作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 de viris …31 作者不詳...

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31 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris illustribus urbis Romae アルバの王プロカにはアムリウスとヌミトルという息子がいた。王は息子らに、一年交代で王 位に就き代わる代わる統治せよ、と言い遺した。ところがアムリウスは兄に支配権を譲らなかっ たばかりか、彼の血筋も絶やしてしまおうと、その娘レア・シルウィアをウェスタの祭司に任じ た。そうして彼女を永久に純潔のままにしておこうとしたが、彼女はマルス神に犯され、レムス とロムルスを生み落とした。そこでアムリウスはレアを牢獄に幽閉し、赤子をティベリス川に投 げ捨てたが、水流が彼らを川岸に打ち上げてくれた。彼らの泣き声のする処に牝狼が駆けつけ、 自分の乳で赤子を養った。まもなく羊飼いのファウストゥルスが彼らを拾い上げ、妻のアッカ・ ラウレンティアにその養育のために託した。後に二人はアムリウスを弑し祖父のヌミトルを王座 に復位させると、自身らは羊飼いを糾合して町を建設した。ロムルスは鳥占で勝者となり ぜなら彼が十二羽の鷹を目撃したのに対し、レムスは六羽しか目にしなかったから この町を 「ローマ」と呼んだ。更に彼は、市壁よりもまず先に法で町の守りを固めようと、何びとたりと も防塁を飛び越えること相成らぬ、と布告した。けれどもレムスはこれを嘲って飛び越えてしま い、そのため百人隊長のケレルに鍬で殺された、と伝えられる。 ロムルスは難民のために避難所を開放し、大軍を興したが、配偶者がいないと気づき、そこで 使節を送って近隣諸市からこれを求めた。だが使節が拒絶されたため、彼はコンスアリアの祭り を催すと装い、祭りに大勢の男女がやって来たところで、自分の部下に合図を送り娘たちをさら わせてしまった。彼女らの中でもひときわ美しい娘が皆の大絶賛を受けながら運ばれて行くと、 彼女はタラッシウスの処に連れて行かれるのだ、との返答が返ってきた。この結婚が幸運な結果 に終わったのに因み、すべての結婚で「タラッシウス」という名を使うべしと定められた 1 。ロー マ人が 2 近隣諸市の女を掠奪した後、最初にローマに戦争を仕掛けてきたのはカエニナ人であった。 ロムルスは彼らに向けて進軍すると、カエニナの軍を叩きのめし、指揮官アクロを一騎打ちで倒 した。彼はその「見事な戦利品 スポリア・オピマ 」をカピトリウム丘でユピテル・フェレトリウス神に奉献した。 女を奪われた報復にローマに対して戦争を仕掛けてきたのはサビニ人であった。そしてローマに 迫りつつあった時、彼らはタルペイアという娘が供儀に使うための水を汲みに降りてきたところ に出くわした。ティトゥス・タティウスは、もし我が軍を 市 カピトリウム 3 導き入れてくれたら好きな 褒美を遣わそう、と彼女に申し出た。娘は、貴方たちが左手に持っているものを頂戴、と言った 1 Sher. institutum est...uteretur 「使うべしと定められた」 Pichl. institutum est...iteretur 「繰り返すべ しと定められてきた」 2 Sher. Romani 「ローマ人が」 Pichl. Romani vi 「ローマ人が力ずくで」 3 Sher. in capitolium 「市砦 カピトリウム に」 Pichl. in arcem 「市砦 アルクス に」 1 2

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Page 1: 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris …31 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris illustribus urbis Romae アルバの王プロカにはアムリウスとヌミトルという息子がいた。王は息子らに、一年交代で王

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作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』

De vir is i l lustr ibus urbis Romae

アルバの王プロカにはアムリウスとヌミトルという息子がいた。王は息子らに、一年交代で王

位に就き代わる代わる統治せよ、と言い遺した。ところがアムリウスは兄に支配権を譲らなかっ

たばかりか、彼の血筋も絶やしてしまおうと、その娘レア・シルウィアをウェスタの祭司に任じ

た。そうして彼女を永久に純潔のままにしておこうとしたが、彼女はマルス神に犯され、レムス

とロムルスを生み落とした。そこでアムリウスはレアを牢獄に幽閉し、赤子をティベリス川に投

げ捨てたが、水流が彼らを川岸に打ち上げてくれた。彼らの泣き声のする処に牝狼が駆けつけ、

自分の乳で赤子を養った。まもなく羊飼いのファウストゥルスが彼らを拾い上げ、妻のアッカ・

ラウレンティアにその養育のために託した。後に二人はアムリウスを弑し祖父のヌミトルを王座

に復位させると、自身らは羊飼いを糾合して町を建設した。ロムルスは鳥占で勝者となり ‐ な

ぜなら彼が十二羽の鷹を目撃したのに対し、レムスは六羽しか目にしなかったから ‐ この町を

「ローマ」と呼んだ。更に彼は、市壁よりもまず先に法で町の守りを固めようと、何びとたりと

も防塁を飛び越えること相成らぬ、と布告した。けれどもレムスはこれを嘲って飛び越えてしま

い、そのため百人隊長のケレルに鍬で殺された、と伝えられる。

ロムルスは難民のために避難所を開放し、大軍を興したが、配偶者がいないと気づき、そこで

使節を送って近隣諸市からこれを求めた。だが使節が拒絶されたため、彼はコンスアリアの祭り

を催すと装い、祭りに大勢の男女がやって来たところで、自分の部下に合図を送り娘たちをさら

わせてしまった。彼女らの中でもひときわ美しい娘が皆の大絶賛を受けながら運ばれて行くと、

彼女はタラッシウスの処に連れて行かれるのだ、との返答が返ってきた。この結婚が幸運な結果

に終わったのに因み、すべての結婚で「タラッシウス」という名を使うべしと定められた1。ロー

マ人が2近隣諸市の女を掠奪した後、最初にローマに戦争を仕掛けてきたのはカエニナ人であった。

ロムルスは彼らに向けて進軍すると、カエニナの軍を叩きのめし、指揮官アクロを一騎打ちで倒

した。彼はその「見事な戦利品ス ポ リ ア ・ オ ピ マ

」をカピトリウム丘でユピテル・フェレトリウス神に奉献した。

女を奪われた報復にローマに対して戦争を仕掛けてきたのはサビニ人であった。そしてローマに

迫りつつあった時、彼らはタルペイアという娘が供儀に使うための水を汲みに降りてきたところ

に出くわした。ティトゥス・タティウスは、もし我が軍を 市 砦カピトリウム

に3導き入れてくれたら好きな

褒美を遣わそう、と彼女に申し出た。娘は、貴方たちが左手に持っているものを頂戴、と言った

1 Sher. institutum est...uteretur 「使うべしと定められた」 Pichl. institutum est...iteretur 「繰り返すべしと定められてきた」 2 Sher. Romani 「ローマ人が」 Pichl. Romani vi 「ローマ人が力ずくで」 3 Sher. in capitolium 「市 砦

カピトリウム

に」 Pichl. in arcem 「市砦アルクス

に」

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Page 2: 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris …31 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris illustribus urbis Romae アルバの王プロカにはアムリウスとヌミトルという息子がいた。王は息子らに、一年交代で王

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が、無論それは指輪と腕輪のことであった。ではそれを遣わそう、との約束に騙され、彼女がサ

ビニ人を市砦アルクス

に導き入れると、その場でタティウスは盾で彼女を押し潰すよう命じた。というの

も、彼らは左手に盾も持っていたからである。ロムルスはタルペイアの丘を占拠していたタティ

ウスに向けて進軍し、現在ローマの広場フォルム

のある場所で戦闘を開始した。ここでホストゥス・ホス

ティリウスが猛勇を振い戦いつつも討死にし、彼の死でローマ軍は総崩れとなって潰走を始めた。

そこでロムルスがユピテル耐久神ス タ ト ル

に神殿を奉献する誓いを立てると、偶然かはたまた神通力か、

軍は踏み止まったのである。その時伝承では4掠奪された女たちが進み出て、一方では母として、

他方では妻として懇願し5、和平を成立させた。ロムルスは条約を結び、サビニ人をローマ市に迎

え入れ、サビニ人の町クレスに因んで彼の民を「クイリテス」と呼んだ。彼は百人を元老院議員

とし、その忠孝心のゆえに「父祖パトレス

」と命名した。騎兵から成る三つの百人隊を設立し、これらを

自分の名を取り「ラムネス」、ティトゥス・タティウスに因み「ティキネンセス6」、そして両者の

共有した聖杜ルクス

に因み「ルケレス」と命名した。平民については三十のクリア区に配分し、掠奪さ

れた女たちの名を取って各々を命名した。だが彼は牝羊沼で軍の閲兵を行っている際中、姿を消

してしまった。それが元で元老院と市民との間に争乱が起こると、ユリウス・プロクルスという

名の貴族が民会の前に進み出て、誓いを立ててこう宣言した。ロムルスは神々の元へと去りゆく

際、クイリナリスの丘でひときわ尊厳なる姿をまとって自分の前に現れ、「民は争いを控え、徳を

求めよ。さすれば全世界の盟主となろう」と教示された ‐ と。この人物の証言は信を得た。そ

してクイリナリスの丘にはロムルスを祀る神殿が建立され、彼自身が神として崇められ、クイリ

ヌス神と呼ばれたのである。

ロムルスが神格化された後、争乱が生じたため7、ポンポニウスの子ヌマ・ポンピリウスがサ

ビニ人の町クレスより招かれることになった。彼は鳥占の結果が吉と出たのでローマにやって来

ると、荒々しい民を宗教の力で宥めようと、数々の供儀を定めた。ウェスタ女神の神殿を建て、

ウェスタの巫女を選出した。ユピテル神、マルス神、クイリヌス神のための三人の祭司フラメン

を定め、

マルス神の祭司である十二人のサリイ祭司団 ‐ その長は「舞踊団長プ ラ エ ス ル

」と呼ばれる ‐ を定めた。

最 高 神 祇 官ポンティフェクス・マクシムス

を選任し、双面神ヤヌスの門を建立した。また一月と二月を加えることで、一

年に十二の月を割り当てた。そして彼は、数多くの有用な法やその他すべてのものは、彼の妻で

あるニンフのエゲリアに命ぜられて作っている風を装った8。彼は極めて公明正大であり、それゆ

え彼に対して戦争を仕掛けようとする者は誰もいなかった。王は病に倒れヤニクルムの丘に葬ら

4 Sher. in memoria 「伝承では」 Pichl. in medium 「中央に」 5 Sher. hinc matres inde coniuges deprecatae 「一方では母として、他方では妻として懇願し」 Pichl. hinc patres inde coniuges deprecatae 「一方では父に対し、他方では夫に対し懇願し」 6 Sher. Ticinenses 「ティキネンセス」 Pichl. Tatienses 「タティエンセス」 7 Sher. cum seditiones orirentur 「争乱が生じたため」 Pichl. cum diu interregnum esset et seditiones orirentur 「長らく王の空位が続き争乱が生じたため」 8 Sher. leges quoque plures et utiles, omniaque ... simulavit 「数多くの有用な法やその他すべてのものは…装った」 Pichl. leges quoque plures et utiles tulit, omnia quae gerebat ... simulans 「彼の行っているすべてのことは…装いつつ、数多くの有用な法案を提出した」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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れたが、何年も後にその場所からは書物の入った柩9が某テレンティウスの手で掘り起こされた。

これらの書物は、若干の供儀にはさしたる根拠の無い旨を記していたため、元老院の決定により

焼却処分とされた。

トゥルス・ホスティリウスは対サビニ戦で優れた働きを見せたため王に選任されると、アル

バ市に宣戦布告し、その戦を三つ子同士の勝負で終結させた。アルバ市をその将メティウス・フ

フェティウスの不実の咎で破壊し、アルバ市民にローマに移住するよう命じた。彼は「ホスティ

リウスの元老院議事堂」を建設し、コエリウス丘をローマ市に加えた。だがヌマ・ポンピリウス

を模倣して犠牲を捧げている最中、ユピテル顕現神エリキウス

を宥めることができず、雷に打たれて王宮も

ろとも焼死した。

ローマとアルバの間に戦争が勃発した際、両軍の将ホスティリウスとフフェティウスは、少人

数の勝負で10事を終わらせるのが良かろうと考えた。そしてローマ方にはホラティウス家の三つ

子がおり、アルバ方にはクリアティウス家の三兄弟がいた11。条約が結ばれ彼らが打ち合う中、

たちまちローマ側の二人が討死にし、アルバ側の三人が手傷を負った。一人残ったホラティウス

は無傷ではあったものの、三人相手では互角の勝負にならないので、逃げ出す振りを装い、間合

いを見計らって一人ずつ倒していった12。そして戦利品を背負って引き揚げる途中、妹に出会っ

たが、妹は自分の婚約者であったクリアティウス兄弟の一人の軍服を目にして嘆き始めた。兄は

その彼女を殺した。この咎により彼は二人委員の法廷で断罪されたが、民会に上訴した。そこで

彼は父の涙のおかげで赦免され、民会によって償いのために頚くび

木き

の下へと送られた。この頚木は

今も道をまたいで架かっており、「妹の頚木ソ ロ リ ウ ム

」と呼ばれている。 アルバ軍の将メティウス・フフェティウスは、自分が戦争を三つ子の勝負だけで終わらせてし

まったことで市民の憎悪を受けていると悟り、事態を正そうと、ウェイイ市とフィデナエ市を対

ローマ戦に焚きつけた。彼自身はトゥルスの13援軍として召喚されたが、軍勢を丘の上に撤退さ

せ、成り行きを見守っていた。この状況を呑み込んだトゥルスは、メティウスは私の命令でその

ようにしているのだ、と大声で叫んだ。これを聞いた敵軍は怖れをなし、敗北した。翌日メティ

ウスがトゥルスに祝辞を送るべく現れると、彼は王の命令で四頭馬に縛り付けられ、八つ裂きに

された。

アンクス・マルキウスはヌマ・ポンピリウスの母方の孫にあたり、その公正さと宗教心にお

いて祖父に似ていた。彼は戦争でラティニ人を征服した。アウェンティヌス丘とムルキウス丘を14

9 Sher. fercula 「柩」「輦台」 Pichl. arcula 「小箱」 10 Sher. certatione 「勝負で」 Pichl. certamine 「戦いで」 11 Sher. Et erant 「そして…いた」 Pichl. Erant 「いた」 12 Sher. singulos per itervalla interfecti 「間合いを見計らって一人ずつ倒していった」 Pichl. singulos per intervalla, ut vulnerum dolor patiebatur, insequentes interfecit 「傷の痛みが襲う間合いを見計らって、一人ずつ追っ手を倒していった」 13 Sher. Tullo 「トゥルスの」 Pichl. ab Tullo 「トゥルスによって」 14 Sher. Aventinum et Murcium montes 「アウェンティヌス丘とムルキウス丘を」 Pichl. Murcium et

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ローマ市に加え、新しい市壁で町を囲った。船の建造に用立てるため森林を接収し、塩田にかけ

