sys.amsstudio.jp -...
TRANSCRIPT
-
甲信見どころ(下)
諏訪。松本・上高地・天竜峡
-
5
,ント………:。……:.……4
コースポイ山
2
松本~上高地
下諏訪~松本…………………………団
下諏訪~和田峠~大屋
塩尻~天竜一舷
Ⅱ
115189 7
-
下諏訪~和田峠~大屋
/〆
-
お二人の神様をかたどった翁、おうなの二体
を安置し、大勢の氏子達がハッピ姿で掛声も
いさましく、ひき歩くそうです。その壮観を
一目見ようと近郷近在から、沢山の見物人が
集まり、さしもの大通りも、この日一日は通
行止になってしまいます。
鎧下諏訪温泉
両側に温泉旅館のカソ尋ハソが見えておりま
すが、中仙道の宿場の面影が残っており、当
鎧秋宮
前方に秋宮が見えております。八月一日の
あおしばふね
~卜・賃、.。・・、I・’ji・;!;:.,
主尭劣りに届祈伏α面影を伝雲えた青柴舟に、
7
鑑旧中仙道
只今通っておりますこの道路は、旧中仙道
只今の国道一四二号線で、和田峠から長門を
へて丸子町に通じます。
-
時の頃がしのばれます。
こちらの温泉は徳川時代から多くの旅人に
知られ、和田峠越しに東信へ抜ける旅人のつ
かれをいやす場として親しまれておりました。
現在の湯出口は一五で一日約二千トンが湧
き出し、旅館は三十四軒、公衆浴場が九ヶ所
あります。
雑一新道と旧道の分れ道
8
一」れより尋ハスは左手に折れて新道を通って一
参ります。まっすぐのせまい道は両側に装い
も新にした温泉旅館の立ち並んだ旧道です。
鎧春宮
左の奥に諏訪大社の春宮の森がのぞまれま
す。諏訪大社には四シのお社があり、諏訪市
に本宮と前宮、この下諏訪町には、春宮と秋
宮がございます。
-
大昔はそれぞれに別の神社であったと伝え
られますが、小さな集落が一つひとつ合併す
るようになり、やがて大きな集落となって、
行われ、八月には春宮から秋宮に移るお舟祭
れぞタテミナヵタのミコトのお妃にあたりま
す。
なお、御祭神のヤサカトメのミコトは、春
られております。八坂刀売命は、本宮に祁ら
神社の祭神も同じになったといわれます。
りが賑やかに行われます。
兼一諏訪大社の伝説
昔むかしのこと、諏訪湖のほとりの守屋山
は春宮に、秋は秋宮におすまいになり、毎年
二月には秋宮から春宮に移られる御遷座祭が
に御夫婦の神様が住んでいらっしゃいまし
こちらの春宮と秋宮には、八坂刀売命が祁
9
-
10
たO
男神様はタテミナカタのミコトといい、女
神様をヤサヵトメのミコトと申しました。大
変仲の良い二神様だったのですが、永い年月
の間には種々なことがありまして、ある時、
男神様のタテミナカタのミコトはよその女神
様と浮気をなさいました。
このことが(してしまい、遂に御夫婦が別
居することになりました。
妃のヤサカトメのミコトは大粒の涙を流し
ながら、諏訪湖の向う側に住まいを移してし
まったのです。こうして両神様は別々にお住
いになり、一年に一度だけお逢いになるので
す。
それは、諏訪湖に氷のはる寒い時期のこと
で、男神様は諏訪湖の氷の道を歩いて妃のャ
-
諏訪大社の昔話しでございました。
米一花見新道
桜の並木の多いこの辺りからこの先の慈雲
寺にかけては、花見新道といいます。
花見新道は慈雲寺の上にあり、展望の良い
寺凸
水引園と共に、諏訪地方随一の桜の名所で、
花見時の四月中旬は、花のトンネルが続き、
夜はボンポリもついて実に見事です。
恭一慈雲寺
す○
サヵトメのミコトに逢いに行かれます。
諏訪湖に見られる氷の道はタテミナヵタの
ミコトの恋の通い路だと伝えられ、結氷する
現象を「御神渡り」とよんでおります。
なお、下諏訪温泉は、妃のヤサヵトメのミ
コトの涙が落ちてお湯が湧いたと伝えられま
11
q
-
来る展望のよい所です。
園内には地元俳人の句碑を始め、芭蕉や蕪
村、子規等の句碑も見られます。
水月公園の句碑は
しばらくは花の上なる月夜かな
芭蕉
水月園は、全山桜と松林におおわれ、諏訪トー
湖を中心にした、諏訪盆地の全景が眺められ、一
など
遠くに富士山、八ヶ岳の連峰等を望む事が出
右に見えるお寺は、臨済宗妙心寺派の慈雲
寺です。安正二年(一三○○)元から日本に
帰化した一寧一山国師が開いたといわれる古
いお寺で、御本尊は千手観音菩薩です。
兼一水月園
慈雲寺より一一○○メートル程小道を登りま
すと、桜の名所水月園があります。
-
だな
信濃路や宿借る家の蚕棚
うずのと
不一一ひ、とつ埋み残して若葉かな蕪
村子規
撚一注連掛
このあたりは注連掛です。諏訪神社御柱祭
の際、この奥の山から反り出した柘柱を、こ
の辺りまで山出しをし、後は里びきとなりまトー
すので、声」声」で一度御柱を安置し、お注連を一
かけますので、この名がつけられております。
なお、下社の御柱は霧ヶ峰から切り出され
ます。
燕一宮の湯
左手の建物は宮の湯鉱泉です。その昔今は
亡き、秩父の宮殿下が、下諏訪御来遊の折、
御休憩なされたところでございます。
-
撚一砥川
左の中仙道にそって流れている川は、砥川
です。和田峠に源を発し、中仙道にそって流
れ、下諏訪町で諏訪湖にそそいでおります。
この川にはヤマメ、アユ等の魚が沢山おり、
大公望にはおなじみの川です。
撚一落合発電所
程なく渡ります川は、東俣川といいますが、トー
