では、ギリシアの神殿が例に挙げられ、神

殿における神の現前が伸展させ、取り出すところの「一個の聖なる区域」という広が

りこそが「歴史的な民族の世界である」と述べている(GA5,28)。

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3-2.最後の神の合図(Wink)・立ち寄り行き(Vorbeigang)と存在の真理

それでは、最後の神はどのように現れるのであろうか。それは端的に次の一文で

述べられている。最後の神は「その現成を合図、つまり、既在の神々とその覆蔵され

た変容の到来(Ankunft)及び逃亡(Flucht)の、襲来(Anfall)と外留(Ausbleib)の内

に持つ」(GA65,409)。

先ず、最後の神は「合図」として現れる。ヘルダーリンの詩『ルソー』の解釈から、

ハイデッガーは「……合図は/古来より神々の言葉である」(GA39,32)と考える。合

図とは「指示的開示という仕方で言うこと」(GA39,31)である。合図は単に何かを指

し示したり、気付かせたりすることではなく、またその際、合図する者も「単に『自

分』を気づかせるのではない」(GA39,32)。むしろ、「たとえば別離に際しては、ます

ます遠ざかって行くにもかかわらずしっかりと近さを保持することであり、逆に到

来に際しては、歓喜に満ちた近さ(Nähe)にもかかわらず、なお厳として存する遠さ

(Ferne)を開示することなのである」(ebd.)。最後の神は「到来に際しては厳として存

する遠さ」として、また「拒絶における最後の神の極端な遠さは比類無き近さ」

(GA65,412)として現れるが、この到来の近さや遠さは単なる物体的な非現前を意味

しない。そもそも最後の神は存在者ではないのであるから、これは物差しで計測出

来るような距離ではないのである。しかし、このことで、遠いものほど身近に感じ

られるという心理状態や弁証法が考えられているわけでもない。「極端な遠さ=比類

なき近さ」ということは「弁証法を通して外観を損ねられたり、克服され得たりする

ような関係ではない」(ebd.)。むしろ、「合図の本質には極端な遠ざかりにおける親密

な近づきの統一の秘密がある」(GA65,408)。詳細は後述するが、以上の合図の性格

に基づいて、最後の神の到来は「存在の真理の露開された時‐空において最も遠くあ

る」が、同時に「比類なき近さ」として現成するのである(Vgl. GA66,256)。

ハイデッガーは最後の神の到来を「立ち寄り行き(Vorbeigang)」とも呼ぶ。

〈Vorbeigang〉というドイツ語は、「立ち寄ること」と「行き去ること」という二つの意

味を持つ 16 。つまり、「立ち寄り行き」は、上の引用の「到来と逃亡」、「襲来と外留」

と同じことを意味する。その際、〈Vorbeigang〉が二つの意味を合わせ持つ一語であ

るように、「到来」と「逃亡」を切り離して考えるのは誤りである。最後の神の立ち寄

り行きは到来もしくは逃亡のどちらかではなく、また、最後の神が異なる二者のど

ちらをも行うということを意味しない。そうではなく、両者が根源的には同一の生

起の両契機であることを意味するのである(Vgl. GA65,405)。

合図における「極端な遠さ=比類なき近さ」、立ち寄り行きにおける「立ち寄り=行

き去り」は存在の真理の存在棄却、つまり存在の自己覆蔵と瞬間に対応している。先

ず、合図と立ち寄り行きの性格は、自らを贈りつつ脱去する、もしくは贈りつつ外留

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するという存在の自己覆蔵に対応している。また、最後の神の「最後のこと」が別の歴