る税を定めた。彼は牢獄を建設した最初の人物であった。また海運に適した植民市として、オス

ティアをティベリス川の 河 口オスティウム

に建設した。彼は外交使節が賠償要求を行う時に行使するための

「外交祭司法」をアエクイクリ族から模倣したが、この法はフェルトル・レシウスが最初に考案

したものであった15。だがこれらの業績を数日のうちに成し遂げた後、夭折してしまったため、

期待通りの王であると実際に示すことは叶わなかった。

ルキウス・タルクイニウス・プリスクス・ルクモは、キュプセロスの僭主政を逃れてエト

ルリアに移住したギリシア人デマラトスの息子であった16。彼自身は「ルクモ」と呼ばれていた

が、タルクイニイ市を発ってローマへと向かった。町に辿り着こうという処で、鷲が彼の頭巾を

さらってしまった。だが鷲は高くまで舞上がると、再びそれを元に戻した。卜占に長けていた妻

のタナクイルは、これは王位が彼のものになる予兆なのだ、と悟った。タルクイニウスはその財

力と勤勉さで地位を築き上げ、更にはアンクス王の贔屓さえも手に入れた。そしてアンクス王に

その子供たちの後見人となるよう遺言されたが、彼は王位を簒奪し、まるでそれを合法的に手に

入れたかの如くに行使した。彼は百人の議員を元老院に選出し、これらは「小氏族」出身議員と

呼ばれた。また騎士の百人隊の数を倍増させたが、卜占官アットゥス・ネウィウスの判定に妨げ

られ、その名を変えることは叶わなかった。なぜならアットゥスは剃刀と砥石を使って彼の卜占

術の信憑性を証明してみせたからである。王は戦争でラティニ人を征服し、大 競 技 場キルクス・マクシムス

を建設し、

大競技祭を創設した。サビニ人と古ラティニ人に対する戦勝の凱旋式を挙げ、石の市壁でローマ

市を囲った。十二歳になる息子には、戦闘で敵を倒したとの由で紫縁の長衣トーガ・プラエテクスタ

と護符を授け、こ

の時以降これらは自由民の少年のしるしとなった。だが後に彼は、アンクスの子供たちの送り込

んだ刺客の策略にかかって王国から17呼び出され、弑された。

セルウィウス・トゥリウスはコルニクルム人プルス18と捕虜のオクレシアの息子であった。

彼がタルクイニウス古王の館で養育を受けている頃、炎が現れて彼の頭部を包み込むことがあっ

た。この光景に、タナクイルはこれが最高の地位を予兆しているのだと悟り、この子を自分の子

らと同じように育てるよう夫を説き伏せた。彼は青年になった時、娘婿としてタルクイニウスに

迎え入れられ、そして王が殺害された時には、タナクイルが高みより19民衆を見下ろしてこのよ

うに告げた ‐ 古王は極めて重い傷を負ったが、致命的なものではなく、当面自分が回復に向か

Ianiculum montes 「ムルキウス丘とヤニクルム丘を」 15 Sher. Fertor Resius excogitavit 「フェルトル・レシウスが考案したものであった」 Pichl. fertur Rhesus excogitasse 「レススが考案したものであったと伝えられる」 16 Sher. Priscus Lucumo graeci Demarati filius qui... 「プリスクス・ルクモは…ギリシア人デマラトスの息子であった」 Pichl. Priscus, Demarati Corinthii filius, eius, qui...「プリスクスは…コリントス人デマラトスの息子であった」 17 Sher. regno 「王国から」 Pichl. regia 「王宮から」 18 Sher. Puri 「プルス」 Pichl. Tullii 「トゥルス」 19 Sher. altiore 「高みより」 Pichl. altiore loco 「高所より」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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う間は、民がセルウィウス・トゥリウスの命に従うよう御所望にあらせられる、と。セルウィウ

ス・トゥリウスはまるで請われてであるかの如くに統治を開始したが、それでも適正に支配権を

行使した。彼は幾たびもエトルリア人を征服し、クイリナリス丘、ウィミナリス丘、エスクイリ

アエ丘をローマ市に加え、防壁と掘割を造った。市民を四つのトリブス区に配分し、後には平民

に穀物を支給した。また度量衡、及びケントゥリア区の財産等級を定めた。彼はラティウム諸市

の人々に対し、エペソスのディアナ神殿を建てた人々の例に倣って彼ら自身もディアナ神殿をア

ウェンティヌス丘に建立するよう説得した。そして神殿が完成した時、一人のラティニ人の処に

目を見張るほど巨大な雌牛が生まれ、夢でこのような託宣が告げられた ‐ この雌牛を20犠牲に

捧げた市民の属する国は、最大の帝国を手にするだろう、と。そこでこのラティニ人は雌牛をア

ウェンティヌス丘に引いて行き、ローマ人の祭司に事情を説明した。すると祭司は、汝はまず先

に清流で手を清めなければならぬ、と抜け目なく告げた。そしてラティニ人がティベリス川に降

りて行っている隙に、この祭司は雌牛を犠牲に捧げてしまった。かようにして彼は、ローマ市民

のためには帝国を、自分自身のためには名声を、この賢明な行動で得ようとしたのであった。

セルウィウス・トゥリウスには気性の荒い娘が一人、穏やかな娘が一人いた。彼はタルクイニウ

スの息子たちもこれと似た性格であるのを知り、全員の心を気質の違いで和らげようと、気性の

荒い娘は穏やかな方の息子に、穏やかな娘は荒い方の息子に嫁がせた。ところが穏やかな方の二

人は、偶然かはたまた計略によってか死んでしまい、気質の相似が気の荒い二人を結びつけるこ

とになった。たちまちタルクイニウス・スペルブスはトゥリアにそそのかされ、元老院を召集し

て父祖伝来の王位を返還するよう求め始めた。これを聞きつけたセルウィウスは急いで元老院へ

と向かったが、その途中でタルクイニウスの命により階段から投げ落とされ、屋敷に逃げ帰ろう

とするところを弑された。すぐさまトゥリアは広場へと駆けつけると、誰よりも最初に夫に対し

て王への敬意を表した。彼女は夫に混乱から退去するよう命ぜられたが、屋敷に戻る途中で父親

の屍体を目にすると、それを避けようとした御者に、そのまま屍体を馬車で轢くよう指示した。

ここからその地区は「穢れの区」と呼ばれることになった。だが後にトゥリアは夫と共に追放さ

れた。

タルクイニウス・スペルブス(「驕慢王」)は、その気質からこの添え名を得た。彼はセルウ

ィウス・トゥリウスを弑し、非合法に王位を獲得した。けれども戦争には精力的で、ラティニ人と

サビニ人を征服し、エトルリア人からはスエッサ・ポメティアの町を奪い、寝返りを装った息子

セクストゥスの働きでガビイ市も勢力下に収めた。また彼はラテン祭を催した最初の人物であっ

た。競技場には池を張り21、更に大下水溝クロアカ・マクシマ

を建設したが、そのために全市民の力を動員したた

め、ここからこれは「市民 のクイリティウム

溝」と呼ばれることになった。カピトリウム神殿建立に着手した

際には、人間の 首カプト

を発見し、それゆえこの町は世界の首都カプト

となる定めにあると判明した。だが

20 Sher. bovem illam 「この雌牛を」 Pichl. bovem illam Dianae 「この雌牛をディアナに」 21 Sher. Lacus in circo...fecit 「競技場には池を張り」 Pichl. Ludos in circo...fecit 「競技場では競技際を催し」

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アルデア攻城戦のおりに自分の息子がルクレティアを強姦したことから、息子と共に追放され、

エトルリア王ポルセンナの元へと難を逃れた。そしてポルセンナの助力を得て王位を守ろうと試

みたが、撃退されてクマエに退き、そこで人生の残りの時を最大の屈辱のうちに過ごしたのであ

った。

タルクイニウス・コラティヌスはタルクイニウス驕慢王の妹に生まれた。アルデア戦のおり、

彼は王族の若者たちの天幕にいた。そこでたまたま開かれた無礼講の宴席で、全員が各々に自分

の妻を褒め称え始め、ではそれを証明してみようということに話が決まった。そこで馬を駆って

ローマに向かったところ、彼らが目の当たりにしたのは、王族の嫁連中が宴会やら放蕩22に興じ

ている姿だった。続いて彼らはコラティア市へと向かった。するとルクレティアが下女に混じっ

て毛織を織っているところに出くわした。かくして、彼女が最も貞節な婦人である、との判定に

なった。その彼女を誘惑しようと、タルクイニウス・セクストゥスは夜になってコラティアに戻

り、近親者の特権でコラティヌスの屋敷に入ると、ルクレティアの寝室に押し入り、その貞節を

奪ってしまった。翌日彼女は父と夫を呼び、事の次第を明かすと、服に忍ばせていた短剣で自ら

の命を絶った。彼らは王族を破滅させる誓いを立て、その追放をもってルクレティアの死に復讐

した。

ユニウス・ブルトゥスはタルクイニウス驕慢王の妹に生まれた。彼の兄はその財産と思慮の

せいで伯父に殺される憂き目を見たが、彼は兄と同じ運命を辿るのを怖れていたので、愚鈍を装

い、そこから「愚か者ブルトゥス

」と呼ばれることになった。王族の若者たちがデルポイへ向かう際には、

物笑いの種に23彼らに同行することを許され、ニワトコの笏に流し込まれた黄金を神への供物と

して携えた。そして母親に最初に接吻した者はローマで最大の支配権を手にするだろう、との託

宣が告げられた時、ブルトゥスは大地に接吻した。その後ルクレティアが強姦されたため、彼は

トリキピティヌスとコラティヌスと共に王族を破滅させる誓いを立てた。そして王族を追放して

最初の執政官に選出されたが、自分の息子らがアクイリウス家とウィテリウス家の兄弟と共謀し

てタイルクイニウス王家をローマ市に呼び戻そうと企てたため、彼らを笞打ちに処し、斧で斬首

した。その後王家に対して行った戦闘で、彼はタルクイニウスの子アルンスとの一騎打ちの勝負

に臨んだが、両者互いに打ち合って共倒れとなった。ブルトゥスの亡骸は広場に安置され、同僚

執政が弔辞を送った後、女たちは一年の喪に服した。

エトルリア王ポルセンナがタルクイニウス王家をローマ市に復帰させようと試み、最初の攻撃

でヤニクルム丘を占領した際、ホラティウス・コクレス(「独眼」)は ‐ その添え名だったの

は、彼が別の戦いで片目を失っていたためである ‐ ティベリス川に架る木橋の前に立ちはだか

り、背後の橋が打ち壊されるまで敵の軍勢を押し留めた24。彼は橋と共にティベリス川に落ちた

22 Sher. convivio vel luxu 「宴会やら放蕩に」 Pichl. convivio et luxu 「豪奢な宴会に」 23 Sher. ridiculi gratia 「物笑いの種に」 Pichl. deridiculi gratia 「嘲りの的に」 24 Sher. sustinuit 「押し留めた」 Pichl. solus sustinuit 「一人で押し留めた」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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が、武具をつけたまま自軍の元まで泳ぎ切った。これらの功績により25、彼には一日で耕せる26だ

けの地所が国により与えられた。またウルカヌス神殿には彼の彫像も置かれた。

ポルセンナが27ローマ市を攻囲していた際、ローマ人らしい屈強さの持ち主ムキウス・コルド

ゥスは元老院に赴いて寝返りの許可を求め、代わりに王の暗殺を約束した。その許可を得ると、

彼はポルセンナの陣営に向かったが、そこで王と見誤って侍従を殺してしまった。取り押えられ

王の元に連行されると、彼は右手を祭壇の火にくべ、この手が誤って人を殺めたのだから、罪を

犯した手にはかような罰を与えるのだ、と言った。王の憐憫により祭壇から引き離されると、彼

はあたかもその恩恵に報いるが如く、我ら三百人が等しく貴方を仕留める誓いを立てております

ぞ、と告げた。これに怖れをなした王は、人質を受け取ることで戦争を放棄した。ムキウスには

ティベリス川の向こう側の草地が与えられ、そこからここは「ムキウスの草地」と呼ばれること

になった。またその名誉を称えて彼の彫像も建てられた。

ポルセンナは人質の一人として貴族の娘クロエリアを受け取ったが、彼女は門番を欺くと、夜

に紛れ王の陣営を抜け出し、たまたま巡り合わせた馬を奪ってティベリス川を渡った。だがポル

センナが使節を送って返還を要求したため、彼女は連れ戻された。王はこの娘の勇気に感嘆し、

彼女の選んだ人質とともに祖国への帰還を許した。そこでクロエリアは実に無垢な少年たちを28

選んだのであるが、それは年若い彼らが辱めの的となり易いことを知っていたからである。広場

には彼女の騎馬像が置かれた。

ローマがウェイイ市と戦争を行っていた時、ファビウス家の一門は、ウェイイ人は我が一族

の敵である、と私人の立場で主張し、三百六人が執政官ファビウスの指揮下に出陣した。彼らは

幾度も勝利を重ねた後、クレメラ川の河畔に陣を張った。そこでウェイイ人は謀り事に訴えかけ、

四方から家畜の群れを彼らの視界に入るよう放った。そして進み出てきた29ファビウス一門は伏

兵の罠にはまり、一人残らず殺されて最期を遂げた。この事件の起きた日は凶日の一つに数えら

れることになり、彼らの出陣した門は「穢れの門」と呼ばれるようになった。だが若年のために

家に残されていたファビウス氏の唯一の生き残りが一族の血筋を守り、それはハンニバルを延滞

戦術で消耗させ、政敵からは「遅延者クンクタトル

」と呼ばれたクイントゥス・ファビウス・マクシムスまで

続いた。

ウォレススの子ルキウス・ウァレリウスは、最初に対ウェイイ人戦勝の、二度目に対サビニ

人戦勝の、三度目には両者に対する戦勝の凱旋式を挙げた。彼は同僚執政のトリキピティヌスに

代わる執政官の選出を行わず、おまけにウェリア丘で一番守りの固い場所に居を構えていたため、

25 Sher. ob haec 「これらの功績により」 Pichl. ob hoc 「この功績により」 26 Sher. arari potuisset 「耕せる」 Pichl. ambire <vomere> potuisset 「(鍬で)廻れる」 27 Sher. Porsenna 「ポルセンナが」 Pichl. Posenna rex 「ポルセンナ王が」 28 Sher. virgines pueros quidem 「実に無垢な少年たちを」 Pichl. virgines puerosque 「生娘と少年たちを」 29 Sher. in conspectu eorum protulerunt. Atque... 「彼らの視界に入るよう放った。そして…」 Pichl. in conspectu illorum protulerunt, ad quae... 「彼らの視界に入るよう放ち、そこに…」

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Page 8: 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris …31 作者不詳 『ローマ共和政偉人伝』 De viris illustribus urbis Romae アルバの王プロカにはアムリウスとヌミトルという息子がいた。王は息子らに、一年交代で王

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王位を狙っているとの嫌疑をかけられることになった。彼はこれを知ると、市民が自分に対して

そのような怖れを抱いていたことに民会で不服を申し立て、自分の屋敷を破壊するよう人を差し

向けた。加えて束 桿ファスケス

から斧を取り除き、民会では束桿を下に降ろした。また彼は、行政官職権

に対する上訴権を認める法案を民会に提出した。このゆえに彼は「民衆の友プ ブ リ コ ラ

」と呼ばれた。彼が

没した時、その死は国葬をもって弔われ、また女たちが一年の喪に服する栄誉を受けた。

タルクイニウスは追放された後、自分の嫁婿であるトゥスクルムのマミリウスの元に難を逃れ

た。そしてラティウムをけしかけてローマを激しく攻めて来たため、アウルス・ポストゥミウ

スが独裁官に任命され、レギルス湖畔で敵と戦を交えた。勝敗の行方がどちらともつかずにいた

時、独裁官副官は、馬を容赦無い勢いで駆れるよう馬勒を外せ、と命じた。これによりローマ軍

はラティニ人の軍勢を敗走させ、またその陣営を占領した。ところがローマ軍の中に、二人の若

者が輝く白馬に跨り、傑出した武勇を振るう様が見られた。そこで独裁官は相応しい褒賞を与え

ようと二人を捜し求めたが、二度と見つけることはできなかった。二人がカストルとポルクス神

だと考えた彼は、二神併せた銘を添えて献堂した。

ルキウス・クインクティウス・キンキンナトゥス(「縮れ毛」)は、息子のカエソが至極手

に負えぬ性格であったためこれを勘当したところ、息子は監察官からも譴責を受けてウォルスキ

人とサビニ人の元に逃亡してしまった。そして両部族はクロエリウス・グラックスの指揮下にロ

ーマに戦争を仕掛け、アルギドゥス山で執政官クイントゥス・ミヌキウスを攻囲した30。そこで

クインクティウスが独裁官に任命され、彼の処に使節が派遣されたが、使節が目の当たりにした

のは、肌を曝しティベリス川の向こうで畑を耕す彼の姿であった。彼は独裁官の記章を身につけ

るや、執政官を包囲陣から救い出した。この功績により、彼はミヌキウスと彼の軍から金の

「 攻 囲 冠コロナ・オプシディオナリス

」を贈られた。そして敵に勝利し、敵軍の指揮官の降伏を受け容れ、凱旋式の

日に凱旋戦車の前を連行した。だが十六日目には自身の受けた独裁官の職を辞し、畑を耕しに戻

った。二十年後に再び独裁官に任命された時には、専制を狙っていたスプリウス・マエリウスの

処刑を独裁官副官セルウィリウス・アハラに命じ、マエリウスの屋敷を取り壊し更地にした。こ

こから、その場所は「マエリウスの更地ア エ ク イ メ リ ウ ム

」と呼ばれている。

「毛むくじゃらラ ナ ト ゥ ス

」の添え名を持つメネニウス・アグリッパは対サビニ戦の指揮官に選ばれ、

彼らに対する戦勝の凱旋式を挙げた。また市民が徴税と兵役に苦しめられていると訴え、元老院

に反抗して町から退去し、彼らを呼び戻すのも叶わなかった時には、アグリッパは彼らに向かっ

てこう語った。「昔、人間の手足は胃が暇そうにしているのを見て胃に反乱を起こし、彼に奉仕す

るのを拒んだ。かくして手足自身もまた衰弱してしまったため、手足は胃が受け取った食物をす

べての部分に分け与えているのだと悟り、胃と和解したのである。かように元老院と市民もひと

つの体であるかの如く、不和によって滅び、協和によって栄えるのである。」この寓話のおかげで

30 Sher. obsidebant 「攻囲した」 Pichl. cum exercitu obsidebant 「軍を率いて攻囲した」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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市民は帰還した。だが彼らは貴族に対して31自分たちの自由を護らせるべく、平民護民官を選出

