url - hitotsubashi university...hitotsubashi university repository title...

19
Hitotsubashi University Repository Title Author(s) �, Citation �, 128(3): 330-347 Issue Date 2002-09-01 Type Departmental Bulletin Paper Text Version publisher URL http://doi.org/10.15057/10252 Right

Upload: others

Post on 24-Feb-2020

0 views

Category:

Documents


0 download

TRANSCRIPT

Page 1: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

Hitotsubashi University Repository

Title『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ

ー」と幸福

Author(s) 栗原, 雅美

Citation 一橋論叢, 128(3): 330-347

Issue Date 2002-09-01

Type Departmental Bulletin Paper

Text Version publisher

URL http://doi.org/10.15057/10252

Right

Page 2: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (1㏄)

『ニコ

マコス倫理学』第一

ぎ萬一寓}&蟹ミ§§讐§呉oざ血さ§.

幸福はスコレーのうちにあると思われる

   『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章一

はじめに

○巻第七章における「スコレー」

   (1)

一七七げ四

 アリストテレースにおける「スコレー(§9“)」とは、

ただ気侭に過ごすことのできる「余暇」、自由時問という

            (2〕

意味に尽くされるものではない。「スコレー」についての

         (3)

言及が最も多く見られる『政治学』第七、八巻、最善の国

制の論考において、アリストテレースは「スコレー」の本

質を「自足的活動」のうちに見出し、時間的、経済的な外

的条件の充足をふまえた上で、政治的活動を含む、倫理的

諸活動を内実とする「スコレー」のあり方を明らかにして

栗  原

と幸福

雅  美

いる。「自足的活動」とは、活動から生じる所産やその有

益性を目的とせず、まさに活動それ自体を目的とするもの

であり、ポリスと個人にとって目指すべき終極目的、すな

わち「幸福」は「最も自足的な活動」として規定される。

「スコレー」と「幸福」は、共に自足的活動を本質とする

という点において重なり合い、ここに、「スコレー」は

            (4)

「あらゆることの唯一の始源」という重要な位置づけを獲

得するのである。

 従来の註釈、研究においては、概して、現代的な「余

暇」との相違に着目し、広くギリシアを対象とした社会史

        (5)

的、文化史的観点から、当時の「スコレー」に対する積極

的な評価を指摘する傾向が顕著であり、アリストテレース

の文脈に即した理解については、検討の余地を残している。

330

Page 3: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(1O1) 『ニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

特に、観想的活動としての幸福を主題とする『ニコマコス

倫理学』第一〇巻第七章は、アリストテレースの幸福論の

核心を担う論考であり、その文脈の重要性は看過されるべ

きではない。本稿は、「スコレー」を当該論考の主題の理

解に寄与するものとして、読解に基き、当該箇所における

「スコレー」についての一解釈を提示することを課題とす

る。

第一〇巻第六章概観

 前章第六章は、第一〇巻における「幸福論」の始まりに

位置し、以下に展開される論考の方向性を示す役割を担う。

第七章読解に先立ち概観する必要がある。

 アりストテレースは、第六章冒頭において、人間にかか

わることの終極目的と定められる幸福とは、性向(轡の)

ではなく、「現実活動(普8鳶§)」のうちにあることを確

認する。そして、諸活動のうちに見られる二つの区分-必

要不可欠であり、他のもののゆえに選びとられるもの/そ

れ自体のゆえに選びとられるものーにおいて、幸福は、

「それ自体のゆえに選びとられる諸活動のうちに属するも

のである」ことを明示する[ぎ畠O-事]。着目すべきは、

アリストテレースがここで、「なにものをも欠くことなく、

自足している」[ま9-①]と規定される幸福を、このよう

な「それ自体のゆえに選びとられる活動」とみなしている

ことである。

 「あらゆるものを備え、なにものをも欠くことがない」

という自足性、充足性を意味する「アウタルケイア(邑H

§毒§)」は、ポリス成立の契機ともなる外的要件の充足

を含意し、ポリスの政治的、経済的独立と結び付いて、広

                       (6)

く人々に認められる理想として目指されるものであった。

「アウタルケイア」には、(一)自足性、充足性(器〒誓ヨー

〇一彗ε)、(二)自立性(-a毫昌α昌8)という二つの側

  (7)

面がある。 アリストテレースは、「それだけで生を選びと

られるに値するものとなし、何ものにも不足しないものと

   (8)

なすもの」という規定によって、この自立性に焦点を定め

        (9)

ていると言えるだろう。このようなアリストテレースの視

点は、邑8+§訊のという語の成り立ちから、邑sの意

                       (10)

味に着目することによっても明らかにすることができる。

すなわち、人問である限り、端的に「自らにおいてのみ自

                 (H)

足し、充足すること(8邑§昏彗ミ)」はできない。当

           斗

133

Page 4: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (102)

該の倫理学的論考において追求すべき「アウタルケイア」

とは、まさに「われわれが定めるところ」としてアリスト

テレースが提示する、この自立的な意味、すなわち、「自

                       (12)

らによって自らを充足させるもの(8邑8曹§ミ)」と

しての「アウタルケイア」なのである。そして、その到達

の可能性は、何か他のもののための手段ではなく、それ自

体が目的であり、本来的な価値をもつ活動の実現によって

開かれる。それゆえに、アリストテレースは当該章におい

て、自足性において規定される幸福のあり方を、「それ自

体のゆえに選びとられる活動」から導かれるものとして示

すのである。

 そして、他のもののゆえに選びとられるもの/それ自体

のゆえに選びとられるもの、という区分は、そのまま、ア

スコリアーとスコレーの区分に重なり合う。したがって、

スコレーをめぐる論考は、それ自体のゆえに選びとられる

活動のあり方を明らかにすることと不可分なのである。

 その中でも、特に、アリストテレースが、自足的活動と

「遊び(§§負)」との相違を指摘したことは、そのスコ

レー理解の特質を顕著に表している。アリストテレースに

よれぱ、遊びとは、持続的には活動できない人間が、さら

                      (旧)

