「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1>...

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<1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各 分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑 事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では 運転免許の失効などが問題となる。 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を 与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問 題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなど が問題になる。 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、 これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の 責任も負うことになる。 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民 事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応 していく必要がある。 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり である。 上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務 平成14年、看護課長に昇進 平成19年6月、東6病棟課長に就任 6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り (爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。) 6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん に疑念、主任Bに報告 6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見 ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告 6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上 田さんに自宅謹慎を命じる。 看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。 6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その 夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表 6月26日、福岡県警が病院に強制捜査 7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。 7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪 を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人 を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。 さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前 同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要 因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に 追起訴された。 裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から 同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、 弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を 覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から 浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪 床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護 師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務 行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な 業務による行為は、罰しない」と規定している。 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、 ①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的 に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目 的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患 者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為 は正当業務行為とは到底言えないと主張した。 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の 適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23 日までの間に、8回開かれた。 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な どが 証 言した。弁 護 側は、皮 膚 科の権 威であり、東 京 医 科 歯 科 大 学 名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証 人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不 1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題 4. 公判前整理手続 5. 公判 2. 刑事裁判の重要性 3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて Summar y 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判決から考えること 弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授 Kunihiro Ueda 上田 國廣 うえだ くにひろ

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Page 1: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<8> <1>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<6> <7><2> <3>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 2: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<8> <1>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<4> <5>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<6> <7><2> <3>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 3: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<8> <1>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<4> <5>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 4: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 5: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<8> <1>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 6: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 7: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<8> <1>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

<4> <5>

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ

Page 8: 「看護行為を巡る法律問題」 北九州爪ケア事件の判 …<8> <1> 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

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社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日) 社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

 

 一般的には、あるトラブルが発生した場合、刑事、民事、行政の各

分野で問題になる。人を撥ねるという交通事故を起こした場合、刑

事では、自動車運転過失致死傷が、民事では損害賠償が、行政では

運転免許の失効などが問題となる。

 看護職の場合も基本的に同様であり、看護行為により患者に傷害を

与えた場合には、具体的状況により、刑事上の責任、民事上の責任が問

題となり、さらに、行政上から看護師の資格の取消しなどⅰが問題になる。

 上記の各責任のうち、通常まず問題となるのが、刑事責任であり、

これが有罪として確定すると、特別の状況がない限り、民事、行政の

責任も負うことになる。

 したがって、看護師が刑事手続に問われた場合には、その後の民

事・行政の責任問題を含めて、刑事手続の中で慎重かつ適切に対応

していく必要がある。

 この事件で上田里美さんが起訴されるに至った経緯は次のとおり

である。

●上田さんは、平成2年に北九州八幡東病院に看護師として勤務

●平成14年、看護課長に昇進

●平成19年6月、東6病棟課長に就任

●6月11日、患者Hさんの右足親指の鉤彎爪(肥厚爪)を爪切り

(爪切り後、わずかに血がにじんだため、綿花をあてる。)