した。一方メネニウスはあまりの極貧の中で逝去したため、市民がクアドランス銅貨を寄付して

彼を埋葬し、元老院が国費でその墓地を提供することになった。

グナエウス・マルキウスは、ウォルスキ人の町コリオリを攻略したため「コリオリの征服者コ リ オ ラ ヌ ス

と呼ばれた。この格別の功績32に対してポストゥミウスから好きな褒賞を選ぶ栄誉を受けたおり、

彼は馬一頭と彼をもてなしてくれた人物だけを取り、武勇と忠義の模範となった。彼は執政官で

あった時、食料価格の高騰に際してシチリアから輸入した穀物を高額で市民に売りつけようと計

らった。それはこの不当な行為によって平民が田畑に精を出し、反乱に精を出さぬようにするた

めであった。だがその結果平民護民官デキウスに告発される羽目になり、ウォルスキ人の元へと

身を退いた。そしてティトゥス・タティウスの指揮下にローマを攻めるよう彼らをけしかけ、ロ

ーマ市から四里の処に陣営を張った。市民から成る使節団をいくら送ろうとも彼は説き伏せられ

なかったが、母のウェトゥリアと妻のウォルムニアが婦人の一団に付き添われて来ると、彼の心

は動かされた。そして彼は戦争を放棄したため、裏切り者として殺されてしまった。その場所に

は「婦人の幸運」の女神のための神殿が建立された。

ファビウス・アンブストゥスは二人の娘のうち、一人を平民のリキニウス・ストロに、もう

一人をパトリキ貴族のスルピキウスに33妻として娶らせた。平民に嫁いだ方の娘が姉の元を訪れ

た時のこと、姉の夫は執政官権限を有する軍団指揮官であったため、従者の束 桿ファスケス

が戸口近くに

置かれていた。これに妹は見苦しく狼狽してしまった。姉に笑われた彼女は、夫に不平を述べた。

そこで彼は義父の支援を受け平民護民官職に就任するや、執政官の一人は平民から選出すべし、

とする法案をすぐさま提出した。法はアッピウス・クラウディウスの反対を受けたものの、可決

し、リキニウス・ストロは執政官に選ばれた最初の例となった。同様に彼は、如何なる平民も34百

ユゲラ35を越える土地を有してはならぬ、と法によって規定した。ところが彼自身が百五十ユゲ

ラ36の土地を持っていた上に、我が子を父権から解放してその名義で更に同ユゲラを所有してい

たため、裁判にかけられ、自分の法の下で罰せられたあらゆる最初の例ともなった。

ローマ市民は争いを続ける行政官たちに耐えきれなくなったため、法制定のための十人委員会

を選出した。委員会はソロンの法典から法を書き写し、それらを十二の板に記して発布した。だ

が彼らが独裁を狙って協定を結び、自らの行政官職の任期を延長しようとしていたその時、委員

の一人アッピウス・クラウディウスが、アルギドゥス山で軍務に就いていた百人隊長ウィルギニ

31 Sher. adversum nobilitatem 「貴族に対して」 Pichl. adversum nobilitatis superbiam 「貴族の傲慢に対して」 32 Sher. facinora 「功績」 Pichl. militiae facinora 「軍功」 33 Sher. Sulpicio 「スルピキウスに」 Pichl. Aulo Sulpicio 「アウルス・スルピキウスに」 34 Sher. ne qui plebeio 「如何なる平民も」 Pichl. ne qui 「何びとも」 35 Sher. centum iugera 「百ユゲラ」 Pichl. quingenta iugera 「五百ユゲラ」 36 Sher. iugera quinquaginta centum 「百五十ユゲラ」 Pichl. iugera quingenta 「五百ユゲラ」

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ウスの娘ウィルギニアに恋情を抱いた。だが彼は娘を誘惑できなかったため、手先を雇い、彼女

を奴隷として要求させることにした。もっとも彼自身が告発者でもあり判事でもあったので、勝

訴は容易そうであった。これを知った父親は、裁判の行われるその同じ日に到着したが、既に娘

に債務奴隷の裁定が下されていたのを知ると、彼女と最後の面会をする機会を得、密かに彼女を

連れ去った後に殺してしまった37。そして彼女の亡骸を肩に38担いで自軍の元に走り、この犯罪に

復讐せよ、と兵士らを焚きつけた。そこで兵士らは十人の護民官を選出してアウェンティヌスの

丘を占領すると、十人委員会に対し彼らの行政官職を辞任するよう命じ39、更に委員全員を死刑

もしくは追放刑によって罰した。アッピウス・クラウディウスは牢獄で殺された。

ローマは疫病に際し、託宣の流布により40エピダウロスからアエスクラピウス神を召喚するた

め、クイントゥス・オグルニウスを長とする十人の使節団を派遣した。使節が彼の地に辿り着き、

巨大な神像に驚きの声を上げていると、大蛇がその台座から這い出してきた。だがそれは神々し

く、恐ろしいものではなかった。大蛇は一同の驚嘆する中町の中心を通り、ローマの船に乗り込

むと、オグルニウスの天幕の中でとぐろを巻いた。この御神体を運んだ使節団がアンティウムに

入港すると、ここで海の凪ぐ間に大蛇は近くのアエスクラピウスの聖域に向かい、数日を経てま

た船に戻った。そしてティベリス川を上って運搬する途上、大蛇が付近の島に乗り移ったので、

この島には神のための神殿が建立された。すると疫病は驚くべき速さで鎮まったのである。

フリウス・カミルスがファリスキ人を攻囲していた際、初等学校の教師が有力者層の子息を

引き渡しに来た。だがカミルスは彼を縛り上げ、町に連れ帰らせるべく41その同じ子供たちに引

き渡した。彼のこれほどの公正さのゆえに、たちまちファリスキ人は降伏した。彼は冬季の攻城

戦でウェイイ市を征服し、その戦勝の凱旋式を挙げた。だがしばらくの後、凱旋式の時に白馬を

率い、おまけに戦利品の分配も公平でなかったと非難を受けた。そして平民護民官アプレイウス・

サトゥルニヌスによって告発され、断罪されてアルデアに退いた。その後、ガリア人のセノネス

族がその不毛さゆえに自らの土地を捨て、イタリアの町クルシウムを攻囲した時、ローマからは

ファビウス家の三人がガリア人に攻撃を控えるよう警告すべく派遣された。だがファビウス家の

一人は国際法に反して戦闘状態に入り、セノネス族の族長を殺してしまった。これに激昂したガ

リア人は使節の引渡しを要求したが叶わず、そこでローマへと向かい、ローマ軍をアリア川で殲

滅した。これは七月十七日のことだった。そこでこの日は凶日の一つに数えられることとなり、

「アリアの日」と呼ばれた。勝者としてローマ市に入城したガリア人は、市内で高官椅子に座し

官職の記章を身につけた最高位の貴族の老人たちを、これは神々であるとして最初は敬ったが、

37 Sher. cum ... abduxisset, occidit 「連れ去った後に殺してしまった」 Pichl. abduxit et occidit 「連れ去り殺してしまった」 38 Sher. humero 「肩に」 Pichl. humeris 「両肩に」 39 Sher. praeceperunt 「命じ」 Pichl. coegerunt 「強要し」 40 Sher. responso manante 「託宣の流布により」 Pichl. responso monente 「託宣の啓示により」 41 Sher. redigendum 「連れ帰らせるべく」 Pichl. redigendum et verberandum 「連れ帰って鞭打ちに処させるべく」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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次にはこれは人間であると蔑み、殺してしまった。残った若者たちはマンリウスと共にカピトリ

ウム丘に逃れ、そこで攻囲を受けたが、カミルスの武勇に救われることになった。彼は不在のま

ま独裁官に任命されると、残存兵を集めてガリア人の不意をつき、皆殺しにした。そしてウェイ

イ市への移住を望んでいたローマ市民を引き留めた。かくして彼は、市民には町を還し、同時に

町には市民を帰したのであった。

カピトリウムを守り抜いた功績で「カピトリヌス」と呼ばれたマンリウスは、十六歳の時に自

ら志願兵として名乗り出た。軍功により彼の上官から三十七の褒賞を受け、その体には二十三の

戦傷があった。ローマ市が攻略された時、カピトリウムへの避難を提唱したのは彼であった。あ

る夜、雁の鳴く声で目を覚まし、丘を登って来ていたガリア軍を投げ落とした。彼は市民から「守

護者」と呼ばれ、穀物を贈られ、加えて国費でカピトリウムに屋敷さえ受けた。このため傲慢心

で不遜になった彼は、ガリア人の財宝を隠蔽したと元老院に非難され、更に債務奴隷に落とされ

た負債者を自分の資産で解放しようとしたため、王位を狙った咎で42投獄されたが、市民の団結

のおかげで釈放された。彼は同じ過ちをより深刻に犯し続けたため、再び起訴された。だがカピ

トリウムが目に入る場所だったことから、その判決は先送りにされた。そして今度は別の場所で

断罪され、彼はタルペイアの崖から投げ落とされた。またその家屋敷は破壊され、財産は没収さ

れた。彼の一族は、マンリウスの添え名に誓って43後代の誰も「カピトリヌス」と呼ばれてはな

らぬ、と定めた。

ローマの信望を敵視していた44フィデナエ市は、恩赦の望みを断ってより決然と戦おうと考え、

市に派遣された使節を殺害した。そこでフィデナエに対してクインクティウス・キンキンナトゥ

スが独裁官として派遣され、彼の副官であったコルネリウス・コッススは、自らの手で敵将ラ

ルス・トルムニウスを倒した。この戦勝のゆえに、彼はロムルスに次いで「見事な戦利品ス ポ リ ア ・ オ ピ マ

」をユ

ピテル・フェレトリウス神に奉献した二人目の人物となった。

プブリウス・デキウス・ムスは、サムニテス戦争の時に執政官ウァレリウス・マクシムスと

コルネリウス・コッスス麾下の軍団指揮官となった。彼は自軍がガウルス山の隘路で敵の伏兵に

包囲された際、要請していた援軍を手に入れると高所に登り、敵軍を威嚇した。そして自身は真

夜中になって、睡魔に負けた歩哨の真っ只中を抜けて無傷で逃げおおせた。彼はこの功績により

自軍から「市 民 冠コロナ・キウィカ

」を贈られた。ラテン戦争の時にはマンリウス・トルクアトゥスを同僚執政

として執政官になり、ウェセリス川の河畔に陣を張った。そのおり、両執政官が共に、勝利を収

めるのは指揮官が戦闘中に倒れた方の軍となろう、という夢を見る出来事があった。そこで二人

は夢について互いの同僚と話し合い、戦場で苦戦を強いられた翼よく

を指揮していた方が冥府の神々

42 Sher. regni affectati 「王位を狙った咎で」 Pichl. regni affectati suspectus 「王位を狙った嫌疑を受け」 43 Sher. Manlii cognomie iuravit ne quis...vocaretur 「マンリウスの添え名に誓って…呼ばれてはならぬと定めた」 Pichl. Manlii cognomen eiuravit 「マンリウスの添え名を棄てる誓いを立てた」 44 Sher. fidei Romanorum hostes 「ローマの信望を敵視していた」 Pichl. veteres Romanorum hostes 「ローマの旧敵であった」

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にその身を捧げることにしよう、と取り決めた。そこでデキウスは自身の師団が後退しつつあっ

た時、神祇官ウァレリウスの手を借りて我が身と敵軍を冥府の神々に捧げる誓いを立てた。そし

て敵軍の中に突撃し、自軍に勝利を遺した。

デキウスの息子プブリウス・デキウスは最初に執政官になった時、サムニテス人に対する戦

勝の凱旋式を挙げ、彼らから奪った戦利品をケレス神に奉献した。二期目と三期目に執政官にな

った時には内政と軍事において多くの業績を成し遂げた。ファビウス・マクシムスを同僚として

四期目の執政官職に就いた時、ガリア人、サムニテス人、ウンブリア人、そしてエトルリア人が

反ローマの共同戦線を張ったのを受け、彼は戦場に軍を率いていった。そして彼の翼よく

が後退しつ

つあった時、父の例に倣い、神祇官マルクス・リウィウスに助言を求めると、槍を踏みつつその

祈祷の言葉を復唱し、我が身と敵軍を冥府の神々に捧げる誓いを立てた。そして敵軍の中に突撃

し、自軍に勝利を遺した。彼の亡骸は同僚執政が弔辞を送った後、壮麗な埋葬を受けた。

ティトゥス・マンリウス・トルクアトゥスはその愚鈍さと呂律の鈍さのせいで、父親により

田舎に隠居させられたが、その父が平民護民官ポンポニウスに告発されたと聞きつけると、夜道

をローマへと向かった。そして内密に面会する機会を護民官から得ると、剣を引き抜き、護民官

を大いに震え上がらせ告発を取り下げるよう強いた。独裁官スルピキウスの下で軍団指揮官とな

った時には、戦いを挑んできたガリア人を倒し、彼から首飾りトルクエス

を剥ぎ取って自分の首にかけた。

ラテン戦争の時には執政官として、我が子を命令に背いて戦ったとの咎で斧で斬首した。そして

ウェセリス川の河畔で、同僚執政デキウスの自己犠牲によってラティニ軍を撃破した。彼は執政

官職を辞退したが、それは彼自身が市民の過ちに耐え切れず、市民も彼の厳格さに絶え切れない

からである、と彼は言った。

カミルスはセノネス族の残党を追撃した。巨躯のガリア人が戦いを挑んで来た時、皆が恐れを

なす中で、軍団指揮官のウァレリウス唯一人が彼に対して進み出た。すると一羽の烏が日の昇る

方角から来て彼の兜に舞い降り、決闘の最中にガリア人の顔と目を衝いた45。ウァレリウスは敵

に勝利し、「 烏 人コルウィヌス

」と呼ばれた。彼は46負債に苦しめられていた大勢の群集がカプア市を占領し

ようと試み、無理を強いてクインクティウスを自分たちの指揮官に仕立て上げた際、負債を帳消

しにして反乱を鎮めた。

ガイウス47・ウェトゥリウスとスプリウス・ポストゥミウスは執政官として対サムニテス戦を

遂行したが、その最中に敵軍の将ポンティウス・テレシヌスによって伏兵の罠へとおびき寄せ

られた。というのもポンティウスは、脱走兵を装った部下を送り、アプリアのルケリア市がサム

ニテス軍の攻囲を受けている、とローマ軍に告げさせたのである。だがルケリアに行くには二つ

45 Sher. verberavit 「衝いた」 Pichl. everberavit 「強く衝いた」 46 Sher. hic 「彼は」 Pichl. hinc 「この後」 47 Sher. Gaius 「ガイウス」 Pichl. Titus 「ティトゥス」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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の経路があり、一方は遠回りだが安全な道、もう一方は急ぐ者には48近道だが危険な道であった。

