「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への一考察...wilhelm ii:独persönliches...

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本稿の目的 本稿では,社会学的テーマ「ヴィルヘルム二世の個人的統治(The personal rule of Wilhelm II:独 Persönliches Regiment)」を,未だ意見の一致がなされていないビスマルク 失脚の原因として考察する。ここからまずビスマルク失脚に関する研究史,そして失脚の原因 とされる諸事件について十分な検討を行う。ビスマルク失脚前,彼とヴィルヘルム二世に関わ る諸問題が生じた。しかしこれらの一事件から,同失脚が生じたとは説明できない。すなわち この「ヴィルヘルム二世の個人的統治」との視点から,ビスマルク失脚の原因が十分理解され るとする。 ここから次に,現在も未だ積極的な議論に上がらないドイツ第二帝政期の「ヴィルヘルム二 世の個人的統治」と呼ばれる統治システムへの検討・解明を行う。同目的に,この社会学的テ ーマに関する研究史,またそのドイツ第二帝政期における役割を,ビスマルク失脚の関連で検 討し総括する。この作業を通じて,現在も通説として存在する「“平和主義のビスマルク”か 「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への一考察 ―“大宰相”ビスマルク失脚を中心にして― 〔Summary〕 This article discusses the sociologic theme ‘the personal rule of Wilhelm II’ (persönliches Regiment) in relation to the resignation of the ‘Great Chancellor’ Otto von Bismarck. The article starts out with a review and close examination of relevant literature. Contrary to a commonly-held view, the resignation of Bismarck cannot be explained merely as the outcome of one of the series of confrontations between the emperor and the chancellor. Rather, it can more properly be understood as a consequence of the ‘personal rule of Wilhelm II’, which was based on German political culture. After this examination, the political system of the ‘personal rule of Wilhelm II’ is analyzed ; a subject that so far has not yet been fully discussed. In view of this, the relevant historiographical literature is re-evaluated with regard to the resignation of Bismarck. This resulting conclusion criticizes the idea that there was a direct causal link in the process ‘from a peaceful Bismarck to a demonic Hitler’ in German modern history. The re-evaluation of the function of Kaiser Wilhelm II can help better understand the period of the Kaiserreich. Therefore this article contributes to the theme of the succession of the Third Reich from the Kaiserreich and of the Sonderweg (Special Path). 〔キーワード〕 「ヴィルヘルム二世の個人的統治」,オットー・フォン・ビスマスク, ヴィルヘルム二世,第二帝政期,ドイツ政治文化 29

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  • 本稿の目的

    本稿では,社会学的テーマ「ヴィルヘルム二世の個人的統治(The personal rule ofWilhelm II:独 Persönliches Regiment)」を,未だ意見の一致がなされていないビスマルク失脚の原因として考察する。ここからまずビスマルク失脚に関する研究史,そして失脚の原因とされる諸事件について十分な検討を行う。ビスマルク失脚前,彼とヴィルヘルム二世に関わる諸問題が生じた。しかしこれらの一事件から,同失脚が生じたとは説明できない。すなわちこの「ヴィルヘルム二世の個人的統治」との視点から,ビスマルク失脚の原因が十分理解されるとする。ここから次に,現在も未だ積極的な議論に上がらないドイツ第二帝政期の「ヴィルヘルム二世の個人的統治」と呼ばれる統治システムへの検討・解明を行う。同目的に,この社会学的テーマに関する研究史,またそのドイツ第二帝政期における役割を,ビスマルク失脚の関連で検討し総括する。この作業を通じて,現在も通説として存在する「“平和主義のビスマルク”か

    「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への一考察―“大宰相”ビスマルク失脚を中心にして―

    〔Summary〕 This article discusses the sociologic theme ‘the personal rule ofWilhelm II’ (persönliches Regiment) in relation to the resignation of the ‘Great

    Chancellor’ Otto von Bismarck. The article starts out with a review and close

    examination of relevant literature. Contrary to a commonly-held view, the

    resignation of Bismarck cannot be explained merely as the outcome of one of the

    series of confrontations between the emperor and the chancellor. Rather, it can

    more properly be understood as a consequence of the ‘personal rule of Wilhelm II’,

    which was based on German political culture.

    After this examination, the political system of the ‘personal rule of Wilhelm II’ is

    analyzed ; a subject that so far has not yet been fully discussed. In view of this,

    the relevant historiographical literature is re-evaluated with regard to the

    resignation of Bismarck. This resulting conclusion criticizes the idea that there

    was a direct causal link in the process ‘from a peaceful Bismarck to a demonic

    Hitler’ in German modern history. The re-evaluation of the function of Kaiser

    Wilhelm II can help better understand the period of the Kaiserreich. Therefore this

    article contributes to the theme of the succession of the Third Reich from the

    Kaiserreich and of the Sonderweg (Special Path).

    〔キーワード〕 「ヴィルヘルム二世の個人的統治」,オットー・フォン・ビスマスク,ヴィルヘルム二世,第二帝政期,ドイツ政治文化

    小 暮 実 徳

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  • ら突然の“悪鬼のヒトラー”出現」との問題に,重要な視点を投げかける。すなわち現在まで,ほとんど無視されているヴィルヘルム二世の役割を再評価することで,ドイツ第二帝政期への正しい理解に繋がり,そこから所謂“第三帝国”への連続性,また「ドイツ特有の道」(1)問題への理解の一助となすことを目的とする。本稿構成の理解を容易にするため,以下のように章立てをした。

    第一章:ビスマルク失脚に関する諸問題ビスマルク失脚に関する研究史1.国内問題a.レデンプトール教会公認を巡る対立b.社会主義者鎮圧法を巡る対立c.社会政策を巡る対立c-1.鉱山ストライキc-2.二月勅令・労働者保護法・国際労働者会議

    2.国外問題3.ビスマルク失脚4.ビスマルク失脚の総括

    第二章:「ヴィルヘルム二世の個人的統治」について問題の所在1.「ヴィルヘルム二世の個人的統治」に関する研究史2.「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の統治システムとしての可能性3.「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の本質―“ドイツ政治文化に基づく,皇帝を中心に

    した集団合議制”

    総括

    第一章:ビスマルク失脚に関する諸問題

    ビスマルク失脚に関する研究史帝国創設の立役者であり,その後二十年に亙り事実上の支配者であったビスマルク(Otto

    Eduard Leopold von Bismarck-Schönhausen,1815―1898)が,新皇帝ヴィルヘルム二世(Friedrich Wilhelm Viktor Albert,1859―1941)との激しい衝突の後失脚したことは,いわば同国の支配層内における革命と言うべきものであった。そこで当時から様々な議論の対象となったが,それは多分に政治的な意味を持った。ビスマルク自身,その失脚後もハンブルク近郊の彼の領地フリードリヒスルー(Friedrichsruh)において,盛んに言論による闘争を継続した。そこでしばらくドイツの言論界は,皇帝派・ビスマルク派に分かれ,同状況下では,本件の公平な判断が困難であった。また更に困難ならしめたことは,本件が国家の最高支配層での出来事であったため,関連公文書が公表されなかったことである。後に発表されたとしても,それは部分的かつ政策的なものに過ぎなかった(2)。この“大宰相”ビスマルクを扱った書物は,枚挙に暇がない(3)。しかしビスマルク失脚の

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  • 原因を直接扱った作品は少なく,それはまた1920―1950年頃に限られ,現在では,ほとんど取り上げられない。国外の関連業績に関しては,後の「ヴィルヘルム二世の個人的統治」内で検討する。国内では,古くは江口朴郎(4),中山治一(5),岡部健彦(6),林健太郎(7)の著作が挙げられる。その後は,ドイツ第二帝政期の研究内で取り上げられる。そこで,その関連研究は豊富であるので割愛する。このビスマルク失脚の原因については,とりわけ皇帝との不和が注目される。しかし,その衡突の原因については様々な議論がある。まず当事者であるビスマルクの辞表から検討する。これによると皇帝との衝突の原因は,第一には1852年勅令の廃止である。同勅令とは,プロイセンの各大臣が,首相の承認を得ることなしには,直接王に所轄事項の報告を禁ずるものである。ビスマルクは同勅令の廃止を,最大の衝突の原因としている。また第二には,皇帝が宰相の職務上の権利,特に国家議員との自由な交渉に制限を加えようとしたことである。これはビスマルクが内密に中央党(Zentrumspartei)議 員 ヴ ィ ン ト ホ ー ス ト(Ludwig Johann Ferdinand GustavWindthorst,1812―1891)と会合した事実を,ヴィルヘルム二世に知られ非難されたことに端を発する。第三には,外交政策である。特には,ヴィルヘルム二世の目指している政策が,ロシアとの親善関係を危機に陥れる恐れがあるとする。しかしこのビスマルクの辞表は,極めて政策的な考慮に基づいて書かれ,「職に留まる必要理由書」と見なされている。そこで同内容は,皇帝との対立の本質的な点に全く触れていないとされる。そこでビスマルク辞表の内容を含め,様々な辞職の原因が考えられる。ここで古典的なビスマルクの辞職の原因(関連するものもあるが)を箇条書きにし,明確にする。

