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Literature Week 06

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第6回 日本文学:『源氏物語』

『源氏物語』(げんじものがたり

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「若紫」。飼っていた雀の子を逃がしてしまった幼い紫の上と、柴垣から隙見する源氏。

土佐光起筆『源氏物語画帖』より「朝顔」。雪まろばしの状景。邸内にいるのは源氏と紫の上。

『源氏物語』(げんじものがたり)は、平安時代中期に成立した日本の長編物語、小説である。文献初出は長保3年(1001年)で、このころには相当な部分までが成立していたと思われる。

目次

· 1 題名

· 2 概要

· 3 構成

· 3.1 二部構成説、三部構成説

3.1.1 四部構成説

· 3.2 巻について

3.2.1 各帖の名前

3.2.2 巻名の表記

3.2.3 巻名の由来

· 4 成立・生成・作者に関する諸説

· 4.1 作者は誰か

4.1.1 通説

4.1.2 異説

4.1.3 一部別作者説

4.1.4 執筆期間・執筆時期

4.1.5 執筆動機

· 4.2 巻数は、いくつか

4.2.1 通説

4.2.2 失われた巻々

4.2.3 源氏物語60巻説

4.2.4 並びの巻

4.2.5 並びの巻に関する寺本直彦の説

· 4.3 巻々の執筆・成立順序

4.3.1 武田宗俊の第一部二系統説

4.3.2 武田説以後の諸説

4.3.3 武田説批判

4.3.4 その他の説

· 4.4 第3部と宇治十帖

· 4.5 主要テーマ(主題)の諸説

4.5.1 藤原氏と源氏

· 5 本文

· 5.1 概要

· 5.2 本文の伝承の始まり

· 5.3 「青表紙本」と「河内本」の成立

· 5.4 室町時代・江戸時代

· 5.5 明治時代以後

· 5.6 実際の写本

· 5.7 校訂本

· 6 登場人物

· 7 現代語訳

· 7.1 現代日本語

7.1.1 与謝野晶子訳

7.1.2 谷崎潤一郎訳

7.1.3 その他

· 7.2 外国語

7.2.1 英語訳

7.2.2 中国語訳

7.2.3 その他

· 7.3 発行部数

· 8 影響・受容史

· 9 歴史的注釈書

· 10 派生作品

· 10.1 文学作品

10.1.1 擬作・補作

10.1.2 二次創作

10.1.3 意訳小説

10.1.4 翻案小説

· 10.2 エッセイ・評論

· 10.3 漫画

· 10.4 映画

· 10.5 ドラマ

10.5.1 テレビドラマ

10.5.2 ラジオドラマ

· 10.6 テレビアニメ

· 10.7 舞台芸術

10.7.1 朗読・語り

10.7.2 演劇

10.7.3 歌舞伎

10.7.4 能

10.7.5 浄瑠璃

10.7.6 宝塚歌劇

10.7.7 戯曲

· 10.8 邦楽

· 10.9 現代音楽

· 10.10 ポピュラー音楽

· 10.11 その他書籍

· 11 関連文献

· 11.1 入門書

· 11.2 事典

· 11.3 辞典

· 11.4 ハンドブック類

· 11.5 研究文献目録

· 11.6 用例索引

· 11.7 講座など

· 11.8 論文集

· 12 脚注

· 13 参考文献(多く参照)

· 14 関連項目

· 15 外部リンク

· 15.1 ワールド・デジタル・ライブラリー

· 15.2 資料博物館

題名

紫式部

古写本は題名の記されていないものも多く、記されている場合であっても内容はさまざまである。『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されていることが少なくない。こうした経緯から、現在において一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が書かれた当時の題名が何であったのかは明らかではない。古い時代の写本や注釈書などの文献に記されている名称は大きく以下の系統に分かれる。

· 「源氏の物語」、「光源氏の物語」、「光る源氏の物語」、「光源氏」、「源氏」、「源氏の君」などとする系統。

· 「紫の物語」、「紫のゆかり」、「紫のゆかりの物語」などとする系統。

これらはいずれも源氏(光源氏)または紫の上という主人公の名前をそのまま物語の題名としたものであり、物語の固有の名称であるとはいいがたい。また、執筆時に著者が命名していたならば、このようにさまざまな題名が生まれるとは考えにくいため、これらは作者によるものではない可能性が高いと考えられている[1]。

『紫式部日記』、『更級日記』、『水鏡』などこの物語の成立時期に近い主要な文献に「源氏の物語」とあることなどから、物語の成立当初からこの名前で呼ばれていたと考えられているが、作者の一般的な通称である「紫式部」が『源氏物語』(=『紫の物語』)の作者であることに由来するならば、そのもとになった「紫の物語」や「紫のゆかりの物語」という名称はかなり早い時期から存在したとみられ、「源氏」を表題に掲げた題名よりも古いとする見解もある。「紫の物語」といった呼び方をする場合には現在の源氏物語54帖全体を指しているのではなく、「若紫」を始めとする紫の上が登場する巻々(いわゆる「紫の上物語」)のみを指しているとする説もある。

『河海抄』などの古伝承には「源氏の物語」と呼ばれる物語が複数存在し、その中で最も優れているのが「光源氏の物語」であるとするものがある。しかし現在、「源氏物語」と呼ばれている物語以外の「源氏の物語」の存在を確認することはできないため、池田亀鑑などはこの伝承を「とりあげるに足りない奇怪な説」に過ぎないとして事実ではないとしている[2][3]が、和辻哲郎は、「現在の源氏物語には読者が現在知られていない光源氏についての何らかの周知の物語が存在することを前提として初めて理解できる部分が存在する」として、「これはいきなり斥くべき説ではなかろうと思う」と述べている[4]。

このほかに、「源語(げんご)」、「紫文(しぶん)」、「紫史(しし)」などという漢語風の名称で呼ばれていることもあるが、これらは漢籍の影響を受けたものであり、それほど古いものはないと考えられている。池田によれば、その使用は江戸時代をさかのぼらないとされる[5][6]。

概要

源氏物語絵巻第38帖「鈴虫」(12世紀、五島美術館蔵)

紫式部(詳細は作者を参照)の著した、通常54帖(詳細は巻数を参照)よりなるとされる[7][8]。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節[9]400字詰め原稿用紙で約2400枚[10]に及ぶおよそ300名余りの人物が登場し70年余りの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」[11][12]と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。

ただし、度々喧伝されている「世界最古の長篇小説」という評価は、近年でも2008年(平成20年)の源氏物語千年紀委員会の「源氏物語千年紀事業の基本理念」でも、源氏物語を「世界最古の長編小説」と位置づけ[13]するなどしているが、王朝文学に詳しい作家中村真一郎による、(古代ラテン文学の)アプレイウスの『黄金のロバ』や、ペトロニウスの『サチュリコン』に続く「古代世界最後の(そして最高の)長篇小説」とする知見[14]や、島内景二のように日本国内にも「竹取物語」や「うつほ物語」などがあるから最古とは認定出来ないという意見[15]もあり、学者たちの間でも見解が異なる。20世紀に入り、英訳、仏訳などで欧米社会にも紹介され、『失われた時を求めて』など、20世紀文学との類似から高く評価されるようになった。

母系制が色濃い平安朝中期(概ね10世紀頃)を舞台に、天皇の親王として出生し、才能・容姿ともにめぐまれながら臣籍降下して源氏姓となった光源氏の栄華と苦悩の人生、およびその子孫らの人生を描く。通説とされる三部構成説に基づくと、各部のメインテーマは以下とされ、長篇恋愛小説としてすきのない首尾を整えている。

· 第一部:光源氏が数多の恋愛遍歴を繰り広げつつ、王朝人として最高の栄誉を極める前半生

· 第二部:愛情生活の破綻による無常を覚り、やがて出家を志すその後半生と、源氏をとりまく子女の恋愛模様

· 第三部:源氏没後の子孫たちの恋と人生

平安時代の日本文学史においても、『源氏』以前以降に書かれたかによって、物語文学は「前期物語」と「後期物語」とに区分され[16]、あるいはこの『源氏』のみを「前期物語」及び「後期物語」と並べて「中期物語」として区分[17]する見解もある。後続して成立した王朝物語の大半は、『源氏』の影響を受けており、後世しばらくは『狭衣物語』と並べ、「源氏、狭衣」を二大物語と称した。後者はその人物設定や筋立てに多くの類似点が見受けられる。『源氏』は、文学に限らず、絵巻物(『源氏物語絵巻』他)・香道など、他分野の文化にも多大な影響を与えた。

構成

『源氏物語』は長大な物語であるため、通常はいくつかの部分に分けて取り扱われている。

二部構成説、三部構成説

『白造紙』、『紫明抄』あるいは『花鳥余情』といった古い時代の文献には、宇治十帖の巻数を「宇治一」、「宇治二」というようにそれ以外の巻とは別立てで数えているものがあり、このころ、すでにこの部分をその他の部分とはわけて取り扱う考え方が存在したと見られる。

その後、『源氏物語』全体を光源氏を主人公にしている「幻」(「雲隠」)までの『光源氏物語』とそれ以降の『宇治大将物語』(または『薫大将物語』)の2つにわけて、「前編」、「後編」(または「正編」(「本編」とも)、「続編」)と呼ぶことは古くから行われてきた。