かくしてポンティウスは伏兵を仕掛け ‐ その場所はカウディナエ隘路と呼ばれている ‐ 父親

のヘレンニウスを呼ぶと、さてどうするのが良かろう、と尋ねた。すると父は、軍事力を削ぐた

めに皆殺しにするか、貸しを作るために全員解放するか、いずれかにすべし、と言った。ポンテ

ィウスはどちらの提案も却下し、条約を提案して49全員を頚木の下へと送った。だがこの条約は

ローマ市民に拒絶され50、ポストゥミウスはサミニテス人に引き渡されたが、受け容れられなか

った。

ルキウス・パピリウスはその駿足さゆえに「飛脚クルソル

」と呼ばれた。彼は予兆が不吉であったに

も関わらず、執政官として自分が対サムニテス戦に出陣してしまったと悟ると、卜占をやり直す

べくローマへと戻った。そしてファビウス・ルルスに軍を委ねる際、敵と戦を交えてはならぬ、

と彼に命じた。ところがファビウスは機運に任せて戦闘を行ってしまった。そこで帰還した彼は51、

ファビウスを斧で処刑しようとした。ファビウスはローマ市に難を逃れたものの、護民官らはこ

の嘆願者を守ろうとしなかった。そこで父親は涙によって、市民は請願によって、彼の恩赦を得

た。パピリウスはサムニテス人に対する戦勝の凱旋式を挙げた。彼はまたプラエネステ市で国務

官を52厳しく譴責したおり、従者にこう告げた。「斧を用意せよ。」だが国務官が死の恐怖で茫然

自失になるのを見届けると、彼は通行の妨げになっていた木の根を切り払うよう命じた。

クイントゥス・ファビウス・ルルスは、その武勇ゆえに彼の家系で「最も偉大なる者マ ク シ ム ス

」と呼

ばれた最初の人物であった。彼は独裁官副官であった時にパピリウスの手で53危うく斧で斬首さ

れかけた後、最初に対アプリア人及び対ヌケリア人戦勝の、次には対サムニテス人戦勝の、三度

目には対ガリア人、ウンブリア人、マルシ人、そしてエトルリア人戦勝の凱旋式を挙げた。監察

官になった時には解放奴隷をトリブス区から排斥した。だが彼は、同一人物がかくも頻繁に監察

官になるのは共和政の慣習に適うものではない、と言って、監察官を二期務めるのを拒んだ。ロ

ーマ騎士が六月十五日に名誉の神殿からカピトリウム神殿まで騎馬姿で行進するという制度を最

初に定めたのも彼であった。その死に際しては、彼のために多額の寄贈金が市民の厚意により寄

せられた。その金額は彼の息子がそれを元手に公に肉を配給し、御馳走を54振舞えるほどであっ

た。

マルクス・クリウス・デンタトゥス(「鬼子」)は最初にサムニテス人を上の海(アドリア海)

48 Sher. festinanti 「急ぐ者には」 Pichl. Festinatio brevius eligit 「緊急事態が近道を選ばせた」 49 Sher. acto 「提案して」 Pichl. icto 「結んで」 50 Sher. improbatum est 「拒絶され」 Pichl. postea improbatum est 「後に拒絶され」 51 Sher. reversus 「帰還した彼は」 Pichl. reversus Papirius 「帰還したパピリウスは」 52 Sher. Praenesti ... praetorem 「プラエネステ市で国務官を」 Pichl. Praenestinum praetorem 「プラエネステ市の国務官を」 53 Sher. a Papirio 「パピリウスの手で」 Pichl. a Papirio ob Samnitem victoriam 「サムニテス戦での勝利のゆえにパピリウスの手で」 54 Sher. epulas 「御馳走を」 Pichl. epulum 「晩餐を」

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に至るまで平定し、彼らに対する戦勝の凱旋式を挙げた。帰還した時、彼は民会でこう言上した。

「我はかくも広大な土地を手に入れた。ゆえに、もし我がかくも多くの人間を捕えていなければ、

これらは荒地となっていたであろう。加えて、我はかくも多くの人間を捕えた。ゆえに、もし我

がかくも広大な土地を手に入れていなければ、これらは餓死していたであろう。」彼は二度目には

サビニ人に対する戦勝の凱旋式を挙げ、三度目にはルカニア人に対する戦勝の小凱旋式オウァティオ

を挙げて

ローマ市に入城した。またエペイロスのピュロスをイタリアから放逐した。彼は各々四十ユゲラ

の土地を個々の市民に分配すると、続いて自身にも(同量を)定め55、この広さの土地では不充

分だなどという者があってはならぬ、と言った。彼が炉で蕪を炒っていたところに、サムニテス

人の使節が金塊を贈ろうとした時には、「儂はこいつを儂の土鍋で喰いながら、金塊を持つ連中に

指図している方が性に合っとる56。」公金を横領したとの咎で非難された時には、彼が供儀に使う

のを常としていた木製の壷57を中央に運ぶと、誓いを立て、自分は敵から奪った戦利品の中でこ

れ以外は何ひとつ我が家に持ち帰ってなどおらぬ、と宣言した。その後、敵からの掠奪品を売却

して得た金を充て、アニオ川の水流を58ローマ市内に引き入れた。平民護民官になった時には、

平民出身の行政官を選出する民会を認可するよう元老院に強いた。これらの功績により、彼には

ティファタ河畔の屋敷と五百ユゲラの土地が国費で与えられた。

アッピウス・クラウディウス・カエクス(「盲目」)は監察官の職にあった時、解放奴隷すら

元老院に選出した。だが笛吹きからは公の場で晩餐に列席し演奏する権利を剥奪した。ヘルクレ

スのための供儀には二つの家系、すなわちポティティイ家とピナリイ家59が任ぜられていたが、

彼は賄賂を使ってポティティイ家出身のヘルクレスの祭司を買収し、ヘルクラネウムの60秘儀を

国有奴隷に明かすよう仕向けた。このため彼は盲目にされ、ポティティイ家の一族は完全に途絶

えてしまった。だが彼は、執政官職を平民と共有することには誰よりも猛烈に抵抗し、ファビウ

ス唯一人を戦争に派遣することにも反対した。戦争ではサビニ人、サムニテス人、エトルリア人

を征服した。彼がブルンディシウムまで至る道を石で舗装したことから、かの道は「アッピア街

道」と呼ばれている。また彼はアニオ川の水流をローマ市内に引き入れた。監察官の職に五年間

就いたのは、あらゆる者のうちで彼唯一人であった。ピュロスとの和平について協議が開かれ、

使節キネアスの賄賂で有力者たちの情実が買われんとしていた時には、彼は年老いて盲目であっ

たにも関わらず、輿で元老院に担ぎ込まれると、堂々たる演説を打ってこの極めて不名誉な和平

案を撥ね退けたのであった。

55 Sher. sibi deinde constituit 「そして自身にも定め」 Pichl. sibi deinde totidem constituit 「そして自身にも同量を定め」 56 Sher. hoc 「こいつを」 Pichl. inquit, haec 「こいつらを…と言った」 57 Sher. cadum 「壷」 Pichl. gutum 「瓶」 58 Sher. aquam deinde Anienem 「その後…アニオ川の水流を」 Pichl. aquam Anienem 「アニオ川の水流を」 59 Sher. scilicet Potitiorum et Pinariorum 「すなわちポティティイ家とピナリイ家」 Pichl. Potitiorum et Pinariorum 「ポティティイ家とピナリイ家」 60 Sher. Herculanea 「ヘルクラネウムの」 Pichl. Herculea 「ヘルクレスの」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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エペイロスの王ピュロスは、母方がアキレウスの血を、父方がヘルクレスの血を引いていた。

彼は世界の支配権を得ようとしており、そこでローマが強敵であると考えたので、戦の見込みに

ついてアポロン神に伺いを立てることにした。神の返答は曖昧なものだった。「アイアコスの後裔

に告げる、汝はローマ人を破ることができよう。」(または「汝をローマ人は破ることができよう。」)

これを都合の良い方に解した彼は、タレントゥム市の61支援を請け負ってローマに戦争を仕掛け

た。そしてヘラクレアでは象という新兵器を用いて執政官ラエウィヌスを混乱に陥れた。だがロ

ーマ兵が真正面に傷を受けて倒れているのを目にすると、こう言った。「かような兵たちがおれば、

余は瞬く間に世界を征服できたであろうに。」喜びに沸く友人たちには、こう告げた。「かかる勝

利が余にとって何だというのか?自軍の精鋭を失ってしまうような勝利が。」彼はローマ市から二

十里の処に陣を張ると、ファブリキウスに無償で捕虜を返還した。だがラエウィヌスの軍を目に

した時、ローマ軍と対峙する自分はヒュドラと対峙するヘルクレスと同じ状況にある、と口にし

た。彼はクリウスとファブリキウスに打ち負かされた後、タレントゥムに逃げ戻り、シチリアに

渡った。まもなくイタリアのロクロイ市に戻ると、財宝を62持ち去ろうと試みたが、その財宝は

船の難破で流されて63しまった。続いてギリシアに戻り、アルゴスを攻める最中、屋根瓦の一撃

を受けて倒れ伏した。その亡骸はマケドニアの王アンティゴノスの元に返還され、壮麗な埋葬を

受けた。

ウォルシニ市はエトルリアの名高い町であったが、無節制のせいで滅亡寸前にまで至った。と

いうのも彼らは不用意に奴隷を解放し、元老院に選出しているうちに64、奴隷の65共謀で制圧され

てしまったからである。数多の侮辱に曝されたウォルシニ人は密かにローマの66支援を求めた。

そこでデキウス・ムスが派遣され、彼は全ての解放奴隷を或いは牢獄で処刑し、或いは奴隷の身

分に戻して主人に返還した。

ウォルシニ市を破り、「豪胆者アウダクス

」の添え名を持つ67アッピウス・クラウディウスは、カエクス

の弟であった。彼は執政官であった時、マメルティニ団を彼らの市砦に居座っていたカルタゴ軍

とシュラクサ王ヒエロンから救出すべく派遣された。まず初めに彼は敵を偵察するため、漁船に

乗って海峡(メッシナ海峡)を渡り、市砦から駐留軍を退くよう68カルタゴ軍の指揮官を説得し

た。レギオン市に帰還すると、歩兵部隊を使って敵軍の五段櫂船を拿捕し、この船で一個軍団を

シチリアに輸送した。彼はカルタゴ軍をメッサナ市から放逐した。シュラクサ市近郊の会戦では

61 Sher. Tarentinis 「タレントゥム市のための」 Pichl. Tarentinorum 「タレントゥム市の」 62 Sher. pecuniam 「財宝を」 Pichl. pecuniam Proserpinae 「ペルセポネの財宝を」 63 Sher. elata 「流されて」 Pichl. relata 「戻されて」 64 Sher. dum in curiam 「元老院に…うちに」 Pichl. dein in curiam 「そして元老院に」 65 Sher. servorum 「奴隷の」 Pichl. eorum 「彼らの」 66 Sher. Romae 「ローマの」 Pichl. a Roma 「ローマから」 67 Sher. cognomento Audax 「「豪胆者

アウダクス

」の添え名を持つ」 Pichl. cognomento Caudex dictus 「「木偶坊カウデクス

の添え名で呼ばれた」 68 Sher. duceret 「退くよう」 Pichl. deduceret 「撤退させるよう」

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ヒエロンの降伏を受け容れ、この危難に怖れをなしたヒエロンはローマとの友好を求め、その後

はローマの最も忠実な同盟者となった。

グナエウス・ドゥイリウス 69は第一次ポエニ戦争の時に対カルタゴ戦の指揮官として派遣さ

れた。海上ではカルタゴ軍が極めて優勢であると見た彼は、技巧を凝らすよりも寧ろ堅固な艦隊

を建造し70、更に敵軍の嘲笑を受けつつも初めて「鉄鉤」を作り上げた。そして彼が71戦闘の最中

に敵艦を捕獲すると、敵艦は制圧され、拿捕された。カルタゴ艦隊の指揮官ヒミルコは逃走し、

元老院にどうすべきか決議するよう求めた。全議員が戦闘せよと声高に叫ぶ中、ヒミルコはこう

述べた。「戦った。そして敗れたのだ。」かくして彼は磔刑を逃れた。というのも、カルタゴ人の

間では事を仕損じた指揮官は罰せられたからである。ドゥイリウスに対しては、公の晩餐から帰

宅する際、松明に明かりを灯して笛吹きの音を伴うことが認められた。

アティリウス・カラティヌスは対カルタゴ戦の指揮官として派遣された時、ヘンナ72、ドレ

パノン、リリュバイオンといった壮大且つ堅固な諸都市から敵の駐留軍を駆逐し、パノルモスを

攻略した。そして全シチリアを席巻した後、僅かばかりの艦船を率いてハミルカル指揮下の敵の

大艦隊を撃破した。けれども敵軍の攻囲を受けたカエキナへと73急行する途上、彼はカルタゴ軍

に隘路で包囲されてしまった。そこで軍団指揮官のカルプルニウス・フランマが三百人74を手に

入れると、高所に登り、執政官を救い出した。一方フランマ自身はこの三百人を率いて戦う最中

に倒れた。だが後に75瀕死の状態でアティリウスに発見され、傷の癒えた後は、敵軍にとって大

いなる恐怖の的となった。アティリウスは華々しく凱旋式を挙げた。

マルクス・アティリウス・レグルスは、執政官であった時にサレンティニ人を破った功によ

り凱旋式を挙げ、またローマの将軍としては初めてアフリカに艦隊を移送した。だがその艦隊が

破壊された後、ハミルカルから戦艦三十七隻を受理した76。彼は二百の町を攻略し、二十万の人

間を捕虜にした。彼が不在の間、彼の妻と子達は貧窮していたため、その出費は国費でまかなわ

れた。その後スパルタ人傭兵のクサンティッポスの戦術により、彼は捕えられて牢獄に送られた。

そして捕虜交換交渉の使節としてローマに送られたが、交渉が不成立であった場合にのみ戻る77、

と誓約していた。そして元老院で和平案に反対すると、妻と子を我が身から振り切って78カルタ

69 Sher. Duillius 「ドゥイリウス」 Pichl. Duellius 「ドゥエリウス」 70 Sher. classem magis validam quam fabre fecit 「技巧を凝らすより寧ろ堅固な艦隊を建造し」 Pichl. classem validam fabrefecit 「堅固な艦隊を巧みに建造し」 71 Sher. qui 「そして彼は」 Pichl. sic 「かくして」 72 Sher. Henna 「ヘンナ」 Pichl. Enna 「エンナ」 73 Sher. ad Cecinam 「カエキナへと」 Pichl. ad Catinam 「カタネへと」 74 Sher. trecentis 「三百人」 Pichl. trecentis sociis 「三百人の同盟軍」 75 Sher. et postea 「だが後に」 Pichl. postea 「後に」 76 Sher. accepit 「受理した」 Pichl. cepit 「拿捕した」 77 Sher. si non impetrasset, ita demum rediret 「交渉が不成立であった場合にのみ戻る」 Pichl. si impetrasset, ita demum non rediret 「交渉が成立した場合にのみ戻らぬ」 78 Sher. reiectisque a se 「我が身から振り切って」 Pichl. reiectisque ab amplexu 「抱きつくのを振り切

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ゴに帰還した。そこで彼は木棺に投げ込まれ、内側に打ち込まれた釘で不眠と苦痛の罰を受けた。