史を切り開く別の始元に関係しているところから、既にその到来の仕方としての合図

と立ち寄り行きは瞬間的であるということが推測され得る。実際に『寄与』では「最後

の神の合図の瞬間の場(Augenblicksstätte)」(GA65,411)という表現がなされている。

さらに、瞬間性は先の「合図」という語の内にも既に聴き取ることが出来る。「合図」

と訳した〈Wink〉とは「目配せ」であり、ウインクする(mit den Augen winken)こと

である。目配せとは「眼差し」によるものであり、「眼差し」とは「目の視線」のことで

ある。この「目の‐視線」をそのままドイツ語に訳せば文字通り〈Augen-Blick〉、つま

り「瞬間(Augenblick)」を意味することになる。ハイデッガーはヘルダーリンと共に

「雷雨と稲妻は神々の話す言葉」であるがゆえに、「天のものはすべて/速やかに移ろ

い去る」と考えるのである(Vgl. GA4,41ff.)。

最後の神の到来は別の始元を発動させるが、それは存在史的時空からの逃亡、現存

在からの脱去を意味する。「最も畏怖すべき歓喜(Jubel)は、或る神の消滅(Sterben

eines Gottes)でなければならない」(GA65,230)。このような瞬間、脱去の性格を持つ最

後の神の始元の発動にこそ歴史の没落の必然性がある。「最後の神の合図において……

最後のもの、始元から要求され始元に運びもたらされることのなかった本質的な終末が

現成する。ここで存在の最も内的な終わりある様(Endlichkeit)が現れる」(GA65,410)。

3-3.神、存在、人間の転回

しかしながら、合図や立ち寄り行きということは、存在の「外部」にいる神が存在へ

と合図し、立ち寄り行くということではない。最後の神は「存在それ自身から立ち現

れる神」(GA54,166)である。しかし、最後の神が存在そのものだということでもない

(GA65,263,409)。むしろ、最後の神は「存在の神」である。むろん、この神は存在もし

くは存在者の根拠としての神ではないが故に、存在の根拠としての神ではない。しか

し、逆に神の根拠としての存在ということでもない(GA65,438)。何故なら、この神と

存在の関係においては、存在神論、つまり「存在・存在者‐根拠」という図式自体が批

判されているからである。「存在とは、神の神となること(Götterung des Gottes)が必

要とするもののことである」(GA65,240)、もしくは「存在は神の必需(Not)である」

(GA65,438)と述べられる。また、ここでの存在は性起としての存在であるので、性起

は「最後の神が自分自身をその内へと捕らえる網」(GA65,263)であり、「最後の神は…

…性起を必要とする」(GA65,409)とも述べられる。一方で、存在が歴史として始元す

るためには最後の神の到来が必要であった。繰り返しになるが、これは予め存在と神

という独立したものが後から相互に関るということを意味しない。あくまでこのこと

は転回として考えられねばならないのである。「存在の思索」という表現が、存在に呼

存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

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びかけられ、存在が開示するための場となるという転回を表していたのと同様に、「存