上流一一○○メートル程の所に、明治一一一十一一一年一
十二月発電開始という、長野県で最も古い落
合発電所があります。最大出力は二○○キロ
ワットという小さな発電所です。
繋一落合(萩倉薬師)
右の道をおよそ一キロ程行きますと、萩倉
という部落があり、そこには信濃三薬師の一
つ萩倉薬師があります。
-
萩倉薬師は、昔行基菩薩が萩の木で彫った
というお堂で、一名医王渡堂ともいわれます。
萩倉からは霧ヶ峰高原の、ツンドラ地帯と
いわれる、天然記念物七島・八島高層湿原地
帯、(八島高原ともいう)や、一七八九メー
トルの鷲ガ峰へ登れます。海抜一六六○メー
0〆、〃夕L、ざ〃rTJrI、P、、
’八〃v,一”ノ匡雲崖一F医腸》に
少1つ』画『■一■ワ心一●。●一B■ワop
L『.一一●F(、刀一一一.』一.一一八〈/[月舎に、●一正睡疋害醒りこ
メシヤクナゲ、ツルコケモモ、ミヤマキソポー51
ウゲ、タヵネイ簿ハラ等一一一八種類の高山植物一
が咲き乱れ、奥日光の尾瀬沼と並び称されて
おります。
なお、諏訪神社のお柱は萩倉の奥、蝶ヶ沢
の辺から切り出されるそうです。
撚一中仙道について
只今車は旧中山道にそって進んでおります。
この先には旧中山道時代からの和田峠が残
-
醇
らは、一時交通量がへりました。
その後明治三十七年には、現在の道が開か
れ、昭和七年十一月に峠の頂上にトンネルが
出来ましてからは、冬期間の交通も楽になり
ました。
それから甲州街道、諏訪方面から丸子、上
11田
をへて、群馬県に抜ける自動車道路として、
がはげしく、利用価値も高かったのです。し一61
かし、明治一一一十六年中央線が開通しましてか一
り中山道の難所の一つだったといわれます。
中仙道は始め岐蘇路といわれ、今からおよ
そ一二九○年前の「大宝二年」に開発されま
したが、その後一六四三年の寛永二○年、徳
川三代将軍家光公が諸大名に、参勤交代制度
を定めまして以来、大名行列の往来をはじめ、
江戸と京都を結ぶ{表街道として、人馬の交通
一
-
兼昏一一
利用価値も高まったのですが年之増加する車
の通行をスムーズにするために、新しくトソ
ネルが造られました。
鷲ヶ峰(一七九八メートル)
わし,,
前方に鷲ヶ峰が見えております。和田峠の
頂上は鷲ヶ峰の左側です。
0-兼
一樋橋茶屋本陣跡
右の碑は樋橋茶屋本陣跡です。71
茶屋本陣とは、大名が宿泊をせずに休憩す一
るだけの立場茶屋のことで、中山道の昔は、
下諏訪から和田峠をへて、この先の和田宿の
間が二十一キロメートルもあり、大変困難な
道中でした。そのため、途中三ヶ所に立場茶
屋を置いて通行する人々の便宜を計ったので
したO
撚一樋橋
-
こちらの橋は樋橋です。
程なくして橋を渡りますが、橋を渡りまし
た左側に、水戸浪士の浪人塚が見えて参りま
す。
鎧水戸浪士の浪人塚
左の石碑は、水戸浪士を葬った浪人塚です。
今から一二五年程前のこと、元治元年(一
八六四)十一月のこと、武田耕雲斉の率いる一81
水戸の天狗党一千人余りが、和田峠付近で諏一
訪、松本両藩の連合軍と戦い、多くの戦死者
を出しました。この時亡くなった天狗党の人
盈を葬ったのが浪人塚です。
今から百二十年も前のこと、世は幕末の頃、
世の中は政治を天皇にお返しして新しい時代
を迎えようとしておりました。しかし、これ
をおさえようとする徳川幕府との間に争いが
-
各地でくり返されたのでした。
その頃、水戸の尊皇派であった藤田小四郎
は、水戸家の家老・武田耕雲斉とともに、天
狗党を結成し、京都の天皇にその心情を訴え
ようと京都に向ったのでした。
京都に向う途中、群馬県の下仁田で高崎藩
と翰一.てこれを敗り.更に兵を進めてこの和
田峠にさしかかりました。
9
声」の和田峠には、幕府の命を受けた松本、乱
諏訪両藩の連合軍が待ちうけ、両軍激しい戦
いがくりひろげられました。
しかし、ここでも天狗党の勝利に終り、松
本、諏訪両藩は兵を引き上げております。
しかし、天狗党も百名に近い負傷者を出し、
さらに二十名余りの党員が戦死しました。
こうして天狗党は中山道を京都に向ったの
-
寒さの中で遂に力つき、越前(福井県)の敦
が賀で加賀藩を通じて降伏したのでした。
捕えられた党員のうち、武田耕雲斉を始め
〃ざい
とする主謀者達、一二百五十名余りは斬罪の刑
に処せられ、更に二百五十余名は島流しに、
ですが、戦のくり返しと旅の疲労、更に冬の
残る一一百三十余名が水戸に護送されました。
三百五十名にものぼる人々が首をハネられ卜2
ると一一一戸う悲惨な出来ごとは、明治維新を迎え一
ること、わずか四年前のことでございます。
新しい明治の御代を夢見ながら、その夜明
けを待たずに逝った多くの犠牲者の霊は、そ
の後、気比の松原をのぞむ地(福井県敦賀市)
に手厚く葬られました。
幕末の悲惨な歴史のひとこまがしのばれま
す。
-
堂香炉岩(大砲岩)
左手の断崖につき出た大きな岩は香炉岩で、
水戸浪士と諏訪松本連合軍との合戦の時、
水戸浪士軍は、この岩の上に大砲をすえて、
連合軍を射撃したといわれ、一名大砲岩とも
呼んでおります。
号一・・..1..1
諜一崎征記
だんだん峠も近ずいたようですから、峠にト2
まつわる昔のおはなしを御紹介しましょう。|
古い書物に、和田峠のことが一番最初に登
場しますのは、慶長五年(一六○○)九月、
