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Title <論説>ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景 Author(s) 永井, 三明 Citation 史林 (1980), 63(5): 675-705 Issue Date 1980-09-01 URL https://doi.org/10.14989/shirin_63_675 Right Type Journal Article Textversion publisher Kyoto University

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Page 1: Title ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景 Citation …...ヴェネッィア貴族階級の確立とその背景 へ :水 井 三 明 ヴェネッィァ貴族の意識の変化を求める。

Title <論説>ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景

Author(s) 永井, 三明

Citation 史林 (1980), 63(5): 675-705

Issue Date 1980-09-01

URL https://doi.org/10.14989/shirin_63_675

Right

Type Journal Article

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Kyoto University

Page 2: Title ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景 Citation …...ヴェネッィア貴族階級の確立とその背景 へ :水 井 三 明 ヴェネッィァ貴族の意識の変化を求める。

ヴェネッィア貴族階級の確立とその背景

 へ

:水

門要約漏 支配階級としてのヴェネツィア貴族階級が確立したのは、 一二九七年のセラータと呼ばれる行為(大議会メンバーを特定

の家柄に限定)によるのではない。ヴェネツィア貴族階級が排他的独占的カーストとしてその形態をととのえるのは、十四世紀と

いう長い過程を経たあとで、一四〇三年、中産階級を貴族階級に加えるという提案を拒否したときであった。

 本稿ではこのような支配階級としての貴族階級確立の背後にある、不況にいたる経済環境の変化、それによってひきおこされた

ヴェネッィァ貴族の意識の変化を求める。                       史林 六[二巻五号 [九八0年九月

ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

は し が き

ヴ・ネッ・アの貴藩級は・ヴ・ネッ・ア共和国の歴史の核心である・ガスパ書卓ソタリ⊥。㊤ω讐。8藍舳・

                     ②

ドナート・ジャソノッティU9暮oO貯慧○酔匡にとって、ヴェネツィアの貴族綱度は、大きな興味対象であった。十三世

紀末から、十七世紀中葉のトルコとの熾烈な戦争にいたるまで、ヴェネッィアの貴族階級は、一貫して、明確な社会階級

として独占的排他的特権を行使し、自らの権力がより下級の階層に移ることを阻止したのであった。とはいっても、支配

階級としてのヴェネツィア貴族階級の性格は、その建国以来一七九七年の滅亡にいたるまで一貫していたというわけでは

なかった。蛮族の侵入をのがれた人びとがヴェネツィアに定住して以来、 約八世紀の間は、 恒久的で明確な貴族階級の

                     ド ジユ

形態は定着していなかった。ヴェネッィアに統領Uo鴨が出現する以前には、ヴェネツィア諸島を支配した部族の幹部

1. (675)

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摩ぴ郎巳が事実上の貴族階級を形成した。しかしそれらは栄誉ある家柄を示す純粋な敬称にすぎなかった。尤も、それぞ

れの時代に優位を示すグループは存在したのであるが、十三世紀の宋までは、たとえドージェであれ他の高官であれ、け

っして排他的特権を有していたわけでなく、支配階級としての貴族階級を明確に形成したのではなかった。彼らには在職

                ③

中に特権がみとめられただけであった。ヴェネツィアでは、個々の貴族の家柄はあったが、それらが集団として力をふる

う支配階級としての貴族階級は存在しなかったのである。

 しかしながら次章でのべるように、十三世紀末、一連の法律が二つの原則をうちたてて貴族階級の形成をうながし、漸

次それに手を加えていくことになる。すなわち現存する政治階級(その時点での大議会のメンバー)がヴェネツィアにお

ける政治権力をそれ以後独占すること、そしてこの独占は世襲されるということであった。すなわち貴族身分が法的に確

定し、=二八一年や十七世紀、十八世紀は別として、非貴族出身者がこの階級に加わることを阻止することによって、貴

族階級の純潔をまもったのである。

 いずれの国家にあっても、貴族階級は排他的で閉鎖的なものではあるが、ヴェネツィア貴族階級が新加入者を締め出す

ことの徹底性はその例を見ない。今ひとつの特徴は、他の国家では貴族階級の成立は歴史の中における自然発生の要素が

強いのであるが、ヴェネツィアにおいては、上述のように、明確に人為的に形成されたものである。以上二つのヴェネツ

ィア貴族の固定化された傾向は、ヴェネツィア史の神聖な慣習として永続したのであった。ヴェネツィア史における政治

的安定の傾向と文化における保守性は、明かに閉鎖的貴族階級と密接な関係があったにちがいないであろう。

 しかし、ヴェネツィア貴族制度が、なんの緊張も矛盾もなく安定して永続したのかという点になると問題は別である。

それはヴェネツィア政治史の進行や経済活動の帰趨、および社会のしくみに微妙な影響を与えながら自己展開を示したの

であった。したがってヴェネツィア貴族階級の問題は、ヴェネツィア史を考えていくうえで避けて通れない課題なのであ

る。

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本稿では主として貴族階級形成に焦点をあわせ、その際の貴族階級の意識との関連をうきぼりにする。

① ガスパーロ・コンタリ…二については、拙稿『十六世紀ヴェネツィ

 ア史における政治意識の覚醒』 (「史林」六十一巻六号)参照。

②o{‘いρ}℃08簿■§馬さ“ミ§雨ミ§い§ミ§♪鞄ミ§角層馬ぎ-

 §詩ミ§o馨篤燃§蕊導“漣h§§o渇愚さ§§尉§民ミ。斜娼ユ琴。εβ”

 H㊤刈90巨目メ’

③いO.Upくす§馬b恥ミミ。、導馬糞噛い二郷§四冥。ミミミ二月

 G封題幽しd巴鉱ヨ。屋”お①bσ.やHO。

葡ミ§恥

一 いわゆるセラータについて

ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井〉

 千三百年代のフィレンツェをはじめとするイタリア諸都市における政治史の共通の図式は、貴族身分におどり出る者の

間の闘争であった。そこでは旧来の貴族鍔ρσq旨㊤試と新興の大市民勺。娼900轟。。・・oとの間の恒常的な争いに彩られていた。

ところがヴェネツィアの歴史は、これとは異った様相を示すものであった。ヴェネツィアでは貴族階級は固定しており、

新興の成り上りQ①暮①賭8〈pが新たにこれに加わることはなかった。あるいは地方貴族と都市の商人との闘争もなかっ

た。この時代のヴェネツィアは、経済的にも、対外的にも困難な問題が山積していたのであるが、他の都市のように、誰

が支配階層のメンバーであるかという問題について頭を痛めるようなことはなかったのである。では、ヴェネツィアをし

て、他の都市とは異った道を歩ましめることを可能にした分岐点は何であったろうか。

 一般に、ヴェネツィア史における転換点としてみとめられているものは、 二一九七年のセラータω①気心ρとよばれる

大議会鑑pσΩσ窺δ増○○昌巴σq犀。のメンバーの法的な基礎の確立、やがて東地中海の覇権につながる一三七八~八一年のジェ

                                       ①

ノヴァとの死闘における勝利、十五世紀はじめに止ったイタリア本土日Φ旨錬曾ヨ㊤への進出、十五世紀末のインド航路発

見につづいてヴェネツィア共和国の存立を脅かした一五〇九年のカンブレー同盟戦争、十七世紀当初の四半世紀に始まる

ヴェネツィアの経済的下降などがこれである。本章でとりあつかうのは、第一番目のセラータの問題である。

 ヴェネツィアの貴族政体は、 その貴族階級がドージェの権力を拠制する一方、他面ではコムーネの人民集会Oo口。δ脚

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                      ②                    ③

