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THE ESSENCE

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  • THE

    ESSENCE

  • THE ESSENCE

    | 1 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    満足とは?

    『満足とは、良い結果からのみしか得られず、すぐに消えて空虚を残すものである』

    満足という感情、満足感は、良い結果が出たときにのみ得られるものであり、悪い結果か

    らは得られないものである。

    良い結果のみと繋がっているため、刺激の強い快楽が得られる。

    しかし、刺激は強いが、快楽に持続性がない。

    満足感は、喜怒哀楽といった起伏の強い感情と繋がっている。

    しかし、起伏の激しさの後には、心が乱された状態になり、時間とともに心には穴が開い

    ていく。

    強い満足感、達成感ほど、大きな穴が開き、空虚に襲われる。

    空虚に襲われないために、もっと大きな成功、つまり、もっと

    「難易度の高い成功」

    が必要になる。

    自分には向こう側が見えなくなる程に高くなった難易度の高いハードルが迫った時、つま

    り、もう得られそうもない成功が必要になった時、人間は自分に見合う目標を見つけられ

    なくなり、燃え尽き症候群に陥る。

    強い満足感だけを追い求める事には価値がない。

    強い満足感には、強い危険がある事を忘れてはいけない。

  • THE ESSENCE

    | 2 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    納得とは?

    『納得とは、努力した過程から得られるものであり、どんな結果にも揺るぐ事はない』

    納得感には、強い快楽の刺激はない。強度の低い快楽しかない。

    しかし、快楽に持続性がある。深みがある。

    納得感は、

    「結果に至るまでの過程」

    で、得られるかどうかが決まる。結果が出る前に、得られるかどうかが決まっている。

    努力した過程なら納得感は必ず得られる。

    すぐには得られなくても、後から振り返った時に得られる。

    後から得られるというよりも、後から感じる事が出来るという方が正確だ。

    経験が未熟だったり、年齢的に若すぎたりして、その時には納得感を感じられないだけで、

    本当はその時の努力した過程で、納得感は存在している。

    ただ、本人がまだ、

    「感じられるだけの鋭い感覚」

    を持っていないだけの事である。

    納得感は、結果の良し悪しとはまったく関係がない。

    過程が良ければ、結果が良くても悪くても納得感は得られる。

  • THE ESSENCE

    | 3 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    しかし、過程が悪ければ、結果が良くても悪くても納得感は得られない。

    満足感は時間とともに空虚へ置き換わっていくが、納得感は時間では消えない。

    むしろ、時間とともに自分の中でしっかりしてくるものである。

    納得感は、「自信」と繋がっている。

    だから自信は、ある日突然付くものではなく、だんだんと付いてくるものなのである。

    突然付いた自信は、良い結果からのみ得られる強い満足感から付いたものなので、時間と

    ともにすぐに消えてしまう偽物でしかない。

    本物の自信は、納得感と繋がっているので、時間とともに強化されていくものである。

  • THE ESSENCE

    | 4 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    結果とは?

    『結果とは、人間の持っている喜怒哀楽といった感情を起こすだけのもので、価値はない。

    結果を未来に生かしていけるかどうか、そこに価値がある』

    良い結果には喜び、悪い結果には悔しさや怒り、そんな感情が湧き起こる。

    それは、脳みそにアドレナリンが出るか出ないか、それだけの事だ。

    結果とは、ただそれだけのものでしかない。

    結果とは、表面にあるものである。

    表面にあるから、誰の目からも見える。

    万人に見えるので、万人が評価しようとする。

    万人が評価するので、同じ結果、同じ事実、同じ出来事を違った解釈で、違った評価をす

    る。

    本人が、「良い結果」あるいは「納得のいく結果」と評価していても、他人は「負けた」と

    いった目に見える一面だけを捉えて批判する。

    本人が、「悪い結果」あるいは「納得のいかない結果」と評価していても、他人は「勝った」

    といった目に見える一面だけを捉えて賞賛する。

    1つの事実から、まるで多数の事実があったかのようになってしまう。

    そんな揺らいだものに価値はない。

    本物は強い。本物の価値は揺らがない。

    本物の価値とは、

  • THE ESSENCE

    | 5 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    「結果に至るまでのその過程。結果が出た後のその後の過程」

    にある。

    価値は、常に過程にある。

    良い結果は「満足」と繋がっているが、「納得」とは繋がっていない。

    満足感はすぐに消えてしまい、その後に空虚を残す。

    結果からは、納得という「価値のあるもの」は得られない。

    結果とは、それまでの過程を評価する指標として利用するものであり、価値が出るように

    本人が生かしていかなければならないものである。

  • THE ESSENCE

    | 6 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    過程とは?

