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Title 『モレルの発明』あるいは影を追う影 Sub Title L'invention de Morel ou les sombres courant après les sombres Author 林, 栄美子(Hayashi, Emiko) Publisher 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会 Publication year 2009 Jtitle 慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (Revue de Hiyoshi. Langue et littérature françaises). No.49/50 (2009. ) ,p.229- 256 JaLC DOI Abstract Notes Mélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio = 小潟昭夫教授追悼論文集 Genre Departmental Bulletin Paper URL https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?ko ara_id=AN10030184-20091225-0229 慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)に掲載されているコンテンツの著作権は、それぞれの著作者、学会または 出版社/発行者に帰属し、その権利は著作権法によって保護されています。引用にあたっては、著作権法を遵守して ご利用ください。 The copyrights of content available on the KeiO Associated Repository of Academic resources (KOARA) belong to the respective authors, academic societies, or publishers/issuers, and these rights are protected by the Japanese Copyright Act. When quoting the content, please follow the Japanese copyright act. Powered by TCPDF (www.tcpdf.org)

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Title 『モレルの発明』あるいは影を追う影Sub Title L'invention de Morel ou les sombres courant après les sombresAuthor 林, 栄美子(Hayashi, Emiko)

Publisher 慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会Publication

year2009

Jtitle 慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (Revue de Hiyoshi.Langue et littérature françaises). No.49/50 (2009. ) ,p.229- 256

JaLC DOIAbstract

Notes Mélanges dédiés à la mémoire du professeur OGATA Akio =小潟昭夫教授追悼論文集

Genre Departmental Bulletin PaperURL https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?ko

ara_id=AN10030184-20091225-0229

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『モレルの発明』あるいは影を追う影 229

『モレルの発明』あるいは影を追う影

林   栄美子

 アドルフォ・ビオイ = カサーレス Adolfo Bioy Casares(191�−1999)というアルゼンチンの作家の名は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス Jorge Luis Borges(1899−1986)の作品の愛読者ならばなじみ深い名前であろうが 1)、最近はまた、クエイ・ブラザースの『ピアノ・チューナー・オブ・アースクエイク』2)といった映画作品の愛好者にもよく知られる名前となっている。

(以前にもすでに、アラン・ロブ = グリエがシナリオを書きアラン・レネが監督した『去年マリエンバードで』3)との密接な関係も指摘されていた。)それらの映画にインスピレーションを与えたのが、ビオイ = カサーレスの『モレルの発明』La invención de Morel(19�0)�)という驚くべき小説であったからである。それは早熟な作家であったビオイの 7 作目にあたり、これをもって実質的に作家として出発したと言える作品である。(翌 19�1 年に、第 1回ブエノスアイレス市文学賞を受賞している。)西欧に紹介されたのはやや遅く、フランス語訳が刊行されたのは 1952 年 5)になってからであるが、同じ年にモーリス・ブランショが『新 NRF』誌に載せた批評文 6)のなかですでに言及している。 ボルヘスに捧げられたこの小説には、ボルヘス自身が序文を付しているが、そのなかで彼は「作品の結構の詳細について作者と議論した」ことを明かし、その上で「完璧」と評して賛辞を捧げている 7)。 『モレルの発明』は、無人島に逃れてきた男が書いた手記という形式をとっており、同時に SF 的な結構をそなえた小説である。その意味では、「無

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人島」を舞台とする SF 小説の系譜に属しているようにも見える。その系譜の代表は例えば H. G. ウェルズ H. G. Wells(1866−19�6)の『モロー博士の島』The Island of Dr. Moreau(1896)であり、モレルという名はモローを想起させもする。しかし 19�0 年に発表されていた『モレルの発明』が、現代の個性的な映画作家たちの想像力を刺激したのは、何よりもこれが「映像」を主題とする小説であり、映像をめぐる考察から発して、人間の生と死、愛、身体、魂、不滅、などについての存在論的、現象学的な思索に引きこんでいく魅力的な仕掛けをそなえていたからであろうと思われる。筆者が、スペイン語で書かれたこの作品についての論考を書こうとする動機も、やはりそのあたりにある。だが、先走りを避け、まず作品の仕組みの解明と分析から始めていくことにしよう。

Ⅰ.一人称語りの手記とその 3 つの系列について

 序でも述べたように、『モレルの発明』は一人称で語られた手記/日記の形式をとっている。手記を書いている「私」は、政治的な理由による恐ろしい弾圧を命からがら逃れて、故郷のベネズエラを離れ、おそらく太平洋上に存在する、とある無人島にたどりついた男である。その島にやって来るまでの前史は、主に手記の初めのほうに、さらには途中や末尾で、わずかに書かれている内容から、おぼろげながら知ることができるにすぎない。これはあくまでも島での出来事をつづる手記なのである。 さて「私」は、ほぼ毎日こつこつと手記を書き継ごうとするので、それは日記のようなものになっているのだが、日付は付されていない(正確な日付が分からないためと思われる)。そもそもこの手記からは、時間も場所も特定し得ない。「私」にその島の存在を教えたイタリア商人の言葉によれば、最初に白人が来て建物を建てたのが 192� 年ということだが、島の建物で見つかる本は 1937 年刊であったりする。エリス群島に属するヴェリングスという名の島であるはずだ、と「私」は想定しているが、その地名は、ラバウルから一人で舟を漕いで半死半生でたどりついたという記述内容と結びつけるには、かなり無理がある。いずれにしろ作者は、時間も場所も意図的に曖

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昧にしていると解釈したほうがよかろう。 日付のない手記は、アスタリスク・マーク(*)で区切られた断片の連続であり、多少前後することはあるものの、ほぼ時間順に綴られている。全部で �7 の断片から成るが、必ずしも 1 つの断片が 1 日に対応しているわけではない。一続きのことがらが、いくつかの断片に連続して書き継がれることもあれば、何日かを飛ばして次の断片が始まることもある。 手記の内容からは、およそ以下の 3 つの系列の記述を見出すことができる。それを一つ一つ別に取り出しながら、それらの絡み合う仕組みを探っていこう。

1)第 1の系列=「信じ難い出来事」についての記録・考察・その真相

 まず確認しておくべきことは、この手記は、到着した当初からではなく、「私」がこの島で「ある信じ難い出来事」に出会った日から書き始められている、ということである。その出来事の証言を残すために書き始めたのだ、と「私」は理由づけている。従って、手記の半分以上は、その出来事についての観察記録と考察にあてられていると言ってよい。手記の断片に順に番号をふるならば、第 1 節から第 25 節ぐらいまでがそれにあたっている。 自分一人しかいないはずのこの無人島に、夏の初めのある日、突然観光客のような人々が現れるところから手記は始まる。船が着いたような気配も何もなかったにもかかわらず、降って湧いたように人々が丘の上に現れたのである。長い逃亡の末にこの島にたどりついた「私」は、追手がついにここまでせまってきて、自分を罠にかけようとしているのではないか、という強迫観念にあおられ、ようやく順応したばかりの住処を離れて、島の南側の低地にある湿地帯に隠れることを余儀なくされる。突然現れた人たちは、裕福な観光客の一グループらしく、優雅に過ごしているが、土砂降りのなかで音楽をかけて踊ったり、長年打ち捨てられていた汚いプールのなかで平然と泳いだりと、奇怪な行動もみせる。その上、突然にまた人々の気配が消えてしまったかと思うと、しばらくのちにまた忽然と出現したりする。「私」は彼らから身を隠し、おびえ、戸惑いながら、遠巻きに観察するしかない。