与謝野晶子は、それまでと同様に『源氏物語』全体を2つにわけたが、光源氏の成功・栄達を描くことが中心の陽の性格を持った「桐壺」から「藤裏葉」までを前半とし、源氏やその子孫たちの苦悩を描くことが中心の陰の性格を持った「若菜」から「夢浮橋」までを後半とする二分法を提唱した[18]。

その後の何人かの学者はこのはこの2つの二分法をともに評価し、玉上琢弥は第一部を「桐壺」から「藤裏葉」までの前半部と、「若菜」から「幻」までの後半部にわけ、池田亀鑑は、この2つを組み合わせて『源氏物語』を「桐壺」から「藤裏葉」までの第一部、「若菜」から「幻」までの第二部、「匂兵部卿」から「夢浮橋」までの第三部の3つに分ける三部構成説を唱えた。三部構成説はその後広く受け入れられるようになった。

このうち、第一部は武田宗俊によって成立論(いわゆる玉鬘系後記挿入説)と絡めて「紫上系」の諸巻と「玉鬘系」の諸巻に分けることが唱えられた。この区分は、武田の成立論に賛同する者はもちろん、成立論自体には賛同しない論者にもしばしば受け入れられて使われている[19]。

第三部は、「匂兵部卿」から「竹河」までのいわゆる匂宮三帖と、「橋姫」から「夢浮橋」までの宇治十帖にわけられることが多い。

上記にもすでに一部出ているが、これらとは別に連続したいくつかの巻々をまとめて

1. 帚木、空蝉、夕顔の三帖を帚木三帖

2. 玉鬘、初音、胡蝶、蛍、常夏、篝火、野分、行幸、藤袴、真木柱の十帖を玉鬘十帖

3. 匂兵部卿、紅梅、竹河の三帖を匂宮三帖

4. 橋姫、椎本、総角、早蕨、宿木、東屋、浮舟、蜻蛉、手習、夢浮橋の十帖を宇治十帖

といった呼び方をすることもよく行われている。

巻々単位とは限らないが、「紫上物語」、「明石物語」、「玉鬘物語」、「浮舟物語」など、特定の主要登場人物が活躍する部分をまとめて「○○物語」と呼ぶことがある。

四部構成説

三部構成説に対して、以下のような四部構成説も唱えられている。論者によって区切る場所や各部分の名称がさまざまに異なっている[20]。

提唱者

第一部

第二部

第三部

第四部

藤岡作太郎

正編前紀

桐壺から朝顔

正編中紀

少女から藤裏葉

正編後紀

若菜から竹河

続編

橋姫から夢浮橋

久松潜一

実方清

第一期

桐壺から明石

第二期

澪標から藤裏葉

第三期

若菜から幻

第四期

匂宮から夢浮橋

重松信弘

正編青年期

桐壺から明石

正編中年期

澪標から藤裏葉

正編晩年期

若菜から竹河

続編

匂宮から夢浮橋

森岡常夫

第一期

桐壺から朝顔

第二期

少女から藤裏葉

第三期

若菜から幻

第四期

匂宮から夢浮橋

大野晋[21]

a系

第一部(紫上系)

b系

第一部(玉鬘系)

c系=第二部

若菜から幻

d系=第三部

匂宮から夢浮橋

巻について:各帖の名前

読み

年立

備考

 1

桐壺

きりつぼ

源氏誕生-12歳

a系

 2

帚木

ははきぎ

源氏17歳夏

b系

 3

空蝉

うつせみ

源氏17歳夏

帚木の並びの巻、b系

 4

夕顔

ゆうがお

源氏17歳秋-冬

帚木の並びの巻、b系

 5

若紫

わかむらさき

源氏18歳

a系

 6

末摘花

すえつむはな

源氏18歳春-19歳春

若紫の並びの巻、b系

 7

紅葉賀

もみじのが

源氏18歳秋-19歳秋

a系

 8

花宴

はなのえん

源氏20歳春

a系

 9

あおい

源氏22歳-23歳春

a系

10

賢木

さかき

源氏23歳秋-25歳夏

a系

11

花散里

はなちるさと

源氏25歳夏

a系

12

須磨

すま

源氏26歳春-27歳春

a系

13

明石

あかし

源氏27歳春-28歳秋

a系

14

澪標

みおつくし

源氏28歳冬-29歳

a系

15

蓬生

よもぎう

源氏28歳-29歳

澪標の並びの巻、b系

16

関屋

せきや

源氏29歳秋

澪標の並びの巻、b系

17

絵合

えあわせ

源氏31歳春

a系

18

松風

まつかぜ

源氏31歳秋

a系

19

薄雲

うすぐも

源氏31歳冬-32歳秋

a系

20

朝顔(槿)

あさがお

源氏32歳秋-冬

a系

21

少女

おとめ

源氏33歳-35歳

a系

22

玉鬘

たまかずら

源氏35歳

以下玉鬘十帖、b系

23

初音

はつね

源氏36歳正月

玉鬘の並びの巻、b系

24

胡蝶

こちょう

源氏36歳春-夏

玉鬘の並びの巻、b系

25

ほたる

源氏36歳夏

玉鬘の並びの巻、b系

26

常夏

とこなつ

源氏36歳夏

玉鬘の並びの巻、b系

27

篝火

かがりび

源氏36歳秋

玉鬘の並びの巻、b系

28

野分

のわき

源氏36歳秋

玉鬘の並びの巻、b系

29

行幸

みゆき

源氏36歳冬-37歳春

玉鬘の並びの巻、b系

30

藤袴

ふじばかま

源氏37歳秋

玉鬘の並びの巻、b系

31

真木柱

まきばしら

源氏37歳冬-38歳冬

以上玉鬘十帖、玉鬘の並びの巻、b系

32

梅枝

うめがえ

源氏39歳春

a系

33

藤裏葉

ふじのうらば

源氏39歳春-冬

a系、以上第一部

34

34

若菜

わかな

-じょう

源氏39歳冬-41歳春

 

35

-げ

源氏41歳春-47歳冬

若菜上の並びの巻

35

36

柏木

かしわぎ

源氏48歳正月-秋

 

36

37

横笛

よこぶえ

源氏49歳

 

37

38

鈴虫

すずむし

源氏50歳夏-秋

横笛の並びの巻

38

39

夕霧

ゆうぎり

源氏50歳秋-冬

 

39

40

御法

みのり

源氏51歳

 

40

41

まぼろし

源氏52歳の一年間

 

41

雲隠

くもがくれ

本文なし。光源氏の死を暗示。以上第二部

42

匂宮

匂兵部卿

におう(の)みや

におうひょうぶきょう

薫14歳-20歳

 

43

紅梅

こうばい

薫24歳春

匂宮の並びの巻

44

竹河

たけかわ

薫14,5歳-23歳

匂宮の並びの巻

45

橋姫

はしひめ

薫20歳-22歳

以下宇治十帖

46

椎本

しいがもと

薫23歳春-24歳夏

 

47

総角

あげまき

薫24歳秋-冬

 

48

早蕨

さわらび

薫25歳春

 

49

宿木

やどりぎ

薫25歳春-26歳夏

 

50

東屋

あずまや

薫26歳秋

 

51

浮舟

うきふね

薫27歳春

 

52

蜻蛉

かげろう

薫27歳

 

53

手習

てならい

薫27歳-28歳夏

 

54

夢浮橋

ゆめのうきはし

薫28歳

以上宇治十帖。以上第三部

以上の54帖の現在伝わる巻名は、紫式部自身がつけたとする説[22]と後世の人々がつけたとする説[23]が存在する。作者自身が付けたのかどうかについて、直接肯定ないし否定する証拠はみつかっていない。現在伝わる巻名にはさまざまな異名や異表記が存在し、もし作者が定めた巻名があるのならこのように多様な呼び方は生じないので、現在伝わる巻名は後世になって付けられたものであろうと考えられる。しかし一方で、本文中(手習の巻)に現れる「夕霧」(より正確には「夕霧の御息所」)という表記が、「夕霧」という巻名に基づくとみられるとする理由により、少なくとも夕霧を初めとするいくつかの巻名は作者自身が名付けたものであろうとする見解もある。

源氏物語の巻名は、後世になって、巻名歌の題材にされたり、源氏香や投扇興の点数などに使われたり、女官や遊女が好んで名乗ったりした(源氏名)。

成立・生成・作者に関する諸説

現在では3部構成説(第1部:「桐壺」から「藤裏葉」までの33帖、第2部:「若菜上」から「幻」までの8帖、第3部:「匂宮」から「夢浮橋」までの13帖)が定説となっているが、その成立・生成・作者・原形態に関しては古くから様々な議論がなされてきた。以下に、特に重要であろうと思われるものを掲げる。

作者は誰か

通説

紫式部(土佐光起画)

一条天皇中宮・藤原彰子(藤原道長の長女)に女房として仕えた紫式部が作者というのが通説である[26]。物語中に「作者名」は書かれていないが、以下の文から作者は紫式部だろうと言われている。