    1.ビスマルクのクーデター計画2.対ロシア関係を中心とする対外関係3.社会立法や社会政策に関するヴィルヘルム二世との意見相違4.単なるヴィルヘルム二世との不和5.社会主義者鎮圧法(Sozialistengesetz)に対するビスマルクの態度6.諸政党に対する意見の相違

    1の説は古くから「デルブリュック(Hans Gottlieb Leopold Delbrück,1848―1929:歴史家・1884―1890年ドイツ帝国議会[Reichstag,以下帝国議会と略記]議員)の仮説」として存在しており,様々な批判がある。日本では林が「ビスマルク失脚をめぐる諸問題」の中で,特に3の説をとっている。第二帝政期の社会問題を詳しく取り上げたボルン(Karl ErichBorn,1922―2000)は,ビスマルクの社会政策への理解をヴィルヘルム二世以上に進歩的と考察し,結局4の説を採る。5,6の説に関しては,ロートフェルス(Hans Rothfels,1891―1976)が「1890年のビスマルク危機に関して」(8)で述べている。また近年では,1977年ゼーバー(Gustav Seeber,1933―1992)が『ビスマルク失脚』(9)の中で,彼の政体をボナパルティズム体制と見なし,その崩壊を原因とした。ヴィルヘルム二世研究の第一人者レール(John C.G. Röhl,1938―)は最近の著書で,ビスマルク逝去の際,ヴィルヘルム二世による母への書簡内に「永久に世界には唯一の真の皇帝がおり,それはドイツ人である。それはその個人や資質には関係なく,何千年もの伝統の権利による。そこでその宰相は従わなければならない!」(10)(ゴシックは強調)と歓喜をもって述べていることを挙げ,“王権神授説”に対抗した宰相の態度を強調しているのは興味深い。

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  • 上記から,様々なビスマルク失脚説が存在するのが分かる。そこでここでは,これらの説の根拠となった主な諸事件を,既存の研究業績から分析・検討する。直接ビスマルク失脚事件を扱った日本での研究は林・岡部論文と言えるが,ここではこれらの論文では用いられなかった諸史料(特には『オイレンブルク政治書簡集』(11)『バーデン大公フリードリヒ一世の書簡』(12))を中心に検討することにより,同事件の理解を深める。

    1.国内問題a.レデンプトール教会公認を巡る対立レデンプトール教会(Redemptorist)とは,1732年創設のカトリック系教会であり,ビスマルクによる反カトリックキャンペーン,所謂文化闘争(Kulturkampf,1871―1878)により,ドイツから排除された教会である。この教会の再公認の動きが1888年頃起こってきた。この事件はカトリックの強いバイエルン王国(Königreich Bayern)との関係,そしてイタリアとの関係で問題であった。バイエルンは南ドイツの伝統ある王国であり,その規模はプロイセンに次ぎ,帝国内で分邦主義的傾向が最も強かった。1888年バイエルンではルッツ(Johann Lutz,1826―1890)が,政権を握っていた(13)。ルッツは親プロイセン派であり,オイレンブルク(Philipp FriedrichAlexander Graf zu Eulenburg,1847―1921)を中心とするヴィルヘルム二世を支持するサークルでは,ルッツが政権を担っていれば,バイエルンとプロイセンとの,またドイツ帝国との関係においても,安泰と見なしていた。一方オイレンブルク等は,バイエルンの摂政を中心とする,古くからのウルトラモンタン(教権至上主義)貴族を危険と見なしていた(14)。すなわちレデンプトール教会再公認によって,カトリック勢力が強くなれば,リベラルで親プロイセン派のルッツが窮地に追い込まれるのは明白であった。更にそこでルッツ退陣となれば,強力な分邦主義的ウルトラモンタン貴族等によりプロイセン政府が脅威に晒され,また外交問題にも支障を来たすと懸念された。それはとりわけイタリアとの関係である。ドイツはイタリア・オーストリアと三国同盟(1882―1915)を結んでいたが,当時のイタリア王国は,ローマ教皇庁(Curia Romana)と対立していた。教皇庁はバイエルンにウルトラモンタン政府を作り,ドイツ連邦参議院(Bundesrat)においてローマの利害を代表させようとしていた(15)。同教会再公認に対して賛成派と反対派に分かれた。賛成派の代表はビスマルク,反対派はオイレンブルクを中心としたヴィルヘルム二世を支持するサークルである。それではなぜ同教会を認めようとするのか。これがビスマルクによる,保守党(Deutschkonservative Partei)とカトリック政党である中央党との連携の布石として考察される問題である。すなわち同盟国であるドイツが,カトリック系レデンプトール教会を再公認することは,ローマと対立するイタリアにとって不愉快な事件となる。オイレンブルクとホルシュタイン(Friedrich August Karl Ferdinand Julius von Holstein,1837―1909)は,ビスマルクがレデンプトール教会を容認することで,親プロイセン・リベラルのルッツ内閣を倒し,内外における反ローマ教会政府の周りに不信感を呼び起こし,その結果ヴィルヘルム二世を窮地に追い込み,自身の地位を確実にする計画であると考えた。また当時ビスマルクは,1890年の帝国議会選挙の結果が自らの支持基盤,保守党・自由保守党(帝国党:FreikonservativePartei)・国民自由党(Nationalliberale Partei),所謂“カルテル”にとって良くないことを見越していた。そこで今までの敵対勢力であるカトリック,つまり中央党に歩み寄りをして,自らの地位の保全を図ろうとしたのである。

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  • ヴィルヘルム二世はイタリアとの同盟関係を重視し,レデンプトール教会の再公認には反対であった。しかし“大宰相”ビスマルクの影響によって,その意見は大きく揺さぶられた。ここからホルシュタインやオイレンブルクは,ヴィルヘルム二世の家庭教師であったヒンツペーター(Georg Ernst Hinzpeter,1827―1907)等にも頼んで必死に説得した(16)。そして最終的には,レデンプトール教会の再公認はなされなかった。本件では,ヴィルヘルム二世自身よりも,ヴィルヘルム二世を支持するサークルが,ビスマルクの計画に強力に反対した。そこで同事件は,ヴィルヘルム二世と同皇帝を支持するサークルに対して,ビスマルクが強力なイニシアティブを採れなくなっている事実を示す事件として評価できる。

    b.社会主義者鎮圧法を巡る対立帝国議会は,この社会主義者鎮圧法に対して,常に短い期限に限って延長を可決してきた。そのため1890年9月30日,再びその満期を迎えていた。1889年10月25日ビスマルクは,新法案を帝国議会に上程した。新法案は従来と異なり無期限とされ,更に社会民社党員をその居住地域から追放する権限を警察に与える,所謂“追放条項”が付加されていた。自由主義左派・社会主義勢力に対抗するための所謂“カルテル”三党の一つである国民自由党は,この追放条項を保守的として反対した。当初ヴィルヘルム二世は,この新法案に賛成であった。しかし情勢の変化につれ考えを変え,ビスマルクと溝を深めた。ホルシュタインは,追放条項付社会主義者鎮圧法によって生じるカルテル崩壊を恐れた。また彼は追放条項には保守党内にも反対があるとオイレンブルクに説明し,ヴィルヘルム二世の考えを変えるよう指示をした(17)。そしてバーデン大公(Friedrich I. von Baden,1826―1907)も,カルテルとビスマルクの対立は,翌年1890年2月に予定されている帝国議会選挙に悪影響を及ぼすと憂虞した。更に彼は,帝国議会の混乱によってカルテルが反政府的になれば,「皇帝,政府,与党政党にとって,非常にゆゆしい事態となる」(18)とオイレンブルクに忠告した。すなわちバーデン大公は与党政党,“カルテル”の維持が必要であり,追放条項よりも価値があると考えていた。1890年1月24日御前会議でヴィルヘルム二世は,追放条項を伴わない社会主義者鎮圧法の必要性を述べた。それは同法案否決による政治的空白,所謂「真空状態(horror vacui)」(19)を避けることにあった。ヴィルヘルム二世は,“真空状態”により起こりうる流血の惨事を止めたかった。更に保守党も,それまで主張してきた追放条項を削った法案に同調する旨を申し入れていた(20)。それにも関わらずビスマルクは,ヴィルヘルム二世の提案を自らの辞職をもって拒否した。なぜなら法案への譲歩は,皇帝権の衰微の第一歩となり議会主義の道を開いてしまうと危惧したからである。またビスマルクは,“真空状態”により,起こりうる流血の惨事を回避しようとはしなかった。むしろその状態により,強力な法案を提出しようと考えていた。しかしこのビスマルクの態度は,彼が政治状況を困難にすることで,自らを不可欠な存在にしたいのではないかとも考えられた(21)。このような状況からヴィルヘルム二世は,各大臣の見解を問うことになった。しかし全ては,ビスマルクの見解であった。そこでヴィルヘルム二世は,止む無く譲歩したのである。結局翌日の本会議で追放条項付社会主義者鎖圧法は廃案となり,カルテルは損なわれ,懸念すべき“真空状態”が生じた。レデンプトール教会再公認事件で既に述べたが,ビスマルクは社会主義者鎖圧法がカルテルに与えた打撃により,来る選挙の結果を望ましくないと考えていた。ここから彼はヴィルヘルム二世に,中央党を与党に引き入れるよう促した。これに対してホルシュタインは,プロイセンで中央党が与党になり,またバイエルンでもそうなれば,ルッツ内閣が倒れることは時間の