なる活動のための休息として必要とするものであった。し

たがって、遊びは、必要性のゆえに求められるものとして、

そもそもアスコリアー的であり、スコレーの内実とは相容

れないのである。また、アリストテレースは、肉体的快楽

を伴うような遊びへの逃避を「アポスコラゼイン(暇をつ

ぷすこと、スコレーを無駄にすること)」[畠巨己とも呼

んでいる。肉体的決楽に関しては、奴隷にも自由人にも違

いはない。十分な時問的、経済的余裕を備えた僧主たちが

遊びへと逃避する様は、目足的活動を追求することを本質

とするがゆえに幸福であるとみなされる「スコレー」の可

能性を無駄にするものでしかなかったのである。

 さらに、「遊び」に対置される「真剣さ(§§専)」は、

ここで、単に行為者の態度を示すものだけでなく、「真剣

となるに値する」という目的の性格づけをも担っていると

考えられる。「優れた人」とは、「真剣となるに値すること

を真剣に為す人(q§邑§易)」であり、彼らは、自らの性

向に即して、「遊び」ではなく、むしろ「真剣となるに値

する」自足的活動を、より快いものとして選び択る。そし

て、アリストテレースは、そのような自足的活動のうちに

も階層性が存し、より高次なものであるほどより一層幸福

332

Page 5: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(103) 『ニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

なものであることを確認する。続く第七章の論考は、より

高次な目足的活動の追求の先にある、最も高次な幸福は何

か、という核心へ向かうのである。

一一当該章読解

           (M)

二・一 導入部[ミ巴N-畠]

 当該章冒頭、アリストテレースは、「幸福が徳にした

がった活動であるとするならば、それは諸徳の中でも最高

の徳にしたがった活動」であり、「最高の徳とは最も優れ.

たものに備わる徳である」ことを確認する[ミ巴㌣冨]。

当該章においてアリストテレースが論じようとしている幸

福とは、或る一つの最古同の徳にしたがった活動としての幸

          (帖)

福、最も高次な幸福である。

 そして、「最高の徳とは人間のうちにある最も優れた部

分に傭わる徳である」という叙述からは、「理性」に備わ

                        (16)

る徳であることが示唆されていると考えることができる。

しかしながら、アリストテレースは、続けて、明らかに理

性に合致する特質を列挙しながらも、「その最も優れた部

分が理性であるにせよ、他の何かであるにせよ-」とすべ

       (17)

て留保する形をとる。このことは、当該章の論考が「最も

優れた徳にしたがった活動」として規定される幸福を出発

点とすることを明確に示すものであると同時に、「神的な

もの」と「人間」とのかかわりを把握することは困難なも

のであるため、慎重にならざるをえないというアリストテ

レースの態度を表していると考えられる。そして、次の叙

述が、以下の論述に直接つながる導入となり、この叙述を

受けて、当該章の論考は、「終極的な幸福が観想的活動で

あること」という帰結が導かれる論拠を示す形で展開して

いく。

最善なものの固有の徳にしたがった活動が終極的な幸福て

あろう。それが観想的活動であることは、すでに述べられ

た。このことは、すでに述べたこと、そして、真理にも、

一致すると思われるだろう。[ミ巴↓-δ]

 従来の解釈上の焦点の一つは、この「終極的な幸福(靱

                        (18)

S計副&蟹ミミ副)」をいかに解すか、ということにある。

本稿前節において確認したように、第一〇巻の幸福論は

「自らによって自らを充足させるもの」としての「アウタ

ルケイア」によって規定される幸福のあり方を追求すると

333

Page 6: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (104)

いう方向性をもつ。このような論考の方向性に従えぱ、当

該箇所の「終極的である」こととは、自足的活動において

実現される目的の所有、そして、それによってもたらされ

            (m)

る充足を意味すると考えられる。

 したがって、 アリストテレースは、「終極的な幸福が観

想的活動であること」という帰結の論拠を、観想的活動の

もつ目足性、終極性を明らかにすることによって導くので

ある。

二・二 観想的活動の特質[ミ巴⑩-g]

 アリストテレースは導入部に続けて1その繋がりを明瞭

にするために付言すれば、「終極的な幸福とは観想的活動

であるということが、なぜすでに述べたこととも真理とも

一致すると思われるか、といえば、なぜなら」ーまず、観

想的活動が「最高の活動」 であるから、と記す[ミ巴㊤1

8]。観想的活動が最高の活動でありうるのは、「理性」が

各々の人間にとって最高の部分であるというだけでなく、

      (20)

いわば「魂の目」である「理性」の見る対象が、「最高の

もの」であることによっている。

 以下、この叙述から始まる各文は、観想的活動の特質と

して並列的に列挙されることが多い(最高の活動であるこ

と、持続的であること、快楽を伴うこと、最も自足的であ

ること、それ自体のゆえに愛求されること、スコレー的で

あること)。しかしながら、本稿では、各特質を順に検討

し、その論点を見定めることによって、これらの特質がい

ずれも、観想的活動が最も厳密な意味で「自足的」である

ことを示していることを明らかにしたい。それは同時に、

スコレーにかかわる叙述の位置づけをより明確にとらえる

ことを可能にするものである。

 本文に戻り、次にアリストテレースは、観想的活動は

「最も持続的」であるから、と言う。ここで私は、アリス

トテレースが「持続性(昌§罵溝の)」を 「連続性 (8

                 (21)

帆膏専の)」の特殊な形として捉えていることに着目したい。

アリストテレースによれぱ、あるものが「連続的」である、

ということは、空間的にであれ、時間的にであれ、他のも

のがその直後に続いていることを意味する。あるものが隣

り合い、ある部分において接していること(乱身ざ蔓ミ)

もまた、「連続的」であることの一つである。そして、さ

らに両者が接するところが全く同一であること、すなわち

qミペ篶のという語の成り立ちにも見られるように、両者

334

Page 7: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(105) 『ニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

が一つになっていることが「持続的」である、とアリスト

テレースは解している。

 従来の注釈は主に、理性の対象が必然で永遠なものであ

                    (22)

ることから、観想的活動の持続性を説明している。しかし、

アリストテレースが、「何らかのことを為すこと」に比し

て観想的活動がより持続的であると述べているように、こ

こでは、理性の対象のあり方においてではなく、あくまで

も、活動のあり方が比較されていると考える方が相応しい

と私には思われる。つまり、「歩くこと」や「建築するこ

と」といった「何らかのことを為すこと」は、目的へと至

るまでに時間的経過を伴う。対して、「見ること」「生きる

こと」と同様に、「観想すること」は、その活動目体が目

              (鴉)

