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138 研究の目的 ベトナム中部のテュアティエンフエ省のタ ムジャンカウハイ・ラグーン域では,1999 の大洪水をきっかけに,ラグーン前面の砂州の 決壊とその後の激しい海岸浸食,またラグー ンの湖岸および沿岸におけるエビ養殖の拡大 など,急激な環境変化が進行している(平井 ほか,2004 Hirai et al., 2008)。このうち,ラ グーン域での養殖は,1999 年以前にもエビや 魚の養殖が行われていたが,1999 年の大洪水 後にとくにエビ養殖が急速に拡大している。 これまでベトナムにおけるエビ養殖は一般 に,主に南部のメコンデルタでの粗放型・結合 型,また北部の紅河デルタでの半集約型が行わ れてきた。ベトナム中部の本地域で拡大してい る養殖は,大きく 2 つのタイプがある。その一 つは,湖岸の湿地または水田地帯に新たに養殖 池を造成し,そこで集約型の養殖を行うもので ある。このタイプの養殖では,小区画の養殖池 に大量の稚エビを投入し,飼料のほか除草剤, 抗生物質,栄養剤などの化学薬品を投与し, 高密度でエビを飼い,年に 2 3 回の収穫を行 う。このような集約型養殖については,(1)池 造成のための土地の囲い込みによる,地域住民 の自給的な魚介採取や水路の運行などの慣行的 利用の制限,(2)養殖池周辺の地下水や土壌へ の悪影響,そして(3)沿岸生態系にとって重 要なマングローブ林の破壊などが,問題点とし て指摘されている(多屋編,2003)。もう一つ のタイプは,もともと浅いラグーンの水域に定 置網を設置し,天然のエビやその他の魚類を捕 獲するものから発展したタイプで,周囲を網で 囲まれた水域の中に稚エビを投入して 2 3 月で収穫する粗放的なもの(net-enclosure「網 いけす養殖」,現地ではベトナム語で No sao サオウ)である。このタイプの養殖では,先の 集約型のような飼料や薬品の投入は行わず,ラ グーンに天然に発生する藻を主な餌としてい る。 本研究対象地域では,1990 年代以降上記の 2 つのタイプのエビ養殖が増大し,一方で旧来の ラグーンにおける漁獲は横ばい状態である。全 体として,漁船や漁民の人数は増加しているこ とから,従来のラグーンにおける漁業全体の生 産性は低下していると推測される。これは,湖 岸における集約型養殖池の建設が,魚介類の産 卵や生育の場である沿岸のマングローブまたは 水生植物の群落地を破壊したため,あるいは水 域における「網いけす養殖」の増大・高密度化 によるラグーン内の水質や潮流などの水域環境 の悪化が,原因と考えられる。 そこで本研究では,今後の持続的な資源利用 のための基礎資料として,1999 年の大洪水か ら現在までのおよそ 10 年間の,ラグーン域に おけるエビ養殖の拡大について,各種の衛星画 像を使ってその実態を迅速かつ広範囲に把握す ることを目的とした。 高解像度衛星画像を用いたラグーンの環境変化の把握 ―ベトナム中部・フエのラグーン域におけるエビ養殖の拡大― * * 駒澤大学地理学教室

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Page 1: Regional Views 22: 138-143 (2009)repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/31306/kci022...(Thuy Dien)での養殖池の拡大傾向について述 べる。この地区では,1999年の大洪水以前は,湖岸堤防に沿って堤内地側と堤外地側いずれ