在『の』神」という場合、括弧を付された属格の定冠詞は以上の神と存在の転回的関係

を表現しているのである。

さて、最後の神は歴史を切り開くが、しかし、この神によって歴史が単に一方的に始

まるのではない。最後の神は、存在の時と場所を必要とする。というのも、前述の通り、

転回は「現存在と存在との転回的関係」としての転回でもあるからだ。つまり、別の始

元が生起するためには人間が現存在として存在に転回的に帰属するということも必要

とされるのである。このことを考慮すると、神と人間は存在を中心として関わり合うこ

ととなる。神は人間を直接必要とするのではなく、人間が現存在の中に立ち真理として

の存在が生起するということを必要とするのである(Vgl. GA65,409;GA66,242,255)。

『寄与』においては、このことは「人間の(存在への)帰属と神の(存在の)必要との間

の転回」(括弧内筆者GA65,414)と述べられる。

以上の理由から、最後の神が立ち寄り行き、別の始元が生起するためには、それに

先立って人間が「神々が客として到来するはずの家」(GA4,148)、「神に相応しい滞在地」

(GA5,270)、つまり存在の「現」を準備しておく必要が生じる。始元の移行期において

は、人間が神を待つのではなく、逆に神は人間が現存在の中へ立つことを待っている

のである(Vgl. GA65,417)。「全く問いを欠いた世界時代」(GA45,13)17において、多数

の者は存在棄却に全く気付くことがない。一方で、存在棄却を存在棄却として聴き取

る者達は既に、別の始元へと移行しつつあるとハイデッガーは考える。「始元は最初は

(zuerst)その固有な親密性へと立ち返り現成する始元態(Anfängnis)を立ち現さない」

のであり、「始元的始元の始元態は最後に(zuletzt)性起する」からである(GA54,201f.)。

それ故、これらの者達が別の始元を予感しつつ、神の合図を受け止めるための準備を

しなければならない。この者達とは「神が自己を啓示するとすれば、その力によって

のみ神がそもそも自己を啓示する、そうした者」(GA42,284)、「存在の衝撃を真っ向か

ら受け止める者」(GA65,395)であり、具体的には思索者と詩人のことである。ハイデ

ッガーの思索において詩人と思索者の立場はその都度変化する。しかし、『寄与』に限

って言うならば、思索者には「戻り道を行く者達(Rückwegigen)」、詩人には「将来的

な者達(Zukünftigen)」という使命(規定)が与えられていると考える。

「戻り道を行く者」とは初めの始元における存在の思索と対決をし、その根底におい

て隠れたままになっているアレーテイアにまで存在の思索の源泉を溯る者のことであ

る。彼らは、手前にあるそれ自体で存続する存在者、或いはその存在者性(近現代)、神

による被造物(中世)、プラトンにおけるイデア(古代)という存在の規定をアレーテイ

アからの立ち去りという一連の存在の歴史の没落として「解体(Destruktion)」しつつ、

その根底にあるアレーテイアへと溯るのである。そうすることによって、存在の問いを

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決着済みのものとしてしまうのではなく、問うに値するものとして他の人々の思索に対

して開いておく使命を担っている。しかし、これは単なる過去の復権を目指すことでも、

現在に対する「反‐動的な者達(Re-aktiven)」(GA65,411)になることでもない。むしろ、

これは別の始元という「将来」に牽引されつつ遂行される。「我々はいつの日か、初期の

いつか(Einstige)を到来するもののいつかにおいて待ち望み、このいつかをそこから

熟慮することを今日学ばねばならない」(GA5,327)。そして、この将来を指し示すのが

「将来的な者達」としての詩人である。ハイデッガーは「(別の始元となる)この困窮を喚

起しつつしっかりと捉える」ことが出来るのは「試作的言葉それのみ」(GA39,135)と考

える。その将来的な者達の中で「ヘルダーリンは最も将来的な者である」(GA65,401)。

それ故、思索者は「未来を指し、神を待ち望む詩人」(GA16,678)であるヘルダーリン

の語を聴きつつ、第一の始元を戻りゆくことが使命となる。「哲学の歴史的使命は、ヘ

ルダーリンの語を聴くという必然性の認識において頂点に達する」(GA65,422)。

一方、最も将来的な者であるヘルダーリンは「非故郷的であることと故郷的になる

ことの法則(das Gesetz des Unheimichseins und Heimischwerdens)」(GA53,155)を詠う。

この法則は存在の終末論から考えられている。初めの始元の終末としての現代におい

て始元態は「非故郷的なもの」として初めてその姿を現す。詩人ヘルダーリンはこの

歴史の根底にあって、現代においては非故郷的な始元態を求めてギリシアへと旅に出

る。そこで、詩人は初めの始元において到来し逃亡したであろう神、ギリシア人を襲

来した「天からの火(Feuer vom Himmel)」(GA53,168)を経験する。この天の火の経験

を携えて詩人は帰郷し、西洋つまり「夕べの‐国(Abend-land)」において「夜明け」を

詩作する。この新たな夜明けこそ、「故郷的になること」であり、別の始元や最後の神

の到来を意味する。「人間と神々との対向化(Entgegnung)、つまり祝祭(Fest)」

(GA52,98)は「歴史の根底および現成」(GA52,68)である。しかし、詩人の使命は直接

的にこのような祝祭を語ることでも「神を受容すること(Empfängnis)」(GA4,69)でも

ない。詩人は、この最後の神の到来という祝祭の準備、「聖なるもの」18を建立する使

命を持つ。これは存在の「現」ことであり、詩的言語は覆蔵態をも「明るく」せざるを

得ない「解明(Erklärung)」の言葉とは違い、隠れを隠れとして表現し得ると考えられ

ているのである(Vgl. GA65,19)。詩的言語は前述のロゴスの意味において「根源語

(Ursprache)」(GA4,43)なのである。

このように「思索者は存在を言う、詩人は聖なるものを名付ける」(GA9,312)。し

かし、以上のことは思索者が詩人より劣っているということではない。ヘルダーリ

ンの語は初めの始元の終末としての現代において「未だ時‐空を‐持たない(zeit-

raum-los)」(GA39,1)作品である。しかし、作品が作品であるのは見守り受け止める

者たちが、作品をそのものとして受け止めるときである(Vgl. GA5,54ff.)。それ故、

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思索者の使命はドイツ民族をヘルダーリンの語へと聴従させなければならない。そ

してそのことが民族単位の歴史的転換の可能性を準備するのである。それ故、「戻り

道をゆく者達は将来的な者達の真の先‐駆者(Vor-läufer)」(GA65,411)であり、彼ら

によって「最後の神の将来的な者達は準備される」(GA65,410f.)のである。思索者は

最も将来的な者であるヘルダーリンの語に従いつつ、将来的な者達を準備する。将来

的な者達は思索者に準備されつつ、聖なるものを詩作する。人間は「現‐存在を基礎

付ける者として別の神の神性によって必要とされているという基礎経験」(GA65,140)

