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Page 1: 地下楽家の説話生成と理論構造 - 立命館大学 · 地下楽家の説話生成と理論構造 Iはじめに(地下楽家と説話) 御遊における貴族との合奏や寺社での奏楽をつかさ

どった。地下楽家はまた一二世紀以降、多くの楽書(音楽書)を

著している。それらの楽書には、譜や舞楽の作法といった実践的

知識以外にも、曲の由来や、曲にまつわる成功認・失敗讃、楽人

を職掌とし、

一一世紀後半以降、台頭してきた重代の音楽者集団を地下楽家

(1)

と呼ぶ。彼らは一二管(横笛・蕊菓・笙)や鋒、鵜鼓などの打楽器

が豪った奇瑞など、幅広い領域の話が書かれている。その多様な

(2)

説話世界は今野達氏の「教訓抄」研究を噴矢とし[今野七一二]、

同時期の岩波思想大系の『教訓抄」刊行や日本古典全集の覆刻な

(3)

(4)

どと相俟って、一二大楽書(「教訓抄」「続教訓抄」『体源紗」)を中

(5)

心としいくつかの領域で解明かされてきた。

にあると考えられている。しかし、そうであるならば、真先に記

も生れ、

一般に、院政期以降多くの楽書が書かれた理由は、「教訓抄』

(6)

の序文に示されるような、雅楽の退廃による楽家存亡の危機意識

地下楽家の説話生成と理論構造

Iはじめに(地下楽家と説話)

御遊における貴族との合奏や寺社での奏楽をつかさ

「教訓抄」を中心としてI

の説話を有している。いったい何ゆえに、彼らは実際的な音楽の

知識以上のものを、その書に記したのであろうか。

初めに述べたように、地下楽家は三管や舞についてそれぞれを

職事とし世襲によってこれを伝承していたが、その氏は一つでな

楽家は他氏との中で、あるいは一族の中で、正統をめぐり嫡流を

めぐりせめぎあっていたのである。

また重代という性質上、子孫の中には舞曲に向かぬようなもの

すのは、楽譜や舞譜などの直ちに伝承すべき実践論であったはず

は例えば

「体源紗」

れを共有する一面も見られたが、その所作権(演奏権)をめぐっ

て争論状態になることも度々あった。それら楽人間における争い

で、

い場合もあり、またある氏族がそれを独占していた場合もその中

(7)

で流派として分かたれていた。その間では技術や知識についてそ

にもかかわらず楽書は現行の説話集では補いきれない数多く

そのために楽家が伝承の危機を迎えることもあった。

『教訓抄」巻三・四、「古今著聞集」管絃部・宿執部、

(8)

「代々荒序所作事」など各所に見ることができる。地下

猪瀬千尋

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公然の場において所作することに意義がおかれたのであり、その

本当の〃秘”

し、笛や笙といった三管の秘曲は、むしろそれを習得したものが

おける秘曲が天皇家・西園寺家・藤原氏西流によって専有され、

あり、絃楽器の秘曲は貴族間で、管楽器の秘曲は専ら地下楽家間

(Ⅲ)

で保持され、秘事として嫡々の樫に相伝された。しかし琵琶に

あり、宗教的背景であり、実際のものとしての証しであった。以

下その三つについて秘曲・感応・名器という観点から地下楽家の

説話、特に「教訓抄」を中心としてこれを読み解きたい。

もの、自らの正統を証すための術と背景とが求められたのである。

筆者は楽家における正統性の主張や象徴が、楽書における数多く

1、秘曲

させていくのは困難であった。すなわちそこに実際的技術以上の

の説話に反映されていると考える。

『教訓抄」

そ逆に)、

八二]。

《啄木〉、笛なら〈還城楽》、笙なら《団乱旋〉といったもので

雅楽には秘曲と呼ばれるものが存在し、

そのような状況の中では、

Ⅱ地下楽家の正統

のような大著を残した狛近真ですら(であったからこ

(9)

その家の存続をめぐっては苦悩したのである[福島

地下楽家の説話生成と理論構造

曲として公然の場における演奏が避けられたのに対

地下楽家は演奏技術だけで家を存続

それは秘事口伝という方法で

あるいは家の中の嫡流・傍流との間で、その演奏のためにきしろ

それは例えば琵琶なら

ここでみられる景賢と式賢の争いは、後に景賢の子・景基と式

賢の争いにまで発展し、南都楽人の面目たる常楽会においては

ぼ独占的に演奏された。「源氏物語」などにもその名が見え、地

下楽家成立以前より奏された《陵王》のうち、いつ荒序のみが特

(⑫)

別視され秘曲化されたかは定かではないしかし彼らは、他氏と、

という観点を持った上で、

点で絃楽器の秘曲とは異なる。

っていたのであり、時にそれは暴力事件にまで発展した。例えば

『古今著聞集」に見られる次の話

秘曲のうち、最も多くの史料を残すのは左方舞〈陵王〉中の

〈荒廓》であり、鋒は狛氏、笛は大神氏、笙は豊原氏によってほ

「先年(一二四○年頃か)常楽会欲有此曲之処、故式賢・景

「陵王の荒序は、笛にとりて最も秘曲なり。大神基政、この

曲をならひつたへて後、かの子孫の弟子ならぬものは、これ

を吹くことなし。基賢・宗賢・景賢、次第に相伝し侍りける

ほどに、景賢が弟成賢(式賢の誤)つたへたるよしを申しけ

れば、景賢いきどほり申して、後鳥羽院の御時、この曲にお

きては嫡々相伝して吹くべきよし、院宣を給ひてけり」「古

今著聞集」第四九九話

11

地下楽家の秘曲について論を進める。

そのような実際に演奏されるもの

’一一

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とって秘曲の所作は命を賭してのものであった。

な影響を与えていたと考えられる。

楽人達の説話には「舞楽感応讃」として語られる領域がある。

すなわち音楽によって神仏の示現を豪るというもので、その背景

に秘曲を奏することは家にとっての名誉であり、

大神惟季(u)

「懐竹抄」

は、

2、感応

(Ⅲ)

