sys.amsstudio.jp -...

60
甲信見どころ(下) 諏訪。松本・上高地・天竜峡

Upload: others

Post on 23-Oct-2020

2 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

  • 甲信見どころ(下)

    諏訪。松本・上高地・天竜峡

  • ,ント………:。……:.……4

    コースポイ山

    松本~上高地

    下諏訪~松本…………………………団

    下諏訪~和田峠~大屋

    塩尻~天竜一舷

    115189 7

  • 下諏訪~和田峠~大屋

    /〆

  • お二人の神様をかたどった翁、おうなの二体

    を安置し、大勢の氏子達がハッピ姿で掛声も

    いさましく、ひき歩くそうです。その壮観を

    一目見ようと近郷近在から、沢山の見物人が

    集まり、さしもの大通りも、この日一日は通

    行止になってしまいます。

    鎧下諏訪温泉

    両側に温泉旅館のカソ尋ハソが見えておりま

    すが、中仙道の宿場の面影が残っており、当

    鎧秋宮

    前方に秋宮が見えております。八月一日の

    あおしばふね

    ~卜・賃、.。・・、I・’ji・;!;:.,

    主尭劣りに届祈伏α面影を伝雲えた青柴舟に、

    鑑旧中仙道

    只今通っておりますこの道路は、旧中仙道

    只今の国道一四二号線で、和田峠から長門を

    へて丸子町に通じます。

  • 時の頃がしのばれます。

    こちらの温泉は徳川時代から多くの旅人に

    知られ、和田峠越しに東信へ抜ける旅人のつ

    かれをいやす場として親しまれておりました。

    現在の湯出口は一五で一日約二千トンが湧

    き出し、旅館は三十四軒、公衆浴場が九ヶ所

    あります。

    雑一新道と旧道の分れ道

    一」れより尋ハスは左手に折れて新道を通って一

    参ります。まっすぐのせまい道は両側に装い

    も新にした温泉旅館の立ち並んだ旧道です。

    鎧春宮

    左の奥に諏訪大社の春宮の森がのぞまれま

    す。諏訪大社には四シのお社があり、諏訪市

    に本宮と前宮、この下諏訪町には、春宮と秋

    宮がございます。

  • 大昔はそれぞれに別の神社であったと伝え

    られますが、小さな集落が一つひとつ合併す

    るようになり、やがて大きな集落となって、

    行われ、八月には春宮から秋宮に移るお舟祭

    れぞタテミナヵタのミコトのお妃にあたりま

    す。

    なお、御祭神のヤサカトメのミコトは、春

    られております。八坂刀売命は、本宮に祁ら

    神社の祭神も同じになったといわれます。

    りが賑やかに行われます。

    兼一諏訪大社の伝説

    昔むかしのこと、諏訪湖のほとりの守屋山

    は春宮に、秋は秋宮におすまいになり、毎年

    二月には秋宮から春宮に移られる御遷座祭が

    に御夫婦の神様が住んでいらっしゃいまし

    こちらの春宮と秋宮には、八坂刀売命が祁

  • 10

    たO

    男神様はタテミナカタのミコトといい、女

    神様をヤサヵトメのミコトと申しました。大

    変仲の良い二神様だったのですが、永い年月

    の間には種々なことがありまして、ある時、

    男神様のタテミナカタのミコトはよその女神

    様と浮気をなさいました。

    このことが(してしまい、遂に御夫婦が別

    居することになりました。

    妃のヤサカトメのミコトは大粒の涙を流し

    ながら、諏訪湖の向う側に住まいを移してし

    まったのです。こうして両神様は別々にお住

    いになり、一年に一度だけお逢いになるので

    す。

    それは、諏訪湖に氷のはる寒い時期のこと

    で、男神様は諏訪湖の氷の道を歩いて妃のャ

  • 諏訪大社の昔話しでございました。

    米一花見新道

    桜の並木の多いこの辺りからこの先の慈雲

    寺にかけては、花見新道といいます。

    花見新道は慈雲寺の上にあり、展望の良い

    寺凸

    水引園と共に、諏訪地方随一の桜の名所で、

    花見時の四月中旬は、花のトンネルが続き、

    夜はボンポリもついて実に見事です。

    恭一慈雲寺

    す○

    サヵトメのミコトに逢いに行かれます。

    諏訪湖に見られる氷の道はタテミナヵタの

    ミコトの恋の通い路だと伝えられ、結氷する

    現象を「御神渡り」とよんでおります。

    なお、下諏訪温泉は、妃のヤサヵトメのミ

    コトの涙が落ちてお湯が湧いたと伝えられま

    11

  • 来る展望のよい所です。

    園内には地元俳人の句碑を始め、芭蕉や蕪

    村、子規等の句碑も見られます。

    水月公園の句碑は

    しばらくは花の上なる月夜かな

    芭蕉

    水月園は、全山桜と松林におおわれ、諏訪トー

    湖を中心にした、諏訪盆地の全景が眺められ、一

    など

    遠くに富士山、八ヶ岳の連峰等を望む事が出

    右に見えるお寺は、臨済宗妙心寺派の慈雲

    寺です。安正二年(一三○○)元から日本に

    帰化した一寧一山国師が開いたといわれる古

    いお寺で、御本尊は千手観音菩薩です。

    兼一水月園

    慈雲寺より一一○○メートル程小道を登りま

    すと、桜の名所水月園があります。

  • だな

    信濃路や宿借る家の蚕棚

    うずのと

    不一一ひ、とつ埋み残して若葉かな蕪

    村子規

    撚一注連掛

    このあたりは注連掛です。諏訪神社御柱祭

    の際、この奥の山から反り出した柘柱を、こ

    の辺りまで山出しをし、後は里びきとなりまトー

    すので、声」声」で一度御柱を安置し、お注連を一

    かけますので、この名がつけられております。

    なお、下社の御柱は霧ヶ峰から切り出され

    ます。

    燕一宮の湯

    左手の建物は宮の湯鉱泉です。その昔今は

    亡き、秩父の宮殿下が、下諏訪御来遊の折、

    御休憩なされたところでございます。

  • 撚一砥川

    左の中仙道にそって流れている川は、砥川

    です。和田峠に源を発し、中仙道にそって流

    れ、下諏訪町で諏訪湖にそそいでおります。

    この川にはヤマメ、アユ等の魚が沢山おり、

    大公望にはおなじみの川です。

    撚一落合発電所

    程なく渡ります川は、東俣川といいますが、トー

    上流一一○○メートル程の所に、明治一一一十一一一年一

    十二月発電開始という、長野県で最も古い落

    合発電所があります。最大出力は二○○キロ

    ワットという小さな発電所です。

    繋一落合(萩倉薬師)