的であり、時間的経過を伴わない。その意味において、

「最も持続的」でありうるのである。したがって、観想的

活動の備える「持続性」とは、次から次へと絶え間なく継

起するような時問的継続としてではなく、始まりと終わり

が同時に見出されるような活動のあり方として解すべきで

あると私は考える。

 そして、このような活動の間には、もう一つの重要な相

違がある。それは「何らかのことを為すこと」はその目的

への到達と同時に、その活動が終息するのに対して、「観

想的活動」は、目的への到達において終息するのではなく、

最も充全な仕方で実現される、ということである。そして、

続いて提示される、観想的活動に伴う快楽についての叙述

は、このような目的への到達において見出される観想的活

動のあり方を、不足なく示すものであることを、明らかに

したい。

 アりストテレースは、「幸福には侠楽が混ぜあわされて

いなけれぱならない」ということを、「我々が思っている」

こととして示し、「徳にしたがった活動の中では、知恵に

したがった活動が最も快い」ということを、「一般的にも

認められている」こととして記す[ミ篭㌣曽]。そして、

続けて「いずれにせよ、知を愛することは、純粋さと確固

であることにおいて、驚くべき侠楽をもっていると思われ

る」と述べた上で、「しかし、その快いあり方は、探求し

ている人々よりも、知っている人々にとっての方がより一

層快い」ということを、「まさしくその通りである」とし

て明示している [ミ篭㌣ミ]。 このようなアリストテレー

スの口調からは、観想的活動に快楽が伴うことは自明のこ

533

Page 8: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (106〕

ととして、「探求している人々よりも(ら忙§89§t)、

知っている人々にとって(8ポ巾哉いs)の方がより一層快

い」という末尾の一節に論点があることを読み取ることが

できる。

 すでに「持続性」の特質の検討に際して指摘したように、

まず、「知っている人々 (ざδ市哉OS)」、すなわち字義的

に「見てしまった人々」は、「見る」という「エネルゲイ

ア」のあり方を体現するものとして提示されていると考え

られる。「見る」という活動は「見ている」ことが同時に

「見てしまった」ことでもあり、時間的経過を伴わない。

そして、「見てしまった」ことは活動の終息を意味するも

のではなく、まさに「見ている」「知っている」という形

で充全に発揮されているのである。

 さらに、ここで「知っている人々」が「無知である

人々」に対比されるのではなく、「探求している人々」に

対比されていることに着目しなければならない。アリスト

テレースは、ここで論じている観想的活動が、さらに愛し

求めるべき知をもつような、探求の過程にある知の営みで

はなく、その知への到達をもって「見てしまっている

(知っている)」という充全な活動が実現される、究極的な

ものであることを示したのである。

 したがって、当該章においてアリストテレースは観想的

活動に見られる特質をただ順に列挙しているのではなく、

まさにそれ自体が目的として為される、より厳密な意味で

の自足的活動のあり方を追求していることが分かる。つま

り、このような活動によって実現可能な自足性、すなわち

。自立性こそが当該章を貫く観点となっているのである。

 それゆえに、 アリストテレースは続けて、「ここで言わ

れている自足性(自立性)」が、観想的活動について当て

はまるものである、と確認する[ミoミー轟]。観想する哲

学者が、「最も自足的」でありうるのは、観想的活動が目

らのうちにある理性によって為されるものであるがゆえに、

活動の契機として、自ら以外のものを必要としないからで

ある。

 勿論、 アリストテレースは、「生きるために不可欠なも

の」を備えることの必要性にも言及するが、このような必

要性の充足の上で、より善く生きることの追求へと向かっ

ていたことは明らかである。そして、より目足的な活動で

あればあるほど、外的な要件への依存が少なくなることを

確認するために、ここで初めて、アリストテレースは、

633

Page 9: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(107) 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレー」と幸福

「正しい人」「節制のある人」「勇敢な人」といった倫理的

諸徳を備えた人々の活動と、「知者」の活動を対比させる

[ミ亀o。-巨]。倫理的諸徳を備えた人々が、その徳を発揮

するためには、そのような徳を発揮するにふさわしい状況

を要する。たとえぱ、勇敢な人であろうとするためには、

勇敢さを発揮する状況が、鷹揚な人であろうとするために

は、充分な財力としかるべく出資する相手や物事がなくて

   (別)

はならない。対して、哲学者の場合は、観想的活動をしよ

うとするために、何らかの特定の状況や、備えるべき外的

             (脆)

な道具を必要とはしないのである。

 さらに、アリストテレースは、行為の緒果という観点か

ら「観想的活動そのもののみがそれ自体のゆえに愛され

る」[ミ9lM]ということを導く。実践的なものは、そも

そもその得るところのもののために為されるがゆえに、そ

の行為の結果として常に何らか得るものがある。[ミ巨-

凸しかし、観想的活動からは、その活動以外には、何も

生じない。つまり、観想的活動は、まさにそれ自体のゆえ

に求められるものなのである。

このようにして、アリストテレースは、

観想的活動のみ

が唯一、厳密な意味において、「自足的」でありうること

を明らかにする。そして、この先に、「スコレー」の導入

から、スコレーと幸福とめぐる一連の論述が導かれる。は

たして「幸福はスコレーのうちにある」とはいかに解され

るべきなのであろうか。

二・三 スコレーと幸福[ミげ†塞]

幸福はスコレーのうちにあると思われる。というのも、わ

れわれはス]レーするために、自ずからスコレーを失うの

であり、平和を得るために、戦争をするのであるから。

[ミg-①]

 この叙述における「スコレー」を、あらゆる活動のため

に必要とされる条件と何ら変わることのない、時間的、経

済的余裕を意味するものとして解することは、不適切であ

ると言わなければならない。これまでの考察をふまえるな

らば、「スコレー」は「より自足的な活動の追求」を本質

とするものであるからこそ、「最も自足的な活動」を焦点

とする当該論考において導入されていると考えることがで

きる。つまり、アリストテレースは、当時自明な通念で

337

Page 10: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (108)

あったとみなされている「スコレー」と「幸福」との関わ

              (26)

りを単に繰り返しているのではなく、独自の「スコレー」

という観点から、観想的活動としての「終極的な幸福」の

あり方を明らかにしようとしているのである。

 「スコレーとアスコリアー」、「平和と戦争」という関係

性において、スコレー、平和をこそ目的として追求すべき

である、ということについては、『政治学』においてもア

                      (27)