という死傷沙汰にまで及んでいたことがわかワ③。

基争論之間、方大衆狼籍過法、其場死者八九人被疵者不知数」

「体源紗」一三「代々私荒序所作事」

「管絃ハ狂言戯事ナレトモ、法成熟之曲、見仏聞法ノ調ナル

故。皆依前生ノ宿縁、又為仏神ノ御計、極道也。大神基政ハ

祈八幡大菩薩、施伶人名誉於末代。狛行高ハ祈春日大明神、

究舞笛二道。六条ノ入道蓮道ハ、法輪寺ノ虚空蔵ノ御利生ニ

テ、為管絃之名人。出雲ノ已講明暹ハ、竹夫島明神御感アナ

(リ歎)シニョリテ、管絃ノ本燈タリ(中略)是則管絃ノ宿

運、神ノッキソヒ守ラセ給フ故ナリ」

彼らの中に神仏の庇護を受けているという意識があった。

二○二九~’○九四)の筆に仮託される院政期の楽書

に見られる

しかしそれだけ

道の存続に絶大

まさに楽家に

生していたことを如実にあらわしている。

ずれも出典未詳ながらこの時期、楽人たちにすでに神仏観念が発

作に必要な面と桴とについてそれぞれ春日社における霊験が説か

れるが、そのうちの桴に関する次の逸話は「教訓抄」においては

また、秘曲とともに伝承された。例えば〈陵王〉についてならば、

「教訓抄』巻一の「(陵王)面桴事」があげられ麺・〈陵王》の所

近真自身の体験として語られる。

という四人の楽人についてそれぞれ神仏の庇護を示す件は、

「建保五年(一二一七)〈壬申〉正月十二日〈庚申〉責ノ時二、

範顕〈肥後寺主〉夢ノ状云ク、春日社二参詣シテ、舞殿ノ前

ノ藤ノ木ノ本二候テ、御殿ノ方ヲ見上テ拝礼仕候処二、楼門

ノ下一一、十七八許ノ御若君。以外二御勢大二御立テ御座卜見

マイラセ侯程一一、玉垣ノ西ノハナノモトョリ、束帯ナル殿、

藤木本ニアユミョリ給テ、範顕二被仰云、「近真二「陵王』

ヲ可仕由仰セタマヘバ、家二伝へ候桴ノ〔候〕ハネバ、エッ

カマッリ侯ベシト申也。「陵王」ノ桴作テ近真ニタウテ、御

前ニテ〈陵王〉可仕由雄被仰付候、承引仕リ侯ハジトヲポヘ

侯ト申候へ(、束帯ノ殿、重テ被仰云ク、「其条ハ苦難堪申

「蒙仰ヌ。イソギマカリテ出デ候ヌ」ト、被仰候御音ノ、深

山一一饗以外二高クキコヘ侯キ。「此ノ仰ノ上ハ、子細二及バ

ズ慶賀門ヲ出候」トヲホセ候シカバ、ヲドロキ侯ヌ。佃不経

サバ、可有別御沙汰之由被仰候程三楼二立セ御若君被仰云、

そしてこれら感応讃は

し。

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える「舞曲源物語」である。

絵》〈地蔵菩薩霊験記絵》にも収録され、南都系説話世界におい

て広く流布した話であったと考えられる。地下楽家はこのように

音楽説話を相承するだけだはなく、しばしば霊威を体験し、つま

りは自ら説話を生成する立場にあったのである。

が春日社で陵王を舞うというこの説話は、

①凡ソ舞曲ノ源ヲタヅヌルニ、仏世界ヨリ始テ、天上人中二、

シヵシナガラ伎楽雅楽スル業ナルベシ。サレバ、カノ世界ニ

ハ、タノシミノミァリテ、クルシミナキ故二、吹風立波、鳥

モヶダモノニイタルマデ、タヘナルコトバ、伎楽ヲ唱へ歌舞

ヲ乙デ、諸ノ仏菩薩ヲ讃嘆シ奉ナリ。シカラバ、ソノ道ニイ

タラン輩ハ、コノ心ヲフカクタノミテ、信心ヲイタシテ、道

ヲイトナムベキナリ。其証少々申侯ベシ。安養浄土ニハ、ト

コシナヘニ、伎楽ヲ葵シテ、菩薩ノ曲ヲツクス。迦陵賓賀苦

空無我ノ艫、ヲコタルコトナシ。都率ノ内院ノハ、常二『慈

そしてこれら舞楽感応讃のひとつの達成が

僧・範顕の託宣を介し、春日大明神の威で得た桴を以て、

程シテ、所進光近之桴本様。有禅定院(興福寺別当”良円)