クイントゥス・ルタティウス・カトゥルスは、第一次ポエニ戦争の時に三百隻の艦を率いて

対カルタゴ戦に出陣した。彼はシチリアとアフリカの間に位置するアエガテス諸島付近で、ヒミ

ルコ指揮下の79カルタゴの艦船六百隻が補給品やら他の積荷のせいで動きのとれなくなっている

ところを、撃沈或いは拿捕し、戦争を終結させた。和平を求めてきた敵に対し、彼は以下の条件

でそれを認めた。その条件とは、シチリア、サルディニア、及びイタリアとアフリカの間に位置

する他の諸島部から撤退すること、そしてヒスパニアのヒベルス川以西には手を出さぬこと、で

あった。

ハミルカルの子ハンニバルは、十一歳の時に80父に祭壇へと連れて行かれ、ローマ人に対する

永遠の憎しみを誓った。この時以降、彼は父の陣営でその戦友であり、兵卒であった。父の死後、

戦争の口実を求めてローマの同盟国サグントゥム市を六ヶ月のうちに破壊した。続いてアルプス

の道を開くと、イタリアへと通り抜けた。そしてティキヌス河畔ではプブリウス・スキピオを、

クレメラ河畔では81センプロニウス・ロングスを、トラシメヌス湖畔ではフラミニウスを、また

カンナエではパウルスとウァロを撃破した。だが彼はローマ市を攻略できたにも関わらず、カン

パニアへと向きを変え、その地の甘美さに骨抜きにされてしまった。そしてローマ市から三里の

処に陣営を張ったが、嵐のため退かざるを得ず、最初にファビウス・マクシムスによって戦意を

そがれ、続いてウァレリウス・フラックスによって撃退され、グラックスとマルケルスによって

追撃された。彼はアフリカに召還された後、スキピオに撃破され、シリアの王アンティオコスの

元に難を逃れて王をローマに敵対させた。そして王が敗北した後は、ビテュニアの王プルシアス

の元に退いた。だがローマの使節が王に彼の身柄引渡しを要求したため、指輪の宝石に仕込んで

いた毒を仰ぎ最期を遂げた。彼はリビュッサで石棺に安置され、その棺には今日も尚こう記され

ている ‐ ハンニバルここに眠る ‐。

クイントゥス・ファビウス・マクシムス・クンクタトル(「遅延者」)は、口元の82 疣ウェルカ

ら「疣持ちウェルコスス

」と、またその温厚な気質から「仔 羊オウィクラ

」とも呼ばれた。彼は執政官であった時、リ

グリア人に対する戦勝の凱旋式を挙げた。またハンニバルを延滞戦術で消耗させたが、独裁官副

官のミヌキウスの指揮権が自分のものと同等とされるのを認容せざるを得なかった。だがそれに

も関わらず83、彼が窮地にあった時にはその救出に向かった。彼はハンニバルをファレルヌス地

方に封じ込めた。マリウス・スタティリウスが敵側に寝返ろうとしていた時には、馬と武具を贈

って引き留めた。また極めて強兵であった一人のルカニア人が女と恋に落ち、欠勤が目立つよう

って」 79 Sher. duce Himilcone 「ヒミルコ指揮下の」 Pichl. duce Hannone 「ハンノ指揮下の」 80 Sher. undecim annos natus 「十一歳の時に」 Pichl. novem annos natus 「九歳の時に」 81 Sher. apud Cremeram 「クレメラ河畔では」 Pichl. apud Trebiam 「トレビア河畔では」 82 Sher. in labris ita 「口元の」Pichl. in labris sita 「口元にあった」 83 Sher. et nihilo minus 「だがそれにも関わらず」Pichl. nihilo minus 「それにも関わらず」

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になった時には、その女を買い取って贈物として彼に与えた。タレントゥム市を敵軍から奪還し、

同市から移送したヘルクレス像をカピトリウム神殿で奉献した。捕虜を身請けする協定を敵軍と

結んだが、その協定が元老院に拒絶されそうになると、自分の地所を二十万で売り払って誓約を

履行した。

プブリウス・スキピオ・ナシカは元老院によって「最良の市民」と宣言され、「神々の大母神」

をそのもてなし役として迎え入れた。グラックスにより自分が執政官に指名されたのが卜占の結

果に反すると84知った時には、その行政官職を辞任した。監察官であった時には、誰しもが自分

自身を誇示するために広場に彫像を建てていたのを撤去した。執政官の時にはダルマティア人の

町デルミニウムを攻略した。兵士たちからは「戦勝将軍インペラトル

」の称号を、元老院からは凱旋式を提供

されたが、彼はこれらを辞退した。彼は弁舌においては第一人者であり、法学においては最高の

権威であり、気質においては最大の思慮深さを有した。それゆえ巷では「賢 人コルクルム

」と呼ばれた。

マルクス・マルケルスはガリア人の族長ウィルドマルスを85一騎打ちで破り、ロムルスに次い

で「見事な戦利品ス ポ リ ア ・ オ ピ マ

」をユピテル・フェレトリウス神に奉献した三番目の人物となった。ノラ市近

郊では狭い地勢に助けられ、ハンニバルであっても敗北させるのは可能である、と知らしめた86。

彼はシュラクサ市を三年かけて攻略した。だが讒言のせいで凱旋式を元老院によって拒まれたた

め、自身の判断によりアルバヌス山で凱旋式を挙行した。執政官を五期務めた時、彼はハンニバ

ルの伏兵に嵌り、壮麗な埋葬を受けた。その遺骨はローマに送り還されたが、掠奪者たちに横取

りされ消失してしまった。

ハンニバルがイタリアを荒らしていた頃、シビュラの書の託宣により「神々の大母神」がペシ

ヌスより召喚された。だがティベリス川を上って運搬する途上、神像は突然高みに乗り上げてし

まった。そして如何なる力をもってしても動かせなかったところ、これを動かせるのは最も貞節

な女の手のみである、と託宣書から判明した。そこで近親相姦を犯したと虚偽の嫌疑をかけられ

ていたウェスタの巫女クラウディアが、もし私の純潔を知るならば、私の後に続き給え、と女神

に請うた。そして腰帯を船に結びつけると、船を動かしたのである。彼女は神々の大母神の神像

を運び、「最良の市民」と宣言されたナシカには神殿が建立された87。

84 Sher. adversum auspicia cum 「卜占の結果に反すると」 Pichl. is cum adversum auspicia 「彼は…卜占の結果に反すると」 85 Sher. Virdomarum 「ウィルドマルスを」 Pichl. Viridomarum 「ウィリドマルスを」 86 Sher. Hannibalem posse apud Nolam locorum angustia adiutus vinci docuit. 「ノラ市近郊では狭い地勢に助けられ、ハンニバルであっても敗北させるのは可能である、と知らしめた」 Pichl. Primus docuit, quomodo milites cederent nec terga praeberent. Hannibalem apud Nolam locorum angustia adiutus vinci docuit. 「彼は兵士が背を向けずに退却するにはどうしたら良いかを最初に教示した人物であった。ノラ市近郊では狭い地勢に助けられ、ハンニバルに敗北の味を教えた」 87 Sher. Simulacrum Matris deum advexit. Templum aedificatur Nasicae qui vir optimus iudicabatur. 「彼女は神々の大母神の神像を運び、「最良の市民」と宣言されたナシカには神殿が建立された」 Pichl. Simulacrum Matris deum, dum templum aedificatur, Nasicae, qui vir optimus iudicabatur, quasi hospiti datum. 「神々の大母神の神像は、神殿が建立されている間、「最良の市民」と宣言されたナシカに、そのも

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マルクス・ポルキウス・カトーはトゥスクルムの出身であった。彼はウァレリウス・フラッ

クスにローマ行きを強く勧められ、シチリアでは軍団指揮官を務めた。スキピオ麾下の財務官で

あった時には極めて意思堅固であり、国務官としては極めて公明正大であった。国務官の職にあ

った時にはサルディニアを征服し、その時にエンニウスからギリシアの学問を教わった。執政官

の時にはケルトイベリア人を征服し、更に彼らが反乱を起こせぬようにするため、個々の町に市

壁を破壊するよう布告を送った。それぞれの町が命令を受けているのは自分たちだけだと各々に

思い込んだため、皆それに従った。シリア戦争ではマルクス・アキリウス・グラブリオ麾下の軍

団指揮官としてテルモピュライの峠を占領し、敵の駐留軍を駆逐した。監察官になった時には、

執政官経験者のルキウス・フラミニウスを元老院から除名した。それはこの人物が、ガリアにお

いて一人の娼婦への見世物にするため、ある男を牢から引き出し、宴席でその咽喉を掻き切るよ

う命じた、との理由によるものであった。彼は自身の名においてバシリカを建設した最初の人物

であった。婦人連中がオッピウス法の下で没収された装飾品の返還を要求した際には、彼女らに

抵抗した。彼は飽くなき告発者であり、八十歳を超えていたにも関わらずガルバを悪政で告発し、

一方彼自身も四十四回にわたり告発され、華々しく無罪判決を受けた。カルタゴは破壊すべし、

というのが彼の主張であった。彼は傘寿を迎えた後に息子を授かった。葬儀を行う際には、この

カトーの肖像イマーゴ

を掲げるのが常となっている。

ハンニバルの弟ハスドルバルは大軍を率いてイタリアに渡った。もし彼がハンニバルとの合流

にも成功していたならば、ローマの支配には終止符が打たれるところであった。だがアプリアで

ハンニバル軍に接して陣を張っていたクラウディウス・ネロは、軍の一部を陣営に残すと、精

鋭を率いてハスドルバルの元に急行した。そしてセナ市近郊のメタウルス河畔で同僚執政のリウ

ィウスと合流した後、両執政官はハスドルバルを打ち破った。ネロは来た時と同じ速さで舞い戻

ると、ハスドルバルの首級をハンニバル軍の防塁の前に放り投げた。これを見たハンニバルは、

俺はカルタゴの運命に負けようとしている、と呟いた。彼らの業績により、リウィウスは凱旋式

を、ネロは小凱旋式オウァティオ

を挙げてローマ市に入城した。

プブリウス・スキピオはその武勲のゆえに「アフリカの征服者ア フ リ カ ヌ ス

」の名を受けた88。彼はユピテ

ル神の申し子であると信じられていた。というのも、スキピオの母が彼を身籠る以前、その寝台

に蛇が現れたことがあり、また彼が幼子だった時分、大蛇がその体に巻きつくことがあったが、

何も危害を加えなかったからである。彼が真夜中にカピトリウム神殿に向かう際も、犬が吠えか

かるようなことは決して無かった。また彼は何事かに取り掛かる前には必ずユピテルの祀堂で長

時間座し、その様はまるで神の意志を拝受するかの如くであった。十八歳の時にはティキヌス河

畔で卓越した武勇を振るい、父親を救った。カンナエの大敗北で最高位の貴族の若者たちがイタ

てなし役であるかの如く委ねられた」 88 Sher. ex virtutibus nominatus Africanus 「その武勲のゆえに「アフリカの征服者

ア フ リ カ ヌ ス

」の名を受けた」 Pichl. ex virtute Africanus dictus 「その武勇のゆえに「アフリカの征服者

ア フ リ カ ヌ ス

」と呼ばれた」

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リアを捨て去ろうと望んだ時には、自身の権威で彼らを食い留めた。そして無傷の残存軍を率い

て敵の陣営の真中を抜け、カヌシウムへと導いた。二十四歳の時に国務官としてヒスパニアに派

遣されると、辿り着いたその日にカルタゴ(カルタゴ・ノウァ)を攻略した。一人の極めて美し

い乙女がおり、その姿を一目見ようと皆が群がるほどであったが、スキピオは彼女を自分の元に

連れて来ることを禁じ、一方で彼女の父親をその保証人となって援助した。彼はハンニバルの弟

ハスドルバルとマゴをヒスパニアから放逐した。またマウリタニア王シュパクスと提携を結び、

マッシニッサを同盟者として迎え入れた。勝利を収めて母国に帰還した後、年齢が達していなか

ったにも関わらず執政官に選ばれ、同僚執政の合意の下、艦隊をアフリカに移送した。そしてハ

スドルバルとシュパクスの陣営を一晩で制圧した。イタリアから召還されたハンニバルを撃破し、

敗北したカルタゴに対して講和条件を課した。アンティオコスとの戦争では弟の補佐官を務め、

捕虜となった息子を無償で受け戻した。平民護民官ペティリウス・アテイウスにより89強要罪で

告発された時には、民会の眼前で会計書を引き裂き、こう言った。「この日、私はカルタゴを征服

した。それゆえ、我らはカピトリウム神殿に赴き、神々に祈りを捧げるのが道理であろう!」そ

の後スキピオは自ら亡命生活に甘んじ、そのまま余生を過した。死に際しては、妻に自分の亡骸

をローマに戻さぬよう言い遺した。

リウィウス・サリナトル(「塩売り」)は最初に執政官であった時、イリュリア人に対する戦

勝の凱旋式を挙げた。だがその後憎悪を受けたため横領罪で起訴され、メティア(マエキア)区

を除く全トリブス区から断罪された。二期目は自身の政敵クラウディウス・ネロを同僚として執

政官になったが、国家の行政が不和のために乱れぬようにと彼と提携を結び、ハスドルバルに対

する戦勝の凱旋式を挙げた。再びクラウディウス・ネロを同僚に監察官になった時には、メティ

ア(マエキア)区を除く全トリブス区民を二等市民ア エ ラ リ イ

の身分に落とし、俸給を剥奪した。それは彼

らが、或いは以前に自分を不当に断罪し、或いは後になってかくも多くの官職を無定見に与えた、

との責めによるものであった。

クイントゥス・フラミニウス(ティトゥス・クインクティウス・フラミニヌス)はトラスメ

ヌス湖畔で討死したフラミニウスの息子であった。彼は執政官としてマケドニアを割り当てられ

た時、有力者カロペスの羊飼いたちの案内を受けて属州に入ると、ピリッポス王を戦闘で破りそ

の陣地を奪い取った。そして王の子デメトリオスを人質として受け取り、更に王を科料に処した

後、王座に復位させた。またスパルタのナビスからも息子を人質として受けた。彼は伝令を通じ

てサモスのユノ神のための競技祭90を告知した。更にはハンニバルの身柄引渡しを要求するべく、

使節としてプルシアスの元に派遣された。

クイントゥス・フルウィウス・ノビリオルは執政官であった時にウェットネス族とオレタニ

89 Sher. Ateio 「アテイウスにより」 Pichl. Actaeo 「アクタエウスにより」 90 Sher. Ludos Iunoni 「ユノ神のための競技祭」 Pichl. Ludos Iunonis 「ユノ神の競技祭」

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族を撃破し、その功から小凱旋式オウァティオ

を挙げてローマ市に入城した。マケドニア戦争に参戦した91ア

イトリア同盟が、その後アンティオコスの側に寝返った時には、執政官として度重なる戦闘でこ

れを破った。そしてアンブラキアの町に追い込んでその降伏を受け容れたが、一方で彫像や絵画

は掠奪した。彼はアイトリア同盟に対する戦勝の凱旋式を挙げた。この勝利はそれ自体が偉大な

ものであったが、更に彼の友人マルクス・エンニウス92が類稀なる賛辞によって称えるところと

なった。

スキピオ・アシアティクスはアフリカヌスの弟で、体が病弱だったにも関わらず、アフリカ

での武勇のゆえに兄から称賛を受けた。執政官であった時には、兄を補佐官にシリアの王アンテ

ィオコスをシピュロス山で破り ‐ これは雨のせいで敵軍の弓の勢いが鈍くなったためであった

‐ 王の継承した王国の93一部を没収した。この功により彼は「アジアの征服者ア シ ア テ ィ ク ス

」と呼ばれた。後

に彼が公金着服罪で起訴された時には、投獄されるのを防ぐため、平民護民官の大グラックス94が

拒否権を行使した。だが監察官マルクス・カトーは、彼に恥辱を与えるためその公馬を剥奪した。

シリアの王アンティオコスは自分の兵力を過信したため、かつてトラキアにおいてローマ人が

彼の父祖から奪い領有していた95リュシマキア市を奪回するとの名目でローマに戦争を仕掛け、

たちまちのうちにギリシアとその島々を占領した。けれども彼はエウボイアで贅沢に耽り、骨抜

きになってしまった。アキリウス・グラブリオの96出現で奮起し、テルモピュライを占拠したも

のの、マルクス・カトーの働きでその地から追い出され小アジアへと逃げ戻った。ハンニバルに指

揮を委ねた海戦ではルキウス・アエミリウス・レギルスに撃破され、航海中に捕えたスキピオ・

アフリカヌスの息子を父の元に送り帰した。そこでアフリカヌスは、あたかもその恩に報いるが

如く、ローマとの友好関係を求めるよう王に勧めた。アンティオコスはこの助言を蹴ると、シピ

ュロス山においてルキウス・スキピオと戦を交えた。だが敗北してタウロス山地の彼方まで退去

させられた後、宴席で酩酊して暴行を加えたことのある97側近たちに暗殺された。

ガイウス・マンリウス・ウルソはスキピオ・アシアティクスの属州に秩序を定めるべく派遣さ

れたが、凱旋への野望から、アンティオコスを支援したピシディア人とガラティア人に戦争を仕

91 Sher. bello Macedonico interfuerant 「マケドニア戦争に参戦した」 Pichl. bello Macedonico Romanis affuerant 「マケドニア戦争でローマ側を支援した」 92 Sher. M. Ennius 「マルクス・エンニウス」 Pichl. Ennius 「エンニウス」 93 Sher. regni relicti 「継承した王国の」 Pichl. regni 「王国の」 94 Sher. Gracchus pater tribunus plebis 「平民護民官の大グラックスが」 Pichl. Gracchus pater tribunus plebis, inimicus eius 「平民護民官の大グラックスが、彼の政敵であったにも関わらず」 95 Sher. quam a maioribus suis in Thracia quondam Romani possidebant 「かつてトラキアにおいてローマ人が彼の父祖から奪い領有していた」 Pichl. quam a maioribus suis in Thracia conditam Romani possidebant 「彼の父祖がトラキアに創建したものであったが、ローマ人が領有していた」 96 Sher. Acilii Glabrionis 「アキリウス・グラブリオの」 Pichl. M. Acilii Glabrionis 「マルクス(マニウス?)・アキリウス・グラブリオの」 97 Sher. pulsaverat 「暴行を加えたことのある」 Pichl. pulsarat 「殴打したことのある」