    右の道をおよそ一キロ程行きますと、萩倉

    という部落があり、そこには信濃三薬師の一

    つ萩倉薬師があります。

  • 萩倉薬師は、昔行基菩薩が萩の木で彫った

    というお堂で、一名医王渡堂ともいわれます。

    萩倉からは霧ヶ峰高原の、ツンドラ地帯と

    いわれる、天然記念物七島・八島高層湿原地

    帯、(八島高原ともいう)や、一七八九メー

    トルの鷲ガ峰へ登れます。海抜一六六○メー

    0〆、〃夕L、ざ〃rTJrI、P、、

    ’八〃v,一”ノ匡雲崖一F医腸》に

    少1つ』画『■一■ワ心一●。●一B■ワop

    L『.一一●F(、刀一一一.』一.一一八〈/[月舎に、●一正睡疋害醒りこ

    メシヤクナゲ、ツルコケモモ、ミヤマキソポー51

    ウゲ、タヵネイ簿ハラ等一一一八種類の高山植物一

    が咲き乱れ、奥日光の尾瀬沼と並び称されて

    おります。

    なお、諏訪神社のお柱は萩倉の奥、蝶ヶ沢

    の辺から切り出されるそうです。

    撚一中仙道について

    只今車は旧中山道にそって進んでおります。

    この先には旧中山道時代からの和田峠が残

  • らは、一時交通量がへりました。

    その後明治三十七年には、現在の道が開か

    れ、昭和七年十一月に峠の頂上にトンネルが

    出来ましてからは、冬期間の交通も楽になり

    ました。

    それから甲州街道、諏訪方面から丸子、上

    11田

    をへて、群馬県に抜ける自動車道路として、

    がはげしく、利用価値も高かったのです。し一61

    かし、明治一一一十六年中央線が開通しましてか一

    り中山道の難所の一つだったといわれます。

    中仙道は始め岐蘇路といわれ、今からおよ

    そ一二九○年前の「大宝二年」に開発されま

    したが、その後一六四三年の寛永二○年、徳

    川三代将軍家光公が諸大名に、参勤交代制度

    を定めまして以来、大名行列の往来をはじめ、

    江戸と京都を結ぶ{表街道として、人馬の交通

  • 兼昏一一

    利用価値も高まったのですが年之増加する車

    の通行をスムーズにするために、新しくトソ

    ネルが造られました。

    鷲ヶ峰(一七九八メートル)

    わし,,

    前方に鷲ヶ峰が見えております。和田峠の

    頂上は鷲ヶ峰の左側です。

    0-兼

    一樋橋茶屋本陣跡

    右の碑は樋橋茶屋本陣跡です。71

    茶屋本陣とは、大名が宿泊をせずに休憩す一

    るだけの立場茶屋のことで、中山道の昔は、

    下諏訪から和田峠をへて、この先の和田宿の

    間が二十一キロメートルもあり、大変困難な

    道中でした。そのため、途中三ヶ所に立場茶

    屋を置いて通行する人々の便宜を計ったので

    したO

    撚一樋橋

  • こちらの橋は樋橋です。

    程なくして橋を渡りますが、橋を渡りまし

    た左側に、水戸浪士の浪人塚が見えて参りま

    す。

    鎧水戸浪士の浪人塚

    左の石碑は、水戸浪士を葬った浪人塚です。

    今から一二五年程前のこと、元治元年(一

    八六四)十一月のこと、武田耕雲斉の率いる一81

    水戸の天狗党一千人余りが、和田峠付近で諏一

    訪、松本両藩の連合軍と戦い、多くの戦死者

    を出しました。この時亡くなった天狗党の人

    盈を葬ったのが浪人塚です。

    今から百二十年も前のこと、世は幕末の頃、

    世の中は政治を天皇にお返しして新しい時代

    を迎えようとしておりました。しかし、これ

    をおさえようとする徳川幕府との間に争いが

  • 各地でくり返されたのでした。

    その頃、水戸の尊皇派であった藤田小四郎

    は、水戸家の家老・武田耕雲斉とともに、天

    狗党を結成し、京都の天皇にその心情を訴え

    ようと京都に向ったのでした。

    京都に向う途中、群馬県の下仁田で高崎藩

    と翰一.てこれを敗り.更に兵を進めてこの和

    田峠にさしかかりました。

    声」の和田峠には、幕府の命を受けた松本、乱

    諏訪両藩の連合軍が待ちうけ、両軍激しい戦

    いがくりひろげられました。

    しかし、ここでも天狗党の勝利に終り、松

    本、諏訪両藩は兵を引き上げております。

    しかし、天狗党も百名に近い負傷者を出し、

    さらに二十名余りの党員が戦死しました。

    こうして天狗党は中山道を京都に向ったの

  • 寒さの中で遂に力つき、越前(福井県)の敦

    が賀で加賀藩を通じて降伏したのでした。

    捕えられた党員のうち、武田耕雲斉を始め

    〃ざい

    とする主謀者達、一二百五十名余りは斬罪の刑

    に処せられ、更に二百五十余名は島流しに、

    ですが、戦のくり返しと旅の疲労、更に冬の

    残る一一百三十余名が水戸に護送されました。

    三百五十名にものぼる人々が首をハネられ卜2

    ると一一一戸う悲惨な出来ごとは、明治維新を迎え一

    ること、わずか四年前のことでございます。

    新しい明治の御代を夢見ながら、その夜明

    けを待たずに逝った多くの犠牲者の霊は、そ

    の後、気比の松原をのぞむ地(福井県敦賀市)

    に手厚く葬られました。

    幕末の悲惨な歴史のひとこまがしのばれま

    す。

  • 堂香炉岩(大砲岩)