御所。即令申出、任本様桴ヲ造テ、入テ錦袋、相具本様井夢

ノ状ノ、以造与桴、相語テ楽人等、春日ノ御社へ参詣シテ、

玉垣前ニシテ舞之」

地下楽家の説話生成と理論構造

一得た桴を以て、近真

後に〈春日権現験記

一教訓抄」巻七に見

尊万秋楽』ヲ秦デ、聖衆当来ノ導師ヲ、ホメタテマッル。天

上世界ニハ、「寛裳羽衣ノ曲」ヲ乙テ、五妙ノ音楽コクウニ

ミチタリ。イカニメデタカルラント、随喜シテ、カノ世界一一

生ト、願イヲヲコスベシ。

②天竺ニハ、大緊那羅衆、吹笛、弾琴シカバ、迦葉ハ起テ舞、

阿難ハ声歌シ給キ。昔釈迦仏、比丘ニテ御シケル時、弾琴給

ケリ。其琴ノ音一一云、有漏諸法如幻化、三界受楽如虚空ト唱

ヘリキ。其音ヲキ、、五百ノ皇子生死ノ無常ヲ観ズ。震旦ノ

玄藥三蔵ハ、伝「神功破陣曲」、渡西天給タリシ時、戒日大

王ノ宮ニシテ、起舞ヲ乙・〈今ノ『秦王破陣曲」、忠拍子ノ説

ナリ。〉舎衛国ノ妙声ハ、仏ノ御前ニシテ、伎楽ヲ秦タリシ

功徳ニョリテ、三悪道ヲヲハナレテ、仏ノ受記ニアヅカル。

③漢土ニハ、伊耆氏始テ舞ヲツクル。倭国ニハ、味摩子渡、

曲ヲウッス。其後、婆羅門僧正天竺ヨリ四箇ノ曲ヲ渡シタマ

ヘリ。或ハ遣唐使粟田道麿「破陣ノ曲」ヲ伝へ来ル。或ハ高

麗ノ下春、一部ノ舞楽ヲ渡シトやメタリ。或ハ、此朝ニシテ。

奉勅、数箇ノ曲ヲ作卜云。

④日域ニシテ、歌舞音楽ノ目出事、少々勘へ申ベシ。我朝大

明神、春日権現ハ、教円座主、「唯議論」十巻ヲ暗謂シ、第

一巻ヨリ始メ十巻一一至ル、住坊ノ松樹ノ下ニテ令舞給〈今

「万歳楽」躰舞ヲ云〉・率川明神ハ新羅軍ヲ平ラゲシ時、船舳

二現ジテ〈散手破陣ノ曲》ヲ令舞絵〈今宝冠様、元與寺ニ

トやマル〉役優婆塞ハ、大峰ニシテ「蘇莫者」ヲ吹給一一、山

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テ逝去畢。経七日後、炎魔王ヨリカヘサレテ、彼ノ曲伝トや

メタリ。一条ノ青侍〈秋盛〉皮堂ノ普賢講ノ伽陀付タリシ功

徳ニョリテ、其夜ノ定業ノ命、ハルカニノピタリ。委ハ鋒ノ

篇ニアルベシ。惣テ、極楽、都率、天上、天竺、震旦、日域

二此道ノメデタキ事ハ、カャウノ我等ガサイカクノヲョブ所

二非ズ。

⑤但、狂言綺語ノタワブレナリトイヘドモ、カクノゴトク仏

神行者ノ笛ニメデ、舞乙〈今《蘇莫者》天王寺ニトやマル〉・

浄蔵大徳ハ、朱雀門ノ辺ニシテ、笛ヲ吹カシヵバ、楼ノ鬼高

声ニシテ、カムジテ、ナオラフトナノル〈件ノ笛、宇治宝蔵

一一アリ〉・博雅三位ハ、大蘂簗ヲ吹スマシテ、式部卿ノ宮ノ

当難ヲノガル。北辺大臣(源信)、筆ノ秘事ヲ弾給シニ、天

人アマクダリテ舞。堀川左府(源俊房)、〈慈尊万秋楽》ヲ

常二奏給シュヘニ、臨終ノ時、カノ楽、耳二聞テ内院ノ迎ヲ

エタマヘリ。京極大相国(藤原宗輔)〈陵王》ヲ笛二吹給シ

ニ、生陵王、車ノ前一一出現シテ舞キ。阿波守(為理)任国下

向ノ時、天下一同ノ大旱魅ナリケルニ、神拝シケルッイデニ、

襲築ノ小調子ヲ吹タリケレバ、タチマチ黒雲イデキテ、雨下

~11く~llliIIjllilljli

テ、国土ユタカナリ。和邇部用光、蘂蘂ノ〈臨調子》ヲ吹テ、

王》ノ秘事トウハウカヘリシカバ、神感アリテ、御殿ニハヵ

海賊ノ難ヲタスカリタリキ。狛則高ハ、吉備津宮ニシテ〈陵

-11----------

ニフル。狛行高ハ〈皇帝》ヲ笛二吹タリヶルニ、強盗ヲ欧

iトやメタリ。大神叩晴遠ハ〈還城楽》ノ秘事ヲ情ミ、伝へズシ

一連の文章では①仏世界から始まって、②インド、③中国、④

そして日本において春日大明神を起点として、行基より貴族、地

下楽家、|侍の感応認が綿々と書連ねられ、⑤統語として『和漢

朗詠集」を媒介とする白居易の「狂言綺語」の句を、「古今和歌

集』仮名序・真名序を媒介とする「孟子」の「鬼神をもたひらぐ

世において和歌のみならず、芸道一般に浸透した、いわゆる狂言

(烟)

綺垂叩観について如上のような構成をとる。そして次巻の巻八

集」に

る事」

前半部(~心ヲスマシテ)を大神基政の『竜鳴抄」とほぼ等し

くし、全体に鴨長明の「発心集」に影響を受けるこの文脈[石黒

○二]は、長明が説く数寄者の有り様[南谷○三]を示すとと

もに、実は和歌の書にも通底するものの見方であった[錦○二。

すなわち「歌を作るときく心澄む〉状態が必要であること、また

「管絃物語」の末尾でこの理論をさらに発展させる。

神三宝ヲモ納受セシメ、鬼神ヲモタヒラグル事、余道ニスグ

レタリ。狂言ノアソビ、発心求道ノタョリトナル。

「又、管絃ハスキモノ、ノスベキ事ナリ。スキモノト云々

慈悲ノアリテ、ツネニハモノ、アハレヲシリテ、アケクレ心

ヲスマシテ、花ヲミ、月ヲナガメテモ、ナゲキアカシ、ヲモ

ヒクラシテ、此世ヲイトヒ、仏ニナラント思ベキナリ」

の句をあてる明術な理論構造がとられる。

『教訓抄」は中

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であっても、普遍であるという認識さえあればよく、従ってその

ような普遍的音楽を奏することで、狂言綺語観が達成できるので

ある。

であり、それはとりもなおさず言語の障碍なのである。つまり和

歌が狂言綺語観を達成(克服)するためには、インド函陀羅尼Ⅱ

中国“漢文Ⅱ日本“和歌という三国間における等式[菊地八三]

を認め、そこに和歌陀羅尼観を求める必要があったが、言語でな

におかれることになった。

ここに来て①~④において感応讃が解かれ、その終り⑤に狂言

綺語を配置する構成がより明確な形で示される。錦氏のいうよう

に、心を澄まして管絃を奏することによって神仏の感応を得るこ

とが、狂言綺語観の基底にあるならば、感応認を説いたうえで狂

言綺語を配置する「教訓抄」の構成は極めて自然なものになる。

い。し」い弔うの、

にする一方で、

歌の制作によって〈心澄む〉精神が生じること、それに伴って神

仏の降臨・感応など諸々の事象が発生すること」[錦○一二

五五頁]という和歌の言説は、『竜鳴抄」「懐竹抄」そして「教訓

抄」などの楽譽の言説と一致し「「狂一一一一口綺語観」をふくめ、そも

い音楽(舞曲)は、

そも根底から同一性の思想を有していた」[錦○一二六○頁]