≧魯σQoを排除した成果にもとつくものとされている (人民集会は一四二三年に完全に廃止)。十二世紀中ごろから、ド

ージェの権力を抑訂するものとして、有識者の会議Oo拐一一貯臼ω曽覧①暮ロヨがおかれ、それが寓自)貯ω08。。口髭ヨと竃一-

            ⑧

8穏Oo霧お臨○へと発展を示す。

 もともと蜜巴島Oo鄭繊σq犀β日はリアルトの貴族が支配していたが (明かに平民も加わっていた)、それが拡大されて

「大議会」寓孚。σqσqδ村Oo塁屯δとして全ヴェネッィア貴族の議会となり、最高機関としての人民集会にとって代ることに

なった。 一二九七年と一三〇七年のセラータω。塁暮ρにより、 大議会の議員資格は特定の家柄に限定されることになる。

                            ⑤

一三八一年、三十家族が新しく議員資格を例外的にみとめられたけれども、それ以後二六五年にわたって、大議会への新

            ⑥

加入は閉されたままであった。指定された象柄のすべての成年男子(二五歳以上)のメンバーは、非嫡出や合法的に廃嫡

されたものは除いて、大議会に議席をもち貴族と規定された。したがって貴族であることと大議会に議席をもつこととは

同じであった。

 時代とともに貴族人口は増減し、それにつれて大議会のメンバーの実数はいちじるしく変動するが、いちばん多かった

                   ⑦

十六世紀はじめには二六〇〇名をこえていた。いうまでもなく大議会は最高の集会であって、その主要な機能は、ドージ

ェ以下の役職者を選挙によって選出することであった。

                    ⑧

 いっぽう嵐ぎ。目OO昌巴σqぎまたは小委員会は、内部的な核の働きをなすものである。 それらはドージェとその評議員

とからなる。彼らが最高の司法官である四十人会ρ自碧鴛賦ρと共に座るときシニョリ!アωおぎ目蔭となり、そのシニョ

リーアが有職老(賢人)ω9・<一とよばれる行政官と共に座ればコレッジォOO ①σqδとよばれた。

 いっぽう元老院oQ魯暮ρ℃器σqp象とはコレッジォを拡大したものである。 これは十三世紀において、ドージェに助言

するための評議員の集団に源を発する。一方からいえば、元老院は、各種の行政官、司法官とともにコレッジォのメンバ

ーから構成されるもので、十六世紀には二百から三百のメンバ…をもっていた。

4’ (678)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

 コレッジォは大使の受け入れ、教会関係などを任務にもっていたが審議権はなく、立法権は元老院に所属していた。以

上のべた各機関の職掌分担にはあいまいさが残るが、このために、もともと国家の安全にかかわる緊急で秘密の事項を処

                 ⑨

愛するために十四世紀に設置された十人会Oo島一σqぎα①一U富鼠が十六世紀に権力を握るようになったことは有名である。

                  ⑳

 さて、セラータ㌶ω。蚕桑9α鉱Oo昌巴σq賦。についてのべよう。それはいうまでもなくω①霞賀Φ「閉す」から来ている。

しかし大議会を閉鎖するというのではなく、むしろ「(メンバーを)凍結する」「新しい入会を許さない」という意味内容

をもっている。=一九七年二月に通過した法律によれば、過去四年間大議会のメンバーであった人は、来る同年九月二九

             ⑪

日に議員に応募することができた。そして四十人会の四十票のうち十二票をうれば大議会の議員となった。この法律は祖

先については何も規定していないが、終身の議員としてみとめられると、父から息子たちへと継承されることになった。

しかも一二九七年二月の法律は、過去四年問にたまたまメンバーでなかった人びとのために、翌年の議会を用意したので

 ⑫

ある。

 ところが、なぜこの時期に大議会を固定しなければならなかったか、またこの行為がなにをもたらしたのかという解釈

については、必ずしも明確な一致がみられない。 一般には、いたって漠然と、このセラータという現象は人民にたいする

貴族寡鼻翼の勝利とみなされ、ヴェネツィアにおける人民主権である人民集会にたいする貴族政大議会の優越をもたらし

たものと考えられる。そこには貴族と人罠(平民)との間の階級闘争という一般的図式がよこたわっている。以下この図

式にたいする批判をのべよう。

 「人すべて商人である。8暮富σqΦ簿①。・oき霞興。㊤口げどとヴェネッィアを旅行したフランチェスコ派巡礼ニッコロ・ダ

                  ⑬                                       ⑭

・ポッジボソシは=二四六年春にのべている。商業が優越していたここでは、商人ギルドは存在する必要はなかったし、

                                                 ⑮

ヴェネツィア当局も、国家が商業に依存していることをくりかえしのべている。ドージェさえも商業活動に従事した。し

かも=二〇〇年をはさむ数十年間にヨーロッパ、とくにヴェネツィア、ジェノヴァの商業活動は頂点に達していた。すな

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わちヴェネッィアにとって、ジェノヴァとの戦争は別として、その商業活動は最盛期に達していた。たとえば国営の造船

所》房戸巴。は一一〇四年に設立されたのであるが、=二〇三年には、その面積はほとんど三倍になっていたし、港湾施

                          ⑯

設の拡張も一三二五年になるまで活発につづけられたのである。

 この時代は、ジブラルタルを経由してインドに達することを計画したジェノヴァ人ヴィヴァルディ兄弟≦く巴α一やマ

ルコ・ボーロの時代であった。あるいはザッカリアN㊤8鴛貯やギゾルフィ○ぼω05の時代であった。 (彼らは多くのば

あい複数なのである。彼らの事業は二人またはそれ以上の兄弟や親類が協力しておこなわれたからである。) =二〇〇年

ごろ存在していたこれらの商人にとっての商業活動の場は、商業活動が日常化した地中海を中心とする地帯と、危険で

冒険をともなうその外部の地帯とに分かれていた。後者の地帯では無限の危険と竃額の費用を要したので、 コソメソダ

                                  ⑰

Oo白ヨ①巳帥あるいはコッレガソツァOo困δσQpp墨とよばれる協同経営がとられた。ひとつの冒険事業が計画されると、投

資家と探検家とが募られる。投資家は投下資本を失う危険があるために、成功のばあいは利益の四分野三を獲得する条件

                                          ⑱

となっていた。他方、探検家は身体と旅行の苦労を提供して、残りの四分の一の利益が約束された。この企業形態は未知

への商業旅行に最適のものであったが、商業活動の日常化と定住商人の出現とともに、この協同経営の形態は減少してい

く。この協同経営形態は地中海貿易にも適用され、新人が登場する機会を与えた。しかし十三世紀末には、アジアのよう

な危険と利益の多い地域への進出には、新人登揚の機会はめぐまれず、それらを独占したのはジェノヴァやヴェネツィア

の貴族の家族であった。このようにアジアにおける貿易を独占したのが貴族であったというのは、偶然ではなかった。な

ぜならば、そのためには、冒険精神のみが要求されるだけではなく、莫大な資産と社会的信用、緊密な親戚関係が要求さ

れたからである。=三二九年、デリーに赴いたヴェネツィア貴族ジョヴァソニ・ロレダンOδく9昌鼠い。器巳碧は大金を

その母から得て資金にしたのであり、同じ年にフラソチェスキーノ・ロレダン舅峯昌8ω。げ貯oUoおα9)邸は妻の持参金をも

って元に赴いたのであった。

6 (680)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

 平民が遠隔の地に赴いたことも皆無ではなかった。彼らには経済的背景に乏しく、家族の結びつきの厚みにもかけてい

たのである。どちらかといえば、ジェノヴァとヴェネツィアの平民は、貴族がなおざりにしていたヨーロッパの辺境との

貿易に従事した。ハンガリーではヴェネッィアの平民が十三世紀中ごろから活躍していたし、ポーランドで活躍したヴェ

ネツィア人も平民であった。彼らは代理人として辺境に定住して貿易をしたが、協同経営による契約における旅行パーテ

ィーよりも、はるかに少いわけ前しか受けとることができなかった。代理人はごとごとに雇い主のこまごました指図に従

わなければならなかった。そして彼らの取得分は四パーセントか五パーセントに限られていた。しかもその代理人も親類

から雇われることが多かったので、ふつうの平民や外国人が代理人となることは容易ではなかった。代理人となったとこ

ろで協同経営老へと上昇することはむずかしかった。というのは割のよい仕事は全部親類黒鉱にまわされたからである。

 以上が=ご○○年ごろの商業のしくみの素描である。新しい商業活動の主導権をにぎったのは、以前から積極的に協同

経営の契約によって利益をあげてきた旧い貴族であった。したがって一三〇〇年ごろには、旧来からの実力老と、平民と

のあいだにへだたりがでてきたことが一般的にみとめられるであろう。しかも、セラータの終った一三二四年の航海条令

          ⑳

O即℃詳巳碧¢客9・鼠σq僧二二臼によって財産の少い人にはより少いわけまえしか与えられないことになっている。しかも貴族

と平民が協同経営事業を組む機会が少くなってきている数字がある。一二四〇一六一年の協同経営事業のうちで貴族が主

催したものは五一%にすぎなかったのに、一三〇九i二三年には八一%に上昇する。平民主催の協同経営の事業は、一二

                                  ⑳

四〇1六一年の四八・五%より一三〇九-二三年には十八・六%へと減少する。それだけでなく貴族が主催する事業に参

加する平民の割合も、同じ時期に約三分の一に減少している。以上のことは、セラータ成立と時期を同じくして、貴族が

海上貿易においてより大きな役割を演ずるようになり、貴族同志で協力しあって平民は排除される傾向にあったことを示

すであろう。こうして貴族と平民との間に商業上の分裂だけでなく、政治的社会的な分裂も生じていたことが推測される

  ⑳

のである。

7 (681)

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 このような情況を前提としながらクラッコ○・O餐oooは、セラータの形成について、ひとつの仮定をつくりあげた。

彼は十三世紀末には、貿易による利益が少なくなったと判断した。このような状態にたいして、以前から富と権力を確保

してきたドージェのピエトロ・グラデニーゴ℃δ貯oOHραΦ巳σQoを頂点とする上層階級鼠ρσq口暮ご○江口象はこれを乗切

ることができた。しかし中産層の貿易業者はこれに対処できなかった。そこで中産層は、官職を保有してその手当を得よ

うとして政治的要求をもち出したと考えられる。(ヴェネツィアにおける下級職は有給であった。)グラデニーゴ派は一二

九七年に、大議会のメンバーシップをこれら不満の中産厨に与えることによって、彼らの不満を吸収し、旧来からの支配

階級の優位をつづけることに成功した。これがセラータなのである。以上のようなクラッコの仮定は、すでにのべた十三

世紀末の社会的危機とあわせて考えると、十分うったえるものがあろう。

 以上のようにクラッコは素朴な階級闘争の図式を批判した。同じようにレーン蜀.ρい窪①も、年代記をとおして以下

      ⑳

のように論じた。

 =一九七年の改革が、大議会から平民を締め出すものであったということは、実のところどの年代記の中にも記載され

ていない。というよりも、大議会の議員選出の手つづきを変更したこ一九七年の法律そのものについて触れられていない。

=一八○年と一三ごO年との間のヴェネッィアの生活を同時代に記述した年代記は存在しないのである。ヴェネツィアは、

フィレンツェのジョヴァソニ・ヴィラ…二に匹敵する年代記をもたなかった。アンドレ…ア・ダソド揖諺口脅$Up滋90

が一三五〇年ごろに書いたと推定される年代記の中で、大議会の変化について言及されているのであるが、市民にたいし

て大議会を閉鎖したとのべておらず、当時のドージェであるピエトロ・グラデニーゴについて「このドージェはその委員

会とともに、若干の平民たちが大議会に入ることが許されるということを命じた」と記述している。またこれとほぼ同時

代のジュスティニアー一一Ωごω甑昆ρ巳の年代記も、大議会の閉鎖あるいは平民の締め出しについてのべるのではなく新加

入の事実を次のように明示する。 「一三〇三年一月、このドージェ(グラデニーゴ)のとき、ドージェ閣下ならび他の貴

8 (682)