に導かれる。両者は「逃げ去った神々は最早おらず、到来するものは未だいない」と

いう二重の欠如に規定された「乏しき時代」(GA4,47)において、真理を巡って相互委

託的に来るべき別の始元に向けて現存在を準備するという使命を持つのである。

3-4.別の始元

以上のように人間が現存在を建立し、そこへ最後の神が到来するときに別の始元

が生起し、新たな歴史が始まる。「歴史は、世界と大地の抗争の根拠としての 19、

神々と人間との対向化(応答Entgegnung)の間においてのみ遊動する。歴史はこの間

の性起すること以外の何ものでもない」(GA65,479)20 。始元において神と人間は

「瞬間的な脱去」と「留まるものの建立」として対向する。この相反する両者の対向化

は「神々と人間の間の抗争(Streit)」(GA65,413)、或いは「存在の中央における神と人

間との衝突(Zusammenstoß)」(GA65,416)と呼ばれる。この対向化は、大地と世界の

抗争の、つまりアレーテイアの根拠となる。しかし、この神と人間の抗争とは、通

常我々人間が行う戦争のように一方が他方を撲滅し尽くしてしまうような争いを意

味しない。むしろ、両者は相反したものとして「神は人間を優越するのであり、そし

て人間は神を上回る」(GA65,415)。そして、この抗争によって両者はそれ自身の固

有性を発揮し、それ自身になるのである。それ故にまた、神と人間がどちらか一方

に根拠付けられるような関係でもない。「神々が人間を創造するのでもなく、人間が

神々を発明するのでもない」(GA66,235)。むろん、神と人間は無関係なのではなく、

両者は存在を中心として関係しているのである。存在を中心として神と人間は相互に

異質なもの同士の調和となる。「ただ、神々は神々であり、人間は人間でなければなら

ないが、その際どちらもやはり相手なしではありえないので、彼らの間には愛がある」

(GA4,69)。この相反しながら調和する様をハイデッガーはヘルダーリンに倣って「親

密性(Innigkeit)」と表現する。それ故にこの闘争は「親密な抗争」である。前述の「遠

さ=近さ」という最後の神の到来はこの親密な抗争に由来する。最後の神は人間と最

も相反する異質なもの、「最も隠れたもの(das Verborgenste)」(Vgl. GA65,395)である

が故に「極端な遠さ」として到来する。しかし同時に、それは人間と最も親密な、つ

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まり「密接な(innig)」闘争を繰り広げる相手であるために「比類無き近さ」として現