●6月12日、患者Hの家族が綿花に気付く。看護師Aが上田さん

に疑念、主任Bに報告

●6月15日、患者Fさんの右足親指の肥厚爪を爪切り。これを見

ていた看護師Aが「課長が爪を剥いだ」と、主任B、同僚Cに報告

●6月18日、看護師A、B、Cの騒動を懸念したI看護部長が、上

田さんに自宅謹慎を命じる。

●看護師の誰かが某新聞社に患者の爪の写真などを持ち込む。

●6月25日、某新聞社の記者が病院に取材に来る。病院は、その

夜に急きょ記者会見し「虐待」と発表

●6月26日、福岡県警が病院に強制捜査

●7月2日、福岡県警八幡東署に傷害罪で逮捕された。

●7月23日、当時70歳のFさんの右第1趾、右第3趾の各爪

を、爪切り用ニッパーを使用するなどして剥離させ、よって、同人

を全治まで約10日間を要する機械性爪甲剥離の傷害を負わせ

たとして、福岡地方裁判所小倉支部に起訴された。

●さらに、同年10月31日、当時89歳のHさんの右第1趾を前

同様の方法で剥離させ、同人に加療約10日間を要する外的要

因による爪切除、軽度出血の傷害を負わせたとして、同裁判所に

追起訴された。

裁判の争点などを整理するために、平成19年9月10日から

同20年10月1日までの間の11回にわたり、裁判所、検察官、

弁護人・被告人間で、公判前整理手続が行われた。

 公判前整理手続の争点整理では、①上田さんの行為が「爪床を

覆っている爪甲の、爪床に接着している部分をはがしたり、爪床から

浮いている部分を切除したりするなどして、爪床から爪甲を離し、爪

床を露出させた」と認められるかどうか。②上田さんの行為が看護

師としての正当業務行為にあたるか否か、とされた。なお、正当業務

行為についての詳細は後述するが、刑法35条は「法令又は正当な

業務による行為は、罰しない」と規定している。

 検察官は、上田さんの行為は、正当業務行為にあたらないとして、

①上田さんの行為は、「療養上の世話」又は「診療の補助」にあたら

ず、正当業務行為にあたらない、②仮に、上田さんの行為が外形的

に療養上の世話又は診療の補助にあたるとしても、上田さんの目

的、本件の手段、方法の相当性(動機、看護部長への虚偽の報告、患

者家族への虚偽の説明等)を総合的に判断すれば、上田さんの行為

は正当業務行為とは到底言えないと主張した。

 弁護人は、上田さんは爪床から浮いている部分を爪切りしたにす

ぎず、その行為の手段方法に正当性がある(ケアの必要性、処置の

適切性)から、上田さんの行為は正当業務行為にあたると主張した。

 公判の審理は、平成20年10月6日から平成21年2月23

日までの間に、8回開かれた。

 看護行為の当否に関しては、検察側証人として、病院側の医師な

どが証言した。弁護側は、皮膚科の権威であり、東京医科歯科大学

名誉教授 西岡清医師、日本赤十字看護大学の川嶋みどり教授を証

人として証言を求めた。西岡医師は、肥厚した爪は、爪甲の下が不

完全に角化しており、爪甲と爪床が接着していないか、あるいは、爪

楊枝でこそぐ程度で、ぼろぼろと崩れてしまう程度にしか着いてい

ないので、看護師が本件のような状態まで爪ケアをすることは「構わ

ない」と証言した。川嶋教授は、爪を放置すると、シーツにひっかか

り、靴下がはけないなどから、剥げて大量に出血するなどのリスクが

あり、爪を切らずに残す方がむしろ危険かつ不衛生であること、上田

さんの爪の切り方は上手であると証言した。

 平成21年3月30日、一審判決が出された。上田さんは懲役6

月、3年間の執行猶予の有罪とされた(なお、検察官の求刑は懲役

10月)。有罪の理由は、次のとおりである。

 一定の爪ケアは、傷害罪の構成要件に該当しないとした。看護師

が事故の危険防止や衛生上の必要から、フットケアの一環として、高

齢者の肥厚した爪などを指先より深い箇所まで切って爪床を露出さ

せることがあったとしても、その行為は、人の生理的機能を害するよ

うな違法な行為の定型にあてはまらないとする。

 したがって、看護師が、患者のために行うフットケアの一環として、

高齢者の爪床から浮いている肥厚した爪を指先よりも深い箇所まで

切ることも、療養上の世話に含まれるので、仮にフットケアとして爪

切りを行って出血などの傷害を生じさせても、看護行為としてしたも

のであれば、正当業務行為として違法性がなくなり、傷害罪は成立

しないと述べる。

 通常看護師の勤務中に行う爪切り行為は、療養上の世話としての

看護行為であると推定されるが、特段の事情がある場合には、その

推定が働かない。本件では、①患者さんが高齢の認知症などであっ

たこと、②上田さんは多少の痛みや出血があっても構わないという

考えで、深く爪を切ったこと、③爪切り行為自体に楽しみを覚え、そ

れ自体を目的としていたこと、④家族らに虚偽の説明をしたこと、⑤

病棟の看護師間で、フットケアであるとの認識が共有されていな

かったことなどから、看護行為とはいえないとした。

 上田さんが控訴し、控訴審は、平成21年8月31日から平成2

2年6月24日までの間、6回の公判審理が行われた。

 弁護側は、長崎修二医師の鑑定書を提出し、平成19年当時の爪

ケアの標準的な手法を明らかにし、上田さんの爪ケアの手法も標準

的なものであることを明らかにした。すなわち、標準的な手法は、白癬

菌性肥厚爪と硬鉤彎爪の性状と形態がもつリスク回避上、ニッパーに

より、縦にもしくは横に切り込み、爪床から浮いている部分は剥離脱

落防止上、容易に切り取れる部分までは切り取ることとされており、上

田さんの手法も、その範疇に入ると鑑定し、その旨法廷で証言した。

 検察側も医学部准教授のY医師を鑑定証人として証言させた。Y

医師は、認知症患者家族への事前説明や疼痛・出血への配慮の必

要性等を証言し、上田さんの爪切りに問題点があると述べたが、反

対尋問等により、肥厚した爪の下の部分の爪床と爪甲が浮いていれ

ば、切っても問題ないこと、フットケアに精通している看護師は、シー

ツなどに引っかかって爪が剥がれる危険性があるから、知識と技量

があれば、深く切り込むことも可能であることなどを証言し、さらに、

上田さんの爪切りの状態には問題がなく、むしろ適切に切られてい

ることを認めたii。

 なお、弁護側は、控訴審の上田さんへの質問では、裁判官の理解

を容易にしてもらうために、爪の再現写真や爪切りの実際の映像な

どを使って、分かりやすく立証した。

 控訴審の中心的な争点は、「正当業務行為」の成否であった。な

お、これまで、看護行為が正当業務行為とされるための要件につい

て明確に述べる判例や学説はなかった。

 そこで、弁護側としては、これまで中心的に論じられてきた治療行

為の正当業務行為の要件を参考にし、新たな角度から述べる必要

があった。次のような主張をした。

 治療行為の正当業務行為の要件としては、①治療行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(医学的適応性)、②治

