医学フォーラム ─皮膚疾患の病態と治療,特に電子...

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東西の風に東西すること勿れ 私は大阪府高槻市(現在)に生まれたその 頃は国民学校といっていた小学生時代は太平洋 戦争の真っ最中で食料難による栄養失調寸前の 時代を過ごした高槻には焼夷弾が落されたこ とはなかったが空襲警報が発令される度空壕に逃げ込んだことが思い出される戦後大阪府立茨木中学に入学したが男女共学に変 更されくじ引きで春日丘高校に転校になっ 大学入試は大阪大学医学部を卒業した従兄 弟が京都府立医科大学を薦めてくれた当時京都府立医大には教養課程がなく京都府立西 京大学の教養課程で 2 年間を終えて京都府立 医科大学を受験し入学した教養課程の時に 医学部に進むべきか否か友人と話し合ったこと 医学フォーラム 285 「私の歩んできた道」 ─皮膚疾患の病態と治療,特に電子顕微鏡による研究, そして新設医科大学・附属病院と共に歩んだ人生記─ 福井医科大学名誉教授,京丹後市立弥栄病院名誉院長 医学フォーラム 1933 9 大阪府高槻市紺屋町に生まれる 1958 3 京都府立医科大学医学部卒業 1958 4 月~1959 3 京都府立医科大学附属病院実地修練修了 1959 4 月~1963 3 京都府立医科大学大学院医学研究科博士課 程修了 1959 7 26 回医師国家試験合格 1963 4 京都府立医科大学皮膚科副手 1963 5 月~1966 5 京都府立医科大学皮膚科助手 1965 3 京都府立医科大学医学博士(甲 35 号) 1966 6 月~1966 10 京都府立医科大学皮膚科講師 1968 11 月~1983 3 京都府立医科大学皮膚科助教授 1977 6 日本皮膚科学会皮膚科専門医(1682 号) 1977 11 月~19782AssociateClinicalProfessor,Schoolof Medicine,WrightStateUniversity,Ohio,U.S.A. 1983 4 月~1995 3 福井医科大学教授・皮膚科学講座 1995 4 月~2001 3 福井医科大学副学長・福井医科大学附属病 院病院長 2001 4 福井医科大学名誉教授 2001 10 月~2004 3 京都府弥栄町国民健康保険病院名誉院長 2004 4 京丹後市立弥栄病院名誉院長 日本皮膚科学会名誉会員 2012 4 瑞寶中綬章授与 蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊 蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊蚊 《プロフィール》

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Page 1: 医学フォーラム ─皮膚疾患の病態と治療,特に電子 …インドにおいても稀有であると話されていた. 皮膚電子顕微鏡研究遍歴 皮膚真菌症の臨床研究と平行して真菌の超微

東西の風に東西すること勿れ

私は大阪府高槻市(現在)に生まれた.その頃は国民学校といっていた小学生時代は太平洋戦争の真っ最中で食料難による栄養失調寸前の時代を過ごした.高槻には焼夷弾が落されたことはなかったが,空襲警報が発令される度,防空壕に逃げ込んだことが思い出される.戦後,

大阪府立茨木中学に入学したが,男女共学に変更され,くじ引きで春日丘高校に転校になった.大学入試は大阪大学医学部を卒業した従兄弟が京都府立医科大学を薦めてくれた.当時,京都府立医大には教養課程がなく,京都府立西京大学の教養課程で2年間を終えて,京都府立医科大学を受験し,入学した.教養課程の時に医学部に進むべきか否か友人と話し合ったこと

医学フォーラム 285

「私の歩んできた道」

─皮膚疾患の病態と治療,特に電子顕微鏡による研究,そして新設医科大学・附属病院と共に歩んだ人生記─

福井医科大学名誉教授,京丹後市立弥栄病院名誉院長 上 田 惠 一

医 学 フ ォ ー ラ ム

1933年9月 大阪府高槻市紺屋町に生まれる1958年3月 京都府立医科大学医学部卒業1958年4月~1959年3月 京都府立医科大学附属病院実地修練修了1959年4月~1963年3月 京都府立医科大学大学院医学研究科博士課