のである。巻八において狂言綺語観は敷桁され和歌と同一平面上

しかし「教訓抄」

というのは管絃(舞曲)と和歌がその基底において理論を一

地下楽家の説話生成と理論構造

和歌が前提とするものを管絃はすり抜けられるの

それが仏世界のものであっても人間界のもの

の構成の明断さはそれにとどまるものではな

院蔵「侠名楽書」が挙げられる。「快名楽書」は「体源紗」とか

なりの部分が一致し、かつ「体源紗」より古いs教訓抄」より

は新しい)[青木八三]とされることから、「体源紗」の典拠と

また『教訓抄」の舞楽感応認は、狂言綺語観の達成のみならず、

後世の楽書に少なからぬ影響を与えている。その一例として曼殊

して想定されるが、「体源紗」とは異なる文も持つ。そのうちの

音楽は普遍という前提があるからこそ、①から続く④までにおい

て、仏世界からインド・中国・日本へ、仏の垂迩である春日大明

神から聖俗・貴賎へとそれをなぞっていくことが出来たのであ

る。ある芸道における奇瑞を説き、結論として狂言綺語を導く文脈

は「梁塵秘抄口伝集」にもあり、三国の観念の中で和歌陀羅尼を

説く無住の「沙石集」もあるが、このような三国、仏世界を越え

てひとつの感応讃として括る形は「教訓抄」のみではないだろう

(Ⅳ)。◎

いったいにこのような吉同度な理論体系が、|地下楽家の思想に

よってつくり出されたものとは考え難く、特に『教訓抄」の場合、

例えば①における「都率」という言葉が示唆するように、南都系

の言説の影響が見られ、一二世紀後半以降台頭してくる貞慶など

の言論を考えてみる必要があるように思われる。

の南部系の僧や、

いう文章は、和歌が障碍としてきたものを容易にすり抜けている。

①の始めの「几ソ舞曲ノ源ヲタヅヌルニ、仏世界ヨリ始テ」と

南都ともかかわりの深かった澄憲などの能説家

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「舞楽感応事」という項は、文字通り舞楽における神仏の感応を

「教訓抄」巻七(①~④)のように仏世界から三国へ伝っていく

ものだが、実はそのほとんどが「教訓抄」の感応認と類似し(表

一参照)、『教訓抄」からの引用が推定される。

またたとえば三条西実隆(一四五五~一五三七)自筆「楽書系

図」言天理図書館善本叢書」所収)には系図での傍注として、狛

則高が吉備津宮で羅陵王を舞って神威を得た話や、狛行光、大神

是遠の蘇生讃などを載せるが、これらはみな「教訓抄」の舞楽感

応讃に帰すことができる。

以上より「教訓抄」の舞楽感応讃は、狂言綺語観の達成として

の思想的構築と、後の楽書に強い影響を与えた、感応讃の集成的

存在という二点によっ

そしてこれら神仏の威は、上述した《陵王》の桴面の逸話で見

たごとく、しばしばモノを介在として伝えられた。特にそれは名

器(名前のっけられた楽器)にあって顕著である。

と考えられている[豊永○六]。やがて地下楽家の中でも名器

3、名器

名器の生成は早く一○○○年頃の「枕草子」に見られ、一一○

○年頃の『江談抄」を黎明とするが、初期のそれは貴族間におい

ての美術品的な要素が強く、それが後三条朝二○六八~一○七

二)あたりから実際に楽器として所作されるようになっていった

て特質化されていることがわかった。

る(それぞれ第一○、二、十二冊にあてられる)。それまでの

地下楽家の名器が『教訓抄」に見える網代丸・高野丸の二種であ

(肥)

ったのに対し、「続教訓抄」では複数の地下楽家の名器が示され、

が出現し始めるようになり、それがまとまった形で示されるのが

一二七○年頃成立の「続教訓抄」の「笙」「蕊集」「笛」の項であ

それぞれの由来が語られる。そしてその由来讃の中には秘曲にま

つわるものや、感応にまつわるものが幾つかある。

以下、名器のうちから「秘曲」「感応」の要素を合せ持つもの

について、三つ例をだして検討してみたい。そのうち二つは由来

認の原型ともいうべきものが『教訓抄」に見られるものである

(④波線参照)。

蛇逃

「伶人助元、府役僻怠のことによりて、左近府の下倉に召し

篭めらる。この下倉には蛇蜴のすむなるものをと、恐れをな

すところに、夜中ばかりに、大蛇、案のごとく来たれり。頭

は祇園の獅子に似たり。眼は金鋺のごとくにて、三尺ばかり

なる舌をさし出して、大口をあきて、すでにのまむとす。助

て、しばらく笛を聞く気色にて、返り去りにけり。」「十訓抄』

十・二六

元、魂失せながら、わななくわななく、腰なる笛を抜き出て、

l還城楽の破を吹く。大蛇、来りとどまりて、頸を高くもたげ

一一一ハ

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海賊九「和邇部用光といふ楽人ありけり。土佐の御船遊び下りて、

さらに「十訓抄』はこの説話に続くかたちで、和邇部用光(生

没年未詳)をめぐって蕊築の感応護を記述する。

期に清原氏から大神氏の手に渡った「蛇逃」が、還城楽の感応讃

(罰)

を伴い、大神氏の正統を示す器となったと考えられる。

ありs教訓抄」巻四「還城楽」)、後世、「蛇逃」が実際にその大

(犯)

神氏の手にあったことであゑ「蛇逃」がいつ清原氏から大神氏

を引抜いた上でそれに名器をデコレートしたことがわかる。

考えられており[稲垣八三]、「蛇逃」の名器認は、「十訓抄』

間、僻怠ありて…」と名器「蛇逃」の由来讃であったことが付加

(Ⅲ)

される。「続教訓抄」における当該話は『十訓抄」を引用したと

であることや、

に移ったかは定かでないが、そもそも《還城楽》が大神氏の伝来

人清原助種が先祖の笛なり、而左近府生助元〈助雄弟子〉府役の

れるが、これが『続教訓抄」第一二冊においては「蛇逃丸は、楽

s伏見宮旧蔵楽害集成」所収「楽家系図」)こと、及び清原氏は

一四世紀のうちには系譜上から名前を消すことなどから、ある時

また注目すべきはく還城楽》が笛を専らとした大神氏の秘曲で

(四)