    左手の断崖につき出た大きな岩は香炉岩で、

    水戸浪士と諏訪松本連合軍との合戦の時、

    水戸浪士軍は、この岩の上に大砲をすえて、

    連合軍を射撃したといわれ、一名大砲岩とも

    呼んでおります。

    号一・・..1..1

    諜一崎征記

    だんだん峠も近ずいたようですから、峠にト2

    まつわる昔のおはなしを御紹介しましょう。|

    古い書物に、和田峠のことが一番最初に登

    場しますのは、慶長五年(一六○○)九月、

    豊臣軍と徳川家康が戦いました関ヶ原の天下

    分け目の合戦の時、徳川秀忠の家来、榊原康

    政が、一千騎の大軍を率いて峠を越え、関ヶ

    原の合戦にかけつけたという記事が、関ヶ原

    紀要という書物に書かれております。

  • =

    一二

    一 L二

    卿と武士の合体論の犠牲者となられた、皇女

    和宮様が、徳川十四代将軍家茂公のもとへ、

    御降嫁なさる際の、お輿入道中でございます。

    和宮様御一行が峠を越えられましたのは、

    一八六一年の文久元年十一月六日、道には砂

    利を敷き、道中奉行の警戒はきびしく、諏訪

    も旧道には接待と言う地名が残っております。-2

    1,2

    和田峠を越えたお話の中で、最も豪華版と一

    それ以来商人、旅人そして参勤交代の大名

    行列の往来がさかんでした。

    この峠は下諏訪と和田宿の間が大変長く、

    二一キロもあった為、旅人は大変なんぎでし

    た。そのため、冬は旅人におかゆを、馬には

    マグサを与える場所が設けられて、これを、

    |永代人馬施行小屋」とよびました。今日で

    して、今尚語り伝えられておりますのは、公

  • 23

    藩では人足や馬数万をくり出し、荷物の運搬

    に当り、峠の名所香炉の岩には落石を防止す

    る為にシメナワをめぐらした程で、大納言、

    中納言、殿上人や京都、江戸側の役人、それ

    に物を運搬する雲助まで動員してその数三万

    人もの行列になり、宿屋は旅人をしめだし、

    .Ⅱ今引一tう:;一i、・・・1。…I

    ql理工に13》てL茅α大行列となこて峠を

    越えたと伝えられております。

    繋一西餅屋

    この辺り西餅屋です。

    一寸変った地名ですが、街道の昔は立場茶

    屋があり、お餅やおだんごが売られておりま

    したので、そのまま地名になったようです。

    徳川時代には下諏訪からこの先の和田宿ま

    での道のりが二十一キロもあり、その上、和

    田峠という難所もあって旅人の苦労は大変な

    ものでした。

  • く、量も多く出たようです。

    とくようせき

    黒耀石はガラスのような光沢を持ち、色は

    そのため、下諏訪と和田宿の間に立場茶屋

    を置き、先程の樋橋とこの西餅屋、そして和

    田峠を越えた東餅屋の他合計六ヶ所で旅人の

    便宜を計りました。

    鵜一鷲ケ峰(一七九八)

    右手に見える山は鷲ヶ峰です。

    鷲ヶ峰は展望の良い山で八ヶ岳連峰、南北

    アルプス、富士山、浅間山等の沢山の山が望一42

    めます。叉、鷲ヶ峰の東南の麓には、鷲ヶ峰一

    高原の、七島八島の高層湿原地帯があります。

    兼一黒耀石

    とくようせき

    この和田峠の付近は、黒耀石のとれる所と

    して有名です。日本では、各地で黒耀石がと

    れたのですが、この霧ヶ峰付近の石は質も良

  • この黒耀石を求めて遠く関西や関東から人

    とうえき

    々が集まり、霧ヶ峰が交易の場として栄えた

    りつしよう

    季か立一証されておりますc

    さいくつ

    今日では用途も少ない為、ほとんど採掘さ

    黒く、割り口がするどい為、先土器時代の人

    ひつじゆひん

    々の生活必需口中でした。

    もち

    当時の人々は、一」の黒耀石を矢じりに用い

    たり、ナイフとして使ったりしたようです。

    -25-

    れておりません。

    鎌一新和田トンネル

    これより新和田トンネルに入ります。

    トンネルの手前、左の細い道が昔の国道・

    一四二号線で、カーブの多い峠の道でした。

    参考

    正式名称・新和田トンネル有料道路

  • .-ハメ

    延消火器。

    非常警報装置・押ボタン式

    非常電話・十

    一道路部分・アスファルトコンクリ

    舗装{

    一トンネル部分・セメントコンクリ

    道路幅員

    防災設備・非常駐車場。

    一・基本照明一

    照明設備{}ナトリュウム灯

    一・緩和照明}

    設計速度・時速五○キロメ

    (このうち

    長・四・八キロメートレノ

    期・昭和四十九年九月~

    事業費・七一一億円一合計事業費八

    十億円

    関連公共事業費。八億円一

    本入消火器を五○メ

    トンネル部分

    基。

    トレノ 昭

    和五十四年三月

    ○○メートル間隔

    ヶ所 ト

    ノレ

    トル間隔で

    トル)