豊臣軍と徳川家康が戦いました関ヶ原の天下
分け目の合戦の時、徳川秀忠の家来、榊原康
政が、一千騎の大軍を率いて峠を越え、関ヶ
原の合戦にかけつけたという記事が、関ヶ原
紀要という書物に書かれております。
-
=
一二
一
里
一 L二
F
卿と武士の合体論の犠牲者となられた、皇女
和宮様が、徳川十四代将軍家茂公のもとへ、
御降嫁なさる際の、お輿入道中でございます。
和宮様御一行が峠を越えられましたのは、
一八六一年の文久元年十一月六日、道には砂
利を敷き、道中奉行の警戒はきびしく、諏訪
も旧道には接待と言う地名が残っております。-2
1,2
和田峠を越えたお話の中で、最も豪華版と一
それ以来商人、旅人そして参勤交代の大名
行列の往来がさかんでした。
この峠は下諏訪と和田宿の間が大変長く、
二一キロもあった為、旅人は大変なんぎでし
た。そのため、冬は旅人におかゆを、馬には
マグサを与える場所が設けられて、これを、
|永代人馬施行小屋」とよびました。今日で
して、今尚語り伝えられておりますのは、公
-
23
藩では人足や馬数万をくり出し、荷物の運搬
に当り、峠の名所香炉の岩には落石を防止す
る為にシメナワをめぐらした程で、大納言、
中納言、殿上人や京都、江戸側の役人、それ
に物を運搬する雲助まで動員してその数三万
人もの行列になり、宿屋は旅人をしめだし、
.Ⅱ今引一tう:;一i、・・・1。…I
ql理工に13》てL茅α大行列となこて峠を
越えたと伝えられております。
繋一西餅屋
この辺り西餅屋です。
一寸変った地名ですが、街道の昔は立場茶
屋があり、お餅やおだんごが売られておりま
したので、そのまま地名になったようです。
徳川時代には下諏訪からこの先の和田宿ま
での道のりが二十一キロもあり、その上、和
田峠という難所もあって旅人の苦労は大変な
ものでした。
-
く、量も多く出たようです。
とくようせき
黒耀石はガラスのような光沢を持ち、色は
そのため、下諏訪と和田宿の間に立場茶屋
を置き、先程の樋橋とこの西餅屋、そして和
田峠を越えた東餅屋の他合計六ヶ所で旅人の
便宜を計りました。
鵜一鷲ケ峰(一七九八)
右手に見える山は鷲ヶ峰です。
鷲ヶ峰は展望の良い山で八ヶ岳連峰、南北
アルプス、富士山、浅間山等の沢山の山が望一42
めます。叉、鷲ヶ峰の東南の麓には、鷲ヶ峰一
高原の、七島八島の高層湿原地帯があります。
兼一黒耀石
とくようせき
この和田峠の付近は、黒耀石のとれる所と
して有名です。日本では、各地で黒耀石がと
れたのですが、この霧ヶ峰付近の石は質も良
-
この黒耀石を求めて遠く関西や関東から人
とうえき
々が集まり、霧ヶ峰が交易の場として栄えた
りつしよう
季か立一証されておりますc
さいくつ
今日では用途も少ない為、ほとんど採掘さ
黒く、割り口がするどい為、先土器時代の人
ひつじゆひん
々の生活必需口中でした。
もち
当時の人々は、一」の黒耀石を矢じりに用い
たり、ナイフとして使ったりしたようです。
-25-
れておりません。
鎌一新和田トンネル
これより新和田トンネルに入ります。
トンネルの手前、左の細い道が昔の国道・
一四二号線で、カーブの多い峠の道でした。
参考
正式名称・新和田トンネル有料道路
-
.-ハメ
延消火器。
非常警報装置・押ボタン式
非常電話・十
一道路部分・アスファルトコンクリ
舗装{
一トンネル部分・セメントコンクリ
道路幅員
防災設備・非常駐車場。
一・基本照明一
照明設備{}ナトリュウム灯
一・緩和照明}
設計速度・時速五○キロメ
工
(このうち
長・四・八キロメートレノ
期・昭和四十九年九月~
事業費・七一一億円一合計事業費八
十億円
関連公共事業費。八億円一
本入消火器を五○メ
トンネル部分
基。
トレノ 昭
和五十四年三月
○○メートル間隔
ヶ所 ト
ノレ
、
九
トル間隔で
メ
トル)
トト
ー26-
-
遅れておりました。
しゆ
そのため、昭和四十六年から県内の東西主
三十八基
貯水槽・八ヶ所
消火水槽・一ヶ所・貯水量。四○トン
和田側杭口附近
排煙ファン・六基
換気設備・ジェットファン・六基
透方監祈詔備・管理事務所内にあり、通行車
両台数やトンネル内の風向、煤煙濃度、-
72
トンネル外の霧濃度、無線設備など管一
理事務所内で行う。
鎧新和田トンネル設置について
この長野県は、南北に細長く、封舞識雛騨遅
路はほとんど整備されておりますが、東西を
結ぶ(横断する道路)主要幹線道路の整備が
-
公社」を設立して、国と県と民間と三団体か
どうにゆう
ら資金を導入して工事にかかりました。
要幹線道路の整備に力を入れ、「長野県道路
県内を東西に結ぶ主要幹線(横断道路)は、
この新和田トンネル有料道路の他に、三才山
トンネル有料道路があります。
この二本の横断主要幹線の完成によって、
県内の東北信地方と中南信地方の連絡がスムー82
‐ズになり、長野県全土の一体化に大いに役一
立っております。
そして更には、中京、関東方面の動脈とし
て、長野県の経済、産業、観光、文化の発展
に役立つことを期待される道路でもあります。
米一和田峠の今昔I
今日では、一一キロメートル足らずのトンネ
ルによって通過出来る和田峠ですが、昔の和
-
お助け小屋が諏訪側に造られたり、和田側に
は三メートルもの雪が旅人の往来をはばみ、