ここでは助元(助種)の《還城麺〉をめハ、っての感応認が説か

りけり。弓矢の行方知らねば、防ぎ戦ふに力なく、今はうた

上りけるに、安芸の国、なにがしの泊にて、海賊押し寄せた

地下楽家の説話生成と理論構造

清原氏の祖は大神惟季から笛を相伝されている

として語られる。「続教訓抄」はこれ以外にも、「今鏡」を典拠と

した[稲垣八三]類話や「茂光」を主人公とした類話を収録す

る癖そのうち後者は、宇佐八幡宮から帰還の中途での海賊襲撃

の話になり「八幡大菩薩ノ御感ヤアリケン」と唱えて〈小調子〉

蕊菓の秘曲〈小調萢》を吹いたことで海賊の難を逃れた用光の

逸話は、「蛇逃」同様「十訓抄』を典拠としたと思しい「続教訓

抄」第二冊に収録され、「続教訓抄」では「海賊九」の名器讃

いふ曲、吹きて間かせ申さむ。さることこそありしかと、の

ちの物語にもさし絵へ」といひければ、宗との大きなる声に

て、「主たち、しばし待ち絵へ。かくいふことなり。もの聞

け」といひければ、船を押さへて、おのおのしづまりたるに、

用光、今はかぎりとおぼえければ、涙を流して、めでたき音

を吹き出でて、吹きすましたりけり。

をりからや、その調べ、波の上にひびきてかの澪陽江の

ほとりに、琵琶を聞きし昔語りにことならず。海賊、静まり

て、いふことなし。

よくよく聞きて、曲終りて、先の声にて、「君が船に心を

かけて、寄せたりつれども、曲の声に涙落ちて、かたきりぬ」

とて、漕ぎ去りい」「十訓抄』十・二七

上にゐて、「あの党や。今は沙汰に及ばず。とくなにものをl

も取り給へ。ただし年ごろ、思ひしめたる蕊第の、小調子と

がひなく殺されむなずと思ひて、蕊菓を取り出でて、屋形の

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してこの「海賊九」も和邇部氏より蕊菓を相伝した(「音楽相承

(妬)

系図』[福島九一ハ])安倍氏に伝来し、実際に演奏されていた。

を吹いたところ、海賊が感歎したという、かなり感応認に近いか

たちになっている。また『教訓抄」においても、秘曲〈臨調子》

の験によって海賊の難を逃れたとされている(④波線参照)。そ

錫杖丸

フーリア美術館が所蔵する〈地蔵菩薩霊験記絵》は、一三世紀

中~後半の作と推定されながらも錯簡や脱落、画面の剥落が著し

く、その制作者・制作事情などすべて未詳のままであって、未だ

その内容についての研究が美術史・文学史ともに進んでいない絵

(〃)

巻である。もとの話数については不明だが、現在のものは地蔵斐口

薩に関する六話の霊験認から成っており、そのうちの第四話は次

(躯)

のような話である。

宝号をとなへけり笛を吹けれは楽一を吹ても南無地蔵菩薩と

「狛行高か強盗の難をのかる凶事/永久のころ、狛行高とい

ノーとそ□けるさる程になにとかし

らにをきたる横笛をとり大刀にうちあはせて南無地蔵菩薩

かへりぬ我命はたすかりたれとも命にもかへむとおもひっる

ふ左の舞人ありけり若より地蔵菩薩を信してあさゆふ地蔵の

いりてにくへき程もなかりけれはせむかたなきあまりにまく

いひて春日大明神にそ法楽したてまつりける或夜強盗みたれ

『た]りけん強盗皆にけ

後にこの笛に「錫杖(丸巨と名付けたという霊験讃が示される

が、『教訓抄」の一節(④波線参照)によって補えばもとは秘曲

本地とされる)と愛用していた笛の験によって、強盗の難を逃れ、

承され江戸時代初期、近豊(一六二一’一六九二)の代に霊元天

皇へと献上された二楽道偉人伝』[滝沢○六])。越後守・近豊

〈皇帝破陣楽》を巡っての話であったことがわかる。「錫杖丸」

はその後、行高を経て真葛へ、やがて狛氏から分家した上家に相

ここでは狛行高が日ごろ信仰していた地蔵菩薩

笛はきためて損し[ぬと]おもひてふきてみるにすこしもそ

きたりて西へゆかむとすれはや倉といふ東へゅかむとすれは

又や国といふ南北へゆかむとするもたちはたかりてや斑とい

もなし急にけかへりつる程にさほかはの辺にて又小法師一人

給つるにたゆへくもなくおそろしくおほえてものとらむの心

けれは家へ打入て侍つれは地蔵菩薩の錫杖にてうちはらはせ

ひつるかいかに候ひつるやらんおそろしくていつかたへもま

かり候はてとらへられ侍と申けりさて其行高か笛をは其後錫

杖とそなつけ圏ると申つたえて侍り。」〈地蔵菩薩霊験記

めたりつる盗人とも行高か家にくしてゆきて事のよしをとひ

んせす不思議におほえていよノー地蔵の宝号をとなへてゐた

絵》第四話

るにこの強盗佐保川の辺[まてにけ]たりけるかすへてえの

ひきら[す]してみなとらへられにけり/夜あけぬれはから

11

(春日社三宮の

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譜(楽譜・舞譜)がある。

その起源を求める可能性として幾つか寄辺はあり、

現在残る楽書だけではこれを十分に説明できない点にある。ただ、

ものQ秘曲・感応についてはあまりに資料に記述される内容が

伝説的に過ぎ、その起源・発生をどこまで遡りえるか不明であり、

ここまで地下楽家の説話の生成要素を、正統という観念を軸に

秘曲・感応・名器の三つの観点から見てきた。そしてそれらが相

互に連関を持つことを確かめ『教訓抄」「続教訓抄」中の音楽説

話との関わりを考察した。またその背景にある狂言綺語観につい

ても若干の解説を加えた。しかし残された課題は多い。

問題は名器こそ「続教訓抄」にその濫鵤を求めることができる

例えば、中原香苗氏が翻刻・紹介する宮内庁「羅陵王舞譜」

(狛近真筆)の裏書中には「荒序旧記」という狛氏代々の荒序の

家と秘曲、名器、

(釦)

た。

家に伝わったこの楽器は、家の正統の象徴なのであった。

以上三例より、大神氏l還城楽l蛇逃、安倍氏l小調子(臨調

子)海賊九、狛氏(上家)I皇帝破陣楽l錫杖丸という、地下楽

は毎年、春日社の奏楽に勤仕する際に、この「錫杖丸」

という(「狛近豊家伝笛記」『鴬峰林学士文蕊」一二)。

Ⅲおわりに(地下楽家説話の源流)