程修了1959年7月 第26回医師国家試験合格1963年4月 京都府立医科大学皮膚科副手1963年5月~1966年5月 京都府立医科大学皮膚科助手1965年3月 京都府立医科大学医学博士(甲35号)1966年6月~1966年10月 京都府立医科大学皮膚科講師1968年11月~1983年3月 京都府立医科大学皮膚科助教授1977年6月 日本皮膚科学会皮膚科専門医(1682号)1977年11月~1978年 2月 AssociateClinicalProfessor,Schoolof

Medicine,WrightStateUniversity,Ohio,U.S.A.

1983年4月~1995年3月 福井医科大学教授・皮膚科学講座1995年4月~2001年3月 福井医科大学副学長・福井医科大学附属病

院病院長2001年4月 福井医科大学名誉教授2001年10月~2004年3月 京都府弥栄町国民健康保険病院名誉院長2004年4月 京丹後市立弥栄病院名誉院長

日本皮膚科学会名誉会員2012年4月 瑞寶中綬章授与

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《プロフィール》

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があり,医師である友人のお父上から,達磨の絵に「東西の風に東西すること勿れ」と揮毫された手拭をいただいた.この手ぬぐいで鉢巻をして勉強していると何故か医学部に進みたいと強く感じるようになった.この手ぬぐいは京都の経師屋で扁額に仕上げてもらい今でも座敷に掲げてある.この額を見あげるといつも静かに医学の世界で頑張るように,叱咤激励してくれているような気持ちになる.府立医科大学時代には音楽部に入り,医大の

オーケストラに所属し,バイオリン部門で楽しく過ごした.同級生に8人の演奏者がいたが,講義が済み次第,大学地下の音楽部部室とその近くで年一回の演奏会のために練習をした.オーケストラのメンバーとは何かと気が合い,楽しく過ごせるばかりか,先輩から各診療科の医学教育に関する話が聞けたりして,将来の診療科の方向を決めるのに役立った.卒業後は一年間のインターンがあり,私は本

学附属病院の殆んど総ての診療科で短期間ではあるが研修した.何れの診療科もライターの先生に一日中付き纏い,教えを受けた.内科系のことも外科系のことも行われている診療科は皮膚泌尿器科であり,私の従兄弟が皮膚泌尿器科の医師でもあったのでごく自然に皮膚泌尿器科に進んだ.

皮膚科領域臨床への道

皮膚科泌尿器科の岩下教授の口癖は,一に健康,二に勉強,三に趣味で,私に大学院に進学を勧められた.入局後,ライター高石喜次講師の指導を受けて臨床研修を行っていた.数ヵ月後に教授室に呼ばれ,皮膚真菌症についての研究と抗真菌剤グリセオフルビン(以下,GF)について研究をするようにいわれた.教室には真菌研究部門はなく,中央検査室細菌・真菌部門の鷲津良道先生の実地指導を受けて真菌培養から始めた.GFの研究は動物実験から始め,モルモット実験白癬のGF効果の検索,皮膚,内臓等の諸臓器障害の検索など,また白癬菌の電子顕微鏡所見等について研究し,「グリセオフルビンの作用機序に関する知見補遺」第1報 抗

白癬菌効果に及ぼす2,3内臓障害の影響(日皮会誌 78:403-408,1968),第2報 合成培地における白癬菌並びにそのアミノ酸代謝に及ぼす影響(日皮会誌 78:409-421,1968),第3報Griseofulvin内服人爪角末培地における白癬菌並びにアミノ酸代謝(日皮会誌 78:517-522,1968),第4報 皮膚pHに及ぼす影響(日皮会誌 78:523-531,1968)として日本皮膚科学会雑誌に公刊した.さらに電子顕微鏡の操作に習熟するため,電