    『過程とは、人生そのものである』

    過程にこそ価値がある。

    「どうのように考え、どのように悩み、どのように判断し、どのように選択決断したのか?

    そこから出てきた結果を、どう評価しプラスに利用するか、未来の良い結果のために今の

    結果をどう生かそうとするのか?」

    そこに価値がある。

    良い過程は、目で見て理屈で理解するものではなく、

    「納得感を通して感じるもの」

    である。

    満足感だけ感じて、納得感の感じられない「良い結果」は、「悪い過程」を踏んだ事を意味

    している。

    良い過程では、常に納得感が得られ、たまに納得感と満足感の両方が得られるものである。

    良い過程でも、悪い結果になる事は多々あるが、それでも納得は得られる。

    満足感が得られないだけの事だ。

    過程は、結果の下に隠れた本質部分であり、表面にある「結果」のようには万人には見え

    ない。

    過程をすべて見る事が出来るのは本人だけである。

    だから、「いい加減な過程」をごまかして「良い結果」で穴埋めしようとしても、それは出

  • THE ESSENCE

    | 7 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    来ない。

    本質部分に嘘をつくことはできない。

    本質部分に嘘をついて、他人の目をごまかす事は出来ても、自分自身だけはごまかす事は

    できない。

    一時的にごまかせても、時間が経てば経つほど、その矛盾に苦しむ事になる。

    ごまかせば、ごまかす前以上の、苦しさ、虚しさが待っている。

    その苦しさ・虚しさは他人ではなく、自分にやってくる。

    「満足のいく結果」

    だけに価値を求めるから、虚しさが残り、苦しくなる。

    「納得のいく過程」

    に価値を求めれば、どんな結果にも、喜怒哀楽の激しい感情とは別に、

    「納得できる自分の生き方」

    に価値を感じる事が出来る。

    自分の生き方に対する価値は、お金では買えない。

    逆に、お金がなくても得られる。

    むしろ、お金がなく、捨てるものがないだけに得やすいぐらいだ。

    納得感は、良い結果からのみしか得られない満足感とは違い、良い結果からも、悪い結果

    からも、どちらからでも得る事が出来る。

    正確には、「結果から得る事が出来る」のではなく、

    「結果が出る前にすでに得られているもの」

  • THE ESSENCE

    | 8 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    なのである。

    つまり納得というのは、結果の前に、すなわち「過程」で得られていなければ、

    「結果の後には得る事は出来ないもの」

    なのである。

    良い結果は、「満足」と繋がっていて、満足感がすぐに消えてしまい、その後に空虚を残す

    が、納得のいく良い過程は、むしろ時間とともに納得感が強化されるものである。

    時にはその強化された納得感から、満足感が生まれる事すらある。

    納得感は、他人の目からは何も残っていないように見えるものだが、他人の評価とは関係

    なく自分自身の中にはいつまでも残るものである。

    そして、それが自信に繋がっていき、「次なる過程」へ挑戦するためのエネルギー源となる。

    納得のいく良い過程は、納得感を生み、自信につながり、過程と結果の連続性を生む。

    つまり、人生を歩む事、そのものである。

    それなので、過程に価値を見出せる生き方をすれば、自分自身にも価値を感じる事ができ

    るようになるし、人生に価値を感じる事ができるようになるのである。

    そして、他人を認める事が出来るようになる。

  • THE ESSENCE

    | 9 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    感情とは?