· 『紫式部日記』(写本の題名は全て『紫日記』)中に自作の根拠とされる次の3つの記述

藤原公任の 源氏の物語の若紫 という呼びかけ。

一条天皇の「源氏の物語の作者は日本紀をよく読んでいる」という述懐により日本紀の御局と呼ばれたこと。

藤原道長が源氏の物語の前で好色の歌を日記作者に詠んだこと。

· 尊卑分脈の註記

· 後世の源氏物語註釈書

「左衛門督 あなかしここのわたりに若紫やさぶらふ とうかがひたまふ 源氏にかかるへき人も見えたまはぬにかの上はまいていかでものしたまはむと聞きゐたり」

―底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本

「内裏の上の源氏の物語人に読ませたまひつつ聞こしめしけるに この人は日本紀をこそよみたまへけれまことに才あるべし とのたまはせけるをふと推しはかりに いみじうなむさえかある と殿上人などに言ひ散らして日本紀の御局ぞつけたりけるいとをかしくぞはべる」

―底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本

「源氏の物語御前にあるを殿の御覧じて 例のすずろ言ども出で来たるついでに梅の下に敷かれたる紙に書かせたまへる すきものと名にしたてれば見る人の折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ たまはせたれば 人にまだ折られぬものをたれかこのすきものぞとは口ならしけむ めざましう と聞こゆ」

―底本、宮内庁蔵『紫日記』黒川本

「上東門院女房 歌人 紫式部是也 源氏物語作者 或本雅正女云々 為時妹也云々 御堂関白道長妾」

―『新編纂図本朝尊卑分脉系譜雑類要集』

紫式部ひとりが書いたとする説の中にも以下の考え方がある。

· 短期間に一気に書き上げられたとする考え方

· 長期間にわたって書き継がれてきたとする考え方。この場合はその間の紫式部の環境の変化(結婚、出産、夫との死別、出仕など)が作品に反映しているとするものが多い。

異説

光源氏のモデルと言われる源高明自身が作者という説がある。

推理作家の藤本泉は1962年(昭和37年)の小説[27]をはじめとして『源氏物語』多数作者説をとっていた。その中の著作[28]で桐壺など「原 源氏物語」を源高明とその一族が書いたと仮定していたが、続く著作[29]において源高明説が弱いことを認めており、同著で他の複数作者の推定を行っている。 作者は紫式部ではないとする説の根拠の一部は以下の通り。

· 藤原道長を始めとする当時の何人もの人物がもてはやしたとされる作品であるにもかかわらず、当事者の記録とされている『紫式部日記』(原題『紫日記』)(藤本泉はこの『紫日記』も紫式部の作ではないとしている)を除くと、当時、数多く存在した公的な記録や日記などの私的な記録に一切記述がない。

· 現実とは逆に、常に藤原氏が敗れ、源氏が政争や恋愛に最終的に勝利する話になっており、藤原氏の一員である紫式部が書いたとするのは不自然である。 詳細は「#藤原氏と源氏」を参照

· 作中で描かれている妊娠や出産に関する話の中には、女性(特に、子供を産んだ経験のある女性)が書いたとするにはあり得ない矛盾がいくつも存在する。

· 女性の手による作品のはずなのに、作中に婦人語と呼べるものがまったくみられない。

· 源氏物語の中において描かれている時代が紫式部の時代より数十年前の時代と考えられる。

· 紫式部の呼び名の元になった父親(式部大丞の地位に就いていた)を思わせる「藤式部丞」なる者が、帚木の帖の雨夜の品定めのシーンにおいて最も愚かな内容の話をする役割を演じており、紫式部が書いたとするには不自然である。

一部別作者説

『源氏物語』の大部分が紫式部の作品であるとしても、一部に別人の手が加わっているのではないかとする説は古くから存在する。

古注の一条兼良の『花鳥余情』に引用された『宇治大納言物語』には、『源氏物語』は紫式部の父である藤原為時が大筋を書き、娘の紫式部に細かいところを書かせたとする伝承が記録されている。『河海抄』には藤原行成が書いた『源氏物語』の写本に藤原道長が書き加えたとする伝承が記録されている。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などには宇治十帖が紫式部の作ではなくその娘である大弐三位の作であるとする伝承が記録されている。これらの伝承に何らかの事実の反映を見る説も多いものの、池田亀鑑はこれらの親子で書き継いだとする説は、『漢書』について前半を班彪が書き、残りを子の班固が書き上げたという故事にちなんだもので、事実とは何の関係もないとの見解を示している[30]。

近代に入ってからも、さまざまな形で「源氏物語の一部分は紫式部の作ではない」とする説が唱えられてきた。

与謝野晶子は筆致の違いなどから「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした[31]。 和辻哲郎は、「大部分の作者である紫式部と誰かの加筆」といった形ではなく、「一つの流派を想定するべきではないか」としている[32]。

第二次世界大戦後になって、登場人物の官位の矛盾などから、武田宗俊らによる「竹河」の巻別作者説といったものも現れた[33]。

これらのさまざまな別作者論に対して、ジェンダー論の立場から、『源氏物語』は紫式部ひとりで全て書き上げたのではなく別人の手が加わっているとする考え方は、すべて「紫式部ひとりであれほどのものを書き上げられたはずはない」とする女性蔑視の考え方に基づくものであるとするとして、「ジェンダーの立場から激しく糾弾されなければならない」とする見解も出現した[34]。

阿部秋生は、『伊勢物語』、『竹取物語』、『平中物語』、『うつほ物語』、『落窪物語』、『住吉物語』など当時存在した多くの物語の加筆状況を調べた上で、『そもそも、当時の「物語」はひとりの作者が作り上げたものがそのまま後世に伝えられるというのはむしろ例外であり、ほとんどの場合は別人の手が加わった形のものが伝えられており、何らかの形で別人の手が加わって後世に伝わっていくのが物語のとって当たり前の姿である』として、「源氏物語だけがそうでないとする根拠は存在しない」との見解を示した[35]。

計量文献学により文体、助詞・助動詞など単語の使い方について統計学的手法による分析・研究が進められている[36][37][38][39][40]。

執筆期間・執筆時期

源氏物語が紫式部によって「いつ頃」、「どのくらいの期間かけて」執筆されたのかについて、いつ起筆されたのか、あるいはいつ完成したのかといった、その全体を直接明らかにするような史料は存在しない。紫式部日記には、寛弘5年(1008年)に源氏物語と思われる物語の冊子作りが行われたとの記述があり、その頃には源氏物語のそれなりの部分が完成していたと考えられる。安藤為章は、『紫家七論』(元禄16年(1703年)成立)において、「源氏物語は紫式部が寡婦となってから出仕するまでの3、4年の間に大部分が書き上げられた」とする見解を示したが、これはさまざまな状況と符合することもあって有力な説になった。しかし、その後、これほどに長い物語を書き上げるためには当然長い期間が必要であると考えられるだけでなく、前半部分の諸巻と後半部分の諸巻との間に明らかな筆致の違いが存在することを考えると、執筆期間はある程度の長期にわたると考えるべきであるとする説や、結婚前、父に従って越前国に赴いていた時期に書き始められたとする説や作中の出来事が当時の実際に起きたさまざまな事実を反映しており最終的な完成時期をかなり引き下げる説も唱えられるようになってきた[41][42]。

一方で、必ずしも長編の物語であるから長い執筆期間が必要であるとはいえず、数百人にも及ぶ登場人物が織りなす長編物語が矛盾無く描かれているのは短期間に一気に書き上げられたからであると考えるべきであるとする説もある[43]。

執筆動機

なぜ、紫式部はこれほどの長編を書き上げるに至ったのかという点についても、直接明らかにした資料は存在せず、古くからさまざまに論じられている。古注には、

· 村上天皇の皇女選子内親王から新しい物語を所望されて書き始めたとする『無名草子』に記されている説

· 藤原氏により左遷された源高明の鎮魂のために藤原氏一族である紫式部に書かせたという『河海抄』に記されて

· いる説などがある。

·

· 近代以降にも、

· 作家としての文才や創作意欲を満たすため

· 寡婦としての寂しさや無聊を慰めるため

· 式部の父がその文才で官位を得たように式部が女房になるため

といったさまざまな説が唱えられている[44]。

巻数は、いくつか

通説

現在、『源氏物語』は一般に54帖であるとされている。ただし54帖の中でも「雲隠」は題のみで本文が伝存しない。そのため、この54帖とする数え方にも以下の2つの数え方がある。

· 巻名のみの「雲隠」を含め「若菜」を上下に分けずに54帖とする。中世以前によく行われたとされる。

· 「雲隠」を除き、「若菜」を上下に分けて54帖とする。中世以後に有力になった。

鎌倉時代以前には、『源氏物語』は「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられており、並びの巻を含めない37巻という数え方が存在し、さらに、宇治十帖全体を一巻に数えて全体を28巻とする数え方をされることもあった。37巻とする数え方は仏体37尊になぞらえたもので、28巻とする数え方は法華経28品になぞらえたものであると考えられている。これらはいずれも数え方が異なるだけであって、その範囲が現在の『源氏物語』と異なるわけではない。

