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現象学会第35回研究大会(名古屋大学)ワークショップ要旨
2013年11月10日(日)15:15〜17:45
知覚の哲学 ——分析哲学と現象学の交差点——
幹事・司会:國領 佳樹(首都大学東京)
提題者1: 新川 拓哉(北海道大学)
提題者2: 源河 亨(慶應義塾大学)
提題者3: 山田 圭一(千葉大学)
特定質問者:植村 玄輝(立正大学)
本ワークショップの目的は、分析哲学的な知覚の哲学において現象的意識についての考察が重
要になりつつある現状をふまえて、現象学と分析哲学の垣根を越えた哲学的取り組みの可能性を
提示することである。
知覚とは、われわれが世界と接する第一の手段であり、それに伴う意識経験は、知覚を構成す
る不可欠な要素であることは疑いえないだろう。にもかかわらず、これまでの分析哲学では、意
識経験はそれほど重要視されてこなかった。それは、知覚の哲学が心の自然化をめざす心の哲学
の文脈のもとで問われてきたことに部分的に由来する。自然化を目指す理論は、意識そのもので
はなく情報や機能といった枠組みを強調し、できるならば意識をそうしたものへ還元しようと試
みていた。そして、知覚もそうした枠組みのもとで扱われてきたのである。
だが、こうした自然主義にとって問題となったのが、クオリアをはじめとする、われわれの意
識経験にそなわる独自の現象的な特徴である。現象的意識が自然主義に重大な問題を提示するこ
とが明らかにされたのはおよそ 20 年前であるが、それ以来問題を完全に解決できるような革新
的な手法は提案されていない。むしろ、以前の研究は現象的意識を軽視しすぎていたのではない
か、それゆえあらためて現象的意識を検討する必要があるのではないか、という声が高まってい
る。こうした動向のもと、一部の分析哲学者たちは(少し前の分析哲学者たちとは異なり)、意
識経験それ自体についてすでに多くの研究がなされている現象学に目をむけ、その知見を積極的
に取り込もうとしている(A. ノエ、A. クラークなど、知覚経験における身体性の重視は、その一端だと言えるだろう)。つまり、知覚についての適切な理論を構築するためには、現象学的な
手法もまた必要だということが分析哲学において認知されつつある。
以上のような背景のもと、本ワークショップでは、知覚の哲学という分野で近年みられる分析
哲学から現象学への接近がどのようなものであるのか、そして、現象学的知見がどのような仕方
で重要視されるようになっているのかを明らかにする。そのために、知覚の哲学に関心をもつ三
名の分析哲学者を提題者として招き、現象学側から特定質問者(および司会者)を用意する。そ
うすることで問題の共有化をはかり、当該の研究領域への現象学者たちの参入を促進したい。提
題者の発表内容は以下のとおりである。
新川は、反省や内観という現象学的方法がどのように評価されるべきかについて、知覚経験の
現象的側面に関するいくつかの重要な論点と結びつけながら論じる。扱う論点の候補は、(1) 視
覚経験の現前性(視覚経験においては(他の心的状態と異なり)何かが現前しているように感じ
られる)や、(2) 視覚経験の透明性(視覚経験において現前しているようにみえるのは、その経
験それ自体の性質ではなく、環境内に実在する諸対象である)などである。
源河は、高次性質(種性質、道徳的性質、傾向性、因果性、他者の心的状態、不在、等々)の
知覚可能性について検討する。こうした性質が知覚されうるということは現象学においては古く
から扱われてきたが、分析哲学的な知覚理論においてその重要性が認められ出したのはつい最近
のことである。高次性質の知覚可能性がどのような文脈から議論されるようになり、また、現在
どのような仕方で議論されているかについて報告する。
山田は、ウィトゲンシュタインが提示したと言われる「アスペクト知覚」がもつ特徴を、知覚の 哲学の観点から考察する。具体的には、「…を見る」ことと「…として見る」こととの差異やアス
ペクト転換を通じた経験内容の差異などを、経験の志向的性質や現象的性質といった観点から分析
してみたい。さらに可能であれば、以上の分析を記号の知覚の場面に援用し、いわゆる「意味の知
覚」の可能性について検討してみたいと考えている。 以上の発表に対して、現象学的立場から特定質問者の植村(および司会の國領)が論点の確認
と評価をおこなう。そうすることで、現象学者と分析哲学者の双方で共有可能な具体的な問題が
特定され、二つの異なる哲学的伝統を融合した知覚の哲学の見通しが示されることになるだろう。