地下楽家の説話生成と理論構造

そしてそれを結ぶ感応讃の構造が明らかとなっ

そのひとつに

を用いた

まさに上

ぱ登場する人物であり、そのような人物の譜に秘曲の由来認が記

されていることは注目に値しよう。

最後にもう一つ譜の可能性という点から、南都法師・明暹二

一一一三年没)のものを挙げたい。磯水絵氏によれば明暹のような

「法師数寄者」は「楽家の上に立つ身分を有し、楽家と公家とを

結び付け、介在できる位置にあった」[磯○三三五四頁]と

されるが、同氏が紹介する「浄明院(明暹)琵琶説秘譜』

○三]のうち〈蘇莫者〉項の頭書には次のようにある。

基通)

祖先である「惟季譜』(三四

も見え、その中で「蓮道譜」

かれていたことが「教訓抄」

所作記録があり、これは舞譜の著者である近真のみならず、先代

や近真の子供も含めて書き継がれたものである。「荒序旧記」は

陵王の桴面の逸話など、『教訓抄』における荒序をめぐっての秘

曲識の下地になったと言う[中原○一、○四]。

また『教訓抄」中にも「南宮笛譜」(五一頁)「貞保親王譜」

(六五頁)といった今に序文が残る公的な譜に混じって、狛氏の

浄明院明暹譜云、此曲聖徳太子、於亀瀬山被奏時、山神来舞

之、又其後歴数代、役優婆塞於大峰神山、吹当曲、千時如前

山神出来舞之

は未だに詳しい検討がされていないものの、

(三四頁)二七頁)にはく陵王〉の由来が解

(釦)

の記述からわかる。蓮道(六条入道

「光時譜」(四五頁)などの引用

’楽書にしばし

九 戸

磯と

11

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初期太子絵伝六種に見られる、役行者の笛あるいは聖徳太子の

笛(尺八)の音に山神が舞うというモチーフの初出は、従来「聖

徳太子伝私記」(顕真如一二三八年)と言われていたものが、実

は「教訓抄」(一一一三三年)であることが指摘されている[竹居

七八]。しかしここにある頭書が事実であるならば、さらに一○

○年ほどさかのぼることになる。

そのような「譜」の裏書・頭書などといった面も含め再検討し

ていくことによって、楽書の、章いては説話集全体の領域が押し

拡げられることになるのではないだろうか。

註(1)しかし中に皿

た楽人もおり、

(2)「教訓抄」は天福元年(一二三三)に成立した楽書で、

著者は狛近真という、興福寺に所属した南都系の楽人で

ある。

(3)「続教訓抄』

著者は狛朝葛。近真の孫にあたる。

(4)「体源紗」は豊原統秋の手による楽書で永正九年二五

二一)成立。

時期も異なってくる[福島○二[荻九四、○七]。

ここでは本論で扱うような、狛氏、大神氏、安倍氏、豊

原氏などの総称として地下楽家という言葉を用いたい。

しかし中には非重代の楽人や、非重代から重代になっ

は一二七○年頃成立したといわれる楽書で、

規定をどこに置くかによってその成立の

(5)これら楽書の説話を巡る研究史は中原香苗氏によって

まとめられている[中原○四]。なお近年の成果として、

足利将軍家に伝来した笙と豊原氏をめぐっての安達敬子

〆 ̄、

7、-〆

氏の論考がある[安達○七]。

(6)しかしこのような鎌倉期を雅楽の衰退と見るような動

相承系譜」(「日本音楽大事典」所収、初出一九五七年)

で一望できる。ただし全体として通観できるに過ぎずこ

ういった系譜は慎重に扱うべきであろう。詳しくは[福

島九六]参照。

(8)「代々荒序所作事」は承暦四年二○八○)から応永二

六年(一四一九)までの歴代の荒序の所作記録であり舞

手饒三管の演奏者の名とともに、その時の逸話を記す。

Ⅲで述べる「羅陵王舞譜』裏書「荒序旧記」ともかなり

思われるが、委細は今後の課題としたい。なお楽家間で

の争論を期するものとして「大日本史料」仁治三年正月

二十五日条にある「興福寺伶人争論記録」があるが、争

論の記録は見当たらない。

(9)近真からその子孫への伝承を取次いだ聖宣の「舞楽府

合紗」によれば、近真の長男は鎌倉に下向してしまい、

きも見直されつつある[福島九九]。

の数が重複しており、「故」の使い方、名器の記述具合な

どから豊原氏以外の史料をも集めた上で作成したものと

諸流が分家していく様子は例えば平出久雄い■■■IIl1III‐ 「日本雅楽

=一

「;

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B)ここで出てくる〈陵王》は「荒序旧記」

が磯水絵氏によって指摘されている[磯○三一一五八

頁]。

(u)惟季の弟子・基政の筆ともいうが記事自体は平安末の

を、現時点での荒序所作の上限と見るのが妥当であろう

か。

(昭)地下楽家は雅楽を職掌とする身分であった一方で、近

(⑫)「荒序舞相承』は狛光高(九五九~一○四六)を〈荒

序》伝承の祖とおくが、そもそも荻美津夫氏がこの記録

を以て狛氏の成立をみる[荻九四]程であり、他に比

可能。

(Ⅲ)後醍醐天皇以降は事情が異なるがここでは措く。詳し

くは[豊永○六]。

(u)《陵王》は現存するが、その中で〈荒序》は廃絶して

おり現存しない。

ものが多く、成立は鎌倉時代に入るか。

衛府などに属しその内実はかなり武辺に偏っていたこと

すべき史料もないことから、他の系図と同様、信用に足

るものではない。「代々荒序所作事」の初例二○八○年)