    『感情とは、色眼鏡、サングラスである』

    感情とは、喜怒哀楽であり気持ちの起伏である。それは、

    「脳みその興奮状態」

    興奮しているのは、自分の脳みそ、つまり自分側であって、現実側ではない。

    興奮した脳から見た現実は、「興奮した現実」に見えるが、現実はあくまで単なる事象であ

    って、興奮はしていない。

    良い結果に喜んでいる時は、起きている出来事がバラ色に見える。

    過去すらもバラ色に見える。

    悪い結果に落ち込んでいる時は、起きている出来事がグレーに見える。

    過去にはバラ色に見えていた出来事ですらもグレーに見える。

    勝って喜んでいるのは自分の脳みそで、現実はあくまで「その時点では勝った」という事

    実だけ。喜んでいるのは現実ではなく、自分の脳みそ。

    勝って周囲も同調して喜んで盛り上がっていても、それは他人の脳みそもまた興奮してい

    るというだけで、現実は脳みそを持たない単なる事象であって、興奮はしていない。

    ありのままが現実である。

    「勝った」という事象は、たまたま勝ったのかもしれないし、よく練られた戦術で勝った

    のかもしれないし、相手が怪我をしていたのかもしれないし、相手がわざと負けてくれた

    のかもしれない。

    興奮した脳のままでは、そこまでは見る事が出来ない。

  • THE ESSENCE

    | 10 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    感情はサングラスと同じで現実を曲げて脳に見せるものなのだ。

    黒いサングラスをかけている人が、

    「ここは暗いところだね。ライトが必要だね」

    といったら、

    「それは正しい認識でも、正しい判断でもない」

    と誰でも思うはず。

    しかし、正確には、「判断」は間違っていない。「暗いところでライトが必要だ」という判

    断は正しい。

    「認識、判断、実行」で間違っているのは、「現実の認識の仕方」の部分だ。

    1/3のミスが、2/3の正解を覆して、悪い結果を呼び込んでしまっているのが問題だ。

    良い方に転んだのなら良いが、ちょっとしたミスが、「ほとんどである全体」を悪い側へひ

    っくり返している所が問題だ。

    感情は、良い結果につなげていくための戦略を考える上では、邪魔者なのだ。

    良い戦略とは、「ありのままの現実」を正しく捉えて、その情報を元に練った作戦である。

    「曲がって捉えた現実」の情報を元にして練った戦略では、次の勝負で負けてしまうのは

    必然である。

    興奮した脳のままで見ては、現実をありのままに捉える事が出来なくなり、間違った現実

    を正しい情報として処理して、その情報に基づいた判断をし、結果的に誤った判断をする

    事になる。

    悪い結果が出る事が問題ではない。

    大きな問題は、

  • THE ESSENCE

    | 11 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    「サングラスをかけている事に本人が気づく事は難しい」

    という事である。

    本人は正しい判断をしたつもりだけに、悪い結果になった理由が分からない。

    実際、ミスした部分の全体に占める割合は小さい。

    「知りたい」という欲求を満たしながら進化してきた人間にとって、「分からない」という

    のは苦しいことだ。

    理由が分かってしまえば、悪い結果にもそれほど苦しまずに済む。

    理由が分かれば、次の作戦が練れるから、安心できるのだ。

    分からないから、次の戦略も練れなくなり、つかみ所のなさに、不安になるのだ。

    戦略を練る時には、うれしい感情も、悲しい感情も、苦しい感情も、すべて切り離して考

    えなくてはならない。

    まるで他人事のように、自分に起こる現実を捉えて、考えなくてはならない。

    ただし、感情は、自分の意思とは別の所、もっと動物的な所から勝手に湧き上がってくる

    ものなので、感情は切り離す事は出来ても、殺す事は出来ない。

    感情は、「ありのままに捉えた現実から正しく練られた戦術」を実行に移す時に「利用」す

    るものである。

    嬉しければ、そのプラス状態の興奮エネルギーで戦う。

    悲しければ、その悲しさを戦うエネルギーに変えて戦う。

    感情は利用するものであって、利用されるものではない。

  • THE ESSENCE

    | 12 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    強さとは?