    トト

    ー26-

  • 遅れておりました。

    しゆ

    そのため、昭和四十六年から県内の東西主

    三十八基

    貯水槽・八ヶ所

    消火水槽・一ヶ所・貯水量。四○トン

    和田側杭口附近

    排煙ファン・六基

    換気設備・ジェットファン・六基

    透方監祈詔備・管理事務所内にあり、通行車

    両台数やトンネル内の風向、煤煙濃度、-

    72

    トンネル外の霧濃度、無線設備など管一

    理事務所内で行う。

    鎧新和田トンネル設置について

    この長野県は、南北に細長く、封舞識雛騨遅

    路はほとんど整備されておりますが、東西を

    結ぶ(横断する道路)主要幹線道路の整備が

  • 公社」を設立して、国と県と民間と三団体か

    どうにゆう

    ら資金を導入して工事にかかりました。

    要幹線道路の整備に力を入れ、「長野県道路

    県内を東西に結ぶ主要幹線(横断道路)は、

    この新和田トンネル有料道路の他に、三才山

    トンネル有料道路があります。

    この二本の横断主要幹線の完成によって、

    県内の東北信地方と中南信地方の連絡がスムー82

    ‐ズになり、長野県全土の一体化に大いに役一

    立っております。

    そして更には、中京、関東方面の動脈とし

    て、長野県の経済、産業、観光、文化の発展

    に役立つことを期待される道路でもあります。

    米一和田峠の今昔I

    今日では、一一キロメートル足らずのトンネ

    ルによって通過出来る和田峠ですが、昔の和

  • お助け小屋が諏訪側に造られたり、和田側に

    は三メートルもの雪が旅人の往来をはばみ、

    にんぶ

    当時欲諏訪蕃と上H害ドフ、僧.《一J4言・善一訓菖

    …ii、、1’一’一、yZiノラぞLL17国一一『4

    田峠は文字通りの命がけの道でした。

    徳川時代に五街道が整備され、中山道が江

    戸と京都を結ぶ幹線道路として利用されたの

    ですが、中山道のなかで一番高い所がこの和

    田峠でした。標高一五○○メートルの峠の冬

    一キロメートルという長い距離で、峠の高さ

    しゆくばおうらいなんぎ

    に加雲えて宿場の少なかった事が往来の難儀を

    みをしたり、牛馬の荷物を運ばせたりしたの

    でした。

    じゆく

    その上、下諏訪宿と和田宿のあいだが一一十

    一層きびしいものにしていたようです。

    29

    古い記録によりますと、ひと冬に十人近い

    そうなんしや

    遭難者を出した年もあり、これを救うための

  • 与え休ませました。この小屋の置かれた所は

    せったい

    「接待」という地名でよばれ、今日も地名だ

    えいだいじんばせぎようとや

    は「永代人馬施行小屋」が設けられた、ソして、

    冬の間は旅人にはおかゆを、馬にはマグサを

    をきわめ、下諏訪宿と和田宿の間に置かれた

    六ヶ所の立場茶屋が、多くの人々の命を救っ

    けが残っております。

    とん方ん

    峠の冬もさることながら、夏の暑さも困難

    ら少し東に寄った所に新しい道が造られ、更

    に明治二十九年に旧和田トンネルの国道が整

    備されたのでした。

    が残り、街道の昔をしのばせます。

    みちすじ

    和田峠の道は、明治九年に中山道の道筋か

    30

    ております。六ヶ所の立場茶屋とは、下諏訪

    》とよはしにしもちやせったい

    側から、落合、樋橋、西餅屋、東餅屋、接待、

    からさわもう

    唐沢に設けられたもので、今日では地名だけ

  • 越えて信越線で横浜へ送られて行ったのでし

    た。明治三十八年、中央本線の開通は和田峠

    さび

    の往来を淋しいものにしましたが、県内を東

    はた

    西に結ぶ主要街道として重要な役割を果しま

    ひき

    した。所和ヨトンネレワヒこま、藍』ユコニ仏乱一

    .〃く-11一ラーーーュド:、くと

    明治の道は、長野県東部や群馬県からのマ

    きいと

    1を諏訪方面に運び、諏訪の生糸は再び峠を

    もの思いを残した三筋の峠道が残り、その一一13

    部は信濃自然歩道として再びよみがえってお一

    ります。

    兼一蹄派獄

    只今通って参りました和田峠の頂上は、塩

    尻峠と同じように、分水嶺になっております。

    とがわ

    峠の頂上に降ります雪や雨は、南は砥川、

    よだちくまがわ

    北は和田川、依田川となり、千曲川へと流れ

    ちい

    ております。叉、峠は諏訪郡下諏訪町と、小

  • 二キロ程参りますと、男女倉という部落に参

    ります。叉、男女倉からは、霧ヶ峰高原へ行

    く、男女倉越という道があります。

    こちらの部落は、観音沢です。

    兼一唐沢

    只今通っております部落は、和田村の唐沢

    と申します。ごらんのように古びた家が並ん

    ルです。

    繋一評如創則お

    めぐらぐら

    こち繰りは男女倉口と申します。右手の道を

    -32-

    さがた

    県郡和田村L」の境になっております。

    粥一難維雌

    右手に蓉科山が見えております。

    撚一大出山

    右手前方に見えております、頭のかけた様

    な山は大出山と申し、高さは一五九三メート

  • 場茶屋が置かれ、旅人で賑わった所です。

    とびら

    兼一扉峠への分岐点

    ひょうしき

    左手に「美ヶ原高原登山口」という標識が

    屋根を少し高くして風を入れております。

    しゆう

    一般に朝鮮人参とよばれるこの植物は、収

    かく

    ねだん

    獲までに五年から六年もかかり、値段も大変

    建っておりますが、左手の道を登りますと、

    ちやうすやま

    一六六一一メートルの扉峠を越え、茶臼山を経

    に高い人参です。

    れんさく

    全日は一度収獲すると連作が出来ず、五十年

    て華天ケ京一司京、主へイレ史ナ0

    ..…1J・’-1》、‐TIJ4雪‐く}

    でおりますが、中仙道の昔は和田峠越えの立

    -33-

    鎧薬用人参

    ちようせんにんじん

    ところどころに、わらで囲った朝鮮人参の

    ちよくしやにつこう

    畑が目につきます。薬用人参は直射日光や雨

    かと

    をきらう為、各畝蓉」とにわらで囲い、北側の

  • 穫高は長野県が第一位です。日本の収穫高の

    七○・ハーセソトが長野県で、福島県の会津地

    方が二○・ハーセント、島根県が一○・ハーセソ

    ぐらいは同じ所で作ることが出来ませんでし

    ソト位です。

    さいばい

    朝鮮人参の栽培は、種を直接畑にまく方法

    なえどこ

    と、苗床で育ててから移植する方法し』があり

    たが、今日では良い消毒薬が出来まして(ド

    しゆうかくど

    ロクドールという消毒薬)収穫後、クスリを

    卜の割合となっております。

    ちようせんにんじん

    日本で栽培される朝鮮人参の七○パーセン

    ぼんとん

    卜は香港に出荷され、国内消費は一二○・ハーセ

    34

    まいて一年間たてば作れるようになりました。

    ちようせんにんじんさいばいち

    日本の朝鮮人参の栽培地は、』」の長野県の

    らハさが乞

    東信地方(小県・佐久地方)のほか、福島県

    あいづ

    の会津地方、そして、島根県などですが、収

  • 種がとれますが、人参を育てるのが主な目的つ

    ですので、そのほとんどは花を咲かせずに摘

    ます。花は五月下旬頃から咲き七月下旬には

    みとってしまいます。(これを芯どめという)