療行為が医術の基準に合致してなされること(医術的正当性)が必

要とされている。

 看護行為の正当業務行為の要件を考えるにあたっては、看護行

為の特殊性を考慮する必要がある。看護行為は、広く患者の日常生

活の世話までを含む。看護の現場では、施設の性質や状況、スタッ

フの技術、患者の数、設備の充実の度合いといった様々な制約の中

で、個々の看護師によって、創意工夫がなされ、その経験をもとに、

より良いケアを患者に提供する努力がなされている。そもそも、医療

に関わる行為に刑罰がどこまで干渉すべきかは、慎重に判断しなけ

ればならない。刑罰による過度の干渉は、医療担当者の委縮を招

き、患者が最新の医学の恩恵を受け得ないという不幸な結果を招

く。したがって、看護行為に刑罰が適用される場合の判断は、謙抑的

であるべきである。

 看護行為の正当業務行為の要件としては、①看護行為が患者の

生命・健康を維持するために必要であること(看護行為の適応性)、

②看護行為が看護技術の基準に合致していること(看護行為の正

当性)を必要とし、それで足りる。①、②の判断にあたっては、看護行

為の特殊性から、広い裁量が認められるべきである。

 看護行為の目的は、行為の性質から客観的に認められれば良く、

主観的な要件としては、不要である。心の持ちようが悪いと言われ

て、刑事裁判で有罪になるのであれば、ケアを進んでする看護師が

いなくなってしまう(看護行為の委縮)。

 患者の承諾も、承諾がなければ処罰するということになれば、刑

法の謙抑性に反する。患者の意思に明らかに反する場合を問題に

すれば足りる。なお、患者の自己決定権を尊重し、承諾を得ることは

理想であるiii。しかし、看護行為の範囲は広範囲であり、個別のケア

のすべてに承諾を要するとすることは、看護師に不可能を強いるこ

とになる。

 平成22年9月16日、福岡高等裁判所は、一審判決を破棄し、

上田さんを無罪とした。無罪の理由は、上田さんの行為は、看護行為

として正当業務行為に該当するから違法性がないというものである。

 傷害の意味については、学説上の分類があるが、爪によって保護

されている爪床部分を露出させて皮膚の一部である爪床を無防備

な状態にさらすことは、いずれの説からも傷害にあたるとしたiv。

 正当業務行為の判断枠組みとしては、その行為が、①看護の目的

でなされること、②看護行為として必要であり、手段、方法において相

当な行為であることで足りるとした。①の目的については、②の要件

を満たす場合には、特段の事情がない限り①の目的も満たすとした。

 患者の承諾については、「患者本人又はその保護者の承諾又は

推定的承諾が必要である」としたが、「一般に入院患者の場合は、入

院時に示される入院診療計画を患者本人又は患者家族が承諾する

ことによって、爪ケアも含めて包括的に承諾しているものとみること

ができ、本件でもその承諾があるv」とした。

 虚偽の説明などについては、看護目的に影響する事項であるが、

「(患者)Fの右足親指の爪については、事後の観察や確認をせず

中途半端なケアをしてしまったとの思いや、患者家族が怒っている

様子であったことなどから、その結果、I(看護部長)にも同様の虚

偽を述べたなどという被告人の説明もあり得る事態として理解でき

ること」などから、看護目的は否定されないとした。

 その上で、「被告人がH及びFの各右足親指の爪切りを行ってそ

の爪床を露出させた行為は、医師との連携が十分とはいえなかった

こと、結果的に微小ながら出血を生じていること、Fの右足親指につ

いてはアルコールを含んだ綿花を応急措置として当てたままにして

事後の観察をせず放置してしまっていたこと、事後的に患者家族に

虚偽の説明をしたことなど、多少なりとも不適切さを指摘されてもや

むを得ない側面もあるが、これらの事情を踏まえても、被告人の行

為は、看護目的でなされ、看護行為として、必要性があり、手段、方法

も相当といえる範囲を逸脱するものとはいえず、正当業務行為とし

て、違法性が阻却されるというべきである。」として、傷害罪が成立し

ないとした。

 