れるのである。この際、真理としての存在は「人間の帰属と神の必要との転回」の

「転回的中心」(GA65,413)であり、「最も親密な間」(GA65,415)と呼ばれる。もっと

も、繰り返しになるが、存在は神と人間という独立したもの同士が関りあうところに

生じるというのではない。むしろ、存在は両者を存在せしめるのである。しかし、存

在は神と人間を支える第一実体のような何かということでもない。存在は神と人間と

が転回的関係にあるときにのみ現成し得るからだ。それ故、ハイデッガーは存在を

「根底(Grund)」且つ「深淵(Abgrund)」と述べるのである。

ここに、新たな歴史が始まる。例えるならば存在は弓である(Vgl. GA39,123ff.)。始元

における存在は両極に最も極端に(äußerst)張られた弓であり、その対立を調和する弓

の緊張である。そして、神と人間がお互いに最も遠く離れ、最も激しく、最も親密な闘

争を繰り広げる時に、存在という弓は最高のテンションを有し、そこから新たな歴史と

いう矢が放たれるのである。その歴史的瞬間において、一切は「大地(隠れ)‐世界

(開示)・神 (々瞬間)‐人間(留まるものの建立)」21 という対立の環から現成するのであ

る。我々人間は存在の牧人、「無の場の保持者(Platzhalter des Nichts)」(GA5,349)とし

て、現存在において「非覆蔵態を露開しつつ守ること」(GA54,116)が出来る。しかし、

それだけでは別の始元が生起することはない。我々が存在の現を準備し、いつの日か―

―何時とは言えない存在史的ないつの日か――最後の神が立ち寄り行くとき、別の始元

が始まるのである。「抗争的調和こそが、まさに永続性と存在を創り出す」(GA39,127)。

3-5.「神」の必然性

以上で最後の神が何であり、どのように存在の思索に位置付けられているのかを見た。

しかしながら、未だ重要な問題が残っている。それは、なぜ最後の「神」なのであるのか、

つまり、ハイデッガーの思索において最後の神が位置を占めていたところのものが、な

ぜ他ならぬ〈Gott〉と名付けられたのかという問題である。この問題に対する手掛かり

は、一先ず1942/43年冬学期講義『パルメニデス』において与えられている。ハイデッ

ガーは神、神々、神的なものを、真理や言葉の場合と同様に古典ギリシア語の「テオス

(神 )」、「テオイ(神々 )」、「テイオン(神的なもの )」にまで溯って考

察する。そこでは神は「テアー(観照 )」或いは「テアオー(観る )」との関

連から解釈されている。「テアー(女神 )」に端的に表れているように、ハイデッガ

ーによれば、神と「観る」は根源的には同一の語である。しかし、ハイデッガーは古代

ギリシアにおいて「観る」ということは主観‐客観‐表象関係としての認識能力を意味

しない。むしろ、その関係をも成り立たせるような「自身を示すこと」を意味していた。

ごく簡単に言ってしまうならば、ギリシアにおける「観る」とは主体の働きではなく、客

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体の出現や「向こうからやってくること」を意味するのである(GA54,152ff.)。そして、