リストテレースが繰り返し確認しているところである。こ

の序列は、アスコリアーや戦争が、必要性や有用性のゆえ

に、それ自体以外のもののために選びとられるものである

のに対し、スコレーや乎和は、美しさのゆえに、それ自体

のゆえに選びとられる、という明確な相違に基づくもので

あった。そして、このような区分に従うならぱ、政治的活

動もまた、徳にしたがった活動として、それ自体のゆえに

選びとられるという点で、スコレー的であると言うことが

できる。

 しかし、ここでアリストテレースは、まず、戦争を挙げ、

いかにしてもそれ自体のゆえに選びとられることのないも

のとして「完全に(嚢t常-シ)アスコリアー的」である

と述べた上で、続けて、政治的活動についても、何らか他

のものを得るという点で、「アスコリアー的」であると言

うのである。さらに、アリストテレースは、政治的活動と

戦争は「美しさと偉大さ」において優れたものであるが、

「或る目的を目指し、それ自体のゆえに選び取られないも

のである」ゆえに「アスコリアー的」であると重ねて記し

ている。 アリストテレースはここで、「それ自体のほかに

は、いかなる目的も目指さない」という、より厳密な意味

において「スコレー的」であることを解しているのである。

 そこで、改めて着目すべきは、アリストテレースの著作

を通じて、唯一当該箇所において用いられている「自らス

コレーを失うこと(}呉Oぎ冬肺§)」という中動相のもつ

   (羽)

意味である。「それ自体のゆえに選び取られるもの」に対

置される「アスコリアー」は、それ自体以外のものに関る

ことによって「スコレーを失う」。つまり、その活動の契

機が活動それ目体にはなく、外的な要因に拠る、というこ

とか「スコレー的」であることを妨げるものであった。し

かし、ここで、「スコレー的」であることを妨げるものは、

もはやそのような外的な要因ではない。「それ自体のほか

には、いかなる目的も目指さない」というより厳密な意味

338

Page 11: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(109) rニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

での「スコレー的」であることに比しては、それまで「ス

コレー的」であったものも、「アスコリアー的」なものと

(29)

なる。そして、そのようにより「スコレー的」なものに比

して、それまで「スコレー的」であったものを「アスコリ

アー的」なものへと塗り替えていくのは、より「ス。コレー

的」な活動の追求へと向かう人自らなのである。

 したがって、ここにおいて「スコレー的」であること、

とは、もはやその先に追求すべき活動をもたない、端的に

それ自体が目的であるという「終極」においてのみ見出さ

れるものであることを明らかにすることができるだろう。

当該章における「スコレー」とは、まさに「終極目的への

 (30)

到達」を意味しているのである。それゆえに、私は、当該

箇所を、「終極的な幸福」は、「スコレー」、すなわち、終

極目的のうちにある、という意昧において解すべきである

  ^引〕

と考える。

 そして、アリストテレースは、次の一節をもって、当該

章導入部において提示した帰結が導かれることを示すに至

る。

理性の活動である観想的活動には、人問である限りにおける、

自足性、スコレー的であること、あくことのなさ、かあり、

幸いな人に帰せられる他のすべてのものは、明らかにその

活動にしたがったものなのである。そして、まさに人間の

終極的な幸福とは、この活動であることになろう。[ミげ

昌-爵]

 これまでの考察によれば、ここに示されているのは、終

極に到達した「スコレー」のあり方であると解すことがで

きる。それは、端的にそれ自体のゆえに求められる活動で

あり、その先にさらに追求すべき目的を一切もたないとい

う意味において、まさに「終極」である。あらゆる目的連

関をつきぬけている、とも表現できるだろう。絶えざる活

動の追求は、ここに初めて止まり(簿巾s、人間は、観想

的活動という充全な活動の実現のうちに留まること(~

     (馳)

篶ミ)において、永遠性に与るものとなりうる。アリスト

テレースは、このような境地を「ある種の静寂と静止にも

   (鴉〕

似ている」と言う。ただしそれは、疲労を癒し、さらなる

活動のために必要とされる休息ではない。それはいわば、

               (釧)

あらゆる人間の営みの「実り」として、人間の生を完成さ

せるものなのである。

339

Page 12: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (11O)

結びにかえて

 本稿の考察を通じて明らかにしえたことをここで振り返

り、今後の展望を示すことで結びにかえるものとしたい。

 アリストテレースにおいて「スコレー」のあり方を問う

ことは、その内実となる活動、活動を為す人のあり方を問

うことにほかならなかった。 アリストテレースは、「スコ

レー」の追求によって、最善の生が導かれると考えたので

ある。なぜなら、「スコレーする」という活動自体が、よ

り目足的な、より優れた活動へと向かうことを意味するか

.らである。その内実となる諸活動は、「自足性」という観

点によって、階層的に位置づけられる。したがって、広く

は、自足的活動はすべて「スコレーすること」と言い換え

られるが、常により自足的、すなわち、よりスコレー的活

動を追求する過程においては、「スコレーすること」で

あったものが、よりスコレー的活動に比して、「アスコリ

アー的なもの」に塗り替えられていく。しかし、このよう

な追求は無限に続くものではない。もはやその先にいかな

るより自足的な活動もなく、まさにそれ自体において最も

富足的である、という終極があるのである。その活動のみ

が、「アスコリアー的なもの」に塗り替えられることなく、

まさに「スコレー的なもの」でありうる。そして、人問の

到達しうるこの終極において、人間の生は完成を見る。人

間の目指すべき「終極的な幸福」はここに見出されるので

ある。また、別稿を要する課題となるが、人問に到達可能

な終極の追求が、同時に、人間的なものを超える神的なも

のを追求することに繋がっていることも見逃してはならな

い[ベヨ〕M㊦-N㊤]。

 そこで再び問われるのが「実践」と「観想」の関係であ

る。本稿は、既存の諸見解の論拠としてスコレーを用いる

のではなく、あくまでも、アリストテレースにおけるスコ

レーとはいかなるものであるのか、そこからスコレーと幸

福はいかなる関りのもとに捉えることができるか、という

問いを考察の契機とし、その結果、より自足的な活動を追

求するという階層性をもった「スコレー」のあり方を『政

治学』に学び、その頂点となる最も高次な「スコレー」の

あり方を『ニコマコス倫理学』最終巻に見るに至った。

 人閻は、倫理的な諸活動を含む、諸々のスコレー的な活

動を、絶えずアスコリアー的なものへと塗り替えながら、

その先に初めて、観想的活動を内実とする、終極としての

043

Page 13: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(111) 『ニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