    しゆうかく

    こうして人参を育てますが、収穫は五年か

    -35-

    ら六年後になります。そのため、お値段も張

    るDです策、平句ひろ宣受ま、亘蚤』、ご/吟

    ‐..、,:。く・露111if一ノ》、、二・

    メートル、長さ一五センチメートル位で八千

    円ほどです。

    つい最近(六二年七月)、韓国の五台山山

    中で野生の人参が発見されましたが、その値

    段がなんと、五億ウオン、日本円にして一億

    円もするそうです。

    その人参の重さは三七・六グラムという、

    百グラムに満たないのですが、六○○年をへ

    た人参でした。

  • 野生の人参は、栽培物の十倍も効くという

    いろいろ

    ことです。人参は人参で津b、種々とあるもの

    の宿場として栄えたところで、最盛期には、

    はたごや

    一五○~一六○の旅篭屋が並んでおりました。

    36

    ですね。

    鵜一和田発電所

    右手に見えております発電所は、和田発電

    所です。

    最大出力一五八○キロワットを発電してお

    ります。

    鵜一和田村大出

    只今通っている部落は、和田村の大出です。

    この辺りからおよそ二キロ先の和田村の中

    心、上和田まで家並が続いております。

    撫一和田宿の歴史

    和田は、和田峠をはさんだ下諏訪宿の反対

  • わぬ所から指しのべられました。と申します

    いえもち

    のは、文久元年皇女和宮様が、徳川家茂公に

    ごこうか

    御降嫁のため、中仙道をお通りになり、和田

    文久元年の一一一月三日、宿場の一角から火が

    出て、あとかたもなく焼けてしまい、再建不

    可能とまでいわれましたが、救いの手は、思

    -37-

    宿にお泊りになるとハう印らせでし上。

    そこで幕府は、早速再建の準備にとりかか

    り、建築用材を払い下げると共に、全国から

    大工さんや、左官を集め、焼跡を整理し、た

    ちまち復興させ、十一月六日には無事、和宮

    様御一行をお泊めすることが出来たのだそう

    です。

    現在は美ヶ原高原への登山口となっており

    ます。

    兼一上和田

  • しい宿屋の代名詞になっておりますが、昔は

    べ物をお湯にひたして食べましたが、その時

    きちん

    お湯をわかします薪代、木賃をはらいました

    問屋、

    昔の宿場の中心は、この先の和田上町で、和

    と、お湯をわかしてもらい、焼き米などの食

    ので、木賃宿と呼ばれたのです。

    旅に出る時には、食物は申すまでもなく、薬、

    あかりの道具まで持って歩き、宿に着きます

    りになられた歴史的な所でございます。く

    全日の宿場は本陣を中心に、大名や公卿のお

    つきの者が泊る脇本陣、馬や人の世話をする

    ておりました。

    きちんやど3

    木賃宿と申しますと、只今では、みすぼら一

    田上町には本陣跡・もあり、皇女和宮様・》もお泊

    こちらは、和田村の行政の中心上和田です。

    ■■■Eq‐

    般の旅人を一泊める旅篭等から形成し

  • 粥一水沢発電所

    右手和田川の向うに見えます発電所は、水

    沢発電所と申し、大正十一年に出来た発電所

    です。

    出力八九○キロワットです。

    繋一下和田

    この辺りは、上和丑と計して下訂日し一泊〆

    尋;、。ニノ-くf‐

    ます。

    蓋青原

    39

    右手和田川のそばに見えております発電所

    は青原発電所です。この発電所は、大正十四

    年に発電開始、最大出力一六○○キロワット

    でございます。

    恭一中山公園

    右手のつき出た小高い岩山は、つつじの名

    所中山公園です。

  • 右手の道は、海抜

    今燕 諜号潔号 兼一和田川

    落合と申します。

    峠を越え、白樺湖を通り、茅野市で甲州街道

    和田川とは下流で合流し、依田川と名前が変

    ります。

    ●◆口

    別れ、長門町の落合に入ります。

    長門町は、昭和

    に合流する大門街道です。

    塞感恥町

    落合

    04

    この辺は川が落合う所から、部落の名前も一

    大門街道

    渡る川は、大門峠に源を発する大門川です。

    和田川を渡りますと、いよいよ和田村とも

    四四年

    九月三十日、長久

    トルの大門

  • 中仙道と諏訪街道の分岐点に位し、中仙道を

    ねり歩いた大名庁別や、洞Ⅷぢ訂ぬうに3ヒド

    …;:I,/房rZ:1-ノド山

    を通り、善光寺へお詣りに行く人々で賑わっ

    た宿場です。天保五年の古い本には、三十五

    軒の旅篭屋に七十人の飯盛女がいたと記され

    じんく

    ており、長久保甚句にも

    いつき

    長久保よいとこ何時来てみても

    しやみたいと

    一二味や太鼓の音がする

    とうたわれ、仲々にぎやかな宿場だったよ

    うです。

    長久保は町村合併以前は、長久保新町とい

    保新町、長窪古町、大門村の二町一力村が合

    併し、それぞれの頭文字をとって、長門町と