ハイデッガーはこの出現の根本様式こそ「ダイオー(火を灯す )」ということで

あり、そこから神は「ダイオーン(火を灯す者 )」としての「ダイモーン(霊的な

不可思議なもの )」、つまり「デーモン・霊(Dämon)」であったと考える。もっ

とも、このデーモンとは通常考えられる「悪霊」ではなく「とてつもなく大きいもの

(Ungeheuer)」を意味しており、またそれは存在の現との関係から考えられているので

ある(GA54,149f.)。これ以上立ち入って確認することは避けるが、このテオスの性格

の解釈は最後の神の合図と立ち寄り行きとに正確に対応しているのである。

一先ず、ハイデッガーは以上の解釈から最後の神を神と名付けたと考え得る。しか

し、最後の神が以上の解釈によってのみ神という名を与えられたとは考え難い。とい

うのも、ギリシア語のアレーテイアから、ラテン語の「真理(veritas)」を経て、ドイ

ツ語の「真理(Wahrheit)」に至る真理解釈の歴史が存在の歴史の没落を示しているこ

とが頻繁に述べられるのに対して、テオス解釈の歴史は上掲の『パルメニデス』以外

には目立って叙述されていない。また、他の場所においては、「神々」という名は「空

虚な場」を名付けるのみであると述べられているように(Vgl. GA66,249)、神という名

の必然性自体を破棄していると思わせるような発言もなされているからである。本稿

ではもはや議論できないが、ハイデッガーには最初から神への問いがあったと思われ

る。つまり、ハイデッガーの「存在の問い」は常に「神への問い」との緊張関係にあっ

たと考え得るのである。神学からの出発、初期の原始キリスト教からの影響、『存在と

時間』出版直後の「神の死の基礎経験」、『寄与』における最後の神の立ち寄り行き、四

方域(Geviert)における「神的なもの」というように「存在の問い」の背後には常に

「神の問い」が絡んでいるのである。

「最後の神の立ち寄り行き」は後期の諸作品においては語られなくなる。これは、

「性起を存在、存在の歴史という概念によって思索することは成功しないだろう」

(GA15,366)と述べられるように、存在の終末論が彼の思索から後退することによると

思われる。ただし、「シュピーゲル対談」や、ハイデッガーが自身の告別式で賛美歌の

代わりに朗読するように指示したヘルダーリンの五つの詩句とその順序を考慮すると、

「存在に到来する神」というイメージは放棄されることはなかったと言えるだろう。

「神学という由来がなければ、私は決して思索の道に入り込みはしなかっただろう。と

ころで由来(Herkunft)とは常にこれから来るもの、未来(Zukunft)でもあり続けるの

だ」(GA12,91)。それ故、「ただ或る神が我々を救う」という発言が、「長い省察から」な

されていると言われるのである(GA16,671)。

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4.結語

────────────────────────────────────

以上で本稿の目的は達成したこととなる。一見すると以上に見たハイデッガーの思索

は全く根拠を欠いた詭弁に思われるかもしれない。実際に多くの者は、説明が不十分に

思われるハイデッガー哲学を「神秘主義的」と揶揄する。しかし、これは全面的に正し

いとは言えない。なぜなら、ハイデッガーは彼の思索の途上的性格から、完結した著作

を多くは出版しなかったという事情があるからだ。その代りに、膨大な量に及ぶ講義や

手記では、主に諸哲学者との「対決(Auseindersetzung)」を通じて厳密な思索の裏付けが

なされているのである。それ故、ハイデッガーを理解するためには、第一に彼の著作を

読むことで、諸哲学者解釈と彼の思索の道を把握せねばならない。そこからハイデッガ

ーを批判的に乗越えてゆく可能性も生まれるだろう。本稿ではほとんど触れることが出

来なかったが、とりわけ、ハイデッガーのギリシア哲学解釈は重要である。ギリシア哲

学を欠いたハイデッガーの思索はいわば砂上の楼閣である。

さて、以上の点を考慮したとして、我々はハイデッガーの思索を一体どのように受け

止めればよいのであろうか。例えば、最後の神はキリスト教神学には到底受け入れられ

ない神であろう。日 「々進歩」する自然科学から見れば、始元の没落という歴史の流れは

あり得ず、現代のニヒリズムも科学「技術」の進歩によって克服可能であるが故に、この

神は蛇足であろう。心理学的に見れば、未曾有のニヒリズム、初めの始元と別の始元の

間、乏しき時代という現代の規定は、第二次大戦中の終末論的雰囲気漂う社会状況から

生まれた心理状態、しかもナチズムと結託するような極めて如何わしい心理状態に由来

し、最後の神、別の始元はそれに導かれた憧憬であるだろう。むろん、政治政策の立場

から言えば「ただ或る神が我々を救う」などということは明らかにアナクロニズムであ

り、失笑を買うのみである。

確かに、ハイデッガーの述べるとおり、哲学には諸科学とは比較不可能な独自の事情

があるために、以上の反論が直ちに有効であるとは言えない。たとえそれが現実の社会

の問題を扱うにしてもである。ハイデッガーにおいて哲学は「直接には無益であるが、

統治する知」(GA45,3)であるからだ。しかし、次の点は大いに問題があると思われる。

それは、西洋の歴史を、存在を中心として古代ギリシア‐ドイツと単線的に直結させる

という点である。現代のニヒリズム――そこには環境破壊から第二次世界大戦までもが

数え入れられる――を始元の没落の帰結とし、ギリシア‐現代間の出来事を没落として

のみ捉え、病的なまでに「本来性」への立ち返りに固執する態度、ドイツ語の可能性を

天才的に駆使し尽してギリシア語と結び付ける、一見冗談とも思える言葉遊び的な方法

論、数多の詩人の内でのヘルダーリンへの異常なまでの憧憬、これらは歴史の起源=始

元を唯一ギリシア的なものと考えることに由来する。確かに、ハイデッガーはギリシ

存在の真理と最後の神――マルティン・ハイデッガー『哲学への寄与』における

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ア‐ドイツということで、地理上の範囲、歴史学的規定、人類学的特徴が考えられてい