スコレーに到達しうる。「スコレー」を一つの観点とする

ならば、実践と観想は対立するものではなく、いずれも、

より高次な自足的活動を追求する、という共通の地平から

導かれるものとなる。そして、スコレーのためにはアスコ

リアーが必要であり、アスコリアーもまたスコレーなしに

は完成されないように、実践と観想もまた同様の関係のも

とにある、という一つの理解が得られるのである。さらに

進めていえは、『ニコマコス倫理学』最終巻における主題

が、スコレー的なものであるとすれば、それに比して、

『政治学」の主題はアスコリアー的なものと位置づけるこ

とができるだろう。両著作の関係をめぐる諸議論に立ち入

ることはできないが、アスコリアーがスコレーによって完

成されるように、『政治学』、『ニコマコス倫理学」両著作

において提示される「幸福」「最善の生」をめぐる論考の

間には、断絶や矛盾ではなく、密接な関係が見出されるべ

きであると私は考える。このように、「スコレー」の探求

は、アリストテレースにおける「実践哲学」を改めて読み

解く可能性をも示唆するものなのである。

(1) テキストは}}名黒昌し.(而p)一』ユ包o§ミ餉向§{§≧“8一

 §§§一〇氏oaρ霊色S一↓異戸(○良oa一富漫)を用いた。

 出典箇所の表記はすべてOO↓版に従う。なお、当該章引

 用に際しては、行数末尾二桁のみを記す。その他の著作略

 記は慣例に従った。

(2) 既存の邦訳では「余暇・閑暇、余裕、ゆとり」などが

 用いられ、訳注を付し理解を補う形となっている。本稿で

 は、スコレーが消費される時間という意味に止まるもので

 はなく、内実となる活動と常に不司分であることを強調す

 る必要があると考えたため、また、アスコリアーとの対比

 を明確にできるという利点から、原語表記を用い、特に多

 用される動詞「スコラゼイン」には「スコレーする」とい

 う表現を用いた。なお、「スコレー」の意味を概略的に示

 したものとして、-宛葦①=昌軌丙■O昌コO而『(マO胃。)一§急O‡■

 きぎ餉§膏『ぎg軋ミ§§餉§ミ耐一(団轟①仁⑩ご-)一団α‘メ㎝.

 く’.ζE籟o.ω-N呂-トog’匝αlo〇一m.く 、ωo巨o-鶉庄斥、ω.-ωs-

 -ωω①1こ.コ暑貸§蜆塞嘗曽良きド(ζ箏g雪Loミ)一ω.さ

 。。べ。(稲垣良典訳『余暇と祝祭』(講談社学術文庫、 一九九

 八)九七頁)一両。胃彗P』ミ90§塞冒ミ§雨ぎ這軸亘(霊旦。

 gσo昌Loミ)oo-g.

(3)声旨葦ド掌き■㌧曇、o§ざ姜一(雰二貝お留)一ω-ご卓

 =O〇一

(4) 、〇一.<….ω。-ω彗9⑩1鐸なお、『政治学』における「ス

143

Page 14: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻 第3号 平成14年(2002年)9月号 (112)

 コレー」については、拙論「アリストテレース『政治学』

 における「スコレー」-『ニコマコス倫理学』 における

 「スコレー」へ向けての予備的考察-」『ペディラヴィウ

 ム」第互一一号(二〇〇一一)参照。

(5) O-勺ユooユoゴωo-ヨ窒P.雲旨盲巳窪.-o目 -昌<宰-

 血q匡9邑↓彗旦雪彗一□冨Oq0.ら彗.一きミ§一匿.竃(冨賢)一

 ω.ω8-昌o.ミ⑮§.一.ピ9蜆…o彗旦コξ,>ユω↓o己o、蜆巨塞-

 ω訂8,旨き9§ωsミ§---(雪一ま讐9ヨニo轟)一君」-

 NOO.一同昌9丙O;雪一.ζ冨窒仁自⊆昌島床OブO、凹己O訂-旨げ睾

 g①ζ冨寿巷o『黒宍ぎo①H彗尿↓o冨弄争昌、o=一弄.一ミ雫

 吻§§きξ9{§§ωP-ω(-温①)一ω-山べー一ω.寒-易↓.

(6)O-ζ胃o易ミ思色員、ωo〒彗ヨ9昌ξ彗α片すogo・

 ①π Oユ}、さ星、昌昌~斗辻竈ミ}良S}♀註軸目戸くO-.-①(一⑩o㎝)一

 〇〇1昌①-らべ1

(7)=.ρごま亘対-ω89彗o声ω旨完m』O嚢脊由逼涼ぎ

 ト軸嘗汗o§(『oく.津ゴoo-)(O共ho『P-oo①)閉1く.雪」訂H斥9軸.OP

 N↓OolN一〇.

(8)両Z」1ご8ぎ量-冨

(9) このように「アウタルケイア」のもつ二つの側面に着

 目しているものとして、高橋久一郎「アリストテレスの

 『エネルゲイア』論の行為の理論としての現代的意義の研

 究」(平成七年度科学研究費補助金一般研究(O)研究報告

 書一一九九八)。

(10) ->.ω冨幸胃けき叶S§§軸≧{8§§}§s専ぎ89㌧、

 鶉ざミP(O宍申o『P-oooN)句.Φω∴」.団一』『コ9一、}雨向-ぎざ帖9』ユ印

 ミ貧(「o邑昌」o富)一〇。ωM■一加藤信朗訳『ニコマコス倫理

 学』(岩波書店、一九九四)訳注、三六八頁参照。

(11) ト}昌冨rS.9-一ら艶.

(12)き1

(13) 向Z」くーoo1=Nヨuωω一=トooo蛯ωP ×①=一2〕ω{-ω蜆一、o-ーく自-.