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  • 問題として,その対策をオイレンブルクに忠告した(22)。ビスマルクが,この“真空状態”によりドイツ国内の暴動を誘発し,それを軍隊で鎮圧する計画,所謂クーデター計画は「デルブリュックの仮説」の根拠である。デルブリュックは,『ホーエンローエ回想録』の1890年4月26日の記述と(23),個人的に得た知識を結び付け,この主張を行った(24)。彼はこのクーデター計画をヴィルヘルム二世が賛同しなかったことにより,両者に大きな衝突を招いたとした。これに対し,ビスマルクが積極的にクーデターを実施したかったとするのは,林,ロートフェルス等,後の歴史家によって否定された。なぜなら,ビスマルクの“断固たる措置”または“降伏はせぬ”との言葉は,他の関連史料内に多々見られるからである(25)。ここから,この『ホーエンローエ回想録』中の記述は,同様の発言と推察される。また武力による解決に関する他の例としては,1890年2月28日付ホルシュタインへのオイレンブルク書簡内で,数杯飲んだ後の幻想とはするが,選挙法改正で生じると思われるクーデターや発砲を,ビスマルクは辞さないであろうと述べられている(26)。すなわちビスマルクは,常に武力行使を視野に入れていた。ここから彼は単に,一層強力な法案を欲しただけと考えられる。そしてここでも,ビスマルクとヴィルヘルム二世を支持するサークルとの対立が浮かび上がる。それは後述するが,ヴィルヘルム二世の社会政策との関連である。社会政策,具体的には労働者保護法の成立は,ヴィルヘルム二世の強力なイニシアティブにより実現されようとしていた。そこで彼を支持するサークルでは,より厳しい,すなわち選挙権制限や追放条項を含む杜会主義者鎮圧法は,労働者を取り込む政策と両立しないと見なしていた。特に枢密院顧問官(Geheimrat)のパウル・カイザー(Dr. Paul Kayser:当時外務省植民部局長,社会政策の専門家。オイレンブルクや,ビスマルクの息子ヘルベルト・フォン・ビスマルク[Nikolaus Heinrich Ferdinand Herbert Fürst von Bismarck,1849―1904] の学生時代の家庭教師)は,もし社会主義者鎮圧法が廃案となり,ブルジョワ層の社会主義への恐怖が広がることで,より厳しい社会主義者鎮圧法が成立すれば,老い先短いビスマルクの栄誉は明らかになるので,未来ある皇帝に対して,このようなことが起きないようにと,オイレンブルクに忠告している(27)。そこでオイレンブルクはヴィルヘルム二世に,より厳しい社会主義者鎮圧法は,国内ではビスマルクの勝利,国外では非論理的な処理と見なされることを手紙で進言し,ヴィルヘルム二世もこれに賛同した(28)。これに対しビスマルクは,当初はこのヴィルヘルム二世の態度に抵抗したが,最後には諦めた。このビスマルクの譲歩は,彼が職に留まるためと見なされた。社会主義者鎮圧法を巡る両者の対立は,ビスマルクの譲歩で幕を閉じた。すなわち同問題も,ビスマルク失脚の決定的な事件にはならなかった。しかしながらこの社会主義者鎮圧法は帝国議会で不承認を受け,その後解散し,所謂“真空状態”が生じた。その後の帝国議会選挙では,カルテルの議席は大幅に失われ,一方ビスマルクが“帝国の敵”と見なす社会主義政党が躍進した。すなわち1887年の外交問題(独露再保障条約)で成功したビスマルクの手腕は,今や国内問題で失敗した。この結果,かつてない程,彼の政策に未来がないことがはっきりした。それにも関わらずビスマルクは,現在議会による援助を十分期待できない政府の中で,未だ自身が必要不可欠の存在であると信じていた。すなわちビスマルクは,世論や諸政党,更には,この恐るべき力を持つ臣下から解放されたいとの皇帝の望みも軽視していた。名指しせずも皇帝は,「私に反対するものは,(中略)叩きのめす」と,公然と豪語していた(29)。

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  • c.社会政策を巡る対立ヴィルヘルム二世による社会政策への最初の関わりは,1889年に生じた鉱山ストライキ事件と見なされる。この事件により彼は,労働者保護の重要性を認識した。そして1890年に二月勅令を発し,国際労働者会議の開催と労働保護立法へのイニシアティブを発揮した。まずこれらの事件を概観する。

    c-1.鉱山ストライキ鉱山ストライキは,当時ルール地方(Ruhrgebiet)北部を中心に行われた。このストライキにおける労働者の主張は,賃金・労働時間・労働過程の改善であった。資本家団体「ルール鉱業協会」(Verein für die bergbaulichen Interessen im Oberbergamtsbezirk Dortmund)は,当然専制的なヘル・イム・ハウゼ(Herr im Hause:企業家の家父長的経営支配)的観点から,このストライキに対して譲歩することはなかった。ヴェストファーレン州(ProvinzWestfalen)知事ハーゲマイスター(Robert Eduard von Hagemeister,1827―1902)は声明を発表し,結果的には,資本家の立場を公に確認した(30)。しかしこのストライキは,急展開を迎える。それは鉱夫側から提案された,皇帝への鉱夫代表派遣団(Kaiserdelegierten)の受入が認められたからである。1889年5月12日ヴィルヘルム二世は,閣議でビスマルク等の助言に反し,労働者に同情的な見解を示した。これに驚いたヴェストファーレン官吏は,まともな対応が出来なかったとされる(31)。しかしヴィルヘルム二世自身は,派遣したミハエリス(von Michaelis,生没年不詳)から労働者の状況に関する報告を受け,このストライキにおける労働者の正当性を確認したとしている(32)。本件におけるヴィルヘルム二世とビスマルクの対立は,両者の労働者に対する見解の相違である。ヴィルヘルム二世は,労働者を二つに分けて考えていた。それは社会主義者で帝国に敵意を持っている労働者と,社会主義ではなく帝国に忠実な労働者である。ヴィルヘルム二世は,特にこのストライキにおける社会主義的要因を否認していた(33)。そこで彼は,労働者の正当な要求に応じないことで生じる混乱を回避しようと考えた。一方ビスマルクは,労働者は「与えれば与えるほど要求を吊り上げてくる」とし,また労働問題が政治問題にならない限りは,積極的な政府の介入は避けるべきとの考え方に固執していた。また彼は労働者を社会主義者と同一視する嫌いがあり,このストライキを契機に労働者と社会主義者撲滅の考慮から,社会主義者に対する強力な社会主義者鎮圧法を成立させようとした。しかし一方でドイツ人歴史家グレーべ(Paul Grebe,1908―1987)によれば,当時のビスマルクの労働問題に対する態度を「それまでは全く消極的とされた性格ではなかった」(34)とも評価している。このストライキでは,労働者側の要求が大筋に認められ決着した。ヴィルヘルム二世は労働問題の重要性を,同ストライキから認識した。そして現在の労働法を,より一層拡大すべきと考え,二月勅令発布・労働者保護法の成立・国際労働者会議の開催を打ち出したのであった。

    c-2.二月勅令・労働者保護法・国際労働者会議バーデン大公は,労働問題を重要な用件と認識していた。そこで彼は,1889年の鉱山ストライキ後,ヴィルヘルム二世がこの問題に未だ積極的に取り組んでいないのではとも懸念していた(35)。しかし彼の少年時代の家庭教師ヒンツペーター等を中心に,同問題は着実に進んでいたのである。特に活動が表面化するのは,1890年1月からであった。オイレンブルクは,パウル・カイザーに社会政策のプログラムを依頼した。その承諾に基づきパウル・カイザーは,社