るのではないと言う。しかし、「ギリシア的なもの、キリスト教的なもの、近世的なもの、

惑星的なもの、つまり、暗示しておいた意味で西洋的なものを、我々は存在ということ

の或る一つの根本筋道から考える」(GA5,336)と述べ、「西洋の命運は『エオン(存

在 )』の翻訳に依拠している」(GA5,345)と考えるとき、ハイデッガーの思索は自閉

化し、西洋の歴史的地平を完結したものとしてしまう。更に、存在の思索を唯一遂行可

能とする「ドイツ語」を使う「ドイツ人」が、将来を予感する「ドイツ」の詩人ヘルダーリ

ンとの対話において「特別な課題」を担うと述べるとき(Vgl. GA16,679)、それは西洋

における、更には世界における文化的選民思想となるのではないか。もしそうであるな

ら、この思索はナチズムへの加担以上に問題があるだろう。以上のことを考慮すると、

「ある文化はけっして唯一の起源を持たない」のであり、「文化の歴史において、単一系

譜学はつねに神秘化=欺瞞ミスティフィカシオン

になるだろう」22 と述べるデリダ(Jacques Derrida)、「故郷喪

失の中に或る到来が隠されている」という考えは「夢想そのもの」であり、ハイデッガ

ーは「隠された秘義に基づいて超感性的なものを指し示す預言者」、「現実を離れてゆく

よう誘惑する哲学者」、「虚構によって可能な事柄を等閑にさせようとする哲学者」23 と

して登場するのかと尋ねるヤスパースに共感を覚えざるを得ない。

しかしまた、これらの見解も正確なハイデッガー研究の下で理解されねばならないで

あろう。ハイデッガーは間違いなく20世紀を代表する哲学者であり、西洋の歴史に担わ

れつつ、その深層を究明した偉大な思索家である。それ故、我々は表層的な判断を避け、

彼と深層部で「対決」をしなくてはならない。同時に、我々はなぜ日本において西洋の知

を学ぶのかということを常に意識しなければならない。ハイデッガーが好奇心を満足さ

せるものとしての文化や哲学を強く否定し、「固有なもの」を学ぶべきであるとするので

あるから、彼を研究する際には、このことは避けては通れないのである。

1 J-P・サルトル,伊吹武彦訳「実存主義はヒューマニズムである」『実存主義とは何か』所収,人文書院,

2000年,41頁以下参照.

2 Martin Heidegger, Gesamtausgabe, Bd.61, Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles,

Frankfurt am Main, 1985, S.197の略。本稿では煩雑な註を避けるため、同全集からの引用を、GAと略

記し、その巻数と頁数を挙げる。

3 Martin Heidegger, Phänomenologische Interpretation zu Aristoteles (Anzeige der hermeneutischen

Situation), in: Dilthey Jahrbuch Bd.6, Göttingen, 1989, S.246.Anm.2.

4 Otto Pöggeler, Philosophie und Politik bei Heidegger, Alber 2. Aufl., 1974. S.106.

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5 「互いに入れ替わり引き継ぐことによって、同時に思索の途上における三つの歩みを示す三つの言葉は:意

味‐真理‐場所 である」(GA15,344)。ここで言われている存在の「意味」は主に『存在と時間』

の時期、存在の「真理」は1936年以降の十年弱、存在の「場所」はおよそ1942‐44年頃から死に至るまで

になされた思索に当たる。それ故に、ハイデッガーの思索を単純に前期・後期と区分するのは誤りである。

6 この訳語を与えた辻村公一はハイデッガー独自の意味における〈Wahrheit〉を、従来の「物と言述の一致」という

意味での「真理」と区別して、「真性」と訳している。そのことから〈Ereignis〉を「性起」(真性・

が生起・

する)と訳す。

他には、Er-eignis(固有なものが現れる)という意味から「自現」と訳す人もいるが、ここでは「性起」を採用する。

7 このことを前提として、本稿における引用箇所では〈Seyn〉も〈Sein〉も同様に「存在」と訳出する。

8 この「牧人」という表現は、1939年夏学期講義の結びに使われたヘルダーリンの詩『母なる大地に』の

「このことについてはさすらい人が多くのことを言う、野獣は山峡をさまよい、放牧の群れは高地をさまよ

い歩くが、聖なる影のうちで、緑の斜面に、牧人が住み、山の頂きを眺める」に由来すると思われる。

9 これは『存在と時間』の時期に語られた「存在論的差異」が深化、展開された形である。存在の意味の問いで

は存在論的差異は単に「存在は存在者では『無い』」ということを意味していた。もちろん、存在の真理におい

ても以上のことは通用するが、そのことはむしろ以上のような存在の自己覆蔵の性格に由来すると考えられる

のである。存在論的差異という呼び名に換えて存在の真理においては「配定(Austrag)」や「区‐別(Unter-

schied)」という語を使って、存在と存在者が根本において統一的に生起することを言い表そうとしている。

10 これは『存在と時間』で語られた「存在忘却(Seinsvergessenheit)」(人間が存在を忘却しているというこ

と)が深化、展開された形である。存在の真理において存在忘却は根本において「存在棄却」に由来すると

考えられるようになる(Vgl. GA65,114)。

11「転回」は周知の通り従来のハイデッガー研究では、『ヒューマニズム』で語られた「転回」の解釈に従って、

ハイデッガー哲学を転回以前、転回以後と分ける「分岐点」と考えられてきた。つまり、そこでは転回とは

「思索の転回」として理解される。しかし、転回が根本概念となる『寄与』においては以下に見るように全く

別の意味を持っている。従来の「転回」理解によっては『寄与』における「転回」を読むことはできない。ま

た、『ヒューマニズム』や他の講義における「転回」も『寄与』において語られた「転回」として理解することが

可能であるし、実際にそうしなければならないだろう。「転回」論について検討することは本稿の目的ではな

いのでこれ以上述べない。しかし、筆者の知る限りハイデッガーは「思索の転回」という言葉を使ったことは

ない。そもそも、このような転回解釈についての周囲の議論に対してハイデッガー自身が否定的であった

(Vgl. Max Müller, Existenzphilosophie im geistigen Leben der Gegenwart, 3.Aufl., 1964, S.215)。以上の