    『強さとは、自分自身の弱い部分に目を向けられる事である』

    「喧嘩、暴力、武力」

    これは強さの一種だが、すべて弱さの裏返しである。

    暴力、武力は自分自身の弱さへの対応策としての武器であって、強さの本質ではない。

    例えばもし、強盗が来ると分かっていれば、武器を持って備える事だろう。

    強盗が強ければ強いほど、強力な武器を備えようとするだろう。

    それは、強盗よりも自分が武力的に弱いので、その補強をしようという事だ。

    弱さの裏返しでは、本物の強さではない。

    本質は揺るがないものである。

    揺るがない強さが、本物の強さである。

    人間が一番目を向けたくないものは、自分自身の弱さである。

    自分自身の強さをひけらかす人間はいても、弱さをひけらかす人は、普通はいない。

    自分自身の奥底に隠している弱さに目を向けられる人は強い。

    なぜなら、その奥深くの弱さに対して、対策を打てるからだ。

    暴力や武力で、自分の弱さを隠そうとすると、自分自身の弱い心の部分に目を向けられな

    くなる。

    強さを売りにしている人間が、「自分は弱い」と認める事は難しい事だからだ。

  • THE ESSENCE

    | 13 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    自分の本当に弱い部分を知らずして、その弱さに対する補強策が打てるはずがない。

    自分の弱さに目を向ければ、良い補強策を思いつく事も出来る。

    「真の弱さ」に対する補強策があれば、その人は強い。

    「自分の心の弱さに目を向けた上で武力を持っている人」

    と、

    「自分の心の弱さに恐れおののいて目を向けられずにいる反動で武力を持っている人」

    とはまったく違う。

    同じ状況に置かれても、行動もまったく違う。

    武力を実行力で使う人と、武力を抑止力として正義のために使う人とは違う。

    自分自身の弱さに目を向けられる人は、「他人の中の弱さの存在」をも認める事が出来る。

    本物の強さを持った人は、その「他人の弱さ」に対して、本物のやさしさが出せる。

  • THE ESSENCE

    | 14 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    自由とは?

    『自由とは、束縛がない事ではない。

    自由とは、存在する束縛の外へ飛び出す事である』

    人が一番苦しい事、それは何もない事。

    刺激がない事ほど苦しいものはない。

    何もない苦痛に耐えられるのは、壁に向かってひたすら座り続けて悟りを開いたダルマの

    ような一種の変人くらいだ。

    凡人の脳には、常に刺激が必要なのだ。

    「快楽の刺激が欲しい」というのは誰でも実感している事だが、

    「痛みや苦痛も、何もない苦しさに比べれば、快楽の一種だ」という事を実感している人

    は少ない。苦痛も刺激のひとつなのだ。

    「自由が欲しい」

    若い頃は得てして簡単に口にする言葉だ。

    「校則が自由をなくしている。校則さえなければ、自由だ。学校さえなければ自由だ」

    しかし、本当に校則がなくなったり、学校がなったりすると、苦しくてたまらない。

    ここは、軍国主義日本ではなく、すでに平和になった自由の国日本だから、その程度の束

    縛を取り除いてしまうと、本当に何もなくなってしまうのだ。

    高校を中退して、高校へ行っている事、学生という身分によって自分の存在位置を確認で

    きる事の重要性に初めて気付く。

  • THE ESSENCE

    | 15 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    「束縛するものがあるから自由がない」わけではない。