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 この島を「私」に教えたイタリア商人は、そこが最後の逃げ場として適している理由を、こう話していた。その島には 192� 年ごろにある白人が建物

(博物館、礼拝堂、プール)をつくったのだが、結局そのまま放っておかれて今では無人島になっており、しかもそこは、人間の身体が外側から中へと朽ちて腐っていき、1 ~ 2 週間で死に至るという、得体のしれない病気に汚染されていると言われているので、もう誰も近づこうとしないのだ、と。だがこれまでのところは、「私」の身体にそのような変調は起こっていない。 人々が二度目に出現した日の翌日、なんと空に二つの太陽が現れて、倍加した光と暑さに島は襲われる。夜には二つの月が出て、白夜のような明るさになる。「私」はそれを何かの原因でおこった蜃気楼現象ではないかと推測し、第 2 の太陽の方は「おそらく本物の太陽の映像だろう」8)、と考える。

「私」が直面している不思議な現象の解釈として、ここではじめて〈映像〉imagen という言葉が使われていることに注意しておこう。 人々がホテルのように使っている「博物館」と呼ばれる建物の机の上に、以前そこから「私」が持ち出したのと同じ本が置かれている。「私」はポケットのなかに入れてある本とそれとを比べてみて驚く。タイトルが同じなだけでなく、外見のすみずみまでが全く同じなのである。「二冊の同じ本ではなく、同じ一冊の本が二重にあるのだった。」9)二重に、ということは、これもまた映像なのか?しかし、ここにはまだそれを確かめる記述はない。(人の気配がして「私」は隠れなければならなかった。)だがこのあたりに、そろそろ種明かしを始めようとするマジシャンのような作者の気配が少しばかり窺がえるだろう。 「私」がとうとう不思議な出来事の真相を知るに至るのは、旅行者グループの一人である科学者のモレルが、仲間たちを前にして打ち明けているところを、こっそり覗き見ることによってである。(第 26 節から第 29 節にかけて、一続きに集中して書かれている。)あくまでも一人称語りの手記形式をとっているので、そのような聞き書きの形にせざるを得ないわけであるが、作者は形式の限界を逆手にとって、それを効果的な舞台設定として利用していると言える。つまり、モレルの仲間たちと同時に「私」がそれを聞くとい

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う設定は、さらにそれを読んでいる読者にもまた、その場に忍び込んでいるような緊張感と臨場感を与え、一気に真相解明へと引き込む力を発揮しているからである。 科学者であるモレルは、自分の発明した最新の機械を用いて、自分も含めた仲間たち皆のこの島での一週間を、すべて映像に記録した、と打ち明ける。その機械で撮られた映像は、普通の映像とは異なる。人間の発する特殊な波動と振動をとらえる方法を獲得したのち、さらにそれらをうまく組み合わせることによって、視覚ばかりでなく人間の五感のすべてに訴えかける、実在の人間や事物をそのまま再構成したような「映像」ができる、というのである。人間は誰でもいつかは死に至り、肉体は消滅せざるを得ないが、「映像」は死なずに残存することができる。記録され、保存された「映像」を再生すれば、実物とそっくりそのままのコピーが現れる。スクリーンも何もいらず、空間に現出させることができるのである。親しい仲間たちと快適な場所ですごした一週間は永遠に残る。しかもこの島のまわりの潮の干満の動きを動力源としてモーターが動き、自動的に映写が行われるように設定してあるので、その一週間はいつまでも繰り返され続けるのである。(実際には、潮の干満の計算の誤差か自然の変動のために、モーターが時々止まるようになったので、映像はそれに伴って時々消えたり、モーターが動くとまた現れたりするという事態になったのだった。)「私はみなさんに楽しみにあふれた永遠をさしあげたのです」とモレルは言う。 しかしその代償として、その機械で撮影されると、人も動物も植物も、まもなく命を失うらしいのである。モレルがかつて実験的に撮影した人々が、その後みな死んでいることに仲間の一人が気づいて問い詰めると、モレルは怒って部屋を出ていってしまう。(ホールから人々が去ったあと、「私」はモレルが置いて行ったメモを手に入れて、それを手記に書き写し、モレルの説明を補完する。第 30 節にそれが書かれている。) この驚くべき真相が語られる場面も、「私」が覗いている現在時に起こっていることではなく、実は何度も繰り返し再生される「映像」の一部だった、ということになるのである。そしてその場面は、撮影された一週間のな

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かの最後の 7 日目の夜のことであるらしく、映像にはその先はない。従って、最後に呈された恐ろしい疑問は、宙吊りにされたままになってしまう。 しかし我々読者は、小説の初めに書かれていた、この島に特有な死病―

身体の外側から内側へと腐って朽ちていくという病の原因が、実はモレルの機械にあったことに気付かずにはいられないだろう。この島をめぐる言い伝えのなかにあった、島の近くで発見された汽船と、死にかけたその乗客たちのありさまも、モレルとその仲間たちに結びつけてみずにはいられないのである。 以上から分かるように、この第 1 の系列こそが SF 小説としての面を担っていると言えるだろう。

2)第 2の系列=不可能な愛の物語

 第 1 の系列に途中から(第 5 節から)ほぼ重なり合うようにして第 2 の系列は始まる。その一部でありながら、内容としては独立した系列をなし、やがて第 3 の系列にも深く関わって、最後には第 3 の系列と合一していく。いわばこの小説の表層に見え隠れしつつも、実際には主筋となって全体を支えているのが第 2 の系列であると言えよう。ここで語られるのは、不可能な愛の物語である。 突然現れた人々の中にいる一人の美しい女が「私」の注意を引き付ける。

「私」は特異現象の起こった初日の午後に、島の西側にある岩場の上で、沈みゆく夕日を眺めながらもの思いにふけっているその女を見かける。色鮮やかなスカーフを頭に巻いた、ジプシーかスペイン人のような容貌の、豊満な美しいその女は、毎日夕方になると岩場にやって来て座りこみ、静かに夕日を見ている。孤独な生活をしていた「私」は、その女に心を惹かれ、毎夕女が現れる岩場に足を向けては、秘かに姿を見つめるようになる。「私」がその女に向ける注意が特別なものであることは、彼女を指す表現が「夕日の女」「黄昏の女」といったように、他の人々を指すのとは趣きの違う表現をとっていることからもすぐに感じられる。 しかし女は「私」が工夫をこらして話しかけようが、思い切って愛の告白

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をしようが、全く反応を示さないばかりか、「私」など存在しないかのように平然と無視する。しかも、彼女のそばにはいつも付きまとっている男がいるのである。その男の服装や容貌の描写に見られる辛辣な皮肉から、「私」がすでにこの男に競争心を燃やしていることがうかがえる。聞きとれる彼らの会話から、二人はフランス語を話しており(観光客たちがカナダから来ているらしいことが、手記中の幾つかの細部から想定し得る)、女はフォスティーヌ、男はモレルという名前であることがわかる。モレルはどうやらフォスティーヌに気があるようだが、女のほうは男のアプローチをやんわりと拒絶している。孤独な逃亡者である「私」は、次第に彼女の姿を見ることが生きがいとなり、全く接近できぬままに、それゆえますます思いを募らせていくのである。 第 1 の系列の最後の部分をすでに知っていると、この二人もまた「映像」であるわけだから、フォスティーヌにとっては「私」は存在しないのであり、女が平然と無視する態度も当然のこととして理解できるだろう。しかし、彼女の描写が初めて書かれるのは第 5 節であり、そのあと第 1 系列で真相が書かれる(第 26 節から第 29 節)までに、彼女もモレルも手記のなかに頻繁に登場してくるのである。そのため、読者は「私」と同様に、彼女の反応(実際は反応してさえいないのだが)にとまどい、奇異な印象を深めるばかりとなる。ところが実際には、恋する男の心をかき乱す彼女の「非人間的な」10)無関心さが、実は恋の駆け引きなどではなく、彼女の存在の超常的な真相(人間ではない