子顕微鏡部門がある茨城県日立市の日立製作所那珂工場に出張した.従来は光学顕微鏡で検討してきた組織所見と共に,さらに電子顕微鏡の所見で検討することが出来,組織レベルから細胞レベルで新しい領域に入り,検索することが出来るようになった.その結果,Trichophytonmentagrophytesの超微細構造に及ぼすGriseo-fulvinの影響(京都府立医大誌 77:945-950,1968)と題して報告した.本論文はワシントンD.C.における第12回国際皮膚科学会において

“Studiesonthemechanismsofantifungaleffectofgriseofulvin”と題して報告した.医局の真菌関係の係りをしていた関係で,問

題となる患者では岩下教授に呼び出され症例報告するよう検査を受け持った.印象に残った症例としては,黄癬例,黒色分芽菌症例,足菌腫(マズラ足Madurellamycetomi)例などの稀有な症例について学会報告した.特に足菌腫の症例は InternationalSocietyforHumanandAnimalMicology,VICongress(Tokyo,1975)で報告した.報告後,会場でインドから出席されていたマズライ大学のT.V.Venkatesan教授が来られ,インドにおいても稀有であると話されていた.

皮膚電子顕微鏡研究遍歴

皮膚真菌症の臨床研究と平行して真菌の超微細構造の研究に始まり,皮膚疾患の病像の研究と共に治療操作による変化についても研究を始めるようになった.岩下教授は,第65回日本皮膚科学会総会学術

大会(昭和41年)において「表皮角化に関する知見」と題して宿題報告されることになり,私

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は様々な角化症における角化過程の電子顕微鏡による研究を担当した.電顕部門としては,表皮角化の過程,胎児皮

膚並びに胎児皮膚の器官培養の角化過程,角化症の角化異常機序などが研究対象であった.近隣の出張病院からも材料を得て,結果を出すことに専念した.第6回国際電子顕微鏡学会が京都国際会議場

で行われたときに,“Electronmicroscopicstudiesontheepidermalkeratinizationofcutaneousdiseases”と題して報告した.特に魚鱗癬類の角化,乾癬の不全角化,ダリエ病の異常角化の電顕像について報告した.その席上,異常角化の所見についての質問があった.質問者は誰か分からなかったが,後で,友人から聞くと質問者はHistopathorogyoftheSkinの著者の米国タフト大学のWalterF.Lever教授であると分かった.その夜,Lever教授に呼ばれ,都ホテルでビールを飲みながらダリエ病の所見について話をしていただいた.また,先生の教室に橋本健先生が勤務しておられることが分かった.橋本先生も学会に参加されていたため橋本先生からも電顕所見について話していただいた.胎児皮膚の器官培養については,第13回国際

皮膚科学会(1967,Munich)において“Studiesontheepidermalkeratinizationofthehumanfetusinvitrowithspecialreferencetotheelectronmicroscopicandautoraiographicobser-vation”と題して講演した.講演後,Prof,F.Serri

(Univ.ofPavia,Italy)がブラボーと叫んでくれた.突然のことで,驚くと同時に国際学会の厳しさとすばらしさを初めて認識した.またある時,京都で行われた皮膚科学会に出

席された元京都府立医大学長・名誉教授(皮膚科)の片岡八束先生が学会の感想として「皮膚科領域の研究は随分進んだが,治療に関してはまだまだだね.臨床医の研究として治療と関係した研究も必要ですね」と漏らされたことがあった.学会では思いもつかぬ発言やサジェッション

などから学ぶことが数多くあり,これらの発言に励まされると共に,向後は電顕的にも治療分

野の研究も進めることにした.当時,皮膚腫瘍に凍結外科療法を動物実験で

行っていたが,皮膚小腫瘍に対して臨床的にも実施していたため,本法の作用機序について脂漏性角化症を中心に検討していた.特に凍結1回法と2回法後の超微細構造の変化を比較し,2回法の方が変化が強く,臨床効果も優れていることを証明した.第25回日本皮膚科学会中部支部学術集会で,特別講演として「老化に伴う疣贅状皮疹の電子顕微鏡的観察」と題し,治療による超微細構造の変化,治癒経過,即ち治療効果について明らかにした.皮膚科領域における電子顕微鏡の研究を更に