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掛けた。彼らは他愛も無く打ち破られ、捕虜の一人となったオルギアグンテス王の98妻は、とあ

る百人隊長の監視下に置かれることになった。彼女はこの者に力ずくで犯されてしまったが、こ

の辱めについては何も言わず、後に身請けが叶うと、間男を処刑すべく夫に引き渡した。

ルキウス・アエミリウス・パウルスはカンナエで討死したパウルスの息子であった。彼は三

度の落選を経て最初の執政官職を手に入れた時、リグリア人に対する戦勝の凱旋式を挙げた。ま

たその業績の一覧を板に描かせ、公に顕示した。二期目に執政官であった時には、ピリッポスの

子にしてマケドニアの王ペルセウスをサモトラケで99捕えた。ペルセウスの縛られた100姿に彼は

涙を流し、自らの傍らに座るよう指示したが、その一方で凱旋式には連行した。この歓喜の最中

に彼は二人の息子を失った。だが彼は民会の前に進み出ると、如何なる苦境が国家を脅かしてい

たとしても、それは私自身の不幸をもって終わったのである、と言い、幸運の女神に感謝を捧げ

た。これら全てのゆえに、彼には大競技祭で凱旋将軍の装束を着用することが民会と元老院によ

って認められた。彼の放蕩101と貧困のせいで、その死後は所持品を売却せねば妻に嫁資を返済す

るのも叶わなかった。

ティベリウス・センプロニウス・グラックスは勝れて高貴な家系の出であった。彼はスキピ

オ・アシアティクスを政敵としていたにも関わらず、彼が投獄されるのを是としなかった。国務

官の時にはガリアを、執政官の時にはヒスパニアを、そして二期目の執政官職に就いた時にはサ

ルディニアを征服し、多数の捕虜を連行した。捕虜の数があまりにも多かったため、その売却は

長期に渡り、この出来事は「サルディニア人大安売りサ ル デ ィ ・ ウ ェ ナ レ ス

」の諺となった。監察官であった時には、

地方トリブス区を獲得していた解放奴隷を四つの都市トリブス区に振り分けた。このため彼の同

僚執政クラウディウスが民会に起訴される羽目になり ‐ というのも、ティベリウス自身はその

権威が身を守っていたからである ‐ 二つの財産等級が彼を断罪した時、ティベリウスは誓いを

立て、自分もクラウディウスと共に追放処分を受けよう、と宣言した。かくして被告は無罪とな

った。また102ティベリウスの自宅で二匹の大蛇が婚礼の床から這い出して来た時には、託宣が下

され、殺された大蛇と同性の方の家主が死するであろう、と告げられた。そこで彼は、妻コルネ

リアへの愛から、雄の方を殺すよう命じたのであった。

プブリウス・スキピオ・アエミリアヌスはパウルス・マケドニクスの子であったが、スキピ

オ・アフリカヌスの養子となった。マケドニアで父と行動を共にした際には、敗退したペルセウ

スをあまりに執拗に追い続けたため、彼が陣営に戻った時には真夜中になっていた。ヒスパニア

ではルクルスの補佐官として、インテルカティア市近郊で戦いを挑んできた相手を一騎打ちで破

98 Sher. regis Orgiaguntis 「オルギアグンテス王の」 Pichl. regis Orgiagontis 「オルギアゴンテス王の」 99 Sher. apud Samothracas 「サモトラケで」 Pichl. apud Samothracas deos 「サモトラケの神々の眼前で」 100 Sher. vinctum 「縛られた」 Pichl. victum 「敗北した」 101 Sher. licentiam 「放蕩」 Pichl. continentiam 「節制」 102 Sher. Et cum... 「また…時には」 Pichl. Cum... 「…時には」

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り、一番乗りで敵の市壁によじ登った。アフリカでは将軍ティトゥス・マリウス麾下の103軍団指

揮官として、包囲陣に囲まれていた八個歩兵隊を智略と武勇をもって救出し、彼らから黄金の「攻

囲冠」を贈られた。造営官職に立候補した際には、年齢が達していなかったにも関わらず執政官

に選ばれ、六ヶ月でカルタゴ市を破壊した。ヒスパニアのヌマンティアでは、最初に兵の軍紀を

立て直した後、兵糧攻めで同市を攻略した。彼はこの時104「ヌマンティアの征服者ヌ マ ン テ ィ ヌ ス

」と呼ばれた。

ガイウス・ラエリウスとは極めて昵懇の間柄にあり、諸王歴訪に派遣されたおりには、ラエリウ

スの他には奴隷二名を自身に同行させたのみであった。その業績のため傲慢になった彼は、グラ

ックス殺害は妥当なものであると思う、との答えを返した。市民が喚き立てると、「あの者たちを

静まらせよ。イタリアは母国ではなく、継母に過ぎぬ者らを」と言い、更にこう付け加えた。「私

が奴隷として売り払った者らを。」いささか怠惰なムンミウスを同僚にして監察官になった時には、

元老院でこう述べた。「貴兄が私に同僚を与えるか、さもなくば与えずにいてくれたら良かったの

だが。」農地改革派が支持を得た後、彼は自宅で突然息絶えているところを発見され、その顔面の

青あざが目に触れぬよう、頭部を覆われたまま埋葬された。彼の遺産は至極僅かで、三十二リブ

ラの銀と、ニリブラ半の金を遺すのみであった。

アウルス・ホスティリウス・マンキヌスは国務官であった時、鳥占の結果が凶と出た上に何

者とも知れぬ声が引き留める中、対ヌマンティア戦に向けて出陣した。彼はヌマンティアに到着

しポンペイウスの軍を受け取ると、まず最初に軍を立て直そうと思い立ち、荒れ野に向かうこと

にした。その日はたまたまヌマンティア人が娘を娶らせる儀式を行っていた105。そして一人の見

目好い娘に二人の男が共に求婚したため、娘の父親は彼らにこのような条件を出した ‐ 敵の右

手をもたらした方に娘は嫁ぐことになろう、と。そこで若者たちは出向いて行ったが、ローマ軍

が遁走するかの装いで足早に去って行くのを知り、彼らの仲間に106報告した。すぐさまヌマンテ

ィア人は自軍の兵四千をもって二万のローマ兵を倒した。マンキヌスは財務官107ティベリウス・

グラックスを証人として、敵側の条件を呑んで条約を結んだ。この条約が元老院によって拒絶さ

れると、マンキヌスはヌマンティア側に引き渡されたが、受け容れられなかった。彼は卜占によ

り陣営へと連れ戻され、後に国務官の職を得た。

ルキウス・ムンミウスはアカイア同盟を打倒し「アカイアの征服者ア カ イ ク ス

」と呼ばれた108。彼は対

103 Sher. sub Tito Mallio 「ティトゥス・マリウス麾下」 Pichl. sub Tito Manilio 「ティトゥス・マニリウス麾下」 104 Sher. hic 「この時」 Pichl. hinc 「このゆえに」 105 Sher. Eo die Numantini forte sollemni 「その日はたまたまヌマンティア人が…儀式を行って」 Pichl. Eo die Numantinis forte sollemni 「その日はたまたまヌマンティア人にとって儀式の日で」 106 Sher. ad suos 「彼らの仲間に」 Pichl. rem ad suos 「その事を彼らの仲間に」 107 Sher. quaestore 「財務官」 Pichl. quaestore suo 「彼の財務官」 108 Sher. deleta Achaia, Achaicus 「アカイア同盟を打倒し「アカイアの征服者

ア カ イ ク ス

」と呼ばれた」 Pichl. devicta Achaia Achaicus dictus 「アカイア同盟を制圧し「アカイアの征服者

ア カ イ ク ス

」と呼ばれた」

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コリントス戦に109派遣されたおり、他人の努力で得られた勝利を横取りした。というのも、メテ

ルス・マケドニクスがヘラクレイア近郊でコリントス軍を敗走させ、その指揮官クリトラオスを

倒すと、ムンミウスは従者と僅かばかりの騎兵を率いてメテルスの砦へと110急行し、レウコペト

ラでディアイオス指揮下のコリントス軍を破ったからである。ディアイオスは我が家に逃げ帰る

と、家に火をかけた。そして妻を殺して火中に投げ込み、自らは毒を仰いで最期を遂げた。ムン

ミウスはコリントス市から彫像や絵画を掠奪し、これらの品々でイタリア全土を満たしたが、我

が家には何ひとつ持ち込むことはなかった。

クイントゥス・カエキリウス・メテルスはマケドニアを征服したことから111「マケドニアのマ ケ ド ニ

征服者ク ス

」と呼ばれた。彼は国務官であった時に偽ピリッポス ‐ 彼はまたアンドリスコスとも呼ばれた ‐ を破った112。だがそのあまりの厳格さゆえに平民の憎悪の的となり、そのため二度の

落選を経てやっとのことで執政官に選ばれた後、ヒスパニアでアルバケス族を征服した。コント

レビア市近郊では駐屯地から排撃された歩兵隊に対し、戻って駐屯地を奪還せよ、と命じた。彼

が独断的かつ唐突な判断ですべてを執り行っていたため、一人の友人が、貴公はどうなさる御所

存か、と尋ねたところ、メテルスは彼にこう言った。「私はもし自分の上衣トゥニカ

に自分の考えが知ら

れていると思ったならば、その上衣を燃やしてしまうことだろう。」メテルスは四人の息子の父で

あり、その最期の時には息子らの肩に担がれて墓所へと運ばれた。彼はこれらの息子のうち三人

が執政官となり、更に一人が凱旋式さえ挙げるのを見届けることができた。

クイントゥス・カエキリウス・メテルス・ヌミディクス(「ヌミディアの征服者」)は、ユ

グルタ王に対する戦勝の凱旋式を挙げた。監察官であった時には、自身をティベリウス・グラッ

クスの子と詐称したクインティウス(エクイティウス)を市民として登録するのを拒否した。彼

はまた力ずくで可決されたアプレイウス法に遵守の誓いを立てるのも拒否し、そのため追放処分

を受けてスミュルナに亡命した。その後カリディウス法案によって呼び戻され、たまたま競技祭

のおりに劇場で書簡を受け取ることがあったが、見世物が終わる前にわざわざそれを開こうとは

しなかった。自分の妹メテラの夫に弔辞を送るのも拒否したが、それはこの人物だけが113法に反

して判決に不服を申し立てる、ということがあったためだった。

クイントゥス・メテルス・ピウス(「孝行者」)はヌミディクスの子で、涙ながらの嘆願を粘

109 Sher. adversum Corinthios 「対コリントス戦に」 Pichl. consul adversum Corinthios 「執政官として対コリントス戦に」 110 Sher. in Metelli claustra 「メテルスの砦へと」 Pichl. in Metelli castra 「メテルスの陣営へと」 111 Sher. a domita Macedonia 「マケドニアを征服したことから」 Pichl. domita Macedonia 「マケドニアを征服し」 112 Sher. ...vicit 「…を破った」 Pichl. ...vicit. Achaeos bis proelio fudit triumphandos Mummio tradidit 「…を破った。またアカイア同盟軍を二度戦闘で敗走させ、彼らを凱旋式で連行すべくムンミウスに引き渡し

た」 113 Sher. solus 「…だけが」 Pichl. olim 「ある時」

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り強く行って父親を呼び戻した114。国務官であった時には同盟市戦争でマルシ族の指揮官クイン

トゥス・ポペディウス(ポッパエディウス)を倒した。執政官であった時にはヒスパニアでヘル

クレイウス兄弟を鎮圧し、セルトリウスをヒスパニアから放逐した。青年時代に国務官職と神祇

官職に立候補した時には、執政官級の人々よりも高い得票数を得た。

ティベリウス・グラックスはアフリカヌスの母方の孫にあたった。ヒスパニアではマンキヌ

スの財務官として彼の恥辱的な条約に賛同したが、その弁舌のおかげで身柄引渡しの危機からは

逃げおおせた。彼は平民護民官になると、何びとたりとも千ユゲラを越える土地を有してはなら

ぬ、とする法案を提出した。だが同僚のオクタウィウスが拒否権を行使しようとしたため、先例

を見ぬやり方で彼を行政官職から罷免した。続いてアッタロスの遺産から得られた資金を処分し、

市民に分配する旨を提案した。その後自身の任期を延長しようと企図した際、彼は不吉な予兆が

出ていたにも関わらず民衆の中に進み出ると、すぐさまカピトリウム神殿へと向かった。その時

彼は頭上に手をかざしていたが、この仕草によって自身の身の安全を市民に託そうとしていたの

だった。だが貴族たちは、これを彼がまるで王冠を求めているかの如くに受け取った。そこで執

政官のムキウスがぐずぐず躊躇している間に、スキピオ・ナシカが、国家を救わんと望む者は我

に続け、と号令をかけ、グラックスをカピトリウム神殿まで追いかけて打ち倒した。その遺骸は

造営官ルクレティウスの手でティベリス川に投げ込まれ、ここからこの男は「葬儀屋ウィスピロ

」と呼ばれ

た。ナシカについては、彼を憎悪から逃れさせるため、使節派遣の名目で小アジアへと厄介払い

されることになった。

ガイウス・グラックスは財務官として劣悪な環境のサルディニアを割り当てられた時、後任

者がやって来なかったため自らの意思で属州を離れた。アスクルム市とフレゲラエ市の反乱に際

しては、反乱に対する憎悪に耐え抜いた。彼は平民護民官になると、農地法案と穀物法案を提出

し、更にカプアやタレントゥムに植民を送ることさえも主張した。また土地分割のための三人委

員に、自分自身と、フルウィウス・フラックス、そしてガイウス・クラッススを任命した。だが

平民護民官ミヌキウス・ルフスが彼の法を無効にしようとしたため115、彼はカピトリウム神殿に

やって来た。そこで暴動のさなか執政官オピミウスの伝令アンテュリウスが殺害されると、彼は

広場に降りて来て、無思慮にも民会を解散させ平民護民官の手から奪った。この咎で元老院に召

喚されたが、出頭せず、奴隷に武装させてアウェンティヌス丘に立て籠もった。その場所でオピ

ミウスに敗退した後、月の女神の神殿から飛び降りる際に足首を捻ってしまったが、友人のポン

ポニウスが三重門の前で、またプブリウス・ラエトリウスがティベリス川に架る木橋の上で追っ

手らに抵抗している間に、フリナ神の地所まで116辿り着いた。そこで彼は自らの手によってか、

114 Sher. patrem...revocavit 「父親を呼び戻した」 Pichl. Pius, quia patrem...revocavit... 「父親を呼び戻したため「孝行者

ピ ウ ス

」と呼ばれ…」 115 Sher. abrogante 「無効にしようとしたため」 Pichl. obrogante 「廃案にしようとしたため」(cf. Flor. 2.3) 116 Sher. in locum 「地所まで」 Pichl. in lucum 「聖杜まで」

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奴隷エウポロスの手を借りてか、命を断ったのであった。その首はグラックスの友人セプティム