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)を暗示するものであるという、想定外の仕掛けがあったわけである。 第 2 の系列に属する、フォスティーヌとモレルの言動を「私」が執拗に観察する描写のなかにも、必然的に第 1 系列の不思議な現象が入り込んで来ざるを得ないので、たびたび読者は注意を引かれることになる。モレルが「一週間前に耳にしたのと同じ言葉で」11)フォスティーヌを口説いていたり、彼らがあるときは親密度を増した口調で話しているかと思うと、数日後にはもとの口調に戻っていたり……12)(彼らはフランス語で話していることになっているので、これは tutoyer と vousvoyer を指している。)「私」はまだ、同

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じ一週間の映像が繰り返し再生されていることを知らないのだから、偶然出会った場面がひとつ前のクールの同じ場面であるとか、実際には時間的に後から撮影された場面のほうを先に見ていることになるという事情がわからず、自分なりにこじつけた解釈をするしかないのである。 このような、事柄の真相に結びつくような様々な細部を、読者の注意を引き、記憶にも残るように周到に配置しつつ、読者を謎解きに参加するよう仕向けて行くという仕掛けは、推理小説や SF 小説を成り立たせるための重要な要素である。この小説では、それらの細部を第 2 系列=不可能な愛の物語のなかの意味のある出来事として描きながら、同時に第 1 系列における真相を解明し理解するための手掛かりとしても機能させていることになる。手記のなかで第 1 系列と第 2 系列がほぼ重なりあいながら続いて行く理由は、まさにそのあたりにあると言えよう。 さて、島に突然現れた人々が、実在の人間ではなくモレルの発明による

「映像」であるとしたら、おそらくはみなすでに死んでいる可能性が高い。当然フォスティーヌもまた「映像」であるならば、すでに死んでいるということになる。いつかこの島を出て、どこかへフォスティーヌを探しに行き、実在の彼女に会いたいという望みも、ありえない幻と理解せざるを得ない。彼女の「非人間的な」無関心さは、人間ではない彼女と人間である「私」が、文字通り別の世界に属しており(まるで彼女が隣接するパラレル・ワールドに属しているかのように)、コミュニケーションの可能性はあり得ないという、恋する男にとっては実に残酷な事実とも結びついていたのである。どうにも働きかけようのない存在への不可能な愛……さらにこの第 2 の系列のクライマックスは、第 3 の系列と合流していくことになる。

3)第 3の系列=愛と不死の成就へ

 第 3 の系列は、第 1 の系列が終わったところから始まる。第 3 の系列に至って、小説の展開は劇的な転調を迎える。 フォスティーヌへの愛が、不可能な愛であることを悟っても、それでもなお、「私」は彼女の「映像」を見ることが何よりの喜びであり、すでにそれ

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なしには生きられなくなっている。(「映像」に恋するという事態は、この小説が書かれた時代よりむしろ、現代における方がリアルに感じ取れるのではないだろうか。)「私」はついに、この不可能な愛を成就させるための自分なりの解決法を見出す。自らも「映像」の世界の一部となることで、フォスティーヌとの絶望的な障壁を越えようとするのである。 まずモレルの発明した機械を観察してそのメカニズムを学び、操作法を習得する。そして、彼女の登場する場面に自分が入り込み、彼女の発する言葉にうまく適合する台詞を返し、動作も自然に対応するように演技しながら

(うまく演技するために細部まで研究を重ね練習を積んで準備するのである)、それを撮影していく。「全体として、ふたりが、はなれては暮らせぬ仲良しで、言葉を交わさなくても心の通じあえる仲に見えること」13)を企てるのである。撮影が終わると、それを記録したレコードをモレルのものと取り換えて、映写する。こうして、新しく作り直された一週間の映像が、旧ヴァージョンに代わって、繰り返し映写され続けることになるわけである。 しかし、機械操作の習得の過程で、その機械で撮影した植物は枯れ、動物は死ぬことを「私」は実際に確認している。自分の身体に変調が起こり始めたことも感じている。それでもなお「私」は、自分の死と引き換えに、愛の成就を―たとえ映像の中でそう見えるだけだとしても、それが唯一の可能な方法である以上―それを求めたのである。愛する女と永遠に「映像」のなかで共存するために、愛のための死を選んだことになる。身体を次第に死病に侵されていきながら、「私」は自作自演の「映像」を至福の思いで見つめている。 モレルの発明に関する機械的な描写や、現象の説明の部分に関しては、どうにも時代遅れな部分や、細部のあいまいさが残るため、SF 小説の観点からは首をかしげるところもないわけではない。しかし、この第 3 の系列と第2 の系列を合流させた結末には、それらすべてを払拭して、この小説の世界を一挙に別の次元へと転換させる力がある。 こうした結末も含めてこの小説の設定には、執筆当時 20 代なかばであった作者の、ロマンチスムと表裏一体となった、恋愛をフィクショナルな現象

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と捉える独得な見方が覗ける。こうしたビオイの作品の特徴について、メキシコの詩人オクタビオ・パス Octavio Paz(191�−1998)が実に適切な表現で評しているので、その一節をここに引用しておくことにする。

「ビオイ = カサーレスのテーマはコスミックなものではなく、メタフィジックなものである。つまり、身体とは想像上のものであり、われわれはその幻影の専制のもとに生きている、というのである。そして愛とは、われわれがこの世界ばかりでなく自分自身の非現実性をも、それを通して最も全体的かつ明らかに捉えることのできるような、特権的な認識なのである。われわれは影を追い求めているが、そのわれわれ自身もまた影でしかないのだ。」1�)

 自分が作りだした擬似的な「不死」に殉じて自らの存在を意図的に抹消したかに見えるモレルも、小説のそこここでほのめかされているように、実はフォスティーヌを愛しており、この世では遂げることができなかったその思いをまるごと、彼女と共に「映像」として永遠に生きるという企図へ投げかけたのだろうと思われる。この意味で、「私」とモレルは相似形なのである。(この点については次節で詳述する。)モレル作の「映像」ヴァージョンを「私」が利用しながら、自分を割り込ませてリメイクしたのは、モレルに対する復讐であると同時に、実は彼への秘かな共感の表明だとも言えよう。それにしても、自分の生を「映像」に置き換え、なおそのなかで一人の女を張り合ってまで、結び遂げようとする思いの切なさに共振し得る読者ならば、この小説が、特異な恋愛小説としても秀逸であることを認めずにはいられないだろう。

Ⅱ.モレルと「私」の相似性について

 モレルと「私」は、どちらもフォスティーヌという女を愛しているという意味では敵対関係にある。モレルの発明の真相を知らないうちは、たしかに

「私」はモレルをライヴァルと見なしている。しかし、フォスティーヌがモ

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レルによって「映像」化された存在であり、当のモレルもまた「映像」であるとわかると、事情は異なってくる。そもそも「私」が想定していた敵対関係など存在していなかったからである。「私」は彼ら二人をただ見ることしかできない観客のようなものであり、自分からは何ら働きかけることの不可能な決定的な部外者にすぎない。フォスティーヌはもともと愛の対象にはなり得ない、あらかじめ失われた恋人なのである。