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ヴェネツィア費族階級の確立とその背景(永井)

族は、アッコソとその周辺から逃れてヴェネツィアに住むためにやってきた多くのシリア人の子孫と、すでにのべたジェ

・ヴ・との撃で勇敢にふるまった多あヴ・ネ・・アの平民とを、ヴ・ネ・・ア大議会の議員にすることに決定し矯」

と。 

以上からして、すくなくとも、貴族と平罠との対立というよりは、外国人と下灘の一部が新しく参加したという色彩が

                                 

強いように思われる。セラータ後、ティエポロbごρ宣導。算①円冨噂。δの陰謀(;=○年)が企てられたが、これらはいう

までもなくセラータに対するなんらかの不満にもとづいていることにほぼまちがいない。大議会に入りえなかった平民か

らすれば、たしかに大議会からの締め出しであったであろうが、さきの年代記からもわかるように、大議会は明かに多く

の平民を参加させ吸収したのであ・た。テ・工否の大がかりの陰謀はもちろん複雑な要撫からま・ていたことであろ

うが、すくなくとも新参の外国人や平民がヴェネッィア貴族に成上ったことにたいする、旧来からのヴェネツィア貴族の

敵意がある。陰謀事件の原因は、大議会からの平民の締め出しではなくて、むしろ平罠の新参加によるものであったとい

えよう。三九七年には、大議会の議員数五八九名であ・たのに対し、一三西年には二五〇名に羊雲ていることか

らも、大巾な平民の新参加が考えられざるをえないのである。

 当時のイタリア各地の政治の動向は、ゲルフとギベリソの抗争と、都市内部のギルドの問題を投影している。ところが

ヴェネツィアのギルドには明確な特徴が見られる。それらは職人層と小商店主層を代表するものであり、フィレンツェの

カリマラ組合のように外国貿易に従事する商人ギルドは存在しなかった。というのは、ヴェネツィアの貿易業者は政府の

しっかりした監督下にあったため、彼らは今さら特別の組織を必要としなかったのである。また裁判官や書記の組合、あ

るいは船員の組合も存在しなかった。しかし造船所の労働者、建築労働老には組合が存在した。しかしより強力であった

のは、染色業老、薬薔、仕立職人、塗屋、金細工師・箸職人などの手工薯の組合であ・鰺・

ヴ・ネ・・アのギルドの今ひとつの特徴は、それが宗教的な相互扶助団体ω・喜の形態をと・たことであ・や国家

9 (683)

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はこのスクオーラを監督し、騒乱防止のために規制を加えるいっぽうで、スクオーラの内部での相互扶助と信仰について

は自治と自由とをみとめていた。したがってヴェネツィアのギルドは、服従と限定づきの自治の伝統を、以後五百年間に

わたって亨受することとなる。

 ヴェネッィアのギルドが一般に受動的であることを考えれば、一三〇〇年前後の政治情況の中で、ギルドが陰謀に加担

して政治情勢を積極的に左右したことはありえない。

 ギルドはティエポロの陰謀に主導的な役割を果さなかったが、積極的にドージェ側を支持した平民があった。そのみか

えりとして貴族になった彼らは、職人のギルドと結託することなしに目的を達成することができたので、他の都市に見ら

れるような内乱を誘発することがなかった。逆の立場で見ると、旧来からの支配層が進んで有力な平民、協力的な平民に

門戸を開いたことが、ヴェネッィアの安定の礎石となったのである。

 レ…ンは、当時のヴェネツィアにおける貴族と平民との間の階級的対立意識が希薄であったことの傍証をかかげている。

一二九四-八年のジェノヴァとの戦争において、これを指導したのはヴェネツィアの貴族層だけではなかった。クルツォ

     ⑫

ーラ9欝。冨で完敗したヴェネツィアの艦隊の指揮をとったのは、故ドージェ、ジョヴァソニ・ダソドロの子息である

保守的な人物であったが、その海戦のヴェネツィア側の主役はその名前からも察せられるように、ドメニコ・スキアーヴ

‘                    ⑬

甥Uo白Φ巳ooω。ぼ㊤〈oという平民であった

                    (ω。三ρ<○は奴隷の意)。当時のヴェネッィアの緊急事態下でも、ガレー船の

船長。。o℃鎚oO三智。が平民であったという事実は、深刻な階級対立の可能性の少かったことを示すであろう。

 以上のべてきたことから、いわゆるセラータは貴族対平罠の階級闘争の所産ではなく、またギルドとの関連もほとんど

みとめられないことが明白になった。しかし、それで問題が解明されたわけではない。なぜなら、なぜこの時期にわざわ

ざセラータという大変動がもたらされたのかということが説明されないままだからである。

 この理由として第一に考えられることは、一二九七年における支配層の中に、大議会を法的に整備しなければならなか

10 (684)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

つた必要性があったということである。それは具体的にはどういうことであろうか。

 第一に注目しなければならぬのは、一二九四年から九八年において、ヴェネツィアは宿敵のジェノヴァとの問に第二次

の戦争を戦っていたということである。すでにのべたようにクルツォーラでの完敗をはじめ、情況はヴェネツィアに不利

であった。内政と貿易と、さらに軍事を指導する主脳陣として、当時の五〇〇名前後の貴族をもってしてはいかにも手薄

であったであろう。

 いっぽうジェノヴァは、=一八四年ピサをやぶり、一二九八年ではクルツォーラでヴェネツィアを撃破し、十三、十四

世紀はじめには繁栄の絶頂に達したのであった。フィレンツェの有名な年代記作者ジョヴァソニ・ヴィルラ:二は、ジェ

                                  ⑭

ノヴァ人をキリスト教徒とイスラム教徒の中で最も富み最も強力であるとのべた。ヴェネツィアはこの怖るべき敵と戦っ

                          ⑮

ていたのである。この二つの都市は、 “イタリアの二つの炬火”とよばれ、世界の最も重要な商業の中心地であり、とも

に広大な植民地を有する強力な共和国という点で共通していた。

                                     ⑯

 しかし両都市の歴史的運命が異っていたように、その政治欄度の相違も明確であった。

 ジェノヴァにおいては、新しくその都市に移住してきた諾すべてに市民権が賦与された。いっぽうヴェネツィアにおい

ては、 二五年間定住してきた老で、都市の強制公債の割あてを着実に消化してきたことが市民権賦与の条件であった。

                                                   ⑰

(尤もこれは一三四八年の黒死病のあとと、ジェノヴァとのキオッジャ戦後の一三八二年には一時的に緩禰されている。)

このような市民権についての政策の相違は、それぞれの植民地での政策に投影していた。たとえばコンスタンティノープ

ルのヴェネツィア人のマルコ・ミノヅト該弩。o寓ヨ。窪。なる人物が、次のような不満をもらしていることをききのがす

ことはできな魎それによれば・ヴ・ネツ・ア出先官讐・ヴ・ネッ・ア支配下の領民であることを聾する人びとにた

いして、四代前の先祖にまで遡ってこと細かに調査するのだという。したがってミノットは、ヴェネッィアの領民とみと

められなかった個人がジェノヴァの領罠の資格をとろうとして、それがいとも簡単に実現することを歎いているのであ

11 (685)

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る。 「ジェノヴァ人は、彼らの父親が誰であるかにかかわらず、すべてを受けいれる。たとえ当の人物の出身や財産から

               ⑲                 ⑳

してヴェネツィア人であったとしても。」彼はさらにいう。「ロマニアロ。日斎灯では、われわれはたえず数が減り、ジェ

ノヴァ人は常に増えていく。というのは、彼らの父や祖父がヴェネッィア入としてもっていた特権や権利を彼ら自身が行

使できないと、多くのヴェネッィア人のみならずギリシア人までもがジェノヴァ人に変ったからである」と。彼はドージ

ェの善処を要望して、最後に強調している。 「その数がたくさんひしめいている連中というのは、少ししかいない人びと

       ⑪

よりも恐れられる」と。そこには数の上でジェノヴァ人におされたヴェネツィア人の危機感が明かに現われている。すな

わちジェノヴァとの対比において、ヴェネツィア貴族階級拡大の可能性が存在し、しかもそれによって平民の協力をうる

ことができるという一石二鳥の効果がありえたのである。

 しかも重要なことは、このミノットは有力貴族の一員であるということである。このことは、当時のヴェネッィア貴族

階級ができるだけ凝縮しようと意識していたのではなく、むしろ逆に、外国人や平民を導入して門戸をひらいたドージェ

のグラデニーゴのセラータにたいして、貴族が同意する可能性が高かったことを示すであろう。

 ここになってはじめて、セラータの真の意味がおぼろげながらうかび上ってくる。セラータがジェノヴァとの死闘を背

景として実行されたことは、次の事実を明示するであろう。

 第一に、手薄の貴族階級を補充するために、有力で協力的な平民、海外からの亡命老を貴族に加えること、第二に平民

に大議会への参加の可能性を残して、平民の国家への献身を期待したということである。そして第三に、彼らの意図は、

貴族の人口問題めぐってのジェノヴァを意識した措置であったにちがいない。セラータをもたらしたのは、 (これまで指

摘されることはなかったが)、実はジェノヴァとの戦争だったのである。第四に、それまで大議会に加わることは、偶然

       ⑫

の要素に左右されて貴族に大きな不安を与えていたが、全員参加と世襲というセラータの改革によって、貴族に安心感を

与えたということである。

12 (686)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

③o剛二戸0①。・ω納9ミ皆§、ミ霜愚さミミミさミい・旨℃=鵠撃pお⑰。。層

 くO一H讐O㊤やくH二

② ○■いOσq螢旨◎扁空誉ミ馬犠噛N恥⇔O職ミ黛画論 藩壽画題賊曳NO~賊M矯9]いOロαOP

 一〇刈ド℃・蝉

  閃.]Uρ旨ρ<O昌卿Oρ鼠き嚇.軌畿ミ恥肉馬憾ミ伽翫y切騨一呼幽ヨO冠ρHり圃Qσ’℃.リド

③閃.O。。。ω押愚噂ミ‘<9目H噂℃.ら.