― ―138

研究の目的

ベトナム中部のテュア–ティエン–フエ省のタ

ムジャン–カウハイ・ラグーン域では,1999年

の大洪水をきっかけに,ラグーン前面の砂州の

決壊とその後の激しい海岸浸食,またラグー

ンの湖岸および沿岸におけるエビ養殖の拡大

など,急激な環境変化が進行している(平井

ほか,2004; Hirai et al., 2008)。このうち,ラ

グーン域での養殖は,1999年以前にもエビや

魚の養殖が行われていたが,1999年の大洪水

後にとくにエビ養殖が急速に拡大している。

これまでベトナムにおけるエビ養殖は一般

に,主に南部のメコンデルタでの粗放型・結合

型,また北部の紅河デルタでの半集約型が行わ

れてきた。ベトナム中部の本地域で拡大してい

る養殖は,大きく2つのタイプがある。その一

つは,湖岸の湿地または水田地帯に新たに養殖

池を造成し,そこで集約型の養殖を行うもので

ある。このタイプの養殖では,小区画の養殖池

に大量の稚エビを投入し,飼料のほか除草剤,

抗生物質,栄養剤などの化学薬品を投与し,

高密度でエビを飼い,年に2~ 3回の収穫を行

う。このような集約型養殖については,(1)池

造成のための土地の囲い込みによる,地域住民

の自給的な魚介採取や水路の運行などの慣行的

利用の制限,(2)養殖池周辺の地下水や土壌へ

の悪影響,そして(3)沿岸生態系にとって重

要なマングローブ林の破壊などが,問題点とし

て指摘されている(多屋編,2003)。もう一つ

のタイプは,もともと浅いラグーンの水域に定

置網を設置し,天然のエビやその他の魚類を捕

獲するものから発展したタイプで,周囲を網で

囲まれた水域の中に稚エビを投入して2~ 3ヶ

月で収穫する粗放的なもの(net-enclosure「網

いけす養殖」,現地ではベトナム語でNo saoノ

サオウ)である。このタイプの養殖では,先の

集約型のような飼料や薬品の投入は行わず,ラ

グーンに天然に発生する藻を主な餌としてい

る。

本研究対象地域では,1990年代以降上記の2

つのタイプのエビ養殖が増大し,一方で旧来の

ラグーンにおける漁獲は横ばい状態である。全

体として,漁船や漁民の人数は増加しているこ

とから,従来のラグーンにおける漁業全体の生

産性は低下していると推測される。これは,湖

岸における集約型養殖池の建設が,魚介類の産

卵や生育の場である沿岸のマングローブまたは

水生植物の群落地を破壊したため,あるいは水

域における「網いけす養殖」の増大・高密度化

によるラグーン内の水質や潮流などの水域環境

の悪化が,原因と考えられる。

そこで本研究では,今後の持続的な資源利用

のための基礎資料として,1999年の大洪水か

ら現在までのおよそ10年間の,ラグーン域に

おけるエビ養殖の拡大について,各種の衛星画

像を使ってその実態を迅速かつ広範囲に把握す

ることを目的とした。

高解像度衛星画像を用いたラグーンの環境変化の把握

―ベトナム中部・フエのラグーン域におけるエビ養殖の拡大―

平 井 幸 弘 *

* 駒澤大学地理学教室

Page 2: Regional Views 22: 138-143 (2009)repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/31306/kci022...(Thuy Dien)での養殖池の拡大傾向について述 べる。この地区では,1999年の大洪水以前は,湖岸堤防に沿って堤内地側と堤外地側いずれ

高解像度衛星画像を用いたラグーンの環境変化の把握(平井)