    人が自由を感じるためには、束縛するものは必要なのだ。

    普通の人ほど、自由を感じるため、計るための「束縛」という基準になるものが必要なの

    だ。

    逆に言えば、校則違反がなくならないのはそこに快感があるからだ。

    自由を感じるために、わざわざ校則違反をするわけである。

    校則の価値に大きな不満があるわけではなく、ただ単に、校則を破るという快感を求めて

    いるだけなのだ。

    束縛するものがない事は苦しいことなのだ。

    引きこもりのように、束縛するものが極度に減ってくると、苦しくてたまらない。

    束縛という、苦しさを計るための基準すらもない、捉えどころのない苦しさが、苦しいの

    だ。

    何もない事の苦しさだ。

    校則、会いたくもない嫌な奴、会社…

    こういった自分を束縛しようとするものがあると、苦痛の対象がはっきりしている。

    学校が悪い、親が悪い、友達が悪い、会社が悪い…

    これらは、苦痛をぶつける対象物があるから、まだ楽なのである。

    引きこもりのような、学校も会社もなければ、嫌な奴(人間関係)もない。

    こうなると、ぶつける先は

    「世間が悪い」

    という「存在しない抽象的な概念」に対してしか、ぶつけようがなくなってくる。

    物ではない、人間の脳みそが作りだす「世間」という概念にぶつけたところで、ストレス

  • THE ESSENCE

    | 16 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    は開放されない。

    嫌な奴や学校は、ぶつければ何か反応があるが、多くの人間が概念として共有しているだ

    けの元々物体としては何もないものにぶつけても、当然、何の反応もない。

    最後には反応欲しさに、「幸せそうな奴を誰でもいいから殺したかった」と束縛の中で生き

    ている人間には意味不明の殺人をやってのけたりする。

    概念は反応を返さないが、殺人は存在するものへのアクションだから、反応が返ってきて

    ストレス解消になるわけだ。

    犯人にとっては意味があるわけである。

    束縛が嫌なのは誰でも同じだ。

    しかし、その束縛するものがなくなるのは、もっと不快なものなのだ。

    「有る」ものを維持するのは楽だが、失くしたものを取り戻すのは大変な事だ。

    失った束縛を取り戻すのは大変な事なのだ。

    出来る事なら、失くす前に気づくべきだ。

    束縛とは、「束縛という基準」を自分に与えてくれるもので、必要なものなのである。

    その束縛が自分に不必要なものなら、その束縛の存在自体を失くそうとするのではなく、

    束縛を飛び越えることである。

    飛び越えた後、その束縛を眺めると、自由を実感できるのだ。

  • THE ESSENCE

    | 17 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    平等とは?

    『平等なシステムとは、「結果の平等」ではなく「可能性の平等」で設計されている』

    「宝くじが、全員に当たらないのは不平等だ!」

    そんな主張をする人はいない。

    宝くじは、誰にでも当たる可能性があり、たまたま極一部の人に高額当選金が当たるシス

    テムというだけ。

    しかも、「一度外れた人は、ずっと外れる事が決まっている」わけではない。

    外れた運の悪かった人も、次の未来では運良く当たる可能性がある。

    宝くじは、極めて平等なシステムである。

    平等とは、すべての出来事が、誰の身にも起きる可能性がある事である。

    「あいつが金持ちの家に生まれて、自分が貧乏な家に生まれて不平等だ!」

    あいつが、貧乏な家に生まれる可能性もあった。

    自分が金持ちの家に生まれる可能性もあった。

    ただ、結果的に、あいつが金持ちの家に生まれて、自分が貧乏な家に生まれただけの事だ。

    どちらにも転ぶ可能性が、平等に存在していた。

    しかも、その結果が未来の財産を決めているわけではない。

    金持ちが破産し、貧乏人が金持ちになる可能性だって、きちんとある。

  • THE ESSENCE

    | 18 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    「未来でどっちが苦労するか?未来はどっちが有利か?」