それらとは別に、現在、存在しない巻を含めるなどによって別の巻数を示す資料も存在する。

失われた巻々

かつて、『源氏物語』には、現在は存在しないいくつかの「失われた巻々」が存在したとする説がある。そもそも、最初から54帖であったかどうかというそのこと自体がはっきりしない。

現行の本文では、

· 光源氏と藤壺が最初に関係した場面

· 六条御息所との馴れ初め

· 朝顔の斎院が初めて登場する場面

に相当する部分が存在せず、位置的には「桐壺」と「帚木」の間にこれらの内容があってしかるべきであるとされる(現に、この脱落を補うための帖が後世の学者によって幾作か書かれている)。藤原定家の記した「奥入」にはこの位置に「輝く日の宮(かがやくひのみや)」という帖がかつてはあったとする説が紹介されており、池田亀鑑や丸谷才一のようにこの説を支持する人も多い。つまり、「輝く日の宮」については、

· もともとそのような帖はなく作者は1-3のような描写をあえて省略した

· 「輝く日の宮」は存在したがある時期から失われた

· 一度は「輝く日の宮」が書かれたが、ある時期に作者の意向もしくは作者の近辺にいた人物と作者の協議によって削除された(丸谷才一は藤原道長の示唆によるものとする)

の3説があることになる。「輝く日の宮」は「桐壺」の巻の別名であるとする説もある。

それ以外にも、故実書の一つ『白造紙』に含まれる「源氏物語巻名目録」に、「サクヒト」、「サムシロ」、「スモリ」といった巻名が、また、藤原為氏の書写と伝えられる源氏物語古系図に、「法の師」、「巣守」、「桜人」、「ひわりこ」といった巻名がみえるなど、古注や古系図の中にはしばしば現在みられない巻名や人名がみえるため、「輝く日の宮」のような失われた巻が他にもあるとする説がある。当時の人々はこのような外伝的な巻々まで含めたものまでを源氏物語として扱っていたとみられるため、このような形の源氏物語を「源氏物語の類」といった形で把握する説もある。この他、『更級日記』では『源氏物語』の巻数を「五十余巻(よかん)」としているが、これが54巻を意味しているのかどうかについても議論がある。

2009年(平成21年)11月には「巣守帖」と思われる写本の一部が中央大学教授の池田和臣によって発見されたと報道されており、今後の研究が待たれる[45]。

源氏物語60巻説

『無名草子』や『今鏡』、『源氏一品経』、『光源氏物語本事』のように、古い時代の資料に『源氏物語』を60巻であるとする文献がいくつか存在する。一般的には、この60巻という数字は仏教経典の天台60巻になぞらえた抽象的な巻数であると考えられているが、この推測はあくまで「60巻という数字が事実でなかった場合、なぜ(あるいはどこから)60巻という数字が出てきたのか」の説明に過ぎず、60巻という数字が事実でないという根拠が存在するわけではない。

この「『源氏物語』が全部で60巻からなる」という伝承は、「源氏物語は実は60帖からなり、一般に流布している54帖の他に秘伝として伝えられ、許された者のみが読むことが出来る6帖が存在する」といった形で一部の古注釈に伝えられた。源氏物語の注釈書においても、一般的な注釈を記した「水原抄」に対して秘伝を記した「原中最秘抄」が別に存在するなど、この時代にはこのようなことはよくあることであったため、「源氏物語本文そのものに付いてもそのようなことがあったのだろう」と考えられたらしく、秘伝としての源氏物語60巻説は広く普及することになり、後に、多くの影響を与えた。例えば、『源氏物語』の代表的な補作である「雲隠六帖」が6巻からなるのも、もとからあった54帖にこの6帖を加えて全60巻になるようにするためだと考えられており、江戸時代の代表的な『源氏物語』の刊本をみても、

· 『絵入源氏物語』は『源氏物語』本文54冊に、「源氏目案」3冊、「引歌」1冊、「系図」1冊、「山路露」1冊を加えて

· 『源氏物語湖月抄』は「若菜」上下と「雲隠」を共に数に入れた源氏物語本文55冊に「系図」、「年立」などからなる「首巻」5冊を加えて

いずれも全60冊になる形で出版されている。

並びの巻(「本の巻・並びの巻」も参照)

『源氏物語』には並びの巻と呼ばれる巻が存在する。『源氏物語』は鎌倉時代以前には「雲隠」を含む37巻と「並び」18巻とに分けられていた。並びがあるものは、他に、『うつほ物語』、『浜松中納言物語』がある。このことに対して、「奥入」と鎌倉時代の文献『弘安源氏論議』において、その理由が不審である旨が記されている。帖によっては登場人物に差異があり、話のつながりに違和感を覚える箇所があるため、ある一定の帖を抜き取ると話がつながるという説がある。その説によれば、紫式部が作ったのが37巻の部分で、残りの部分は後世に仏教色を強めるため、読者の嗜好の変化に合わせるために書き加えられたものだとしている。

並びの巻に関する寺本直彦の説

『源氏物語』の巻名の異名は次の通りであるが、

· 桐壺 - 壺前栽

· 賢木 - 松が浦島

· 明石 - 浦伝

· 少女 - 日影

· 若菜(上‐箱鳥、下‐諸鬘、上下‐諸鬘)

· 匂宮 - 薫中将

· 橋姫 - 優婆塞

· 宿木 - 貌鳥

· 東屋 - 狭蓆

· 夢浮橋 - 法の師

寺本は8で「貌鳥」を並の巻の名とする諸書の記述に注目し、「貌鳥」は現在の「宿木」巻の後半ないし末尾であったことを明らかにし、5「若菜」に対する「諸鬘」なども同様であったと推論した。 その他に、1、10もそれぞれ、「桐壺」が「桐壺」と「壺前栽」、「夢浮橋」が「夢浮橋」と「法の師」に二分されていたことを示すもので、また、『奥入』の「空蝉」巻で、

一説には、二(イ巻第二)かヽやく日の宮このまきなし(イこのまきもとよりなし)。ならひの一はヽ木ヽうつせみはおくにこめたり(イこのまきにこもる)。

という記述についても、「輝く日の宮」が別個にあるのではなく、それは現在の「桐壺」巻の第3段である藤壺物語を指し、「輝く日の宮」を「桐壺」巻から分離し第2巻とし、これを本の巻とし、「空蝉」巻を包含した形の「帚木」巻と「夕顔」巻とをそれぞれ並一・並二として扱う意味であると理解しようとした。 寺本は、結論として、並とは本の巻とひとそろい、ひとまとめになることを示し、巻々をわけ、合わせる組織・構成に関係づけた[46][47]。

· 成立論と構想論が明確に区別されず、混じり合って議論されていることを批判するもの[71]。

· 紫上系と玉鬘系の間に質的な違いが存在することを認めつつも、そこから何らの証拠もないままで成立論に向か

· うのは「気ままな空想」に過ぎないとするもの[72]。

その他の説

原『源氏物語』短編説

原『源氏物語』は、「若紫」、「蛍」程度の短編であるとの説。和辻哲郎による。

後挿入説

一部の帖があとから挿入されたという説。「桐壺」1帖(室町時代の『源氏物語聞書』、与謝野晶子の説)、「帚木」・「空蝉」・「夕顔」3帖(風巻景次郎の説)など。

池田亀鑑の説

『源氏物語』は長編的な性格を持った巻々と短編的な性格を持った巻々から構成されており、長編的な性格を持った巻々は今並べられている順序で執筆されたと考えられるが、短編的性格を持った巻々は長編的な性格を持った巻々が一区切りついたところで、またはそれらと並行して書かれ、長編的な性格を持った巻々の間に後から挿入されたと考えられる[73]。

第3部と宇治十帖

「匂宮」巻以降は、源氏の亡き後、光源氏・頭中将の子孫たちのその後を記す。特に、最後の10帖は「宇治十帖」と呼ばれ[74][8]、京と宇治を舞台に、薫の君・匂宮の2人の男君と宇治の三姉妹の恋愛模様を主軸にした仏教思想の漂う内容となっている。

第3部および宇治十帖については他作説が多い。主なものを整理すると以下のとおりとなる。

· 「匂宮」、「紅梅」、「竹河」は宇治十帖とともに後人の作を補入したものであるとの小林栄子による説。

· 宇治十帖は大弐三位(紫式部の娘賢子)の作であるとする説。一条兼良の『花鳥余情』、一条冬良の『世諺問答』などによる。また、与謝野晶子は「若菜」以降の全巻が大弐三位の作であるとした。

· 別人の作説 - 安本美典 文部省(現文部科学省)の統計数理研究所(「雲隠」までと宇治十帖の名詞と助動詞の使用頻度が明らかに異なるという研究結果による)[75]

通説では、第3部はおそらく式部の作(第2部執筆以降かなり長期間の休止を置いたためか、用語や雰囲気が相当に異なっているが、それをもって必ずしも他人の作とまでいうことはできない)というものである。また、研究者の間では、通説においても、「紅梅」、「竹河」はおそらく別人の作であるとされる(「竹河」については武田宗俊、与謝野晶子の説でもある)。