④ 画驚奔噂くOドH”℃℃凸目心Q◎1日αド

  いO。嗣)①〈冨触O特,職馬ごや.H①■

⑤ω■男9奉三戸9ミ智b§帳ヤミ註ミ刷ミ嵩矯§覧円㊤設噂娼H巴.職昌

 もQOOlQQOH.

⑥一.ρU。≦ρ息9ミ..弓」。。.

⑦多義ぎoQき暮Pb賊ミ斜区ピく唱窃①Φもb。9によれば一五二七年に二、七

 〇五人に達している。

⑧d。く圃。。計器髄ミ‘℃℃。b。目も。。●

  OOg7巴.O特.“笥..HH讐℃℃.GofQg。

⑨oh■ρい。αqp鈍愚凸ミごや。。’

  回O凸一)①〈ジ.O賢驚蝋ご℃℃.一りIb⊃ド

  閑90①oり匂◎漕O特9翫計H押℃℃。窃IoQ.

⑩。h・旨い翼。ヨざμ寄§“や§馬湊こ。§驚嚇、雨”U9乙8L㊤鐸署。

 卜診Oω1路0戸ω,

  尉.ピPロρO憶●鼠燃ご勺℃.日HH-HH8

  W.H.マクニール著清水広…郎訳「ヴェネツィア」【九七九年、

 七五頁参照。

⑳屑●ρピきρ.、↓9¢巳鷺σq・導①暮9夢①αq同¢暮8呂。臨oh<①-

 口ざρ圃昌鳩ご蔦驚恥忌ミ肘聖無O蕊らa富“角しαooP団ω℃門㊦ωΦ昌叶㊦α伴O妻巴ごO①

 機■司田σq麟ωO戸①昌幹}剛O梱口OξOρ⇒O≦.頃’ω挫09肖ゆ巴ρ日巴O臣沖P

 HO¶押娼■爬切野

⑫§風;

⑬塑N.囚巴pさ§§ぎミ黒9いG篭駐”O§。§§織目9斡§§ミ§ミ

 昏馬誘§.・脳き恥象費ミミ壽導-O鴨ミ袋蔓b馬㌧噛、象笥O起噂属Oゴ、葭9<O=噂ド㊤“9

 や㎝。。。

⑭§恥.,

⑮=二四二年、ドージェが商業活動を行うことを禁止した法令も、実

 際にはまもられなかった。切・N・卍巴孚。び。暦ミ・噛や①。。・

⑩渾Uきρ壽ミ“恥‘署レ8幽

  マクニール「前…掲講こ十三頁。

⑰ マクニール「晶嗣掲蹴悶」二六頁。

  司.U餌鵠O。§謡鳶馬こ℃●切卜⇒1αもゆ.O卜⊃℃一ωQQ1轟ρ

⑱い。冨N…国蟹玉§山層旨§載ぎ騒Nぎ§層§§さ嚢ミ§制馬§榊起ミミ”

 翼OぞくOH〆.H㊤0伊娼やH刈湛-同◎Qω曾

⑲O■い震鎚ヰρ恥ミミミ無ミミ馬§§ミミ§§軌§3℃銭。くp”

 同㊤α距や一αG◎鞠司巳ピ㊤コρ壽噛鰍詩馬ごやH画ρ

⑳ 航海条令は協同経営に打撃をあたえた。

  口.O①6陰ω押審ミ麟鳥a価織魯O嚇さミ賦騎恥帖寄遣貼無黛遣ミ§8ミ駄O”幻〇四つ2

 回㊤αbo層℃唱曾αα1①.

⑳ゆ.N胃角a鷺℃愚■ミ‘や蒔Φ.

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⑳ O.O鴫砂OOO噛硫O鼠ぐ。ミ恥象aO“鱒。。軸§Φ§O魯O 贈$い樗ミ唾ξ.男冒⑦昌Nρ

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⑭ 男・い僧Pρ、、円げOO巳斜「σqOヨΦ口け.讐層℃やbΩω『一。◎璽

⑳》回雪$Up滋gρO冒〇三8響・謀。・曽貯竃μ塁庁。鎚謁§§寄蝕し

 “黛隷ミ嵩の噺蕊辱&惹勲〆囲押ど℃噸ω↓9

13 (687)

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(⑳ 悌U騨鐸ρ.、月げ¢o巳鶏σqo日Φ謬轄、、噂や8c◎■

⑳ ohこト}.客。づ蕊。劃。辱’紅野℃℃.卜。に/卜σ魅。や

  局■いp口ρさ邑ミ弓℃唱■=劇-嵩S

⑱ バイアモソテ.ティエポロは、マルコ・クィリー二と結んで、ドー

 ジェのグラデニーゴの政策に反対し、平民や外国人の貴族への参加は、

 貴族の権利を危くすると考えていた。グラデニーゴ家とティエポロ家

 との不和が背景にあった上に、フェララ戦争、教皇による破門をも考

 えられる。ヴェネツィア史は、一般に、ゲルフとギベリンの党争に毒

 されなかった唯一の都市とされているが、ティエポロの反乱は、ゲル

 フによってひきおこされた可能性が多い。一ゴ 〇九一一一年のフェラ

 ラ戦争は、隅内的に主戦派と反戦派との対立を生み、撒皇庁は反戦派

 とむすび、ここにゲルフが介入する余地があった。。h二円いきρ.、目げΦ

 。三胃αq㊦旨①9。、、’℃.卜。劇ρまたこの反乱は、分離派貴族による現在の政

 府の申のポストを奪取するための反乱でもあった。oh匂国■OΦωω酒憩㌣

 噛、ミ賊無智勘馬㌧袋客気ミミ壽嵩上ミ”押やb⇒QO⑦陶

(⑳ 同いρ讃¢管.、6財①o巳斜お。ヨ㊦鵠げ、.層やbσホ’

  Q6.Oげ。甘po謀層.、H箒ω⑦貧。プ。臨く。嵩①江斜口℃㊤挫嵩9馨ρ.、頓や黛・

⑳切●Uきρ.、月冨・三二σq・旨①碁、.りやト。恥。。辱

⑳。h..切・℃島pp肉§§恥憾8壕§肉§ミ題§§誉§焼鼻O絵。耳

 お謡■

⑫ ラグーサは現在のドブロブニクの北。

  司・いρ口。、..目げ。①三餌目σqoヨ㊦づげ.、.りやbσ蒔9

⑳V O’<一一げ巳”O『oロρoPに掬蒔料.

⑯ ペトラルカの表現。ヴェネツィアは、一三三八年には人口十二万を

 こえたが、ジェノヴァはいかなる時点でも十万はこえなかった。いず

 れの都市も四八年の黒死病で大打撃をこうむり、ジェノヴァは一三四

 一年の約六〇%に減少。いっぽうヴェネツィアは、一三六三年には住

 罠六万五千。

⑳政治的にはヴェネツィアが常に安定を示したのにたいして、ジェノ

 ヴァは党派争いに終止して、遂にその自由を売り渡すにいたる。フラ

 ンコ・サケッティはその『ノヴェルレ』七一で、ジェノヴァ人をばら

 ばらにちらばるロバの群れに、またヴェネツィア人をぴたりとよりそ

 う豚の群にたとえている。

  ジェノヴァ人は個人主義へのはっきりした傾向を示し、彼らの船舶

 は落人において所有されていた。

  いっぽうヴェネツィアでは、船舶は公共財産であった。したがって、

 ジェノヴァがヴエネツィアにたいして長じていたのは、その独創性で

 あった。ジェノヴァ金貨は一二五二年に鋳造されたが、ヴェネツィア

 の金貨は一二八四年にあらわれた。最初の海図がジェノヴァに現れた

 のは=一 一一年であるのにたいして、ヴェネツィア人の海図は=二六

 七年である。保険契約もジェノヴァでは=二四二年に現れるのにたい

 し、ヴェネツィアでは、一三九三年以降である。公共の機械時計も、

 ジェノヴァで;一五四年に使用されているのに、ヴェネツィアでは、

 はるかにおくれて=二九二年からである。ジェノヴァ人がジブラルタ

 ルをこえフランドルにいたったのは一ご七〇年代であるが、ヴェネツ

 ィア人はそれに約四〇年のおくれをとっている。

  以上から理解されるように、ヴェネツィア人は保守性、後進性のそ

 しりはまぬがれない。

⑳ σq・轡鐸NN舞8魑99、智魯。濤。ミミ§壽慧磯軋翁斜ミ、湾ミ眺罵題8ご噂

 くΦ鵠㊦N凶3お①到やぱ①。

⑯ 司。い2影ρ:目げoo巳碧σq㊦ヨ⑦p鉾..りや謡ρ

⑳帖守ミ=

⑩ 東ペロポネソス半島皿帯の地域。

@謡い磐ρ。、目δ。巳胃σq。旨。鼻、、りやまP

(688)14

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@ セラータ以前では、貴族の家柄は必ずしも全部が全部大議会に席を