― ―139

高解像度衛星画像による環境変化の把握

画像解析に利用したデータは,Landsat-7-

ETM(1999年9月,2000年11月 お よ び2003

年4月の3時期),QuickBird(2002年4月16日

撮影),そしてALOS-AVNIR-2(2007年6月23

日撮影)のそれぞれのCD-Romデータ,およ

びGoogle Earthの画像(2006年5月7日撮影の

QuickBird)である。CD-Romデータの各セン

サの分解能は,Landsat-7-ETMが30 m,ALOS-

AVNIR-2が10 m,QuickBirdが約60 cmである。

以下,まず近年エビ養殖池の拡大が著しい

タムジャン–カウハイ・ラグーン中央のタンラ

ム・ラグーン(DAM THAN LAM)東岸プーザ

ン(Xa Phu Xuan)地区の集落テュイディエン

(Thuy Dien)での養殖池の拡大傾向について述

べる。この地区では,1999年の大洪水以前は,

湖岸堤防に沿って堤内地側と堤外地側いずれ

も幅約100 m以内の養殖池が認められたが,洪

水後2002年までに堤内地側のもとの水田が幅

250~ 500 mの養殖池に転換された(図1)。そ

して,その後2007年までに幅約500 mの養殖

池が湖岸線方向に連続するように拡大した(図

2)。一方堤外地(湖側)では,2002年までに

は1区画が50~ 70 m3100 mほどの池がほぼ連

続して作られ(図1),2007年の画像では一部

でこの池のさらに沖側に,突堤状のものが延ば

されているのが認められる(図2)。

一方,ラグーンの水域での「網いけす養殖」

について,上記と同じタムジャン–カウハイ・

ラグーン中央のタンラム・ラグーン南岸のプー

アン(Xa Phu An)地区を事例に示す。ここで

は,1975年頃から一つの広さが7~ 10 ha程度

の定置網(魚を導く垣網と漁獲する部分からな

る)が設置されエビやその他の魚を捕獲してい

たが,次第にそれぞれの定置網が細分化されて

きた。1999年の大洪水後,エビの値段の上昇

もあり,それまで一方に開かれていた定置網の

全周囲を網で囲って,その中に稚エビを入れて

養殖する「網いけす養殖」へと変化していっ

た(図3)。この「網いけす養殖」は,ラグー

ンの水域全体を占めるほど高密度に行われるよ

うになり,そのため次第に潮の流れの阻害や水

質悪化などによってエビの育ちが悪くなった。

そこで地区(Xa)の役所では,2001年以降 「

環境に優しい養殖」 として,網いけすの整理,

水路の拡大,また場所によって閉めた網を再び

開ける,さらに「網いけす養殖」の経営者に対

して,与えるエサの量,給餌の時期などについ

ての研修などを始めた。図4(2007年6月23日

撮影)では,その5年前(2002年4月16撮影)

に比べて,半島状に張り出した低地の東側で,

密集して連続した個々の網いけすが分離され,

それぞれの網いけす間の小水路と,それとは別

にやや幅の広い水路が設けられているのがわか

る。一方,低地の北側の水域では,2002年に

はまだ「網いけす養殖」は行われてなかった

が,2007年にはやや幅の広い水路の両側に,

整然と小区画の網いけすが設置されている様子

が判読できる。

このような養殖池や「網いけす養殖」の急拡

大は,大資本や政府による冷凍加工・輸出のた

めの交通や港湾,電力などの整備と深く結びつ

いている。本地域でも,テュイテュ(Thuy Tu)

ラグーンやカウハイ(Cau Hai)ラグーンのビ

ンハイ(Vinh Hien)湖口をまたぐ道路橋の建

設が既に行われ,さらにフオン(Huong)川上

流のターチャック(Ta Trach)川に計画されて

いる多目的ダム(電力,治水)に水没する集落

の移転地造成が進んでいることが,2007年撮

影の衛星画像からも確認できる。

2008年8月の現地調査と今後の課題

2008年8月,上に記したタムジャン–カウハ

イ・ラグーン中央のタンラム・ラグーン北岸の

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地域学研究 第22号 2009

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図1 タンラム・ラグーン東岸Xa Phu Xuanでの養殖池(2002.4.16 Quick Bird)

図2 タンラム・ラグーン東岸Xa Phu Xuanでの養殖池(2007.6.23 ALOS Avnir-2)

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高解像度衛星画像を用いたラグーンの環境変化の把握(平井)

― ―141

プーディエン(Xa Phu Dien)地区,および南

岸のプーアン(Xa Phu An)地区の2カ所の役

所を訪ね,また複数の養殖経営者への聞き取り

調査を行った。その結果,上記の養殖池での集

約型養殖,およびラグーン水域での「網いけす

養殖」ともに,いくつかの課題を抱えているこ

とが明らかになった。

まず,湖岸の湿地や水田地帯に造成した養殖

池を利用した集約型養殖では,その多くの場所

でエビの病気の発生やその他の要因で,当初

図3 タンラム・ラグーン南岸Xa Phu Anでの網いけす養殖(2002.4.16 Quick Bird)

図4 タンラム・ラグーン南岸Xa Phu Anでの網いけす養殖(2007.6.23 ALOS Avnir-2)

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地域学研究 第22号 2009

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図5 Xa Phu Dienの大規模エビ養殖池跡(2006.5.7 Google Erathより)