 ω」ω讐一〕鶴--ωωOO巴』.Hω窒巨蜆-ミ

(M) 当該章の構成については、通常、 一連のスコレーの叙

 述も含め、詰蚤[ミ巴⑩]に対応する小辞萬によって導

 かれるものとして、並列的に六つの理由として各文か位置

 付けられる。しかし、小辞の対応関係は厳密であるとは言

 えず、このような叙述のスタイルについては、写本上の問

 題も含め、検討が必要である。現時点では、ミ巴甲9に

 見られる観想的活動の特質が、明確な対応箇所とはいえな

 いまでも、すでに著作中において言及された特質であるの

 に対し、スコレーにかかわる叙述は、第一〇巻において初

 めて導入されたものであること、また、ミ巴甲艮では、

 各文とも、観想的活動、あるいはそれを受ける代名詞、そ

 の他の特質が主語になっているのに対し、当該箇所におい

 て初めて「幸福」が主語として示されていることを確認す

342

Page 15: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(113) 『ニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

 るに止める。なお、本稿と同様にミσ{以下を一つの構成

 部とみなしているものとして、-団…鶉↓し蚤§膏§肉』害一

 〇畠ざo茗-守雨{茗的軸旨ぎo叶吻、䧓ぎ軸b“ぎ甘o}S昌軋まミぎoP(O凹目〒

 9巳oqpε雪)君宣⊥o-.一睾↓ぎヨ麸>君一冨仰oo§§軸苧

 §きぎ註8§卜§δ吻§ミoo蔓§§き8§§ぎ筥§×.

 「gけ〆さ一M8o-8男勺’写-宛黛昌昌op≦ω亘竃No

 (a1)一蟹ドぎ§§』§ぎ§吋沫§§8§卜§;吻尊ミ8-

 §§』弐go旨凄邑軋ミ}8§§まミ§ξ8§p(用o昌o」oお)

 p寒㎝1

(15) このことは、前章末尾、幸福は「徳にしたかった諸活

 動のうちにある(讐§ポ暮H、魯肺乱セ帆罵ミO~§吻)」[ミ凹-O]

 と複数形が用いらているのに対し、当該章冒頭では「徳に

 したがった活動(蔓H.膏巾軌セ讐紗『巾§)[ミ巴巴と単数形

 が用いられてれていることからも明らかである。なお、こ

 のように当該章の論考を、最も高次な幸福のあり方を示す

 ものとする見解は、勾og耳雪且量昌彗一、向邑則ぎ昌武彗o

 ωo罧-彗雪9o目ξ巨;o;8目害ブ雷目雲巨8.一§§§一

 吻亘くoF竈(おo.oo)opω--竃.にも見られる。

(16) 「クラティストス」と理性の関連については、ω8ξ固。

 昇oサ9-.ら-忘-.参照。

(17) 「-・それが本性上、支配し、導くものであり、美しい

 ことや神的であることについての想念をもつと思われるも

 ので、また、それ自身が神的なものであるにせよ、あるい

 は、われわれがもっているうちで、最も神的な部分である

 にせよ…」[ミ顯轟⊥a これらの特性は、いずれも後述さ

 れる理性の特性に一致する [ミ竃①-畠篭]。従来の注釈で

 は、この言明の暖昧さを補うかのように、『ニコマコス倫

 理学』第六巻における魂の区分、その区分に応じた知の領

 域についての論考について言及するものが多く見られるが、

 私はむしろ、当該章冒頭において、あくまでも、最高の徳

 の実現として、終極的な幸福が導かれていることに着目す

 べきであると考える。本稿と同様の見解を提示しているも

 のとして、>。o轟目戸ドぎ■吋ミ8呉㌧ユ眈δミ♪Nく〇一甲([o目。

 ○昌一冨o。蜆)一くo-1Nらーωω蜆.一↓-軍胃寿㎝彗一曽富§雨o『g宗富

 士o肴}o曽㌧ミ亀9膏げ向§ざ昌きoo§oo嵜軸富*.①-o〇一(Oω-9

 ;ま)も§.

(㎎) 観想と実践の関わり、第一巻における最高善の規定と

 の整合性などを含む、Uoま畠鼻⊥コ〇一冨~o両邑>蟹仁・

 昌雪↓に代表される諸議論の詳細については、本稿におい

 ては扱わない。

(m…) O「 H≦o叶饅Oゴー‘-9-0M-げNω-M押 、o-』ードーN蜆些〕ωトol-N蜆ω凹

 二〇『彗け§ーミ.一き二一君.曽†ωω9奏.∪.刃O男』募一

 δ§げき“§ミ乏810さe}}邑ぎ註S{§{ミ;軋§ざO昌亀曽』

 Oo§§Φs§Q一Nくo-砕(O■{o『戸-oNム)くo-1FPωωM-

343

Page 16: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

一橋論叢 第128巻第3号 平成14年(2002年)9月号 (114)

(20) ζo冨昌.-=.竈ぎ㊤1;

(21) 『自然学』第五巻第三章参照。

(22) 観想的活動の持続性については、同Z。=o■=o;=-ミ

 にも言及があり、観想的活動において理性か対象とする最

 高のものが、必然て永遠なものであるがゆえに、このよう

 ,ム持続性かもたらされる、という解釈が一般的である。し

 かし、私か問題であると考えるのは、永遠てあることが、

 永遠ではありえない人問において、持続性としてどのよう

 に現れるのか、ということである。一つには種として生殖

 を通じて与りうる永遠性かあるが、ここでアリストテレー

 スは理性による「活動」によって直接的に与ることの可能

 性を示していると私は考える。なお、『自然学』における

 連続性と持続性の定義については、∪姜己雰2oo打、ξ一叩

 ↓o=oO目Oo=ご…」=}ヨ}ご㌣巴o蜆く-.一-昌--自ら蜆顯}』自O閉o目

 (a一)一』辻餉§膏げ§浅ぎ1』s§ミ§ミ身眈§吻一(○宍・

 {O『P竃竃)もP=甲N旨-参照。

(鴉) O「ζo↓凹O=1-×.ρ-o』o〇一u-oo-ωρoo.-oσo凹M-1-o蜆〇一〕-

(別) 同2.×-o〇一=一〇〇篭oo-=↓o〇一〕-

(25) -Z-×ooー二↓oo亀ω-曽

(26) S§一---ω8鼻仰.】XO>目、一§軸9富之oミO§『膏ミk一

 くo-1ωo(5塞)らー=↓.