 占めるとはかぎらなかった。病気のためや、外国に赴いたりして議員

にならない実例は多い。

二 費族階級の確立

ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

 前章においては、セラータを単なる階級闘争(それは伝統的見解であった)として見るのではなく、多くの問題を内包

する貴族階級内部の問題であり、それと同時に貴族階級が他の階級を自己の中にいかにして包みこむかという運動であっ

たかを見た。このような見方をするとき、十四世紀のヴェネッィア貴族は、排他的、独占的ではなくて、柔軟で包擁的で

あったことがわかるであろう。

 ヴェネツィア貴族についてはひとつの神話が定着していた。それは、貴族階級はひとつの目的や理念にたいしては統一

の歩調をとる均質の共同体であり、その内部には平等の原則が支配していたというのである。しかもセラータがいったん

完成すると、前述のようにキオッジァ戦争のときを例外として、長い間にわたって、その階級への新加入をみとめない排

他性と独占性を一貫して保持していたと考えられることである。

 しかしヴェネツィア貴族階級は、一致して高遽な理想を追及して国家に奉仕した均質的な団体ではなく、さまざまの利

害関係をかかえた雑多なグループの集団であった。むしろ対立する利害をもった党派に分裂していたのである。

                             ③

 そのひとつは経済的利益の対立である。かつてチッシ罰「O。の段はヴェネツィア政府の財政措置を、貴族グループの中

のひとつの利益集団の優越の表現とみなしたのであった。レヴァソテ貿易から独占的利益をひき出した有力なグループは、

財政措置によって、自己業務の保護にむけて国政を沿わせようとしたのは当然であった。しかし、さほど裕福でなく、租

税負担のみを強いられて貿易の利益を受けとることの少い貴族のグループにとっては、抵抗しかありえなかったであろう。

             ②                                      ③

このことは前章であげたようにクラッコの分析するところであった。じじつ前述の=三一四年の航海条令は輸入を制限す

15 (689)

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ることによって、特定の貴族グループが利益を独占しようとしたごころみであった。あるいはジェノヴァ戦にたいする態

度も大いにちがっていた。それは一三五〇年代の討論の中で如実にみられるものである。

 ざらに、今ひとつの見方がある。年代記作者ドメニコ・マリピエー便り○毒Φ鼠。o鑑㊤ξδ目。は「他の多くの場所のよ

                   ④

うに、ヴェネツィアには二つの党派があった」とのべる。その党派とは経済的利益によって分かれるのではなく、家系に

よっていた。ヴェネツィアの名門には、その起源がきわめて「旧い家系」09。器く80ぼΦと、比較的「新しい家系」○霧。

       ⑤

守口。〈①とがあった。旧い家系に属するものはダソドロ、グラデニ!ゴ、コソタリ…二、モロシレニ、 コルネル、ジュス

ティニアー.二、クィリー二、サヌートなどの二四家、新しい家系としては、ドナ、モチェニーゴ、ロレダンなど十六家を

数えた。しかし一三五〇一六〇年代には、これらの家は全貴族の二二%にすぎない。これら二つの有力な家系のグループ

は合せて約四十家を数えるが、このほかにさまで有力でない家が数倍にのぼった。すなわち、ある貴族だけが富や政治的

影響を独占していた可能性は十分にある。(しかし注目すべきことは、圧迫された貴族が中産階級と同調して、主流の貴

族グループと闘うということがなかった。実にこの点が、フィレンツェをはじめとする他の中世都市と類を異にするとこ

ろである。)

 ヴェネツィア貴族の中に分裂があったのは以上のべたところであるが、貴族に新しく参加させるばあいの条件も決して

一定不変ではなかった。はじめは四十人会ρ舞鏡暮すのうち十二票を獲ればよかったのが、次第にきびしくなり四十人

                      ⑥

会の三分の二をとることが要求されるようになった。申請しながら承認をえられなかった老には三〇〇リラの罰金が課せ

                                          ⑦

られた。このことは、やみくもに貴族になりたがる連中のうごきを阻止しようとするものであった。以上から、一二九七

年のセラ!タで貴族身分が完全に確定されたのではなく、貴族の身分が何であるかをたえず模索していたことがわかる。

その努力は十四世紀を通じておこなわれたのであって、ヴェネッィア貴族は流動的であった。

 じじつセラータにつづく八十年間に、新人が入ってくると同時に、旧くからある家系が断絶することが少くなかった。

16’ (690)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

チョイナッキω$巳薯O財。甘ρo露によれば、貴族身分とほぼ認定される二四四家のうち、三二%が一三七九年以前に断

絶するか、一三〇〇年以降にはじめて登場している。逆にいえば、一二九〇年代から一三七九年まで存続した家は一六六

        ⑧

家(六八%)である。

 さて二四四家から一六六家をさしひいた七八家はどこから来たのであろうか。そのうち四一家は、たまたま=一九三-

九七年に議会に議席を占めていなかったが、それ以前には議席を有していた家である。(たとえば、閏。ω$嘗0①囲。。詑N慈霞堕

国日。などの諸家)したがって七八家からこれら四一家をひいた三七家がどこから来たかということになる。 その中には、

以前から貴族ととりひきのあった七軒、アッコソ陥落後ヴェネツィアに定住した二軒、ティエポロの陰謀を鎮圧するのに

                ⑨

功績のあった十四家などが挙げられる。 (このような論功行賞は七十年後、キオッジァ戦争後、再びとりあげられた。こ

のばあいは、戦争で生じた貴族の減少を埋めあわせる意味をもっていたことが考えられよう。)セラータといい、=二八一

年のばあいといい、平民の加入は、実はジェノヴァとの戦争を背景としていることは注目すべきである。

 いっぽう消滅する貴族の家系については、以下のことが推測できる。男系の後嗣がないときに消滅するのであるから、

消滅する家というのは必ず小さい家系であると断定できる。

 いっぽう、一三七九年に存在した一八七家に一三八一年に貴族に叙せられた三十家を加えると一=三家となり、これは

            ⑩

一二九〇年代の数字と一致する。このことは、消滅した家系と同一数の家を一三八一年に追加しようとする意志が働いて

いたことが推定できるであろう。=二八一年の新貴族の加入は、例外として考えるべきではなく、1一般にそのように

受けいれられている一、むしろ、十三世紀末からヤ四世紀初頭にかけておこなわれたセラータの継続であった。=二八

一年の三十家の新加入は、七〇年前にティエポロの陰謀の後十四家が貴族に昇格を許されたのと同じ原則なのである。

 以上から見てもわかるように、セラータは実に長い経過をもっている。それは十四世紀という長い過程の中で完成へと

導かれたのであった。       、    rゴ r  ピ

17 (691)

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 しかもその間のヴェネツィアの貴族階級は均質的ではなく、約四十軒の寡頭政治的な有力な家を核に、多数の中小の貴

族の家が存在していたことはすでにのべたところである。彼らはそれぞれ自己の利益を主張したのであって、貴族間の平

等や均質性は神話といわなければならないであろう。一例をあげると、=ご七九年にジェノヴァの脅威を撃退するために

政府がおこなった各家の財産評価の中には、五九人のモロシー二姓を名乗るもの、五六人のコソタリー二四を名乗るもの

                                     ・              ⑪

から、たった一名しか名前の見当らない家まで、これらに兇られるように家のサイズは実に大小さまざまである。それば

かりか識ルネル家の各メンバーの収入を例にとっても、低い者は五〇〇ドゥカ!ト、高いところは六万ドゥカートとばら

     ⑫

まかれている。しかもいっぽうでは、消滅する家、新加入をみとめられた家など、その消長は複雑であった。

 しかし、ここに注噂すべき現象が現われてくる。 一四〇三年に、四十人会が二名の四十人会の長O㊤覧&ρ轟蚕暮す

の名において、すなわちピエトロ・アリモンド℃δ霞。諺甑ヨ○⇔山。とピエトロ・ミアー二℃δ貯。鑑β巳が、大議会にた

いして、貴族の家系のひとつが断絶したときに、ヴェネツィア生れの平民の有力家族をそれを埋めるものとして貴族に加

             ⑬

えることを提案したのであった。このことのもつ意義はきわめて大きい。というのは、セラータ後の貴族に対する考え方

を見事に投影しているからである。すなわち、第一に貴族の家柄の総数を増やさないかわりに、減らしもさせないという

意向が働いていること、第二に平民に(とくに経済的に有力な平民に)貴族への新加入の門をわずかでも開けておいて、

平民の不満をそらすばかりか、平民が積極的に国家に協力することを期待していることである。すなわち、】四〇三年ま

で、セラータは一方的な貴族による平民の排除ではなく、その包擁作用を伴っていたということ、同時に貴族の家系の減

少をおそれるという傾向をもちつづけていたということである。

 しかし、この四十人会の二人の長による提案はドージェの委員会において否決されてしまった。この提案が拒否された

という時点において、ヴェネツィア貴族階級の性格の決定的な変化がみとめられるのである。したがって伝統的に理解さ

れてきた、一二九七年のセラータを貴族階級による平民の排除としてとらえるという理解は、実にこの時点において実現

IS (692)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

することになるのである。したがって人民集会が一四二四年に閉鎖されたという事実が関連をもつようになる。

 一四〇三年以前では、ヴェネツィア貴族階級は平民を吸収する原則を継続的にもっていた。ところがこれいこ二百年以

上にわたり、ヴェネッィア貴族階級は閉されたカーストとなる。逆にいえば、十五世紀にはいってヴェネッィア貴族階級

が確立したということができよう。十五世紀、十六世紀のヴェネツィアが、純粋の貴族階級支配の時代となるのである。

①男■Ooω。・押勺。ま凶8巴08目ヨ一〇脚象く①器N5ややNら。ふピ

 幻■Ooωω一℃9ミミ§、ミ需馬特へぎ、画ミごH閣℃。bρQσ①9

②○■998ρ曽§ミ馬乳ミ。.”勺℃.。。ミー繊9℃やω刈。。占。。劇●

③ω。Ω6U舜。謀嚇愚.ミ‘や窃P

 ¢N.丙巴。製。賢亀馬こ娼■継。。.

④。{‘oo。Ω回。甘p。繊魑。特ミごや劇り,

⑤ρい。σq窪、愚・ミ‘やト。…ωN.