図6 Xa Phu Dienの大規模エビ養殖池跡(2008.8.29平井撮影)

図7 Xa Phu An沖合の密集した網いけす養殖 (2002.2.4.16 Quickbird)

白い点の様に見えるのは,管理のための小屋(図8)

図8 個々の網いけすの捕獲部分近くの水上に建てられた小屋(2008.8.29平井撮影)

各経営者は養殖期間中,それぞれの網いけすを監視しながらこの小屋に常駐する

図9 Xa Phu An沖合の「網いけす養殖」(2008.8.29平井撮影)

手前の部分がエビや魚の捕獲部,右側がやや幅の白い水路

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高解像度衛星画像を用いたラグーンの環境変化の把握(平井)

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の計画のような生産がなされていない。タン

ラム・ラグーン北岸のXa Phu Dienでは,もと

の水田およびラグーンの浅い水域,合計面積

172 haのエビの養殖池が計画され,2002年か

ら2年間一部で実施されたが結局事業に失敗し

た。その後放置されていたが,2008年からそ

の一部を水田に戻す作業が始まった。しかし養

殖を行った池では,水田として再利用するには

問題があり,現在でも66 haはそのまま残って

いる(図5,6)。

一方,ラグーンの水域での 「網いけす養殖」

(図7,8,9)では,先にも記したがラグーン

の水域の環境悪化によって,エビの生産性が低

下している。プーアン地区では,役所が中心に

なって漁場全体の水質環境改善のために,水路

の拡大や設置されている網いけすの整理を実施

しているが,経営者の中には反対もあり,必ず

しもうまく進んでいない。

ベトナムでの養殖エビの生産量は,1985年

には8,000トン(世界第9位)であったが,

2005年には中国に次いで世界第2位の327,200

トンと,この20年間に約40倍に急増した(村

井,2007)。また,日本のエビ輸入量(冷凍・

生鮮合計)の上位国をみると,2006年にはベ

トナムがインドネシアを抜いて第1位(51,627

トン,総輸入量の約22%)となった(同上)。

現在私たちは多くのエビを消費しているが,そ

の約9割が上記のような輸入エビで,それらの

生産現場で何が起こっているかについては,ほ

とんど知ることもない。しかし,ここに示した

ベトナム中部フエのラグーン地帯でのエビ養殖

の事例でもわかるように,エビの生産現場では

急速な養殖の拡大にともなって,様々な問題を

抱えているのも事実である。

今後,ラグーンでの持続的な漁業活動のため

には,産卵や稚魚の成育場所の保全・再生,ま

たラグーンの環境容量を考慮した漁業・養殖に

向けての規制・調整など,ラグーンの適正な管

理が求められる。そのためにも,ここに紹介し

たようなラグーン域でのエビの養殖の拡大とそ

れに伴う環境の変化について,より正確に把握

し,地域の共有財産とも言えるラグーンの持続

的な利用のため,具体的な方策を検討・提言し

ていくことが重要である。

付  記

2008年8月の現地調査は,平成20年度文部科学

省科学研究費補助金(基盤研究(C)課題番号:

19500883)(研究代表者:広島大学 淺野敏久,研究

課題名:東アジアにおける湖沼と干潟の環境問題と

共有資源の管理システム)によって,共同研究者の

淺野敏久,伊藤達也,金科哲,および現地フエ大学

の研究者と共同で行った。

参 考 文 献

多屋勝雄編 2003.『アジアのエビ養殖と貿易』

成山堂書店188.

平井幸弘・グエン–ヴァン–ラップ・ター–ティ–

キム–オアン 2004.ベトナム中部フエラグー

ン域における1999年洪水後の急激な環境変

化.LAGUNA(汽水域研究)11: 17–30.

村井吉敬 2007.『エビと日本人 II ―暮らし

のなかのグローバル化』岩波新書 210.

Hirai, Y., Nguyen, V. L. and Oanh, T. T. K., 2008.

Assessment of impacts of sea level rise on Tam

Giang-Cau Hai lagoon area based on a geomor-

phological survey map. Regional Views(地域学

研究)21: 1–8.