    「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への一考察 35

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  • 会政策綱領を彼に送った(36)。オイレンブルクは,この件についても,ビスマルクによるヴィルヘルム二世への影響について憂慮していた。すなわちビスマルクは,労働問題を武力で解決するよう,ヴィルヘルム二世に圧力を加えると思われたからである(37)。ヴィルヘルム二世を支持するサークルでは,もしそのような事件が起こった場合,これは単に,ビスマルクの勝利にしかならないと恐れていた。しかし幸いにもビスマルクは,この頃ベルリンにいなかった。彼は,新しい政体の中で厄介者にならないように,ほとんどフリードリヒスルーに引っ込んでいた。ただ息子のヘルベルト・フォン・ビスマルクは,毎日君主に会い,手紙や電報で父と連絡を取っていた(38)。しかし同地におけるビスマルクの長期滞在は,政治的にも支障を来たすようになっていた。またここで,彼の当時の立場を窺い知れるエピソードを紹介する。このようにビスマルクが,フリードリヒスルーに滞在しているため,政策担当者は直接彼にお伺いを立てるため,はるばるベルリンから同地に来なければならなかった。同地でシュベニガー(Dr. ErnstSchweniger,1850―1924:1881年以降ビスマルクの侍医)が居間に入って来た時,ビスマルクは内務省長官で副宰相ベティヒャー(Karl Heinrich von Bötticher,1833―1907)に指示を与えていた。ベティヒャーは直立し,メモを取っている。しかしシュベニガーが,そこを通り過ぎる際(驚きをもって)気付いたことは,ベティヒャーは(メモを取るふりをしているだけで)何も書いていなかったのである(39)。1890年1月24日の御前会議では,ヴィルヘルム二世とビスマルクの対立が決定的になったとされる。同会議では社会主義者鎖圧法の問題と,労働者への対策が論じられた。ヴィルヘルム二世は労働者保護について熱弁し,具体的には労働時間の制限,日曜日の労働禁止,婦人及び少年の夜間労働・地下労働の禁止,婦人の出産休暇等を挙げた。そして上記の労働者保護をドイツ一国では国際的競争内で不利になると考え,国際労働者会議を提案した(40)。しかしビスマルクは,労働制限との考え方を全く理解できず,反対意見を述べたが,解決は後に持ち越された。その後のビスマルクの態度は,極めて曖昧であった。他の人々は,両者の対立を決定的と見なしていた(41)。しかし表面上,ビスマルクが譲歩していた。例えば1890年1月26日閣議で,ビスマルクは兼任していたプロイセン商務相を辞任した。更に後任には,ビスマルクのかつての敵対者であり,皇帝の信頼を得ているベルレプシュ(Hans Hermann Freiherr vonBerlepsch,1843―1926)が就任したのである。この出来事は,ビスマルクに対するヴィルヘルム二世の勝利と見なされると同時に,またビスマルクがヴィルヘルム二世との対立を避け,職へ居残るための手段と考えられた。しかしここから,ビスマルクの反撃が始まるのである。まず1890年1月31日閣議で,彼は同僚に対し,皇帝に反対するよう勧めた。しかしそれは失敗した。そこで彼は皇帝の労働者保護の勅令を,全大臣にではなく商務・公共事業の主務大臣にだけ出すことを提案した。また国際労働者会議招集への勅令は,帝国宰相に出されることになった(42)。1890年2月4日,所謂二月勅令が発布された。これは内外に大きな熱狂を呼び起こした。先にヴィルヘルム二世を敵視していた諸新聞でさえも,今や彼を称賛した。そして同勅令は,ビスマルクを目立たなくした(43)。しかし一方この勅令は,有産階級を不安に陥れた。その理由はビスマルクが,この勅令を修正し,実際に考えられるよりも,もっと有望か,または有望に思える体裁を与えたからであった(44)。更に同勅令にビスマルクの副署がなかったことも,内外の不信を高めた(45)。ビスマルクの修正は直ぐに認識され,ヴィルヘルム二世にも伝えられた(46)。ただこの事件がなくとも,ヴィルヘルム二世とビスマルク間の信頼関係は,当時完全

    36 天理大学学報 第70巻第1号

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  • に終わっていた。この事実をビスマルクは十分理解しており,同年2月8日にはプロイセンの官職から身を引くと,ヴィルヘルム二世に伝え了承された。ビスマルクは,外交政策の“年金”で,隠居生活をする積りであった(47)。しかしビスマルクはもう一つの勅令,帝国宰相への勅令にも細工をしていた。この勅令では,国際労働者会議の招集が述べられている。しかしながらその招待国は,同会議に対し冷淡な態度を示すと予想される国々であった(48)。また当時,同様の労働国際会議をスイスが提唱していた。しかし労働保護の問題は小国スイスで行われるよりも,大国ドイツで行われることに意義があるとし,ヴィルヘルム二世はスイス政府に同計画を中止させるため,外相ヘルベルト・フォン・ビスマルクにより同政府に申し入れた。それに対してビスマルクは,このヴィルヘルム二世の試みに,計画変更の必要はないとベルリン駐在スイス公使ロート(Arnold Roth,1836―1904)を通じ,同政府に伝えようとした。しかしロートは,このビスマルクの言葉を疑い,更に彼自身が皇帝に同情的であったため,スイスでの開催は取り止めとなった(49)。しかし,このビスマルクの陰謀はヴィルヘルム二世の耳に伝わり,ヴィルヘルム二世との禍根を残した(50)。林は,この陰謀と,社会保障に関する諸立法につき専門家と審議する国家顧問会議(Staatsrat)の中で,ビスマルクが極めて不快感を伴う反対を続けたことを,ビスマルク追放の決定的契機と観察している。また林は,当時新時代を“代表”した人物としてヴィルヘルム二世を観察してはいるが,しかし思慮分別をもった「新しい時代を担うにふさわしい人物」とは判断しなかった。彼は,「ビスマルクから受けついだ専制的政治体制と彼の個人的性格によって,帝国主義的傾向を一層激発し,第一次大戦とドイツ敗戦の最大の責任者となった」(51)

    と結論付けている。この意見は,ビスマルク失脚を詳細に追った日本での希少な研究ではあるが,過去のドイツ人研究者の意見に沿うものとなった。社会政策上のヴィルヘルム二世とビスマルクの対立は,ビスマルク失脚の原因として考えられる。実際ヴィルヘルム二世も,同様の発言を行っている(52)。しかし一方で,ビスマルクが,単にヴィルヘルム二世の社会政策を国家の一員として反対意見を述べるに留まれば,決定的な事件,すなわちビスマルク失脚は生じなかったと考えられる。例えばヴィルヘルム二世支持サークル内のヴァルダーゼー(Alfred Heinrich Karl Ludwig Graf von Waldersee,1832―1904)は,皇帝との謁見中「意見の相違があっても良いのです。例え高官が不承認であっても,害はないでしょう。もし私が帝国宰相との意見の相違が時に起こっても,皇帝がそれを穏やかに許してくれれば良いのです」(53)と述べている。勿論ビスマルクの失脚に関しては,度々ヴィルヘルム二世支持サークル内で考慮されていた。しかし選挙への悪影響,また人気を博しているとは思われないが,やはり帝国創設の立役者である“大宰相”ビスマルクを,一事件だけで即座に罷免とは出来なかった。すなわちホルシュタインやビューロー(Bernhard HeinrichMartin Karl von Bülow,1849―1929:1884―1888年間ロシア大使館一等書記官,後の帝国宰相)の記述でも,最後まで,帝国におけるビスマルク存在の必要性が述べられている。

    2.国外問題国外問題におけるヴィルヘルム二世とビスマルクの対立は,イタリア・オーストリア・ロシア関係に見られる。この三国は,互いに対立関係にあった。その中でヴィルヘルム二世は,ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟を軸にした。一方ビスマルクは,ロシアを敵に回さない政策を追求した。この観点からビスマルクは,最悪の場合オーストリアを見捨てる積りでいた。更に彼は,先述の国内問題,バイエルンでのレデンプトール教会再公認に歩み寄り,中

    「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への一考察 37

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  • 央党に支持を求めた。つまり分邦主義が強く,帝国第二位の邦国バイエルンにおいて,ビスマルク支持者を増大させた。イタリア政府はローマ教皇と対立しており,そこでヴィルヘルム二世は,同盟国に不信を起こさないよう同教会再公認を認めなかった。両者の一層の意見相違は,イタリアに関するよりもオーストリア,特にロシア問題にあったと思われる。外相ヘルベルト・ビスマルクは,父の影響からか,反オーストリアであった。しかし彼はヴィルヘルム二世と親しく,両者は良好な関係を維持していた。一方でビスマルクは親ロシア政策を追求し,皇帝へのロシア情勢報告の際に,同国の不穏な動きを報告しなかった。ヴィルヘルム二世は,オーストリア皇太子ルドルフ(Rudolf Franz Karl Joseph von Habsburg-Lothringen,1858―1889)に対しては反感を持っていた。そこで1888年頃までは,外相ヘルベルトの情報操作とも見なされているが,独墺関係は良好ではないと述べられている(54)。そこでこの時点までは,ヴィルヘルム二世とビスマルク父子は協調できていたと言える(55)。当時ヴィルヘルム二世の寵臣ヴァルダーゼーは,ロシア・フランスへの軍事力増強を認めていたが,同時期にヴィルヘルム二世の意志の変化はないとされているので,彼のヴィルヘルム二世への影響は薄いと思われる。1888年10月24日ヴァルダーゼーは,帝国宰相の時代遅れについて,また同年10月28日には,同宰相がヴィルヘルム二世に信頼されていない等の記述をしている。しかしながら同年11月13日に彼は,ビスマルクのような親ロシアではないにせよ,オーストリア・イタリアには頼れないことを吐露している(56)。ビスマルクの外政の前提に,彼が「ドイツは一個の飽和した強国である」(57)と考えていた