    名付けた町で、人口はおよそ七千人です。

    長久保な

    がくぼ

    町の中心長久保は、中仙道の宿場の一つで、

    41

    弓鶏・-

  • 街道造りの家が並んでおりますね。二階から

    とくちよう

    上が、特に道路側につき出た特徴があります。

    のきば

    これは道巾がせまいため、馬や荷物を軒端に

    おうらいじゃ左

    置いても往来の邪魔にならないように、叉、

    雨が降ってもぬれないように造られたもので

    われ、戸数僅か二五○戸という、県内で最も

    小さな町で、町会議員さんの数も八名という

    少人数だったようです。

    ちょっと両側の家造りをご覧下さいませ。

    42

    す。

    兼一中仙道と諏訪街道の分岐点

    こちらで道は、中仙道と諏訪街道に分かれ

    ております。昔の宿場は、この辺が中心地だ

    ったようで、右手の道が旧中仙道の笠取峠か

    ら芦田宿方面で、中仙道は、約二キロ先の海

    抜八八六メートルの笠取峠を越え、北佐久郡

  • やはたしおなだいわむらたおだ

    の芦田、望月、八幡、塩名田、四石村田、小田

    い井、追分宿L」昔の宿場を通って、軽井沢へと

    続いております。

    なお、下諏訪から通ってまいりました国道

    一四二号線は、こちらから右へ別れ、芦田、

    茂田井、望月をへて佐久市の中込に通じます。

    塞笠枚串

    ・・・一〃..11

    へとべよとべとく笠取峠

    34

    とべば長久保近くなる

    と長久保甚句にあります笠取峠は、中仙道

    の旧跡地の一つになっております。

    初めは雁取峠といわれましたが、峠を登り

    切った旅人が、峠の茶屋でかぶった笠をとり、

    名物の力餅を食べながら休みました所から、

    笠取峠と呼ぶようになったそうです。

    鎚笠取峠の松並木

  • 今から一二九○年余り前の大宝二年(七○

    ぎようきぼさつ

    一一)に名僧・行基菩薩によって開かれ、その

    おとろさい

    後、一時は衰えましたが、天台宗の開祖・最

    ち工う

    澄によって再興されました。

    台宗信濃五山の一つとして栄えました。

    松の樹令は二百年から三百年ほどで、およ

    みごと

    そ一一キロメートルにわたって美事な並木を作

    れる松並木が残っております。

    かさとり

    旧中仙道の笠取峠には、県の史跡に指定妾。

    44

    り、街道の昔をしのばせます。

    く燈

    ふもし一

    なお、並木を下った峠の麓が、徳川時代の

    あしだとんにちたてしな宮ち

    芦田宿で、今日の立科町の中心にあたります。

    蓋恵日山津金寺

    きがんしよ

    芦田宿には、小諸藩の祈願所にあてられた

    つがねじ

    津金寺がございます。

    えにちさんしゆがくいんつがねじ

    正しくは、恵日山修学院津金寺といい、天

  • となっております。

    かんえい

    くだって、徳川時代の寛永十七年(一六四

    かんえいじしゅんかいに:ざんしようかんのん

    ○)に、上野寛永寺の舜海が入山し、聖観音

    ぼさつぼんぞんあみだどうみようけん

    菩薩を本尊として、観音堂、阿弥陀堂、妙見

    どうにおうもん

    堂、仁王門が再建されております。

    しげの

    境内には滋野氏一二代のお墓のほか、寺宝に

    てんだいしんどん

    その当時は、法相宗を始め、天台、真言、

    そうとうしゆうだんぎ

    曹洞宗の四一示派の談議所(学問所)として知

    もなったお寺でした。

    まつじ

    戦国時代には、百八ヶ寺の末寺を持つ大本

    さかきしん

    山として栄え、武召言玄も寺頂一千戸。.ご与誰一

    ‐‐..・・.産1『一一一ノ』ノく冒膿、I

    は、武田信玄の朱印状や徳川氏の朱印状、そ

    しておりますが、天正十年(一五八二)に織

    へいか

    田信長の兵火にかかり、そのことごとくが灰

    - 45-

    られ、平安期から鎌倉時代にかけては、この

    とうしんおさしげのしもちづきしきがんしよ

    東信地方を治めた滋野氏や望月氏の祈願所に

  • りりゆうみんねはんぞう

    して、李竜眠の画いた浬薬像などがあり、今

    一一年(一二一一○年)四月八日に滋野氏が

    こんりゆうきざ

    建立したと刻まれております。

    かるく

    他の一基は、嘉禄一一一年(一一一一一七)十

    滋野氏は奈良時代から東信地方に栄えた

    うじぞくぼつかん

    氏族で、牧場経営にたずさわった牧官で

    が三基あります。

    しやか

    一二基のうちの一一基は、塔の正面に釈迦

    たほぅぼんじあらわfう費?

    と多宝の一一仏を党字で表してあり、承久

    した。

    つがねじ

    津金寺には、滋野氏の勢力が最もさか

    とんりゆうとう

    んであった鎌倉時代初期に建立された塔

    46

    日では、佐久観音霊場めぐりの結願所として

    多くの信仰を集めております。(結願所とは

    三十三番目の霊場のこと)