点から、本稿においては、転回とは『寄与』において述べられた「転回」であると解釈する。

12 これは、『存在と時間』未完部分の第一部、第三篇「時間と存在」を『存在と時間』への自己批判と共に展

開したものである。

13 しかしながら、ハイデッガーの思索における「瞬間」の重要性は、存在の真理に限定されるものではなく、

むしろ『存在と時間』の時期から一貫して重要な位置を与えられていた。それは『存在と時間』では「本来

的な現在」、『形而上学の根本諸概念』では「退屈」を破って現存在を個別化する「瞬間」(Vgl. GA29/30,224)、

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ニーチェ解釈では「永遠回帰」の永遠性を「瞬間」と考えること(Vgl. GA44,103)に現れている。そしてこ

れは明らかにキルケゴールの「瞬間」概念に由来するであろう。「瞬間は決定的であり、永遠なるものに満

たされている。このような瞬間は、特別の名前を持たねばならない。これを我々は『満ちたる時』と名付け

よう」。Søren A. Kierkegaard, Philosophische Brocken, in: Gesammelte Werke, Abt.10,S.16.

14 これらは確かに、存在「事物」とは異なるが、ハイデッガーはあくまで存在者と捕らえている。

15 そこから、〈der letzte Gott〉は「究極の神」とも訳せるが、あくまでそれは一切を内に含むところの始元

との関連の意味において「究極的」なのである。それ故に、他の神々に対して優っているという意味や、

全知全能で完全無欠という意味での究極性を意味しない。

16 日本語でこの二つの意味を同時に合わせ持つ適当な訳語が見つからなかったので、奇妙な言葉ではある

が「立ち寄り行き」(「立ち寄り」且つ「行き」去る)と訳すことにする。

17「神が存在の真理の建立を待ち、それゆえに、現‐存在へと人間が飛び込むことを待っているということ

をいかに殆ど知ることがないか。そのことのかわりに、人間が神を待たねばならないとか、待つであろう

というように思える。このようなことは、おそらく、最も深い神喪失(Gottlosigkeit)の最も宿命的な形態

である」(GA65,417)。

18 この聖なるものをヘルダーリンは神々の座である「エーテル(Äther)」とも呼ぶ。エーテルとは、ハイ

デッガーによれば「清澄の広がり(die Heitere)」であり、その内容とは「明るさ(Klarheit)」、「高み

(Hoheit)」、「喜ばしさ(Frohheit)」の三者を一つにした次元であるという。そして、それは人間を根源

的に癒す(heilen)次元であるので、これを「聖なるもの(das Heilige)」と呼ぶのである(Vgl. GA4,18)。

19「大地(Erde)」と「世界(Welt)」とはハイデッガーにおいて「隠れ」と「開示」を表す。

20 ここまで触れずに使用してきた、「神と神々」という表現は、ヘルダーリンの詠う「神々」からの影響である

が、ハイデッガーにおいては独自の意味を持つ。先ず、この数の違いは、最後の神が直接に知りうるもので

はないための未決定性を意味する(GA65,437)。また、更に重要なことは、神の数というものは、神がも

はや数え上げることの出来る存在者でないために無効であるということである。それ故に、「一神論」、「多

神論」ということが問題になっているのではない。神々という多数性で「最後の神の合図の煌きと覆蔵とい

う瞬間の場における諸々の根拠や深淵という内的な豊饒さが想定されている」(GA65,411)と述べられる。

21 この「大地‐世界‐神々‐人間」という図式は後に世界が性起するあり方としての、いわゆる「四方域

(Geviert)」へと繋がる。しかし、四方域においてはこの図式の一端が世界から「天(Himmel)」となり、「大

地‐天‐神的なもの‐死すべきもの」全体が世界と呼ばれる。また、上で述べたように『寄与』においては、

「神と人間」の対向化は「大地と世界」の抗争の「根拠」であり、二つの対立項から成り立っている。それに

対し、四方域においては、一者を考える際には他の三者が同時に四者の輪舞の環として反映し合うと述べ

られる(GA7,179ff.)。それ故に、両図式を単純に同一視することは出来ない。

22 ジャック・デリダ『他の岬』高橋哲哉、鵜飼哲訳、みすず書房、1999年、8頁.

23 Martin Heidegger/Karl Jaspers Briefwechsel 1920-1963, hrsg. von Walter Biemel und Hans Saner,

Frankfurt am Main, Klostermann, 1990, S.210f.

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