    ことが大きい。例えば進歩党(Deutsche Fortschrittspartei)党首で,議会ではビスマルクの論敵として,自由主義的原則の立場から,帝国政府の中央集権的政策を激しく攻撃したオイゲン・リヒター(Eugen Richter,1838―1906)が,バルカンにおけるドイツの通商上の利益保護を十分行っていないとビスマルクを咎めた。この東方問題に関して彼は,「私は彼地に何らの利益をみとめない。利益があったところで,ポンメルンの擲弾兵ただ一人の逞しい骨にも値い」しないと応酬した(58)。この観点からビスマルクは,ロシアが南下政策でオーストリアと対立するならば,オーストリアを見殺しにする積りであった(59)。また当時オーストリアの国内問題,すなわちチェコの自治権要求から,オーストリアが連邦国家になるとも観察されており(60),ここからビスマルクは,同国には頼れないと考えていた。しかし1889年1月オーストリア皇太子ルドルフが自殺した前後から,ヴィルヘルム二世に変化が生じた。この死は,親オーストリア政策を採るヴィルヘルム二世支持サークルには,大いに役立つように思われた。しかしながらビスマルクは,お構いなしに親ロシア路線を追求し続けた(61)。ヴァルダーゼーは皇帝への報告の機会を用いて,徐々にヴィルヘルム二世への影響力を発揮していった。彼はビスマルクの親ロシア政策に,軍の側から懐疑的であった。そこでヴァルダーゼーは,在ロシア外交官がビスマルクを恐れ,彼に都合のよいレポートしか提出しないことをヴィルヘルム二世に報告した(62)。更には彼が信頼を置く駐在武官は,当時は帝国宰相や陸軍相の管轄下にあり,現地の情報が操作され,意味のない存在となっていた。そのようなことを皇帝に報告する中で,ビスマルクが,駐ペテルスブルク武官のヨーク(Hans LudwigDavid Maximilian Graf Yorck von Wartenburg,1850―1900)を本国に戻そうとした。ヴァルダーゼーが信頼する人物に対するビスマルクの行動を阻止するために,彼は,ヨークを罷免しないように皇帝に働きかけ,これを阻止した(63)。ヴァルダーゼーは,ビスマルクの所謂“平和外交”に対立していた。すなわち軍部としては,フランス・ロシアの脅威に対し,それに対抗する軍事力を持つ必要性を有するからである。ビスマルクは,フランス・ロシアを刺激

    38 天理大学学報 第70巻第1号

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  • しないために,過度な軍備増強を好まなかった。しかし『ホルシュタイン文書』によると,以前彼は,オーストリアが金銭的にも軍備強化の意志がないにも関わらず,それを押し進めることでオーストリア人を悩ませた。不承不承オーストリアがそれに着手すると,ビスマルクは突然,オーストリアがドイツをロシアとの戦争に引きずりこもうとしていると喚きだした。ここで当然オーストリアは激怒し,また騙されたと感じているとも述べられている(64)。軍部の考慮では,ドイツが単独でも大戦争が実行できる準備をすべきと考えていた。そこで参謀総長の権限を伸張しようと努力したが,これがビスマルクを刺激したのであった。ヴィルヘルム二世は,ロシアには如何なる友情も見いだせないと,徐々に反ロシア的色彩を帯びていった(65)。それに伴い彼は,ビスマルクへの信用が減退していった。このような中,対ロシア問題で決定的事件が起こった。それはヴィルヘルム二世が,1889年7月2億5千万ルーブルの通貨交換の報告をロシアから受けたことである。その頃ルーブルの価値が急激に落ち,またバルカン情勢におけるオーストリア・ロシア関係の悪化等も報告されていた(66)。ヴィルヘルム二世は,最近のドイツ・ロシア関係を個人的にも良いとは考えていなかったので,通貨交換の試みに反対し,更にこれをビスマルクと彼の財産管理人で銀行家のブライヒレーダー(Gerson von Bleichröder,1822―1893)が仕組んだ事件と非難した。この問題でヴィルヘルム二世は,ヘルベルト・ビスマルクとも対立した。ここから同事件により,ビスマルク父子との訣別は決定的とされた(67)。ビスマルクは嫌々ながらも,この試みを中止した。この際のビスマルクによるヴィルヘルム二世への服従も,ビスマルクが反対勢力を認識し,職に留まるための措置と見なされた(68)。ヴァルダーゼーは,同事件によってヴィルヘルム二世がビスマルク父子と訣別し,その後はビスマルクに対して狂言を演じていたと述べている(69)。ここでヴァルダーゼーは,ビスマルクが長くヴィルヘルム二世の下にいることはないと考えた。しかしヴァルダーゼーは,この通貨交換事件で,ビスマルク側からヴィルヘルム二世に情報提供をした人物として,新聞であらぬ中傷をされたと泣き言を述べている。この事件以降ヴィルヘルム二世は,その後のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph I,1830―1916)との会談が非常に上手く行ったこともあり,親オーストリア・反ロシアの色彩を強めたとみられる(70)。ちなみにヴィルヘルム二世によるフランツ・ヨーゼフへの忠誠は,彼らの長きに亙る書簡交換から,終生続いたと考えられる。自らに不利な状況を打開するために,ビスマルクは情報操作を用い,ヴィルヘルム二世を撹乱させた。例えば彼は,反ロシア的新聞切抜をヴィルヘルム二世に提出せず,一方オーストリアのターフェ(Eduard Graf Taaffe,1833―1895)内閣の批判記事を提出させた(71)。そのためヴィルヘルム二世は,ビスマルクに上手く言いくるめられ,1889年12月頃は親ロシア政策を志向していた。しかしホルシュタインやヴァルダーゼーは,このビスマルクの情報操作に気付いた(72)。そこでホルシュタインはヴィルヘルム二世に,官吏の作成した新聞切抜を読まず,直接新聞を読むように勧め,「もし皇帝が毎日直接新聞を読み切る根気のない場合,『ケルン新聞(Kölnische Zeitung)』の週刊版を読ませることが唯一の策だ」と,オイレンブルクに書き送っている(73)。これを受けてオイレンブルクはヴィルヘルム二世に,皇帝への新聞切抜は,全く“新鮮”ではなく,重要な記事やニュースが入っていないことをやんわりと伝え,そこで切抜を読まず,重要な新聞を自ら読み通して欲しいと懇請した(74)。このような中,更にビスマルクにとって具合の悪かったことは,同時期1890年1月ヴィルラウメ大佐(Oberst vonVillaume, 生没年不詳)がヴィルヘルム二世に,本当のロシア現状を報告し注意を促すことに

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  • なったこと,更にはロシア皇帝アレクサンダー(Aleksandr Pavlovich Romanov,1777―1825)からの新年のあいさつが来なかったことであった。これには慌ててビスマルクは,ツアーが病気であると,当時陸軍大将シュヴァイニッツ(Hans Lothar von Schweinitz,1822―1901:1876―1884年間ロシア大使)に報告させる事態となった(75)。ヴィルヘルム二世は,「もう何週間も,ロシア関係の情報がろくに入ってこない」と嘆き,その原因をビスマルクの責任にしていた(76)。そこで彼は,ビスマルクがキエフからの重要な報告を自らに知らせず処理していたことを,その失脚の一理由として,ヴァルダーゼーに説明している。このような意見に対しビスマルクは,「私は,我々とロシアの架け橋を決して完全に壊さない努力を常に行ってきた。そこで私は,皇帝に全ての情報を提出する如何なる義務も負っていない。つまりこの問題は,ある時は直接,またある時は参謀本部により処理されて来た。ロシア皇帝の平和的意図を考慮すると,私は,皇帝が命令した方法を守れないと確信している」と弁明した(77)。しかしヴィルヘルム二世は,ビスマルク失脚の報告に招集された司令官等に対し,ロシアとの関係が悪いにも関わらず,ビスマルクが自分を欺こうとしたことに触れ,そこで「先年オーストリア皇帝に忠誠を誓ったので,それを維持する」と言明したのであった(78)。以上対外関係の諸問題を検討してきたが,これらの問題でのヴィルヘルム二世とビスマルク間の対立は大きいと強調され,ビスマルク失脚に導いた重大な原因と考えられている。ホーエンローエはヴィルヘルム二世とビスマルクの確執を,外交上の問題と判断している(79)。

    3.ビスマルク失脚最後にビスマルク失脚の決定的瞬間を検討する。1890年1月24日御前会議の際,あくまで追放条項付社会主義者鎮圧法を主張したビスマルクにより,翌日の1月25日帝国議会は,この社会主義者鎮圧法を否決した。オイレンブルクは,ビスマルクが主導権を握ることで,ヴィルヘルム二世に悪しき結果となることを憂虞した。その際オイレンブルクは,ビスマルクに対抗するには,「バーデン大公・ザクセン王とのリガ(同盟)しかない」と述べている(80)。その頃既にマルシャル(Adolf Freiherr Marschall von Bieberstein,1842―1912:当時駐ベルリン・バーデン大公国全権,後に外務省事務次官)はバーデン大公に,後任の帝国宰相としてカプリヴィ(Georg Leo von Caprivi de Caprera de Montecuccoli,1831―1899)の名前を挙げている(81)。ヴィルヘルム二世とビスマルクの衝突は決定的であったが,来る帝国議会選挙への影響を憂慮し決裂を避けた。しかしマルシャルの影響によりバーデン大公は,ビスマルクの後任にカプリヴィの名前をヴィルヘルム二世に伝えた(82)。1890年2月4日の所謂二月勅令は,帝国宰相ではなく,ヴィルヘルム二世の勝利と見なされた。そこでビスマルクは,ヴィルヘルム二世にヘマをさせ,自らの勝利を掴もうと思われる様々な行為を行った。それにも関わらずヴィルヘルム二世がビスマルクと決裂できなかったのは,先述したが,ビスマルクにより修正された勅令によって有産階級の恐怖心が高まっており,彼らがビスマルク側を支持していると判断していたからである。ただビスマルクは,表向きには譲歩し,同年2月8日ヴィルヘルム二世にプロイセン首相から辞任することを申し入れ,了承されていた。同年2月下旬,ヴィルヘルム二世とビスマルクの関係は小康状態であった。またビスマルクは,より厳しい社会主義者鎮圧法を提出することにヴィルヘルム二世が承認すれば,彼の望む労働者保護法を直ぐに提出すると述べた(83)。ヴィルヘルム二世は,あれ程頑強に抵抗していたビスマルクが譲歩したので,労働者保護法案が救われたと素直に喜んだ。ここから1890年3月2日閣議で,新議会への対策として,労働者保護・軍備拡張・市民権剥奪と国