にんぶ
当時欲諏訪蕃と上H害ドフ、僧.《一J4言・善一訓菖
…ii、、1’一’一、yZiノラぞLL17国一一『4
田峠は文字通りの命がけの道でした。
徳川時代に五街道が整備され、中山道が江
戸と京都を結ぶ幹線道路として利用されたの
ですが、中山道のなかで一番高い所がこの和
田峠でした。標高一五○○メートルの峠の冬
一キロメートルという長い距離で、峠の高さ
しゆくばおうらいなんぎ
に加雲えて宿場の少なかった事が往来の難儀を
みをしたり、牛馬の荷物を運ばせたりしたの
でした。
じゆく
その上、下諏訪宿と和田宿のあいだが一一十
一層きびしいものにしていたようです。
29
古い記録によりますと、ひと冬に十人近い
そうなんしや
遭難者を出した年もあり、これを救うための
-
与え休ませました。この小屋の置かれた所は
せったい
「接待」という地名でよばれ、今日も地名だ
えいだいじんばせぎようとや
は「永代人馬施行小屋」が設けられた、ソして、
冬の間は旅人にはおかゆを、馬にはマグサを
をきわめ、下諏訪宿と和田宿の間に置かれた
六ヶ所の立場茶屋が、多くの人々の命を救っ
けが残っております。
とん方ん
峠の冬もさることながら、夏の暑さも困難
ら少し東に寄った所に新しい道が造られ、更
に明治二十九年に旧和田トンネルの国道が整
備されたのでした。
が残り、街道の昔をしのばせます。
みちすじ
和田峠の道は、明治九年に中山道の道筋か
30
ております。六ヶ所の立場茶屋とは、下諏訪
》とよはしにしもちやせったい
側から、落合、樋橋、西餅屋、東餅屋、接待、
からさわもう
唐沢に設けられたもので、今日では地名だけ
-
越えて信越線で横浜へ送られて行ったのでし
た。明治三十八年、中央本線の開通は和田峠
さび
の往来を淋しいものにしましたが、県内を東
はた
西に結ぶ主要街道として重要な役割を果しま
ひき
した。所和ヨトンネレワヒこま、藍』ユコニ仏乱一
.〃く-11一ラーーーュド:、くと
明治の道は、長野県東部や群馬県からのマ
きいと
1を諏訪方面に運び、諏訪の生糸は再び峠を
もの思いを残した三筋の峠道が残り、その一一13
部は信濃自然歩道として再びよみがえってお一
ります。
兼一蹄派獄
只今通って参りました和田峠の頂上は、塩
尻峠と同じように、分水嶺になっております。
とがわ
峠の頂上に降ります雪や雨は、南は砥川、
よだちくまがわ
北は和田川、依田川となり、千曲川へと流れ
ちい
ております。叉、峠は諏訪郡下諏訪町と、小
-
二キロ程参りますと、男女倉という部落に参
ります。叉、男女倉からは、霧ヶ峰高原へ行
く、男女倉越という道があります。
こちらの部落は、観音沢です。
兼一唐沢
只今通っております部落は、和田村の唐沢
と申します。ごらんのように古びた家が並ん
ルです。
繋一評如創則お
めぐらぐら
こち繰りは男女倉口と申します。右手の道を
-32-
さがた
県郡和田村L」の境になっております。
粥一難維雌
右手に蓉科山が見えております。
撚一大出山
右手前方に見えております、頭のかけた様
な山は大出山と申し、高さは一五九三メート
-
場茶屋が置かれ、旅人で賑わった所です。
とびら
兼一扉峠への分岐点
ひょうしき
左手に「美ヶ原高原登山口」という標識が
屋根を少し高くして風を入れております。
しゆう
一般に朝鮮人参とよばれるこの植物は、収
かく
ねだん
獲までに五年から六年もかかり、値段も大変
建っておりますが、左手の道を登りますと、
ちやうすやま
一六六一一メートルの扉峠を越え、茶臼山を経
に高い人参です。
れんさく
全日は一度収獲すると連作が出来ず、五十年
て華天ケ京一司京、主へイレ史ナ0
..…1J・’-1》、‐TIJ4雪‐く}
でおりますが、中仙道の昔は和田峠越えの立
-33-
鎧薬用人参
ちようせんにんじん
ところどころに、わらで囲った朝鮮人参の
ちよくしやにつこう
畑が目につきます。薬用人参は直射日光や雨
かと
をきらう為、各畝蓉」とにわらで囲い、北側の
-
穫高は長野県が第一位です。日本の収穫高の
七○・ハーセソトが長野県で、福島県の会津地
方が二○・ハーセント、島根県が一○・ハーセソ
ぐらいは同じ所で作ることが出来ませんでし
ソト位です。
さいばい
朝鮮人参の栽培は、種を直接畑にまく方法
なえどこ
と、苗床で育ててから移植する方法し』があり
たが、今日では良い消毒薬が出来まして(ド
しゆうかくど
ロクドールという消毒薬)収穫後、クスリを
卜の割合となっております。
ちようせんにんじん
日本で栽培される朝鮮人参の七○パーセン
ぼんとん
卜は香港に出荷され、国内消費は一二○・ハーセ
34
まいて一年間たてば作れるようになりました。
ちようせんにんじんさいばいち
日本の朝鮮人参の栽培地は、』」の長野県の
らハさが乞
東信地方(小県・佐久地方)のほか、福島県
あいづ
の会津地方、そして、島根県などですが、収
-
種がとれますが、人参を育てるのが主な目的つ
ですので、そのほとんどは花を咲かせずに摘
ます。花は五月下旬頃から咲き七月下旬には
みとってしまいます。(これを芯どめという)
しゆうかく
こうして人参を育てますが、収穫は五年か
-35-
ら六年後になります。そのため、お値段も張
るDです策、平句ひろ宣受ま、亘蚤』、ご/吟
‐..、,:。く・露111if一ノ》、、二・