レイウスによってオピミウスの元に届けられ、その重さの黄金で報酬が支払われた。だが強欲さ

のために首には鉛が流し込まれ、ひときわ重みを増していた、と伝えらる。

マルクス・リウィウス・ドルススは生まれと弁舌において卓越した人物であったが、一方で

野心的にして傲慢でもあり、造営官になった時には途方もなく盛大な見世物を催した。その当時、

彼の同僚レンミウスが国家にとって有益であるとして何某かの提案をすることがあったが、その

同僚に彼はこう言った。「貴公に何の関わりがあるのかね?我らの国家が。」小アジアで財務官で

あった時には、如何なるものも自分より目立ってはならぬからと、何一つ目立つものを身につけ

なかった。平民護民官になると、ラテン市民にはローマ市民権を、平民には土地を、騎士には元

老院の議席を、元老院には法廷を明け渡した。彼はあまりに気前が良過ぎた。実際彼自身、自分

は 天カエルム

と 泥カエヌム

以外は誰かに分け与えていないものを何一つ残さなかった、とさえ豪語した。その

おかげで、金に困った時にはその品位にそぐわぬことも数多く行った。マウリタニアの族長マグ

ドゥルサが王の疎みを受けたため亡命した時には、賄賂を受け取って彼の身柄をボックス王に引

渡し、王はこの男を象の前に投げ出した。またヌミディア王の子アドヘルバルを自宅に拘禁し、

密かに王から彼の身請け金を117受けようと当て込んだ。政敵カエピオが彼の政策に反対した際に

は、タルペイアの岩から投げ落とすぞ、と言った。執政官が118彼の穀物法案に反対した際には、

民会の場でその首根っこをあまりに強く捻り上げたため、鼻からしこたま血が噴き出る羽目にな

った。だが彼は執政官をその有名な贅沢ぶりで謗り、あれは鯛から噴き出る塩水だ、と口にした。

その後彼は人望を失い、代わって憎悪を受けるようになった119。というのも、平民は土地を受け

取って大喜びだったが、土地を追われた者たちは悲嘆に暮れていた。騎士は元老院議員に選ばれ

歓喜し120、元老院は法廷を明け渡され小躍りしたものの、騎士との協調は耐え難かった。そのた

めリウィウスは、元老院が彼の約束したローマ市民権を求めるラテン市民の要求を先送りするの

ではないかと不安を抱き、癲癇を起こしたためか山羊の血を仰いだためか突然公の場で倒れ、瀕

死の状態で自宅に運ばれた。イタリア中で彼に対する誓約が公に立てられたが、ラテン市民が執

政官をアルバヌス山で暗殺しようと目論んだ時、彼はピリップスに用心するよう忠告してやった。

このために元老院で告発され、家に戻ろうとするところを、群集のうちから送り込まれた刺客の

手にかかって倒れた。彼の暗殺に対する憎悪の目はピリップスとカエピオに向けられることにな

った。

七期執政官を務めたガイウス・マリウスはアルピヌムの出身で、卑しい身分の生まれであっ

117 Sher. redemptionem eius occulte 「密かに…彼の身請け金を」 Pichl. redemptionem eius occultam 「彼の内密の身請け金を」 118 Sher. Consuli 「執政官が」 Pichl. Philippo consuli 「執政官ピリップスが」 119 Sher. ex gratia in invidiam venit 「人望を失い憎悪を受けるようになった」 Pichl. ex gratia nimia in invidiam venit 「そのあまりの人望のゆえに憎悪を受けるようになった」 120 Sher. laetabantur 「歓喜し」 Pichl. laetabantur, sed praeteriti querebantur 「歓喜したが、見過された者らは不平を述べた」

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たが、高位の諸官職を順調に務め上げた。ヌミディアでメテルスの補佐官であった時には、彼を

非難することで執政官職を手に入れ、ユグルタを捕えて凱旋戦車の前を連行した。更に翌年の執

政官にも選ばれ、キンブリ族をガリアのアクアエ・セクスティアエ近郊で、テウトネス族をイタ

リアのサウィディウスの野で121破り、その戦勝の凱旋式を挙げた。続けざまに六期目まで順調に

執政官に選ばれた後、反乱を起こした平民護民官アプレイウスと国務官グラウキアを元老院決議

に従って鎮圧した。だがスルピキウスの法案によってスラから属州を奪おうとしたため、彼に戦

闘で打ち破られ、ミントゥルナエの沼地に身を潜めることになった。見つかって投獄された後、

彼の処にガリア人の暗殺者が送り込まれたが、マリウスはその顔に満ちた威厳によって暗殺者を

怖気づかせ追い払った。そして小船を受け取るとアフリカに渡り、そこで長く亡命生活を送った。

その後キンナの独裁政権によって呼び戻されると、収容所から出した奴隷で軍隊をこしらえ、政

敵らを殺して受けた辱めに報復した。だが七期目の執政官職に就いた時、若干の人々の伝えると

ころでは、彼は自害して果てたという。

小ガイウス・マリウスは二十七歳にして執政官職に就いたが、彼の母はこの官職が彼にはあ

まりに早過ぎると嘆いた。彼は非道さにおいて父親似であり、武装して元老院議事堂を包囲する

と、政敵を殺戮して彼らの遺骸をティベリス川に投げ込んだ。スラに対して備えていた戦争の準

備の最中には、サクリポルトゥス近郊で不眠と労苦のあまり疲れ果てて戸外で休息を取っていた

ところ、不在のうちに敗北し、戦闘に加わらず潰走に加わる様であった。彼はプラエネステに難

を逃れたものの、そこでルクレティウス・アフェラに包囲され、地下道を通って逃亡を試みた。

けれども全ての道が封鎖されているのを悟った時、彼はポンティウス・テレシヌスに自分の咽喉

を差し出し掻き切らせた。

ルキウス・コルネリウス・キンナは破廉恥極まりない人物で、恐るべき冷酷さをもって国家

を破壊し尽くした。最初に執政官職に就いた時には、追放者を呼び戻す法を提出して同僚執政の

オクタウィウスの妨害を受け、官職を剥奪されてローマ市から逃亡した。そこで解放の約束を餌

に奴隷らを呼び集めて敵を打ち破ると、オクタウィウスを殺害し、ヤニクルムの丘を占領した。

二期目と三期目には自分で自分を執政官に任じた。だが四期目の執政官職に就いて対スラ戦の準

備を進めていたおり、アンコナでそのあまりの冷酷さゆえに自兵から石打ちを受けて殺されてし

まった。

フラウィウス・フィンブリアはキンナの一味であり、それゆえ極悪非道な人物であった。彼

は執政官ウァレリウス・フラックスの補佐官として小アジアに出陣したが、不和がもとで解任さ

れたため、軍を買収して指揮官を亡き者にするよう計らった。指揮権の記章を掠め取ると、彼は

自らが属州に入り、ミトリダテスをペルガモンから放逐した。またイリオンでは城門の開かれる

のがいささか遅かったことから、市に火をかけるよう命じた。だが市のミネルウァ神殿は焼けず

121 Sher. in campo Savidio 「サウィディウスの野で」 Pichl. in campo Raudio 「ラウディウスの野で」

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に残り、それゆえ神殿は女神の権威によって守られたのだと誰もが疑わなかった。まさにその場

所で、フィンブリアは軍の指導部を斧で斬首した。だがまもなくスラにペルガモンで屈服させら

れ122、買収された軍にも見棄てられたため、彼は自害して果てたのであった。

ウィリアトゥスは生まれはルシタニア人で、最初は貧しさから傭兵になり、次にはその機敏さ

から猟師になり、続いて豪胆さから盗賊になり、最後には大将になって対ローマ戦を始めた。そ

してローマの将軍クラウディウス・ウニマヌスを倒し、続いてガイウス・ニギディウスも倒した。

だが敗れてからよりも無傷のうちにポピリウスに和平を請う方が得策と考え、他の物は引き渡し

たが、一方で武器は温存しておいて再び戦争を開始した。カエピオは如何にしても彼を破ること

ができず、そこで手下二人を金で買収し、この者らはウィリアトゥスが酒で酔い潰れたところを

暗殺した。だがこの勝利は金で買われたものであったため、元老院に承認されることはなかった。

マルクス・アエミリウス・スカウルスは貴族であったが、貧しかった。というのも、彼の父

はパトリキ貴族であったにも関わらず、貧困のために木炭の取引を生業としていたからである。

彼自身、当初は官職選に立つか両替商を営むか迷っていた。だが弁舌に長けていたことから、そ

れを使って名声を得たのであった。最初はヒスパニアで角飾りコルニクルム

の武勲章を受け、サルディニアで

はオレステスの麾下に従軍した。造営官であった時には、見世物を催すことよりも法の行使に精

を出した。国務官の時には対ユグルタ戦に派遣され123たものの、ユグルタの賄賂の誘惑に負けて

しまった。執政官になった時には、倹約令及び解放奴隷の参政権に関する法を提出した。自分が

前を横切ったにも関わらず国務官のプブリウス・デキウスが席に着いたままだった時には、彼に

起立するよう命じ、その衣服を引き裂き、椅子を打ち壊した。そして何びとたりとも彼の処に訴

訟を持ち込むこと相成らぬ、と布告した。彼は執政官としてリグリア人とタウリスキ族を124征服

し、その戦勝の凱旋式を挙げた。監察官であった時にはアエミリア街道を敷き、ムルウィウス橋

を建設した。彼はその権威を使って多大なる権勢を振い、それは一私人としての提言でオピミウ

スをグラックスに対して出動させ、マリウスをグラウキアとサトゥルニヌスに対して出動させら

れるほどであった。彼はまた、我が子が守備隊を勝手に離れたことから、彼に自身の眼前に近づ

くことを禁じ、この恥辱から息子は自ら死を選んだ。年老いた後、スカウルスは平民護民官ウァ

リウスによって、まるで同盟諸市とラティウムを武装蜂起に走らせたのは彼であるかの如く非難

されたが、その時彼は民会の前でこのように述べた。「ウェロナ人の125ウァリウスは、アエミリウ

ス・スカウルスが同盟諸市を武装蜂起に走らせたと言い、スカウルスは否認している。さて諸君

は、どちらがより信ずるに値すると思うかね?」

122 Sher. oppressus 「屈服させられ」 Pichl. obsessus 「包囲され」 123 Sher. Iugurthae adversus 「対ユグルタ戦に派遣され」 Pichl. adversus Iugurtham 「ユグルタと対峙し」 124 Sher. Ligures et Tauriscos 「リグリア人とタウリスキ族を」 Pichl. Liguras Tauriscos 「リグリアのタウリスキ族を」 125 Sher. Veronensis 「ウェロナ人の」 Pichl. Sucronensis 「スクロ人の」

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ローマ共和政偉人伝 De viris illustribus urbis Romae

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ルキウス・アプレイウス・サトゥルニヌスは扇動的な平民護民官であった。彼はマリウスの

兵の支持を買いつけるため、退役兵それぞれにアフリカの土地百ユゲラを分譲する旨の法案を提

出した。だが同僚のバエビウスが拒否権を行使しようとしたため、民衆を使って彼を石打ちにさ

せ排除した。また自身が民会を開いていたその同じ日に、国務官グラウキアが裁判を行うため市

民の一部を解散させたとの理由で、彼の椅子を打ち壊し、より平民派寄りであると思われようと

した。彼は一人の解放奴隷の身分の者を雇い、自分はティベリウス・グラックスの子であると詐称

させた。その証人としてセンプロニアが出廷させられ126たが、嘆願しても脅迫しても、一族の恥

辱を認知するよう彼女を口説き落とすことはできなかった。サトゥルニヌスは対立候補のアウル

ス・ノニウス(ノンニウス)を127亡き者にした後、平民護民官に再選され、シチリア、アカイア、

及びマケドニアを新たな植民の地に定めた。そしてカエピオが策略或いは背任行為によって手に

入れた黄金を、その土地を買収するための資金に割り当てた。また自身の法に遵守の誓いを立て

なかった者には火と水を禁じた。この法を多くの貴族たちが無効にしようとしたが128、その時雷

鳴が轟き渡り、彼らは叫び声を上げた。すると彼はこう言った。「さて、諸兄が静まらねば、雹が

降り出すぞ。」だがメテルス・ヌミディクスは、誓いを立てるより亡命する道を選んだ。サトゥル

ニヌスは三期目に平民護民官に再選された時、自分の一味であるグラウキアを国務官にするため、

彼の対立候補メンミウスを129マルスの野で殺害するよう計らった。「両執政官は国家が如何なる害

も被らぬよう策を講ずべし」との決定を下す130元老院決議によって身を固めたマリウスは、サト

ゥルニヌスとグラウキアをカピトリウム神殿まで追撃して包囲した。そして最上の策を練って131

水道管を断ち切ると、彼らの降伏を受け容れたのであった。だが降伏した者たちに対する誓約は

守られなかった。グラウキアは首をへし折られ、アプレイウスは元老院議事堂の中に逃れたとこ

ろを、天井から石と屋根瓦を受けて殺された。彼の首は、某ラビリウスなる元老院議員が笑いぐ

さに宴席で回した。

ルキウス・リキニウス・ルクルスは貴族であり、雄弁且つ富裕でもあった。彼は財務官の時

に大がかりな見世物を催し、小アジアではムレナを補佐に得て132、ミトリダテスの艦隊とアレク

サンドリアのプトレマイオス王を執政官スラの味方につけた。国務官であった時にはアフリカを

公明正大に統治した。対ミトリダテス戦に派遣された際には、カルケドンで攻囲を受けていた同

僚執政のコッタを救い出し、キュジコス市を包囲陣から解放した。そしてミトリダテスの軍を兵

力と兵糧攻めによって撃破し、王をその王国、即ちポントゥスから放逐した。ミトリダテスが再

126 Sher. Sempronia ducta 「センプロニアが出廷させられ」 Pichl. Sempronia soror Gracchorum producta 「グラックス兄弟の妹センプロニアが出廷させられ」 127 Sher. Nonio 「ノニウスを」 Pichl. Nunnio 「ヌンニウスを」 128 Sher. abrogantes 「無効にしようとしたが」 Pichl. obrogantes 「廃案にしようとしたが」 129 Sher. Memmium 「メンミウスを」 Pichl. Mummium 「ムンミウスを」 130 Sher. quo censetur, dent... 「「…を講ずべし」との決定を下す」 Pichl. quo censeretur, darent... 「「…を講ずべし」との決定を下した」 131 Sher. maximoque astu 「そして最上の策を練って」 Pichl. maximoque aestu 「そして高熱によって」 132 Sher. Ministro Murena 「ムレナを補佐に得て」 Pichl. Mox per Murenam 「その後ムレナを通じて」

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びアルメニア王ティグラネスと共に進攻してきた時には、大いなる天の助けで彼を撃破した133。

彼は過度に派手な出立ちを好み、彫像や絵画の熱烈な愛好家であった。後に正気を失い、錯乱状

態に陥り始めた時134、彼の介護は弟のマルクス・ルクルスに任されることになった。

コルネリウス・スラはその運の良さから「幸運者フェリクス

」と呼ばれた。彼が幼子の時分、乳母に抱

えられていると、そこで出遭った一人の女がこのように告げた。「ごきげんよう、そなたと、そな

たの国家に幸先良い御子よ。」そこですぐさま、そう言う貴方はどなたか、と女に問うたが、もう

彼女を見つけることはできなかった。スラはマリウスの財務官になった時、降伏したユグルタの

身柄をボックスより受け取った。キンブリ・テウトネス戦争では補佐官として優れた働きを見せ

た。国務官の時には民事訴訟を担当し、更に国務官として属州キリキアを統治した。同盟市戦争

の際にはサムニテス人とヒルピニ族を撃破した。マリウスに対しては、ボックスの記念碑を撤去

させまいと抵抗した。執政官であった時には小アジアを割り当てられ、オルコメノス及びカイロ

ネイアの戦いでミトリダテス軍を潰走させ、アテナイにおいて王の将官アルケラオスを破ってペ

イライエウス港を奪還し、その途上でマイドイ族とダルダノイ族を撃破した。その後スルピキウ

スの法案によって自分の指揮権がマリウスに移譲されようとしたため、イタリアに舞い戻ると、

敵側の軍を買収してカルボをイタリアから放逐し、マリウスをサクリポルトゥスで破り、テレシ

ヌスをコリナ門の前で破った。マリウスがプラエネステで殺された後、彼は布告によって自らを

「幸運者フェリクス

」と称した。そして公権剥奪のための名簿を貼り出した最初の例となり、公 会 堂ウィラ・プブリカ

では

降伏した捕虜九千人を殺害した。また祭司の人数を増やし、護民官の権限を縮小した。彼は国家

の秩序を定めた後、独裁官職を辞任した。それ以降は引退して135プテオリに退き、 虱しらみ

症と呼ば

れる病にかかって最期を遂げた。

ポントゥスの王ミトリダテスはペルシア人の七代目の末裔であった。彼は勝れて強靭な精神と

肉体の持ち主で、六頭の馬を繋いだまま御し、五十ヶ国の言葉を操れるほどであった。同盟市戦

争に際してローマが分裂している隙に、彼はニコメデスをビテュニアから放逐し、アリオバルザ

ネスをカッパドキアから放逐した。また小アジア全域に書簡を送り、しかじかの日にローマ人で

ある者は誰であれ亡き者にせよ、と告げた。そしてこれは実行に移された。彼はギリシアと、ロ

ドス島を除く全ての島々を占領した。だがスラは王を戦闘で破り、その艦隊をアルケラオスの裏

切りで横取りし、また王自身をダルダノス市近郊で撃破して屈服させた。更にスラは彼を捕えよ

うと思えばできたのだが、対マリウス戦に急いでいたため、如何なる類の和平であろうと寧ろそ

れを結ぶ方を選んだ。その後王はカビラで136抵抗を続けたが、ルクルスがこれを撃破した。後に

133 Sher. Quem rursum cum Tigrane rege Armeniae subuenientem...superavit 「ミトリダテスが再びアルメニア王ティグラネスと共に進攻してきた時には…彼を撃破した」 Pichl. Quem rursum cum Tigrane rege Armeniae subveniente... superavit 「救援にやって来たアルメニア王ティグラネスと共に…再び彼を撃破した」 134 Sher. cum...coepit 「始めた時」 Pichl. cum...coepisset 「始めたため」 135 Sher. unde se receptus 「それ以降は引退して」 Pichl. unde sperni coeptus 「そのため蔑まれ始めて」 136 Sher. Cabiris 「カビラで」 Pichl. acrius 「更に激しく」