    は、現時点の結果からは、まったく決まっていない。

    極めて平等だ。

    結果主義者だから、「起きてしまった後の結果」の損得に視点が向いてしまい、まるで、

    「この世は、不平等に出来ている」

    と勘違いしてしまう。

    この世は、「極めて平等なシステム」で出来ている。

    過程主義者なら、当たり前に理解できる平等システムだ。

    結果が出る前の「過程」では、未来がどうなるかは決まっていない。

    良い結果にも、悪い結果にもなる可能性が誰にでもある。

    良い結果になるように良い過程を踏めば、良い結果になる可能性が上がる。

    悪い結果になるような、いい加減な過程を踏めば、悪い結果になる可能性が上がる。

    極めて平等だ。

    この世の平等システムとは、

    「可能性の平等性」

    が保障されているだけであるので、努力すれば必ず良い結果になり、努力しなければ必ず

    悪い結果になるわけではない。

    あくまでも「可能性」の平等が保障されているだけである。

  • THE ESSENCE

    | 19 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    「差別さている」

    確かに、悲しい事であり、良くない事である。

    出来る事なら改善策を本人か誰かが打ち出すのが良い。

    しかし、それとこれは違う。

    「平等システム」である事と「感情や善悪」とは関係がない。

    可哀想な出来事も、誰の身にも起きる可能性がある。

    たまたま誰かが可哀想な事態になったし、たまたま誰かが可哀想な事態にならなかっただ

    けである。

    本人には「感情」があるので、その感情が気持ちを左右して理性を保てなくするだけで、「こ

    の世の平等システム」が平等なシステムである事には変りはない。

    「平等システムなら、みな幸せになる」というおかしな発想が勘違いを起こす。

    結果がみな同じになるシステムなら、努力した人間が損をし、努力しなかった人間が得を

    する不平等システムと言える。

    幸も不幸も、どんな出来事であれ、誰の身にも起きる可能性があるというのが、もっとも

    平等なシステムだ。

    良い運を手にする可能性が誰の身にもあるように、悪い運を手にする可能性が誰の身にも

    ある。

    「誰の身にも降りかかる可能性」という視点で見れば、極めて平等なシステムだ。

    “良い運を生かして良い結果に繋げられるかどうかは、良い運を与えられた本人にかかっ

    ている”

    これと同様に

    “悪い運を生かしてプラスに変換して、より大きな良い結果に繋げられるかどうかは、悪

    い運を与えられた本人にかかっている”

  • THE ESSENCE

    | 20 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    のである。

    「宝くじが外れたのは不平等だ!」などというおかしな理屈をこねている人間に、“良い運”、

    ひいては“良い結果”が舞い込んでくるはずがない。

    結果の不平等を嘆いている暇があったら、与えられた天命を生かす努力をする方がずっと

    重要というもの。

    この世で唯一決まっている結果、唯一の結果の平等性とは、「全員に死が訪れる」という現

    実だけだ。

  • THE ESSENCE

    | 21 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    幸せとは?

    『幸せとは、自分自身の中に存在するものであり、感じるものである。

    不幸な人とは、幸せを理性で捉えようとし、感じる事の出来ない人である』

    「自分は幸せかどうか?」

    という問いに「幸せだ」と答えられないほとんどの人の幸せとは、脳みそで判断した

    「理性から来る幸せ」

    だ。その幸せとは、その人の脳みそが解析した「理性の幸せ」であり、「感覚で捉える幸せ」

    ではない。

    「理性の幸せ」を追い求めている青い鳥症候群人の幸せとは、

    “何かの出来事が起こる。その出来事を幸せな事と脳が解析すれば、幸せな出来事に分類

    され、同じ出来事を不幸な事と脳が解析すれば不幸な出来事と分類されている”

    のである。

    同じ「目が見える」という事象でも、目の見えない状況に置かれた人が、もし目が見える

    ようになれば、人生最大の幸福と思うにもかかわらず、普通に目が見える人が「自分は不

    幸だ」といって自殺したりする。

    置かれている環境や状況が幸せや不幸を決めていると考えている。

    自分の脳みそが決めているのだという事に気づいていない。

    「本当の幸せは、自分自身の中にあるもので、幸せとは感じるものだ」

    という事に気付いていない。

  • THE ESSENCE

    | 22 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    「理性の幸せ」が幸せという事なのだと思っている人は、幸せな事を無くすまで、その幸