主要テーマ(主題)の諸説

「源氏物語の主題が何であるのか」については古くからさまざまに論じられてきたが、『源氏物語』全体を一言でいい表すような「主題」については、「もののあはれ」論がその位置に最も近いとはいえるものの、未だに広く承認された決定的な見解は存在しない。古注釈の時代には「天台60巻になぞらえた」とか「一心三観の理を述べた」といった仏教的観点から説明を試みたものや、『春秋』、『荘子』、『史記』といったさまざまな中国の古典籍に由来を求めた儒教的、道教的な説明も多くあり、当時としては主流にある見解といえた。『源氏物語』自体の中に儒教や仏教の思想が影響していることは事実としても、当時の解釈はそれらを教化の手段として用いるためという傾向が強く、物語そのものから出た解釈とはいいがたいこともあって、後述の「もののあはれ」論の登場以後は衰えることになった。

これに対し、本居宣長は、『源氏物語玉の小櫛』 において、『源氏物語』を「外来の理論」である儒教や仏教に頼って解釈するべきではなく、『源氏物語』そのものから導き出されるべきであるとし、その成果として、「もののあはれ」論を主張した。この理論は源氏物語全体を一言でいい表すような「主題」として最も広く受け入れられることになった[76]。その後、明治時代に入ってから藤岡作太郎による「源氏物語の本旨は夫人の評論にある」といった理論が現れた[77]。

明治時代以後、坪内逍遥によって『小説神髄』が著されるなどして西洋の文学理論が導入されるに伴い、さまざまな試みがなされ、中には、部分的にはそれなりの成果を上げたものもあったものの、

· そもそも、『源氏物語』に西洋の文学理論でいうところの「テーマ」が存在するのか。

· 『源氏物語』に対して西洋の文学理論を適用すること、およびそれに基づく分析手法を用いた結果導き出された「テーマ」に意味があるのか

といった前提が問い直されていることも多く、それぞれがそれぞれの関心に基づいて論じているという状況であり、『源氏物語』全体を一言で表すような主題を求める努力は続けられており、三谷邦明による反万世一系論や、鈴木日出男による源氏物語虚構論[78]などのような一定の評価を受けた業績も現れてはいるものの、一方で、『源氏物語』には西洋の文学理論でいうところの「テーマ」は存在しないとする見解も存在する[79]など広く合意された結論が出たとはいえない状況である[80][81][82][83][84]。『源氏物語』の、それぞれの部分についての研究がより精緻になるにしたがって、『源氏物語』全体に一貫した主題をみつけることは困難になり、「読者それぞれに主題と考えるものが存在することになる」という状況になる[85]。1998年(平成10年)から1999年(平成11年)にかけて風間書房から出版された『源氏物語研究集成』では、全15巻のうち冒頭の2巻を「源氏物語の主題」にあて、計17編の論文を収録しているが、『源氏物語』全体の主題について直接論じたものはなく、すべて「桐壺巻の主題」・「「帚木」三帖の主題」・「須磨・明石巻の主題」・「玉鬘十帖の主題」・「藤壺物語主題論」・「紫上物語の主題」・「六条御息所物語の主題」・「若菜上・下巻の主題と方法」・「明石君物語の主題」・「御法・幻巻の主題」・「柏木物語の主題」・「夕霧物語の主題」・「大君物語」・「宇治十帖における薫の主題」・「浮舟物語の主題」・「宇治の物語の主題」といった形で特定の巻または「○○物語」といった形でまとまって扱われることの多い、関連を持った一群の巻々についての主題を論じたものばかりである[86][87]。

藤原氏と源氏

『源氏物語』は、なぜ藤原氏全盛の時代に、かつて藤原一族が安和の変で失脚させた源氏を主人公にし、源氏が恋愛に常に勝ち、源氏の帝位継承をテーマとして描いたのか。初めてこの問いかけを行った藤岡作太郎は、「源氏物語の本旨は、夫人の評論にある」とした論の中で、政治向きに無知・無関心な女性だからこそこのような反藤原氏的な作品を書くことができたし、周囲からもそのことを問題にはされなかったのだとしたが、逆に池田亀鑑は、藤原氏の全盛時代という現実世界の中で生きながらも高邁な精神を持ち続けた作者紫式部が理想を追い求めた世界観の表れがこの『源氏物語』という作品であるとしている[88]。この問題を取り上げた中には、

· 『源氏物語』を著したのは藤原氏の紫式部ではなく多数の作者らであるとする、推理作家である藤本泉の説 詳細は「#異説」を参照

· 恨みをはらんで失脚していった源氏の怨霊を静めるためであるという『逆説の日本史』などで論じた井沢元彦の説[89]

といった説も存在する。もっとも、このような見解については『源氏物語』成立の背景に以下のような理由を挙げている大野晋の見解のように、氏族として藤原氏と源氏が対立しているとはいえず、仮に、そのようなものがあったとしても個人的な対立関係の範疇を超えないとして、問いかけの前提の認識に問題があるとする見方もある[90]。

· この物語の作者である紫式部は、父藤原為時が源師房の父具平親王と親しく、一時期、家司をつとめていたこともあるとみられるなど藤原氏の中でも源氏と近い立場にあること。

· 藤原道長はその甥藤原伊周との対立など藤原氏一族の内部での激しい権力闘争を行う一方、以下のように源氏一族とは縁戚関係の構築に積極的であり、源氏との対立関係にあるとはいいがたいこと。

· 藤原道長の正妻が源倫子である(道長はその他にも源明子も妻にしている)。

· 道長の息子藤原頼通の正室隆姫女王の弟であった源師房が、頼通の猶子(『小右記』には「異姓の養子」と表記)になり、道長の娘婿ともなり、藤原摂関家と最も密接な関係を築き上げたことにより太政大臣にまでなり、源氏長者の地位に就き、唯一の公家源氏である村上源氏の祖となった。

また、より積極的に、上記のような事実関係を前提にして、「『源氏物語』は紫式部が父の藤原為時とともに具平親王の元にいた時期に書き始められた」とする見解もある[91][92]。

本文

概要

写本については池田亀鑑の説では以下の3種類に分けられるとされる。ただし、その後もこの分類について妥当か研究されている。詳しくは源氏物語の写本を参照。

青表紙本系(定家本)

藤原定家が校合したもの。その表紙が青かったことからこう呼ばれる。定家の直筆『定家本』4帖を含む。一般的には最も紫式部の書いたものに近いとされている。主な写本として藤原定家自筆本、明融本、大島本、三条西家本、池田本、肖柏本、榊原家本、横山本、大正大学本、東久邇宮家旧蔵本、吉川本、國學院大學本、中院文庫本、早稲田大学本などがある。

河内本系

大監物 源光行、親行の親子が校合したもの。彼ら2人とも河内守を経験したことがあることからこう呼ばれる。表題は『光源氏』となっているものも多い。主な写本として尾州家本、御物本、七毫源氏、天理河内本、大島河内本、平瀬本、鳳来寺本、中山本、吉川本などがある。

河内本から派生した系列として花山院長親が整えた「耕雲本」と呼ばれるものがあり、これに属する写本として高松宮家本、金子本、曼殊院本などがある。

別本

「青表紙本系」および「河内本系」のどちらでもないもの。特定の系統を示すものではない。多くは「青表紙本系」と「河内本系」が混合し崩れた本文であると考えられているが、藤原定家らによって整理される以前の形態を残すものも「古伝本系別本」として別本の中に含まれており、それには従一位麗子本、陽明文庫本、保坂本、国冬本、御物本、阿里莫本、麦生本、飯島本、大沢本、中京大学本、東京大学本、言経本、橋本本、ハーバード大学本、伏見天皇本、角屋本などがある。

ただし、流通しているものは混合している。

近世以前に印刷されたものはほとんど仏典に限られ、そうでないものは写本によって流通していた。筆写の際に文の追加・改訂が行われ、書き間違い、錯簡も多く、鎌倉時代には21種の版があったとされる。そこで、藤原定家がそれらを原典に近い形に戻そうとして整理したものが「青表紙本」系の写本である。その写本も定家自筆のものは4帖しか現存せず、それ以降も異本が増え、室町時代には百数十種類にも及んだ。

16世紀末に活字印刷技法が日本に伝えられ、のち、慶長年間になってはじめて『源氏物語』の古活字版(大字10行本)が刊行された。現在、竜門文庫、実践女子大学図書館、国立国会図書館にその所蔵が知られている。

参考

· 『源氏物語』とその前後

· 古典文学作品では何をもって「オリジナル」と考えるべきか?