(27) ~o-1<昌.-杜1-ωωω與ooo-ω9く自-.ω1-ωωヨ]N㊤1ω㎝

(28) 声≠ω昌}員oミ寒O§§§ミ一(『睾-oP)(匡彗≦貝

 H竃ム)pω睾一中動相の意昧合いを活かす工夫がなされてい

 る訳出として、↓」;巨』曇§膏き8§§ぎ§嚢ミ8一

 (~巨.&1)(52昌署〇一一蜆し⑩8)o」①戸ω81、旦彗}o…-

 器一蓋二9彗8(スコレーを断念する)..

(29) 思想的背景を考慮する必要があるが、古註においても、

 このように「スコレー的」な活動の間に階層的な優劣があ

 るとする解釈を見ることができる。§§§豪ぎ尊ぎs

 き8§§§OO§§§§ユS-↓⑩三〇-80.=異言巨(&.)一

 〇〇§§§§きぎ』ざ段o膏膏§O§S§く〇一.×〆肉ミ段;§

 gミ“§§募g㌧§ミ§昌{昌尊ミgき8§§§oo§§雨曽-

 §、s(零『-貝冨竃)ら.竃①-

(30) 同轟富カo豪ω一㌧き§9軸助きぎ§§ぎ竃膏§ミ市

 (-望召鼻5ωω)一ωーミ旧.

(31) したがって私は、当該箇所におけるスコレーは観想的

 活動の単なる属性にすぎない、とするミッコラの見解には

 賛同しない。丙;oζ一窯o軍.二ωo暮一①一一σ9>ユgo叶o-

 一霧.㌧ミ8』o§§§δ魁s凄ミ茗{s一z向M(ε轟)一〇〇』ω-

(32) ただし、スコレーの語源、簿肺ミ.の意味は多岐にわたり、

 一義的に捉えられるものではない。「ζ2貝き註ぎ§

 軋軸『oぎ軸oぎ計o}軸ミ■ミ§oぎ呵膏一(■9七ユoq.-ooN)匝p-く一〇〇.

 曽o1一8§ドζ寿ぎ一坪8’ミー一〇〇.鼻oo①.一=.>『彗α戸↓ぎ

43

Page 17: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(115) 『ニコマコス倫理学」第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

  トさρ、}ざ⑮§曽軋一(ωo目】〕-o血q〇一-o↓-)℃o.oM-㊤ω.

(鎚)  ]〕①>目-]一一-.ω.トO↓與ωN1ωω

(独) Ω『與目けoh.o迂‘くo--No’ωω戸

  参考文献

・一次文献

ω}ミ與8HL.(①α.)一』§.色o旨ミω肉きざ昌峯.oo§昌o軸§O共hoHoO-與■

  ωω呂巴↓o洪戸O洪↓o『P-ooo占-

カoω9峯-UI(o旦.)-』『泳吊o膏ミ吻きミ弐oPO共ho『P  ○肖{o『OO-與・

  ωω-o凹-]「ox戸 -o蜆一.

   ㌧ミ.亀9良泳b耐ト茗{§POメ肺o『oO-凹㎝色o巴↓o}一〇メ申oHP

  δg.

]匝而Oqo■峯1(o旦.)一』辻肋-o-6ミ}き“§討}餉{oS一〇嵩hO『OO-螂ω色-

  o9一「o肖戸O共↓oH戸-o蜆㊤.

団胆『目①ρ』o目蛯↓ゴ蛯目(oα1)一『ぎ恥Oo§もざ討き『汀餉o、』ミ.巨oミ雨-

  §雨完軸e涼雨包OさミぎS吻ぎミo茗一MくO尻10肖HoHP-ωooム.

-〕-二目1o…o’}『凹昌N(oo『閉■)一』ユω吊o、軸-軸助き討o§昌oぎ“眈oま雨、“討{沖一

  困o『-川目一-⑩蜆Φ.

H『毛-コ’一「■(一『一)一㌧、{吻}oミ軸>“oo§昌oぎ軸s茗向-ぎ}o肋一(N自α一〇旦一)’-=-

  o{凹目団ooご閉一-㊤oo■

小澤克彦訳『アリストテレス ニコマコス倫理学-総論篇』

  弘文堂出版社、一九八七

加藤信郎訳『アリストテレス全集二ニ ニコマコス倫理学』

  岩波書店、一九九四

高田三郎訳『ニコマコス倫理学」(上下全二冊)岩波文庫、

  一九七一

匡o}-げ仁戸〔}’(oo.)’oo§§雨茗§『甘畠{s』茗.吻“o“軸-軸§(…『o血o富。くo-一

  〕()(■■嘗ω-冒叶甘{耐}§o}o雨--吻雨-』茗os}§s-目向一サーo酎-4-ooH目助-

  oo凹OO目-昌5自片饅ユP巾o『旨戸-oo⑩旧

丙O}=一目コOO’、.句H.’巨一ω℃-與NNO(O〇一)’ω吊一HぎO§O雨』OS甘茗SS-

  -{防 ㌧冨 匡耐o耐ミー ト{}『o} 肉^ぎ{ooミ§ 』『}吻、o、軸-}吻 亀~ きoo§sl

  ○ぎ富§ξo}}}{o’カoH=而一-o{〇一

「篶泣目血qoi〇一-1(叶H.)一ωけ一ゴo日口與ω>o自-b凹ωOo目一目5目一與[<

  ○目↓ゴoZ-oo昌四〇すo団自向↓すざ9[-σ『與『}oH[-く-巨OqO}一すO-

  =〇一「げ〇一』血胃すけ NくO-㎝一〇=ざ與O09-㊤①心.

・一一次文献

>Ho目旦F-{;§⑯卜富g“}耐き曽軋一ω凹コー〕-o胴o’-㊤一-

団oH二↓N.雪二ぎ軋軸■㌧ユ吻“o-雨冒osω一-①『=ヨ’-o蜆蜆.

団O眈一〇〇〆U印く-P.>ユω↓o=①o目Oo『一饒コ仁岸}-コ、=}色omく-.一

  {目[-目Oω凹}』目O血O目(Oα.)一㌧ミω-Oミ軸げ雲k肋{O餉1』 OOミ軸O-

  まo曽♀■吻吻亀セ9(O嵩3『P-ooσ)一〇〇ミo1豊M.

団『凹一』目一向.一㌧『}吻吊o}雨-雨蜆ぎs乱~{軸き甘軋雨}昌’、①旦o『σo『コ.-⑩一{.