 傷害の定義については、一審よりもオーソドックスに判断してお

り、表面的には、一審の判断よりも後退しているが、理論上の問題で

あり、特に不当であるとはいえない。

 正当業務行為の判断の枠組みについては、基本的に弁護側の主

張に沿ったものとなっている。目的については、看護行為として必要

である、手段、方法において相当な行為であれば、「特段の事情」が

ない限り看護の目的があるとした。看護師の主観面に重きを置かな

い判断であり、評価できる。必要性・相当性の要件も、これまでの判

例の立場と基本的に同様であり、長崎医師の鑑定書の信用性を認

めて、爪ケアの文献などから、平成19年当時の一般的知見などを

踏まえて、本件爪ケアが一般的に妥当であり、個別的にも適切であっ

たとしており、評価できる。患者の承諾については、推定的承諾や包

括的承諾で足りるとし、結果的には、医療現場の実情や看護行為の

特殊性に配慮し、刑法上の介入を謙抑的にする立場をとっており、

評価できる。

 患者Fの親指の爪は「爪白癬」の可能性があり、医師による治療行

為の要否などの判断のために、医師との相談などの対応が適切で

あったと判断したが、主治医らが爪についての治療を行うような行動

に出ていないことなどから、看護師である被告人の爪切りが医療上

の禁忌に該当するとか、不必要または不相当であったとすることはで

きないとした。多くの医師が爪ケアに十分な理解がなく、放置されて

いる状況から、特に療養型病棟の実情に合致した判断と評価できる。

 捜査段階の自白調書の信用性を否定したことは、評価できる。そ

の判断過程も適切である。自白を除く関係証拠によれば、上田さん

は爪が爪床から浮いている隙間の部分にニッパーの刃を差し込ん

で、爪を切り進んで、爪床を露出させたと認められるのに、被告人の

自白調書には、本件の核心部分である行為態様について、爪床に生

着している爪甲を無理に取り去ったという意味と理解される「剥離」

ないし「剥いだ」という表現が、繰り返し多用されている。その上で、

「認知症を患い、物を言うことも、体を動かすことも、殆どできない老

人の爪を、自分の欲するままに剥ぐ、という残酷なことをすることに

は、全く躊躇はなかった」などとの表現が記載されている。被告人

は、いくらケアだと言っても、刑事は「これは爪を剥いだとしかいえな

い」、「看護師としてではなく、人としてどうなんだ、人として話をしな

さい」などと言われて、剥離行為であると決めつけられ、看護師とし

ての爪ケアであることの説明を封じられたと主張している。また、I

看護部長も、「被告人が爪を剥がしたとの認識はなかったが、検察

側から自然脱落以外は、すべて人為的に剥がすということである」と

告げられたと証言している。これらの状況から、警察官から、爪の剥

離行為であると決めつけられ、その旨の供述を押しつけられ、検察

官に対する供述でも、剥離行為を認める供述に沿って誘導されたも

のと疑わざるを得ないと指摘した。

 検察官が上告を断念し、平成22年9月30日の経過をもって、

控訴審の無罪判決が確定した。

 起訴された者の99.9パーセントが有罪とされる刑事裁判の現

実の中で、本件が無罪となった要因のいくつかを指摘すると以下の

とおりであるvi。

①何よりも、爪切りが適切になされていたという事実の重みがあること

 西岡医師、川嶋教授も、爪切り後の写真から、自信をもって証言

できたものと思われる。検察側のY証人すら、爪切り後の状態は、

パーフェクトであると認めた。このような適切な爪切りと爪剥ぎを

前提とした自白調書に矛盾があることが明らかになり、控訴審に

おいて自白調書の信用性が排除された。このような爪切りを行う

には、看護師の熱意と技術が必要であることは明らかである。よこ

しまな目的など入る余地はない。

②適切な弁護活動が行われたこと

 捜査段階での精力的な弁護活動(3名の弁護士がほぼ連日の

接見)が行われた。また、虚偽の自白をした後、荒井俊行弁護士に

よる接見により、上田さんが看護師としての誇りを取り戻し、真実

を語ることが可能となったことも大きな要因である。さらに、一審

の裁判で有効・適切な弁護活動が展開され、西岡名誉教授らの専

門家の証言を得ることができたことは、控訴審裁判官の審理の方

向性に影響を与えたと思われる。

③一審段階からの日本看護協会を中心とした専門家集団の実質的

なバックアップがあったこと

 日本看護協会は、平成19年10月4日、「日本看護協会の見

解」として、「虐待ではなく当該看護師の看護実践から得た経験知

に基づく看護ケアである。」と述べ、「爪のケアの重要性と当該看

護師の看護実践について」のパートで、上田さんの行為は、「患者

により良いケアを提供したいという専門職として責任感に基づい

た積極的な行為でした」との見解を発表したvii。さらに、西岡清医

師、川嶋みどり教授ら専門家が一審証人として、医学的、看護学的

に正当な看護ケアである旨の証言をしたviii。

④その他

 事件の勉強会や爪ケアを考える会の活動等を通して看護師ら

の理解と支援の輪も拡大して行った。

上田(國): 実際にはそのような、具体的でない記載が一般的だと思われます。どの程度具体的に記載するかも難しい問題です。水準とな

るマニュアルがない場合には、教科書や論文、およびそれを理解して

いる医師の意見をきいて、水準を立てることになります。そして、それ

に照らして当該行為に問題があるかないかを判断することになります。

井部: 私としては、本件では、そもそも患者の爪を伸び放題にしていた看護の水準こそ、問題にすべきではないかと思いました。それを検

討することなく、行われた爪ケアの適切性を判断するというのは、看護

の観点からは疑問です。

上田(國): 刑事手続上の制約もあります。いずれにしても、本件を通じて、看護行為の具体的な水準を立証することの難しさに直面しました。

井部: 話はつきないのですが、そろそろ時間となりましたので終わりにしたいと思います。みなさま、ありがとうございました。

質問1 報道されていた「虚偽の説明」とは何だったのでしょうか?

上田(里): 誰がしたのか、と家族から強く問われたときに、とっさに「自分ではない」と答えてしまったのです。爪切りをしただけでケ

アは終わりではないのに、事後の観察を忘れていました。そこで家

族に問われて、処置をしたのは自分ではないとの虚偽の説明をして

しまいました。

質問2 院内で医療安全を担当していますが、爪からの出血を発見した看護師が、院内で報告することなく、いきなり警察に通報した行為について、同院の事故に関する報告・相談のシステムはどのようになっていたのでしょうか。また、事実関係を十分に把握しないで記者会見を開き、その場で虐待と発表してしまう病院の組織風土はどのようなものだったのでしょうか。