本文の伝承の始まり

紫式部の書いた『源氏物語』の原本は現存していない。また、『紫式部日記』の記述によれば、紫式部の書いた原本をもとに当時の能書家によって清書された本があるはずであるが、これらもまた現存するものはない。『紫式部日記』の記述によると、そもそも、作者の自筆の原本の段階で草稿本、清書本など複数の系統の本が存在し、作者の手元にあった草稿本を道長が勝手に持ち出すといった意図しないケースを含めてそれぞれが外部に流出するなど、『源氏物語』の本文は当初から非常に複雑な伝幡経路をたどっていたことが分かる。確実に平安時代に作成されたと判断できる写本は現在のところ一つもみつかっておらず、この時期の写本を元に作成されたとみられる写本も非常に数が限られている。このため、現在ある諸写本を調べていけば何らかの一つの本文にたどり着くのかどうかさえ議論に決着がつかない状態である。そのため、現在では紫式部が書いた原本の復元はほぼ不可能であると考えられている。

平安時代末期に成立したとみられる『源氏物語絵巻』には、絵に添えられた詞書として、『源氏物語』の本文とみられるものが記されており、その中には、現在知られている『源氏物語』の本文と大筋で同じながら、現在発見されているどの写本にもみられない本文が含まれている。この本文は現在確認されている限りで最も古い時代に記された『源氏物語』の本文ということになるが、「絵巻の詞書」というその性質上、もともとの本文の要約である可能性などもあるため、本来の『源氏物語』本文をどの程度忠実に写し取っているのか解らないとして本文研究の資料としては使用できないとされている。

『源氏物語』は完成直後から広く普及し多くの写本が作られたとみられる。しかし、鎌倉時代以降の『源氏物語』が古典として重要な教養の源泉であるとされた以後の時代に作成された写本は、証本となしうる信頼できる写本を元に注意深く写しとって、きちんと校合などもした上で完成させることが一般的であったが、それ以前、平安時代には『源氏物語』などの物語は広く普及し多くの写本が作られており、その中には従一位麗子本などの身分の高い人物が自ら作ったとみられる写本もあったのであるが、物語という作品の位置付けが「絵空事」、「女子供の手慰み」といったものであり、勅撰集など公的な位置付けを持った歌集はもちろん、そうでない私的な歌集などと比べても極めて低いものであった。そのため、当時は筆写の際にかなり自由に文の追加・改訂が行われるのがむしろ一般的であったとみられる。この際、作者の紫式部が受領階級の娘であり妻であったという当時の身分・階級制度の中では高いとはいえない地位にあったことも、本文を忠実に写し取り伝えていこうとする動機を欠く要因になったとする意見も学者の中には多い。

『更級日記』での、作者の菅原孝標女が『源氏物語』の一部分だけを読む機会があって最初からすべてを読みたいと願ったという記述にみられるように、『源氏物語』のような大部の書物は常に全体がセットになって流通しているというわけではなかったとみられる。写本による流通が主であった時代には、大部の書物は全体の中から自分が残したい、あるいは人に読ませたいと考えた部分だけを書き写すといった形で流通することも少なくなかったと考えられる。このようないくつかの現象の結果として、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのころには多くの『源氏物語』の写本が存在しているものの、家々が持つ写本ごとにその内容が違っており、どれが元の形であったのか分からないという状況になっていた。

「青表紙本」と「河内本」の成立

『源氏物語』が単なる「女子供の手慰み」という位置づけから、『古今和歌集』などと並んで重要な教養(歌作り)の源泉として古典・聖典化していった平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、『源氏物語』の本文について2つの大きな動きが起こった。一つは藤原定家によるもので、その成果が「青表紙本」系本文であり、もう一つが河内学派によるものでその成果が「河内本」系の本文である。これ以後20世紀末ころから「別本」系本文の再評価が始まるまでの長い間、『源氏物語』の本文についてはこの2つの本文をめぐって動くことになる。

両者の作業はいずれも乱れた状況にあった『源氏物語』の本文を正そうとするものであったが、その結果は若干異なったものとなった。現在ある「青表紙本」と「河内本」の本文を比べると、「青表紙本」の方をみると、意味が通らない多くの箇所で「河内本」をみると意味が通るような本文になっていることが多い。これは、「河内本」が意味の通りにくい本文に積極的に手を加えて意味が通るようにする方針で校訂されたのに対して、「青表紙本」では意味の通らない本文も可能な限りそのまま残すという方針で校訂されたためであるからだと考えられている。このことは、藤原定家と源光行らが共にほぼ同じ資料を前にして、当時の本文の状況を、「さまざまに異なった本文が存在し、その中のどれが正しいのかわからない」と認識していたにもかかわらず、定家は「その疑問を解決することはできなかった」という意味のことを述べ、源光行は「さまざまな調査の結果疑問をすっきりと解決することができた」という意味のことを述べるという正反対の結論に達していることともよく対応していると考えられてきた。定家の作り上げた「青表紙本」系統の本文が本当に元の本文に手を加えていないかどうかについては、近年になって、定家の『土佐日記』など他の古典の写本作成に対する態度を詳細に調査することによって、ある場合には積極的に本文に手を加えることもあるということが明らかになってきたために再検討の必要が唱えられている。

室町時代・江戸時代

この2系統の本文のうち、鎌倉時代には「河内本」が圧倒的に優勢な状況であり、今川了俊などは「青表紙本は絶えてしまった」と述べていたほどであった。その最も大きな原因は、話の筋や登場人物の心情を理解するためにはそれ自体として意味のくみとれなかったり、前後の記述に矛盾のある(ようにみえる)箇所を含んでいる「青表紙本」よりも、そのような矛盾を含んでいない(ようにみえる)「河内本」のほうが使いやすかったりしたからであると考えられている。それでも、室町時代半ばごろから藤原定家の流れを汲む三条西家の活動により、古い時代の本文により忠実だとされる「青表紙本」が優勢になり、逆に、「河内本」の方が消えてしまったかのような状況になった。三条西家系統の「青表紙本」は純粋な「青表紙本」と比べると「河内本」などからの混入がみられる本文であった。

その後、江戸時代に入ると版本による『源氏物語』の刊行が始まり、裕福な庶民にまで広く『源氏物語』が行き渡るようになってきた。「慶長古活字版」、「伝嵯峨本」や「元和本」のような無印源氏・素源氏と呼ばれるようなものからはじまり「絵入源氏物語」、「首書源氏物語」、「源氏物語湖月抄」と次々と出版されていった版本の本文は、当時、最も有力であった広い意味での「青表紙本」系統の三条西家系統の本文に、さらに、「河内本」や「別本」からの混入がみられる本文であった。写本や版本によって本文が異なることはこの時代すでに知られており、本居宣長などもその点についての指摘を行ったこともあるが本格的な本文研究に進むことはなかった。この時代、良質な写本の多くは大名や公家、神社仏閣などに秘蔵されており、どこがどのような写本を所蔵しているのかということすらほとんどの場合明らかではなかったため、複数の写本を実際に手にとって具体的に比較することは事実上不可能であった。

明治時代以後

明治時代に入ると活字による印刷本文の発行が始まった。当初は江戸時代に発行された刊本をそのまま活字化するだけであったが、次第に、より古い、より原本に近いと考えられる本文を求めるようになり、「首書源氏物語」の本文と「源氏物語湖月抄」の本文とではどちらが優れているのかといった議論を経て、1914年(大正3年)に「首書源氏物語」を底本にした校訂本である『源氏物語』が有朋堂文庫から出版され、広く普及した。やがて、明治末年ころから学問的な本文研究の努力が本格的に始まった。多くの学者の努力によって、「大島本」などの「青表紙」系統の写本や、当時はすでに失われてしまったと考えられていた「河内本」系統の写本など多くの古写本が発見され、学問的な比較作業が行われた。その結果は池田亀鑑により『校異源氏物語』および『源氏物語大成 校異編』に結実した。

池田は集められた多くの写本を「青表紙本系」と「河内本系」の2つに分け、それに属さない写本を「別本」として1つにまとめ、3種類の系統に分けた。古注の中などで言及されており、言葉だけは広く知られていた「青表紙本」と呼ばれる写本のグループと、「河内本」と呼ばれる写本のグループが本当に存在することはこの時代になって初めて明らかになったということができる。この3分類法はいろいろな別の分野での研究結果とも一致すると考えられたこともあって、説得力のある見解として広く受け入れられるようになった。池田は、それぞれの写本をどの分類に入れるかを決めるに当たっては、それぞれの写本の奥書(その写本がどのような写本からいつ誰によってどのように写されたのかといったことを記してある部分)の内容など、それぞれの写本の外形的なものを重視した。

このような歴史的経緯や写本を外形的な特徴に基づいて分類することが、本文そのものの内容の分類として正しい、妥当なものであるのかどうか、そもそも、「青表紙本」や「河内本」が成立したのは事実であるとしても、本文の系統としてそのような区分を立てることが妥当なのかどうかについての検討をすることもなかった点には注意を払う必要がある。

このように、その後の研究によって、この3分類法はいろいろと問題点も指摘されるようになってはいるが、現時点でも一応は有効なものとされている。

これらの3分類を見直すべきだとする見解としては、阿部秋生による「奥書に基づいて写本を青表紙本、河内本などと分類することが妥当なのかどうかは、本文そのものを比較しそういう本文群が存在することが明らかになった後で初めていえることであって、その手続きを経ることなく奥書に基づいて写本を分類することは、本文そのものを比較するための作業の前段階の仮の作業以上の意味を持ち得ない」、あるいは、「もし、青表紙本がそれ以前に存在したどれか一つの本文を忠実に伝えたのであれば、河内本が新しく作られた混成本文であるのに対し、青表紙本とは別本の中の一つであり、源氏物語の本文系統は、青表紙本・河内本・別本の3分類で考えるべきではなく、別本と河内本の2分類で考えるべきである」といったものがある[93]。