345

Page 18: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

橋論叢 第128巻第3号 平成14年(2002年)9月号 (116)

団自『コO戸 ]j』ミ.助吊Oミ雨O暑■則嘗OS}{O昌-}軸-萬軸H}§O“吻、O§ -ぎ耐

  、-まざ蜆昌茗軋きミざo少O宙昌一〕『巳胴P-o①↓.

     一『ぎ軸肉“ざ{o助〔㍉』ミ.助吊oミ軸一]ピo-一〇〇目一-oooo

両『}穴ωOコ’一、一籟一b-O蜆 ドざ雨Oミー一沖O吻一き-軸吻 Oミ㌧ユ}-Oミ雨、}向-ぎ-

  軋oo」!“oo§soざ軸昌*.q-ooo oω-oo-o↓①.

〔…『oコ戸>.一↓ぎ雨b-ざ{o吻呉㌧ミ吻叶o註雨’ Nくo-閉一】ピo自oo目一-oooo㎝.

=9冨目彗一刃O思『戸、同邑巴昌昌討彗OωO〒誓h{…彗2ぎ

  ↓=価Z{OOH自印OゴO凹自両叶ゴ甘Oω.一、ぎ;ミ雨蜆{少くO-一ωω(-OOoOo)OO.ω-1

  ω蜆.

』o固o=--p=一1-〕.>.宛o何9 (oo.)一』、-眈“oミ匝一『}Φきoo§亀o}⑮s茗

  b§ざ申Ox↓o『♀-o日.

-〈o二〇■固『コ眈叶一.ζEω蜆①仁自o『目自ω-血oサo巾凹μαo-與-饒一〕①『o-oζo-

  眈-穴饅七〇『o巨斥-目巨o『與『{m一〇↓o=ωoサo■巾o-饒斥.一き吻軸宮§き㌣

  竈耐註O昌§一団〇一-ω(-囮蜆①)一ω. 一-ω↓’ω一⑩卜1-OO↓一

栗原雅美「アリストテレース『政冶学」における「スコ

  レー」-『ニコマコス倫理学」における「スコレー」へ向

  けての予備的考察i」『ペディラヴィウム』第五三号(二

  〇〇一一)

「-匝旦-o’匡.(}= 宛.ωooRけ 凹コ旦 =.ω.-oコo9㌧ (}§軸討■内曽的}{眈㌻

  卜軸迂oo§(冨く.〇一す而α.)一〇宍hoHP-oo①-

ζ-斤斥o-団一向-自〇一、〉〉 ωo巨o-o 〈〈一uo}㌧ミ眈-o}軸』吊蜆、㌧§吊o餉主o吊昌

  ミミーo-o的{o亀き曽富{o昌一z句M(-⑩蜆oo)

ζo}o■ ピ.一§昌μ守冒o旨 匙軸「 oユ軸o}{吻oぎ軸茗 ■蔓§o-o的叫“ 「o-o-

  N山oq.-o0M.

里遭o『こ.一ζ島器…旦天自一戸ζ旨g彗二置■(稲垣良典訳

  『余暇と祝祭」講談社学術文庫、一九九八)

宛饒RO『一-巨目⊆内1O『籟ヨ旦O■ (ゴ『岬一)ーミ{防、O『{助O嵜雨眈 ミO叶軸『㊦SO註

  軋軸『雲}-O}8ぎ{耐一団団ωOF一〇↓-ー

カo罵o9 向一』oqo昌’』茗.餉-o吊雨-雨餉き沖o§亀o註“蜆o嵜軸、-ぎ{汀一r①-oN-oq’

  冨ωω.

宛o閉9~く.-〕-一』、餉-oミ耐、餉き-§}}餉{o吻-o§e甘吻砧~“、軸旨叶§{、嵜{茗-

  、『o包冒o}{o冒o曽』oo§§耐畠§Q一 Nく〇一ω一〇x↓o『〇一一〇N心■

ω目-}一ゴ一雪-奉-一〇鳶軸沖o§§ミ昌『一(『①く一〇〇一)一=回『く団『〇一-ooo壮一

ωo-目一閉o目’司『-①q『-oず’.向仁ユo-oo餉、-oコ ー冒く価『oq-o’o= コ己一饅自・

  OOHO目一「『饅σq〇一μ{耐目.き…耐仰}旦 ①O(-Oω牡)一ω-ω⑩O-ト一P

      .「o-眈目『o由昌旦勺-饅}-目>ユ血↓o二①.帥-旦o凹-ω叶凹↓o.-目末-雨-

  {s軸ωoぎミ⑮茗ミ一(雪二〇〇眈巨o}自一-⑩①oo)一七℃.--M0o.

ωo與『閉す〇一け司『o目o-9 §討乱茗的卜害ω軸茗.o畠餉営一山 吻、冒軋セ呉-ま耐

  』嚢§⑮s“ミ、ぎ軸」く{oo§昌oぎ軸萬曽肉㎞ぎ}o餉一一「o『o目一〇’-o岨杜1

ω↓o奏與『戸』一>‘ z〇一①閉o自 ↓巨o峯oo§昌o}耐畠曽肉“ま{o眈呉㌧茗.餉-

  δミ雨一〇洪ho『P-oooド

ω一〇〇斥9 』トー一.N×O>=.一§軸 Oざ助吻ざ萬- O富sミ耐「-セ一くo-1ωo

  (-oω①)℃〇一-↓↓--o〇一.

高橋久一郎「アリストテレスの『エネルゲイア』論の行為の

643

Page 19: URL - Hitotsubashi University...Hitotsubashi University Repository Title 『ニコマコス倫理学』第一〇巻第七章における「スコレ ー」と幸福 Author(s) 栗原,

(117) rニコマコス倫理学』第一○巻第七章における「スコレー」と幸福

 理論としての現代的意義の研究」(平成七年度科学研究費

 補助金一般研究(O)研究報告書、一九九八

峯ブo①-①■H≦凹Ho=㎝一.ωo巨-ω自↓饒qo目o}與目O↓サoOHoo斥O巨}、一

 さミ§ミ♀§⑮きgoQミ§§申く〇一.屋(冨蟹)もp昌①ムー一.

一一一一一鐵鄭馴鶴一一

        (一橋大学大学院博士課程)

347