「人工の幽霊の出没する島に住む、これ以上に耐えがたい悪夢があるだろうか。しかも、そうした像のひとりを愛してしまうなどというのは、幽霊を愛するよりまだ悪い。(だがもしかしたら、われわれは愛する人が幽霊として存在することを、いつも心のうちで願っていたのではないだろうか。)」15)

 「人工の幽霊」=「映像」を愛してしまったために、愛を成就し得ない「私」と、フォスティーヌを愛しながらやはり彼女の気持ちを得られずに、彼女も自分も「映像」にしてしまったモレル。フォスティーヌの命を奪ったという点では、モレルはやはり「私」の敵だが、その結果としての「映像」が生まれていなければ「私」はフォスティーヌに出会うこともできなかったのであり、その点では恩人でさえある。フォスティーヌへの叶わぬ愛をつなぎ目として、「私」はモレルと背中合わせにくっついた双生児のようなものだ。だからこそ、それを自覚するに伴って、「私」の敵意は強い共感に変わっていくのである。

「彼は接近不能のフォスティーヌをこそ愛していたのだ。だからこそ彼女を殺し、友人たちとともに自分自身をも殺し、不死を生みだしたのだ!フォスティーヌの美しさのためなら、こんな気違い沙汰も、こんな崇め方も、こんな罪もすべてむりからぬことに思われる。(略)私はいま、モレルの行為を正当なる情熱的賛歌と見なす。」16)

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 こうしたモレルと「私」の相似性が明らかになってくる以前、モレルの発明の真相が分かる以前の記述のなかにも、すでにそれを暗示する部分をいくつか見出すことができる。 まず、まだ始まって間もない第 � 節のなかで、自分のかつての研究と関係のあるような資料を博物館の広間の書棚に探してみたあと、括弧に入れて、次のようなやや唐突とも思われる記述が書かれている。

「(思うに、不死性なるものがわれわれの手から失われてゆくのは、死への抵抗手段にいかなる進歩も見られなかったからである。死への抵抗ということになると、一番はじめに頭に浮かぶ考え、肉体全体を生きたまま取っておきたいという初歩的な考えに、われわれは依然として固執している。意識にかかわるものだけの保存を求めれば、それでいいのではなかろうか。)」17)

 驚いたことに、ここにはモレルの発明に通じるような考え方が述べられている。また、真相を知ったあとでは、「私が昔から信奉していた理論が証明された」18)のだ、とまで言っている。そもそも「私」のなかにモレルの発明と通底する要素があった、ということになる。 「私」が見た夢を記述した部分も興味深い。第 22 節に書かれた夢のなかでは、「私」は精神病院におり、その院長はモレルである。だがある瞬間には、私がその病院の院長でもあるという 19)。まるでお互いがお互いのドッペルゲンガーのようだ。 第 1� 節に書かれた別の夢では、クロッケーの試合をしているうちに、ふと気がつくと「私」のゲームの進め方が一人の男を殺そうとするものであったのだが、その男というのは「私」自身であった 20)。ここでは、モレルと

「私」は重なり合うばかりでなく、モレルの発明はモレル自身を殺すものであり、さらにその発明を利用する私をも殺す、という先の展開までが夢の記述という形で予言されているのである。 「私」はモレルの発明した機械そのものとも同化している。まだ「映像」

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の出現以前、「私」は「博物館」の地下を探索しているうちに、隠し部屋を発見した(第 5 節)。そこに給水ポンプと発電機があったので(後になって

「映像」に関わるすべての機械がここにあったことがわかる)、試しにモーターを動かして機械の動きを観察してみるのだが、結果的にはこの行動が、モレルの想定に反してしばらく止まったままであった「映像」の映写を再開させ、人々が「私」の前に突然現れることになった。つまり、「映像」を出現させたのは「私」自身だったのである。 「映像」が出現したことで、「私」は彼らを避けるため、島の南側の湿地帯で暮らさざるを得なくなるが、そこは、隠し部屋とパイプでつながったシリンダーが設置されている場所でもある。そのシリンダーが潮の力をモーターへと送り、映写装置を作動させているのである。一方、「私」は上記の行動で「映像」を出現させたばかりでなく、自らつづる手記は「映像」出現とともに書き始めたのであり、その手記が「映像」を描写し続けるのである以上、手記は映写装置と等価であり(これについては後述する)、そうだとすると手記を書き続ける「私」は、モレルの機械と等価だということになるのではないだろうか。

Ⅲ.モレルの発明した「映像」をめぐって

 モレルの発明の真相を知ったあとの記述(第 3 系列)のなかに、作中最も緊張感に満ちた、冒険小説的なスリルを感じさせる部分がある。モーターのある狭い隠し部屋に「私」が閉じ込められ、死の危険にさらされる場面である。潮の干満に左右されて「映像」が現れたり消えたりしないように(映写が止まるとフォスティーヌに会えなくなるので)機械を補修するために、

「私」は再び地下の隠し部屋に入る。潮が満ちてきた時に機械が作動しはじめるところを見るためである。しかし部屋から出ようとすると、壁に開けたはずの穴がどこにもなくなっていることに気づく。すでに機械が動きだして、映写が始まっていたからである。隠し部屋の壁も撮影されていたので、穴のない元の壁が出現してしまったわけである。しかも五感のすべてに訴える、実物そのまま4 4 4 4 4 4

の映像であるその壁は、鉄の棒でたたいて壊そうとしても、欠

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片が飛び散りはするものの、「私」にとっては傷一つない完璧な姿のまま存在し続けるのである。最初にこの部屋を発見したときには、その美しい静謐さで「私」を魅了した空色の壁 21)は、いまや厳然たる死の壁となっている。

(空色の部屋の描写にどこか死後の世界を思わせるにおいがあったのは、それを予告するものだったのか。)モレルの発明した「映像」の特異な恐ろしさが、ここで明らかになる。 我々の知っている映像との一番の違いは、実体のない虚像

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ではないということである。しかしそれでいて実体でもない。映写を止めれば消えうせる、という点ではあくまで映像である。実際、「私」はパニックに陥りながらも、なんとか機械への無知を克服してモーターのスイッチを切り、「映像」を消して、脱出に成功する。つまり、あくまでも五感のすべてに訴えることによって、「映像」は実物そのままになる、という設定なのである。上の箇所では、モレルの「映像」は、その特異な性質によって、それを見る者の現実をも脅かすかに見える。 このような「映像」の資質は、作中にすでにもう少し緩やかな形で表れている。第 1� 節のなかに、「私」がフォスティーヌに捧げるために心をこめて作った花壇の上を、モレルが無造作に歩いて踏みつけるという部分がある。フォスティーヌもそれに注意さえ向けないので、「私」は大いに傷つけられる。真相を知ったあとでは、「映像」であるモレルには実際の花壇は見えていないのだから、上の出来事は「私」にとってのみ存在したのだということが納得されるのだが、それでもなお、「映像」であるモレルが急に実体となって「私」の現実を破壊してしまったかのような、異様な印象が残る。しかしそれなら「映像」であるモレルやフォスティーヌの身体と「私」の身体は接触しうるはずではなかろうか、接触したらどうなるのか、という疑問をどの読者も抱くであろうが、あいにく接触するような状況は一度も起こらないのである。その他の登場人物=「映像」との場合でも同じである。すなわち、

「映像」となった人間との接触の描写は巧妙に避けられている、と考えてよかろう。「私」が「映像」とじかに接触するのは、先の隠し部屋の空色の壁が初めてなのである。(先にふれたとおり、本の映像には触っていない。)