    註滋野氏の墳墓三基

  • 只今走っております道は、諏訪街道です。

    弓牒

    長門町の古町、丸子町を通り大屋までおよそ

    みちのり

    一二十分の道程です。

    依田川を渡りますと古町です。

    古町は町村合併以前は長久保新町に対し、

    長窪古町といわれ、新町同様小さいながらも

    町制を施いておりました。

    昔は芦田下野守の出城長久保佐衛門の居城

    諏訪街道

    恭一古町

    しげのもりみちほつけきよう

    ロロに建立され、中には滋野盛道が法華経

    ぽだい

    一二部経を写して納めてあり、父母の菩提

    をとむらったと印されています。

    ほうとう

    鎌倉期の宝塔は各地に見られますが、

    この滋野氏の宝塔は他とは異った大変珍

    らしい宝塔です。

    47

  • 48

    長久保城がありました。長久保城は武田信玄

    の川中島遠征の際焼き払われてしまい、右手

    の岩山に城跡だけが残っております。

    なお、この古町から国道の二五四号線に入

    ります。

    鎌一立岩

    右手をごらん下さい。依田川沿にそびえ立

    った岩壁を立岩といい、およそ一○○メート

    ルの長さです。岩の一部におよそ五メートル

    の駒形が自然に現われておりみごとです。

    この駒形は伝説によりますと、弘法大師が

    こちらを通りました折、余りにも見事な岩壁

    にみほれて足を止められ、自然の美しさを愛

    されて杖で画いた跡だと伝えられます。

    鎧美ケ原高原

    左手に美ヶ原高原が見えております。

  • ご覧のように広々とした高原で、広さは二

    ○平方キロメートル、平均海抜二○○○メー

    トル、一面つつじと数百種の高山植物が美し

    く咲き乱れる高原です。

    山本小屋の先代山本俊一翁が、大正十四年

    の夏初めて美ヶ原高原に登り、日本アルプス

    や富士山、八ケ岳連峰、夷笥山等、山岸一兆ゐ、

    展望があまりにもすばらしいのに心をひかれ、-9

    観光地として目をつけ、現在の山本小屋を建到

    てられ、開発に着手されました。

    昭和二十九年、高原の中央に建てられた美

    しの塔には、山本翁の功績をたたえ、胸像が

    はめられております。

    たけし

    繋一武石川

    これから渡ります川は、美ヶ原高原から流

    たけし

    れてくる武石川です。このすぐ下流で、依田

  • 鑑内村温泉郷

    れいせんか

    内村温泉郷は、霊泉寺温泉、大塩温泉、鹿

    けゆ

    そうしょう

    教湯温泉など二一つの温泉の総称で、それぞれ

    川と合流しております。た

    けし

    武石川を渡りますと武石村です。

    道路をへて松本に通じます。

    参考霊泉寺温泉

    に泉質が異った温泉です。

    いづれも東信地方の名湯として知られ、そ

    二十分余りの道のりでございます。

    みさや童

    なお、内村温泉郷から一二才山トンネル有料

    の歴史も古く、山合の静かな温泉郷です。

    まると

    別名を丸子温泉郷ともよばれ、声」ちらから

    50

    鑑内村温泉郷、松本方面

    左に岐れる道は内村温泉郷をへて松本方面

    を結びます。

  • が発見したと伝えられる。昔は霊泉寺の寺の

    湯として病人の入浴のみ許されたのでした。い

    厚生省の国民保養温泉に指定され、温泉医

    綴臓謎も整い、泉質は扉獣節澱で、湯温四十一

    度、高血圧に効く。

    参考大塩温泉

    内村川に面した山沿にひらけ、厚生省の国

    民保養温泉。川中島合戦の折、武田信玄が兵

    士の傷をなおしたと伝えられる。泉質は単純

    泉で、湯温三十九度、高血圧や外傷に効き目

    あり。

    かけゆ

    参考鹿教湯温泉

    内村川の支流にあたる霊泉寺川に沿った温

    わどう

    泉で、和銅年間(七○八~七一五)に平維茂

    -51-

    内村温泉郷の中では一番大きく、その垂旦

    もんじゆぼさつけしん

    かりうど

    文珠菩薩の化身である鹿が、信仰厚い猟人に

  • 温泉のありかを教えたと伝えられる。昔から

    高血圧に効く名湯で、リハビリテーションセ

    ンターを始め、各種団体の医療施設が整って

    おり、厚生省指定の国民休養センターに指定

    される。温泉は単純泉で、湯温四十六度、飲

    用も出来る。

    けいりゆうぞいもみじ

    なお、内村川の渓流沿いは、紅葉の名所で、

    ととの

    文珠堂や五台橋などの散策コースも整って、一

    にぎ

    25

    春、秋の行楽には賑わうO

    恭一丸子町

    玄るこ:

    ひがち2に$:

    丸子町は、町村合併により、東内、西内、

    よだ

    依田、長瀬、塩川と五つの村を合併し、人口

    およそ二万六千人の町です。

    丸子町という呼び名は、天正時代この地に

    住んだ豪族、鞠子有光の姓をとり地名にした

    ものです。かつて勢力のあった祖先の名をし

  • のんでのことでしょうが、丸子とは何となく

    親しみのある地名です。昔は須坂、岡谷、諏

    訪、上田等と共に製糸の町として栄えました

    が、最近は紡績、染色、諸工業の機械等の工

    業地として栄えております。

    叉こちら依田窪地方の農業、林産物等の集

    荷地になっており、又君付温泉郎、美ヶ東司

    原、白樺湖等の観光地への玄関口的役目をし一3

    それぞれ

    ており、夫々の観光地へ定期寺ハスが出ており一

    ます。丸

    子町の特産品としてはアユ、りんご、松

    茸、山ごぼう、みそ、薬用人参、こんにゃく

    等があります。

    鑓丸子町の製糸工業

    この丸子町は諏訪、岡谷とともに、製糸工

    業で栄えた町です。

  • 昭和の初めには工場数二十二、従業員一千名

    を数える県下第二の製糸の町に発展しました。

    せんい

    今日では、電気機械を中心に、食料口中と繊維

    られます。

    生糸が、この丸子を通って信越線の大屋駅へ

    運ばれて行きました。(中央線の開通以前)

    左の道を十三キロメートルほどまいります

    くっしよ

    と、別所温泉です。

    けいとうてんのうみこ

    別所温泉の歴史は古く、景行天皇の皇子・

    や富と#るのみこと償ばつ

    日本武尊が東国征伐の折、入浴されたと伝え

    工業の町として発展しております。

    迷別所温泉への分岐点(長瀬丁字路)