進めたいため,米国Tufts大学Lever教授に手紙を出したところ,先生はすでに大学を去られ,橋本 健先生がOhio州Dayton市にあるWrightStateUniversityに教授として赴任され,日本から既に数人の留学生が研究に励んでいるとの連絡を受けた.そこで橋本先生に依頼し,文部省の在外研究員として留学させていただいた.当初は日本人研究者がいつも仲良く研究・行動を共にしていたため,Japanesearmyと呼ばれていて,私もその一員になった.全員が皮膚疾患の電子顕微鏡研究に打ち込んでいる姿はすばらしく,またその研修データをみて,指導される橋本先生の熱意あるお姿に感動した.今まで味わったことがない新鮮さと電顕研究三昧の研究者として大きな喜びを感じた.冬はマイナス20度にもなる極寒の日も,たゆまず研究し,作った論文は速やかに校閲していただいた.後日ではあったが,大学のClinicalassociateprofessorの地位と称号をいただき,恐縮すると共に橋本先生の心の暖かさに感謝した次第であった.留学を終えて京都府立医大に帰ってからは皮

膚疾患病巣に諸種の治療操作を加えて,その反応から治療と関係した研究を始めた.難治性である尋常性乾癬については,第28回

日皮会中部支部総会(1977)の乾癬シンポジウムでは,電顕所見,疫学,治療,コルチコステロイド外用時の電子顕微鏡像などについて報告し,またSymposiumonPsoriasis(安田利顕編集)に記載した.引き続いてビタミンA酸,ビ

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タミンD3,5-FU,ブレオマイシン,アンスラレンなどの作用機序について検索し,報告してきた.また,皮膚悪性腫瘍並びに治療に関する研究

も行い,第23回日本医学会総会(京都)において医学の進歩シリーズ「皮膚癌の診断と治療の進歩」と題して教育講演を行った.凍結外科療法に関しては,臨床的・実験的研究を纏めて,

“Electronmicroscopicstudiesofcryosurgeryinthe dermatologicalfield”(XV InternationalCongress,1977,Mexico)と題して報告した.凍結外科の大家である米国 Bostonの Dr.S.A.Zacarianから質問を受け,今後も一緒に研究しようと励ましの言葉をいただいた.米国皮膚科凍結外科学会の依頼によって“Electronmicro-scopicstudiesofcryosurgeryindermatology,J.ContinuingEducationinDermatology”,1978と題して公刊した.

福井医科大学創設と7人の侍

昭和58年4月に福井医科大学が新設され,私の学位論文作成に当たって指導していただいた本学生化学講座能勢善嗣教授が副学長として赴任されることでもあり,私も初代皮膚科教授として赴任した.当初は7名の教授が京都府立医大卒業であるため7人の侍と言われていた.教授室には京都府立医大皮膚科教授室に掲げ

られていた福井出身の大礼服姿の日本皮膚科学

会創設者土肥慶蔵先生のお写真を掲げ,先生に見守られながら教室作りに励んだ.教室には教書も実験材料もなく,教書は自分

の所有書物,実験室には過去に行ってきた電子顕微鏡関係の材料だけで教室員と研究を始めた.学生講義のための材料も一から作りながら講義を行い,さらに6ヵ月後から始まる診療の準備を行った.また,外来診療棟,病棟の内部を完成させるため,しばしば文部省名古屋工事事務所に行き,外来診療室などの設計について話し合いを行い,完成させ,診療を始めることができた.研究面では,ヌードマウスを用いて皮膚疾患

移植キメラを作成し,移植キメラに薬剤や諸種治療操作を加えて治癒機序を解明する実験を始めた.悪性腫瘍については,丸尾充講師が担当し,「ヌードマウスに移植したヒト悪性腫瘍の形態学的研究」(京都府立医大誌,1984)で学位を得た.引続いて若林俊治助手,井上裕司助手も移植キメラの研究で学位を得ている.皮膚科領域における凍結外科療法の研究につ