    せに気づく事が出来ない。

    目が見えなくなって初めて、目の見える幸せを感じるようになる。

    「感じるようになる」のである。

    「考えるようになる」のではない。

    失くすまで気づけないから、その人は不幸なのだ。

    失くすまで気づけないから、「自分は不幸だ」と考えているのだ。

    不幸だ、と「考えて」いるのだ。不幸だ、と「感じている」のではない。

    「金持ちになれば、幸せになるはずだ」

    と考えている人は、金持ちになっても幸福にはなれない。

    なぜなら、金持ちになっても、築いた財産を失くすまで幸せを感じられないからだ。

    傍から見て、地位も名誉も財産もあり、何の不自由もない人間が自殺するのは、これが原

    因になっていることが多い。

    「理性の幸せ」が整っても、「感じる幸せ」を感じられないために、最高の環境を手に入れ

    た今、これ以上どう努力すれば本物の幸せが手に入るか分からなくなり、絶望して自殺す

    るしかなくなるのだ。

    「本物の幸せとは、感じるものだ」

    と気付いて、外的要因を整える努力をやめ、感じる努力をすれば、自殺しなくても済む。

    感じられるようになった時、外的要因も整っていれば、怖いほどに幸せを感じるはずだ。

    幸福とは、感じるものであるので、お金の量といったような外的要因とは関係がない。

    お金があればなおさら良いだけで、お金がなくても幸せはあり、感じる事が出来る。

  • THE ESSENCE

    | 23 Copyright©2012 Sho Nakamura All right riserved.

    目が見えないという状況に置かれて、全財産と引き換えに目が見えるようになるといわれ

    れば、誰しも惜しむことなく、全財産を出せるはずだ。

    財産がなくなっても幸せと感じるはずだ。

    感じる幸せ、本物の幸せには、お金の量といったような外的要因は関係がない。

    外的要因が GOODでも BADでも、感じる幸せは常にある。

    だから、生きるか死ぬかの戦時中でも笑顔がある。

    苦しい事や辛い事が、不幸な事ではない。

    苦しい、辛いと思うような事があっても、それと幸せは別なのだ。

    苦しくたって幸せな事には変わりはないのだ。

    苦しくても、目の見える幸せがなくなってしまうわけではない。

    元々の幸せの上に、苦しさが乗ってきただけである。

    元々の幸せがあるから、ベースに幸せがあるから、その程度の事が辛い事のように思える

    のだ。

    その程度の事が辛いと思える状況というのは、大変幸せな事なのだ。

    もっと、不幸な状況なら、その程度の事は気に留めている暇もないほど、大変な状況に追

    い込まれているのだ。

    人間は、視覚が発達したがために、物事の判断のほとんどを視覚からの情報に頼っている。

    人間は、脳みそが発達したがために、幸せを脳みそで判断しようとしてしまう。

    人間は、感覚が大半を占めている動物的世界から、理性という、より高い世界を手に入れ

    て、動物的感覚が鈍ってしまった。

    動物には、「理性から来る幸せ」はない。

  • THE ESSENCE

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    動物には、「感覚から捉える幸せ」しかない。

    だから、殺しあう動物は人間以外にもいるが、自殺する動物は人間だけなのだ。

    感覚で捉えた幸せというのは、自分自身の中にあるので、自分自身がこの世にいる限り、

    存在しているのだ。

    「生きているだけで丸儲け」

    なのである。

    人間にも自殺しない時期がある。

    生まれたばかりの赤ちゃんから幼児期までは、まだ動物的な世界で生きているので、親に

    虐待され捨てられるような辛い状況でも自殺はしない。

    赤ちゃんは、泣き叫ぶほど辛い状況でも生きようとする。

    生きている事を幸せと感じているから、幸せを維持するために生きようとするのだ。

    泣き叫ぶほど辛い事と幸せは、感覚の世界では別次元の話なのだ。

    理性を持った動物が人間だから、「理性で捉えた幸せ」という人間の脳みその中だけにある

    「空想の幸せ」を作り出して、もともと空想でしかない幸せが手に入らないといって、人

    間の脳みその中だけにある「空想の不幸」という概念を作り出して嘆いている。

    感覚世界で生きている動物には、空想の幸せは存在しないから、空想の不幸も存在せず、

    自殺する理由もないのだ。

    人間の基本は動物なのだ。

    動物という大きなベースの上に、わずかな大脳新皮質という理性があるのだ。

    動物的感覚なくして、人間は成り立たない。

    この世に生まれてきて最大の不幸は、幸せを感じる感覚を失った時だ。

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