    これを見た丸子町でも、明治三十二年(一

    どくじ

    八九九)に下村亀一一一郎氏が独自で工場を建て、

    した時代に、中仙道の和田峠を越えて沢山の

    」一疎こいと

    諏訪や岡谷が日本の生糸の一二分の一一を生産

    54

  • 師堂、そして、木造神将立像などの重要文化

    ぜんざんじ

    財が多く、ことに、前山寺の一二重塔は、未完

    わよう

    の完成塔として知られ、鎌倉時代末期の和様

    からようせつちゅう

    唐様折衷の調和美が見る人の心をとらえます。

    ぺつしよ

    温泉と史跡の町別所は、信州の鎌倉とよぱ

    寺の八角三重塔を始め、常楽寺の石造多宝塔一5

    きたむきやくしによらい

    や北向観音、さらに、中禅寺の薬師如来と薬一

    と古歌にも見られる古い温泉です。

    べっしよ

    別所は温泉もさることながら、鎌倉時代の

    ゆいいつ

    史跡に一邑承、我ヨでま佳一レーヘう⑩5、美鴬

    .’:1.I’一‐I』久1ノ〃一’一、ラ

    湯とよばれ、

    や富い

    世の人の恋の病のくすりとや

    』一》“一』一壷如一心クユ込口。』叩》一

    塩田平の西南隅にあって、別名を七苦離の

    七久離の湯の湧きかえるらむ

    れ、訪れる人の絶えることがございません。

    撫一依田城跡

  • か六ヶ月足らずのことですが、この城で軍馬

    げんじさいこう

    を整へ、源氏再興のために都へ兵を進めて行

    城でした。

    じしよう

    治承四年(一一八○)の九月、一一十七才の

    きそよしなか

    木曽義仲は木雷白谷で兵をあげ、平家追討に立

    かさはら

    ち上りました。そして一千の兵を集め、笠原

    よりなおやぶ

    頼直を木曽谷に敗って上州へ兵を進めたので

    した。

    えんこ

    義仲は亡き父の縁故を頼って軍勢を集める

    山には依田城跡がございますO

    鎌倉時代に源氏の流れを汲む依田二郎の居

    よだ

    この丸子町を流れる依田川のほし」り、金鳳

    56

    目的でしたが、思うように行かず十二月二十

    四日に信州へ引きかえし、依田二郎の迎えに

    応じて丸子の依田城に入りました。

    木曽義仲が、この依田城にあったのはわず

  • 今溌b-

    ヨ心霊ズ」〆」ろヘノと《エリへ泥、

    一‐,、局‘軍‐’》画八

    ったのでございます。

    けいこく

    依田川の渓谷に囲まれた依田城は、小さい

    かたやまじるとんにちじようかく

    ながら守るに堅い山城で、今日残る城郭やか

    おうじ

    ら堀に往時の姿がしのばれます。

    石尊の辻跡

    左手の「石尊の辻跡」と書かれた白い塔が

    でワ一つ・フ十《月司・▽〈1〃、

    』ダレ・』1..06.ト〃Ⅱ信にし頂隅飼‐16つ

    三一↓コヨコュらユU

    E-FF屋にトユメ釦

    -57-

    エ門の修業したかくれ土俵のあった所でござ

    います。

    謙一大屋橋

    程なくして千曲川にかけられた、大屋橋を

    渡ります。

  • 温泉地として知られるようになったのも極

    わず

    く新らしく、明治の中頃までは商人宿が僅か

    昭和になって、観光資源の開発が行われ、

    たて

    諏訪湖を始め、霧ヶ峰、夢の海などがクロー

    ズアップされました。

    これにともなって、温泉旅館もでき、現在

    十五軒ほど立ち並んだ淋しい町でした。

    いと

    いわば、街道筋にそった「憩い」の地であ

    鵜一諏訪市について

    長野県には、県庁の所在地の長野市を始め、

    松本市、上田市などの大きな市があります。

    士士八hリ士士’一号」○

    ・11、‐、や.』

    この諏訪市も、古くから開けた文化と、豊

    いでゆ

    かな出湯と、美しい諏訪湖や霧ヶ峰高原など

    おんけい

    自然の恩恵に浴した、景勝の町として栄えて

    ったに過ぎなかったのでした。

    61

  • りました。

    すわたいしや

    業一諏訪大社!

    ;…

    諏訪市の象徴は、諏訪大社でございます。

    たけJ〃たかたのみこときさき

    諏訪大社の御祭神は、建御名方命と、お妃

    やさかとめのみこと

    の八坂刀売〈叩の御二柱がお祭りされておりま-26

    す。

    創建は、遠く神代と伝えられ、信濃国一の

    宮として、広く尊敬されております。

    御神体は軍神ともいわれますが、農業の神、

    開拓の神様でもございます。

    この大社のお祭りは、大変に有名で、昔か

    おんぱしら

    ら「人を見たければ諏訪の御柱へ」といわれ

    おんぱしらまつり

    るほど、盛大な御柱祭があります。

    まり、東洋のスイスとさえいわれるようにな

    では大小九十軒におよんでおります。

    けんびきょう

    その他、時計、顕微鏡などの精密工場が集

    F一

  • けを新しく建て直すことになったのでした。

    おんばしら

    御柱は、四本とも長さが違い、五月初め、

    かみしやしもしやひぎしき

    上社、下社の両社に曳きたてる儀式が行なわ

    なわれます。

    れます。

    そる

    このお祭りは、大人も子供も、お揃いのく

    きや

    ツピで、木遣りの声もいさましく、盛大に行

    日本三柱と呼ばれています。

    ゆらい

    御柱祭りが行われるようになりました由来

    かんむてんのう

    は、桓武天皇の、諏訪神社を七年目ごとに新

    みことのり

    しく造るようにとの勅命りが下ったことから

    しかし、それは、事実上大変なことでした

    りやくしきよすみ

    ので、七年目ごとに略式として、四隅の柱だ

    でした。

    63

    いせ

    七年に一度行われますこの御柱祭は、伊勢

    とうたいじんぐう

    皇太神宮の心柱し」、出雲大社の大黒柱と共に

  • 有数の温泉郷に数えられるようになりました。

    とはんほうふわ

    温泉は、湖畔の至るところから豊富に湧き

    だたんじゆんいおうせんいちようびよう

    出し、泉質は単純硫黄泉で、胃腸病、リュウ

    おりました。

    どう

    只今では、温泉郷として熱海温泉や、九州

    のぼりくつ

    の別府、北海道の登別温泉などと共に、我国

    中心地となっております。

    しゆくえき

    昔は甲州街道の宿駅で、諏訪一二万石の城下

    さか

    町として栄えておりました。

    間もなく上諏訪温泉です。

    上諏訪は、この地方の交通、文化、産業の

    もとみや

    なお、諏訪大社は上諏訪に本宮し」前宮の一一

    叉、製糸業の盛んなことでもよく知られて

    64

    つがあり、下諏訪に春宮と秋宮の二つがあり、

    やしろ

    合わせて四つのお社がございます。

    鎧型諦謝戯就

  • マチなどに効き目があるといわれております。

    撚一霧ヶ峰入口

    右手の道を、十一キロほどまいりますと、

    スキー場で有名な霧ヶ峰高原です。

    -◇-

    左手は、上諏訪駅です。

    夏はポート遊びや、つり、冬はスケートに

    そな

    最も良い条件を備えているため、ここを訪れ

    ります。

    より三五メートルも高くなっております。

    る人が大変多いようです。

    周囲はおよそ十八キロ、深さは七メートレノ

    ぼん

    ほどありますが、盆のように丸い形をしてお

    65

    膳一雨肌十〃胡

    型宕一二二口一一二に、Y1

    ひら

    左の方に、美しく展けてまいりました諏訪

    かいばつあしと

    湖は、海抜七五九メートルで、箱根の芦ノ湖

  • そのため、冬でもここだけは氷が張らない

    ようです。

    参考

    てんねんげんしよう

    諏訪湖には、天然現象としてめずらしい、

    セツ釜とは、湖水の中心部数ヶ所から八十

    ふんしゆつ

    度以上の熱い湯が噴出しているところで、そ

    すうまんごく

    の皇塁は、一日に数万石もあるといわれます。

    すあたりが、有名なセツ釜です。

    湖の底からは天然ガスが発生しておりまし

    ねんりょうとうか

    て、以前は、燃料や灯火用として家庭で使わ

    66

    れておりました。

    只今では、この天然ガスを土地のガス会社

    が一手に買いうけて配給しております。

    が食

    撚一七シ釜

    このあたりを、諏訪市大和と申します。

    うめたてち

    埋立地に、赤い屋根の小屋がみえておりま