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『モレルの発明』あるいは影を追う影 2�3

 五感のすべてに訴えることによって実物そのままになる「映像」― SF小説として重要なポイントになるはずのこの設定を、作者はやはり相当慎重に扱っていることがうかがえる。モレルの発明した「映像」が空間に出現する場合、被写体の種類によって、次のような違いが出てくることに注意を向けてみよう。被写体が生物であった場合には、その被写体は撮影されたあと死んで消滅してしまうので、「映像」のほうだけが残ることになり、その後は「映像」は被写体と同居することはない。被写体なき「映像」となるのである。しかし、被写体が無生物である上に堅固で長く残存するもの(先の壁のように)であった場合は、「映像」と被写体が同居することになる。太陽の場合には季節によって位置が少し変わるので、「映像」と実物にずれが生じて二つ見えたのだが、壁は同じ場所にある。(しかも被写体が一部に変化を生じながらも、同じ場所にある。)作者はどうやら、それらの違いを認識しつつ、被写体を失った「映像」と「私」との物理的衝突・接触を避ける方法をとった、と推察し得るのではないだろうか。おそらくは、「私」と被写体なき「映像」との精神的

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接触(一方通行の)と、その不可能性を、よりくっきりと浮き彫りにするために。 上で述べたような SF 的設定に関して、作者はもう一つの考察をうながしている。この手記には「刊行者註」(これについては次節で論述する)というものが 10 箇所に付されているのだが、モレルの説明を知った上で、不思議な現象の細部を具体的に解釈していった部分(第 �� 節)の最後に、次のような註がついている。これが最後の 10 番目の註にあたる。

「もっとも信じ難いことが残っている。同じ空間内で、あるひとつの物体とその映像とが完全に一致するというのだ。この信じ難い事実は、世界は感覚のみで作られているという可能性を示唆するものだ。〔刊行者註〕」22)

隠し部屋の事件の記述のあとにあるだけに、この註は、おそらく読者の抱く疑問とも合致して、「世界が感覚のみで作られている可能性」という刺激的

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な想念へと導こうとする作者の目配せを感じさせる 23)。さらに我々は、同じ作者ビオイ = カサーレスによって『モレルの発明』のわずか 5 年後に書かれた、まるで姉妹編のような『脱獄計画』Plan de evasión(19�5)2�)という作品を連想せずにはいられない。こちらでは、大西洋上のフランス領の島々が舞台となっているが、やはり小さな無人島にこもって特異な実験によって自分の理想を実現しようとする、カステル総督という人物が登場している。「島のマッド・サイエンティスト」の系譜に連なりそうな、このカステルは、人間の感覚を変換する(脳などに施術して)ことによって、現実を変えようとする。あくまで、感覚を通して捉えられる現実を、である。これと、モレル=「私」の求める「不死」、つまり「肉体全体をではなく、意識/感覚に関わる部分だけを保存する」という考え方とに類縁関係を見出すことは、容易いであろう。その意味で、カステルは、一見似て見えるモロー博士

(G. H. ウェルズの作りだしたマッド・サイエンティスト)にではなく、やはりモレル=「私」と密接な繋がりを持つ、ビオイよって生み出された同じ一族なのである。『脱獄計画』は、語りの面から見ても、一人称語りと三人称語りを合成したような興味深い構造を持っているが、それについてはここでは詳述しないことにする。 さらに、もう一つ興味深いことが残っている。モレルの「映像」には意識はあるのか、という点である。モレルは「映像」には魂もあると言っているが、彼はどうやら、自分の機械で撮影された人間がやがて死ぬのは、魂が

「映像」のほうに移るからだと考えているらしいことが、真相を仲間に語る部分から窺える。写真に撮られると魂がそちらに奪われるという、古い迷信が形を変えて復活しているようで面白いが、「私」の想念はそれとは少し違った射程を持っている。モレルの言うように、撮影された時点で被写体が抱いていた思考や感覚も「映像」に保たれているならば、それらに対して「意識」はいかなる関係を持つのか、という疑問を持つのである。たとえもっと進んだ機械が作られて、「映像」の思考や感覚を調べることができるようになったとしても、その点は明らかにならないだろうとも「私」は見切っている 25)。(もちろんそこには、意識とは何か、という問題が含まれている。)

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モレルの言う「魂」と「私」の言う「意識」との違いについて「私」は何も記述していないので、緻密さに欠けることは否めないが、「私」が意識について問題にする動機はよく理解できるだろう。「映像」がいかに五感のすべてに訴えて実物そのままの存在であるとしても、「映像」としてしか存在しないフォスティーヌにとって「私」は何者でもあり得ないのか、という悲愴な疑問が、「私」の想念をフォスティーヌの意識へと向かわせるのである。フォスティーヌの意識に捉えられることによって初めて、「私」と彼女の関係は始まるからである。「映像」による表層的なフィクションとしての関係を創作(捏造)するしかなかった「私」が、真に望むのはそのことであるはずだ。「私」の記述の最後、この小説の末尾は、以下のような文章で閉じられている。

「この報告にもとづいて、分散した存在を集め直すことのできる機械を発明しようと考える方がおられたら、私はこうお願いしたい、どうかフォスティーヌと私を捜しだして、フォスティーヌの意識

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という天国へと私を入らせて頂きたい、と。それは慈悲深い行為となるだろう。」26)(傍点筆者)

映像というものが、そもそも消えゆくものを留め、永遠に現在のまま保存したいという思いの結実であるとするならば、なおその思いを満たし得ないような欠陥をいろいろと含んでいる映像に飽き足らず、望むとおりの改良を加えたのが、モレルの発明した特異な「映像」ということになろうか。 しかしそれでもなお、モレルの「映像」は生きてはいない。モレルは、撮影された時の被写体が感じていた感覚も記録・保存されていると言うが、たとえそうだとしても、あくまでもその時の感覚が保存されているだけである。フォスティーヌは、後からやってきた「私」を見ることはできない。モレルの「映像」は、撮影された一週間を繰り返し映し出し、「再現」する。永劫に回帰する一週間であり、未来が過去に置き換えられて循環することによって時間が消滅する。一週間というのは、神の創世の一週間を連想させよ

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うとするものと思われるが、モレルはなにも神になろうとしたわけではない。「私は生命そのものをつくるのではない」27)、しかし私の発明した「映像」には、我々人間の生そのものとよく似ているところが多々あるではないか、とモレルは示唆するのである 28)。現実の我々の生も、確かにかなりの部分がうんざりするような反復の連続である。しかし「反復」と「再現」は異なるはずだ。「反復」にはずれがある。ずれが生じ、偶然も介入して、少しずつだが変化する。その意味で完全に同じ「再現」を繰り返すモレルの「映像」は―まさに映像は再生

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されるのだが―「不死」であるとしても、「生」ではない。他方、死者が生前に残した映像というものは変化しない。変わらないことは死者の属性なのである。(生きている者は年をとり変化する。)いつまでも残り、変わらずに再生され続ける「映像」……それは、「消滅」とは別の、もう一つの「死」の顔をしているのではあるまいか? 消えゆく運命に抗い、そのままの姿で保存することを企図するものが、不変であることによって再び「死」と結び着いてしまう。モレルの「映像」ばかりではない。我々が手にしている映像にもまた、同じ矛盾が潜んでいる。 映像は現実と異なる虚像である、というような認識をとうに超えたところまで来てしまった、映像に浸されきった現代に読むからこそ、70 年近くも前に書かれていたこの小説が、むしろ今、その潜在力を発揮するのではないだろうか。実際、静止画・動画に関わらず映像を介して認知し、認識していることが頭の大半をしめてしまっている現代の我々にとって、どこまでが現実でどこからが虚像なのかという問い自体が無効になるほど、その境目は複雑で判別しがたい。氾濫する映像によって、我々の現実認識そのものが変質してしまっているのである。こうした状況の下では、モレルの「映像」は、SF 的想像力の産物として簡単にやり過ごすことなどできないような、より強い磁力を持つのであろう。