 ω●○プ。甘β。o匡”o》職鳳.一噂やれ㊤1㎝ρ

 U■ω.Oげρ日9β§馬奪胴慧篭ミ鼠鷺ミ欝噛§魯い。昌α9μ噛H曾ρや

 o。ドこの二つの党派はとくにドージェ選出について争ったらしい。じ

 じつ奇妙なことに、一三八二年から一六二〇年にいたるまで、 「旧い

三 意識の変化と貴族階級の確立

家系」からはドージェは選出されていない。

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 ニニ八一年の貴族階級への平民加入は例外ではなくて、 一二九七年の継続であった。セラ…タの完成はすでにのべたよ

うに一四〇三年における平民加入の原則の提案の拒否の中に見られる。では、なぜ一四〇三年になって、貴族は平民加入

の原則を捨てて、貴族階級の排他性を確立したのであろうか。

 逆にいうと、中産階級に門戸をいくらかでも開いておいたことの意味は、第一に貴族階級自体の柔軟性、包擁性のあら

われである。それは、たとえ中産階級の新加入があっても、新しい要素に影響されることなく貸自己の中に包みこんでし

19 (693)

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まえるという自己の階級への自信であった。第二には、狡猜といってよいような、中産階級がより下層の階級と結んで貴

族階級と対抗することのないような懐柔策と、必要なときには、1とくにジェノヴァとの戦争の際に一、経済的のみ

ならずあらゆる分野で中産階級からの助力を期待しようとする下心があったといえるであろう。しかしこの第二の配慮は、

ひとつの実験によって克服できる見通しがついたのであった。ジェノヴァとの死闘は=ご七九年に頂点に達した。ヴェネ

ッィア近郊のキオッジァがジェノヴァ軍に占領されたヴェネツィアは、全面降伏をえらばなければならない瀬戸際におい

                                             ①

こまれるという未曾有の危機におちいりながら、よくこれに耐えて勝利を手にすることができたのである。こうしてそれ

以後数十年後にジエノヴァの勢力を排除して東地中海の覇権を完成することによって、ヴェネツィア共和国は自己への自

信を深めた。しかも、この苦しい戦争を通して、貴族階級は中産階級の献身をえたばかりか(その見かえりとして新しく

貴族にむかえた)、彼らがいちばんおそれていた下層罠の離反も体験せず、いよいよ経済的にも政治的にも独力で処理でき

                           ②

るという見通しを十五世紀はじめにもつようになったのであった。

 このように=一九七年のセラータの開始といい、一四〇三年のセラータの完成(こう呼んでよいであろう)といい、と

もにジェノヴァとの熾烈な戦争が背景にあったことは忘れることはできない。実にヴェネツィア貴族階級の確立は、ジェ

ノヴァの存在を無視して語ることはできないのである。

 しかし、ヴェネツィア貴族階級の確立にとって、上記の外的な誘因よりも、中産階級を包みこむ包毒性を失って、守勢

に立って自己の階級の中に閉じこもろうとする収縮性が一四〇三年の決定をまねくにいたったいきさつの方がより重要な

のではないだろうか。ことばを変えていうならば、=一九七年から一四〇三年にいたる間に、貴族階級の意識の中におい

て、包葉性や柔軟性を去って独善性と排他性にいたる何らかの内的な動きがあったのではないだろうか。これこそ重要な

のである。本章においては十四世紀のヴェネツィア貴族一般の意識の変化をたどることになるであろう。

 さて、十三世紀までを商人の英雄時代、商人の雄飛と不屈の企業精神の時代としてとらえ、十四世紀以降を経済の沈滞

20 (694)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

の時代と考える傾向は、ほぼ定着してきたように思われる。もちろん、前者から後薬への移行の時期を明確に指摘するこ

とは不可能であるが、全体的にいって、経済情勢、商人の活動、商人の意識の上に大きなへだたりが見られることは事実

であろう。

 おそらく十三世紀の終りから十四世紀のはじめにかけて、ヨ…ロッパの遠距離通商はその絶頂に達したことであろう。

しかし、その頂点から不振の時代へと下降していくことの誘因は、いうまでもなく二つの根拠にしぼられるであろう。

 第一には中国大陸、中央アジア、近東に広くひろがっていた蒙古帝国の瓦解である。ヨーロッパは、これによって黒海

以東のアジア諸国家との接触を失うことになる。=二四〇年以降、ヨー戸ッパは、アジアからの商品の輸入を、総じてシ

リア人やエジプト人などのイスラム教徒の仲介者の手を経てしなければならなくなったのである。そればかりでなく、ヨ

                             ③

ーロッパ人がアジアに足をふみ入れることは不可能になったのである。

 第二にはいうまでもなく黒死病の問題である。一三四七年末から=二五〇年にわたる大流行病は、おそらくヨーロッパ

の人口の三分の一を奪い去ったにちがいない。そればかりでなく、以後周期的に襲来する各種の流行病は、人口激減に回

復の機会を与えなかった。このことはとりもなおさず、ヨーロッパ市場の縮少を意味するものにほかならなかった。約十

                                        ④

二万人の人口を誇ったヴェネツィアも、一三六三年ころには六万五千人を数えるのみであった。以上のべてきた異常な二

                                  ⑤

つの現象が、ヴェネツィアに否定的に作用したであろうことは現像にかたくない。

 第一章ですでにのべたように、当時のヴェネツィアにとって二種類の異った通商圏が存在した。すなわちヴェネツィア

の通商活動がますます日常化する地中海における中核地帯と、冒険をともなうそれよりも外側の辺境地帯であった。 (後

老での通商にはコレガンツァとよばれる協問経営形態が採用されたことはすでにのべたところである。)しかし上述のア

ジアとヨーロッパとの交易の遮断は、ヴェネツィア商人から危険ではあるが利益の莫大な通商地帯を奪い、冒険商業の範

囲は急激にせばめられ、それに反比例して地中海周辺の通商は日常化し商人の定住化がすすむことになる。したがってコ

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レガンツァは無用化した。地中海周辺の通商が日常化し、貿易量が増大すれば、たとえ利潤率においてコレガソツァに及

                                 ⑥

ばないとはいえ、アジア通商の喪失を補って余りあるものとなったであろう。

 ところが地中海周辺が残された唯一の活動範囲となったときに、黒海沿岸の平面地は不安定な状態にさらされたばかり

か、エーゲ海やバルカンへのオスマン・トルコの進出がはじまり、さらにヴェネツィアにとっての後背地であるヨーロッ

パが、英佛間の百年戦争、ドイツの混乱、北イタリアにおける紛争、南イタリアにおけるアソジュー家とアラゴン家との

争いなどによって不安定な情況におちいっていった。

 しかもアジアとヨーロッパをつなぐイスラム教徒は、十字軍の報復として不寛容の度を深めていく。 一三五三年、アッ

                              ⑦

コンで宗教儀式を催したヨーロッパ商人は、式後ただちに逮捕された。イスラム教圏内では、安全通行麗なしにイスラム

の地域に来るヨーロッパの商人が殺害されるのは合法的であると考えられた。のみならず、今や公海も危険性をました。

海賊の横行がこれである。

 この困難な時期にあたって、ヴェネツィアの海外通商への投資家における貴族の比率は八一%に達していた。例えば、

                                                   ⑧

一三六〇~六二年におけるキプロスのフマグスタに定着していた二六人のヴェネツィア人のうち二二人が貴族であった。

 このような情況の中にあって、ヴェネッィア国内においてひとつの経済上の変化が見られる。 一四世紀はじめのヴェネ

                                       ⑨

ツィア人の商業手引書の中の計算問題は、一〇、一五、二〇、二五%の利益を仮定していた。じじつ=二三八年のジョヴ

                 ⑩                                    ⑬

アソニ・ロレダソのデリーへの冒険旅行のコレガソツァの利益は、年二四・五%にあたるとケダーは推定した。一二六八

年、ドージェのラニエ!リ・ゼーノ図碧δユN①⇒○がその財産を修道院に遺贈したときの条件は、コレガソツァ冒険事業

              ⑫

に投資すべしということであった。 ところが=二五四年には、ドージェのアンドレーア・ダンドロ》ロα目①㊤Up⇔αoδは、

                                         ⑬

自分の死後、財産は売却してコレガソツァではなく債権などに投資すべきことを遺言している。これらは一例にすぎない

が、十三世紀には冒険事業に投資されていたものが、十四世紀がすすむにつれて政府債券か個人貸付に投資されることが

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

目立つようになった。 一三六か年、ヴェネツィア国家では海上貿易に投資すべき金が、なすこともなく眠っていてくだら

ない消費生活に浪費されたため、国家は衰えていくのだという歎きの声がきこえてくる。その四年後にペトラルカは「黄

                                     ⑭

金をあなどり、名誉にたいする渇仰を(ヴェネッィア人は)示している」と書いたのであった。

 しかし、私がここでいおうとしているのは、冒険的英雄的商人の世界から暖衣飽食の金利生活者の世界へと、ヴェネツ

ィアが移行しつつあったということではない。これを強調するのは時期尚早であり、誤りでさえある。というのも十四世

紀は依然として商人の世界であったからである。

 貴族の子弟は少年時代の勉学が終ると、はるかな地域に航海をするのが常であった。その地で彼らは商業活動によって

自分の家の財産をふやし、同時に外国の習慣、法律、言語の専門家となった。そして一定の時期がすぎると本国に帰り、

                 ⑮

政治や商業に専心するのがふつうであった。このようなキャリアをたどらなかった貴族をさがすことはむずかしいであろ

う。ドージェみつから冒険事業に参加した。一三四二年、ドージェが商業をおこなうことを禁じた法令もほとんど守られ

         ⑯

ていなかったのである。ヴェネツィアにおいては、貴族は役職の選挙にさきだって、商業のために海外に出張する計画が

                  ⑰

あることをのべれば、公職を免除されていた。

 このように十四世紀ヴェネツィアの商業世界における外面上の変化は、さして目ざましいものとはいえない。政府債権

への投資も早い時代からはじまっていたのである。問題は当時の人びとの意識の変化であろう。

 当時のヴェネツィア人の手になったものを総合すると、華かな満足感から漠然とした不満や不安への移行がみとめられ

る。ニコラ・ボソ冒ざ。貯bdoゆと呼ばれる不詳の人物は、 =二一八年にその友人に、 全イタリアにおいてヴェネッィア

                                                  ⑱

のような都市はない、ヴェネツィアはよいことから、よりよいことへと、今から永遠に進歩するにちがいないとのべた。

そこには楽天的感情がみなぎっている。

 ところがこのような感情は永続しなかったらしい。一三六〇~八二年の間に書いた一年代記作者は、ヴェネツィアは多

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                           ⑲