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  • 外追放を含むより厳しい社会主義者鎮圧法の三つの提案がなされ,ヴィルヘルム二世もこれらを承認した。しかし同措置は,ビスマルクの勝利と見なされた。それはより厳しい社会主義者鎮圧法と労働者保護法は相反するもので,両立できないからである。社会問題を担当していたパウル・カイザーは,このビスマルクの背信行為に激怒し,オイレンブルクに書簡を送った(84)。また同日,ホルシュタインによりビスマスクの計画を知ったマルシャルは,自身の日記に「皇帝を救わなければならない」と記し(85),即バーデン大公に,この事実を説明した。バーデン大公は,緊急にマルシャルによる皇帝への謁見をとりなし,「(謁見が許可されるならば)皇帝に貴下が電信で私に述べた内容を伝え,この不吉な要求を否認あるいは延期するよう,我が名において,早急に願い出るように」とし(86),これらの提案が新議会になされないよう命じた。そこでマルシャルによる,ヴィルヘルム二世への謁見が行われた。マルシャルはバーデン大公の憂慮を述べ,そして労働者保護法を提出しても,より巌しい社会主義者鎮圧法の受入にはならず,それは折角のヴィルヘルム二世の改革を覆すものだと迫った。ヴィルヘルム二世は弱腰であった。彼はマルシャルに「それならば貴下がビスマルクに,それをもう一度言ってみてくれ。彼は常に,その様なものの断固たる反対者なのだぞ!」(87)

    と嘆き,更にビスマルクに対する自らの無力を話し始めた。ヴィルヘルム二世にとっては,やっとのことで,あの“大宰相”ビスマルクから手に入れた労働者保護法であった。すなわち彼にとっては,その目的に心血を注ぎ,更には保守党の支持も得られたことで,ビスマルクを譲歩させたのであった。しかし最後にはヴィルヘルム二世が,社会主義者鎮圧法の延期を話し始めた。これにマルシャルは同意し,ヴィルヘルム二世と別れた。その後3月3日マルシャルは,保守党党首へルドルフ(Otto Heinrich von Helldorff,1833―1908)と会談した。ヘルドルフは,ヴィルヘルム二世にも信頼されている人物であった。ヘルドルフも,帝国宰相の行為は労働者保護法だけでなく,保守党を含むカルテルにとっても問題であると認識していた。そこでヘルドルフは,皇帝への謁見を考えた(88)。ヘルドルフの謁見は,翌日3月4日に行われた。ヘルドルフもヴィルヘルム二世に,より厳しい社会主義者鎮圧法への反対を述べた。ヴィルヘルム二世は納得したが,弱腰な彼は「帝国宰相に対して貴下を引き合いに出してよいか」とへルドルフに尋ねた。へルドルフが同意したので,その後ヴィルヘルム二世は,帝国宰相の問題に関する自らの考えを述べた。すなわち同宰相の問題とは,今やドイツ帝国にとって,克服されがたい障害であるとの認識である。これにへルドルフは「これは非常に重大な政治問題に関わることです。そのため例えビスマルク公の罷免に関することであっても,如何なる個人的な問題は取下げなくてはなりません」と述べた。これでヴィルヘルム二世の態度は決まった。そしてなおへルドルフに,帝国宰相の後任を尋ねた。へルドルフはカプリヴィ将軍の名前を挙げた。ちなみに同会談の際へルドルフは,今のビスマルクの国内政策を「不穏政策」(Radaupolitik)と評した。この言葉は,ヴィルヘルム二世に自らの行為の正当性を高めたように思われる。すなわち例えビスマルクとの決裂に至ったとしても,彼の非にはならないと判断できた。この3月4日の皇帝とヘルドルフによる会談の後,ビスマルクがヴィルヘルム二世を訪れた。ビスマルクにとっては,突然皇帝から,次議会におけるより厳しい社会主義者鎮圧法案提出を取り止めるよう言い渡された。ビスマルクは「皇帝がそれを望むのであるならば,法案の提出を取り止めても良い」と譲歩した。ここでもしビスマルクが譲歩しなければ,カプリヴィを呼び寄せることになっていた(89)。この際ビスマルクは,この社会主義者鎖圧法案が流れてしまったので,軍備拡張案で対抗しようとしたらしい(90)。更に3月10日彼は,カルテルを見捨て,保守党と中央党との連携を試み,中央党

    「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への一考察 41

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  • 党首ヴィントホーストと会談を行った。これに早速3月13日へルドルフは,帝国議会において特別党集会を招集し,7年制予算(Septennat:ビスマルクがとった陸軍予算の方式)や宗教や教育問題についても,中央党に妥協しないと保守党議員に言明した(91)。一方ヴィルヘルム二世は,このビスマルクとヴィントホーストとの会談を知り激怒した。そこで周囲からも,もはやヴィルヘルム二世が,ビスマルクを任に留めておくことはないと見なしていた。1890年3月18日,ビスマルクは辞表を提出した。閣議では,ビスマルク失脚の原因は外政問題とされた。マルシャルはバーデン首相トゥルバン(Ludwig Karl Friedrich Turban,1821―1898)に,この決裂の直接の原因を伝えている。それによると,まずビスマルクがヴィントホーストと会談したに留まらず,閣議においてレデンプトール教会再公認と中央党への譲歩を支持したこと,更にはヴィルヘルム二世が,1852年勅令の復活に気付いたこととしている。ヴィルヘルム二世はビスマルクを呼び,ヴィントホーストとの会談を叱責し,更に1852年勅令の廃止を命令した。これにビスマルクは詳細を答えず,しかしながらけばけばしくも,自らの行動を正当化した。そこでヴィルヘルム二世は3月17日に将軍ハーンケ(Wilhelm Gustav KarlBernhard von Hahnke,1833―1912)をビスマルクへ送り,1852年勅令廃止への同意,更に内政に関する皇帝の意見に従う明白な声明を要求した。しかしビスマルクは,責任逃れの曖昧な返事をした。そこでヴィルヘルム二世は,再度ハーンケを送り,ビスマルクに最後通牒を突き付けた。しかし彼からの返事はなかった(92)。この事件を別の資料では,1890年3月15日のヴィルヘルム二世とビスマルク間の会談が,辞職に決定的であったと判断している。その際ヴィルヘルム二世は,この1852年勅令について「貴下は恐らく,始終フリードリヒスルーにいて,結局閣僚と交渉することなく政権運営をする積りではないのか」とビスマルクに問うた。これにビスマルクは,何も答えなかったとされる(93)。この状況の中ビスマルクは大臣を招集し,辞表の提出を公表したのであった。この事件後バーデン大公は,「ビスマルク公が頻繁に個人的利害に囚われ,老人の経験を以て,若く激情的な皇帝に働きかけることを怠った」事実を悔やんだ(94)。

    4.ビスマルク失脚の総括ホーエンローエ文書やホルシュタイン文書等内ではっきりしているが,ヴィルヘルム二世の即位前からも,彼がビスマルクと良い関係は築けないことは気付かれていた。ビスマルクは連邦主義でロシア政策を重視した“平和外交”を採用したが,その一方ヴィルヘルム二世は,即位前から既に,反ユダヤ主義,フランス・ロシアへの即時攻撃を主張するグループとの交際を深め,プロイセンの伝統を重んじ,王権神授説から生じる臣下の服従を求めていた(95)。しかしヴィルヘルム二世は,ビスマルクが忠実に職務をこなしてくれさえすれば,単に政策上での意見の相違程度では,この名誉ある大老宰相に辞表を強制することはしなかったように思われる。例えばホルシュタインは,当時生じたヴァルダーゼーとビスマルクとの対立について,ロッテンブルク(Franz Johannes von Rottenburg,1845―1907:帝国宰相府次官)がロイス(Heinrich VII. Prinz Reuß zu Köstritz,1825―1906:駐ウィーン大使)に述べた言葉「ヴァルダーゼーとビスマルクの危機は,はっきりさせなければならない」を挙げ,これを「馬鹿馬鹿しい。そんなことは,長いこと全く穏やかにさせておける。対立は,高位においては,常に存在するものだ」(96)と述べ,このような対立は日常で,先鋭化させるものではないとしている。確かに,社会政策上での両者の対立は大きかった。ビスマルクは,決して社会政策に反対ではなかった。ただ彼は,それが政治問題にならない限り,着手する必要を感じなかった。し