東: 同院には報告・相談のシステムはありました。特別の思惑があったゆえの行動と思われています。また、院長、看護部長、事務長

は犯罪だと思っていませんでしたが、彼らが記者会見で患者の年齢

や日付について曖昧な発表をしたところ、記者から怒号があがり、

それに対応する中で副理事長が虐待と言ってしまったという事情が

あります。取材などが先走り、病院側が準備のできないまま記者会

見を開かざるを得なくなり、非常に混乱した結果だと思います。

 まず初めに、今回の訴訟の被告人

となった上田里美さんから、一体何を

したために起訴されることになったの

か、何を自白して不利な状況におか

れたのか、どうして自白に至ったのか、

具体的にどのような供述をしたのか、

勾留され取調べを受けていた時に、

荒井弁護士との接見によって心境が

がらりと変わったと言われていました

が、どのように変わったのかなどを伺

いたいと思います。まず、一体何をして起訴されることになったのかと

いうことから教えてください。

上田(里): 私は、患者さんの、伸びたままになっていたり白く分厚く肥厚した爪を、ただ普通に、日常の世話として、爪切りもしくは爪切

りニッパーを使って、危なくないように爪切りをしただけです。ただ

その時、たまたま、微小の出血をしてしまいました。その後、観察やご

家族への説明などが不適切であったために、ご家族の怒りを買い、

その場からつい逃げたくて、(爪切りをしたのは)私ではないという

ような嘘の説明をしたことから、あっという間に大きな事件になって

しまったというのが経緯です。 

 そして、警察署に連れていかれて、刑事さんから「何をしたのか。こ

の場所は自分を反省する場所なのだから」と言われたため、今のよ

うに答えましたが、刑事さんは全く聞く耳を持ってくれませんでした。

何度言っても、何度繰り返しても、刑事さんは「自分はそうとは判断

できない。写真をみる限り自分は爪切りをしたとは思えない。全ては

写真が物語っている。写真でしか判断しない」と言われ、毎日水掛け

論が続きました。そんな中、刑事さんの問いかけが、「看護師として

ではなく、人として話をしなさい」に変わりました。その問いかけに対

して、私は、「人として」といわれても、人である前に看護師であり、看

護師である前に人であると思っていたので、人と看護師をどう区別

したらよいのか分からなくなってしまいました。そのうちに、看護師と

しての知識などが一切ない状態で、今回自分が行ったことを見たり、

言ったりしたらどうなるのか、と考えるようになり、刑事さんが求めて

いる答えというのはこのようなものではないかしら、などと、まるで面

接試験を受けているような感覚で答えていくうちに自白(供述)調書

をとられてしまったのです。

 このように、看護師としての自分の存在を失ってしまっていたとき

に、荒井先生が接見に来られました。荒井先生は、ごく普通に、私が

日頃行っていた仕事の様子や病棟の雰囲気、どうして看護師になっ

たのかなどを聴いてくださいました。私もごく自然に話をすることが

できました。その夜、東先生が接見に来てくださり、もう1回看護師と

して話してみませんかと言ってください

ました。そうして、私は「看護師の上田」

という自分を取り戻すことができました。

それ以降は調書をとられることなく、裁

判まで頑張ることができました。

*本件は、日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」加入者である上田里美

さんから相談と支援の依頼を受けた本

保険制度サービス推進室(日本看護協

会出版会損害保険部/本保険制度運営

を日本看護協会より受託)が、日本看護協会の指示のもと、本保険制

度顧問弁護士、上田里美さんの担当弁護士、日本看護協会等と連携

し、加入者への「相談対応・支援(調査・情報収集)」の一環としての

支援活動を行ったものです。  

井部: 次は、上田さんが心を閉ざそうとしていたときに、「看護師として語っていいよ」と言われた荒井弁護士に伺いたいと思います。コ

ミュニケーションの専門家と自認している私としては、他の人には心

を開かなかった上田さんが、なぜ荒井弁護士には心を開いたのか、

大変気になるところです。

井: 私としては、上田さんがどのような志を持って、どういう思いで日々看護業務に携わってこられたのかを、白紙の気持ちでお聴き

しました。そういう中で、上田さんもこれは自分1人の問題ではない

と気づいて下さり、看護師としてのプライドをかけた思いで立ち上が

ってくれたのではないかと思っているところです。

 では、今度はコーディネーターとして、弁護士の方々に伺いたいと

思います。今回、上田さんが、ボタンの掛け違いの中で起訴され刑事

手続にさらされたこと自体は不幸なことだと思いますが、同様の手続

にさらされた他の被告人と大きく違っていたところ、恵まれていたと

ころは、本当に素晴らしい弁護団がついたということだったと思いま

す。とはいえ、そのような先生方でも立証活動で苦労された点がある

と思います。その点について、上田さんが被疑者となった最初の段階

から関わり、非常に精力的・情熱的に弁護活動をしてこられた東先生

と天久先生に、本件の弁護活動で特に苦労した点について、例えば

記録や書面の関係でこういうものが整っていたら弁護活動がもっと

効果的にできたと思われる点などについて伺いたいと思います。

東: まず自白についてですが、私は初めての接見で、泣きながら「危ない

爪を切りました、危なかったから看護

師としてほっとけなかったのです」と

言う上田さんをみて、これは報道され

ているような事件ではないと思いま

した。しかし、毎日接見に行ったにも

かかわらず、最初はまだ元気だった

上田さんが、だんだんと刑事側に取

り込まれていってしまいました。その

点の大きな反省点として、弁護人である私たちも、傷害罪で逮捕さ

れていたことから、「血が出ましたか」、「血が出てもいいと思ってい

ましたか」など、法律の専門家としての目を通した聞き方をしてしま

っていたことがあげられます。もちろん「話した内容と異なる内容の

調書には署名してはいけません」などの助言をすることはできます

が、そのような支援にも限界があります。私たち弁護人は捜査機関

が持っている証拠を最初から見ることはできません。例えば、この事

件では写真が大きな証拠でしたが、私たちが検察官から開示を受け

て写真を見たのは逮捕から既に1ヶ月半が経過した頃でした。その

間、毎日接見に行って上田さんからケアの状況を聞いていても、写

真を見ることができない状態ですから、「爪を切るとポロリと取れ

る」という状況が当時の私には分かりませんでした。そのため、コミュ

ニケーションがとりづらい状況でした。一方、刑事は爪の写真をみて

話をします。そして、「あなたは本当はそんなに悪い人ではないんだ

 上田さんは、刑事裁判の無罪確定により、看護師資格の喪失の恐

れはなくなった。

 しかし、上田さんは、逮捕された平成19年7月2日、病院から懲

戒解雇された。現在、懲戒解雇の無効と雇用関係の確認を求める民

事裁判が、福岡地方裁判所小倉支部に継続している。また、本件に

関し、北九州市から医療虐待の認定を受けており、無罪判決を受け

てこの認定の取消しを求めている。これらの手続で、上田さんの主張

が認められ、速やかな名誉回復などが図られなければならない。