Ⅳ.「刊行者註」について

 さて、前項で少しふれた「刊行者註」について、このあたりで述べておくことにしよう。

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 この小説には、「私」の手記とは別の種類のテクストが含まれている。「刊行者」による「註」である。実際に書物を刊行している側がつけたものではない。あくまで小説の一部をなすテクストである。手記の部分には全部で10 箇所、註を示すアスタリスク・マーク(*)があり、そのページの欄外に「刊行者註」としての文章が付されている。つまり、それは「私」=語り手とは別の誰かによって書かれた、手記とは違う次元に属するテクストだということになる。

これは一見、一人称語りの小説におけるなじみの手法のように見える。一人称で書かれた手記を託された第三者が登場し、手記が書物として刊行されるいきさつを説明して、手記にも客観的リアリティを与えつつ、手記とその書物の読者との間をつなぐ働きをするのである。もちろん、背後で作者が作品全体を動かしていることは言うまでもない。(セルバンテスの『ドン・キホーテ』を始め、エドガー・アラン・ポーの『瓶のなかの手記』、先にあげた H. G. ウェルズの『モロー博士の島』など枚挙にいとまがないほどこの手法は使用されており、手記でなく聞き書きによる一人称形式をも含めるならば、メリメの『カルメン』などさらに多くの例をあげることができよう。)しかし、『モレルの発明』のなかには、この「刊行者」とは何者であり、いかなるいきさつでこの手記が「刊行者」の手に渡って出版に至ったのかというような説明が、どこにも一切書かれていない。その点が、暗黙の了解に支えられた定型とは違っている。始まって早々の第 2 節のなかの文章に対応して、ページ下部の欄外に、唐突に「刊行者註」(N. del E.)が現れてくる 29)。しかも、定型の手法における「刊行者註」ならば、一人称語りの手記の中にありがちな誤りや、主観的な偏りを是正する役割を担っているはずである。この小説の「刊行者註」も、概ねそうなのだが、なかに、どうにも首をかしげざるを得ない「註」が存在するのである。 終わり近くの第 �� 節で、「私」は自分の書いてきた手記の初めの部分を引用しながら書いているのだが、イタリック体で表記された部分(邦訳ではカタカナ表記になっている)にアスタリスク・マークがついている。

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「《(略)わたしは、レオナルドの座右銘―飽クナキ厳密サ*―をこの報告のモットーとし、それに従うよう努力しよう》。」30)

そこに付された「註」は次の通りである。

「草稿の冒頭にはこの言葉は書かれていない。うっかり抜かしてしまったのだろうか? 本当のところは不明だが、批判を浴びることを覚悟の上で、その他の疑念を抱きたくなる個所と同様、すべて原文に忠実に従うことにした。〔刊行者註〕」31)

しかしながら、引用の該当箇所(第 2 節の中ほど)32)を参照してみると、先の「註」で指摘されていた欠落はなく、「飽クナキ厳密サ」Ostinato rigoreは字体もイタリックのまま、きちんと書きつけられている。どうやら「註」のほうが間違っているのである。こうなると、「刊行者註」の客観的正しさは、たちまち宙に浮いてしまう。そして、「註」が必ずしも正しくないのだとすると、上の「註」のなかで、わざわざ強調されている「原文に忠実に」という点に関しても、もちろんあやしくなってくる。いずれにしろどちらもフィクションなのだ、と作者が手の内をちらりと覗かせる。

「註」の部分もまた、フィクションとしての小説の一部であり、「刊行者」とは「私=語り手」と同様に、作者がその後ろに顔を隠している第 2 の仮面に過ぎないのである。今まで使いこなされてきた手法を、自らの作品のなかで少しずらして用いながら、その手法の種明かしをしてみせる……まるでフランスのヌーヴォー・ロマンの作家たちを思わせるような手際である。 この部分に象徴されるような、すべてをフィクションの中に漂わせてしまおうとする操作を、作者はいろいろと行っている。すでにふれた、時間と場所を特定させないための仕掛けも、映像と被写体とが融け合ってしまうような仕掛けもその一つであった。鏡とガラスが巧妙にはりめぐらされた部屋のなかで、身体が宙に漂い出すような浮遊感を読者に与えつつ、精巧なモザイクのようなフィクション空間が造形されている。

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Ⅴ.「映像」の観客について―それを見るのは誰か?

 死を間近にひかえた「私」は、リメイクした自作自演の「映像」の、最初にして唯一の観客ということになる。しかし、「私」がその「映像」作品によってフォスティーヌと自分の「不死」を企てたのだとすれば、「私」が死んでこの世から消えたあと、第三者に見られることによって、初めてその作品=「不死」は完成したと言えるのではないだろうか? ちょうどモレルの作りだした「不死」を「私」が見て、確認したように。しかし、無人島で再生され続ける映像を、いったい次に誰が見るというのだろうか? やがていつか島にやって来る誰かだろうか? 「刊行者註」を書いた何者かが、手記をこの島で見つけたのならば、その人物が「映像」のリメイク・ヴァージョンを見たのだろうか? そもそも「刊行者」もフィクションである以上、それは答えにならない。とはいえ、小説のなかには未知の観客を暗示するようないかなる手掛かりも見当たらないのである。 だが、それならば、モレルの企図した「不死」はどうだったのか? モレル自身が最終的に「映像」を誰かに見られることを想定していたのかどうかは、小説には書かれていない。小説内の設定に従って空想してみるなら、「私」がやって来るまでのこの島では、誰にも見られることもないままに、「映像」が繰り返し映し出されていたことになる。そして、たまたまここに逃げのびてきた「私」が、第三者として初めての観客になった。モレル作の「映像」を見ることによって、その「不死」を完成させたのは、ほかならぬ「私」だったのである。さらに視野をズームアウトさせれば、「私」の記述を読むことによってその「映像」を頭の中で再生させた、我々読者一人一人もまたそうであった、ということが見えてくる。本は何度でも繰り返し読むことが可能であり、読書によっていったん喚起されたイマージュは繰り返し想起され得る。 こうして先ほどの問いの答えが自ずと浮かび上がってくる。「私」がリメイクした「映像」の観客とは、我々読者をおいてほかにはあり得ない。この小説自体が、リメイク版「映像」の記録媒体であり、再生装置だったという

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ことか。(しかも、元のヴァージョンも鑑賞可能で、リメイク版のメイキング編までもがついた、豪華特別版ということになる!)こうした仕掛けをすべて内包していた『モレルの発明』という小説……書物は決して時代遅れのメディアではない、そのことをこの小説は気づかせてくれる。 スペイン語の « imegen » もフランス語や英語の « image » も、〈映像〉であり〈イマージュ〉である。はるか昔から人間が親しんできた、頭の中に浮かぶ形質のないものとしての〈イマージュ〉と、人間の歴史のなかでは新しい、19 世紀中葉に生まれた〈映像〉(写真・映画など)、そのどちらもが同じ言葉で表わされているということのなかに、はたして〈映像〉の命は隠れているのだろうか?