実際の写本

古い時代に作られ現在まで伝わっている実際の写本は、できあがった写本が完成当時の姿をそのまま伝えられていることは少なく、一部が欠けてしまったり、その欠けた部分を補うために別の写本と組み合わせたり、別系統の本文を持った写本と校合されたりしていることも少なくない。このような状態の写本を元にしてそのまま写した写本を作成したために、最初に完成した時点ですでに巻ごとに異なった系統の本文になったとみられる写本も存在する。

例えば、「青表紙本」系統の写本の中で最も良質な本文であるとされ、現在、多くの校訂本の底本に採用されている飛鳥井雅康筆の「大島本」の場合でも、「浮舟」を欠いた53帖しか現存しておらず、「初音」帖は他の部分と同じ飛鳥井雅康の筆でありながら、本文自体は「青表紙本」系統の本文ではなく、「別本」系統の本文であり、「桐壺」と「夢浮橋」は後世の別人の筆である。また、ほぼ全巻にわたって数多くの補筆や訂正の跡がみられるが、その内容は「河内本」系統の写本に基づくとみられるものが多い。

詳細は「源氏物語の写本の一覧」を参照

校訂本

まず、本文校訂のみに特化して校異を掲げた文献をあげる。この他に、主要な写本については個別に翻刻したものが出版されている。

· 『校異源氏物語』(全4巻)池田亀鑑(中央公論社、1942年(昭和17年))

· 『源氏物語大成』(校異編)池田亀鑑(中央公論社、1953年(昭和28年)-1956年(昭和31年))

· 『河内本源氏物語校異集成』加藤洋介編(風間書房、2001年(平成13年))ISBN 4-7599-1260-6

· 『源氏物語別本集成』(全15巻)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、1989年(平成元年)3月~2002年(平成14年)10月)

· 『源氏物語別本集成 続』(全15巻の予定)伊井春樹他源氏物語別本集成刊行会(おうふう、2005年(平成17年)~)

注釈が付いたものとしては次のようなものが出版されている。多くは校訂本も兼ねており、現代語訳と対照になっているものもある。注釈などの内容を簡略化した軽装版や文庫版が同じ出版社から出ているものもある。これらはすべて青表紙本系の写本を底本にしており、中でも、三条西家本を底本にしている(旧)日本古典文学大系本(およびその軽装版である岩波文庫版)を除き基本的に大島本を底本にしている。

· 『源氏物語』日本古典全書(全7巻)池田亀鑑著(朝日新聞社、1946年(昭和21年)~1955年(昭和30年))

· 『源氏物語』日本古典文学大系(全5巻)山岸徳平(岩波書店、1958年(昭和33年)~1963年(昭和38年))

· 『源氏物語評釈』(全12巻別巻2巻)玉上琢弥(角川書店、1964年(昭和39年)~1969年(昭和44年))

· 『源氏物語』日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1970年(昭和45年)~1976年(昭和51年))

· 『源氏物語』新潮日本古典集成(全8巻)石田穣二他(新潮社、1976年(昭和51年)~1980年(昭和55年))

· 『源氏物語』完訳日本の古典(全10巻)阿部秋生他(小学館、1983年(昭和58年)~1988年(昭和63年))

· 『源氏物語』新日本古典文学大系(全5巻)室伏信助他(岩波書店、1993年(平成5年)~1997年(平成9年))

· 『源氏物語』新編日本古典文学全集(全6巻)阿部秋生他(小学館、1994年(平成6年)~1998年(平成10年))

登場人物

詳細は「源氏物語の登場人物」を参照

「Category:源氏物語の登場人物」も参照

『源氏物語』の登場人物は膨大な数に上るため、ここでは主要な人物のみを挙げる。

『源氏物語』の登場人物の中で本名が明らかなのは光源氏の家来である藤原惟光と源良清くらいであり、光源氏をはじめとして大部分の登場人物は「呼び名」しか明らかではない。また、『源氏物語』の登場人物の表記には、もともと作中に出てくるものと、直接作中には出てこず、『源氏物語』が受容されていく中で生まれてきた呼び名のふた通りが存在する。作中での人物表記は当時の実際の社会の習慣に沿ったものであるとみられ、人物をその官職や居住地などのゆかりのある場所の名前で呼んだり、「一の宮」や「三の女宮」あるいは「大君」や「小」君といった一般的な尊称や敬称で呼んだりしていることが多いため、状況から誰のことを指しているのか判断しなければならない場合も多いだけでなく、同じひとりの人物が巻によって、場合によっては一つの巻の中でも様々な異なる呼び方をされることがあり、逆に、同じ表現で表される人物が出てくる場所によって別の人物を指していることも数多くあることには注意を必要とする。

光源氏

第1部・第2部の主人公。桐壺帝と桐壺更衣の子で桐壺帝第二皇子。臣籍降下して源姓を賜る。いったん須磨に蟄居するが、のち復帰し、さらに准太上天皇に上げられ、六条院と称せられる。原文では「君」「院」と呼ばれる。妻は葵の上、女三宮、事実上の正妻に紫の上。子は、夕霧(母は葵の上)、冷泉帝(母は藤壺中宮、表向きは桐壺帝の子)、明石中宮(今上帝の中宮。母は明石の御方)。ほか養女に秋好中宮(梅壺の女御)(六条御息所の子)と玉鬘(内大臣と夕顔の子)、表向き子とされる薫(柏木と女三宮の子)がいる。

桐壺帝

光源氏の父。子に源氏のほか、朱雀帝(のち朱雀院)、蛍兵部卿宮、八の宮などが作中に出る。末子とされる冷泉帝は、桐壺帝の実子でなく、源氏の子。

桐壺更衣

桐壺帝の更衣。父は大納言であったが、入内前に他界。寵愛は深かったが、弘徽殿女御を始めとする后妃たちからのいじめに遭い、心労の末、源氏が3歳のとき夭逝する。

没後、三位の位を賜る。

藤壺中宮

桐壺帝の先帝の内親王。桐壺更衣に瓜二つであり、そのため更衣の死後後宮に上げられる。源氏と密通して冷泉帝を産む。

葵の上

左大臣の娘で、源氏の最初の正妻。源氏より年上。母大宮は桐壺帝の姉妹であり、源氏とは従兄妹同士となる。夫婦仲は長らくうまくいかなかったが、懐妊し、夕霧を生む。六条御息所との車争いにより怨まれ、生霊によって取り殺される。

頭中将/内大臣

左大臣の子で、葵の上の同腹の兄。源氏の友人でありライバル。恋愛・昇進等で常に源氏に先んじられる。子に柏木、雲居雁(夕霧夫人)、弘徽殿女御(冷泉帝の女御)、玉鬘(夕顔の子、髭黒大将夫人)、近江の君など。主要登場人物で唯一一貫した呼び名のない人物。

六条御息所

桐壺帝の前東宮(桐壺帝の兄)の御息所。源氏の愛人。源氏への愛着が深く、その冷淡を怨んで、葵の上を取り殺すに至る。前東宮との間の娘は伊勢斎宮、のちに源氏の養女となって冷泉帝の後宮に入り、秋好中宮となる。源氏は御息所の死後、その屋敷を改築し壮大な邸宅を築いた(六条院の名はここから)。

紫の上

藤壺中宮の姪、兵部卿宮の娘。幼少の頃、源氏に見出されて養育され、葵の上亡き後、事実上の正妻となる。源氏との間に子がなく、明石中宮を養女とする。晩年は女三宮の降嫁により、源氏とやや疎遠になり、無常を感じる。

明石の御方

明石の入道と明石尼君の娘。源氏が不遇時にその愛人となり、明石中宮を生む。不本意ながら娘を紫の上の養女とするが、入内後再び対面し、以後その後見となる。

末摘花

常陸宮の娘。大輔の命婦の手引きで源氏の愛人となるが、酷く痩せていて鼻が象の様に長く、鼻先が赤い醜女。作品中最も醜く描かれている。

空蝉

故・衛門督の娘。亡き父が入内を望んでいたが、父の死でその夢は絶たれる。後に夫となる伊予介(後に常陸介)から何かと任国からの食料を送られるなどの援助を受けながら弟・小君とひっそり暮らしていたが、自邸に盗賊が押し入り、伊予介が助けに入った事がきっかけで、結婚。小君とともに、伊予介の屋敷で暮らすことに。

方違えで訪れた源氏と一夜を共にするが、自分が人妻であることを考え、源氏を遠ざける。関屋では、逢坂関にて源氏の一行とすれ違い、文を交わす場面がある。その後、常陸介に先立たれ出家。後に二条東院に引き取られて源氏の庇護を受ける。

女三の宮

朱雀院の第三皇女で、源氏の姪にあたる。藤壺中宮の姪であり、朱雀院の希望もあり源氏の晩年、二番目の正妻となる。柔弱な性格。柏木と通じ、薫を生む。

柏木

内大臣の長男。女三宮を望んだが果たせず、降嫁後六条院で女三宮と通じる。のち露見して、源氏の怒りをかい、それを気に病んで病死する。

夕霧

源氏の長男。母は葵の上。母の死後しばらくその実家で養育されたのち、源氏の六条院に引き取られて花散里に養育される。2歳年上の従姉である内大臣の娘雲居雁と幼少の頃恋をし、のち夫人とする。柏木の死後、その遺妻朱雀院の女二宮(落葉の宮)に恋をし、強いて妻とする。