いては引き続いて行っていたが,凍結外科療法に関する教育講演としての依頼があり,Cryo-surgeryinDermatology(9thJapanKoreaJointMeetingofDermatology,1995,Pusan)と題して,私の経験を話した.その後,実験腫瘍に凍結療法と温熱療法を組

み合わせて行った結果を“Electronmicroscopicstudiesonexperimentalskincanceraftertopicalapplicationofbothhyperthermiaandcryosur-gery”(XVIIWorldCongressofDermatology,WestBerlin,1985)と題して報告した.後に中川重光助手は本研究を纏めて学位を得た.これらの研究と平行して,病理学講座(福田

優教授)と共同で悪性腫瘍に対する光力学的治療に関する研究を行った.皮膚科学講座大学院生として第1期生が2名所属し,石黒和守大学院生は,「皮膚悪性腫瘍に対するX線照射のヘマトポルフィリン・オリゴマー及びカフェインによる増感効果に関する研究」(日皮会誌,100

(6)669-688,1990)と題した論文で,福井医大大学院第1号の学位を得た.

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写真1 京都府立医科大学電子顕微鏡研究室にて(昭和55年5月)

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教室の研究内容は実験的並びに臨床的に治療と関係したものが行われるようになった.福井医大教授就任3年目に梶川欽一郎副学長

から大学共同利用研究施設電子顕微鏡部門長として電子顕微鏡部門の整備を行うように命じられた.透析型,走査型電子顕微鏡の質の向上と分析も同時に研究できるように完備した.また超薄切片法,電顕オートラジオグラフィーなどの方法を駆使し研究が出来るようになった.更に組織の運営についても尽力した.その3年後の平成2年には,第41回日本皮膚

科学会中部支部学術大会が福井において初めて行われることになった.新設医大でもあり,教室関係の医師も少なく,躊躇していたが,男らしく引き受けなさいと周囲から励まされてお引き受けすることにした.本学からは鳥塚莞爾学長,福田 優教授(病理学),加納永一郎教授

(放射線基礎医学)などの先生方にもお世話になった.また米国からは恩師の橋本 健教授

(WayneStateUnniv),JosephMcGuire教授(Univ.ofCalifornia)にお願いした.私はプレジデンシャル・アドレスとして「皮膚科診療と電子顕微鏡」と題して講演した.本会には日本皮膚科学会元理事長,前理事長そして現理事長の3氏の出席を得て,学会を盛り上げていただき,うれしく感謝の至りであった.

国際交流関係のこと

福井医大鳥塚莞爾学長を団長とした国際交流委員会は,中国浙江省杭州にある浙江医科大学を訪問し,国際交流の調印式に参加した.本委員会委員であった私も調印式に出席した.その時,浙江医科大学皮膚科孫国欽教授から

電子顕微鏡研究を行う留学生の受け入れ依頼があった.直ちにお引き受けすることは出来ないので帰国後,学長に相談し,許可を得たので留学生受け入れを孫教授に伝えて実現した.その後,更に中国1名,インドネシア1名の

留学生を受けいれ,合計3名の留学生が主として電子顕微鏡による皮膚疾患の研究を行った.平成8年には電顕皮膚生物学会を福井で開催

することになり,留学生たちにも電子顕微鏡に

よる皮膚疾患の研究報告をしてもらった.