次男は「物狂而不執道」、三男は幼すぎたために「不尽芸」

の状態であった。詳しくは[福島八二]参照。なお

ス(ロ国Ⅱヨココヨ営・屋‐(。ご・・四○・弓への匡己のへ)にて全編を閲覧

『舞楽府合紗」については東京大学史料編纂所データベー

地下楽家の説話生成と理論構造

(Ⅲ参照)の記

(Ⅳ)とはいえこういったある芸道が仏世界でも人間世界で

も普遍であるという考え方は、歌謡においても見られる

(略)狂言綺語観およびそれと関連しての和歌陀羅尼観にっ

例外ではなく、楽人の罪障の度合いによって文章が変化

○一][高橋七九]、中世における狂言綺語観は概ね肯

定的で、少なくともある芸道の中で、狂言綺語によって

その営為が妨げられるようなことはなかった。管絃とて

文脈として把えることであり、狂一一一一口綺語観とはまさに狂

言綺語をある文脈に位置づける行為でもあった、という

でもない[菊地八三]。強調したいのは、近真の狂言綺

語観を個人の往生観念から把えるのではなく、ひとつの

また和歌陀羅尼観も狂言綺語の派生としておさまるもの

『右記』に見える「以音成仏事」の思想[小島九九]な

どもあり、それらの影響を看過するわけにはいかない。

ことである。錦氏、古くは高橋亨氏が言うように[錦

のであって[石田八八]、他にも声そのものを仏とする

空海の「声字実相義」の思想[南谷○三]や、守覚

[荒木○五]。なお「教訓抄」中の狂言綺語観と関わる

研究として[石黒九五、○二][石田八八][榊八

○][田中八二][錦○一][南谷○三]。

録にも出てくるので、《荒序〉を舞ったとみて差し支え

ない。

いては、荒木浩氏によって研究史がまとめられている

I三一

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する、と見るよりは、楽人がどのような典拠のもとにそ

の言葉を位置づけ、配列していったかを見る方が適切か

と思われる。

(岨)例外的に後世(一五世紀)、豊原氏の持つところとなっ

た笙「達智門」(「山科家礼記」延徳三年八月二四日条)

も収録されている。達智門については[安達○七]参

昭小。

(四)清原助種については(神田邦彦二○○六「楽人誌

清原助種」「日本音楽史研究」六)参照。

(辺還城楽は『信西古楽図」に見られるように、もともと

は生身の蛇を使っての舞であった(「教訓抄」巻四「還城

楽」)。

(皿)ただし「十訓抄」巻一○にのる芸能説話の登場する多

くが典拠不明であり、今野達氏にまって『教訓抄」に書

グー、

22-プ

行幸において、この笛が大神景秀によって奏されている

(『教言卿記」応永一三年(一四○六)三月八日条)。

(羽)「海賊九」「錫杖丸」についてもそうだが、相伝の楽器

といっても嫡流・傍流の分家もあり、系図などと比して

あることが指摘されている[今野七三]。従って「続教

訓抄」が引用したものも、「十訓抄」ではなくその説話集

かれる「或記」

であった可能性を考えておく必要があろう。

足利義満がその栄華の中に催した後小松天皇の北山殿

がその典拠不明の説話を載せた説話集で

なお詳細に見ていく必要があろう。

(型)「蕊第(の秘曲)ニハ、臨調子、小調子」『糸竹口伝」

(妬)このような類話や、それに伴う異説を並べ、時に比較

検討するのは『続教訓抄」によく見られる傾向である

[稲垣七七、八三]。

(恥)「教言卿記」同日条。脚注兎)参照。ちなみにこの時

の名前は「海賊返」だが、話の筋道からいって海賊丸と

同一とみて問題はないであろう。

(〃)〈地蔵菩薩霊験記絵〉の研究史は[昼間九八]に一

(翌《地蔵菩薩霊験記絵》の六話の分類については千野香

(羽)「錫杖丸」については期を改めて新稿とする予定である。

,その時に『楽道偉人伝」や「鶯峰林学士文集」といった

唐突な引用については解説する。

(辺蛇逃、海賊丸、錫杖丸の三管について、蛇逃はその後、

り、現在も陽明文庫に存在することがわかっている。

(皿)[磯○一一一三五一頁]に「教訓抄」の引用一覧が載

る。

覧がある。

織氏に従う[千野八○]。

御所に渡り安政の大火によって焼失言井伊家史料」安政

五年五月一九且、海賊九は不明、錫杖丸は近衛家へと渡

1=

= ̄

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表1

類話を持つ「教

訓抄」の巻「快名楽書」「舞楽感応證」本文

大緊那羅王ノ笛ヲ吹琴ヲ弾セシ[]頭陀第一ノ大迦葉威儀ヲ返シテ舞上[]間第一ノド可難陀衣鉢ヲ忘レテ唱歌ス

舎衛国ノ妙声ハ、仏ノ御前ニシテ伎楽ヲ秦セ[]功徳ニヨリテ三悪道ヲハナレテ仏ノ授記二[]

馬鳴菩薩ノ頓lrE和羅伎く琴名一説箏名「1〉音ニハ右為ノ諾渋

地下楽家の説話生成と理論構造

巻七

テー

、ソニ

ー記

前樗御ノノ仏

仏テ、レ

ハナ

一戸ハ

妙ヲノ道国悪

衛三

空ロ一丁

ニヨ1

巻七I

〈琴名一説箏名[]〉音ニハ有為ノ諸法菩薩ノ頬ロ巻八

K幻I ノ如シ化ノカロシ

三界ノ猿縛ハーモ楽ムヘキコトナシキトキコヘト其音ヲ聞テ五百王子世ヲイトヒテ出家ス

ヘキコトナシキトキコヘト其音ヲ聞テ五百ノ

婆羅門僧正仏哲和尚ハ林邑ノ楽ヲ伝へ

唐ノ玄葵三蔵ハ西天へ渡給テ戒日大正

巻四

ハ西天へ渡給テ戒日大正ノ宮ニシテ秦王破陣楽ノ子細巻三

ノヘ給

玄宗皇帝ノ后楊貴妃ハ天上月宮ノ曲金剣両臂垂ヲマナヒテ帝′、 ヲマナヒテ帝ノヲホ可マ

ヲエタリキゾ、

我朝聖徳太子ハ救世観音ノ化身[]舞楽ヲ此国ニヒロメ尺八ヲアソハシキ

巻四

役ノ優婆塞ハ宝喜菩薩ノ化現ナリ吉野山ニシテ蘇莫者ヲ吹タマヒシ巻一、四カハ山神コレニメテ、鋒レテケリ今ノ蘇莫者コレナリ

慈覚大師ハ唐朝二渡テ引声念仏ヲ吹給シ

浄蔵大徳ハ朱雀門ニテ笛ヲ吹テ楼鬼二感セラレル巻一、七

堀河左大臣俊房ハ慈尊万秋楽ヲ秦テ内院ノ向ヲエ絵キ巻二

北辺左大臣(源)信[]筆ノ秘手ヲ弾シテ天人ノ影向ヲミ給キ巻七

博雅三位ハ大蘂簗ヲ吹テ式部卿宮ノ怨念ヲトメキ巻七

京極大相国(藤原)宗輔ハ陵王ノ精霊ヲフキアラハシ給キ巻一、七

シカノミナラス臨終ノトキハ絃歌万秋楽ノ音宮中ニキコヘテ都率ノ巻ニノソミトケ給

シナmFk臭者ヲ吹タマヒシ巻一、四、七

者コレナリ

コヘテj都率ノ、三 ||■]