メートル、長さ一五センチメートル位で八千
円ほどです。
つい最近(六二年七月)、韓国の五台山山
中で野生の人参が発見されましたが、その値
段がなんと、五億ウオン、日本円にして一億
円もするそうです。
その人参の重さは三七・六グラムという、
百グラムに満たないのですが、六○○年をへ
た人参でした。
-
き
野生の人参は、栽培物の十倍も効くという
いろいろ
ことです。人参は人参で津b、種々とあるもの
の宿場として栄えたところで、最盛期には、
はたごや
一五○~一六○の旅篭屋が並んでおりました。
36
ですね。
鵜一和田発電所
右手に見えております発電所は、和田発電
所です。
最大出力一五八○キロワットを発電してお
ります。
鵜一和田村大出
只今通っている部落は、和田村の大出です。
この辺りからおよそ二キロ先の和田村の中
心、上和田まで家並が続いております。
撫一和田宿の歴史
和田は、和田峠をはさんだ下諏訪宿の反対
-
わぬ所から指しのべられました。と申します
いえもち
のは、文久元年皇女和宮様が、徳川家茂公に
ごこうか
御降嫁のため、中仙道をお通りになり、和田
文久元年の一一一月三日、宿場の一角から火が
出て、あとかたもなく焼けてしまい、再建不
可能とまでいわれましたが、救いの手は、思
-37-
宿にお泊りになるとハう印らせでし上。
そこで幕府は、早速再建の準備にとりかか
り、建築用材を払い下げると共に、全国から
大工さんや、左官を集め、焼跡を整理し、た
ちまち復興させ、十一月六日には無事、和宮
様御一行をお泊めすることが出来たのだそう
です。
現在は美ヶ原高原への登山口となっており
ます。
兼一上和田
-
しい宿屋の代名詞になっておりますが、昔は
べ物をお湯にひたして食べましたが、その時
きちん
お湯をわかします薪代、木賃をはらいました
問屋、
昔の宿場の中心は、この先の和田上町で、和
と、お湯をわかしてもらい、焼き米などの食
ので、木賃宿と呼ばれたのです。
旅に出る時には、食物は申すまでもなく、薬、
あかりの道具まで持って歩き、宿に着きます
りになられた歴史的な所でございます。く
げ
全日の宿場は本陣を中心に、大名や公卿のお
つきの者が泊る脇本陣、馬や人の世話をする
ておりました。
8
きちんやど3
木賃宿と申しますと、只今では、みすぼら一
″
田上町には本陣跡・もあり、皇女和宮様・》もお泊
l
こちらは、和田村の行政の中心上和田です。
■■■Eq‐
般の旅人を一泊める旅篭等から形成し
-
粥一水沢発電所
右手和田川の向うに見えます発電所は、水
沢発電所と申し、大正十一年に出来た発電所
です。
出力八九○キロワットです。
繋一下和田
この辺りは、上和丑と計して下訂日し一泊〆
尋;、。ニノ-くf‐
ます。
蓋青原
39
右手和田川のそばに見えております発電所
は青原発電所です。この発電所は、大正十四
年に発電開始、最大出力一六○○キロワット
でございます。
恭一中山公園
右手のつき出た小高い岩山は、つつじの名
所中山公園です。
-
右手の道は、海抜
今燕 諜号潔号 兼一和田川
落合と申します。
峠を越え、白樺湖を通り、茅野市で甲州街道
和田川とは下流で合流し、依田川と名前が変
ります。
●◆口
別れ、長門町の落合に入ります。
長門町は、昭和
に合流する大門街道です。
塞感恥町
落合
04
この辺は川が落合う所から、部落の名前も一
大門街道
渡る川は、大門峠に源を発する大門川です。
大
門
和田川を渡りますと、いよいよ和田村とも
町
十
四四年
九月三十日、長久
メ
トルの大門
-
中仙道と諏訪街道の分岐点に位し、中仙道を
ねり歩いた大名庁別や、洞Ⅷぢ訂ぬうに3ヒド
…;:I,/房rZ:1-ノド山
を通り、善光寺へお詣りに行く人々で賑わっ
た宿場です。天保五年の古い本には、三十五
軒の旅篭屋に七十人の飯盛女がいたと記され
じんく
ており、長久保甚句にも
いつき
長久保よいとこ何時来てみても
しやみたいと
一二味や太鼓の音がする
とうたわれ、仲々にぎやかな宿場だったよ
うです。
長久保は町村合併以前は、長久保新町とい
保新町、長窪古町、大門村の二町一力村が合
併し、それぞれの頭文字をとって、長門町と
名付けた町で、人口はおよそ七千人です。
長久保な
がくぼ
町の中心長久保は、中仙道の宿場の一つで、
41
弓鶏・-
-
街道造りの家が並んでおりますね。二階から
とくちよう
上が、特に道路側につき出た特徴があります。
のきば
これは道巾がせまいため、馬や荷物を軒端に
おうらいじゃ左
置いても往来の邪魔にならないように、叉、
雨が降ってもぬれないように造られたもので
われ、戸数僅か二五○戸という、県内で最も
小さな町で、町会議員さんの数も八名という
少人数だったようです。
ちょっと両側の家造りをご覧下さいませ。
42
す。
兼一中仙道と諏訪街道の分岐点
こちらで道は、中仙道と諏訪街道に分かれ
ております。昔の宿場は、この辺が中心地だ
ったようで、右手の道が旧中仙道の笠取峠か
ら芦田宿方面で、中仙道は、約二キロ先の海
抜八八六メートルの笠取峠を越え、北佐久郡
-
やはたしおなだいわむらたおだ
の芦田、望月、八幡、塩名田、四石村田、小田
い井、追分宿L」昔の宿場を通って、軽井沢へと
続いております。
なお、下諏訪から通ってまいりました国道