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ミトリダテスは夜戦でポンペイウスに敗北し、自分の王国に難を逃れた。だが王国では民衆反乱

を起こした息子パルナケスに塔で包囲されてしまった。彼は毒を仰いだが、以前から多量の薬物

で毒に対する耐性を体につけていたせいで、なかなか毒を吸収しなかった。そこで、暗殺者とし

て送り込まれたものの王の顔に満ちた威厳に怖れをなしたガリア人のシトクスを137呼び戻し、打

ち震える男の手を押さえて自分の暗殺を手助けしてやった。

グナエウス・ポンペイウス・マグヌスは内戦の時にスラの一派につき、彼から最大級の評価

を受けるほどの働きを見せた。シチリアでは公権剥奪された者たちの手から戦わずして同島を奪

還し、ヌミディアではヒアルバスに簒奪された同王国をマッシニッサに返還した。二十六歳にし

て彼は凱旋式を挙げた。レピドゥスがスラの法令を無効にしようと企んだ際には、一私人の身分

で彼をイタリアから退去させた138。国務官の時には、両執政官に代わってプ ロ ・ コ ン ス リ ブ ス

ヒスパニアに派遣され、

セルトリウスを破った。その後海賊を四十日のうちに征服し、ティグラネスを降伏へと、ミトリ

ダテスを毒薬へと追い込んだ。これに続き、驚くべき天の巡り合わせで139、北方ではアルバニア

人、コルキス人、ヘニオコイ人、カスピ人、イベリア人の地に、転じて東方ではパルティア人、

アラビア人、そしてユダヤ人の地に侵入し、自身に対する大いなる恐怖をもたらした。彼はヒュ

ルカニア海(カスピ海)、紅海、更にはアラビア海まで到達した最初の人物であった。更にその後、

世界の支配権を分割した際、クラッススはシリアを、カエサルはガリアを、ポンペイウスはロー

マ市を得たが、クラッススが殺された後、ポンペイウスはカエサルに軍を解散させるよう命じた。

だがカエサルが敵として現れたためローマ市から追われ、パルサリアで敗れた後にアレクサンド

リアのプトレマイオスの元へと逃れた140。だが彼は妻と子供たちの見ている目の前で、プトレマ

イオスの将官セプティミウスによって短剣で脇腹を一突きにされてしまった。そして彼は既に事

切れていたにも関わらず、その首は剣で切り落とされた。これはこの時代になるまでは思いも寄

らぬ事であった。胴部はナイル川に投げ込まれた後、セルウィウス・コドルスの手で火葬され、

こう記した墓に葬られた ‐ マグヌスここに眠る ‐。首はプトレマイオスの臣下アキラスによっ

てエジプト布に包まれ、彼の指輪と共にカエサルに差し出された。けれどもカエサルは涙をこら

えようともせず、最高級の香料をふんだんに使って首を荼毘に付すよう計らった。

137 Sher. Sithocum 「シトクスを」 Pichl. Bithocum 「ビトクスを」 138 Sher. abrelegavit 「退去させた」 Pichl. fugavit 「逃亡させた」 139 Sher. mira felicitate rerum...nunc 「驚くべき天の巡り合わせで…転じて」 Pichl. mira felicitate nunc...nunc 「驚くべき天の助けで、まず…転じて」 140 Sher. ad Ptolomaeum Alexandriae confugit. 「アレクサンドリアのプトレマイオスの元へと逃れた。」 Pichl. ad Ptolomaeum Alexandriae regem confugit. Eius imperio ab Achilla et Potino satellitibus occisus est. 「アレクサンドリアの王プトレマイオスの元へと逃れた。だが王の命により、彼は臣下のアキラスとポティノスの手で殺された。」

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以下は A 系統写本(o, p)=Corpus Aurelianum 版のみ所収

ガイウス・ユリウス・カエサルは、その業績に対する敬意を表して「神君ディウス

」と呼ばれた。彼はテ

ルムスの幕僚として小アジアに発ったおり、ビテュニア王ニコメデスの元に足繁く通っていたため、

男色の謗りを受けた。その後、彼はドラベラを裁判で屈服させた。学問のためにロドス島に向かう途

上では、海賊に捕えられ身請け金を払って釈放されたが、更に後になって彼らを捕え処罰した。国務

官であった時にはルシタニアを征服し、後にはアルプス以北の全ガリアを、更に艦隊を率いて二度外

洋を渡り、ブリタンニアを征服した。自分の凱旋式がポンペイウスによって拒まれると、軍を率いて

ポンペイウスをローマ市から追い出し、パルサリアで打ち破った。だが彼の首が差し出されると嘆き

悲しみ、礼を尽くして埋葬させた。その後プトレマイオスの家臣によって攻囲を受けたが、彼らと王

を殺害してポンペイウスの死に報いた。また自身の名高さを使ってミトリダテスの子パルナケスを潰

走させた。アフリカではユバとスキピオを破り、ヒスパニアのムンダ市近郊ではポンペイウスの息子

兄弟を大会戦で破った。その後は友人たちに恩赦を与えることで、武器と共に敵愾心も捨てたが、そ

の一方でレントゥルス、アフラニウス、及びスラの子ファウストゥスの処刑だけは命じた。元老院に

より終身の独裁官に任命された後、カッシウスとブルトゥスが暗殺の首謀者となり、彼は元老院議事

堂で二十三の傷を受けて殺された。彼の亡骸が演壇の前に安置された時、太陽はその環を隠した、と

伝えられる。

カエサル・オクタウィアヌスはオクタウィウス家からユリウス家に養子入りした。彼はユリウ

ス・カエサルによって後継者に指名されると、その復讐のために暗殺の首謀者ブルトゥスとカッシウ

スをマケドニアで打ち破った。またグナエウス・ポンペイウスの息子で、父親の資産返還を要求して

いたセクストゥス・ポンペイウスをシチリア海峡で撃破した。執政官としてシリアを掌握しながらも

クレオパトラへの愛の虜となったマルクス・アントニウスとは、アンブラキアのアクティウム沖で雌

雄を決した。世界の残りの部分は副官を送って征服した。パルティア人はクラッススから奪った軍旗

を自ら進んで彼に返還し、彼が征服しなかったインド人、スキュタイ人、サルマタイ人、そしてダキ

ア人は献上品を送った。また、彼以前には二度しか閉ざされることのなかった ‐ 最初はヌマの治世

下で、二度目は第一次ポエニ戦争の後であったが ‐ 双面神ヤヌスの門を、自らの手で閉めた。元老

院により終身の独裁官に任命された後、彼はその業績ゆえに「神君ディウス

アウグストゥス」と呼ばれた。

国務官カトーは監察官カトーの曾孫にあたった。彼が叔父ドルススの屋敷で養育されていた時の

こと、マルシ族の族長クイントゥス・ポペディウス(ポッパエディウス)・シロは、カトーに、自分

は同盟諸市の側に与する、と言わせようとした。だが金品を使っても脅しを使っても、彼を説き伏せ

ることはできなかった。財務官としてプトレマイオスの遺産から得られた資金を輸送する任を受け、

キュプロス島に派遣された際には、最大限の誠意をもってその遂行に当たった。その後、彼は(カテ

ィリナの)陰謀の一味を処罰せよ、と主張した。内戦ではポンペイウス派についたが、ポンペイウス

が敗北した後はアフリカの砂漠に軍を率いてゆき、その地で自分に与えられていた指揮権を執政官経

験者のスキピオに譲った。だが彼の派閥が敗北したためウティカに退き、そこで我が子にはカエサル

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の慈悲に与るよう勧める一方、自身は死の美徳を論じたプラトンの書を読誦し、自らの命を絶ったの

であった。

マルクス・トゥリウス・キケロはアルピヌムの出身で、ローマ騎士の父に生まれたが、その血筋

はティトゥス・タティウス王に遡るものであった。彼は青年時代、ロスキウスの裁判でスラの一派を

敵に回して自身の忌憚の無い弁舌を披露した。だがそれゆえ受けた憎悪を怖れ、勉学のためにアテナ

イに向かい、その地でアカデメイア学派の哲学者アンティオコスの下で熱心に学んだ。そこから弁論

術を学ぶため小アジアに、更にその後ロドス島に向かい、その地で当時最も雄弁であったギリシア人

修辞家モロンに師事した。だがモロンは、キケロによってギリシアはその雄弁の誉れを奪われよう、

と涙を流したと言われている。彼は財務官であった時にシチリアを管轄し、造営官の時にはガイウ

ス・ウェレスを強要罪で断罪した。国務官になった時にはキリキアから山賊を一掃し、執政官の時に

は陰謀の一味を極刑に処した。だがその後プブリウス・クロディウスの憎悪を受け、またカエサルと

ポンペイウスの煽動のせいで ‐ キケロは二人が独裁を狙っていると嫌疑をかけ、かつてスラの一派

を攻撃したのと同じ忌憚無き弁舌によって彼らをこき下ろしたことがあった ‐ 更に執政官のピソ

とガビニウスも、このクロディウスの働きかけで属州アシアとマケドニアを報酬として受け取り抱き

込まれてしまったため、キケロは追放処分を受けた。だがその後ポンペイウス自身の動議により帰還

し、内戦では彼の側についた。ポンペイウスが敗北した後はカエサルの恩赦を進んで受け容れ、カエ

サルが暗殺された後はアウグストゥスの支持に回り、アントニウスを公敵と宣言した。ところがカエ

サル(アウグストゥス)、レピドゥス、アントニウスが自らを三頭執政官に任じてしまうと、トゥリ

ウスを亡き者にせぬ限り我らの間で同盟を結ぶのは叶わぬ、と判断された。そこでアントニウスによ

り刺客が送り込まれ、その時たまたまフォルミアエで休暇を取っていた彼は、自らの破滅が目前に迫

っていることを烏の予兆で知らされた。だが逃亡しようとしたところを殺され、その首はアントニウ

スの元に送られた。

マルクス・ブルトゥスは叔父のカトーを模倣しており、アテナイで哲学を学び、ロドス島で弁論

術を学んだ。またアントニウスやガルスと同じく、女道化師のキュテリスを寵愛した。彼はカエサル

の財務官としてガリアに行くのを嫌がったが、それはこの人物が全ての貴族の不興を買っていたため

である。義父のアッピウスと共にキリキアに駐留した際、義父は強要罪で告発されることになったが、

一方で彼自身は一言の謗りも受けることはなかった。内戦になるとカトーによってキリキアから呼び

戻され、ポンペイウスの側についた。だが彼が敗北した後はカエサルの恩赦を受け容れ、属州総督と

してガリアを統治した。にも関わらず、彼は他の共謀者と共に元老院議事堂でカエサルを暗殺した。

そして退役兵らの憎悪を受けたためマケドニアに送られたが、ピリッピの野でアウグストゥスに敗北

し、ストラトンに自らの首を差し出したのであった。

ガイウス・カッシウス・ロンギヌスはシリアでクラッススの財務官となり、後者が殺された後は

残存兵を集めてシリアに帰還し、(パルティア)王の将官オサケスをオロンテス川の河畔で撃破した。

だがその後シリアの物品を買い漁り、恥も外聞もまるで顧みずそれらを売りさばいたため、「棗椰子カリュオタ

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の添え名を得ることになった。平民護民官であった時にはカエサルを攻撃し、内戦になるとポンペイ

ウスの側について艦隊を率いた。彼はカエサルの恩赦を受け容れたにも関わらず、ブルトゥスと共に

反カエサルの陰謀の首謀者となった。そして暗殺に際して一人が躊躇していると、その男にこう言っ

た。「だったら私に代わって、殺したまえ。」そして大軍を興してマケドニアでブルトゥスと合流した

が、ピリッピの野でアントニウスに敗北した。彼はブルトゥスの状況も自分と同じだろうと思い込ん

でしまい ‐ そのブルトゥスはカエサル(アウグストゥス)を破っていたのだが ‐ 解放奴隷のピン

ダロスに自分の咽喉を差し出した。彼の訃報を耳にした時、アントニウスはこう叫んだと言われてい

る。「勝った!」

セクストゥス・ポンペイウスはヒスパニアのムンダ市近郊で敗北し、兄を失った後、軍の残存兵

を集めてシチリアに向かった。同島で奴隷を収容所から出して制海権を握ると、補給路を断つことで

イタリアを苦境に陥れた。更に彼は上手く海を制していたことから、我はネプトゥヌスの申し子なり

と豪語し、金箔塗りの牛と馬を捧げてこの神を宥めた。和平の成立後、船上でアントニウス及びカエ

サルと宴席をもうけた際には、「ここが俺の 船カリナエ

なんだ」などと、なかなか粋なことも言った。それ

と言うのも、ローマではカリナエ地区にある彼の家をアントニウスが差し押さえていたからである。

その同じアントニウスが条約を破った後、セクストゥスはアグリッパの手によって海戦でアウグスト

ゥスに敗れ、小アジアに逃れた。だがその地でアントニウスの手兵にかかって殺された。

マルクス・アントニウスはユリウス・カエサルの全ての外征に同行し、ルペルカリア祭のおりに

はカエサルに王冠を贈ろうと試み、またその死に際しては彼に神の栄誉を贈る宣言をした。アウグス

トゥスに対しては不誠実に振舞ったため、その彼にムティナ市近郊で破られ、ペルゥシア市で兵糧攻

めにより完敗してガリアに逃れた。同地ではレピドゥスを同僚として彼と連携し、(デキムス)ブル

トゥスの軍を買収して彼を殺した。そして軍勢を立て直してイタリアに舞い戻った後、カエサル(ア

ウグストゥス)と和解した。三頭執政官に任ぜられると、自分の叔父のルキウス・カエサルを手始め

に公権剥奪を開始した。シリアに派遣された時にはパルティアに戦争を仕掛けたが、敗北し、十五の

軍団のうち僅か三分の一ばかりを率いてエジプトに向かった。だがその地でクレオパトラへの愛の虜

となり、アクティウム沖でアウグストゥスに打ち破られた。アレクサンドリアに帰還した後、彼は王

の出立ちで王座に座ると、自ら死を選んだのであった。

クレオパトラはエジプト王プトレマイオスの娘であった。彼女は自分の弟であり夫でもあるプト

レマイオスから王位を騙し取ろうと企んだため、弟によって追放され、内戦に際してアレクサンドリ

アに居たカエサルの元を訪れた。そして自身の容姿を利用して彼と床を共にすることで、その手を借

りてプトレマイオスの王位と命を奪った。彼女は比類なき情欲の持ち主で、それはしばしば我が身を

売るほどであり、また比類なき美貌の持ち主で、それは多くの男が自らの死と引き換えに彼女との一

夜を買うほどであった。その後彼女はアントニウスと結ばれ、彼と共に敗北し、アントニウスの霊前

に供える供物を運ぶ風を装いつつ、その霊廟で毒蛇を用いて最期を遂げた。

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