Ⅵ.『モレルの発明』の翻案作品について

 本論の序でふれたように、この『モレルの発明』という小説にインスピレーションを受けて作られた映画作品がある。 映像作家がこの小説に触発されるというのはよく理解できる気がするが、しかし、少し考えて見ただけでも、この小説の映像化が至難の業であることは容易に想像がつく。生きた人間である「私」も、「映像」となって存在するフォスティーヌも、映画に撮れば、どちらも同種の映像になってしまうからである。生きた人間が「映像」と同じ空間にいるのに、同じ世界を共有できない、という小説の最も興味深い独自の設定が、そもそも映像化を拒んでいるという、何とも皮肉な壁にぶつかってしまう。 翻案の試みとしては、1967 年にフランスでテレビ映画化、197� 年にイタリアで映画化が行われたらしい 33)が、それらは現在見られる形では残っていない。 2005 年に発表された、クエイ・ブラザースによる映画『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』は、ストーリーの枠組みを別のところから持ってきている。主としてジュール・ヴェルヌ Jules Verne の『カルパチアの城』Le château des Carpathes(1892)と、レーモン・ルーセル Raymond Roussel の『ロクス・ソルス』Locus Solus(19�1)とからである。『モレル

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の発明』からは、日の沈む海を見つめる美しい女、という設定が借りられている。女はオペラ歌手のマルヴィーナで、彼女を熱愛するマッド・サイエンティストに魂を抜かれて、抜け殻の身体としてしか存在していない。語りかけても反応しないその女のモデルが、「映像」となったフォスティーヌであることは明らかだろう。マルヴィーナの口から出る言葉は、彼女が夕日を眺めながら呟く死んだ恋人の名だけなのだが、その名が「アドルフォ」であるのは、フォスティーヌを生んだ作家ビオイへのオマージュなのであろうか。 『モレルの発明』のなかで、映画にし得る部分があるとしたら、「私」が入り込み、リメイクした映像ヴァージョンのところであろうか? だがそこに至る経過を描けないとすると、それは少なくとも SF ではなくなってしまうだろう。そう考えた時に、意外な新しい顔で想起されてくるのは、アラン・レネとロブ = グリエの『去年マリエンバードで』である。『モレルの発明』の翻訳者である清水徹氏が邦訳書の解説のなかで指摘されているように、

『モレルの発明』から SF 的要素を消去すると『去年マリエンバードで』になるのである。少なくともあの映画がより分かりやすくなるように感じられる。あの古い城館のようなホテルにいる人物たちは、みなすでに映像だけの存在となった死者たちに見えてくる。「去年」という時間もどこにも存在しない。あの男の口にする言葉の内容として出てくるだけの過去である。あそこにあるのは現在でしかない……永遠の現在である、映像である以上は。女は男の言葉に従って一緒に出て行くように見えるが、ロブ = グリエが『去年マリエンバードで』の序論で自ら書いているように「余所では彼らは存在しないのだ」3�)。一方『モレルの発明』の手記の第 1 節では、突然現れた人々を指して「まるでロス・テケスやマリエンバードに長く滞在している避暑客のような」35)という表現があり、自身この小説の書評を書いたこともあるらしいロブ = グリエが 36)、その地名を引用したという予想もできないわけではないのである。『モレルの発明』と『去年マリエンバードで』の関係については、いずれ機会があれば別の場所で論じてみたいと思う。 上記の二つの映画作品が、『モレルの発明』からインスピレーションを受けているにしても、いわゆる原作の翻案作品とは別種なものになっているの

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に対して、映画ではないが、原作にかなり忠実に劇画に翻案した作品があることも付け加えておこう。ジャン = ピエール・ムレーの作画によって作られた劇画『モレルの発明』37)である。絵にする場合もやはり、映像の場合と同様に、すべてを同次元のイマージュで描いていかねばならない。それに加えて、絵としての画面(静止画面)の連続で作られるという劇画の形式上の本来的な限界も見られるが、それを逆にうまく利用しているところもある。一例をあげれば、モレルの映像に「私」が介入してリメイクしていく部分である。以前にモレルの映像の部分が描かれていた画面と全く同じ構図の画面を作りながら、よく見ると登場している人物が一人だけ多くなって自然に位置しているのがわかり、以前の会話の間に「私」の台詞が入ってくる様子が、視覚的に巧妙に作画されている。原作と多少設定を変えてある部分にも、様々な形式上の工夫が見られて興味深い。 それにしても、こうした他のメディアによる翻案作品を見るたびに、あらためて書物というメディア、小説という形式のもつ意外な豊饒さと奥行きの深さに気付かされるのである。これもまた、それを駆使することのできたアドルフォ・ビオイ = カサーレスという作家の力量の故なのかもしれない。

註1) ビオイ = カサーレスはボルヘスとはかなり年の離れた後輩にあたるが、

まだ駆け出しの作家であった 17 才のころに出会って以来親交を結び、精神的兄弟ともいわれるほど深いつながりを持ち続けた。二人は共著の作品も 10 作残している。(そのうち二人の連名で発表されたものが 5 作、オノリオ・ブストス = ドメック Honorio Bustos Domecq という架空の筆名で発表されたものが � 作、ベニート・スアレス = リンチ Benito Suarez Lynch の筆名で発表されたものが 1 作である。)他に、シルヴィーナ・オカンポ Silvina Ocampo(ブエノスアイレルの文学サロンの女王的存在であったビクトリア・オカンポの妹であり、ビオイの妻)をまじえた 3 人での共作も 2 作ある。

2) クエイ・ブラザース Quay Brothers(19�7−)は双子の兄弟(兄スティーヴン・クエイと弟ティモシー・クエイ)で、アメリカ生まれイギリス在住の映像作家。特異な作風のパペット・アニメーションで知られる。舞

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台劇、オペラ、バレエの背景デザインも手掛けている。『ピアノ・チューナー・オブ・アースクエイク』Piano Tuner of Earthquakes(2005)は実写映像を主とした最新作で、『モレルの発明』をはじめレーモン・ルーセルの『ロクス・ソルス』やジュール・ヴェルヌの『カルパチアの城』を原案としている。ストーリーは『モレルの発明』とは異なる。映画のシナリオはアラン・パスとクエイ・ブラザースによって書かれた。

3) 『去年マリエンバードで』L’année dernière à Marienbad は、フランスの映画作家アラン・レネ Alain Resnais の映画作品(1961 年、フランス・イタリア合作)。そのシナリオをヌーヴォー・ロマンの作家として知られるアラン・ロブ = グリエが書いたことでも話題になった。ロブ = グリエ自身はそれをシネ・ロマンと呼んでいる。Alain Robbe-Grillet, L’année dernière à Marienbad (ciné-roman), Minuit, Paris, 1961.

�) Adolfo Bioy Casares, La invención de Morel, Buenos Aires, Losada, 19�0.本論を書くにあたって参照したのは、マドリッドで出版された以下の版である。Adolfo Bioy Casares, La invención de Morel / El gran Serafín, Edición de Trinidad Barrera, Cátedra, Madrid, 1982.また、以下のフランス語訳も参照した。L’invention de Morel, traduit de l’argentin par Armand Pierhal, Robert Laffont, 10 /18, Paris, 1973.フランス文学者でありビュトールなどの翻訳で知られる清水徹氏による邦訳書も、巻末の解説とともに参照させていただいた。なお、本論中の

『モレルの発明』の引用の和訳には、この訳を使用させていただいている。清水徹・牛島信明訳『モレルの発明』、水声社、1990この邦訳書は、映画『ピアノチューナー・オブ・アースクエイク』(註 2参照)の 2008 年日本公開に合わせて、新装版が出されている。新装の表紙の写真はその映画から採られている。

5) 1952 年にアルマン・ピエラルの訳で出版されている。L’invention de Morel , traduit de l’espagnol par Armand Pierhal, Paris, Robert Laffont,1952.