巻二ミ

妙音院大相国ノ琵琶ノ音ニハ熱田大明神感応ヲタレ精ヲアラハシ給キ

ボロ邇部ノ用光ハ蘂蘂ノ□調子ヲフキテ海賊ノ難ヲタスカリキ巻七河(阿)波守為理ハ神拝ノ吹二墓第ノ少調子ラフキテ旱紘ノ天二廿|_) ハ神拝ノ吹二箪菓ノ少調子ラフキテ旱魅ノ天二甘

巻七雨 ヲクタシキ

一条青侍秋盛ハ河崎ノ普賢譜ノ伽陀二付笛シタリカレキ

定業ハTIUllI可ノ音 シタリシユヘニ定業ヲノ巻七

大神晴遠ハ還城楽ノ曲ユヘニ冥途ヨリ返サル巻七

狛行高ハ陵王ノ被ヲ吹テ□人ヲ吹キト[]巻七同行光ハ賀殿ノ曲ヲ秦セシユヘニ春日ノ其[]アスカリキ巻一

天台座主教円唯識談論ノミキリニハ春日大明神老翁二現シテ松樹ノ巻七下ニシテ[]万歳楽ヲ舞給フ I

rill]ノ< ンフー

巻七万歳楽ヲ舞給フ

狛則高力陵王ノ曲ヲ奏セシニハ吉備津宮動ス

ヲ奏セシニハ吉備津宮ノ大明神ノ御殿ニハカニ震巻一

==一

率川明神新羅軍ヲ平ケシトキ船ノ軸二現シテ宝冠ノ散手ヲ舞給フ|巻七

-‐

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◎引用文献

曼殊院「快名楽書」[青木八三]

懐竹抄(新校群書類従)

教訓抄(日本思想大系)

荒序鋒相承(続群書類従・一九上『催馬楽楽師伝相承二

古今著門集(新潮日本古典集成)

地蔵菩薩霊験記絵(続日本絵巻大成)

糸竹口伝[飯島九六]

十訓抄(新編日本古典文学全集)

続教訓抄(覆刻日本古典全集)

◎参考文献

青木千代子一九八三「曼殊院所蔵侠名楽書と体源紗」「国

語国文』五二・九

荒木浩二○○五.沙石集』と〈和歌陀羅尼〉説につい

てl文字超越と禅宗の衝撃」『仏教修法と文学的表現に関

する文献学的考察」

石黒吉次郎一九九五.教訓抄」における舞楽説話と芸能

観」「専修国文」五七

飯島一彦一九九六「〈翻刻資料紹介〉井伊家旧蔵・後崇

光院筆「糸竹口伝上『梁塵』一四

石黒吉次郎二○○二「今様の思想l『梁塵秘抄口伝集』巻

第十をめぐって」

(以上二つ

石田瑞麿

機水絵

磯水絵

稲垣泰一

中世文学」東京教育大学中世文学談話会

(のち二○○○「怪異の民俗学・四鬼」河出書房)

稲垣泰一一九八三「『続教訓抄」と中世説話集」『説話」

荻美津夫一九九四「平安朝音楽制度史」吉川弘文館

小島裕子一九九九「二心敬礼声澄みて」老l法文の歌

が生みだされる場」「文学」一○・二

今野達一九七三「教訓抄の提起する説話文学的諸問題」

「専修国文」一三

(のち二○○八「今野達説話文学論集』勉誠出版)

荻美津夫二○○七『古代中世音楽史の研究」吉川弘文館

菊地仁一九八三「和歌陀羅尼孜」「伝承文学研究」二八

今野達一九七三

「専修国文」一三

(のち二○○八云

榊泰純一九八○

高橋亨一九七九

「日本文学』二八・七

滝沢友子ほか二○○六「東儀鐵笛著「楽道偉人伝」翻

刻人名索引」「楽書資料集《論考篇》』

田中久夫一九八二「狛近真と狛朝葛の念仏」「鎌倉仏教

二○○○

二○○三「院政期音楽説話の研究」和泉書院

二○○七『中世の演劇と文芸」新典社)

一九八八「日本古典文学と仏教」筑摩書房

九七七「鬼と名楽器をめぐる伝承」「和歌と

「説話と音楽伝承」和泉書院

「日本仏教芸能史研究」風間書房

「狂言綺語の文学I物語精神の基底l」

’三

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中原香苗二○○一「宮内庁書陵部蔵「陵王荒序」老l

「教訓抄」との関連について」『論集説話と説話集」

中原香苗二○○四コ体源紗』の生成」『日本古典文学史

中原香苗一九九六亘翻〉宮内庁書陵部蔵「名器秘抄」

老l楽器名物讃を記す楽書」「古代中世文学研究論集」

(以上三つ、二○○七「日本音楽史叢」和泉書院)

中原香苗一九九五「内閣文庫蔵「舞楽雑録」と「教訓抄」」

福島和夫二○○一「中世における管絃歌舞」「日本音楽

福島和夫一九九六「〔音楽相承系図集〕老」「日本音楽史

福島和夫一九八二「狛近真の臨終と聖宣」「古代文化」

昼間範子一九九八「絵巻物の画面効果I

雑考」思文閣出版

千野香織一九八○「作品解説(地蔵菩薩霊験記絵と『在

外日本の至宝」二毎日新聞社

錦仁二○○一「和歌の思想l詠吟を視座として」「院政

史論叢」和泉書院

「語文」六四

研究」

四期文化論集」森話社

ラリー所蔵「地蔵菩薩霊験記絵巻」第三、

って」「和光大学人文学部紀要」三一一一

地下楽家の説話生成と理論構造

フリア・ギヤ

第四段をめぐ

南谷美保二○○三「「管絃も往生の業となれり」音楽往

生という思想についての一考察」「四天王寺国際仏教大学

紀要』三五

の課題と方法」和泉書院

伝のせちひろ名古屋大学大学院文学研究科修士課程)

=一