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  • かし自由主義マンチェスター学派(Manchester School)の信奉者で,労働者は“与えれば与えるほど欲しがる”と考え,そして大事に備え,“国内の敵”に対して武器をちらつかせるビスマルクの手法は,ヴィルヘルム二世にとって不快であった。ヴィルヘルム二世は“貧民の王”(97)でありたかったし,何よりも自らの統治の始まりを“血で”汚したくなかった(98)。まず彼は,労働者を敵と見なかった。上からの統制が間違っていれば,正当な要求も不当な要求に変わると考え,1889年のストライキでは,資本家側からの労働者への懐柔を要求した。これにビスマルクは譲歩し,彼と対立関係にあったが,ヴィルヘルム二世に信頼のあるベルレプシュにプロイセン商務大臣を明け渡したのである。この措置に,ヴィルヘルム二世は大変満足であった。しかしビスマルクは,正に不忠にも,ヴィルヘルム二世の社会政策への陰謀を企てた。二月勅令は元より,国際労働者会議までも失敗に終わらせようとした。これらの陰謀は後年,ヴィルヘルム二世により,ビスマルク失脚の原因として述べられることになった(99)。この文脈で,もう一つのビスマルク失脚の原因とされる国外関係,特にロシア関係も判断できる。ビスマルクの外交は「ビスマルク体制」とも言われ,見事なものと語られる傾向にあるが,単にこの外交政策の軸はロシアにある。ビスマルクはロシアを絶対に敵に回さない手法によって,この体制を維持し得た。そのため彼は,ロシアをロンバルト禁止令(ロシア有価証券の動産担保貸付に対する禁止令)(100)で不安にさせてみたり,ロシア通貨交換,そしてヴィルヘルム二世によって阻止されたが,ロシア総領事に勲章を授与しようとして御機嫌を伺ったりした。またビスマルクは,在ロシア大使館には親ロシア志向の人を送っていた。しかしロシア情勢は,ドイツにとって良い方向に向いているとは思われていなかった。異論もあるがシュヴァイニッツや,オイレンブルクの友人で後の帝国宰相ベルンハルト・フォン・ビューローからは,同情勢に関し良い報告はなされなかった。無論ヴァルダーゼーもその一人であった。ビスマルク失脚の時期は,正にこの「ビスマルク体制」が揺さぶられていた時代であり,そこでヴィルヘルム二世は,ビスマルク罷免にあたり招集された司令官等の前で,ビスマルク外交の失敗を強調したのであった。この対外関係,特にロシア問題は,事実上の“ビスマルク罷免”を正当化できた。つまりビスマルクを罷免するには,とりわけ支持されうる,もっともな理由が必要であった。それはビスマルクが,ドイツにとってかけがえのない人物との伝説によった。ヴィルヘルム二世の支持サークルでさえも,ビスマルクが突然に,全ての官職から辞任することは好ましくないと考えていた。出来るだけ徐々に,公職から離れていって欲しかった。そこでビスマルクも,社会政策担当であるプロイセン商務相を譲ってしまった後,プロイセン首相も退こうとした。そして帝国宰相の地位にだけ,留まる積りであった。すなわちビスマルクは,社会政策では譲歩し“外交政策の年金”で生活しようとしていた。しかしそのためには,ビスマルク体制の維持は必須であった。この点でヴィルヘルム二世と対立したのであるから,外交政策の意見相違が決定的なものと導かれるのは,ビスマルクが譲歩しない限り必然であった。ここで最も重要な事実は,このロシア問題は「ドイツ帝国の保全」との大義名分をヴィルヘルム二世に与えたことであった。この使命は,何にも勝る口実であった。ビスマルク失脚の口実は,これ以外には非難を免れえなかった。無論ビスマルクが,ヴィルヘルム二世のドイツ「臣民」に向かって銃口を向けようとしたことも原因になり得た(101)。しかし上述の「口実」はあくまで「口実」である。様々な考察があるにせよビスマルク辞任は,当時一つの時代が終ったと見なされた。すなわち彼が作った帝国は,もはやその二十年前とは全く違っていた。ビスマルクの辞任は,その最

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  • 後の期間,テンポの速い社会に,政治的停滞との暗い影を投げかけていた印象を深めた(102)。この際社会民主党のフォルマール(Georg von Vollmar,1850―1922)は,「ビスマルクの公然たる体系的な流血政策の消滅したことによって,社会民主党及び政治生活一般に,より穏やかな発展の地盤が与えられたと強調し」た(103)。以上ビスマルク失脚に関する既存の諸原因について検討した。しかし,ここで生じた如何なる問題も,この失脚の決定的な一つの理由にはなっていない。すなわちビスマルク失脚の原因は,個人的衝突や単なる帝国の一内外政策の相違には見いだせない。それらの事件は,全てやり過ごせた問題であった。すなわちやり過ごせない決定的な問題とは,別の視点から見出される。それこそが「ヴィルヘルム二世の個人的統治」システムであり,この視点から,ビスマルク失脚問題は十分理解される。結論を先に述べれば,ビスマルクの存在が,君主制に基づく諸邦国を統合するドイツ帝国の存立基盤,つまり「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の危機を招く要因になったからである。

    第二章:「ヴィルヘルム二世の個人的統治」について

    問題の所在(104)

    ドイツ第二帝政期,圧倒的個性から多くの関心を集めた皇帝,その人物がヴィルヘルム二世である。しかし近年まで,彼は歴史叙述から本質的に除外されてきた。同皇帝は,単に不安定要素・障害物として取り上げられてきただけである。この主な理由は,第一次世界大戦への戦争責任回避,すなわちヴィルヘルム二世個人への非難・その人格的無能力から戦争が起きてしまった,またそのような人間を中心に構成される,当時の第二帝政の絶対主義的システム,すなわち広義の「ヴィルヘルム二世の個人的統治」に欠陥を見出す政治的解決からでもある。更に近年では,ドイツ歴史学における社会学的アプローチの流行から,個人に焦点を絞る考察はなされなかった。すなわちヴィルヘルム二世研究において,とりわけドイツ歴史学上では,二重の苦しみを負った。ようやく1960年代,イギリスからヴィルヘルム二世の再評価が行われるようになった。その中心人物は,ジョン・レール(105)である。この理由であるが,イギリス・フランスでは伝記叙述の伝統があり,比較的この種の試みがなされ易かったからと思われる。しかしドイツ本国でなされる“ドイツ史”編纂の中で,レールの試みはまさに“異端”であった。皇帝ヴィルヘルム二世として,大きな注目を集めた初めての事件はビスマルク失脚である。この事件は,“大宰相”ビスマルクを若き皇帝が,事実上罷免させたのである。なぜ“有能な”ビスマルクは辞めなければならなかったのか? まずここに,大きな疑問がある。しかしその疑問は,個別の関連諸事件の検討により,現在においても十分な意見の一致がなされていない。そこで,この事件を別の角度から考察する必要がある。それが,「ヴィルヘルム二世の個人的統治」からの分析である。1871年以降のドイツ史で作られた“神話”の中で,帝国を鉄と血で築いた“偉大な男”と,わがままで無能,そして新絶対主義の熱中から帝国を破壊した“馬鹿な若造”,これら二人の男が“積極的と消極的の柱”になった。この“神話”が,ドイツ統一で生じた全ての悪しき結果をビスマルクから免れさせ,その代わりにドイツ帝国崩壊の全責任を,皇帝の両肩にのせたのであった(106)。すなわち同事件の真相究明は,ヴィルヘルム二世の再評価に繋がると思われる。しかし現在までのヴィルヘルム二世の,またはその第二帝政期の研究は,ヒトラー