くの不幸を身に受けて、自分の時代に衰退を体験したと書いた。また一三六八年ころ、ペトラルカは、四十年ほど前では

                     ⑳

ヴェネツィアはもっと繁栄していたとのべている。 『ヴェネツィア年代記』08三$<Φ濤戯ρ獲箏の作者やその他の人は、

ヴェネツィアの現情に不満をのべ批判を残すようになった。

 ヴェネツィアをめぐる不幸は公然とのべられるようになった。 「このみじめな世の中において、苦難は多く、絶えるこ

                                              ⑳

とがないほどなので………」というのが=二八四年のあるヴェネツィア人の遺言書の書き出しなのである。あるいは「今

                    ⑫

のこの世の中はいかなるよいこともない。……」とルッカから来た人物はくりかえし、さらにはルッジェーロ・コンタリ

ー二閃鐸σqσq興oOO算p甑巳もまた、 「人間が一時間たりとも快楽の時を楽しむことのない、 この悲惨で不幸な世の中」と

    ㊧          ■⑳

歎いている。今や憂うつ鼠巴営oo白僧は人びとの心に重くのしかかっていた。死への怖れ、神の裁きへの怖れが通常のこ

ととなったのはよく説かれると之ろである。パラッツォ・ドゥカーレの外側柱廊の柱頭に彫られた十四世紀末の作者不明

                      ㊧

の一連の場面は、突然の死をあらわしたものである。これらが最も人通りの多い(とくに貴族の)場所にかかげられた意

味をかみしめる必要があろう。

 このような無力感があらわれたことの原因は、明らかに黒死病、それも連続して襲ってくる疫病の影響であると考えて

さしつかえない。それは突然の死をもたらすものであったからである。しかし、この世の中を苦しみの世界と感じること

は、何もこの時代に隈られたことではない。それは歴史を貫くテーマであるにちがいない。しかしここで問題になるのは、

このようなヴェネツィア人の意識をもたらした心理的屈折作用そのものなのである。

 十四世紀はじめのヴェネツィアでは、逆境におちいることは、罪を犯したためであると素朴に理解されていた。 (この

                  ㊧

考え方は、十六世紀にあっても現れている。)それはキリスト教の伝統的思考である。ところが十四世紀も終りに近くな

                               フオルトウじナ

ると、この伝統的な思考は見られず、逆境のよってきたるところは『運命の女神』団○高義9に帰するようになった。ヴェ

ネツィア人が一三七九年に体験した未曾有の国難は、神のなせる業ではなくフォルトゥーナの仕業であると見なされた。

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

年代記作者O霧①臨巴は、ヴェネツィアの成功を聖なる神の盛業に帰する一方、その敗北をフォルトゥーナのきまぐれの

    ⑳

せいにした。こうしてフォルトゥーナは、今や、危険で歓迎されないものとなった。以前にはフォルトゥーナは、良い方

にも悪い方にも傾くものであると考えられていた。それが今や悪い方にのみ傾くものであり、人間の道徳の及ばないもの、

避けるべきものと考えられるようになったのである。

                   :                            ㊧

 フォルトゥーナとならんで危険臥甑8βコ曽。oということばはアラビア語匡Nρから来たものらしい。しかし十三世

                  ㊧

紀末には、それは良い意味に理解されていた。「良きリスクをもつ㊤〈賃お冨①σqoげ。口」というように、何か良い結果を引

き出すように思いきってある事を行うということを意味した。あるいは「フォルトゥーナとリスクをもって㊤α羽島。幻日

卑8詳β轟日事を運ぶ」というようにつかわれていた。それは危険唱①ほ。巳悶β唱⑦覧8δとは明確に区別されていたよ

うである。 一例をあげれば戦争に加って自分を危険にさらす践同葱至適ということが目巨8なのであり、その結果

として℃Φ臣霞貯ヨが迫り来るのであって、両三は同一ではなかった。ところが十四世紀の中ごろになると、臨。。8β導と

℃o臨。巳βヨとは区別されることなく、漢然と混同して使用されるようになってきた。このことは二つの単語の概念が不明

                  ⑳

確になったにちがいないとケダーは解釈する。つまり約一世紀の間に、ユ臨8日の概念に変化がおこったのである。それ

は肯定的な意味から否定的な意味への移行である。ユω答。とや。ほoOδとの距離はせばまって、終には重なるようになる。

それは何か事をおこせば(成功の見込みは少なくて)、たちどころに危険が迫るということを意味する。このような用語の

使用法の背後に何が横たわるのであろうか。

 よくよく成功の見込のないことには、手を出すな、決定的な勝利を望んで深追いして失敗をくらうくらいなら、ほどほ

どの勝利で満足せよ、自己の安全を第一とせよ、という考え方である。

 今や艮ωδoとは、何も失うものもないか、あるいはあっても少いような絶望的情況の下で、あえて賭けるべきものと

なった。キオッジァ戦争中の一三七九年末、ヴェネッィアには食糧の貯えはなく、住民はぞくぞく脱出する絶望的情況で

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あった。ヴェネツィアが援軍をまついとまもなくジェノヴァの包井軍に攻撃をしかけたのは、何も失うべきもののない絶

望的情況の中においてであった。リスクを冒すのは、他にいかなる選択の余地が残されていない時のみであった。十四世

紀後半になって、フォルトゥーナとリジコは、今や予測できない、剃御できない、人馬に対して敵意をもつものと考えら

れるようになった。したがって、できうれば、それらは避けるべき存在である。用意周到さと要心ぶかさのみが人間にと

って頼みとなるもので、それらこそ新しい道徳律となった。今や確実性のみが時代の指導原理であった。

 したがって文書の中で人名に冠する定型のよび方として、 「慎重な人」鼠8β日ωもΦ○言ω<貯ということばが用いられる

ようになった。あるいは同じく「用心深さ」”鑓畠Φ暮①ωという表現が随所に見られるようになった。慎重さと用心ぶかさ

                                     ⑳

は、フォルトゥーナとリジコの前の力弱い人間にとって唯一の防波堤となるのである。これらはもちろん美徳であること

には相違ないが、果敢なヴェネツィア貴族のもっていた積極性を抑圧するものにほかならなかった。つまり慎重さや要心

深さとは、消極性であり危険回避の思想なのであった。

 しかしここで注意しておかなければならないことは、十三世紀の人間はすべて積極的で楽天的で、十四世紀後半の人間

はすべて慎重で消極的かつ悲観的であると割り切ってしまってはならぬことである。それではあまりにも図式的であり、

精神の問題を考えるのにふさわしくない。相対的にそういうことがいえるというのであって、ひとつの傾向として留意し

ておけばよいのである。慎重さと用心深かさにかかわる危険回避の傾向にしても、同じことがいえるのであって、そうい

う傾向が強まったということを認識するだけで十分である。危険をさけ安全を求めるのは人間の本能であって、いつの時

代においても当然ありうることであるからである。

              ⑫

 さて、ケダーは興味ぶかい研究を示した。彼は、一三三九年に死去したドージェのフランチェスコ・ダソドロ閏話⇔o①ωoo

U雲α○}oの墓のためのパオロ・ヴェネツィアーノ℃㊤oδ<①ロΦN㌶口。の絵画と、 一三八二年に死んだドージェのミケー

レ・モロシー二冨ざげΦδ冨。困。既aの葬儀を装飾したモザイクとの間に注目すべきコントラストを発見した。両方とも、

26 (7eO)

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

ひざまついているドージェとドージェ夫人をキリストに紹介している二人の聖人を画いたものである。しかし描写の仕方

が全くことなる。前者においてダソドロ夫妻は威厳をそなえ、聖母やキリストと同じような大きさと同じような態度で画

かれている。人間と神との距離は無視されている。ところがモザイク画の方は、最後の審判を連想させるきびしさを感じ

させる。モロシー二夫妻は、キリストの前であまりにも卑小で、かつへだたっており、おびえた存在なのである。こうし

て十四世紀後半にあっては、人間の尊厳の表現よりも、神への服従、曲人への依存の感情が表面にでてくることになるの

である。それは人間への確信が崩壊し、積極的な行動に出ることをひかえて用心に用心を重ねる当時のヴェネツィア人の

感情と表裏一体をなすものであった。

 人間の自信の喪失と、超自然への依存が増大していくことは、その時代のヴェネツィアの各年代記の中に投影するとこ

ろでもあった。十三世紀のマルチィソ・ダ・カナルの年代記は積極的で命知らずの人間の行動にみちている。ケダーも指

摘するように、勝利は神のたまものかもしれないが、戦争は人間だけが闘うのである。したがってこの年代記の中には奇

蹟についてはほとんど語られない。例外はわずかにサン・マルコの遺骨に関してである。それはかすんだはるか過去の時

代のことである。彼の同時代には奇蹟がおこったことはのべていない。一三三九年に書かれたピアチェソティーノ冒8℃○

℃βoo幹ぎ。のヴェネッィアースカラ戦争bdΦ巨旨く①昌簿?の。ρ賦αqΦ毎日にふれられている奇蹟は、冬にもかかわらず春の

ような気候に読まれて有利に戦争をはこんだ、これぞ神の加護であるとする。しかしその他の年代記ではこの戦争につい

ていかなる奇蹟ものべていない。 =二六〇年ごろの『ヴェネッィア年代記』90巳8<窪Φ獣9・歪碁も、=二一〇年のティ

                             ⑭

エポロの陰謀のとき、奇蹟の雨のために反乱が鎮圧されたとのべる。以上簡単にふれたことの中で、奇蹟はすべて天候に

関してのべられたものである。天候による奇蹟は、これを奇蹟とみなしてよいであろうか。それは体験した人の主観によ

るからである。また一般の奇蹟が画かれているとしても、それは筆者の同時代におこったことではなく、昔からの伝承に

すぎない。

27 (701)