第3部の主人公。源氏(真実には柏木)と女三宮の子。生まれつき身体からよい薫がするため、そうあだ名される。宇治の八の宮の長女大君、その死後は妹中君や浮舟を相手に恋愛遍歴を重ねる。

匂宮

今上帝と明石中宮の子。第三皇子という立場から、放埓な生活を送る。薫に対抗心を燃やし、焚き物に凝ったため匂宮と呼ばれる。宇治の八の宮の中君を、周囲の反対をおしきり妻にするがその異母妹浮舟にも関心を示し、薫の執心を知りながら奪う。

浮舟

八の宮が女房に生ませた娘。母が結婚し、養父とともに下った常陸で育つ。薫と匂宮の板ばさみになり、苦悩して入水するが横川の僧都に助けられる。その後、出家した。

現代語訳

現代日本語

元来『源氏物語』は作者紫式部と、同時代の同じ環境を共有する読者のために、執筆されたと推察されており、加えて作者と直接の面識がある人間を読者として想定していたとする見解もある[94]。書かれた当時の『源氏物語』は、周囲からは「面白い読み物」として受け取られており、少し経た時代でも、当時12歳だった菅原孝標女が、特に誰の指導を受けるということもなく1人で読みふけっていたとされている。時代を経て物語で用いる言葉遣いも、前提とする知識・常識も変化してゆく事で、気軽に『源氏物語』を読むことは困難になっていった。

同時期の文学である『枕草子』『土佐日記』などは、簡単な注釈さえあれば現代日本人が読むことがさほど難しくないのに対し、『源氏』の原文を読むことは現代日本人にとってもかなり難しい。他の王朝文学と比べても語彙は格段に豊富、内容は長く複雑で、専門的な講習を受けないと『源氏』の原文を理解するのは困難である。現代では、現代語訳で親しんでいる人のほうが多いといえる。数ある古典日本文学の中で、多様な性格を持つその内容ゆえに、最も多く現代語訳が試みられており、訳者に作家が多いのも特徴である[95]。これらは、訳者の名前から、「与謝野源氏」、「谷崎源氏」といった風に、「○○源氏」と呼ばれている。

国文学者・研究者による翻訳は、比較的直訳・逐語訳的な訳注が多いのに比べて、作家・小説家による翻訳は多くの場合、原文に対して叙述の順番を入れ替えたり、和歌によるやりとりを普通の会話文に直したり、原文とは視点を変えて叙述したりといった応用工夫が行われていること多く、そのような作品は単なる現代語訳ではなく翻案作品として扱われることもある。

与謝野晶子訳

詳細は「与謝野晶子訳源氏物語」および「源氏物語礼讃歌」を参照

与謝野晶子

与謝野晶子は生涯に3度現代語訳を試みた。与謝野は、12歳当時、『源氏物語』を原文で素読していたことを、後に、自身の歌の中に詠み込んでおり、さまざまな創作活動の中に『源氏物語』の大きな影響を読み取ることができる。

一度目の翻訳は、与謝野夫妻の支援者であった実業家(小説家でもある)の小林政治の依頼により、100か月で完成させることを目標に始められたもので、1912年(明治45年)2月から1913年(大正2年)11月にかけて、「新訳源氏物語」上、中、下一、下二巻として金尾文淵堂から出版され、1914年12月に4冊ものの縮刷版が刊行されている。これは全文の翻訳ではなくダイジェストであるが、通常、これが『源氏物語』の最初の現代語訳であるとされている。この最初の翻訳には晶子の夫与謝野鉄幹の手も入っているとする見解もある[96]。

これは『源氏物語』の専門家でない森鴎外が校訂に当たっているなどといった問題もあり、再度、『新新訳源氏物語』として翻訳を試みた(2回目)が、「宇治十帖の前まで終わっていた」とされる[97]。このときの原稿は、1923年9月の関東大震災(大正関東地震)により文化学院に預けてあった原稿が全て焼失したため、世に出ることはなかった。

現在、通常流布しているのは晩年の1938年(昭和13年)10月から1939年(昭和14年)9月にかけて「新新訳源氏物語」(第一巻から第六巻まで)として金尾文淵堂から出版された3度目のものである。1939年(昭和14年)10月に完成祝賀会が上野精養軒にて開催されており、同人はこれを「決定版」としている。この翻訳は、当時、まだ学術的な校訂本がなかったことから、「流布本」であった『源氏物語湖月抄』の本文を元にしていたとされる。原文にはない主語を補ったり、作中人物の会話を簡潔な口語体にしたりするなど大胆な意訳と、敬語を中心とした大幅な省略で知られている。それに対して、歌の部分については歌人らしく、「和歌は源氏物語にとって欠かせない重要な要素である」として、いずれの翻訳も全く手を加えることなくそのまま収録しており、他の翻訳が行っているような和歌の部分を会話文に改めるといったことをしていない。また、新新訳では各帖の冒頭に自身の和歌を加えている[98]。

池田亀鑑の解説を加えたものが、1954年(昭和29年)10月から1955年(昭和30年)8月にかけて「全訳源氏物語」として、全9冊で角川文庫から出版されており、1971年(昭和46年)8月から1972年(昭和47年)2月にかけて全3冊に合本・改版され重版した。2008年(平成20年)に源氏物語千年紀を記念し、『新装版 全訳源氏物語』全5冊に改版された。他に、1948年(昭和23年)には日本社から日本文庫で、1951年(昭和26年)には三笠文庫(三笠書房)で、1976年(昭和51年)(新装版、1987年(昭和62年))には河出書房新社の日本古典文庫で、2002年(平成14年)には勉誠出版刊の「鉄幹 晶子全集」の第7巻及び第8巻として、2005年(平成17年)から2006年(平成18年)に舵社からデカ文字文庫と、多くの出版社から刊行されている。これらとは別に、最初の訳書も、後年の翻訳より読みやすいといった評価があったことから、2001年(平成13年)に角川書店から単行本が出版され、2008年(平成20年)には、『与謝野晶子の源氏物語』角川文庫ソフィア全3冊で出版された。双方の訳書とも1942年(昭和17年)5月29日に与謝野が死去したため、1993年(平成5年)に著作権の保護期間が満了しており、パブリック・ドメインで利用できるため青空文庫などに収録されている。

谷崎潤一郎訳

詳細は「谷崎潤一郎訳源氏物語」を参照

谷崎潤一郎も生涯に3度現代語訳を試みた。

最初は『源氏物語湖月抄』本文を元に、1935年(昭和10年)9月より着手された。国文学者山田孝雄の校閲を受けながら進められ、1939年(昭和14年)から1941年(昭和16年)にかけ『潤一郎訳源氏物語』全26巻が、中央公論社で刊行された。これは、「旧訳」、「26巻本」などと呼ばれている。当時の社会情勢から、中宮の密通に関わる部分など皇室に関した部分は何箇所か削除されている。

2度目は上記の削除部分を復活すると共に、全編にわたり言葉使いを読みやすく改訂し、1951年(昭和26年)から1954年(昭和29年)12月にかけ、『潤一郎新訳 源氏物語』全12巻として刊行された。この版は「新訳」、「12巻本」などと呼ばれた。他に豪華版全5巻別巻1や、新書版全8巻も刊行されている。

『潤一郎訳』は谷崎の意向が大きく反映され、『潤一郎新訳』は原文を尊重し省略無しの完訳であることが特徴である[99]。

3度目は中央公論社版「日本の文学」に(一部)収録するため、改稿に着手された。1964年(昭和39年)から1965年(昭和40年)に『潤一郎新々訳 源氏物語』全10巻別巻1が、新版が1979年(昭和54年)から翌年にかけ刊行された。これは「新々訳」、「11巻本」などと呼ばれている。口述筆記のせいもあって、新仮名遣いになっている。与謝野晶子訳とは対照的に、原文の文体を生かしつつやや古風な訳文となった。(最晩年の)谷崎は、本書をもって「決定版である」としている[100][101]。

『潤一郎訳 源氏物語』は、1968年から1970年にかけ『谷崎潤一郎全集』第25-28巻(新版『全集』では第27-30巻)に収録。1973年(昭和48年)中公文庫創刊に伴い、全5巻で刊行(1991年(平成3年)に改版)。豪華版で、1966年(昭和41年)に全5巻別巻1が、1983年(昭和58年)に愛読愛蔵版全1巻が、1992年(平成4年)に同普及版全1巻が刊行された。

その他

窪田空穂訳

国文学者で歌人でもある窪田空穂の『現代語訳源氏物語』は、1939年(昭和14年)から1943年(昭和18年)にかけ改造社全8冊で出版された。戦後に同社で、1947年(昭和22年)から1949年(昭和24年)にかけ再版された。1967年に『窪田空穂全集 27.28巻』(角川書店)に収録。窪田訳は、別に抄訳版があり、1970年に春秋社で出版している。

円地文子訳

円地文子の現代語訳は、1967年(昭和42年)7月に着手され、玉上