一四二号線は、こちらから右へ別れ、芦田、
茂田井、望月をへて佐久市の中込に通じます。
塞笠枚串
・・・一〃..11
へとべよとべとく笠取峠
34
とべば長久保近くなる
と長久保甚句にあります笠取峠は、中仙道
の旧跡地の一つになっております。
初めは雁取峠といわれましたが、峠を登り
切った旅人が、峠の茶屋でかぶった笠をとり、
名物の力餅を食べながら休みました所から、
笠取峠と呼ぶようになったそうです。
鎚笠取峠の松並木
-
今から一二九○年余り前の大宝二年(七○
ぎようきぼさつ
一一)に名僧・行基菩薩によって開かれ、その
おとろさい
後、一時は衰えましたが、天台宗の開祖・最
ち工う
澄によって再興されました。
台宗信濃五山の一つとして栄えました。
松の樹令は二百年から三百年ほどで、およ
みごと
そ一一キロメートルにわたって美事な並木を作
れる松並木が残っております。
かさとり
旧中仙道の笠取峠には、県の史跡に指定妾。
44
り、街道の昔をしのばせます。
く燈
ふもし一
なお、並木を下った峠の麓が、徳川時代の
あしだとんにちたてしな宮ち
芦田宿で、今日の立科町の中心にあたります。
蓋恵日山津金寺
きがんしよ
芦田宿には、小諸藩の祈願所にあてられた
つがねじ
津金寺がございます。
えにちさんしゆがくいんつがねじ
正しくは、恵日山修学院津金寺といい、天
-
となっております。
かんえい
くだって、徳川時代の寛永十七年(一六四
かんえいじしゅんかいに:ざんしようかんのん
○)に、上野寛永寺の舜海が入山し、聖観音
ぼさつぼんぞんあみだどうみようけん
菩薩を本尊として、観音堂、阿弥陀堂、妙見
どうにおうもん
堂、仁王門が再建されております。
しげの
境内には滋野氏一二代のお墓のほか、寺宝に
てんだいしんどん
その当時は、法相宗を始め、天台、真言、
そうとうしゆうだんぎ
曹洞宗の四一示派の談議所(学問所)として知
もなったお寺でした。
まつじ
戦国時代には、百八ヶ寺の末寺を持つ大本
さかきしん
山として栄え、武召言玄も寺頂一千戸。.ご与誰一
‐‐..・・.産1『一一一ノ』ノく冒膿、I
は、武田信玄の朱印状や徳川氏の朱印状、そ
しておりますが、天正十年(一五八二)に織
へいか
田信長の兵火にかかり、そのことごとくが灰
■
- 45-
られ、平安期から鎌倉時代にかけては、この
とうしんおさしげのしもちづきしきがんしよ
東信地方を治めた滋野氏や望月氏の祈願所に
-
りりゆうみんねはんぞう
して、李竜眠の画いた浬薬像などがあり、今
一一年(一二一一○年)四月八日に滋野氏が
こんりゆうきざ
建立したと刻まれております。
かるく
他の一基は、嘉禄一一一年(一一一一一七)十
滋野氏は奈良時代から東信地方に栄えた
うじぞくぼつかん
氏族で、牧場経営にたずさわった牧官で
が三基あります。
しやか
一二基のうちの一一基は、塔の正面に釈迦
たほぅぼんじあらわfう費?
と多宝の一一仏を党字で表してあり、承久
した。
つがねじ
津金寺には、滋野氏の勢力が最もさか
とんりゆうとう
んであった鎌倉時代初期に建立された塔
46
日では、佐久観音霊場めぐりの結願所として
多くの信仰を集めております。(結願所とは
三十三番目の霊場のこと)
註滋野氏の墳墓三基
-
只今走っております道は、諏訪街道です。
弓牒
長門町の古町、丸子町を通り大屋までおよそ
みちのり
一二十分の道程です。
依田川を渡りますと古町です。
古町は町村合併以前は長久保新町に対し、
長窪古町といわれ、新町同様小さいながらも
町制を施いておりました。
昔は芦田下野守の出城長久保佐衛門の居城
諏訪街道
恭一古町
しげのもりみちほつけきよう
ロロに建立され、中には滋野盛道が法華経
ぽだい
一二部経を写して納めてあり、父母の菩提
をとむらったと印されています。
ほうとう
鎌倉期の宝塔は各地に見られますが、
この滋野氏の宝塔は他とは異った大変珍
らしい宝塔です。
47
-
48
長久保城がありました。長久保城は武田信玄
の川中島遠征の際焼き払われてしまい、右手
の岩山に城跡だけが残っております。
なお、この古町から国道の二五四号線に入
ります。
鎌一立岩
右手をごらん下さい。依田川沿にそびえ立
った岩壁を立岩といい、およそ一○○メート
ルの長さです。岩の一部におよそ五メートル
の駒形が自然に現われておりみごとです。
この駒形は伝説によりますと、弘法大師が
こちらを通りました折、余りにも見事な岩壁
にみほれて足を止められ、自然の美しさを愛
されて杖で画いた跡だと伝えられます。
鎧美ケ原高原
左手に美ヶ原高原が見えております。
-
ご覧のように広々とした高原で、広さは二
○平方キロメートル、平均海抜二○○○メー
トル、一面つつじと数百種の高山植物が美し
く咲き乱れる高原です。
山本小屋の先代山本俊一翁が、大正十四年
の夏初めて美ヶ原高原に登り、日本アルプス
や富士山、八ケ岳連峰、夷笥山等、山岸一兆ゐ、
展望があまりにもすばらしいのに心をひかれ、-9
観光地として目をつけ、現在の山本小屋を建到
てられ、開発に着手されました。
昭和二十九年、高原の中央に建てられた美
しの塔には、山本翁の功績をたたえ、胸像が
はめられております。
たけし
繋一武石川
これから渡ります川は、美ヶ原高原から流
たけし
れてくる武石川です。このすぐ下流で、依田
-