 上田さんは、高齢者の爪が放置されていることを認識し、独力で

爪ケアの技術を習得し、実践してきた。他の看護師への理解を深め

ようとしたが、必ずしも十分ではなかったix。そのため、他の看護師ら

の攻撃を受けた面などがある。そこで、今回の事件をとおして、医療

の観点から、次の諸点について考察していく必要があると思われる。

①高齢者の認知症患者の多い病院施設での患者・家族の承諾をど

う確保するか。

②チーム医療体制との関係で、医師、看護師、介護士、その他のス

タッフとの連携をどう確保していくか。

③特に、治療行為と診療の補助のどちらの領域であるかが問題とな

るようなケアについて、具体的な対応のあり方をどうするか。

④看護ケアのうち、どの範囲の事項を、どのような観点からカルテ、

看護記録に記載していくべきか。

 本件が起訴され、一審で有罪となったことは、看護現場における

爪ケアなどの委縮を生じさせた面がある。しかし、今回の無罪判決と

正当業務行為の判断枠組みの内容は、看護現場に一定の安心感を

与えたのではないかと思う。

 看護行為は、経験知であるという。現場での創意工夫とその工夫

が引き継がれていかなければならない。その原動力が患者への愛

情と熱意である。

 現場の看護師の方々が、今後とも、患者のために、愛情と熱意を持

ち、技術を高め、より良い看護に取り組んでいかれることを期待したい。

11. 控訴審判決の確定

14. 医療の観点から考慮すべきこと

15. 最後に

12. 裁判で無罪となった要因は何か

13. 今後の課題などについて 夫を重ねていく中で、川嶋先生の言葉を借りれば、「経験知を重ねて

いく」中で、ケアの水準が高められているのだと思います。それゆえ

にマニュアル化は難しい。しかしそれでもケアの水準を高めるため

に積極的な心で取り組んでいくという中で、今回のようなボタンの掛

け違いが起きないようにするためには、現場でこのようなことをして

いればよかったということがあれば伺いたいと思います。

高平: 予定されている範囲内とはいえ、何らかの出血や患者さんからの痛みの訴えなど、気になったことがあれば記録しておくことだ

と思います。通常のケアの範囲内として許されることであっても、そ

れを残しておくことで自分を守ることができる、説明できる状態を作

っておくことが一つかと思います。

上田(國): 講演の中でもお伝えしましたが、「医師、看護師、介護士、そ

の他のスタッフとの連携をどう確保し

ていくか」ということだと思います。確

かにマニュアル化すると、現場の実情

を無視してマニュアルさえやれば良

いということになりかねず、結局、患

者さんのためにならないという弊害

が生じる恐れもあります。また、そもそ

も、マニュアル化が難しいこともある

でしょう。しかし、まだ定型はないかもしれないけれども、事実、現場

で改善に向けた取り組みをしているのだから、例えば、医療チーム

の研究会や打ち合わせ会などでこういうことについて話し合った、な

どと簡単にでもテーマをメモしておくことはできるのではないでしょ

うか。そうすることで、万が一のときには、チーム医療としてみなの理

解と共感と技術を伝え合う形で取り組んできていることを明らかに

できると思います。ある程度確立してマニュアル化してもよいレベル、

そこまでいかないレベル、もっと先進的なケアで看護師の創意工夫

のレベル、レベルはいろいろあると思います。それを医療チームの

中で一つの形にしていって確立する過程において、自分の頭の中だ

けにおかないということも大切なことではないかと思います。そうい

った観点から、それぞれの病院・クリニックの実情に応じて、工夫を

する余地はあるのではないかと思います。

井: 上田先生のご指摘に関連して、一審判決では、本件の爪切りについて、ケア目的を否定するという誤った認定がなされましたが、

その根拠となった1事情として、爪ケアが職場内で理解されていな

かったという点があげられていました。これに対して控訴審は、傷害

罪の成否を判断する上では職場内での理解は関係ないとしました。

 しかし、控訴審はあくまで、「刑法上の観点からは」職場内での理解

の有無は関係ないといっているだけで、そもそも裁判に巻き込まれ

ないようにするためには、やはり職場内のコミュニケーションが重要

になろうかと思います。コミュニケーションをして、仮に結論は出なか

ったとしても、やりとりをしたということだけでも記録に残しておくべ

きだと思います。合意内容だけではなく、話し合いがもたれたという

ことだけでも書面化されていると、何かあったときに違うと思います。

 さて、私としては、控訴審判決の特徴は3点あると思います。1点目

は、1審が行為者の主観をかなり重視したのに対して、客観的な要

素を重視したこと、2点目は、判断の仕方が総合的包括的であったこ

と、3点目は、患者の包括的ないし推

定的承諾は必要であるが、個別的承

諾は不要とした点です。この3点目の

承諾について、正当業務行為とされ

るため必要な要件の1つと考えてい

るのか、判決文の書きぶりからは理

解が難しいと思いますが、このあたり

について弁護団の先生方のご見解

を伺いたいと思います。

高平: 私は、要件とされていると考えます。そしてその承諾には推定的承諾が含まれていると考えています。そして、患者にメリットが

ある行為については通常患者の承諾が得られると考えられますから、

正当業務行為がかなり広く緩やかに成立することを認めた判決だと

理解します。このことは、看護の実情を考えると評価できます。ただ、

本判決が示したのは、刑事上の責任を負わない基準である点に注

意が必要です。これとは別に、行政上の責任や民事上の責任があり

ます。そして、契約を基礎とした民事上の責任においては、患者の承

諾がよりいっそう重視される可能性があると思います。そこで、看護

師が何らかのケアをするとき、特にそれがケアであることについて

理解を得にくい行為をする場合には、それがケアであることを事前

に説明しておくことが、民事上の責任を負わない上で、必須になって

くると思います。

上田(國): 私も、判決の書きぶりからは、要件の1つとなっているとみています。しかし、必ずしも新たな要件というわけではなく、歴史的

にも患者の自己決定権は尊重される傾向にある以上、当然前提としな

ければならないと考えられたのだと思います。また、控訴審では、自己

決定権に焦点をあてて弁護活動をしたことの結果でもあると思います。

井: 控訴審が判示した①看護の目的、②看護行為としての必要性・相当性という要件は、いろいろな事実を総合して認定されるの

に対して、承諾はあったかなかったかという事実そのものです。果た

して承諾という1つの事実の有無だけで直ちに正当業務行為として

の社会的相当性が決定しうるのかという疑問はありますが、実務上

は要件の一つと考えることになるのでしょう。

 その中で本判決が、包括的承諾の根拠として「入院診療計画」を

指摘している点は注目すべきでしょう。「入院診療計画」は、インフォ

ームド・コンセントの観点から作成すべきものと理解されていますが、

刑法的な観点からの適法性を確保するという視点でも、入院診療計

画に何を書いた上で承諾をもらうかを考えることになるでしょう。

上田(國): 本判決を受けて、特に、高齢者で認知症の患者の多い病院では、診療やシステムのあり方、どのような文言の入院診療計画

をつくるべきなのかなどについて、自院の状況に応じて見直す必要