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                                             ㊤■

 ところが、キオッジァ戦争時代のヴェネッィアの書記官長ラッフィーノ・カレシー二口ρ津poO嚢。器。。旨M(戦後彼は貴族

に加えられた)の年代記には、戦争中におこった奇蹟が書かれる。それはジェノヴァ人が敗走することになる炬火の合図

                                        ⑳

を命じたヴェネッィア軍の伝令は、後になって存在しなかったことがわかったというのである。この奇蹟は暖い冬や、雨

という自然現象ではなく、ひとりの人間が現われて絶大な影響を与えて姿を消すという超自然の純粋な奇蹟なのである。

以上のべてきたことから、時代が下るにつれて各年代記の中で奇蹟は徐々に前面に現われてくるのがわかるであろう。人

間行為の中に神が介入する程度が強まっていくのである。

 一二六〇年、イタリア各地で現れた鞭打教団はヴェネッィアでは根をおろすことはできなかった。強い意志をもったヴ

ェネツィア人の知的風土は、その伝播に適していなかったのである。ところが時代がさがって一三九〇年十一月には、白

                                                ⑰

衣をまとった鞭打行者は、以前にはなかったようなひろい共感をヴェネツィア人の間によびおこしたのであった。これら

の諸現象は、近代に近づくにつれて、人間の意識は超自然的なものから離れていくというわれわれの素朴な先入感に強い

一撃を与えるものである。

 一方、黒死病による人口激減は広汎な人手不足をもたらしたことはいうまでもない。とくにヴェネツィアはジェノヴァ

とともに奴隷貿易の根拠地であるところがら、大量の奴隷(とくに女性)が東方からもたらされたのであった。それはペ

トラルカの証言するところである。ヴェネッィア貴族の家庭にあって、子弟は奴隷に養育され甘やかされるようになった

と考えられる。その結果、十四世紀末と十五世紀当初における指導案人物は、奴隷に養育されるようになった世代に属す

る。冒険や危険をおかす積極的な感情に欠けるようになったのは、この世代の特徴なのである。そればかりか、一三七九

年のおそろしいジェノヴァとの戦争の体験を味わった彼らにとって、戦後の虚脱感と安堵感とは、新しい局面を打解し開

拓しようとする意欲を消失させるのに十分であったであろう。

 現状に安住し、危険を回避し安全を確保しようとする傾向は保険下穿の採用によっても裏づけされるであろう。すでに

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ヴェネツィア賞族階級の確立とその背景(永井)

のべたように、ヴェネツィアでは=二九三年に採用されているが、このことはこの世代の意識を間接的に証明するもので

ある。

 かつては気宇壮大な事業にのり出していったヴェネツィア人の意識は、たえず限界をつき破ろうとする積極性に裏づけ

されていた。今や人間の無力を自覚しつつあったヴェネツィア人は、設定された限界内で自己を主張することになった。

たとえば十四世紀後半キプロス島のフェデリーゴ・コルナーロ団①αΦ二σpOO。旨舘○の砂糖プランテーションは余りにも有

                                  ⑳

名であるが、実は、それは十三世紀にすでに存在していたものであるにすぎない。フェデリーゴのおこなったことは十三

世紀の作業の再合理化であり改良であって、以前になかったものの創造ではなかったのである。

 せばめられた限界の中で人びとが努力するとき、おこりうることは競争の激化であり、弱老の排除であった。移動を好

む精神は鈍り、定着性が増す。ルッジェー戸・コンタリ!二なる人物は一四〇四年にいっている。 「余は大物である。し

                                       ⑳

かして余は海上の旅に出かけることはできない。.、ωo昌σq舜巳①①8口℃oω。。o⇔ρ〈①σq碧、”」と。

 それは当時のヴェネッィア貴族におしなべて見られた気風を表現したものにすぎない。それよりも四十年前、 『ヴェネ

     ⑫

ツィア年代記』は貴族のリストをかかげ、それぞれの貴族の活躍は、各家柄に本来そなわった伝統に由来するものである

とのべた。たとえば、ダソドロ家は分別があり大胆で、ジュスティニアー二家は慈悲ぶかい。一方、バルベリ…二家とレ

プレセリ家とは落着きがなく世界をかけまわる愚か者であるとしている。これは習険的貴族から定住型貴族への移行を示

すとともに、限界をつきやぶろうとする個人の活躍がもたらす価値をすでに忘れ去っていることを示すものである。以上

のことを背後において考えるなら、当時の貴族階級の意識の中には、家柄はとるに足らぬが偉大な才能をもつ中産階級を

すくい上げる余裕は、夢にも存在していなかったことがうかがえよう。

 特定の範囲で自己を主張しようとする貴族は、中産階級がその中にいることを好まなくなったのは当然であった。自己

確信のなくなった貴族にとっては、中産階級を自己の中にとりいれるどころか、それを排除することによって現状を維持

’29 (703)

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し、自己の安全を確保しようとする方向に向つたことは当然である。したがってヴェネツィア貴族階級は独善的になって

いく。政治と商業の世界の中で貴族の凝縮作用がおこったのである。

 一四〇三年、貴族階級が中産階級の加入を完全に拒否して、それ以後約二百五十年間にわたってヴェネツィア貴族階級

を固定的なものにしたのは、すでにのべてきたような十四世紀ヴェネツィアにおけるメンタリティーの強い収縮とむすび

ついていることを結論として指摘することができるであろう。

 ヴェネツィア貴族階級の確立は一四〇三年の中産階級の排除の決定による。しかもそれに先立つ数十年の間に、意識面

での背景が形成されていたのである。

30 (704)

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⑤ しかしヴェネツィアの通商に有利な影響を与えたという見方もなり

 たつ。すなわち、黒死病によるヨ…ロッ。ハの絶対的な人手不足は、黒

 海沿岸の奴隷を運搬する奴隷貿易をヴェネツィアにもたらした。また

 黒死病の生き残りは、一般に生活水準の向上が見られ、とくに東方の

 高価な消落餌への関心が高まったことによって、ヴェネツィアの貿易

 を刺激した。

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⑩ この旅行の生存者は;西三年八月ヴェネツィアに帰国した。

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 ℃.の①.尤も、ペトラルカはこの現象をたたえているのである。

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ヴェネツィア貴族階級の確立とその背景(永井)

⑰一二八八年、ガレi船の出発を前にして、事務処理のため公職を免

 除された実例がある。o蟄日琴。押。》ミごやq。㎝P

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⑲掛暮。巳09二}ρぎ“§“§ミいミ§軸§§黛盛》。噛§ミa落ミ㌣

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 一行一四三行。.

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⑫ きミ.噂一三七五年二月二三日、三月十七臥の書簡。

⑱ 軌守ミ‘一三九三年四月十九日の書簡。

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  なおホイジンガ『中世の秋』第二藁参照。

⑯ やω.竃。剛白㊦算卸卜&無ミ旨ミ壽隷偽触ミ論無ミミミ博蕊叢ミ噂目二〇。。8、

 冨刈oQ・H層やお①■

⑭十六世紀はじめのカンプレ…同盟戦争下にあって、ヴェネツィアの

 逆境を神のなせるわざという考えがひろがった。.

  拙稿『十六世配祀ヴェネツィア史における政治…意鵠誠の勘見醒』…弟二嵩単参

 照。

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           (同志社大学教授 隠

〔付記〕 本論文は昭和五四年十一月二β史学研究会大会にお

   ける講演に筆を加えたものである。

31 (7e5)

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The Establishment・of the Venetian Nobility as a,Ruling

              Class and lts Background

by

Mitsuaki Nagai

  Th6 esta戸1呈shm甲t of the venetian nobllity.a$...q..「rtil’ing. class.was

hot made ih the Serrata’ (‘the Closing iof’the Great Couricil’) of 1297,

but completed throthgh the lbng proceSs of the fourteeBth century.

Ip岬牟h・S・吻・吻S. n6t.・t蜘ph・f・箪・1圭9・・ckY・ver・th・pe・P1・・

わ瞬耳f孕ρt・、.繭d・・i・琴・f.th・..・uli・g・lass i・.・.fq・h茸9・desig・・d

l欝譜t6....岬erate..t’te,si蜘f f孕rt’o融融co甲mgne「s

亡hl血G畿。溜鷺ll,器1諜,、捷鋸、盤ぎ麓窪.纏溜

Qpe ,of.the nobl.e f. aiT}i!i’es dies out. But .this prQyo6al was rejectdd by

tlte’ du’cal council.  The ’rejeetion of this proposal’SYmbolizes a defi.nitive

change in the nature of the venetlan aristocriaby.’

  In this article, 1 have researched the social and mental background

of the e串tab!脚e頗.中e venrtian nobi1呈ty・qp a.r吻琴.=cl号ss in the

fourteenth centurY.

  The mood of the’・nobility in the later fourteenth century was a

response to the economic depression, and was reinforced by the

depression’s main effects, from the stiff competkion for the shrunl〈en

markets to the wldespread use of slaves. This mood constitutes, on

the psychologlcal level, the exclusive attitude of the venetian nobility.

AStudy on.the. H.istory of Kptmano熊野Copper Mines..

by

Atsushi Kobata

 It has. been known, that copper. mines. existed in the Kumano reglon

which...includes Minami-Muro District南牟婁郡gf. Mie Prefecture三重

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