鑑内村温泉郷
れいせんか
内村温泉郷は、霊泉寺温泉、大塩温泉、鹿
けゆ
そうしょう
教湯温泉など二一つの温泉の総称で、それぞれ
川と合流しております。た
けし
武石川を渡りますと武石村です。
道路をへて松本に通じます。
参考霊泉寺温泉
に泉質が異った温泉です。
いづれも東信地方の名湯として知られ、そ
二十分余りの道のりでございます。
みさや童
なお、内村温泉郷から一二才山トンネル有料
の歴史も古く、山合の静かな温泉郷です。
まると
別名を丸子温泉郷ともよばれ、声」ちらから
50
鑑内村温泉郷、松本方面
左に岐れる道は内村温泉郷をへて松本方面
を結びます。
-
が発見したと伝えられる。昔は霊泉寺の寺の
湯として病人の入浴のみ許されたのでした。い
厚生省の国民保養温泉に指定され、温泉医
綴臓謎も整い、泉質は扉獣節澱で、湯温四十一
度、高血圧に効く。
参考大塩温泉
内村川に面した山沿にひらけ、厚生省の国
民保養温泉。川中島合戦の折、武田信玄が兵
士の傷をなおしたと伝えられる。泉質は単純
泉で、湯温三十九度、高血圧や外傷に効き目
あり。
かけゆ
参考鹿教湯温泉
内村川の支流にあたる霊泉寺川に沿った温
わどう
泉で、和銅年間(七○八~七一五)に平維茂
-51-
内村温泉郷の中では一番大きく、その垂旦
もんじゆぼさつけしん
かりうど
文珠菩薩の化身である鹿が、信仰厚い猟人に
-
温泉のありかを教えたと伝えられる。昔から
高血圧に効く名湯で、リハビリテーションセ
ンターを始め、各種団体の医療施設が整って
おり、厚生省指定の国民休養センターに指定
される。温泉は単純泉で、湯温四十六度、飲
用も出来る。
けいりゆうぞいもみじ
なお、内村川の渓流沿いは、紅葉の名所で、
ととの
文珠堂や五台橋などの散策コースも整って、一
にぎ
25
春、秋の行楽には賑わうO
恭一丸子町
玄るこ:
ひがち2に$:
丸子町は、町村合併により、東内、西内、
よだ
依田、長瀬、塩川と五つの村を合併し、人口
およそ二万六千人の町です。
丸子町という呼び名は、天正時代この地に
住んだ豪族、鞠子有光の姓をとり地名にした
ものです。かつて勢力のあった祖先の名をし
-
のんでのことでしょうが、丸子とは何となく
親しみのある地名です。昔は須坂、岡谷、諏
訪、上田等と共に製糸の町として栄えました
が、最近は紡績、染色、諸工業の機械等の工
業地として栄えております。
叉こちら依田窪地方の農業、林産物等の集
荷地になっており、又君付温泉郎、美ヶ東司
原、白樺湖等の観光地への玄関口的役目をし一3
それぞれ
5
ており、夫々の観光地へ定期寺ハスが出ており一
ます。丸
子町の特産品としてはアユ、りんご、松
茸、山ごぼう、みそ、薬用人参、こんにゃく
等があります。
鑓丸子町の製糸工業
この丸子町は諏訪、岡谷とともに、製糸工
業で栄えた町です。
-
昭和の初めには工場数二十二、従業員一千名
を数える県下第二の製糸の町に発展しました。
せんい
今日では、電気機械を中心に、食料口中と繊維
られます。
生糸が、この丸子を通って信越線の大屋駅へ
運ばれて行きました。(中央線の開通以前)
左の道を十三キロメートルほどまいります
くっしよ
と、別所温泉です。
けいとうてんのうみこ
別所温泉の歴史は古く、景行天皇の皇子・
や富と#るのみこと償ばつ
日本武尊が東国征伐の折、入浴されたと伝え
工業の町として発展しております。
迷別所温泉への分岐点(長瀬丁字路)
これを見た丸子町でも、明治三十二年(一
どくじ
八九九)に下村亀一一一郎氏が独自で工場を建て、
した時代に、中仙道の和田峠を越えて沢山の
『
」一疎こいと
諏訪や岡谷が日本の生糸の一二分の一一を生産
54
-
師堂、そして、木造神将立像などの重要文化
ぜんざんじ
財が多く、ことに、前山寺の一二重塔は、未完
わよう
の完成塔として知られ、鎌倉時代末期の和様
からようせつちゅう
唐様折衷の調和美が見る人の心をとらえます。
ぺつしよ
温泉と史跡の町別所は、信州の鎌倉とよぱ
寺の八角三重塔を始め、常楽寺の石造多宝塔一5
きたむきやくしによらい
5
や北向観音、さらに、中禅寺の薬師如来と薬一
と古歌にも見られる古い温泉です。
べっしよ
別所は温泉もさることながら、鎌倉時代の
ゆいいつ
史跡に一邑承、我ヨでま佳一レーヘう⑩5、美鴬
.’:1.I’一‐I』久1ノ〃一’一、ラ
湯とよばれ、
や富い
世の人の恋の病のくすりとや
字
』一》“一』一壷如一心クユ込口。』叩》一
塩田平の西南隅にあって、別名を七苦離の
七久離の湯の湧きかえるらむ
れ、訪れる人の絶えることがございません。
撫一依田城跡
-
か六ヶ月足らずのことですが、この城で軍馬
げんじさいこう
を整へ、源氏再興のために都へ兵を進めて行
城でした。
じしよう
治承四年(一一八○)の九月、一一十七才の
きそよしなか
木曽義仲は木雷白谷で兵をあげ、平家追討に立
かさはら
ち上りました。そして一千の兵を集め、笠原
よりなおやぶ
頼直を木曽谷に敗って上州へ兵を進めたので
した。
えんこ
義仲は亡き父の縁故を頼って軍勢を集める
山には依田城跡がございますO
鎌倉時代に源氏の流れを汲む依田二郎の居
よだ
この丸子町を流れる依田川のほし」り、金鳳
56
目的でしたが、思うように行かず十二月二十
四日に信州へ引きかえし、依田二郎の迎えに