があると思います。例えば、やや侵襲を伴うケアを看護業務として行

っている場合には、それについても看護業務と認定されるような文言

に看護計画を変更・改訂することが必要になるのではないでしょうか。

井部: 看護計画の文言は、「QOLを維持する、清潔を保持する」のように書かれることが多いと思いますが、そのような書き方では正

当業務性を判断するための看護水準としては足りないのでしょうか。

よね」、「4つ事件のうち2つは起訴されないと思うよ」などと言われる

ことによって、だんだんと上田さんは刑事の方にとりこまれてしまい

ました。最近の冤罪事件の例からも分かるように、被疑者は取調べ

の中で非常に弱い心理状態におかれます。上田さんもだんだんと

「先生、いいのです。刑務所に行くなら早く行って、早く家族のところ

に帰りたい。そうすれば怒っている患者・家族のみなさんも納得する

でしょう」と言うようになってしまいました。そんな心理状態になると、

弁護人の励ましもかえって鬱陶しく感じられるようになってしまいま

す。そんな閉塞感が生じてきた頃に、荒井弁護士が接見に来てくだ

さいました。その時に、私たち弁護人ができていなかった「上田さん

を看護師としてみる」ということを実践してくださり、上田さんが立ち

直れたということが捜査段階の中でありました。

 次に、立証段階で難しかったことは、本件の爪の写真を見て、適切

なケアなのか否かについて意見を言ってくださる方を探すことでした。

もしみつかったとしても、その方が裁判で実際に証言をしてくれるの

かということも大きな問題でした。医療者にとって、他の医療者の医

療内容の良し悪しを言うこと自体、大きなプレッシャーだと思います

し、法廷で証人として証言をし、検察官の反対尋問にさらされるとな

るとなおさらです。このような証人を探すことは、弁護人だけでは無理

だったと思います。しかし、本件では、早くから看護協会の方々が関わ

ってくださったため、医師・看護師の方をご紹介いただき、さらに、間

をつないでくださいました。その点で本当に運がよかったと思います。

天久: 刑事からは1日6~7時間にも及ぶ取調べの間中、「あなたはこれ

がケアだといえるのか」、「人としてど

うなのですか」、「看護師上田と人とし

ての上田を切り離して考えなければ」

と言われ、他方、弁護人の接見時間

は頑張っても1回1~2時間です。そ

のような状況の中で被疑者や被告人

が時間や圧力に屈してしまうことは

仕方がないところもあると思います。

その上、上田さんの場合は接見禁止となっていたため、家族との連

絡手段も全く断たれ、孤立感を高める中で自白をとられてしまいま

した。確かに、本件のように客観的事実についての専門的評価が分

かれる事件では、例えば虐待するつもりでしたというような行為者の

主観面を、なんとかしてとろうとする意思が捜査機関に働いても不

思議ではないのかもしれません。そのため、看護師が何か処置をし

た時は、申し送りをした方がいいと思ったことについては、できれば

積極的に記録しておくとよいと思います。そうすれば事件になった場

合、弁護人はその記録について証拠開示を受けた上で精査し、事件

当時の行為者の内心、例えばケアとして行ったのか虐待の意図だっ

たのかを、その記録を間接事実として用いることによって、立証する

ことができる場合があると思います。

井: 続いて、立証活動についてもう少しお聞きしたいと思います。今回の事件のように、看護行為自体が適切であったのかどうなのか

が問題となっている事件においては、医療事故における医療水準と

同様に、当該看護行為が看護の一般的水準からみてどうなのかとい

うことを弁護人として主張していかなければならない場面があった

と思います。そのケアの水準を考えていく上で、本件では、当時爪切

りに関するマニュアル類があまりなかったと思うのですが、文献収集

のご苦労などについて伺いたいと思います。

東: 福岡県看護協会の協力も得て文献収集を行いましたが、たしかに爪切りのマニュアルは殆どありませんでした。あっても、出血に

気をつけて、ケアをするというような一般的な内容のものでした。そ

もそも、爪ケア自体が非常に新しいケアの領域で、文献も過去5年以

内に出版されているものが7割を超えていました。特に、糖尿病の方

のフットケアについては詳しい文献があるのですが、格別病気では

ない高齢で寝たきりという療養型病床における爪切りについては、

文献がなく、現場の処置に任されているのが実情でした。本件事件

が起きた病院の事件後の調査でも、患者の7割以上に爪の変形・白

癬・肥厚などがあり、それに伴う自然脱落などは多数みられましたが、

医師が診断しているものはほとんどありませんでした。だからといっ

て、この病院が全国的に見て必ずしもレベルが低いというわけでは

なく、そのような病院も多いようでした。また、爪ケアにも熱心に取り

組んでいるという鶴巻温泉病院にも行って、実際の爪ケアを見せて

いただきましたが、同院のマニュアルも一般的な内容で、具体的な

方法については看護師が見て覚えて受け継がれていくということで

した。同院からは上田さんが切った後の爪の写真についても前向き

な意見をいただき、弁護人としては大変勇気づけられたのですが、

裁判における立証には乗りにくく苦労しました。そこで、やはり、まず

文献からの立証が必要ということで、老年看護に詳しい地元の医師

に協力していただき、文献ではこのように書かれており、上田さんの

場合もその範疇に入るということをまとめていただきました。

 今回、文献をみて怖いと思ったのは、文献には現場で行っている

方法より安全な方法が詳しく書かれていることです。そのため、文献

だけをそのまま提出すると、裁判所は行間にかかれていることを抜

かして形式的判断をしてしまうおそれがあるので、そういう点に気を

つける必要性についてこの裁判を通じて学びました。

高平: やはり、肥厚爪など高度な異常がある爪についての特別な爪切り

マニュアルを備えている病院はほと

んどないのではないのかと思います。

その1つの原因としては、看護師の行

為には侵襲をほとんど伴わない行為

が多く含まれているところ、そもそも

侵襲が予定されていないから、こうい

うやり方をすると危ないという認識を

徹底する必要性がないことがあげら

れると思います。ただ、患者さんの状態をよりよくしてあげたいとい

う努力の中で、ケアが生まれ、看護が発達していくというプロセスを

踏んでいくと思われますので、そうなると、当然その段階ではマニュ

アルはないわけです。患者の状態に合わせて侵襲の少ないケアをし

ているうちにある程度の看護の方法が定まっていくところが、看護の

世界の難しさであり、期待されているところでもあると思います。そし

て、そこに文献収集の難しさもあったと考えています。

井: たしかに、看護行為と言っても多種多様ですから、全てマニュアル化することは現実的に不可能でしょう。加えて、設備や物理的

環境も病院ごとに異なります。その中で看護師の方々が日々創意工

井部: 昨今、「チーム医療」といわれますが、今回の事件で弁護士がチームとしてどのように機能したのか、「チーム弁護」の活動も興

味深いと思います。そして、今回の裁判で無罪を勝ち得た要因は、事

実の重みがあったことはもとより、この「チーム弁護」による適切な弁

護活動が行われたことが大きいと考えます。また、日本看護協会を