福井医科大学副学長・附属病院長時代

平成7年4月に大学副学長・附属病院長に就任したが,皮膚科学講座の次期教授が決定するまで教授と病院長を兼任した.病院長就任2年後には電顕皮膚生物学会の会長として福井で学会を持つことになり,その会長も併任した.この学会では外国からは2名,学内からは鳥塚学長,福田優教授(病理学)にもご講演を頂いた.私はプレジデンシャル・アドレスとして,「皮膚科診療と電子顕微鏡」と題して講演し,諸種皮膚疾患の病態把握と臨床診断への応用並びに治療による病像の変化から治療法の開発に超微細構造の変化が役立つことを示した.最後に学会報告した演題は「汗孔角化症におけるCornoidlamellaの電子顕微鏡並びに共焦点レーザー走査顕微鏡所見について」と題して,第30回日本臨床電子顕微鏡学会(1998)で報告し,Cornoid

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写真2 福井医科大学病院長室にて(平成7年5月)

写真3 福井医科大学皮膚科学教室にて(平成8年5月)

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lamellakeratinizationなる角化概念を提唱した.病院長就任後,1年半は教授と兼任していた

が,その後は病院長専任で病院における教育の外,管理・運営に当たらなくてはならなくなった.病院長任期中,福井医大病院だよりを年6回

発行し,病院長のつぶやき欄をつくって,当時の病院の現況について記載した.当時は特定機能病院の評価のこと,また関連病院長会議のこと等について記載した.更に大学病院の組織の勉強から始まり,経営改善,病院改革,医療事故対策,さらに国立大学から独立行政法人化した場合の対策等,また,卒後臨床研修が必修化された場合の研修内容,病院改革,などの山積した問題について学内でも委員会を作って検討した.特に大学に適した対策案を練って,文書を作成した.その一つが「病院改革行動計画─21世紀に望まれる大学病院を目指して」と題した文書である.この間,月一度位の頻度で事務局長と共に文部省医学教育課に足を運んで指導を仰いだ.退職時には,「私の電顕研究遍歴」と題して講

演し,6年間の病院長の任期を終えて大学を退任した.任期中に印象に残っている事柄は多いが,そ

の中でも,ナホトカ丸が日本海に重油を流出させて,福井の海岸が真っ黒になり,極めて強い悪臭を放ち,その清掃のために各地から来られたボランティアの方々が被害を受けられ,医大から毎日関係各医師が進んでその治療に参画したこと.福井は過去に大地震を経験しているため地震対策を充分に行ったこと.また,火災対策や自動車事故なども警察と関係して安全対策を図ったことなどが思い出される.退職後,第400回日本皮膚科学会北陸地方会

記念学会(平成15年12月14日)に招かれ,特別講演として「土肥慶蔵先生のことども」と題して話をさせていただいた.日本における皮膚科学会の始祖である土肥先生の生誕の地で皮膚科学の研究・治療が出来たことは誠に名誉なことと感謝している.

地域医療への参画・診療

福井医大を去るに際し,関連諸機関への挨拶や大学から持ち帰った書類の整理を行い,今後の人生は如何にあるべきかをゆっくり考えようと思っていたが,いくつかの医院や病院,また看護学校からの仕事の依頼があった.病院については福井に毎年医師派遣依頼に来院されていた現在の京丹後市立弥栄病院に皮膚科を新設し,週3日診療することに決めた.また,佐野豊元学長が校長をされている看護学校にもパートとして講義に参加させていただいた.弥栄病院は京都北部の地域中核病院として,

医師派遣に腐心しておられ,当時の町長,病院長,事務長と共に,京都,滋賀,福井などの大学病院を訪れ,医師派遣について依頼して廻った.4年前,京都府立医大から安原正博先生が病院長として赴任された.診療はもとより,事務処理にも励んでおられ,和やかな雰囲気のなか,地域医療のレベルアップに努められており,敬服している.私は半世紀の間,医学界に身をおいてきた.

お蔭様で自分自身は大病にも罹らず人生を生きてきたことは周囲の皆様のお蔭であったと日々感謝している.福井を去ってからは,秋にはオーケストラの演奏会,年末には京都南座の顔見世に行くことを楽しみにしている.また,昨年(平成24年)の5月には天皇陛下

から瑞寶中綬章を賜った.誠に光栄なことと心から感謝している. (平成25年3月記)

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写真4 京丹後市立弥栄病院にて(平成25年3月)(中央:安原正博病院長,左:梅田智恵子看護部長)