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  • (Adolf Hitler,1889―1945)による影響が大きかった。すなわちそれまでドイツ史において,ヴィルヘルム二世を除外して,ビスマルクとヒトラーを直接考察してきたことにより,ヒトラー像がひどく歪んだものになっていた。“平和主義”のビスマルクとヒトラーが全く対立したものと映り,そこでヒトラーを歴史上“悪鬼”と見なすしかなかった。このような学界動向の中でフィッシャー(Fritz Fischer,1908―1999)は,ドイツによる第一次世界大戦の明確な戦争目的を論じ,そこから所謂“フィッシャー論争”(Fischer-Kontroverse)が生じた。この論争は,第二帝政期研究に大きな役割を与えた。フィッシャーは,直接ヴィルヘルム二世を評価したわけではない。しかしその著作(107)により,ドイツ歴史学上の論争,特には第二帝政と第三帝国の連続性の是非が展開するのである。ここに至ってようやく,ヴィルヘルミニズム(Wilhelminism)の研究が急務と認識されるようになった。すなわちその中で明らかなことは,ヴィルヘルム二世を無視して,ヴィルヘルミニズムは理解できないことである。この学界動向から,ヴィルヘルム二世を含めたヴィルヘルム期の研究が盛んになった。以前には,ただヴィルヘルム二世を“狂人”“無能”として扱い,そして第二帝政のシステムを“時代遅れ”と強調し解決する傾向が強かった。しかし現在では,多くの新しいヴィルヘルム二世論,すなわちヴィルヘルム二世の人格的復権に基づき,ようやく当時の政策上の,また支配機構の問題を論ぜられるようになった。確かに第二帝政のシステムは,明らかにかなり強い君主政体である。このシステムの問題は,帝国憲法の諸点やその政治構造,またそれらの結果であり,これらをドイツ歴史家モムゼン(Wolfgang Mommsen,1930―2004)の言葉を借りれば,「このシステムの比較的高度な非柔軟性」に帰結される(108)。しかしながら1888―1918年の大国ドイツにおいて,皇帝による自由気儘な政治が許されていたとは想像できない。すなわち世論に配慮し,より豊かなドイツへと,将来を模索する皇帝の姿がある。ヴィルヘルム二世は権力の座に就きながらも,現代に合う君主制を自ら考慮し,世論を操作し,不偏不党で行動した。それは国民から選ばれた君主ではなく,新しい時代のニーズに応えなければ支持されないとの思いからであった。オイレンブルクの言葉「国王は政党の上に立つとの,幾分使い古されてきた言い回しの意味であるが,これを実際の言葉に言い換えれば,全く国王は,中道諸政党に拠らねばならぬとのことだ」は,まさにこれを指摘している(109)。すなわちビスマルクの時代,または彼の考えでは,帝国内でプロイセンが権力を持ち続け,また彼の支持基盤である東部の大農場経営者,所謂ユンカー(Junker)と南西部の大工場主の支持さえ受ければ良かった。しかし時代は,確実に変わっていた。ヴィルヘルム二世は,保守党を帝国に従順として認めながらも進歩的思考がないと考えていた(110)。そこで彼は,多くのブルジョワ的政策を国民自由党と行った(111)。このように皇帝が時代の変化に対応しようとした事実を考慮すれば,第二帝政期の政治体制を単に遅れたものと見なすのではなく,特にその時代性を考慮すれば,当時のドイツ政治文化に沿っていたとの積極的解釈も可能とは言えないであろうか。例えば現存のアメリカ合衆国大統領と比べてもよい。アメリカ大統領は,緊急時には大権を持ち,時には憲法違反になることさえある。そして通常でも大統領は人事面でも大権をふるい,自らの政治理念に即した人物を大統領府に集められる(112)。しかしヴィルヘルム二世は,アメリカ大統領以上の活動の余地を持っていたが,あからさまに権力を振わなかった。彼はもっと控えめな方法をとった。それは国民から直接選ばれていないことも大きく影響しようが,それよりもドイツ人の政治文化的国民性,すなわち歴史的なドイツ連邦的意識から,緊急時以外は強力な為政者を望まない考慮からとも思われる。「ドイツ人は,長きにわたる家父長制的な領邦君主の支配の結果として,制度的な権力として

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  • の官職や官庁に畏怖の念をもつという性癖を受け継いできた。ヴェーバーは,それだけになおさら苦々しい思い出,このような性癖を残念がっている」(113)との指摘を考慮すれば,本論の趣旨とは外れるが,これをドイツ版アメリカ大統領制と考察すれば,私見では,当時それ程,特異な政治政体とは思われないのである。ヴィルヘルム期において,思想はある程度統制された。しかしそれは,息詰まるほどではなかった。作家トーマス・マンの第三子で歴史家・評論家ゴーロ・マン(Golo Mann,1909―1994)は,『近代ドイツ史』の中で「時代の空気は自由だった。ある程度,気をくばれば,思うことはなんでも印刷することができた。不敬罪の裁判に巻きこまれることは,被告を実際に苦しめるよりもむしろ彼を有名にし,彼をおもしろがらせた。公的,政治的,思想的立場のために破滅を招いた人はだれひとりいなかった。一八九〇年から一九一四年にかけての四分の半世紀がよき古き時代として後に郷愁をもって思い出されたことになんの不思議があろう」と記述している(114)。以上のような考慮から,本稿の中心事件「ビスマルク失脚」の決定的な原因との視点で,ヴィルヘルム二世個人を含めた,その統治システムとされる「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の再評価を行い,同事件を総括する。この最大の目的は,通説または通念で存在する“「ヴィルヘルム二世の個人的統治」は時代遅れであり,そこでそれは戦争によってでしか清算されない政体であった”との安易な解決を行わないことである(115)。ここから本稿では,同政体は当時のドイツ政治文化に即していたとし,そこで第二帝政期,その統治システム「ヴィルヘルム二世の個人的統治」とは実際何であったかを検討する。同研究の第一人者レールは,「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の最も有効に機能した時期はビューロー期としている。しかし本稿では “偉大な”“大宰相”ビスマルクの失脚に,ヴィルヘルム二世と同皇帝を支持するサークルが,国内外を巻き込む大事件として一致団結して取り組んだことに注目する。すなわち本事件を,「ヴィルヘルム二世の個人的統治」開始の重要な一事件として評価し,そのシステム解明に貢献することを意識する。

    1.「ヴィルヘルム二世の個人的統治」に関する研究史「ヴィルヘルム二世の個人的統治」との言葉は,「城内平和」や「世界政策」のようにドイツ第二帝政期に用いられた政治的スローガンである。また当時,この「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の反対者が,単に彼による独断の政治,更には勝手気ままな“個人的支配”との意味で用いていた。しかし本概念の歴史的分析は,歴史家によって様々に解釈されている。ドイツ第二帝政の破壊的崩壊とヴァイマール共和国(Weimarer Republik,1919―1933)の成立後,この双方を経験した歴史家は,この重大なヴィルヘルム二世政体の解明に取り組まなければならなかった(116)。その最初の歴史家は,フリッツ・ハルトゥング(Fritz Hartung,1883―1967)である。彼は,1923年に執筆した『ドイツ史』(117)において,「ヴィルヘルム二世の個人的統治」への肝要な判断を下した。ハルトゥングは,この個人的統治を絶対主義的政治形態と捉え,そしてフリードリヒ大王(Friedrich II [Friedrich der Große],1712―1786)と比較して,ヴィルヘルム二世が“卓越した人格”ではなく,それ故廷臣・閣議が決定的な役割を果たしたとする。つまり彼は,当時絶大な力を持っていると思われていた「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の存在を否定した。その後1933年ドイツ人歴史家・政治評論家ヘルマン・オンケン(Hermann Oncken,1869―1945)は,『ドイツ帝国と世界戦争の前史』(118)の中で,多くの歴史家と同様,ヴィルヘルム二世が「公的生活において均衡を乱す個人的で衝動的な伴奏音

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  • 楽」(119)と断じ,また彼お気に入りの分野である対外政策でさえも外務省が指導していたとし,ハルトゥングの意見に同意した。すなわち成功裡の「ヴィルヘルム二世の個人的統治」などなく,そこで戦争(第一次世界大戦)に向かって意見を集約したり,またそれを断固実行したりすることもないとした。これらハルトゥングやオンケンの考察は,第一次世界大戦後の協商国側による,ドイツの明確な戦争計画「ドイツ戦争目的論」の主張に異議を唱えるものとなった。この個人的統治を絶対主義的とは考察しているが,ドイツ人法律家・歴史家エーリッヒ・アイク(Erich Eyck,1878―1964)は,1948年『ヴィルヘルム二世の個人的統治』(120)の中で,上記の二人に比べ,ヴィルヘルム二世が強力な人事政策と絶え間のない干渉を内外政策に行い,独自の政治理念を展開したことを証明した。アイクはヴィルヘルム二世を,実際の支配者と見なせるとした。しかしながら彼の主張は,ヴィルヘルム二世への懐疑論者を説得できなかった。1952年『カイザー・ヴィルヘルム二世の個人的統治』(121)内でハルトゥングは,先の自説を繰り返した。ここで彼は個人的統治を,フリードリヒ・ヴィルヘルム二世(Friedrich WilhelmII,1744―1797)や,ナポレオンに敗れる1806年までのフリードリヒ・ヴィルヘルム三世(Friedrich Wilhelm III,1770―1840)治世下のプロイセンに存続した政治形態と見なした。そこで彼は,「一個人の決定でのみ成り立つような政府は,18世紀でさえも不可能であったのだが,世紀転換期の近代国家内に残されたままであった」ことが問題であるとした(122)。この帰結から,結局ハルトゥングの絶対主義から引き出した「ヴィルヘルム二世の個人的統治」の主張が,その後の歴史学上における通説となった。1962年ヴィルヘルム・シュスラー(Wilhelm Schüßler,1888―1965)は『カイザー・ヴィルヘルム二世 罪と運命』(123)の中で,明らかにハルトゥングの説に従い,1969年エリザーベト・フェーレンバッハ(ElisabethFehrenbach,1937―)も『ドイツ皇帝思考の変遷 1871―1918』(124)の中で,ハルトゥングと同様の前提から「期待されたヴィルヘルム二世の個人的統治は…単なるフィクションに留まった」と結論付けた。しかしフェーレンバッハは,この“フィクション”に疑問をもった最初の人でもあった。それ程多くの同世代人が独裁制のフィクションを支持し,その成功を望んだ