中心とした支援活動の結果、日本看護管理学会の意見書、福岡県看

護協会の地元での支援活動、無罪を求める3万人の署名、皮膚科専

門医の西岡先生、看護の川嶋先生といった医学・看護の専門家によ

る証言などが得られたことも具体的な要因だったと思います。何より

も、看護・医療の専門家たちの、「第1審判決は不当だ」という思いが

結集され、実際の活動につながったことが無罪判決を得る上で非常

に効果があったのではないかと思っているところです。本日は、「チ

ーム弁護」については荒井弁護士が、看護については私が担当とい

うことでセッションを進めてまいります。

1. 専門職の職務上のトラブルと法律問題

4. 公判前整理手続

6. 一審裁判所の判決内容

7. 控訴審の審理

9. 控訴審判決

10. 控訴審判決の評価

8. 正当業務行為の主張

5. 公判

2. 刑事裁判の重要性

3. 北九州爪ケア事件の経緯などについて

看護師の場合は、保健師助産師看護師法9条で、①罰金以上の刑に処せられた者、②業務に関し犯罪又は不正の行為のあった者、などを欠格事由と定めている。同法14条1項で、看護師等が9条各号のいずれかに該当するときには、厚生労働大臣は、戒告、3年以内の業務停止、免許の取り消しの処分をすることができる。裁判長の質問「F患者さんの場合に、出血がなければ、これは非常にパーフェクトなフットケアであったと、こういう評価でよろしいんですか。」、Y医師「それでいいと思います。」医療過誤についての刑事責任で、患者の承諾を得なかったというだけでは、傷害罪として立件・処罰されていない。①生理的機能障害説、②身体の完全性侵害説、③折衷説(生理機能の傷害又は身体の外貌への著しい変化)さらに、「本件行為についての個別的な承諾がないことをもって正当業務行為性は否定されない」と明確に判示している。なお、上田さんが困難な状況の中で真実を訴え続けたこと、家族の方々の支えがあったことが不可欠の要因であったことは、いうまでもない。逮捕後3カ月の時期に、このような見解を発表することは、通常極めて困難である。見解発表に至るまでの調査とその後の内部的な調整において、多くのご苦労があったものと推察される。通常、このような先生方に鑑定証言を求めることは困難なことが多い。看護業務の忙しさなどから、爪ケアが見過ごされがちである。

ⅱⅲⅳⅴⅵⅶⅷⅸ

会場からの質問

社団法人 日本看護協会「看護職賠償責任保険制度」第10回特別講演会(2010年11月7日)

Summary

「看護行為を巡る法律問題」北九州爪ケア事件の判決から考えること

講演後セッション

コーディネーター

Session

上田 里美上田 國廣東  敦子天久  泰高平 奇恵

看護師

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授(控訴審主任弁護人)

弁護士 黒崎合同法律事務所(第1審主任弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 北九州第一法律事務所(第1審弁護人、控訴審弁護人)

弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教(控訴審弁護人)

井部 俊子荒井 俊行

聖路加看護大学 学長 社団法人日本看護協会 副会長

弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所 パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授「看護職賠償責任保険制度」顧問弁護士

上田 里美 氏

東 敦子 氏

天久 泰 氏

井部 俊子 氏

高平 奇恵 氏

上田 國廣 氏

 井 俊行 氏

2004年11月司法試験合格。2005年4月司法研修所入所。2006年10月弁護士登録、福岡県弁護士会所属。福岡県弁護士会子どもの権利委員会、民事介入暴力対策委員会等委員を併任。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

天久 泰 氏弁護士  北九州第一法律事務所

あめく やすし

1972年4月福岡県弁護士会へ弁護士登録、1997年4月から1998年3月まで福岡県弁護士会会長、1998年4月から1999年3月まで日本弁護士連合会副会長、2004年4月から現在まで九州大学大学院法学研究院教授(刑事弁護論、ロイヤリング・法交渉等を担当)、弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所代表社員。北九州爪ケア事件控訴審の主任弁護人として弁護活動を行った。

上田 國廣 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員 九州大学大学院法学研究院 教授

うえだ くにひろ

九州女子大学附属高等学校衛生看護専攻科卒業。昭和61年労働福祉事業団総合せき損センター入職。平成2年同センター退職、同年北九州老人病院(現北九州八幡東病院)入職。平成19年7月同病院懲戒解雇。在職中は看護部業務改善委員会委員長、摂取・嚥下委員会委員長を務めた。元地区医師会看護専門学院非常勤講師。日本褥創学会員。

上田 里美 氏看護師 

うえだ さとみ

1995年九州大学法学部法律学科卒業、1997年司法試験合格。2000年弁護士登録。2005年特定非営利活動法人北九州ダルク監事。離婚事件、少年事件等家庭裁判所にかかる事件を多数手がけている。また犯罪被害者給付金の支給をめぐる裁判を通じて、犯罪被害者を支援する活動にも関わっている。2007年、北九州爪ケア事件の弁護人となり、捜査段階から控訴審まで弁護活動を継続した。

東 敦子 氏弁護士 黒崎合同法律事務所

ひがし あつこ

1969年聖路加看護大学卒業、18年間聖路加国際病院に勤務。この間、聖路加看護大学大学院修士課程修了。1987年から日本赤十字看護大学講師、その後、博士課程に進学。1993年から聖路加国際病院看護部長・副院長を10年間務めたのち、聖路加看護大学教授、学長となる。社団法人日本看護協会副会長。

井部 俊子 氏聖路加看護大学 学長社団法人日本看護協会 副会長

いべ  としこ

東京大学理学部物理学科卒業。同大学院法学政治学研究科修士課程修了。米国シカゴ大学・ペンシルバニア大学ロースクール修了。弁護士及びニューヨーク州弁護士。金沢工業大学大学院客員教授等を併任。主な業務分野は、医療関連法務、企業法務全般、知的財産関連法務、インターネット関連法務、独占禁止法関連法務、事業再生。

井 俊行 氏弁護士・ニューヨーク州弁護士 奥野総合法律事務所パートナー弁護士 金沢工業大学大学院 客員教授

あらい としゆき

2007年九州大学法科大学院修了、司法試験合格。2008年福岡県弁護士会に弁護士登録、九州大学大学院法学研究院助教。福岡県弁護士会裁判員本部委員、裁判員裁判専門チーム、刑事弁護等委員会委員、子どもの権利委員会委員を併任。日本弁護士連合会人権擁護委員会難民認定問題特別部会委員。北九州爪ケア事件控訴審の弁護人として弁護活動を行った。

高平 奇恵 氏弁護士 弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 九州大学大学院法学研究院 助教

たかひら きえ

講 師コーディネーター

Profile

弁護士弁護士法人九州リーガル・クリニック法律事務所 代表社員九州大学大学院法学研究院 教授

Kunihiro Ueda上田 國廣うえだ くにひろ