応じて丸子の依田城に入りました。
木曽義仲が、この依田城にあったのはわず
-
今溌b-
ヨ心霊ズ」〆」ろヘノと《エリへ泥、
一‐,、局‘軍‐’》画八
ったのでございます。
けいこく
依田川の渓谷に囲まれた依田城は、小さい
かたやまじるとんにちじようかく
ながら守るに堅い山城で、今日残る城郭やか
おうじ
ら堀に往時の姿がしのばれます。
石尊の辻跡
左手の「石尊の辻跡」と書かれた白い塔が
でワ一つ・フ十《月司・▽〈1〃、
』ダレ・』1..06.ト〃Ⅱ信にし頂隅飼‐16つ
三一↓コヨコュらユU
E-FF屋にトユメ釦
-57-
エ門の修業したかくれ土俵のあった所でござ
います。
謙一大屋橋
程なくして千曲川にかけられた、大屋橋を
渡ります。
-
温泉地として知られるようになったのも極
わず
く新らしく、明治の中頃までは商人宿が僅か
昭和になって、観光資源の開発が行われ、
たて
諏訪湖を始め、霧ヶ峰、夢の海などがクロー
ズアップされました。
これにともなって、温泉旅館もでき、現在
十五軒ほど立ち並んだ淋しい町でした。
いと
いわば、街道筋にそった「憩い」の地であ
鵜一諏訪市について
長野県には、県庁の所在地の長野市を始め、
松本市、上田市などの大きな市があります。
士士八hリ士士’一号」○
・11、‐、や.』
この諏訪市も、古くから開けた文化と、豊
いでゆ
かな出湯と、美しい諏訪湖や霧ヶ峰高原など
おんけい
自然の恩恵に浴した、景勝の町として栄えて
ったに過ぎなかったのでした。
61
-
りました。
すわたいしや
業一諏訪大社!
;…
諏訪市の象徴は、諏訪大社でございます。
たけJ〃たかたのみこときさき
諏訪大社の御祭神は、建御名方命と、お妃
やさかとめのみこと
の八坂刀売〈叩の御二柱がお祭りされておりま-26
す。
創建は、遠く神代と伝えられ、信濃国一の
宮として、広く尊敬されております。
御神体は軍神ともいわれますが、農業の神、
開拓の神様でもございます。
この大社のお祭りは、大変に有名で、昔か
おんぱしら
ら「人を見たければ諏訪の御柱へ」といわれ
おんぱしらまつり
るほど、盛大な御柱祭があります。
まり、東洋のスイスとさえいわれるようにな
では大小九十軒におよんでおります。
けんびきょう
その他、時計、顕微鏡などの精密工場が集
F一
-
けを新しく建て直すことになったのでした。
おんばしら
御柱は、四本とも長さが違い、五月初め、
かみしやしもしやひぎしき
上社、下社の両社に曳きたてる儀式が行なわ
なわれます。
れます。
そる
このお祭りは、大人も子供も、お揃いのく
きや
ツピで、木遣りの声もいさましく、盛大に行
日本三柱と呼ばれています。
ゆらい
御柱祭りが行われるようになりました由来
かんむてんのう
は、桓武天皇の、諏訪神社を七年目ごとに新
みことのり
しく造るようにとの勅命りが下ったことから
しかし、それは、事実上大変なことでした
りやくしきよすみ
ので、七年目ごとに略式として、四隅の柱だ
でした。
63
いせ
七年に一度行われますこの御柱祭は、伊勢
とうたいじんぐう
皇太神宮の心柱し」、出雲大社の大黒柱と共に
-
有数の温泉郷に数えられるようになりました。
とはんほうふわ
温泉は、湖畔の至るところから豊富に湧き
だたんじゆんいおうせんいちようびよう
出し、泉質は単純硫黄泉で、胃腸病、リュウ
おりました。
どう
只今では、温泉郷として熱海温泉や、九州
のぼりくつ
の別府、北海道の登別温泉などと共に、我国
中心地となっております。
しゆくえき
昔は甲州街道の宿駅で、諏訪一二万石の城下
さか
町として栄えておりました。
間もなく上諏訪温泉です。
上諏訪は、この地方の交通、文化、産業の
もとみや
なお、諏訪大社は上諏訪に本宮し」前宮の一一
叉、製糸業の盛んなことでもよく知られて
64
つがあり、下諏訪に春宮と秋宮の二つがあり、
やしろ
合わせて四つのお社がございます。
鎧型諦謝戯就
-
マチなどに効き目があるといわれております。
撚一霧ヶ峰入口
右手の道を、十一キロほどまいりますと、
スキー場で有名な霧ヶ峰高原です。
-◇-
左手は、上諏訪駅です。
夏はポート遊びや、つり、冬はスケートに
そな
最も良い条件を備えているため、ここを訪れ
ります。
より三五メートルも高くなっております。
る人が大変多いようです。
周囲はおよそ十八キロ、深さは七メートレノ
ぼん
ほどありますが、盆のように丸い形をしてお
65
膳一雨肌十〃胡
型宕一二二口一一二に、Y1
ひら
左の方に、美しく展けてまいりました諏訪
かいばつあしと
湖は、海抜七五九メートルで、箱根の芦ノ湖
-
そのため、冬でもここだけは氷が張らない
ようです。
参考
てんねんげんしよう
諏訪湖には、天然現象としてめずらしい、
セツ釜とは、湖水の中心部数ヶ所から八十
ふんしゆつ
度以上の熱い湯が噴出しているところで、そ
すうまんごく
の皇塁は、一日に数万石もあるといわれます。
すあたりが、有名なセツ釜です。
湖の底からは天然ガスが発生しておりまし
ねんりょうとうか
て、以前は、燃料や灯火用として家庭で使わ
66
れておりました。
只今では、この天然ガスを土地のガス会社
が一手に買いうけて配給しております。
が食
撚一七シ釜
このあたりを、諏訪市大和と申します。
うめたてち
埋立地に、赤い屋根の小屋がみえておりま