6) この評論「ゴーレムの秘密」Le secret de Golem は、後に評論集『来るべき書物』L’livre à venir の中に収められている。「ゴーレムの秘密」の末尾にあたる「イマージュの幸福と不幸」Bonheur, malheur de l’imageという小題のついた節で『モレルの発明』が論じられている。

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25�

Maurice Blanchot, L’livre à venir, Gallimard, Folio, Paris, 1959 : pp. 127−129

7) Adolfo Bioy Casares, La invención de Morel / El gran Serafín, Edición de Trinidad Barrera, Cátedra, Madrid, 1982, p. 91: « He discutido con su autor los pormenores de su trama, la he releído; no me parece una imprecisíon o una hipérbole calificarla de perfecta. »註 5 に挙げたフランス語訳版 L’invention de Morel, 10/18, Paris, 1973 では p. 10(以後、このフランス語版は fr. と表記して、原語版の引用箇所に当たる部分のページ番号のみを併記する。)

8) Ibid., p. 139: « He notado que este Segundo sol−quizá imagen de otoro−es mucho más violento. »(強調筆者) fr.p. 60

9) Ibid., p. 1�9: « (...) los comparé: no eran dos ejemplares del mismo libro, sino dos veces el mismo ejemplar; » fr.p. 70

10) Ibid., p. 123: « Hoy la mujer ha querido que sintiera su indiferencia. Lo ha conseguido. Pero su táctica es inhumana. »(強調筆者) fr.p. �1

11) Ibid., p. 128: « Seguía con los mismos ruegos que le oí ocho días antes. »fr.p. �6

12) Ibid., p. 127, p. 128 fr.p. �5, p. �613) Ibid., p. 183: « Espero que, en general, demos la impresión de ser amigos

inseparables, de entendernos sin necesidad de hablar. » fr.p. 1191�) « El tema de Adolfo Bioy Casares no es cósmico, sino metafísico: el

cuerpo es imaginario y obedecemos a la tiranía de un fantasma. El amor es una percepción privilegiada, la más total y lúcida, no sólo de la irrealidad del mundo sino de la nuestra: corremos tras de sombras pero nosotros tanbién somos sombras. » (Octavio Paz, Corriente alterna, SigloXXI, México, 1967, p. �8)本文中の邦訳は筆者による。

15) Ibid., p. 161: « Estar una isla habitada por fantasumas artificiales era la más insoportable de las pesadillas; estar enamorado de una de esas imágenes era peor que estar enamorado de una fantasma (tal vez siempre hemos querido que la persona amada tenga una existencia de fantasma). »fr.p. 89

16) Ibid., p. 182 : « Quería a la inaccessible Faustine. ¡Por eso la mató, se mató con todos sus amigos, inventó la inmortalidad!La hermosura de Faustine merece estas locuras, estos homenajes, estos crímenes. (...)

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『モレルの発明』あるいは影を追う影 255

Ahora veo el acto de Morel como un justo ditirambo. » fr.p. 11817) Ibid., p. 100: « (creo que perdemos la inmortalidad porque la resistencia

a la muerte no ha evolucionado; sus perfeccionamientos insisten en la primera idea, rudimentaria: retener vivo todo el cuerpo. Sólo habría que buscar la conservación de la que interesa a la conciencia.) » fr.pp. 17−18

18) Ibid., p. 166: « En todo esto hay que ver el triunfo de mi viejo axioma: No debe intentarse retener vivo todo el cuerpo. » fr.p. 96

19) Ibid., p. 1�1: « Yo estaba en un manicomio. Después de una larga consulta (¿el proceso?) con un médico, mi familia me había llevado ahí. Morel era le director. Por momentos, yo sabía que estaba en la isla; por momentos, creía estar en el manicomio; por momentos, era el director del manicomio. » fr.p. 62

20) Ibid., pp. 122−123: « (...) vino este sueño: mientras jugaba un partido de croquet, supe que la acción de mi juego estaba matando a un hombre. Después yo era, irremediablemente, ese hombre. » fr.p. �1

21) Ibid., p. 102: « Mi primera sensación fue (...) la admiración placentera y larga: las paredes, el techo, el piso, eran de porcelana celeste y hasta el mismo aire (...) tenía la diafanidad celeste y profunda que hay en la espuma de las cataratas. » fr.p. 20

22) Ibid., p. 182: « Queda el más increíble: la coincidencia, en un mismo espacio, de un objeto y su imagen total. Este hecho sugiere la posibilidad de que el mundo está constituido, exclusivamente, por sensaciones. (N. del E.) » fr.p. 12�.

23) モレルの「映像」を先に進めると死者を再生することもできるようになるのか、と「私」が想像する部分もある(第 32 節)。死んでもある種の波動は残るとしたら(これは「不滅」と結びつく考え方だが)それを捉えることのできるような、モレルの機械よりもさらに進んだ機械が発明されれば、死者を「映像」として再生させることができるのではないか、というわけである。

2�) Adolfo Bioy Casares, Plan de evasión, Emecé, Buenos Aires,19�5.25) Adolfo Bioy Casares, La invención de Morel / El gran Serafín, Edición

de Trinidad Barrera, Cátedra, Madrid, 1982, p. 166. fr.p. 9726) Ibid., p. 186: « Al hombre que, basándose en este informe, invente una

máquina capaz de reunir las presencias disgregadas, haré una súplica. Búsquenos a Faustine y a mí, hágame entrar en el cielo de la conciencia

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de Faustine. Será un acto piadoso. »(強調筆者) fr.p. 12327) Ibid., p. 157:《Para hacer reproducciones vivas, nececito emisores vivos.

No creo vida. (...) » fr.p. 8�28) Ibid., pp. 157−158. fr.pp. 8�−8529) Ibid., p. 9730) Ibid., p. 179: « (...)Pondré este informe bajo la divisa de Leonardo −

Ostinato rigore * − e intentaré seguirla. » fr.pp. 113−11�31) Ibid., p. 179: « * No aparece en el encabezamiento del manuscrito. ¿Hay

que atribuir esta omisión a un olvido? No sabemos; como un todo lugar dudoso elegimos el riesgo de critica, la fidelidad al original.(N. del E.) »フランス語訳版では、「刊行者註」は最終ページにまとめて書かれている。fr.p. 12�

32) Ibid., p. 97: « (...)Pondré este informe bajo la divisa de Leonardo −Ostinato rigore * − e intentaré seguirla. » fr.p. 15

33) 『日向で眠れ/豚の戦記』(ビオイ = カサーレス作、高見英一/荻内勝之訳、「ラテンアメリカの文学 9」、集英社、1983)の巻末の解説のなかで荻内勝之氏がその事実のみを述べているが、詳細は不明である。

3�) Alain Robbe-Greillet, L’année dernière à Marienbad (ciné-roman), Minuit, Paris, 1961. p. 1� : « Ailleurs, ils n’existent pas. »

35) Adolfo Bioy Casares, La invención de Morel / El gran Serafín, Edición de Trinidad Barrera, Cátedra, Madrid, 1982, p. 95: « (...) como veraneantes instalados desde hace tiempo en los Teques o en Marienbad. »

36) 雑誌『クリティック』Critiques(1953 年 2 月号)にロブ = グリエが『モレルの発明』の書評を書いていることを、清水徹氏が邦訳書の解説の中で指摘している。

37) Jean Pierre Mourey, L’invention de Morel (d’Adolfo Bioy Casares, roman adapté en bande dessinée par Jean Pierre Mourey), Casterman, 2007.